羊皮紙にたった一枚分の手紙を丸一日かけてどうにか書き終え、アリスは末尾にゆっくりと署名した。
丁寧に折りたたみ、封筒に入れて、シルカの名前を表書きする。もう一通、ガリッタ老人宛のものと並べてテーブルに置く。
別れと謝罪の手紙だった。整合騎士エルドリエに知られてしまったこの森の家にはもう居られない。次はエルドリエではなく、おそらく騎士長ベルクーリ本人が説得に来るだろう。そのとき、大恩ある剣の師に告げるべき言葉を、今のアリスは持たない。
だから、もういちど逃げ出すのだ。
細く長いため息を漏らしてから、アリスは顔を上げ、テーブルの向かいに座る黒髪の青年を見やった。
「ねえ、キリト。あなたは何処に行きたい? 西域の"竜の巣"はそれは美しいところよ。それとも、南域の密林地帯がいいかしら。そっちは私も行ったことないの」
ことさら明るい声を出してみたものの、もちろんキリトは何の反応も見せなかった。
虚ろな瞳はじっとテーブルの表面に向けられている。この傷ついた若者を、また流浪の生活に連れ出さねばならないことにアリスの胸は痛んだ。しかし、と言って置いていくわけには行かない。シスター見習いの身であるシルカに無理な頼みごとはできないし、またアリス自身もそうしたくない。いまやキリトの面倒を見ることだけが、アリスに残されたただ一つの生きる目的なのだから。
「……そうね、行き先は雨縁に任せるわ。さ……もう遅いわね、そろそろ休みましょう。明日は早く起きて発たないと」
キリトを着替えさせて横にならせ、自分も寝巻き姿になって灯りを消してから、アリスはベッドに潜り込んだ。
暗闇のなかで数分間目を閉じ、隣のキリトの呼吸音が深く、緩いものになるまで待ってから、アリスはもぞもぞと身体を移動させた。
若者の薄い胸に、そっと自分の頭を載せる。密着した耳に、ゆっくりとした、しかし確実な鼓動音が伝わる。
キリトの心はもう、ここには存在しない。この鼓動は、過去からこだまする残響でしかない。
夜毎寄り添って眠りについたこの数ヶ月間、アリスはずっとそう思ってきた。しかし同時に、深い確たる響きのおくに、何か――まだ何かが残されているのではと、そんな気がすることもある。
もし今のキリトが、"心は正常なのにそれを表に出せない"というような状態だったとしたら、自分のこの行為をどう申し開きしたものか。そんな事を考えてかすかに微笑みながら、アリスはいっそうぴたりと全身を触れ合わせ、緩やかに眠りへと落ちていった。
びくり。
突然、触れ合った身体が強く震える感覚に、アリスは暖かな暗闇から呼び起こされた。
瞼を持ち上げようとするが、粘るように重い。どうにか視線を定まらせ、東の窓に向けるが、カーテンの隙間からのぞく空はまだ真っ暗だ。感覚的にも、眠っていたのは二、三時間というものだろう。
もう一度ぴくりと身体を強張らせるキリトに、アリスは掠れた声を掛けた。
「どうしたのキリト……まだ夜中よ……」
再び眼を閉じながら、肩を撫でて寝付かせようとしたが、耳元で小さな声が響くに及んでようやくアリスは半ば以上覚醒した。
「ぁ……あー……」
「キリト……?」
今のキリトに自発的欲求は存在しない。寒いとか、喉が渇いたとか、そんなことでは眼を醒まさないはずなのだ。なのに若者はいっそう強く身体を震わせ、まるでベッドから起きだそうとするかのように足でシーツを掻く。
「どうしたの……?」
これは尋常ではない、まさか本当に意識が戻ったのか、そう思ったアリスは跳ね起きて、ランプを点ける手間も惜しんで光素因を一つ発生させた。
ほのかな白い明かりに照らし出された若者の瞳は、常と変わることなく虚ろな闇に満たされたままで、わずかに落胆する。しかし、となれば一体何が――。
その時、アリスの耳に、今度は窓の外から甲高い鳴き声が届いた。
「クルル、クルルルッ!」
雨縁の――警戒音。
鋭く息を飲み、床に飛び降りると、アリスは寝室から居間を駆け抜けてドアを叩きつけるように開いた。途端、押し寄せてくる真冬の寒気。しかしその中に、異質な匂いが混ざりこんでいる。これは、焦げ臭さ……?
素足のまま、アリスは前庭へと踏み出した。そしてぐるりと空を見渡し、両眼を見張った。
西の空が――燃えている。
赤黒く揺れる光は、間違いなく巨大な炎の照り返しだ。眼を細めると、星空を覆い隠す黒煙の筋も幾つも見て取れる。
火事!?
一瞬そう思ってから、アリスはすぐに打ち消した。焦げた風に乗って、かすかに届いてきたのは、間違いなく金属が打ち鳴らされる音と――そして、悲鳴。
これは敵襲だ。ダークテリトリーの軍勢が、ルーリッドの村を襲っているのだ。
「……シルカ!!」
アリスは掠れた悲鳴を漏らし、家へと駆け戻ろうとした。
そして立ちすくんだ。
妹だけはなんとしても助け出さねばならない。
しかし……ほかの村人はどうする?
全員を可能な限り救おうとしたら、闇の軍勢と正面から戦わねばならない。だが、今の自分にそんな力が残されているだろうか。かつての"整合騎士アリス"の力の源は、狂信的なまでの教会への忠誠だった。その信仰が欠片も残さず崩れ去ってしまった今、自分は果たして剣を振るい、術を行使できるのだろうか。
凍りついたアリスの耳に――。
ガタン、という音が家のなかから届いた。
はっ、と視線を向ける。その先にあったのは、横倒しになった椅子と、その傍らで這いずる若者の姿だった。
「……キリト……」
眼を見開き、アリスは萎えた足を動かして家の中へと駆け戻った。
キリトの瞳には、変わらず意思の光はなかった。しかし、その緩慢な動作の目的は明らかだった。
伸ばされた隻腕は、まっすぐに、壁に掛けられた三本の剣を指していた。
「キリト……あなた……」
アリスの胸から喉を、熱いものが塞いだ。ぼんやりと視界を歪ませたのが涙だと気付くのに、少しかかった。
「……あ……あー……」
しわがれた声を漏らしながら、キリトは身体を一瞬たりとも止めようとせず、ひたすらに剣を目指す。アリスはぐいっと両眼を拭うと、一直線に若者に駆け寄り、その痩せた身体を床から抱き上げた。
「分かったわ……大丈夫、私が行くわ。私が皆を助ける。だから、安心してここで待ってて」
早口でそう囁きかけ、アリスは強くキリトを抱きしめた。
どくん。どくん。密着した胸から、大きな鼓動が伝わる。
その奥には、燃え殻ではない意志が、仄かな熾火ではあっても確かに存在する。いまならそれが分かる。
唇で若者の頬を撫でてから、アリスは軽いからだをそっと壁にもたれさせた。跳ねるように立ち上がり、迷うことなく壁から己が愛剣の鞘を掴み取る。
半年ぶりに握る金木犀の剣は凄まじい重さだったが、アリスはよろめくこともなくその剣帯を寝巻きの上から腰に締めた。ドアの傍から外套だけひったくるとばさっと羽織り、ブーツを右手で掴みあげてふたたび前庭に飛び出す。
「雨縁!!」
一声叫ぶと、即座に家の裏手から巨大な影が飛び出し、低く首を下げた。
軽やかに跳躍し、裸の背に跨ったアリスは、かつてと変わらぬ鋭い声で騎竜に命じた。
「行けッ!!」
ばさっ! と両の銀翼が打ち鳴らされ、短い助走を経て竜は一気に空へと舞い上がった。
少し高度を取っただけで、アリスの視界にはルーリッドの惨状が如実に映し出された。
赤黒い炎を吹き上げているのは、主に村の北側だ。やはり襲撃者は"果ての山脈"からやってきたのだろう。
ベルクーリの指示で完全に崩落させられたはずの洞窟を、闇の民たちがどのようにして復旧したのかは分からない。しかし、二日前に確認に来たエルドリエは異常なかったと言っていたので、わずか数十時間であの大量のガレキを撤去してのけたことになる。となれば、そのために動員された兵もまた膨大であろう。
古来、果ての山脈に穿たれた三箇所の洞窟を、少人数の偵察部隊が守護騎士の目を盗んで往来することはあった。しかしこれほど大規模かつあからさまな行動は聞いたことがない。やはり、闇の国全体に、人界滅すべしの機運が限界まで高まっているのだ……。
掴んできたブーツに脚を通しながら、アリスがそのような思考を巡らせたほんの短い時間に、雨縁は深い森を一息に飛び越えルーリッド外輪の麦畑上空に達した。
手綱は無いが、手で竜の首筋を擦りあげることで滞空の指示を出す。
アリスは身を乗り出し、眼下を凝視した。村の目貫通りに北側から殺到する多数の襲撃者たちの影がくっきりと見て取れる。その先陣を走る小柄な影は、俊敏なゴブリンたちだろう。先頭はすでに家具や木材を積み上げた急拵えの防御線にぶつかり、その周囲では打ち合わされる白刃がちかちかと光っている。
応戦しているのは、村に組織されている衛士隊だ。だが、人数も装備も練度もすべてがゴブリン部隊にすら劣っている。このままでは、後方から地響きを立てて接近しつつある巨大なオークの中核が到着したら、ひとたまりもなく粉砕されてしまう。
歯噛みをしつつ急く気持ちを押さえ付け、さらに周囲の状況を確認する。
東側、西側の大通りにも、すでに大きな群れが流れつつある。しかし南側にはまだ十匹以下のゴブリンと、僅かな火の手しか見えない。
住民はすでに南から森に避難しているだろう、そう思いつつ最後に村の中央広場に眼を凝らしたアリスは――思わず声を漏らした。
「なぜ……!?」
教会前の広い円形広場には、ぎっしりと密集してうずくまる黒い人波があった。あまりにも大人数なので最初には気付けなかったのだ。あれは、おそらくルーリッドの村人のほぼすべてだ。
なぜ南へ逃げないのか!? あれだけの人数がいれば、それがたとえ剣を持たない農民でも、数匹のゴブリンぐらい鋤や天秤棒で撃退できるはずだ。
襲撃者たちの本隊は、すでに東西の大通りの入り口にも達しようとしている。今すぐに南へ移動を始めなければ間に合わない。
アリスは我を忘れ、騎竜を村の広場上空まで突進させると叫んだ。
「雨縁、呼ぶまでここで待機!」
そして、数十メルの高みから、ひといきに身を躍らせた。
羊毛織の灰色の外套と、炎に照らされて赤金色に輝く長い髪をひるがえしながら、冷たい夜気のなかを一直線に滑り降りる。
円形に固まった数百人の村人たちは、いちおうは防御態勢のつもりか外周に農具を携えた男たちを配置していた。その北側の端で、盛んに指示を飛ばしている二人の男のすぐそばに、アリスは大音響とともに着地した。
ブーツの裏で、石畳が放射状にひび割れる。さすがに、超高優先度を備える身体とはいえ天命は微減しただろうが、アリスはそれよりも注目効果のほうを取った。
狙い通り、いきなり頭上から降ってきた人影に度肝を抜かれたようで、二人の男たち――農民を取りまとめるバルボッサと、そしてルーリッド村長ガスフトは目を見開いて口をつぐんだ。
アリスは、かつての父親であるガスフトの顔を見てわずかに息苦しさを感じたものの、生まれた一瞬の沈黙を逃さずに大声で叫んだ。
「ここでは防ぎ切れません! 今すぐ南の通りから全住民を避難させなさい!!」
凜と響いた声に、農民頭と村長はいっそうの驚き顔を浮かべて棒立ちになった。
しかし、数秒後に返ってきたのは、バルボッサの殺気だった怒声だった。
「馬鹿言うな! 南にももう怪物どもが回りこんどるのが見えねえか!!」
青筋を立てて喚く大男に、アリスは語気鋭く反駁した。
「向こうにはまだ僅かなゴブリンしか居ません! 男たちに先頭を行かせれば突破できます、もうすぐ東西からも敵の本隊が押し寄せてきますよ!」
ぐっ、と言葉に詰まったバルボッサに代わって、村長のガスフトが低く張り詰めた声を発した。
「広場で円陣を組んで護れというのが、衛士長ジンクの指示なのだ。この状況では、村長の私とて衛士長の命令には従わなければならない」
今度は、アリスが息を詰める番だった。
襲撃などの有事の際には、衛士長の天職に就く者が一時的に全住民の指揮権を得る、これは禁忌目録に記された条文だ。
しかし、ジンクという名の衛士長は、父親からその職を譲られたばかりの若者なのだ。このような状況で、冷静な指揮判断ができるとは思えない。ガスフトの顔に濃く浮かぶ焦燥が、村長もまたそう考えていることを示している。
とは言え村人たちにとって禁忌目録は絶対だ。今すぐ避難を開始させるには、北側の防御線に居るのだろうジンクを引っ張ってきて命令を変更させるしかないが、そんな時間はどう考えても残されていない。
どうする。どうすれば――。
立ち尽くしたアリスの耳に、幼くも毅然とした叫びが飛び込んだのは、その時だった。
「姉さまの言うとおりにしましょう、お父様!!」
はっ、と視線を向けた先にいたのは、人垣の内側で、火傷を負ったらしい村人に青白く光る手をかざす小柄な修道女だった。
「……シルカ!」
よかった、無事だった。愛する妹に向かってアリスは足を踏み出しかけたが、それより早く治療を終えたシルカが立ち上がり、三人のもとへと駆けてきた。
アリスに向けて一瞬笑みを浮かべてみせたシルカは、さっと顔を引き締めると、続けてガスフトに言った。
「昔から、姉さまが一度でも間違ったことを言ったことがあった? ううん、あたしにだって分かるわ。このままじゃ、みんな殺されちゃう!」
「し……しかし……」
苦渋の表情でガスフトは言い澱んだ。たくわえられた口ひげが細かく震え、視線がうつろに宙を彷徨う。
絶句した村長に代わり、再び怒声を爆発させたのはバルボッサだった。
「子供が出しゃばるな! 村を……家を捨てる気か!!」
禿頭の下の小さな眼がちらりと走ったのは、広場にほど近い場所に建つ自身の屋敷の方向だ。正確には、秋に収獲したばかりの大量の小麦と、長年蓄財した金貨にだろう。
アリスとシルカに視線を戻し、バルボッサは突如、裏返った声で喚きたてた。
「そ……そうか、わかった、わかったぞ! 村に闇の怪物どもを招き入れたのはお前じゃなアリス!! 昔、果ての山脈を越えたときに闇の力に汚されたんじゃ!! 魔女……この娘は魔女じゃ!!」
太い指をつきつけられ、アリスは絶句した。北と、東、西から近づきつつある怪物たちの鬨の声も、すうっと遠ざかった。
村はずれに落ち着いてからの数ヶ月、アリスは何度となくバルボッサのために森の巨木を倒してきた。そのたびにこの男は身を捩らんばかりに感謝したのだ。なのに、自分の財貨を守らんがためだけに、こんな言葉を吐くとは――なんという――
醜悪さ。
なんという愚かさだろう。
アリスの胸中に、ナイフの鋭さで、ひとつの思考が閃いた。
もう、勝手にすればいい。
私も自分の好きにする。シルカとガリッタ老人、それにキリトだけ連れて村を離れ、どこか遠くで新しい住処を見つける。
ぎりっと奥歯を噛み締め、瞼を閉じ。
アリスは、でも、と思考を続けた。
でも、バルボッサや他の村人たちが愚かに見えるとすれば、それは、神聖教会の数百年に渡る治世が作り出したものだ。
禁忌目録以下、無数の法や掟で人々を縛り、ぬるま湯の安寧を与えると同時に大切なものを奪い続けた。
すなわち、考える力、そして戦う力を。
無限にも等しい年月収奪されつづけた、それら人々の見えざる力はどこに集積されたか。
わずか五十人の剣士たちの身体だ。
整合騎士――。
つまり、アリス自身のなかに。
大きく息を吸い、吐いて、アリスはばしっと音がしそうな勢いで両の瞼を開いた。
視線の先で、バルボッサが不意に、何かに怯えるかのように顔色を失い、右手を下ろした。
対照的に、アリスは身体の奥から、何か不思議な力が満ちてくるのを感じていた。静かだが、とても熱い、青白い炎。
「……衛士長ジンクの指示は破棄します。いますぐ陣形を解き、武器を持つ者を先頭にして南へ退避するよう命じます」
穏やかですらある声だったが、バルボッサも、ガスフトも、打たれたように上体を仰け反らせた。それでも、わななく声で農民頭が言い返したのは、いっそ見上げた胆力というべきだった。
「な……なんの権限で、娘っ子が、そんな」
「整合騎士の権限です」
「なっ……なにを、馬鹿な! お前が……闇に染まった魔女が、整合騎士なんぞであるはずがっ……」
裏返った声で喚くバルボッサを一瞥し、アリスはそっと左手で外套の肩部分を掴んだ。
「私は……私の名はアリス。整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティ!!」
高らかに叫び、勢いよく外套を身体から引き剥がす。
その下は、質素な綿の寝巻き一枚のはずだった。しかし、分厚い布が翻ると同時に、眩い金色の光がアリスの全身を包み――かつて一度だけ見た、あの現象が発生した。
両の指先から、黄金の装甲が出現し、大型の篭手となって肘までを包む。両足もまた、同色の具足にがっちりと覆われる。
金糸で刺繍をほどこした純白のスカートが閃き、その上に花弁のような装甲板が開く。最後に胸から肩にかけてを眩い鎧が包み、染みひとつない白いマントと、長い金髪が夜闇を切り裂くように舞った。
それだけは最初から腰にあった金木犀の剣が、まるで主との再会を喜ぶかのように、りぃんと刃鳴りした。
ざわめいていた村人たちが、ぴたりと押し黙った。静寂を破ったのは、ひそやかなシルカの囁き声だった。
「姉……さま……?」
妹に視線を落とし――アリスは、優しく微笑んだ。
「今まで黙っててごめんね、シルカ。これが……私に与えられた、ほんとうの罰。そして、ほんとうの責務なの」
シルカの両眼に、ゆっくりと涙の珠が浮かび、揺らめいた。
「姉さま……あたし……あたし、信じてたわ。姉さまは罪人なんかじゃないって。綺麗……すごく……」
次に動いたのは、ガスフトだった。
がしっ、と音を立てて跪いた村長は、表情を隠しながらも太い声で叫んだ。
「御命、確かに承った、騎士殿!!」
素早く立ち上がり、背後の村人たちに向き直ると、びんと張った声で指示する。
「全員立て!! 武器を持つ者を先頭に、南門へと走るのだ!!」
うずくまる人々のあいだに、不安そうなざわめきが走った。しかしそれも一瞬のことだった。整合騎士という最大の武威を背景にした村長の命令に、抗うという思考は村人のなかには無い。
即座に、外周を固めていた屈強な農夫たちが立ち上がり、女子供を内側に守るかたちの縦列を作った。その先頭集団に加わり、自らも無骨な鋤をたずさえるガスフトの眼をじっと見て、アリスは押し殺した声で告げた。
「皆を、シルカを頼みます……お父様」
ガスフトの剛毅な視線が一瞬かすかに揺らぎ、絞るように声が返された。
「騎士殿……も、御身を第一に」
もう二度と、この男がアリスを娘として扱うことはあるまい。それもまた、与えられた力の代償なのだ。そう心に刻みながら、アリスはシルカの背を押し、隊列の中に潜り込ませた。
「姉さま……無理をしないでね」
涙を滲ませたままの妹に微笑みとともに頷き、アリスは身体を回して北を見やった。
同時に、村人たちが一斉に動き出す。
「あ……ああ……ワシの、ワシの屋敷が……」
情けない声で呻いたのは、いまだ立ち尽くしたままのバルボッサだった。整合騎士の命令と、己の財産をここまで天秤に掛けられるというのはいっそ見上げた根性と言うべきか。
もう好きにさせておくことにして、眼を閉じ、耳を澄ませる。
北側の防衛線は後退を続けているし、左右からも敵の分隊が地面を揺るがす地響きが近づいてくる。まだ広場には村人が半分以上残っており、このぶんだと全員が南へ退去する前に敵が突入してくるだろう。
とアリスが判断したとたん、北から若い男の悲鳴にも似た声が響いた。
「もう駄目だ! 退け! 退け――っ!!」
衛士長ジンクの指示だろう。それを聞いた途端、バルボッサが勢いづいたようにアリスに食ってかかった。
「ほれ……ほれ見たことか!! ここに立てこもって防ぐべきだったんじゃ!! 殺されるぞ! 皆殺しにされるぞぉ!!」
アリスは肩をすくめ、ざっと広場を見回してから、優しく反駁した。
「大丈夫ですよ、これだけ空間が開けば範囲攻撃が使えますから。ここは私が防ぎます」
「できるか!! できるわけがあるかそんなこと、娘っ子一人に!! 整合騎士なんちゅう与太話信じんぞ!! その格好も魔女のまやかしじゃろう!!」
もう東西から殺到してくるゴブリンやオークたちの姿が間近に見えるというのに、バルボッサはなおも罵り声を撒き散らし続ける。再びそれを無視し、アリスは恐怖に顔をゆがめる村人たちを限界まで南へ詰めさせると、大きく片手を上げ――叫んだ。
「雨縁!!」
即座に上空から甲高い雄叫びが返る。
唖然と眼を剥き出すバルボッサも左手で背後に押しやり、上げた手を東から西へと振り下ろしながら、短く一声。
「――焼き払って!!」
ごおおおっ!!
という嵐のような羽音が夜空から降り注ぎ、人々と、広場に達しつつあった闇の尖兵たちが一斉に上を振り仰いだ。
炎に赤く染まる空を翼のかたちに黒く切り取り、東から急降下してきた巨大な飛竜が、そのあぎとを大きく開いた。のどの奥に、青白い輝きが一瞬明滅し――。
しゅばっ!!
と、眩い熱線が東の大通りから、広場の中央南寄りに立つアリスとバルボッサの眼前を横切り、西の通りの奥までを薙いだ。
わずかな間を置いて。
凄まじい爆発が東西の目貫通りに膨れ上がり、夜空へと突きぬけた。飲み込まれた敵の分隊が、無数の悲鳴とともに吹き飛ばされ、あるいは地面で焼き尽くされた。
数十匹の襲撃者たちを瞬時に消滅せしめた熱線は、同時に広場中央の噴水も蒸発させ、周囲にもうもうとした白煙を広げた。その上を掠めるように飛び去った雨縁に、アリスは短く再び待機の指示を出し、ちらりと背後の様子をたしかめた。
バルボッサは腰を抜かして石畳に倒れこみ、両眼を剥き出している。
「な……なっ……なん…………」
弛んだ頬を痙攣させる中年男はもう放置して、同じく竦んだ様子の人々に声を掛ける。
「大丈夫です、この場所は必ず死守しますから、皆さんは落ち着いて、素早く移動を続けてください」
村人たちは我に返ったように頷き、南へ向き直ったが、全員が脱出するにはまだ数分かかりそうだ。
そのとき、立ち込める蒸気を割るように、北から数人の男たちが広場へと駆け込んできた。そろいの金属鎧と赤い制服に身を固めた衛士たちだ。
その先頭で必死の走りを見せた若い男、衛士長ジンクは、広場が半ば以上空になっているのに気付くと愕然とした顔を作り、裏返った声で叫んだ。
「おい……男どもはどこへ行った!? ここで守れと言ったじゃないかよ!?」
「私が南から退避させました」
アリスが答えると、はじめて気付いたように瞬きし、全身を上から下へと何度も見回してくる。
「あんた……アリス……? なんであんたが……その格好は……?」
「説明している暇はありません。衛士はこれで全員ですか? 取り残された者はいませんね?」
「あ……ああ、そのはずだ……」
「なら、あなたも皆と一緒に逃げてください。ああ、そこの小父さんもよろしく」
「逃げるって……もう、すぐそこにあいつらが…………」
その言葉が終わらないうちに――。
「ギヒィーッ!!」
粗野な雄叫びが、広場いっぱいに響き渡った。
「どこだぁーっ!! イウムどもどこに逃げたぁーっ!!」
濃霧を突き破って、まっさきに広場に突入してきた数匹のゴブリンの恐ろしい姿に、再び衛士たちと人々の喉から細い悲鳴が漏れた。
アリスはすうっと息を吸い、右手を剣の柄にかけた。
飛竜の熱線は連発できない。あとは、アリスが単身で敵主力の相手をしなくてはならない。
ゴブリンは、アリスの輝くような騎士姿を見つけると、黄色く光る眼にすさまじい殺意と欲望の色を滾らせて乱杭歯を剥き出した。
「ギイッ!! イウムの女ッ!! 殺す!! 殺して喰う!!」
長く太い腕に握った鉄板のような蛮刀を振りかざし、一直線に突っ込んでくるその姿を見て――。
アリスは内心で、畏れとともに呟いた。
ああ……なんと恐ろしい力を与えられているのだろう。存在そのものが罪である、と思いたくなるほどに。
整合騎士なるこの身は。
「ギヒャ――――ッ!!」
高い跳躍から振り下ろされた分厚い蛮刀を、アリスは無造作に伸ばした左手で横合いから掴み、薄い氷ででもあるかのように握り潰した。かしゃん、と砕け散った金属片たちが地面に落ちるよりも速く、鞘から抜かれた金木犀の剣がゴブリンの身体を真横に薙いだ。
山吹色の剣風はそれだけに留まらず、さらに迫りつつあった三匹のゴブリンたちをも音もなく巻き込み、分厚い白霧の塊をも残さず吹き散らした。悲鳴すら漏らさず、四匹の敵兵の身体が真横にずれ、どさどさっと地面に崩れ落ちた。
やはり――最高司祭アドミニストレータは間違っていた。
これほどの力をたかが一人の人間の中に集約し、その意志を封じて操り人形に仕立てた。世界に遍く満ちるべき力すべてを掌中に収めようとした。かの神人亡きいま、全整合騎士は巨大な過ちをその身に刻まれた碑でしかない。
過ちを正すことはもうできない。
ならば、せめて――。
この力を、本来持つべきだった人たちのために、最後の一滴まで使いつくさねばならない。
神のため、信仰に殉じるためではなく。
自分で考え、自分で戦うのだ。かつて二人の名も無き剣士がそうしたように。
伏せていた視線を、アリスは鋭く持ち上げた。
広場の北、広い大通りをいっぱいに埋め尽くすように、敵の本隊――オークを主とし、少なからぬ巨大なオーガも混じった百以上の闇の兵たちが突入してきつつあるのが見えた。
彼らと私は、いまや同質の存在。かたや殺戮の欲望のため、かたや贖罪の願望のために、その武器を振るう。
己のなかにしつこくこびり付いていた、神聖教会と最高司祭への依存心が焼き尽くされ、蒸発していくのをアリスはまざまざと感じた。かつて神への盲目的な帰依だけをよりどころとしていた究極奥義を、アリスははじめて自分の力で発動させた。
「リリース……リコレクション!!」
ビシッ!!
金木犀の剣の刀身が、陽光にも似た眩い光りを放った。
切っ先から、無数の鋭い花弁となって吹き流れ、夜闇たかく舞い散る。
敵集団主力は、黒い津波と化して広場と、そこに残る村人たちを飲み込まんと肉薄した。
圧倒的とも思える暴力の壁に向かって、アリスは一歩も退かずに右手に残る柄を高々と掲げ、もう一度叫んだ。
「嵐花――裂天!!」
無数の槌音の合奏が、青く澄んだ冬空へと舞い上がっていく。
アリスは目を細め、遠く麦畑の向こうにこんもりと突き出すルーリッドの姿に最後の一瞥を送った。
大襲撃から今日で一週間。
村は、北側の家々を中心に二割近くが焼け落ちたが、全村民の天職を一時停止して作業に当たらせた村長の決断のせいもあって再建は急速に進んでいる。残念ながら、焼け跡から数十の遺体が発見され、その合同葬儀は昨日教会でしめやかに執り行われた。
アリスは請われて儀式に出席したあと、北の洞窟の確認に赴いた。
ベルクーリの命で崩落させられたはずの長いトンネルは、巨大なオーガですら充分に通れるほどの広さに再び拡大され、その奥、もっともダークテリトリーに近いあたりにアリスは長期間の野営のあとを発見した。
襲撃者たちは、向こうの入り口を掘り返して作業を受け持つ一団を送り込んだあと、再び通路を崩しておいたのだ。整合騎士エルドリエがその入り口を確認した時点ですでに内部深くには作業班が潜んでおり、着々と全通路を再開通させていた。
かつてのゴブリンやオークたちからは考えられない周到さと用心深さだ。その一事を取っても、今回の闇の侵攻が"本気"であることがうかがえる。
アリスは洞窟から出たあと、再び崩すのではなく中央部から湧き出すルール川の源流を一時塞き止め、内部を完全に水没させた。しかるのちに、仕掛けておいた無数の氷素を炸裂させ、岩ではなく氷で洞窟を封印したのだ。
これでもう、アリスと同等の術者がやってこないかぎり再び山脈をくぐることはできない。
彼方に白く浮かぶ果ての山脈から視線を戻し、アリスは最後の荷袋を雨縁の脚帯にくくりつけた。
「あのね……、姉さま」
涙を必死に我慢するような顔で出立の準備を手伝っていたシルカが、俯きながら口を開いた。
「……父さまも、ほんとは見送りに来たがってた。今日は朝から心ここにあらずって感じだったもの。父さま、本心では……姉さんが帰ってきて嬉しかったんだと思う。それだけは、信じてあげてほしいの……」
「わかってるわ、シルカ」
アリスはそっと妹の小さな身体を抱きしめ、囁き返した。
「私は罪人としてこの村を離れ、整合騎士として帰ってきた。でも次は……すべての役目を果たしたら、ただのアリス・ツーベルクとしてここに戻ってくるわ。その時こそ、ちゃんと言えると思うの。お父様、ただいま、って」
「……うん。きっとその日がくるよね」
短い涙声で呟いたあと、シルカは顔をあげ、袖口でぐいっと顔を拭った。
身体の向きを変え、傍らの車椅子に沈み込む黒衣の若者に、精一杯元気な声を掛ける。
「キリトも元気でね。はやく良くなって、お姉さまを助けてあげてね」
項垂れる頭をそっと包み込み、祝福の印を切ってから、歳若い少女は数歩後ろにしりぞいた。
アリスはキリトに近づくと、その腕から二本の剣をそっと抜き取り、雨縁の鞍に留めた。次いで、若者のやせ細った身体も軽々と持ち上げ、鞍の前部に腰掛けさせる。
キリトをシルカに任せ、村に残していくことを考えないでもなかった。最前線、東の大門に赴けばアリスは防衛部隊の主力として忙殺されるだろうし、今までのようにこまめに面倒を見られなくなるのは間違いないからだ。
だが、それでもやはり連れて行くと決めた。
理由はただ一つ、襲撃の夜にキリトが見せた尋常ならぬ反応のせいだ。あのときキリトは間違いなく、剣を取り村に向かおうという意思を示した。誰かのために戦う、それがこの人の本質なのだ。ならば、その心を取り戻す鍵もやはり戦場にあるはずだ。
いざとなれば、背中に括り付けてでも守り抜く。
アリスは、最後にもう一度シルカとしっかり抱き合った。
「……じゃあ、行くわね」
「うん。気をつけて……必ず帰ってきてね、姉さま」
「約束するわ。……ガリッタおじさまにも、よろしく伝えてね。……元気で、しっかり勉強するのよ」
「分かってるわよ。きっと立派な修道女になって……それで、あたしも……」
その先は言葉にせず、シルカはくしゃくしゃと泣き笑いを浮かべた。
妹の頭をゆっくり撫で、身体を離したアリスは、名残惜しさを噛み締めながらゆっくり愛竜に歩み寄り、その背中、キリトの後ろに騎乗した。
地上の妹に、深くいちど頷きかけ、視線を遥か空へと向ける。
軽く手綱を鳴らすと、竜は人間二人と剣三本の重みを感じさせない力強さで麦畑のあいだを助走しはじめた。
必ず、もういちどここに戻ってくる。
たとえこの身が戦場に朽ち果てようとも、心だけは必ず。
アリスは、睫毛に浮かんだひとつぶの涙を払い飛ばし、鋭く掛け声を放った。
「……はぁっ!」
ふわり。
浮遊感とともに、地面が離れる。
上昇気流を掴まえた雨縁は、旋回しながら一気に空へと駆け上った。
広い畑と森、その中央に輝くルーリッドの村、そして両手を振りながら懸命に走るシルカの姿をまぶたに焼付け――。
アリスは東の空へと竜の首を向けた。
再び十人の将軍たちが横一列に並び、うやうやしく平伏している様子を、ガブリエルは満足とともに眺めた。
彼らは命令どおり、二日間で進軍の準備を完了してきたのだ。ことによると、現実世界で軍隊の上層に居座る将軍たちの大部分よりもこのユニットたちは優秀なのかもしれない。
まったく、いっそもうこのまま"完成品"としてもいいと思えるほどだ。申し分ないタスク処理能力にくわえ、この忠誠心。戦争用のロボットに載せるためのAIとして、これ以上のぞむ物などないではないか。
とは言え――。
彼らの忠誠は、K組織が拘り続けた人工フラクトライトの未完成さに由来するものだということを忘れるわけにはいかない。
つまり、"最大の力を持つものが支配する"という絶対原則を魂に焼きこまれているからこそ、この十人は皇帝のアカウントを持つガブリエルに従っているのだ。それは同時に、ガブリエルの力に疑いが生じた瞬間、この中の誰が裏切ってもおかしくないということだ。
その懸念がすでに現実のものとなっていることを、ガブリエルは知っている。
二日前の夜、寝室に忍んできた暗殺者。
あの女は、皇帝を殺そうとした。彼女のなかには、ガブリエルよりも上位の主人が存在していたはずだ。すなわち、いまわの際に"閣下"と呼んだ、この十人のなかの誰かだ。
暗殺者にとっては、皇帝よりも"閣下"のほうが強者だった。となれば、その男自身も、本心からガブリエルに忠誠を誓っていない可能性が高い。そのようなユニットを抱えたまま戦場に赴けば、万が一寝首を掻かれるということもないとは言えない。
よって、眼下に跪く十人のうちから"閣下"をあぶり出し、処分するのが出陣前の最後の一仕事ということになる。
そして同時に、残る九人に皇帝の力のほどを知らしめる。誰が最強者なのかを、彼らのフラクトライトに永遠に刻み込むために。
この時、ガブリエル・ミラーは、自分が眼下の十ユニットのどれかに遅れを取る、つまり一対一の戦闘で破れるという可能性を微塵も考慮していなかった。彼にしても、アンダーワールドはあくまでサーバー内のバーチャル・ワールドであり、そこに存在するユニットはすべて人造物であるという固定概念にいまだ捉われていたのだ――。
暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターは、跪きこうべを垂れた姿勢のまま、脳裏に師の言葉をよみがえらせていた。はるかな昔、騎士団本部の道場においての記憶だった。
『わしの師匠のそのまた師匠は、首を取られて即死した。師匠は胸を抉られ、城に戻る道なかばにして斃れた。しかしわしは、腕一本落とされはしたが、こうして生きて戻った。自慢できることでは到底ないがな』
師はそう言って、肩の下から綺麗に切断された右腕をシャスターに示した。その傷を作ったのは、暗黒騎士の宿敵にして世界最強の剣客、あるいは最悪の怪物――整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人だ。
『これがどういう意味を持つかわかるか、ビクスル』
当時二十をわずかに出たばかりだったシャスターには首を捻ることしかできなかった。師は隻腕を着流しの下に仕舞うと、眼を閉じ、ぼそりと続けた。
『追いつきつつあるのよ、ようやくな』
『追いつく――、あの者に、ですか』
若いシャスターの声には信じられぬという響きが混ざり込まざるを得なかった。それほどまでに、数日前に目の当たりにしたベルクーリの剣技は圧倒的だった。師の腕が鮮血とともに高く飛んだその瞬間、背骨を貫いた氷柱のような冷気はいっこうに去ろうとしなかった。
『――わしは今年で五十になる。それでもまだ、剣の振りかたはおろか握り方すら極めた気になれん。おそらく、あと五年、十年経ってくたばるその時になっても同じだろう』
師は静かに語った。
『であれば、すでに二百年以上を生きているというあの不老者の境地に、短命な我ら人の子が及ぶべくもない。情けないことだが、剣を交えるその瞬間まで、わしの中にそんな諦めがあった。しかし、無様に敗れ、逃げ帰った今こそ、それが誤りであったことを知った。無駄ではなかったのだ……これまで師匠、そのまた師匠たちがあの男に挑み続けてきたことはな。――ビクスルよ、最高の剣とは何か』
突然の問いに、シャスターは反射的に答えた。
『無想の太刀です』
『そうだ。長年の修行を経て剣と一体となり、斬ろうと思わず、抜こうとも思わず、動こうとすら思わず放たれる一撃こそ究極の剣である。わしは師匠にそう教わり、わしもお前にそう教えた。しかしな……ビクスル、そうではなかった。その先があったのだ。わしはあの怪物に斬られ、それを悟った』
師の面に、かすかな興奮の色が走った。シャスターも正座のまま思わず身を乗り出し、尋ねた。
『その先……と仰いますと』
『無想の対極。断固たる確信だ。意思の力だ、ビクスル』
突然、師は板張りの上に立ち上がり、切断された右腕を大きく振りかぶった。
『見ておったろう。あの時、わしは右の袈裟懸けに斬りつけた。まさに無想の斬撃、生涯最速の剣であった。抜いた時点では、確実に彼奴の先を取っていた』
『は……、私もそう思いました』
『しかし、しかしだ。本来であれば、わしの剣に弾かれていたはずの彼奴の受け太刀は、逆にわしの剣を押しのけ、この腕を斬り飛ばした。……信じられるかビクスル、あの瞬間、わしの刃は奴の剣に触れておらなかったのだ!』
シャスターは絶句し、次いで首をぎこちなく振った。
『そ……そのようなことが……』
『事実だ。まるで……剣の軌道そのものが、奴をはるか逸れる方向へと規定し直されたのようだった。あの現象を説明するには、もうこう言うしかない。わしの無想の太刀は、彼奴が二百年かけて練り上げた意志力に敗れたのだ。彼奴があまりにも強く剣の軌道を断定したために、それが不変の事実となったのだ!』
師の言葉を、シャスターはすぐに信じることはできなかった。意思の力などというかたちのない代物が、確固として存在する重く硬い剣を退けるなどということがどうして有り得よう。
そのシャスターの反応を、師は予期していたようだった。不意に着流しの裾を正すと、黒光りする板の上ですうっと腰を落とした。
『さあ、ビクスルよ。わしがお前に教える最後の剣訣だ。わしを――斬れ』
『な……何を仰います! せっかく……』
生き延びたのに、という言葉をシャスターは飲み込まざるを得なかった。突然、師の双眼が鬼神のごとく光ったのだ。
『命を繋いでしまったがゆえに、わしはお前に斬られねばならぬ。かの者に一撃のもとに敗れたいま、お前のなかでわしは最強者ではなくなってしまった。そのわしが生きておれば、お前はかの者と対等に戦うことはできぬのだ。お前もまたわしを斬り、いや殺し、彼奴……ベルクーリと同じ処に立たねばならぬ!!』
そう言い放ち、師は立ち上がると、僅かに残る右腕を大きく構えた。
『さあ、立て! 抜くのだビクスル!!』
シャスターは師を斬り、その命を絶った。
同時に、師の言葉の意味を身を以って悟った。
斬り飛ばされた師の右腕に握られていた眼に見えぬ刃――"意思"という名の剣は、交錯の瞬間シャスターの剣と激しい火花を散らし、実際に頬を切り裂いて二度と消えぬ傷を残したのだ。
涙と鮮血に顔中を塗れさせながら、若き日のシャスターは"無想の太刀"を超える境地のとば口に立った。
そして月日は流れ――五年前。
シャスターはついに彼の者、整合騎士長ベルクーリに挑んだ。齢三十七にして、己の剣が達しうる限界に達したと感じてのことだ。
師は腕一本と引き換えに生還したが、シャスターは仮に敗れたときは生きて戻らぬつもりだった。なぜなら、シャスターは後継者という意味での弟子は作らなかったからだ。師を斬り、教え子に斬られるような運命を背負わせたくなかった。自分の命と引き換えに、血塗られた連環をここで断ち切ろうと決めていた。
あらん限りの決意と覚悟、すなわち"意思力"すべてを乗せた剣は、ベルクーリの初太刀と真っ向から切り結び、弾かれることはなかった。だがその時点でシャスターは敗北を予感した。もう一度、同じ重さの斬撃を繰り出せるとは思えなかったのだ。
しかし、ベルクーリは剣を交えたまま、太く笑って囁いた。
『いい太刀筋だ。殺意のみに拠るものではないからだ。俺の言葉の意味をよく考えて、五年後にもう一度来い――小僧』
そして整合騎士長は間合いを取り、この立会いは分ける、と宣言して剣を収めた。
ベルクーリの言わんとするところを理解するには、長い時間が必要だった。だが、四十を超え老境に差し掛かった今ならば分かる。あの時、シャスターが殺気と恨みだけを乗せて剣を振っていれば、おそらく迫り負けていただろう。それが、一合とは言え対等に斬り結べたのは、殺意よりもっと重い覚悟を肚に呑んでいたからだ。
つまり――これまで命を落としてきた師匠たちや、自分のあとに続く騎士たちの運命すべてを。
だから、シャスターは、最高司祭死すの報を受けたとき即座に和平交渉を開始すると決断したのだ。自分がダークテリトリーの意思を纏めれば、あのベルクーリならば間違いなく申し出を受けるという確信があった。
同じ理由で――。
突如降臨し、有無を言わせず開戦を決定した皇帝を名乗るこの男を、自分は斬らねばならない。
跪き、頭を垂れながらも、シャスターは必殺の太刀に乗せるべき"意思力"を練っていた。
数百年の不在を経て復活した皇帝ベクタは、白い肌と金色の髪を持つ若い男だ。体躯も容貌も、迫力と言うほどのものはない。
しかし、やけに蒼い二つの眼だけが、皇帝が凡そ人ならぬことを示している。その中にあるのは"虚無"だ。全ての光を吸い込み、何ひとつ漏らさない底なしの深淵。この男、あるいは神は、巨大な飢えを隠し持っている。
練り上げた意思力が、皇帝の虚無に飲み尽くされたならば、剣は届くまい。
そのとき自分は命を落とすだろう。だが、意思は続くものたちに引き継がれるはずだ。
ただひとつ心残りなのは、昨夜はリピアが姿を見せなかったために自分の決意を伝えられなかったことだ。恐らくは出征前の雑務に忙殺されているのだろうが――いや、もし彼女に皇帝を斬ることを話せば、お供しますと言って聞かなかっただろう。これでいいのだ。
シャスターはゆっくりと息を吸い、溜めた。
腰から外し、床に置いた剣に触れる左手に、徐々に、徐々に力を込めていく。
玉座まではおよそ十五メル。二歩の踏み込みで届く距離だ。
初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。
限界まで高まった意思の力すべてを、触れる剣へと注ぎ込む。そして身体を空にする。
右脚が床を蹴る――
その寸前。
皇帝が、滑らかではあるが硬質な声で、なにげないように言った。
「ときに――昨夜、余の臥所に忍んできた者が居た。短剣をその身に帯びて」
ざわ、と抑制された驚きが大広間の空気を揺らした。
シャスターの左に並ぶ九人の将軍たちも、ある者はかすかに息を詰め、ある者は喉の奥で低く唸り、またある者は分厚いローブのなかに一層身体を沈めた。
驚きに打たれたのはシャスターも同様だった。斬りつける寸前の体勢、気勢を保持したまま、瞬時に考えを巡らせる。
己のほかにも、皇帝排すべしの結論にたどり着いた者がいたのだ。皇帝がこうして無傷であるところを見ると惜しくも失敗したのだろうが――しかしいったい、刺客を放ったのは十候のうち誰なのか。
亜人五候ではあるまい。ジャイアント、オーガはもちろん、比較的小柄なゴブリン族と言えども衛兵の目を盗んで皇域に忍び込むような真似ができるとは思えない。
人族の将軍に目を向ければ、まず闘技士の長である若きイシュカーンと、商工ギルド頭領レンギルは除外できる。イシュカーンは近接闘技を極めることだけが目的の直情径行な少年だし、レンギルは戦がはじまれば大儲けできる立場だ。
寝所に忍び込む、という手口からして暗殺ギルドの長フ・ザはいかにも怪しいし、実際あの男は何を考えているのか掴めないところがあるが、短剣を用いたというのが解せない。暗殺ギルドが暗い穴の底でひたすら研究を重ねてきたのは、暗黒術でも武術でもない第三の力、"毒"だからだ。フ・ザの一族は、術式行使権限にも、武具装備権限にも恵まれなかったものたちが生き延びるために結束した集団なのだ。
同じ理由で、すぐ左にひざまずいている暗黒術師の長ディーも除外せねばならない。権勢欲だけで出来上がっているようなこの女ならば、皇帝の首級を挙げ一気に暗黒界の支配者に上り詰めるくらいのことは考えそうだが、ディーの配下の術師たちは皇帝の玉身を傷つけられるほどの優先度を持つ短剣を装備できるはずがないし、そもそも刃よりもっと剣呑な手妻をいくつも身につけているのだ。
しかしそうなると、刺客を放ったのが九将軍の誰でもなくなってしまう。
残るはただ一人――暗黒騎士長シャスター自身だ。
だが、当然身に覚えなどない。皇帝を排除するときは、命を賭して自ら剣を振るうと決めていたからだ。部下たちに暗殺を命じることはもちろん、秘めたる決意を語ったことすら、一度も――。
いや。
いや……。
まさか。
皇帝が言葉を放ってから、ほんのまばたきほどの時間でここまでを思考したシャスターは、剣の鞘に添えた左手の指先がすうっと冷たくなるのを意識した。
刀身に満ち満ちていたはずの、練り上げた意志力が一瞬で変質する。危惧。不安。恐怖。そして――極低温の確信へと。
ほぼ同時に、皇帝ベクタが二言目を口にした。
「刺客を差し向けた者の名を、余は詮議しようとは思わぬ。持てる力を行使し、更なる力を得ようというその意気や良し。余の首を獲りたくば、いつでも背中から斬りかかるがよい」
ふたたび微かなざわめきに満ちた大広間を睥睨し、皇帝はその白い顔にはじめて表情――ごく薄い笑みを滲ませた。
「もちろん、そのような賭けには相応の代償が要求されると理解した上で、ということだが。たとえば、このような」
漆黒のローブが割れ、露出した手が軽く合図を送る。
と、玉座から見て東側の壁に設けられた小扉が音もなく開き、濃紺のドレスに白いレースのエプロンを重ねた召使の少女がしずしずと歩み入ってきた。両手に大きな銀盆を捧げもち、その上には何か四角いものが載っているが、掛けられた黒布に遮られて中までは見えない。
召使は銀盆を玉座の手前の緋絨毯に降ろすと、十候、そして皇帝に恭しく頭を下げてふたたび扉の奥へと去った。
しん、と張り詰めた静寂のなか皇帝は、薄く、虚無的で、どこか歪んだ笑みを唇の端に滲ませたまま、黒いトーガの裾からブーツのつま先を伸ばし、銀盆を覆う布を踏みつけるようにして払った。
全身と、思考力までをも凍りつかせたシャスターが両の眼で捉えたのは――。
最上のクリスタルよりも透き通った、氷の正立方体と。
その内側に封じ込められた、一番弟子にして愛人、そしてもうすぐ妻になるはずだった女の、永遠に醒めない眠り顔だった。
「リ……ピ……」
ア。と、唇の動きだけでシャスターは呟いた。
全身を包んでいた冷気すらも消え失せ、どこまでも深く暗い虚ろが胸のうちを満たす。
シャスターは、暗黒騎士リピア・ザンケールがひそかに運営している孤児院のことを知っていた。親兄弟を失い、あとは野たれ死ぬだけの子供たちを、種族の区別なく庇護し育てているリピアの行いに、ダークテリトリーのあるべき未来の姿を見たつもりでいたのだ。
だからこそシャスターは、リピアにだけは自分の理想を語った。人界との慢性化した戦争状態を解消し、奪い合うのではなく、育み分かち合う世界を創りたい、という果てない夢を。
しかし、そのことがリピアを皇帝暗殺へと走らせ、あのような痛ましい姿を晒す結果を導いてしまった。彼女を殺したのは皇帝であるが――同時にシャスター自身でもあるのだ。間違いなく。
瞬時ではあるが、ゆえに途轍もなく巨大な悔恨と自責の嵐が、シャスターの虚ろな胸腔に吹き荒れた。
それが、ひとつの黒い感情へと変質するのに、時間はかからなかった。
殺意。
殺す。玉座で脚を組み、薄笑いを浮かべるあの男だけは何があろうとも殺す。
たとえ、己の命、そしてダークテリトリーの未来すべてと引き換えにしようとも。
さて、どいつが問題の"閣下"だろう。
ガブリエルは、尽きぬ興趣とともに、眼下にひざまずく十人のリーダーユニットたちを眺めた。
刺客の女は、主人を心の底から愛していた。女の死に際に放射された、天界の甘露にも似た感情をあまさず味わい吸い尽くしたガブリエルは、女の思慕だけではなく、"閣下"が女に抱く愛情の質すらも理解――あくまでパターン・データとしてだが――していた。
だからこそ、このように女の首を見せてやれば、必ず動くという確信があった。刃を向けた反逆ユニットを容赦なく処分し、残りの九ユニットの忠誠ステータスを恐怖によって上昇させる。現実世界でプレイするシミュレーション・ゲームと何ら変わらない。
まったく憐れで、愉しい奴らだ。
あのような本物の魂を備えているくせに知性は制限され、その上殺しても殺しても好きなだけ再生産が可能。いずれアンダーワールドを、メインフレームとライトキューブごと我が物とした暁には、幼い頃から苛まれてきた餓えを、ついに飽くるまで満たせるに違いない。
玉座の肘掛に立てた腕に片頬をあてがい、ガブリエルはリラックスして待った。
ユニットたちとの距離は二十メートル強。どんな武器による攻撃でも、左腰に装備した剣で問題なく迎え撃てる余裕の間合いだ。
もちろん、システム・コールから始まるコマンド攻撃に対処するには不十分である。だが、ガブリエルの不安はログイン前に払拭されていた。
スーパーアカウント・"闇神ベクタ"は、K組織のスタッフがダークテリトリーの強制操作のために設定したものだ。ゆえに、天命と呼ぶHPは膨大、装備する剣は最強、何より――ベクタには、あらゆるコマンドの対象にならないという反則じみた特性があるのだ。
これだけの条件に庇護されたガブリエルは、十ユニットの左端に座した漆黒の鎧の騎士が、ぐうっと背中を丸めたときも、
その全身が、薄い影のようなオーラに包まれたときも、
騎士の右手が稲妻のように走って床に置かれた剣の柄を握り、同時にがばっと顔が跳ね上がって、その剛毅な相貌の中央、鋭いふたつの眦から人のものではない深紅の光が放たれているのを見たときすら――
発生しつつある事象を完全には理解できていなかった。
この世界は、半分はサーバー内で演算されるプログラムだが、もう半分は人の魂と同質のエバネッセント・フォトンで構築されていること。
そして、自分の強襲チームが主電源ラインを切断したときに、全STLに設けられていたセーフティ・リミッターが焼き切れてしまっていること。
それゆえに、黒い騎士が発生させた純粋かつ強烈すぎる"殺意"は、死という概念を彼のライトキューブからメイン・ビジュアライザー、そして量子通信回線を経由させてガブリエルが接続するSTLに注ぎ込み得るのだということを。
シャスターは、血の色に染まった視界の中央に、ただ皇帝の姿だけを捉えた。
生涯最速の動きで右腕が疾り、抜剣した。
鞘から解放されたのは、彼が師から受け継いだ神器・『朧霞(オボロガスミ)』の見慣れた灰色の刀身ではなかった。その銘のとおり、夜霧にも似た濃いかすみが長大な刃を取り囲み、渦を巻いてうねっていた。
その現象のロジックが、長年研究しながらもついに解明できなかった整合騎士の究極奥義・武装完全支配と同じものであるとシャスターには気付くすべもなかったが、それはもうどうでもいいことだった。
「殺ッ!!!」
一瞬の気合とともに、シャスターはすべての怒り、憎しみ、そして哀しみを刀に乗せ、大きく振りかぶった。