暗黒騎士リピア・ザンケールは、騎竜の動きが止まるまえにその背から飛び降りると、発着台から城へと続く空中回廊を全力で走りはじめた。
すぐに息苦しさを感じ、右手で大きな黒鋼の兜を引き剥がす。
ばさっ、と広がった灰青色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、リピアはさらに速度を上げた。重苦しい鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にのたくっている気に食わない男どもに、肌の一片たりとも見せてやる気はない。
湾曲する回廊を三分ほども疾走すると、右手の円柱の隙間から屹立する巨城のすがたが、赤い空を背景にあらわれた。
帝宮オブシディア城は、広大無辺な闇の国でもっとも高い峻峰の頂付近をそのまま彫り抜いて築いてある。
最上階の皇帝居室からは、はるか西の彼方にそびえる果ての山脈と、その山肌に繰りぬかれた大門がかすかに望めるという。
しかし、その伝説を確かめたものは、この数百年ひとりもいない。
闇の国の玉座は、初代帝であり堕天の神でもあるベクタそのひとが、太古の昔に地の底の暗闇に去って以来空位なのだ。最上階の大扉は膨大な天命をもつ大鎖にて封印され、永遠に開くことはない。
リピアは、漆黒の城の突端から視線を引き剥がすと、目前に迫った鉄門を守る衛兵に呼びかけた。
「暗黒騎士十一位ザンケールである! 開門せよ!!」
衛兵は人間ではなくオーガ族だ。頑強ではあるものの多少頭の回転が鈍く、リピアが鋳鉄の柵に達する寸前になってようやく巻き上げ機を回しはじめた。
ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた隙間を、小柄なからだを横にしてすり抜ける。
三ヶ月ぶりの城は、相変わらず冷え冷えとした空気でリピアを迎えた。
コボルドどもが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつない。黒曜石の敷板を具足の底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌もあらわなドレスに身をつつんだ妖艶な女ふたりが、こちらは足音ひとつさせず滑るように歩いてくるのが見えた。
きらびやかに波打つ髪に載る、とがった大きな帽子が、彼女らが暗黒術師であることを教えている。眼をあわせないようにしてすれ違おうとしたとき、片方がきんきん声でわざとらしく言った。
「アァラすごい地響き! オークかトロルでも走ってるのかしら!」
すぐさま、もう一方がケタケタ笑いながら言い返す。
「そんなもんじゃないわぁ、この揺れはジャイアントよぉ」
――刃傷沙汰禁止の城内でなければ舌を切り飛ばしてやるものを。
と思いつつ、リピアは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。
闇の国のヒューマン族の女性は、修練所を卒業したのちはたいていが術師ギルドに入る。ひどく享楽的な組織で、規律のかわりに放埓を学ぶと言われ、出来上がるのはあのような、着飾ることにしか興味のないやつばらばかりだ。
それでいて、術師よりも格の高い騎士に叙任された女にはやたらと対抗心を燃やしてくる。リピアも、修練所同期で仲の悪かった女術師に毒虫の呪いを飛ばされて往生したことがある。飛竜の炎で髪をぜんぶ燃やしてやったら大人しくなったが。
所詮、連中は"先"を見ようとしない馬鹿者どもなのだ。
組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らないこの国には未来がない。
現在でこそ、十侯会議のもとに危うい均衡で内乱が抑えられているが、それも長続きはしない。目前にせまった"人界"、オークやゴブリンたちの言うところの"イウムの国"との戦争で十候のだれかが命を落とせば、均衡はくずれ再び血で血を洗う乱世が出来するだろう。
その未来図をリピアに語ったのは、十候のひとりであり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また愛人でもある男だった。
そしていまリピアは、彼が待ち望んだひとつの情報をその胸のうちに携えているのだ。
となれば、女術師どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。
無人のホールを一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた躯ではあるが、さすがに息が切れ汗が滲んだころ、ようやく目指すフロアにたどり着いた。
闇の国全土を合議によって支配する十候は、五人がヒューマン族、二人がゴブリン族、残りをオーク族、オーガ族、ジャイアント族の長が占めている。百年にも渡る内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、現在ではこの五族のあいだに上下はないという約定が交わされている。
ゆえに、オブシディア城の皇域のすぐ下に、十候それぞれの私室が均等に並んでいる。リピアは円形の廊下を、さすがに少々足音を殺しながら走り、奥まった一室の黒檀の扉をそっと叩いた。
「――入れ」
すぐに押し殺した声でいらえがある。
廊下の左右に目を走らせ、無人であることを確認してから、リピアは素早くドアを開け中に滑り込んだ。
広大だが、装飾は最低限に抑えられた部屋に漂う男っぽい匂いを吸い込みながら、戸口に肩膝を突く。
「暗黒騎士リピア・ザンケール、ただいま帰参仕りました」
「ご苦労。まあ、座れ」
太い声に、高鳴る胸を押さえつけつつ視線を上げる。
丸テーブルを挟んで置かれた巨大なソファの片方に横すわりになり、両腕を枕にして高々を足を組む男こそが、暗黒騎士長、別名暗黒将軍のビクスル・ウル・シャスターその人だった。
ヒューマン族としては図抜けた体躯だ。さすがに横幅は比べられないが、背丈だけならオーガ族にも引けは取らない。
黒々とした髪を短く刈り込み、対照的に口元と顎の美髭は長く豊かだ。ブロンズ色の肌は、簡素な麻のシャツのボタンを弾き飛ばしそうなほどの筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰周りには余計な肉のひとつまみもない。四十を超えたとは思えない完璧な肉体を保つのが、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬であることを知るものは少ない。
久々に目にする愛人の姿に、いますぐその胸に飛び込みたい衝動を抑えながら、リピアは立ち上がりシャスターの向かいのソファに座った。
自分も身体を起こしたシャスターは、卓上の水晶杯のかたほうをリピアに持たせると、年代物らしき火酒の封を指先で切った。
「お前と一緒に飲ろうと思って、昨日宝物庫からくすねておいたんだ」
片目を素早くつぶりながら、薫り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。
「あ……ありがとうございます、閣下」
「二人きりのときはそれはやめろと何度言わせる?」
「しかし……まだ任務中ですから」
やれやれ、と肩をすくめるシャスターと控えめにグラスを打ちあわせ、高価な酒を一息に呷って、リピアをようやく深く息をついた。
「……それで、だ」
自分も杯を干し、おかわりを注ぎながらも表情を改めた騎士長は、わずかに低めた声で聞いた。
「卿が使い魔で知らせてきた"一大事"とは、一体何なんだ?」
「は……」
リピアはつい視線を左右に走らせながら、身体を乗り出した。シャスターは豪放磊落だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえ術師ギルド総長の魔女であろうとも盗み聞きはできないはずだ、とわかっていても、己の携えた情報の巨大さについ囁き声になる。
シャスターの黒い瞳をじっと見つめ、リピアは短く言葉を発した。
「……神聖教会最高司祭アドミニストレータが死にました」
一瞬、さしもの暗黒将軍もカッとその目を見開いた。
静寂を、ふううーっという太いため息が破る。
「……本当か、それは……などと訊くのは野暮だな、卿の情報を疑いはせんが……しかしな……あの不死者が…………」
「は……お気持ちはわかります。私もどうしても信じられず……確認に一週間を掛けましたが、やはり間違いないかと。神聖教会の修道士団員に"聴耳虫"を忍ばせて裏を取りました」
「ほう……無茶をしたな。もし"逆聴き"されたら、今頃卿は八つ裂きだぞ」
「ええ。しかし、私程度の術式を探知できなかったことからも、情報は真実かと思います」
「……うむ……」
二杯目の火酒をちびりと舐め、シャスターは剛毅に整った貌を僅かに俯かせた。
「――いつのことだ、それは。それに、死因は?」
「およそ半年前と……」
「半年。――そなたの仇敵、あの"五十番"が山脈から消えたのもその頃だったか?」
「よしてください」
リピアは眉をしかめて反駁した。
「きゃつには別に負けてはおりません、私はこうして生きていますから。――そうですね、確かに半年前ですね。そして最高司祭の死因ですが……これはおそらく流言でありましょうが、"剣に斃れた"と……」
「剣に。――あの女を斬ったものがいた、と?」
「ありえませぬ」
絶句したシャスターにむけて、リピアは大きくかぶりを振った。
「おそらくは、かの不死者と言えどもついに天命が尽きたのでしょう。しかし神人を名乗った最高司祭の霊性を保つため、そのような空言を流したのではないかと……」
「うむ……ま、そんなところだろうな。しかし……死んだか、アドミニストレータが……」
シャスターは目を閉じ、両腕を組んで、身体をソファに預けた。
そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い呟きとともに瞼を開いた。
「機だ」
リピアは一瞬息を詰め、掠れた声で訊ねた。
「何の、ですか」
答えは即座に返った。
「無論……和平の、だ」
この城で口に出すには危険すぎる単語は、部屋の冷たい空気に即座に溶け、消えた。
リピアは無論のこと、豪胆で鳴るシャスターの頬にすらもわずかな強張りが見てとれた。
「それが可能だと……お考えですか、閣下」
囁くように問うたリピアに対し、シャスターは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
「可能であろうとなかろうと、成さねばならぬのだ、何としても」
ぐっ、と火酒を干し、続ける。
「創世の古より世界を分かち続けてきた"大門"の天命が、ついに尽きようとしていることは最早疑いようもない。闇の五種族の軍勢は、ソルスとテラリアの恩寵豊かな人界への大侵攻のときを目前にして焼けた大釜のごとく沸き返っておる。前回の十候会議では、人界の土地と財宝、そして奴隷をどのように分割するかで大いに紛糾したよ。まったく……度し難い欲深どもだ」
歯に衣着せぬシャスターの物言いに、リピアは首を縮めた。
"禁忌目録"という恐るべき大部の成文法に支配されているという人界とはまったく異なり、闇の国に存在する法はただ一つのみである。すなわち――力で奪え。
その意味では、最高権力の位に智謀と武勇で上りつめ、そして今なお尽きぬ欲望を人界という至高の熟果に向ける九人の諸候たちにくらべれば、シャスターのほうが異端と言うべきなのだろう。
しかし、リピアがこの男にどうしようもなく惹かれるのも、その異質な思考ゆえだ。何と言っても、他の諸侯にかしずく女たちと違って、リピアは無理やりに奪われてきたのではない。シャスターは花束を差し出し、ひざまずき、リピアただ一人を口説いたのだ。
愛人がそのような思考を彷徨わせているとはつゆ知らぬ様子で、シャスターは更に重々しく続けた。
「しかし、連中は人間たちを甘く見すぎている。人間たちを守る剣……"整合騎士団"を」
数度瞬きして、リピアは意識を引き戻した。
「確かに……。奴らは容易ならざる相手です」
「一騎当千さ、文字通り。暗黒騎士団の長い歴史において、整合騎士に殺されたものは数え切れぬが、その逆は一度として無いのだからな。この俺とても、追い詰めたことは幾たびかあるが、ついに止めまでは刺せなかった。それほど奴らの剣技は研ぎ澄まされ、身に帯びた神器は強力無比だ」
「は……。怪しげな術も使いますし……」
「"武装完全支配"か。騎士団の術理部にずいぶんと研究させたが、結局解明には到らなかったな。あの技ひとつに対抗するにも、ゴブリンの兵士が百では足りぬだろう」
「とは言え……我がほうの軍勢は五万を数えます。翻って、整合騎士団は総勢で五十に満たぬはず。さすがに押し切れるのでは……?」
リピアの言葉に、シャスターは美髯の片端を皮肉げに持ち上げた。
「さっき、一騎当千と言ったろう。計算上は相討ちだな」
「まさか……そこまでは」
「まぁ、な。気にくわん戦法だが、戦線を我ら騎士団とオーガ、ジャイアントあたりが支え、後方から暗黒術師どもの遠距離攻撃を浴びせればいずれは整合騎士どもも力尽きるだろう。だが、最後の一騎が墜ちたとき、こちらにどれほどの損害が出ているか想像もつかん。万か……あるいは二万か」
かちん、と硬い音を立てて水晶杯が卓上に置かれる。
酌をしようとするリピアを片手で制し、シャスターは広い背中をソファにうずめた。
「そしてその結果、当然ながら種族のあいだに力の不均衡が生じる。十候会議は意味を失い、五族平等の条約も破棄されるだろう。"鉄血の時代"の再来だ。いや、尚悪いな。今度は人界という、飲み干せぬ蜜の大海が目の前に開かれているのだから。かの地の支配権が定まるまでは、百年では足りるまい……」
それは、常々シャスターが危惧していた最悪の未来図だ。
そして更に悪いのは、シャスター以外の九候は、その未来を最悪と思っていないことだ。
リピアは顔を伏せ、騎士団入団とともに与えられた漆黒の全身鎧の、磨きこまれた艶やかな輝きにじっと見入った。
子供の頃は人一倍小柄で、腕力もなかったリピアは、百年前の"鉄血の時代"ならばとうてい騎士になどなれなかっただろう。食い扶持を減らすために人買いに売られるか、どこぞの路地裏で殺されるかして短い人生を閉じていたはずだ。
しかし、曲がりなりにも平和条約らしきものができたお陰で、奴隷市ではなく修練所に入ることができたし、そこで遅咲きの剣の天稟に恵まれて、ヒューマン族の女としてはほとんど望みうる最高の地位にまで達することができた。
今リピアは、月々の給金のほとんどを投じて、いまだ人買いの横行する僻地から親に捨てられた幼子を集め、修練所に入れる歳になるまで面倒を見る保育所のようなものを運営している。
そのことは、同輩たちはもちろんシャスターにも秘密にしている。自分でも、自分がなぜそんな真似をしているのか説明できないからだ。
ただ――。
この世界、力あるものが全てを奪う"闇の国"はどこかおかしいという感覚は、常にリピアの心の片隅にある。シャスターほど、理念を明確な言葉に変える知恵は自分には無いが、それでも、もっと"あるべき正しい姿"がこの国、いや、人界をも含む世界すべてにあるような気がするのだ。
その、いわば新世界が、シャスターの唱える和平のはるか先に存在するであろうことは、今のリピアにもおぼろげに理解できる。愛する男の力になりたいとも思う。
しかし。
「……しかし、どのようにして他の諸侯を説得するおつもりですか、閣下。それに……そもそも、整合騎士団は和平の交渉を受け入れるでしょうか?」
低い声でリピアは訊ねた。
「……うむ……」
シャスターは目を閉じ、右手で艶やかな髭をしごいた。やがて、苦い響きのある声が、この対話中でもっとも密やかに発せられた。
「整合騎士については……脈有りと見ている。最高司祭が斃れたとあらば、いま総指揮を執っているのはベルクーリの親父だろう。食えん男だが……話はわかる奴だ。問題は、やはり十候会議よな。こちらは……矛盾するようだが、斬らねばならんかもしれん。最低でも三人を」
持ち上がった瞼の奥の、わずかに赤みを帯びた黒い瞳は、名剣の切っ先よりも剣呑な輝きを帯びていた。
はっ、と息を飲み、リピアは身を乗り出した。
「三人。と仰いますと……やはり山ゴブリン族の長、オーク族の長、それに」
「暗黒術師ギルド総長。とくにあの女は、アドミニストレータの長命の秘儀を手に入れ、いずれ皇帝位に上る野望を滾らせておるからな。和平案など決して受け入れるまい」
「し、しかし!」
絞り出すように、リピアは反駁した。
「あまりにも無謀です、閣下! ゴブリン、オークの長は敵ではないでしょうが……暗黒術師だけはどのような卑劣な手妻を用いるか見当もつきませぬ!」
シャスターはしばらく無言だった。
不意に発せられた言葉は、まったく予想もできないものだった。
「なぁ、リピアよ。俺のところに来てもうどれくらいになる?」
「はっ? は……え、ええと……私が二十一のときでしたから……四年ですか」
「もうそんなに経つか。……長い間、曖昧な身の置き方をさせて悪かったな。どうだ……そろそろ、なんだ、その」
視線をぐるりと回し、頭をがりがりと書いてから、筆頭暗黒騎士は少々ぶっきらぼうに言った。
「……正式に、嫁にならんか。こんなオッサンですまないと思うが」
「か……閣下……」
リピアが唖然と目を見開き――。
胸のおくに、じんわりと熱いものがこみ上げて、たまらずに愛する男の胸に飛び込もうとした、その時。
分厚い扉のおくから、引きつったような甲高い大声が広い部屋を貫いた。
「一大事!! 一大事ですぞ!! ああっ、なんたること!! おいでませ諸侯方、はよう、はよう!!」
かすかに聞き覚えのあるその声は、おそらく十候のひとり、商工ギルド頭領のものか。
リピアの記憶にある、恰幅のいい大人物然とした姿にそぐわない裏返った悲鳴は、さらに続いた。
「一大事でござる!! ――こっ、皇域のっ!! 神鉄の縛鎖が!! 啼いてござるううううう!!」
ガブリエル・ミラーは、とてつもなく広大な玉座の間にひざまずき頭を垂れる数十の人工フラクトライトを、いくつかの感慨とともに眺めた。
この"存在"たちは、一片二インチのライトキューブに封じ込められた被造物だ。それでいて、この世界では知性と魂を備えた本物の人間なのだ。もっとも、最前列に並ぶ十人のうち半分は、奇怪な容姿を備えたモンスターだが。
彼らと、その背後に従う騎士や術師たち、そして城の外に駐屯する五万の軍勢が、ガブリエルに与えられた戦力、"ユニット"ということになる。これから、この駒たちを適宜動かし、人界の防衛力を殲滅してアリスを確保せねばならない。
しかし、現実世界のリアルタイム・シミュレーションゲームと異なり、このユニットたちはカーソルとコマンドで好き放題動かせるわけではない。言語と態度で統率し、命令しなくてはならないのだ。
ガブリエルは無言で身体を回し、巨大な玉座のうしろの壁に張られた鏡を見やった。
そこに映っているのは、なんとも悪趣味な格好をした己の姿だった。
顔の造作と、白に近いブロンドの髪色だけは現実のガブリエルのままだ。
しかし、額には黒鉄色の金属に深紅の宝石をはめ込んだ宝冠が飾られ、黒いスエード調の革製のシャツとズボンの上に、これも漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰からはおぼろな燐光を放つ細身の長剣が下げられ、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマント。
視線を右に振ると、玉座から一段下がった位置に、両手を頭の後ろで組んできょろきょろあたりを見回している騎士の姿があった。
宝石のように輝くディープ・パープルのフルプレートアーマーの中身は、ガブリエルと同時にログインした副隊長ヴァサゴだ。勘がつかめるまでは、調子に乗って余計なことを言うなと釘を刺してあるが、スラングの感嘆詞を連発したくてたまらないという様子でカタカタとつま先を鳴らしている。
ため息を飲み込み、ガブリエルは再び自分の、ロック・スターも顔負けの装束に視線を戻した。
機能性一本やりのファティーグに馴染んだ体には、どうにも居心地が悪い。しかし、この異世界"アンダーワールド"では、ガブリエルは陸軍の一中尉ではない。
広大無辺のダークテリトリーを統べる皇帝。
そして――神なのだ。
ガブリエルはまぶたを閉じ、ゆっくりを息を吸い、吐いた。
演ずるべき役柄を、"タフでクールな隊長"から、"無慈悲な暗黒の神"へと切り替えるスイッチが意識のどこかでカチリと鳴った。
ふたたび眼を開け、艶やかなマントをばさりと翻して振り向いたガブリエル――暗黒神ベクタは、人間味のかけらも残されていない声を玉座の間に響かせた。
「顔を上げ、名乗るがいい。――そちからだ」
巨大なリングが輝く中指にさされたのは、最前列左端にうずくまる恰幅のいい中年男だった。
「は、はっ! 商工ギルド頭領を務めさせていただいております、レンギル・ギラ・スコボと申します」
再び平伏する男の隣には、凄まじく巨大な――立ち上がれば十フィートはあるだろう体躯に、黒光りする鎖を十字に巻きつけ、腰を奇怪な獣の全身皮で覆った亜人種が片膝を突いていた。
人間と比べると異様に長い鼻梁と顎をぐいっと持ち上げ、地響きのような低音で巨人が名乗る。
「ジャイアント族の長、シグロシグ」
この怪物を動かしているのが、自分と同質の魂なのだという事実をガブリエルが咀嚼するあいだに、さらに隣のほっそりした影が密やかに告げた。
「……暗殺者ギルド頭首……フ・ザ……」
ジャイアントに比べるとあまりにも華奢で存在感のないフーデッドローブ姿は、年齢も、性別すら定かでない。
顔を見せろと命令するかと一瞬考えたが、どうせこの手のアサッシンには素顔を晒すのを禁じる掟だのなんだのあるのだろう、と捨て置くことにして、ガブリエルは視線を左に移した。
そして、嫌悪に顔をしかめそうになるのを危うくこらえた。
醜悪、という言葉を見事に具現化した存在がそこにどさりと座り込んでいた。足が短すぎて膝をつけないのだ。でっぷりと丸く膨れた腹は脂ぎってテラテラと光り、肩と一体化した首からは獣の頭骨らしきものがじゃらじゃらと下がっている。
さらに、その上に載った頭は七割が豚、三割が人という代物だ。突き出た平らな鼻と、牙ののぞく巨大な口、しかし細長い眼だけが人の知性をぎらぎらと映していて、それが余計におぞましい。
「オーク族の長ぁ、リルピリンだぁ」
甲高い声を聞いて、ガブリエルは、こいつは果たして男なのか女なのかと一瞬考えたが、すぐにその興味を捨てた。オークと言うからには軍団の下層レベルだろう。どうせ端から使い捨てにするユニットだ。
次に一礼したのは、まだ少年と言ってもいい年頃の、赤金色の巻き毛を垂らした若者だった。銅色に日焼けした上半身は革帯だけ、下半身はぴったりした革ズボンとサンダル、そして両手にはごつごつと金属鋲の打たれたグローブを嵌めている。
「闘技士ギルドチャンピオン、イシュカーンです!!」
右のオークと比較すると、やけにきらきらと輝いて見える少年の瞳を見返しながら、闘技士とはなんだろうとガブリエルは内心首を傾げた。兵士とは別物なのか。いちど、各ユニットのレベルとステータスを検分する必要がありそうだ。
少年の軽やかな声が消えるや否や、ぐるるるっ!! という獣の唸りが鳴り響いた。
ぐいっと頭を持ち上げたのは、ジャイアントには劣るが人間ばなれした体幹から、やけに長い両腕を床に突いた亜人種だった。上半身は、ほとんど全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく、地毛らしいとわかったのは、その頭部が完璧に獣のものだったからだ。
犬でも、熊のようでもある。長く突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。べろりと舌の垂れた口から、聞き取りにくい言葉が漏れ出した。
「ぐるる……オーガの……長……フルグル……るるる……」
それが名前なのか、ただの唸り声なのか確信は持てなかったが、ガブリエルは軽く頷いて次を見た。
その途端、耳障りな甲高い声がキイキイと喚きたてた。
「山ゴブリンの長ハガシにござりまする! 陛下、ぜひとも一番槍の栄誉は我が種族の勇士にお与えくださりますよう!!」
声の主は、猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を突き出させた、小さな亜人種だった。
背丈も筋肉も、これまで名乗ったジャイアント、オーク、オーガどころか人間たちにすら及ばない。
ダイブ前に受けたクリッターのレクチャーによれば、このダークテリトリーに存在する法はたったひとつだという。すなわち、"力ある者が支配する"。ならば、このどう見ても非力なゴブリンを、他の種族と対等の位置につかせている力とは何なのか。
どちらにしてもオーク以下の最下級歩兵ユニットであろうが、僅かな興味をもってゴブリンの顔つきを眺めたガブリエルは、ふむ、と内心で小さく頷いた。
ゴブリンの丸く小さな眼には、これまで名乗ったリーダーたちのなかで最大の欲望と不満が渦巻いていたからだ。
山ゴブリンの長の言葉が終わらぬうちに、その隣に座していた、肌の色合いだけが異なる亜人が同じようにきいきいと喚いた。
「とんでもない! こんな連中よりも十倍陛下のお役に立ちまするぞ! 平地ゴブリンの長クビリにござります!」
「なんだとこのナメクジ喰いめが! 湿気た土地のせいで頭がふやけたか!!」
「そっちこそ頭のミソが天日でカラカラ乾いたか!!」
きいきいきいと言い合う二匹の鼻先で――。
ばちっ。ばちばち!!
と七色の火花が弾け、ゴブリンの長たちは悲鳴を上げて飛び退った。
「――皇帝陛下の御前ですわよ、お二方」
艶やかな声とともに、掲げた右手を戻したのは、肌も露わな衣装に豊満な体を包んだ若い女だった。火花は、女の指先がライターのフリントのように擦りあわされると同時に飛び散ったのだ。
ゆるりと立ち上がった女は、プレイメイトも目ではないほどの体と美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。ガブリエルの左下方で、ヴァサゴが低く口笛を鳴らしたのもやむなしという所だろう。
カフェオレ色の肌は、まるでオイルでも刷り込んでいるかのように輝き、胸と腰まわりだけをわずかに黒いレザーが隠している。膝の上まで伸びるブーツは針のようなピンヒール。背中には黒と銀に輝く毛皮のマントを羽織り、その上に、豪奢なプラチナブロンドのストレートヘアが腰下まで流れている。
アイシャドーとルージュは鮮やかな水色、それに負けぬ同色の瞳をあだっぽく細めながら、女は名乗った。
「暗黒術師ギルド総長、ディー・アイ・エルと申します。我が配下の術師三千、そして私の心と体すべては陛下のものですわ」
もしこの視線を向けられたのがアサルトチームのほかの隊員の誰かなら、この瞬間に飛びついていてもおかしくない、と思えるほどの妖艶さだったが、性的衝動にコントロールされることのないガブリエルは鷹揚に頷いただけだった。
ディーと名乗ったウィッチは一瞬小さくまばたきし、更に何か言うかどうか考えたようだったが、もう一礼しただけで再び跪いた。
賢明なことだ、と思いながらガブリエルは視線を動かし、リーダーユニットの十人目、最後のひとりを見た。
そこに片腕片膝をついて頭を垂れているのは、おそらくは人間であろうが驚くべき体格を備えた中年の男だった。
全身を包む漆黒の鎧は、無数の傷を刻まれて鈍く光っている。俯けた顔にも、額と鼻梁に薄い傷痕が走っているのが見て取れる。
顔を上げぬまま発せられた男の声は、見事に錆びたバリトンだった。
「暗黒騎士団長ビクスル・ウル・シャスター。我が剣を捧げる前に……皇帝に尋ねたい」
ぐっ、と上げられた顔は、ガブリエルが軍役において出会った数少ない"本物"の軍人たちと共通する、研ぎ上げられた風貌を持っていた。
ことにその鋭い両眼の底にあるものは――男の右側にならぶ九人にはわずかにも見出せなかった、ある種の覚悟だった。
シャスターという騎士は、射抜くような視線でガブリエルを凝視しながら、いっそう低い声で続けた。
「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは……いずくにありや?」
なるほど――確かにこいつらは、単なるユニットではないのだ。
そのことを常に意識しておくべきだな。と内心で思いつつも、ガブリエルが被った"神の仮面"が口と表情を自動的に動かした。
「血と――恐怖。炎と破壊。死と悲鳴」
ガブリエルの、切削された合金のように滑らかではあるがエッジの立った声が広間に流れたとたん、十人の将軍たちの表情がさっと締まった。
その顔を順番に睥睨しながら、ガブリエルは黒毛皮のガウンを翻し、右腕を高く西の空にかざした。
「余を天界より放逐した神どもの恩寵溢れる蜜の地、その護りたる"大門"は今まさに崩れ落ちんとしている。余は戻ってきた……我が霊威をあまねく地上にしろしめすために! 余が欲するはただ一つ、時を同じくして彼の地に現われたる、天の神の巫女を我が掌中に収めることのみ! それ以外の人間どもは望むままに殺し、奪うがいい! すべての闇の民が待ち望んだ――約束の時だ!!」
しん、と静まり返った空気を――。
甲高い野蛮な雄叫びが破った。
「ギィィィィッ!! 殺ス!! 白いイウム共殺スウウウウウ!!」
短い足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱屈を滾らせたオークの長だった。すぐに、二匹のゴブリンが同時に両腕を突き上げ追随する。
「ホオオオオオウッ!! 戦だ!! 戦だ!!」
「ウラ――――ッ!! 戦だ戦だ――――ッ!!」
鬨の声は、たちまち他の将軍たち、そして彼らの背後の士官らにも伝染した。暗殺ギルドの黒ローブたちは枝のように細い体をゆらゆらと揺らし、暗黒術師ギルドの魔女集団も嬌声とともに色とりどりの火花を散らす。
巨大な広間に満ち満ちた、プリミティヴな大音声のさなかにあって――。
シャスターと言う名の騎士だけが、跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことにガブリエルは気付いた。
それが、軍人らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。
「いやぁ、兄貴にあんな才能があったとはね! 役者になったほうがよかったんじゃねーッスか!?」
ニヤニヤ笑いながらワインの瓶を放ってくるヴァサゴに、ガブリエルはフンと鼻を鳴らして応じた。
「必要に応じたまでだ。お前こそ、それっぽい演説の仕方を覚えておいたほうがいいぞ。あの連中より一段上の立場なんだからな」
受け取った瓶の栓を指先で弾き、ルビー色の液体を大きく呷ってから、果たしてこれは任務中の飲酒に該当するのかどうかとふと考える。
ヴァサゴのほうは、呑まなきゃ損と言わんがばかりに上等なヴィンテージ物をビールのように流し込み、ぐいっと口元を拭って答えた。
「俺は命令だの演説だのよか、先頭で斬り込みてえな。せっかくこんなものすげえVRにダイブしてるんすから……この酒も、ボトルも、本物としか思えねえ」
「その代わり、斬られれば痛いし血も出るぞ。ここはペイン・アブソーバが効かないんだからな」
「それがイイんじゃないっすか」
にやっと笑うヴァサゴに肩をすくめ、ガブリエルはボトルをテーブルに戻すとソファから立ち上がった。
オブシディア城の最上階にある、皇帝の私室だ。ホワイトハウスも問題にならないほどの豪華な内装に加え、巨大な窓からは遥か眼下の夜景が一望できる。
将軍たちは開戦準備を整えるために城を去り、都市から物資を運び出す輜重隊列のかがり火が途切れることなく動いている。補給を担う商工ギルドの頭領には、城に備蓄された食糧や装備をすべて使い尽くせと命じたので、兵たちが飢え、凍えることは当分無いはずだ。
無数の光から視線を外し、ガブリエルは部屋の片隅に歩み寄ると、そこに設置された黒曜石の柱――システム・コンソールに手を触れた。
メニューを手早く操作し、外部オブザーバ呼び出しボタンを押す。時間加速倍率が低下し、1:1に戻るときの奇妙な感覚に続いて、クリッターの早口がウインドウから流れ出した。
「隊長ですか!? まだダイブを見届けてメインコントロールに戻ってきたばっかりですよ!!」
「こっちではもう一日目の夜だ。分かっちゃいたが……奇妙なものだな。とりあえず、今のところは予定どおり進行している。ユニットの準備は一両日中に完了し、順次ヒューマン・キングダムへの進軍を開始する予定だ」
「素晴らしいー。いいですか、"アリス"を確保したら、そこまで運んできて、メニューから外部イジェクション操作を行ってください。そのコンソールはメインコントロールルームと直結ですから、それで"アリス"のライトキューブはこっちのもんです。それとー、これはヴァサゴのバカによく言い聞かせておいて欲しいんですが」
クリッターの声が耳に入ったらしく、背後から短い罵り声が聞こえた。
「管理者権限での操作が出来ない現状では、アカウントデータのリセットも不可能です。つまりー、隊長もヴァサゴも、その世界で"死んだ"ら、二度とそのアカは使えません。そしたら今度こそ一兵卒で出直しっすからねー」
「ああ……分かっている。当分は前線には出ないようにしておこう。JSDFの動きは?」
「今のところは無いです。まだ隊長たちのダイブには気付いていないようですねー」
「よし。それでは通信を切る。次の連絡はアリス確保後と行きたいものだな」
「了解ー、期待しております」
通信ウインドウを閉じると、再び僅かな違和感とともに加速倍率が戻った。
ヴァサゴは尚もぶつぶつ毒づきながら鎧の留め金と格闘していたが、やがてすべての装具を床に放り出し、革のシャツとズボン姿になると立ち上がった。
「えーっと兄貴、ちょいとダウンタウンに遊びに行ったら……ダメっすよね、やっぱり」
「暫くはガマンしろ。目標回収後に一晩時間を取ってやる」
「了ー解。あぁあ……殺しも女もお預けか……。そんじゃま、おとなしく寝ます。そっちの部屋使うっすよ」
こきこき関節を鳴らしながら、ヴァサゴが隣接したベッドルームのひとつに消えると、ガブリエルもふうっと息を吐いて額から宝冠を外した。
マントとガウンもソファに掛け、剣をその上に投げる。
これまでプレイしたVRゲームでは、装備は外すはしからアイテムウインドウへと戻ったものだが、どうやらこの世界にはそのような便利な機能は無いようだった。この調子で一ヶ月も暮らすと部屋が酷い有様になりそうだが、どうせ明後日には城を去り、次に戻ってくるのはログアウトのためだ。
上着のボタンを外しながら、ヴァサゴが消えたのと反対側のドアを開けたガブリエルは、ぴくりと手を止めた。
こちらも恐ろしく広大な寝室の、呆れるほどラグジュアリーなベッドの傍らに――平伏する小さな人影があった。
召使を含む何者も、城の玉座の間より上の階には立ち入るなと命じたはずだった。神の命令に背くものがいるとは、どういうことか。
戻って剣を取るべきかと一瞬考えたが、ガブリエルはあえてそのまま寝室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
「……何用か」
短く誰何する。
返ってきたのは、少しハスキーな女の声だった。
「……今宵の伽を務めさせていただきます」
「ほう」
片眉をぴくりと動かし、ガブリエルは薄暗い寝室をゆっくりとベッドへ歩み寄った。
両手を床についているのは、確かに薄ものをまとった若い女だった。アッシュ・ブルーの髪を高く結い上げ、飾り紐で留めている。仄かに透ける体のラインには、ナイフの一本すら帯びている気配はない。
「誰の命令だ」
艶やかなシルクのシーツに腰を下ろしながらそう尋ねると、女は一瞬間を置いたあと、密やかな声で答えた。
「いえ……。これが役目で御座いますゆえ」
「そうか」
ガブリエルは視線を外し、ベッドの中央にどさりと身を横たえた。
数秒後、女が上体を起こし、音もなく右隣に滑り込んできた。
「失礼いたします……」
囁いた女の顔は、ガブリエルですら一瞬ほう、と思うほどエキゾチックな美貌だった。肌の色は濃いが、頬骨のあたりにどこか北欧的な気高さがある。
薄い衣をはらりとほどき、髪を留める飾り紐を外そうとする女を見上げながら、ガブリエルはある種の感動を覚えていた。
人工フラクトライトとは、ここまでのことをするものか。
これですら、AIとしては不完全なのか。ならば、完成形であるというアリスは、どれほどの高みに達しているのか。
ガブリエルが心を動かしたのは、体を差し出す女の行為に対してではなかった。
そうではなく――。
ばさり、と広がった髪の中から女がつかみ出し、高く振り上げた小さなナイフの存在を予測してのことだった。
充分な余裕を持って女の右腕を捕らえたガブリエルは、もう一方の手も素早く閃かせ、華奢な首筋を掴むとベッドへと引き倒した。
「くっ……!!」
女は小さな犬歯をむき出して、なおもナイフを突き出そうと激しく抗った。その膂力は予想以上のものがあったが、ガブリエルを慌てさせるほどではなかった。女の腕を逆に極め、喉笛に軽く親指を沈ませて、動きを封じる。
激痛に顔をゆがめながらも、女は灰色の瞳から決意の色を薄れさせようとしない。隙あらば即座に攻勢に出るという意思に四肢を強張らせたまま、ようやく動きを止めた女を、ガブリエルは上から眺めた。
すぐに、専業の暗殺者ではなかろうと見当をつける。化粧もぎこちないし、身体が鍛えられすぎている。となれば、翻意を抱いたのはフ・ザと名乗ったアサッシンの元締めではなく、他の九将のいずれか――おそらくは、人間の将軍四名のうちの誰か、ということになる。
わずかに顔を近づけ、ガブリエルは先ほどと同じ質問を発した。
「誰の命令だ」
女はぎりっと歯を食いしばり、その隙間からやはり同じ答えを返した。
「私自身の……意思だ」
「ほう。ならば、お前の上官は誰だ」
「…………いない。流浪者だ」
「フムン」
ガブリエルは一切の感情を交えずに、機械のように考えた。
"K組織"がブレイクスルーを目指した、人工フラクトライトの限界点。それは、上位の存在から与えられた規則、法、命令の一切に逆らえない、ということだ。
無数の法に縛られた人界のフラクトライトたちと比べ、ダークテリトリーの住民たちは遥かに自由に振舞っているように見えるが、しかし本質は変わらない。こちら側のフラクトライトに与えられた法はたった一つなので、見かけ上は自由に感じられるというだけなのだ。
その法とは、"力で奪え"。より高い戦闘力を持つものが、下位のものを支配するという弱肉強食の世界だ。K組織の実験が計画どおり進めば、秩序あふれる人界と混沌に満ちた暗黒界はガブリエルの介入なくとも激突し、その戦争状態のなかでブレイクスルーを目指す予定だったらしい。
しかしいかなる理由か、計画がそこまで進むまえに人界において"アリス"なる限界突破フラクトライトが誕生した。ラビットからの暗号文に記されていたのはそこまでで、暗黒界がわにも同様の存在が発生したという情報はない。
つまり、ナイフひとつで皇帝の暗殺を企てたこの女も、絶対の法に縛られる魂には違いないのだ。そして、将軍の列にいなかったということは、あの十人の誰かに従う立場であるわけで、しかし先ほどのガブリエルの質問に対して主人の名を明かさなかったということは――。
つまりこの女は、皇帝にして神たるガブリエルの命令よりも、己の主人への忠誠を優先したのだ。言い換えれば、皇帝よりも主人のほうが"強い"と思っているのだ。
となれば、作戦をスムーズに遂行せしむる上でも、一度きっちり自らの力を将軍たちに示し、ガブリエルがこの世界で最も力あるものなのだと認識させておく必要がある。
しかしまさか、貴重な将軍ユニットを全部破壊するわけにもいかない。どうしたものか――。
いや。
どちらにせよ、将軍のうち一人は処分せねばならないのだ。この女に暗殺の意思を抱かせた、十人のうち誰か。
それをどうやって炙り出すべきか。もう一度クリッターに連絡し、将軍ユニットを外部から監視させるか。いや、それをするためには時間加速倍率を1倍に戻さねばならないし、戻せば貴重な現実世界での持ち時間を消耗してしまう。
さて――。
そこまでを一瞬で思考したガブリエルは、もう一度女の、錬鉄のような色の瞳を覗き込んだ。
「なぜ余の命を狙った。金を積まれたか? 地位を約束されたか?」
さして考えもなく発した質問だった。しかし、即座に返ってきた答えは予想外のものだった。
「大義のためだ!」
「ほう……?」
「いま戦が始まれば、世界は百年、いや二百年後退してしまう! もう、力なき者が虐げられる時代に戻してはいけないのだ!!」
再び、ガブリエルは僅かな驚きに打たれた。この女は、これで本当にブレイクスルー以前の段階なのか。だとすると、いまの台詞を言わせたのはこの女の主人?
ガブリエルはさらに顔を下ろし、間近から灰色の瞳を凝視した。
決意。忠誠。その奥に隠れるこの感情は…………。
ああ、なるほど。
そういうことなら、この女はもう必要ない。正確には、この女のフラクトライトはもう要らない。
ガブリエルは、己の下した判断に従い、もう一切無駄な言葉を発することなく無造作に女の首を掴んだ右手に力を込めた。
みしっ、と骨と気道が拉げる感覚。女の目が大きく見開かれ、口が無音の悲鳴を発する。
暴れる四肢をがっちり押さえ付け、容赦なく首を締め上げながらも、ガブリエルは先ほどとは別種の驚きを味わっていた。
ここはほんとうに仮想世界なのだろうか!? 右手に伝わる、人体組織が破壊されていく感触も、露わな肌から放散される恐怖と苦痛の匂いも、現実世界以上にクリアにガブリエルの五感を刺激する。
無意識のうちに身体が震え、右手が反射的に収縮した。
ごきり。という鈍い音とともに、名も知らぬ女の頚骨が粉砕された。
そして、ガブリエルは見た。
両眼を強くつぶり、歯を食いしばった女の額から――虹色に輝く光が湧き出してくる!
一体なぜ!? これは、間違いなくあの時――幼いアリシアを絶命させたときに見た、"魂の雲"ではないか!!
瞬間、ガブリエルはここ数年来覚えのない挙に出た。自省を完璧に忘れ、口を大きく開いて、女の魂をあまさず吸い込んだのだ。
恐れ。痛み。苦しさ――の苦味。
悔しさ。悲しさ――の酸味。
それらに続いて、ガブリエルの舌を得も言われぬ天上の蜜が浸した。
閉じたまぶたの裏の暗闇に、朧な光景がちかちかとフラッシュした。
古びた二階屋の前庭に遊ぶ、小さな子供たち。人間も、ゴブリンも、オーガもいる。こちらを見ると、大きな笑顔を満面に浮かべて、両手を広げて一斉に駆けてくる。
その映像が消えると、今度は誰か男の裸の上半身が見えた。鍛え抜かれた広い胸板が、温かく、力強く抱擁する。
『愛して……います……閣下…………』
幽かな声が響き、反響し、遠ざかった。
すべてが消え去ってからも、ガブリエルは女の骸を強く抱きしめたまま膝立ちになり、見開いた両眼を真上に向けたまま身動きしなかった。
素晴らしい――何と言う――。
ガブリエルの意識の大部分は法悦に震えていたが、残された理性のかけらが、今の現象に理屈をつけようとした。
絶命した女のフラクトライトを格納するライトキューブと、ガブリエル自身のフラクトライトは、量子通信回線とSTLを介して有線接続されている。ゆえに、"天命"なるヒットポイントがゼロになり、スウィープされた量子データの断片が、回線を通じて逆流してきたのかもしれない。
しかし、そのような理屈はいまのガブリエルにはどうでもいいことだった。
人生すべてを投じて追い求め、あまたの実験を繰り返しては失望させられてきた"現象"を、ついに再体験したのだ。ガブリエルは、死にゆく女が最後に抱いた感情――"愛"を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、荒涼たる砂漠に落ちた一滴のネクタールにも等しかった。
もっと。
もっとだ。
もっと殺さなければ。
ガブリエルは、鉤爪のように指を曲げた右腕をまっすぐ上に突き出し、無言の絶叫を放った。