第八章
超一級の天才たるを自認する比嘉健にとっても、この二時間に発生したさまざまな事象を事前に予測することは出来なかった。
しかし、現在すぐ目の前に存在する状況は、びっくりの中でも極め付き、ぶったまげるとしか形容できない代物だった。
齢十八、九の華奢な少女が、そのなよやかな片腕で、自分より十五センチは背の高い男の襟首を掴み上げている。趣味の悪いアロハシャツが千切れんばかりに張り詰め、サンダルのかかとが僅かに宙に浮く。
燃え上がらんばかりに爛々と光る両の瞳で、二等陸佐・菊岡誠二郎を睨み付けた女子高校生・結城明日奈は、その可憐な唇から刃にも似た言葉を放った。
「このままキリト君が戻らなかったら、あなたを殺すわ、必ず」
比嘉の位置からは、菊岡の黒縁メガネに照明が反射して表情は見えなかった。しかし、柔道剣道空手合わせて何段だか知れぬ幹部自衛官は、明日奈の言葉に気圧されたかのようにぐびりと喉を動かし、両手をそっと体の左右に挙げた。
「分かっているよ。責任は必ず取る。だからその手を離してくれないか」
張り詰めた沈黙が、オーシャンタートル・メインシャフト最上部、サブコントロールルームに重く満ちた。
コンソールに座る比嘉も、隣に立つ神代凜子も、部屋に残った数名のラーススタッフも、誰一人言葉を発することはできなかった。それほど、この場で最も年若い少女の放つ気迫は圧倒的だった。なるほど、確かにあの娘は本物の戦場からの生還者なのだ、と比嘉は意識の片隅で考えた。
やがて、明日奈は無言で右手を開いた。解放された菊岡は、ほとんど落下するようにどすんと踵をつけ、明日奈のほうはふらふらと数歩後ろによろけた。すぐさま凜子が白衣を翻して飛び出し、その背中を支えた。
女性科学者は、学生だった頃から何ら変わらぬ包容力で明日奈を抱きしめ、小さく囁いた。
「大丈夫よ。絶対に大丈夫。彼は帰ってくるわ、あなたの所に」
その声はかすかに濡れていて、明日奈は一瞬はっと眼を見開き、すぐにくしゃりと表情を歪ませた。
「…………はい、そうですよね。すみません……取り乱して」
目尻に浮かび上がった――襲撃の最中ですら一度も見せなかった涙を、凜子の肩に押し当て、明日奈は震える囁きを返した。
ようやく僅かに弛緩した空気を、再び引き締める金属音が部屋の一方から響いた。スライドドアが手動で開かれ、駆け込んできたのは一等海尉の中西だった。
白いワイシャツに汗染みを作り、ショルダーホルスターから大型の拳銃のグリップを覗かせた中西は、ちらりと明日奈と凛子に視線を投げてから、その右奥の菊岡に向けて短く敬礼した。
「報告します! 一七三○、第一、第二耐圧隔壁の完全閉鎖、および非戦闘員の船首ブロックへの退避を確認しました!」
菊岡は、アロハの襟元を直しながら進み出ると、大きくひとつ頷いた。
「ご苦労。隔壁はどれくらい持ちそうだ?」
「は……連中が持ち込んだ装備によりますが、小火器での破壊は不可能です。カッターでの切断ならば最短でも八時間はかかります。C4やセムテックスにはさすがに耐えられませんが……恐らくそれは無いでしょう。ロウワー・シャフトには……」
「原子炉とプルトニウム電池があるからな」
語尾を引き取り、菊岡はメガネのブリッジを押し上げながらしばし黙考した。
しかしすぐに顔を上げ、腹の前でぐっと右拳を左手に打ちつけると、一際通る声で言った。
「よし、状況を整理する」
薄暗いサブコン中を素早く見回し、続ける。
「中西、人的被害を報告してくれ」
「は。非戦闘員に軽傷三、船首医務室で治療中です。戦闘員、重傷二、軽傷二。同じく治療中ですが生命の危険は無いとのことです。戦闘可能者は、軽傷の二名を含め六名です」
「あれだけ撃ちまくられて、死者が出なかったのは僥倖だな……。次に、船体の被害状況を」
「船底ドックの操作室は穴だらけです。遠隔での開閉は不可能ですね。ドックからメインコントロールへの通路も同様ですが、これはまあ引っかき傷のようなものです。深刻なのは、正電源ラインを切断されたことで……電力自体は副ラインから各所へ安定供給されていますが、一度制御系を再起動しないとスクリューを回せません」
「ヒレを無くした海亀だな。おまけに腹に鮫が食いついたまま、か」
「はい。ロウワー・シャフトの、A1からA12までの区画は完全に占拠されました」
髪を短く刈り込んだ、剛毅そのものといった顔を中西は悔しそうに顰めさせた。対して菊岡は、どこか教師めいた長めの前髪をくしゃりとかき上げ、腰を傍らのコンソールに乗せると下駄をつま先で揺らした。
「アンダーワールドメインフレームから、第一STL室、ライトキューブクラスター、そして主機まで軒並み奴等の手の中か。まあ……幸いなのは、連中の目的が破壊ではない、ってことだ」
「は……そうでしょうか」
「ただ破壊したいなら、何もこんな大層な突入作戦を実行せずとも、巡航ミサイルなり魚雷なり撃ち込めば済むことだ。そこで問題なのは、連中が何者なのか、ってことだが……比嘉君、何か意見はあるかな」
突然話を振られ、比嘉は何度か瞬きしたあと、まだ多少痺れの残る脳味噌を少しばかり動かした。
「あー、そっスね、えー」
意味の無い唸り声を並べながらコンソールに向き直ると、右手でマウスを操作し、正面の大モニタに用意しておいた船内カメラの録画映像を呼び出した。
開いた動画窓は暗く不鮮明だったが、適当なところで一時停止し、補正パネルを操作する。浮き上がったのは、狭い船内通路を前かがみになって走る、複数の黒い人影だった。頭には丸いゴーグルで顔の隠れるヘルメットを被り、手に物々しいライフルを携えている。
「……とまぁ、見てのとおり、アタマにも体にも識別マークの類は一切ありません。装備の色、形も、どっかの正規軍のもんじゃないッスね。持ってる銃はステアーですが、こりゃ大量に出回ってますから……唯一言えるのは、体格の平均値から推測して、恐らくアジア人じゃないな、ってことぐらいスね」
「つまり連中は少なくとも自衛隊員ではないってことだ。そいつは喜ばしいね」
物騒なことをさらりと口にし、菊岡は顎を掻いた。普段から笑ったような眼を、皿に糸のように細めてモニタを見上げる。
「そしてもう一つ、こいつらはプロジェクト・アリシゼーションのことを知っている」
「ま、そうなるッスね。ドックから突入して、迷わずメインコントロールまで登ってきやがりましたからね。目的はズバリ、真正ボトムアップAIの奪取でしょうね」
つまり、深刻なレベルでの情報漏れがあったということだ。しかしそこまでは口に出さず、部屋を見渡して一人ひとりの顔を確認したくなる衝動も抑えつけて、比嘉はあえて楽天的な口調で続けた。
「幸いにも、メインコントロールのロックは間に合いました。物理破壊よりも確実に、メインフレームの直接操作は不可能化してやりましたよ。アンダーワールドに介入することも、"アリス"のフラクトライトを外部に持ち出すことも」
「しかしそれはこちらも同様なわけだろう?」
「同様ッスね。このサブコンからも、管理者権限によるオペレーションはできません。しかし、こうなればもう勝ったも同然でしょう? 護衛のイージス艦からコマンドが突入してくりゃ、あんな連中ジョートーッスよ、ジョートー」
「何が上等なのかわからんが……問題はそこだ」
菊岡は厳しい顔を崩さず、視線を中西に投げた。
「どうだ、"長門"は動くか?」
「は……それですが……」
中西は、ぎりっと音がしそうなほどに顎に力を込め、僅かに顔を伏せた。
「長門への命令は、現状の距離を保って待機、だそうです。どうやら司令部は、我々を人質と見做しているようです」
「んな…………」
比嘉はガクンと顎を開いた。
「……アホな! 乗員は全員隔壁のこっち側に退避してるんスよね!?」
錆びた声で答えたのは菊岡だった。
「つまり、あの黒づくめ連中は、自衛隊の上層部にもチャンネルがあるってことだ。恐らく、長門に突入命令が出るのは、連中が"アリス"のライトキューブを確保した後だろう。無論、時間に上限はあるだろうが……」
「てぇことは……あいつら、ただのテロリストじゃないッスね。やばいな……もし向こうにも専門家がいたら、気付くかもしれないですよ。アリス回収の抜け道に……」
「アンダーワールド内部からのオペレーション……向こうはSTLも押さえてるしな」
比嘉は、菊岡と同時に、サブコントロールの奥の壁に設けられたドアを見やった。
しっかりと閉じられた合金製のドアには、小さなプレートが留められている。書かれている文字は、『第二STL室』。
今は見えないが、ドアの向こうには二機のソウル・トランスレーターが設置されている。その片方には、アリシゼーション計画に当初から大きな役割を果たし、いまやその行方すら左右する、一人の少年が横たわっているはずだ。
菊岡は視線を戻し、腕を組むと、ゆっくりと言葉を発した。
「我々の最後の望みは、またしても彼に託されたというわけだ。比嘉君……どうなんだ、キリト君の状態は」
かすかに鋭い呼吸音が聞こえ、比嘉が顔を上げると、凜子に抱えられながらもまっすぐにこちらを見る明日奈の強い視線と眼が合った。
反射的に顔を伏せ、どう言ったものか迷う。しかしすぐに、掠れてはいるがしっかりとした声が比嘉の耳朶を打った。
「かまいません、言ってください、本当のことを」
深く息をつき、比嘉はちいさく頷いた。もとより、人に気を遣って言を誤魔化すのは決して得意ではない。
「一言で言えば……絶望的、の一歩手前です」
語調を改めてぼそりとそう口にし、比嘉は再びコンソールを操作した。
黒づくめ連中の画像が消え、別の窓が開く。表示されたのは、不規則に明滅する虹色のドットの集合体だ。
「これは、キリト君のフラクトライトの三次元モニタ像です」
部屋中の全員が、声もなくスクリーンを凝視する。
「彼は、先日の事件による心停止の影響で、フラクトライト中の意識野と肉体野の連絡回路に損傷を負っていました。そこで、その部分に新たなチャンネルを開くため、リミッターを解除したSTLによってフラクトライトの賦活を行っていたのです。これ自体はそう複雑な操作ではない……電気的刺激によって、死滅した脳神経細胞に代わる回路の発生を促した、そう理解してもらえばいいです」
一息ついて、傍らからミネラルウォーターのボトルを取り上げて口を湿らせる。
「この治療を行うためには、彼をアンダーワールドにダイブさせることが必須でした。脳の意識野と肉体野が等しく活動しなければ、治療の効果も出ませんから。ゆえに我々は、六本木の支局でダイブして貰ったときと同じく、キリト君の記憶をブロックしてアンダーワールドの辺境へ降ろした。そのはずだったのです。しかし、原因は今もって不明ですが……恐らくは損傷の影響でしょう、記憶はブロックされなかった。キリト君は、現実世界の桐ヶ谷和人君のまま、アンダーワールドに放り出されてしまった。そうとわかったのはついさっき、内部の彼から連絡があったその時なんですが……」
「ちょ……ちょっと待って」
声をはさんだのは神代凜子だった。
「じゃあ、彼は、STRA環境化のアンダーワールドで、桐ヶ谷君としてあの日数を過ごしていたというの? 内部では……何ヶ月……」
「……二年半です」
ぼそりと比嘉は答えた。
「それだけの時間、キリト君はあの世界で人工フラクトライト達と触れ合った。恐らくは、フラクトライト達が、いずれ現実験の終了とともにすべて消去される存在だと知りながら……。だから彼は、アンダーワールドの中心、かつて最初の村に設置されていた現実世界への連絡装置を目指したのでしょう。菊さん、あなたに全フラクトライトの保全を要請するためにね」
ちらりと視線を横に投げたが、菊岡は眼鏡にスクリーンの光を反射させて桐ヶ谷和人のフラクトライトに見入ったままだった。
「……容易なことではなかったはずです。連絡装置はいまや、"神聖教会"と呼ばれる統治組織の本拠地に埋もれていましたから。組織に属するフラクトライト達のシステムアクセス権限は膨大なもので、とうてい一般民に設定されたキリト君が対抗できるレベルじゃなかった。本来なら、組織に楯突いたその瞬間に彼は"死亡"し、アンダーワールドからログアウトしていたはず……しかし、彼はたどり着いた。襲撃中のことで、ログを詳細に確認はできませんでしたが、どうやら彼には何人かの協力者、無論人工フラクトライトのですが……つまり仲間がいたようです。神聖教会での戦いでその仲間はほとんど死亡し、その結果、こちらへの回線を開くことに成功した時彼は激しく自分を責めていた。言い換えれば、自分で自分のフラクトライトを攻撃していたのです。まさにその時、黒づくめ共が電源ラインを切断し、発生したサージスパイクのせいでSTLから限界を超える強度の量子ビームが放たれた。それは、キリト君の自己破壊衝動を現実的なものに強化してしまい……結果、彼の自我を吹き飛ばしてしまった……」
比嘉が口を閉じると、重苦しい沈黙がサブコントロールに降りた。
かすれた声を発したのは、明日奈の両肩を抱いたままの凛子だった。
「自我を……吹き飛ばす? それはどういう意味なの?」
「……これを見てください」
比嘉はコンソールを操作し、桐ヶ谷和人のフラクトライト活性を示すリアルタイム画像を拡大した。
不定形に揺らめく虹色の雲、その中心部ちかくに、暗黒星雲のように虚無的な闇が小さくわだかまっている。
「ライトキューブ中の人工フラクトライトと違い、人間の生体フラクトライトの構造はまだ完全解析には程遠いですが、それでも大まかなマッピングは終了しています。この黒い穴、ここに本来あるべきものは、簡単に言えば"主体"、セルフ・イメージなのです」
「主体……自ら規定した自己像、ってこと?」
「そうです。人間は、あらゆる選択を、"自分はこの状況でそれを行うか否か"というY/N回路を経由して決定します。たとえば凛子先輩は、牛丼の星野屋で二杯目を頼んだことあります?」
「……ないわよ」
「もうちょっと食べたい、と内心で思っても?」
「ええ」
「つまりそれが凜子先輩のセルフ・イメージ回路による処理結果というわけです。同様に、あらゆるアクションはその回路を通過しないと実際の行動にならないのです。キリト君の場合、心、魂そのものは無傷です。しかし、主体が破壊されてしまったために、外部からの入力を処理することも、自発的な行動を出力することもできない。今の彼にできるのは……恐らく、染み付いた記憶による反射的アクションのみでしょう。食べたり、眠ったりといった程度の」
凜子は唇を噛み、しばし考える様子だったが、やがて囁くような声で言った。
「なら……今、彼の意識はどういう状況に置かれているの?」
「恐ろしいことですが……」
比嘉は一瞬言葉を切り、視線を伏せて続けた。
「自分が誰かも、何をすべきなのかも分からず、ただいくつかの経験的欲求にのみ操られる……そんな状態だと……」
再び、静寂のみが場を支配した。
「……Fu……」
続くべき音節を、コンバットブーツのビブラム底が鋼板を蹴り飛ばした大音響がかき消した。
アサルト・チーム副隊長、ヴァサゴ・カザルスは壁を二、三箇所凹ませただけでは満足しなかったようで、なぜか床に落ちていたキャンディーらしきパッケージを勢いよく踏みしだいて破裂させてから、ようやく罵声の奔流を止めた。
ヒスパニック系の血を示してゆるく波打つ長い黒髪を両手でかき上げ、ずかずかとメイン・コンソールの前まで移動すると、そこに立っていた男のボディアーマーの襟首を片手で吊り上げる。
「てめぇ、もう一度言ってみろ」
ムチのようにしなやかな細身のヴァサゴの腕にぶら下げられたのは、輪をかけてガリガリに痩せた若者だった。金髪を三ミリ程度の丸刈りにして、肌は病的なまでに白い。こけた頬の上に、冗談みたいにごつい金属フレームのメガネをかけたその男はクリッターという名の、チームで唯一の非戦闘員だ。
もとは逮捕歴もあるネットワーク犯罪者だという触れ込みで、名前も本名ではなくハンドルネームだろう。しかしそれはヴァサゴも同様だ。よもや地獄の王子の名を息子につける親はいるまい。こっちのほうは、麻薬取引に絡んで地元に居られなくなったのを、今の雇い主に拾われたらしい。
――と、言うよりも。
オーシャン・タートル急襲チームの隊員十二名は、リーダーであるガブリエル・ミラーを除く全員が、後ろ暗い過去を持ち、新たな身元保証と引き換えに飼われている"犬"なのだ。飼い主である民間警備会社そのものもまた、大企業の暗黒面に繋がって巨額の利益を上げる地獄の番犬(サーベラス)にも等しい存在である。
そんな犬の一匹たるクリッターは、抜き身のナイフのようなヴァサゴに締め上げられてもさすがに怯える様子もなく、音を立ててガムを噛みながらキンキン響く声で言い返した。
「何度でも言ってやるよー。いいかー、このコンソールには糞みてえなロックが糞みてえにべっとりくっついてて、持ち込んだラップトップマシンじゃーあんたが睾丸癌でくたばるまで計算しても解除できねーっつったんだよ」
「そこじゃねえよこの目ン玉野郎! てめぇ、ロックされたのは俺らがノロクサしてたからだっつたろうが!!」
浅黒い肌を紅潮させてヴァサゴは喚いた。道を間違えなければ俳優でも食えただろうと思えるくらいの野性味溢れるハンサムだが、それだけにキレたときの剣呑さには凄みがある。
「おいおい、事実を言っただけだぜー?」
「そう思うンならてめぇも一発くらい撃ちゃよかったじゃねえかよ!!」
口汚く罵りあう二人を、残る隊員九名はまったく止める様子もなくニヤニヤ顔で眺めている。ガブリエルは、大きくひとつ息を吐き出すと、ぱちんと手を叩いて口げんかに割って入った。
「オーケー、そこまでだ二人とも。責任の所在を追及している時間はないぞ。今はこれからの行動を考えなければならない」
すると、くるりと首を回したヴァサゴが、子供のように口を突き出して言った。
「でもよぉ兄貴(ブロ)、こいつだきゃァ一度シメないと許せないっすよ」
その"兄貴"はやめろ、といいかけた言葉を飲み込む。初顔合わせの戦闘訓練で、ガブリエルがヴァサゴ以下十人の精鋭チームを現実・仮想双方のフィールドであっさり全滅させてから、この若者は『兄貴には一生ついていくっすよ』と言うのをやめようとしない。
無論、ガブリエルには、妙なことを言う奴だという以上の感想はない。あらゆる人間を"光の雲=魂の容れ物"としか認識できないガブリエルにとって、ヴァサゴが向けてくる尊敬や親愛らしき感情は、もっとも理解の難しい代物だからだ。
いずれ、魂の抽出・保存技術を自分だけのものにしたその時には、あらゆる人間の感情を、光の雲の色合いや形といった情報によって整然と分類できるようになるだろう。そう考えながら、ガブリエルはゆっくりした口調で二人に言い含めた。
「いいかヴァサゴ、クリッター。俺はここまで、チームの働きに満足している。こっちの被害はゲイリーがかすり傷を負っただけで、目的であるメインシャフトの占拠を達成できたんだからな」
それを聞いたヴァサゴは、しぶしぶといった様子でクリッターのボディアーマーを離し、両手を腰に当てた。
「でもよぉ兄貴、いくらシャフトを占拠しても、その……なんだっけ、何たらライトって奴を持ち出せなきゃ意味ねーんだろ?」
「だから、その方法をこれから考えようと言ってるのさ」
「ったって、JSDFの奴らもいつまでも引き篭もっちゃいねぇぜ? このドン亀に貼り付いてるイージス艦が突入してくりゃ、さすがに俺ら十一人とオマケ一人じゃ分が悪りぃ」
ガブリエルが副隊長に抜擢しただけあって、ヴァサゴは単なる野良犬にはない状況把握力を持っている。少し考えてから、ガブリエルは軽く肩をすくめるジェスチャーをしてみせた。
「……俺も確信していたわけじゃないから今まで言わなかったが、どうやら俺たちのクライアントとJSDFの上のほうに、ある種の取引があったらしい。イージスは、作戦開始から二十四時間は動かないそうだ」
「……ほぉー」
細く口笛を吹いたのはクリッターだった。ゴーグルのような眼鏡の奥で、薄いグレーの瞳が細められる。
「てことは、このオペレーションはただの……――イヤイヤ、これは言わないほうが賢明ってやつかなー」
「そう思うぞ、俺も」
薄く笑みを浮かべて頷いておいて、ガブリエルは改めて視線をチーム全員にめぐらせた。
「よし、それではまず状況を確認するぞ。ブリッグ、耐圧隔壁のほうはどうだ?」
呼びかけられた巨漢の隊員が、のっそり進み出て答えた。
「よろしくないですな。ありゃあいいカネだ、最新のコンポジット・マテリアルでしょう。持ち込んだポータブルカッターじゃ、二十四時間ではとても無理ですな」
「ジャパンマネー健在なり、か。ハンス、ライトキューブ・クラスターのほうはどうだった」
今度は、口髭を綺麗に整えた痩躯の隊員が、洒脱な仕草で両手を広げた。
「驚きだわ(アストニッシュ)。この部屋の上にどデカいチャンバーがあって、そこにキラキラすんごく綺麗なこれっくらいの……」
右手の親指を小指で二インチほどの幅を作ってみせる。
「キューブがびっしり積み上がってるの。アレを全部潜水艇に乗せるのはぜぇーったいムリね」
「フムン」
ガブリエルは腕を組むと、一瞬考えてから言葉を続けた。
「……我々に与えられたミッションは、その数十万個に及ぶキューブのなかから、唯ひとつを見つけ出してインタフェースとともに持ち帰ることだ。キューブのID情報はすでに得ている。つまり、メインコンソールさえ操作できれば、そのキューブを検索しクラスターからイジェクトするのは容易かったはずだ。今頃はビール片手に帰りの船旅だったな」
「ったくよぉ、このヒョロメガネが、日ごろは『僕の罪状はペンタゴンの中央サーバーに侵入したことだ』なんつう大法螺吹いてるくせに、ちんけなロックひとつ解除できねぇからよぉ」
「おっとぉー、こりゃびっくりだー。いつも『俺を追ってるのはコロンビアの麻薬王だ』なんつってる奴に言われちゃったなぁ僕ー」
口喧嘩を再燃させようとするヴァサゴとクリッターをひと睨みしておいて、ガブリエルは語気を強めた。
「ここまできて手ぶらで帰ることはできない! お前達は、ステイツに帰って『JSDFのお嬢さんたちにしてやられました』と言いたいか!?」
「ノー!!」
全員が一斉に叫ぶ。
「お前達は、所詮は正規軍の新米訓練生にも勝てない素人どもか!?」
「ノー!!!」
「なら考えろ!! 首に乗っている丸い入れ物に、オートミールではない物が詰まっているところを証明しろ!!」
"タフな指揮官"の役を完璧に演じて鋭く叫びながら、ガブリエルは自分でも密やかな思考を巡らせていた。
魂の探求者たるガブリエルにとっても、人類が初めて創りだした真の魂である"アリス"の入手は、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの独占とあわせて最大の目的だ。その二つを入手したあとは、突入潜水艇にひそかに運び込んだ神経ガスでチームの全員を処分し、第三国まで自走航行して行方をくらませる計画をすでに立てている。
しかしその段階に進むまでは、このオペレーションはガブリエルの目的と完全に合致している。管理者権限でのメインフレーム操作を封じられたいま、なんとかしてそれ以外の手段で"アリス"の発見と抽出を達成しなくてはならないのだ。
"アリス"――"A.L.I.C.E."。
そのコードネームを、ガブリエルの一時的雇用主であるNSAに伝えたのは、自衛隊(JSDF)"K組織"内の情報提供者(ラビット)だ。
ラビットのパーソナルデータまではガブリエルは知らない。しかし、情報を流した動機が、強奪計画の首謀者・ハイテク軍需企業グロージェンMEに約束された多額の報酬であることを思えば、この状況で自らを危険にさらしてまで動こうとはしないだろう。
つまり、耐圧隔壁のむこうにいるラビットの協力はもう期待できない。今ある情報と装備だけで、しかも短時間のうちに、目的を達せねばならない。
時間――すべては時間だ。
生来、焦りという感情を知らぬガブリエルではあるが、二十三時間後に近づきつつあるタイムリミットの存在にはなにがしかの圧迫感を覚えずにはいられない。
NSAのアルトマンらは、オペレーションの開始直前にガブリエルに言った。
K組織の活動は、日本の既存の軍需利権を大きく揺さぶるものだ。ゆえに、自衛隊上層部には、K組織の存在を快く思わない――それどころか、積極的に妨害しようという勢力も少なからず存在する。
K組織の基盤となっているのは陸自・空自の若手将校であり、海自とのパイプは狭い。NSAはそこを狙い、在日本CIAを通して海自のとある将官と密約を取り付けた。K組織の本拠・オーシャンタートルを護衛するイージス艦"長門"は、襲撃開始から二十四時間は"人質の安全を優先する"という名目で動かない、という。
しかし待機時間が終了したあとは、のちのちのマスコミ対策のためにもイージスは動かざるを得ない。その場合、現場の突入要員たちに"手心を加えろ"などという命令ができるはずもない。結果、圧倒的人数・装備差によってガブリエルたち襲撃チームはほぼ殲滅されるだろう。
――というアルトマンの説明に、ガブリエルは肩をすくめて諒解としておいた。
仮にその最悪の結末となった場合でも、自分だけは潜水艇で脱出する算段ではある。しかしその傍らに、目的のライトキューブとSTLマシンが載っていなければ、人の魂の探求という偉大なる旅は取り返しのつかない後退を強いられる。
ガブリエルは、この強襲が完了した以降の長い人生についても、すでに計画を立て終えていた。
STLテクノロジーとともに東南アジアの第三国に脱出したあとは、自分の容姿や指紋もふくめてあらゆる痕跡を消す。その上でヨーロッパ――南仏かスペインが望ましい――へと渡る。
運用によって膨大な額になっている隠し資産を惜しみなく使い、広く快適な屋敷を手に入れる。その奥まった一室にSTLを設置し、さまざまなヴァリエーションの仮想世界を構築する。
その世界の住人は、当初は"アリス"とガブリエルだけとなろう。しかしそれではあまりに寂しい。魂の研究という目的のためにも、素材は増やさねばならない。
もちろん、地元で狩りをするような愚は冒さない。最低でも国境線をひとつは越えたさきで、若く活力にあふれた魂の持ち主を見つけ、拉致し、STLに掛けて魂を引き抜いたあと不要な殻は処分する。
北東ヨーロッパや中東、アフリカだけでも多くの出会いはあるだろう。しかしそれだけでは寂しい。ほとぼりが冷めたあとは、母国アフリカ――そしてもちろん、VR技術発祥の地である日本にも遠征したい。
日本のVRゲーム・プレイヤーたちの輝くようなヴァイタリティは、昔からガブリエルを深く魅了してきた。無論全員がそうではないが、一部のプレイヤーたちは、まるでそこが現実以上の現実であるかのように振る舞い、リアルな感情を惜しみなく振り撒くのだ。
それはおそらく、かつてあの国に二年間だけ存在したという"リアル・バーチャル・ワールド"というべきものと無関係ではあるまい。開発者によりハッキングされ、真の生と死が付与されたデスゲームを体験した若者たち。かれら"生還者"たちの魂は、それ以外の者にはない仮想世界適合性をそなえている。
可能ならば、一人でも多く彼らを――しかも"攻略組"と呼ばれたという子供たちの魂を手に入れたい。それらを封入したライトキューブは、どんな宝石よりも貴重な輝きを放とう。
全世界のどんな権力者、大富豪が幾ら札束を積もうとも決して手に入れることのできない究極の輝石。それを屋敷の秘密の部屋にたくさん、たくさん並べ、毎日好みの相手を好みの世界にロードして、いかようにも望むままに扱えるのだ。
素晴らしいのは、人間から抜き出しライトキューブに封じた魂は、コピーもセーブも自由自在だということだ。壊れたもの、歪んだものは端から消去し、長い時間をかけて、ガブリエルの好みのかたちへと造り上げられるのだ。まるで原石に、最上の輝きを放つカットを施すかのように。
その段階に至ってはじめて、ガブリエルの長い旅はあの原点と同じレヴェルの至福と歓喜へと還元されるだろう。
幼いころ、森の大きな樹の下で、アリシア・クリンガーマンの魂の美しい輝きを見たあのときへと。
一瞬の想念ではあったが、ガブリエルは瞼を閉じ、かすかに背中を震わせた。
次に目を開けたときには、もう氷のような思考力が戻っていた。
各国の、そして日本の若者たちの魂が、王冠の周囲を取り巻く色とりどりのルビーやサファイアだとすれば、中央に嵌まるべき巨大なダイヤモンドはやはり"アリス"だ。一切の穢れなき究極の魂であるアリスこそ、自分の永遠の伴侶にふさわしい。となれば、何としても彼女のライトキューブを発見、入手せねばならない。
しかし、クラスターに積み上げられた十万以上のキューブは、見た目にはまったく同じものだ。物理的な作業で判別するのは不可能だ。
となれば、やはり情報的オペレーションに頼るしかない。とは言えメインコンソールのロックは一流の電子犯罪者であるクリッターにも手が出せないものらしい。
ガブリエルはブーツを鳴らして移動し、キーボードに突っ伏すようにして両手指を高速運動させているクリッターの背後に立った。
「どうだ」
返事は、両掌を上にして高く持ち上げる仕草だった。
「管理モードへのログインは絶望的ー。できるのは、上のクラスターに収まってる魂ちゃんたちがユカイに暮らすおとぎの国を、指をくわえて覗き見することくれーだなー」
クリッターが指を動かすと、正面モニタのOS画面にひとつ窓が開き、奇妙な光景が表示された。
とても、"おとぎの国"という印象ではない。空は不気味なクリムゾンに染まり、地面は炭ガラのように黒い。
革を張り合わせたとおぼしき、尖ったテントが画面中央にいくつか建っている。そのかたわらに、ずんぐりした体格と禿げ上がった頭を持った奇妙な生き物が十匹ほど集まり、何か騒いでいるようだ。
おおまかには人型だがどう見ても人ではない。ひどい猫背で、腕が地面に擦りそうなほど長く、対照的に折れ曲がった脚は短い。
「ゴブリン?」
ガブリエルが呟くと、クリッターは軽く口笛を吹き、嬉しそうな声を出した。
「オッ、詳しいじゃないの隊長ー。そーだなー、オークやオーガーって感じじゃないから、こりゃゴブリンだろうなー」
「でも、それにしちゃちょっとデッケーぜ。こりゃホブだな、ホブゴブ」
隣にやってきたヴァサゴが、両手を腰に当てて意見を加えた。
なるほど、いくら武器の扱いに精通していようとも、やはり兵士ではなく民間企業の飼い犬なのだな、とガブリエルは思った。もともとの所属である特殊部隊"ヴァリアンス"には、ガブリエルのほかにはVRMMOゲームの知識がある者などひとりもいなかったのだ。
しかし、このチームのメンバーにはその手のゲーム経験がある者が多い。あるいは仮想世界内での作戦行動もあり得るということでピックアップされた人員なのだから、当然と言えば言えるのかもしれないが。
ガブリエルたちが見守る先で、十匹ほどの"ホブゴブリン"の騒ぎはいよいよ過熱していくようだった。ついに二匹が互いの胸倉をつかみ上げ、取っ組み合いの大喧嘩を始めると、それを取り囲む奴らも両手を振り上げてはやし立てる。
「……クリッター」
何か、アイデアのおおもとが形になりかけるのを感じながら、ガブリエルはシートに座る坊主頭に向かって声を掛けた。
「へい?」
「こいつら……この怪物どもは、いわゆるMobAIだのNPCとは違うのか?」
「あーっとぉー、んー、どうやらそうだナー。こいつらはある意味マジモンの"人間"ー。上のライトキューブ・クラスターにロードされてる人造魂……フラクトライトの一部ってわけだなー」
「なに(ワッ)!? マジかよ(リアリー)!? なんてこった(オーマイ・ゴッ)!!」
途端、ヴァサゴが素っ頓狂な叫びとともに身を乗り出した。
「このホブどもが人間!? 俺らと同じレベルの魂を持ってるだって!? フリスコのバァちゃんが聞いたらその場のおっ死んじまわぁ!!」
ぺしぺしとクリッターの坊主頭を叩きながら、更に喚きたてる。
「日本人てのはクリスチャンでブッディストでゼンマスターなんだろう!? よくまあこんな研究ができたモンだな!! あれかよ、上のキラキラに収まってんのはみんなこういうゴブだのオークなのか!? 俺らのアリスちゃんもか!?」
「なワケ無ぇー」
迷惑そうにヴァサゴの手を払いながら、クリッターが訂正した。
「いいかー、ここの連中が作ったVR、アンダーワールドって奴は二つのエリアに分かれてんだよー。真ん中に"ヒューマン・キングダム"があってそこではフツーの人間が暮らしてる。んで、外側に"ダーク・テリトリー"があって、こいつら怪物がうじゃうじゃいやがるってわけだー。アリスが居るのは当然ヒューマン・キングダムのどっかだなー。それを見つける手をいま考えてんだぁー」
「んなの簡単じゃねえか。人間ってからには言葉通じんだろ? ならそのヒューマンキングダムとやらにダイブして、そのへんの連中に、アリスってコ知らねえ? って訊けばいいだろ」
「うわっアホだ。アホがいるぞー」
「んだとてめえ!!」
「あのなー、キングダムはてめーがのたくってたフリスコと同じくらいでっけーんだ。そこに人間が十万からいるんだぞー。それを一人二人でどうやって調べ上げる気だっつうのー」
と、うんざりした口調で発せられた自分の言葉に打たれた、とでもいうかのように――。
クリッターが、がばっと猫背を起こした。坊主頭ががつっとヴァサゴの顎に命中し、ラテン系の喧嘩小僧がまたしても悪態を喚き散らすが、耳も貸さずに大声で叫ぶ。
「待て。待て待て待て待てー。一人二人……じゃ無ぇーぞ」
それを聞いた途端、ガブリエルの中にあった曖昧なアイデアも、さっと大まかな形へと整えられる。
「……そうか。アンダーワールドへのログイン用に用意されているアカウント……その全てが、レベル1の一般市民ということは考えにくい。そうだなクリッター」
「イエス。イエース、ボス!!」
だかだかだかっ!
とキーボードが打楽器のように唸り、大モニターにたちまち幾つものリストがスクロール表示される。
「人間のオペレータがログインして内部を観察、あるいは操作するためのアカウントなら……あらゆる階級の身分が用意されてるはずだぁー。軍隊の士官……いや将軍……。いやいや、貴族、皇族……ことによると皇帝そのものだって……」
「おぉ。おー!! そいつぁイカシてるな!!」
くっきりと割れた顎をこすりながら、ヴァサゴが叫んだ。
「つまり、ジェネラルだのアドミラルだの国防長官だののご身分でアンダーワールドにログインしてよ、好き放題命令すりゃあいいってことか! "全軍整列! 回れ右! アリスを探して連れて来い!!"」
「……なぁーんか、アンタに言われるとせっかくのアイデアがくだらねーものに思えてくるよなぁー」
ぶつぶつ文句を言いながらも、クリッターは物凄いスピードでコンソールを操作し続けた。
しかし。
ほんの数秒後、この男にしては珍しい罵り言葉とともにリストアップが中止された。
「クソッ、だめかぁー。ワールド直接操作だけじゃなく、ハイレヴェル・アカウントでのログインにもがっちりパスがかかってやがる。残念ですが、ボス、ヒューマン・キングダムへのダイブは一般市民アカウントでしかできねぇみたいだー」
「……フム」
クリッターとヴァサゴの顔には明確な落胆の色が浮かんでいるが、ガブリエルは表情筋ひとつ動かさず、軽く首を傾けただけだった。
残された時間的猶予は、決して多いとは言えない。
しかし、それはあくまでこの現実世界において設定されたリミットでしかない。スクリーンの中に広がる異世界"アンダー・ワールド"では、現実比1000倍という凄まじい比率で圧縮された時間が流れているのだ。
つまり言い方を変えれば、残された猶予二十三時間は、アンダーワールドでは実に二年半以上もの膨大な年月に相当することになる。
それだけの時間があれば、一般民としてログインし、求める"アリス"を探し出して確保したうえで、世界内部のコンソールから現実側へとイジェクトさせることもあながち不可能ではないかもしれない。
しかし――いかにも冗長な話であるのも確かだ。
そんなことをするくらいなら、むしろ、ヒューマン・キングダムの"外側"からアプローチしたほうが速いのではないか。
「クリッター。ハイレヴェルのアカウントは、目標エリア外……"ダーク・テリトリー"には用意されていないのか?」
「……外? しかし、アリスがそっちに居るってー可能性は限りなく低いのでは?」
疑問を口にしながらも、クリッターの指が軽やかに閃く。
開きなおされるウインドウ群を見上げながら、ガブリエルは答えた。
「ま、そうだろうな。しかし、エリア境界は完全不可侵というわけではなかろう? アカウントに与えられた権限によっては、境界を超える手段があるかもしれない」
「オーッ、さっすがは兄貴! 考えることが違うな! つまりアレだろ……人間の将軍じゃなくて、モンスターどもの大将になって攻めこもうってんだろ!? そっちのほうが燃えるってもんだ!!」
ぴゅう、と口笛を鳴らして喚くヴァサゴに、ほとほとうんざりという口調でクリッターが冷や水を浴びせた。
「燃えるのは勝手だけどなー、ログインするのがおめーなら、向こうじゃクサくてデカい怪物になるんだからな……っと、おっ、あった、ありましたよボス」
たぁん、とキーが弾かれる音とともに表示されたウインドウは二つ。
「えー、人間側と違って、スーパーアカウントはたった二個ですが……やった、パスはかかってませんよ! なになに……まず一つは、"暗黒騎士(ダークナイト)"ってー身分ですな。権限レヴェルは……70! こりゃ高いですよ!」
「おお、いいねいいね! そいつはオレがもらうぜ!!」
騒ぐヴァサゴを無視して、クリッターはもう片方のウインドウをアクティブにした。
「で……もう一つは、と。――なんだこりゃ? 身分が空欄だ……レヴェル表示もないぞ。設定されてるのは名前だけです。こいつは……何て読むんだ? ……"ベクタ"?」
サブコントロールを包んだ重苦しい沈黙を、比嘉は遠慮がちに破った。
「ええ……と、ですね。彼の肉体……というか、現実世界での桐ヶ谷君の置かれた状況は、今説明したとおり……楽観を許さないものです」
神代凜子に肩を抱かれた結城明日奈が、びくりとその体を震わせるのを見て、慌てて言い添える。
「で、でも、僅かながら希望もあります!」
「……と言うと?」
鋭い、しかしどこか縋るような響きを帯びた声で凛子が問う。
「アンダーワールドにおけるキリト君は、まだログインを継続している」
比嘉は、メインコントロールルームに比べると随分と小さくなってしまったモニタを見上げた。マウスを動かし数回クリックすると表示が切り替わり、人界とそれを取り囲むダークテリトリーで構成されるアンダーワールドの俯瞰図が出現する。
「つまり、自我が損傷したとは言え、彼のフラクトライトそのものはまだ活動し、様々な刺激を受け取っているわけです。事ここに到ればもう、アンダーワールドにおいて、ある種の……奇跡的癒しが彼に訪れることを祈るしかない……。自分自身を憎み、責めるあまり、自らの魂を損なってしまった彼を、何者かが癒し、赦しを与えてくれることを……」
自分の言葉がとうてい科学的とは言えないものであることを比嘉は自覚していた。
しかしそれはもう、偽らざる本心そのものだった。
比嘉は、他のラース技術者らと力と知恵をあわせ、ナーヴギア、メディキュボイドと続いた脳インターフェースマシンの最終形・ソウル・トランスレーターを生み出した。しかしそのマシンによって見出された人の意識体・フラクトライトに関しては、まだ分からないことのほうが圧倒的に大きい。
フラクトライトは物理的な現象なのか?
それとも――唯物論を超えた観念なのか?
もし後者であるならば。
傷つき、疲れ果てた桐ヶ谷和人の魂を、何か、科学を超えた力が癒すということもあり得るのかもしれない。
たとえば、誰かの愛が。
「……わたし、行きます」
まるで、比嘉の思考と同調したかのように。
小さな、しかし確とした言葉がサブコントロールに響いた。
部屋中の人間が、はっとして声の主――この場における最年少の少女を見つめた。結城明日奈は、肩を抱く凛子の手をそっと外し、こくりと頷きながらもう一度言った。
「わたし、アンダーワールドに行きます。向こうで、キリト君に会って、言ってあげたい。がんばったね、って。悲しいこと、辛いこと……いっぱいあっただろうけど、きみは出来るかぎりのことをしたんだよ、って」
大きなはしばみ色の瞳に涙を溜めながらそう言う明日奈の姿は、一生を学究に捧げる覚悟の比嘉ですら息を飲むほど美しかった。
同じように、何かにうたれたような顔つきで言葉を聞いていた菊岡が、すぐに眼鏡のレンズに表情を隠しながら、隣接するSTLルームを見やった。
「……たしかに、STLはあと一つ空いている」
錆びた声でそう言ったあと、アロハ姿の指揮官は難しい表情を作り、続けた。
「しかし、アンダーワールドは今……とうてい平穏な状況とは言いがたい。スケジュールされていた最終負荷段階に、こちら側の時計であと数時間のうちに突入するからだ」
「最終……負荷? 何がおきるの?」
眉をしかめる凛子に、比嘉は手振りを交えて説明した。
「ええと……簡単に言えば、殻が割れるんス。人界とダークテリトリーを数百年に渡って隔ててきた"東の大門"の耐久値がゼロになって……闇の軍勢が人の世界になだれ込む。人間達が充分な軍事体制を整えていれば、最終的には押し返せる負荷です。しかし、今回の実験では……キリト君が統治組織である"神聖教会"を半ば壊滅させてしまってますから……どうなるか……」
「考えてみれば、どっちにしろ我々の誰かがダイブせねばならん状況かもしれないな」
胸の前で腕を組んだ菊岡が呟いた。
「侵攻がはじまれば、その混乱と虐殺のさなかで、人界にいる"アリス"が殺されてしまうこともあり得る。そうなっては、何のために苦労してメインコンソールをロックし時間を稼いだのか分からないからな。誰かがスーパーアカウントで中に行って、アリスを保護し、内部コンソールである"果ての祭壇"まで連れて行って、そこからこのサブコントロールにイジェクトするべきかもしれん」
「ああ……あなた、キリト君にもそう頼んでいたわね、事故の直前に」
「うむ。彼が無事だったら、きっと遂行してくれたはずだ。あの時、彼はアリスと一緒にいたんだからな……まさに、万にひとつの僥倖だったのだが」
「なら、内部時間で何ヶ月か経っているいまも、二人は一緒にいる可能性が高い……ということ?」
凜子の質問に、菊岡と比嘉はそろって首をかしげた。
答えたのは比嘉だった。
「……そう、考えていいかもしれません。なら、やはりダイブは明日奈さんにお願いするべきかも……。キリト君とのコミュニケーション力はもちろん、アリスの保護には内部での戦闘能力が要求されるでしょうから。ここにいる人間で、もっとも仮想世界での動きに慣れているのは明日奈さんっス、間違いなく」
「なら、スーパーアカウントも、可能な限りハイレヴェルなやつを使ってもらったほうがいいな」
菊岡の声に頷き、比嘉はキーボードに指を走らせた。
「そういうことなら選り取りみどりッスよ。騎士、将軍、貴族……色々あります」
「ねえ、ちょっと待って」
不意に、やや緊張した声で凜子が口を挟んだ。
「なんスか?」
「……それとまったく同じことを、襲撃者連中が考えるってことはないの? さっきあなた言ってたでしょ? アリス確保の抜け道は、内部からのオペレーションだ、って」
「あぁ、はい。確かにあいつらにも可能な手段です。下のメインコントロールにも、STLが二基設置してありますからね。ただ、あいつらにはスーパーアカウントのパスを破る時間はないはずッス。ログインできるのはレベル1の一般民だけっすよ。とても、最終負荷段階の修羅場で活動できるステータスじゃないッス」
早口にそう説明しながらも――。
比嘉はふと、何かを忘れているような、かすかな悪寒が背中を走るのを意識した。
しかし、その思考は、高速でスクロールされるアカウントリストの点滅光に紛れて形になることはなかった。