転章 II
洗い終えた皿を水切り籠に立て、エプロンの裾で手を拭きながら、アリスはふと窓の外を眺めた。
粗製のガラスを通して見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、せっかく赤や黄に色づいた葉をかなり散らしてしまった。やはり央都と比べると冬の訪れがずいぶんと早い。
それでも、久しぶりの透き通るような青空から降り注ぐソルスの日差しはぽかぽかと暖かそうだ。すぐ近くの太い枝で、キノボリウサギのつがいが身体を寄せ合って目をつぶり、気持ちよさそうに日光浴をしている。
我知らず微笑みながらしばしその様子に見入ってから、アリスは振り向き、言った。
「ねえ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみましょう。きっとすごく遠くまで見えるわ」
返事は無い。
二部屋しかない狭い丸太小屋の、大きいほうの部屋の中央に据えられた丸テーブルの傍ら、質素な椅子に腰掛けた黒髪の若者は、ぼんやりと視線を俯けたままだ。
痩せている。もとより肉付きのいいほうではなかったが、今では明らかにアリスよりも細い。ゆったりとした部屋着の上からでも、その身体が骨ばかりなのが見て取れる。中身のない、ぶらりと垂れ下がった右袖が、痛ましさをいっそう増している。
しかし、真に寒々しいのはその表情だった。髪とおなじく漆黒の瞳に、輝きは無い。閉ざされたその心を映してどこまでも虚ろなその双眸は、決して誰かを正面から見ようとはしない。
一日に何度も感じる鋭い胸の痛みを押し殺し、アリスはさらに明るい声で続けた。
「でも、ちゃんと厚着したほうがいいわね。待ってて、すぐ用意するから」
エプロンを外して洗い場の横に掛けてから、足早に寝室へと向かう。
長い金髪を後ろでくくり、綿布のスカーフでしっかりと覆う。壁に並んだ二着の羊毛の外套の、小さいほうを羽織るともう一方を小脇にかかえ、居間へ戻る。
若者は、さっきと寸分変わらぬ姿勢のままただ緩慢な呼吸のみを繰り返していた。その背にそっと手をかけ、立つように促すと、やがてがく、がくと膝を揺らしながらゆっくりと身体を起こす。
しかし、自発的に可能なのはここまでで、歩行は一メルとても行えない。アリスは椅子を引き、外套を着せ掛けると、前にまわってきっちりと革紐を留めた。
ちょっとだけがんばってて、と声をかけ、急いで居間の片隅へと走る。
そこに置いてあるのは、明るい白茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。しかしさっきまで若者が腰掛けていたものと異なり、四本の足がすべて丸木を輪切りにして鋼の心棒を通した車輪となっている。森の奥に独居する、ガリッタという名の老人が工夫してくれたものだ。
その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと若者の背後まで移動させる。ゆらゆらと危なげに身体を揺らす若者を、そっと椅子に座らせ、分厚い毛糸のひざ掛けを身体の前に載せてやる。
「よし! じゃあ、行きましょうか」
ぽん、と若者の肩を手でたたき、取っ手を握って、小屋の戸口目指してわずかばかりごろんと椅子を押したときだった。
不意に若者が顔の角度を変え、左手を持ち上げて、一方の壁に差し伸べて口を開いた。
「あー……、あー」
掠れたその声には、顔とおなじく感情というものがなかった。しかしアリスはすぐに若者の求めるものを察した。
「あ、ごめんなさい。すぐ取ってくるわ」
若者の手が指す部屋の南の壁に、頑丈な金具で掛けられた三本の剣があった。
右側には、アリスの所有物である黄金の長剣、"金木犀の剣"。
左側に、若者がかつて帯びていた漆黒の長剣、"夜空の剣"。
そして中央に――黒の剣に名前を与え、そして今はもういない一人の少年のものだった純白の長剣、"青薔薇の剣"。
アリスはまず、ずしりと重い漆黒の剣を壁から外し、抱えた。次に真ん中の白鞘を外す。こちらは、重みが黒の剣の半分ほどしかない。収められている刀身が、その半ば以上を失っているからだ。
二本の剣を抱いて戸口へ戻り、膝にそっと載せると、若者は左腕でしっかりそれらを抱きかかえ、ふたたび顔を俯けた。彼は決して、この二振りの武器から離れようとしない。彼が何らかの反応を見せるのは、剣を求めるときだけだ。
「……さ、行きましょう、キリト」
再び襲ってきた胸のうずきを飲み込んで、アリスはそう声を掛けると、さっきより格段に重みを増した車椅子を押した。
扉をくぐり、石段ではなくなだらかな板を渡してある短い坂を降りると、ひんやりとした微風と、滋味に満ちた陽光が同時に二人を包んだ。
小屋は、深い森のなかにぽっかりと開けた丸い草地に建っている。アリスが自身で丸太を切り出し、皮を剥ぎ、ガリッタ老人に手伝ってもらって組み上げたものだ。見栄えは悪いが、優先度の高い木材だけを使用しているので造りはしっかりしている。もっとも、老人には、こんな怪力の娘っ子は見たことねえと数十回は言われてしまったが。
老人は、この森の空き地は子供だったころのアリスと、青薔薇の剣の所有者だった少年ユージオが二人だけの遊び場にしていたのだとも言った。勿論アリスにその記憶はない。ガリッタ老や他の人々には、ただ昔のことは全部忘れてしまったのだとだけ説明してあるが、実際には今の自分、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、彼らが知るルーリッド生まれのアリス・ツーベルクの身体を奪い占拠しているのが真実だ。叶うならば今すぐにでも身体を彼女に返したいが、本来のアリスはユージオとともにこの世界から去ってしまった。
一瞬の物思いを振り払い、アリスは草地を横切る細道に、車椅子を進ませた。
細道は、周囲を取り囲む深い森を貫き、東と西へと伸びている。西へ小一時間も歩けばルーリッドの村だが、用無く訪れる気にはどうしてもならない。ソルスの光を右前に受けながら、東へと小路を辿る。
十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移りつつある森のなかを、ゆっくりゆっくりと進む。
「キリト、寒くないかしら?」
声を掛けるが当然答えはない。仮に、極寒の吹雪のなかに裸でいたとしても今のキリトは声ひとつ上げるまい。ただ身体が凍りつき、天命が尽きるに任せるだろう。首を伸ばして覗き込み、上着の襟元がしっかり閉じているのを確認する。
勿論、その気になれば熱素因系の術を使い、周囲への冷気の進入を完璧に防御するのは容易なことだ。しかし、ただでさえ微妙な立場なのに、高度な術式を操るところを村人に見られて奇妙なうわさを流されるのは避けたい。
重い車椅子をごろごろと、十分ほども押すと、前方で木立の切れ間が見えた。
その先は、短い草に覆われた小高い丘になっている。もう道もない斜面を、アリスは苦も無く車椅子を押し上げ、たちまち天辺へと達する。
さっと視界が開けた。広大なルール湖の青い水面と、その奥に連なる湿地帯がどこまでも見通せる。左手には、天を衝く壁のように果ての山脈が聳え、正面から右奥へと弧を描いて連なっている。かつてあの峰々を、飛竜を駆って軽々と飛び越えていたことがまるで幻のようだ。
美しく広がる景色を前にしても、キリトの瞳はそれを見ようとはしなかった。ただ、虚ろな黒瞳をぼんやりと虚空に向けている。
その隣に腰を下ろし、アリスはそっと身体を椅子にもたれさせた。
「綺麗だわ。カセドラルに掛けられていた絵よりずっと綺麗」
そっと呟く。
「……あなたが守った世界よ」
眼下の湖水を、一羽の白い水鳥が、点々と波紋を作りながら滑走し、高く飛び去っていった。
どれくらいそうして座っていただろうか。
気付くと、ソルスはずいぶんと高いところまで昇っていた。そろそろ小屋に戻り、昼食の準備に取り掛かる時間だ。自分の空腹などまるで気にならないが、一度にほんの僅かしか食べようとしないキリトのためにも、一食と言えどおろそかにするわけにはいかない。
立ち上がり、帰りましょうか、と声を掛けながら車椅子の持ち手を握ったときだった。
草を踏みながら丘を登ってくる小さな足音に気付き、アリスは振り返った。
近づいてくるのは、黒いベールと修道衣に小柄な身体を隙間無く包んだ、ひとりの少女だった。いまだ子供の面差しが残る可愛らしい顔に、輝くような笑みを浮かべて手を振っている。
「姉さま!!」
弾むような声が微風に乗って届き、アリスも笑みを返しながら小さく手を振った。
最後の十メルを勢いよく駆け上がってきた少女は、目の前で足を止めると、息を切らした様子もなくもう一度言った。
「おはよう、アリス姉さま!」
くるっと身体を回し、車椅子のキリトを覗き込んで、一層元気よく叫ぶ。
「キリトもおはよう!」
まるで反応のない相手の様子を気にする気配もなくにっこり笑ったその顔が、キリトの膝の二本の剣に向けられた瞬間だけ、わずかに痛みを感じさせるものに変わった。
「……おはよう、ユージオ」
呟き、指先で青薔薇の剣の鞘をそっと撫でてから、少女は改めてアリスに向き直った。心にぽっと暖かいものが流れるのを感じながら、アリスも挨拶を返した。
「おはよう、シルカ。よくここが分かりましたね」
シルカさん、と言わずにすむようになったのはつい最近のことだ。世界でただ一人の妹であるこの少女のことを、愛しく思えばおもうほど、今の自分にこの暖かさを感じる資格があるのか、と己を責めもしてしまう。
そんなアリスの絶えざる葛藤に、とっくに気付いているのであろうシルカは、まるで屈託なく笑った。
「べつに神聖術で探したわけじゃないわよ。姉さまの居るところならすぐ分かるもの。今朝しぼったばかりのミルクと、あと少しだけどりんごとチーズのパイを持ってきたの。家のテーブルに置いてきたから、お昼に食べてね」
「ありがとう、とっても助かるわ。何を作ろうか迷ってたのよ」
「姉さまの料理の腕じゃ、いつかキリトが逃げ出しちゃうかもしれないからね!」
あははは、と笑うシルカにむかって、アリスも笑いながら右手を上げてみせた。
「こら、言いましたね! これでも、最近ずいぶんと勘が分かってきたのよ」
はしゃぎながらするりとアリスの手をかわし、シルカはすぽんと胸に飛びこんできた。そのまま眼を閉じ、心地よさそうに頬をアリスの胸にこすりつける。アリスも、自分よりずいぶんと背の小さい妹の背を、そっと包む。
この瞬間だけ、アリスは自分を苛む罪の意識を忘れたいと本気で思う。剣を捨て、騎士の責務から逃げ、森の奥で穏やかな日々に暮らすことへの罪悪感を消し去れたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時にそれが絶対に不可能であることも、アリスは悟っている。こうしている今この瞬間でさえも、目の前にそびえる果ての山脈のむこうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。
半年前の、あの激闘の最終幕において――。
瀕死の重傷を負い、まるで動かせない身体をカセドラル最上階の床に横たえたまま、アリスはおぼろげに戦いの行方を知覚していた。
アドミニストレータとキリトの死闘。チュデルキンの妄執の炎に巻かれ、共々に消えた最高司祭。キリトのパートナーであったユージオの死。彼の、いまわの際の言葉だけは、途切れとぎれの記憶に鮮明に焼きついている。
そして、もう一つ、不思議な水晶細工から流れる声とキリトが交わした会話も。ほとんど意味の汲み取れない、奇妙なやりとりの終わりに、突然キリトが身体を硬直させて倒れ――世界は完全に沈黙した。
どうにか天命がほんのわずか回復し、アリスが動けるようになったとき、硝子窓のむこうでは再びソルスの光が空を染めつつあった。いっぱいに差し込む曙光を神聖力源とし、アリスはまず倒れたキリトの傷を癒した。しかし彼は意識を取り戻さず、やむなくそのまま寝かせておいて自分にも治癒術を掛け、そののちにキリトが言葉を交わした水晶細工を調べた。
だが、紫に輝いていた表面はすっかり黒に変わり、どこをいじろうと二度と光ることはなかった。
アリスは途方にくれ、座り込んだ。キリトの言葉を信じ、世界の人々とどこかにいる妹を守るために絶対の支配者であったアドミニストレータと戦ったものの、よもや自分が生き残るとは考えていなかったのだ。ここで自分は死ぬだろうと、そう覚悟して最高司祭の剣のしたにわが身を晒したのだが、しかしいかなる奇跡か命をつないでしまった。
助けたならその責任を取りなさい、かたわらに横たわるキリトに向かって何度もそう叫んだが、黒髪の若者は決してその瞼を開けようとしなかった。ここからは自分で考えろ、まるでそう言っているかのようにアリスには思えた。
ずいぶん長い時間膝をかかえてから、アリスはようやく立ち上がり、行動に移った。出入り口があったあたりの床を、こちらもやっと回復した金木犀の剣で苦労して破壊し、現れた螺旋階段をひとり降りたのだ。
主を失ったチュデルキンの部屋と、いまだぶつぶつ術式を続ける元老たちの広間を抜け、向かった先は剣の師のもとだった。氷がほとんど溶けた大浴場に、大の字になって浮かぶ整合騎士長ベルクーリの身体は、幸い石化術からは解放されていた。おじさま! と呼びかけ、びしびし頬を叩くと、威丈夫はまるで長い間寝こけていたかのように伸びをすると、一度盛大なくしゃみをし、目を覚ましたのだった。
ようやく緊張がほぐれ、泣き笑いに喉を詰まらせながらも、アリスはどうにか状況をすべて説明した。ベルクーリは厳しい顔ですべてを訊き終えると、一言、よくがんばったな、嬢ちゃん、と言った。
あとはぜんぶ任せろ、そう宣言したベルクーリの行動は迅速だった。キリトらに破れ、しかしなぜか完全に治療された状態で薔薇園の片隅で発見された副長ファナティオをはじめ、同じく石化拘束されていたらしいデュソルバートやエルドリエといった主だった整合騎士を全員五十層の大回廊に集めると、真実をぎりぎりまで述べたのだ。
キリト、ユージオとの戦いの結果、最高司祭アドミニストレータが破れ、死んだこと。
その最高司祭の人界防衛計画が、人間の半数を剣骨の兵に変えるというものだったこと。
騎士団の上部組織・元老院の実体が、チュデルキンただ一人であったこと。
隠されたのは、整合騎士の来歴のみだった。もとより"神界からの召喚"に疑いを持っていたベルクーリは真実に耐えられたが、他の騎士たちには不可能だろうという判断だ。これは、最上階に残る数十の剣と神図の秘密の解明を待つ必要があろうとベルクーリはアリスのみに言った。
しかし、それでも尚、騎士たちの混乱は深刻だった。無理もない、これまでの永遠にも等しい年月において、最高司祭は唯一絶対の支配者であったのだ。
議論の果てに、彼らがともかくも騎士長に従うという選択をしたのは、皮肉にも、アドミニストレータに施された強制従属術ゆえのことだったかもしれない。例え最高司祭が消滅しようとも、彼らは"教会"に隷属しているのであり、そしてもはや騎士長ベルクーリが神聖教会の最高権力者であるのは疑いようもない事実だったのだから。
そしてそのベルクーリは、恐るべき精神力で本来の任務、"人界の守護"遂行へとまい進し始めた。彼にも葛藤はあったはずだ、己から奪われた愛する者の記憶が、すぐ手を伸ばせば届く場所に存在すると知ってしまったのだ。
しかし彼は記憶の回復よりも、迫り来る闇の侵攻への防御を整えるという責務を選んだ。数日で整合騎士団は体勢を立て直され、四帝国の近衛軍を実戦用に再編するという新たな任務へと動きはじめた。
それを見届けてから――アリスは、昏睡状態のキリトとともに自分の飛竜に乗って密やかに央都を去った。騎士の一部に、反逆者を処刑すべしとの意見が消えないのがその理由だった。最上階の激闘から、五日後のことだ。
悩みに悩んだ末、北の最果ての村、ルーリッドへと竜の手綱を向けるのに、更に三日を要した。央都の郊外で野営する間もキリトはいっこう目を醒まさず、充分に治療するにはどうしてもちゃんとした屋根とベッドが必要だと判断したのだ。しかし、街の宿屋に泊まろうとも市井の通貨の持ち合わせは無く、と言って整合騎士の権威を振りかざすような真似をする気にはもうなれなかった。
一縷の望みを――たとえ記憶を失っていようとも、生まれ故郷に暮らす家族たちは自分を暖かく迎えてくれるのではないかという期待を胸に、アリスはひたすらに北へと飛び、ノーランガルス帝国を縦断して、果ての山脈の裾野に接する深い森に抱かれた小村へとたどり着いた。
飛竜を住民に見られぬよう、低空を飛んで村にほど近い森のなかに降り、そこで三本の剣を守っているように竜に言いつけて、瞑るキリトを背負ってアリスはルーリッドの村へ徒歩で入った。
青い麦畑を横切るあいだも、小さな農家のわきを抜け、小川にかかる橋を渡るときも、多くの村人の視線がアリスに注がれた。しかしそこにあったのは、驚きと警戒の色だけだった。
裸の道が石畳に変わろうとする直前、小さな番屋から飛び出してきた若者が、そばかすの消えない顔に血を上らせて行く手を塞いだ。
待て、よそ者が勝手に通ったらいかんぞ!
叫びながら安物の剣を抜き、無遠慮に切っ先を突きつけてきたその衛士は、まず背負われたキリトの顔を見て訝しそうに首を捻った。あれ、こいつは……、そう呟いてから、改めてアリスを凝視し、そしてぽかんと目と口を丸くした。
あんた……あんた、まさか。
衛士のその言葉を聞いて、アリスは僅かながらほっとした。どうやら九年の時間が経ても自分を覚えていたらしい、そう思いながら、言葉を選んで衛士に告げた。
自分はアリス・ツーベルク。父親で村長の、ガスフト・ツーベルクを呼んでほしい。
カセドラル外壁で、たった一度キリトに聞いただけの名前だが、忘れるはずもなかった。衛士は顔色を赤から青に変え、ま、ま、待ってろと喚いて駆け出していった。
昼下がりの村はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。子供から大人までが、どこにこんなにいたのだと思うほどに集まってきて、アリスを遠巻きにして口々にひそひそ声を交し合った。
アリスが再度不安に襲われたのはその時だった。村人たちの顔には、こちらの素性を知ってもなお、警戒の色が濃く浮かんでいたからだ。そして、少なからぬ嫌悪すらも。
数分後、人垣の向こうから大股で近づいてきたのは、口とあごの髭を綺麗に整えた初老の男だった。
男はアリスを見た瞬間、いわく言いがたい表情に顔をゆがめた。その奥にどのような感情があったのか、アリスには察せられなかった。
ゆっくりと、何かを恐れるような歩調で目の前までやってきた男は、しわがれた声で言った。
アリス、なのか。
そしてこう続けた。
何故ここにいる。罪は赦されたのか。
抱きしめるでも、涙を浮かべるでもなく、"父親"がそう言い放つのを聞いて、アリスは手足の先が冷たくなるのを感じた。しかし、懸命に相手の目を見返して、アリスは答えた。
処罰により、私はこの村で暮らしたころのすべての記憶を失いました。しかし、ここより他に行くところはありません。
言えるかぎりの真実だった。
ガスフトは、ぐっと目をつぶり、顔を仰向けさせ、そしてくるりと背を向けた。
肩越しに投げかけられた言葉は――。
去れ。この村に罪人を入れるわけにはいかぬ。
一瞬の回想がアリスの身体を強張らせたのを感じとったのか、シルカが顔を上げ、少しだけ首を傾けた。
「姉さま……?」
気遣わしそうに問いかける最愛の妹に、アリスは微笑みを浮かべながら短く答えた。
「いえ……なんでもないのです。さあ、そろそろ帰りましょう、シルカ」
あの日、打ちひしがれて悄然と森の奥に戻ろうとしたアリスを、木立のかげから呼び止めてくれたのがシルカだった。父親である村長の意向に添わぬ行動だと知りながらそうした彼女の勇気と、彼女が引き合わせてくれたガリッタ老人の善意が無ければ、アリスはいまも寄る辺無き逃亡者として荒野を彷徨っていただろう。
シルカにとっても、決して簡単に受け入れられる話ではなかったはずだ。
ただ一人の姉が、過去をすべて忘れてしまったこと。二年前に交流があったというキリトの昏睡。そして、兄にも等しい存在だったユージオの死。
しかし、シルカが涙を見せたのはただの一回だけで、以降は決して笑顔を絶やすことなく元気に振舞っている。その心の強さと思いやりの深さには、日々感謝と驚嘆の念を新たにせずにはいられない。教会の司祭たちの神聖術より、整合騎士の剣よりもずっと強く、尊い力だと思う。
そして同時に、自分がいかに空疎な存在であるか、とも。
老人の手助けを得て、村の境界外の森に小さいながらしっかりとした住処を造りあげてから、アリスがまず行ったのは大規模な回復術を眠るキリトに施すことだった。
広い森でもっともテラリアの恩寵が潤沢な地点を選び抜き、ソルスの光を遮る雲が一片たりとも空にない日に、それら膨大な神聖力を根こそぎ回収・凝縮させてキリトの身体に注ぎこんだのだ。
発生した癒しの力はキリトの天命の数十倍に達し、またそこまでの高位術を駆式できるのは人界でもいまや自分ひとりであろうという自負がアリスにはあった。キリトの受けた傷がどれほど深いものだろうと、斬り落とされた右腕を含めてたちまち回復し、何事もなかったかのように目を醒ますだろうと確信していた。
しかし、結果は無残なものだった。
どれほど青い霊光を注ぎ込もうとも、まるで傷そのものが癒されることを拒むかのように右腕は戻らず――そして、ようやく開かれた瞼のおくの黒い瞳に、意志の光は無かった。
数時間の施術のすえについに諦めたとき、力の余波を受けたか、自分の顔に巻かれた包帯のしたで右眼が何事もなかったかのように再生していたことも、アリスには己の無力を嘲われているようにしか感じられなかった。
以来、キリトの心が戻ってくる兆しはまったく無い。
シルカは、こんなに姉さんが一生懸命看病してるんだもの、きっといつか元のキリトに戻るよ、と事あるごとに言ってくれるが、アリスはひそかに、自分では無理なのではないかと深く恐れている。
なぜなら、自分は心を持たぬ人形の騎士だから。
枯れた下草を踏みながら前を行くシルカが、不意に歩調をわずかに緩め、アリスは再び物思いから醒めた。
小さな修道衣の背中が、何かを言い出そうとして躊躇っていることを察し、アリスは車椅子を押す速度を少し落として声をかけた。
「どうしたの、シルカ? 困りごと?」
すると、さらに数秒ためらってから、ちらりと振り向いたシルカが言いづらそうに答えた。
「あのね……、バルボッサのおじさんが、また倒せない樹の始末を頼みたい、って……」
「なんだ、そんなこと。あなたが気にやむことないのに」
アリスが微笑むと、シルカは不意に憤慨するように唇を尖らせ、両手を胸の前で組んだ。
「勝手だわ、あの人たちは! 姉さんを怖がって村から追い出したくせに、困ったときだけ助けてもらおうだなんて。前から言ってるけど、断ってもいいのよ、姉さん。必要なものは、何でもあたしが持ってきてあげるから」
今度は少し声に出して笑い、アリスはなだめるように言った。
「ありがとうシルカ、でもほんとに気にしなくていいのよ。村の近くに住まわせてもらえてるだけでも有り難いことだわ。キリトにお昼をたべさせたら、すぐに行くわね。南の畑でいいのよね?」
「……うん。あのね……あたし、来年の春にはシスター見習いから準シスターに昇格して、少しだけどお給金もらえるようになるから。そしたらもう、姉さんにあんな奴らの手伝いなんてさせないからね」
すぐ横まできて、決然とした表情でそう告げるシルカの頭を、アリスは右手でそっと撫でた。
「ありがとうね……、でも、あなたが居てくれるだけで、私はじゅうぶん幸せなのよ……」
名残惜しそうに手を振り振り去っていくシルカと、小屋のある草地の真ん中で別れ、アリスは手早く昼食の準備をした。
最近では、どうにか家事の真似事をこなせるようになってきたものの、料理の腕だけはいかんともしがたい。金木犀の剣と比べると、村で買った包丁はおもちゃのように軽く頼りなく、恐る恐る材料を切るだけで三十分や一時間くらいすぐに経ってしまう。
今日は幸いシルカが、すぐに食べられるパイを届けてくれたので、それをフォークで小さく切ってキリトの口に運んだ。唇が開かれるのを辛抱強く待ち、そっと中に入れてやると、まるで食事の記憶を本人ではなく口が思い出しているかのように、ゆっくりゆっくりと噛む。
小さな一切れを長い時間をかけて食べさせ、スプーンでミルクを飲ませるあいだに、自分も素朴な手作りパイを大事に味わって食べる。カセドラルでは、四帝国の各地から集められた美味佳肴が常に巨大なテーブルに満たされ、それらをいい加減につついては下げさせるような真似をしていたのが今更恥ずかしく思い出される。
後片付けをしてから、再びキリトにしっかりと外套を着せ、膝に二本の剣を載せてやる。自分も、身体と髪を隠すように分厚く着込む。
車椅子を押しながら外に出ると、いつのまにかすっかり向きが変わった日差しが梢のあいだから零れていた。近頃は随分日が短くなり、午後はたちまち空の色が変わってしまう。少しばかり急ぎ足で、今度は細道を西へ辿る。
森が切れると、目の前に刈り入れを待つばかりの黄金の麦畑が広がった。重そうに揺れる麦穂の海のむこうに、丸い丘を覆うようにして赤い屋根の家々が軒先を並べるルーリッドの村が見える。中央から、一際高い尖塔を伸ばしているのがシルカが暮らす教会だ。むろん、シルカも、彼女を指導するアザリヤという修道女も、全世界の教会組織を束ねるセントラル・カセドラルの最上階がいまや主無き廃墟であることを知らない。
たとえカセドラルが大混乱に陥ろうとも、地上の営みにはまるで影響はなかったのだ。禁忌目録は変わらず有効に機能し、人々の意識を縛り続けている。果たして彼らに、剣を取り国を守るなどということができるだろうか。無論、教会の名で命じれば従いはするだろう。しかし、戦いに勝つためにはそれだけではまったく不十分なことは、少なくとも騎士長ベルクーリにはよく分かっているはずだ。
武装の優先度でも、術式の行使権限でもなく、最終的に戦いの帰趨を決するのは意志の力だ。絶望的な戦力差を覆し、多くの整合騎士を、そして最高司祭アドミニストレータをすら斬り伏せてのけた修剣士キリトの存在がそれを証明している。
農作業の手を止め、忌まわしそうな視線を向けてくる村人たちの姿を、伏せた眼のはしで捉えながらアリスは胸中で呟いた。
――小父様、彼らにとって平和とはただ誰かに保証されたものに過ぎないのかもしれません。
そして、そうさせてしまったのは神聖教会と整合騎士団だ。こうして土の上で暮らしてみて初めて、アリスはこの世界がいかに歪んだ姿をしているかに気付いた。
物思いに沈みながらも、早足で麦畑の外周を回る道を辿り、村の南に広がる開墾地へと出たアリスは、そこで車椅子を止めた。
ほんの二年前までは、この先には東の森を上回る深く暗い原生林が広がっていたのだという。
しかし、その森の主であり、神聖力を底無し穴のように吸い取っていた巨大樹をキリトとユージオが切り倒してくれたので、いま村の男たちは畑を広げることに夢中なのだ、とシルカが少々困ったような顔で言っていた。禁忌目録で、村の人口に対する畑の上限面積が厳密に規定されているため、そこに達すればそれ以上の開墾は出来なくなる。その前に、他の農家よりも少しでも大きな土地を確保しようと、男たちは殺気立っているらしい。
視線の先には、荒く掘り返された黒土が半円を描いて広がり、その彼方で数十人の村人が盛んに斧音を響かせている。中でもひときわ多くの人数を指揮し、あれやこれや喚いている太鼓腹の男が、ナイグル・バルボッサという村一番の大農家の長だ。一族の人数では、現村長を出したツーベルク家を上回るそうで、その尊大さは元整合騎士のアリスも驚くほどだ。
気が進まないながらも、アリスは踏み固められた細道に車椅子を進ませた。キリトは、かつて自分が倒した巨大樹の痕跡を僅かにとどめる、朽ちかけた黒い切り株の傍らを通過しても一切の反応を見せず、ただ二本の剣を抱いたまま俯いている。
二人に最初に気付いたのは、倒したばかりらしい木の幹に腰掛けて豪勢な弁当をがっついてるバルボッサ一族の若者たちだった。歳は十五、六とおぼしき彼らは、深く巻いたスカーフを貫くような粘ついた視線でアリスを眺め回したあと、車椅子のキリトに視線を移し、小声で何かを言い合っては厭な笑い声を立てる。
無視してその前を通過すると、若者の一人が間延びした大声を出した。
「おじさーん、来たよぉー」
すると、腰に手を当てて怒声を撒き散らしていたナイグル・バルボッサがくるりと振り向き、脂ぎった丸顔ににんまりと大きな笑みを浮かべた。丸い鼻や細い眼が、どこか元老チュデルキンを思い起こさせて肌が軽く粟立つ。
しかしアリスは、可能な限りの笑みを返し、軽く会釈した。
「こんにちは、バルボッサさん。何か御用と聞きましたので……」
「おお、おお、アリスや、よく来てくれたのう」
丸い腹を揺らし、両手を広げて近づいてきたので、よもや抱擁する気ではと再びぞっとしたが、幸いその前にキリトの膝に載った剣呑な武器に眼を留めて思いとどまったようだった。
代わりにアリスの右横五十センに立つと、ナイグルは大儀そうに巨躯を回し、森と開墾地の境を指差した。
「ほれ、見えるじゃろう。昨日の朝からあの糞ったれな白金樫にかかりっきりなんじゃが、大の男が十人がかりでようやく指いっぽん分しか進まん有様での」
見れば、直径が一メル半はありそうな、巨大な白褐色の樹が四方八方に根と枝を広げ、開墾者たちに頑強に抵抗しているようだった。幹の一方には二人の大男が取り付き、かわるがわる斧を樹皮に叩きつけているが、刻まれた切り込みは確かに十センにも届かない浅さだ。
男たちの、裸の上半身は真っ赤に染まり、汗が滝のように流れている。胸や上腕の筋肉はそれなりの厚みだが、普段鍬や鋤しか持ったことのない手に急に斧を握ったせいだろう、重心移動も腰の回転もお粗末のひとことだ。
見守るうち、男の一人が右脚を滑らせ、見当違いの箇所を斜めに叩いた斧が柄の中ほどからべきりと折れ飛んだ。怒声を上げて両手を抱え、うずくまる男に、周囲の仲間たちが遠慮のない笑い声を浴びせる。
「まったく、何をやっとるんだ馬鹿者めらが……」
ナイグルが唸り、もう一度アリスを見た。
「あれでは、あの樹一本に何日かかるか知れたもんじゃねえ。ウチが手間取ってるあいだに、リダックの盗っ人どもが二十メルも土地を広げよった!」
バルボッサ家に次ぐ規模の麦作農家の名前を挙げると、ナイグルは鼻息荒くブーツで足元の地面をこじった。ふうふうと胸を波打たせてから、不意にまた脂っこい笑顔を満面に浮かべる。
「そんな訳でな、月に一度の約束じゃけんども、すまんけど今回だけ特別に力を貸してもらえんかの、アリスや。あんたは憶えておらんじゃろうが、ワシは子供のころのあんたにお菓子を呉れたことが何度も……」
ため息を押し隠してアリスはナイグルの言葉を遮り、頷いた。
「ええ、いいですよバルボッサさん。今回だけということでしたら」
このように、開墾の邪魔をする高優先度の樹や岩を排除する、それが現在のアリスの天職だ。無論、誰に与えられたものでもない。村はずれに落ちついて一ヶ月ほど経ったころ、地崩れで村道を塞いだ大岩を、アリスがひとりで押して退かしたのが噂になりこんな手伝いを頼まれるようになった。
実際、暮らしていくうえで多少の現金はどうしても必要だったので、稼ぐ手段があるのは有り難いことではある。しかし言われるままに頼みごとを聞いていたら、男たちは際限なく要求してくるとシルカが心配したので、手伝うのはひとつの開墾地で一ヶ月に一度まで、と取り決めを交わしてある。
禁忌目録から村の掟にいたるまで、一切の規則を厳守するはずのナイグルが、このような取り決めに外れた依頼をしてくる時点で、彼らがアリスのことを村人よりも下に見ているというのは明らかだ。内面を看破されているとも知らず、にこやかに揉み手をするナイグルに、しかしアリスは無言で頭を下げると車椅子から手を離し、大木へと歩み寄った。
アリスの姿に気付いた男たちの中には、野卑な笑みを浮かべるものも、あからさまに舌打ちするものもいた。しかし、今はもう皆がアリスの力を知っているので、全員が持ち場を離れ、遠くで輪になった。
彼らには一切眼を向けず、アリスは白金樫の古木に近寄ると、右手でそっとその表面を叩き、ステイシアの窓を引き出した。さすがに天命はかなりの数値だ。この優先度では、いつものように借り物の斧を使っては歯が立つまい。
一度小走りにキリトのところに戻り、腰を屈めて、小声でそっと囁いた。
「ごめんね、キリト。少しだけ、あなたの剣を貸して頂戴」
軽く右手を黒い長剣の鞘に掛けると、キリトの身体がわずかに強張るのが感じられた。しかし、辛抱強く虚ろな黒い瞳を覗き込んでいると、やがて左腕から力が抜け、かすかな声が喉から漏れた。
「……ぁー」
これは、意志が伝わったというよりも、記憶の残響のようなものなのだろう。キリトの心ではなく、思い出の残滓だけが、今の彼をほんの僅かに動かしている。
「ありがとう、キリト」
囁いて、膝からそっと黒い剣を持ち上げて、アリスは再び樹の前へ向かった。
それにしても立派な大樹だ。央都セントリアの構造材になっている古代樹には及ばないまでも、樹齢は百年を軽く越すだろう。
心のなかで、ごめんなさい、と呟き、アリスはぐいと足場を固めた。
右脚を前に、左脚を後ろに。左手で腰溜めに構えた"夜空の剣"の、黒革を巻かれた柄に軽く右手を添える。
「おいおい、そんな野暮ったい剣で白金樫を倒す気かぁ?」
男の一人が叫び、周囲がどっと笑った。剣が折れるぞぉ、その前に日が暮れちまわぁ、と次々に喚き声が交わされる中、背後から心配そうなナイグルの声がかけられた。
「あー、アリスや、できれば一時間くらいで何とかして欲しいんじゃがのう」
これまでアリスは、借り物の斧を振るってどんな樹でも三十分以内に倒してきた。そんなに時間を掛けたのは、斧を破壊してしまうのを避けたからだ。しかし、今日ばかりは武器を折る心配はない。夜空の剣は、金木犀の剣には及ばぬまでも世界で最強クラスの優先度を備えた神器なのだ。
「いえ、そんなには掛かりません」
呟くように答え、アリスはぐっと柄を握った。
「……せあっ!!」
短い気合。両の足元から、爆発じみた土煙が上がる。
随分と久々に振るう本物の剣だったが、身体は滑らかに動いた。抜きざまの左水平斬りが、黒い稲妻となって宙を疾った。
周囲の人間で、斬撃そのものを視認できた者はいるまい。剣を右前方に振り切った姿勢で動きを止めたアリスの頭から、ふわりとスカーフがはずれ、長い金髪がなびいた。
黄金の輝きに眼を奪われた男たちは、立ったままの大木に視線を戻し、訝しそうに首を捻った。白褐色の滑らかな樹皮には、彼らがつけた小さな刻み目が残るのみで、それ以外は傷痕ひとつ見えない。
なんだよ、外れかぁ?、という声が上がるなか、アリスはゆっくり身体を起こし、漆黒の刀身をぱちりと鞘に収めた。足元からスカーフを拾い上げてから、男たちの輪の一部を指差す。
「そこ、倒れますよ」
訝しそうに眉をしかめたその顔が、驚愕に変わったのは、ゆっくりと自分たちのほうへと傾いてくる大木の幹を見てからだった。うわあああと盛大な悲鳴を上げて飛び退り、尻餅をついた男たちのあいだに、凄まじい地響きを立てて切断された巨樹が横倒しになった。
もうもうと巻き上がった土煙をぱたぱたと払いながら、アリスはちらりと幹の切断面を確認した。年輪がくっきりと浮き上がった、磨かれたように滑らかな断面に、一箇所わずかなささくれが見て取れた。
やはり腕が鈍っている、と軽いため息をつきながら振り向いたアリスは、ぎょっとして立ち止まった。ナイグルが再び、満面の笑みで両腕を広げて急接近しつつあったからだ。
思わず左手の夜空の剣をわずかに持ち上げると、かしゃりという刃鳴りを聞いてナイグルは急停止した。しかし笑顔はまったく減じられず、野太い叫びが喉の奥から発せられた。
「すばっ、すんばらしい! なんという腕じゃ! 衛士長のジンクなんぞ問題にならん! まさに神業! どっ、どう、どうじゃアリス、手間賃を倍にするから、週に一度……いや、一日いっぺん手伝ってくれんかのう!!」
丸い体を捩り、絞るように手を揉むナイグルに、アリスはそっけなくかぶりを振った。
「いえ……、今頂いている金額でじゅうぶんですので」
仮に、金木犀の剣を持ってきて完全支配術を使えば、一日一本の大木を切るどころか、数分でこの森を見渡す限りの裸地に変えることだって容易い。しかし、そんなことをすれば、彼らの要求は土地を畑に整備し、重い杭を打ち、雨を降らせることにすら及ぶだろう。
んぬぬぬぬぬ、と唸りながら悶えていたナイグルは、アリスの「御代を」という声で我に返ったように瞬きした。
「お、おう、そうじゃったそうじゃった」
懐に手をやり、ずしりと重そうな革袋から、約束の銀貨一枚をつまみ出す。
それをアリスの掌に落としながら、ナイグルはなおも未練がましく言葉を連ねた。
「そ、それじゃこういうのはどうかのう。今、銀貨をもう一枚やるから、今月のリダックの連中の手伝いは断る、ってのは……」
呆れ返りつつため息を飲み込んだアリスの耳に、がたん、という大きな音が届いた。はっと顔を上げ、音源のほうに視線を走らせる。
車椅子が横倒しになり、投げ出されたキリトの痩身が見えた。
表情はないが、しかしどこか必死さを感じさせる動きで、枝のような左腕を伸ばしている。あー、ああー、という掠れ声が、搾り出されるように喉から間断なく漏れる。
その腕の先では、弁当を食べていた少年らが、青薔薇の剣を二人がかりで持ち上げようとしていた。真っ赤に興奮した顔で、口々に喚いている。
「うおっ、なんだこりゃ重ェぞ!!」
「馬っ鹿、だからあんな女でも白金樫が倒せるんじゃねえか」
「いいからちゃんと押さえてろよ!」
三人目の少年が叫び、剣を抜こうと両手で柄を握って体を反らせた。
ぎりっ、という剣呑な音が、噛み合わされた奥歯から発せられるのをアリスは聞いた。それを意識するより早く、右脚が強く地面を蹴った。
「貴様らっ……!!」
鋭い声を聴いた少年たちが、ぽかんとした鈍重な顔をアリスに向けた。
その締まらない表情が、僅かながらも怯んだのは、アリスが二十メル以上の距離を一瞬にして駆けるのを見たからだろう。土埃を巻き上げて止まったアリスの眼前で、三人がじりっと後ずさる。
大きく一度息を吸い、激しい感情をどうにか押し留めてから、アリスは倒れたキリトを助け起こしながら低く言った。
「その剣はこの人のものです。早く返しなさい」
それを聞いた少年たちの顔に、挑戦的な反抗の色が浮かんだ。青薔薇の剣を抜こうとしていた、最も大柄な藁色の髪の一人が、唇を歪めて笑いながら片手でキリトを指差す。
「俺たちはちゃんとそいつに剣を貸してくれって言ったぜ」
車椅子に戻ったキリトは、肩にかけられたアリスの手も、少年の言葉もまったく意識することなく、なおも純白の剣に向けて左腕を伸ばしながら細く声を漏らしている。
その様子を嘲るように歯を見せながら、別の少年が続けた。
「そしたらそいつ、気前よく貸してくれたんだよ、なぁ? アー、アーって言ってさぁ」
残る一人も、調子を合わせてへっへっへと笑う。
アリスは、自分の右手を襲った強い震えを抑えるのにかなりの苦労をしなければならなかった。その手は間違いなく、左手で下げたままの夜空の剣を抜こうとしていたからだ。
半年前の自分なら、一瞬の躊躇もなく、青薔薇の剣に掛けられた六本の腕を斬り飛ばしていただろう。整合騎士は禁忌目録には一切規制されず、騎士団の内規はあるにせよ、それも"不敬行為"という曖昧な基準に拠って処罰対象の天命の最大七割までを減ずることを許している。そもそも、右眼の封印を破った自分を、真に縛る法も規則ももう一つとして存在しないのだ。
しかし――。
アリスは痛いほど奥歯を噛み締め、己を襲う衝動と戦った。
あの少年たちは、キリトとユージオが、魂と命までもを引き換えにして守ろうとした"人界の民"だ。傷つけることはできない。キリトもそれは望むまい。
数秒間、アリスはぴくりとも動かず、声も発さなかった。しかし恐らく、瞳に浮かんだ殺気までは隠せなかったのだろう、少年たちは不意に怯えたように笑みを消し、口をつぐんだ。
「……わかったよ、怖ぇ顔しやがって」
やがて、ふて腐れたようにそう吐き捨て、藁色の髪が剣の柄から手を離した。残る二人も、恐らくはもう支えているのも限界だったのだろう、どこかほっとしたように鞘を離し、青薔薇の剣はその場に重々しい音を立てて横たわった。
アリスは無言のまま数歩進み、腰をかがめて、わざと右手の指三本だけで軽々と白革の鞘を持ち上げた。振り向く瞬間、悪餓鬼どもにじろりと一瞥を呉れ、車椅子のところまで戻る。
鞘についた土埃を外套の袖でぬぐってから、白黒二本の剣を一緒に膝に置いてやると、キリトはそれをしっかりと抱きしめて沈黙した。
改めてナイグルのほうを見ると、富農の頭領はこの騒ぎには一切の興味を持たなかったようで、すでに男たちの指揮に没頭していた。湯気を立てながらあれこれ喚き続けるその背中に軽く一礼して、アリスは車椅子の背を押して元きた道を戻り始めた。
胸中に吹き荒れた激しい怒りは、いつの間にか冷たい虚無感に取って変わられていた。
ルーリッド近郊で暮らし始めて、このような思いをするのは初めてのことではない。村人たちの多くは、アリスと言葉を交わそうとすらもしないし、魂に傷を受けたキリトに至っては人間として扱ってさえくれない。
それを責めるわけではない。彼らにとっては、禁忌目録を破った人間などというものは闇の国の怪物と大差ない存在なのだろうから、いっそ村の外に住まわせ、食料や日用品を売ってくれるだけで有り難いと思うべきなのだ。
しかし同時に、何故、何のために、とも思わずにはいられない。
いったい何のために自分たちは、あれほどの苦難を乗り越え、アドミニストレータと戦ったのか。前最高司祭カーディナルとユージオは命を落とし、キリトは言葉と感情を失い、そこまでして守ったものは一体何だったのか。
この思考の行き着く先は常に、決して言葉には出せぬひとつの問い――。
あの村人たちに、守る価値、意味があったのか、という。
その迷いこそが、アリスに剣と整合騎士第三位の座を捨てさせ、この地の果てに留まらせていると言ってもいい。
こうしている今も、イスタバリエス帝国の果てにある"東の大門"では、騎士長ベルクーリ率いる新生守備軍が、迫り来る大侵攻への備えを重ねているはずだ。四帝国の近衛軍と各地の衛士隊を掻き集めたと言っても、士気も武装も頭数も充分には程遠く、立場から言えばアリスは一刻も早く馳せ参じるべきなのだろう。
しかし、今のアリスには、金木犀の剣はあまりにも重過ぎる。
唯一絶対の忠誠を誓った最高司祭アドミニストレータを自ら倒し、天には神界も創世三神も存在しないことを悟り、更に人間たちの醜さを知りすぎるほどに知ってしまった。自らの善と正しさを疑うことなく剣を振るうことができたあの頃は遠くに過ぎ去った。
今、アリスが真に守りたいと思う人間はたった三人、妹のシルカとガリッタ老人、そしてキリトだけだ。彼らさえ守れるなら、この地で眠るように暮らし続けるのもいいのではないか。そう思わずにいられない。
稼いだ銀貨で一週間分の食材を買い込み、それを背負って東の森の小屋に帰りつくころには、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
扉を開けようとしたアリスは、北から低い風きり音が近づいてくるのに気付いた。木々の梢を掠める低空から現れたのは、巨大な竜の影だった。アリスの騎竜、名前は雨縁(アマヨリ)だ。
飛竜は、二度大きく羽ばたいて勢いを殺すと、軽やかに草地に降り立った。長い首を伸ばし、まずキリトに鼻息を吹きかけてから、アリスに大きな頭を寄せてくる。
緑がかった銀色の和毛を掻いてやると、雨縁はるるるると低く喉を鳴らした。
「お前、ちょっと太ったわね。湖の魚を食べすぎなのではなくて?」
笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の裏手にある寝床へと歩いていく。
数ヶ月前、住処が完成したその日に、アリスは雨縁の首に留められていた銀のはみを外し、拘束術もすべて解除した。その上で、お前はもう自由です、西域にある飛竜の巣へ帰りなさい、そう命じたのだが、しかし竜は森から離れようとしなかった。
自分で枯れ草を集めて小屋の裏に寝床をつくり、日中は気ままに森で遊んだり、湖で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。誇り高く凶暴な性質を、強力な神聖術によってのみ抑え込んでいたはずだったが、いったい何が飛竜をこの場所に留めているのかはアリスにも分からない。しかし、九年間ともに空駆けた雨縁が、彼女自身の意志で一緒にいてくれるのは素直に嬉しいので、あえて追い出そうとはしなかった。飛翔する姿が時折村人に目撃され、アリスへの悪意ある噂の一因になっているようだが、今更気にかけても始まらない。
干し藁の上で丸くなった雨縁に、おやすみを言ってからアリスは車椅子を押して家に入った。
夕食には、豆と肉だんごのシチューを作った。多少豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味は随分とまともになってきた気がした。もちろん、キリトが感想をくれるわけではない。小さなスプーンで口に入れてやったものを、思い出したように噛み、飲み込むだけだ。
せめて、何が好物で何が嫌いなのかくらい知っていれば、と思うものの、この若者と話をした時間は一日にも満たぬ短さだった。シルカは二週間近く同じ教会で寝起きしたらしいが、しかし食事に何が出ようと嬉しそうにがっついていた記憶しかないという。それもまたキリトらしいと思う。
時間をかけてどうにか皿を空にさせ、ごちそうさまを言った。
洗った食器を拭き、棚に並べているときだった。突然、いつもならもう静かに眠っているはずの雨縁が、窓の向こうでルルルッと低く唸った。
はっとして手を止め、耳を澄ます。森を渡る夜風に混じって届いたのは、間違いなく大きな翼が立てる風切り音だった。
戸口の掛け金を上げるのももどかしく、前庭に飛び出して空を仰ぐ。切れぎれの雲間にのぞく星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく竜の翼のかたちだった。
「まさか……」
暗黒騎士が山脈を越えてきたのか、と息を飲んだが、剣を取りに戻りかけた直前、星明りを受けて竜のうろこが明るく輝くのが見えた。僅かに肩の力を抜く。銀鱗を持つ飛竜を駆るのは、人界とダークテリトリーを含めても整合騎士しかいない。
しかし、安心するのは早い。いったい誰が何のためにこんな辺境まで飛んできたのか。反逆者キリトの粛清論は、半年経っても消えていないのだろうか。
小屋の裏から雨縁も這い出てきて、長い首を高くもたげて再び低く唸った。
しかし、剣呑な響きはすぐに消え、喉声はきゅうんと甘えるような甲高いものに変わった。その理由は、アリスにもすぐに分かった。
見事な手綱さばきで、狭い草地に大した音もさせずに着地した騎士の竜は、雨縁とよく似た青緑がかった銀の鱗を持っていた。間違いなく彼女の兄竜、名を滝刳(タキクリ)。ということは、その背に乗る白鎧の騎士は――。
左腰の長剣と、右腰に束ねた鞭を鳴らして降り立った騎士に、アリスは硬い声で呼びかけた。
「……よくここが分かりましたね。何をしに来たのです、エルドリエ」
長身痩躯の整合騎士は、すぐには応えず、流麗な仕草で右手を胸にあててまず一礼した。おもむろに外された、後方に長い飾り角を立てた兜の下から現れたのは、艶やかな藤色の長い巻き毛と、男としてはやや華美すぎるほどに整った容貌。紅を引いたように鮮やかな唇が動き、音楽的な声が流れた。
「お久しゅうございます、我が師アリス様。装いは違えど相変わらずお美しくいらっしゃる。今宵の月明かりには師の御髪もさぞ麗しく輝いておられようと思うと居ても立ってもいられずに、秘蔵の銘酒片手に馳せ参じた次第」
背中に回されていた左手がさっと差し出されると、そこに握られていたのは一本の赤ワインだった。
アリスはため息を飲み込みながら、剣の弟子であるところの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスを眺めた。
「……傷は癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。今気付きましたが、そなた少し元老チュデルキンに似ていますよ」
うぐっ、と妙な音を出すエルドリエに背を向け、小屋へと歩きだす。
「あ、あの、アリス様……」
「真面目な話があるのなら中で聞きます。無いならそこで一人酒をしなさい、好きなだけ」
半年振りの再会に、嬉しそうに首をこすり合わせている滝刳と雨縁の兄妹をちらりと見上げてから、アリスは足早に小屋へ戻った。
おとなしく付いてきたエルドリエは、狭い小屋のなかを物珍しそうに見回したあと、テーブルの脇で俯くキリトをちらりと一瞥し、僅かに切れ長の眼を細めた。しかしそれきり、かつての剣敵のことは無視することに決めたようで、素早くテーブルの奥に滑り込むと、アリスのために椅子を引いた。
「…………」
ありがとう、と言うのも馬鹿馬鹿しいのでため息で代用し、アリスはどすんと腰を降ろした。エルドリエは勝手にアリスの向かいに座ると、ワインをテーブルに置き、不意に顔を持ち上げて形のよい鼻をひくひく動かした。
「何やら良い匂いがしますな、アリス様。ところで私、夕餉はまだ食べておりませぬ」
「何がところでなのですか。だいたい、長駆するのに酒を持って携行食を持たぬとはどういうことですか」
「私はあのぱさぱさした奴は一生食わぬと三神に誓いましたので。あんなもので腹を満たすくらいなら、飢えて天命が尽きようとも本望というもの……」
エルドリエの益体も無い返答のなかばでアリスは椅子を立ち、背後の台所に移動すると、かまどに乗った鉄なべからシチューの残りを皿についでテーブルに戻った。
無言で目の前に置かれた皿を、エルドリエは一瞬の喜びと、続く疑念をあらわにして見下ろした。
「…………つかぬことを伺いますが、これはもしやアリス様お手ずから……?」
「そうですが。それがどうかしましたか」
「…………いえ。我が師の手料理を頂ける日が来ようとは! 秘剣の型を授かったときに勝る喜びというもの」
緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶエルドリエが再び何かを言い出す前に、アリスは声音を改めて再び問い質した。
「それで、そなた、どうやってこの場所を探り出したのです。央都からはいかなる探査術も届かぬ距離……さりとて、今更私ひとりを見つけるために騎士を割く余裕など、カセドラルには無いはずです」
エルドリエはしばらく答えず、何だ旨いじゃないですか、などと呟きながらシチューをがっついていたが、やがて綺麗になった皿を置くとまっすぐにアリスを見た。
「私とアリス様の魂の絆によって……と言いたいところですが、残念ながらまったくの偶然ですよ」
芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。
「最近、北方で活動するダークテリトリー勢があるという情報が届きましてね。南北西の洞窟はすべて、騎士長の指示で潰してありますが、そこを性懲りも無く掘り返す気かもしれんということで、私が確認にきたのです」
「何……洞窟を……?」
アリスは眉をしかめた。
果ての山脈に穿たれた四箇所の孔のうち、南、西、そして北の洞窟はごく狭く、闇の軍勢の中核を成す巨躯のオークやトロールは通過できない。ゆえに、敵軍の本陣は東の大門に集結すると予想されたが、騎士長ベルクーリは念を入れて、指揮権を得た直後に三箇所の洞窟をすべて崩落させたのだ。
それを知っていたからこそ、アリスはこの地を隠遁先に選んだのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。ここは平和な辺境からたちまち戦火の最前線となってしまう。
「それで……動きは確認できたのですか」
「丸一日かけて飛びまわりましたが、オークはおろかゴブリンの一匹すらも見ませんでしたよ」
エルドリエは再び肩をすくめた。
「大方、新米の騎士が、獣の群れか何かを軍勢と見違えたのでしょう。……っと、これは失言」
新米と言うならば、最新の整合騎士であるアリスがもっとも該当することになる。頭を下げるエルドリエに軽く手をかざし、アリスは考えた。
「……洞窟は確認しましたか?」
「無論。向こう側から中を覗きましたが、見渡すかぎり岩で埋まっておりましたよ。あれを掘り返すにはトロールが一部隊は要るでしょう。……それを確かめ、再び東へ戻ろうと手綱を引いたところ、滝刳が妙に騒ぎましてね。導かれるまま飛んでみたら、この場所に降りたという次第です。正直、私も驚きましたよ。大した偶然……いや、やはり運命の導きか」
いつの間にか芝居めいた口調を一切消し、エルドリエは剛直な騎士の貌になって続けた。
「いまこの時、再び相まみえたからには、これを申すのは私の責務。アリス様……騎士団にお戻りください! 我々は、千の援軍よりもあなた御一人の剣を必要としております!!」
迷いの無い強い視線から逃れるように、アリスは僅かに俯いた。
判っている。
人界を包む脆い殻が、いま音を立てて砕けようとしていることも。それを支えようとするベルクーリと守備軍の絶望的な状況も。
騎士長には返し尽くせぬ恩があるし、エルドリエを含む整合騎士団の朋輩たちには絆を感じもする。しかし、それだけでは戦えないのだ。強さとは意志の力そのものである、アリスは最高司祭との戦いで知りすぎるほどにそれを知ってしまった。天命や権限の絶望的戦力差を覆すのも意志力なら、最強の刃をなまくらに変えてしまうのもまた同じ――。
「……できません」
ごく微かな声で、アリスは答えた。
間髪入れず、エルドリエの鋭い声が響いた。
「何故です」
返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、左横の車椅子に沈み込む若者に向ける。
「その男のせいですか。カセドラルの神聖を侵し、多くの騎士を刃にかけた此奴が、今も尚アリス様のお心を惑わせているのですか。であればその迷い、今すぐにでも私が断って差し上げる!」
ぎり、と右腕に力を込めるエルドリエを、アリスは一瞬かつての剣気を取り戻した両眼で射た。
「やめなさい!」
抑えた声量ではあったが、整合騎士は指先を持ち上げただけでぴたりと動きを止めた。
「彼もまた、己の信じる正義のために戦ったのです。そうでなければ、なぜ最強たる我ら整合騎士が、騎士長にいたるまで遍く敗れ去ったのですか。彼の剣の重さは、直接刃を交えたそなたが一番よく知っている筈」
怜悧な鼻梁に、僅かに悔しげな皺を寄せ、エルドリエは再び体を落とした。勢いの失せた口調で、呟くように独白する。
「……確かに、人の半数を剣骨の兵に変えるという最高司祭様の計画は、私にも受け入れがたいものです。そして、此奴が現れなければ、計画が実行されるのを何ぴとも止められなかったでしょう。増して、此奴を導いたのが、アドミニストレータ様に放逐されたもう一人の最高司祭であった、という騎士長殿の話が事実であるなら、私も今更此奴の罪を問おうとは思いませぬ。しかし……そうであるなら、尚のこと納得が行かない!!」
今までせき止めていた胸のなかのものを吐き出すように、エルドリエは叫んだ。
「この男が、アリス様の仰るように整合騎士をも上回る最強の剣士だというのなら、何故いま剣を取り戦おうとしないのです!! 何故このような情けない姿に成り果て、アリス様をも縛りつけようとするのですか!! 民を守るというなら、まさに今こそがその時だというのに!!」
火を吐くようなエルドリエの言葉にも、キリトは一抹の反応すらも見せなかった。薄く開いた黒瞳を、虚ろにテーブルに向け続けるのみだ。
降り積もる重い沈黙を、やがてアリスは穏やかな声で破った。
「……御免なさい、エルドリエ。私はやはり行けません。この人とは関係ない……私の剣力はもう失せてしまった、それだけなのです。今そなたと立ち会えば、たぶん三合と持たないでしょう」
エルドリエははっとしたように顔を上げ、アリスを見つめた。歴戦の騎士の貌が、一瞬、幼い少年のようにくしゃりと歪み、やがて諦念を映した微笑に変わった。
「……そうですか。では、もう何も言いますまい……」
ゆっくりと右手を伸ばし、低く速い詠唱で神聖術の起句を呟いた。生み出した二個の晶素を、騎士は熟練の駆式でたちまち光り輝く薄いグラスに変えた。
テーブルからワインの瓶を取り上げ、指先でキン、と音をさせて首を切断する。鋭利な切断面を傾け、優美な仕草でごく僅かずつ真紅の液体をグラスに注ぎ、瓶を置いた。
「……別れの酒になると知っていれば、秘蔵の西域産二百年を持って参りましたものを」
片方のグラスを持ち上げ、エルドリエは一息に呷ると、そっとテーブルに戻した。一礼して立ち上がり、純白のマントを翻して背中を向ける。
「では、これで御別れです、師よ。教授頂きました剣訣、このエルドリエ生涯忘れませぬ」
「……元気で。無事を祈っています」
どうにかそれだけ口にしたアリスの言葉に、僅かに見せた横顔で微笑みを返し、整合騎士はかつかつと長靴を鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない剣士の誇りに満ちていて、アリスは思わず目を伏せた。
ドアが開き、閉じると、数秒後に滝刳が一声高い鳴き声を放ち、羽ばたき音がそれに続いた。兄との別れを惜しむ雨縁の鼻声が、アリスの胸をちくりと刺した。
アリスはしばらく、身動きせずじっと座っていた。
やがて手を伸ばし、残されたグラスを持ち上げると、中身をそっと唇で受けた。半年振りのワインは、甘さよりも渋さを強く舌に残した。直後、短い天命が尽きた二客のグラスが微かな光と変じて消滅した。
そのまま、アリスは長いこと椅子に背を丸めていたが、どこか遠くで名も知れぬ獣が遠吠えしたのを機に、やっと身体を起こした。
「……御免なさいね、キリト。疲れたでしょう、いつもならもうとっくに休む時間だものね」
車椅子の若者に囁き、そっと肩に手をあてて起立させる。黒い部屋着を脱がせ、生成りの寝巻きに着替えさせると、やせ細った体を抱えて寝室に運んだ。
窓際の大きなベッドの奥がわにそっと横たえ、足元から毛布を持ち上げて首元までかけてやる。半眼に開いたままのキリトの瞳は、瞬きもせずに虚ろに天井を見上げる。
ベッドから離れ、壁のランプを吹き消すと、室内にはうす青い闇が降りた。それでもキリトは尚もじっと天井を見続けていたが、数分が経ったとき、まるで何かの動力が切れたかのように、音も無く瞼が閉じた。眠ったのではなく、恐らくは、夜、暗い部屋で横になれば眠るものだ、という過去の記憶に体が反応しただけに過ぎないのだろうが。
それでも、アリスはほっと息をつくとベッドから離れ、自分も寝巻きに着替えた。居間の灯りも落とし、戸口に閂をかけてから寝室に戻る。
ベッドの毛布を持ち上げ、手前側にもぐりこむと、微かな温もりが身体を包んだ。
いつもなら、眼を閉じればすぐに穏やかな眠りのなかに逃げ込めるのだが、今日はなかなか眠りの神の一撫では訪れなかった。
歩き去るエルドリエの背中、眩いほどに白いマントの上で揺れる藤色の巻き毛の輝きが瞼の裏にのこり、ちくちくと眼の奥を疼かせる。
かつては、自分の背中も同じように誇り高い光に彩られていたはずだ。己の剣で世界を、正義を、あまねく善なるものを護っているのだという揺るぎない確信がいかなるときも指先までに強く行き渡っていた。しかしもう、その力は最後の一片まで失われてしまった。
エルドリエに、かつての弟子に問いたかった。あなたは一体何を信じ、何のために戦うのかと。
しかしそれはできない。アリスとベルクーリ以外の整合騎士は、最高司祭の恐るべき企てについて最小限のことしか知らされていないからだ。あのエルドリエにしても、封印された最上階に己の"過去の記憶"と、そしてその記憶に残る"最愛の人"の変わり果てた体が残されているなどとは露にも思っていないのだ。
ゆえに、彼はまだ教会そのものの正しさを信じていられる。いつかまた次の最高司祭が彼らの上に立ち、再び栄光の時代が戻ることを疑わず、それゆえに雄々しく剣を取り竜を駆れる。
だが、それすらも大いなる欺瞞だと知ってしまった自分はどうすればいいのだ。止むを得ないとはいえ、騎士長ベルクーリはすべての騎士に真実を隠し、絶望的な戦いへと向かわせている。今そこへ加われば、この胸に抱えた迷いはきっと他の騎士たちも惑わせてしまうだろう。
間もなく、最後にして最大の侵攻が始まる。騎士は一人、また一人と倒れ、戦火は広がり、やがてこの山すその村までを飲み込む。それを止めることはもう誰にもできない。僅かな可能性があるとすれば、あのカセドラルでの戦いの最後で、キリトが謎の"神たち"と交わしていた会話の断片――。
『ワールド・エンド・オールター』、そして『東の大門から出て南へ』。その二言だけがおぼろげに記憶に残る。
しかし、大門から出る、ということはその先は黒い荒野と血の色の空が広がるダークテリトリーだ。キリトは、いったいその地で何をしようとしていたのだろうか。
アリスは枕の上で首をかたむけ、離れたベッドの向こう端に横たわる傷ついた若者を見やった。
毛布の中を這い進み、その隣まで移動する。そっと手を伸ばし、まるで悪夢に追われる幼子のように、体にすがりつく。
骨ばかりの体は寒々しいほどに細く、右腕のあるべき空間の虚ろさが胸を刺す。
どれほど強く抱きつこうと、かつてあれほど荒々しくアリスの心を揺さぶり、目覚めさせ、導いた若者はいかなる反応も見せなかった。睫毛の先が震えることすらなかった。ここにあるのは、最早完全に燃え尽きた炭殻に過ぎないことを、アリスは痛いほどに感じた。緩慢に鼓動する心臓の動きすらも、いっそ哀れだった。
いま、右腕に剣があったら――。
触れ合ったふたつの心臓をともに貫き、そしてすべてを終わりに。
その一瞬の思考が、熱い涙となって目尻から零れ、キリトの首筋に散った。
「教えて……。どうすればいいの……」
答えはない。
「私は……どうすれば…………」
静寂のなか、ただ、木々の梢を揺らす晩秋の夜風だけが過ぎていった。
(転章II 終)