「あ…………あ…………」
自分の喉から搾り出される割れた声を、俺はどこかとても遠い場所から聴いた。
世界はすべての色を失い、匂いも、音も、極限まで希釈された。
無感覚の空間のなかで、こんこんと広がり続ける血の色だけがぞっとするほど鮮やかだった。その真紅の海の中央、横たわるユージオの上半身のすぐ傍らに、はるか上空から煌きながら舞い降りたものがあった。
とん、と軽い震動と波紋を生じさせて血溜まりに突き立ったのは、華奢な青銀の長剣――青薔薇の剣だった。見た目は完璧なまでに無傷、と思えたのはほんの一瞬で、不意に、かしゃん、とささやかな破砕音が響き、刀身の半ばから下が極微の結晶となって砕け散った。支えを失った上半分が、ゆっくりと傾いて、ユージオの顔のそばに力なく転がった。飛び散った飛沫のひとつがユージオの頬に当たり、つう、と流れた。
俺は、よろよろと二、三歩あとずさると、床に両膝を突いた。
虚ろに眼を開いたまま、すがりつくように腕のなかのカーディナルの遺体を強く抱いた。しかしその小さな体は、すでに半ば以上光の粒へと還元され、実体をほとんど失っていた。放出された仄かに暖かいリソースは俺の体へと浸透し、何らかの作用を導こうとしているようだったが、俺の胸中に広がる虚無を埋めるには足りなかった。冷ややかで果てのない空疎のみが俺の内部を満たした。
もう――これで終わりにしよう。
そんな思考が、虚ろの奥から泡のように浮かんではじけた。
俺たちは、いや俺は、あらゆる意味で敗れたのだ。俺がいまこの場所に存在する意味、それはただひとつ、ユージオという名の魂を現実世界へと解き放つためではなかったか。なのに現実には、俺がユージオの犠牲に守られ、こうして木偶のように跪いている。この世界で命を落とそうと、それは単なる"ログアウト"にしかならない俺が。
なら、もう終わらせてくれ。
あとはただ、フェードアウトするようにこの場所から消え去りたい。
もうこれ以上、何を見たくも、聞きたくもない。
俺はただそれだけを願った。
しかし――。
アンダーワールドは、やはり、ひとつの確たる現実であり、その支配者もまたエンド画面とともに停止するプログラムなどではなかった。
血の海に立ち尽くしていたアドミニストレータの、彫像のごとき無表情のなかに、かすかな感情の色がいくつか浮かび、消えた。唇が動き、俺の耳に否応なく美しい声が届いた。
「これほどの傷を負ったのは……何百年ぶりかしらね」
その呟きは、怒りよりもむしろ感嘆しているかのようだった。
「ユージオちゃんが転換した剣……プライオリティ的には、とても私の"シルヴァリー・エタニティ"に対抗できるはずはなかったのに、意外な結果だわ。メタリック属性でないのを見落としたのも私の失点ね。まだまだ考証すべきデータは多いわ……」
切断された右肩からは、ぽたり、ぽたりと紫がかった真紅の血が垂れ、足元の海に波紋を作っている。アドミニストレータはその雫をいくつか左の掌に受けると、それを青い光へと変え、傷口に注いだ。切断面が一瞬にして滑らかな皮膚に覆われた。
「さて……」
応急手当を終えた支配者は、長い睫毛をしばたかせ、銀の視線を俺に向けた。
「最後に残ったのがお前だとは、これも少々意外ね、人間の坊や。管理者権限も持たずに、一体何のためにここまで来たのか、わずかばかりの興味はあるけど……でも、もういささか飽きたし、眠いわ。顛末はあとであの者に訊くとして、いまはお前の血と悲鳴でこの喜劇の幕を引くとしましょう」
す、と右足が前に出され、アドミニストレータは優美な動作で歩行を始めた。ユージオの血でできた海に、ぱしゃりぱしゃりと飛沫が跳ねる。
歩きながら、俺の死神である少女は、滑らかに左手を真横に伸ばした。その掌目掛けて、後方からふわりと飛んできたのは、華奢な一本の腕――ユージオの剣に撥ねられた彼女の一部だった。
肩に再接続するのか、と思ったが、自分の腕の手首部分を握ったアドミニストレータは、それを顔の前まで持ち上げ、ふっと息を吹きかけた。その途端、紫色の光が腕を包み、金属質の震動音とともにオブジェクト転換が行われた。
出現したのは、シンプルながら華麗な刀身と柄を持つ、銀色の長剣だった。破壊されたレイピアほどには完璧な鏡色ではないが、世界最高の優先度を持つ人間の腕一本をまるまるリソースとしているだけあって、その秘めたる威力は明らか――少なくとも、一撃で俺の首を撥ねるには充分すぎると思えた。
死が、滑らかな音で絨毯を踏みながら近づいてくるのを、俺は跪いたままただ待ち受けた。
もう何の感情も見せることなく、俺の目の前までやってきたアドミニストレータは、片腕を失ってもなお輝かんばかりの裸形で、傲然と俺を見下ろした。
見上げた俺の視線と、鏡の瞳がはなつ磁力的な光がぶつかった。その双眸に、ごく微かな笑みを浮かべ、少女は優しい声で囁いた。
「さようなら、人間。いつかまた、向こうで会いましょう」
きらきらと光を振り撒きながら、長剣が高々を振りかざされた。
針よりも鋭い切っ先に、ちかりと星のような瞬きが宿り――。
神速でそれが降り注ごうとした、その寸前。
ひとつのシルエットが、俺と死のあいだに割って入った。
長い髪が、ふわりと宙を舞った。
両腕をいっぱいに広げた、満身創痍の少女騎士の背中を、俺は呆然と見つめた。
この光景は、
見たことがある。
俺は、
何度、
同じ過ちを――
――繰り返すつもりなのか!!
閃光にも似たその叫びが、時間を一瞬、停止させた。
静寂に包まれたモノクロームの世界で、いくつかのことが連鎖的に起きた。
俺の腕のなかのカーディナルのからだが、ついに最後の光を散らして消滅した。放出されたリソース、あるいは世界を愛した一人の少女の遺志が仄かな熱となり、俺の内側の深いところにまで届いた。
そこに凝っていた冷たい恐怖、俺の動作を縛していた敗北の確信を、小さな手が撫で、ほんの少しだけ溶かした。
負のイメージが消えたわけではない。
しかし、その弱さを肯定することはできるのだと、温かな手の持ち主が俺に囁いた。
常に勝ち続けなくてもいい。いつか敗れ、倒れたとしても、心を、意志を誰かに繋げられれば、それでいい。
――これまで、お主とひとときを共有し、そして去っていったすべての者はそう思っておったはずじゃ。無論、このわしも。
――ならば、お主だって、まだ立てるはずじゃ。
――愛する誰かを、守るためなら。
身体の、あるいは意識の奥底から発生したささやかな熱が、凍りついたフラクトライトのなかに細い回路をつないでいくのを俺は感じた。
胸の中央から、右肩を通り、腕をたどって、指先へと。
燃え上がるような熱さに包まれた五指が、ぴくりと震えた。
かつてない程の速度で閃いた右手が、左腰の剣の柄を、しっかりと掴んだ。
そして再び、時間が動き出した。
俺を守らんと、大きく両手を広げて立つ騎士アリスの左肩口めがけ、アドミニストレータの剣が流星となって墜ちてくる。
その告死の刃が、焼け焦げた騎士服のふくらんだ袖を引き裂き、白い肌に食い込もうとした、まさにその瞬間。
俺が立ち上がりざまに抜刀した黒い剣の切っ先が、ぎりぎりの所で下方から迎え撃ち、凄まじい火花を散らした。
発生した衝撃は、密接していた俺とアリス、そしてアドミニストレータを圧倒的な勢いで吹き飛ばした。
胸に倒れ込んでくるアリスの身体を左手で抱えたまま、数メートルも後方に押しやられた俺は、両脚を踏ん張って硝子に激突するのをこらえた。俺の右肩に頭をあずけたアリスは、ずるりと顔を傾かせて、青い瞳で俺を見た。
「なんだ……」
アドミニストレータの火炎攻撃をその身で防いだ傷も生々しい頬を、ほんのわずかにほころばせ、騎士はかすれた声で囁いた。
「まだ、動けるでは……ないですか」
「……ああ」
俺も、どうにか笑みらしきものを返し、そう答えた。
「後は、任せておけ」
「そう、させて……もらいます」
その一言を最後に、アリスは再び意識を失い、がくりと膝を折った。
細い体を左腕で支え、そっと床に降ろすと、俺はもういちど胸中で呟いた。
あとは任せて、ゆっくりと休んでくれ。
シャーロット、カーディナル、そしてユージオから預かったこの命を、俺は君に繋ぐ。
いま、どうしても成すべきは、アリスだけでも何としてもこの隔絶空間から脱出させることだ。そのために、俺はアドミニストレータと戦い、勝てないまでも相討ちに持ち込まねばならない。
たとえこの四肢すべて斬り飛ばされ心臓を貫かれようとも。
その覚悟を噛み締めながら視線を上げ、俺は敵を見据えた。
アドミニストレータは、笑みを極限まで薄れさせ、剣を握った左手を見つめていた。先の戟剣で傷ついたのか、柔らかそうなその掌がわずかに擦りむけ、一滴の血が剣の柄に伝っている。
「……さすがにそろそろ不愉快になってきたわ」
ぽつり、と極寒の響きをまとった声が漏れ出た。俺に向けられた鏡の瞳が、すう、と細められた。
「何なの、お前たちは? なぜそうも無為に、醜く足掻くの? 結果はもう明らかだというのに。そこにたどり着く過程にどんな意味があるというの?」
「過程こそが重要なんだ。跪いて死ぬか、剣を振りかざして死ぬかがね。俺たちは人間だからな」
応え、まぶたを閉じ――俺はもういちど、敗れるべき己の姿をイメージした。
これまで、長い間俺を否応なく規定してきた"黒の剣士キリト"の自己像。決して敗北してはならない――もし敗れたときは、あらゆる居場所を失うと怯えてきた呪縛の象徴。
しかしもう、その虚像からも手を離すべきときだ。
眼を開けると、長い前髪が視界にかかっていた。それを、指貫きのグローブに包まれた左手でかき寄せ、長い黒革のコートの裾を翻すと、俺は右手の長剣を正眼に構えた。
離れた場所に立つアドミニストレータは、瞬間眉を険しくしかめたあと、この一幕でもっとも残酷な笑みを浮かべた。
「そう、いいわ。あくまで苦痛を望むというのなら……お前には、とてもとても永く惨い運命を与えましょう。はやく殺して、と千回懇願したくなるほどの」
「それじゃ足りないな……俺の愚かさを償うには」
呟き、ぐっと腰を落として、俺は敵の銀の長剣を見た。
アドミニストレータの神聖術の超絶的威力はこれまで散々思い知らされたが、そのリソース源であった鏡のレイピアが破壊されたいま、高優先度の術式を連発することはもうできないだろう。それゆえに彼女はわざわざ己の腕を、新たな剣へと変換したのだ。
武器による近接戦闘は俺としても望むところだが、敵の剣技はまったくの未知数である。恐らくはアリスに代表される整合騎士のスタイル、つまり単発の大技を主とするものだろうが、それが決して侮ってよいものではないことは、アリスとの戦闘で思い知らされたとおりだ。
武器のプライオリティそのものでは恐らくこちらが劣るので、遠距離からの撃ち合いとなれば不利だ。なんとか密接し、敵の一撃を体で止めて、反撃を確実に命中させるしかない。
腹を決め、俺は突進に備えてさらに腰を落とした。前に出した右脚に、引き絞られた弓のように限界まで力を込める。
対峙するアドミニストレータは、涼やかな立ち姿で左手の剣を高く左後方に掲げた。やはりアンダーワールド風の古流の構えだ。あそこから放たれる一撃は恐らく回避不可能の神速技、それをなんとか連続技の初撃でいなして致命傷を避け、続く二撃目を当てる。
「………………」
俺は大きく息を吸い、ぐっと腹に溜めた。
一瞬ののち、右脚のブーツを爆発するように踏み切って、俺は跳んだ。
コートの裾が、翼のように両側ではためく。一条の黒い光線となって、俺は宙を疾る。右手の剣が、きらりと閃いて初動に入る。垂直四連撃、バーチカルスクエア――。
アドミニストレータは、俺の予想どおり、振りかぶった銀の剣を斜めの軌道で撃ち降ろしてきた。その描く曲線を読み、こちらの技を微調整して、敵の剣の腹へと叩きつける。
ギャアアンッ!!
という強烈な金属音が響き、迸った火花が空間を灼いた。
跳ね返された剣を、そのまま左に振りかぶり、無呼吸の二撃目に――
待て。
軽い。
予想では、アドミニストレータの剣は、俺の左肩に命中しそこで止まるはずだった。
しかし、敵の刃は、俺の右手にさしたる手応えも残さずに左側の虚空へと流れ――
そこで凄まじい速度で切り返されて、
俺の二撃目よりも迅く、真横から襲い掛かってきた。
――っ!?
驚愕に打たれながらも、俺は反射的に技をずらし、危うい所で銀の刃を迎え撃った。再びの衝撃。火花。
跳ね上げられた黒い剣を、引き戻すよりも一瞬先んじて。
アドミニストレータの剣が、再度左から滑り込んでくる。
受けは間に合わない。連続技を停めて身体を捻り、なんとか回避を試みる。
しかし、切っ先が僅かに胸をかすめ、コートの一部が鮮やかに切り裂かれる。
通り過ぎた銀の煌きは、何たることか、右側でもう一度超高速の切り返しを見せ――
ずばっ!! という鮮やかな横薙ぎの一撃を、俺の腹に叩き込んだ。
「…………ッ!!」
迸る鮮血の糸を引きながら、俺は後方に跳びのき、左手で傷を押さえた。
あとわずかで内臓に達するほどの深手だ。しかしその激痛よりも、俺は言葉を失うほどの驚愕に打たれていた。
いまの――今の技は――!?
喋れない俺に代わって、アドミニストレータが、剣尖のあかい雫を振り切りながらゆっくりと告げた。
「――片手直剣四連撃ソードスキル、"ホリゾンタル・スクエア"……だったわね」
自分の耳が捉えた言葉が、意味へと変換されるまでに少しのラグがあった。
ソードスキル――、
今、アドミニストレータは、そう言ったのか。
この世界では、俺とユージオしか知るはずのない、旧ソードアート・オンライン由来の連続剣技。それを見事に使いこなし、しかも技の名まで口に出すなどと――一体なぜ、そんなことが。
巨大な混乱に襲われ、じりじりと距離を取る俺の視界に、血の池に倒れ臥すユージオの姿が僅かに入った。ずきりと襲ってくる疼きと焦燥に耐えながら、俺はある可能性を思いつく。
アドミニストレータはユージオの名前を知っていた。恐らく、俺とアリスがこの部屋に乗り込む以前に、ユージオに対して何らかの干渉が行われたことは間違いない。フラクトライトへの直接アクセス権を持つアドミニストレータは、ユージオの記憶を走査し、そこから俺が彼に伝えた連続剣技を掬い取ったのではないか?
この推測が正しければ――彼女が使えるのは、片手直剣用の中級スキルまでに限られるはずだ。ユージオがマスターしていた技は最大でも五連撃までなのだから。
ならば、俺がそれ以上の技を繰り出せば、勝機はある。
片手直剣技を完全習得した俺の最大攻撃は、十連撃に及ぶのだ。もう、出し惜しみをしている状況ではない。
ぐ、と足を開き腰を落とした俺を見て、アドミニストレータがくすりと嗤った。
「あら……まだ、そんな生意気な眼ができるの? いいわね、楽しい時間が長くなるというものだわ」
片腕を落とされ、天命も大幅に減少しているはずの最高司祭は、底知れぬ余裕を見せてそう嘯いた。俺はもう言い返そうとせず、大きく息を吸い、ぐっと溜めた。
身体と記憶に染み付いたソードスキルのイメージが、鮮明に蘇ってくる。見れば、右手の剣を、ぼんやりとスカイブルーのエフェクト光が包み始めている。
ゆるり、と円を描くようにその剣を大上段に持ち上げ――
「――ハァァッ!!」
気合一閃、同時に剣から迸った眩い光芒を振り撒きながら、俺は片手直剣最上位ソードスキル、"ノヴァ・アセンション"を発動させた。
見えない力に後押しされるように、身体が超高速で宙を翔ける。初弾は、ほとんどの剣技に撃ち合わせることが可能な上段から最短距離の斬撃だ。この速度を上回る技は、片手直剣には無いはずだ。
刃がアドミニストレータの肩口を襲うまでの約〇.五秒。
加速感覚によってゼリーのように密度を増した時間のなか、俺の瞳が捉えたのは――。
す、と剣尖をこちらに向けられるアドミニストレータの銀の剣。
その刀身が、一瞬でその幅を半分ほどに縮め。
ヴァーミリオンのライト・エフェクトをちかっと瞬かせ。
ドカカカカッ!! と、立て続けの刺突八弾が自分の肉体を貫くさまだった。
「がっ……」
俺の口から、大量の血液が迸った。
黒い剣の刃は、あと髪ひとすじ程でアドミニストレータの肌を切り裂く、というところで停止していた。
初弾をインタラプトされた俺の十連撃は、ブルーの輝きをむなしく宙に放散させ、消滅した。
一体何が起きたのか、もうまったく理解できなかった。激痛と驚愕の双方に等しく翻弄され、俺は腹から血塗られた極細の刀身がずるりと抜き出されるさまを、ただ見つめた。
突き技――!?
しかし、何というスピードだ。あんな技、直剣カテゴリには存在しない。
混乱と同期するかのように、八箇所の小さな傷口から、勢い良く鮮血が噴き出した。がくりと膝から力が抜け、俺は剣を床に突きたてて倒れるのをどうにか堪えた。
俺の血を避けるように、軽やかに数歩跳んだアドミニストレータは、極細の剣で唇のあたりを覆った。それが、哄笑を抑える仕草であることを俺は直感的に察した。
「うふ……ふふふ……ざーんねんでした」
刃の縁から、きゅうっと唇の両端をはみ出させ、美貌の支配者は嘲るように告げた。
「細剣八連撃ソードスキル、"スター・スプラッシュ"よ」
――嘘だ。
そんな技、俺はユージオに教えていない。
それは――俺ではなく――アスナの得意技ではないか。
ぐうっ、と世界が歪む感覚。いや、歪んでいるのは俺自身か。有り得ないはずの事象を突きつけられ、俺は必死に解答を求める。
覗かれたのは――俺の記憶?
今の技は、俺のフラクトライトから盗まれたのか?
「嘘だ……」
俺の口から、俺のものとは思えない潰れた声が漏れた。
「そんなの嘘だ」
ぎりり、と噛み合わされた歯が軋む。自分でも理由のわからない怒り、そして再び忍び寄りつつある恐怖を打ち消そうとするかのように、俺は床から乱暴に剣を引き抜き、ふらつく脚を叱咤して大きくスタンスを取る。
左手を前に、右手を引いて。一撃必殺、"ヴォーパル・ストライク"の構え。
彼我の距離、約五メートル。完全に間合いのうちだ。
「う……あああああ!!」
萎えかけたイマジネーションの力を無理やりに引っ張り出すべく、俺は腹の底から絶叫した。肩の上につがえられた剣が、獰猛なまでのクリムゾンに輝く。それは血の色――あるいは、むき出しの殺意の色か。
対するアドミニストレータは。
俺と同じように、両脚を大きく前後に広げると、左手のレイピアを滑らかな動作で右腰に回し、まるでそこに鞘があるかのようにぴたりと止めた。
その針ほどにも細い刀身が、再び形を変えた。
ぐ、と幅と厚みを増し、その上ゆるやかな弧を描く。片刃の曲刀――あれは、まるで。
いや、もう思考はいらない。怒りだけがあればいい。
「――――おおおッ!!」
獣の咆哮とともに、俺は剣を撃ち出した。
「――シッ!!」
アドミニストレータの唇からも、抑制された、しかし鋭い気合が放たれた。
右腰の剣が、眩い銀色に輝き。
俺の血色の直突きよりも、滑らかで、美しく、そして速い曲線軌道を描いて。
抜き打ちの一撃が、俺の胸を抉った。
巨人のハンマーで横殴りにされたような、凄まじい衝撃が俺を紙切れのように吹き飛ばした。決定的な深手から、残ったほぼすべての天命を真紅の液体に変えて放出しながら、俺は高く宙を舞った。
左手をまっすぐに振りぬいた姿勢のまま、アドミニストレータが悠然と放つ言葉が、かすかに俺の耳に届いた。
「カタナ単発重斬撃、"絶虚断空"」
俺の――
知らない、
ソードスキル。
驚愕などという形容では追いつかない、圧倒的に拒絶された感覚を抱えながら、俺は床に墜落した。ばちゃり、という水音とともに、大量の鮮血が周囲に散った。俺のものだけではない――落ちたのは、ユージオの肉体から零れた真紅の海のなかだった。
痺れ切った意識、そして身体のなかで、動かせるのはもう視線だけと思えた。俺は懸命に眼を巡らせ、すぐ傍らに横たわるユージオを見た。
骨盤の真上あたりから無残に分断された、誰よりも大切な相棒は、真っ白な顔をわずかに傾けて目蓋を閉じていた。その傷口からは、まだぽた、ぽたと血が垂れていて、天命がすでに尽きてしまったのか、あるいはまだ僅かに残っているのか判別できなかったが、しかしもう意識は戻るまいと思えた。
そして、何より確かなのは――俺が、彼から受け取った意志を無駄にしてしまったということだった。
アドミニストレータには勝てない。
神聖術戦ではもちろん、剣と剣の戦いにおいても、俺があの存在に勝る部分は何一つ無かったのだ。
一体彼女が、いかなる情報源からソードスキルの恐らく全体系を己に取り込んだのかはもうまったく解らない。ユージオの記憶でも、俺の記憶でもないことだけは明らかだ。アンダーワールド構築にも使用された、汎用のザ・シードパッケージには、ソードスキルのシステム・アシスト・プログラムは含まれていない。それが現存するのは旧SAOサーバーを受け継いだアルヴヘイム・オンラインの内部だけだ。しかし、高度なプロテクトに守られたはずのALOサーバーにハッキングを仕掛けるなどということは、現実世界の人間ではないアドミニストレータに出来るはずはないのだ。
これ以上はもう、推測するだけ空しい。たとえ真実を導けたとしても、俺にはもう何もない、という事実は厳然として変わらない。
許し難い無力――耐え難い矮小さ。
シャーロットの献身、ユージオの覚悟、そしてカーディナルの遺志を、俺は――。
「――いいわね、その顔」
凍りついた刃物のような声が、倒れ臥す俺の首筋を撫でた。
剣を下げたアドミニストレータが、一歩、一歩と、しなやかに近づいてくる気配が感じられた。
「やっぱり、向こうの人間は感情表現も一味違うのかしらね? その泣き顔のまま、永遠に氷漬けにしておきたいようだわ」
絹を撫でるような喉声で、小さく嗤う。
「それに、面倒なだけだと思ってた武器戦闘も、これはこれで悪くないわね。相手の苦痛を指先で感じるもの。せっかくだから、もう少しだけ生きていて頂戴な。私がさきっぽから切り刻んで遊べるように」
「……好きに、しろ」
音にならない声で、俺は答えた。
「好きなだけ……嬲って、殺せ……」
せめて俺が、ユージオやカーディナルの倍、いや十倍苦しんでこの世界から消えるように。
もう喋る力も尽きかけ、貼り付いたように黒い剣の柄を握り続ける右手の指を、俺は最後の気力で引き剥がそうとした――
その瞬間。
耳元で、声がした。
「らしく……ないぞ、諦め……る、なんて」
切れ切れの、
今にも消え入りそうな、
しかし聞き間違えるはずもないその声は。
俺は、自分がすでに意識を失い幻覚に落ち込んだのかと疑いながら、再び視線を動かした。
泣きたくなるくらい懐かしい、鳶色の瞳が、うっすらと俺を見て微笑んでいた。
「ユー……ジオ!!」
掠れ声で叫んだ俺に向かって、相棒は、ほんの僅かに唇をほころばせてみせた。
先刻、ソードゴーレムの攻撃で腹を分断されかけた俺は、痛みと恐怖で動くこともままならなかった。しかしユージオの傷は、その比ではない。内臓から脊髄まで、全てが完璧に切断されているのだ。その痛みは、フラクトライトが崩壊するに充分なレベルに達しているはずなのに――。
「キリト」
凄まじい意志力の発露を見せ、ユージオがもういちど囁いた。
「僕は――あのとき……アリスが連れ去られるとき……動けなかった……。君は……幼い君は、勇敢に……立ち向かおうと、したのに……」
「……ユージオ……」
それが、九年前の出来事に関する言葉であろうことはすぐに解った。しかし、俺はその場には居なかったはずなのだ。ユージオの記憶が混乱しているのか、と一瞬思ったが、彼の眼に宿る光はあくまでもまっすぐで、その言葉が真実を告げていることを明白に表していた。
「だから……今度は、僕が……君の、背中を、押すよ……。さあ、キリト……君なら、もう一度、立てる。何度だって、立ち上が……れる……」
ユージオの右手が、ぴくり、と動いた。
その指が、血の海のなかから、青銀に輝く金属――青薔薇の剣の柄を拾い上げるのを、俺は溢れる涙を通して見た。
刀身の半分が粉砕された愛剣を、ユージオはその断面を血に沈めたまま僅かに持ち上げ、そして一瞬眼を閉じた。
直後、とてつもなく暖かな朱色の輝きが、俺たちを包んだ。
血だ。ほとんどはユージオの、そして少しばかり俺の零したものが混ざりこんだ血の海が、炎のように発光している。
「何をっ……!?」
アドミニストレータが、そう叫ぶ声がした。しかし、何故か無敵の支配者は、朱色の光を恐れるかのように左手で顔を覆い、一歩後ずさった。
輝きは、どんどん……どんどんその強さを増し、ついに無数の光点と化して一斉に舞い上がった。
それらは皆つぎつぎと、渦を巻いて青薔薇の剣へと吸い込まれていく。
そして、剣の断面から――真紅の、新たな刀身が。
ダイレクトリソース変換!
世界にたった二人の管理者にしか使えないはずの超絶技を間近に見て、俺は息を詰まらせた。恐ろしいほどの感情のうねりが胸の奥から湧き上がり、それは新たな涙に変わって次々と溢れ出した。
数秒でもとの長さを取り戻した青薔薇の剣の、その名の由来となった、柄に精緻に象嵌されている幾つもの青紫色の薔薇たちが、真紅にその花弁を変えた。今はもう紅薔薇の剣となったその美しい武器を、ユージオは震える腕で俺に差し出した。
さっきまで感覚すら失せていた俺の左手が、滑らかに動き、ぐっとユージオの手ごと剣の柄を掴んだ。
瞬間、身体の奥深いところに流れ込んできたエネルギーを――
俺は術式とは呼ばない。
それは確かに、ユージオの意志そのものが生み出す力だった。奇跡、そう言ってもいい。システムも、コマンドもまったく超越したレベルで、ユージオのフラクトライトから俺のフラクトライトへと伝わる魂の共振を、俺は確かに感じた。
ユージオの手から力が抜け、俺に剣を預けると、ぱたりと床に落ちた。再び微笑みを浮かべたその唇から――いや、彼の意識から俺の意識へと、短い一言が伝達された。
『さあ……立って、キリト。僕の……英雄……』
全身に穿たれた傷の痛みが消えた。
胸の奥の虚無が、燃え上がるような熱さに埋め尽くされた。
再びまぶたを閉じたユージオの横顔を、いっとき強く見つめ、俺はうなずいた。
「ああ……立つよ。お前のためなら、何度だって」
数秒前までは感覚すらなかった両腕を高く差し上げ、そこに握った二本の剣を床に突いて、俺は歯を食いしばって全身を持ち上げた。
体は半分以上言うことを聞こうとしなかった。足はふらつき、孔だらけの体幹は今にも砕けそうだ。それでも、俺は一歩、二歩と、よろけながら前に進んだ。
アドミニストレータは、背けていた顔をゆっくりとこちらに戻し――蒼い炎のような両眼で俺を見た。
「――何故だ」
放たれたその声は、フィルタがかかったかのように低く歪んでいた。
「何故そう幾度も幾度も抗おうとする。何故そうまで拒絶するのだ、慈悲深き絶望の腕を」
「言ったろう」
同じく、低く掠れた声を俺は返した。
「抗うことだけが、俺が今ここにいる意味のすべてだからだ」
その間も足を止めず、何度も倒れそうになりながら、俺はひたすらに進み続ける。
右手と左手に握った二本の剣たちは、とてつもなく重かった。しかし同時に、その強烈な存在感からはある種のイマジネーティブな力が尽きることなく湧き上がり、俺の内部を満たし、身体を動かした。そう――遠い、遠い昔、こことは別の世界で、俺はこうして二刀を引っさげて幾度も死地へと赴いたものだ。これこそが、俺が長い間忌避しつづけてきた黒の剣士、"二刀流"キリトの真にあるべき姿だ。
再び視覚のオーバーライティング現象が発生し、切り刻まれたロングコートが一瞬で再生した。無論、肉体に負ったダメージまでは消えない。だがもう、残る天命数値が幾つだろうと関係ないと思えた。手足が動き、剣を振れさえすれば、それ以上必要なものはもう何一つない。
レーザーのような視線で俺を射ていたアドミニストレータが、不意にじりっと片足を下げた。ついでもう片方も。
そののちに、己が後退したという事実に気付いたかのように、白銀の美貌に鬼神のごとき憤怒の表情が浮かんだ。
「……許さぬ」
唇が動くことなく発せられた一言は、青白い炎に包まれていた。
「ここは私の世界だ。貴様如き侵入者に、そのような振る舞いは断じて許さぬ。膝を衝け。首を差し出せ。恭順せよ!!」
ごっ!! と凄まじい勢いで、支配者の足下から、黝い闇のオーラが噴き出し蛇のようにうねった。カタナから再び直剣へと戻った銀色の刃が凶悪にぎらつきながら持ち上げられ、ぴたりと俺の胸の中央を擬した。
「……違う」
距離約五メートルの位置で脚を止め、俺は最後の言葉を返した。
「あなたは只の簒奪者だ。世界を……そこに生きる命を愛さない者に、支配者の資格は無い!!」
身体がほとんど勝手に動き、構えを取る。左手の紅い薔薇の剣を前に、右手の黒い大樹の剣を後ろに。右脚を引く。腰を落とす。
アドミニストレータの銀の剣も、すうっと肩の上まで掲げられ、俺の黒い剣と対象の位置、角度で停止した。真珠の唇から、何度と無く繰り返された言葉が、託宣のように放たれた。
「愛は……支配也。私はすべてを愛する。すべてを支配する!!」
外燃機関を思わせる同質の金属音が、双方の剣から放たれ、高く共鳴した。
銀の剣と黒の剣が、まったく同色の真紅の閃光に包まれた。
俺とアドミニストレータは、同時に床を蹴り同一のソードスキルを始動させた。
完璧な鏡像を成して、剣が矢のように引き絞られ、一瞬の溜めで光を倍増させ――撃ち出される。
等しい軌道上を直進したそれぞれの剣は、ほんの僅かに剣尖を触れ合わせ、交差した。
重い衝撃とともに、俺の右腕が肩の下から斬り飛ばされ、
しかしその時には、俺の剣もアドミニストレータの左腕を付け根から断ち斬っていた。
吹き飛んだそれぞれの剣と腕が、いまだクリムゾンの光芒を引きながら、高く舞い上がった。
「おのれええええええ!!」
双腕を失ったアドミニストレータの鏡の眼が、虹色の焔と化して燃え上がった。
長い髪が、まるで生き物のように逆立ち、無数の束を作って宙をうねった。その尖端が鋭い銀色の針に変わり、俺の全身目掛けて襲い掛かった。
「まだだあああああっ!!」
俺の叫びと同時に、左手に握られたユージオの剣が、再び真紅の閃光を解き放った。
SAO世界では決して有り得なかった、二刀によるヴォーパル・ストライクの二撃目が、やや下方から血の色の彗星となって突進し――
銀針の群れの中心を突き破って、アドミニストレータの胸の中央を深く貫いた。
とてつもなく重く、決定的な手応えが、俺の左の掌に深く浸透した。全身に穿たれたレイピアの傷より、胸を抉ったカタナの傷より、そして切断された右腕の痛みよりも、それは鮮明に俺の意識の隅々にまで響き渡った。
剣がアドミニストレータの滑らかな皮膚を切り裂き、筋肉を断ち骨を砕き、その奥の心臓を吹き飛ばすのを――つまり、自分がひとりの人間の生命を破壊したのを、俺は実際に眼で視たかのように自覚した。この世界の人間たちが本物のフラクトライトを持っていると悟ってから、執拗に避け続けてきた行為。しかし、この一撃に限っては一抹の躊躇いもなかった。ここで迷うことは、俺たちを信じて逝ったカーディナルのためにも決して許されなかった。そして恐らく、誇り高き支配者であるアドミニストレータのためにも。
そのような思考を巡らせることができたのも、ほんの一瞬だった。
最高司祭の胸の中央を貫いた青薔薇の剣が、ソードスキルのエフェクト光ではない、恐ろしいほどに強烈な真紅の輝きを放ったのだ。
ユージオの血から再生された刀身の前半分が、融ける寸前の鋼のように発光し、次の瞬間――数千、数万のエレメントを同時にバーストさせたかのごとく、リソースの大解放現象を引き起こした。
アドミニストレータの両眼が極限まで見開かれた。小さな唇が無音の絶叫を放った。
この世界の誰よりも美しいその体のそこかしこから、細い光の束が放射状に屹立し――
そして、純粋なエネルギーの極大爆発が、すべてを飲み込み、広がった。
轟風に叩かれた木の葉のように、俺は回転しながら吹き飛ばされ、背中から硝子の壁に激突した。跳ね返り、床に墜落したあと、ようやく右肩の傷口から噴水のように血が噴き出すのを感じた。散々切り刻まれたあとにこれほどの血が残っているのがいっそ不思議なほどで、いよいよこれで俺の天命もゼロになるのか――と一瞬考えたが、しかし俺にはまだやらなければならないことがある。もう少しだけ、生きていなくてはならない。
左手の剣に目をやると、刀身は再び半分になり、薔薇の象嵌も青に戻っていた。それを床に落とし、五本の指で右肩を強く握る。
不思議なことに、術式を唱えずとも治癒のイメージを想起しただけでブルーの光がほのかに零れ、凍てつくようだった傷口に暖かさが広がった。しかし術はほんの一秒ほど、出血がぎりぎり止まったところで解除する。ほとんど枯渇しているはずの空間リソースをこれ以上使うわけにはいかない。
左手を離し、それを床に突いて、俺は身体を持ち上げた。
そして、驚愕のあまり呼吸すらも忘れた。
いまだバーストしたエネルギーの残滓が、空中を蜃気楼のようにゆらゆらと漂うその先に――。
凄まじい爆発で、跡形もなく吹き飛んだと思えた銀髪の少女が、よろめきながらも二本の脚で立っていた。
その身体は、いまだ人のかたちを留めているのが奇跡と思えるほどの有様だった。両腕は喪失し、胸の中央には巨大な孔が開き、全身のそこかしこにも陶器が割れたかのようなひび割れや欠損がある。
そして、無数の傷口から流れ出しているのは、血ではなかった。
銀と紫が混じった火花のようなものが、ばち、ばちっと鋭く弾けながら絶え間なく噴き出し、空中に拡散していく。剣に変えられた人々だけではなく、アドミニストレータ自身の身体すらもはや生身の人間のものではないのだと思わずにいられない光景だ。
溶かしたプラチナのように美しかった長い髪もずたすたに切断され、不揃いに垂れ下がるその奥で俯けられた顔はよく見えなかった。
しかし、暗がりでかすかに唇が動き、漏れ出した声が俺の耳に届いた。竪琴の音色にも似たその響きは完全に失われ、それはもう歪んだノイズでしかなかった。
「……よもや……剣が、二本ともに……金属でないとは……ふ、ふ」
壊れた人形のように小刻みに肩を揺らし、支配者はそれでも短く笑った。
「意外……まったく、意外な、結果だわ……。残るリソースすべてを掻き集めても……追いつかない、傷を、負うなんて……ね」
アドミニストレータが、一瞬で傷を完璧に癒してしまう悪夢を否応無く想像させられていた俺は、詰めていた息をわずかに吐き出した。
瀕死の支配者は、もう俺のほうなど見ようともせず、がくりと崩壊寸前の身体の向きを変えた。ばち、ばちと火花をこぼしながら、電池の切れかけた玩具のように、ゆっくりと歩き始める。
その向かう先は、部屋の北側――最初から最後まで何一つ存在しなかった箇所だった。俺は必死の努力で、硝子に背を預けて立ち上がり、アドミニストレータを目で追った。これ以上、何か逆転の手を打たれるまえに確実に倒さなくてはならない。そう思い、後を追おうとしたが、俺の体もほとんど言うことを聞かなかった。最高司祭よりもさらにぎこちない動作で、ずるり、ずるりと脚を引き摺って進みはじめる。
俺の二十メートルほど先を歩くアドミニストレータは、間違いなく一点を目指しているようだった。しかし、リソースの枯渇したこの隔絶空間から脱出する術は、彼女にも無いはずだ。切り離すのは一瞬でも繋ぐのは大ごと、というカーディナルの言葉を、アドミニストレータも否定はしていなかった。
数十秒後、支配者が立ち止まったのは、やはり何も――部屋のそこかしこに散らばるゴーレムの剣骨すら一つたりとも存在しない場所だった。
しかし、傷だらけの裸身を大仰そうに振り向かせ、俯いたまま俺を見て、少女はかすかに嗤った。
「……しかた、ないわ。予定より、随分と早い……けど、一足先に、行ってるわね、向こうに」
「な……何を……」
言っているのだ、と俺が問い質すまえに。
アドミニストレータは、伸ばした右脚で、とん、と床を衝いた。
その箇所の絨毯に――不思議な円形の紋様があった。
巨大ベッドを収納した跡のような、そして円筒形の出入り口が砕け散った跡のような。
直径五十センチほどのその円が、ぱあっと紫の光を放った。
輝くサークルの底から、かすかな震動とともにせり上がってきたものは。
大理石の柱の天辺に載った、
ひとつのノートパソコンだった。
「な……」
俺は驚愕のあまり棒立ちになった。
いや――現実世界のノートPCそのものというわけではない。筐体は半透明の水晶製だし、画面も薄紫に透き通っている。キーボードはダイヤモンドのように輝き、ポインティングデバイスは磨かれた鏡のようだ。あれは――PCではなく、SAO世界でいちど目にしたバーチャルシステム端末そのものだ!
つまり、あれこそが――
俺がこの二年間追い求めてきた、"外部世界への連絡装置"なのだ!
背を殴られるような衝動に従い、俺は思わず駆け出そうとしたが、その命令を右脚が拒否しがくりと膝を突いた。
それでも俺は、片手で床を掻き、這い進んだ。しかしその速度は絶望的なまでに遅く、アドミニストレータの居る場所は決定的に遠かった。
両腕の無い支配者の、銀の髪がひと房生き物のように持ち上がり、その先端で素早くキーボードを叩いた。ホロ画面に幾つかのウインドウが開き、何らかのインジケータがカウントを刻みはじめ――、
そして、アドミニストレータの身体を、床から天井へと流れる紫の光の道が包み込んだ。素足のつま先が、音も無くふわりと浮き上がった。
ここでついに、爆発からはじめてアドミニストレータが顔をあげ、まっすぐに俺を見た。
完璧を誇っていたその美貌は、無残な有様だった。左側が大きくひび割れ、眼のあった場所は底なしの暗闇に満たされている。その奥で、細いスパークが連続して弾け、崩壊寸前の機械の印象をいっそう強めている。
真珠色に輝いていた唇もいまは紙のようだったが、そこに浮かぶ微笑は変わらずに極北の冷気を湛えていた。無事な右眼をすうっと細め、アドミニストレータは再び短く嗤った。
「ふ、ふ……じゃあね、坊や。また……会いましょう。今度は、お前の、世界で」
その言葉を聴いて、ようやく俺は、アドミニストレータの意図するところを察した。
彼女は――現実世界へと脱出しようとしているのだ!
天命という絶対限界に縛られたこのアンダーワールドから抜け出し、そのフラクトライトを保全するつもりなのだ。俺が、ユージオやアリスの魂をそうしようとしていたように!
「ま……待て!!」
俺は懸命に這いずりながら叫んだ。
俺が彼女なら、脱出と同時にあの端末を破壊する。もしそうされたら、すべての希望が潰える。
しかし、アドミニストレータの裸身は、ゆっくりと、しかし着実に光の回廊を上昇していく。
笑みを湛えたその唇がゆっくりと動き、無音の言葉を刻んだ。
さ、よ、
う、
な――
最後の一音が形作られる、その直前。
いつの間にか、俺もアドミニストレータも気付かぬうちに、彼女の足元まで這い進んできていた人物が、甲高い絶叫を放った。
「行かないでくださいよほぉぉぉぉぉぉうぅぅぅぅぅッ!!」
チュデルキン。
もうはるか昔と思えるほど以前に、俺の技に貫かれ、アドミニストレータに処分されたはずの道化が。
青いほどに血の気を失った丸い顔に、すさまじい形相を浮かべ、両手の指をかぎづめのように曲げて上空へと伸ばした。
その、胸の下でほとんど分断されかけた身体が、突然灼熱の炎と化して燃え上がった。
ぼおおっ!! と轟音を撒き散らし、まるで自身が火焔ピエロの術式と化したかのように赤熱したチュデルキンが、螺旋を描いて上空へと突進した。
さしものアドミニストレータの顔にも、驚愕と、そして恐らく恐怖の表情が浮かんだ。ほとんど天井に達しようとしていたその小さな両足に、チュデルキンの燃え盛る両手ががっちりと食い込んだ。
引き伸ばされた道化の身体は、そのままぐるぐるとアドミニストレータの裸身を這い進み、火焔でできた蛇のようにしっかりと巻きついた。直後、これまでに倍する炎がその全身から吹き荒れ、両者の身体を包み込んだ。
アドミニストレータの髪が、その先端から融けるように燃え上がった。
唇が歪み、悲鳴にも似た叫びが放たれた。
「離せっ……! はなしなさいこの馬鹿者!!」
しかし、チュデルキンはまるでその言葉が愛の告白ででもあったかのように、真ん丸い頭の中央の細い目をさらに糸のようにして、至福の笑みを浮かべた。
「ああぁぁぁ……ついに……ついに猊下とひとつになれるのですねぇぇぇ……」
短い両腕が、アドミニストレータの身体をしっかりと抱きしめ、ついに支配者の肌それ自体が灼熱の炎を吹き上げた。
「貴様ごとき……醜い道化に……この私がっ……」
その言葉は半ば悲鳴だった。身体のあちこちに穿たれていたひび割れが、さらに拡大しつつ次々と剥離し、そこから噴き出す新たな銀のスパークと火焔が混じり合って花火のように飛び散った。
チュデルキンの体躯はもうほとんど原型を失い、純粋な炎と化していた。その中心に至福の表情だけが残り、最後の言葉を響かせた。
「ああ……猊下……アタシの……アドミニストレータ……さ……ま……」
そして、アドミニストレータの身体もついに実体を失い、荒れ狂う炎と化した。
支配者は、破壊され、燃え上がる顔からすっと表情を消し、銀の瞳で上空を見つめた。この状況にあっても、支配者の相貌は、恐ろしいまでに美しかった。
「……私の……世界……。どこまでも……ひろがる……わたし……の……」
その先を聴くことはできなかった。
燃え盛る火焔が、一瞬ぎゅっと凝縮し、
純白の閃光となって解き放たれた。
爆発というよりも、すさまじいエネルギーの全てが光に還元され、空間に満ちたように思えた。轟音も震動もなく、ただ、世界でもっとも巨大な存在が崩壊・消滅したという概念的事象それのみが空間を満たした。
もう、世界はもとの姿に戻らぬのではないかというほどの長時間、白光は密度と方向を揺らめかせながら輝き続けた。
しかし、やがてついにそれも薄れてゆき、俺の視界に色と形が戻りはじめた。
涙が溢れる眼を何度もしばたかせながら、俺は爆発の中心点を懸命に見通した。
そこには、紫のゲートがまだかすかに残っていた。しかし存在するのはそれだけで、アドミニストレータとチュデルキンという存在の痕跡は何一つ見つけられなかった。数秒のうちにゲートが瞬きながら消滅し、あとには床から突き出した大理石の柱と、バーチャル端末だけが冷たく鎮座するのみだった。
ついに、アドミニストレータ、あるいはクィネラという名の女性が、完全に消滅したことを俺は論理と直感の双方で悟った。彼女の天命はゼロになり、そのフラクトライトを格納していたライトキューブは初期化された。おそらくは、その隣に並んでいたのであろうカーディナルのライトキューブと同じように――。
「……終わった……のか……」
俺は、床に両膝を突いたまま、無意識のうちにそう呟いた。
「これで、よかったのか……カーディナル……?」
無論、答えはなかった。
しかし、恐らくは俺の記憶から発生したかすかな波動のようなものが、微風となってそっと頬を撫でた。大図書室の底で、そっと抱きしめたカーディナルの香り――古書と、蝋燭と、そして甘い砂糖菓子の香りが混じった風だった。
俺は一瞬顔を仰向かせ、眼を閉じた。
そして、左腕でぐいっと涙を拭いた。それを包む袖が、いつの間にか黒革のロングコートからもとの麻のシャツに戻っていることをわずかに意識しながら、身体の向きを変え、部屋のほぼ中央――横たわるユージオに向かって這い進んだ。
相棒の身体には、まだかすかに生命の気配が残っていた。
無残に切断された身体からは、ぽたり、ぽたりと間隔をあけて血が滴っている。残る天命はおそらく数分も保つまい。
必死の前進でユージオの傍らまで達した俺は、まず出血を止めるべく、離れた場所に転がる下半身を運んでぴたりと切断面を合わせた。
そして、傷口に左手を当て、治癒のイメージを想起する。
掌の下に、ぽっ、と点った青い光は、愕然とするほど頼りなかった。しかし俺はその光を懸命に切断面に翳し、傷を塞ごうとした。
だが――。
じわり、じわりと滲み、流れ出てゆく、ユージオの命そのものである紅い液体は、いっこうに止まろうとしない。ダメージの巨大さに対して、治癒術の優先度が絶望的に足りないのだ、と頭では理解しながらも、俺は執拗に手を動かし、叫んだ。
「止まれ……止まれよ! なんでだよ!!」
アンダーワールドでは、イメージの力がすべてを決定し、あるいは覆すのだ。想いはどんな奇跡だって起こせるのだ。そうであるはずではなかったか。俺は魂を絞り尽くすほどに祈り、念じ、そして願った。
しかし、血はなおも一滴、一滴とこぼれ続ける。
イマジネーションが干渉できるのは、あくまでオブジェクトの外形という視覚的要素のみで、プライオリティやデュラビリティといった数値要素までをも改竄できるわけではない――。
そんな理屈が意識の片隅を横切ったが、俺はそれを認めることを拒否した。
「ユージオ……戻ってこい! ユージオ!!」
もう一度叫び、俺は顔を下げると、歯で自分の左手首を噛み破るべく口を開いた。計算上は圧倒的に足りないのは解っていたが、しかし現在俺が利用でき得るリソースのすべてを注ぎ込まずにはいられなかった。たとえそれで、俺とユージオの天命がともにゼロになろうとも。
犬歯が皮膚に食い込み、肉と一緒に引きちぎらんととした、まさにその瞬間――。
ごくごく微かなささやき声が、俺の頬をそっと撫でた。
「ステイ・クール…………、キリト」
はっ、と顔を上げる。
ユージオが、ほんの少しだけ目蓋を持ち上げ、微笑んでいた。
顔色は紙のように青白く、唇にもまったく血の気がなかった。天命は変わらず減少を続けているのは明らかだ。しかし鳶色の瞳は、常と変わらず、穏やかな光をきらきらと湛えて俺を見つめた。
「ユージオ……!」
俺は、かすれた声で叫んだ。
「待ってろ、いま治してやるからな! お前を死なせやしない……絶対に死なせない!」
もう一度、手首を噛み破ろうとする。
しかし、寸前、氷のように冷たく、しかし同時に仄かに暖かい手が俺の手首を覆い、握り締めた。
「ユー……」
言いかけた俺を、ユージオはごく僅かに首を振って制した。
「いい……んだ。これで……いいんだ、キリト」
「何言ってるんだ! いいわけないだろう!!」
悲鳴のような俺の言葉にも、ユージオは、どこか満ち足りたような笑みを消すことはなかった。
「僕は……果たすべき、役目を、ぜんぶ果たした……。ここで、僕らの道は……分かれてたんだよ……」
「そんなわけがあるか!! 俺は運命なんて認めない!! そんなの絶対に認めないからな!!」
子供のように、泣き声混じりにそう言い募る俺を諭すように、ユージオはもう一度瞳でかぶりを振った。
「……もし……こうならなければ、僕と……君は、お互いの"アリス"のために……戦わなくちゃ、ならなかったろう。僕は……アリスの記憶をその身体に戻すために……そして君は、整合騎士アリスの魂を、守るために……」
瞬間、俺は息を詰めた。
それこそは、俺が心の奥底で危惧し、しかし意識して考えようとしてこなかった未来図だった。仮にすべてが解決し、いまの騎士アリスを消去してルーリッドのアリスを復活させるとなったとき、俺は果たしてそれに同意できるのだろうか――という。
今この時になっても、俺は答えを出すことはできなかった。
しかし、その迷い自体を、涙とともに俺はユージオにぶつけた。
「なら、戦えよ!! 傷をぜんぶ完璧に治してから、俺と戦え!!」
だが、ユージオの、透徹したような笑みは揺らぐことがなかった。
「僕の……剣は、もう折れて……しまったよ。それに……僕も……決められた、運命なんて、厭だ。僕と……君が、戦うなんて、そんな……誰かに決められた……筋書きみたいなの、絶対に、厭だよ」
そう呟いたユージオの両眼に、大きな涙の粒が盛り上がり、すうっと音もなく流れた。
「僕は……ずっと、君が、羨ましかったんだ……キリト。誰よりも……強く、誰にだって……愛される、君が。もしかしたら……アリスだって、君のほうを……、そんな風に、思ってたんだ……よ。でも……ようやく、解った。愛は……もとめる、ものじゃなくて、与える、ものなんだって。アリスが……それを、教えて、くれたんだ」
言葉を切り、ユージオは左手も持ち上げた。その掌に包まれた紫のプリズムがちかちかと瞬きながら、俺の指先に触れた。
その瞬間――。
世界のすべてが白い光に包まれ、溶け、消滅した。
床の硬さも、重力も、斬られた右腕の痛みも消え、穏やかな流れが俺の魂を載せてどこか遠くへと運んだ。胸を覆い尽くす巨大な哀しみすらも、暖かなストリームに優しく融かされ――そして――
ちらちら、と鮮やかな緑色の輝きが、高みで揺れている。
木漏れ日。
ようやく訪れた春の日差しを謳歌するように、樹々の新芽がいっぱいにその手を伸ばし、微風にそよぐ。艶やかな黒い枝を、名も知れぬ小鳥たちが追いかけっこをするように飛び渡っていく。
「ほら、手がお留守よ、キリト」
鳥たちの囀りよりも軽やかな声に、見上げていた視線を戻した。
傍らに座った、青と白のエプロンドレス姿の女の子の金髪が、日差しを受けて眩くきらめいた。一瞬眼を細めてから、肩をすくめて言い返す。
「アリスだってさっき、口ぽかーんて開けてワタウサギの親子を見てたじゃないか」
「ぽかーんなんてしてないわよ!」
ぷい、と顔を反らせ、すぐにくしゃっと笑ってから、少女――アリスは手にしていたものを高く差し上げた。
それは、丁寧に仕立てられた小剣用の革鞘だった。真新しい、ぴかぴか光る表面に、色鮮やかな白糸で竜をかたどった刺繍が施してある。どこか親しみを覚える、丸っこい形の竜の尻尾だけが中途で途切れ、その先端からは針に通された糸が垂れ下がっている。
「ほら、私のほうはもうすぐ出来るわよ。そっちはどうなのよ」
言われて、目を自分の膝に落とす。
乗っているのは、森で二番目に硬い白金樫の枝を削り出した小剣だ。森のことに誰よりも詳しいガリッタ爺さんに教わって、鉄のようなその木材を二ヶ月もかけて形にしたのだ。刀身はもう完全に出来上がり、あとは柄の細工の仕上げを残すのみだ。
「俺のほうが速いさ。もうあとこんだけだ」
答えると、アリスはにっこりと笑って言った。
「じゃあ、あと少しがんばって仕上げちゃいましょうよ」
「うーん」
もう一度、高い梢を透かして空を見ると、ソルスはすでに真ん中を通り過ぎている。今日は朝からこの森の秘密の場所で作業をしていたので、さすがにいい加減帰らないとまずい気もする。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
首を振りながらそう言うと、アリスは小さな子供のように唇を尖らせた。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
「しょうがないなあ。じゃあ、ほんとにあとちょっとだぜ」
頷きあい、互いの作業に没頭して数分後。
「できたぞ!」「でーきた!」
同時に響いた二つの声に重なるように、背後でがさがさと草を踏み分ける音がした。
手の中のものを背中に隠しながら、さっと振り向く。
そこに、きょとんとした顔で立っていたのは、ぽわぽわした亜麻色の髪を短く切り揃えた小柄な少年――ユージオだった。
澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせ、ユージオは訝しげな声を出した。
「なんだ、朝からずっとこんなとこに居たの、二人とも。いったい何やってたの?」
アリスと、首をすくめながら目を見交わす。
「ばれちゃったわねえ」
「だから言ったじゃないかー。台無しだよもう」
「台無しってことないわよ。いいからそれ貸しなさいよ」
アリスは、後ろ手で仕上がったばかりの木剣を奪い取ると、自分の持つ鞘にそっと収めた。
そして、ぴょん、とユージオの前に一歩飛び出すと、お日様のように満面の笑みを浮かべて、叫んだ。
「三日ばかり早いけど……ユージオ、誕生日、おめでとう!!」
さっと差し出された、真新しい革鞘に包まれた小剣を見て、ユージオは大きな目をさらに丸くした。
「え……これ、僕に……? こんな、すごい物……」
アリスにおいしいところを持っていかれ、苦笑しながら言葉を添える。
「ユージオ、前に、買ってもらった木剣を折っちゃったって言ってたろ? だからさ……勿論、お前の兄ちゃんが持ってるみたいな本物には負けるけど、でもこいつは雑貨屋に売ってるどんな木剣よりもすげえんだぜ!」
おずおずと伸ばした両手で小剣を受け取ったユージオは、その重みに驚いたように体を反らせ、次いで、アリスに負けないくらい大きく顔をほころばせた。
「ほんとだ……これ、兄ちゃんの剣よか重いよ! すごいや……僕……僕、大事にするよ。ありがとう、二人とも。嬉しいな……こんな嬉しい誕生プレゼント、はじめてだ……」
「お……おい、泣くなよ!」
ユージオの目じりに、小さく光るものを見て、慌てて叫ぶ。泣いてないよ、とごしごし目をこすり、
ユージオはこちらをまっすぐに見て、
もういちど笑った。
不意に、その笑顔が虹色に歪んだ。
突然の、切ない胸の痛み。どうしようもないほど強い郷愁と、喪失感。あふれ出した涙はとめどなく流れ、頬を濡らす。
並んで立つアリスとユージオも、同じように泣き笑いの顔で――。
声を揃えて、言った。
「僕たち……私たち三人は、確かに同じ時を生きた。道はここで分かれるけど……でも、思い出は永遠に残る。君の、あなたの中で生き続ける。だから、ほら――」
そして、木漏れ日に包まれた情景は消え去り、俺は再びセントラル・カセドラル最上階へと引き戻された。
「だから、ほら――泣かないで、キリト」
ささやいたユージオの両手から力が抜け、右手は床に、左手は胸の上に落ちた。その掌のなかのプリズムも、瞬く光をほとんど失おうとしていた。
いま観た、ごく短い情景は、確かに俺の記憶だった。思い出せたのはそのワンシーンだけだったが、それでも、俺とアリス、ユージオが、幼い頃から共に育ち、揺るぎない絆で結ばれていたのだという事実が、暖かく俺の胸を満たし、痛みをわずかに癒した。
「ああ……思い出は、ここにある」
俺は、自分の胸に左手の指をあて、嗚咽混じりにそう囁いた。
「永遠にここにある」
「そうさ……だから僕らは、永遠に、親友だ。どこだい……キリト、見えないよ……」
微笑を浮かべたまま、輝きの薄れかけた瞳を彷徨わせ、ユージオが呟いた。俺は身を乗り出し、ユージオの頭を左手でかき抱いた。零れた涙の粒が、次々にユージオの頬に滴った。
「ここだ、ここにいるよ」
「ああ……」
ユージオは、どこか遠くを見つめながら、笑みをわずかに深めた。
「見えるよ……暗闇に、きらきら、光ってる……。まるで……夜空の……星みたいだ……ギガスシダーの、根元で……毎晩、見上げた……そう、君の剣の……輝きの……ようだよ……」
囁き声はどこまでも透きとおって音を失い、しかし水滴が染みこむように俺の魂に響いた。
「そうだ……あの剣……"夜空の剣"って名前が……いいな。どうだい……」
「ああ……いい名前だ。ありがとう、ユージオ」
徐々に軽くなっていく友の身体を、俺は強く抱いた。触れ合う意識を通して、さいごの言葉が、水面に落ちる雫のように伝わった。
「この……悲しい、世界を……夜空のように……優しく…………包んで……………」
そして、音もなく瞼が降り、
ささやかな重みを俺の腕に残して、ユージオの顔がことりと仰向いた。
ユージオは、どことも知れぬ暗い回廊に立っていた。
しかし、一人ではなかった。
繋がれた左手をたどると、青いドレス姿のアリスがにっこり微笑みながらそこに居た。
少しだけ握る手に力をこめ、ユージオはそっと尋ねた。
「これで……よかったんだよね」
アリスは金髪を結わえる大きなリボンを揺らして、しっかりと頷いた。
「ええ。あとは、あの二人に任せましょう。きっと、世界をあるべき方向に導いてくれるわ」
「そうだね。じゃあ……行こうか」
「うん」
いつの間にか、ユージオも幼い少年の姿に戻っていた。同じ背丈の少女と、強く互いの手を握り合い、ユージオは回廊のかなたに見える白い光めざして歩きはじめた。
その瞬間――。
NND7-6361というIDで管理されるヒューマン・ユニットに設定されたデュラビリティ数値がゼロへと変化した。
アンダーワールド・メインフレームを制御するプログラムが、そのアルゴリズムに従い、該当するユニットのフラクトライトを格納するライトキューブ・インターフェースへひとつの命令を発した。
命令を受け取ったインターフェースは、接続された希土類結晶格子中の全量子ゲートを、忠実に初期化した。
内包されていた百数十億のフォトンは、一瞬の煌きを残して拡散、消滅し――
ユージオという名で、二十年にわずかに満たぬ主観時間を生きたひとつの魂が、ふたつの世界から喪われた。
殆ど同時に。
そのライトキューブから、かなり離れた位置に格納された、もうひとつのキューブでも同様の処理が行われた。
非正規的操作によって製造された、限定的思考力と、アリス・ツーベルクという名の魂の記憶の一部を格納したそのフラクトライトもまた永遠に喪失した。
ふたつの魂を構成していたフォトンの雲が、どこに向かい、どのように消えたのかを知るすべは存在しない。
ユージオのからだと、その胸に乗ったアリスの記憶プリズムが、光の粒となって完全に消え去るまで俺はただその場所に跪きつづけた。
どれくらいそうしていただろうか。
気付くと、硝子窓の向こうに渦巻いていた虚無空間はいつのまにか消えうせ、満天の星空が戻ってきていた。東の果てに刻まれた黒い稜線のかなたに、ごくうっすらとした曙光が訪れつつあった。
思考力のほとんどを失ったまま、俺はよろよろと体を起こし、どうにか立ち上がると、離れた場所に横たわる騎士アリスに近づいた。
アリスの傷も酷いものだった。しかし幸い、そのダメージは火傷がほとんどで出血は止まっており、天命の持続的減少は無かった。左手で抱き起こすと、意識を取り戻しはしなかったが、微かに眉が動き、唇から細い声が漏れた。
アリスを抱えるようにして、俺はゆっくり、ゆっくりと、部屋の北端目指して歩いた。
いまや、この空間でそれのみが無傷で残る水晶のシステム端末が、きらきらと冷たく、無機質に輝きながら、俺を迎えた。
アリスをそっと床に横たえ、俺は左手の指先でタッチパッドをなぞった。
インタフェースは、慣れ親しんだ日本語と英語の混在したシステムだった。ほとんど機械的に階層をもぐり、やがて俺は求めるものを発見した。
"外部オブザーバ呼出"。
そう名づけられたタブをクリックすると、ひとつのダイアログがビープ音とともに浮かび上がった。『この操作を実行すると、STRA倍率が1.0倍に固定されます。よろしいですか?』――という窓のOKボタンを、躊躇いもせずに押す。
突然、空気の粘度が増したような気がした。音、光、すべてが引き伸ばされ、遠ざかり、そして追いついてくる。まるで自分の動きも、思考までもが超スローモーションになってしまったかのような違和感が一瞬俺を襲い、そして何事もなかったかのように消滅した。
画面の真ん中にひとつの真っ黒いウインドウが開いた。片隅に音声レベルメーターが表示され、その上にSOUND ONLYの文字が点滅している。
虹色のメーターが、ぴくり、と跳ねた。
さらに動く。同時に、ざわざわというノイズが俺の耳に届いてくる。
現実世界の音だ、と思った。
アンダーワールドの状況に関わり無く、平穏な日常が繰り返されている向こう側の世界。血も、痛みも、死すらも例外的な出来事でしかないリアル・ワールド。
不意に、身体の奥底から、名状しがたい激情が吹き上がり、俺を揺さぶった。
感情のまま、端末に顔を近づけ、俺は出せる限りの大声で叫んだ。
「菊岡……、聞こえるか、菊岡!!」
今、この手が菊岡誠二郎あるいは他のラース・スタッフに届いたら、俺はそいつを絞め殺してしまうかもしれない。行き場の無い怒りに震える左こぶしを大理石の柱に叩きつけ、もう一度叫ぶ。
「菊岡ぁぁぁっ!!!」
直後――何かの音が、画面から流れ出した。
人の声ではなかった。カタタタ、カタタタタ、という歯切れのいい震動音。咄嗟に思い出したのは――はるかな昔、ガンゲイル・オンラインというVRMMOゲームの中で接した、小火器の連射音だった。しかし――まさか、そんなはずが――。
立ち尽くす俺の耳が、今度こそ人間の叫び声をかすかに捉えた。
『――メです、A6通路占拠されました! 後退します!!』
『A7で何とか応戦しろ! システムをロックする時間を稼げ!!』
再び、カタカタという音。それに混じって、散発的な破裂音も。
何だ、これは。映画? 誰かの見ているストリーム動画と混線でもしたのか?
しかし、そのとき、知らない声の持ち主が、俺の知っている名前を呼んだ。
『菊岡二佐、もう限界です! 主コントロールは放棄して、耐圧隔壁を閉鎖します!!』
それに答える、すこし錆びのある鋭い声。
菊岡誠二郎――俺をこの世界へと引き込んだ男。しかし、彼のこれほど切迫した声を俺は聴いたことがなかった。
『済まん、あと二分耐えてくれ! 今ここを奪われるわけにはいかん!!』
何が起きているというのだ。
襲撃されている? ラースが? しかしいったい何者に――?
再び菊岡の声。
『ヒガ、ロックはまだ終わらないのか!?』
また、新しい未知の声。
『あと八……いや七十秒ッス……あ……ああ!?』
その、やけに若々しい声が、驚愕をあらわして裏返った。
『菊さんッ!! 中から呼出です! ちがいます、UWの中っすよ!! これは……、あああっ、彼です、桐ヶ谷くんだッ!!』
『な……なにぃっ!?』
足音。がつ、とマイクが鳴る。
『キリト君……いるのか!? そこにいるのか!?』
間違いなく菊岡だ。俺は戸惑いを押し殺し、叫んだ。
「そうだ! いいか菊岡……あんたは……あんたのしたことは……っ!」
『誹りはあとでいくらもで受ける! 今は僕の言葉を聞いてくれ!!』
その、彼にそぐわぬ必死さに押され、俺は思わず口を閉じた。
『いいか……キリト君、アリスという名の少女を探すんだ! そして彼女を……』
「探すもなにも、いまここにいる!」
俺が叫び返すと、今度は菊岡が一瞬押し黙った。次いで、急き込むように――。
『な、なんてことだ、奇跡だ! よ、よし、この通信が切れ次第倍率を戻すから、アリスを連れて"ワールド・エンド・オールター"を目指してくれ! 今君が使っている端末はこのメインコントロール直結だが、ここはもう墜ちる!』
「墜ちる……って、一体何が……」
『説明している暇はないんだ! いいか、オールターは東の大門から出て南へ……』
そのとき、最初に聞いた知らない声が、至近距離で響いた。
『二佐、A7の隔壁を閉じましたが保って数分……ああ、まずい、奴ら、正電源ラインの切断を開始した模様ッ!!』
『えええっ、ダメだ、それは今はダメだよッ!!』
悲鳴を返したのは菊岡ではなく、"ヒガ"と呼ばれた高い声の持ち主だった。
『菊さんッ、いま主ラインがショートしたらサージが起きる! メインフレームやクラスターは保護されてますが……上の、キリト君のSTLに過電流が……フラクトライトが焼かれちまいます!!』
『何っ……馬鹿な、STLにはセーフティ・リミッターが何重にも……』
『全部切ってるんですってば! 彼は今治療中なんだ!!』
一体――何なのだ。俺のフラクトライトが――どうするというんだ?
コンマ数秒の沈黙を破ったのは、再度菊岡が叫ぶ声だった。
『ロック作業は僕がやる! 比嘉、君は神代博士と明日奈くんを連れてアッパーシャフトに退避、キリト君を保護してくれッ!!』
『で、でも、アリスはどうするんスか!?』
『倍率をリミットまで上げる!! 後のことはまた考えるッ、今は彼の保護を……』
続く叫び声の応酬を、俺はほとんど聞いていなかった。
直前に聞いたひとつの名前が、俺の意識を強打し、嵐のように揺さぶった。
明日……奈?
アスナがそこに? ラースにいるのか……? 何故!?
菊岡に問い質そうと、俺はモニタに覆いかぶさった。
しかし、声を発する直前、悲痛な絶叫が耳朶を打った。
『ダメだ……電源、切れます!! スクリューが止まります、総員対ショック!!』
そして――。
不思議なものが見えた。
頭上はるか彼方から、カセドラルの壁も天井も貫いて、俺めがけて殺到してくる白いスパークの渦。
凍りつき、それを見上げる俺を、音もなく無数の雷閃が貫いた。
衝撃も、痛みも、音すらもなかった。
しかし、それでもなお、俺は自分に与えられた取り返しのつかないほどに深いダメージを強く自覚した。それは、俺の肉体や感覚ではなく、魂の基層に加えられた傷、そう思えた。
俺という存在を規定する、何か大切なものが、ばらばらに引き千切られ、消えていく。
空間、時間、すべてがかたちを失い、混沌なる空白へと融ける。
俺は――。
その言葉すらも、意味をなくし。
思考する能力を奪われるその直前、どこか遠くで呼ぶ声を聴いた。
『キリトくん……キリトくん!!』
泣きたくなるほど懐かしく、狂おしいほどに愛しい、その響き。
あれは――――
誰の声だったろう?
(第七章 終)