四人対、百五十一――人。
動物ではないのだ。
あのソードゴーレムを造るのに使われたリソースは、この世界に暮らす人間たちなのだ。それも百五十人。ちょっとした村がまるまるひとつ廃墟になってしまう。
脳が焼け焦げるほどの思考のすえに辿り着いた真実だが、しかし爽快感などまるでなかった。代わりに俺を襲ったのは、圧倒的な恐怖だった。つま先から背筋を経てうなじまでの肌が限界まで粒立つ。
アンダーワールド人は、ただの動的オブジェクトではない。ライトキューブに保存された魂、フラクトライトを持っているのだ。そして、そのかりそめの器たる肉体がたとえ剣に変質させられようと、それが存在し続ける限りフラクトライトの活動も終わらない。つまり、あのゴーレムの部品に変えられた人々は、いまだ意識を保っているということになる。動けず、喋れず、見るべき眼も、聴くべき耳も持たずに。おおよそ考えうるかぎり最悪の牢獄――いっそ、なぜ魂が崩壊、消滅しないのかが不思議なほどの。
前後して同じ結論に達したらしいカーディナルが、やはり全身をびくりと強張らせた。杖を掲げる小さな手が、真っ白になるほどにきつく握り締められた。
「……貴様」
発せられたその言葉は、あどけない声音に似つかわしくない怒りで嗄れていた。
「貴様。なんという……なんという非道な真似を! 貴様は統治者じゃろうが!! その剣人形に変えた民は、本来貴様が護るべき者たちではないのか!!」
えっ、という鋭い声が、俺の左右で同時に響いた。
「民……? 民って、人……間?」
ユージオが、よろりと一歩後退しながら呟いた。
「人……だと言うのですか、あの怪物が……?」
アリスが、先刻貫かれた胸に左手をあてながら呻いた。
そして、やや間をあけてアドミニストレータが、俺たち四人の驚愕を楽しむかのようにゆっくりと答えた。
「ご・名・答。やぁーっと気付いてくれたのねえ。このままじゃ種明かしをする前に全員死んじゃうかもって心配しちゃったわぁ」
本心から嬉しそうに、ひとしきり無邪気な笑い声を上げると、絶対統治者はぱたんと一度両手を合わせ、でもねぇ、と続けた。
「おちびさんにはちょっとガッカリだわね。二百年もこそこそ穴倉から覗き見してたくせに、まだ私のこと分かってくれてないのね。ある意味ではあなたのママなのになぁ」
「……たわ言を! 貴様の腐りきった性根なぞ底の底まで見通しておるわ!」
「ならどうして下らないこと言うのかしら? 護るべき民、とか何とか。私がそんな詰まらないことするわけないじゃない。護るだの、統治するだの」
にこやかな表情は一切変わらないのに、しかしアドミニストレータを包む空気の温度が急激に低下したように俺には思えた。絶対零度の微笑を浮かべる唇から、するりと続く言葉が紡がれた。
「私は支配者よ。私の意志のままに支配されるべきものが下界に存在しさえすればそれでいいの。たとえその形が人だろうと剣だろうと、それは大した問題じゃないわ」
「貴……様……」
カーディナルの声が掠れ、途切れた。
俺も、発するべき言葉を見つけられなかった。
アドミニストレータと名乗るかの女性――いや存在の、精神の在り様はもう俺の理解を遥か絶している。彼女はその名のとおりシステム管理者であり、書き換え可能なデータファイルとして国民たちを保存しているに過ぎない。言わば、現実世界におけるネット中毒者(アディクト)が、ただ収集・整理することだけを目的に膨大なファイルをダウンし続けるようなものだ。ファイルに何が含まれているのかなど、ほとんど気にも留めずに。
カーディナルは大図書室での会話において、アドミニストレータの魂に焼きこまれた行動原則を"世界の維持"だと語った。それは正しいのだろうが、しかし真実のすべてを捉えてはいなかった。
旧SAO世界において、魂なき管理プログラムであった初代カーディナルは、果たして俺たちプレイヤーを人間、つまり意思ある生命だと認識していただろうか?
答えは否だ。俺たちは、管理、選別、そして削除されるべきデータファイルに過ぎなかった。
遠い昔に存在した少女クィネラは、たしかに人を殺せなかったのかもしれない。
しかし今のアドミニストレータにとって、人間はもはや人ではない。
彼女が維持せんとする世界に、人の営みは必要ない。
「あら、揃って黙り込んじゃって、どうしたの?」
遥か高みから俺たちを見下ろし、管理者は首をかしげながら微笑んだ。
「まさか、たかだかユニット百五十個ていどを変換したくらいで驚いてるわけじゃないわよねえ?」
「たかが……じゃと」
ほとんど音にならない声で咎めたカーディナルに、その仇敵はとても嬉しそうにうなずいた。
「たかが、ほんの、それっぽっち……よ、おちびさん。その人形が完成するまでに、一体いくつのフラクトライトが崩壊したと思って? だいたい、それはあくまでプロトタイプなのよね。厭ったらしい負荷実験に対抗するための量産型には、ま、半分くらいは必要かなって感じだわ」
「半分……とは……」
「半分ははんぶんよ。四万ユニット。それだけあれば充分だわ……ダークテリトリーの侵攻を退けて、向こう側に攻め込むのに、ね」
あまりにも恐ろしいことをさらりと口にし、アドミニストレータは銀の瞳を俺の右隣に立つ騎士へと向けた。
「どう、これで満足かしら、アリスちゃん? あなたの大事な人界とやらはちゃんと守られるわよ?」
からかうようなくすくす笑いを、アリスはしばらくただ黙って聴いていた。金木犀の剣の柄を握る手が細かく震えているのに俺は気付いたが、そうさせているのが恐怖なのか、あるいは怒りなのかは、すぐには察せられなかった。
やがて発せられたのは、ぎりぎりまで抑制された、ひとつの問いだった。
「……最高司祭様。もはやあなたに人の言葉は届かない。ゆえに、同じ神聖術者として尋ねます。その人形を作っている剣――所有者はいったいどこに居るのです」
一瞬、俺は戸惑った。数十本の剣の記憶解放を行い、ゴーレムへと組み上げたのは間違いなくアドミニストレータ自身だ。ゆえに、原則からは外れるが、所有者は最高司祭なのだろうと俺は考えていたのだが。
しかし、アリスは続く言葉で、俺の推測を打ち消した。
「司祭様が所有者ということは有り得ない。たとえ、完全支配できる剣は一本のみという原則を破れたとしても、この場合だけは有り得ないのです。なぜなら――記憶解放を行うには、剣とその主のあいだには強固な絆が必要だからです。私とこの金木犀の剣、そして他の騎士たちとその神器、あるいはキリト、ユージオと彼らの剣のように。主は剣を愛し、また愛されなくてはならない……武装完全支配術とは、剣と主が互いに完全なる結合を成すという意味なのですから! 司祭様、その人形の剣の基となったのが罪なき民たちだというのなら、あなたが剣に愛されるはずがない!!」
りぃん、と涼やかな残響を引きながら、アリスが言い切った。
しばしの静寂を破ったのは、どこまでも謎めいたアドミニストレータの含み笑いだった。
「うふふ……どうしてこうも瑞々しいのかしらね、幼い魂というものは。黄金の林檎のように甘酸っぱいセンチメンタリズム……今すぐに握りつぶし、最後のひとしずくまで絞り尽くしてしまいたいくらいよ」
銀鏡の瞳が、胸中の昂ぶりを映してか虹色にぐるぐると輝く。
「でも、まだダメダメ。まだその時じゃないわ……――アリスちゃん、あなたの言いたいことはつまり、私ではこの剣たちの実存を上書きできるほどのイマジネーション強度は発揮できないだろう、ってことよね。その指摘は正しいわ。私の記憶野にはもう、こんなにたくさんの剣を高精細に記録するほどの余裕はないものね」
最高司祭が優雅に指差す先では、数十本の剣で構成されたゴーレムがじり、じりと前進を続けている。
俺の理解しているところでは、武装完全支配術というのはつまり、所有者がそのフラクトライト中に武器の外見、質感、重さ等あらゆる情報を覚え込み、その上でコマンドの助けを借りて武器そのものを想像の力によって変化させるという技だ。術を発動させるためには、所有者はその剣の全情報を己の記憶のなかに完璧以上に保存しているのが必須条件となる。俺の黒い剣を例に言い換えると、まずライトキューブ・クラスターの中央にあるはずのメイン・ビジュアル・タンクとでも言うべき共有記憶倉庫中の剣の情報Aと、そして俺のフラクトライト中にある剣の情報Bが、ほぼ無限小の誤差で一致していなくてはならない。そうであってはじめて、俺は情報Bを想像力で変化させることによって情報Aをも上書きする、イコール他の人間やオブジェクトにもその変化の影響を与えることができるというわけだ。このロジックは、先ほど俺の体に起きた"変身"と共通するものでもあろう。
さて、ひるがえってアドミニストレータはと言えば、彼女のライトキューブ容量はもう三百年の人生の記憶で限界まで圧迫されているはずなのだ。とても三十本もの"剣を愛し愛される"、つまり完全な記憶を保持することが可能とは思えない。アリスの指摘はあくまでリリシズムから出たものだろうが、しかし同時にシステム的な正鵠を射てもいたわけだ。
となれば――やはりあのゴーレムの剣たちには、それぞれ対応する所有者がいるはずなのだ。そのライトキューブ中に剣の情報を持ち、そしてあれほどまでの破壊の意思を秘めた魂たちが。
しかし何処に!? いまやこの空間は、外界とはあらゆる意味で隔離されている。つまり所有者たちもまたここに居なくては理屈が通らない。しかし、今この場所に存在するのは――
「答えは坊やたちの眼の前にあるのよ」
不意に、アドミニストレータがまっすぐ俺を見てそう言った。
続いて、その視線が左に振られ、
「ユージオちゃんにはもう分かってるはずよ」
何――!?
俺は息を詰め、隣のユージオを見やった。
亜麻色の髪の相棒は、血の気を失った顔で身じろぎもせずに最高司祭を凝視していた。奇妙なほどに表情のないそのブラウンの瞳が、細かく震えるように動き、すっとはるか高い天井に向けられた。
俺も釣られて上を見た。円形の天井には、無数の神々の細密画が描かれ、それらのほぼすべてが紫色に発光している。
俺はいままで、その光を単なる装飾的照明だと思っていた。だってあれはただの絵ではないか。オブジェクトですらないものに、一体なんの秘密があるというのだ。戸惑いながら視線を戻し、もう一度ユージオを見る。
相棒は、いまだ愕然とした顔つきのまま、ぎこちなく左手を動かしズボンのポケットを上から押さえた。唇が二度、三度と震えてから、からからに掠れた声が絞り出された。
「そうか……そうだったのか」
「ユージオ……何か気付いたのか!?」
俺の問いかけに、ユージオはゆっくりとこちらを見ると、深い恐怖を湛えた顔で呟いた。
「キリト……あの天井の絵……。あれは、ただの絵じゃないんだ。あれは全部、整合騎士たちから奪われた記憶の欠片なんだ!」
「な……」
絶句した俺に続いて、カーディナルとアリスがそれぞれ、「何じゃと!?」「何ですって!?」と異口同音に叫んだ。
整合騎士の記憶の欠片――それはつまり、"シンセサイズの秘儀"によって騎士となる以前の人間たちから抜きだされた、最も重要な記憶情報のことだ。その記憶とはすべからく、もっとも愛しい人間の思い出であると考えて間違いない。エルドリエにとっては母、デュソルバートにとっては妻。
だが、それらはあくまで、フラクトライト中の記憶書庫の断片であるはずだ。それを完全な魂と同一視することはできない――。
いや、待て。なにかが俺の思考をちくちくと刺激している。
あの細密画がすべて騎士の記憶ピースということなら、その中には奪われたアリスの記憶も含まれているはずだ。
そしてここはセントラル・カセドラル最上階。
そうだ――二年半前、ルーリッド北の洞窟でゴブリン先遣隊と戦闘になりユージオが深手を負って、その傷を治療しているときに俺は確かに奇妙な声を聴いたのだ。カセドラル最上階で俺とユージオを待っている、という不思議な少女の声――そして同時に感じた大いなる癒しの力。
あの声の主が、この部屋に封じられたアリスの記憶なのだとしたら? それはつまり、騎士から奪われた記憶ピースそれ自体も独自の思考力を持っているということにならないか?
いや、しかしあらゆる神聖術には対象接触の原則があるのだ。このセントラル・カセドラルから、遥か地の果てのルーリッドまで、声や治癒力を届けるなどということはアドミニストレータその人にも出来まい。そんな奇跡が可能になるのは、唯一、武装完全支配術と同じロジックが働いた場合だけで……となると、アリスの記憶ピース中に保持された思い出というのは、つまり――つまり……。
高速回転する俺の思考を遮ったのは、烈火のごときカーディナルの叫びだった。
「そうか……そういうことか! おのれクィネラ……貴様は、貴様はどこまで人の心を弄ぶつもりなのじゃ!!」
はっ、と眼を見開いた俺の視線の先で、銀髪の現人神は悠然と微笑んだ。
「あら、さすが……と言ってあげるべきかしらね、おちびさん? 案外早く気付いたみたいね、偽善的な博愛主義者にしては。じゃあ、改めて聞かせてくれるかしら、あなたの解答を?」
「フラクトライトの共通パターン。そういうことじゃろう!」
カーディナルは、右手の黒いステッキをびしりと上空のアドミニストレータに突きつけた。
「シンセサイズの秘儀で抜き取った記憶ピースを、別のライトキューブに改めてロードした思考原体に挿入すればそれを擬似的な人間ユニットとして扱うことは可能じゃ。しかしその知性はきわめて限定され……ほとんど本能的衝動しか持たぬ存在となるじゃろうから、とても武装完全支配などという高度なコマンドを使役させることは出来ぬ。じゃが……その制限にも抜け道はある。それはつまり、挿入した記憶ピースと、それに与えられる武器の構成情報が限りなく共通するパターンを持っている場合じゃ! 具体的には……整合騎士たちから奪った記憶に刻まれた"愛しき人"、及びその親族をリソースとして剣を作った……そういうことじゃな、アドミニストレータよ!!」
混乱とその収束に続いて、俺を襲ったのは、只でさえ凍るような背筋を更に痺れさせる凄まじい恐怖と嫌悪だった。
剣の所有者が、整合騎士たちから抜き盗られた"愛する人"に関する記憶ピースであり――そして剣は、その愛する人の身体を素材として造られたもの。
これなら確かに、理論上は、記憶解放現象を起こすことは可能かもしれない。情報Aと情報Bが、ともに同一の存在に由来しているのだから。記憶ピースを基に作られた擬似フラクトライトが、リンクされた剣に対して何かを強く想えば、それが実現することはあり得る。
問題は、その"何か"とは何なのか、ということだ。記憶の欠片たちは一体いかなる衝動に従って、あのような凶悪なゴーレムを造り動かしているのか?
「欲望よ」
まるで俺の疑問を見透かしたかのように、アドミニストレータがするりと言葉を放った。
「触りたい。抱きしめたい。支配したい。そういう醜い欲が、この剣人形を動かしているの」
ふふ。うふふ。銀瞳を細め、少女はひそやかに嗤う。
「騎士たちの記憶フラグメントから合成した擬似人格たちが望むのはただ一つ――記憶の中にいる誰かを自分のものにしたい、ってことよ。彼らはいま、すぐそばにその誰かがいることを感じているわ。でも触れない。ひとつになれない。狂おしいほどの飢えと渇きのなかで、見えるのは自分の邪魔をする敵の姿だけ。この敵を斬り殺せば、欲しい誰かが自分のものになる。どう? 素敵な仕組みでしょう? ほんとに素晴らしいわ……欲望の力というものは!」
アドミニストレータの高らかな吟声を背景に、接近しつつあるソードゴーレムの両眼が激しく明滅した。
その無骨な全身から放たれる金属質の共鳴音――それが、俺には悲哀と絶望の叫びのように聞こえた。
あの巨人は、殺戮を求める合成兵などではなかったのだ。唯ひとり憶えている誰かにもう一度会いたいという気持ちが寄り集まり、造り出した哀れな迷い子なのだ。
アドミニストレータは、ゴーレムを動かす原動力を欲望と表現した。しかしそれは――
「違う!!」
俺の思考と同期するようにそう叫んだのは、カーディナルだった。
「誰かにもう一度会いたい、手で触れたい、その感情を欲望などという言葉で穢すな! それは――それは、純粋なる愛じゃ!! 人間の持つ最大の力にして最後の奇跡……決して貴様のような者が弄んでよいものではない!!」
「同じことよ、愚かなおちびさん」
アドミニストレータは喜悦に唇を歪め、両の掌をソードゴーレムに向けて差し伸べた。
「愛は支配、愛は欲望!! その実体は、フラクトライトから出力される単なる量子信号にすぎない!! 私はただ、最大級の強度を持つその信号を効率よく利用してみせただけよ……お前が用いた手段より、もっとずっとスマートにね!!」
銀瞳で俺たち三人をさっと撫で、支配者は勝利を確信した音声をさらに高らかに謳い上げた。
「お前に出来たのはせいぜい、子供を二、三人篭絡する程度のことに過ぎない! でも私は違うわ……その人形には、記憶フラグメントも含めれば百八十人以上の欲望のエネルギーが満ちみちている!! そして何より重要なのは、その事実を知ったいま、もうお前には人形を破壊することは出来ないということよ! なぜなら、ある意味では、人形の剣たちはいまだに生きた人間共なのだから!!」
しん、とした静寂の中を、アドミニストレータの声の余韻だけが長く尾を引き、消えた。
ソードゴーレムに向けて掲げられていたカーディナルのステッキが、ゆるゆると頭を垂れていくのを、俺は愕然としながら見つめた。
続けて流れたカーディナルの言葉は、奇妙なほどに穏やかだった。
「ああ……そうじゃな。わしに人は殺せぬ。その制約だけは絶対に破れぬ。人ならぬ身の貴様だけを殺すために、二百年のときを費やして術を練り上げてきたが……どうやら無駄だったようじゃ」
くく。くくくく。
アドミニストレータの唇が限界まで吊り上がり、哄笑を堪えるような喉声が絹のように宙を滑った。
「なんという暗愚……なんという滑稽……」
くっくっくっく。
「お前ももう、知っているはずなのに。この世界の真実の姿を。そこに存在する命なるものが、単なる量子データの集合にすぎぬことを。それでもなおそのデータを人と認識し、殺人禁止の制約に縛られるとは……愚かさも極まれりだわね……」
「いいや、人だとも、アドミニストレータよ」
カーディナルは、どこか温かですらある声で、おそらくは微笑みながら、そう反駁した。
「彼らには、我々が失った真の感情がある。笑い、喜び、愛する心がある。人が人たるために、それ以外の何が必要であろうか。魂の容れ物がライトキューブだろうと生体脳だろうと、それは本質的な問題ではない。わしはそう信じる。ゆえに――誇りとともに受け入れよう、敗北を」
ぽつり、と発せられた最後の一言が、俺の胸の中央を深く抉った。だが、真に激痛をもたらしたのは、それに続く言葉だった。
「じゃが、一つ条件がある。わしの命は呉れてやる……その代わりに、この若者たちは逃がしてやってくれ」
「……!!」
俺は息を飲み、一歩踏み出そうとした。しかしカーディナルの小さな背中から強烈な無言の意思が放射され、俺の動きを押し留めた。
アドミニストレータは、獲物を爪にかけた猫のように瞳を細め、ゆるりと小首をかしげた。
「あら……この状況でいまさらそんな条件を呑んで、私にどんなメリットがあるのかしら?」
「さっき言うたじゃろう、術を練り上げてきたと。あえて戦闘を望むなら、その哀れな人形の動きを封じながらでも、貴様の天命の半分くらいは削ってみせるぞ。それほどの負荷をかければ、貴様の心もとない記憶容量限界が更に危うくなるのではないか?」
「ん、んー……」
あくまで微笑みを消さぬまま、アドミニストレータは右手の人差し指を頬に当て、考える素振りを見せた。
「別に、結果のわかってる戦闘ごときで私のフラクトライトが脅かされるなんてことは無いけど、でもま、面倒ではあるわね。その"逃がす"っていうのは、この閉鎖空間から下界のどっかに飛ばしてやれば条件を満たすのよね? 今後永遠に手を出すな、なんてことなら拒否するわよ」
「いや、一度退避させるだけでよい。彼らなら、きっと……」
カーディナルはその先を口にしなかった。代わりに一瞬うしろを振り向き、あまりにも優しい瞳で俺を見た。
冗談じゃない、そう叫びたかった。俺のかりそめの命と、カーディナルの本物の命が等価であるはずがない。いっそ今すぐアドミニストレータに斬りかかり、カーディナルが脱出するための時間を稼ぐべきかと俺は真剣に考えた。
しかし、それはできない。一か八かの博打に、ユージオとアリスの命まで賭けることになってしまうからだ。
右手はいますぐ抜剣しろと柄を痛いほどに握り締め、右脚は動くなと床を穿つほどに踏みしめる。そんな焼け付くような鬩ぎ合いを続ける俺の耳に、アドミニストレータの声がするりと届いた。
「ま、いいわ」
にっこりと無垢な微笑を浮かべ、美貌の少女は瞬きをしながらうなずいた。
「私も、面白いことを後に取っておけるし、ね? じゃあ、神に誓いましょう。おちびさんを殺したあと、後ろの三人は無傷で逃がして……」
「いや、神ではなく、貴様が唯一絶対の価値を置くもの……自らのフラクトライトに誓え」
びしりと遮るカーディナルの声に、アドミニストレータは微笑にほのかな苦笑を混ぜ、もういちど首肯した。
「はいはい、それでは私のフラクトライトと、そこを流れる光量子に誓うわ。この誓約だけは私も破れない……今のところ、ね」
「よかろう」
こくりと頭を動かしたカーディナルは、ふわりと振り向き、今度は時間をかけてユージオとアリス、そして俺を見つめた。幼い顔にはあくまで穏やかな微笑みが、そしてブラウンの瞳には慈愛の光だけが満ちみちていて――俺は、胸中に溢れる巨大すぎる感情が液体となって視界をぼやけさせるのを止めることができなかった。
カーディナルの唇が動き、音にならない声で、すまぬな、と囁いた。
彼方でアドミニストレータも、こちらは高く澄んだ声で、さようならおちびさん、と告げた。
その右手が振られると、部屋の中央に達しつつあったソードゴーレムの動きがぴたりと止まった。手はそのまま高くかかげられ、掌が何かを握るような動作をとると、まるで空間からにじみ出るようにきらきらと光の粒が舞い踊り、細長いものの形を取った。
それは、一本の銀色の細剣だった。針のような刀身も、流麗な形の鍔も柄も、すべてが完璧な鏡の色だ。触れただけで折れそうな華奢な姿だが、しかしその秘める圧倒的なプライオリティは遠目に見ただけでも明らかだった。間違いなく、カーディナルの黒いステッキと対になるアドミニストレータ本人の神器――彼女の術式を支える最強のリソース源だ。
銀のレイピアが、しゃりん、と鳴りながらまっすぐにカーディナルを指した。
アドミニストレータの瞳が、恍惚とした歓喜の虹を渦巻かせた。
直後、極細の剣尖から、空間すべてを白く染める極大の稲妻が迸り、カーディナルの小さな身体を貫いた。
ハレーションを起こした世界のなかで、華奢なシルエットが弾けるように二度、三度と仰け反った。
巨大すぎる電撃のエネルギーが、空気をも焦がしながら拡散消滅し、俺は灼かれた眼を懸命に見開いてカーディナルの姿を追った。
幼き大賢者は、まだ倒れていなかった。長いステッキに体重の大半を預けながらも、両の足でしっかりと床を踏みしめ、その顔はまっすぐに己の究極の敵へと向けられていた。
しかし、ダメージの痕跡は痛々しいほどに明らかだった。漆黒の帽子やローブはそこかしこが焼き切れて煙を上げ、艶やかだった茶色い巻き毛までも一部が黒く炭化している。
声も出せずに立ち尽くす俺のほんの五メートル先で、ゆっくりとカーディナルの左手が持ち上げられ、焦げた髪を無造作に払い落とした。嗄れてはいるが、しっかりした声が宙に流れた。
「ふ……ん、こんなもの……か、貴様の術は。これでは、何……度撃とうが……」
ガガァァァン!!
という大音響が再び世界を揺るがした。
アドミニストレータのレイピアから、先刻をわずかに上回る規模の雷撃が放たれ、カーディナルの身体を容赦なく打ち据えた。
四角い帽子が吹き飛び、無数の灰となって消滅した。細い体が痛々しく突っ張り、ぐらりと揺れて、横倒しになる寸前でがくりと片膝を床に突いた。
「……もちろん、手加減はしているわよ、おちびさん」
溢れんばかりの狂喜を無理やり押さえつけるかのようなアドミニストレータのひそやかな声が、焦げ臭い空気を揺らした。
「一瞬で片付けちゃったら詰まらないものね? 何といっても私は、二百年もこの瞬間を待ったんだもの……ね!!」
ガガッ!!
三度の雷閃。
それは鞭のように弧を描いて上空からカーディナルを直撃し、その身体を凄まじい勢いで床に叩き付けた。高くバウンドした小さな姿が、かすかな音を立ててもう一度墜落し、力なく横臥した。
黒いローブももう大半が炭となって消え、内側の白いブラウスと黒のキュロットも無残な焦げ痕に覆われている。染み一つない雪のようだった腕の肌もまた、蛇のような火傷に巻かれ惨い有様だ。
その腕が震えながら伸ばされ、床に爪を立てるようにして身体を少しばかり持ち上げようとした。
死力を振り絞ったその動作を嘲うかのように、新たな稲妻が横薙ぎに襲い掛かった。幼い姿はひとたまりも無く吹き飛び、床の上を数メートルも転がった。
「ふ……うふふ。ふふふふ」
彼方の高みで、アドミニストレータが我慢できぬというように笑いを漏らした。
「ふふ、あはっ。あははは」
もう白目も虹彩も定かでない銀の眼が、凶悪なまでにまばゆいプリズムの輝きを強く迸らせた。
「あははは! はははははは!!」
高笑いとともにまっすぐ掲げられた鏡の細剣の切っ先から――。
ガガァッ!!
ドカァァァッ!!
ガガガァァァ――――ッ!!
と、立て続けに雷撃が発射され、もう動かないカーディナルを立て続けに突き刺した。そのたびに小さな身体は鞠のように跳ね、服も、肌も、その存在のすべてを焼き焦がされていった。
「ははははは!! あははははははは!!!」
悪魔の喜悦に身を捩り、銀髪を振り乱して哄笑するアドミニストレータの声は、もう俺の耳にほとんど届かなかった。
両眼からとめどなく液体が溢れ出し、視界をおぼろに歪ませるのは、決して際限ない雷閃の白光に網膜を痛めたからではない。
心中に吹き荒れる大渦は、灼熱と極寒を等しく混淆し、いっそ存在しないと思えるほどに激烈なものだった。カーディナルの命が今まさに失われつつあることへの焦燥、無慈悲な処刑を愉しむアドミニストレータへの怒り、しかし何より大きいのは、自分の無力さへの言いようのない感情だった。
ここに及んでもなお、俺は動けず、剣を抜くこともできなかった。たとえ結果が最悪な――カーディナルの遺志をも無駄にするものとなろうとも、俺は剣を抜き、己に可能な最大の攻撃をソードゴーレムと、その彼方のアドミニストレータへと撃ち込むべきだと、そうせねばならないと判っていてもなお動けなかった。
情けないことに、その理由すら俺には理解できているのだった。
元老チュデルキンを、通常では有り得ない超長距離の"ヴォーパル・ストライク"で斬ってのけたのが俺のイマジネーションの力なら、今俺を木偶のように縛り付けているのもまさにその力なのだ。俺は数分前、ソードゴーレムに赤子のように吹き飛ばされ、致命傷を負わされた。あの、腹から入って背骨を断ち割った剣の感触が、俺に強烈すぎる敗北のイメージを焼き付けた。ゴーレムを前にしては、もう二度とSAO時代の"黒の剣士キリト"を呼び起こすことは出来まいと俺に確信させるほどの、断固たる敗北と死のイメージ。
今の俺はどんな整合騎士にも、いや学院の生徒の誰にすらも勝てまい。ましてや――もう一度、あの最強の怪物に斬りかかることなど。決して。
「……くっ……うぐっ…………」
自分の喉が鳴り、餓鬼のような情けない嗚咽が漏れるのを、俺は聞いた。自分の敗北を悟り、しかしそれを正面から受け止めて雄々しく立ったカーディナルが今まさに襤褸切れのように殺されようとしていて、その犠牲をただ傍観することで救われようとしている俺という人間を、俺は強く憎んだ。
気付けば、左に立つユージオも、右のアリスも、それぞれの感情によるそれぞれの涙を流していた。彼らの胸中を推し量ることなどとてもできないが、しかし少なくとも、三人がともに己の無力という大きすぎる蹉跌を感じていることは明らかだった。そう――たとえこの場から脱出できたとしても、これだけの傷を心に刻まれたまま、果たして何が出来るのか、と言わねばならぬほどの。
動けない俺たちの視線の先で、恐らく最後の、そして最大の稲妻をその刀身にまとわり付かせたレイピアを、アドミニストレータが高く高くかざした。
「さあ……そろそろ終わりにしましょうか。私とお前、二百年のかくれんぼを。さようならリセリス……私の娘、そしてもうひとりの私」
どこか感傷的な台詞を、しかし狂喜に歪む唇に乗せ、最高司祭は鋭くレイピアを振り降ろした。
幾千の光条となって宙を疾った最終撃は、ふたたび一つに撚り集まり、横たわるカーディナルの身体を撃ち、包み、焼き、焦がし、破壊した。
右脚の先を炭と変えて散らしながら、最古の賢者はゆっくりと宙を舞い、俺のすぐ足元へと落下した。もう質量すらも殆ど感じさせない、がさりと渇いた音が響いた。更に多くの黒い欠片が、身体の各所から床に零れた。
「うふふ……あはは……あははははは! あーっはははははは!!」
右手の剣をくるくると回し、空中でダンスを踊るがごとくアドミニストレータが再びの哄笑を放った。
「見える……見えるわ、お前の天命がぽとりぽとりと尽きていくのが!! ああ……なんという法悦……なんという……うふふ……ふふふふ……さあ、最期の一幕を見せて頂戴。特別に、お別れを言う時間を許してあげるから!!」
その言葉に諾々と従うがごとく、俺は、壊れた人形のようにがくりと膝から崩れ、カーディナルに向けて手を伸ばした。
幼い少女の、炭化していないほうのまぶたは閉じられていた。だが、指先が触れたその頬からは、消え去る寸前のほんの、ほんのわずかな命の温かさが伝わった。
ほとんど無意識のうちに、俺は両手でカーディナルの身体を抱き上げ、胸に抱えた。とめどなく溢れる涙が、次々に惨い傷痕のうえに滴った。
それが切欠でもあったかのように、少女の睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。激痛のさなか、死の寸前にあって尚、カーディナルのマホガニー色の瞳は尽きることの無い慈愛を湛え、俺を見た。
『泣くな、キリトよ』
その言葉は、声ではない音として俺の意識に響いた。
『そう……悪くない、最期じゃ。こうして……心を繋いだ誰かの腕に抱かれ……死ねるなどとは、とうてい……想って……おらなんだよ』
「ごめん……ごめんよ……」
俺の唇から零れ落ちた言葉も、ほとんど声とは言えない空気の震動でしかなかった。それを聞いたカーディナルの、奇跡的に無傷な唇が、ほのかな笑みを浮かべた。
『なにを……謝る……ことがある。お主には……まだ、果たすべき……使命がある、じゃろう。お主と、ユージオ、そして……アリス……三人で……この、儚く、美しい、世界……を……』
カーディナルの声は急速に薄れ、その身体もまた軽くなっていくようだった。
不意に、同じく跪いたアリスが両手を伸ばし、カーディナルの右手を包んだ。
「必ず……必ず」
その声も、頬も、しとどに流れる涙で深く濡れていた。
「あなた様に頂いたこの命……必ずや、お言葉を果たすために……使います」
続いて、左側からユージオの手が伸ばされた。
「僕もだ」
ユージオの声は、これがあの気弱で優しい相棒かと思えるほどにしっかりとした意思に満ちていた。
「僕も、いまようやく、僕の果たすべき使命を悟りました」
しかし――。
それに続いた言葉は、俺も、アリスも、そして恐らくはカーディナルですらも予想し得ないものだった。
「そして、その使命を果たすべき時もまた今――この瞬間です。僕は逃げない。僕にはいま成さねばならないことがある」
ユージオ――一体なにを。
そう思い、俺は視線を動かした。
亜麻色の髪の少年、俺の無二の親友、ルーリッドの剣士ユージオは、一瞬だけ俺の瞳を見返し、微笑み、頷いた。彼はすぐにカーディナルに瞳を戻し、その言葉を口にした。
「最高司祭カーディナル様。残された最後の力で、僕を――僕のこの身体を、剣に変えてください。あの人形と同じように」
その言葉が、意識を引き戻したのか――。
ほとんど光が失われつつあったカーディナルの瞳が、ほんの僅かだけ見開かれた。
『ユージオ……そなた……』
「こうするしかないんです。今僕らがここから退いたら……アドミニストレータは世界中の人間たちの半分を、あの恐ろしい怪物に変えてしまう。そんなの、絶対にさせちゃだめだ。その悲劇を防ぐための、ほんの一筋の光が……最期の可能性が残されているとすれば、それは、この術式の中に……」
すべてを悟り切ったような、透明な微笑みを浮かべ、ユージオはごく微かな声で、しかしはっきりと詠じた。
「システム・コール……リリース・コア・プロテクション」
初めて耳にする、ごくごく短い術式だった。
それを言い終えたユージオが、唇を結び、まぶたを閉じた。
途端、彼の滑らかな額に、まるで電気回路のような複雑な紋様が、紫色の光のラインで描き出された。それは見る見る間に、両頬から首を伝って伸び、肩、二の腕、そして指先へと達する。
幾多の光のパラレルラインは、ユージオが両手で握るカーディナルの右手にまでわずかに浸出し、そこで入力を待ち受けるかのようにちかちかと先端を瞬かせた。
核心防壁解除――。
その名前から察するに、ユージオは今、己の全存在に対する無制限の操作権をカーディナルに与えたのだろう。彼がなぜそんな術式を知っているのか、そもそもなぜそのようなコマンドが用意されているのか、何一つ解らないが、しかし少なくともその短い式句はユージオの決意と覚悟を明らか過ぎるほどに映し出していた。
コマンドを受け取った瀕死の賢者は、無事な左目と、灼かれた右目をも限界まで見開き、唇を震わせた。わななくような思考波が、触れる肌を介して伝わった。
『よいのか……ユージオ。元の姿に……戻れるかどうか……わからぬぞ』
額と両頬に光の回路を浮き立たせたユージオは、目蓋を閉じたまま、深く頷いた。
「いいんです。これが僕の役目……僕がいま、この場所に存在する唯一の意味なんです。さあ、早く……アドミニストレータが気付く前に」
やめろ。
俺はそう叫びたかった。
人間の肉体を、その属性を無視して武器に変換するなどという超高位コマンドを実行できるのはこの世界にアドミニストレータとカーディナルの二人しかいない。うち片方は究極の敵であり、もうひとりは今まさにその命を尽きさせようとしている。つまり、仮にユージオがその身を剣と成し状況を打破し得たとしても、もう一度彼を人に戻すことができる術者はもう居ないかもしれないのだ。
しかし――今の俺に何が言えるだろう。
一度の敗北で骨の髄まで震え上がり、もう剣を振りかぶることも、前に足を出すことすらも出来ない俺に。
血がにじむほどに唇を噛み沈黙する俺の腕のなかで、カーディナルはすうっと眼を閉じながら、一度深く頷いた。
『よかろう、ユージオ。我が生涯最後の術式を……そなたの意志に、捧げよう』
燃え尽きる寸前の蝋燭が一瞬強く輝くかのように、はっきりとした声が俺たちの意識に響いた。
かっ、とブラウンの瞳が見開かれ、その中央に、紫の光が宿った。
カーディナルの手に接続された無数の回線が、強烈な輝きを宿して燃え上がった。その光は一瞬でユージオの身体を駆け上り、額の紋様にまで達すると、そこから溢れてまっすぐ上空に柱となって屹立した。
「なにを……!」
叫んだのは、彼方から陶酔の表情でこちらを睥睨していたアドミニストレータだった。勝利の余韻が一瞬で消え去り、銀瞳をいっぱいに剥き出させて、支配者は怒りの声を放った。
「死に損ないが何をしているッ!!」
右手のレイピアが振り下ろされ、耳を劈く咆哮とともに巨大な雷光がまっすぐこちらに向けて迸った。
「させない!!」
叫び返したのは、整合騎士アリスだった。
もう天命も限界のはずの金木犀の剣が、じゃああっ!! とその刀身を分裂させ、黄金の鎖となって宙を疾った。
鎖の先端が、アドミニストレータの稲妻に触れた。と思った瞬間、エネルギーの奔流は一直線に鎖を伝い、アリスの右手に迫った。
しかし、致命の一撃が主を撃つ寸前、黄金の鎖は後方にもその身を伸ばし、端についた針を大理石の床に突き立てた。稲妻はその回路から逃れることが出来ず、巨大なエネルギーのすべてを塔の構造物にむなしく撃ち込み、ただ爆発音と白煙のみを生み出して消滅した。
アリスは、左手の人差し指をまっすぐにアドミニストレータに向け、高らかに叫んだ。
「私に雷撃は効かぬ!!」
「人形風情が……生意気を言うわね!!」
唇をゆがめてそう吐き捨てた支配者は、あらためて凄絶な笑みを浮かべなおすと、白銀のレイピアを高く掲げた。
「なら……これはどうかしら!?」
ぼぼっ!! と低い唸りを放ち、刀身のまわりに無数の紅点が出現した。その数四十か、五十か――。あれほどの数の熱素をどうやって制御しているのか、もう推測することもできない。
アリスの金木犀の剣が、火焔による不定形の攻撃に弱いのは先のチュデルキンとの戦闘で明らかになっている。しかし黄金の騎士は退く気配も見せず、決死の覚悟で右脚を一歩前に出した。主の決意を感じたかのように、鎖を形作る小片たちもじゃきっ! と鋭い金属音を響かせると、空中に整然と並んだ。
両者が対峙するあいだにも、ユージオを包み込む紫の光輝は際限なく強まり続けている。
手が離されてもなお、光の回線はカーディナルとユージオを固く結び、洪水のような情報を伝えているようだった。不意にユージオの身体からがくりと力が抜け、しかし彼はそこに倒れることなく、逆にわずかに空中に浮かび上がった。
まっすぐに直立したユージオの身体から、すべての衣服が蒸発するように消えうせた。その寸前、片方のポケットから、不思議な物体が――ちかちかと瞬く紫のプリズムが零れ、ふわりと舞い上がるのを俺は見た。
それが、整合騎士アリスから失われた記憶の欠片であることを、俺は直感的に悟った。本来、天井で輝く神話図の一角に収まっているはずのそれを、ユージオはいつのまにか回収してのけていたのだ。
彼にしてみれば、あとは騎士アリスの魂にその記憶ピースを戻すだけで目的のすべてを達成できていたことになる。しかし、一体なにがユージオを、目的の成就を目の前にしてこのような自己犠牲に駆り立てているのか。
俺の内心に渦巻く疑問に答えることなく、ユージオは目を閉じたその顔を高く仰向かせた。舞い上がった紫のプリズムが、彼の額のすぐ前にぴたりと停止し、強く瞬いた。
そしてもうひとつ――。
腰に巻かれた剣帯が消滅し、繋がれていた青薔薇の剣も落下すると見えたのだが、それもまた重力に抗うように浮き上がると、鞘のみを脱ぎ捨ててユージオの胸の前に音もなく静止した。
ユージオの鍛えられた白い身体と、青薔薇の剣の氷色の刀身、そして紫の小さな三角柱が、一直線に並んだ。
直後、すべてを覆いつくすような強烈な輝きが、三者を中心として部屋中に迸った。
「みんな燃え尽きてしまいなさい!!」
アドミニストレータが、絶叫とともにレイピアを突き出した。
その刃を包んでいた炎が、巨大な火球となってこちらに発射された。
「させないと……言ったはず!!」
凛とした声で叫び返し、渦巻く火焔にむかって飛び出していったのはアリスだった。
彼女の周りで浮遊していた黄金片たちが、一瞬にして凝集し、ひとつの巨大な盾を作り出した。それを右手に掲げ、騎士は高く、高く跳躍すると、身体ごと恐るべき大きさの火球へと突っ込んだ。
一瞬の静寂。
直後の爆発は、閉鎖空間すら揺るがすほどの規模だった。荒れ狂う熱と閃光、そして衝撃波が広大な部屋中に広がり、すべてを焼き焦がしたが、アリスの身体に守られた俺は熱波に息を詰まらせただけだった。離れた場所で静止したままのソードゴーレムすらぐらぐらとその巨体を揺らし、さらに彼方のアドミニストレータも左腕で顔を覆った。
真紅の閃光が薄れ、爆発の中心点からどさりとアリスが落下した。わずかに遅れて、無数の黄金片もまた、その力を失ったかのように主の周囲に舞い散り落ちた。
アリスの白い装束は各所で炭化し、煙を上げている。肌も広範囲に受傷し、天命が大きく減少したことは明らかだ。意識も失ったようで、その身体はもうぴくりとも動かなかったが、しかし彼女が稼いだ貴重な数秒のあいだに、カーディナルの最後の術式はついに完成されようとしていた。
紫の光柱に包まれたユージオの身体が、実体を失い、すっと透き通った。その胸の中央に、吸い込まれるように青薔薇の剣が沈み込み、それもまた半透明の光と化して主と完全に同化した。
再びの強烈な閃光。
思わず目蓋を閉じかけた俺の視線の先で、ユージオの身体が無数の光となって解けた。それらは渦を巻くようにひとつの十字架のかたちに寄り集まり、凝縮した。
一瞬ののち、そこに浮遊しているのは、もう俺の親友の姿ではなかった。
青いほどに純白の刃と、十字の鍔、柄を持つ、一本の巨大な剣がそこに在った。刀身はもとのユージオの腰ほどにも幅広く、それでいて優美なラインを描き、鋭い剣尖へと収縮している。その刀身の中央に穿たれたちいさな溝に、いまだ宙に漂っていた紫のプリズムが、まるで寄り添うように近づき、かちり、と音を立てて嵌まった。
カーディナルの左腕が、力を失い、ぱたりと垂れた。
唇がかすかに震え、最後の一句が、微風のように宙を渡った。
『リリース……リコレクション』
きぃぃぃん!! と鋭い共振音を放って、紫のプリズム――アリスの記憶ピースが眩く光り輝いた。それに応えるように、ユージオの剣も涼やかに刀身を鳴らし、ふわりと更に高く浮かび上がった。
いまや、白い大剣は、ソードゴーレムとまったく同じロジックによって自ら動いていた。つまり、人の身より鍛えられた剣、その所有者たる人の記憶、両者を繋ぐ想いの力だ。
その想いの色だけが、ソードゴーレムと決定的に異なるはずだった。
ゴーレムを動かすのが、引き裂かれた恋人や家族の哀しみの力であるならば、白い大剣はついに巡り合ったユージオとアリスの愛の力で動いている。その証左として、俺は剣から放射される、人の善なるエネルギーの波動を強く感じた。
「おのれリセリス……余計な真似をっ……!!」
まるで、剣の放つ輝きから眼を守るように顔を背けながら、アドミニストレータが叫んだ。
「術式を模倣したところで……そのような貧相な剣一本で私の機兵に対抗できるはずもない! 一撃のもとにへし折ってあげるわ!!」
さっ、とアドミニストレータの左手が振られると、これまで沈黙していたソードゴーレムの両眼が再び青白く輝いた。ぎいいいん、と耳障りな軋み声を放ち、巨体がぐぐっと前進を始める。
世界最強の怪物に対し、ユージオの剣はすっと刀身を回転させると、その切っ先をまっすぐに敵に向けた。
白い刀身が一層その輝きを増し、雪のように光の粒を舞い散らせた。
直後、彗星のように光の尾を引きながら、剣はまっすぐにゴーレム目掛けて突進を開始した。
『……美しい……』
俺の腕のなかで、カーディナルがかすかに呟いた。
『人の……愛、そして意志の放つ……光……。なんて……美しい……』
「ああ……そうだな」
抑えようもなく、両眼から涙が溢れるのを感じながら、俺は囁き返した。
『キリト……あとは、頼んだ、ぞ……。世界を……人々を……守っ……て……』
最後の力で目蓋を持ち上げ、透き通った瞳でまっすぐ俺を見て、カーディナルはそっと微笑んだ。俺が頷くのを見届けると、世界最古の賢者にして齢幼き少女は、ゆっくりと目を瞑り、穏やかに息を吐き――そして二度と呼吸することはなかった。
両腕に感じていたささやかな重みが、溶けるように消えていくのを、俺は滂沱と滴る涙の熱さとともに感じた。
滲む視界のなか、カーディナルの遺志を注ぎ込まれた白い剣は、光の翼を羽ばたかせながらどこまでもまっすぐ飛翔していく。
それを迎え撃つかのように、くろがねの巨兵は、両手の大剣と肋骨の鎌を大きく広げた。黝い闇をまとわり付かせた無数の刃が、凶悪なあぎとと化していっぱいに口を開いた。
数値上のプライオリティだけで比較するなら、ユージオひとりの身体と青薔薇の剣だけが基となった白の剣では、百数十人もの人間を転換したゴーレムには抗すべくもない。
それでも、ユージオの剣はさらに速度を増し、待ち受ける刃の獄へと突進する。
その軌道が貫く先――ゴーレムにもし心臓があるとすればそこだったろう、という左胸の肋骨部を凝視した俺は、あることに気付き、涙の雫を散らしながら大きく目を見張った。
これまで、左右同じ数だけ対になっていると思っていたゴーレムの肋の剣が、左側のそこだけ一本少ない。
もしかしたら――あそこには本来、天井の神話図に組み込まれたアリスの記憶が操る剣が合体するはずだったのではないだろうか。
それが、何らかの理由によって記憶ピースが分離されたため、本来あるべきパーツが一つ少なくなってしまったのだ。アリスの記憶とユージオの身体からなる白の大剣は、まっすぐにその空虚を目指している。
俺がそう悟ったその瞬間。
両者が激突し、白と黒のエネルギーが絡み合い、渦巻き、炸裂した。
ギャァァァァッ!! という、獣の咆哮にも似た多重の金属音を放ってゴーレムの剣の牙が噛み合わされ――。
しかし、それより一瞬早く、白い剣はゴーレムの肋骨に開いたわずかな間隙を深々と貫き通していた。
これまで、黒い炎のような闇によって接合されていたゴーレムの無数の間接部に、貫かれた肋骨から広がった白い光が猛烈な勢いで浸透していく。
それはまるで、引き裂かれた恋人たちの悲哀を、ユージオとアリスの愛が癒し、昇華させているかのように俺には見えた。
ぎいいいというゴーレムの醜い叫びが、みるみるうちに澄んだ鈴の音となって高まり、共鳴し、拡散した。
直後、閉じた両腕と肋骨の中心部から、純白の輝きが迸り――数十本の魔剣は、嵐に引き裂かれるかのように、ばらばらに分離して吹き飛んだ。
凄まじい速度で回転しながら高く舞い上がった剣たちは、放射状に飛び散り、轟音とともに円形の部屋の外周部に一斉に突き立った。
俺のすぐ背後にも、巨大な刃が墓標のごとく屹立した。それは間違いなく、俺の身体を分断したゴーレムの右脚だったが、まとわり付いていた鬼気とでも言うべきオーラはすでに消えうせ、今はもうただの冷たい鉄でしかなかった。
ゴーレムを動かしていた天蓋の数十の神図たちも、不規則に明滅しながらその紫の輝きを薄れさせ、やがて完全な闇に没した。"彼ら"の意識がどうなったのかは定かでないが――少なくとも、その感情を糧にしていたアドミニストレータの完全支配術は解け、二度と再現されることはあるまいと思えた。
世界最強の魔神を一撃で分解せしめた白の大剣は、いまだ空中に横たわり、きらきらと光の粒を振り撒いていた。
その刀身の中央に埋まり煌くアリスの記憶フラグメント、その内部に刻まれているのは、ルーリッドに生まれてから十一歳の夏までを共に過ごしたユージオとの思い出であることはもう明らかだ。だからこそこの奇跡は起こり得たのだし、剣のまとう輝きがこれほどまでに美しいのだ。
「ああ……ほんとうに、綺麗だ」
俺は、腕のなかのカーディナルの骸を強く抱きしめ、もはやアンダーワールドからも現実世界からもはるか遠い場所へと旅立った彼女の魂へと囁きかけた。
応える声はなかったが、惨く傷つけられた小さな体が、ほのかな燐光に包まれていくのを俺は感じた。その輝きは、白い剣の放つ奇跡の光とまったく同質の清浄さに満たされていた。それこそが、カーディナル、あるいはリセリスという名を持つ少女が、何度も繰り返し自称していたようなプログラムではなく、真の感情と愛を持つひとりの人間であったという証左だと俺は確信した。燐光は、ほのかな温かみすら伴って俺の萎え切った体に染み込み、同時に骸はその重みを少しずつ薄れさせていく。
隔絶空間をあまねく照らし出し、浄化するかのような白い輝きの波動を――。
あくまで拒絶するがごとく、冷ややかな声が刃となって切り裂いた。
「死に際に悪あがきをしてくれるわね、ちびっこは。ちょっとだけ興醒めだわ」
己の最後の切り札を破壊されてなお、傲然とした態度を崩すことなく、アドミニストレータは壮絶な笑みを浮かべて見せた。
「――でも、せいぜい試作品をひとつ壊すくらいが限界だったってことよね。あんなもの、これから何千個、何万個だって造れるんだもの」
鏡のレイピアに左手の指先を這わせながらそう嘯くその姿には、カーディナルの同位体であるはずの彼女のほうはほんとうにすべての感情を凍結しているのかもしれないと思わせる、底知れない闇の色がまとわり付いている。いや、比喩でなく、輝かんばかりの白亜の肌と銀髪を持つその肢体を、瘴気のごとく赤黒いうねりがゆったりと取り巻いているのが見える。
俺の体の底に、恐怖のいう名の冷たい蛇がふたたび鎌首をもたげるのを感じる。無敵と思えたソードゴーレムはついに破壊されたが、その代償はあまりに大きかった。世界で唯ひとり、アドミニストレータの超魔力に抗しうる人物を俺たちは失ってしまったのだから。
声も出せず、ただ最高司祭の姿を見ることしかできない俺とは対照的に――。
涼やかな音を響かせ、先端をまっすぐに敵に向けたのは、浮遊を続けるユージオの剣だった。
「あら」
凶悪な輝きを銀鏡の瞳に浮かべ、アドミニストレータが囁いた。
「まだやる気なの、坊や? 術式の穴を衝いて私の機兵を崩したくらいで、ずいぶんと強気じゃない?」
その言葉が、鉄身と化したユージオの意識に届いているのかどうかは定かでない。しかし、純白の大剣は小揺るぎもせず、鋭い切っ先で最高司祭を狙い続ける。刀身を取り巻く輝きは再び強まり、きん、きんという刃鳴りもその周波数を高めていく。
「……やめろ、ユージオ」
俺は思わずそう口走り、左手を伸ばした。
「もういい、戻れ。一人で行くな」
圧倒的な危惧に突き動かされ、俺は力の抜けた足でわずかに前ににじり進んだ。まっすぐ差し出した指先に、剣から放射される光の粒がひとつ触れ、弾け、消えた。
直後。
轟という響きを放ち、大剣の柄部分からもういちど純白の翼が大きく広がった。それを力強く羽ばたかせ――白い剣は、凄まじい速度で一直線にアドミニストレータ目掛けて突進した。
支配者の真珠色の唇に、凶悪な笑みが一杯に浮かんだ。軋むような音を立てて振り下ろされた鏡のレイピアから、尽きることない極大の雷光が迸り、迫る光の剣を迎え撃った。
剣の切っ先が、雷光に触れた瞬間。
これまで記憶にないほどの衝撃波が荒れ狂い、遠く離れた俺の全身をも強打した。
顔を背けながらも、限界まで眼を見張った俺の視線の先で、アドミニストレータの雷光が、無数の細条へと引き裂かれるのが見えた。
バァァァーッ!! という轟音とともに飛び散った稲妻の破片が、部屋の各所を叩く。超高優先度の激流を正面から打ち毀し、剣はなおも飛翔する。その刀身の表面が、微細にひび割れ、次々と破片を散らしていくのを俺は見た。それら全てはユージオの肉体、命そのものであるはずなのに。
「ユージオ!!」
叫んだ俺の声は、荒れ狂う嵐に紛れ。
「小僧……!!」
アドミニストレータの唇からついに笑みが消え。
雷光をその源まで遡りきった白の大剣は、その尖端を、レイピアの針のような切っ先に正確に命中させた。
超高周波の震動が空間すべてを揺るがした。アドミニストレータの全魔力を支えるリソース源たる鏡のレイピアと、ユージオの変じた白い剣は、真正面から凄まじい密度の鬩ぎ合いを数瞬、続けた。見かけ上は完全な静止状態だったが、それが次なる破壊への前兆であることを俺は全身の肌で感じた。
やがて起きた現象は、コンマ数秒のことだったが、俺にはとてつもなくゆっくりとしたスロー再生のフィルムのように見えた。
アドミニストレータのレイピアが、無数の鏡の破片となって粉砕され。
白い大剣が、その刀身の中央から真っ二つにへし折れ。
回転しながら吹き飛んだ前半分の刃が、アドミニストレータの右腕を、その肩口から滑らかに斬り飛ばした。
それらすべてが、無音のスクリーンに緩やかに映し出され、やがて遠くから音と震動が追いついた。
直後、解放されたリソースが引き起こした大爆発が、二者を飲み込んだ。
「ユージオ――――――――!!」
俺の絶叫は、荒れ狂う電磁ノイズのような轟音に呑まれ、俺自身にも聞こえなかった。打ち寄せてきた衝撃波が、俺の体を叩き、壁際まで吹き飛ばした。
突き立つゴーレムの剣の陰で激流をやり過ごし、腕にカーディナルの遺骸を抱えたままよろよろと立ち上がった俺が見たのは――。
初めて二本の足で床に立ち、蒼白の無表情で肩の傷口を押さえたアドミニストレータと。
その足元に横たわる、ふたつの剣の破片だった。
剣には、いまだうっすらと白い輝きが宿っていた。
しかし呆然と見守るうちに、それはまるで心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅しながら力を失い、やがて、消えた。
白い剣の断片たちは、同時にすうっとその実体を失い、紫に透き通った構造体に戻ると、徐々にその形を人の姿へと変じさせた。
切っ先から刃の中ほどまでの破片は、両脚と腰の半ばほどまで。
そして柄を含む破片は、ユージオの上半身へと。
亜麻色の髪の少年は、目を閉じ、胸の上に乗せた右手に紫のプリズムを握っていた。その体が肌の質感を得、重さを取り戻し、その直後。
分断された体の双方から、恐ろしいほどの量の血液が溢れ出し、一瞬にしてアドミニストレータの素足を浸した。