キリトの言葉はもはや、遥かユージオの理解の埒外だった。それはアリスも同様だったろう。目のふちが乾かぬ顔をわずかに振り向かせ、物問いたげに眉を顰めている。
しかし、最高司祭ただ一人だけは、謎多き剣士の言わんとすることを完璧に汲み得たらしかった。笑みが極限まで薄まり、細められた銀の瞳に凍てつくような冷たい光が一瞬過ぎった。
「……さすがに、愉快ではないわね。この世界が、誰かさんの気まぐれで生み出された小さな箱庭だ、なんてはっきり言われるのは」
なよやかな指が組み合わされた両手に、美貌の下半分が隠される。見えない唇から発せられる声は、先刻までのからかうような響きをほとんど失っている。
「でも、それなら、あなたたち……"向こう側"の人間たちはどうなのかしら? 自分たちの世界が、より上位の存在に創造されたものである可能性を常に意識し、世界がリセットされないように、上位者の気に入る方向へのみ進むよう努力しているのかしらね?」
この問いは、キリトにも予想外のものであるらしかった。すぐには答えられない反逆者を高みから睥睨しながら、アドミニストレータはゆるりと上体を起こし、両手を左右に広げた。折り畳んでいた長い両脚も、誇示するように伸ばし、組む。豊かさと清らかさが同居した輝くような裸身が――実際にほのかな燐光を放ちながら、圧倒的な神々しさを空間すべてに振り撒いた。
「そんなはずはないわよね。戯れに世界と生命を創造し、気に入らなくなれば消し去ろうなんて連中だものね。そんな世界からやってきた坊やに、私に融和と博愛なんていう実存のない代物を押し付ける権利があって? 私は御免だわ、創造神を気取る奴輩におもねって、存在し続ける許可を乞うなんて惨めな真似は! ちびっこに昔話を聞いたなら、坊やは知っているはずよ……私の存在証明は、支配の維持と強化それのみにある。その欲求のみが私を動かし、私を生かす。この足は踏みしだく為にのみあるのであって、決して膝を屈する為ではない!!」
ごう、と空気が逆巻き、銀の髪を大きく広げた。ユージオはどうしようもなく気圧され、思わず一歩右足を引いた。アドミニストレータは、アリスを奪い記憶を書き換え、また貴族たちの腐敗を放置した敵ではあるが、しかしやはり世界に唯一人の最高支配者なのだ――本来であればユージオのような無姓民は目にすることすら叶わぬ半神人なのだ、と改めて認識させられる。
そのユージオをここまで導いてきた黒髪の相棒も、同じく圧倒されたのか上体を揺らしたが、しかし下がることなく逆にぐっと一歩踏み込んだ。自分を鼓舞するように、右手の剣を一度強く床に突き立てる。
「ならば!!」
発せられた声は、背後の硝子窓を揺らすほどの大音量だった。
「ならば――あなたはこのまま人界が蹂躙されるに任せ、民なき国の支配者として虚ろなる玉座で独り滅びの時を待つつもりなのか!」
「黙れ若造!!」
その瞬間だけ、アドミニストレータの容貌から少女めいた部分が消滅し、彼女が生きた時間の悠久さが感情無き怒りとして色濃く現れた。しかしすぐにそれは薄れ、再び戯れるがごとき笑みが真珠の唇を彩った。
「……坊やが言ったことを、私が考えなかったと思われたなら心外だわ。私には考える時間はたっぷりあったのよ……時間だけは私の味方ですものね、創造者たちのではなく」
「……では、あなたにはこの終局を回避する手段があるというのか」
「手段であり、目的でもあるわね。支配こそが私の存在意義……その適用範囲に制限など無いわ」
「何……? どういう意味だ」
僅かに戸惑ったようなキリトの声に、アドミニストレータは答えなかった。代わりに一層笑みを深くし、お話はこれでおしまい、と言うように両手をぽんと打ち合わせた。
「その先は、坊やが私のお人形さんになったときに聞かせてあげるわ。勿論アリスちゃんも……亜麻色の髪の坊やもね。ひとつだけ付け足すなら……私は、このアンダーワールドを消滅させる気は勿論、ダークテリトリーによる負荷実験さえも受け入れるつもりだって無いのよ。そのための術式はもう完成してるの……喜びなさい、誰よりも最初に、あなたたちに見せてあげるから」
「……術式?」
キリトが低くかすれた声で聞き返した。
「いまさら、制限だらけのシステム・コマンドに頼るって言うのか。あなたひとりのコマンドで、闇の軍勢を全滅させられるつもりなのか。今この状況では、もう俺たち三人すら処理できないだろうに」
「あらそう?」
「そうさ。もうこうなってはあんたの負けだ。遠隔攻撃術はアリスの剣が一瞬にせよ止めるし、その隙に俺とユージオが斬り込む。接触コマンドで無力化させる気なら、さっきチュデルキンを斃した技であなたも斬る。――今さらこんなこと言いたくないけど、前衛のない術士ひとりでは複数の剣士には勝てない。それはこの世界でも絶対の原則であるはずだ」
「ひとり……ひとり、ね」
アドミニストレータはくすくすと喉の奥で笑った。
「いい線突いてるわね。そう……結局、数が問題なのよね。駒が多すぎれば制御しきれない。少なすぎれば負荷に耐えられない。整合騎士団は、そのバランスの中で増やしてきたわけだけど、もうそれじゃ足りない」
最後の忠臣を失い、残るはわが身ひとつの最高支配者は、三人の反逆の徒を前に底知れない余裕を見せながら詠うように独白した。
「でも、今必要なのは、アリスちゃんみたいなお人形ですらないのよ。何も考えずにただひたすら敵を屠るただの機械であればいい。可愛くも、綺麗でもなくていい……つまりもう、人間である必要はない」
「何……? なにを……」
問い質すキリトの声を無視し、アドミニストレータはさっと高く両手を掲げた。
「最後までお馬鹿な道化だったけど、チュデルキンも少しは役に立ったわね。まだ整理できてないこの長ったらしい術式を組む時間を作ってくれたんですから。さあ……目覚めなさい、私の忠実なる僕! 魂無き殺戮機械よ!!」
続いて銀髪の少女が高らかに歌い上げた言葉は、介入しようがないほどに短く、しかしその恐ろしさをユージオも他の二人も充分以上に理解しているあの一句だった。
「リリース・リコレクション!!」
記憶解放――。
その命を受け取ったのは、これまでユージオの視界に入り続けていながら、まったく脅威として認識できていなかった物たちだった。本来、それを握る主がなければ何の役にも立たないはずの代物。すなわち――壁に並ぶ無数の神像、それらが携える大小無数の剣。
ぎぃぃぃん、という骨を軋ませるような共鳴音を放ち、総数三十は越えるだろう剣たちが一斉に青紫に発光した。そして同時に、どういう理由なのか、天井に描かれている無数の神の線画もまた大部分が紫に輝いた。
突如、すべての剣が神像の手から外れ、唸りを上げて宙に舞い上がったので、三人は慌てて身を屈めた。空気を切り裂きながら飛翔した剣の群れは、渦を巻くように広大な部屋の中央に集まると、更に驚くべき現象を発生させた。
まず、最も巨大な両刃剣――長さ二メルはあるであろうそれが、柄を上にして静止した。即座にその両側に、小型の剣たちが籠を作るように十本以上も整列する。まるで、修剣学院の治療術の授業で教わった、人間の背骨と肋骨であるかのように。
ユージオのその連想が当を得ていた証として、骨盤があるべき場所には二本の鎌のごとく湾曲した東域刀が向き合わせに接続した。そしてその弧に柄を収めるように、大型の直剣が二本ずつ束になって繋がる。更に、その剣尖の隙間に同型の剣が一本挟まれる。
瞬く間に胴体と下半身を完成させた剣の骸骨は、次に四本ずつの束を肩部分に合致させた。脚に対して倍以上の太さがある上腕に見合うかのごとく、最大級の、ほとんど背骨と同じ刀身長がある両手剣がその先に接続する。
最後に、背骨を成している大剣の柄に、二本の短剣が交差しながら収まった。短剣の柄の端に埋め込まれた宝玉が、両の眼であるかのように、気味の悪い青白い光を明滅させた。
数秒とかからずに完成した、剣のみで構成された巨人が、がしゃりと各関節を鳴らしながら床にその足――を成している剣の切っ先を降ろすのを、ユージオは呆然と眺めた。
「……まさか……有り得ない」
半ば呻くようにそうつぶやいたのは、整合騎士アリスだった。声には出さねどユージオもまったく同感だった。
これは有り得ない術だ。
確かに、完全支配術をそのように組み記憶解放を行えば、剣に空中を飛翔させることは可能だろう。そして自在に操ることも。だが、それができるのは剣一振りのみだ。所有者が複数の剣の記憶解放を同時に行うことはできない、それはこの術式が根本的に内包する大原則だからだ。
だが、この場にいるのはアドミニストレータただ一人。最高支配者の権限は、神聖術の原則すらも超越するのか!? しかしそれが可能なら、三人の身体を遠距離から拘束する程度のことだってできるはずではないか。
つまり彼女は、なんらかの説明可能な手段で所有者と剣一対一の原則を回避しているのだ。
ユージオが、僅かな刹那で看破できたのは、残念ながらそこまでだった。説明を求めて周囲を見回すよりも速く、ぎぃぃぃっ!! という金属質の雄叫びを放って、身の丈四メルに達する剣の巨人が突進を開始した。
恐るべき速度、そして圧倒的な重量感だった。
巨人の身体は、骨に見立てた剣だけで構成された空疎なしろものだし、その上背も先に元老チュデルキンが召喚した炎の魔人には及ばない。しかし、各関節をじゃきりじゃきりと鳴らして肉薄してくる悪夢のごとき剣巨人の姿に、ユージオは腹の底まで凍りつくほどの恐怖をおぼえた。ある意味ではアドミニストレータその人をも上回る、完璧なる絶望の具象化――。
三秒と無かった猶予時間を、ユージオはただ呆然と立ち尽くすことで消費した。
キリトは半秒足らずで何かを考え決定したらしく、左斜め前方へと飛び出した。
しかし、最も素早く、しかも果敢な行動に出たのは整合騎士アリスだった。
黄金の残光を引きながら、アリスは剣巨人の前進とほとんど同時に、その真正面へと突撃したのだ。
「いやあああああ!!」
巨骸の放つ金属共鳴音すら上回る、烈破の気合。両手で握った金木犀の剣を、アリスは右肩に担ぐように大きく振りかぶった。
敵もまた、右腕を構成する鈍色の大剣を、ほとんと天井に届かんばかりに高く掲げた。
その時点で、すでにこちらも疾走を開始していたキリトは巨人の左真横に達しようとしていた。
脚の感覚すらも失い棒立ちとなっていたユージオではあるが、それでもアリスとキリトの、まるで意識そのものを交感させたかのごとき同時攻撃の意図はどうにか察することができた。
二人とも、巨人に弱点があり得るとすればそれは後ろ側、背骨をなす剣と四肢の接合部だろうと判断したのだ。前面はどこもかしこも刃だらけでとても攻撃は届かない。ゆえにアリスが囮となって敵の動きを止め、その間にキリトが急所を断つ――つまり今回も、チュデルキンの魔人を退けたときと同じ役割というわけだ。
キリトとしては内心複雑なものはあろうが、しかし事前の相談もなしにしては驚くべき意思疎通、まさに完璧な連携攻撃だ、とユージオは無意識の羨望とともに感嘆した。
そして同時に、否応無く湧き上がる卑小感もまた。
それをいや増すかのように、ソルスの光にも似た眩い軌跡を描いて、アリスの剣が疾った。巨人の右腕も、交錯軌道を取って轟然と振り下ろされた。双方が激突した瞬間、塔全体を揺るがす爆発じみた衝撃と閃光がすべてを圧した。
戦闘開始から、ここまでで三秒。
そして、戦闘と呼びうるものはこの瞬間終わった。
続いて始まったのは、一方的な惨劇だった。
アリスの金木犀の剣が――"永劫不朽"の二つ名を持つ、この世のすべての剣のなかで最も古く力ある神器のなかの神器が、巨人の右手剣に呆気なく弾き返され宙を泳ぐさまを、ユージオは愕然と見つめた。
剣に引き摺られるように、騎士の身体もわずかに浮きあがり、重心を崩した。倒れまいと懸命にもがくアリスの、がらあきの正面に――
何の躊躇も気負いもなく、巨人の左腕がほとんど無造作に、しかし煙るほどの速度で突き込まれた。
どっ。
というその音は、先の戟剣と比べればあまりにもささやかに響いた。しかし引き起こされた結果は、比べるまでもなく決定的だった。
アリスの細い背中から、凶悪なほどに鋭く分厚い剣の先端が出現し、真紅の雫を撒き散らしながら深く突き抜けた。長く美しい金髪が、血液の飛沫のあいだを縫うようにふわりと流れた。
左右に分断された黄金の胸当てが、瞬時に天命を失いながら粉々に砕けた。騎士の右手から、その命である剣が抜け落ち、床に転がった。
そして最後に、アリスの華奢な身体は、己を貫く剣に沿ってずるりと滑りながら床へと倒れ臥した。
「う……ああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。
迸らせたのはキリトだった。巨人の後背に回りこみ終えたところだった黒衣の剣士は、蒼白の顔に両眼をぎらりと光らせ、歯を剥き出しながら猛然と床を蹴った。
黒い凶鳥のように、三メル以上も高く飛翔したキリトは、獰猛な雄叫びを放ちながら愛剣を大上段から振り下ろした。狙ったのは巨人の中心を成す最大の剣の柄部分。
急所であろうそこを、防御するすべは巨人には無いはずだった。
しかし――。
闇に囲まれて狭窄したユージオの視界の中で、再び有り得べからざる現象が起きた。
剣巨人の上半身が、背骨を軸として、猛烈な速度で回転した。人間には不可能な動きで、完全に真後ろを向いた巨人の右の剣が、横薙ぎにキリトを襲った。
がぎぃん!!
という音は、キリトがこれも超人的な反応で、振り下ろしつつあった剣の軌道をずらし巨人の右腕を迎撃してのけた証だった。
だが、やはりそこまでだった。
一瞬前の再現として、布切れのように弾かれた剣士は、恐ろしいほどの速度で床に叩きつけられ反動で半メル近くも浮き上がった。その身体が、もう一度床に落ちることはなかった。
巨人の左脚を成す片刃の大段平が、何の予備動作もなしに轟と跳ね上がり、キリトの身体を捕らえた。どかぁっ!! という鈍い衝撃音とともに、剣士の身体はふたたび、しかし今度は水平に吹き飛ばされ、十メル以上の距離を瞬時に飛翔して硝子壁に激突した。ばしゃっとそら恐ろしいほどの量の血液を、放射状に硝子面に広げてから、そこに太く赤い筋を引きながらキリトの身体はゆっくりと床に滑り落ちた。
うつ伏せに倒れた相棒の下から、尚もじわりと血溜まりが広がっていく様を、ユージオは棒立ちになったままただ凝視した。
脚も、腕も、感覚は無かった。ただひたすら冷たく、そして己の肉体ではないように細かく震えるだけだった。
唯一そこだけはどうにか動かせる眼球を、ユージオは苦労しながら巡らせて、離れた場所に屹立する剣巨人を見上げた。
巨人もまた、まっすぐにユージオを見下ろしていた。その顔部分を構成する二本の短剣の、柄に嵌められた宝石が、ひたすら無感情にちかちかと明滅する。
うそだ。
こんなのは嘘だ。
ユージオは、頭のなかで何度もそれだけを繰り返した。
アリスとキリト、いまや間違いなくこの人界で最強と言えるはずの二人の剣士が、こうも容易く斃されていいはずがなかった。いや、それ以前に――キリトは確かに言っていたではないか。この剣巨人を生み出した術者、最高司祭アドミニストレータは、人を殺すことはできないと。
あの残忍なチュデルキンも、戦闘に際してユージオらを殺すとは言わなかった。天命を削り、無力化し、拘束すると言っただけだった。それがアドミニストレータの命令だったからだ。
だが――この剣巨人の攻撃に、手加減などというものは皆無だ。あの傷と出血を見れば、キリトとアリスの天命が今まさに尽きようとしているのは明らかだ。いったいなぜ――どうして。
くすくす。くすくすくす。
巨人が放つ共鳴音のかげに、かすかに揺れるさざなみめいた音が、アドミニストレータの含み笑いであることにユージオは気づいた。
視線を動かすと、最高司祭を名乗る銀髪の少女は、その双眸にただ興味と満足の色だけを浮かべて、血塗られた惨劇の場をはるか高みから見守っていた。その唇を彩る魔性の微笑みのどこにも、ユージオの疑問を解消しうる答えは見出せなかった。
ただひとつ明らかなのは、アドミニストレータにはもはやユージオを手駒として懐柔しようなどというつもりは無いのだということだけだ。少女の美貌に浮かぶのは、己が組み上げた術式とその恐るべき威力への喜悦それのみだった。
主の意を受けた剣の巨人は、それを最後まで忠実に実行すべく、青白く明滅する眼でまっすぐにユージオを凝視した。
右足が持ち上がり、長大な歩幅でがしゃんと床を突く。
左足がぎらりと輝きながらそれに続く。
己の死が、最後の数メルをゆっくりと接近してくるのを、ユージオは灼き切れかけた感情とともに見つめた。
巨人の左腕と左脚は、ともに細く滴る赤い雫に彩られている。どうせなら、そのどちらかに斬られて終わりたいと、理由もなくユージオは考えた。もはや恐慌すらも消えうせ、世界はあまりにも静かだったので――。
不意に、左脇で泡のように弾けたかすかな囁き声が、現実のものだとはすぐには気付けなかった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
かなり年上と思われる、艶っぽい女性の声だった。やれやれ、今わの際の幻聴を聞くにしてももう少し節操というものがあってもいいだろう、などと思いつつ再び左を向いたユージオの目に飛び込んできたのは、それこそ幻としか思えない、あまりにも意外すぎる光景だった。
うつ伏せに倒れ、動かないキリトの身体。
その背中の襟の折り返しから、ちょろりと姿を現し、ユージオに右手――あるいは右足の一本をまっすぐ突きつける、小さな漆黒の蜘蛛。
すでに限界まで負荷のかかったユージオの思考には、もう驚く力すら残されていないようだった。痺れた意識のなかで、ユージオは自分の口が、幼子のように言い分けをするのを聞いた。
「だ……だめなんだ。あの短剣は、アドミニストレータには効かないんだ」
「違うわよ! ドアよ!! ドアに刺しなさい!!」
「え……」
ユージオは唖然と目を見開いた。黒い蜘蛛は、紅玉のように煌く八つの眼でしかとユージオを見据えながら、今度は左の後ろ足でびしっと部屋の隅――キリトとアリスが乗り込んできた、円筒形の通路を指した。
「時間はあたしが稼ぐから! 急いで!!」
口のあたりから覗く可愛らしい牙を動かしながら蜘蛛はそう叫ぶと、右手を降ろした。そしてその先で、目を瞑り血の気を失ったキリトの頬を、まるで名残を惜しむかのように一瞬、そっと撫でた。
次の瞬間、指の先に載るほどの極小の黒蜘蛛は――
間近に迫りつつある剣の巨人、掛け値なく己の数千倍の質量があろうというその相手に向かって、果敢な突進を開始した。
肉体的苦痛はある程度克服したつもりだった。
二年以上も昔、この世界に放り出されてすぐの頃、ゴブリンと呼ばれるダークテリトリーの住人との戦闘において俺は肩に受傷し、それが決して致命的なものではなかったにもかかわらず苦痛のあまり――正しくは苦痛が誘起した恐怖によって竦みあがり、動けなくなってしまった。
あの経験は、アンダーワールドにおける俺の最大の弱点を如実に浮かび上がらせた。ナーヴギアおよびアミュスフィアが備えるペイン・アブソーバによって執拗なまでに保護された環境で長い時間を過ごしてしまったため、痛みへの耐性が極限まで低下していたのだ。
以来俺は、主にユージオとの手合わせで積極的に木剣を身に受けることで痛みに慣れるよう努めた。その経験が奏功したのか、この塔に突入してからの実戦の連続で手酷い傷をどれほど負おうと、精神的に硬直してしまうことだけはなかった。アンダーワールドでの負傷は、たとえ四肢や臓器を損失するほどの重傷であっても天命がゼロにならない限り完全治癒が可能だし、となれば克服しなければならないのは恐怖それのみであるからだ。
だが――。
この局面に突入して、俺はいまさらのように自分の精神力を過信していたことを思い知らされた。
アドミニストレータが造り上げた剣の巨大人形、ソードゴーレムとでも言うべき怪物のパワーとスピードは桁外れだった。この世界の根幹的なバランスを逸脱した超絶的な性能だ。一撃目を防御できたのがすでに万にひとつの僥倖であり、下方から跳ね上がってきた二撃目は、眼で捉えることすらできなかった。
ゴーレムの足を構成する剣は、どうやら俺の右下腹部から入り、内臓と脊柱を分断して左脇に抜けたようだ。あの一瞬、ひやりと氷のような感触がその軌道を撫でたのは意識できたが、吹き飛ばされ、窓にぶつかり、床に転がった今ではもう胴体を包む灼熱のごとき激痛が存在するだけだ。首も両手も動かせず、下半身に至っては感覚すら消えうせている。ことによると身体が真っ二つになっていてもおかしくない。
意識と思考力を保ち得ているのがいっそ不思議だった。
あるいはそれは、苦痛や恐怖といった感覚よりも、絶望のほうが遥かに大きいせいかもしれなかった。
恐らく今、俺の天命はかつてない速度で減少しているだろう。ゼロになるまでの時間は一分と残されているまい。
そしてその猶予は、整合騎士アリスのほうが恐らく少ない。離れた床に倒れ臥す黄金の剣士は、出血こそ俺より少ないが、ソードゴーレムの腕に心臓を直撃されている。たとえ今すぐ最上級の治癒術を施しても間に合わない可能性が高い。アンダーワールド三百年の歴史の果てについに出現した、法への盲従性を超越した奇跡の人工フラクトライトが、まさに今むなしく消滅しようとしている。
視界には捉えられないが、左方向に居るはずのもうひとつの奇跡にして掛け替えの無い親友ユージオの命運も、もはや風前の灯だ。
ゴーレムが足を上げ、ずしりと前進するのが霞んだ眼にうつる。
逃げてくれユージオ、そう念じるが口も舌もぴくりとも動かせない。
いや――たとえ叫べたとしても、ユージオは逃げるまい。青薔薇の剣を構え、俺とアリスを救うために、巨大すぎる敵に立ち向かうだろう。
この状況を招いたのはすべて俺の誤り――"アドミニストレータに人は殺せない"はずだ、という読み違いのせいであるのに。図書室のカーディナルは、俺にわざわざティーカップとスープカップの実演を見せてくれた。それは即ち、殺人禁止の法ですら長い時間のなかでは変質し得る、ということの喩えに他ならなかったのに。
灼熱の激痛は、いつしか凍えるような虚無感へと摩り替わろうとしている。
もうすぐ、俺に設定された天命という名のステータス値がゼロになる。その瞬間俺はこの世界から弾き出され、STLの中で意識を取り戻し、そして知るだろう。現在のアンダーワールドが――アリスやユージオを含む全てのフラクトライト達が、悲嘆と絶望の果てに完全リセットされたのを。
ああ――いっそ、俺の天命も、ユージオたちのそれとまったく同じ意味を持っていれば! それ以外に、俺はどうやって彼らに詫びることができるというのか――。
徐々に暗くなる視界には、重々しく前進を続けるソードゴーレム、その後方で愉悦の色を浮かべるアドミニストレータ、そして斃れたアリスの金髪の輝きが収められている。
数秒先の新たな惨劇を見るに偲びず、俺は、そこだけが動くまぶたをそっと閉じた。
耳元で、小さく、しかし確かな声がはじけたのはその時だった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
初めて聞く、どこか徒っぽさのある女性の声だ。俺は何も考えられず、目を閉じたままその声と、ユージオの戸惑い声のやりとりと聞き続けた。
声の主は、手短にいくつかの指示を放ったあと、時間を稼ぐ、と宣言して俺の首筋から移動した。一瞬、頬に何か、小さくあたたかいものの感触が横切った。
その温度がわずかな力を取り戻させたのか、俺のまぶたが殆ど自動的に持ち上がった。
視界の中央に、俺の頬からすとんと降り立ったのは――全身が艶々とした漆黒にきらめく、ごくごく小さな一匹の蜘蛛だった。
声は記憶にないが、しかしこの姿は覚えている。
シャーロットだ。カーディナルが長い間俺にくっつけていた情報収集端末。
しかし何故。この小蜘蛛は、図書館で端末としての命令を解除され、本棚の隙間に消えていったではないか。それに――人の言葉をしゃべるとは、一体。
瞬間、痛みと恐怖を忘れた俺の目の前で、あまりにも小さなその蜘蛛は、接近しつつある巨大なゴーレムに向かって、一直線に突進を開始した。
八本の細い脚が、優雅ですらある滑らかな動きで目まぐるしく絨毯を蹴る。しかし、その一歩が刻む距離は、ソードゴーレムのそれとは比較にならない。ユージオに向かって大股に接近していくゴーレムに対して、一体どのような手段で時間を稼ぐつもりなのか見当もつかないが、到底間に合いそうにない――。
と思考したその瞬間、再び俺に激痛を忘れさせる驚異が出現した。
ぐっ、と、黒蜘蛛の体躯が一回り大きくなったのだ。
尖った脚が床を突くたびに、まるで何らかのエネルギーが注入されでもしたかのように、ぐい、ぐいと蜘蛛はその体積を増していく。現象は留まるところを知らず、わずか数秒で猫から犬のサイズを越え、なおも巨大化を続ける。いつしか俺は、床に接した頬でシャーロットの脚が生み出す重い震動を感じていた。
ぎっ。
という金属質の軋み声を上げて、ソードゴーレムがシャーロットを見下ろした。青白い二眼が、新たな敵を評価するように激しく明滅する。
しゃあああっ!!
と、こちらは剃刀を革で研ぐような咆哮を放ち、ついに全長二メートルほどにまで達した黒蜘蛛は、真紅の複眼を強烈に発光させた。
上背はゴーレムの半分にも及ばないが、向こうが細長い骨だけで構成されているのに対して、巨大シャーロットの姿は禍々しいほどに逞しく、それでいてとてつもなく優美だった。全身を覆う漆黒の繊毛は光を受けると金色に輝き、八肢の先端の鉤爪は黒水晶のように冷たく透き通っている。
両腕と言うべき最前の二脚はひときわ大きく、爪もまるで剣かと思うほどに長く鋭い。その右脚を高く掲げると、シャーロットは躊躇い無くゴーレムの左脚に叩き付けた。
大剣同士を打ち合わせたとしか思えない、重々しい金属の衝突音が部屋中に響いた。発生したオレンジ色の火花が、薄暗い室内を瞬間眩く照らした。
それが合図であったかのように、これまで硬直していたユージオが、ついに走り出す気配を俺は感じた。
ゴーレムに向かってではない。俺やアリスを目指したのでもない。
シャーロットの不思議な指示――"短剣をドアに刺せ"というその言葉を実行するべく、部屋の左隅にある円筒形の階段目掛けて駆け出したのだ。倒れた俺の視界を、ユージオの革ブーツが瞬時に通過する。
その向こうでは、シャーロットの一撃によって僅かに体勢を崩したソードゴーレムが、しかし難なく踏みとどまり逆襲の右腕剣を高く掲げたところだった。
質量では己と拮抗するかもしれない巨大蜘蛛を、ゴーレムはもう完全に敵と認識したらしく、青白い両眼をびかぁーっと光らせて超重超速の斬撃を撃ち放った。
対してシャーロットは、左腕の鉤爪を下から鋭く振り上げた。
空中で衝突したふたつの刃は、再び大音響で床を震わせた。俺とアリスを紙人形のように吹っ飛ばしたゴーレムの一撃を、漆黒の蜘蛛は七本の脚をふかく沈めながらも正面から受け切った。
両者はそのまま、交錯した腕と脚で、互いを押し切るべくぎりぎりとせめぎ合いを続けた。超重量を支えるシャーロットの脚がその甲殻を軋ませ、ゴーレムの右腕を構成する複数の剣が、その接合部を赤熱させる。
力の拮抗は――わずか一秒ほどで決着した。
びぎっ、という鈍い音とともにへし折れ宙を舞ったのは、シャーロットの左前脚だった。断面から白い体液がほとばしり、黒の繊毛を染めた。
しかし蜘蛛は退かず、声ひとつ漏らさず、残る右脚を再び繰り出した。狙ったのはソードゴーレムの背骨だった。槍のごとく閃いた鋭い爪が、ゴーレムの体幹を成す巨大剣の腹に食い込む――と見えたその瞬間、背骨の脇に並んでいたあばら骨がいっせいに動いた。
じゃきぃぃん!! とある種の裁断装置めいた金属音を放って、左右七本ずつの曲刀があぎとのごとく交差したのだ。そこに銜え込まれる形となったシャーロットの右前脚は、ひとたまりもなく中ほどから切断され、再び大量の白色血が噴き出した。
ゆるりとゴーレムの肋骨剣が開き、その檻の内側から千切れた脚がぼとりと落下した。勝利を確信したのか、ゴーレムの両眼がまるであざ笑うかのように薄く瞬いた。
直接攻撃手段を失ったシャーロットだが、しかしその果敢さは消えなかった。
もういちど鋭い叫びを放ち、口に生えた太く短い牙で噛み付くべく跳びかかる。
しかし、攻撃は届かなかった。蹴り上げられたゴーレムの右脚剣が、シャーロットの左側の脚をさらに二本斬り飛ばし、八肢を半減させられた蜘蛛はバランスを崩してどうっと床に落下した。
もういい――逃げろ。
俺はそう叫ぼうとした。
あのシャーロットという名の黒蜘蛛と、直接会話を交わしたことはない。彼女は二年のあいだ一度も俺に気取られることなく、カーディナルに与えられた任務を果たし続けたのだ。
その任務とはすなわち、俺とユージオの映像を主に送ることだ。それだけのはずだ。決してこのような絶望的な戦いを挑み、捨石となって死ぬことではない。
しかし、俺の喉から声は出なかった。
右の脚だけでよろよろと身体を起こしたシャーロットが、再び跳躍しようと姿勢をたわめた。
一瞬早く、真上から降ってきたゴーレムの左腕剣が、優美な曲線を描く黒蜘蛛の胴を深く刺し貫いた。
ぞっとするほど大量の血が、剣の周囲から高く迸り――。
同時に、何もかもを塗りつぶすがごとき、紫色の強烈な光が部屋の左側から炸裂した。
見覚えのある閃光だった。ただの照明ではない。光の筋ひとつひとつが、微細なプログラムで編まれたリボンとなっている。五十階での戦闘で俺が倒した副騎士長ファナティオに、カーディナルが呉れた短剣を使用したときに見た輝き。
俺からは見えないが、ユージオがドアまで辿り着き、彼の短剣をそこに突き刺したに違いない。それで一体どのような結果が導かれるのか定かでないが、シャーロットが文字通り懸命の挺身で稼いだ時間を、ユージオは無駄にしなかったのだ。
その漆黒の蜘蛛は、身体の中央を完全に貫かれてなお、立ち上がろうと弱々しく残った脚で床を掻いていた。しかし、ずるっと湿った音を立ててゴーレムの腕が引き抜かれると、白い血溜まりにその巨体を力なく沈ませた。
一本の脚が、震えながら伸ばされ、突っ張るように身体の向きを変えた。
八つの複眼は、ルビーのようだった鮮やかな緋色を、ほとんど失いかけていた。その眼でドアの方角を確かめたシャーロットは、牙の間からも血を零しながら、あの年上の女性を思わせる声でかすかに囁いた。
「よかった……間に合った」
頭部の向きが僅かに動き、左の眼がまっすぐに俺を見た。
「最後に……役に……立てて……うれ、し……」
言葉は、宙に溶けるように薄れ、途切れた。艶やかな丸い眼に、紅い光がちかちかと瞬き、そして消えた。
視界がゆらりとぼやけ、俺は瀕死のこの状況でもなお溢れる涙があったことを知った。歪んだ光景のなかで、黒い蜘蛛の巨体が、音もなく縮んでいくのが見えた。白い血溜まりもみるみるうちに蒸発し――一秒後、そこに残されたのは、仰向けになり肢を縮めた指先ほどの大きさのなきがらだけだった。
ゴーレムは、己が断った命への関心を瞬時に失ったかのように、ぐるんと頭をもたげると光る両眼でユージオを追った。
巨体が九十度向きを変え、踏み出された足の先端がずしりと床を突く。その目指す先では、乱舞する紫の光の帯がますますその輝きを強めている。
俺は、残された全精神力を振り絞って、感覚のない首を数センチ動かし視界に光の源を収めた。
円形の部屋の北側、ガラス窓から三メートルほど離れた位置に突出した円筒形の出入り口が見えた。ほんの数十分前、俺とアリスが巨大な恐怖と、同量の自負心を抱えて潜り抜けたセントラル・カセドラル最後のドアだ。あの先は狭い螺旋階段になっており、今は亡き元老チュデルキンの悪趣味な私室へと続いている。
艶やかな大理石の扉、その湾曲した表面に、ごく小さな針のようなものが刺さっているのに俺は気付いた。十字架の長辺を尖らせたようなそれは勿論、カーディナルが俺とユージオにひとつずつ託したブロンズの短剣だ。かの、もう一人の最高司祭が百年間伸ばし続けた髪をリソースとしており、彼女と短剣を刺されたものとの間に空間を超越した術式のチャンネルを開くことができる。
対アドミニストレータ用の最終兵器であったそれを、恐らくユージオはこの部屋で行使しようとして果たせなかったのだろう。代わりに、不思議な蜘蛛シャーロットの指示によってドアに刺したのだ。
短剣を突きたてられたドアは、いまや全体が紫色に光り輝き、その周囲を同色の半透明のリボンが無数に乱舞している。光は際限なくその勢いを増し、部屋中をラベンダーの色に覆い包んでいく。ひぃぃぃん、という大量の音叉が共鳴するような甲高い唸りが光と同期して高まるなか、ついに短剣そのものがばらりと解け、渦巻く細長い文字列となって宙を踊った。
ドアの傍らに立ち尽くしたユージオが、眩さに耐えかねたか左腕で顔を覆った。彼に向かって着実な前進を続けていたソードゴーレムも、理解不可能な現象に戸惑うように、がしゃりと関節を鳴らして停まった。
ドアの手前で螺旋をつくっていた紫の文字列が、その先頭から音も無く大理石の表面に吸い込まれた。と見えたその瞬間、艶やかな白いマーブル模様が、水面のようにゆらりと揺れ波紋を広げた。中央に、インクを垂らしたように濃い漆黒が生まれ、それは瞬時にドア全体に広がった。
バシィッ!! という、高圧電流が弾けるような大音響が部屋を揺るがした。同時に、空間を乱舞していた紫の光たちが放射状に広がり、薄れて消えた。
つい一瞬前まで、硬そうな白大理石であったドアが、今はつや消しの黒檀の扉へと変わっていた。どこかで見た色艶と装飾のある、重厚な扉だ。いつしか光も音も消え去り、部屋に静寂が戻った。
現象が終息したことで、コマンドが再入力されたかのように、ソードゴーレムがずしりと右脚を一歩踏み出した。
戸惑いと決意を半分ずつ顔に浮かべたユージオがさっと振り向き、至近に迫りつつある巨大な敵を睨んだ。右腕が閃き、青薔薇の剣の柄をがしっと握った。
その瞬間――。
カチリ、という硬く小さな音が、ささやかに、しかし確かに空気を揺らした。
黒檀のドアの左脇に据えられた、艶のある青銅のドアノブ。それがゆっくりと回っている。
半回転したところでもう一度硬い音が響き、そして、内側からドアがそっと押された。
きいい、という古めかしい軋みとともに、戸口の細い隙間が徐々に大きくなっていく。その向こうにあるはずの、螺旋階段のオレンジ色の灯りが見えない。内部は完全な暗闇だ。
ゆるゆるとドアは開いていき、九十度角をすこし越えたところでギッと鳴って停まった。いまだその向こうに誰がいるのかは目視できない。ゴーレムは、もうそんな現象にかかずらうつもりはないらしく、前進を停めることはない。その巨大な剣の間合いにユージオを捉えるまであと三歩――二歩――。
突然、ドアの内側の闇が、純白の閃光に満たされた。
そこにシルエットとなって浮かぶ小さな人影を認識できたかできぬ内に、恐ろしく巨大な稲妻が開口部から水平に迸り、ゴーレムの腹を打った。
ガガァァァン!! と、およそこれまで見聞きしたあらゆる術式のうちでも最大の衝撃音が俺の耳を痛打した。ゴーレムの全身が黒く染まるほどの閃光が、まるで純白の竜であるかのようにうねり、空中に無数の細枝を広げて放散・消滅した。
これまで完全無敵ぶりを嫌と言うほど見せ付けてきたソードゴーレムが、その巨体をぐらりと揺らし、前進を停めた。各所の剣骨から薄く白煙を上げ、薄青い両眼を不規則に点滅させている。
がしゃがしゃ、と両脚を鳴らして踏みとどまった巨人を、再び極太の雷光が打ち据えた。あの超優先度にして何と言う連射速度だろうか。驚愕する俺の視線の先で、ゴーレムがぎぃぃっと怒り、あるいは恐怖の唸りを放って一歩後退した。そのわずか半秒後。
ガガァッ!! と神撃のごとき咆哮を伴い、三発目の雷閃がドアの内側から迸った。先の二発よりさらに巨大なその光に打たれ、ついに身長四メートルの巨大ゴーレムが、突風に撫でられた紙人形のように空中を吹き飛んだ。ぐるぐると回転しながら二十メートル近くも舞った巨体が、凄まじい衝撃音を放って部屋の反対側の壁際に墜落し、動きを止めた。それでもなお天命は尽きないようで、両手の剣をぎしぎしと動かし、眼を高速で明滅させているが、すぐには立ち上がれまい。
俺は視線を戻し、ドアの向こうの闇を再度見やった。
そこから現れるべき人物の名を、俺はもう強く確信していた。この世界で、あれほどの超絶的神聖術を連発できるのは、最高司祭アドミニストレータのほかには一人しか存在しないからだ。
蝋燭と星明りの織り成す仄白さのなかに、まず見て取れたのはシンプルな黒い杖と、それを握る小さな手だった。華奢な手首を包む、ゆったりとした漆黒の袖。幾重にもドレープを作った学者のようなローブ。大きく角ばった帽子もまた学究の徒を思わせる簡素なものだ。長いローブの裾からちらりと覗く平底の靴は、床から二十センチばかり浮き上がっている。この世界には存在しないはずの、空中飛翔術。
最後に、やわらかそうな茶色の巻き毛と、銀縁の小さな眼鏡が光のもとに現れた。幼さと無限の叡智を同居させた大きな瞳が、青い夜灯りを受けてきらりと輝いた。
永劫にも等しい年月を隔絶した空間で過ごしてきた幼な子――アドミニストレータの分身にして対等の権限を持つ最高術者カーディナルは、俺の記憶にあるとおりの教師のような厳しい表情で、ゆっくりと広大な寝室を見回した。
まず、すぐ隣に立つユージオを見やり、小さく頷く。ついで離れた場所に倒れたままの整合騎士アリスを見つめ、最後に同じく床に臥す俺に視線を向けると、その小さな唇にごくごくかすかに苦笑の色をほのめかせ、もう一度頷いた。
最後に、くるりと首を巡らせ、遠く部屋の北端に浮遊したまま動作も声も発しない最高司祭アドミニストレータをちらりと見やった。二百年ぶりに相対する究極の敵の姿に、その胸中にいかなる感慨を抱いたのか、表情からは察することができなかった。
状況を確認し終えたカーディナルは、すっと右手の杖を掲げた。とたん、その小さな身体が音も無く宙を滑り、俺とアリスの中間地点へと移動していく。
俺の前を通過するとき、カーディナルはふいっと無造作に杖を振った。するとその先端から、暖かな白い光の粒がきらきらと宙を流れ、俺の傷ついた肉体を包んだ。
途端、腹から胸にかけてわだかまっていた冷たい虚無感が消滅し、灼熱の激痛が戻り、悲鳴を上げそうになったもののその熱はみるみる間に暖かく溶けて薄れた。突然、抜けたコードが挿し直されたかのように身体感覚も復活し、俺は慌てて右手を動かすと、腹の傷を探った。いまだにヒリっとくる盛り上がりは残っているが、ほとんど体を分断しかけたあの傷が、溶接したかのように瞬時に融け塞がっているのには驚愕するしかない。俺かユージオが同じ結果を導こうと思ったら、日光降り注ぐ森のなかで丸々三日はコマンドを唱えねばなるまい。
有り難い、などという言葉ではとても足りない奇跡の癒しだが、しかし無論相応の巨大な代償はあるはずだ。なぜなら、恐らく、最高司祭アドミニストレータはこの状況をこそ――。
俺の戦慄に満ちた想像などまるで意に介せぬように、カーディナルはふわりと眼前を通過すると、今度はアリスに向かって杖を振った。もう一度、ダイヤモンドの粒のような癒しの光が降り注ぎ、黄金の騎士の胸を染める真紅へと溶けていく。
カーディナルは尚も動きを止めず、更に数メートル前進してから、すとんと靴を着地させた。
幼き賢者が降り立ったのは、絨毯の上に小さく横たわるささやかな骸の前だった。
とっ、と軽い音とともに黒い杖が床に突き立てられた。主の手が離れても、その杖は微動だにせず直立を続けた。
カーディナルはそっと腰をかがめ、両手で床からシャーロットの遺骸を優しく救い上げた。掌に包み込んだ黒蜘蛛を胸に当て、うつむいた少女は、聞き取れぬほどの小さな声で囁いた。
「この……馬鹿者。任を解き労をねぎらい、お前の好きな本棚の片隅で望むように生きよと言うたじゃろうに」
丸眼鏡の奥で、長いまつげが一度しばたかれた。
俺は傍らに転がっていた剣を杖代わりによろよろと立ち上がり、まだ力の入らない両脚でどうにか二、三歩カーディナルに近づくと、色々と言うべきことを棚上げにしてまず尋ねた。
「カーディナル……その蜘蛛、いや彼女は、いったい……?」
巻き毛を揺らして顔を上げた賢者は、薄く濡れた瞳を俺に向けぬまま、懐かしくすらある口調で答えた。
「お主の知ってのとおり、この世界はもともとファンタジーゲーム・パッケージを基盤にしておるでな。古の時代には、多くの不思議や奇跡が森や野を棲家としていたのじゃ。そう言えばわかるじゃろう?」
「つまり……ネームド・モンスター? でも……シャーロットは言葉をしゃべったぞ。本物の感情だってあった……フラクトライトを持っていたんじゃないのか……?」
「いや……お主にも馴染みのある、いわゆるNPCと一緒じゃよ。ライトキューブではなく、メインフレームの片隅にささやかな擬似思考エンジンを与えられた、何の変哲もないトップダウン型AIじゃ。はるか昔には、そのような人語の受け答えを可能とする獣やモンスター、草木や岩が世界にあまねく、数多く配置されておった。しかし、皆消えてしもうた。半数は整合騎士に退治され、半数はアドミニストレータめにオブジェクト・リソースとして利用され、な」
「そうか……ベルクーリのお伽噺に出てきた、果ての山脈の守護竜たちと同じように、か」
「然り。わしはそれを不憫に思い、新たに生成されるその種のAIたちを保護でき得るかぎり保護してきたのじゃ。わしが使役した感覚共有端末はその殆どが思考エンジンを持たぬただの小型動的ユニットじゃが、中にはこのように保護したAIに苦労してもらうこともあった。何せこやつらは高プライオリティゆえにちょっとやそっとのことでは傷もつかんからな。お主の服に忍んだまま、お主がどれほど暴れようとも無事だったのはそのおかげじゃ」
「で、でも……でもさ」
俺は視線をじっと、カーディナルの掌中に横たわるシャーロットの骸に据え、胸の痛みに耐えながらさらに尋ねた。
「シャーロットの言葉……行動は、擬似AIなんてものじゃなかったぞ。彼女は……俺を救ってくれた。俺のために自分を犠牲にしたんだ。なぜ……なんで、そんなことが……」
「以前言ったと思うが、この子はもう五十年も生きておった。その間わしを始め多くの人間たちと交わり、自らを高めてきたのじゃ。お主に張付いてからですら早二年……。それほどの時を共に過ごせば、たとえフラクトライトが無くとも――」
不意にカーディナルは声を強め、その先をきっぱりと言い切った。
「たとえその本質が入力と出力の蓄積に過ぎなくとも、そこに真実の心が宿ることだってあるのじゃ。そう、時として愛すらも。――貴様には永遠に理解できぬことであろうがな、アドミニストレータ、虚ろなる者よ!!」
苛烈な叫びとともに、幽り世の賢者は、ついに二百年来の仇敵をその双瞳でまっすぐに見据えた。
遠く離れた位置に高く浮遊し、状況を睥睨していた総天の支配者は、すぐには言葉を返さなかった。
指を絡み合わせた両手に顔の大部分を隠し、ただ鏡の双眸に謎めいた光だけを浮かべている。
かつてカーディナルに聞いた話では、アドミニストレータは世界調整プログラムと融合したときに己の内部に埋め込まれた自己訂正サブプロセス(つまり現在のカーディナルの基となった人格)の反乱を防ぐため、フラクトライトを操作しほぼすべての感情を捨てたのだという。
物理的に肉体が分かたれてからは、分裂人格に乗っ取られる危惧はなくなったはずだが、だからといって感情などという彼女にとっては無駄なものをわざわざ復活させる必要もあるまい。ゆえに、俺がアドミニストレータという存在に抱いていたイメージは、ただ機械のようにタスクを処理していく、それこそプログラムのような人間というものだったのが、しかしこのカセドラル最上階で実際にまみえた彼女の姿には少なからぬギャップがあった。チュデルキンを嘲り、アリスを弄ぶその微笑みは、確かにほんものの感情に彩られているような気がしたのだ。
そして今も、最高司祭アドミニストレータは、隠された唇のおくから珠を転がすような笑い声を漏らし、両の眼をすうっと細めた。
くすり。くすくす。
自分に向けられたカーディナルの舌鋒など、そよ風ほどにも感じておらぬふうに、細い肩を揺らして笑い続ける。
やがて、その合い間に、短い一言が――先刻の俺の畏れを現実のものとする台詞が軽やかに発せられた。
「来ると思ったわ」
くす、くすくすくす。
「その坊やたちを苛めてれば、いつかは黴臭い穴倉から出てくると思った。それがお前の限界ね、おちびさん。私に対抗するために手駒を仕立てておきながら、それを駒として使い捨てることもできないなんて、まったく度し難いわね、人間というものは」
やはり。
危惧したとおり、アドミニストレータの真意は、俺たちを死の際まで追い詰めることによって不可侵の壁に守られた大図書室からカーディナルを誘き出すことにあったのだ。つまり彼女には、この状況で絶対確実に勝利できる奥の手がまだ存在するということだ。しかし――最終兵器であったはずのソードゴーレムはすでに動作不能、対してユージオは無傷だし俺もどうにか戦えそうだ。見れば、アリスも意識を取り戻したのか、片手をつき上体を起こそうとしている。
カーディナルとアドミニストレータは、一対一で戦えばほぼ相打ちになるはずの同等の術者なので、この状況はもうこちらの圧倒的有利と判断して差し支えあるまい。つまりアドミニストレータは、少なくともカーディナルが出現したその瞬間に、傍観を解き全力攻撃を開始して然るべきだった。なのに一体何故、ゴーレムが破壊され、俺とアリスが回復されるのを許したのか。
カーディナルも当然、俺と同じ疑問を感じていると思われた。しかしその表情には、さすがにもう一人の最高司祭と言うべきか、小揺るぎもしない厳しさのみがあった。
「ふん。暫く見ぬまに、貴様こそずいぶんと人間の真似が上手くなったものじゃな。二百年のあいだずっと、鏡を見て笑う練習でもしておったのか」
痛烈な言葉を、アドミニストレータはまたしても微笑で受け流した。
「あらぁ、そういうおちびさんこそ、その変な喋り方はなんのつもりなのかしら。二百年前、私の前に連れてこられたときは、心細そうに震えてたのに。ねぇ、リセリスちゃん」
「わしをその名で呼ぶな、クィネラよ! わしの名はカーディナル、貴様を消し去るためにのみ存在するプログラムじゃ」
「うふふ、そうだったわね。そして私はアドミニストレータ、あらゆるプログラムを管理する者。挨拶が遅くなって御免なさいね、おちびさん。歓迎用の術式を用意するのにちょっと手間取ったものですから」
高らかにそう云い終えたアドミニストレータは、ゆるりと右手を掲げた。
大きく広げられたしなやかな五指が、まるで見えない何かを握りつぶそうとするかのようにぐぐっと撓む。これまで一度たりとも顔色の変わることのなかった陶磁器のような頬にわずかな赤みが射し、銀の瞳に凄絶な光が宿る。あの最高司祭が、ついに本気の精神集中を行っていることを察して、俺の背中に無数の氷針にも似た戦慄が疾る。
いかなる対応を考える余裕もないわずかな刹那ののち、アドミニストレータの細い右手が、ぐっ、と強く握り締められた。
同時に――。
がっしゃぁぁぁん!! という、十重二十重の硬質な破砕音が、周囲の全方向から猛々しく響き渡った。
両耳がきんと痺れるほどの、圧倒的な音量だった。俺は、部屋の全周を取り囲む硝子壁がすべて粉砕されたのだと直感した。
だが、そうではなかった。
砕けたのは、窓のむこう――うねる黒い雲海と、その上に瞬く星ぼし、そして冴えざえと輝く青白い月、それら夜空のすべてだった。
世界が、無数の平らな破片となって舞い散り、互いに衝突してさらに砕けながら落下していくのを、俺はただ呆然と見つめた。きらきらと輝く断片たちの向こうに存在するのは、"非存在"とでも言うよりない光景だった。
光も奥行きも無い真黒の闇に、マーブル模様のような濃い紫色が融け、ゆるゆるとうねっている。長時間見ていたらこちらの精神までも虚ろに吸い取られてしまいそうな、まったき虚無の世界。
色合いも美しさもまるで違うが、しかしそれでも、あのとき見たものに似ていると俺は瞬間、連想した。かつて浮遊城アインクラッドが崩壊するときに見た、夕焼け空を覆い包み消し去っていく白い光のベールたち。
まさか、このアンダーワールドも同じように、すべてが崩壊・消滅したのか!?
強い恐慌に陥りそうになった俺を引き戻したのは、驚きはあるがしかし尚も確固としたカーディナルの言葉だった。
「貴様……アドレスを切り離したな」
何だ――どういう意味だ?
戸惑う俺の視線の先で、すっと右手を降ろしたアドミニストレータは、わずかに解れた前髪を整えながら寒々しい笑みを浮かべた。
「……二百年前、あと一息で殺せるところだったあなたを取り逃がしたのはたしかに私の失点だったわ、おちびさん。あの黴臭い穴倉を、非連続アドレスに置いたのは私自身だものね? だからね、私はその失敗から学ぶことにしたの。いつかお前を誘い出せたら、今度はこっち側に閉じ込めてあげよう、って。鼠を狩る猫のいる檻に、ね」
言い終えた最高司祭は、仕上げとばかりに右手を横に伸ばし、指先をぱちんと鳴らした。
途端に、先刻のものに比べれば随分とささやかな破壊音とともに、円筒形の出入り口がドアごと砕け散った。"黒檀の板"や"大理石"といったオブジェクトとして破壊されたのではない証に、それらはまるで一枚の鏡に映し出された平面図であったかのように薄っぺらい破片となって降り積もるそばから跡形もなく溶けて消えた。残ったのは、ふかふかの絨毯に描かれた円模様だけで、そのどこにも継ぎ目や織りの乱れすら見当たらなかった。出入り口のすぐそばに立っていたユージオは、目を丸くして上体を仰け反らせていたが、やがて恐る恐るつま先で一瞬前まで穴が開いていたはずの床を探ると、ちらりと俺を見て小さく首を振った。
――つまり、こういうことだ。
アドミニストレータが破壊したのは窓の外の世界ではなく、世界とこの部屋との接続そのものなのだ。
仮に、どうにかしてこの部屋の窓なり天井なりを破壊しても、その先には絶対に進入できまい。移動するための空間が存在しないのだから。仮想空間に於いて誰かを閉じ込めるための手段としては完璧すぎるほどに完璧――まさしく、管理者権限を持つ者だけに許された禁じ手だ。カーディナルが出現してからの数秒間を、アドミニストレータは無為に浪費したのではなく、この大掛かりなコマンドを準備していたという訳だ。
しかし。
空間の連続性を完全切断したということは、すなわち――。
「その喩えは正確さに欠けるのではないかな」
俺と同じ疑問にいち早く気付いたらしいカーディナルが、低い声を投げ返した。
「切断するのは数分でも、繋ぎなおすのは容易ではないぞ。つまり、貴様自身もこの場所に完全に囚われたということじゃ。そしてこの状況では、どちらの陣営が猫でどちらが鼠なのかは確定しておらぬと思うが? 何せ我々は四人、そして貴様は一人。この若者たちを侮っておるのなら、それは大いなる誤りじゃぞ、アドミニストレータよ」
そう、そういうことだ。かくなった以上、アドミニストレータ本人もこの部屋からはもう容易くは抜け出せないはずなのだ。そして彼女とカーディナルはまったく対等の術者である。俺たちとしては、カーディナルに敵の神聖術を相殺してもらっているあいだに斬り込むだけで勝敗を決定できる――ということになる。
しかし、カーディナルの指摘を突きつけられてもなお、最高司祭の薄ら寒い微笑は消えない。
くすくす、という細波のような喉声に乗せられて届いた言葉は、すぐには理解できない内容だった。
「四対一? ……いいえ、その計算はちょっとだけ間違ってるわね。正しくは……四対、百五十一なのよ」
無垢な響きの声がそう言い切ると同時に、遥か高い天井に描かれている無数の神々が、強烈な紫の輝きを放った。
そしてその現象と同期するように、半壊したはずのソードゴーレムが、全身から凄まじい金属音を高らかに共鳴させた。
「なにっ……」
口走ったのはカーディナルだった。最高位の術式を三連撃で叩き込んで、完全に無力化したと判断したのだろう。俺だってそう思っていた。
しかし、ついさっきまでは確かに消える寸前だったゴーレムの両眼の光が、今は二つの恒星のように青白く燃え上がっている。二条の眼光でまっすぐに俺たちを射抜きながら、巨人はダメージがすべて消え去ったかのように両手両脚の剣で軽がると胴体を持ち上げると、ぐるんと股関節を回転させて直立した。
よくよく見れば、カーディナルの稲妻に撃たれ、各所で焼け焦げて白煙を上げていたはずの剣骨も、いつのまにか新品同様の輝きを取り戻している。たしかに、この世界の高プライオリティの武器は天命の自己回復力を備えているが、それはきちんと手入れをして鞘に収めた上でのことだ。と言うよりも、対となる鞘に、空間リソースを吸収し剣に還元させる術式が仕込まれているのだ。そのうえ半減した数値を最大に戻すには、少なくとも丸一日はかかる。
つまり、あのゴーレムを回復させようと思ったら、いちど完全支配を解いて分離させ、剣をすべてそれぞれの鞘に戻さねばならないということになる。
だが、小揺るぎもせずに直立し、四メートルの高みから俺たちを見下ろす巨人の姿には、そのような理屈を超越した圧倒的な存在感があった。もしかしたら――このゴーレムが量産できるなら、ほんとうにアドミニストレータは独力でダークテリトリーの侵略を撥ね退けて見せるのではないか、と思わせるほどの。
そして何より恐ろしいのは、もしそれが可能なら、俺たちの今までの戦いはその意味をほとんど失ってしまうという、事実。
同じことを、カーディナルなら一瞬で考えたはずだった。しかし小賢者はあくまでたじろぐことなく、ゴーレムに向けて右手の杖を鋭く掲げると、俺たちにさっと左手を振った。
「キリト、アリス、ユージオ、下がれ! わしの前に出るでないぞ!」
そう言われても、見た目十歳の子供の背中に隠れるのは大いに躊躇われる。しかし同時に、俺たちはつい数分前あのゴーレムに挑みまさに瞬殺の憂き目にあったので、指示に逆らって突撃することもできない。
やむなく俺は、剣を構えながらも数歩下がった。左にユージオ、右にアリスが、それぞれ素早く駆け戻ってくる。
ゴーレムの剣に心臓を直撃されたアリスは、肉体的には治癒されたとは言え感覚的ダメージが幻痛となって残っているはずで、俺はちらりと表情を確かめた。さすがに顔色は青白く、胸当てを失い深く穴のあいた装束も痛々しかったが、しかし騎士は気丈に背筋を伸ばし、俺に低く囁きかけてきた。
「キリト……あの子供はいったい誰なのです!?」
「……名前はカーディナル。二百年前にアドミニストレータに追放された、もう一人の最高司祭」
そして――管理者(アドミニストレータ)に対する、初期化者(フォーマッタ)。世界を慈悲深き空白に還す者。
しかしもちろん、今はそこまでは言えない。俺の答えに怪訝そうな顔をするアリスに、更に説明を重ねる。
「大丈夫、味方だよ。俺とユージオを助け、ここまで導いてくれた人だ。この世界のことを心から愛し、憂いている」
少なくともこれは確かな真実だ。アリスはまだ戸惑いから抜けきれないようだったが、それでも、左手でそっと胸の傷痕を覆いながらうなずいた。
「……分かりました。高位の神聖術は使用者の心を映す鏡でもある……私の致命傷を癒した彼女の術の温かさを信じます」
まったくその通りだ、と、俺も深く同感しながら頷きかえす。たとえ定型コマンドを用いた初歩の治癒術でも、それを他人に用いるとき術者がなおざりに使うか真剣な祈りを込めるかで相手が受ける感覚は大いに異なる。カーディナルの治癒術には、あらゆる痛みを柔らかく包み溶かす真の慈愛が満ちていた。だからこそ俺は、彼女の、世界すべてを無に還すという覚悟は決して本意ではあるまいと期待し信じてもいるのだが――しかしそれはすべて、この戦いに勝ち得てのちの話だ。
完全に力を失っていたはずのソードゴーレムを一瞬で全回復させた仕掛けは何なのか、どうすれば対抗できるのか、それが看破できなければ残念ながらこちらの敗北はほぼ決定的と言っていい。
全身を黒ずんだ鋼色に煌かせながら、ゴーレムはじり、じりと接近を続ける。対峙するカーディナルは油断なく杖を構えているが、今度は先ほどのように大掛かりな術を叩き込んでとりあえず黙らせる、というわけにはいかない。その瞬間、ゴーレムの後ろからアドミニストレータの攻撃術が降り注ぎ、分身たる両者の力の均衡を崩してしまうだろう。
考えろ。今、俺にできるのはそれだけなのだから。
記憶解放状態で自己治癒するからには、ゴーレムの体を構成する剣たちの基となったオブジェクトにも同じ属性があったはずだ。天命の自然回復と聞いて真っ先に思い出すのは、俺の剣の前身である巨樹ギガスシダーだが、しかしあの超回復力は森の中でふんだんに供給される空間リソースあってこそのことだ。この部屋のリソースは、先のチュデルキンとの戦闘でほとんど使い尽くされており、とてもあれほどの瞬時回復を賄えたとは思えない。つまりゴーレムの基材は自然物オブジェクトではない。
となれば、残る可能性は、空間リソースに依存しない回復力を与えられた動的オブジェクト、つまり生物ユニットだ。だが、カーディナルは、かつてこの世界に存在していた巨大ネームドモンスターはすべて絶滅したと確かに言った。そして現在フィールドにスパウンする動物ユニットには、とてもあれほどの威力・重量を実現できるほどの高プライオリティはない。たとえ一万匹まとめて変換したところで、整合騎士の持つ神器一本ほどの威力もあるまい。獣の天命はそれほど少なく、寿命は短いのだ。優先度(プライオリティ)と耐久度(デュラビリティ)は比例するので、あれほどの武器群を作ろうと思えば、最低でも千、二千の天命と、五十年以上の寿命をもつ動物ユニットが百体は必要――
待て。
さっき、アドミニストレータが妙なことを言わなかったか?
"四対、百五十一"。