最大の死地にありながらも、俺は(そしておそらくユージオも)煌めく光の群れのあまりの美しさに息を飲んだ。
この最上階を照らす灯りは決して多くない。硝子窓の南面から差し込む月光と、そして柱の上部に設けられた燭台に揺らめくささやかな白い炎だけだ。しかし、アリスの剣から分かたれた黄金の欠片たちは、自ら放っているとしか思えない山吹色の輝跡を引きながら、一群の流星雨と化して飛翔した。
「せいっ……」
アリスが鋭い気合とともに、手中に残る柄を右に振り払う。その動きに連動して宙を舞った無数の鋭片は、まさにアリスを貫かんとしていた五本の氷柱を飲み込み、凄まじい切削音を響かせた。
高速回転するミキサーに角氷を放り込んだようなもの、と言うべきか――。
チュデルキンが生み出した、恐るべき威力を内包しているはずの氷の槍は、わずか半秒で無害なシャーベットへと転換させられ、宙にきらきらと溶けて空しくリソースを散らした。
「……やっ!!」
その結果を見届けもせず、アリスは右手を左方向へと突き出した。ぐるりと空中で向きを変えた黄金の花吹雪は、再びざぁっという葉擦れの音を振り撒きながら、さらに五本の氷柱を迎撃した。再び大量のみぞれが放射状に飛び散り、周囲の気温を少しばかり低下させた。
「……ぬっ……ぬぬぬぬぐぐぐぐぐっ……」
己の放った術があっさりと退けられたのを見たチュデルキンは、巨大な唇からむき出した歯列を左右にキリキリキリと鳴らしながら同時に怒りの唸り声を上げるという器用な技を披露しながら、逆向きの頭部を一層赤黒く染めた。
「……そんなチンケな下ろし金で勝った気になってんじゃねぇってんですよう! そんならこいつはどうですかッ!! ホォォォォォッ!!」
十の素因を保持した短い両脚を、同時に前に蹴り出す。
ひゅうっと青い平行線を描きながら高く舞い上がった氷素は、そこでひとつに融合すると、いきなり巨大な氷の塊を発生させた。
見るみる間に、それはごつんごつんと角張りながら体積を増やし、直径二メートルはありそうなドラム缶の形へと成長した。変形はそこで止まらず、後ろの側面中央部から細長い棒状の氷柱が伸びる。
出現したのは、白い冷気の靄を纏った、恐ろしく巨大なハンマーだった。鏡のようにつやつやと輝く打撃面の、大岩ですら一撃粉砕できそうな硬さと重さを想像し、俺は思わず一歩あとずさった。
「ホヒヒッ……どうですかァ、我が氷系最強ちょっと手前の術はァッ!! さぁ、行きますよおおおおっ……"グレート・グレイシャル・プレッサー"!!」
うわっ、と隣でユージオが声を漏らし、身を屈めた。無理もない、自分より数倍はでかい巨大トンカチが、重く空気を圧縮しながら降ってくるさまには俺も体を強張らせることしかできなかった。しかも、いかにも必殺技というべき大層な名前がついている! この世界で、神聖文字(つまり英語)を言語として認識できるのは、俺のほかにはカーディナルとアドミニストレータだけだと思われるので、おそらくこの術式を編み出したのは最高司祭本人なのだろう。部下に与えるくらいだから彼女にとっては余技にも等しい術式なのかもしれないが、それを食らうほうは堪ったものではない。
しかし、今度も、騎士アリスは一歩たりとも退かなかった。己を叩き潰さんと肉薄する巨大オブジェクトを、両足を踏ん張ったまましかと見据え――。
「旋・花・砕・巌!!」
こちらは一般アンダーワールド語だが、たっぷりとイマジネーションの詰まった技名を、区切りながら声高く叫んだ。
直後、それまで不定形の一群として浮遊していた黄金の花吹雪が、ジャキリッ! と歯切れのよい響きとともに、アリスの右手を中心とした巨大な円錐形を形作った。その輝く巨大なドリルは、たちまち高周波を放ちながら高速回転を開始し、鋭い先端で落下してくる氷のハンマーを迎え撃った。
二つの必殺技が接触した瞬間、すさまじい大音響と閃光が発生し、部屋中を激しく揺るがした。
「くっぬうううううほぉぉぉぉぉッ……ブッツブ……れなっ……さぁぁぁぁいッ!」
「…………砕けっ……花たちっ……!!」
チュデルキンとアリスは、美醜の対極にある顔を同様にきつく歪め、食いしばった歯の間から声を漏らした。
こうなると、双方の技の優劣を決めるのは、数値的なプライオリティ以前に意志力、イメージ力の強さにかかってくる。なんといってもここはアンダーワールド……夢が現実となる世界なのだ。
青い大槌と金の螺旋は、白熱した接触点をはさんでしばし静止を続けていたが、やがて徐々に互いを飲み込みはじめた。振りまかれる光芒の眩さと、耳をつんざく破壊音のせいで、ハンマーがその打撃面でドリルを潰しているのか、あるいはドリルがその尖端でハンマーを穿ちつつあるのか判別できない。
勝敗が明らかになったのは、双方の姿が半ば以上光に飲み込まれた時だった。
びきっ。
という鈍い破砕音とともに、氷の大槌全体に白く輝く亀裂が走った。
直後、ちょっとした小屋ほどもありそうなハンマーは、先のつららのように無数の氷片となってその巨体を散らした。ばがぁぁぁん、と盛大な震動を伴って周囲の空間が一気に白く凍り、空しく放散された冷気リソースの波動を俺は左袖で防いだ。
「ひきゃああ!?」
素っ頓狂な悲鳴は、無論元老チュデルキンのものだ。
さかさまになったまま、道化は細い体を後ろに傾け、ゆらゆらと揺れた。
「そっ……そんなバカチンなっ……。げ……猊下に頂戴した、アタシの美し格好良い術式がっ……」
大きく裂けた唇が、ついにニヤニヤ笑いを消し去り、小さく窄められてわななく様は痛快だったが、しかし見事巨大ハンマーを粉砕してのけたアリスも無傷とは行かなかった。ドリルの回転をゆるめた金の小片たちを、右腕の一振りでじゃきっと元の剣に戻した騎士は、大きく姿勢を崩し、危ういところで踏みとどまった。天命にダメージはないはずだが、振り絞った精神力の消耗が激しいのだろう。
「アリス……!」
駆け寄ろうとした俺を、しかし左腕で鋭く制し、アリスは気丈に剣の切っ先をびしりとチュデルキンに向けた。
「チュデルキン、お前の信念なき技など、虚ろに膨れた紙風船にすぎないと知れ! お前本人と同じように!!」
「なっ……んですってェ……この小娘っ……」
アリスの、斬撃のごとく鋭い舌鋒に、ついにチュデルキンの悪口雑言が止まった。限界まで歪めた巨顔を激しく痙攣させ、滝のような脂汗が逆向きに流れる。
しばしの沈黙を破ったのは、ほとんど退屈したとでも言わんばかりの、アドミニストレータのため息混じりの呟きだった。
「あーぁ、ほんと、何年経ってもお馬鹿さんねえ、チュデルキン」
チュデルキンの後方で宙高く、寝そべった姿勢で浮遊していた最高司祭は、細いおとがいを乗せた両手の甲ごしに唯一の腹心を見下ろし、続けた。
「あの娘の持つ"金木犀の剣"は、この世界に存在するディヴァイン・オブジェクトの中でも最大クラスの対物理優先度を持っているのよ。そして、その事実をあの娘も強く確信している。そんなの相手に実体系攻撃術を使うなんて、神聖術の基本も忘れちゃったの?」
「はっ……ほほはひっ……」
甲高い声を漏らし、チュデルキンは丸くした両目を頭上――正確には眼下に向けた。その上まぶたに、たちまち大粒の涙がぼろりぼろりと溢れる。
「おぉぉっ……なんと勿体無いっ、有難いっ、畏れ多いっ!! 猊下御自ら小生めに御教示下さるとはっ……! 応えますぞ、このチュデルキン必ずやお応えしますぞっ!!」
アドミニストレータの声は、チュデルキンにとって最高級の治癒術以上の効果を持っているようだった。先刻までの驚愕と怯えは一瞬にして払拭され、逆さまの元老は、おそらく彼なりの最大の気迫が篭っているのであろう奇相でしっかとアリスを睨みつけた。
「……整合騎士アリス・シンセシス・フィフティよ!! オマエさっき言いましたねェ!! このアタシが虚ろな、信念なき紙風船だと!!」
「……違うとでも言うのですか」
「違――――う!! 違う違う違う違う!!」
チュデルキンの両眼に、ぼっと音を立てて赤い炎が点った――ように見えた。
「アタシにだって信じるものはあるんですよう!! それは、ズバリ、愛ッ!! 我が尊く麗しき最高司祭猊下への、偽りなき愛なりィッ!!」
この時この場所以外のどんな状況で聞いても三流の滑稽劇にしかなり得ない台詞ではあるが、しかし今だけは――たとえそれを放ったのが、丸頭に棒体の道化者だとしても――ある種の悲壮感すら伴って、力強く部屋中に響き渡った。
チュデルキンは、燃えるまなこでアリスを凝視し、両手両足を大きく広げながら、背後のアドミニストレータにむかって限界まで甲高く裏返った声を奏上した。
「さ、ささ、最高司祭猊下ッ!!」
「なぁに? チュデルキン」
「小生、元老チュデルキン、猊下にお仕えした永の年月において初めての不遜なお願いを申し上げたてまつりまするぅっ!! 小生これより身命を賭して彼奴ら反逆者どもを殲滅致しますればっ! その暁には猊下のっ! げっ、猊下のぉぉっ、貴き玉身をこの手で触れっ、くっ口付けしっ、一夜の夢をとっとっ共にするお許しをっ、頂きたくございますぅぅぅぅぅッ!!」
――半人半神の最高支配者に対して、なんとも直截的なお願いもあったものである。しかしその絶叫が、このチュデルキンという歪みきった道化男の、魂よりの真実の吐露であろうことは間違いなかった。
悲壮感さえ通り越し、もはやヒロイックですらあるその雄叫びを聞き、俺もユージオも、そしてアリスも、身動きひとつできずに絶句した。
そして、チュデルキンの背後で己への"お願い"を聞いた最高司祭アドミニストレータは――。
まるで、可笑しくてたまらぬ、というふうに真珠色の唇をきゅうっと吊り上げた。
感情無き鏡の瞳に、今だけは明らかな、愚かな人間への興趣と嘲弄の色が揺らめいた。哄笑を堪えるかのように、右手ですっと口元を覆ったアドミニストレータは、その表情からは想像できぬ、慈愛に満ちた囁き声で――。
「……いいわよ、チュデルキン」
と、嘘をついた。
その言葉が明白な虚偽であることが、同じく偽り多き人間である俺にははっきりと感じ取れた。
「創生神ステイシアに誓うわ。そなたが責を果たしたそのときには、私の体の隅々までも、一夜そなたに与えましょう」
この世界の人間は、人工フラクトライトの構造的要因と、謎の"コード871"によって宿命的に法というものに逆らえない。その法には、村や町の掟から帝国基本法、そして勿論禁忌目録、さらには自ら神に誓った約定も含まれる。支配構造の上位に属する者ほど、縛られる法も少なくなるが(たとえば整合騎士は禁忌目録に拘束されないように)、その原則は世界最高位の存在たるカーディナルとアドミニストレータとて例外としない。カーディナルがティーカップを机に置けないように、そしてアドミニストレータが人を殺せないように。
しかし今、アドミニストレータは、己が神への誓いにすら制約されないということを俺の目の前で実証してみせた。それはつまり、あの少女は、寝室の天井に描かれていないステイシア、ソルス、テラリアの創生三神への帰依心など欠片も持ち合わせていないということに他ならない。
だが、勿論、哀れな道化チュデルキンには思いもよらぬことであったろう。
己の背後で、主が嘲笑を堪えながら放った言葉を聞き、チュデルキンの眼にまたしても大粒の涙が盛り上がった。
「おお…………おおっ…………小生、ただいま、無上の……無上の歓喜に包まれておりますよぅ…………もはや……もはや小生、闘志万倍、精気横溢、はっきり言って無敵ですようぅぅぅぅッ!!」
じゅっ、と音を立てて涙が蒸発し、直後、チュデルキンの全身がすさまじいほどの赤々とした炎に包まれた。
「シスッ!! テムッ!! コォォォォル!!! ジェネレイトォォォォォサァァァァァマルゥゥゥウゥ!! エレメ――――――ント!!!」
しゅばばっ、と両手両足で宙を斬り、指先までがぴんと広げられたその四肢に、赤熱する幾つもの光点が宿った。これが元老チュデルキンの、己が天命までもリソースに変えた最大最後の攻撃となろうことは、アリスの背後に隠れる俺にもしかと感じ取れた。
先ほどと同じく、生成された素因――ただし今度のはルビーのごとく輝く熱素――の数は、すべての指先に計二十個だった。
確かに、倒立状態のチュデルキンの両足は、体を支えるという役目から解放されて完全に自由ではある。しかしそうは言っても、足指十本をそれぞれ別個かつ同時に認識するのはよほどの訓練を積まねばできることではない。あまりに特異な外見と人格にばかりつい注意が向いてしまうが、この元老チュデルキンという人物も、整合騎士の猛者たちと同じように――あるいはそれ以上に長い経験を重ねてきた、恐るべき強敵なのだ。
果てしなく遅きに失した俺の恐怖を感じでもしたか、チュデルキンの両眼がまるで勝ち誇るかのようにすうっと細められ、直後、零れ落ちんばかりに丸く見開かれた。その針穴のごとき瞳孔が、突然真紅の光を帯びてあかあかと輝き、俺の恐れは驚愕へと変わった。もしや、奴の気迫が呼び起こした現象なのか――と思ってから、ようやくそうではないことに気づく。あれも、チュデルキンの両眼のすぐ前に浮かんで煌く赤光もまた、大型の熱素因なのだ。奴は己の両眼までも端末として、二十一個目と二個目のエレメントを生成したのだ。
変成・射出前の素因それ自体も、わずかではあるがその属性に準じたかたちでリソースを放散している。指の数センチ先に熱素を呼び出すくらいなら、多少爪が炙られるくらいで済むが、目の玉の至近にあれほど巨大な奴を保持して術者が無事なわけがない。たちまち、チュデルキンの目のまわりの白い皮膚が、しゅうしゅうと音を立てて黒く焦げ始め、俺はたまらず頬を引きつらせた。
しかし元老本人は、その熱さなどもはや毛ほども感じていないようだった。眼窩が広く黒ずみ、異相が凶相へと転じた顔全体でニィィっと笑ってみせると、チュデルキンは低く軋る声で最後の見栄を切った。
「お見せしましょォォォォう、我が最大最強の神聖術ゥゥゥゥッ……! 出でよ魔人ッ!! そして敵を焼き尽くせェェッ!! "クルゥエル・クリムゾン・クラウン"――――ッ!!」
ぶおっ、と細い四肢が同時に前に振り下ろされた。打ち出された二十のエレメントは、すぐには変成せず、宙に五本ずつの平行線を描きながら猛烈なスピードで飛び回った。
その赤く輝く軌跡が、見る見る間に巨大な人間のかたちを描き出していくのを、俺は思わず魅入られながら凝視した。短い足。でっぷりと膨れた腹。妙に長い腕、そして角がいくつもついた冠を載せた丸い頭。まるで、破裂する前のチュデルキンをそのまま数倍に拡大したかのような――巨人のピエロだ。
ごうごうと燃える身長五メートルの道化を創り出した二十個の素因は、最後にひらひらした道化服に炎の縦じまを描き、ようやく消えた。
いまだ二十メートル近くの距離があるのに、すでに見上げるほどの高さにあるピエロの顔は、チュデルキンのそれを模していながら何倍も残酷そうに見えた。分厚い唇の隙間からは火焔の舌がちろちろと見え隠れし、細長い吊り目を作る暗い亀裂からは、炎の巨人であるにもかかわらず凍えるような冷気が吹き付けてくるように思える。
両手両足を振り回しながら超絶的召喚術を組み終えたチュデルキンは最後に、残るふたつのエレメントを宿した両の目をばちっと一度まばたきした。すると、目の前の熱素が消え去り、同時に炎のピエロの細い目がくわっと開いて、そこに二つの燃える瞳が宿った。
火焔の巨人は、チュデルキン本人が乗り移ったかのごとく残酷な殺意のこもった両眼でぎろりと俺たちを見下ろした。とがった靴を履いた右足がゆっくり持ち上がり、一歩前の床をずしりと踏みしめた。重い震動音とともに、大量の炎が巨人の足元から巻き起こり、周囲の空間を揺らした。
もはや唖然と立ち尽くすばかりだった俺とユージオは、ごくかすかだが鋭いアリスの声が発せられたのを聞き、はっと気を取り直した。
「……あの術、私も見たことがないほどの、恐るべき優先度です」
アリスの声はこの状況でもあくまで毅然としていたが、しかし内心の畏れを映してか、語尾がかすかに掠れ、揺れた。
「あやつを甘く見過ぎました。残念ですが、あの炎は私の花たちでも破壊できない」
「な……って、じゃあ、どう……」
非生産的な声を挟んだ俺に、アリスは初めて出会った頃以上に厳しい声を短く叩き返した。
「十秒、どうにか防ぎます。キリト、ユージオ、その間にチュデルキン本体を討ってください。ただし接近してはいけない! 最高司祭はそれを待っているのですから」
「じゅう……」
「……びょう」
俺とユージオは同時に呻き、顔を見合わせた。
もはや剣技でも発想でも俺を超えたかもしれない相棒だが、しかし今度ばかりはその顔を彩っているのは絶望と恐慌の蒼白だった。無論、俺もまったく同じ表情を浮かべているはずだ。
アリスが防いでいるあいだに突貫せよというならいくらでもやる! それはもともと俺の好むスタイルだし、実際SAO時代はボス攻略のたびにその役目を務めたのだ。
しかし、彼我の距離二十メートルを縮めてはいけないというのは、俺とユージオの戦闘力を九割減じる大きすぎる枷だ。俺たちはなんといっても剣士なのであり、遠隔攻撃の手段などわずか二つしかないからだ。
そのひとつはこちらも神聖術を使うという手だが、俺とユージオに使えるコマンドはまったく初心者級のものでしかなく、せいぜい距離を詰めるための小技にしか使えない。とてもチュデルキンのような高位術者の護りを貫き天命を削りきる威力は望めない。
もうひとつは、取って置きの必殺技――つまり武装完全支配術だが、これは取って置きすぎたのが災いした。アリスの技があればチュデルキン相手には使う必要はあるまい、対アドミニストレータ戦まで維持できるはずと判断したせいで、俺もユージオもあの長ったらしい術式をまったく唱えていないのだ。今からではどう考えても間に合わない。
俺が絶望的思案を懸命に巡らす間にも、燃え盛る巨大ピエロは、踏み出した右足で床を蹴り、その図体をふわりと宙に浮かべてさらに前進を続けた。
どすん、と両足で着地する。まるで水溜りを散らすかのように火焔の飛沫を振り撒いてから、次のジャンプに移る。とても敏捷とは言えない動きだが、何といってもサイズがサイズだ。一跳びで三メートルの距離を詰めてくる。
ピエロの放散する熱気と焦げ臭さが圧力となって感じられるほどの間合いとなったとき、ついにアリスが動いた。
凝集している金木犀の剣を、すうっと真っ向正面の大上段に振りかぶる。後ろに伸ばされた左腕、大きく前後に開いた両足が、ぎり、ぎりと弓の弦のように張り詰めていく。
突如、アリスの足元からも竜巻のごとき突風が沸き起こり、白のロングスカートと長い金髪が水平に舞い上がると激しくひらめいた。金木犀の剣の刀身が、黄金の光に包まれてぴしっと幾百の菱形へと分離し、ひとすじの列を作って空中を滑りはじめる。
「――嵐! 花! 裂! 天!」
あの細い体のどこから、と思えるほどの叫びが鋭く宙を切り裂いた。
同時に、それまでゆるりと円運動をしていた黄金の花弁たちが、個々の姿が見えないほどの超スピードで渦を作り、それはたちまち巨大な竜巻へと成長した。
先に氷のハンマーを砕いたドリルの時は、密に凝集した先細りの円錐形を作っていたのだが、今度はその逆だ。アリスの手元から漏斗状に広がり、その直径も先端では五メートルはあるだろう。
たちまち周囲の空気が、まるで大嵐に見舞われたかのように圧縮され、引きちぎられ、そして放出された。俺とユージオの髪と服が激しくばたばたと揺れる。
もはや圧し掛からんばかりに接近していた火焔ピエロは、にやにや笑いを消さぬまま高々と最後のジャンプで天井近くにまで舞い上がり、アリスの竜巻の中央に恐れ気もなく落下してきた。
どばぁぁぁぁっ!!
という、千の溶鉱炉が咆哮するが如き轟音がそれ以外のあらゆる音を圧した。
黄金の竜巻はほとんど垂直近くにまで立ちあがり、その真ん中に火焔ピエロの両足が飲み込まれている。高速回転する黄金片に引き裂かれた炎が、大掛かりな花火のように放射状に飛び散り空気を焦がす。
しかしピエロの総体はわずかにも減少しているような気配すらなく、燃え盛る両眼のにやにや笑いをさらに大きくしながら徐々に、徐々に竜巻をその巨大な足で踏み潰しはじめた。真下ですべてを支えるアリスの両足がじわ、じわと崩れ、かすかに見える横顔は鬼気迫るほどの形相だ。
さらには、竜巻を作る黄金片たちが、ピエロの熱量に耐えかねるようにたちまち赤熱していく。いままさに、整合騎士アリスも、その手の金木犀の剣も、凄まじい速度で天命を失いつつあるのだ。
残り時間――十秒。
あらゆるシステム・コマンドはもはや何の助けにもならない。
そして俺にあるのは、右手の黒い剣と、体に染み付いた技だけだ。
このアンダーワールドにおいて、俺は、主にユージオに教え伝える目的でかなりの数の"連続技"、つまり旧SAO世界において俺のフラクトライトに深く刻み込まれたあまたのソードスキルを再生させた。その過程において俺は、SAO世界のようなシステム・アシストの存在しないこの世界でも、ほとんどかつてのものと変わらない速度・威力のソードスキルを放つことが可能であることを知った。
なぜならば、アンダーワールドでは、行動とその結果のかなりの部分を、システムによる演算ではなく行う者の意志力、イマジネーションが決定するからだ。俺や人工フラクトライト達が見ているのはポリゴンで作られたオブジェクトではなく、記憶のアーカイブから取り出し加工された夢――ニーモニック・ビジュアルであるからだ。
ゆえに俺は、俺の記憶に強く刻み込まれたソードスキルたちを――現実世界では絶対に行うことのできない超高速の連続剣技を再生し得た。
そしてそれは同時に、この世界においてならば、俺の剣技はSAO世界のシステム・アシストを超える高みに――旧アインクラッドに於いて、数多の剣士たちが憧れを込めてソード・アートと呼んだ、システムの規定を超えた速度と威力そして美しさを持つ真の技へと達し得るかもしれない、ということでもある。
その為に今だけは、俺は、SAO世界で生まれそして消えた"黒の剣士キリト"への忌避――あるいは恐怖を捨てねばならない。
アリスの竜巻を踏み破りつつある巨人の熱気を頬で感じながら、俺は大きく体を右に開き、腰を沈めた。
右手の黒い剣を肩の高さまで持ち上げ、完全な水平に倒すと同時に限界まで後ろに引き絞る。
左手はその剣尖に、カタパルトのごとくまっすぐに伸ばしてあてがう。
アンダーワールドでは、幾つかの理由によって完全再現を試みようとしなかった単発重攻撃技――アインクラッドにおいて間違いなく最多回数放ったソードスキル、"ヴォーパル・ストライク"の構え。
透明感のあるブラックに輝く切っ先のはるか延長線上に、倒立した元老チュデルキンの姿が見える。
焼け焦げた眼窩に嵌まる巨大な両眼は、ダメージはあれども視力は健在らしく、爛々とひん剥かれてこちらを睨みつけている。意識の大部分は、己の四肢と視線で操る火焔ピエロに向けられているのだろうが、俺のアクションも無論視界には入っているはずだ。
攻撃はワンチャンス、決して防御も回避も許してはならない。その意味でも、この二十メートルという距離はあまりに遠い。頭頂部のみで体を支えるチュデルキンには素早い移動は不可能だろうという期待はあるが、しかしあの男の土壇場のしぶとさを、もうこれ以上過小評価する過ちは犯せない。一瞬――一秒の半分のその半分でいい、チュデルキンの注意を強く外に逸らさねばならない。
残り時間八秒。俺は限界まで速く短い言葉で、隣の相棒に頼んだ。
「奴の目を」
「そう来ると思った。いくよ」
打てば響く、とはこのことだ。ちらりと視線を向けると、いつのまにジェネレートしたのか、ユージオの右掌には青く光る鋭利な氷の矢が保持されていた。それほど大きなサイズではないが、眩いほどの輝きに包まれているのを見れば、その矢が持つのが生半なプライオリティでないのはすぐにわかる。おそらく、先刻のアリスと元老の攻防によって放散された冷気リソースを、消滅する前に素早くエレメントに変えていたに違いない。このような状況判断力は、まったく頼もしいの一言だ。
残り七秒。ユージオの両手が見えない大弓を引き絞るように動き、つがえられた氷の矢がひときわ激しく光った。
「ディスチャージ!!」
コマンドとともに発射された氷の矢は、しかし、まっすぐにチュデルキンに向かったわけではなかった。
ユージオの両手にコントロールされた軌道に沿って、まず火焔ピエロを左に迂回し、そこから右方向へと大きくカーブを描いて舞い上がる。炎の赤一色に染まる戦場に、その矢が長く引く青い軌跡は強烈なコントラストでまばゆくきらめいた。
残り五秒。アリスとチュデルキンの間の虚空を、涼やかな音を振りまきながら斜めに横切った氷の矢は、高い位置でさらに左へとターンした。ユージオの両手がぐっと握られる。それが合図となり、矢は直線軌道を描いてそれまでの数倍のスピードで突進した。その鋭い鏃が狙ったのは――。
今度もまた、チュデルキンではなかった。
奴の後方約二メートルの空中にしどけなく寝そべる最高司祭アドミニストレータこそが、ユージオの照準した標的だった。
残り四秒。
もちろん、いかに氷の矢の優先度が高かろうと、ユージオの権限レベルから生み出された程度のものに最高司祭が慌てるはずもない。銀髪の少女は、小煩そうに己に向かってくる青い矢を見やると、唇を尖らせ、ふっと軽く息をふきかけた。その息にどのような術式が込められていたのか推測する手立てはないが、矢は少女の素肌に達するはるか一メートル以上も手前で、ぱしゃっと光のしずくを振りまきながら呆気なく粉砕された。
しかし、ユージオが真に攻撃したのは、アドミニストレータ本人ではなかった。
彼がその冷静な判断力と苛烈な意志力によって一撃を浴びせたのは、元老チュデルキンが声高に宣言した、彼の最高司祭への盲目的執着、あるいは愛情だったのだ。
それまで、油断なく俺たちの動向を注視していたチュデルキンの両眼が、氷の矢が下降したその瞬間のみぐりっと横を向いた。窄められていた唇がいっぱいに開き、甲高い叫びが発せられた。
「猊下、御気をつけくださいぃぃぃッ!!」
残り三秒。
チュデルキンの絶叫が聞こえるよりも早く、俺の体は動き始めていた。
前に大きく踏み出した左足で、強く床を蹴る。その加速を腰で回転力に変え、胸と背中の筋肉を経由させて右肩に伝える。そこから繋がる俺の右腕はすでに黒い長剣と一体化した武器となり、エネルギーのすべてを超重量の刀身へと注ぎ込む。
打突開始の一瞬、剣の反動は俺の右半身を引きちぎりそうなほどに大きい。しかし歯を食いしばり、喉の奥から気合を放ちながら、俺は凄まじく重い武器を一直線に加速させていく。
旧SAO世界において、連続技に組み込めない単発のソードスキルであり発射後の隙も大きいこの"ヴォーパル・ストライク"をなぜ俺がそこまで愛用したかというと、それは戦況を一撃で決定し得る威力もさることながら、片手用直剣技にあるまじき長大なリーチにこそ理由がある。
かの世界では、強烈なエフェクト光を持つソードスキルは押並べて武器の実サイズを越える当たり判定を持っていた。なればこそ俺たちプレイヤーは、自身の数倍の体躯と得物を持つ巨大なボスモンスターたちと正面から渡り合えたのだ。しかしそのなかでも、ヴォーパル・ストライクの間合いは群を抜いて広かった。血のように赤いエフェクト光が敵を貫くその距離は、およそ刀身の二倍。限界まで伸ばされる右腕のリーチも加えれば、時として鞭や長槍すらも凌駕する射程距離を誇った。
――とは言え、もちろん、それはこのアンダーワールドとは距離、時間、観念他あらゆる意味に於いて遥か隔てられた浮遊城アインクラッドでの話だ。
この世界でこれまで多くのソードスキルを再生し得た、と言ってもそれはすべて連続技の動作としてのみであって、色とりどりのエフェクト光や剣の実寸を超える間合いなどは当然含まれていない。二年半前に一度だけヴォーパル・ストライクを実戦で――アリスの妹シルカを攫ったゴブリン部隊長との戦闘で使ったことはあるが、そのときも技としては何の変哲もない直突きでしかなかったのだ。
しかし、今、この一撃だけは――。
俺はヴォーパル・ストライクという名の剣技を、真の意味で甦らせねばならない。
いや、それ以上だ。俺と敵の距離は二十メートル、かつての技でさえ到底届かない。この"距離"というシステム上の制約を、意思とイマジネーションの力で打破しなくてはならないのだ。
不可能事では絶対にない。この世界では、イメージの力はシステムの規定を超える力を持つのだ。その証左が、今俺とユージオを限界以上の気力で炎魔人の攻撃から護っている騎士アリスの存在だ。彼女は、己の愛剣の記憶解放を行う際に一切のコマンド詠唱を行っていない。そんなものは、もうアリスには必要ないのだ。己と剣との絆を信じる彼女の意志力が、それを可能としているのである。
であれば、俺も、アリスのその意志に応えなくては。
信じろ。
確信せよ。
断固として実現するのだ。
俺は、何者であるよりも先に、剣士キリトなのだから。
突然、右手が猛烈な熱に包まれた。素手のはずの皮膚が、どこからか現れた黒い指貫きのグローブに瞬時に覆われる。続いて、激戦でほつれたシャツの上に、艶やかな黒革の袖が出現し、一瞬で腕から肩へと広がっていく。懐かしいロングコートの裾が、俺の腰の周りで大きくひるがえる。
どこからか、外燃機関の猛りにも似た金属質の轟音が響いてくる。発生源は今まさに撃ち出されようとしている黒い刀身そのものだ。
紅い閃光。
剣全体を包む、圧倒的な輝きは、炎ではなく血の赤。切っ先から放射されるその光は、部屋を埋め尽くす火焔の色すらも覆い尽くす。
「う……おおおおおッ!!」
喉から迸る獰猛な気合とともに、俺は右手に集ったすべての力を、一直線に前へと解き放った。
残り、一秒。
何の音だ!?
いきなり耳元で炸裂した異質の咆哮に、ユージオは全身を硬直させた。
獣の吼え声とも、稲妻の轟きともまるで違う。炎の怒号でも、吹雪の絶叫でもない。金属、それも幾千の剣が一斉にその身を震わせたかのような――。
氷の矢を放ち終えた両腕を前に伸ばしたまま、ユージオはすぐ左に立つキリトへと視線を送った。そして新たな驚愕に激しく打たれた。
轟音の源は、キリトが右手に構えた黒い直剣だった。黒曜石の輝きを持つ肉厚の刀身が、その鋭い刃を朧に霞ませるほどに高速で震動させながら、戦場の何よりも激しい咆哮を放っている。
記憶解放が行われたのか!? 術式詠唱もなしに!?
ユージオの一瞬のその思考は、すぐに否定された。キリトの黒い剣の完全支配術は、これまで数回見たように、深い夜にも似た闇の中からかの巨大樹を召喚するというものだ。
しかし、ユージオの目の前で剣の切っ先から強く迸ったのは、血のように重い紅の光だった。
幾つもの束となって溢れ出た赤い閃光は、みるみるうちに刀身すべてを覆いつくし、それにとどまらず持ち主の腕をも包み込んでいく。
真に驚くべき現象が起きたのはその後だった。
キリト本人の姿が、まばゆい輝きに覆われた一瞬を境に、それまでとは違う出で立ちに変化したのだ。
今まで彼が身につけていたのは、数々の激戦を経て解れ傷んだ黒いシャツと、同色の麻のズボンだったはずだ。だが赤い光の波が、右腕から体、足へと通過した途端、高い襟と長い裾を持つ輝くような革のコートがどこからともなく現れてキリトの体を装い、ズボンもまた細身の革素材のものへと瞬時に変わった。光沢のあるブーツは重そうな金属鋲つき、両の手もまた鋲の埋め込まれた手袋に包まれた。それらの色はすべて、吸い込まれるように深い黒。
瞬きよりも短い刹那に起きたその、言わば"変身"のとどめは、キリトの肉体そのものに起きた変化だった。
まず、黒い髪がわずかに伸び彼の横顔をほとんど隠した。次に、ユージオとほぼ同じ大きさだったはずのその躯が、ぎゅっと密度を増すように少しばかり小柄になった。しかし、その全身から放たれる威圧感は逆に倍化したように思えた。理由は、激しく揺れる前髪の隙間からのぞく黒い眼だ。これまで常にキリトの瞳に宿っていた穏やかさ、言い換えれば戦うことへの迷いと躊躇いのようなものが、嘘のように失われている。その眼光の鋭さは、まるで彼自身が一本の剣になってしまったかのようだ。整合騎士たちの冷厳さすら上回る、あらゆる感情を削ぎ落とした戦闘者の眼。
その瞳が、ぎらりと禍々しく光った。噛み締めた歯が剥き出され、唇がまるで笑うように歪んだ。
直後、その唇の奥から、剣の唸りを上回る雄叫びが放たれた。
「う……おおおおおッ!!」
ユージオの背中が総毛立った。
剣が放つ金属質の咆哮が限界まで高まり、直後、キリトの右手が消えうせるほどの速度で前に撃ち出された。
じゃきぃぃぃん!! と、見えない鋼板をぶちぬくような轟音。荒れ狂う紅の閃光。長いコートの裾が、伝説の闇の魔物の翼のように激しくはためく。
なんという凄まじい突き技だろうか。これまでキリトに教授されたアインクラッド流剣術のどの技とも異質な、どちらかと言えば伝統流派に近い単発の大技だ。だが、それら流派が重視する様式美など寸毫も無い、只々敵の肉体をぶち抜くためだけの殺戮技――。
しかし。
ユージオは、どうにか目の端にとらえた剣尖の輝きを追って視線を右に動かした。キリトが狙ったのは無論、火焔の巨大道化を操る元老チュデルキンだ。だがその体は遥か二十メルの彼方だ。どんな技だって、それが剣技である限り届くはずがない。
攻撃の瞬間、チュデルキンはキリトを見ていなかった。その視線は己の左上方、ほんの数秒前にユージオが発射した氷の矢の軌道に向けられていた。ユージオとしては限界まで威力を高めた術式も、無論アドミニストレータに通用するはずもなく、息吹ひとつで粉砕されてしまった。だが、狙ったとおりチュデルキンは主への攻撃を無視せず、声高に警告の叫びを上げたので、奴の注意を逸らせというキリトの要求は達せられたことになる。
氷の矢が呆気なく消失したことに安心したように、チュデルキンはぐるりと巨大な顔の向きを戻した。
その細い眼がくわっと見開かれ、いくつかの感情が刹那のうちに目まぐるしく入り乱れた。
まず、今まさに打ち出されようとしているキリトの剣と、それが放つ紅い閃光への驚愕。
次に、攻撃が遥か間合いの外からの単なる突き技であったことへの安堵と侮り。
最後に――超高速で打突された剣から、耳を劈く轟音とともにどこまでも伸びてくる紅い光の刃を見た恐怖。
息をするのも忘れるほどの驚きに打たれたのはユージオも同じだった。血の色の光剣は、二人の前方で火焔を防ぐアリスのすぐ左横を通過し、二十メルの距離を一瞬で駆け抜けて――
倒立するチュデルキンの棒のごとき胴体のど真ん中を、それが紙ででもあるかのように呆気なく貫いた。
紅い刃は、そのまま尚も三メル近く伸び、ぽかんとした表情の元老の体をわずかに宙に留めてから、束が解けるように周囲の空間へと拡散し、消えた。直後、チュデルキンの胸と腹の境に開いた、ほとんど胴を分断しかけるほどの横長の傷口から、どこにこれだけと思えるくらい大量の血液が迸った。
「ほおおおぉぉぉぉぅぅぅ…………」
空気が抜けるような、高く力ない叫びが、血霧の舞う空中に響き渡った。
自分が作り出した鮮血の池に、ばちゃっと仰向けに落下したチュデルキンは、細い右腕をぶるぶると震わせながら頭上に漂うアドミニストレータに向けて差し伸べた。
「……あぁ……げい……か…………」
か細い声を放つ、年経た道化者の表情は、ユージオの位置からは見えなかった。右手が湿った音を立てて濡れそぼった絨毯に落下し、それきりチュデルキンは動きを止めた。
直後、アリスの頭上でいままさに黄金の竜巻を踏み破ろうとしていた火焔の巨人も、その膨れ上がった胴体を大量の白煙へと変え、ニヤニヤ笑いを宙に溶かして消滅した。アリスの操る黄金の小片たちも、強敵の消滅に戸惑うかのようにゆるゆると減速し、宙に漂った。
突如訪れた沈黙に、耳が痺れるような感覚を味わいながら、ユージオはそっと隣に視線を戻した。
キリトは、右足を大きく踏み込み、右腕を限界まで伸ばした姿勢のまま沈黙していた。
黒い剣の表面に残っていた紅い光がすうっと消え、黒髪とコートの裾が最後にふわりとなびいてから垂れた。小柄なその姿が、末端からぼやけるようにもとの相棒へと戻っていくさまを、ユージオはただ息を詰めたまま見つめた。
革のコートや厚底のブーツが、まるで幻ででもあったかのように完全に消え去ったあとも、キリトは数瞬動かなかった。やがてゆるりとその右腕が降ろされ、黒い剣の先がとん、と絨毯を叩いた。
丈を取り戻した体をまっすぐに起こしてからも、キリトはうつむいたまま、ユージオのほうも、転がるチュデルキンの体も見ようとしなかった。ユージオもまた、何と声を掛けていいのか判らなかった。瀕死のファナティオを前にあれほど取り乱した相棒が、たとえ敵があの元老チュデルキンであったにせよ、その剣にかけたことに決して快哉を叫ぶ気分ではないだろうことが想像できたからだ。かいま見えたキリトの横顔は、攻撃時の氷のような冷徹さをもう微塵も感じさせないものだった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、アリスの鋭い呼吸音だった。黄金片が剣へと戻る、じゃっと鋭い金属音がそれに続いた。
素早く顔を戻したユージオが見たのは、倒れた最後の配下の体へと華奢な左手を差し伸べるアドミニストレータの姿だった。
治癒術を掛ける気か!? まさか、どう見てもチュデルキンはすでに絶命している。それとも最高司祭は、子供の頃に聞いた伝説どおり、禁断の蘇生術すらも操るというのか――?
瞬間、そう危惧したユージオが、術式詠唱が開始される前に突進して接近戦に持ち込むべきかと青薔薇の剣の柄に手をやった、その時。
あらゆる感情を伺わせないアドミニストレータの声が、ゆるりと流れた。
「勘違いしないで。片付けるだけよ、見苦しいから」
ふいっと左手が振られると、チュデルキンの骸は、綿入りの人形かなにかのように軽々と吹き飛び、はるか離れた窓際にかすかな音を立ててわだかまった。
「……なんということを」
最高司祭の所業を見たアリスが、わずかに顔を背け、押し殺した声で呟いた。
いまの彼女の人格は改変された冷徹な整合騎士のものだが、しかしその気持ちはユージオにも理解できた。チュデルキンは到底敵として尊敬できぬ人物ではあったが、しかし少なくとも、主のため死力を尽くして戦い命を落としたのだ。ならばせめて、その死に対しては礼を以って報いるべきではないのか。
だが、配下の犠牲にアドミニストレータはわずかにも感情を動かされた様子はなかった。
彼女の銀色の瞳は、放り捨てたチュデルキンの骸をもう一顧だにせず、それどころか意識と記憶からその存在すべてを消し去ってしまったかのように、以前と何ら変わらぬ謎めいた微笑をとろりと宿した。
「……ま、退屈な一幕ではあったけど、それなりに意味のあるデータも少しばかり拾えたわね」
難解な神聖語を交えつつ、最高司祭は無垢な美声でそうひとりごちた。見えない寝椅子にうつ伏せに上体をもたげた姿勢のまま、空中をふわりと滑り、円形の寝室の中央まで移動する。
なびいた銀髪のひと筋を指先で背中に払いながら、七色の光が揺らめく瞳をすっと細め、裸形の少女はその磁力的な視線をまっすぐにユージオの隣――いまだ俯き加減のキリトへと注いだ。
「イレギュラーの坊や。詳細プロパティにアクセスできないのは、非正規婚姻から発生した未登録ユニットだからかな、って思ってたんだけど……違うわね。ボク、あっちから来たのね? "向こう側"の人間……そうなんでしょ?」
囁くように投げかけられた言葉の意味を、ユージオは九割がた汲み取ることができなかった。あっち? 向こう側……?
黒髪の相棒にして親友キリトは二年半前、記憶をなくした"ベクタの迷子"としてルーリッド南の森に現れた。そのような人間がたまに出現することをユージオはうわさとして伝え聞いていたが、もちろん俗称のとおり闇の神ベクタが悪戯に人の記憶を消すのだなどと信じていたのはほんの子供の時分だけだ。人はあまりにもつらいこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがあるのだ、とユージオに教えたのは、前任の刻み手であるガリッタ老人だった。彼はずいぶんと昔、大水の事故で奥さんを亡くしていて、その時あまりにも嘆き悲しんだせいで奥さんとの思い出を半分以上失ってしまったらしかった。それは命の神ステイシアの慈悲であり罰でもある、と老人はさびしそうに笑った。
ゆえにユージオは、キリトにもおなじことが起きたのだろう、という推測をこれまで秘め続けてきたのだ。髪と瞳の色からして東域か南域の生まれと思うが、その故郷で何かとても辛く悲しい出来事があり、記憶を失いながら長い距離を彷徨ってついにルーリッドの森に辿り着いたのだろう、と。
央都までの旅路や学院での日々において、キリトに記憶のことをほとんど尋ねなかったのはそのせいもある。もちろん、彼が記憶を取り戻し、故郷に帰ってしまうのを恐れた――という理由も無いとは言えないが。
だが今、世界のすべてを見通す力を持つ最高司祭は、キリトの生まれた場所を不思議な言い方で表した。
向こう側。それはつまり、果ての山脈の向こう――闇の国、ダークテリトリーを指すのだろうか? キリトとその出自を結ぶ唯一のもの、連続剣技アインクラッド流は、闇の国で興された流派なのか?
いや――だが、最高司祭ならばダークテリトリーの地勢すらも詳細に知悉しているはずではないか。彼女の配下たる整合騎士たちは自由に果ての山脈を越え、かの国の暗黒騎士と日々激戦を繰り広げているのだ。その騎士たちの支配者たるアドミニストレータが、ダークテリトリーにどんな国がありどんな町があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは有り得ない。"あっち"とか"向こう側"などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり――。
アドミニストレータがその言葉で指し示したのは、彼女の眼すら届かない、この世界そのものの外側……? 闇の国のさらにその彼方、などという平面的な意味ではなく……世界を包む見えない壁、その向こう……?
ユージオには、己の思考が導き出しかけた概念はあまりにも抽象的すぎて、それを的確に表す言葉すらも不足していた。だが、自分がいま、何かあまりにも重大な、世界の秘密とでもいうべきものに触れかけていることだけは何となく分かった。焼け付くようなもどかしさに襲われ、ユージオは視線を動かして巨大な窓の向こうに広がる夜空を眺めた。
過ぎ行く黒い雲の切れ間に、瞬く星屑の海が広がっていた。あの空の向こう側、キリトが生まれた国、そこはどのような場所なのだろうか? そしてキリト自身は、その記憶を取り戻しているのだろうか?
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を持ち上げた黒衣の剣士だった。
「そうだ」
キリトは短く、しかしとてつもなく重い一言で、最高司祭の問いを肯定した。ユージオは痺れるような衝撃とともに、心を繋げた相棒の横顔を見つめた。やはりキリトはすでに記憶を回復していたのだ。いや――もしかしたら――彼は、最初から……?
黒い瞳が一瞬、ちらりとユージオに向けられた。そこに浮かぶさまざまな感情、その中でも最も大きいのは、俺を信じてくれ、という懇願の光であるようにユージオには思えた。
視線はすぐに、前方のアドミニストレータに戻された。キリトは厳しい表情のなかに、ほんのわずかな苦笑の色を仄めかせ、そっと両手を広げた。
「……とは言え、俺に与えられた権限レベルはこの世界の人たちとまったく同等で、あなたのそれには遠く及ばないんだけどな、アドミニストレータ……いや、クィネラさん」
不思議な響きの名前で呼ばれたとたん、最高司祭のかんばせから微笑がすっと薄れた。しかしそれは一瞬のことで、アドミニストレータは再び先刻よりも大きな笑みを艶やかな唇に宿らせた。
「あのちびっこが、詰まらない話をいろいろと吹き込んだようね。で? 坊やは、いったい何をしに私の世界へ転げ落ちてきたのかしら? 管理者権限ひとつ持たずに?」
「権限はなくても、知っていることは少しばかりある」
「へぇ。たとえば? 下らない昔話には興味ないわよ」
「なら、未来の話はどうかな」
キリトは、床に立てた黒い剣に両手を乗せ、体重を片足にかけた姿勢で最高支配者に相対した。頬のあたりに張り詰めたような厳しさが戻り、黒い瞳が刃のように鋭く光る。
「クィネラさん、あなたは、そう遠くない未来にあなたの世界を滅ぼす」
発せられた衝撃的な言葉を聞き、しかしアドミニストレータは、唇の笑みをきゅうっと大きくした。
「へぇ。私が? 私のかわいい手駒たちを散々いじめてくれた坊やじゃなく、私が滅ぼすの?」
「そうだ。なぜならあなたの過ちは、神聖教会と整合騎士団を作り上げたそのこと自体だからだ」
「ふふ。うふふふ」
おそらく、己の過ちを指摘されることなどその至聖の座について以来初めてであろうアドミニストレータは、哄笑を堪えるように唇に指先を触れさせ、肩を揺らした。
「ふふふ。いかにも、図書室のちびっこが言いそうなことね。あんな形(なり)で男を篭絡するなんて、おちびさんも随分と手管を覚えたのねぇ。いっそ不憫だわ……そこまでして私を追い落としたいあの子も、うかうかと乗せられた坊やも」
くっ、くっ、と細い喉を鳴らし、最高司祭は笑い続けた。対して、キリトは更に言葉を投げかけようと口を開きかけたが、それより一瞬速く凛と鋭い声が響き渡った。
「お言葉ですが、最高司祭様」
かしゃっと鎧を鳴らし、一歩前に出たのは、これまで沈黙を続けていた整合騎士アリスだった。長い金髪が、アドミニストレータの艶やかな銀髪に対抗するように月明かりにまばゆく煌いた。
「来るべき闇の軍勢の総侵攻に、現在の騎士団では抗しきれないとお考えだったのは、騎士長ベルクーリ閣下も、副長ファナティオ殿も御同様でした。そして――この私も。無論我ら整合騎士団は、最後の一騎までも戦い抜き散り果てる覚悟でしたが、しかし最高司祭様には、騎士団なきあと無辜の民びとを護る手立ては御在りだったのですか! よもや――お一人で、かの大軍勢を滅ぼし尽くせるなどと御考えだったわけではありますまい!」
騎士アリスの、烈しくも涼やかな声音が広大な部屋中に風となって吹き過ぎ、アドミニストレータの髪を揺らした。少女は、すこしばかり意外そうな面持ちで微笑みを薄れさせ、じっと黄金の騎士を見下ろした。
そしてユージオにとっても、別の意味でアリスの言葉は衝撃だった。
整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ、ユージオの幼馴染の少女の体に作られた偽者の人格――それは、数日前に学院の大講堂でユージオの頬をしたたか打ち据えたように、感情なき冷徹な法の執行者であるはずだった。騎士アリスのなかに、かつてのアリス・ツーベルクが持っていたたくさんの感情、とりわけ慈愛と献身、そして善性は微塵も存在しないはずだった。
だが、今のアリスの言葉はユージオの中で、まるでかつてのアリスがそのまま世界の守護騎士として成長し、発したものであるかのように響いたのだ。
息を呑むユージオの視線になど気づくふうもなく、整合騎士は右手の金木犀の剣をカァン! と音高く床に突き立て、更に宣した。
「最高司祭様、私は先刻、あなたの執着と愚かさが騎士団を潰せしめたと言いました。執着とは、あなたが我ら騎士以外のものに一切の武器と力を与えなかったことであり、そして愚かさとは、あなたがその騎士たちすら微塵もお信じにならなかったことです! あなたは我らを謀った……親から、妻や夫、兄弟姉妹たちから無理やりに引き離しその記憶を封じておきながら、ありもしない神界から召喚したなどと麗々しい偽りを植えつけた。でも、それはいい……この世界を、民たちを護るために必要なことであったのなら、それは今は糾しますまい。ただ、どうして我らの……私たちの、教会と最高司祭様、あなたに対する忠誠と敬愛すらも信じて下さらなかったのですか! なぜ私たちの魂に、あなたへの服従を強制する術式などという穢れたものを埋め込まれたのですか!!」
振り絞るようにそう叫んだアリスの、わずかに見える頬の輪郭から、ほんの数滴のしずくが散ったのをユージオは見た。
涙。
あらゆる感情を棄て去ったかのようだった整合騎士アリスが、涙を。
愕然とするユージオの視線の先で、騎士は頬をぬぐうこともせず、昂然と背筋を反らせて支配者を見上げた。
烈火のごとき言葉を浴びせられたアドミニストレータは、しかし、それを微風ほどにも感じなかったように薄い冷笑を浮かべた。
「あらあら、アリスちゃん。随分と難しいことを考えるようになったのねえ。まだたった七年……八年? それくらしか経ってないのにね……造られてから」
情というものを一抹も含まない、軽やかな声だった。美しいが、しかしそれは磨き上げられた貴金属の響きだ。わずかな温もりや揺らぎさえ聞き取ることができない。
「私があなたたち整合騎士(インテグレータ)を信じなかった、ですって? やぁね、心外だわ。とっても信頼してたのよ……歯車仕掛けで健気にカタカタ動く、かわいいお人形さんたちですもの。あなただって、その大事な剣が錆びたりしないように、こまめに磨いてあげるでしょう? それと同じことよ。あなたたちにプレゼントした行動制御キーこそ、私の愛のあかしだわ。あなたたちが、いつまでもきれいなお人形でいられるように。下民たちのように、くだらない悩みや苦しみに煩わされずに済むように」
酷薄な笑みを消さぬまま、アドミニストレータは白い両手を胸の前で握り締め、芝居がかった仕草でゆっくりと首を左右に振った。
「ああ……なんて可哀想なアリスちゃん。きれいなお顔をくしゃくしゃにしちゃって。辛いんでしょう? 苦しいのね? 私のお人形のままでいれば、そんな涙なんて汚らしいものをこぼす必要は、永遠になかったのに」
ぽたり、ぽたりと、アリスの頬から滴り床にはじける水音は途切れなかった。そして同時に、きし、きしっと何かが鋭く軋む音もユージオの耳に届いた。
音源が、アリスの金木犀の剣であることはすぐにわかった。床に突き立てられた剣尖が、分厚い絨毯を貫通し、その下の滑らかな大理石に食い込みつつあるのだ。騎士アリスの心の痛みは、ほぼ破壊不能の天命をもつ塔の基材よりも硬く、大きい。
あふれ出す寸前の感情に彩られたアリスの声が、途切れ途切れに流れた。
「……小父様……騎士長ベルクーリ閣下が、整合騎士として生きた二百年の永の日々で、わずかにも悩んだり、苦しんだりしなかったと、最高司祭様はそうお考えですか。この世界で最も巨大な忠誠をあなたに捧げた人物が、その心に抱きつづけてきた痛みを知らぬと、そう仰いまするか」
ビキッ、と一際鋭い音が、剣の下の床から響いた。同時にそれを上回る烈しさで、アリスは叫んだ。
「否!! ベルクーリ閣下は、司祭様への忠誠と、民びとの守護という使命のあいだで、常に苦しんでおいでだった!! 閣下が、四帝国の名ばかりの近衛隊の強化と整合騎士団による直率を、何度元老院に上申したか、あなたはご存知ありますまい! 閣下は……小父様は、私たちの右目に仕込まれた封印のことを知っておられた。それこそが、小父様こそが誰よりも巨大な苦しみを抱き続けてきた方だという明らかな証左ではありませんか!!」
まさに、血を吐くがごとき痛切な独白だった。
しかしその言葉すらも、アドミニストレータの謎めいた瞳の奥に届いた様子はなかった。絶対支配者の白い頬に色濃く浮かんだのは、なおも面白がるような笑みだけでしかなかった。
「ほんと……悲しくなっちゃうな。私の愛が、そんな程度のものだと思われてるなんて」
笑みがきゅうっと深くなり、興趣のなかにある種の残酷さが揺らいだようにユージオには思えた。
「七歳の幼いアリスお嬢ちゃんに教えてあげるわ。一番……ベルクーリが、その類の詰まらないことにうじうじ悩むのは、初めてのことじゃないのよ。実はね、百年くらい前にも、あの子は同じようなことを言い出したのよ。だからね、私が直してあげたの」
くすくす。細い喉のおくから、さえずるような笑い声がこぼれる。
「ベルクーリの魂のページをめくって、そこに書いてある悩みだの苦しみだの、ぜーんぶ消してあげたのよ。あの子だけじゃないわ……初期に造られた騎士は、みんなそう。辛いことは、何もかも消してあげたわ、私の愛でね。安心して、アリスちゃん。ちょっとおいたをしたくらいで、あなたに怒ったりしないから。今、あなたにそんな悲しい顔をさせてる記憶も、ちゃんと消してあげる。何も考える必要のないお人形に、ちゃんと戻してあげるわ」
静寂のなかに、しばしアドミニストレータの含み笑いだけが揺れ続けた。
あの人は――もう人間ではないのだ。改めて襲い掛かってくる戦慄に肌を粟立てながら、ユージオは強くそう認識した。
人の記憶を覗き自在に書き換える力、そんなものが存在するなんてことを、ユージオは想像すらしたことはなかった。床に収納されたベッドの中での出来事の記憶は曖昧だが、あの重く粘ついた夢のなかで、最後にアドミニストレータに何らかの術式を唱えさせられそうになったことはかすかに憶えていた。あの短い術式を口にしていたら、いったい何が起きていたのか――想像するだけで背筋に氷のような汗が流れる。
もはや神にも等しい権限を持つ支配者を前に、その被造物である整合騎士アリスは、すぐには言葉を返そうとはしなかった。いつしか滴る涙は止まり、剣の軋みも収まっていた。アリスの背中から、ゆるりと力が抜けるのを、ユージオは不安とともに見つめた。決していまのアリスを完全に信用しているわけではないが――何せほんの数時間前に見失ったときは恐るべき強敵だったのだ――それでも、今アドミニストレータ側へ戻られたら、この戦いの帰趨は完全に決する。
アリスの金髪に彩られた頭が、ゆっくりと項垂れた。左手が持ち上がり、胸の辺りを押さえた。
「……たしかに、私は今、この胸が引き裂かれるほどの苦痛と悲しみを感じています。こうして立っていられるのが不思議なほどに」
発せられた声は、数分前とは打って変わったかすかな囁きだった。
「……でも、私はこの痛みを……初めて感じるこの気持ちを、消し去りたいとは思いません。なぜなら、この痛みこそが、私が人形の騎士ではなく、ひとりの人間であることを教えてくれるからです。いいえ、最高司祭様。私にあなたの愛は必要ない。あなたに直してもらう必要はありません」
「人形であることをやめた人形――」
アリスの訣別の言葉を聞いたアドミニストレータは、表情を変えぬまま歌うように言った。
「それを、何て呼ぶのか教えてあげる。"壊れた人形"よ、アリスちゃん。残念だけど、あなたがどう思うかなんて、どうでもいいことなの。私が再シンセサイズすれば、今のあなたの感情なんて何もかも無かったことになっちゃうんだから」
「あなたが、自分に対して行ったように――かな、クィネラさん」
これまで沈黙を守っていたキリトが、再び奇妙な名でアドミニストレータを呼んだ。それを聞くや、先刻と同じように少女の顔からわずかに笑みが薄れた。
「ねぇ坊や、昔の話はやめてって、私言わなかった?」
「そうすれば事実が消えるとでも? いくらあなたでも、過去を好き放題編集できるわけじゃない。あなたもまた人の子として生まれ育った、ただの人間であるという事実は決して上書きできない、そうだろう?」
そうか――おそらくキリトは、あの大図書室にいた不思議な子供からアドミニストレータの過去について聞いていたのだ。ユージオはそう直感し、キリトがそれを隠していたことに僅かながら傷ついたが、しかし同時にその話がキリトの出自とも密接に関連しているのだろうとも推測していた。
「人間……、ニンゲン、ね」
アドミニストレータはすぐに笑みを取り戻し、これまでとは少し趣きの異なる、どこか皮肉そうな表情でつぶやいた。
「"向こう側"からきた坊やにそう言われると、なかなかに複雑なものがあるわねぇ。つまり坊やは、自分のほうがエライと言いたいの? アンダーワールド人ごときが生意気な、って、そういうことかしら?」
再び出てきた耳慣れぬ言葉に、ユージオの混乱はいや増した。アンダー……ワールド? 神聖語であることはわかるが、意味まではとても汲み取れない。前後の流れからして、"向こう側"に対する"こちら側"を示しているのだろうか。
「いやいや、とんでもない」
ユージオの思索は、すぐさま発せられたキリトの声に遮られた。
「それどころか、多くの点でこっちの人たちのほうが向こうの人間よりも優れてると思ってるよ。でも、大本のところでは、どちらも同じ魂を持つ人間であることに違いはない。そう、それはあなたも例外じゃない。たとえ三百年の時間を生きてきたとしても、それで人間が神になれるわけじゃない」
「……だからどうだ、って言うのかしら? 同じ人間どうし、仲良くお茶でも飲もうとでも言うつもり?」
「そうするに吝かではないけどな。……でも今俺が言ってるのは、あなたも人間である以上、完璧な存在では在り得ない、ってことさ。人は過ちを犯す、宿命的にね。そしてあなたの過ちは、もう修正不可能なところまで来てしまっている。整合騎士団が半壊した以上、もし今ダークテリトリーの総侵攻が始まったら人界は滅ぶぞ。あなたがこれまで苦心して維持……あるいは停滞させてきたこの世界は、凄まじい破壊と暴力に晒される。そんなこと、無論あなただって望んじゃいないだろう」
「騎士たちを壊してまわったのは坊やなのに、随分ねぇ。ま、いいわ。それで?」
「自分だけ生き延びられれば、その後に最初からやり直せばいい……そう思ってるのかもしれないけどな」
キリトは語気を強め、右足を半歩前に動かした。
「この地に溢れた闇の民たちと生き残った人間を再び法で縛って、新しい……暗黒教会とでもいうべき支配組織を作り上げる。あなたならあながち不可能なことじゃないと思うけど、でも、残念ながらそうはならない。"向こう側"には、この世界に対して真に絶対の権限を持つ者たちがいるからだ。彼らこそこう思うだろう……今回は失敗だった、何またやりなおせばいいさ、ってな。そしてひとつボタンが押され、この世界の何もかもが消え去る。山も、川も、街や畑も……そして人間を含むあらゆる生命もまた、一瞬で消滅するんだ」