意味不明な感嘆詞の羅列に、俺とアリスは同時に眉根を寄せ、首をかしげた。
聞き覚えの無い声だ。若者ではなく、さりとて老人とも思えない。ただ一つ確かなのは、声の主が、我を失うほど何かに興奮しているらしいということだけだ。
怒りに水を差されたようにアリスが剣を引き、声の聞こえてくる方向を伺った。俺もそれに倣う。
円形の広間の反対側に、俺たちが入ってきたのと同じような通路がぽっかり口を開けていた。身悶えするような絶叫は、その奥から絶え間なく響いてくる。
「…………」
行ってみましょう、と言うように、アリスが剣の先でそちらを指した。それに頷き返し、俺たちは足音を殺して移動を開始した。
広間には遮蔽物になりうる柱や調度が一切無く、その真ん中を突っ切るのは少々度胸を要したが、壁に繋がれた数十人の"元老"たちは俺たちの存在にはまったく気付かぬ――と言うよりも端から意識の埒外であるようだった。彼らにとっては、眼前のシステム・ウィンドウと、蛇口から供される流動食だけが世界の全てなのだ。
地下牢の獄吏や、エレベータを動かしていた少女の境遇を知ったときも憐れの念を催さずにいられなかったが、この元老たちの人生はもう俺の半端な想像や共感の及ぶ範疇を遥か超えている。
そして同時に、このような究極的悲惨の現出した場所において、あんな脳天気な悶え声を喚き散らす人間もまた理解不能としか言えない。少なくとも、味方となり得る人間ではまったく有り得ない。
その思いはアリスも同様のようで、顔の左半分には、先刻とは別種の怒りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。俺の半歩前を、まったく音を立てずしかし憤激も隠さない足取りで踏破した彼女は、奥の通路の入り口の壁際に身を伏せると、先の暗闇を覗き込んだ。反対側の角から俺も先を伺う。
またしても異様に狭い通路の先は、広間ほどではないにせよ大きな部屋になっているようだった。ドアが半ば開け放たれ、内部をじゅうぶんに見通すことができる。
一見して、奇怪千万な空間だった。
まず、ありとあらゆる調度がすべて金ピカだ。箪笥やベッドといった大型のものから、小さな丸椅子や収納箱に至るまでが、壁際の黄緑色の蝋燭の光を受けてギラギラと下品に輝いている。思わず視線を動かすと、"黄金の聖騎士"アリスがとてつもなく嫌な顔をしているのが見えて、慌てて目を逸らす。
そして、それら金色の家具からはみ出し、あるいはその上を覆っているのは、大小無数の様々なおもちゃだ。
大部分が、どぎつい原色の縫いぐるみである。ボタンの目と毛糸の髪を持つ人形から、犬猫牛馬といった様々な動物、果ては一体何なのか見当もつかぬ醜悪な怪物までが床やベッドのそこかしこに堆く積もっている。その他にも、積み木やらボードゲーム、小さな楽器や武器などが数え切れないほど散乱しているのが見える。
そして、それらの真ん中に埋もれるようにして、叫び声の主がこちらに背を向けて座り込んでいた。
「ホオオオオッ!! ホオオオオオオオッ!!」
最早意味を成さぬ絶叫を立て続けに放つ人物がまた、奇怪としか言えぬ姿だった。
丸い。ほぼ真球形の胴体に、これまた真ん丸い頭が乗っかり、まるで雪だるまだ。しかしその色は白ではなく、右半身が赤、左半身が青のテラテラ光るピエロ服を着込んでいる。短い腕をつつむ袖も赤青の細い縦じまで、じっと見ていると眼がチカチカしてくる。
丸い頭は真っ白で、一本の毛髪もないのは背後の元老たちと同様だが、彼らの黴たような弛みはまったくなく、逆にぴんと脂ぎっている。その頭頂部に乗るのは、調度と同じく下品な金色の角帽。
俺は再び視線をアリスに向け、今度は同時にこちらを見た彼女に、唇の動きだけで「あいつが?」と訊いた。眼で頷いたアリスも、音を出さずに「チュデルキンです」と答えた。
世界第二位の魔術師にしては、しかし、その後姿は無防備もいいところだった。と言うようりも、両手に抱えた何かに完全に意識を奪われているらしい。
ぷっくり膨れた背中に隠されてよく見えないが、どうやらチュデルキンが夢中で覗き込んでいるのは、大きな硝子玉のようだった。その内部でちらちらと色彩が瞬くたびに、投げ出した短い脚をばたばたさせ、あああだのほおおだのと絶叫を繰り返す。
てっきり遠距離魔術戦が始まるものと思っていたのに、これは一体どうしたらいいんだと俺がアクションを決めかねていると、不意にもう我慢ならぬというようにアリスが動いた。それも、もう足音も隠さぬ全力ダッシュだ。
と言っても、実際に床を蹴ったのは四歩か五歩だろう。慌てて追随した俺を軽々と引き離し、黄金の突風となっておもちゃ満載の部屋に突入したアリスは、チュデルキンの丸い首がわずか三十度ほど回転した時点でがっしと赤青の道化服のひらひらした襟首を掴んでいた。
「ホオオオオアッ!?」
素っ頓狂な声を漏らす丸い物体を、アリスは縫いぐるみの海からすぽんと引っこ抜き、高く掲げた。その時点でようやく追いついた俺の目に、チュデルキンが夢中で覗いていたものが曝された。
直径五十センチはありそうな硝子玉の中央には、渦巻く光に彩られてどこか別の場所の映像が表示されていた。見えたのは、どこまでも続くシーツの海にしどけなく横座りをした一人の少女だ。長い銀髪に隠されて顔が見えない。少女は、今まさに細い両手で、身につけた薄紫のネグリジェのリボンを解こうとしているところだった。
エロ動画かよ! と心の中で突っ込みそうになったが、その時、少女の前方に力なくうずくまる誰かが居ることに気付いた。その人間の、短い髪の色に見覚えがある、と思った瞬間、映像の中央がしゅっと白くフラッシュし、直後すべての光が消えた。
アリスは、端からそんな映像などには興味を示さず、宙吊りにした丸い道化男の巨大な口に、金木犀の剣の切っ先をぴたりとつきつけた。
「術式起句の"シス"まで口にした時点でその舌を根元から斬り飛ばします」
凍るような声音で発せられた宣言に、何かを叫ぼうとしていた小男の口がぴたりと静止した。
あらゆる魔法には"システム・コール"の発声が必要となるこの世界の原則からして、メイジ相手にこの体勢に持ち込めばもうこちらの優位は動かない。それでも、短い両腕から意識を切らぬように注意しながら、俺は改めて男の顔を眺めた。
元老チュデルキンは、これまでアンダーワールドで出会った人間のうちで、最も正体不明という形容が似合う人物だった。真ん丸い顔の下半分を占める真っ赤で巨大な口、同じく巨大な団子鼻、そしてスマイルマークのように弧を描いた目と眉。
しかし今は、その細い目が限界まで見開かれ、小さな黒い瞳がぷるぷる震えながらアリスを凝視している。
分厚い唇が数回わななき、そして錆びた螺子が軋むような声がキイキイと漏れた。
「お前……五十番……何故こんなとこにいるんですよう。反逆者の片割れと一緒に塔の外に落っこちておっちんだ筈ですよう」
「私を番号で呼ぶな。私の名はアリス。そしてもう五十番(フィフティ)ではありません」
極北の冷気に包まれたアリスのいらえに、チュデルキンは脂汗まみれの顔を引き攣らせ、そして初めて俺のほうを見た。ふたたび、上向きの三日月型の目が半月くらいまでむき出され、喉のおくからホゴッ、ホゴッ、という喘ぎ声が漏れた。
「おまっ、オマエっ、なんでどうして!? 五十ば……アリス、何故この小僧を斬らないンですよう!? こいつは反逆者……ダークテリトリーの手先だと言ったじゃないですかああっ!!」
「確かに反逆者です。しかし闇の国の先兵ではない。私と同じように」
「なっ……なっ……」
吊り上げられたチュデルキンの両腕が、まるで部屋を埋める玩具のひとつであるかのようにばたばたと動いた。
「うらぎっ、裏切る気かぁぁぁぁっこの糞騎士風情がぁぁぁぁぁっ!!」
頭から自分の置かれた状況が消し飛んだのか、チュデルキンの真っ白い頭全体が一瞬にして真っ赤に染まり、只でさえ高い声がさらに裏返った超音波の怒声が部屋中に鳴り響いた。
「てめえってめえら整合騎士はァッ!! 単なる木偶ッ!! 教会の命ずるまンま動く操り人形の分際でええッ!! こともあろうに猊下をッ!! 最高司祭様を裏切るだとォォォォッ!!」
顔をそむけ、チュデルキンの口から飛び散る唾液を避けたアリスは、侮蔑にも眉ひとつ動かさずに氷の冷静さで言葉を返した。
「確かに木偶でしょう。"シンセサイズの秘儀"によって記憶を封印され、教会への強制的な忠誠心を埋め込まれているのですから」
「なッ…………」
再び、チュデルキンの顔が白く変じ、口がぱくぱくと動いた。
「なぜ、どうしてそれを……」
「封じられたとは言え、僅かに残っているものもあるようです。広間の憐れな元老たちを見たとき、かすかに甦った記憶……不安と恐怖に怯えきった幼い少女を、あの広間の中央に縛り付け、元老たちの三日三晩の多重術式によって心の壁を無理矢理に抉じ開けて大切な思い出を奪った……それがシンセサイズの秘儀、整合騎士召喚の儀式の真実。あの広間の床石には、かつて私であった十一歳の少女が流した恐怖と絶望の涙も染み込んでいるはず。そしてお前はその光景を、愉悦と興趣に悶えながら味わった」
アリスの、抑制されてはいるが一言ひとことが鋼刃のように鋭い言葉を聞くあいだに、チュデルキンの顔色は目まぐるしく赤と白のあいだを行き来し、滝のように流れた脂汗が道化服をぐっしょりと濡らした。
しかし最終的に、ただ一人意思ある元老であるチュデルキンは、開き直ったような卑しい笑みを巨大な口にニタリと浮かべた。
「ええ……そのとおりですよう。アタシは今でもくっきりと思い出せますよ、幼く、無垢で、最上等の人形のように美しいオマエが、宝石のような涙を流しながら、何度も何度も懇願する様を……"お願い、忘れさせないで……私の大切な人たちを忘れさせないで……"」
醜悪な裏声で幼い少女の口真似をするチュデルキンを見て、アリスの眼が、高温の炎のような輝きを秘めてぎりりと細められた。しかしチュデルキンは挑発を止めず、なおも野卑な独白を続けた。
「おほ、おほう、思い出せますとも! アタシはいまでもあの光景を肴に一晩たっぷり愉しめますよ、ファナティオやエルドリエの時のも悪かァないが、やっぱり一番はオマエですよう! 忘れてしまったオマエにも話してやりましょうか、幼いオマエが、どんなふうにして三晩の責め苦のはてに魂なき木偶人形に変わっていったか?」
この台詞には、俺も剣を握る右腕が激しく震えるのを止めることはできなかった。しかし同時に、アリスを挑発するチュデルキンの意図をはかりかねてもいた。騎士長ベルクーリを石に変えた"ディープ・フリーズ"コマンドは、チュデルキンが死ねば解除されるとアリスは言っていた。となれば、アリスには長々とチュデルキンの戯言に付き合っている必要はないのだ。道化男がこれ以上の侮辱を口にする前に、金木犀の剣でさっくりと串刺しにしてやればよい。
チュデルキンにもそれは重々分かっているだろうに、なぜ死に急ぐような真似を……?
しかし、俺の思考がどこかに辿り着く前にアリスが、俺とユージオを学院に逮捕にきたときの十倍は冷酷な声音で呟いた。
「チュデルキン、あるいは貴様も犠牲者であるのかと……最高司祭……アドミニストレータに人生を弄ばれた哀れな道化なのかと思っていました。しかし例えそうであれ、貴様は己の境遇を存分に愉しんだようだ。ならば、その愉しき思い出に浸りつつ死になさい」
金木犀の剣の切っ先がすっと動き、丸く膨らんだ道化服の胸の中央に押し当てられた。
テラテラ光る布地が、最後の抵抗を見せてわずかに凹み――。
チュデルキンの細い目が、してやったり、といふうにギラリと光った。
「待て、アリ……」
ス、と俺が言い終える前に、黄金の剣が十センチ以上もチュデルキンの肉体に沈み込んだ。だが、直後にどばっと噴き出したのは鮮血ではなく――赤と青の、どぎつい色の煙だった。
ぱぁん!! という巨大な破裂音を放って、チュデルキンの道化服が風船のように弾けとんだ。同時に四方八方に噴き出した二色の煙が、周囲の空間を濃密に覆いつくした。
「くっ……」
俺は歯噛みをしつつ、視界の隅でシュッと動いた影めがけて右手の剣を薙ぎ払った。しかし、渇いた音とともに剣尖が捉えたのは、奴が被っていた金色の帽子だけだった。
更に追撃するべく踏み込んだが、赤と青が交じり合って紫になった煙を吸い込んだ瞬間、眼と喉を猛烈な痛みが覆い、たまらず咳き込む。
「貴様ッ……!!」
アリスが咽ながらもそう叫び、影を追って飛び出した。チュデルキンが逃げたのは部屋の入り口ではなく奥方向だ、まだ追い詰められると思いながら、俺も息を止め姿勢を低くしてダッシュする。
しかし、煙の中心を脱け出した俺たちが目にしたのは、スライドした金の箪笥と、その奥に口を開けた隠し通路だった。奥にたったひとつだけ蝋燭の灯りがあり、その下を、真ん丸い頭の下に冗談のように細長い胴体と手足がついた人影が猿のように俊敏な動作で駆け抜けていくのが見えた。
「ホヒィッ!! ホヒ――ッヒッヒッヒッヒッ!!」
けたたましい笑い声が、涙と咳に苦しむ俺たちの耳に届いた。
「駆式ばかりが術じゃねえんですようバーカ! バァ――カ!! 追ってきたけりゃきなさいよう、でも今ごろはオマエらの仲間……ベルクーリを倒したあの小僧が、最新最強の整合騎士になってますよう!? 小僧とアタシ、そして最高司祭猊下に勝てると思うなら追ってきなさぁぁぁぁいっ!! ホホォ――――――ッ!!」
壊れた玩具のような笑い声に、かんかんかんと階段を駆け上がる靴音が重なった。
「リリース……」
短い術式句の、音素ひとつひとつを発声するその度ごとに、ユージオは己自身がどこまでも薄まり、軽くなっていくのを知覚していた。長い、長い時間ユージオを苛みつづけてきた餓えや渇きが甘い蜜に溶けて消えていくのと同時に、ここまで辿り着くための原動力となった使命感もまたその形を崩し、失われようとしている。
僕はいったい何故、何のためにこんな遠いところまで旅をしてきたのか。
一瞬の火花のような自問に、アリスのためだ、と答えが返る。本当にそれだけだったのだろうか、もっと大きくて大切な目的があったのではなかったか、という思考がちかっと閃くが、それが形になる前に、口から次の式句が紡ぎだされる。
「コア……」
だって、もう、悲しいのは、辛いのは嫌なんだ。
今まで、僕は疑いもしなかった。教会からアリスの体と心を助け出し、もとのままのアリスと手に手を取ってルーリッドに帰って、小さく暖かい家庭を築けば、その時こそ世界のすべてが正しい形へと回帰するのだと信じていた。
でも――もし、ルーリッドの教会前広場で、白いドレスを着て大きな笑顔をつくるアリスの隣にいるのが、僕じゃなかったら?
その場所に立っているのが、ただ一人の親友である黒髪の剣士だったとしたら?
そしてこれからもたったひとり、癒されることのない渇きに満ちた時間が、どこまでも続く。
銀髪の少女が示した術式を最後まで口にしたとき、自分は恐らく自分ではなくなってしまうのだろうということが、ユージオにはおぼろげに理解できていた。しかしそれによって、使命を、友情を打ち棄てる罪悪感を忘れられるなら――そして、少女が約束した唯一無二の愛のなかにどこまでも深く潜っていられるのなら、もうそれでもいいという気持ちが確かに存在した。
「そうよ……さあ、いらっしゃいユージオ、私のなかへ」
耳もとで、至上の甘さを湛えた囁き声がとろりと流れた。細くとがった舌先が、くすぐるように耳朶を這った。
「いらっしゃい、永遠なる停滞のなかへ……」
「プロ……テク…………」
魂を明け渡す最後の一音節が紡がれるのを、その寸前で押しとどめた力が何なのか、ユージオ自身にもわからなかった。
導かれるまま、銀の瞳の少女のなかへと身を投げ打ってしまいたいという衝動はとてつもなく巨大だった。しかし、なぜか――何ものかが、少女とユージオの間を薄紙一枚の距離でなおも隔てつづけていた。
閉じていた目を薄く開くと、ユージオはすでに銀髪の少女、最高司祭アドミニストレータをシーツに押し倒し、その細い体を強く抱きしめていた。剥き出された豊かな胸がユージオの下で柔らかく潰れ、しなやかな脚はユージオのそれへと絡みついている。
あとほんの一挙動、そして一音節でユージオはアドミニストレータとあらゆる意味で融合し、吸収され得るだろう。しかしほんの小さな何か――異物が、ユージオと少女のふたつの心臓のちょうど中間に留まり、ささやかな冷気を放って一体化を妨げる。
ユージオの顔のすぐ下で、蕩けるような微笑を湛えていたアドミニストレータの顔が、かすかな、ほんのかすかな苛立ちを浮かべた。
「どうしたの、ユージオ? 私が欲しいんでしょ? さあ……もう一度言ってごらんなさい」
「プ……プロ……」
促されるまま、ユージオは口を動かした。だが今度は、ちくりと刺すような明確な冷たさが胸の中央を貫き、ふたたび舌が縺れて停止した。
アドミニストレータも、先刻よりはっきりと唇の端を強張らせ、ユージオを促すように体を艶かしくくねらせた。
「あとほんの一言、それだけであなたは何もかもを手に入れられるのよ。至上の快楽、権力、そして永遠の生命さえも。さあ……言いなさい、ユージオ」
「…………」
しかし、ユージオの思考の一部には、もはや無視できない大きさで疑問、もどかしさ、そして違和感が湧きあがりつつあった。胸をちくちくと刺す、この小さくて硬いものは一体なんだったろうか――何のために、誰が与えたものだったろうか、という。
不意に、アドミニストレータの両手がユージオの肩を掴み、驚くほどの力で右に倒した。
くるりと体を入れ替えた少女が、ユージオの腰の上にまたがり、掌で両頬を包んでくる。銀の髪が垂れ下がり、首筋を撫でる。
「悪い子ね……私だけじゃ不満なの? もっと欲しいの?」
すうっと鏡の瞳を細めて、アドミニストレータが、これまでとは別種の淫らな笑みを浮かべた。
「そんなにおなかが空いてたのね? なら、これも食べてみたくないかしら……?」
頬から離れた右手が、ゆるやかに宙に掲げられた。真珠の唇から、聞き取れないほどの超高速で術式が紡がれ、すると不思議な現象が起こった。
広大な寝室の天井に描かれた無数の神々――その中央近くで、花冠を編んでいた幼い姿の女神の細密画が、すうっと紫色に発光したと思うとそのまま一点に流れ集まって、輝く大きな雫へと変じたのだ。
ぽたり、と滴った光の凝集は、空中で紫の三角柱へとふたたび姿を変え、アドミニストレータの手のなかに音も無く収まった。
とてつもなく美しい物体だった。三つの長辺を、輝く点がすべるように行き来し、内部にも微細な光の線が複雑に煌めいている。
なおも分厚い霧に包まれたような意識のなかにあっても、ユージオの心臓がどくんと大きく跳ねた。思わず持ち上げた右手で短衣の胸元をぎゅっと掴むと、掌の中にあの"何か"、硬く鋭いものの感触が伝わるが、今はもう気にしていられなかった。
あの紫のプリズムが、自分にとってとてつもなく大切な――ほとんど究極の目的であることが、本能的に理解できたからだ。
「あ……ああ……」
ユージオは眼を見開き、しわがれた呻き声とともに左手を伸ばした。しかしアドミニストレータは、じらすようにプリズムをひょいと遠ざけ、くすくすと喉を鳴らした。
「うふふ……そうよ、これが、あなたがとっても欲しかったモノ。ずっと昔、あなたが大好きだった、金髪の女の子の記憶」
まるで、ユージオ、ユージオ、と呼びかけるように、プリズムの中央がちかちかと瞬く。
「私の願いを叶えてくれたら、これもあなたにあげてもいいのよ。ユージオ」
アドミニストレータは、色の薄い唇をプリズムに寄せ、ちろりと舌先で撫でた。銀鏡の瞳に虹色の光が渦巻き、凄まじい幻惑力となってユージオの脳を貫いた。
「ほんのみっつの言葉を口にしてくれたら、ね? アリス・シンセシス・フィフティ……あれはほんとは私の次の体にしようと思ってたんだけど、あの体にこの記憶を戻して、あなたの本物のアリスを返してあげる」
「あ……あり……す」
うわ言のようにその名前を繰り返すユージオを見て、アドミニストレータはもう一度くすりと笑った。
「そうよ。しかも……もう二度と、あなたのアリスが誰かを見たりすることのないように、魂を書き換えてあげるわ。永遠にあなた一人を愛し、あなた一人の言葉だけに従うように……どんな命令だって聞いてくれるのよ。何だってさせられる、あなただけのかわいいお人形」
くすくすくす。愉しそうに、銀髪を揺らして少女が笑う。
「永遠の愛……永遠の支配を、あなたは手に入れられるの。さあ……言いなさい、ユージオ。もう一度……"リリース・コア・プロテクション"」
「…………」
ユージオの唇が震え、そしてこぼれ落ちた言葉は、しかし先ほどほとんど言い終えかけた術式ではなかった。
「永遠……の……愛」
「そうよ。ほしかったんでしょう?」
「永遠の……支配……」
「そうよ!」
アドミニストレータの唇から、すっと笑みが消えた。右手のプリズムをユージオに突きつけ、左手で自分の肢体を撫でながら、アドミニストレータは迫るように叫んだ。
「さあ……言うの! 私の支配を受け入れなさい、ユージオ!!」
「愛は……支配し、されること……か。そうか……ふ、ふ、皮肉……だな」
ユージオの口から、掠れてはいるが意味をなす言葉が発せられたのを聞き、アドミニストレータの瞳が一瞬見開かれ、ついですうっと細められた。
「……君も、そうだったんだね。愛に餓え……求めつづけ……しかし与えられることはなかった」
右手に握り締めた細く鋭いものの感触と、鼓動のように瞬くプリズムの光が、自分の意識を絡め獲っていた呪縛を清澄な流水のように洗い流していくのをユージオは感じていた。
確かに、僕は誰かに明白な形の愛を与えられたことはないのかもしれない。
でも、例えそうであっても、僕は確かに多くの人たちを愛した。
「違うよ、可哀想な人」
ユージオは、強烈な虹色の光を渦巻かせる少女の瞳を見詰め、ゆっくりと言った。
「支配することが愛じゃない。愛の本質は、ただ与えつづけること、それだけだ。でも、残念だけど……僕は君を愛せない。僕は君を救えるほどの人間じゃない」
「救う……ですって……?」
アドミニストレータの唇が、ふたたび、薄っすらとした笑みをかたちづくった。しかしそこにはもう、誘惑の甘さはひとしずくも存在しなかった。
「あらあら……困ったわね。道に迷った哀れな坊やに、気まぐれで一時の夢を見せてあげようとしただけなのに……」
己にまたがる少女が、みるみるうちに"人"から"神"へと変貌を遂げていくさまを、ユージオは懸命に恐怖を堪えながら見詰めた。外見的には変化はない――あくまで、華奢なか弱さと豊満な肉感が同居した、裸身の少女にすぎない。しかし、その透き通るような肌を底知れぬ威圧感、言うなれば神気のようなものが幾重にも覆っていく。指先ひとつ振るだけで、どのような剣士だろうと術者だろうとばらばらに引き千切られるだろうと思わせる、圧倒的な力の兆し。
「ユージオ……あなた、もしかして、私があなたを必要としている……なんて思っているのかしら? あなたと、あなたのちっぽけなお仲間に、私が思い乱されている……とでも……?」
最早、少女の薄い笑みに感情を読むことはできなかった。ユージオはただ、右手を固く握り締め、歯を食い縛って恐怖に耐えた。
「うふふ……あなたみたいなつまんない子は、もういらないわ。ついでにこの可哀想な記憶のカケラも、ね。両方リソースに戻して、何か気の利いた置物でも作ることにしましょう」
明らかに抑揚の薄くなった声でそう言い放つと、アドミニストレータは左手をユージオの首に掛け、右手のプリズムに強く爪を立てた。
その瞬間、ユージオは、かき集めた全身の力を右腕に込め、拳に握り込んだもの――胸元にぶら下がっていた赤銅の短剣型ペンダント――をアドミニストレータの胸の中央めがけて突き出した。
必中の間合いだった。
短剣の刀身部分はわずか五セン強しかないが、それでも自分の上にまたがる人物に届かぬわけはなかった。
しかし、ペンダントの針のような切っ先が、アドミニストレータの珠のごとき肌からほんの薄紙数枚ぶんの距離にまで迫ったとき――ユージオの想像を絶する現象が発生した。
ガガァン!! という、雷鳴にも似た衝撃音が轟き、同時に紫色の光の膜が短剣の先端を中心として同心円状に展開したのだ。その輝く波動が、ごく微細な神聖文字のつらなりで形作られていることをどうにか見て取ったその直後、まるで鋼鉄の厚板にぶち当たったが如き手応えがユージオの右腕を襲った。
「ぐ……うっ!!」
しかし、歯を食い縛り、ありったけの気力を振り絞って、ユージオはその巨大な反発力に抵抗した。カーディナルと名乗る不思議な幼子から与えられた最後の切り札を、アドミニストレータに対して行使できる唯一の機会が今であることがよく解っていたからだ。ユージオのペンダントはもともと、整合騎士アリスを捕縛するために携えていたものだが、同じものを持つキリトがそれを騎士ファナティオの救命のために使ってしまった今、そして手の届く距離にアドミニストレータが無防備な裸身を晒している今、断固として選択せねばならぬ行動はもはや明らかだった。先刻どうしても思い出せなかった、アリスを連れ戻すという個人的目的を上回る使命――つまりわずか十一歳の少女を拉致洗脳するような、そして罪無き下級貴族の息女をその身分差ゆえに陵辱せしむることを許すような、歪んだ支配構造そのものを打ち壊さねばならないという強い意志が、ユージオの右腕を動かした。
ただ一つの誤算は、アドミニストレータが裸形でありながら無防備ではなかったということだ。ユージオには術式の見当もつかない紫光の障壁はますます密に、まばゆく波動し、それを貫こうと抗う短剣の切っ先もまた、直視できないほどに白熱し輝いた。
「なっ……!?」
さしものアドミニストレータも驚いたのか、銀瞳を見開いて上体を仰け反らせた。だがユージオの体から腰を上げ身を退けるよりもほんの少し速く、バチィッ!! と千の火花が弾けるような音を放って、短剣の先端が障壁をわずかに抜けた。
しかし、鋭い針がアドミニストレータの心臓の真上の肌に触れ、そこをまさに貫かんとしたその瞬間、紫の障壁が数多の神聖文字の断片となって爆発し、ユージオと最高司祭双方の体を後方へと吹き飛ばした。
「うわっ……!!」
惜しくも目的を果たせず、まるで巨人の掌に薙ぎ払われたかのような勢いで後ろ向きに回転しながら宙を舞ったユージオだったが、しかしそれでも二つのことを同時にやってのけた。
まず、右手からすっ飛ぼうとしたペンダントを危く握りなおし、そして障壁の断片に混じって視界の端できらりと光った紫の煌めき――アドミニストレータの掌から跳ね飛んだ小さなプリズムを、左手で掴み取ったのだ。
直後、背中から床に叩きつけられ、なおもごろごろと後ろに転がるあいだも、ユージオは二つのものを懸命に腹に抱え、衝撃から守った。再びどかんという衝撃とともに硝子壁にぶち当たり、ぐはっと大量の空気を吐き出してから、ユージオはその場に無様に横臥した。
かたや、まったく同じ勢いで吹き飛ばされたはずのアドミニストレータの方は、尚も優雅さをまったく失わなかった。懸命に見開いたユージオの視界のかなたで、銀髪をほうき星の尾のように引きながら宙を滑ったアドミニストレータは、両手を広げるとふわりと音もなく空中の一点に静止した。長い髪が煌めきながら放射状に波打ち、ひと筋にまとまって、ゆるりと背中に垂れた。
少女は、すぐにはユージオを見なかった。一切の表情が消えた顔を俯かせ、己の豊かな双丘のあいだに視線を落としている。
カーディナルの短剣がわずかに触れたその箇所には、いまだに紫の火花がばちっ、ばちっと音を立てながら絡みついていた。しかし、少女の右手がすっとその上を撫でるとその現象も収まり、見た目には一切の痕跡も残らなかった。
アドミニストレータは、右手をそのまま持ち上げると額の銀髪をふわりと整え、まるで空中に透明な揺り椅子でもあるかのようにゆったりとした動作で腰を下ろすと、長い脚を組んだ。その姿勢のまますうっと音も無く空中を移動し、円形のベッドを横切ると、部屋の隅に倒れるユージオから十メルほどの位置にまで近づき停止した。
上体を起こし、指を組み合わせた両手をおとがいの下にあてがったアドミニストレータの視線が、わずかな冷気を伴って降り注ぐのをユージオは肌で感じた。動くことも、何を話すこともできぬうちに、少女の唇がほのかな笑みの形を作り、言葉を紡いだ。
「一切の武器を帯びていないことを確かめたはずなのに、と思ったら……図書室のちびっこの仕業ね、それは。私の知覚からフィルタするなんて、気の利いたマネができるようになったじゃないの」
くすくす、と喉の奥で猫のように笑う。
「でも残念でした。私だってただ寝てたわけじゃないのよ。そのおもちゃの剣をメタリック属性に置換したのはちびっこの失点ね。今の私の肌には、あらゆる金属オブジェクトは傷をつけられないの……例えそれが巨人の鉄槌だろうと、裁縫屋の待針だろうと」
なんてことだ、とユージオは内心でうめいた。
金属武器に対して不可侵、などということなら、もうこの赤銅の短剣を含むあらゆる剣による攻撃は無力ではないか。あとは、術式すら推測できぬその対金属障壁に対抗式で組み入り解除するか、遠距離での攻撃術をもって挑むよりない。しかし、世界最強の術者に剣士見習いの身で神聖術戦を仕掛けるなど、結果は火を見るよりも明らかだ。
ここは、思いがけない僥倖によってアリスの記憶だけは取り戻せたのだし、一時撤退の機をうかがうべきか。塔の内部に戻りつつあるはずのキリトと合流できれば、あるいは――。
しかし問題は、このアドミニストレータの寝室に、出入り口らしきものが一切見当たらないことだ。
周囲の壁はすべて仄青い夜空へと続く硝子板だし、それらを支える等身大の神像たちもとうていドアを隠せるほどの幅はない。調度と呼べるのは巨大な円形の寝台だけで、よもやあれが丸ごと動いたりするとは思えない。
とは言え、自分がこうしてこの場所に居るからには、どこかを通ってきたに違いないのだ、とユージオは尚も懸命に視線を走らせながら考えた。凍結した大浴場からユージオを運んできたのがあの元老チュデルキンという道化者だとすれば、やはり塔の階下からこの最上階にまで続く通路が絶対に存在するはずだ。
「うふふ……何を探してるのかしら?」
しかし、ユージオの眼が何かを見つけるよりも早く、アドミニストレータがひそやかな笑い声を含みながら空中をすっと二メルほど近づいてきた。じわり、と背中に冷たいものが走る。
「まだ何かしようだなんて、健気な坊や。ん……、やっぱり玩具にしちゃうのは勿体無いかしら? 面倒だけどシンセサイズ処理にかけたほうがいいかしらね? ねえ……坊やはどっちがいい……?」
くす、くす、と喉を鳴らして、中空に腰掛けた裸形の少女は、組んだ脚を揺らしながら少しずつ近づいてくる。
残念ながら、逃亡の機会は残されていないようだった。いや――たったひとつ、残された道があることはある。ありったけの力を背後の硝子板にぶつけ、叩き割るのだ。階下の分厚い石壁を素手で破壊するのは絶対に不可能だろうが、薄い硝子ならばあるいは砕き得るかもしれない。無論、その先は手掛かりひとつない虚空であり、飛び出したところで数百メル下の地面まで落下するしかないが、八十階で同じ目にあったキリトはどうにかして生き延びたはずとユージオは確信している。ならば、自分もまたここで、己が身体能力と万にひとつの僥倖に賭けるよりあるまい。
それに、少なくとも、左の掌をほんのりと暖める小さなかけらだけは――。
このアリスの記憶だけは、なんとしても二度とアドミニストレータの手中に戻させてはならないのだ。たとえ己はここで命を散らそうとも、整合騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻り、ルーリッドでの穏やかな暮らしの中に帰っていくという可能性だけは絶対に繋がなくては。
アドミニストレータとの距離は、すでに五メルを切ろうとしていた。彼女の超高速詠唱力を考えれば、残された猶予は一瞬のみ、そう覚悟を決めたユージオは、立ち上がろうと両足に力を込めた。
しかしその時、思いがけぬ音――声が、どこか下方から届き、緊迫した静寂を破った。
「開けっ、開けてっ、開けてくださぁぁぁぁい最高司祭様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
盆をフォークで引っ掻くようなその金切り声は、間違いなくあの道化――元老チュデルキンのものだった。
「おねっおねっお願いですようぅぅぅぅ助けてくださぁぁぁぁぁいっ!! 開けてぇぇぇぇぇぇっ!!」
その情けないわめき声を聞いたアドミニストレータが、いかにもうんざりしたような嫌悪感を眉間のあたりに滲ませ、ふううっと深いため息をついた。
「……何故あやつは、年経るにつれ幼な児めいてゆくのでしょう。そろそろリセットしないと駄目かしら」
そう呟いた最高司祭は、厭わしそうな表情ながらもぴたりと静止し、右手を離れた床の一点に向けて伸ばした。唇から一瞬の術式が紡がれ、人差し指がとんと振られると、思いがけぬ現象が起こった。絨毯の一部に描かれていた円模様が発光し、くるりと回転したと思ったら、そのまま螺子のようにせり上がりはじめたのだ。
あれが出口か!
――と目を見開き、ユージオはこの機に窓から脱出しようとしていた体の動きを危いところで止めた。
直径一メル半ほどの大理石の円筒は、くるくると滑らかに回転しつつ人の背丈を上回る高さにまで床から突出し、止まった。何らかの機械仕掛けなのか、あるいは術式の効果なのかは不明だが、その筒の側面に嵌め込まれた湾曲した扉を見れば、そこが唯一の出入り口であるのは明らかだった。
その扉の奥からは、なおも情けない悲鳴と、どんどんと叩くこもった音が響いていたが、アドミニストレータが上向けた指をくいっと引くと掛け金が外れたかのように急に開いた。
「ほおおおおおっ!!」
と、奇声を上げながら転がり出てきた真っ白で真ん丸い頭は、間違いなくあの元老チュデルキンのものだった。しかし――。
「……おまえ、その恰好は何なの?」
と冷ややかな声でアドミニストレータが呟いたのも無理はなかった。チュデルキンは、腰に悪趣味な赤青縞の下着を身に着けているだけという、とうてい最高支配者に謁見するに相応しいとは言えない姿だったのだ。
そして、その体つきがまたユージオを驚愕させた。記憶にある元老チュデルキンは、丸い頭を同じく真ん丸い体に乗せた雪人形のような体格だったはずだ。しかし今彼が晒している半裸の肉体は、棒のようにがりがりの胴から同じく枝めいた手足が伸びた、それでいて頭だけが巨大な真球という子供の落書きめいたものなのだ。
なら、あのぱんぱんに膨れた服のなかには何が入っていたんだ!? ――という疑問を口にする精神的余裕は無論ユージオには有りはしなかったが、しかし床にべたりと這いつくばったチュデルキンは、自らキイキイと弁解じみた台詞を喚きたてた。
「げっ、猊下にあらせられましてはこのような御見苦しい姿さぞ御不快でありましょうがこれは小生已む無く奥の手を使わざるを得ずっ!!」
そこでがばりと顔を上げたチュデルキンは、宙に腰掛けるアドミニストレータの裸身を見るや、上向きの三日月のような細い目をくわっと見開き直後に両手でばちんと顔を覆った。まるでそれが仕掛け釦ででもあったかのように、白い頭が一瞬にして真っ赤に湯気を上げる。
「ああっ!! ほおおおおおっ!! いけませんそんなっ、勿体無いっ、小生眼が潰れますっ、石になりますよおおおうっ!!」
勿体無い畏れ多いとまくし立てながらも、指の隙間は大きく開き、その奥からあからさまな視線をぎらぎらと輝かせるチュデルキンの様に、さしもの最高司祭も嫌悪感もあらわに左手で胸を覆った。一層の冷気を帯びた声で、道化の痴態を串刺しにする。
「今すぐに用向きを言わないとほんとうに石にするわよ」
「ほああっ! ほああああっ……あ…………あっ」
細長い体躯をねじりながら悶え声を上げていたチュデルキンは、それを聞いたとたんにピタリと動きを止めた。赤く熱していた頭部がすうっと白くなる。
直後、くるりと振り向いた元老は、蛙のような動きで跳ね上がると背後の円筒扉に飛びついた。ほひいいと悲鳴じみた声を上げながら両手で扉を押し、それが戸枠にぴたりと収まる寸前――。
内部の暗闇から稲妻のように伸びた黒衣の袖が、がしりと扉の縁を押さえた。
前後からの力に挟まれた扉が静止していた時間は、わずか一秒足らずだった。どかん、という明らかに内側から蹴り飛ばしたと思しき大音響とともに、弾かれるように再び開いた扉がしたたかにチュデルキンの顔を打った。
「ほぶうっ!!」
ひしゃげた悲鳴とともに吹き飛んだ元老は、その巨大な球形の頭部をごろごろとどこまでも回転させ、はるか離れたベッドの縁に半ば埋まるかたちでようやく停止した。
その有様を思わず最後まで見守ってしまってから、ユージオはハッと我に返り、もういちど円筒形の出入り口に視線を戻した。
扉の奥、灯りのまったくない暗闇からは、戸板を蹴り開けた恰好のまま黒いズボンに黒革ブーツの足が一本まっすぐに突き出していた。ユージオが唖然として見守るなか、その無遠慮な足がゆっくりと下ろされてゆき、高価な絨毯をずしりと踏みつけた。
続いてぬっと現れたのは、やけに毛先が尖った長めの黒髪。同じく黒いシャツに包まれた細身の上体はわずかに屈められ、右手はだらりと垂れ、左手はぐいとポケットに突っ込まれている。
暗がりから最後に引き抜いた右足で、もういちどどすんと床を踏み据え、そこで侵入者はようやく顔を上げた。
どこか中性的な線の細さと、その印象に倍する刃物のような剣呑さが同居した相貌が、ぐるりと広大な部屋を見回し、壁際に尻餅をつくユージオに視線を止めると、唇の端がぐいっと吊りあがってふてぶてしい笑みを形作った。
「よう」
短い台詞を放って寄越したその人物――二年半前、ルーリッド南の森に突如として現れ、ユージオを長い旅路にいざない、己の両脚のみでついにセントラル・カセドラルを最上階まで踏破してのけた唯一無二の相棒・キリトの姿は、幾多の激闘を経てなお倣岸なまでの剣気に包まれていて、それを見た途端ユージオの胸に名状しがたい熱がかーっと渦巻いた。
「……遅いぞ」
意識せぬままそう呟くと、キリトはもう一度へっと笑い、右手もポケットにぐいと突っ込んだ。
左右の腰に黒白二本の長剣をぶら下げ、腰を突き出し上体を引いた姿勢で屹立するキリトの姿に、さしものアドミニストレータも計りかねるものを感じたのか、無言のまま瞳を細めると空中をすうっとうしろに滑り距離を取った。
それを見て、ユージオも力の失せかけた両脚に活を入れなおし、背中を板硝子に預けてぐいっと立ち上がった。右手の短剣と左手のプリズムをそれぞれズボンの左右のポケットにそっと仕舞い、汗で濡れた掌をごしっと拭う。
キリトは、ちらりと鋭い視線をアドミニストレータに投げかけてから、右腰の白鞘の金具を鳴らしてベルトから外し、それをユージオに向けてひょいっと放ってきた。左手で受け止めると、懐かしい重みが掌に吸い付くように収まった。ふたたび手許に戻った愛刀・青薔薇の剣が、まるで再会を喜ぶように鞘の中でかすかにりぃんと刃鳴りするのを聞き、全身にさらなる活力が甦ってくる。
キリトのほうに移動しようと足を踏み出しかけたとき、相棒の背後の暗闇から、聞き覚えのある声がかすかに響いてきてユージオは軽く息を飲んだ。
「ちょっとお前、いつまでそんなとこで恰好つけているつもりですか」
「あ、ああ……ワリ」
キリトはちらりと背後を見てから、肩をすくめて一歩横に移動した。
かかっ、と金属の靴が石段を軽やかに叩く音に続いて、まばゆい純白と黄金の色彩がふわりと戸口から浮き上がり、重さを感じさせない動きで床に降り立った。ひるがえった長い金髪と白のロングスカートが、宙に優美な曲線を描いた。
それは、間違いなくアリス・シンセシス・フィフティ――カセドラル八十階でキリトを容易く追い詰め、しかし崩壊した壁の穴からともに虚空へと放り出された整合騎士の姿だった。
ユージオの全身の血流が、どくんと大きく波打った。なぜここに、それもキリトと一緒に!? という驚愕が指先までを震わせる。
確かに、数時間前ユージオは、キリトならば間違いなく己とアリスを落下から救って塔の内部に戻り、騎士アリスを殺さずに無力化するかあるいは説得して休戦に持ち込んでくれるに違いないと自分に言い聞かせた。
しかし実際にこうして、黒衣の反逆者と純白の守護騎士がぴたり並び立つ姿を眼にすると、とても信じがたいという思いのみが胸中に満ちる。
キリトが、とても友好的ではないと思われる人物の胸襟を開かせ、いつのまにか確たる信頼を得る様を見るのは決して初めてではない。そのたびに、自分にはできないことだという尊敬の念と、わずかばかりの羨望をユージオは感じてきたのだ。
しかし――あの、血液のかわりに教会への信仰のみが流れているとさえ思えた整合騎士アリスを、一体どうすれば説得しえたというのか。
見れば、アリスの右眼は黒い布で作った眼帯で幾重にも覆われ、その生地を提供したらしいキリトのシャツは左の裾が大きく千切り取られている。
ライオス・アンティノスを斬ったときに自分の右目を襲った痛みと奇妙な神聖文字をユージオは思い出し、もしかして同じことがアリスにも起こったのだろうかと考えたが、具体的に何があったのかを推測するすべがあるはずもなかった。キリト、一体君はアリスに何を言い、何をしたんだ!? という圧倒的な疑問が脳裡を圧し、ユージオは思わずぎゅっと両目を瞑った。
考えるな。今はそんなことを思い悩んでいるときじゃない。
あそこに立っているのは、ユージオの幼馴染アリス・ツーベルクではなく、その肉体でしかないのだ。アリスの心はいま、ポケットの中でひっそりと瞬いている。
大きく息を吸い、吐いて、ユージオは思考を無理矢理に切り替えた。今はともかく、最大最後の敵アドミニストレータとの戦いに意識を集中せねばならない。
ぐっ、と右足を意識して前に出し、そうするとようやく体が動いて、ユージオはキリトの隣へと歩を進めた。
近づくユージオを、キリトは力強い頷きで、そしてアリスは左目の短い一瞥で迎えた。
騎士の蒼い瞳には、ユージオを戦力として値踏みする冷徹さしか見出すことができず、ユージオはちくりとする痛みを感じながらすぐに視線を逸らせて部屋の中央へと向き直った。
最高司祭アドミニストレータは、新たなる二人の侵入者を、興趣と苛立ちが半ばずつ混じったような酷薄な微笑で睥睨していた。腰掛けた見えない寝椅子の高さを、更に一メルほどすうっと持ち上げる。
不意に、隣でキリトがぼそりと呟いた。
「なあ……あの人、何で裸なの? ユージオ、まさかお前……」
「なっ……何考えてんだ馬鹿! 何もないよ!」
ひそひそ声で軽口を叩き合うと、ようやくわだかまりが少しずつ溶け出し、ユージオは更に集中して最高司祭の挙動を凝視した。
二人のやり取りが聞こえたわけでもないだろうが、裸形の少女はくすりと笑みを浮かべると、胸を覆っていた両腕を大きく上に伸ばしてからしどけなく宙に寝そべった。
「あらあら……お客様が増えちゃった。チュデルキン、おまえ、あんな簡単な言いつけも守れなかったの? 連れてくるのは亜麻色の髪の坊や一人だけ、あのイレギュラーは適当に固めておきなさいって、私、言わなかったかしら?」
笑み混じりでありながら、真冬の山おろしのような凍気に包まれた声が響いたとたん、少女の下方でベッドの側面に埋まり込んでいたチュデルキンがずぼっと頭を引き抜いた。
「ほっ、ほひいっ! すっすみませえええん御免なさぁぁぁぁい猊下ぁぁぁぁっ!!」
きいきいじたばたと喚き立てた異形の道化男は、ようやく重心がおかしそうな体をまっすぐにすると、棒のような腕でびしっとアリスを指差した。
「こっ、これというのもあの糞インテグレータがぶっこわれて裏切りやがったせいなんですよおおおおうっ! あの下品な金ピカ騎士めが、こともあろうに小生に剣をぶっさしやがったんですよお! 無論、ピカピカ馬鹿の剣なんざアタシにかすり傷の一つもつけられやしませんけどねえええっ! ホオオオッ!!」
「……あやつだけは……」
めらっ、と炎が燃え上がるが如くアリスが呟いた。それに気付く様子もなく、チュデルキンはさらに金切り声を喚きたてた。
「も、も、もとっからあいつら……ベルクーリの薄らでかと副官の男女はイカレ気味だったんですよおっ! 連中の阿呆が五十番にも伝染ったに決まってますよおおおおっ!」
「ふむ。……おまえ、少し黙ってなさい」
アドミニストレータがそう囁いた途端、壊れた玩具のようにキイキイ飛び跳ねていたチュデルキンの動きがピタリと止まった。と思いきやそのまま、懲りずにまた脂ぎった両目を見開いて頭上の主君の姿を舐めまわすように凝視している。
もう道化の所業には一切の興味を無くしたように、アドミニストレータは銀の瞳をじっとアリスに向けると、もう一度ふうんと呟いた。
「一番と二番はそろそろリセットの頃合だったから不思議はないけど……アリスちゃんはまだそんなに使ってないわよねえ? 論理野にエラーが起こるには速いわ……てことは、やっぱりそこのイレギュラーユニットの影響なのかしらね? 面白いわね」
最高司祭が一体何を言っているのか、ユージオにはほとんど理解できなかった。それは前最高司祭というカーディナルの言葉も同様だったが、しかし、銀髪の少女がつぶやく台詞には何かしらぞっとするような――まるで、父や兄たちがその日に締める牛の話をしている時のような冷徹さがあった。
「ねえ、アリスちゃん。あなた、何か言いたいことがあるんでしょ? 怒らないから、ちょっと言ってご覧なさいな」
うふん、と艶っぽく笑うアドミニストレータの視線を受けた途端、アリスの黄金の鎧がかすかにカタタ、と鳴ったのにユージオは気付いた。
ちらりと視線を向けると、ユージオの位置から見えるアリスの横顔は半分が黒い眼帯に覆われていたものの、それでもあの無敵の整合騎士が身を強張らせ、立ちすくみ――深く恐怖しているのが如実に感じ取れた。
じり、じりっと、両のブーツがわずかに後ずさった。
しかしアリスはそこで踏みとどまり、ゆっくりと左手を持ち上げると、いつの間にか篭手がなくなっているその指先でそっと右眼の眼帯に触れた。まるでその粗末な布切れから何かの力を得たかのように、後ろのめりになっていた体がぐっと前に押し出された。
かっ。
毛足の長い絨毯の上なのに、鋭く澄み切った足音が響き、騎士アリスは一歩前に出た。さらに一歩。もう一歩。
そこで立ち止まった整合騎士は、最高支配者に対してひざまずくかわりに、昂然と胸を張り、凛とした口上を響かせた。
「我らが栄光ある整合騎士団は、本日潰滅いたしました! 半分は、この二名の不遜な反逆者の剣によって……そしてもう半分は、最高司祭様、あなたの執着と愚かさによって!!」
おお、言う言う。
――と俺は、口中に満ちる鋭利な戦慄の味を無理矢理飲み下しながら呟いた。
ついに対面叶ったアンダーワールドの絶対支配者にして最長命のフラクトライト、最高司祭アドミニストレータの姿は、ここがサーバの中の仮想世界であり、彼女が人工的媒体に保存されたAIであるという俺の認識を、机上の砂文字ででもあるかのように一瞬で吹き散らしてしまう圧倒的なオーラに満ちみちていた。
いや、その優美な銀髪と銀瞳を眼にするずっと以前、元老チュデルキンの部屋の奥に隠されていた螺旋階段を駆け上がっているその時点でもう、俺の肌は冷たい恐怖の予感に粟立っていたのだ。
階段の天辺に開いた小さなドアからチュデルキンが逃げ出し、そこから漏れる光が消え去る寸前にどうにか再度蹴り開けることに成功したものの、俺は続く一歩を踏み出すのに、文字通り全身から気力を掻き集めねばならなかった。
なぜならドアの先の、蒼い月灯りと白い蝋燭の光に満ちた広大な空間には、かつてアインクラッドで踏み込んだどのボス部屋よりも明確な"死の予感"がひんやりと凝集していたからだ。
生身の俺、つまり上級修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人が、このアンダーワールド内で現実的に死ぬ筈がない。
俺はこれまで、その認識を――世界を"仮"へと変え、眼と判断を曇らせかねない認識を脳裡から拭い落とそうと一度ならず努力してきた。
しかし、最高司祭アドミニストレータを名乗る恐るべき美貌の少女には、俺に死以上の悲惨な運命を与え得る力があるのだと、俺はこの部屋に踏み込み彼女の瞳を見たとたん今更ながら気付いた。
そう、カーディナルが確かに言っていたではないか――アドミニストレータは禁忌目録には拘束されないが、それでも幼少の頃に与えられた禁忌の概念により、殺人を犯すことだけはできないと。そしてその制限こそが、俺に"HPがゼロになりこの世界からログアウトする"という結末を遥か上回る責め苦、たとえば、あの人間性を破壊された元老たちとまったく同じ境遇を、数年……数十年、ことによると魂が擦り切れて精神的に死ぬまで強いるという、現実世界ですら有り得ないほどの苦痛を与えかねないのだ。
仮に、俺たち三人ともに剣折れ血に塗れて倒れたとき、アドミニストレータはアリスとユージオのフラクトライトを操作し整合騎士へと作りかえるだろう。
しかし、生体脳とSTLを用いてこの世界にダイブしている俺の魂にはそのような操作は出来ない。
そして、たとえ俺が剣と誇りのすべてを差し出し恭順を誓っても、あの少女はそんな裏づけのない服従など決して信じない。
となれば、俺のメンタルに現れた異常にラースのスタッフが気付きダイブを停止するまで、この時間が恐るべき倍率で加速された世界において、いったいどれほどの年月が流れるのだろうか。
――とは言え、そのような、様々な事情を知るが故の俺の恐怖は、アリスやユージオのそれを上回るだろうなどと思ったわけでは勿論ない。
とくに、魂の深奥に"絶対服従キー"を埋め込まれている整合騎士アリスが、己の絶対支配者から与えられているであろうプレッシャーの巨大さは想像を絶する。恐らく、二本の足で立っているというそれだけで、ありったけの精神力を振り絞っているのだろう。両の拳が体の横で固く握り締められ、とくに篭手のない左手は真っ白に血の気を失って痛々しいほどだ。
それでも、アリスはあくまでしっかりと胸を張り、凛と響く声で騎士の口上を続けた。
「我が使命は、神聖教会の、そして最高司祭様の為政の護持に非ず!! 剣なき幾千万の民びとの幸なる営みと安らかな眠りの守護こそが我と我が騎士団の使命なり!!」
アリスの黄金の髪が、まるでその信念を映したかのごとくわずかに輝きを増し、俺は目を細めた。高く澄んだ声が曙光のように、部屋中にたゆたう淫靡な気配を切り裂き、押しのけた。
しかし、離れた空中に浮遊する支配者は、アリスの口上を微風ほどにも感じた様子もなく、なお一層興がるように真珠色の唇の笑みを深くした。
代わりに、真っ赤になって跳ね上がったのは、見た目の嵩が半分以下になってしまった元老チュデルキンだった。
「だっ、だぁっ、黙らっしゃぁぁぁぁぁいッ!!」
俺とアリスの前から神聖術ならぬ忍術によって遁走した道化男は、アドミニストレータの超魔力の圏内に逃げ込んで安心したか、あるいは主君の裸身をたっぷり眺めて気力充填でもしたのか、機敏な動作でベッドに飛び上がり、びしっと両手の人差し指をアリスに突きつけた。
「この半壊れの騎士人形風情がぁっ! 使命!? 守護!? 笑わせますねえホォ――ッホッホッホッホォ――――ッ!!」
甲高く笑いながら縞パンツ一丁の体をぐるりと一回転させ、今度は両腕を胸で組み棒じみた右足の指先でアリスを指す。
「お前ら騎士など!! 所詮アタシの命令どおりに動くしかない木偶の集まりなのですよッ!! この足を舐めろと言われたら舐め、踏み台になれと言われたらなるッ!! それがお前ら整合騎士のありがたぁぁぁぁい使命なんですよぉぉぉぉッ!!」
そこまで言ったところで、巨大な頭の重みに堪えかねたか、チュデルキンはぐぐっと体を後ろに傾かせたが危いところでびよんと飛び上がり、腕を組んだまま仁王立ちになった。
「だいたいですねェ! 騎士団が潰滅とかちゃんちゃらおかしいことをゆってましたねオマエ!! やられたかぶっ壊れたのは、もともとおかしかった一番二番とその他十人、いや十駒程度じゃないですかッ! つまりこちらにはあと四十も駒が残ってるんですよォ! オマエ一人がガタガタぬかしたところで教会の支配はぴくりとも揺るぎゃァしねェんですよこの金ピカ!!」
皮肉にも、道化の安っぽい悪罵はアリスの恐怖を薄れさせたようだった。冷静さを取り戻したようにアリスは両の拳をほどき、その手をがしゃりと腰の装甲に当てた。
「馬鹿はお前です、この毒風船。その丸い頭にも、脳味噌ではなく臭い煙が詰まっているのですか?」
「なッ……なぁぁぁッ!!」
ただでさえ赤くなっていた頭を、さらにどす黒く染めたチュデルキンが何かを喚く前に、アリスが氷のような声音を放った。
「残る騎士四十名のうち、十名は"再調整"、つまり汚らわしき術による記憶の操作中で動けません。そして三十名は、今も飛竜に打ち跨り、果ての山脈の上で戦っております。彼らを呼び戻すことなど出来はしない、なぜなら彼らがいなくなった途端、南北西の地下道そして東の大門は闇の軍勢に破られ、お前の言う教会の支配なぞ一瞬にして崩れ去るからです」
「ぐッ……むぐぐッ……」
紫色になった顔の眉と目尻と口もとを上げ下げするチュデルキンに向けて、アリスは尚も刃のような言葉を続けた。
「いえ、もうすでに崩れかけている。彼らも飛竜も、永遠に戦えるわけではない。しかしカセドラルにはもはや交替要員は残されておりません。それともお前がダークテリトリーに赴き、剛勇を誇る暗黒騎士たちと一戦交えますか?」
この指摘には、チュデルキンだけでなくアリスの背後の俺もぐさりと来るものを感じずにはいられなかった。塔内に詰めていた騎士たちを病院送りにしてしまった件はほとんど俺とユージオに責任があるからだ。
しかし、俺が視線を下向けるよりも早く、チュデルキンの頭の内圧が限界を超えた。
「ムッホォォォォォォ!! こっ、こっ、小賢しいぃぃぃぃぃぃッ!! それで一本取ったつもりですか小娘ぇぇぇぇぇッ!!」
ほとんど蒸気のように大量の息を鼻から噴き出し、道化はじたばたと地団駄を踏んだ。
「無礼ぇぇぇぇぇをぶっこいた罰として!! お前は再調整が済んだら最低三年は外地送りだぁぁぁぁッ!! いや、その前にアタシのオモチャとしてたっぷり色んなことをしたりさせたりしてやるぅぅぅぅッ!!」
続けて、アリスにしたりさせたりする予定の行為を際限なくキイキイキイと喚き立てるチュデルキンの下卑た台詞をぴたりと停止させたのは、上空のアドミニストレータが発した短いひとことだった。
「……ふぅーん」
最高司祭は、笑みを口の端に浮かべたまま、細い首を小さく傾けた。
「単純に論理野のエラーってだけでもなさそうね。服従キーはまだ機能している……となると、あの者が施した"コード871"を自発的意思で解除したのかしら……? 感情ではなく……?」
何だ――何を言っているのだ。『あの者』? 『コードハチナナイチ』?
アドミニストレータの言葉を解釈できず、俺は眉をしかめた。
しかし銀髪の少女は、それ以上の情報を与えることなく、ゆっくりと右手で髪をかきあげながら結論めかした口調で言い放った。
「ま、これ以上は構造解析してみないと、かな。……さて、チュデルキン。私は寛大だから、下がりきったおまえへの評価を挽回する機会をあげるわよ。あの三人、おまえの術で凍結させてみせなさい」
言い終わると同時に、くるりと伸ばした右手の人差し指を軽く一振り。
途端、部屋の中央に鎮座していた天蓋つきの円形ベッドが、重い響きとともに回転を始めて、俺は思わず目を見張った。
直径十メートルはありそうなその代物は、まるでそれ全体が巨大な螺子の頭ででもあるかのように滑らかに床の中へと沈降していく。シーツの上でふんぞり返っていた元老チュデルキンが、ほひいっと悲鳴を上げて危いところで転がり落ちる。
わずか数秒で、黄金の支柱も薄紫のベールもすっぽりと床下へと収納され、最後に残った天蓋がくるくるぴたりと床面にはまり込むと、もうそこにあるのは絨毯に描かれた巨大な円模様だけだった。
ふと思いついて視線を動かすと、俺とアリスがくぐってきた円筒形の入り口も、それと床の境目には似たような模様が描かれているのが見えた。さてはこの部屋は、床から色々なものが伸びたり沈んだりする仕掛けがあるのか――と考えて更に周囲を見回したが、同様の模様はあとひとつだけ、小さなものがずっと離れた壁際にあるだけだった。そこから何が出てくるのかは、今は推測する手立てもない。
ベッドが無くなった最上階は、今までにも増して広大に見えた。
それはそうだ、セントラル・カセドラルの一フロアをまるまる占有しているのだから。さすがに、四角形の中層部と比べると、円形になっているこの最上層エリアの面積はずいぶんと小さいようだが、それでも部屋の直径は五十メートルを下回ることはないだろう。
円弧を描く壁面はすべて曇りひとつない硝子製で、それらを等身大の神像が柱となって繋いでいる。少しばかり意外なのは、それらが皆猛々しい戦神だということだ。像たちは例外なく大小さまざまな剣を携え、まるでこれから始まる戦いの審判者ででもあるかのように、瞳なき眼で俺たちを見守っている。
更に視線を上向けると、えらく高い天井にも沢山の神々の細密画が描かれている。しかし奇妙なことに、中央にかなり大きな、そして少し離れた場所には小さ目の、不自然な空白部がある。
――ともかく、このアドミニストレータの寝室は、遮蔽物なし・面積たっぷりの接近戦には甚だ不向きなフィールドだということだ。瞬時の観察でそう判断した俺は、敵の術式詠唱が始まる前に突っ込むべきか、と考えじりっと右足に力を込めた。
しかし、実際の動作に入るよりも早く、アリスがごくかすかな声で肩越しに囁いた。
「不用意な突進は危険です。最高司祭様には、手で触れさえすれば瞬時の詠唱でこちらを無力化する術がいくらでもある。チュデルキンに先に仕掛けさせるのは、それを狙っているからに違いありません」
「そういえば……」
これまで隣で沈黙していたユージオが、まだどこかアリスに気後れしているかのように、控えめな声で割って入った。
「あの元老は、ベルクーリさんに"ディープ・フリーズ"術を掛けるとき、わざわざ乗っかっ……いや、直接触れていたよ」
「なるほど、"対象接触の原則"か」
俺も頷きながら呟いた。間接的攻撃術、つまり火炎や稲妻による攻撃以外で敵に大きな影響を与えようとする場合は、ほぼ必ず手なり体の一部で触れる必要がある。学院の初等練士でも知っている、神聖術の基本ルールだ。
つまり、ベルクーリと同じ整合騎士のアリスも、チュデルキンらに直接触れられさえしなければ、あの恐るべき石化術を掛けられる心配はないということになる。しかしそれは同時に、こちらも剣の間合いまで接近できなくなるということでもある。となればやはり、状況は圧倒的に不利だ。遠距離での術の撃ち合いは敵のもっとも望むところだろう。
道化者といえどもそれくらいは理解しているのか、ベッドから転げ落ちたまま床上で逆さになりコマのように回転していたチュデルキンは、両手をひろげてその運動を停止させると、おどけた掛け声とともに立ち上がった。
「ホホウッ!!」
びよん、とバネ仕掛けのように正立すると、チュデルキンは頭上の支配者に対して、右手を胸にあて左手を背後に伸ばすという芝居がかった礼をした。
「……あのような糞虫三匹、猊下にあらせられましては小指一本でぶっちりぶちぶち潰せますものを、わざわざ小生にその悦びを御下賜くださるとは欣快の極み! 小生泣けます! 泣けますですぞぉぉぉぉ!! おくっ、おくくくく……」
そして言葉どおり、巨大なまなこから粘液質の涙をねとりぼとりと落とす様には、どうにも唖然とするしかない。
アドミニストレータもまた、相手をするのにそろそろ疲れたのか、そっけない一言とともに更に数メートル宙を退いた。
「……ま、適当にやって」
「ははぁっ! 小生死力を尽くしてご期待に応えますぞぉぉぉぉぉッ!」
そこにスイッチでもあるのか、チュデルキンが右手の指でこめかみを押すとキュッと涙も止まり、異躯の道化は打って変わって陰険な目つきで俺たちを睨んだ。
「さぁてさてさて……テメェらはそうそう楽にゴメンナサイさせやしねえんですよう。ひぃひぃ泣いて這いつくばる前に、ど汚ェ天命を最低八割はちっくりちくちく削ってやるから覚悟しなさいよぅ?」
「……お前のたわ言はもう聞き飽きました。先に言ったとおり、その小汚い舌を根元から切り飛ばしてあげますから、かかってきなさい」
舌戦でも一歩も退かずにそう言い返したアリスは、ゆっくりと右手で左腰の剣の柄を握ると、ぐいっとスタンスを広げた。
はるか二十メートル彼方のチュデルキンもまた、両腕を胸の前で交差させるという奇妙なポーズを取った。
「ンンンンンもぉ許しませんよぉぉぉぉッ!! そんなに私のかぐわしいベロが欲しければ、たっぷり舐めまわしてやりますよッ!! お前をカッチンコチコチ凍らせた後でねえッ!! ほァァッ!!」
びよーん。
と飛び上がったチュデルキンは――何を考えているのか、空中で逆さ向きになり、どすんと巨大な頭で床に着地した。
「…………」
これには俺もユージオも絶句する。たしかにあの、どでかい頭に棒の体ではさかさまになったほうがよほど安定はするだろうが、自ら動けなくなってどうするつもりなのか。
しかし当のチュデルキンは、至って大真面目な顔――さかさまになると、上向きの三日月マナコが下向きになって怖さは倍増だ――でびしっと両手両足を広げると、金切り声で起句を絶叫した。
「システムッ……コォォォォ――ル!!」
それに対応して、アリスがしゃらっと音高く抜刀する。どうしていいのかわからぬまま、俺とユージオもそれに倣う。
「ジェネレイットォォォォォ……クライオゼニック! エレメントゥァ!!」
やけに巻き舌の発音で、チュデルキンが冷素召喚の術式を繋げた。
遠隔型攻撃術の威力・規模は、最初に発生する素因の数でかなりの部分まで予測できる。離れた場所に呼び出される光点を見逃すまいと、俺は目を眇めた。
ぱぁん!! と派手な音をさせて逆向きチュデルキンの両手が打ち鳴らされ、ばっと広げられる。両の手の指先に、バシバシッと凍結音を放ちながら生み出された青い冷素――その数、十。
「くそっ、多い」
俺は毒づき、対抗すべく熱素を呼び出す態勢に入った。とは言え、俺が同時にジェネレートできる素因の数は最大でも五個だ。これはユージオも大差ない。つまり、二人で同時にカウンターせねば間に合わない。――という意味をこめて、一瞬ちらりと右の相棒に視線を送る。
しかし、ユージオがそれに頷き返してくるよりも早く――。
ばしぃん!! という音がさらに響き、俺はハッと視線を戻した。
それは、逆立ちしたチュデルキンの両足もまた器用に打ち合わされた音だった。続いて、Y字型にまっすぐ伸ばされた両足の五指それぞれの前にも、霜が伸びるような響きとともに十個の冷素が召喚された。隣で、ユージオが掠れた声で呟いた言葉に、俺もまったく同感だった。
「うそ……だろ……」
合計二十の青い光点にびっしり取り囲まれたチュデルキンは、さかさまの口で巨大な笑いを作った。
「おほっ、オホホホホ……ビビってますねェ、チビリあがってますねェェ? このアタシを、そこらの木偶騎士どもと一緒にしてもらっちゃ困るんですよぅ」
アンダーワールドにおける神聖術――つまり魔法は、半分が音声によるコマンド、そしてもう半分は術者によるイメージによって制御される。例えば、治癒術を使う場合は、癒したい対象の者への敵意が心のなかにあると効果が激減するし、逆に真摯な献身の念をそそぐことで術者のレベル以上の効果が生み出されもする。
そして、それは素因を操る攻撃術も例外ではない。
具体的には、生み出したエレメントの変形や発射に、術者の意識と直結したイマジネーションの回路が必ず必要なのだ。ではどうやってその回路を作るかというと、これは指を使うのである。一本の指に一つのエレメントが繋がっているイメージを常に保持しながら指先を動かすことで、術式全体を制御するのだ。
つまりそれはイコール、どんな高位の術者でもふつうは同時に十個までのエレメントしか操れないということになる。その制限を突破し、足の指にまでもイメージ回路を作ろうと思えば、アドミニストレータのように超々高位術によって宙を飛ぶか(そもそもこの世界には飛行コマンドは用意されていない)――逆立ちの姿勢を維持するしかないということになる。道化の元老チュデルキンのように。
「オホホホォ…………」
甲高い笑い声に続けて、変成コマンドを詠唱したチュデルキンは、立ち尽くす俺たちに向かってまず右腕をびしっと振りぬいた。
「ホォォォォォアッ!!」
シュゴッ!!
と突風のような音を立てて、空中に発生した五本の巨大なつららが冷たく煌めきながら迫った。続けて、左腕からも更に五本。
回避しようにも、扇形に広がりながら飛んでくる氷の槍衾に死角などなさそうだった。撃ち落せるか!? と迷いつつも腹をくくったその時、吹き付けてくる冷気を力強い叫びが切り裂いた。
「散・花・流・転!!」
しゃらああああっ!!
と、千の鈴が打ち鳴らされる音とともに、横なぎに振りぬかれたアリスの金木犀の剣が、その切っ先から無数の黄金の花びらとなって舞い散った。