「どっ……こい……すああああ!」
形振りかまわない掛け声とともに、両腕による懸垂で体を持ち上げた俺は、そのまま前のめりに頭から水平な床に突っ伏した。
限界を越えて酷使した全身の関節や筋肉が、まるで巨人の手で捻り上げられているかのようにみしみしと痛む。大粒の汗が額から首筋から幾筋も滴り落ちるが、拭う気力などあるはずもなくただひたすら荒い呼吸を繰り返す。この世界が、俺の脳に与えられた量子的情報なのだという大前提がどうにも信じられなくなりそうなほどのすさまじい疲労感だ。
およそ二時間にわたる壁面登攀のすえ、ついに辿り着いたセントラル・カセドラル九十五階"暁星の望楼"であるが、フロアの地形や敵の有無を確かめる余裕すらなく、俺は電池の切れたおもちゃのように四肢を投げ出し、天命の自然回復を待った。
たかが八フロアぶんの壁を登るのにこれほどの時間と体力を消耗してしまったのは、ひとえに、今俺の背中に乗っかり細い鎖でしっかりと固定されている整合騎士様の存在ゆえだ。
数時間前、ついにユージオと同等の精神的ブレイクスルーに到達し、謎のシステムアラート、外部のラーススタッフの誰かによって施されたと思しき心理拘束を打ち砕いた騎士アリスではあるが、その代償はやはり大きかった。
碧玉の如き右眼は跡形も無く吹っ飛び、そのショックによりアリスは気を失ってしまったのだ。
人工的記憶媒体であるライトキューブ中に魂を保持されたアンダーワールド人は、俺たち現実世界の生身の人間のように、脳に加えられた外部的衝撃によって失神するということはない。例えば、アンダーワールド内で高所から落下して頭を打っても、タンコブができ天命は減少し痛みに涙を滲ませはするが、昏倒だけはしないのだ。
しかしそのかわりに、彼らは心理的ショックには比較的脆弱な傾向がある。余りにも大きな悲しみ、恐怖、あるいは怒り等を感じると(犯罪が存在しないこの世界ゆえ、それら負の感情が発生することは非常に稀であるが)、おそらくは致命的エラーからフラクトライトのコア部分を守るために、ある程度の時間心神喪失状態に陥ってしまうのである。一例を挙げれば、思い出すも辛いことだが、上級修剣士ライオス・アンティノスらによって陵辱されるという恐怖と苦痛を味わったティーゼとロニエは一時間ちかく気を失っていたし、加害者であるライオスのほうは、ユージオに殺されるという恐怖を処理しきれずに魂を崩壊させてしまった。
アリスもまた、深い心理的ショックによりフラクトライトに被ったダメージを緩和、修復するために失神したのだろうと、俺はいささか慌てたすえに推測した。もしそのダメージが致命的なものであれば、ライオスのように一瞬で天命がゼロになり、ユニットとして消去処分されていたはずだからだ。
そう考えれば、同様のショックに見舞われたはずのユージオが、意識を失うことなく直後にライオスを斬ってのけたその精神力はやはり驚嘆すべきものだ。事件がひと段落し、懲罰房に放り込まれたあとはさすがに放心していたが、それでも思考が混乱したりする様子は無かった。
アンダーワールド人の精神的脆弱性と命令に対する絶対服従性、それに例のシステム・アラート封印にどのような関連があるのかはまったく謎だが、少なくともそれらを克服することは不可能ではない。それをユージオとアリスは身をもって証明している。やはり、長い時間はかかるだろうが、全アンダーワールド人が俺たち人間と対等の知的存在して現実世界で生きていける可能性は確実に存在するのだ……。
――などということを考えつつ、俺は八十七階のテラスでアリスの回復を待っていたのだが、一時間経っても騎士様は眼を覚ましてくれなかった。右目の傷には俺の天命を使って血止めは施したが、完全に治癒させるにはとうてい時間もリソースも足りない。月はとうに高く昇り、空間リソースの供給は開始されていたが、それはすべて登攀用のハーケン生成に使わなくてはならなかった。せめてものことに、俺のシャツの裾を千切って作った即席の包帯だけは巻いておいてから、俺は腹を括り、アリスを背負って塔を登ることにしたのだ。
互いの体を繋いでいた黄金の細鎖をはずして、アリスの細いが死ぬほど重い体を背中に乗せたときは、よっぽどその重量の大半を占めるブレストプレートと金木犀の剣を置いていこうかと考えたものだ。しかし、アリスがアドミニストレータと戦う決意をしてくれたからには、これはもう二度とは得難い貴重な戦力であり、その武装を捨てるのは愚策以外の何ものでもない。
もう一度覚悟を決めなおし、背負った体を鎖でしっかりと固定してから、俺は夜空に溶け込む塔の最上部目指して絶壁を登りはじめたのだった。
二時間に及んだ地獄の道行きの果てに、ついに前方の壁面に開口部が見えてきたときは、つい気が遠くなってハーケンひとつぶん滑り落ちてしまったりもした。命綱がない状況で、もし完全に落下してしまったら、八十七階まで逆戻りかヘタをしたらはるか地上で二つの小さな染みになっていたところだ。
ともあれ、こうして目標地点までの八フロアぶんを――塔外に放り出された時点から数えれば十五フロアぶんの距離を登りきったからには、まるでしかばねのように返事もせず地面に転がるくらいのことは許されるだろう。どうせ、前方のフロア内には少なくとも誰かが居るような気配はない。
と考えながら俺はただひたすら目を閉じ水平面に寝転がる快楽に耽っていたのだが、それを妨げたのは、背中の上で発生したもぞもぞする動きと声だった。
「う……ううん……」
小さな息遣いとともに、俺の首筋にこそばゆい空気の流れが当たる。
「……ここは……私は……どう……」
という呟きとともに、アリスが起き上がろうとした気配があったが、すぐにぐるぐる巻きになった鎖がちゃりっと張り詰め、いったん離れた重みがふたたびどさっと背中に戻ってきた。
「な……何これ……え……? お前、キリト……? 私を……背負って……?」
そのとおり、少しは感謝してくれよ。と胸中で一人ごちたのも束の間。
「えっ、ちょっと、やだ! お前、汗でびちょびちょじゃないですか! 嫌っ、私の服に! 離れて! 離れなさい!」
悲鳴とともに、後頭部をごちんとどつかれ、俺は額をしたたか硬い石床にぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
急かされつつ鎖を解き、背中の荷物を下ろした俺は、巨大な円柱にもたれかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺の献身的重労働など一顧だにする様子もなく、顔をしかめて白い衣装のあちこちをパタパタと払っている。その手を止めたと思ったら、背負われている間じゅう俺の首筋に密着していた肩口のふくらんだ袖部分をつまみ、くんくんと匂いを嗅いで鼻筋に皺を寄せたりしているのを見れば、俺も余計な憎まれ口を叩かずにおれない。
「そんなに気になるなら風呂でも入ってくればどうっすか」
潔癖症のアリスへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首をかしげて検討する素振りなので、慌てて付け加えた。
「いや、冗談だよ! これからまた中層に降りるなんて冗談じゃないぞ」
「いえ、そこまで行かずとも、ほんの五階下に大浴場があるにはあるのですが」
「なぬ……」
今度は俺のほうがぐらりとくる。牢を破ってからの激闘につぐ激闘と、先刻の壁のぼりで埃まみれ汗まみれの服と体をさっぱり洗えるというのは正直魅力的な話ではあった。
座ったまま首を回し、フロアの様子をあらためて確認する。
九十五層・暁星の望楼は、その名のとおり巨大な展望台として造成された場所らしかった。正四角形のフロアは全周がそのまま空へ開放されており、約三メートル間隔で立つ円柱だけが上層の天井を支えている。この素通し構造を見れば、アドミニストレータがまさかの侵入者に備えて少し下方の壁に衛兵を配置したのもなるほどと頷ける。
俺たちが居る最外周部は、フロアをぐるりと取り巻く通路になっていて、その各所から内側に向けて短い上り階段が設けられていた。すこし高くなったフロア内部には、均等に並ぶ華麗な彫刻やら、見たことのない花をつけた小型の樹に囲まれるように、大理石のテーブルと椅子が置かれている。こんな真夜中ではなく昼間にあの椅子に座れば、さぞかし四方に広がるアンダーワールド全体を見下ろす絶景が楽しめることだろう。今更ではあるが、現在はどのテーブルにも人っ子一人いない。
そして、俺から見てフロアの右端と左端に、それぞれ上りと下りの大階段が次のフロアへと繋がっているのが見えた。
問題は、ユージオがすでにこの九十五層を通過しているかどうか、ということだ。
彼と分断されたのが八十階、普通に考えれば、四苦八苦して外壁をよじ登ってきた俺と、内部の階段を登るだけのユージオでは、むこうのほうが遥かに早くここまで辿り着けたはずだ。しかし問題は、俺たちが戦ったドローン以上の強敵――恐らくは整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人がユージオの前に立ちはだかったであろうということだ。俺と互いに死の際まで踏み込む激闘を演じたファナティオより、そしてそもそも相手にすらさせてもらえなかったアリスより強いという、伝説上の英雄。
無論ユージオも強い。剣技だけを取るならあるいはすでに俺を超えたかもしれない。しかし、もはや超人というべき上位整合騎士には剣の腕だけでは勝てない。相手の裏を衝き、周囲の状況すべてを利用した、ある意味では卑怯とすら言うべき戦術が必要となる。真面目一本のユージオにそれが出来ただろうか……。
悩む俺に、同じく左右の階段を見回したアリスが、ぽつりと声を掛けてきた。
「これはもちろん、お風呂とは関係なしに言うのですが……お前の、あのユージオという名の仲間は、まだここまで登ってきていないのではないでしょうか」
「え? どうして?」
「何故なら、この層が唯一、カセドラルの外部に放り出された私達が再び中に戻り得る場所だからです。それは見ればわかることですし……つまり、もし先にここに到達していれば、彼はお前をここで待っているはずでしょう」
「……なるほど、そりゃ理屈だな……」
俺はあごを撫でながら頷いた。言われてみれば尤もな話であり、もしユージオがここを先に通過したとすれば、それは彼が捕縛されたか、意識を失っていたか、あるいは――亡骸になっていたか、の三通りしかないのだ。先の推測とは矛盾するが、そう容易く捕まったり殺されたりするユージオではない、と信じたい。
「それに、ユージオが……」
自分でも自覚はしていないだろうが、するりと彼の名を呼び捨てで口にしたアリスが、俯きながら呟いた。
「……雲上庭園から大階段を登ったとすれば、このような最上部まで達する以前に、最強の相手と遭遇したはずです。小父様……騎士長ベルクーリと」
オジサマ、という呼称はさておいて、俺はある種の興味に促されて尋ねた。
「やっぱり強いのか? 騎士長様っつうお方は」
するとアリスは、ふっと小さく微笑み、頷いた。
「私も勝てません。となれば、私に負けたお前や、お前と同等の腕であろうユージオも勝てぬ道理」
「……道理だけどさ、そりゃ。でも、俺があんたに負けたかどうかは……」
ぶちぶちと口にした俺の負け惜しみを聞き流し、黄金の騎士は続ける。
「小父様は……あの人の持つ神器・時穿剣は、その銘のとおり時間を斬るのです。具体的には、小父様の斬った空間はその斬撃の威力をおよそ十分間保持する、と言えばわかるでしょうか……目に見えない必殺の刃が、対する者の周囲を取り巻いてしまうようなものです。動けばそれに触れて手足、へたをすれば首が落ちますし、さりとて動かねば実体たる剣の一撃で絶息は必至。小父様と戦う者は、あの人の一撃必殺の"型"を、木偶のように受けるしかないのです」
「む……むう……」
言葉で聞いただけではイメージは難しいが、要は斬撃の持つ時間的座標を前方に引き延ばすということだろうか。一見地味ではあるが、しかし確かにこれは恐るべき力だ。俺やユージオの操る連続剣技の、一撃の威力をスポイルしてでも攻撃の効果範囲を広げるという本質を、あっさりと無効化してしまうからだ。
そんな敵と対峙して、はたしてユージオはどうなっただろうか。彼が死ぬわけはない、と確信しつつも、嫌な予感が拭いがたく背中を這い登ってくる。
やはり階下へ向かい、彼を捜すべきか。しかしもし、すでに彼が拘束され、階上……おそらくは"シンセサイズの秘儀"が行われるのであろうアドミニストレータの本丸へ連れ去られていたら? この上ユージオが最新の整合騎士にでもされてしまったら、もう望みは九割断たれたも同然だ。
ようやく疲労感の薄れてきた手足に力を込め、俺はよろりと立ち上がった。再び左右の大階段を睨み、唇を噛む。
神聖術の中には、人の居場所を捜すためのものもあるが、他人を直接、術式の対象に指定することが許されない(もしそれが可能なら、相手のステイシアの窓に記されたユニットIDさえわかれば、直接相手の天命を消し飛ばすような恐ろしい術さえ組み得る)この世界では、探したい人が常に身につけているオブジェクトのIDをサーチ対象の代用とすることになる。学院にいるときは、俺はユージオの制服についていた銀の校章のIDを用いていたのだが、あれは放校の憂き目にあったときに没収されてしまったし……。
いや、待った。
「そうか、なんだ、そうじゃん」
ついそう呟いた俺は、訝しそうな顔を見せるアリスに小さく笑ってみせてから、右手を掲げて大声で唱えた。
「システム・コール!」
右手が紫の燐光に包まれるまで待ち、俺がハーケン生成に使いまくった空間リソースがまだ残されているのを確認してから、続く式を口にする。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:0131!」
何事も憶えておくものだ。俺が指定したのは、無論ユージオの愛剣、青薔薇の剣のIDである。
伸ばした人差し指の先端から糸のように放たれた紫の光線は、するすると伸び――足元の石床に突き刺さった。
「下だな」
「下ですね」
なるほど、という顔でこちらを見たアリスと頷き交わす。指を振って術式を解除すると、俺はその右手を何度か握り締め、体力がある程度回復しているのを確かめた。ついで、再びアリスに視線を向ける。
「大丈夫か? 動けるか……?」
騎士は軽く唇を噛み、元は俺のシャツだった黒い眼帯に覆われた右眼をそっと押さえた。
「この包帯は……お前が?」
「ああ……血は止めたけど、もっと綺麗な布に取り替えたほうがいいかもしれない」
「いえ、このままで構いません」
ぽつりと呟き、アリスは残された碧い左眼でまっすぐ俺を見た。
「痛みはもうほとんど無いですが……やはり、視界がかなり制限されますね。戦闘に影響が出るのは避けられそうもありません」
「何、右は俺がカバーするさ。じゃあ……悪いけど急ぐぞ。さっきの光線のかんじだと、四、五階は下みたいだからな」
「わかりました。私が先に立ちましょう、道をよく知っていますから……と言っても、階段をただ降りるだけですが」
そう宣言すると、アリスは俺に口を差し挟むひまも与えず、ブーツの鋲でかっかっと大理石を鳴らしながら小走りに進み始めた。俺も慌ててその後を追う。
道路からにょきりと飛び出す地下鉄の出入り口を華美壮麗にしたような造りの下り大階段は、薄暗がりからひんやりとした空気を吹き上げてくるのみで、何者かの気配は微塵もなかった。下層ですら人間の生活感は限りなく微かだったセントラル・カセドラルだが、この最上部に至っては、まるである種の建築美術、もしくは廃墟にも似た寒々しさを濃く漂わせている。とうてい、全アンダーワールドを統治する為政の府の中枢とは思えない。
これまでに得た情報では、神聖教会の上層部には、整合騎士団のほかに元老院なる機関があるはずだったが、こんなほとんど天辺まで登ってきてもそいつらの気配すらしないというのはどういうことだろうか。
先に階段を駆け下り始めたアリスの右横に追いつき、俺は小声でその疑問を口にしてみた。するとアリスは軽く眉をしかめ、同じくささやき声を返してきた。
「実のところ……私達、管制騎士という座にある整合騎士の指揮官にすら、元老たちの全貌については知らされていないのです。九十六層から九十九層までが元老院と呼ばれる区画なのですが、騎士や修道士の立ち入りは禁止されていますし……」
「ふむ……。そもそも、元老っつう連中の仕事は一体何なの?」
「禁忌目録」
アリスはぽつりと、どこか危険物に触れるかのような慎重さの漂う声でつぶやいた。
「禁忌目録が、この世界を完璧に維持……あるいは停滞させ続けているかどうかの監視と、必要があらば各条項の更新を行う、それが元老の仕事です。そして、目録の条項だけでは対処しきれない事態が生じた場合は、整合騎士団に命じて事態の収拾に当たらせる。私に、八十階でお前達を迎撃させたのも元老院の指令です」
「なるほどな……つまり、元老院は最高司祭の仕事のほとんどを代行してるってわけだ。しかし、よくアドミニストレータがそんな権限を与えたもんだな。それとも、元老たちも整合騎士と同じように行動制御キーを埋め込まれてんのかな」
俺の言葉を聞いたアリスは、嫌な顔をして指先で額をなぞった。
「その話は止めてください。私の中にもまだそのなんとかキーがあると思うと不安になります」
「君はもう大丈夫だと思うよ……最高司祭が埋め込んだ制御キーよりも深いレベルの、言わば神の束縛を打ち破ったわけだし……」
「……だといいのですが」
指先を、額から右目の眼帯にそっと移動させるアリスの様子を横目で見ながら、俺は先の一幕を思い出していた。
あれほどの動揺に翻弄されながらも、アリスの額に埋め込まれた制御キーが不安定になることはついになかった。俺は、アドミニストレータがアリスから奪った記憶のピースは、恐らくユージオかシルカとの思い出なのだろうと予想していたのだが、ユージオとは二度も直接相対しているし、シルカの名前を聞いたときも涙を見せこそすれ額から例の三角柱が脱け出したりはしなかったのだ。
となると、今現在アドミニストレータの手許にあるはずのアリスの記憶ピースの中身とは、一体何なのか。
無論、"逆シンセサイズ"によって騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻れば分かることである。であるのだが、しかし……。
再び、胸の奥に疼くような二律背反を感じながらも、俺はアリスに並んで機械的に足を動かした。しんと静まり返った深夜の大階段に、二つの足音だけが硬く響く。
高い天窓から、踊り場のじゅうたんに降り注ぐ蒼い月光を五度踏むと、目の前に巨大な扉が立ち塞がった。ここまで、階段や壁の滑らかな石材に、戦闘の痕跡らしきものは小さな傷ひとつとて目にしていない。
隣で足を止めたアリスに、俺は短く、ここが? と尋ねた。
「ええ……。この先が大浴場です。よもやこのような場所を迎撃地点に選んだりはしないと……思うのですが……あの人のすることは……」
眉をしかめ、語尾を小さく飲み込みながら、アリスは右手を揚げて右側の扉に当てた。軽く力を入れただけで、巨大な無垢材の一枚板が音も無く奥に滑る。
途端、濃密な靄が白いかたまりとなって押し寄せてきて、俺は思わず顔を逸らせた。
「うわ……すごい湯気だな。どんだけデカい風呂なんだよ、奥がまるで見えないぞ」
そんな場合では無論ないが、泳いだらさぞかし気持ちいいだろうなあ、などと思いつつ一歩、二歩、内部に踏み込む。その時になって俺はようやく、全身を包んでいる白い靄が、熱湯から立ち上った蒸気なのではなく――極低温の凍気であることに気付いた。
堪えようもなく、二度、三度と盛大なくしゃみを連発する。そのせいではないだろうが、直後、目の前の白いベールがすうっと左右に分かれた。露わになった"大浴場"の全景は、俺を心底から驚愕させるに充分以上の代物だった。
途方もなく広い。カセドラルのワンフロアぶち抜きで作ってあるのだろう、突き当たりの壁が霞むほどの面積のほぼ全体が、それこそ巨大プールとでも言うべきサイズの浴槽になっている。俺が立つ場所から真っ直ぐ前に広い通路が一本、中央でそれと交差する通路が一本あり浴槽は四分割されているのだが、そのひとつが俺の学校――修剣学院ではなく現実世界の高校――の二十五メートルプールより明らかに大きい。
しかし、真に驚愕すべきは、その巨大風呂桶になみなみと湛えられていたのであろう湯が、今はすべて真っ白に凍り付いていることだった。
周囲の壁に設えられた、獣の頭部を模したレリーフから流れ落ちる滝までもが湾曲した氷の柱と化しており、この凍結が瞬時に行われたことを示している。当然、自然現象ではなく大規模な神聖術が荒れ狂った結果と見るべきだろう。
しかし、この容積の湯を一瞬で氷結させるとは只事ではない。氷素を用いた通常の凍結術ならば、高位の術者が最低でも十……いや二十人は必要だ。だが――おそらく、この氷の世界を現出させたのは……。
俺は左前方に数歩進み、階段状になっている浴槽の縁を降りると、氷の表面に立った。腰をかがめて足元にたなびく靄に手を突っ込み、そこに頭を出していた小さな氷の突起物を折り取る。顔の前まで持ってきたそれは、予想どおり、青く透き通った花弁を幾重にも開いた氷の薔薇だった。
「……ユージオ」
呟いた俺の隣に、しゃり、と音をさせてアリスも降り立った。驚きに左眼を見開きながら、掠れた声で囁く。
「なんという……。これを引き起こしたのは、お前の仲間の……?」
「ああ、間違いないだろう。ユージオの"青薔薇の剣"の完全支配術だ。まあ、俺も正直……これほどの威力とは思ってなかったけどな……」
今更ながら、俺は長年苦楽を共にした相棒の戦闘能力に舌を巻く思いだった。ユージオは自分の武装完全支配術を、足止めのためのものだなどと言っていたがとんでもない。この氷の地獄に捕らえられれば、それだけで天命が全て消し飛びかねない。
これならば、あいつは本当に伝説の騎士ベルクーリを退けたのかも――と思いながら、俺は懸命に目をすがめ、四方の靄を見通そうとした。青薔薇の剣をサーチした光線は確かにこの大浴場を示したのだし、その近くに彼も居るはずだ。
と、その時、隣でアリスが小さくあっ……と言いながら右手で前方を指差した。
「…………!」
俺も鋭く息を吸い込んだ。確かに、二十メートルほど先の氷結面に、こんもりと突き出したシルエットが見えた。間違いなく、人の肩から頭にかけてのラインだ。
アリスと同時に駆け出し、足元にびっしり咲いた氷薔薇をかしゃかしゃ蹴散らしながら人影へと向かう。しかし、半分ほど距離を詰めたとき、俺は氷に埋まった人物が明らかにユージオではないことに気付いた。肩幅も、首回りも、ユージオの倍はあろうかという逞しさだ。
落胆と警戒心によって速度が落ちた俺とは逆に、アリスは一声細く叫んで残りの距離を疾駆し始めた。
「小父様……!」
引き止める間もなく、凍結したシルエットの傍へと駆け寄っていく。
あれがベルクーリ!? ならばユージオは何処に行ったんだ……!?
混乱しながらも、俺は左右に視線を走らせつつアリスを追った。数秒後に追いついたときには、アリスはもう氷に埋まった巨漢の隣にひざまずき、胸の前で両手を組んで、悲鳴のような声で何度も呼ばわっていた。
「小父様……! 騎士長様……! なぜ、このようなお姿に……!?」
どこか奇妙なその言葉の理由は、俺にもすぐ解った。
分厚い氷に胸元まで埋まり込んだ威丈夫は、しかし、ただ凍りついているわけではなかった。隆々と筋肉が盛り上がった肩も、丸太のような首も、そしてそこに乗る、無骨だが、研ぎ澄まされた名刀のように鋭い相貌も――すべてが、濃褐色の石へと変じていたのだ。遠い昔に現実世界で観た大河シリーズもののSF映画、あの二作目で敵に捕らえられた宇宙船の船長が、ちょうどこのような質感のレリーフに変えられていたことを、俺は頭の片隅で思い出していた。
「……これは……ユージオの術じゃない」
しわがれた声でそう呟いた俺に、背を向けてひざまずいたままのアリスが小さく頷いた。
「……ええ、そうでしょう……小父様に聞いたことがあります、元老たちは、整合騎士に……"再調整"なる処理を施すため、石に変じせしむる術式を用いる権限を与えられていると……確か、"ディープ・フリーズ"、そんな名でした」
「ディープ……フリーズ。なら、このおっさん……いや、ベルクーリにその術を掛けたのは元老の一人なのか……しかし何故? 今や、元老院……ひいてはアドミニストレータに残された貴重な戦力だろうに」
「……小父様は、確かに元老院の指令には密かな疑念をお持ちのようでした。しかし……私と同じように、教会の存在なくして人界の平和は有り得ないと信じ、これまで永劫の日々を戦ってこられたのです。"再調整"がいかなるものなのか知りませんが、このような……このような仕打ちを受ける謂れはありません! 断じて!!」
俯き、そう叫んだアリスの膝元の氷に、頬を伝った涙がぽたりぽたりと滴った。それを拭うことなくアリスは両手を伸ばし、石に変じた英雄の肩に縋りついた。宙に散った涙の滴が、騎士長の額に当たり、弾けた。
その時だった。
びしり! という鋭い音が、俺の耳朶を打った。
はっと身を引いたアリスが、一瞬前まで手を乗せていたベルクーリの首筋に、一本の深い亀裂が入ったのに俺は気付いた。裂け目は見る間に数を増し、細かい石の欠片がぴしぴしと割れ飛ぶ。
硬質の石像が、無数のひび割れを作りながらも徐々に、徐々に首の角度を変えていくさまを、俺たちは呆然と見守った。
数秒かけて顔を仰向かせた騎士長は、今度は顔の眉間と口の両側にびしりと亀裂を刻んだ。ぽろぽろと鋭い欠片がこぼれ落ち、周囲の氷に飛び散っていく。
ディープ・フリーズという名前からして、そのコマンドは、このアンダー・ワールドにおける人間の体の活動を最高優先順位で完全停止させるものと思われた。現実世界で、例えば体に石膏を塗りたくられるのとは訳が違う。システム的に――つまりは神の命令によってあらゆる動作を禁止されているのだ。それを、この男は、意思の力のみで打ち破ろうというのか。
「小父様……やめて、もうやめて! 体が……壊れてしまうわ、小父様!!」
アリスが涙混じりの声で叫んだ。しかしベルクーリは神への反逆を一瞬たりとも止めることなく、ついに一際大きな、ばきっという破砕音とともに両の瞼を持ち上げた。露わになった両の眼は、皮膚と同じく石の色だったが、その視線に込められた意思の力を俺はまざまざと感じた。
ぽろぽろと欠片を振り撒きながら、口もとにニヤリと太い笑みが形作られ、同時にごくごく微かな、しかし力強い声が流れた。
「よ……よう、嬢ちゃん。泣くんじゃねえよ……び、美人が、台無しだぜ」
「小父様……!!」
「し……心配すんな、この程度で、オレがくたばるわきゃねえ……だろう。それより……」
ベルクーリは一瞬言葉を止め、すぐ眼の前で両膝をつくアリスの顔を見上げると、石の貌にまるで父親のような慈愛に満ちた笑みをうっすらと浮かべた。
「そうか……嬢ちゃん、ついに……壁を、破ったんだ……な。このオレが……三百年かけて……破れなかった、右目の……封印を……」
「お、小父様……私……私は……」
「そんな顔……すんじゃねえ……。オレは……嬉しいんだ、ぜ……。これで、もう……オレが、嬢ちゃんに、教えることは……何も無え……」
「そんなこと……そんなことありません!! 小父様には、もっと、もっと、教わりたいことが、た、沢山、たくさん……!!」
アリスは、子供のように泣きじゃくる声を隠そうともせず、再び騎士長の首を両腕でかき抱いた。ベルクーリも、もう一度優しい微笑みを浮かべ、アリスの耳に囁きかけた。
「嬢ちゃんなら、できるさ……教会の……過ちを正し、この歪んだ世界を、あるべき形へ……導く……ことが……」
その声が、急速に力を失いつつあることに、俺は気付いた。騎士長のフラクトライトから生み出される驚異的な意思力も、今や枯渇する寸前なのだと思われた。
光を失い、鈍い石に戻りつつあるベルクーリの眼が、僅かに動き、まっすぐに俺を見た。もう動かない唇から、おそらく最後の言葉が流れ出た。
「おい、小僧……アリス嬢ちゃんを……頼んだ……ぞ」
「……ああ、任せておけ」
頷いた俺に向かって、古の英雄は、ぴしりとひび割れを増やして頷き返して見せた。
「お前の……相棒、は……元老、チュデルキンが……連れていった……恐らく……最高司祭様の、居室へ……急げ……あの坊やが、記憶の迷路に……惑わされる前に…………」
その一言を最後に、騎士長ベルクーリは完全に動きを止めた。無数の亀裂だらけになったその彫像から声が発せられることは、二度と無かった。
「……小父様……」
騎士長の肩に縋りついたままのアリスが細く絞り出す悲痛な声を聴きながら、俺は、いまの言葉の意味を懸命に考えた。
元老チュデルキンなる人物が、ベルクーリに"ディープ・フリーズ"コマンドを施し、ユージオを連れ去ったということか。視線を動かすと、胸まで氷結したベルクーリのすぐ前方に、まるで氷を電動鋸で切断したかのような真四角の滑らかな穴が、浴槽の底まですっぽりと深く開いているのが見えた。
ユージオは、おそらく騎士長と相打ちになるのを覚悟で互いの身体を凍結させたのだろう。そこに闖入した元老が、これ幸いとユージオを氷ごと切り出し、上層に運んだのだ。ただ、その届け先が、"シンセサイズ"のための儀式の間ではなく、アドミニストレータの居室とはどういうことか。それに、記憶の迷路という言葉の意味は……。
これ以上は、考えても詮無いことだ。確かなのは、ユージオが現在敵首魁の手の内に落ちているという事実だけなのだから。彼のことだ、容易く洗脳されたりはするまいが、フラクトライトに直接アクセスする力を持つというアドミニストレータがどのような手段を弄するかは俺にも想像がつかない。
さらに視線をめぐらせると、四角い穴のすぐ横に、刀身を半ば以上氷に埋めた青薔薇の剣がひっそりと置き去りになっていた。そして、その隣に無造作に投げ出された白革の鞘。
もはやある意味ではユージオの分身ですらある美しい神器が、細いつららをいくつもぶら下げた姿で打ち棄てられている光景は、俺に名状しがたい漠然とした不安感をもたらした。
数歩移動し、腰をかがめて青薔薇の剣の柄を握る。凄まじい冷気が無数の針となって掌を突き刺すが、構わず全身の力を込める。
剣は数秒間、まるでその場に根付いてしまったかのように微動だにしなかったが、やがてぴしりという鋭い音とともに氷に罅が入り、同時に青銀色の刀身がわずかに抜け出た。亀裂が一つ増えるごとに、少しずつ、少しずつ剣はその姿を露わにし、半分を過ぎたところで鈴の音のような響きを放って一気に氷から解き放たれた。
直後、両膝があまりの負荷に抗議するように軋み、俺は思わず短くうめいた。左腰の黒い剣だけでもすでに鉄球をぶら下げているほどの重みがあるというのに、それと同等の重量がある青薔薇の剣を持ち上げたのだから当然のことではあるが。
つい、これは無理かという思考が頭の片隅を過ぎるが、すぐに思い直す。ユージオを最高司祭の手から救出し、彼に剣を返すのはどう考えても俺の役目だろう。幸い、この世界では、少なくともただ運ぶぶんにはシステム的重量制限などというものはない。
腰を屈め、白い鞘も拾い上げると、俺は左腕の袖で抜き身に付着した氷片をぬぐってからそっと納剣した。少し考えてから、それを剣帯の右側に吊るす。そうしてみると、なんとか動き回れるくらいには重みに収まりがつき、ほっと息をつきながら両腰の剣の柄に左右の手を乗せた。
顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていたアリスと視線が合った。赤くなった左目の縁を指先で擦っていた少女騎士は、照れ隠しのようにぱちぱちと瞬きし、ややぶっきらぼうな口調で言った。
「……剣を二本装備するような酔狂者は、ただ恰好をつけたいだけの貴族だの皇族と相場が決まっていますが……なんだかお前は妙に様になっていますね」
「ん? そうかな……」
思わず苦笑し、肩をすくめる。確かにSAO時代は、二本のロングソードがソロプレイヤーとしての俺の拠り所となっていたのは事実であるが、しかし当時は他人にそうと知られるのを恐れて二本目の剣をほぼ常に隠していたせいだろうか、いまだに居心地の悪さを感じずにはいられない。
いや――もしかしたらそれだけではなく、"二刀流"キリト、というあまりにも救世の勇者として一人歩きしてしまった名前を、俺はどこかで恐れ……あるいは嫌悪しているのかもしれないが。あんな役回りだけは、誰になんと言われようともう二度とご免だ。
「……だからって、二本を同時に操るのはとても無理だよ」
首を振りながらそう言った俺に、アリスもさもありなんというふうに頷いた。
「同時に複数の神器の"記憶解放"を行うのが不可能だということはすでに実証されていますからね。その一事を取っても、二剣装備に意味が無いことは明らかです。それより……その剣の持ち主、お前の相棒はやはりすでに最高司祭様の手中に捕われてしまったようですね。……急いだほうがいい、あの方のする事は、私にも予想できませんから……」
「……会ったことがあるのか? アドミニストレータと」
「一度だけ」
俺の問いに、アリスは口もとを引き締めると、短く首肯した。
「もうずっと昔……整合騎士として目覚めた私は、まず己の"召喚主"でありこの世界における神の代理人であるという最高司祭様と謁見させられました。見た目には、とてもなよやかな……剣はおろか、羽ペンの一本すらも握ったことのなさそうな美しい方なのですが、でも……あの眼」
篭手のない右手で、左腕の肌をそっと包む。
「あらゆる光を吸い込み、渦巻かせる銀色の瞳……そう、今なら解ります。あの時、私は、あの方を深く懼れた……。決して逆らってはならない、御言葉の一片たりとも疑ってはならず、忠誠の全てを捧げて仕えねばならないと私に思わせたのは、圧倒的な恐怖……だったのでしょうね、恐らく」
「アリス……」
俺はかすかな危惧とともに、青白い顔を俯かせる整合騎士を見詰めた。
しかしアリスは、そんな俺の内心を察知したかのように、大きく深呼吸すると視線を上げて頷いた。
「大丈夫です。私はもう決めたのです。北空の下のどこかにいる妹のために……まだ見ぬ家族、そして多くの無辜の民のために、正しいと信じたことを行うと。――小父様は、我らに施された右目の封印のことをご存知だった。ということはつまり、全整合騎士を束ねるベルクーリ・シンセシス・ワンにして、神聖教会の絶対支配を決して盲目的に善しとはしておられなかったということです。この階まで降りてきたのは、お前の相棒を助けるという点では無駄足でしたが、でも小父様と会えてよかった……これでもう、私の心は決して揺らぐことはありません」
アリスは腰を屈め、伸ばした手でさっと石化したベルクーリの頬を撫でた。しかしその動作も一瞬のことで、くるりと身を翻した騎士は、力強い足取りで氷上をもときた方へと歩きはじめた。
「さあ、急ぎましょう。ことによると、最高司祭様とまみえる前に、元老どもと一戦交える必要があるかもしれませんから」
「お……おい、騎士長はあのままにしておいていいのか?」
慌てて小走りでその横に並びながら、俺は尋ねた。すると、騎士アリスは、蒼い左目にちかりと凄愴な光を浮かべ、こともなげに言った。
「元老チュデルキンを吊るし上げて術を解除させるか……あるいは斬り捨てればそれで済むことです」
この少女をもう一度敵に回すのだけは絶対にご免だな、と、二本の剣の重みを堪えて走りつつ俺は考えた。
恐ろしく細い腰のまわりに、紫の薄物がまるであでやかな花のようにふわりと広がり落ちるのを、ユージオは阻害された意識のなかでぼんやりと見詰めた。
まさに花、それも、強烈な芳香と滴る蜜で虫たちを惑わせ捕らえる、魔性の大輪だ。そんなふうに感じる部分はまだユージオの中に残っていたが、しかし、紫の花弁の中央に儚げにたたずむ真っ白い花芯――アドミニストレータの一糸纏わぬ上体から放たれる誘引力はあまりにも強烈で、先刻の幻に千々に乱されたユージオの思考を、粘性の液体のなかにどっぷりと引き込んでいくかのようだった。
あなたは、本当に満ち足りたと思えるほど誰かに愛されたことがない。
アドミニストレータはそう言った。そしてそれが、一面では確かな事実であると、ユージオは徐々に認めはじめていた。
ユージオ自身は幼少のころ嘘偽り無く、母を、家族を、友人たちを愛した。彼らの幸せが自分の幸せだと思い、自分が摘んできた花で母が笑い、獲ってきた魚を兄や父たちが旨そうに食べるのを幸福感とともに見た。ユージオに色々な意地悪をしたジンクやその仲間たちだって、たとえば彼らが熱を出したりしたときは苦労して薬草を集めて届けたりしたのだ。
でも、その人たちはあなたに何をしてくれたの? あなたの愛の見返りに、どんなものをくれたのかしら?
そう……それを思い出せない。
再び、目の前のアドミニストレータの微笑がぐにゃりと歪み、過去の場景が甦ってくる。
あれは十歳になった年の春……村の中央広場で、大勢の子供といっしょに、村長から生涯の天職を告げられた日のことだ。緊張するユージオを、台上からちらりと見下ろし、ガスフト村長が与えたのは"ギガスシダーの刻み手"という思いがけないものだった。
それでも、一部の子供からは羨望の声がちらほらと上がった。刻み手は村にたったひとりの稀少な天職だし、剣ではないにせよ本物の斧が与えられるのだ。ユージオ自身も、その時は決して不満には思わなかった。
赤リボンで丸めた羊皮紙の任命証を握り締め、村はずれの家まで駆け戻って、ユージオは上気した顔で、自分の帰りを待っていた家族に天職を告げた。
しばしの沈黙のあと、最初に反応したのは下の兄だった。彼はチッと短く舌打ちすると、牛の糞掃除は今日で終わりだと思ってたのに、と毒づいた。ついで上の兄が、これで今年の作付けの計画が狂ったな、と父に言い、父も唸るように、その仕事は何時に終わるんだ、帰ってから畑は手伝えるのか、とユージオに訊いた。男たちの不機嫌を恐れるように、母は一言もなく台所に消えた。
以来八年間、ユージオは家のなかでは常に肩身が狭かった。それなのに、ユージオが稼いでくる決して少なくはない賃金は父親の財布に消え、気付くと羊が増えていたり、農具が新品になっていたりした。ジンクらは稼いだ金をほとんど全て自分で使えて、昼飯には肉をたっぷり挟んだ白パンのサンドイッチを買い、新品のなめし革の短衣やら剣帯やらを毎月のようにユージオに自慢していたのに。そんな友人たちの前を、ユージオは擦り切れた靴で歩き、麻袋には干からびた売れ残りのパンしか入っていなかったのに。
ほら、ね?
あなたが愛した人たちは、一度でもあなたのために何かをしてくれたことがあった? それどころか、彼らは、あなたの惨めさを喜び、嘲笑いさえしたでしょう?
そう……そのとおりだ。
十一の夏にアリスが整合騎士に連れ去られてから二年ほど経った頃、ジンクはユージオに言ったのだ。村長の娘が居なくなっちまったら、もうお前が落とせる女は村にいねえよなあ。おい、俺はよう、こないだ雑貨屋のビリナとよ……。
あの時、ジンクの眼はあきらかに、いい気味だ、と言っていた。村でいちばん可愛くて、神聖術の天才のアリスと誰よりも仲が良かったユージオが、その特権を失って喜んでいた。
結局、ルーリッドの人々は誰ひとり、ユージオの気持ちに報いてはくれなかったのだ。差し出したものと等価の見返りを得る権利がユージオにはあったのに、それは不当に奪われていた。
なら、あなたのその惨めさや口惜しさを彼らに返したっていいじゃない? そうしたいでしょう? 気持ちいいでしょうね……整合騎士になって、銀の飛竜にまたがって、故郷の村に凱旋したら。あなたを嘲った愚か者を全員地面に這いつくばらせて、その頭をぴかぴかのブーツで押さえ付けてやったら。そうしてやってようやく、あなたはこれまで奪われたものを取り立てられるのよ。それだけじゃないわ……。
すぐ眼前の銀髪の美少女は、それまで自分の胸を覆っていた両の腕を、焦らすかのようにゆっくり、ゆっくりと外した。支えを失ったふたつの豊かな膨らみが、熟れきった果実のように重そうに弾んだ。
アドミニストレータは両腕をまっすぐユージオに伸ばし、蕩けるような微笑を浮かべて囁いた。
「あなたは初めて、愛される歓びを心ゆくまで味わうことができるのよ。頭のてっぺんから爪先までが痺れるような、本物の満足を。私は、あなたから奪うだけだった連中とは違うわ。あなたが私を愛してくれたら、それとまったく等価の愛を返してあげる。深く愛してくれればくれるほど、あなたがこれまで想像もしなかったような、究極の快楽に誘ってあげるのよ」
ユージオの思考力はすでに、最後の一滴までもが魔性の花びらに吸い尽くされようとしていた。しかしそれでも、心の深奥に残された最後の領域で、彼はささやかに抵抗した。
愛っていうのは……そういうものなのかな?
お金と同じように……価値で購う、それだけのものなのかな?
違いますよ、ユージオ先輩!
と、どこかで叫ぶ声がして、そちらに視線を向けると、灰色の制服に身を包んだ赤毛の少女が、幾重にも垂れ下がる黒い布の隙間から懸命に手を伸ばしているのが見えた。
しかしユージオがその手を取るまえに、少女の足元の泥沼のような闇から、生白い肌をした長身の男がずぶずぶと湧き出て、少女に絡みついた。男の紅い唇がきゅうっと裂け、粘つくような笑いを含んだ声が発せられた。――これはもう貴君のものではないよ。
赤毛の少女は、悲しそうな瞳の色だけを残して再び闇に消えた。すると今度は、別の方向からまたユージオに囁く声がした。
違うわ、ユージオ。愛は決して、何かの見返りに得られるものじゃないのよ。
振り向くと、暗闇のなかにぽっかりと開けた緑の草原に、青いドレスを着た金髪の少女がたたずんでいた。少女の蒼い瞳が、この底無しの沼から脱せられる唯一の窓であるかのように眩く煌めき、ユージオは懸命に萎えた脚に鞭打ってそちらに這い進もうとした。
しかしまたしても、少女の隣に人影が現れ、ユージオに向けられていた小さな手を握った。その黒髪の少年は、ゆっくりと首を振りながら言った。――悪いなユージオ。これは俺のなんだ。
直後、緑の野原もまた粘つく闇に没した。光を見失い、ユージオは途方に暮れてうずくまった。胸中に溢れ、渦を巻くような渇きは、最早耐えがたかった。自分は子供のころから不当に虐げられ、搾取され、与えられるべきものを誰かに奪われつづけてきたのだと考えると、惨めさと口惜しさが濃い塩水となって喉を焦がした。
ついに、彼はゆっくり、ゆっくりと四肢を動かし、にじり寄りはじめた。とめどなく滴る、甘い蜜の泉へと。
ふかふかの絹のシーツをかき分け、伸ばした指先に触れたアドミニストレータの脚は、ベッドに詰められた最高級の羽毛など問題にならぬほど滑らかに柔らかく、その感触だけでユージオの全身を痺れるような衝撃が貫いた。
餓えと渇きに急かされるように、ユージオはすがりついた脚を遡った。両手で掴めそうなほど細い腰、絶妙な曲線でいざなう腹部を夢中で通り過ぎる。
曇り、光を失った瞳を上げたユージオの顔を、二つの膨らみがふわりと包んだ。頭の後ろに華奢な腕が回され、ぎゅっと強く引き寄せた。しっとりと吸い付くような、ひんやりとした肌に、ユージオはたちまち飲み込まれた。
すぐ耳もとで、くすくすと笑う声がした。
「欲しいのね、ユージオ? 何もかも忘れて、貪り尽くしたいんでしょ? でも、まだだめよ。言ったでしょう、まず私に愛をくれなくちゃね。さあ……私の後に続いて言うのよ。心の底から私だけを想い、信じ、全てを捧げると念じながらね。いいかしら? ……まず神聖術の起句を」
ユージオにはもう、自分を包み込む途方も無い柔らかさだけが現実の全てだった。これが愛の本質であると信じ込むに充分すぎるほどに、彼を捕らえた蜜はとろりと甘すぎた。
自分の口が勝手にうごき、掠れた声が漏れるのを、自分とは無関係の事柄であるかのように彼は聞いた。
「システム……コール」
「そうよ……つづけて……"リリース・コア・プロテクション"」
はじめて、アドミニストレータの声が、ある種の感情――期待と歓喜――の存在を示して、ごくわずかに震えた。
ふたたび五フロアぶんの階段を、こんどは重力に逆らって駆け抜けた俺とアリスは、『暁星の望楼』の上り階段前まで到達して足を止めた。
新たに加わった右腰の剣の重みのせいで荒い息を繰り返す俺に対して、装備の重量という点ではこちらと大差ないはずの重装騎士様の顔はどこまでも涼しげだ。冷気すら感じさせる雪白の肌と紺碧の瞳に、確たる決意を浮かべて階段の上部を睨みつけている。
「……息を整えながらでいいから聞きなさい。元老たちは、武器による近接戦闘能力は一般民並みですが、神聖術の行使権限ならば我々整合騎士より高位にあるはずです。神聖力の供給源となる各種媒質や霊杖を携え、ほぼ無限に遠隔攻撃術を放ってくるでしょう」
「そういう……相手には、不意打ちからの……接近戦と、相場が決まってる……な」
情けなく喘ぎながら口を挟んだ俺に、アリスはこくりと頷いた。
「気取られずに接近できればそれに越したことはありませんが、そう都合よくも行かないでしょう。その場合は、金木犀の剣の"流散花"で攻撃術を防ぎますから、お前が突入するのです」
「……俺がフォワードか」
SAOやALOでは、遠隔タイプの敵がどうにも苦手だったことを思い出しつつ浮かない顔をすると、アリスがぴくりと片方の眉を持ち上げて得意の皮肉を放った。
「私は構いませんよ、一人で攻めと護りの両方やっても。ただその場合は、お前は物陰からおとなしく見ていることになりますが」
「わかったよ、やるよ、やりますよ」
確かに俺の黒いやつは、現在天命の回復中で記憶解放が行えるか心許ない。それに出来ることなら対アドミニストレータ戦まで温存しておきたいのが正直なところだ。そもそも、ギガスシダーの過去の姿を召喚するだけというシンプル極まりないあの必殺技は、状況をひっくり返す破壊力はあれども、アリスの剣の分離攻撃のような応用力に乏しい。
「気が向けば後ろから回復術のひとつも掛けてやります。存分に暴れて構いませんが、チュデルキンだけは生かしておいてください。私の記憶どおりの姿なら、悪趣味な青と赤の道化服の小男です」
「……なんか……威厳もへったくれもない恰好だな」
「だからと言って侮ってはなりませんよ。整合騎士ではないお前に"ディープ・フリーズ"術は効かぬはずですが、それ以外にも高速かつ高威力の術式を多数操る……恐らく教会でも最高司祭様に次ぐ能力を持つ術者ですから」
「ああ、わかってるよ。そういう一見小者っぽい見かけの奴が、実は一番厄介だったりするのがお約束だからな」
俺の台詞に怪訝な顔をしたのも束の間、アリスは鋭い視線を階段に向けなおし、それでは、と力強い声で言った。
「――行きましょうか」
今度は、急ぎつつも可能な限り足音を殺してワンフロアぶん駆け上がった階段の先に待っていたのは、やけに狭く薄暗い通路とその突き当たりに見える黒い扉だった。
壁に並ぶ奇妙な黄緑色の蝋燭に照らされた通路の幅は一メートル半というところだろう。人ふたりがすれ違うのもちょっと面倒なほどの狭さだ。その奥の、片開きの扉がまた小さい。俺やアリスはなんとか頭をぶつけずに潜れるだろうが、たとえば騎士長ベルクーリほどの威丈夫ならばそうとう身を屈める必要があるのではないか。
どうにもしっくりこない眺めだった。ふつう、このような最高支配者の本拠地――ぶっちゃければラストダンジョンは、奥に進めば進むほどに構造も装飾も豪華絢爛になっていくものではないか? 実際、下の『暁星の望楼』までは細部まで贅を尽くした、広々とした設計になっていたのだ。現在は、俺とユージオが暴れまわったせいで完全に無人だったが、あそこを美しく着飾った騎士や司祭たちが行き交っていたらさぞかし大作ファンタジー映画のような眺めだったろう、と思わせるほどに。
それが、いよいよ最上階まであと一エリアという所まで来てこのせせこましさは何だ。まるで――この通路を利用するのが、小柄な人間たったひとりしかいない、と言うかのようだ。
おそらく俺とは違う理由で、しかし同じように眉を寄せていたアリスだったが、すぐにふわりと金髪を流して通路に進みはじめた。
この狭さは、もしかしてトラップだの伏兵だのの仕掛けがあるせいかと考えはじめていた俺は、反射的に引き止めようとしたがすぐに思い直し、後を追った。絶対支配組織たる神聖教会のこんな中枢に、侵入者を想定した面倒な罠などあるはずがない。勇者のパーティーを待ち受けるためだけに作られた魔王の城とは訳が違うのだ。
長さ二十メートルほどの通路は、何事もなく侵入者の通過を許し、俺たちはすぐに小さな扉の手前にまで到着した。
ちらりと目を見交わし、同時に頷いてから、俺が手を伸ばして使い込まれて黒光りするドアノブを握る。扉には鍵すらも掛けられておらず、カチリと呆気なくノブが回り、そっと引っ張ると滑らかに開いた。
しかし、途端にその奥から吹き寄せてきた冷たい空気には間違いなく濃密な何ものかの気配が――例えるならアインクラッド迷宮区のボス部屋のドアを初めて開けたときのような――含まれており、俺の背筋をぞわりと戦慄が横切った。
だからと言って、無論アリスに今更前衛を代わってくれなどとは言えない。ぐっと大きくドアを引き開け、少々頭をかがめて内部を見通す。
狭い大理石の通路がもう少しだけ奥に続いており、その先はほとんど光のない、暗い広間になっているようだった。いくつかの紫色の光がちらちら瞬いているのが見えるが、詳細は不明だ。
そして同時に、何やら低くぶつぶつと呟く呪詛めいた声が耳に届いた。それも一人のものではない。何人――何十人といった規模だ。懸命に耳をそばだてるが、言葉の中身がすぐにはわからず、斜め後ろでアリスが低く「神聖術だわ」と囁くのを聞いてようやく合点が行った。
たしかに神聖術のコマンドだ。すわ、俺たちを狙った多重魔法攻撃か、と体を固くしたが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。断片的に聞き取れるコマンドの内容は、何かの数値を操作するようなものばかりなのだ。
首をかしげていると、アリスがほとんど音にならない声で俺を促した。
「行きましょう。元老たちが皆、何かの大規模な施術の最中ならば逆に好都合です。これだけ暗ければ、剣の間合いにまで近づけるかもしれない」
「……ああ、そうだな。予定どおり俺が先に仕掛ける、防御よろしく」
囁き返し、俺はゆっくりと左腰の剣を抜いた。アリスの金木犀の剣も抜刀される音を確かめてから、ぐっと腹に息をため、扉を潜る。
内側の通路に踏み込むと、頬を撫でる冷たい風に、何かいやな匂いが含まれているのに気付かされた。獣臭や血臭というのとは違う。夏場にうっかり鍋を半日放置してしまったときのような、かすかに饐えた匂い。それを意識から振り落とし、最後の三メートルを詰める。
通路の終わり角にぴったり背中をくっつけ、俺はついに元老の間の内部を視界に収めた。
広い――というより、高い。
床の直径三十メートルほどの円形になっている。湾曲した壁は、おそらく三フロア分ほどをもぶち抜いてまるで塔の内部のように頭上に伸び、天井は闇に沈んでよく見えない。
照明らしきものはほとんど設置されておらず、光源は壁に沿っていくつもならぶ仄かな紫の瞬きだけだ。懸命に視線を凝らし、それがランプの類いではなく四角く半透明な板状の光――つまり"ステイシアの窓"であることに気付いた頃、ようやく闇に慣れた俺の目に、壁に等間隔に並ぶモノの姿がはっきりと映った。
人間だ。
人間が何人も、壁から突き出た椅子に座っている。いや、座らされている、と言ったほうが正しい。なぜなら、彼らは一切衣服を身につけていないその肉体を、幾つもの金属環でがっちりと椅子に固定されているからだ。
ぶよぶよの真っ白い体に鉄の縛めが食い込む様は痛々しかったが、しかし彼ら当人がその境遇をどう思っているのかは、俺の目では察せられなかった。背もたれの上部から突き出た半円形の首輪に繋ぎ止められた彼らの顔には、表情というものがまるで存在しないのだ。
頭髪や眉毛すら一本もない、白くたるんだボールのような頭に埋め込まれた二つの眼球は、ぼんやりと顔のすぐ前に表示された紫のシステムウィンドウを眺めている。その窓には、びっしりと何かのデータが表示されており、その文字列がちらちら瞬いて切り替わるたびに、白い人間たちの色のない唇も動く。
「しすてむ・こーる……」
「しすてむ・こーる……」
抑揚の乏しい、嗄れた声に耳をそばだてると、それはどうやらこの世界のあらゆるエリアのあらゆるオブジェクト数を参照、照合する命令のようだった。
本来、ザ・シードパッケージの中核たるカーディナルシステムが行うはずの世界のバランス調整、それをこの人間たちが行っているのだ。しかし何故。権限をアドミニストレータ(及び図書室のカーディナル)に乗っ取られたとはいえ、自動調整プログラムたるカーディナルシステムそのものはまだ機能しているはずだ。
眼前の光景に圧倒され、混乱した頭を必死に整理しようとしていると、不意にびびーというブザー音のようなものが鳴り響き、俺はハッと剣を握りなおした。
同時に、数十人はいようかという白い人間たちの術式詠唱がぴたりと止まり、今度こそ侵入がバレたかと覚悟したが、そうではないようだった。人間たちが一斉に、下方の俺たちではなく、頭上に顔をもたげたからだ。
彼らを拘束する、無骨な金属椅子の背もたれの上からは奇妙な蛇口のようなものが伸びており、人間たちはそろってその先端を見詰めると、ぱかりと大きく口を開いた。
直後、蛇口から褐色のどろどろしたものが嫌な音をさせながら流れだし、人間たちはそれを口に受けると、無我夢中といった様子で咀嚼し、飲み下しはじめた。口から溢れたどろどろは彼らのアゴから滴り、腹や脚を汚していく。饐えた匂いの源は間違いなくあれだ。
白い人間たちは、体が汚れるのなど一切意識しないかのように、歓喜にとろけた表情を浮かべながら茶色いどろどろを貪りつづけた。
やがて再びブザーの音が響き、同時に蛇口から垂れる流動食も止まり、人間たちの顔から感情が消えた。かくりと頭を正面に戻し、ぼんやりとした目でウインドウを眺めると、コマンドの詠唱を再開する。しすてむ・こーる……しすてむ・こーる……。
人間ではない。
この扱いは、決して人間たる存在に――いや、どのような動物に対してだって、して良いものではない。
腹の底から湧きあがってきた畏れ、憐れみ、そして巨大な怒りに耐えかねて、俺がぎりっと歯を鳴らすのと同時だった。
「彼らが……彼らが、世界を守護する神聖教会の、元老だというのですか」
絞り出すようなアリスの声が聞こえた。
視線を向けると、通路の反対側の壁に背中を預けたアリスが、蒼白の肌に蒼い瞳を爛々と燃やして前方を睨んでいた。
「この光景を作り出したのも……最高司祭様なのですか」
「ああ……そうだろう」
俺も、ひび割れたささやき声で肯定した。
「世界各地から数百年にわたって拉致した人間のうち、戦闘能力には欠けるが神聖術行使権限に秀でた者をこうして……思考と感情のほとんどを破壊し、元老という名の世界監視装置に作り変えたんだ」
そう、彼らは単なる監視装置なのだ。このアンダーワールドが、神聖教会の統治のもと、完璧な停滞のなかに維持されつづけているかをチェックするための。もし何らかの異常、つまりオブジェクトの不正な増加あるいは減少を発見した場合、禁忌目録を更新して対応する。そうやって、アドミニストレータ治下の怠惰で緩慢な人の営みが数百年にわたって続けられてきたのだ。
アリスの顔がゆっくりと伏せられ、はらりと垂れた金髪がその表情を隠した。しかし、続けて流れた声の響きが、彼女の苛烈な意思を如実に示していた。
「……許せない」
右手に握られた金木犀の剣が、主の怒りを反映してか、かすかにりんと刃鳴りした。
「彼らも人間……教会が守るべきステイシアの子ではありませんか。それを……私たちのように記憶を奪うだけに飽きたらず、あのような……人の証たる知性すらも取り上げ、身動きすらも許さず、獣以下の食事をさせるなど……ここに最早正義は無い。暗黒騎士だってこのような所業はしない」
言い切った直後、アリスはかっとブーツを鳴らし、広間へと歩み入った。慌てて俺もその後を追う。
まばゆい黄金の騎士が目の前に現れても、元老たちの視線はぴくりともウインドウから動かなかった。アリスは左に進み、もっとも近い椅子に拘束された元老のひとりの前に立った。
間近で見ても、哀れな人間の年齢も、性別すらも、よくわからなかった。それでも、その全身に漂う生気の無さは、ここに拘束されて数十年、あるいは百年以上の年月が流れたことを明確に告げていた。
アリスは一瞬、耐えがたい様子で顔をそむけたが、すぐに左目をかっと開き、金木犀の剣をすっと掲げた。元老の四肢を縛める鉄環を斬るのかと思ったが、その剣尖は弛緩した胸の中央、心臓の真上に擬せられ、俺は息を飲んだ。
「アリス……!」
「命を絶ってやるのが……慈悲だとは思いませんか」
俺は即答できなかった。
この有様を見れば、整合騎士のように記憶のピースを取り戻せば元の人格に戻せるという楽観的な推測は一切できない。この人間たちのフラクトライトは、おそらく取り返しのつかないほどに無惨に破壊され、修復は不可能だろう。
しかしそれでも、カーディナルなら――あるいはアドミニストレータなら、せめて彼らに一片の望みを、例えば産まれたばかりの赤子にまで戻すというような希望を与えることが出来るのではと俺は考え、アリスの剣を押し留めようとした。
しかしそれより早く、広間の奥から響き渡った奇怪な叫びが、俺たちの動きを止めた。
「ああっ……ああ――っ!」
きんきんと甲高い、男の金切り声だった。
「ああっ、そんな、ああっ、最高司祭様、そんな勿体無い、ああっ、いけませんっ、ああ、おおお――っ!!!」