激しい嗚咽が、徐々にその音量を落とし、やがてひそやかなすすり泣きへと終息するまでにずいぶんと長い時間がかかった。
俺のほうは少しばかり先んじて緩んだ涙腺のバルブを閉め直し、今後の展開へと思考を切り替えていた。
現在想定し得る、最も理想的な展開とは、次のようなものだろう。
登攀を再開し、邪魔されることなく塔内へと戻ったら、アリスとの戦闘を対話と説得によって回避し、ユージオと合流する。残る障害、最古にして最強の整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンをどうにか倒す、あるいはこれも説得し(ユージオが退けていてくれたなら申し分ないが!)、究極の敵アドミニストレータが眠る最上階へと突入する。
最高司祭が目覚めないうちに、ユージオが温存しているはずの短剣を突き刺し、カーディナルから一方的に送り込まれる破壊的コマンドによって無力化、あるいは消滅させる。そして秘匿されているアリスの記憶中枢を回収し、彼女の記憶と人格を復元する。
しかる後に俺は現実世界へと連絡を取り、菊岡誠二郎と交渉して現アンダーワールドの永久保存の確約を取り付け、間近に迫る"負荷実験段階"への突入も停止させる。アンダーワールドの平和的調整をカーディナルに一任し、アリスとユージオをルーリッドに送り届け、状況が落ち着き次第、彼らにこの世界とその外側に広がる世界についての真実を話す。そこでようやく俺は現実へとログアウトし、ユージオたちのフラクトライトを、広大無辺な外部ネットワークへと導く。彼らを、いわば人工フラクトライト達の"大使"として、アンダーワールド住民の存在を現実世界の人間たちに認めさせる――。
ざっと考えただけでも、気が遠くなるほどの高難易度ミッションの連続だ。すべての段階が、成功率五割……いや三割、二割を下回ると思えてならない。
しかし、もう俺は立ち止まることの許されない地点にまで達しているのだ。アンダーワールドで過ごした二年半、いや、もしかしたらSAOにログインしたあの日からの長い、長い時間すべてが、ユージオたち新しい人類、新しい知性を現実世界へと解き放つという目的のために存在したのかもしれないのだから。
茅場晶彦は、アインクラッドが崩壊するあの真っ赤な夕焼け空の下で、こう言った。自分は、ただ、ほんとうの異世界を創りたかっただけなのだ、と。
俺は別に、あの男の目的を引き継いだつもりはまったくないが、真なる異世界というべきものは、まさにいま俺の眼下に遥か地平線まで広がっている。そして、茅場の人格コピーが俺に託した"ザ・シード"パッケージは、すでに現実世界におけるVR空間のデファクト・スタンダードとなり、偶然か必然か、ユージオたちアンダーワールド民はザ・シード世界と互換性のあるインターフェースを備えている。
SAO世界において、二年間ものあいだ多くの人々が戦い、死に、そして生きた意味をどこかに求めるとするならば――それは、ユージオたち新人類が現実世界において創りあげる何かにのみ見出されるのだと、そう考えてしまうのは、俺の感傷だろうか?
ともあれ、俺はもう引き返すことはできない。ルーリッドの南の森で目覚めてから、長い時間をかけてこの塔のほぼ天辺まで、ほとんど腕を伸ばせば最終目標に届くところにまでやってきたのだから。あとはもう、頭と剣技のすべてを絞り尽くして邁進するだけだ。
しかし、ほんの小さな、しかし無視できない問題があるとすれば。
先に列挙したクリアすべき段階のうち、俺が果たして心の底から望んでいるのかどうか定かでないものがたったひとつだけあるということだ……。
「……お前は、さいぜん言いましたね」
こちらに背を向け、膝を抱えて蹲ったまま、不意にアリスがそう呟いた。
俺は、混迷の度合いが深まるいっぽうの思考を一時中断し、顔を上げた。すこし間をおいて、まだ湿り気の残る細い声で、アリスが続けた。
「塔の壁が破れ、外に放り出されたあと……お前は、このような反逆を企てた目的は、最高司祭様の過ちを正し、人の世を守るためだ、と言った」
「ああ……そのとおりだ」
あまりにも多くを省いた言葉だが、そこに欺瞞はない。俺はアリスの背中を流れる金髪に向けて頷く。
「まだ、お前の言葉を全て信じたわけではありませんが……塔の外壁に、闇の国のドローンが配置されていたり……整合騎士が、神界ではなくこの人界から集められ、記憶を封じられて造られたのだという話も、どうやら本当のようです。つまり、最高司祭様が、忠実なしもべたる我ら整合騎士を深く欺いておられるのは否定できない……」
俺は息を飲んでアリスの言葉に聞き入った。
記憶を改変され、行動原則キーなるものを思考回路に挿入された整合騎士は、アドミニストレータへの絶対なる従属を魂レベルで強制されているはずだ。事実、これまで出会った整合騎士たちは、俺たちがどれほど言葉を尽くそうと教会への疑義をひとかけらでも表すことはなかった。
それを考えれば、アリスがいまの台詞を口にできたことがすでに驚異的としか言えない。やはり彼女には何か、他の人工フラクトライトにはない秘密があるのだろうか。見開いた俺の目の前で、小さく手足を抱えたまま、黄金の騎士は囁くように話しつづける。
「しかしいっぽうで、最高司祭様が我らに与えた第一の使命が、ダークテリトリーの侵略からの人界の防衛だというのも事実なのです。現にいまも十名以上の整合騎士が飛竜にうち跨り、果ての山脈で戦っているし、私も長らくその任についていました。最高司祭様が整合騎士団を編成せず、その防衛力が存在しなければ、人界は遥か昔に暴虐極まる侵略に晒されていたでしょう」
「そ、それは……」
それは、この世界のあるべき姿ではないのだ――整合騎士たちが独占し続けている成長リソースは本来、多くの一般民に与えられるべきものだったのだ、などと、今言っても理解してはもらえまい。言葉に詰まった俺にむけて、アリスはさらに静かだが厳しい声を投げかけてくる。
「お前は、私が生まれ育ったという……今でも私の両親と妹が暮らしているというルーリッドなる村が、北方の辺境、果ての山脈の麓にあると言った。つまり、ダークテリトリーの侵略が始まれば、真っ先に蹂躙される地域です。もしお前たちが全ての整合騎士を退け、最高司祭様をも刃にかけたとして、その時はルーリッドを含む辺境の地を、いったい誰が守るというのです? まさか、お前たち二人だけで、闇の軍勢を平らげてみせるとでも?」
細い背中はまだ小刻みに震えているが、しかしアリスの声には確たる意思が刻み込まれていて、俺はすぐに答えることができなかった。人の世をなんとしても守るのだ、というアリスの裏表のない決意に比べ、俺の抱え込む隠し事のなんと巨大なことか。
唇を噛み、今ここで全てを――この世界が造られたものであるということも含めて何もかもをぶち撒けてしまいたいという衝動を堪えてから、俺は口を開いた。
「なら、逆に訊くけど……君は、整合騎士団が万全の態勢を以って迎え撃てば、来るべきダークテリトリーの総攻撃を完全に退けられると、本当に信じているのか?」
「……それは……」
今度は、アリスが言葉に詰まった。
「俺も昔、闇の国のゴブリンの一隊と戦ったって話はしたよな。……闇の軍勢では最下級の兵士であるはずのゴブリンでさえ、剣技も、腕力も、恐るべきものだった。ダークテリトリーには、あんな奴らが何万とひしめいているんだし、その上に君たちと同じように飛竜を駆る暗黒騎士、そして司祭級の術式を操る暗黒術士がごまんと控えているんだ。たとえ全整合騎士を揃え、アドミニストレータ本人が出陣したとしても、そんな寡兵で防ぎきれるようなもんじゃないぞ」
無論これはカーディナルからの受け売りだが、アリスにも同様の認識はあったらしく、これまでのように即座に鋭い舌鋒で切り返してくることはなかった。しばしの沈黙ののちに、苦しげな声が低く絞り出される。
「……確かに……騎士長ベルクーリ殿も、胸の裡には、同様の懸念を秘めておいでのようでした。ダークテリトリーの精兵はすでに数万の規模で整えられ、それらが一斉に四方から押し寄せてきたら我が騎士団だけでは抗しきれまい、と……。――しかし、だからと言って、人界には我らのほかに戦力と呼べるものなど無いのもまた事実。剣やその他の武術を学ぶ者は貴族を中心に数多いですが、美々しい型のみを追い求め、一滴の血も見たことのない彼らに実戦などできようはずもない。結局……三神のご加護を信じて、我らが戦うしかないのです。お前ならこの状況は理解できるでしょう」
「君の言うとおり……今の人界には、実際に闇の軍勢と戦える力を持つのは整合騎士しかいないだろう」
俺は言葉を選びながら、慎重に答えた。
「だが、それはアドミニストレータが望んで作り出した状況なんだ。最高司祭は、自分の完全なる制御が及ばない戦力が人界に発生するのを恐れた。だからこそ、武術大会の優勝者や禁忌目録の違反者をかきあつめ、記憶を封じ忠誠心を植え付けて整合騎士に造り変えてきたんだ……数百年に渡ってね。つまり言い換えれば、アドミニストレータは、君達……俺たち人間を信じちゃいないんだ、これっぽっちも」
「!!……っ」
アリスの背中がぴくりと強張った。
「もし、最高司祭が、自分の支配する人間たちを信じ、きちんとした訓練を受け装備の整った軍隊を編成していれば、今ごろはダークテリトリーにじゅうぶん伍し得る戦力が人界にもあったはずだ。しかし最高司祭はそうしなかった。もし戦時となれば真っ先に剣を取るべき上級貴族たちに怠惰と放埓を許し、結果彼らの魂は澱みきってしまった……俺と相棒が斬った、あの男のように」
修剣学院の初等練士、ティーゼとロニエを襲った悲劇を思い出すとずきりと胸が痛む。あの惨たらしい出来事は、まだほんの三日前のことなのだ。彼女らは今も心身に負った深い傷に苦しんでいるだろう。もしこのまま負荷実験段階が到来し、人界が闇の侵略に飲み込まれれば、あのような悲惨が数限りなく出現するのだ。
鋭い疼きを押し殺し、俺は口を動かしつづける。
「でも……まだ、全てが手遅れになってしまったわけじゃない。ダークテリトリーの軍勢が押し寄せてくるまでに残された時間が、あと一年か二年かわからないけど……それまでに、人界にも出来るかぎりの規模の軍隊を整えるんだ」
「出来るわけがない、そんなこと!」
アリスが鋭く叫んだ。
「お前も今言ったばかりではありませんか、この世界の貴族たちがどれほど腐敗しているか! 戦争が始まるから剣を取れと、四皇家や大貴族に命じたとたん、彼らは逃げ出す算段を始めるに決まっている!」
「ああ、確かに上級貴族に戦う気概は無いだろうさ。でも、そんな人間ばかりじゃないんだ。下級貴族や、多くの一般民には、なんとしても家族を、町や村を、そしてこの世界を守ろうという強さと誇りを持った者たちが沢山いるんだ。彼らに、この塔に蓄積されている膨大な武具を全て分け与え、君らが磨いた本物の剣技と神聖術を学ばせれば、一年で立派な軍隊を作り上げることも不可能じゃない。少なくとも、それを背景に、闇の勢力と交渉を行えるくらいのな」
無論――実際に戦争へと突入してしまう事態は避けねばならない。ダークテリトリーの住人とてもまた、本物の魂をもつ人工フラクトライト達なのだから。
首尾よく外部のラースに向けてチャンネルを開き、実験の凍結を受け入れさせられれば戦争は回避できる。しかし、もしそれに失敗すれば、人界を襲う悲惨な運命をキャンセルするために、カーディナルが全アンダーワールドを消去してしまう。あの頑固な管理者様にその決意を翻させるためには、人間の軍隊を背景としたダークテリトリーとの和平交渉という可能性に一縷の望みを繋ぐしかない。
「一般……民を……?」
掠れた声で呟くアリスに、俺はさらに畳み掛けた。
「そうだ。無理な徴兵をしなくとも、義勇兵を募るだけで充分な戦力が集まるはずだ……すでに、各々の街や村には衛士隊も編成されてるんだしな。俺の言ってることが決して夢物語じゃないことは君にもわかるだろう。だが……それとは別の理由によって、今のままじゃ、これは絶対に実現不可能な話なんだ」
「…………最高司祭様が……お許しになるはずがない」
アリスは苦しそうな声を低く絞り出した。
「そう、そのとおりだ。説得することすら不可能だろう。忠誠を魂レベルで強制できない軍隊なんて、アドミニストレータにとっては、闇の軍勢以上に恐ろしいものだろうからな。つまるところ……結論は一つなんだ。最高司祭アドミニストレータの絶対支配を打ち破り、残されたわずかな時間を最大限有効に使って、来るべき侵略に対抗できる防衛力を作り上げるしかない」
アリスの背中にそう告げながら、俺は大いなる皮肉を感じずにはいられなかった。
菊岡誠二郎率いるラースがこのアンダーワールドで壮大な実験を行っているのは、つまるところ、彼の属する自衛隊に、周辺諸国――ひいては太平洋の向こうの強大な軍事国家にすら抗えるほどの"防衛力"を備えさせるという目的のために他ならないのだろう。俺はユージオたち人工フラクトライトが、そんなふうに兵器として利用されるなんてことはどうしても容認できないと思っている。なのに今、抑止力としての戦力――などといかにも菊岡が言いそうなことを口にしているのだ。
そんな俺の忸怩たる思いなど知るよしもないアリスは、俺とは別の理由によって再び長い沈黙を続けていた。
今彼女は、魂に刻み込まれた神聖教会への忠誠と、数時間前に会ったにすぎない薄汚れた侵入者の言葉を心の天秤にかけているのだろう。表面上は抑制されているが、その葛藤、苦しみは、大変なものがあるはずだ。
やがて――。
ぽつり、と大理石の床に声がこぼれ落ちた。
「……会えますか」
「え……?」
「もし、お前に協力し……奪われた私の記憶を取り戻せたら、私はもういちどシルカに……妹に会えるのですか」
俺は思わず息を詰めた。
会える。会うことにはなんの問題もない。でも……。
今度は俺が長いあいだ言葉を失った。アリスは相変わらずこちらに背中を向けたまま座り、立てた膝を両腕で抱え込んでじっと俺の答えを待った。
「……会えるよ。飛竜を使えば、ルーリッドまでほんの一日、二日だろう。けれど……いいか、よく聞いてほしい」
俺はわずかに前ににじり寄り、アリスの左の耳に顔を近づけて、その先を口にした。
「シルカと再会するのは、君であって君じゃない。記憶を取り戻したその時、君は九年前の……"シンセサイズの秘儀"を受ける前のアリス・ツーベルクへと戻り、同時に整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは消滅するんだ。今の君の人格は、整合騎士として生きてきた九年間の記憶とともに消え去り、その体を本来の人格へと明渡す……残酷なことを言うけど……今の君は、アドミニストレータによって作られた"仮のアリス"、仮の人格なんだ」
ゆっくり、ゆっくりとそう告げる俺の言葉を聞くうちに、アリスの肩が二度、三度と震え、頭が両腕のあいだに低く埋められた。
しかし、先ほどのように、嗚咽が漏れることはもうなかった。
やがて懸命に感情を押し殺された声が、俺の耳にかすかに届いた。
「……整合騎士が人より造られたという話を聞いたときから……そういうこともあろうかと……思っていました。私は……この体を、アリスという名の少女から奪い取り、道具として使ってきた……そうなのでしょう」
俺にはもう、かけるべき言葉が見つからなかった。これまで信じてきたものが全て崩れ落ちていく衝撃に、おそらくは必死に耐えながら、なおもアリスは語りつづけた。
「盗んだものは……返さなくてはね。それが……妹の、両親の、お前の友人の……そしてお前自身の望みでもあるのでしょうから」
「…………アリス」
「ただ……ひとつ、ひとつだけ頼みがあります」
「それは……?」
「この体に本来のアリスの人格を復元する前に……私をルーリッドの村に連れていってくれませんか。そして、物陰から……ほんのひと目だけでいい。シルカの……妹の姿を、そして家族の姿を見せてほしいのです。それだけ叶えられれば、私は満足です」
言葉を切り、アリスはゆっくりと首を回して、肩越しにちらりと俺を振り向いた。
その瞬間、いつの間にか頭上にのぼっていた月が、黒い雲間からさっと一条の光を投げかけた。金色の光の粒に輪郭を縁どられながら、アリスは幼子のように赤く泣き腫らした目の縁をやわらげ、かすかに微笑んだ。
俺は思わず顔を伏せ、きつく歯を食い縛った。
アリスの記憶を取り戻す。
それが、俺の無二の相棒であるユージオのたったひとつの望みだ。つまり同時に俺の望みでもあるはずだ。
しかし――それは、いま眼前で心細そうにうずくまる一人の少女の死と同義だ。
やむを得ない犠牲、やむを得ない優先順位。
これは、どうしようもないことなのだ。
「ああ……約束する。誓うよ」
俺は視線を伏せたまま、そう声に出した。
「記憶を復元する前に、必ずルーリッドに連れていく」
「……絶対ですよ」
念を押すアリスに、ふかく頷き返す。
「わかりました。それでは……人の世を、この平和を守るために、私、アリス・シンセシス・フィフティは、今より整合騎士の使命を捨て……っ……あっ……!!」
突然アリスの声が、鋭い悲鳴とともに途切れ、俺は驚いてがばっと顔を上げた。
すぐ目の前で、アリスが白い顔をおおきく歪め、両手で強く右目を押さえている。激痛を示して唇が破れるほどに噛み締められ、仰け反った細い喉が絶叫を飲み下そうとするかのように二度、三度と痙攣する。
俺は驚愕しながらも、同時に、三日前に見たあの光景を想起していた。
ライオス・アンティノスの右腕を斬り飛ばし、血刀をぶら下げたユージオ――その右眼は跡形もなく吹き飛び、噴き出した鮮血が赤い涙となって頬に流れていたのだ。
一晩を費やした治癒術によって眼はどうにか復元できたのだが、施術の最中、ユージオはぽつりぽつりと語った。ライオスを斬ろうとした瞬間、右手がまるで自分のものでなくなってしまったかのように凍りつき、同時に右目に凄まじい痛みが走った、と。そして眼前に、真っ赤に光る、見慣れぬ神聖文字が出現したのだ、と――。
今アリスを襲っているのは、ユージオの語ったものと同一の現象だろう、恐らく、禁忌と認識しているものを侵そうとすると発現する、何らかのセキュリティ・ブロックなのだ。
「何も考えるな! 思考を止めるんだ!」
俺は叫び、アリスに飛びついた。
「あ……うああ……っ」
耐えかねるように細い悲鳴を漏らすアリスの手首を握り、右目から外す。
「!?」
碧玉の色をしているはずのアリスの瞳に、ちらちらと明滅する赤い光を見つけて、俺は息を飲んだ。光の正体を確かめるべく、間近から覗き込む。鼻先が触れ合うほどの距離にまで双方の顔が接近し、数秒前までならこの瞬間俺の首がすっ飛んでいてもおかしくないが、アリスにももう俺の行為を咎める余裕はまったく無いようだった。
見開かれたアリスの右目の、真円を描く蒼い光彩。
その周囲に、赤く発光する微細な縦ラインが行列を作り、ぎりぎりと回転している。ラインには三種類ほどの異なる太さがあり、それらがランダムに並んでいる。まるで――。
まるでバーコードだ。
俺は、ユージオの話を聞いたときから、この心理ブロックを組み上げたのはアドミニストレータだと推測していた。しかしこれまで、この世界でバーコードなどというものを眼にしたことはついぞ無かった。
アドミニストレータの仕業ではない……? しかし、となると、一体何者が……。
その瞬間。
円形のバーコードの回転が停止し、アリスの収縮した瞳孔の真上を横切って、奇妙な記号の羅列が、これも真紅に輝きながら浮かび上がった。"TЯヨ」A MヨT2Y2"、俺の目にはそのように見て取れた。
それが何を意味しているのか、俺はいっとき戸惑ってから、すぐに悟った。
鏡文字なのだ。文字列の直下にあるアリスの瞳には、左右に裏返したかたちに見えているはずだ。つまり、"SYSTEM ALERT"と。
システムアラート。俺にとっては、PCを操作していると時折ポーンというビープ音とともに出てくる不愉快なアレ、として馴染みのある代物だが、しかしアリス達アンダーワールド人には何の意味も持たない単語だ。この世界では基本的に日本語のみが用いられ、英語は"神聖文字"、つまり人間には理解不能でありまた理解する必要もないものとして扱われている。
神聖術を使う者であれば、例の"システム・コール"を始め様々な英単語を頻繁に口にはするものの、それらが具体的になにを意味しているのかは一切知らない。現実世界のRPGで、回復呪文や攻撃呪文を使うときに口にする奇妙なカタカナの呪文が、言語的にはどのような意味を持っているのか俺たちプレイヤーがまったく気にしないのと一緒だ。
つまるところ、このSYSTEM ALERTという文字列は、アンダーワールドでは完全に意味を成さない代物なのだ。アリスに見せても何の効果もない。よって、この心理的ブロックをアリスやユージオたちアンダーワールド人に組み込んだのは外部世界の人間――具体的にはラースのスタッフである誰かだ。
高速回転する俺の思考を、至近距離で発せられたアリスの押し殺した悲鳴が遮った。
「く……あっ……眼が……! 何か……おかしな……モノが、見える……!?」
「何も考えるんじゃない! 頭をからっぽにするんだ!!」
慌ててそう叫び、俺はアリスの小さな顔を両手で挟みこんだ。
「君が今見ているソレは、禁忌を破ろうとすると現れるブロック……障壁のようなものだ。右目に痛みを発生させて、禁忌への無条件服従を誘導しているんだろう……そのまま考え続けると右目が吹っ飛ぶぞ!」
咄嗟にそう説明したが、しかしこの場合は言えば言うほど逆効果かもしれない。どんな人間だって、考えるなと言われて考えるのを止めたりするような器用な真似はできない。
俺の声を聞いたアリスは、ぎゅっと両目を瞑り、唇を噛み締めた。しかし、瞳の表面に貼り付く赤い文字列は、それで見えなくなることはないだろう。華奢な両手が持ち上げられ、俺の両肩をシャツ越しにきつく掴む。小さな悲鳴が断続的に喉のおくから漏れるたび両手に物凄い力が込められ、俺の筋肉と骨がみしみしと軋むが、アリスの堪えている痛みはその比ではないだろう。
せめて思考を止める助けになればと、アリスの顔を両の掌でしっかり挟みながら、俺はなおも推測を積み重ねる。
アリスを含む一部の整合騎士は、すでにいちど禁忌を破っている。そのせいでアドミニストレータに発見され、洗脳処置を施されたのだから。
しかし、アリスに限って言えば、九年前"ダークテリトリーへの侵入"罪を犯したとき、右目が吹き飛んだというような事実はないはずだ。ユージオからそのような話は一切聞いていない。彼が語ったところによれば、アリスはふらふらと無意識的に境界線を踏み越えてしまったということらしい。つまりその際、自発的に禁忌を破ろう、という明確な思考はアリスの意識には無かったと思われる。
現在彼女を襲っている心理ブロックは、あくまで禁忌を積極的に侵害しようという意思にのみ反応するのだろう。そのような行動を意識したとたん、まず右目の痛みで、次にSYSTEM ALERTの赤文字で対象者の思考を乱し、改めて禁忌への畏怖を植え付ける。ただでさえ規則を破るという性向を持たないアンダーワールド人に、このような神の御業としか思えない障壁を施せば、彼らの法への従順性はかぎりなく完璧に近づくだろう。
ただ、この障壁をラースのスタッフが埋め込んだと考えるとき、そこには大きな矛盾が発生する。
なぜなら、首謀者の菊岡は恐らく、禁忌を破れる人工フラクトライトを求めてこのような壮大な実験を延々続けているはずだからだ。せっかくアンダーワールド人がブレイクスルーに近づいても、こんな粗雑で暴力的な心理ブロックでそれを無理矢理押し止めてしまっては、本末転倒以外の何ものでもない。
つまりこのブロックは、ラーススタッフの手になるものであっても、菊岡以下の首脳の預かり知らぬものなのではないか? それを端的に表現するならば、内部の反乱分子によるサボタージュだ。ラースに潜り込んだ何者かが、意図的に実験の成功を遅らせているのだ。
ならばその人物の目的は何か?
ヒースクリフ……茅場晶彦の仕業なのか、と俺は一瞬考えたが、すぐにそれを打ち消した。彼もまた、目的は違えど真正人工知能の発生を望んでいるはずだ。だいたい、こんな世界のルールを無視した粗暴な手段は彼のスタイルではない。やはりこれは、ラースという組織そのものへの敵対者のしたことだろう。
ラース=自衛隊内部の菊岡派とでもいうべき先鋭化した一部勢力と考えるとき、それに敵対する勢力は数多く想定できる。もちろん自衛隊の主流派、そして国内の防衛産業を独占する財閥系メーカー、考えを飛躍させれば無人兵器群による自衛隊の軍備増強を警戒する周辺アジア国家すら含まれる。
しかし、もしそれら巨大勢力がラースのサボタージュを企てたとき、このような手の込んだ手段を採るだろうか? ライトキューブ中のフラクトライト原型に妨害プログラムを組み込めるほどの中枢アクセスが可能な人間ならば、もっと手っ取り早く、アンダーワールドの本質たるライトキューブクラスターを爆破なりしてしまうこともできるのではないか。
つまりこれを企てた人間は、実験の遅延は意図しているが、完全な消滅は望んでいないということになる。遅延させ、何かを待っているのだ。準備に時間のかかる、大掛かりで最終的な作戦が実行されるのを。例えば――
ライトキューブクラスターを含む、人工フラクトライト研究すべての奪取だ。
アンダーワールドには、外部世界のさらに外側からも危険が迫っている。その可能性を認識し、俺は慄然とした。ますます、一刻もはやく菊岡に連絡を取る必要がある。
「……ひどい……」
俺の両手のなかで、懸命に痛みに耐えるアリスが、喘ぎ混じりの声を絞り出した。
はっと我に返り、俺は整合騎士の顔を見下ろした。
常に優美なラインを保っていた眉がきつく顰められ、両の瞼もしっかりと閉じられている。目尻には小さな涙の玉が宿り、唇は血が滲むほどに噛み締められている。
その、白く色の失せた唇がわななき、再びかすかな言葉が発せられた。
「ひどい……こんなの……。記憶……だけでなく、意識すらも……誰かに操られる……なんて……」
俺の両肩を掴むアリスの両手が、痛み以外の感覚、悲しみかあるいは怒りによって更にきつく握り締められる。
「これを……この神聖文字を……私の眼に焼きこんだのは……最高司祭……様なのですか……?」
「……いや、違う」
俺は無意識のうちにそう答えていた。
「この世界を、外側から観察している……君らが神と呼ぶ存在、そのうちの一人がしたことだ」
「神……」
アリスの目尻から、涙の粒がいくつか転がった。
「私が……私達が、これほど信じ、帰依し、その教えを守るために……無限の日々を戦ってもなお……神は私達を……信じてくださらないのですか。私から妹を……妹から私を奪い、思い出を、命すらも書き換え、そのうえこのような……疑うことすらも……許さないなんて……」
九年という時間をただ神の騎士としてのみ生きてきたアリスが、今どのような衝撃と混乱に見舞われているのか、俺には想像することもできなかった。息を詰め、見守ることしかできない俺の眼前で、突然アリスの両目がかっと見開かれた。
右目の蒼い光彩を横切る鏡文字は、一層血の色の輝きを増している。しかしアリスはそれを意に介する様子もなく、ただまっすぐ上を――黒雲の隙間からのぞく丸い月を凝視した。
「私はモノじゃない」
荒い呼吸のなかにも確固たる激しさを込めて、アリスが叫んだ。
「私は確かに、造られた人格、盤上の駒かもしれない。でも私にも意思はあるのです! 私はこの世界を……人間の世界を守りたい。家族を、妹を守りたい。それが私の果たすべき使命です!」
キイイイン、と耳障りな金属音を放ち、鏡文字が高速で明滅を開始した。光彩を取り囲むバーコードも、再び目まぐるしく回転をはじめている。
「アリス……!」
もう今すぐにでも起こりうる現象を懸念し、俺は叫んだ。アリスは俺に視線を向けることなく、切れぎれの声で囁いた。
「キリト……私を、しっかり押さえていて」
「…………」
俺にはもう、何も言えなかった。かわりに、右手をアリスの背に、左手を頭の後ろに回し、両腕に強く力を込めた。黄金の鎧を通して、早鐘のように、しかししっかりと鳴り響くアリスの鼓動が伝わる。
アリスは俺の右肩に頭を乗せ、ぐいっと顔を反らせて、まっすぐに天を振り仰いだ。
「最高司祭……そして神よ!! 私は……私の成すべきことを成すために、あなたと、戦います!!」
凛と響く独立の宣言。
その残響に重なるように、ばしゃりという破裂音が続いた。俺の頬と首筋に、暖かい液体が大量に降りかかった。
ユージオ。
ユージオ……。
どうしたの、怖い夢を見たの?
ぽっ、と柔らかい音を立てて、ランプが小さなオレンジ色の光を灯した。
廊下に立つユージオは、両腕に抱いた枕に半ば顔をうずめ、少しだけ開いたドアの陰に身を隠すようにして暖かな光の源を見つめた。
部屋の奥には、粗末な木のベッドが二つ並んでいる。右側のほうは空だ。洗いたての上掛けがひんやりと畳まれている。
左側のベッドには、ほっそりとした人影が横たわり、上体をもたげてこちらを見ていた。右手に掲げたランプの、揺れる光のせいで顔はよく見えない。艶のある純白の寝巻きの少し開いた胸元からは、いっそう白く滑らかなふくらみが覗いている。ベッドに流れる長い髪は絹のように細く、柔らかそうだ。
ランプの向こうにどうにかそこだけ見える口許の、薔薇のように紅い唇がほころび、再び声が流れ出た。
そこは寒いでしょう、ユージオ。さあ、こっちにいらっしゃい……。
そっと持ち上げられた上掛けの奥は、とても暖かそうなとろりとした暗闇に満ちていて、不意にユージオは全身を包む凍るような冷気を意識した。いつしか足が戸口をまたぎ、不思議に縮んでしまった歩幅でとことことベッドに向かう。
近づくほどに、なぜかランプの光は小さくなり、ベッドに横たわる女性の顔を見ることはどうしてもできない。しかしユージオはそんなことを一切気にせず、ただあの暖かな暗がりに潜りこみたい一心で足を動かす。
ようやく辿り着いたベッドは、腰の高さほどもあって、ユージオは抱いていた枕を投げ出すとそれを踏み台にしてどうにか寝台によじ登った。とたん、ふわりと分厚い布が体を覆い、世界が闇に包まれた。ある種の渇望に急かされるように、ユージオはその奥へ奥へとにじり進んだ。
伸ばした指に、暖かく柔らかなふくらみが触れた。
ユージオは夢中でそれに縋りつき、顔を埋めた。しっとりとした肌が、まるでユージオを飲み込もうとするかのように優しく蠢く。
痺れるような満足感と、しかしそれに倍する餓えに翻弄されながら、ユージオは懸命に暖かな躯にしがみついた。滑らかな腕が背中を抱き、頭を撫でるのを感じて、ユージオは小さな声で尋ねた。
「母さん……? 母さんなの?」
すぐに答える声がした。
そうですよ……お前のお母さんですよ、ユージオ。
「母さん……。僕のお母さん……」
暖かく湿った暗闇になおも深く深くうずまりながら、ユージオは呟いた。
半ば麻痺しきった頭の片隅に、泥沼に浮き上がる泡のような疑問がぷちりと弾ける。
母さんは……こんなにほっそりとして、柔らかかっただろうか? 毎日麦畑で働いているはずの両手に、なんで傷ひとつないんだろう? それに……右側のベッドで寝ているはずの父さんはどこへ行ってしまったんだ? 母さんに甘えようとするといつだって邪魔をする兄さんたちはどこに?
「ほんとに……あなたは、母さんなの?」
そうですよ、ユージオ。あなた一人だけのお母さんですよ。
「でも……父さんはどこ? 兄さんたちはどこへいったの?」
うふふ。
おかしな子ね。
みんな、
お前が殺してしまったじゃないの。
突然、指がぬるりと滑った。
ユージオは目の前で左右の掌を広げた。
暗闇の中なのに、両手にべっとりとこびりつき、ぽたぽたと滴る真っ赤な血がはっきりと見えた。
「……ぁぁぁあああああ!!」
絶叫とともにユージオは飛び起きた。
ぬるつく両手を、無我夢中で上着に擦りつける。悲鳴を上げながら、何度も何度も拭ったところで、自分の手を濡らしているのが血ではなくただの汗だとようやく気付く。
夢を見ていたのだ――とやっと思い至っても、早鐘のように鳴り響く心臓も、吹き出す脂汗も、しばらく収まろうとしなかった。とてつもなく恐ろしい夢の余韻がいつまでもじっとりと背中に貼り付いている。
母親のことなんて……何年も考えたことさえなかったのに。
ひとりごち、ぎゅっと目を瞑って、ユージオは恐慌から脱け出そうと深い呼吸を繰り返した。
実際の母親は、畑仕事と家畜の世話、家事全般の雑忙に疲れユージオを優しくあやしてくれることなどほとんど無かった。頑固で口うるさい父親にただ従うばかりで、自己主張した場面の記憶は無いに等しい。というより、母親にまつわる思い出の絶対量がごく少ないと言っていい。
つまり、ユージオにとっては、自分を産み育ててくれた人としての感謝の念こそあれ、決してそれ以上の存在ではないはずなのだ。そうでなければ、新たな天職を選ぶとき、なぜほとんど迷うこともなく村を出るという決断を下せたのか。
なのに、どうして今更あんな夢を……。
ユージオは強く頭を振り、思考を止めた。どんな夢を見るかは、眠りの神ヒュプニーが気ままに決めることだ。今の悪夢には何の意味もない。
最後に大きく息を吐いてから、ようやく、自分は今どこにいるのか、という疑問が湧いてくる。
うずくまった姿勢のまま、そっと瞼を持ち上げた。
最初に視界に入ったのは、驚くほど毛足の長い、込み入った模様の編み込まれた絨毯だった。一メル四方で果たして幾らするのか見当もつかないそれが、視線を前に上げても上げても、どこまでも続いている。
顔が真っ直ぐ前に向いたところで、ようやくはるか遠くに壁が見えた。
壁、と言っても板や石造りではない。神々の姿を浮き彫りにした黄金の柱が弧をえがいて等間隔に並び、その間に巨大な一枚硝子が埋め込まれている。だから実際には壁というより連続した窓なのだろうが、貴重な硝子をあれほどたっぷりと使った窓は皇帝の居城にもあるまい。
総硝子張りの壁のむこうには、厚くうねる雲の連なりが見えた。ただし、その黒い雲海があるのは視点の下方だ。この部屋は、雲よりも高い場所にあるのだ。
黒い雲の縁を、淡い光がほのかに青く染めている。朧な光の源は、天上に坐す丸い月だった。その周囲を、これまで見たこともないほどの数の星々がしずかに瞬きながら取り巻いている。濃密な星空から降り注ぐ蒼光があまりにも鮮やかすぎて、ユージオが現在は深夜なのだと気付くのが少々遅れた。月神の位置からして、零時を少し回った頃だろうか。つまり、眠っているあいだに日付けが変わってしまったことになる。
視線を、夜空から更に上向けて部屋の天上を見た。広大な円形のそこにも、絨毯に劣らず華美かつ精密な絵が一面に描き込まれている。神々の軍勢、退けられる魔物、地を分かつ山脈……どうやら創世記の絵物語になっているらしい。
しかしどうしたことか、絵の主題からして絶対に必要と思われる創世神ステイシアの似姿が、あるべき中央部に存在しない。その部分は漆黒に塗りつぶされ、いわく言いがたい虚無感のようなものが絵全体を支配してしまっている。
眉をしかめ、首を振りながらユージオは顔を戻した。
そして、今更ながら、自分が何か柔らかいものに背中を預けているのに気付いた。
慌てて振り向く。
「え…………」
身体を捻ったまま、ユージオは絶句し、しばし凍りついた。寄りかかっていたのは、驚くほど巨大な円形のベッドの側面だったのだ。
差し渡しが八メル、いやもっとありそうだ。周囲を五本の黄金の柱が取り巻き、紫の羅紗と半透明の薄布が垂れ下がる天蓋に繋がっている。寝台は純白の絹とおぼしきシーツに覆われ、窓からの燐光を受けてほの青く輝いている。
そして――ベッドの中央に、横たわる人影がひとつ。周囲を薄い紗に囲まれ、輪郭しか見えない。
「!!」
ユージオは息を飲み、跳ねるように立ち上がった。これほどの近距離にいながらまるで気配に気付かなかったのは考えられない迂闊さだ。いや、それ以前に、自分はこのベッドにもたれ掛かってたっぷり四、五時間は眠ってしまったのだ。いったい何故こんなことに――。
そこまで考えてから、ユージオは、ようやく途切れた記憶の直前の場面を思い出した。
そうだ……僕は、騎士長ベルクーリと戦ったんだ。そして青薔薇の剣の力によって双方を氷の中に閉じ込めて……互いの天命が尽きる直前、変な道化、元老チュデルキンと名乗る小男が現れていろいろ奇妙なことを言った。あいつの靴が薔薇を踏み割りながら近づいてきて……そして――。
記憶はそこで暗闇に沈んでいる。あの道化が自分をここまで運んできたのだろうか、と考えながらユージオは唇を噛んだが、今は推測する材料すらない。無意識のうちに腰を探ったが、青薔薇の剣はどこかに消え去ってしまっている。
途端に襲ってきた心細さを懸命に押し戻しながら、ユージオはベッド上の人影のほうに眼を凝らした。敵か味方か……いや、ここは間違いなくセントラル・カセドラルの、それもほとんど最上階だ。そんな場所に居る人間が味方ということはあるまい。
このまま足音を殺して部屋から脱出するべきか、とも思ったが、眠る人物が誰なのか知りたい、という欲求のほうが勝った。意を決して、気配を殺しながらそっとベッドに右ひざを乗せる。
ふかっ、と淡雪のようにどこまでも柔らかくシーツが沈み込み、ユージオは慌てて両手を突いた。その手もまた滑らかな絹に沈んでしまう。
あの恐ろしい夢で何者かが横たわっていたベッドの感触が甦ってきて、思わずぶるりと背中を震わせてから、ユージオは音を立てないようにそっと左ひざも持ち上げた。そのまま四つん這いで、ゆっくり、ゆっくりとベッドの中央を目指す。
有り得ないほど巨大な寝台を息を殺して這い進みながら、この絹の下に包まれているのが最高級の羽毛だとしたら一体何羽ぶんになるのだろう、とユージオは考えずにはいられなかった。ルーリッドの村では、飼っていた家鴨の抜け羽を毎日毎日少しずつ集め、ひとつの薄い布団を作るのに一年はかかったものだ。
こんな贅の限りを尽くした寝台にたった一人眠るのは、はたして誰なのか。垂れ下がる紗幕はもう、すぐ目の前だ。
そこで動きを止め、ユージオは息を止めて耳を凝らした。ごくごくかすかに、規則的な呼吸音が聞こえてくる。相手はまだ眠っているようだ。
生唾を飲み込みたくなるのを堪え、そっと右手を伸ばす。指先を紗の隙間に差し込み、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
「…………!」
ついに、背後からの蒼い光がベッドの中央に届き、その瞬間ユージオは眼を見開いた。
眠っていたのは、ひとりの女性だった。いや、少女、と言うべきか。
身の丈はかなりある。立てばほとんどユージオと変わらないだろう。銀糸の縁取りがついた淡い紫――ステイシアの窓の色――の薄物をまとい、身体の上に載せた白く華奢な両手を組み合わせている。露わな腕や指は滑らかに細いが、その上側で布地を押し上げるふたつの膨らみは量感豊かで、ユージオは慌てて眼を逸らした。広く開いた襟ぐりから覗く胸元もまた、輝くように白い。
浮き出た鎖骨、細い首、そしてそれに続く小造りの顔――。
魂の抜けるような、という表現を、ユージオはほとんど生まれてはじめて実体験していた。
何という造形の完璧さだろうか。もはや人とも思えない。
先日から数回眼にした、成長した騎士アリスも非の打ち所のない美貌だったが、しかし彼女はそれでも人間の美しさの範疇に留まっていた。貶めているわけではない、それで当然であり自然なのだ、アリスは人なのだから。
しかし、今眼下に眠るこの存在は。
央都で最高の腕を持つ彫刻家が、一生を費やして彫り上げたかのような――いや、もはや人の手によるものではあるまい。芸術の神アルティノスが数百年の時をかけて創造したとでも比喩すべき、完璧という語彙そのものがここにある。眉、鼻、唇、それらすべてを形容する言葉をユージオは思いつけなかった。花のような唇、と譬えたくとも、これほどの可憐な曲線を持つ花が人界には存在するまい。
閉じられた瞼を縁どる長い睫毛、そして四方に長く広がる髪、そのどちらもが溶かした純銀の色だった。今は闇と月光を吸い込んで、深い蒼に煌めいている。この髪のたった一すじでさえ、ソルスのもとではどんな貴族の装身具よりもまばゆい輝きを放つだろう。
ユージオは、いつしか甘い蜜に惑う蜂のように考える力を失っていた。
この手に、髪に、頬に触れてみたい――という欲求だけが、身体の奥のから激しく衝き上げてくる。
じり、じり、と意識せぬまま膝が前ににじりよった。
これまで嗅いだことのない種類の、ほのかに薫る香が鼻から入り込み、思考を覆っていく。
伸ばした右手の指先が、もう少し……あと少しで、紫の薄物に届く――。
いけない、
ユージオ、
逃げて!
突然、どこか遠くでかすかに、しかしはっきりと、誰かが叫んだ。
一瞬、電光のように思考の糸が繋がり、ユージオははっと眼を見開いた。
今の声……どこかで、聞いたような――。
いや、それどころじゃない。考えるんだ、考えろ。自分が今どういう状況にいて、何をすべきなのか。
まるでそれ自体の意思があるかのように、尚も前に伸びようとわななく右腕を抱え込んで、ユージオは懸命に頭を回転させようとした。呪縛的な麻痺感は、不思議な甘い香りとともに身体に入り込んでくるようで、息を止めて必死に抗う。
考えるんだ。
僕は、この女性を知っているはずだ。セントラル・カセドラルの最上部で……これまで見たどんな部屋よりも豪華なベッドで、たったひとり眠る人物。つまり、教会でもっとも高位の権力を持つ――ひいては、この人界すべてを支配する人物……。
最高司祭。
アドミニストレータ。
ようやく思い出したその名を、ユージオは計り知れない衝撃とともに何度も頭のなかで繰り返した。
アリスを連れ去り、記憶を奪って整合騎士に造り変えた……あの驚異的な力を持つカーディナルでさえ敵わなかった、最強究極の神聖術者。自分とキリトの、最後の敵。
その相手が今、目の前で、眠っている。
今なら殺せる!?
しかし剣が――。
いや、待て。ある――小さな、しかし強力な武器が。
ユージオは、こわばった右手を動かし、布地ごとシャツの胸元を掴んだ。
硬く、鋭い十字の感触がしっかりと掌に伝わった。
この短剣を刺せば、アドミニストレータはカーディナルの術の支配下に捕われる。空間を越えて送り込まれてくる超攻撃術によって、たちまちのうちに焼き殺されてしまうはずだ。
「…………く……」
しかし、ユージオは、シャツごしに短剣を握ったまま動けなかった。
ユージオの半身は、最強の術者アドミニストレータへの恐怖に怯え――もう半身は、その人と思えぬ美貌の呪縛にいまだ囚われていた。
傷つけてしまっていいのか……これほど美しい、完璧なる神の似姿を。
躊躇いが、ほんの僅かな時間、ユージオの右手を石に変えた。
しかし、その強張りが解ける寸前。
ぴくり、と、眠る少女の銀の睫毛が震えた。
それがゆっくり、ゆっくり持ち上がっていくのを、ユージオはただ、呆けたように口を開けながら見つめた。
神の国へと繋がる窓というものがもし存在するとすれば、それはこの少女の瞳以外のものでは有り得ない。
そんなふうに思えてならないほどに、薄く開かれた瞼の下から漏れた光は玄妙かつ神々しく、ユージオはもう視線を動かすこともできなかった。自分が今、どこで何をしているのかといったことすら、意識の彼方に吹き飛ばされていく。
そんなユージオを焦らすかのように、少女は薄く開いた瞼をふたたびそっと閉じ、そのゆっくりとした瞬きをさらに二度繰り返した。そしてついに、完璧な棗型の目をぱっちりと見開いた。
「あ…………」
自分の口から零れたため息を、ユージオは自覚できなかった。
少女の瞳は、白金を液体に変えたかのような、純粋な銀色だった。その鏡の如き虹彩を、文字通り虹の七色が、かすかにたゆたいながら彩っている。この世界に存在するどんな宝石よりも――それこそ四皇帝の宝冠の中央に輝く金剛石すら足元にも及ばないほどの、神々しい煌めき。
もはや指先の感覚までも失せ、ただベッドの上に膝を衝いた格好で石像のように固まったユージオの眼前で、目覚めた少女はまったく重さを感じさせない動作でふわり、と上体を持ち上げはじめた。腕を使うこともなく、筋肉の力というよりも目に見えぬ超常の力に背中を押されるかのように体が起き上がり、とてつもなく長い銀の髪も、風もないのに一度後方にさら……と流れてからまっすぐにまとまって流れ落ちる。
その動きにあわせて、これまで嗅いだことのない濃密かつ清冽な薫りがあたりに漂い、ユージオの思考を一層麻痺させた。
ほんの二メルの距離から呆然と見つめる侵入者の存在を、少女――アドミニストレータはまるで気にもとめぬ様子で、頬にかかった一筋の髪を右手の指先で後ろに払った。まっすぐ伸ばしていた、紫の薄物に包まれた両脚を、揃えて右に折りたたむ。重心が傾いた細い体を、華奢な左手をシーツについて支える。
その艶かしい姿勢のまま、アドミニストレータは、ついに顔を左に傾けてまっすぐユージオのほうを向いた。
俯いていた両の瞳がすっと上に動き、ユージオの目を正面から覗き込んだ。
虹色の燐光に縁どられた純銀の瞳。その中央に、人間ならば有るべき瞳孔は存在しない。とてつもなく美しいが、しかし鏡のようにすべての光を反射し、心の奥を一切覗かせぬ瞳――ユージオはそこに映り込んだ己の顔を目にしたが、しかし自分がどれほど危険かつ無防備な状況にあるのかということに気付く前に、アドミニストレータの艶やかな真珠色の唇が小さく動いた。
「可哀想な子」
何を言われたのか、理解するのにずいぶんと時間がかかった。しかし己の思考力の鈍磨を自覚することもなく、ユージオは呆然と問い返した。
「え……?」
かわいそう? 誰が? 僕が……?
「そうよ。とっても可哀想」
幼い少女のようでもあり、同時にあでやかな成熟をも感じさせる声が言った。無垢な清らかさと、触れなば落ちん危さを等しくはらんだ、聞くものの心を深く掻き乱す響き。
その声を生み出した、ほんのりと赤みを帯びた真珠のごとき唇が、ごくごくかすかな微笑みを浮かべ、ユージオの心中に更なる混乱を渇望を巻き起こす。アドミニストレータは謎めいた微笑を漂わせたまま、更にいくつかの言葉を宙に零れさせた。
「あなたはまるで、萎れた鉢植えの花。土にどれだけ根を張ろうと、風にどれだけ葉を伸ばそうと、ひとしずくの水にさえ触れない」
どういう……意味なんだ……?
僕が……萎れた鉢植え……?
ユージオは眉をしかめ、痺れた頭で不思議な言葉の意味を理解しようとした。しかし、停滞した思考のなかにあっても、アドミニストレータの言葉には、何かしら心に突き刺さる痛みを喚起させるものがあった。
「そうよ……あなたにはわかっている。自分が、どれほど渇き、餓えているか」
「……何に……?」
口が勝手に動き、低くしわがれた声が漏れた。
アドミニストレータは、輝く銀の瞳でじっとユージオを見つめ、微笑を消さぬまま弓形の眉をまるで憐れむかのようにひそめて答えた。
「愛に」
愛……だって?
まるで……僕が……愛を知らないみたいに……。
「そのとおりよ。あなたは、愛されるということを知らない、可哀想な子」
そんなことない。
母さんは……僕を愛してくれた。眠れないときは……僕を抱いて、子守唄を歌ってくれたんだ。
「その愛は、ほんとうに、あなた一人のものだったの? 違うでしょう? ほんとうは、あなたの兄弟に分け与えた余り物だったんでしょう……?」
嘘だ。母さんは……僕を、僕だけを愛してくれたんだ……。
「自分だけを愛してほしかった。でもそうしてくれなかった。だからあなたは憎んだの。母の愛を奪う父を。兄たちを」
嘘だ! 憎んでなんかいない。僕は、僕は、父さんや兄さんたちを殺したりしてない。
「そうかしら……? だって、あなたは殺したじゃない」
…………。
誰を……?
「はじめて、自分ひとりを愛してくれるかもしれなかった、あの赤毛の女の子……あの子を力ずくで奪い、汚した男を、あなたは殺した。憎いから。自分だけのものを獲られたから」
……!!
違う……僕は、そんな理由で……そんな理由でライオスを斬ったんじゃない。
「でも、あなたの乾きは癒されない。もう誰も、あなたを愛してくれないから。誰も、あなたに水を与えてくれないから。みんなあなたを忘れてしまった。もう要らないって、捨ててしまったの」
違う……違うよ。僕は……僕は、捨てられてなんかいない……。
そうだ……違う。
僕には、
アリスがいる。
その名を思い出したとたん、頭の中を濃密に覆い尽くすねっとりとした霧が少し晴れたような気がして、ユージオはぎゅっと両目をつぶった。このままじゃいけない、この声を聞いてちゃいけない、湧き上がった危機感がそう囁く。
しかし、思考する力を取り戻す前に、再び甘く蠱惑的な声が、両の耳から滑り込んできた。
「本当にそうかしら……? 本当にあの子は、あなただけを愛しているのかしら……?」
憐れみの響きの裏に、かすかにくすくすと笑うような音が混じる。
「あなたは忘れているの。思い出させてあげる。真実を……あなたが深いところに埋めてしまった、ほんとうの記憶を」
途端、ユージオの視界がぐらりと傾いた。
膝をついていた柔らかいシーツは消えうせ、暗い、暗い穴のなかを、どこまでも落ちていく。
ふと、生々しい青草の匂いが鼻をつく。
視界の隅に緑色の光がちらちらと瞬き、さえずり交わす小鳥の声に、ざくざくという足音が重なる。
気付くと、ユージオは深い森の中を一人走っている。
視点がやけに低く、歩幅も短い。見下ろせば、粗い麻の半ズボンから伸びた脚は、細く頼りない子供のものだ。だが違和感はすぐに消え去り、変わりに圧倒的な焦燥感と寂寥感が取ってかわる。
今日は、朝からアリスの姿が見えないのだ。
午前中の家の手伝い、牛の世話と菜園の草取りを終わらせ、ユージオは一目散にいつもの集合場所、村の外れの林檎の樹の下に急いだ。しかし、どれだけ待とうとアリスは来なかった。それに、同じく産まれたときからの幼馴染である黒髪の少年――キリトも。
ソルスの光が作り出す自分の影がずいぶんと短くなるまで二人を待ってから、ユージオは言い知れぬ不安を抱えながらアリスの家までとぼとぼと歩いた。きっと、何かイタズラが見つかって遊びにいくのを禁止されたんだ、そう思ったのに、ユージオを出迎えたツーベルクのおばさんは首をひねりながら言った。
おかしいわねえ、今日は随分とはやく出かけたわよ。キリ坊が迎えにきたから、てっきりユー坊も一緒だと思ったんだけどねえ。
もごもごと礼を言って村長の屋敷を後にしたユージオは、不安が焦りに変わるのを感じながら、村中を探し回った。しかし、村の餓鬼大将である衛士長の息子ジンクとその子分たちが占拠している中央広場はもちろん、どの遊び場にも、隠れ家にも、キリトとアリスの姿は無かった。
思い当たる場所はもう、一箇所しかなかった。普段、子供たちが一切近づかぬ東の森、その奥に最近見つけた、小さな円形の空き地。大人達が"妖精の輪"と呼ぶ、様々な花や甘い果実に埋めつくされた、三人だけの秘密の場所。
そこを目指して、半ばべそをかきながら、ユージオは懸命に走る。寂しさと訝しさ、そしてもうひとつ、名前を知らない不快な感情に衝き動かされながら。
曲がりくねった獣道を懸命に駆け抜け、一際太い古木にぐるりと囲まれた秘密の空き地が近づいてきたとき、不意に樹の幹と幹のあいだに眩い金色の光が瞬いて、ユージオははっと脚を止めた。
間違いなく、見慣れたアリスの金髪の輝きだった。何故か反射的に息を潜め、耳をそばだてる。ぼそぼそ、と密かに交し合う言葉の端々が、かすかに届いてくる。
どうして……どうしてだよ。
そんな言葉だけを頭のなかで繰り返しながら、ユージオはそっと、そっと空き地に歩み寄った。巨大な惨めさを抱えながら、ひときわ太い樹の陰に身を隠し、陽光溢れる秘密の場所を覗き見る。
咲き乱れる色とりどりの花の中央に、アリスがこちらに背を向けて座っていた。顔は見えないが、流れるまっすぐな金髪と、深い青のドレス、白いエプロンは間違いようもない。
そしてその隣に、つんつんと硬い黒髪の頭。無二の親友、キリトだ。
じっとりと冷たい汗が、握った手のひらを濡らす。
何してるんだ。二人だけで、僕にかくれて、何してるんだよ。
立ち尽くすユージオの耳に、微風に乗ったキリトの声が聞こえた。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
それに答える、アリスの声。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
いやだ。
もう、ここにいたくない。
しかしユージオの脚は、まるで樹の根に絡みつかれたかのように動かない。
どうしても逸らせない視線の先で、アリスの頭がそっとキリトに近づく。
かすかな囁き声の断片。
鮮やかなソルスの光の下、咲き誇る花々の中央で寄り添う二人の姿は、まるで一枚の絵のようで。
いやだ。
うそだ。こんなの、全部うそだ。
ユージオは心の中で叫ぶ。しかしどれほど否定しようと、この光景すべてが、自分の記憶のなかから出てきた真実であるという確信がぬぐいがたく湧き上がり、胸に苦い水となって満ちる。
「ほら……ね?」
くすくす。
ひそやかな笑いの混じる、アドミニストレータの囁き声が、ユージオを現実に引き戻す。
セントラル・カセドラル最上階、薄暗い最高司祭の居室の巨大なベッドの上で我に返っても、ユージオの瞼の裏に閃く緑と黄金の輝きはなかなか消えなかった。それに、耳に染み付く、アリスとキリトの囁き声も。
キリトと出会ったのはたったの二年半前、もうアリスが教会に連れ去られたずっと後だ――というかすかな理性の声も、ユージオの胸中を埋め尽くす圧倒的な黒い塊を溶かすことはできなかった。感情の大渦に翻弄され、蒼白になって荒い息を繰り返すユージオを、すこし離れた場所からアドミニストレータは憐憫の表情を作って見つめてくる。
「わかったでしょう……? あの子の愛すら、あなた一人のものじゃないのよ。ううん……そもそも、最初からあなたの分はあったのかしらね?」
甘い声がするりするりとユージオの中に滑り込み、そのたびにユージオの胸のうちをかき乱し、いっそう乾かしていく。くっきりと浮き上がる、果てしない餓えと孤独感。心がみるみるひび割れ、かさかさと剥がれ落ちていく。
「でも、私は違うわ、ユージオ」
これまででもっとも誘惑的な声が、蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香にも似て、ユージオの耳にとろりと流れた。
「私があなたを愛してあげる。あなた一人だけに、私の愛をぜんぶあげるわ」
半ば曇った眼をぼんやりと持ち上げたユージオの視線の先で、銀の髪と瞳をあでやかに煌めかせた少女が、とろけるような微笑を浮かべた。
柔らかなシーツに沈み込んだ脚を動かし、上体をまっすぐに伸ばす。
両手がゆっくりと持ち上がり、薄紫の絹の寝巻きの胸元を止めるリボンを思わせぶりに弄る。
銀糸を編んだリボンの端を、しなやかな指先がつまみ、少しずつ、少しずつ引っ張っていく。広い襟ぐりから半ば以上露わになった、しっとりと白いふくらみが、誘うように揺れる。
「もっとこっちにきて、ユージオ」
その囁きは、夢の中で聞いた母の声のようでも、また幻の中で耳にしたアリスの声のようでもあった。