扉のむこうに見えたのは、ユージオ達が上ってきた大回廊南側の階段ホールとほぼ同じ広さの空間だった。形も同じく半円形、奥で弧を描く壁面には細長い窓が並んで穿たれ、濃い青色の北空を覗き見ることができる。
しかし、黒と白の石を交互にはめ込んだ床には、南側にあったような大きな階段は存在しなかった。
それどころか、梯子も、縄一本すらも見当たらない。つるりと滑らかな床面には、ほぼ中央に奇妙な円形の窪みがひとつあるのみで、上に登るための路は一切ユージオの目には入ってこない。
「か……階段がないよ」
呆然と呟きながら、キリトの後に続いて薄暗い半円ホールに踏み込んだユージオは、再び首筋に冷たい空気の流れを感じて肩を縮めた。相棒も気付いたようで、二人同時に真上を振り仰ぐ。
「……な……」
「なんだこりゃ……」
そして、二人同時に息を飲んだ。
天井は無かった。半分に切った巻きケーキの形の空間が、視線の届く限りどこまでもどこまでも伸びている。上のほうは濃紺の闇に沈んで、一体どれほどの高さまで続いているのか推し量ることもできない。
遥かな高みから徐々に視線を戻してくると、この吹き抜けは完全に空っぽの空間というわけではないことに気付いた。五十一階以降のそれぞれの階層に相当する高さの壁面に、二人の背後にあるのよりは小さい扉が設けられ、その前から細長いテラスが吹き抜けの中ほどまで伸びている。
つまり、あのテラスまで辿り着ければ上の階に侵入できる――ということになるのだが。
ユージオは無意識のうちに右手を伸ばし、ぴょんと軽く飛び上がってみた。
「……届くわけないって」
ため息混じりに呟く。最も近いテラスでさえ、当然ながら背後の"霊光の大回廊"の天井以上の高さに存在するわけで、どう見積もっても二十メルはある。
隣で同じように目をしばたいていたキリトが、力の抜けた声で訊いてきた。
「あのー……一応確認しとくけど、空を飛ぶ神聖術ってないよな?」
「ないよ」
容赦無く即答する。
「だって空を飛ぶのは整合騎士だけの特権じゃないか。彼らだって、術で飛んでるんじゃなくて飛竜に乗ってるんだし……」
「じゃあ……ここの人間は、どうやって五十一階から上を行き来してるんだ?」
「さあ……」
二人揃って首を捻る。気は進まないが、大回廊に取って返して、倒れているファナティオの部下に上に行く方法を尋ねるしかないのか、と考えた、その時。
「おい――何か来るぞ」
キリトが緊張した声で囁いた。
「え?」
眉をしかめてもう一度吹き抜けを見上げる。
確かに――何かが近づいてくるのが見えた。一列になって突き出しているテラスの端をかすめるように、黒い影がゆっくりと降下してくる。キリトと同時に後ろに飛びのき、剣の柄に手を掛けながら、ユージオはじっと接近するものを凝視した。
完全な円形だ。差し渡しは二メルと行ったところか。細い窓から差し込む青い光を受けるたびに縁がぎらり、ぎらりと光るところを見ると、鉄製の円盤というようなものらしい。しかしなぜそんな代物が、支柱も何もない空間をふわふわ下降してくるのか。
一定の速度で移動する円盤が二階上のテラスを通過したとき、ユージオの耳が、しゅうしゅうという奇妙な音を捉えた。同時に再び、冷たい空気の流れを首筋で意識する。
逃げるでも、剣を抜くでもなく、ユージオはただ唖然と立ち尽くしたまま、円盤が頭上のテラスをかすめ二人の目の前へと降りてくる様を眺めていた。ほんの数メル上空にまでそれが近づいたとき、円盤の下部中央に小さな穴が開き、そこから猛烈な勢いで噴き出す空気が、謎の音と風の原因であると気付く。
しかしたかが風の力で、こんな大きな鉄の皿を浮かせられるものだろうか――といぶかしむ間にも、しゅうしゅういう音はどんどんその勢いを増し、金属盤は落下速度をみるみる緩め、最後にはこつんというかすかな音だけを発して、石床に空いていた窪みにぴったりと嵌まるように停止した。
円盤の上面は、鏡のように滑らかに磨かれていた。縁には、精緻な細工の施された手摺がぐるりと取り付けられている。中央からは、長さ一メル少々太さ十五センほどのの硝子製の筒が真っ直ぐに伸び――半球状に丸くなったその筒のてっぺんに両手を当てて、一人の少女がぽつりと立っていた。
「――!」
ユージオは息を飲みながら、剣の柄に沿えた右手に力を込めた。新手の整合騎士か、と神経を張り詰めさせる。
しかしすぐに、少女の腰にも背中にも、短剣のひとつも装備されていないことに気付いた。服装も、おおよそ戦闘には向かなそうな、簡素な黒いロングスカートだ。胸からつま先近くまで垂れる白いエプロンの、縁取りに施された控えめなレース編みだけが唯一装飾的と言っていいもので、あとはアクセサリーのひとつも身につけていない。
灰色がかった茶色の髪は、眉と肩の線で真っ直ぐに切り揃えられ、血色の薄い顔も特徴を見出しにくい造作だった。整ってはいるが表情というものが無い。歳の頃はユージオ達より少し下、と見えたが確信は持てなかった。
一体何者だろう、とユージオは少女の瞳を見ようとしたが、伏せられた睫毛に隠れ色すらも分からない。円盤が停止する前から、一切二人の顔を見ようとしなかった少女は、不思議な硝子筒から手を離すとそれとエプロンの前に揃え、さらに深く頭を垂れて、はじめて声を発した。
「お待たせいたしました。何階をご利用でしょうか」
最低限の抑揚だけを備えた、色合いの無い声。およそ感情というものを窺うことができない。
少なくとも、敵意や害意は欠片すらも聞き取れなかったので、ユージオはそっと剣から手を離した。頭のなかで、少女の言葉をもう一度繰り返す。
「何階を……って……。じゃあ、君が、その、僕らを上の階まで連れていってくれるの?」
半信半疑でそう尋ねると、少女は戻した頭を再び下げた。
「左様で御座います。お望みの階をお申し付けくださいませ」
「って……言われても……」
自分たちの前に現れる者はことごとく障害、と思っていたユージオは、咄嗟に何を言っていいか分からず口篭もった。すると隣で、こちらも何を考えているのか分からないキリトがのんびりした口調で言った。
「ええと、俺たち、カセドラルに侵入した犯罪者なんだけど……そんなのエレ、いや円盤に乗っけて問題はないの?」
すると、少女はごくかすかに首を傾げたが、すぐに定位置に戻して答えた。
「わたくしの仕事は、この昇降盤を動かすことだけで御座います。それ以外のいかなる命令も受けておりません」
「そうか。じゃあ、ありがたく乗せてもらうよ」
呑気なことを言うと同時に、キリトがすたすたと円盤目指して歩きはじめたので、ユージオは慌てて声を掛けた。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「だって、これ以外に上に行く方法はなさそうだぜ」
「そりゃ……そうかもしれないけど……」
子供騎士二人にあんな目に合わされた直後に、よくそんな無警戒に怪しげなものに乗れるなあとユージオは呆れたが、確かに、二人には円盤の動かし方すら見当もつかないのだ。これが罠でも、少なくともどこかのテラスに飛び移れればそれでいいかと腹を決め、相棒の後に続く。
華奢な手摺の切れ目から順に円盤に乗り込むと、キリトは不思議そうに硝子の筒を覗き込みながら少女に告げた。
「えっと、じゃあ行ける一番上の階まで行ってくれ」
「かしこまりました。それでは八十階、"雲上庭園"まで参ります。お体を手摺の外に出しませんようお願いいたします」
間髪入れずに答え、またしても一礼してから、少女は筒のてっぺんに両手を当てた。すうっと息を吸い込み――。
「システム・コール。ジェネレート・エアリアル・エレメント」
突然の術式詠唱に、すわ攻撃か、とユージオは泡を食ったが、どうやらそうではないようだった。緑色に輝く風素が出現したのは、透明な筒の内部だったからだ。しかしその数を見て、もう一度驚く。きっちり十個――これだけの数の素因を同時生成できるからには、術者としては相当に高位だ。
少女は硝子筒に当てた華奢な十指のうち、右手の親指、人差し指、中指をまっすぐ立てると、そっと呟いた。
「バースト」
途端、素因のうち三個が緑の閃光とともに弾け、ごうっ! という音が足の下から湧き起こった。直後、三人が乗った鉄の円盤が、見えない手に引っ張られたように上昇を開始する。
「なるほどなあ! そういう仕組みなのか」
感心したようなキリトの声に、ユージオはようやく円盤が上下する仕組みを悟った。鉄盤を貫く硝子筒の内部で風素を解放し、生み出された爆発的な突風を下向きに噴出することで、三人の体重に円盤自体の重さを足しただけの重量を持ち上げているのだ。
仕掛けとしては甚だ単純なものだが、それをまったく感じさせないほどに、円盤の動きは一定かつ滑らかだった。上昇開始時に、多少ぐうっと押し付けられる感覚があった他は、ほとんど揺れを感じさせることもなくすうっと宙を滑っていく。
五十階の床はたちまち眼下に遠くなり、ユージオは改めてこの小さな円盤が八十階、つまり雲にも届くほどの高さまで昇るのだということを意識した。汗ばんだ掌をズボンで拭い、ぎゅうっと手摺を握りしめる。
しかし隣のキリトのほうは、まるで以前にも似たようなものに乗ったことがあるとでも言うように平然とした顔でへえーだのふうーんだのと感心していたが、やがて興味の対象を円盤からそれを操る人間のほうに移したらしく、少女に向かって尋ねた。
「君は、いつからこの仕事をしてるの?」
少女は顔を伏せたまま、ほんの少しだけ不思議そうな声で答えた。
「この天職を頂いてから、今年で百七年になります」
「ひゃ……」
思わず足下の空間のことを忘れ、ユージオは目を丸くした。つっかえながら更に問いただす。
「ひ、百七年って……その間ずっとこの円盤を動かしてるの!?」
「ずっと……ではありません。お昼には食事休みを頂きますし、もちろん夜も寝ませて頂きますから」
「い、いや……そういうことでなく……」
――そういうことなのだろう。恐らく、この少女もまた整合騎士と同様に天命を凍結され、永遠とも言える時間を一枚の金属盤の上で生きてきたのだ。
無限の刻を戦いに費やす整合騎士よりも――それははるかに恐ろしく、孤独で、荒涼とした運命であるとユージオには思えた。
金属盤は、ゆるゆると、しかし着実に上昇していく。少女は、伏せた瞼の下に一切の感情を包み隠し、風素がひとつ尽きると新たにひとつ、またひとつと解放させる。そのたびに呟く「バースト」の一言を、これまで彼女は何度繰り返してきたのだろう、とユージオは考えたが、もちろんとても想像の及ぶ範囲ではなかった。
「君……名前は?」
不意にキリトがそう訊いた。
少女は、これまでで一番長く首を傾げたあと、ぽつりと答えた。
「名前は……忘れてしまいました。皆様は、私を"昇降係"とお呼びになります。昇降係……それがわたくしの名前です」
これにはキリトも返す言葉を見つけられないようだった。通過するテラスを何気なく数えていたユージオは、それが二十を超えたところで、何かを言わなければ、という衝動に背中を押されるように口を開いた。
「……あの……あのさ、僕たち……神聖教会の偉い人を倒しに行くんだ。君に、この天職を命じた人を」
「そうですか」
少女が返した声はそれだけだった。しかし、ユージオは尚も、恐らくは何の意味もないであろう言葉を重ねた。
「もし……教会がなくなって、この天職から解放されたら、君はどうするの……?」
「……解放……?」
覚束ない口調でそう繰り返すと、昇降係という名前の少女は、円盤がさらに五つのテラスを通り過ぎる間沈黙を続けた。
ちらりと上空を見上げたユージオは、いつの間にか行く手に石の天蓋が見えてきていることの気づいた。あそこが八十階――いよいよ、本当の意味で教会の、つまり世界の中核に足を踏み入れることになる。
「わたくしは……この昇降洞以外の世界を知りません」
不意に、少女がごくかすかな声で言った。
「ゆえに……新たな天職と仰られても決めかねますが……でも、してみたいこと、という意味ならば……」
これまでずっと俯かせていた顔をすっと上げて、少女は肩越しに細長い窓を――その向こう側の、午後の北空を見やった。
「……あの空を……この昇降盤で、自由に飛んでみたい……」
はじめて見る少女の瞳は、真夏の蒼穹のように深い、深い藍色だった。
最後の風素が瞬いて消える寸前に、円盤は三十番目のテラスに到達し、ふわりとその動きを止めた。
昇降係の少女は、硝子筒から両手を離すとエプロンの前で揃え、深く一礼した。
「お待たせいたしました、八十階・"雲上庭園"でございます」
「あ……ありがとう」
ユージオもキリトと一緒に頭を下げ、円盤からテラスへと乗り移った。
少女はもう一切顔を上げることなく、再度の会釈だけを残して、風素が弱まるに任せ円盤を降下させた。木枯らしのような噴出音はたちまち遠ざかり、永遠の刻を閉じ込めた鋼鉄の小世界は、薄青い闇のなかにその姿を消した。
ユージオは我知らず長いため息をついていた。
「……僕の前の天職も、終わりが見えないことにかけちゃ世界で最悪だと思ってたけど……」
呟くと、キリトが眉を持ち上げて視線を送ってくる。
「年とって斧が振れなくなったら引退できる……ってだけでぜんぜんましだよね、あの子に比べれば……」
「天命を術で無理矢理に延ばしても、魂の老化は防げないんだってカーディナルは言ってたよ。記憶が少しずつ侵されていって、最後には崩壊してしまう、って」
唇を噛みながらそう答えたキリトは、想念を断ち切るように勢い良く振り向き、深い縦孔に背を向けた。
「この世界はどうしようもなく間違ってる……だから俺たちはアドミニストレータを倒すためにここまで来た。でも、それで終わりじゃないんだ、ユージオ。本当の難題は、その先に……」
「え……? アドミニストレータを倒せば、あとはさっきのカーディナルさんに任せればいいんじゃないの?」
眉を寄せながらユージオがそう訊くと、キリトは何かを言いかけるように唇を動かしたが、常に果断な彼らしからぬ躊躇いをその目に浮かべ、顔を伏せた。
「キリト……?」
「……いや、この先は、アリスを取り戻してから話すよ。今は余計なこと考えてる余裕はないもんな」
「それは……そうだけど」
首を傾げるユージオの視線から逃れるように、キリトは足早にテラスを歩きはじめた。腑に落ちないものを感じながらユージオはその後を追ったが、短いテラスの突き当たりに聳える大扉が視界に入ると、湧き上がった緊張感がかすかな疑念をあっという間に吹き散らした。
五十階にあれだけの騎士を集めていたことからして、教会を指揮する人間はあそこで何がなんでも二人を阻止するつもりだったのだろう。実際のところ、ファナティオの猛攻撃を退けられたのは紙一重の僥倖でしかなかった。あの防衛線を突破し、最上階に間近いこんな所まで登ってきてしまったからには、教会側もいよいよ最高戦力を惜しみなく繰り出してくるに違いない。例えば、この扉を開けた先には、騎士団長以下残る整合騎士の全員と、司祭や修道士といった高位術士たちが大挙して待ち構えている――ということも充分に有り得るのだ。
しかし、迂回路が無い以上、あらゆる障壁を正面から突破していかなくてはならない。
できるはずだ――僕と、キリトなら。
ユージオは、隣に立つ相棒としっかりと瞳を見交わし、頷きあった。同時に手を伸ばし、左右の扉にそれぞれの掌を当てる。
重々しい音を立てて、石扉はゆっくりと別たれた。
「……!?」
途端、眼前に広がった色彩と、水のせせらぎ、そして甘い香りの渦に、ユージオは一瞬眩暈に似た感覚に襲われた。
塔の内部なのは間違いない。その証に、四方は見慣れた大理石の壁に囲まれている。
しかし、広大な床面には、五十階にあったような滑らかな石張りは一枚たりとも無かった。かわりに、柔らかそうな青草が密に生い茂っている。所どころに色とりどりの花が咲き誇っていて、香りの源はそこらしい。
驚いたことに、数メル離れた場所には小川までもが流れ、水面をきらきらと輝かせていた。二人の立つ扉からは、草むらを貫いて細い煉瓦敷きの小道がくねりながら伸び、小川にかかる木橋を経てさらに先へと続いている。
川の向こうは小高い丘になっているようだった。揺れる若草に覆われた斜面を、小道は蛇行しながら登っていく。視線で道を辿ったユージオは、その行き着く先に、一本の樹が生えているのに気付いた。
それほど大きな樹ではない。細い枝には濃い緑色の葉と、霞のように咲くごく小さな橙色の花が見てとれる。はるか高い天井間近の壁に設けられた窓から、細々と差し込むソルスの光が、今ちょうどその樹に投げかけられて無数の花をまるで黄金の飾り玉のように輝かせていた。
細い幹もまた、陽光を浴びて滑らかに光り――そしてその根元にも、一際眩しい金色の煌めきが――。
「あ…………」
ユージオは、自分の口から漏れた小さな声を意識することは無かった。
樹の幹に背中を預け、眼を閉じて座っている一人の少女を見たときから、あらゆる思考が停止していた。
傾きはじめた木漏れ日が生み出した幻ででもあるかのように、少女の全身は金色の光にくまなく彩られていた。上半身と両腕を覆う華麗な鎧は、白銀に黄金の象嵌を施したものだし、長いスカートも純白の地に金糸の縫い取り、白革のブーツに至るまでが降り注ぐ陽光を存分に跳ね返している。
しかし、何よりも眩く輝いているのは、鎧の上に豊かに流れる長い髪だった。純金を鋳溶かしたかのような真っ直ぐな髪が、完璧な円弧を描く小さな頭から、草むらに広がる毛先までの、神々しいほどの光の滝を作り出していた。
遥かな昔、毎日のように目にしていた輝き。その貴さも、儚さも知らず、いたずらに引っ張ったり、小枝を結びつけたりしたあの髪。
友情と、憧れと、ほのかな恋心の象徴であった黄金の輝きは、ある一日を境にしてユージオの弱さ、醜さ、怯惰だけを意味するものへと変質してしまった。そしてもう、二度と見つめることは叶わないはずだったあの煌めきが、今また手の届く場所にある。
「あ……アリ……ス……」
自分の口からしわがれた声が漏れたのにも気付かないまま、ユージオはふらつく脚を前に踏み出した。
煉瓦の小道をよろよろと辿る。もう、青草や花のさわやかな香りも、呟くような水音も、ユージオの意識には届かなかった。ただ、胸元を握り締める汗ばんだ手の熱さと、布地の奥で脈打つような銅剣の感触だけが、ユージオを世界に繋ぎ止めていた。
小川に架かる橋を渡り、登り坂へと差し掛かる。丘の天辺までは、もう二十メルも無かった。
少しだけ俯いた少女の――アリスの顔が、もう間近に見えた。透き通るように白い肌には、いかなる表情も浮かんでいない。ただ目を閉じて、陽光の温もりと、樹の花の香りに心を漂わせているようだ。
眠っているのだろうか?
このまま近づいて、揃えた膝の上で組み合わせられている指先に、ほんの少しこの針を刺せば――それで全てが終わるのだろうか?
ユージオがふとそう考えた、その瞬間だった。
アリスの右手が、音もなくすっと掲げられ、ユージオは心臓がどくんと跳ねるのを感じながら足を止めた。
艶やかな唇が動き、懐かしい声が耳に届いた。
「もう少しだけ待って。せっかくのいい天気だから、この子にたっぷり浴びさせてあげたいの」
金色の睫毛に縁どられた瞼が、ゆっくりと持ち上げられた。
唯一無二の碧玉の色をもつ瞳が、まっすぐにユージオの目を見た。
その瞳がふわりと和らぎ、唇に穏やかな微笑が浮かぶ――幻を、ユージオは予感した。
しかし、透き通った蒼い瞳に見出せたのは、人間としてのユージオには一抹の興味も持たない、冷徹に敵を見定める剣士の視線でしかなかった。
射竦められたかのように、ユージオは脚を動かせなくなった。
やはり戦わなければならないのだ――喩え記憶を失っていようとも、紛うことなきルーリッドのアリス・ツーベルク本人であるところのあの少女を相手に剣を抜かなければならないのだ、というこの状況が、ひどく受け入れがたいものであることをユージオは改めて認識させられていた。
整合騎士アリスの実力は、一日前に鞘で頬を打たれたときに体で理解している。あの一撃を、虚を衝かれたとはいえユージオは目で追うことすらできなかった。それほどの腕を持つ剣士の動きを、傷を負わせることなく封じるのがいかに至難か、考えるまでもない。
しかし――だからと言って、アリスの肌に刃を触れさせられるのだろうか? いや、あの金色の髪を、ひと筋ですら切り落とすことが、本当にこの僕に出来るのだろうか?
剣を抜くどころか、もう一歩たりとも前に進めないというのに。
突然の葛藤に襲われ立ち尽くすユージオの背後で、キリトが少しばかり掠れた声を出した。
「お前は戦うな、ユージオ。カーディナルの短剣を、確実にアリスに刺すことだけ考えるんだ。アリスの攻撃は、俺が体で止める」
「で……でも」
「それしかないんだ、戦闘が長引けば長引くほど状況は悪くなる。彼女の初撃を、かわさずに受けてそのまま拘束するから、すかさず短剣を使え……いいな」
「…………」
きつく唇を噛む。デュソルバートと戦ったときも、ファナティオと戦ったときも、結果的に血を流す役回りは全てキリトに押し付けてしまったのだ。もとより、神聖教会に挑むというこの無謀な企ては、ただユージオの個人的な感情のみに端を発しているというのに。
「……すまない」
忸怩たるものを感じながらそう呟くと、キリトは低い笑いを交えて答えた。
「なに、すぐに倍にして返してもらうさ。……しかし、それはそれとして……」
「……? どうしたんだ?」
「いや……ここから見た限りだと、彼女、武装してる様子がないぞ。それに……"この子"って何のことなんだ……?」
言われるまま、丘の上に座るアリスに目を凝らす。先刻一瞬開いた瞼は再び閉じられ、軽く俯いたままの彼女の腰を見ると、確かに、学院で会った時にはそこに下がっていた金色の鞘が今は無い。
「もしかしたら、休憩中で剣は置いてきた、とかかな……だとしたら凄く助かるけどな」
そんなことは全く信じていなさそうな口調で呟き、キリトは右手を黒い剣の柄に乗せた。
「彼女には悪いけど、日向ぼっこが終わるまで付き合って待ってるわけにもいかない。今仕掛ければ、剣があろうと無かろうと、少なくとも完全支配を発動する余裕は無いはずだ。正直、あれを使わずにすめばそれに越したことはないしな」
「そうだね……僕の完全支配術はそんなに剣の天命を消費しないから、今日中にあと二回は使えると思うけど……」
「そりゃ助かる……けど、こっちはもう一回が限界だ。アリスの後にも、強敵が少なくとも二人いるはずだからな。じゃあ……行くぞ」
視線で頷き、キリトは一歩前に足を進めた。
意を決し、ユージオもその後を追う。
丘をぐるりと巻いて伸びる煉瓦道から外れ、一直線に頂上を目指す。さく、さくと靴底で青草が鳴る。
アリスが音も無く立ち上がったのは、二人が丘の半ば程まで登ったときだった。半眼に開かれた瞼の奥で、一切の感情をうかがわせない蒼い瞳が二人をじっと見下ろした。
途端、まるで視線にある種の術式でも含まれているかのように、両足がずしりと重くなる。やはり、どう見てもアリスは剣帯していないのに、足がこれ以上彼女に接近することを拒んでいるようにユージオには感じられた。一度頬を打たれただけで肉体に恐れを刻まれてしまったのか――しかし、それにしては、前を行くキリトの足取りからも力強さが失われてはいないか。
「とうとう、こんな所まで登ってきてしまったのですね」
再び、アリスの澄んだ声が空気を揺らした。
「お前たちが仮に牢の鎖から逃れることがあっても、薔薇園に待機させたエルドリエ一人で充分に処理できると、私は判断しました。しかしお前たちは彼を破り、あまつさえ神器を携えたデュソルバート殿を、そしてファナティオ殿までも斬り伏せてここまで来た。一体何が、お前たちにそのような力を与えているのです? 一体何故、このような人界の平穏を揺るがす挙に及ぶのです? お前たちが整合騎士を一人傷つけるたびに、闇の侵略に対する備えが大きく損なわれていることが何故理解できないのですか?」
――君のため、ただそれだけだ。
ユージオは心のなかでそう叫んだ。しかし、それを言葉にしても、眼前の整合騎士アリスには何の意味も持たないことは分かっていた。奥歯をきつく噛み締め、ただ懸命に、ユージオは足を前に動かしつづけた。
「やはり――剣で訊くしかないようですね。いいでしょう……それがお前たちの望みならば」
ため息のようにそう口にして、アリスは傍らの樹の幹に右手を添えた。
でも、剣なんか無いじゃないか――。
ユージオがそう思うのと、キリトが短く、まさか、と口走ったのはほぼ同時だった。
次の瞬間、一瞬の金色の閃光を放って、丘の天辺に生えていた樹が消滅した。
「――――!?」
少し遅れて、甘く爽やかな香りが一際強く漂い、そして消えた。
アリスの右手には、見覚えのある、やや細身の直剣が握られていた。鞘も柄も、精妙な細工が施された黄金製だ。
何が起きたのか、咄嗟にユージオには理解できなかった。樹が消えて、剣が現われた――つまり、あの樹が剣へと変化したということなのか? しかし、アリスは何の術式も口もしなかった。今のが単なる幻術にせよ、あるいは超高等神聖術の物質組成変換であるにせよ、駆式もなしに実行するのは不可能だ。もし、持ち主の心象化のみに拠って姿を変えたのなら――それは、つまり――。
一足早くその結論に達したらしいキリトが、低く呻いた。
「しまった、やばいぞ……あの剣、まさか……もう完全支配状態なのか」
棒立ちになった二人を半眼で睥睨し、アリスは両手で水平に剣を掲げた。
じゃっ! と音高く抜き放たれた刀身は、鞘よりも一際深い山吹色の輝きを放ち、眩く煌めいた。
一瞬のちに、キリトが猛然と突っ掛けた。アリスの剣の攻撃力が発揮される前に接近戦に持ち込むという判断だろう。足許の青草を盛大に引き千切りながら、僅か十歩ほどで丘を八割がた登り詰める。
胸元の鎖を握りながら、ユージオも必死にその後を追った。キリトは抜刀する気は無いようだった。言葉どおり、アリスの初撃を体で止めるつもりらしい。恐らく、動きを封じられるとしても一瞬だろう。ならば、その隙を逃さずに短剣を刺すという役目を、ユージオは絶対に果たさなくてはならない。
黒衣の剣士の猛突進を目にしても、アリスの表情に一切の変化は無かった。ほとんど無造作とも見える動きで、右手の剣を軽く振りかぶる。
まだキリトは切っ先の間合いには程遠い。ということは、デュソルバートやファナティオのような遠隔型攻撃術か。とすれば仮に第一撃でキリトが退けられても、ユージオが組み付く猶予はあるはずだ。
咄嗟にそう考え、ユージオはキリトとは角度を変えて突進を続けた。
アリスの右手が、すっと前に振られた。
黄金の剣の、刀身が消えた。
「!?」
正確には、消えたのではない。分解した――と言うべきか。剣は、幾百、幾千もの小球へと分かたれ、金色の突風となってキリトを襲った。
「ぐあっ!!」
無数の輝きに包まれたキリトが、呻き声とともに棒のように地面に打ち倒された。
相棒が作ってくれた唯一の機会を生かすべく、ユージオは歯を食い縛って前に走った。
しかし、キリトを襲った黄金の風は、そこで止まったわけではなかった。ざああっ! と木枯らしのような音を立てながら空中で左に向きを変え、そのまま横殴りにユージオを包み込んでくる。
とても耐えられるような衝撃ではなかった。巨人の掌に張り飛ばされたかのごとく、ユージオは声も無く右方向に倒れこんだ。
麦粒のような小球ひとつひとつが、凄まじい重さだ。嵐に含まれる雨粒すべてが鉄に変じたかのような――いや、それよりも酷い。背中から地面に落ちたユージオは、黄金の突風に打たれたとき咄嗟に顔をかばった左腕全体に焼け付くような痛みを覚え、のた打ち回りたくなるのを必死に耐えた。
二人の突撃をいとも容易く退けた無数の黄金球は、弧を描いて舞い上がり、アリスのもとに戻った。しかし、剣の姿に還ることはなく、そのまま騎士の周囲に漂いつづける。
「――私を愚弄しているのですか? 抜刀もせず突撃してくるなど」
相変わらず寸毫も感情を表に出さずに、アリスが静かに叱責した。
「今の攻撃は、警告の意味を含めて加減しました。ですが次は天命を全て消し去ります。持てる力を出し尽くしなさい、これまでお前たちが倒した騎士のためにも」
手を――抜いた?
あの凄まじい威力で? まさか!
心底戦慄するユージオの視線の先で、無数の黄金球が、一斉にじゃきっ! と音を立ててその形を変えた。それらは最早滑らかな球ではなく、一端が鋭角に尖った菱形だった。
恐怖が、手足を痺れさせるほどの冷水となってユージオを飲み込んだ。
仮に黄金の小片が只一つだけだったとしても、それに急所を貫かれれば天命は激しく減少するだろう。しかし、今アリスの周りに豪奢な花吹雪のごとく煌めいている小片は、少なく見積もっても千以上に及ぶのだ。それらすべてを剣で弾くのは不可能だし、かといって空中を高速かつ自在に移動する群れをかわすのもまた至難だ。つまり、攻撃力としては、本来有り得ないほどに完全、そして万能――。
そう、有り得ないのだ。
神器を用いた武装完全支配術は確かに強力な技だが、それでも限界というものはある。武器の元となった存在が持つ"方向性"、つまり熱い、冷たい、硬い、速いといった要素を取り出し、より尖鋭化させて攻撃力に変えるのがこの術の本質であって、ある方向に特化すればするほどそれ以外の方向においては性能が劣化せざるを得ないのだ。例えば、ファナティオの完全支配術が、凝集した光線による一点貫通力に特化しすぎた余りに、小さな鏡一つに弾かれてしまったように。
アリスの剣の元となったらしいあの小さな樹がどのような出自を持つのかはまだ不明だが、内包する威力をあれほどまでに小さく多数に分割すれば――つまり突貫力を犠牲にして命中性を追求すれば、あの小片ひとつひとつの攻撃力はもっとずっと小さなものにならなくてはならない。先ほどユージオが体をもって実感させられたように、一センに満たない程度の欠片ひとつが、巨人の拳のように重いなどということはどう考えても理屈に合わない。
もし、そのようなことを実現できるとすれば、あの橙色の花を咲かせていた華奢な樹は、キリトの剣の元となったギガスシダーを遥かに凌ぐ超高優先度を与えられているということになる。
左前方に倒れているキリトも、一瞬のうちにユージオと同じことを考えたらしく、もたげた横顔はかつて見せたことのないほどの戦慄に蒼ざめていた。
しかし、諦めるということを知らない相棒は、恐怖の中にあってもまだ爛々と光る眼をちらりとユージオに向け、声を出さずに小さく唇を動かした。
"えいしょう"――を開始しろ。
確かに、もはや正攻法でアリスに接近するのは不可能だ。ならば、青薔薇の剣の完全支配術で奇襲を仕掛け束縛するしかない。先刻、攻撃中のアリスは黄金片の群れの動きに併せて柄だけの剣を左に振っていた。つまり、あの群れは主の意思のみによって動いているわけではない、ということだ。
不恰好に打ち倒されたまま、ユージオはそっと右手で剣の柄に触れ、音になるやならずの声で完全支配術の詠唱を始めた。アリスに気付かれ、攻撃されたら万事窮するが、そこはキリトが何とかしてくれるはずだ。
予想どおり、詠唱開始と同時にキリトは派手な動作で立ち上がると、びんと張りのある声で叫んだ。
「未だ剣士手習いの身ゆえ、儀礼に則した抜剣を遠慮奉ったが、改めて名乗らせて戴く! 剣士キリト、騎士アリス殿と尋常なる剣の試し合いを所望したい!」
胸に右手を当てて一礼すると、左腰の剣を大袈裟な身振りで抜き放つ。じゃりっ! と鋭い音を立てた漆黒の刀身が、アリスのまとう黄金の光を吸い込むように高く掲げられた。
アリスは、何もかも見通すような蒼い瞳でじっと黒衣の剣士を眺め、一度瞬きをすると答えた。
「――いいでしょう、お前たちの邪心がいかほどのものか、その剣筋で計ることにします」
す、と右手を振る。すると、周囲に浮かんでいた無数の黄金の小刃が、細波のような音を立てて渦巻きながらアリスの手許に集まり、握られた柄の前方に、わずかな隙間を残して刀身の形に整列した。直後、一瞬の閃光とともに、じゃきん! という金属音を立てて小片は結合し、黄金の長剣へとその姿を戻した。
優美な動作でぴたりと剣を中段に据え、歩を進めようとするアリスに向かって、こちらは両手で剣を構えたキリトが更に言葉を投げた。
「剣を交えればどちらかが倒れるのは必定、その前にひとつお尋ねしたい。アリス殿の携えたる神器……先刻の小樹がその古の記憶と見受けたが、なぜ只の樹にそれほどの力が?」
明らかに時間稼ぎの質問だが、アリスの剣の謎を知りたいというのはキリトの本心だろう。無論ユージオも大いに気になるところだ。
アリスも、キリトが本気で訊いているのを感じたのか、右足を前に出したところで立ち止まった。しばしの沈黙が続いてから、小さな唇が僅かに動く。
「これから死に行くものに教えても詮無いことですが……天界への道中の慰みに言いましょう。我が神器の銘は"金木犀の剣"、その名のとおりかつては、先ほど見たとおり何の変哲もない金木犀の樹でした」
キンモクセイ、秋に小さな橙色の花をつける小型の樹だ。ルーリッド近辺ではあまり見かけなかったが、それほど珍しい種類ではない。ましてや、ギガスシダーのように世界にたった一本というような希少種とは程遠い。
「そう、お前たちの言うように只の樹なのです……唯一、その年経た時間だけを除いて。遥かなる古の時代、今セントラル・カセドラルが建つこの地には、創世神ステイシアによって創られた、最初の人間たちが暮らした村がありました。その村の中央には美しい泉が湧き、岸辺には一本の金木犀が生えていた……と創世記の最初の章にあります。その樹こそが、我が剣の源の姿。よいですか、この金木犀の剣は、現世における森羅万象のなかで最も旧き存在なのです」
「な……なんだって……」
愕然とするキリトとユージオに対し、アリスはあくまでも無表情に言葉を綴りつづけた。
「神の創りたもうた樹の転生たるこの剣の属性は"永劫不朽"。舞い散る花弁のたった一つですら、触れた石を割り地を穿つ……先ほどお前たちがその身で味わったように。わかりましたか、如何なる存在にその刃を向けようとしているのか?」
「……ああ、よくわかったよ」
格式ばった口上をかなぐり捨て、キリトが囁いた。
「なるほど、神が設置した……破壊不能オブジェクトってことか。次から次にとんでもないモンが出てきて、嬉しいぜまったく……だからって、へへぇと恐れ入るわけにもいかないけどな」
同種の原型を持つとは言え恐らく遥かに格下ということになるのだろう黒い剣をゆっくりと上段に振りかぶり、キリトは叫んだ。
「では、整合騎士アリス……改めて、勝負!」
ぶんっ! と空気を揺らして、黒衣の剣士が突進した。丘上に立つアリスに向かって、登り坂とは思えない速度で突っ込んでいく。
いかにアリスの剣が大変な代物だろうとも、接近戦からの連続技に持ち込めれば優位に立てる、とキリトは考えたのだろう。先に戦ったファナティオが高速の連撃に対応してきたのは、彼女が心理的な事情によって連続技を習得していたからであって、それは整合騎士としては例外的な能力であるはずだ。
キリトと、そしてユージオの読みどおり、キリトの上段斬りに対してアリスは素直に剣を頭上に掲げた。あの動きでは、上段から無呼吸で繋がる右中段は防げない。
黒い雷光となって振り下ろされたキリトの剣が、金木犀の剣と衝突し、青白い火花を散らした。
しかし、それに即座に続くべき二撃目は発生しなかった。
アリスの剣がほとんど動かなかったのに対して、撃ち込んだキリトのほうが、まるで大岩を小枝で叩いたかのように後方に大きく弾かれて体勢を崩したからだ。
「うおっ……」
斜面に足を取られ、二歩、三歩と不恰好によろけるキリトに向かって、流水のように滑らかな足捌きでアリスが迫った。
ぴんと指先まで前方に伸ばされた左手。体を大きく開き、後ろに真っ直ぐかざされた黄金の剣。アインクラッド流と比べればいかにも実戦向きとは言えない古流の型だが、たなびく金髪や翻るスカートと相まって、その姿は一幅の絵画のように優美だった。
「エェェイッ!」
高く澄んだ気合の叫びとともに、大きな弧を描いて剣が右斜めから撃ち出された。速度は恐るべきものだ。しかし動作があまりにも大袈裟だ。
体勢を回復したキリトは、充分な余裕を持って剣を左に備えた。
がかぁぁん! という大音響を放って、二振りの剣が衝突した。
コマのように回転しながら吹き飛ばされたのは、今度もキリトの方だった。草むらに手を突き、危く転倒を回避しながら、丘の麓近くまで滑り落ちていく。
ここに至って、ようやくユージオにも、眼前で何が起きているかが理解できた。
攻撃の重さが違うのだ。これまで、あまたの神器の中でも最重量級と思われた黒い剣と、超高速の斬撃を以って整合騎士たちとの撃剣にもまったく退くことのなかったキリトだが、アリスの持つ金木犀の剣は、恐らく黒い剣の数倍になんなんとする重量を秘めている。それを軽々とあれほどの速度で振られては、弾くのはおろか受け止める事さえ至難だろう。
いや、それどころではない。最初の一合で判明したように、キリトから撃ち込んだ場合でさえ、弾き返されたのは彼のほうなのだ。これでは勝負にならない。
その事実を身をもって悟ったらしいキリトは、慄然とした表情で数歩下がった。それを、滑るように丘を下りながらアリスが追う。
キリトが剣を抜いた戦いとしては、この二年来初めてと言っていい一方的な展開となった。
舞うように典雅な型で、アリスが次々と斬撃を繰り出す。キリトはそれを懸命に受けるが、その度に無様に吹っ飛ばされる。体捌きだけで回避できれば反撃の機会もあろうが、アリスの剣は大振りであっても凄まじく速く狙いも精妙で、とても綺麗にかわすことなど出来ない。
移動し続ける二人を、懸命に詠唱しながらユージオも追った。こうなったら、キリトがどうにか攻撃を受けているうちに氷薔薇の術を発動するしかない。
四、五回の攻防を経て、ついにキリトは西側の壁まで追い詰められた。背後は分厚い大理石、最早逃げ場はどこにもない。
窮地に陥った敵に涼しい表情でぴたりと剣尖を向け、アリスが言った。
「なるほど。――私の剣をここまで凌いだのはお前で二人目です。それなりの覚悟、信念を持ってここまで塔を登ってきたのでしょう。しかし……教会の守護を揺るがすにはまるで足りません。やはりお前たちに、人界の平穏を乱させるわけには行かない」
キリト――何か言え、得意の舌先で時間を稼ぐんだ、あと三十……いや二十秒!
限界の速度で駆式しながらユージオは念じた。
しかしキリトは、ぎらぎらと目を光らせながら唇を小さく震わせるだけで、一言も返さなかった。
「では――覚悟」
金木犀の剣がすうっと円弧をなぞり、天を指して垂直に構えられた。
一瞬の静寂。
びゅおおっ! と空気を引き裂いて、黄金の閃光が飛翔した。後方から右に回転し、正確にキリトの額へと。
限界までに目を見開いたキリトの右手が動いた。
ちん、とかすかな金属音。ささやかな一条の火花。
受けるのではなく流したのだ。剣先と剣先を最小限だけ接触させ、アリスの超重攻撃の軌道を寸毫ずらす。
ずがっ!! と轟音を発して黄金の剣が貫いたのは――キリトの頭の僅かに左、滑らかな大理石の壁だった。切断された黒い髪が一房散った。
直後、キリトがアリスに飛びかかった。左手で騎士の右手を押さえ、右腕を左腕に絡ませる。さすがに、これまで微動もしなかったアリスの頬がぴくりと揺れた。
今だ――最初で最後の機会!
「リリース・リコレクション!!」
絶叫とともに、青薔薇の剣を抜きざま足許に突き立てる。
破裂するような衝撃音とともに、一瞬にして周囲の草むらが白く凍りついた。霜の環は、十メルほど離れたキリトとアリスを飲み込み――。
そして、百本以上の氷の蔓が二人の足下から一斉に伸び上がった。それらは、青く透き通った縛鎖となって密接する二人の体を幾重にも巻き絡めていく。キリトの黒いシャツと、アリスの金の鎧が、みるみるうちに白い霜に覆われる。
キリト――アリス、すまない!
心中でそう叫びながらも、ユージオは尚も氷の蔓を生み出しつづけた。あの騎士アリス相手では、どれほど縛ろうとも充分という気がしない。
びき、びきん、と硬い音を放ちながら撚り集まる蔓は、やがて一塊の氷柱へとその姿を変えた。
水晶の原石のように幾つもの面を持つ透明な柱が、内部に二人の剣士を閉じ込めて静かに煌めいている。突き出しているのはアリスの右手と、そこに握られて壁を貫く金木犀の剣だけだった。碧い氷の中で、アリスの顔はわずかな驚きを、キリトの顔は決死の覚悟を、それぞれ静止させている。
あの腕に、短剣を刺せば全てが終わる。
ユージオは眩暈を感じながら、剣から手を離し立ち上がった。右手で懐中の短剣を強く握り、一歩、二歩、前へ――。
三歩目が草に触れるのと、金色の光が爆発したのは同時だった。
「な――!?」
驚愕するユージオの視線の先で、壁に突き立っていたアリスの剣が、再び無数の花弁へと分裂した。
ざああっ……と和音を奏でながら、それらは黄金の花嵐となって氷柱を包み込む。
無数の黄金刃が竜巻のように渦巻いて、まるでジェリーのように氷を削っていく光景を、呆然とユージオは見守るしかなかった。あの渦の中に飛び込めば、一歩も進まないうちにユージオの天命は消し飛ぶだろう。
花嵐は、氷柱をごく薄く残して削り終えると、上空へと舞い上がった。
直後、かしゃーんと音を立てて柱が砕け散った。
抱きついたままのキリトを左手で押しやり、髪に付着した氷片を払いながら、尚も冷然とした態度でアリスが言った。
「――お前たちは、剣技の勝負を望んでいたのではないのですか? なかなかの座興でしたが……たかが氷で、私の花たちを止められるはずもありません。お前とは次に戦ってあげますから、そこでおとなしく待っていなさい」
す、と右手を伸ばすと、上空に漂っていた黄金刃が一斉に集まって元の剣の形へと――。
「リリース・リコレクション!!」
いつのまに完全支配術を詠唱し終えていたのか――絶叫したのはキリトだった。
両手に握られた黒い剣から、幾筋もの闇が吹き出す。
狙ったのは、アリス本人ではなく――。
凝集する寸前の、金木犀の剣だった。
「な……!!」
初めて、アリスが叫んだ。
闇の奔流は、黄金の小片を吹き散らし、その制御を乱した。
ぶわあぁぁ――っ!! と耳を劈く轟音を撒き散らし、黒と金の入り混じった嵐が吹き荒れた。それらは絡み合い、渦を巻いて、二人の背後の壁へとぶち当たった。
「ユージオ――――!!」
キリトの絶叫。
そうだ。これが、まさしく、最後の機会。
ユージオは懐から短剣を引き抜き、地面を蹴った。
アリスまで、距離はわずか八メル。
七メル。
六メル。
そして、恐らく、その場の誰もが予想し得なかった出来事が起きた。
二本の神器から解放された超絶攻撃力が融合した嵐に叩かれた、セントラル・カセドラルの壁に――
縦横無数の亀裂が。
ぐわあああっ!! と天地を揺るがすような破壊音とともに、巨大な大理石が分解した。
四角い石が内側に吸い込まれるようにみるみる孔が広がり――その向こうに、青い空と白い雲海が覗く光景を、走りながらユージオは呆然と見つめた。
突然、猛烈な突風に背を叩かれ、ユージオは草地に叩きつけられた。塔内の空気が孔から吸い出されていく。その空気の流れに、孔のすぐ傍にいた二人は抗うこともできず――。
黒衣の剣士と、黄金の騎士が、絡みあうように塔の外へと吹き飛ばされていく瞬間が、ユージオの瞳に焼きついた。
「うわあああああ!!」
絶叫し、ユージオは孔へと這い進んだ。
どうする――神聖術で縄を作って――いや、青薔薇の剣の氷で二人を――。
それらの思考は、しかし、功を奏することはなかった。
吹き飛んだはずの、大理石の壁石が、まるで時間を巻き戻すように塔外から寄り集まり、再び縦横に組み合わさっていく。
ごん、ごん、と重い音が響くたびに孔は小さくなり――。
「ああああああっ!!」
悲鳴を上げ、転がるように駆け寄ったユージオの目の前で、何事も起きなかったかのように、ぴたりと塞がった。
拳を打ちつけた。二度、三度。
皮膚が破れ、血が飛び散っても、傷ひとつなく再生された壁はもうびくともしなかった。
「キリト――――!! アリス――――――!!」
ユージオの絶叫を、白く滑らかな大理石が、冷たく跳ね返した。
きっ。
きしっ。
という鋭い音が響くたびに、俺の心臓がぎゅうっと縮み上がる。
音の源である黒い剣の切っ先は、セントラル・カセドラル外壁の巨大な石組みの隙間に、どうにかほんの一センほど食い込んでいる。その柄を握ってぶら下がる俺の右手は冷や汗にじっとりと濡れ、肘と肩の関節は重量に耐えかねて今にも抜けそうだ。
限界間近なのは左手も同じだった。きつく握り締めた黄金の篭手は、もちろん整合騎士アリスのものだ。傷一つない装甲は、汗ばむ掌ではどうにも捕らえにくく、どれほど力を込めてもほんの僅かずつ滑り落ちていく。
また、決して大柄ではない騎士本人が異様に重い。上半身を覆う金属鎧のせいもあろうが、やはり彼女の右手に握られたままの黄金剣がすさまじい重量なのだ。下に落とせと言いたいのはやまやまだが、剣士の魂を捨てろと言っても無駄なことは分かりきっていた。逆の立場なら俺だって手を離すまい。
よって、俺の両手は今にも指が千切れ飛びそうだし、何よりこれだけの加重を剣尖だけで支える黒い剣の天命が急速に減少しつつあるのは疑いようもなかった。それでなくても、二度の記憶解放で恐らく最大値の八割以上を消耗しているのだ。きちんと手入れをして丸一晩は鞘に収めておかなければとても回復できないダメージだ。
銘も決まらないうちに、しかも戦闘に於てではなく毀れてしまうのではいかにも不憫だし、何よりその時は俺もアリスも必然的に遥か数百メル下方の地面まで落下し、小さな染みになってしまう。よって、どうにかこの状況から可及的速やかに脱出しなければならないのだが、両手は握り締めているだけで一杯一杯だし、そのうえ――。
「もういい、その手を離しなさい! 罪人の情けに縋って生き恥を晒すつもりはありません!」
またしても"落ちそうになるところを敵に助けられた人"が言いそうな台詞を口にしたアリスが、俺に掴まれた左手を振りほどこうと揺り動かした。
「うおっ……ばっ……」
その振動で、アリスの篭手が手首の所から掌部分まで摺り落ち、黒い剣の切っ先が嫌な軋み音とともに髪の毛五筋ぶんほども抜け出た。全筋力と精神力を振り絞ってどうにか揺れを押さえ込んでから、アドレナリンの噴出に任せて大声で喚く。
「動くなバカ! あんた整合騎士で三番目に偉いんだろうが! ここで自棄になって落っこちても何も解決しないことぐらい判れバカ!」
「な……」
俺の足の下にわずかに覗くアリスの白い顔が、ほんのわずかに紅潮するのがちらりと見えた。
「ま……またしても愚弄しましたね! 撤回しなさい、罪人!」
「うっさい! バカだからバカって言ったんだ、このバカ! バーカ!」
挑発して交渉に引き込むのが目的なのか、ただ単に俺も頭に血が上っているだけなのか、自分でも分からないまま俺は尚も喚き散らした。
「いいか!? あんたがここで落ちて死ねば、俺が生還する確率が上がるのは勿論、中に残ったユージオはこのまま塔を登って最高司祭のとこまで行くぞ! あんたはそれを阻止するのがお役目なんだろうが! なら今は何を置いても生きのびるのが最優先だろう、整合騎士として! そんくらいの理屈が飲み込めないバカだからバカって言ってんだ!!」
「くっ……は、八回もその屈辱的な呼称を口にしましたね……」
恐らく、整合騎士として生きたこの九年間でバカ呼ばわりされたことなどないのだろうアリスは、怒りと恥辱に頬を染めて眦を吊り上げた。右手に握る金木犀の剣がわずかに持ち上げられるのを見て、まさか俺を斬って諸共落ちる気かとヒヤッとしたが、危いところで理性が優ったらしく、剣は再び力なく垂れた。
「……なるほど、お前の言う事は理屈が通っています。しかし……」
真珠粒のような歯をきりりと噛み締め、整合騎士は反駁した。
「ならば、なぜお前はその手を離さないのです!? 私を排除できれば、目的達成に大きく近づくのは明々白々なる道理です! その理由が、私にとっては死よりも耐え難い屈辱であるただの憐憫ではないと、お前は証明できるのですか!」
憐憫――ではない、勿論。何故なら、アリスを助けることそれ自体が、俺とユージオがはるばるこんな場所までやってきた目的のきっかり半分なのだから。
しかし、それをここで一から説明するほどの時間的猶予はまるで無いし、何よりユージオが助け出そうとしているのは正確には整合騎士アリス・シンセシス・フィフティではなくルーリッドの村長が一子アリス・ツーベルクなのだ。
俺は、恐慌の余り燃え尽きそうになっている脳味噌を懸命に働かせ、どうにかアリスを納得させられそうな言い訳を探そうとした。だが、そんなものがおいそれと出てくるわけがない。かくなる上は――ある程度の真実を述べるより他にない。
「俺は……俺たちは、神聖教会の潰滅を企んでここまで登ってきたわけじゃない」
強い光を放つアリスの碧い瞳をまっすぐ見下ろしながら、俺は必死に言葉を絞り出した。
「俺たちだって、ダークテリトリーの侵略から人界を守りたいのは一緒なんだ! 二年前、果ての山脈でゴブリンの先遣隊と戦ったんだからな……って言っても信じてもらえないだろうけど。――だから、整合騎士でも最強のひとりと言われるあんたをここで失うわけには行かない、貴重な戦力なんだからな!」
さすがにこれは予想外だったのだろう、アリスは柳眉をしかめ、数瞬沈黙したが、すぐに鋭く言い返した。
「なら! ならば――何ゆえ、人の天命を損なうなどという最大の禁忌を犯したのですか! 何ゆえ、エルドリエはじめ多くの騎士をその手にかけたのですか!!」
純粋なる正義の念――たとえそれがアドミニストレータによって都合よく改変されたものであっても――を両の瞳に爛々と燃やし、アリスが叫ぶ。
それに対して、正面から堂々と反駁できるほどの確信を、残念ながら俺は持ち得ない。さっきアリスに向けて放った"人界を守りたい"という台詞も、本心ではあるが同時に大いなる欺瞞なのだから。今のところ、俺は一直線にカーディナルによるアンダーワールド完全初期化という結末に向かって突き進んでいるし、それを回避し得る方策など何ひとつ思いつけないでいる。
しかし、ここでアリスと共に墜落死するのが最悪の展開だということだけは確かだ。カーディナルの復権ならぬまま人界はダークテリトリーの侵略に晒され、俺とユージオのせいで戦力半減させた整合騎士は容易く撃破されて、人間たちは苦痛と悲嘆の中で鏖殺の運命を辿るだろう。
何より我慢ならないのは、俺がラース研究施設のSTLの中で傷ひとつなく目覚めたあと、研究者の"今回の実験は失敗だった"の一言ですべてが終わったことを知るであろうというその事実だ。アンダーワールド全住民が地獄の苦しみの果てに死に、生き残った者も実験終了とともに削除され、俺ひとり無傷で現実世界に戻る――それだけは絶対に、太字に傍点つきで、絶対に受け入れられない。
「お……俺は……」
教会と法の完全なる守護者である今のアリスに、残された僅かな時間を全て費やしたところで何ほどのことが伝えられよう。しかし、たとえ届かない言葉でも、俺にはもうそれを精一杯語るくらいしか出来ることはなかった。
「俺とユージオが、ライオス・アンティノスを斬ったのは……あんたが奉じている禁忌目録がどうしようもなく間違っているからだ! 今の法、今の教会では、人界の民たちを幸せにすることはできない、それは、本当は、あんたにだって判ってるんじゃないのか!? 禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!」
今まで無理矢理に意識の埒外に押しやっていたあの光景――異様に大きなベッドの上に、弄ばれた小鳥のように力なく横たわっていた二人の少女の姿が目の裏にフラッシュバックし、激した感情のあまり俺の全身が大きく震えた。すべてを支える剣の先端がひときわ激しく軋んだが、それを殆ど気にもせずに、俺は叫んだ。
「どうなんだ! 答えろ、整合騎士!!」
脳裡に甦ったあまりにいたましい光景が、俺の目尻から否応なく数滴の雫を絞り出し、頬を伝って落下したそれはぶら下がるアリスの額に当たって散った。黄金の騎士は鋭く息を飲み、目を見開いた。僅かにわななく唇から漏れた声からは、先刻の苛烈さが多少なりとも抜け落ちているように思えた。
「……法は、法……罪は罪です。それを民が恣意によって判断するなどということが許されれば、どのようにして秩序が守られるというのです!」
「その法を作った最高司祭アドミニストレータが正しいか否か、一体誰が決めるんだ。神か!? なら、なぜ今神罰の雷が落ちて、俺を焼かないんだ!?」
「神は――神の御意志は、僕たる人の行いによって自ずと明らかになるものです!」
「それを明らかにするために、俺とユージオはここまで登ってきたんだ! アドミニストレータを倒して、その誤りを証明するために! そして、それと全く同じ理由によって……」
俺は、ちらりと上を仰ぎ、壁に食い込む黒い剣がもう限界にきていることを確かめた。次にアリスが動くか、風が吹いたら切っ先が隙間から外れ、諸共に墜落するだろう。
「……今、あんたを死なせるわけには行かないんだ!!」
大きく息を吸い、ぐっと溜めて、俺は全身から残された気力をかき集めた。うおおっ、と気合を放ちながら、左手で掴んだアリスの手を引っ張り上げる。びき、びきとあちこちの関節が嫌な音を立て、目も眩むような激痛が脳天を貫いたが、どうにかアリスを同じ高さにまで持ち上げることに成功し、最後の力で俺は叫んだ。
「あの石の継ぎ目に剣を……! こっちはもう保たない、頼む!」
すぐ隣で、アリスの白い顔が大きく歪むのを、俺は必死の形相で見つめた。張り詰めた一瞬の沈黙ののち、アリスの右手が動き、握られた金木犀の剣の切っ先が鋭い音とともに大理石の隙間に深く突き刺さった。
直後。
ぎっ! と最後の悲鳴を上げて、黒い剣が継ぎ目から抜け落ちた。
つま先から脳天までを突き抜ける過電流のようなパニックの中で、俺は長い長い墜落とその最後に訪れるであろう甚だ不愉快な結末を瞬間的に思い描いた。
しかし、実際に味わったのは刹那の浮遊感だけで、それに引き続くべき落下は訪れなかった。超絶的な反応で閃いたアリスの左手が、俺の上着の後ろ襟をがつんと掴んだのだ。
アリスの剣と両腕が、二人分の重さをしっかりと支えるのを確認してから、俺はふううーっと長く息を吐き、早鐘のような鼓動をどうにかなだめた。
わずか一秒のあいだに物理的及び心理的な位置関係が逆転してしまった相手を、窮屈な襟首のあいだから苦労して見上げる。
金色の整合騎士は、ありとあらゆる種類の相反する感情に苛まれているかのように、頬を引き攣らせ歯を食い縛っていた。俺のうなじのすぐ後ろで、華奢な拳が緩んではまた握り締められる気配が繰り返し感じられた。
このような極限的状況で逡巡することのできるアンダーワールド人を、俺は他にはユージオ――あの事件以後の――しか知らない。他の人間、つまり人工フラクトライトは、善くも悪しくもあらゆる規則及び己の内なる規範に対して盲目的に忠実であり、重大な意思決定において悩むということを殆どしない、言い方を変えれば、重大な決定を下すのは常に自分ではない何か、誰かなのだ。
つまりこの一事を取っても、整合騎士アリスの精神は、今のユージオと同レベルのブレイクスルーに達しているということになる。アドミニストレータによる記憶改変を経ても、なお。
アリスの中で、どのような葛藤が行われたのか俺には推測することができなかった。しかし、とてつもなく長い数秒間を経て、俺の体は軽々と元の高さまで引っ張り上げられた。
彼女と違い、俺のほうには悩む理由は一つもない。即座に黒い剣を岩の継ぎ目にしっかりと突き刺し、俺はようやく強張る背中から力を抜いた。
俺の体勢が安定するや、アリスの左手はさっと引っ込められ、ついでに顔までもぷいっと背けられた。風に乗って届いた声は、口調を裏切って弱々しかった。
「……助けたわけではありません、借りを返しただけです……それに、お前とは剣の決着がまだついていない」
「なるほど……じゃあこれで貸し借りは無しだ」
慎重に言葉を選びながら、俺は口を動かした。
「そこで提案なんだが……とりあえず、俺たちは二人ともどうにかして塔の中に戻らなきゃいけない事情は一緒なわけだ。なら、ひとまずそれまで休戦ということにしないか」
「……休戦?」
わずかにこちらに動かされた顔から、甚だ胡散臭そうな視線が浴びせられる。
「この絶壁を登るにせよ壊すにせよ容易なことじゃない、一人より協力したほうが生還の可能性が増えるのは確かだろう。――もちろん、あんたには簡単に中に戻る方法があるっていうなら別だけどさ」
「…………」
アリスはしばし口惜しそうに唇を噛んでいたが、すぐにまた顔を逸らせた。
「……そのような方法があればとうに実行しています」
「そりゃそうだ。なら、休戦、協力については諒承と思っていいな?」
「協力……と言っても、具体的には何をするのですか」
「どちらかが落ちそうになったら、それを助ける、ってだけさ。ロープでもあれば尚いいんだが……」
刺々しさの一向に薄れない横顔をこちらに向けたまま、アリスはしばし考えていたが、やがてよくよく見ていなければ判らないほどの動きでかすかに頷いた。
「合理的な手段である……と認めざるを得ないようですね。仕方ありません……」
そのかわり、とアリスはこちらに最後の一睨みをくれながら続けた。
「塔内部に戻ったその瞬間、私はお前を斬ります。それだけはゆめ忘れないように」
「……憶えとくよ」
俺の返事に再び軽く頷き、思考を切り替えるようにアリスは小さく咳払いした。
「それでは……ロープが必要なのでしたね? お前、何か不要な布なり持っていませんか」
「布……」
俺は自分の体を見下ろしたが、考えてみればハンカチの一枚すら持っていないのだ。ここが普通のVRMMOワールドなら、アイテムウインドウから予備の服だのマントだの山ほど取り出すところだが、あいにくそんなプレイアビリティーはこの世界には存在しない。
「……と言われても、このシャツとズボンしかないなあ。必要というなら脱ぐが」
左の肩だけをすくめながら答えると、アリスはこれ以上ないほどの渋面を作りながら俺を叱った。
「要りません! ……まったく、剣一本下げただけで戦地に赴くなど、呆れたものですね」
「おいおい、俺とユージオを着の身着のままで引っ立てたのはあんたじゃないか!」
「その後塔の武具庫に押し入ったのでしょう、あそこには上等のロープだって何巻きも……ああもう、時間が惜しい」
アリスはふんっとおとがいを反らすと、左腕を目の前まで持ち上げた。しかしそこで、自分の右手が剣の柄から離せないことに気付いたらしく、眉をしかめて腕をぐいと俺のほうに突き出した。
「空いている手で私の篭手を外しなさい」
「は?」
「いいですか、肌には決して触れないように! 早くしなさい!」
「…………」
ユージオの回想によれば、ルーリッドに居た頃のアリスは明るく元気で誰にでも優しい女の子だったそうだ。とすれば、それとは真逆と思える現在の人格はいったいどこから湧いて出たものなのだろう。
というようなことを考えながら、俺は剣の柄を左手に持ち替え、自由になった右手で黄金の篭手の留め金を外した。俺に篭手を握らせると、アリスはそこから左手を素早く引き抜き、どきっとするほど白く華奢な指を滑らかに動かしながら叫んだ。
「システム・コール!」
聞いたことのない複雑な術式が高速展開されると同時に、俺の手の中の篭手が発光、変形していく。わずか数秒ののち、俺が握っているものはきれいに束ねられた黄金の鎖へとその姿を変えていた。
「うお……物質組成変換?」
「何を聞いていたのです、それともそれは耳ではなく虫喰い穴ですか? 今のはただの形状変化、組成そのものを書き換える術は最高司祭様にしか使えません」
どうやら、互助協約には同意しても辛辣な物言いは一切変える気がなさそうなアリスにすいませんと謝っておいて、俺は鎖の強さを確かめた。端を咥えて引っ張ると歯が抜けそうになったので、慌てて口を離す。強度も長さも充分、おまけに両端には頑丈そうな留め具までついていて言う事なしだ。
一端を自分のベルトにしっかりと固定し、もう一方を差し出すと、アリスは引ったくるように受け取り、自分の剣帯に留めた。これでとりあえず、二人揃って落っこちない限りは安全が保証されるはずだ。
「さて……と」
俺は数回瞬きしてから、改めて視線を巡らし、現在の状況を確認した。
太陽の方向から判断して、俺たちがぶら下がっているのはセントラル・カセドラルの西側の壁だ。時刻はすでに四時を回ったと見えて、頭上の空は青から紫へと色を変えつつあり、背後から訪れる陽光が塔の白壁を明るいオレンジ色に染め上げている。
恐る恐る足下方向を眺めれば、薄くたなびく雲のむこうにぼんやりとミニチュアのような庭園とそれを四角く囲む石壁、さらに広大な央都セントリアの市街が一望できて、改めて現在位置の高度を認識させられる。大階段を登ったときの目算では、塔のワンフロアぶんの高さは床の厚みも含めると六メル――メートルほどもあったので、アリスと戦った八十階が単純計算で比高四百八十メートル、いや"霊光の大回廊"の高さも足せば五百メートルか。壁に開いた大穴から十メートルほど落下したとしても、まだ俺たちの足裏から地面までは想像を絶する距離が残っているというわけだ。もし墜落すれば、どれほど天命があろうとも一瞬で吹っ飛ぶのは間違いない。それどころか、そんな衝撃と痛みを忠実に再現されたら、フラクトライトに現実的な損傷が発生する可能性すらあるのではないか。
ぶるっと背筋を震わせて、俺は再び剣を左手に握り直すと、右掌に滲んだ汗をズボンで拭った。
「えーっと……一応確認するけど……」
声を掛けると、隣で同じように足元を覗き込んでいたアリスが顔を上げた。さっきより心なしか顔色が悪いような気がしたが、滑らかな頬が夕陽の色に染まって定かではない。
「……何です?」
「いやその……物体形状変化みたいな高度な神聖術を使う騎士様なら、空中飛行術なんかも知ってたりしないかなって……あ、しないですね、すいません」
吊りあがる眉を見て素早く謝ったのに、アリスは容赦なく俺を罵倒した。
「お前、学院で何を習っていたのですか!? 飛翔の術を使えるのは人界広しと言えども最高司祭様ただお一人です、どんな幼い修道士見習いでも知っていることです!」
「だから一応って言ったじゃんか! そんな怒ることないだろう」
「妙にあてこするような言い方をするからです!」
そろそろ、この第二人格アリスと俺は、立場以前に決定的に相性が悪いのだということが明らかになりつつあるようだったが、更に言い返したい衝動を押さえ込んで俺は質問を続けた。
「……じゃあ、これも一応聞くんだけど……俺をここまでぶら下げてきたあのでっかい飛竜、あれをここまで呼ぶってのは?」
「重ねがさね愚かなことを。飛竜はカセドラルの周囲五百メル以内への進入を禁じられています」
「な……そ、そんな決まりを俺が知るわけないだろう!」
「発着場が塔からあれほど離れていた時点で察してしかるべきです!」
俺たちはこの短時間でもう何度目かも分からない睨み合いを三秒ほど繰り広げたのち、同時にぷいっと顔を背けた。