それにしても、何という――。
何という見事な戦いなのか。
零距離で双方とも足を止め、雨霰と飛び交う斬撃と刺突を、体捌きと打ち払いのみで防ぎ続けている。その有様は、まるで二人の周囲で幾つもの星が次々と流れ、弾け、消えていくかのようだった。鋼と鋼が打ち合わされる衝撃音すら、ある種の壮麗な打楽器の共演と思える。
キリトは、蒼白に昂じた顔に凄みのある笑みを滲ませ、黒い剣と完全に融合してしまったが如き勢いで技を繰り出していた。敵にソルスの光を使わせないための接近戦であるはずだが、今の彼は単純に、鍛え研ぎあげた剣技を思う存分ぶつける悦びに浸っている。
しかし、対するファナティオのほうには相手に付き合う理由はないのだ。これほど広い大回廊なのだから、いくらでも後退し、距離を取ることはできる。その後再び光線を放てば、今度こそキリトにそれを防ぐすべはない。
なのに、黒い長髪をなびかせた整合騎士は、一歩たりとも下がることなく、あくまで細剣による直接攻撃で雌雄を決しようとしているようだった。そのわけまでは、ユージオには推し量れなかった。キリトの挑発的な言辞への怒りゆえか? 下がることは騎士の誇りが許さないのか? それとも――彼女もまた、連続技の応酬という極限の戦いに何かを見出したのか? ユージオの位置からはいまだファナティオの背中しか見ることができず、その顔にいかなる表情が浮かんでいるのかはまるで分からない。
幾つかの言葉から推測するに、ファナティオは最低でも百三十年、恐らくはそれよりも数十年は長く整合騎士として教会に仕えていると思われた。ようやく二十歳になるやならずのユージオは想像もつかない、恐ろしいまでに長い時間だ。
その生のどの時点で彼女が顔と性別を隠すようになったのかは知るすべもないが、独力であれほどの連続剣技を編み出したというなら、その修練は十年二十年のものではあるまい。今キリトがファナティオの至近距離に立ち続けていられるのは、ひとえに彼もまたアインクラッド流という類い稀な連続技の使い手だからだ。これが他の剣士であれば、恐らく刃圏に一歩たりとも入れずに地に伏しているだろう。
だから、多分、ファナティオにとってもこのような戦いは長い人生で初めてなのではあるまいか。整合騎士と言えども一撃の技の美麗さ豪壮さを最も尊ぶことはエルドリエやデュソルバートの戦い方を見れば明らかだ。ゆえに、騎士同士の訓練でファナティオが連続技という、伝統流派に照らせば卑しむべき無型の剣を披露していたとは思えない。長い、長い間、独り稽古における影でしかなかった自分以外の連続剣の達人、それがついにキリトという実体を持って現われたのだ。
二人の超絶的な剣の応酬を見るうち、いつしかユージオの全身には鳥肌が立ち、目には涙が滲んでいた。キリトにアインクラッド流の手ほどきを受け始めて以来、脳裡に思い描いていた究極の戦いが今眼前にある。見映えを求め続けた型としての美しさではなく、ただ只管に敵を斬り倒すことのみを追及した結果としてのみ存在し得る、凄絶な美。
ファナティオの五連突きが、キリトの五連斬りとまるで呼吸を合わせたかのように空中で噛みあい、弾かれたそれぞれの剣を二人は裂帛の気合とともに振り下ろした。
「いえええええっ!」
「せあああああっ!」
剣の交錯点から発生した衝撃波は、遠く離れた床に伏せるユージオの肌にも熱く感じられるほどだった。キリトとファナティオの黒い髪が激しくたなびき、余勢のためか、ぎゃりんと刃を軋ませながら二人は体を入れ替えた。
ついに視界に入ったファナティオの相貌に、ユージオは一瞬息を詰めた。
御伽話に出てくる救世の聖女がもしも実在したらかくあらん、と思わせる、一点の瑕疵もない清らかな美貌だった。どう見積もっても二十代半ばとしか思えない、ミルクをたっぷり入れた紅茶色の滑らかな肌。弓型の眉も長い睫毛も黒だが、瞳の色はほぼ金に近い茶褐色だ。おそらく東域の生まれと見えて鼻梁は控えめな高さ、顎の線も丸みを帯びて、それが一層包み込むような優美さを生み出している。そして、やや薄い唇には――ごく控えめな色の紅。
表情には、つい先刻の殺気立った怒りを思わせるものはすでに無かった。代わりに、ある種の痛みに満ちた覚悟のようなものがそこにあった。
「――なるほどな」
唇が動き、低いが尚も艶やかな声が流れた。
「咎人、貴様はこれまで私が戦ってきた輩とは少し違うようだ。この忌むべき面相を見て、尚本気で斬ろうとした男はこれまで居なかった」
「忌むべき――ね。ならあんたは誰のためにその髪に櫛を入れ、誰のために唇に紅を差しているんだ」
またしても逆撫でるようなキリトの物言いだが、ファナティオはかすかな苦笑めいた気配を浮かべたのみだった。
「恋うた男が、いつか剣の技と獲った首級の数以外のものを私に求めるやもと待ち続け早や百有余年……鉄面の下で想い焦がれた挙句、私よりも美しい顔を晒したぽっと出の子供に剣ですら後塵を拝すれば、せめて化粧の一つもしたくなろうというものだ」
ファナティオよりも美しく、強い子供――少女? そんな相手がまだこの塔の上に居るのか、と一瞬呆然としてから、ユージオはその条件に該当する整合騎士に一人だけ心当りがあることに気付いた。つい近年に騎士となり、顔と声を隠す兜を被らず、ユージオを反応することさえ許さずに打ちのめした――アリス・シンセシス・フィフティ。
アリスが、ファナティオさえも上回る剣の腕を身につけている……? しかし、何故? 改めて考えてみると、そんなことが有り得るとはとても思えない。ルーリッドにいたころの彼女は、神聖術の腕前こそ教師顔負けだったが、剣など触ったこともなかったはずだ。
今まで意識して整合騎士としてのアリスのことに深く思いを致さないようにしていたユージオだが、さすがに浮かんでくる疑問を抑えることはできなかった。
キリトも、ファナティオの言葉には何がしか考えるところがあった筈だが、そんな気配は微塵も漏らさずなおも言い返した。
「――あんたにとって一番大事なことってのは何なんだよ。整合騎士が最高司祭の命令にただ従うだけの天界の剣士とやらなら、そんな恋とか妬みに悩む心なんてそもそも必要ないだろ。その男が誰だか知らないが、そいつに百年も片思いしてるなら……そりゃあんたが人間だからだ。俺とおなじ人間だ。俺は、教会と最高司祭をぶっ倒して、あんたみたいな人間が普通に恋して、普通に暮らせるようにするために戦ってるんだ!」
ユージオをも心底驚かせるキリトの台詞だった。常に飄々とした彼がそんなことを考えていたとはついぞ知らなかったのだ。しかし同時に、長年連れ合った相棒の声に、かすかに矛盾に苦しむような痛切な響きがあることにもユージオは気付いていた。
その言葉を聞いたファナティオの顔もまた、一瞬ではあったが歪んだ。
滑らかな眉間に深い谷が刻まれるのを見て、ファナティオからもまたエルドリエのように行動原則キーとやらが抜け出すのかと思ったが、しかし第二位の騎士に現われた変化はそこまでだった。
「……子供よ、貴様は知らんのだ。教会の法と力が失われれば、この世界がどのような煉獄へと突き落とされるか……。ダークテリトリーの軍隊は日々その勢いを増し、果ての山脈一枚隔てた向こうにひしめいている。ああ……認めよう、貴様は強い、そして元老どもが言っていたような闇の手先、邪悪な侵入者ではないようだ。しかし甚だ危険だ、その剣だけでなく、言葉で教会と騎士たちを揺るがしかねんほどにな……。教会と世界を守る、我ら整合騎士に与えられたその唯一最大の任務の前では、私の恋心などほんの……ほんの些細な麦屑に等しい」
迷いを振り切ったような、厳しい顔つきでそうファナティオが告げる間にも、二人の間で交差した天穿剣と黒い剣は限界とも思える軋みを上げ続けていた。どちらかが僅かにでも力を抜けばその瞬間弾き飛ばされるのは明らかだ。
いや、こうしている間にも二本の剣の天命は減少を続けているはずだ。そしてこのままなら先に命尽きるのは――恐らく天穿剣だろう。武器としての位が同程度なら、単純に太く重いほうがより多い天命を備えているのだから。
ファナティオがそれに気付いていない訳はなかった。そして、己の剣が圧し負け、そこに隙が出来たならば、キリトが容赦なく自分を斬り伏せるであろうことも。
「だから――私は貴様を倒さねばならん。例え騎士の誇りを踏みにじってもな。このような無様な技で勝利する私を嘲いたければ嘲え。貴様にはその権利がある」
静かにそう言い放つと、ファナティオは続けて叫んだ。
「天穿剣に秘められた光よ……今こそ、その枷から放たれよ!!」
銀色の刀身がこれまでにないほど眩く輝いた。
直後。
しゅばあっ! という音とともに、剣尖から放射状に無数の光線が放たれた。
目眩ましか、とユージオは反射的に考えた。キリトの視力を一時的に奪い、体を崩してから斬る。
しかしその判断は、天穿剣が無作為に発射した光の一筋がユージオの顔のすぐそばの床に命中し、大理石を深々と抉ったことで完全に否定された。
幻惑ではなく――あの光の全てが!
キリト!! と内心で絶叫し、ユージオはたまらず上体を起こした。目を凝らすと、今まさに至近距離から射かけられた光線がキリトの右肩を貫くところだった。それだけではない、すでに背中の右下部分と左脚の太腿にも黒々とした貫通痕が見て取れる。
そして、超高熱の光をその身に受けているのはキリトだけではなかった。
主たるファナティオもまた、腹と肩、両脚の装甲に丸く溶解した孔をうがたれている。傷の深さではキリトを上回るほどだ。それでも、その麗しい顔に浮かんだ覚悟の表情は微塵も揺らいでいなかった。
整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは――キリトを道連れに、己の天命をも吹き飛ばすつもりなのだ。
解放された天穿剣は、最初の一斉射で至近距離の二人にほとんど致命的な傷を負わせ、離れて取り囲む九人にも少なからず損害を与え、大回廊の神々しい装飾を至るところで無惨に焼き焦がしていた。しかしそれでも尚、千枚の鏡から鍛えられたというその刀身は沈黙する様子はなかった。ほぼ一秒毎に剣尖が輝き、その度に方向を選ばず短い光線が撃ち出される。
半数は誰も居ない上空へと放たれ、壁や柱、天蓋を灼くだけだったが、下方向へ伸びるもう半分のうちかなりの数が、当然ながら発射点のすぐ傍にいる二人の体を捉えることとなる。
交差させた剣を外せぬまま、キリトが限界まで首を反らせ、脳天を貫通しかけた光をぎりぎりでかわした。続く光はファナティオの顔に向かったが、整合騎士は微動だにしなかった。頬を掠めた光線が、染みひとつない滑らかな肌に赤黒い溝を焼き付け、さらに豊かな黒髪の少なくない量を一瞬で燃やし尽くす。
「この……馬鹿野郎!!」
叫んだのはキリトだった。声とともに、口のあたりから鮮血の霧が散ったのをユージオは見た。いかにキリトの天命が多かろうとも、あれだけの光線を身に受ければその数値は尽きる寸前であろうことは容易に想像できた。しかし黒衣の剣士は頑として倒れることを拒否し、あまつさえ、ぎゃりっと剣を滑らせて光線の発射点である天穿剣の切っ先を黒い剣の横腹で覆った。
その結果、刹那の猶予であるにせよ、二人に向かって撃ち出される光の全てが黒い剣に遮られる形になった。
今だ――今しかない!
キリトの合図は無かったが、ユージオはまさにその瞬間がやってきたことを理性と直感の双方で悟った。
ファナティオは無論、配下の九騎士も大剣を盾にして光を防ぐのに必死で、とても残る一人の罪人のほうまで注意を向ける余裕はない。発動の瞬間に隙が大きいユージオの完全支配術も、今ならば止められる者は居ない。
猛烈な勢いで跳ね起き、ユージオは腹の下でずっと握っていた青薔薇の剣を一気に抜き放った。
「リリースゥゥゥ――」
空中でくるりと逆手に持ち替え、柄に左手も添えて、全身の力を込めて大理石の床へと突き立てる。
「――リコレクション!!」
薄青い刀身は、その半ば近くまでが深々と床に埋まった。
バシィィィッ!! と鋭く破裂するような音を伴って、剣を中心として石床が一瞬にして真っ白い霜に覆われた。
水晶のような霜柱を鋭く突き上げながら、氷結の波は凄まじい速度で前方へと広がっていく。もし視線を横向ければ、転がされたままのビステンとアーシンまでも氷に覆われている様が見えるはずだが、とても構ってはいられない。
発動から約三秒――わずかではあるが、整合騎士級の剣士であれば妨げるのに充分な時間だ――で、霜の環はキリトとファナティオの足下を飲み込み、大回廊の床一杯にまで広がった。
さすがに、騎士たちも異変に気付いたようだった。兜に包まれた顔をさっともたげ、視線をこちらに向けてくる。
しかし、もう遅い。
ユージオは両手に一層力を込めながら、最後の一句を叫んだ。
「咲け――青薔薇ッ!!」
九騎士と、ファナティオ、そしてキリトの足許から、無数の薄青い氷の蔓が一瞬にして伸び上がった。
一本一本は小指ほどの太さしかない。しかし全体にびっしりと鋭い棘が生え、それが獲物の脚にがっちりと食い込んでいく。
「ぬおっ……」
「こ、これはっ!?」
騎士たちが口々に叫ぶ声がした。その時にはもう、何本もの氷の蔓が脚から腰、腹へと這い登っている。遅まきながら大剣で蔓を切り払おうとする者もいるが、触れたそばから蔓は刀身を幾重にも巻き込み、床へと繋ぎ止めてしまう。
胸から頭、そして指先が蔓に覆われた騎士たちは、最早身動きすらも叶わぬ氷の彫像と化していた。キン、キンと高い軋み音を放ちながら執拗に獲物を絡め尽くした蔓は、最後に一際澄んだ音を放ち、そこかしこから深い青に彩られた大輪の薔薇の花を咲かせた。
無論、それらもまた冷たい氷だ。硬く透き通った花弁からは蜜も芳香も生み出さないが、しかしその代わりに無数の薔薇たちは一斉に白い凍気を撒き散らしはじめた。たちまち回廊じゅうの空気がキラキラと光る濃密な靄に覆われていく。凍気の源は――捕らえた騎士たちの天命。
その減少速度はいたってゆっくりとしたものだが、氷薔薇に全身から天命を吸い出される獲物は縛めを破るだけの力を出すことができない。もともとこの術式は、敵の殺傷を目的とした物ではないのだ。ユージオはこの術を、ひとえに、整合騎士アリスの動きを止めるためだけに組み上げたのである。
九騎士は完全に無力化されたが、さすがに彼らを束ねる騎士ファナティオは、足許の霜を突き破って蔓が伸びた瞬間に技の性質を見切ったらしく、宙に跳んで逃れようとした。
しかし、反応の速度はやはりユージオの術を知っているキリトのほうが速かった。ファナティオよりも僅かに先んじて高く跳び上がったキリトは、こともあろうにファナティオの肩あてを踏み台にして更に空中へと脱出した。そのまま後方に宙返りし、氷の蔓の追跡を回避する。
彼の身代わりに地面に押しやられたファナティオは、片膝を突いた姿勢で全身を蔓に巻きつかれた。
「く……!」
動揺し意識集中が途切れたか、天穿剣から無差別に発射されていた光線も、いくつかの蔦を切り裂いたのを最後に沈黙した。惨たらしく損傷した紫の鎧に、みるみる細い氷線が撒きつき、厚く覆っていく。
足許から次々と開いていく青い薔薇の、最後の一輪は、ファナティオの頬に刻まれた傷痕の上に咲き誇った。同時に第二位の整合騎士は、その神器とともに完全に動きを止めた。
全身に手酷い傷を負っているにも関わらず、軽々とした身のこなしで後方宙返りを繰り返し蔓の環を抜け出したキリトだが、最後の着地を失敗してユージオの隣にどさりと落下した。
「ぐふっ……」
喉の奥から咽るような声を漏らし、直後ばしゃっと大量の鮮血を吐き出す。それがたちまち真紅の霜となって凍りつくのを見て、ユージオは思わず叫んだ。
「キリト……待ってろ、すぐ治癒術を……!」
「だめだ、技を止めるな!」
蒼白に血の気を失いながらも、尚ぎらぎらと眼を光らせてキリトが首を振った。
「あいつはこれくらいじゃ倒れない……」
唇の端から血の糸を引きながら、黒い剣を杖にしてずたぼろの体を持ち上げる。
左手でぐいっと口を拭い、瞑目して数回呼吸を整えたキリトは、かっと両眼を見開くと黒い剣を高々と差し上げた。
「システム……コール! エンハンス……ウェポン・アビリティ!!」
気力を振り絞るような開始句に引き続いた術式詠唱は、肉体の状態を考えれば奇跡的な速さだった。
一句一句の間には血の絡まるような喘鳴が挟まり、時折唇の端から鮮紅色の飛沫が散るが、それでもキリトは膨大な行数の式を一度も引っかかることなく唱え続ける。
至近距離から注視すると、彼の負った傷はぞっとするほどの惨たらしさだった。天穿剣の光は鍛え上げた肉体を何度となく貫き、その痕は完全に炭化している。僅かな救いは、あまりの高熱によって傷が灼かれたせいか出血がさほどではないことだが、左の脇腹と右胸を襲った光線は内臓に手酷い損傷を与えたのは明らかだ。現在でもキリトの天命は、氷薔薇に捕われた騎士たちを上回る速度で減少しているはずで、今すぐに応急処置を施さなければ命も危い。
しかし、ユージオは青薔薇の剣の解放状態を継続するために、柄から手を離すわけにはいかなかった。せめてキリト本人が、完全支配術より先に自分に治癒術を使ってくれれば少しは安心なのだが、鬼気迫る形相で詠唱を続ける相棒にはそんな気は更々ないようだった。
そこまで焦らなくても、獲物を完璧に捕らえた氷の檻はそう簡単に破れやしない――。
ユージオがそう考え、キリトに向けた視線を再び前方の整合騎士たちに戻した、その瞬間。
咲き誇る青い薔薇の苑の中央から、一条の白光が迸り、空中を薙いだ。
「なにっ……」
思わずそう口走り、ユージオは目を見開いた。
光の源は――全身を幾重にも氷の蔓に巻き取られ、完全に動きを封じられたはずの、騎士ファナティオの右手だった。
武装完全支配術は、術式を失敗せずに唱え終わればそれで後は使い放題、というわけではない。
長い式を大まかに三つに分けると、武器の内包した過去の記憶に接触する第一段階、そこから求める特性を取り出し形にする第二段階、そして第三段階では武器そのものを、それを使う者の心象と直接結合する。そこまでして始めて、記憶を解放された武器は使用者の意のままに超絶的な力を発揮できるのである。
しかしそれは同時に、解放された武器を操るには、使用者の全精神力を注ぎ込んだ高度な集中が必要だということでもある。ユージオにしても、床に突き立てた剣の柄を握り締め、咲き乱れる氷の薔薇をイメージし続けていなければ、騎士たちの捕縛を維持することはできないのだ。
騎士ファナティオは、天穿剣を完全支配してから何度となく光線を放ち、キリトと超高速の剣戟を演じ、更には制御を外した光線の乱射という大技を繰り出し自らの体にもほとんど致命的な傷を負わせたうえで氷の薔薇に拘束されているのである。もうとっくに意識の集中は失われ、天穿剣の支配も解除されたはず――と、ユージオは予想していたのだ。
だが。
片膝を突き、全身余すところ無く凍りつかせたファナティオの、高く掲げられた右腕が、ぴき、びきん、と破砕音を響かせながらゆっくりと動いているではないか。
俯いた顔は靄に隠れてよく見えない。しかし、見開いたユージオの目には、騎士の小柄な体躯から立ち上る闘気がかげろうのように揺れるのがはっきりと映った。
「くっ……!」
唇を噛み、ユージオは柄を握る両手に一層力を込めた。心象に誘導され、ファナティオの周囲から新たな氷の蔓が十本近く突き上がる。びしっ、びしっと鋭い音を放ち、蔓は鞭のごとくファナティオの右腕を打つとそのまま隙間無く巻き付き、動きを止める。
しかし、それもほんの一秒ほどのことだった。
食い込む氷の棘などまるで意に介していないかのように、整合騎士は右手をさらに前に倒し、同時に氷の縛めが砕けて周囲に舞い散った。
ユージオの背中を、ファナティオと対峙して以来最大の悪寒が疾った。
化け物だ。
喀血しながら高速詠唱を続けるキリトの胆力も凄まじいが、あの女性騎士はそれ以上だ。光線の無差別攻撃によって全身に幾つもの孔を穿たれ、そこに根を張った氷の薔薇に容赦なく天命を吸い上げられて尚倒れず――それどころか、配下の九人が手も足も出ない氷蔓を右腕の力だけで次から次へと引き千切っていく。
その手に握られた天穿剣が、徐々に、徐々に角度を変え、自分たちのいる場所を指し示そうとするさまを、ユージオは恐怖とともに凝視した。
いったい、何がファナティオにここまでの力を与えているのか?
法を守護する整合騎士としての、罪人への怒り? 百年も想い続けているという、どこかの男への恋心? それとも――最前、彼女が僅かに口にした言葉の……。
今、教会の力が失われたら、ダークテリトリーの軍勢に人間の世界は蹂躙されるだろう、とファナティオは言った。
ならば、彼女は、人間を――ユージオの知る限り、あらゆる整合騎士たちが家畜なみに軽んじ、下民と蔑み、鞭打つ対象としてしか見ていないはずの人間を守るために、今底知れぬ死力を引き出している、ということになる。
それは――それはつまり、正義じゃないか。
己を捨て、正義を、善を、為すべきことを断じて遂行するという覚悟のもとにファナティオは今戦っている……?
そんなはずはない。整合騎士は、罪なきアリスを捕縛し、連れ去って、彼女の記憶までも弄んだ神聖教会最高司祭の手先だ。唾棄すべき走狗、傲慢な圧制者、これまでユージオは彼らをそのように憎み、可能ならば全員を斬り殺さんという決意のもとここまで駆け上ってきたのだ。
なのに、今更そんな、実は皆良い人でしたなんてことがあって……あってたまるものか。
「お前に……お前らに正義なんか無い!!」
ユージオは押し殺した声で叫び、心の奥底からありったけかき集めた憎悪を青薔薇の剣に注ぎ込んだ。
再び、ファナティオの周囲から黝い氷蔓が無数に飛び出し、今度はその尖端を鋭い棘に変えて騎士の右腕を次々に貫いた。
「止まれ……止まれよ!!」
心中には圧倒的な憎悪が渦巻いているはずなのに、なぜかユージオは、両目から熱い液体が溢れるのを感じていた。しかし、それを涙だと認めることはどうしても許せなかった。怒りと憎しみが形を変えた氷の棘に無数に貫かれながらも、愚直なまでに右腕の動きを止めようとしないファナティオの姿に心を動かされているなどということは、どうしもて認めるわけにはいかなかった。
整合騎士の腕はもうぼろぼろだった。折れた棘が針山のように突き刺さり、滴る大量の血が赤いつららとなって垂れ下がる。しかしそれでも、前髪と氷薔薇の陰に隠れた顔には一片の憎悪も浮かんではいるまいとユージオは思わずにいられなかった。
ついに、垂直に掲げられていたファナティオの右手が水平へと角度を変え終え、ユージオとキリトを真っ直ぐに剣の切っ先で捉えた。
天穿剣の刀身が、かつてないほど眩く輝くのを、ユージオは滲む涙の向こうに見た。
まさしく、ファナティオの残る天命すべてを燃焼させているとしか思えないほどに凄まじい光だった。ソルスそのものがこの大回廊に降りてきたかのような純白の光に、ユージオは濡れた瞼を細めた。
勝てない。
それは、アリスを取り戻す旅に出て以来、初めてユージオが抱いた諦念だったかもしれない。発射される前の光に曝されただけで脆くも溶け崩れていく氷の薔薇たちを眺めながら、ユージオはそっと、小さな息を吐いた。
しかしここで潔く目を閉じ、死を告げる光を待つなどということは許されない、とユージオは思った。そのような形でファナティオの"正義"に屈することだけはどうしても嫌だった。
せめて、最後に薔薇の一輪なりとも咲かせて意地を見せたい、そう決意して、心の底から憎悪を残り滓をかき集めようとした――その時。
隣で、キリトが小さく呟いた。
「憎しみじゃ、あいつには勝てないよ、ユージオ」
「え……」
首を回し、見上げると、相棒は血の滲んだ唇にかすかな笑みを浮かべて続けた。
「お前は、整合騎士が憎くて憎くて、それでここまで来たわけじゃないだろ? アリスを取り戻したい、もう一度会いたい……アリスが好きだから、愛しているから今ここに居るんだろう? その想いは、あいつの正義と比べたって決して劣るもんじゃない。俺だってそうだ……俺も、この世界の人たちを、お前を、アリスを、あいつだって守りたい。だから今は、あいつに負ける訳にはいかないんだ……そうだろ、ユージオ」
かつて聞いたことのないほど穏やかなキリトの声だった。謎多き黒衣の剣士は、もう一度小さく笑うと頷き、一瞬目を閉じて顔を前に向けた。
天穿剣のおそらく最終最大の光が発射されたのは、その瞬間だった。
もはや、光線などという言葉では現せない、それは巨大な光の槍だった。創世の時代、闇神ベクタを退けるためにソルス神その人が投げたという天の霊光そのものが、あらゆるものを灼き尽くさんと殺到した。
かっと瞼を開けたキリトの黒い瞳は、圧倒的な白光を受けてなお爛々と輝いていた。最後の一句を唱える声は、絶望的な状況にあって、ゆるぎない決意に満ちていた。
「リリース・リコレクション!!」
まっすぐ前に向けられた黒い剣の刀身が、どくんと脈打った。
直後、刃のいたる所から、幾筋もの"闇"がほとばしり出た。
あらゆる光を吸い込むような漆黒の奔流が、うねり、よじれ、絡まり、また離れながら前へ前へと殺到していく。それらは、剣の十メルほど先で大人が二人でも抱えきれないほどの太さに膨れ上がると、そこで互いにがっちりと結びつき、一本の円柱へと形態を変えた。
よくよく見ると、闇が凝集した柱はそこで硬く実体化しているようで、表面には黒曜石のような光沢があった。しかしつるりと滑らかではなく、縦方向に細かい溝が刻まれている。
円錐状に先端を尖らせた黒柱は、あとからあとから噴き出す闇の激流に後押しされ、猛烈な速度で前方へとその身を伸ばしていく。一体これはどのような技なのか? 瞬間、すべてを忘れ、ユージオはキリトの完全支配術に目を奪われた。闇を大槍に変える術式? しかし、黒い槍、と言うより柱は余りにも太く――直径は二メルを超えているだろう――とても微細な制御が出来るとは思えない。狙われた者は横に飛ぶだけで、槍の攻撃を楽に回避できよう。
とユージオが思ったのも束の間。
黒い柱の側面から、数十本のやや細い柱が同時に飛び出した。
それらは更に細く分岐しながら、先端を鋭くきらめかせ、周囲の空間へと広がっていく。下方向に突き出した柱たちが、大理石の床を容易く貫き、ひび割れさせるのをユージオは見た。
後からあとから新しい槍を生み出しながら、黒い巨柱は凄まじい勢いで伸長していく。
それはもう柱と言うよりも、とてつもなく太い枝――。
いや、樹だ。
そう思った瞬間、ユージオは、眼前で進行している現象の正体を悟った。
これは、遥か昔よりルーリッドの村の南に屹立し、森の王として君臨し続けたあの巨樹――ギガスシダーそのものだ。
キリトは、術式によって黒い剣に眠る記憶を呼び覚まし、それがかつて誇示していた姿、数百年に渡って何人にも切り倒されることのなかった巨大樹をこの場に出現させたのだ。
何という無茶な……、ユージオは痺れた頭のなかで呻いた。
青薔薇の剣を含め、これまで目にした整合騎士三者の武装完全支配術はすべて、武器の記憶中に存在する特性を攻撃力として適切な形に抽出・加工していた。確かにその過程において、武器の潜在力そのものは縮小されるがそれは仕方ないことだ。そうしなければ、呼び出された特性は無制御のまま荒れ狂い、技と呼べるものではなくってしまうからだ。キリトの黒い剣とて、決して例外では――。
何よりも大きく、重く、何よりも硬かったギガスシダー。
存在そのものが、究極最大の武器となり得るほどに。
ユージオの鼓動が、どくんと大きく跳ねたその瞬間。
過去から召還された漆黒の巨樹の先端が、同じく過去より投射されたソルスの光の凝集と接触した。炸裂した純白の渦が、大回廊じゅうを眩く照らした。
想像を絶するほど高熱、高密度の光の槍に、さすがの超硬樹も圧されたか、突進するその勢いが止まった。しかしキリトの手許の黒い剣からはなおも無数の闇が噴出しつづけ、あくまで樹を前へ前へと押しやろうとする。
ファナティオの手に握られた天穿剣も、退く気は一切ないようだった。吹き荒れる光の奔流は刻一刻とその勢いを増し、既にファナティオの前方の氷薔薇は漏れる熱によって完全に溶け去っている。それどころか騎士自身の右の手甲すらも真っ赤に焼け、白い煙をまとっているのが見える。
光と闇の激突は、大回廊の中央で数瞬の拮抗を続けた。
しかし、これほどの超攻撃力の衝突が、完全に相殺・消滅するということは有り得ない。必ずどちらかがどちらかを退け、狙った敵を完膚なきまでに破壊し尽くすはずだ。
この勝負――分が悪いのは、やはりキリトか、とユージオは思った。
ギガスシダーがいかに硬いとはいえ、あくまでそれは実体のある樹なのだ。本物が、何度も何度も叩くことによってついには切り倒されてしまったように、限界以上の力を受ければ損傷もするし消滅もする。
しかし天穿剣の光は、純粋なる熱の塊だ。実体なき攻撃力などというものを、どのように破壊すればいいというのか。
対抗手段があるとすれば、キリトが一度見せたように鏡によって弾くか、青薔薇の剣が生み出す以上の絶対的凍気で相殺すると言った、対抗するに足る特性を持った力が必要となるはずだ。しかるに、ギガスシダーの特性と言えば、とてつもなく硬く、重いというその二点――。
いや、もう一つあった。
ソルスの光を、貪欲なまでに吸収し、己の成長力へと変えてしまうこと。
バアァァァ――ッ! と石床が震えるほどの轟音を発し、白い光の槍が千もの細流へと引き裂かれた。
均衡を破り、突進を再開したのは、闇色の巨樹だった。
さすがに最先端の一枝は眩いほどに赤熱しているが、それでも光の奔流に屈することなくそれを抉り、千切り、発生源へと襲い掛かっていく。
幹から周囲へと分かたれる無数の枝が、ガガガッと立て続けに床を粉砕し、そこに繋ぎ止められたままの九人の騎士を有無を言わせず巻き込んだ。
巨人の投げる槍のごとき勢いで伸びる枝に触れた瞬間、騎士たちは、ある者は床に叩きつけられ、ある者は水平に吹き飛ばされて壁に激突した。折れた剣と割れた鎧が銀色の細片となって宙に舞った。
それほどの凄まじい威力を秘めた巨樹が、黒い竜巻のごとく己に迫る中、ファナティオはただ顔を上げたのみで一歩たりとも動こうとしなかった。ユージオの想像したとおり、その美しい顔にはいかなる怒りも憎しみも浮かんではいなかった。ゆっくりと閉じられたまぶた、かすかに動いた口もと、それらの動きには何らかの感情が込められていたはずだが、ユージオにはそれがいかなる物なのか察することはできなかった。
ギガスシダーの鋭い尖端が、ついに光の激流をその源まで遡り、剣の切っ先に正確に命中した。
まず、天穿剣がしなりながら弾き飛ばされ、きらきらと回転しながら宙を飛んだ。
直後、騎士自身もまた、ぞっとするほどの勢いで空中に跳ね上げられた。
体を覆っていた氷の欠片を散らしながら、一直線に天蓋まで達し、轟音とともに激突して、そこに描かれていたソルス神の顔を粉々に砕いた。
落下はゆっくりとしたものだった。幾つもの石の塊とともに、糸を引くようにすうっと落ちてきたファナティオの体は、大回廊後方の大扉のすぐ手前にがしゃりと音を立てて転がった。そのまま、第二位の整合騎士は、もう立ち上がることはなかった。
巨樹の前進は、すべての整合騎士が斃れたのち五秒ほどでようやく停止した。
ユージオは、剣から手を離すのも忘れ、ただ眼前の圧倒的な破壊の痕跡へと見入った。
染みひとつなかった大理石の床や真紅の絨毯は、回廊の中央に水平を向いて横たわるギガスシダーの数百に及ぶ大枝に貫かれ、抉られ、引き裂かれて最早見る影もない。さすがに左右の壁や天蓋までには枝は届いていないが、かわりに天穿剣の光がその各所を縦横に灼き溶かしている。
神々しいまでの荘厳さを漂わせていたセントラル・カセドラル五十階"霊光の大回廊"だが、今やまるで古の巨竜が大暴れしたかの如き惨憺たる有様だった。これを引き起こしたのが、たった二人の学生剣士だなどとは、実際に居合わせた者しか信じまい。
でも、やったんだ、僕たちが。
ユージオは内心でそう呟いた。人の世の始まりより存在し、絶対なる権威を以って世界を支配しつづけてきた神聖教会――神と同義とさえ思っていたその教会の騎士十名と、僕らは戦い、勝ったんだ。
これで、エルドリエから数えて何と十四人もの整合騎士を退けてきたことになる。カーディナルの話によればカセドラル内に駐留する騎士は二十人前後ということだった。つまりあと、ほんの――数人の騎士を斃せば……。
ユージオがぐっと奥歯を噛み締めたのと、ほぼ同時だった。
隣で、がくりとキリトが両膝を床に突いた。右手から、重い音を立てて黒い剣が零れ落ちた。
刃から溢れていた闇が消え去ると同時に、横たわるギガスシダーが、鋭い枝々の先端からぴき、ぱきと硬い音を放ちながら崩れ始めた。割れ落ちる黒曜石のような小片は、空中にあるうちに砂よりも細かく分解し、そのまま宙に溶けて消えていく。崩壊の勢いはみるみる増し、巨大なギガスシダーは数秒と待たずに過去へと還っていくようだったが、ユージオにその有様を眺める余裕はなかった。
床から青薔薇の剣を引き抜き鞘に戻すのももどかしく、ユージオはぐらりと上体を泳がせる相棒に駆け寄った。
「キリト!」
叫んで手を伸ばす。危く受け止めた黒衣の体は驚くほど軽く、流れ出した血と天命の膨大さを否応無く悟らせた。顔は床の大理石よりも白く、閉じた瞼が持ち上がる様子もない。身体に素早く目を走らせ、最も深そうな右胸下の傷に左手を当てる。
「システム・コール! リカバリー・パーシャル・ダメージ!」
手が柔らかい青に発光し、惨たらしい貫通痕がじわじわと塞がっていく。内部での出血が止まったと判断した時点で手を外し、今度は左脇腹の傷に同様の処置を施す。
これで、出血と重要部位の損傷による天命の連続的損耗は防いだはずだが、これほど激しく減少した天命は、空間神聖力を源とする通常の回復術ではとても癒せない。屋外で充分な陽光を受けるか、肥沃な地面に接していればまた別だが、このように厚い石壁の中では気持ちばかり回復したところで周囲の神聖力を使い尽くしてしまう。
ユージオは迷うことなく左手でキリトの右手をきつく握り、新たな術式を唱えた。
「システム・コール! トランスファー・デュラビリティ、セルフ・トゥ・レフト!」
今度はユージオの体全体がぼんやりと青い光の粒に包まれ、それらはたちまち左手へ集まるとキリトの体へ流れこんでいく。
思い返すと、デュソルバートと戦ったときも今回も、キリトばかりが傷を受けユージオはほとんど天命を減らすことがなかった。それを考えれば、このような無痛の天命譲与程度ではとても借りは返せない。せめて自分が倒れるぎりぎりまで術を続けなくては。
とユージオは思ったのだが、体感でようやく半分ほど天命を流し込んだところでキリトが眉をしかめながら目を開け、左手でユージオの手を掴むと自分から引き離した。
「……ありがとうユージオ、俺はもう大丈夫だ」
「無理するなよ、それだけやられれば窓じゃ見えない傷が残ってるはずだよ」
言葉とは裏腹に弱々しい相棒の声に、慌てて押し留めようとしたが、キリトは首を振って身体を起こした。
「ゴブリン連中にやられた時よりマシさ、それよりあいつが心配だ……」
黒い瞳が向けられた先が、はるか回廊の反対側に倒れるファナティオであることを察し、ユージオは思わず唇を噛んだ。
「……キリト……、本気の殺し合いをした直後にそういうことを言えるのがちょっと信じられないよ」
苦笑に紛れさせながらも、それはユージオの本心だった。しかし同時に、耳の奥で、完全支配術を解放する直前のキリトの台詞が甦っていた。
「憎しみじゃ勝てない……、それは、確かにそうかもしれない。あの整合騎士は、個人的な恨みとか憎しみとかそんな次元で戦ってたんじゃなかったからね……。でも……でも僕は、やっぱり教会と整合騎士を許せないよ。物凄い強さだけじゃなくて、あんな……志を持ってるなら、どうしてその力を、もっと……」
その先をなかなか言葉に出来ず、ユージオは口篭もった。しかし、大儀そうに立ち上がり、床から剣を拾ったキリトは、わかっているというふうに頷いた。
「あいつらだって、恐らくあいつらなりの迷いの中にあるのさ。騎士長って奴に会えば、もう少しそのへんのことも分かるだろう……。ユージオ、お前の技は凄かった。あの騎士達に勝ったのはお前だ、だからもう、人間としてのファナティオ達まで憎む必要はないよ……」
「人間……。うん……そうだね、戦ってるときにそれだけは分かった。あの人は人間だった、だからあんなに強かったんだ」
ユージオが呟くと、キリトは軽く笑い、そのとおりだ、と言った。
「あいつらは自分たちのことを絶対の善と言い、お前にとっては絶対の悪だったんだろうけどさ、俺たちもあいつらも生身の人間なんだ。そんな、絶対の善悪なんてもの無いんだよ、たぶんな」
その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえて、ユージオはふと考えた。
君がさっき、あれほどまでに怒っていた最高司祭アドミニストレータ……その教会の、ひいては世界の絶対支配者に対しても、君はそう思っているのかい?
しかし、それを訊ねる前にもう、キリトは大扉前に倒れるファナティオ目指して歩きはじめていた。
五、六歩進んだところでひょいと振り返り、ポケットを探ると小さな瓶を取り出す。
「おっと、忘れてた。お前はこいつで、子供たちの毒を抜いてやってくれ。飲ませる前に、毒剣は折って、もう妙なもの持ってないか確認しとけよ」
そういや僕も忘れてた、と思いながらキリトが放った小瓶を受け取り、ユージオは頷いた。
立ち上がり、後ろを向くと、少年騎士ビステンとアーシンは変わらず麻痺し床に転がったままだった。周囲を覆っていた霜はすでに消え去り、凍結による負傷も残っていないようだ。ユージオと目が合ったとたん、二人揃って不貞腐れたように視線を逸らす。
こりゃあファナティオとは別の意味で分かり合えそうにないぞ、と思わず苦笑しながらそちらに歩み寄り、腰を屈めると、二人の鼻先に突き立った二本の毒剣を両手で抜いた。ひょいっと空中に投げ上げ、回転しながら落ちてくるところを、青薔薇の剣で抜きざまに一薙ぎする。
短剣は二つともあっけなく粉砕され、緑色の粘液とともに遠く離れた床に散らばった。青薔薇の剣に付着した毒液も、刀身を侵す前に凍り、剥がれ落ちた。
続いて、不特定物体感知の術式を使い子供たちが危険なものを隠し持っていないことを確認すると、ユージオは左手に持っていた小瓶の栓を抜き、七割がた残っていた中身を半分ずつビステンとアーシンの口に注いだ。これで彼らも、ユージオのように十分足らずで麻痺から回復するはずだ。
そのまま放っておいてもよかったのだが、こんな時キリトなら何か一言いうんだろうなあ、と思ったユージオは、少し考えてから口を開いた。
「……君らのことだから、ファナティオさんやキリトがあんなに強いのは神器と武装完全支配術を持ってるからだ、って思ってるかもしれないけど、それは違うよ。彼らはもともと強い……技や体だけじゃなくて、心が強いから、あんなになっても戦えるし物凄い術式も使えるんだ。君らは……確かに、誰よりも殺す技には長けてるかもしれない。でも、殺すことと勝つことはまったく違うんだ。僕も、今日になってようやくそれに気付いたんだけどね……」
ビステンたちは相変わらず目を逸らせたままで、自分の言葉がどれほど届いているのかユージオにはさっぱり分からなかった。もとより、子供の相手は苦手中の苦手なのだ。
それでも、少なくともあの戦いには、彼らなりに感じるところがあったはずだ、絶対に。そう考え、ユージオはこれ以上何を言う必要もないだろうと思った。ビステンとアーシンの無邪気な軽口を思い出せば、彼らもまた絶対の悪ではないのだと信じられそうな気がした。
きびすを返しキリトのほうに駆けよりながら、ふとユージオは、もし自分とキリトが子供の頃から友達だったらあの二人みたいな感じだったかもしれないな、と考えた。勿論、アドミニストレータの子供として生まれるのはご免こうむるけれど。
破壊の痕跡著しい回廊を移動するあいだ、ユージオは素早く左右に眼を走らせ、ファナティオ配下の九騎士の状態を確認した。
すでに消滅したギガスシダーの枝によって全員が相当の深手を受けたらしく、一様に倒れたまま立ち上がる気配はない。しかしさすがに、神器持ちより一格落ちるとは言え整合騎士だけのことはあるようで、天命を全喪失してしまった者は見当たらなかった。天界に召された人間が残す骸は、あらゆる色彩を失い薄黒く煤けて見えるのですぐにそれと判る。
しかし、枝に巻き込まれた配下とは違い、突進するギガスシダーの全攻撃力をその身でまともに受けたファナティオが到底無事とは言えない状況であることは、倒れた彼女の周囲に広がる大量の血溜まりを見るまでもなく明らかだった。
騎士の傍らに片膝をつくキリトの斜め後ろで足を止め、ユージオは息を殺しながら相棒の肩越しに覗き込んだ。
間近で見ると、ファナティオの全身の傷は目を背けたくなるほど酷いものだった。熱線に貫かれた孔が胴と両脚に四箇所、右腕は氷薔薇の棘に引き裂かれた上に天穿剣の最終攻撃の余波に焼かれて、肌が無事な箇所が無いほどだ。
しかし、最大の惨状を呈しているのはやはり、ギガスシダーの直撃を受けた上腹部の傷だった。大人の拳ほどもある貫通痕が深々と口を開け、深い赤色の血を絶え間なく溢れさせている。瞼を閉じたままの顔は、鎧の色が移ったかのような薄い青紫色に変じて、そこには生気の欠片すらも見当たらなかった。
キリトは、ファナティオの腹に両手をかざし、神聖術で傷の修復を試みている最中だった。ユージオの接近に気付くと、顔を上げないまま切迫した口調で言った。
「手伝ってくれ、血が止まらないんだ」
「あ……ああ」
頷き、反対側に膝をついて同じく傷口に手を当てる。先刻キリトに使ったのと同じ、部分損傷回復の術式を唱えると、かすかな燐光を浴びた傷からの出血が僅かに減少したような気がしたが、完全な止血には程遠かった。
このまま二人で術を継続しても、やがて周囲の神聖力を使い尽くし効力が失われてしまうのは明らかだ。二人の天命を譲与すればファナティオの天命は一時的に回復するだろうが、出血を止めずにそれをしても結局は無為である。現状で彼女の命を救うのは、二人より強力な回復術を使える神聖術者の助力か、伝説の霊薬でもなければ不可能だ。
唇をきつく噛み締めるキリトの顔をそっと見やり、しばし迷ったすえに、ユージオは言った。
「無理だよキリト。出血が多過ぎる」
キリトはしばらく俯いたままだったが、やがて掠れた声で答えた。
「わかってる……でも、何か、何か方法があるはずだ。諦めないで考えるんだ……ユージオも考えてくれよ、頼む」
その顔は、二日前、ロニエとティーゼを襲った悲劇を止められなかった時と同じくらいの沈痛さと無力感に満ちていて、ユージオはどんと胸を衝かれたような気がした。
しかし、やはりどれほど考えようと、眼前で今まさに尽きんとしている天命の皿を元に戻す手段が無いことは明々白々だった。背後で倒れている九騎士を回復させ、彼らにも治癒を手伝ってもらうことも一瞬検討したが、そんな迂遠なことをしている猶予はどう見ても残されていない。おそらく今、キリトとユージオのどちらかが術式を停止すれば、その数秒後にはファナティオの命は永遠に喪われるだろう。そして、例え術を続けても――同じ結果が数分後にはやってくる。
ユージオは意を決して、出せる限りの真剣な声音で相棒に告げた。
「キリト。――君は、地下牢から脱出するとき僕に言ったね。ここから先に進むには、あらゆる敵を斬り倒していく覚悟が必要になる、って。さっき、君は、その覚悟のもとにこの人と戦ったんじゃないのか? どちらかが死に、どちらかが生き残る、そういう決意であの技を使ったんじゃないのかい? 少なくとも、この人は……ファナティオさんには迷いはなかったよ。自分の命を全部賭ける、そういう顔をしてた……と僕は思う。キリトにだって判ってるはずだ……もう、敵を気遣って、手加減なんかして勝てるような段階じゃないんだ」
真剣の刃を相手に向けるというのは、つまるところそういうことなのだ。ユージオはそのことを、ライオスの腕を斬り飛ばしたときに両の掌の震えで、右目の激痛で、胸の奥の凍るような恐怖で学んだ。
それと同じことを、この黒髪の相棒は遥か昔から――ルーリッド南の森で出会ったあの時から既に知っているものと、そう思っていたのに。
ユージオの声を聞いたキリトは、ぎりりと奥歯を噛み締め、何度も首を左右に振った。
「判ってる……判っちゃいるんだ。俺とこの人は、本気で戦った……どっちが勝ってもおかしくない、ぎりぎりの真剣勝負だった。でも……この人は、死んだら消えてしまうんだ! 百年以上も生きて……迷って、恋して、苦しんで、そんな魂を俺が消してしまうわけにはいかない……だって、俺は……俺は、死んでも……」
「え……?」
死んでも――何だというのだろう? 人は皆、天命尽きればその魂は生命の神ステイシアの元に召され、神の抱く黄金の壷の中に融けて消えるのだ。色々と謎の多いキリトとて、人間である以上その定めは一緒であるはず。
ユージオの一瞬の戸惑いは、しかし、突然上を向いて叫んだキリトの声に掻き消された。
「聞こえるか! 騎士長! あんたの副官が死んじまうぞ! 聞こえてたら降りてきて助けろよ!!」
絶叫は、遥か高い天蓋にかすかにこだまし、空しく消えた。だが、キリトは諦めることなく叫びつづけた。
「誰でもいい……まだいるんだろう、整合騎士! 仲間を助けに来いよ! 司祭でも、修道士でも……誰か来てくれよ!!」
二人の見上げる先で、破壊され尽くした三神の似姿がただ沈黙を返してよこした。何者かが現われる気配も、微風のひとつすら訪れることはなかった。
視線を戻すと、ファナティオの全身から徐々に色彩が抜け落ちつつあるのが確認できた。天命の残りは百か、五十か――。整合騎士副長ファナティオ・シンセシス・ツーだった存在が、その骸という物体に変じる瞬間を、せめて黙祷とともに待とうとユージオは言おうとしたが、相棒はなおも叫ぶのを止めようとはしなかった。
「頼むよ……誰か! 見てたら助けてくれ! この場ですぐ戦ってやるから……そうだ、あんたでもいい、来てくれカーディナル! カーディナ……」
突然、喉が詰まったかのようにキリトが黙り込んだ。
ユージオは視線を上げ、相棒の顔に愕然とした表情がまず浮かび、それが一瞬の迷い、そして決意へと変わるのを驚きとともに見た。
「お、おい……どうしたんだよ急に」
だが、キリトは答えることなく、右手を黒い上着の胸元に差し込んだ。
つかみ出されたのは――細い鎖の先に揺れる、極小の赤銅製の短剣だった。
「キリト――! それは!!」
我知らず、ユージオも叫んだ。
同じものが、ユージオの首からも下がっている。忘れるはずもない、大図書室を出るとき、追放された先の最高司祭カーディナルが呉れた短剣だ。攻撃力は一切無いが、刺された者とカーディナルの間に切断不可能な術式の通路を開く。ユージオにはアリスに、キリトにはアドミニストレータにそれぞれ使うようにと渡された、二人の最後の切り札。
「それは駄目だ、キリト! カーディナルさんが、もう予備はないって……それは、アドミニストレータと戦うための……」
「判ってる……」
キリトは、苦しそうな声で呻いた。
「でも、これを使えば助けられる……助ける手段があるのに、それを使わないなんて……人の命に優先順位をつけるなんてこと、俺にはできない」
苦しそうでもあり、しかし確たる決意に満ちてもいる表情でじっと短剣を凝視すると――キリトは、右手に握ったその鋭利な針を、迷うことなくファナティオの、そこだけは傷の無かった左手に深く突き刺した。
途端、鎖を含め、赤銅色の金属すべてが眩く発光した。
息を飲む間もなく、短剣は幾筋もの紫色の光の帯へと分解される。よくよく見れば、それらの光帯はすべて、ステイシアの窓に出現するものと同じ神聖文字の行列だった。極細の文字列たちは、ほつれながら空中をすべり、ファナティオの身体の各所へと吸い込まれていく。
短剣が完全に消滅するのと同時に、騎士の全身が紫の光に包まれた。驚くべき現象に目を見開いたユージオは、少し遅れて、上腹部の傷口からの出血が完全に停止していることに気付いた。
「キリト――」
血が止まった、とユージオは言おうとしたのだが、直後どこからともなく響いた声に遮られた。
『やれやれ、仕方ないやつじゃな』
弾かれたようにキリトが顔を上げた。
「カーディナル……あんたか!?」
『時間がない、当然のことを訊くな』
その、あどけない声にそぐわない辛辣な言い回しは間違いなく大図書室で遭遇した前最高司祭のものだった。
「カーディナル……すまない、俺は……」
苦しげにそう言うキリトの声を、再びカーディナルは素っ気無く断ち切った。
『今更謝るな。よい……お主の戦いぶりを観ている間から、こうなるのではないかと思っておった。状況は理解しておる、ファナティオ・シンセシス・ツーの治療は引き受けよう。しかし完全修復には時間が掛かるゆえ、身柄をこちらに引き取るぞ』
声がそう告げると同時に、ファナティオの身体を覆う紫の光が一際激しく瞬いた。思わずユージオが目をしばたき、再び見開いたときには、もう整合騎士の姿は――驚いたことに、床に広がっていた血溜まりも含め――完全に消滅していた。
空中には、まだ神聖文字の断片がいくつか漂っているのが見えた。それらの明滅と重なるように、カーディナルの声が、先ほどよりも音量を落としながら届いてきた。
『もう蟲どもに気付かれておるゆえ手短に伝えるぞ。状況から判断して、アドミニストレータは現在非覚醒状態にある可能性が高い。彼奴が目を醒ます前に最上階に辿り着ければ、短剣を使わずとも排除が可能だ。急げ……残る整合騎士はもう僅かだ……』
図書室との間に開いた、目に見えない通路が急速に狭まりつつあるのをユージオは感じた。カーディナルの声が遠くなり、気配が掻き消える寸前、空中に二つの光がちかちかっと瞬き、それは実体を伴って床に落下した。
涼しげな音を立てながら大理石の上に転がったのは、二つの小さな硝子瓶だった。
キリトは虚脱したようにその瑠璃色の瓶を見つめていたが、やがて腕を伸ばすと二つ同時に摘み上げた。立ち上がり、ひとつを指先に挟んで差し出してくる。
受け取ろうとユージオが伸ばした掌のなかに瓶を落としながら、キリトは低い掠れ声で呟いた。
「……取り乱して悪かった」
「いや……謝るようなことじゃないよ。ちょっとばかり驚いたけどさ」
小さく笑いながらそう言うと、キリトもようやく僅かに微笑んだ。
「せっかくの差し入れだ、ありがたく頂こうぜ」
相棒にならってユージオも小瓶の栓を弾き飛ばし、中身の液体を一息に呷った。お世辞にも美味とは言えない、砂糖抜きのシラル水のような酸っぱさに顔をしかめるが、長時間の戦闘で疲弊した頭の中が冷水で洗われるような爽快感があった。半減した天命も急回復中と見え、キリトの四肢に残る傷がみるみる塞がっていく。
「すごいな……、どうせなら二個と言わず、もっと沢山送ってくれればいいのに」
思わずユージオが嘆息すると、キリトが苦笑して肩をすくめた。
「これだけ高優先度の代物をデー……術式化して転送するには時間がかかるんだろうさ。むしろ、よくあんな短時間で……うわっ!?」
いきなりキリトが素っ頓狂な声を出して跳びのいたので、ユージオは唖然として相棒を見やった。
「な、なんだよ急に」
「ユ、ユージオ……動くな、いや下を見るな」
「はあ?」
そんなことを言われれば、見ないでいるほうが難しい。反射的に自分の足許を見下ろしたユージオは、いつの間にかそこに居たモノに気付いて悲鳴を上げた。
「ひい!?」
長さは十五センほどか。細かい体節に分かれた長く平べったい胴体から、無数の細い脚が突き出し、その前半分をユージオの靴に乗せている。頭とおぼしき球形の先端部分には十個以上ある小さな赤い眼が一列に並び、その両側からは恐ろしく長い針のような角が二本飛び出して左右別々にゆらゆらと揺れている。ある種の虫類――なのだろうが、おぞましい、と言うよりない奇怪な姿だ。ルーリッド南の森にも虫は沢山生息していたが、こんな形のものは見たことがなかった。
あまりのことに凍りついたユージオだったが、さらに三秒ほど角で周囲を探ってから、怪虫がおもむろに靴からズボンに這い登ろうとするに至って再度の悲鳴とともに飛び上がった。
「ひぃ――――っ!!」
激しく足踏みをすると、虫はぽろりと背中から床に落ちたが、すぐに反転してちょろちょろと足の間を這い回る。もう一度登ってこられては堪らぬと、ユージオは垂直跳びを繰り返したが、何回目かの着地のときにその惨事は起きた。
くしゃ、という乾いた音に続いて、ぷちぷち、と粘っこいものが弾ける感触を足裏に伝えながら、ユージオの右の靴の下で虫は見事に粉砕された。
四方に鮮やかな橙色の体液が飛び散り、刺激性の異臭が漂う。千切れた脚が尚も跳ね回っているのを見てユージオはふぅっと気が遠くなりかけたが、今倒れるわけには行かないと必死に怖気を堪え、キリトに助けを求めるべく顔を上げた。
すると、心を繋いだ相棒は、いつの間にか三メルも向こうにいて、更にじりじりと後退を続けているところだった。
「おい……おおい! どっか行くなよ!」
裏返った声で糾弾すると、キリトは蒼ざめた顔を細かく左右に振った。
「ごめん、俺、そういうのちょっと苦手」
「僕だって苦手だよすっごく!」
「そういう虫とかって大抵、一匹死ぬと十匹くらい集まってくるお約束じゃん」
「嫌なことを言うなよ!!」
こうなったら相棒に抱きついてでも運命を共にせんと決意し、ユージオは逃げるキリトに飛び掛かるべく腰を落としたが、不意に足下から紫色の光が発生して再度凍りついた。
恐る恐る下を見ると、おぞましい残骸が光の粒となって蒸発していくところだった。数秒と経たずに粘液やら殻やらは跡形もなく消え去り、ユージオは腹の底から長い安堵のため息を吐き出した。
遠方から消滅を確認したらしく、今更のようにキリトが戻ってきて、鹿爪らしい声を出した。
「……成る程な。今のが、アドミニストレータが探知用に放った"蟲"ってやつか。図書室との通路を嗅ぎつけたんだな……」
「…………」
ユージオはそこはかとない恨みを込めてキリトを上目で睨んだあと、やむなく相槌を打った。
「じゃあ……この塔には、いまみたいな奴が沢山うろついてるって事? でも、これまであんなの見たことなかったよ」
「……隠れるのが巧いんだろうさ、だからって探して回るのはご免だけどな。それに……カーディナルが妙なこと言ってたな……アドミニストレータが未覚醒、とか何とか……」
「ああ、そう言えば……。それってつまり、寝てるってこと? こんな昼間から?」
ユージオの問いに、キリトはしばらく顎を撫でたあと、自身も腑に落ちない様子で答えた。
「アドミニストレータや整合騎士は、数百年も生きてる代償として色々無理をしてるんだってカーディナルが言ってた。特にアドミニストレータは、一日の殆どを寝て過ごしてるらしいんだが……となると、今の蟲やら整合騎士の制御はどうなってるんだろうな……」
俯いたまま、更に数瞬考え込んだあと、くしゃっと髪を掻き上げて自答する。
「まあ、登ってみればおのずと分かることか。――それはそれとしてユージオ、ちょっと俺の背中見てくんない?」
「は、はあ?」
唖然とするユージオの眼の前で、キリトはくるりと後ろを向いた。訳がわからぬまま目を走らせるが、黒い上衣の布地は、度重なる戦闘を経て相当に損耗しているものの特に変わった様子はない。
「別に……何もなってないけど……」
「何ていうか……ちっちゃい虫が張り付いてたりしないか? クモ状の奴とか」
「いや、居ないけど」
「そうか、ならいいんだ。――では改めて、後半戦行ってみようか!」
そのまますたすたと、回廊北端の大扉目指して歩いていくキリトをユージオは慌てて追った。
「おい、何だよ今の!」
「なんでもないって」
「気になるよ、僕の背中も見てくれよ!」
「だからなんでもないって」
ルーリッドの村を出て以来、何度となく繰り返してきたような軽口をやり取りしながら、ユージオは心の中で本当に訊きたい問いをそっと呟いていた。
いつでも冷静なはずの君が、一人の敵でしかないはずのファナティオの死を前にあれほど取り乱した理由――そして、"俺は、死んでも……"という言葉に続くはずだったのは――。
キリト、君は、本当は誰なんだい……?
背丈の数倍はあろうかという巨大な扉の前で立ち止まった黒衣の剣士は、両手を掲げると、重々しい軋み音とともに左右に押し開いた。途端、冷たい風がごうっと吹き付けてきて、ユージオはわずかに顔をそむけた。