しばらくのあいだ、二組のブーツが大理石の階段を蹴る音だけが鳴り響き続けた。
それを除けば、恐ろしいほどの全き静寂に世界は包まれている。ユージオの知る限りでは、神聖教会の巨塔にはたくさんの修道士やその見習いが起居しているはずなのだが、どれほど耳を澄ませ、目を凝らしても、人の営みらしきものを感じることはできない。
加えて、上の階に辿り着くたびに視界に入る光景が一切変化しない――半円形のホールから左右に伸びる回廊と、そこに等間隔にならぶ黒檀の扉――ために、いつの間にやら幻惑系の術でも掛けられて、同じ階段を繰り返し登っているのではないかと疑いたくなってくる。
そうでないことを確認するために、一度回廊のに入って扉を端から開けてみたい、という衝動に駆られるが、前を行くキリトがあまりにも一定のペースで黙々と登りつづけるので気を散らしている場合ではないと思い直した。デュソルバートの言葉が真実なら、二人の向かう先、カセドラル五十階において十人もの整合騎士が待ち受けているはずだ。
左腰で揺れる白革の鞘にそっと触れて、ユージオが雑念を振り払おうとした途端、踊り場に差し掛かったキリトが急に足を止めた。
厳しい顔つきで振り向き、何事か喋ろうとする様子なので、思わず固唾を飲む。
「なあ……ユージオ。……今、何階だっけ……?」
「あ……あのねえ」
膝から崩れそうになりながら、ユージオはため息をつき、首を振り、肩を落とす三動作を同時に行った。
「次が二十九階だよ。まさかと思うけど、数えてなかったんじゃないだろうね」
「普通、階段には階数表示くらいあって然るべきだと思わないか」
「そりゃそうだけど、だからって今ごろ気付くなよ!」
ユージオの指摘をどこ吹く風と受け流し、キリトは手すりにどすんと背中を預けた。
「しっかしまだそんな所かよ……もう随分登った気がしたけどなあ……腹減ったなあ……」
「……まあ、それは同感だけどね」
あの図書室で豪華な朝食を振舞われてから、もう五時間近くが経過している。踊り場の窓を見上げればソルスはすでに中天を過ぎ、しかも激しい戦闘をひとつくぐり抜けているとなれば、体が補給を求めるのもやむを得ない。
キリトの言葉に頷き、続けてユージオは右手を差し出しながら要求した。
「だから、そのズボンのポケットに入ってるものを一つ寄越せよ」
「えっ……いや、これはその、非常事態用に……て言うか目敏いなお前」
「そんなに詰め込んどいて何言ってんだ」
キリトは本気で惜しそうな顔を作りながらも、右ポケットから蒸しまんじゅうを二つ取り出し、一つを放ってきた。受け取ると、図書室を出てから随分時間が経っているにも関わらず香ばしい匂いが鼻と胃を刺激する。
「あのおっさんの火焔攻撃でちょっとコゲたぞ」
「ははあ……なるほどね」
カーディナルが術で生成した食料を、キリトはいつの間にやらポケットに忍ばせてきたに違いなく、ということはこのまんじゅうの元になったのは貴重な古書の何ページ分かだという事になるのだが、ユージオはそれには目を瞑って大きく一口齧った。かりっとした皮の下から汁気のある肉餡が飛び出してきて、しばし一心に咀嚼する。
ささやかな午餐はほんの数十秒で終了し、ユージオは指をぺろりと舐めると短く息をついた。キリトの左側のポケットがまだ怪しく膨らんでいるが、そちらは勘弁してやることにして、同時に食べ終わった相棒に声を掛ける。
「ご馳走様。――で、どうする気? あと半刻も登れば問題の五十階だけど……正面から乗り込むのかい?」
「んー……」
キリトはわしわしと髪を掻き混ぜながら唸った。
「……整合騎士の超攻撃力はさっき体験した通りなんだが……お前とおっさんの戦闘を見た限り、やっぱりあいつらは連続技には慣れてない、と言うよりまったく未体験なんだろうな。一対一の接近戦に持ち込めれば勝機はある……けど、敵が複数の上に準備万端待ち受けてるんじゃそれも難しい」
「じゃあ……他の階段を探してすり抜ける?」
「それもなあ……カーディナルが、唯一の通路がこの大階段だって断言してたし、仮に抜け道が見つかっても、大詰めに来てから挟み撃ちになる危険が残るしな……五十階にいる十人は、どうにかしてそこで倒しておきたい。ということで、俺たちの最後のカードを切らざるを得ないわけなんだが……幸い、おっさんが警告してくれたおかげで、こっちとしても突入前に長ったらしい術式を準備しておく時間がある」
「"武装完全支配"……」
ユージオが呟くと、キリトは難しい顔で頷いた。
「ぶっつけ本番で使うのは不安だけど、今更試し撃ちしてみる機会もないしな。俺たちの"必殺技"を先制で叩き込んで、何人戦闘不能にできるかに賭けるしかないだろうな……」
「あー、その事なんだけど、キリト」
少しばかりばつの悪さを味わいながら、ユージオはキリトの言葉を遮った。
「その……僕の完全支配術は、さっきの整合騎士の技みたいに直接攻撃的って感じじゃないかも……」
「はぁ?」
「いや、だってさ……式を組む時間も限られてたし、剣の素性を思い描けって言われても……青薔薇の剣の元はただの氷だしさ……」
言い訳がましく呟いて、ユージオは新しい上着のポケットに移しておいた小さなスクロールを差し出した。首を傾げながらキリトが受け取り、解いて目を走らせる。相棒の眉間にたてじわが寄ったり消えたりするのをユージオははらはらしつつ眺めたが、最終的にキリトは、予想に反してにんまりと笑い、頷いた。
「なるほど、確かにこれは"攻撃的"とは言いづらいな。でも……良く出来てる。俺の技と相性も悪くなさそうだしな」
「へえ。どんな技なんだい?」
「それは見てのお楽しみだ」
調子のいい事を言いながらスクロールを返して寄越すキリトを、ユージオは軽く睨んだ。しかし相棒は澄まし顔で前髪をかき上げ、再び背中を手摺に預けた。
「ま、作戦とも言えないような作戦だけど、五十階突入前に武装完全支配術を発動待ちで保持しといて、突っ込んだらまずお前、次に俺が必殺技をぶちかます。うまくハマれば十人の半数以上は無力化できるかもしれん」
「かも、ねえ」
大袈裟にため息をつきながらそう相槌を打って見せたが、実のところユージオにも腹案などありはしない。あらゆる状況を利用した作戦を立てる能力は相棒のほうが一枚も二枚も上手であるのは認めざるを得ないところだし、そのキリトがそれしか無いと言うなら恐らくその通りなのだ。
「じゃあ、その作戦で五人残ったら三人はお前に相手してもらうからな……」
そこまで言いかけて、ユージオはふとキリトの背後、三十階へと続く階段の上に視線を向けた。
そして唖然と目を見開いた。
手摺の陰から、小さな頭がふたつ覗き、四つの目がじっとこちらを凝視しているのに気付いたのだ。
ユージオと視線が合った途端、二つの頭はさっと引っ込んだ。しかし呆気に取られ眺めるうちに、それらは再度そーっともたげられ、丸く見開かれた瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返した。
ようやくユージオの異変に気付いたらしいキリトが振り向き、同じようにしばし絶句してから、こわばった声を出した。
「君ら……、誰?」
すると、二つの頭は互いに目を見交わし、同時に頷いてからおずおずとその全身を露わにした。
「子供……?」
ユージオは無意識のうちに呟いた。現われたのは、まったく同じ墨色の服に身を包んだ、二人の少年――恐らく――だった。年の頃、十くらいだろうか。一瞬懐かしさのようなものを感じたのは、黒い服が、ルーリッドの教会で学んでいたアリスの妹シルカが常に身につけていた修道服によく似ているからだ。
しかし唯一、二人の少年の腰帯から小剣が下がっていることだけが異なっていた。それに気付いたユージオは一瞬警戒したが、すぐにその剣の柄も鞘も、赤味がかった木製で出来ているのを見て取った。色合いは違うが、修剣学院で初等練士が最初に与えられる木剣とほぼ同じものだ。
少年二人の雰囲気もまた、初等練士と共通するものがあった。両方とも、髪を短いおかっぱに切り揃えている。右側のほうは、垂れ気味の眉と目尻が気弱げな印象、対して左側は勝ち気そうに吊りあがった眦だが、瞳に溢れんばかりの不安さと好奇心を満たしているのはまったく一緒だ。
ユージオとキリトが無言で凝視する中、一歩踏み出してきたのは、やはり左側の負けん気の強そうな少年だった。
「あの……僕、じゃない私は、神聖教会修道士見習いのビステンです。そんでこっちが、同じく修道士見習いの……」
「あ……アーシンです」
二人の高い声は緊張のせいか語尾が震えていて、ユージオは反射的に安心させようと笑顔を作った。しかしすぐに、いくら見習いとは言え教会の修道士である以上こちらを敵視しているはずだ、と思い直す。
しかし、ビステンと名乗る少年が続けて発した言葉はあまりにも直接的で、ユージオを再度唖然とさせるものだった。
「あの……ダークテリトリーからの侵入者っていうのは、お二人のことですか?」
「は……?」
思わずキリトと顔を見合わせる。相棒も、この状況をどう判断したものか決めかねているようだった。眉をしかめ、唇を数回閉じたり開いたりしてから、するすると移動してユージオの背後に引っ込む。
「子供、苦手なんだよ。お前に任す」
すれ違いざまそう囁かれ、ユージオはこの野郎、と思ったが今更キリトの後ろに下がりなおすわけにもいかない。諦めて再度階上の少年二人を見やり、つっかえながら答えた。
「え……えっと、その……僕ら自身としては人間のつもりだけど……侵入者っていうのは間違いない、かな……」
今度は、それを聞いた子供たちが顔を向け合い、ひそひそと言葉を交わしはじめた。小声ではあるが、周囲があまりにも静かなので充分に聞き取れる。
「なんだよ、見た目ぜんぜん普通の人間じゃないかよ、アー。角も尻尾もないぞ」
と不満そうに言ったのはビステンという強気そうな少年のほうだ。それに、アーシンという頼りなさげな少年がたどたどしく反論する。
「ぼ、僕は本にそう書いてあるって言っただけだよ。早とちりしたのはステンのほうじゃないか」
「でも、もしかしたら隠してるだけかもよ。近づけばわかるよ」
「ええー、どう見てもふつうの人間だよう。でも……ひょっとしたら牙はあるかも……」
微笑ましいやり取りに、ついユージオは口もとを緩めた。もし、自分とキリトがあの年頃の子供で、近くに闇の国からの侵入者がいると知らされれば、同じようにこっそり見に行った可能性は高い。そしてその結果、父親や村長にこっ酷く怒られる破目になっただろう。
そう考えたところで、ユージオはふと心配になった。あの二人の子供は、侵入者と会話したりして、後で罰を受けたりしないのだろうか。そんな気遣いをする立場じゃないよなあ、と思いつつも言葉を掛けずにいられない。
「あの……君たち、僕らと話したりすると怒られるんじゃないの?」
それを聞いたビステンとアーシンはぴたりと口を閉ざし、次いでにんまりと笑った。ビステンが、少々得意げに答える。
「今日は朝から、全修道士、修道女と見習いは部屋の扉に鍵を掛け、外に出ないよう命令が出てるんです。てことは、侵入者を見物に行っても、誰にもそれがバレる心配はない道理ですから」
「は、はあ……」
これも、いかにもキリトが言いそうな理屈だ。結局バレて怒られるオチまでが目に浮かぶようだ。
少年二人は再度顔を寄せ合って何事か相談していたが、今度はアーシンのほうが口を開いた。
「あのぉ……もしよかったら、近くで見せてほしいんですが……おでこと、歯を」
「ええ? ……いや、まあ、それくらいならいいけど……」
ユージオは戸惑いつつも頷いた。教会に弓を引いた侵入者も、あくまで普通の人間なのだということを修道士見習いの子供に知って欲しいという気がしたし、それにもしかしたらカセドラル内部の情報が得られるかもしれないと思ったからだ。
ビステンとアーシンは顔を輝かせると、好奇心と警戒心がない混ぜになったような足取りでとことこと階段を降りてきた。踊り場まで達すると足を止め、それぞれ青と灰色の瞳をまじまじと向けてくる。
ユージオは腰を屈め、左手で額の髪を押し上げながら、いーっと歯を剥き出しにして見せた。子供たちは瞬きひとつせずにユージオの額と前歯を十秒近くも凝視し、やがて納得したように頷いた。
「人間だ」
「人間だね」
二人の顔に露骨なまでの失望が浮かび、思わず苦笑する。そんなユージオを見て、アーシンが首を傾げた。
「でも、ダークテリトリーの怪物じゃないなら、どうしてセントラル・カセドラルに侵入しようなんて思ったんですか?」
「え、ええと……」
どうにも調子が狂うなあと思いつつ、ユージオは今更隠すこともないかと正直に答えた。
「……ずっと昔、友達の女の子が整合騎士に攫われちゃったんだ。だから、取り戻しにきた」
こればかりは、教会の訓えに心身ともに染まっているであろう修道士見習いには受け入れがたい動機に違いなかった。アーシンの幼い顔に恐怖と反発が浮かぶのを覚悟したが、意に反して、少年は小さく肩をすくめただけだった。
「はあ……それも、普通ですね」
「ふ、普通?」
「ええ。昔から、家族や恋人を連行された人間が、教会に抗議に来た例は稀にですがあったようですね。勿論、内部にまで入り込んだのはお二人が初めてでしょうけど」
続けて、隣のビステンが言葉を継いだ。
「しかも一回投獄されたのに呪鉄の鎖を切って脱出して、しかも整合騎士を二人も倒したって言うから、これはてっきり本物の怪物が攻めてきたのかと思って待ってたんです。でもなー、まさかただの人間だとはなー」
子供たちは顔を見合わせ、「もういい?」「いいか」と短く頷きあった。再びユージオを見たアーシンが、おかっぱの髪を揺らしながら小首を傾げた。
「じゃ、最後にお名前を教えてもらっていいですか?」
こっちはまだ訊きたいことがあるんだけど、と思いながらもユージオは答えた。
「僕はユージオ。後ろのがキリト」
「ふうん……姓はないんですか?」
「あ、ああ。開拓民の子供だから。……もしかして、君たちも?」
「いえ、僕らにはありますよ」
そこで言葉を切り、アーシンはにっこりと笑った。満面の、無邪気な――まるで、美味しいお菓子を大口開けて齧るような笑顔。
「僕の姓は、シンセシス・サーティエイトです」
その名の持つ意味を、ユージオは咀嚼することができなかった。
突然腹にひんやりとした冷気が差し込み、ユージオは視線を下向けた。
目の前にいたのに、いつの間に抜いたのか、アーシンの右手に握られた小剣が五センほどもユージオの体に埋まっていた。柄も、鞘も木製――しかし、刀身は木ではなかった。鮮やかな緑色に染まった金属。緑は地金の色であると同時に、それを包むどろりとした粘液の色でもあるようだった。液体は、刀身それ自体から次々に染み出しているように見えた。大きな雫が刃を幾つも伝い落ち、ユージオの傷口に溶け込んでいく。
「ユー……!」
短く迸ったのはキリトの声か。妙に軋む首を後ろに向けると、相棒はこちらに飛び掛かろうと右足を一歩踏み込んだ姿勢で固まっていた。つい一瞬前までアーシンの隣にいたはずのビステンが、今はキリトの斜め後ろに立ち、同じく緑色の剣を焼け焦げの目立つ黒い上着に深く突き立てていた。少年の口もとを彩る笑みは、先ほどと同じように勝ち気で、得意げだった。
「――んで、僕がシンセシス・サーティナイン」
ユージオとキリトの体から同時に小剣が抜かれた。ビステンとアーシンは凄まじい速度で剣を一振りし、緑の粘液と赤い血液をきれいに払い落とすとそれぞれの鞘にぱちんと収めた。
腹の傷から広がった冷気は、いまや全身に広がろうとしていた。凍えるような寒さに襲われた箇所から、次々に感覚が消え失せていく。
「きみ……た……せいご……う……」
それだけが、ユージオがどうにか口にできた言葉だった。舌が痺れてぴくりとも動かせなくなると同時に、ふっと膝から力が抜け、ユージオは棒のように床に倒れた。胸と左頬を大理石に激しく打ちつけたが、痛みも、何かが触れた感覚すら無かった。今やユージオに出来るのは浅い呼吸と瞬きのみだった。
直後、どっという音とともにキリトも転がった。
毒か――。
遅まきながらユージオはそう悟り、対抗策を思い出そうとした。
学院での博物学の講義において、自然界に存在する毒物とその解毒法については一通り学んではいた。しかしそれらは全て、植物や蛇、虫の持つ毒を受けてしまった場合の対処法に終始し、このように戦闘中に毒物で攻撃されるという事態を想定したものではなかった。
それも当然だ。学院における――いや人間界における戦闘というものは寸止めが原則であって、いかに美しく剣舞の型を決めるかのみを競うものだからだ。刀身に毒など塗ったところで相手に当てられなければまったくの無意味だ。
よって、ユージオの持つ知識は、この毒虫に刺されたらあの草の汁を塗る、程度のものでしかない。今回は使用された毒の種類も分からなければ、周囲には薬草どころか自然物は一切存在しないのだ。最後の手段は神聖術による解毒を試みることだけだが、手も口もまったく動かないのだから術式の発動は不可能である。
つまり、もしこの毒が体の自由を奪うだけでなく、天命を連続的に減少させるようなものだとしたら――二人の命数は、百階の塔を半ばまでも登らぬうちに尽きてしまうことになるのだ。
「そんなに怖がらなくてもいいですよ、ユージオさん」
不意に頭上から、ユージオの心を読んだような整合騎士アーシン・シンセシス・サーティエイトの声が降ってきた。毒の影響か、まるで水中に沈んでいるかのようにその声は妙に歪んで聞こえる。
「ただの麻痺毒ですから。もっとも、今死ぬか、五十階で死ぬかだけの違いですけどね」
とこ、とこと足音がして、左頬を床につけたまま身動きのできないユージオの視界に小さな茶色の革靴が入ってきた。その片方がひょいと持ち上がり、つま先がユージオの頭を踏んだ。執拗に、何度も何度も靴底を擦りつける。
「……うーん、やっぱ角はないなあ」
足は次に背中に移動し、背骨の両側を抉るように探った。
「羽根もなしか。ステン、そっちはどう?」
「こいつもただの人間だわ」
視界外で、同じようにキリトを調べていたのだろうビステンの不満そうな声が応えた。
「あーあ、ついにダークテリトリーの怪物が見られると思ったんだけどなあー」
「まあ、いいよ。こいつらを五十階に引っ張っていって、ぼーっと待ってる奴らの目の前で首を落としてやれば、僕らも神器と飛竜が貰えるはずさ。そしたらダークテリトリーまで飛んでって、怪物でも暗黒騎士でも殺し放題だ」
「だな。おいアー、どっちが先に黒騎士の首取るか勝負だぜ」
事ここに至っても、ビステンとアーシンの声には一切の邪気が無く、それが何より恐ろしいことだとユージオには思えた。彼らは、まったくの子供らしい好奇心と功名心のみに拠ってユージオとキリトに毒刃を振るったのだ。一体なぜ彼らのような子供が整合騎士に――いや、それ以前に、なぜこのような子供が存在し得るのか。
ユージオにはアーシンが剣を抜く動作が見えなかったし、それ以上に距離のあるところにいたキリトを難なく倒したビステンの身のこなしはまさしく整合騎士の名に相応しいものだ。しかし、身体能力というものは長年の修練あるいは生死を賭した実戦を経なければ向上しない。ユージオが神器たる青薔薇を自在に操れるようになったのは、十歳の誕生日から竜骨の斧を八年間振り続けた経験もさることながら、北の洞窟でゴブリンの集団と戦いこれを撃退したことが大きい、とキリトも言っていた。
だが、ビステンとアーシンの二人はどう見ても天職授与以前の年齢だし、口ぶりからは怪物相手の実戦も未経験のようだ。ならば如何なる理由によって、目にも止まらぬ身ごなしや、あのような――鍛えぬいたユージオの体を紙のように貫くほどの――毒剣を操れる武器装備権限を身につけたのだろうか。
心中に渦巻く疑問と混乱を、しかしユージオはまったく声に出すことはできなかった。
麻痺毒はいよいよ全身に染み渡ったようで、もはや温度も、体がそこにあるという感覚すら失われていた。だから、アーシンがユージオの右足首を掴み、引き摺りながら歩き出したのに気付いたのは、視界がぐるりと半回転して小柄な修道服の背中が目に入ってからだった。
どうにか動かせる眼球を懸命に左に向けると、キリトもまた頭陀袋のようにビステンに引っ張られていた。ユージオ同様顔までも麻痺しているのだろう、その表情は読み取れない。
幼い整合騎士二人は、凄まじい重量を持つ青薔薇の剣と黒いやつを帯剣したままのユージオとキリトを引き摺り、軽々と階段を登りはじめた。頭が段差を乗り越えるたびに激しく上下して、一瞬天命の減少を心配したが、今更なにをと口を動かさずに苦笑する。
どうにかこの苦境を脱する方策を探らねばならないのに、まるで毒に思考までも侵されたかのように、ユージオの頭は痺れたままだった。胸中に広がるこの空疎さは何だろう、としばし考えたのち、ユージオはこれは幻滅、あるいは絶望というものだと気付いた。
秩序と正義の名のもとにアリスを連れ去り、記憶を封じてその尖兵に作り変えた神聖教会――世界をあまねく支配するその組織が、このような年端も行かぬ子供までをも手駒とし、毒剣を与え、取り返しのつかないほど歪めてしまったのだ。その"教育"を、かつて同じ位の年だったアリスも通過したのだろうか。だとしたら――果たして記憶の欠片を取り戻しても、アリスは元の人格に戻れるのだろうか……。
「不思議に思ってますよね?」
突然、かすかに笑いを含んだアーシンの声が耳に届いた。
「なんでこんな子供が整合騎士なのか、って。どうせもうすぐ殺しちゃうんだし、教えてあげますよ」
「おいおいアー、それを言うならもうすぐ殺しちゃうけど、だろう。喋るだけ無駄じゃんか、物好きな奴だな相変わらず」
「何だよ、お前だって喋りたいくせに。――僕らはね、この塔で産まれて育ったんです。アドミニストレータ様が、修道士、修道女に命じて作らせたんですよ。完全に失われた天命を呼び戻す、"蘇生"の神聖術の実験に使うために」
とてつもなく恐ろしいことを口にしているというのに、アーシンの声はあくまで朗らかだった。
「外の世界の子供は十歳で天職を貰うらしいけど、僕らは四つの時に授かりました。アドミニストレータ様御自らね。仕事は互いに殺し合うことです。この毒剣よりももっと小さい、おもちゃみたいな剣を与えられて、二人一組で交互に相手を刺すんです」
「お前刺すのがへったくそだったよなあ、アー。毎回痛くてたまらなかったぞ」
混ぜっ返すようなビステンの声に、アーシンは五月蝿そうに応じた。
「ステンが変な風に動くからだろ。――整合騎士を二人も倒したユージオさんとキリトさんならご存知だと思いますけど、人間って中々死なないんですよね。たかが四つの子供でも、それはそうなんです。早く殺してやらなきゃって焦りながら無茶苦茶に切ったり刺したりして、やっとで天命がゼロになると、アドミニストレータ様が神聖術で蘇生させてくれるんですけど……」
「これも最初の頃はぜんっぜんうまくいかなかったよなー。普通に死ぬ奴はまだマシなほうで、爆発して粉々になっちゃう奴とか、変な肉の塊になっちゃう奴とか、違う人間が入っちゃう奴とかもいたなあ」
「僕らも、いくら天職とは言え、痛いのも死んじゃうのも嫌ですからね。二人で色々研究して、なるべく一撃できれいに殺したほうが、痛みも少ないし蘇生成功率も高いって気付いたんです。まあ、その一撃でってのが難問だったんですけどね。限りなく速く、滑らかに、するっと胸の真ん中を刺すか、あるいは首を落とす……」
「だいたい完璧にそれが出来るようになったのは、七歳くらいの時だったかなー。他の奴らが寝てる間に、二人して素振りしまくったからなー」
体の感覚は相変わらず無かったが、それでも全身の肌が粟立つような寒気にユージオは襲われていた。
この少年二人が凄まじい体術を身につけている理由――それは、取りも直さず、何年間にも渡って互いを殺し続けてきたからだということなのか。毎日、毎日、友達の命をいかに巧く断ち切るかだけを考え、剣を振るう……確かに、そのような経験を重ねれば、子供ながら整合騎士に叙せられるほどの技を備えるということも有り得るのかもしれない。しかしそれと引き替えに、この二人からは、何か大切なものがどうしようもなく損なわれている。
驚くほどの早さで大階段を登りつづけながらも、変わらず楽しそうな声でアーシンは続けた。
「アドミニストレータ様が実験を終了させた……っていうか諦めたのは、僕らが八歳になった頃でした。結局、完全な形での蘇生は不可能だったみたいですね。知ってます? 天命がゼロになると、白い光の矢がいっぱい降ってきて、なんて言うか、頭の中をどんどん削っていくんです。それに大事なとこを削られちゃった奴は、天命が戻っても元通りにはなりませんでしたね。僕らも、生き返ったら、その前何日かの記憶がなくなってたなんてこと沢山ありましたよ。――ま、そんなわけで、最初は百人いた仲間も、実験が終わったときは僕らだけになってました」
「生き残った僕らに、偉そうな司祭が次の天職を選べっつうから、整合騎士になりたいって言ってやったんだ。そしたら、整合騎士っていうのはアドミニストレータ様が神界から召還する聖なる戦士だ、お前らのような子供がなれるものではない、なんて怒りやがってさ。んで、整合騎士で一番下っ端の兄ちゃん二人と試合してみろって……何て名前だったかなあ、あいつら」
「ええと……何とかシンセシス・サーティエイトとサーティナインだよ」
「アー、その何とかのところ聞いてるんだ。まあいいや、あの気取った兄ちゃんたちの首すっ飛ばしてやったときの司祭の爺さんの顔、大爆笑だったよなー」
そこで言葉を切り、少年二人はひとしきり愉快そうに笑った。
「……で、その結果を知ったアドミニストレータ様が、特例で僕らを整合騎士にしてくれたんです、殺した二人の代わりに。でも、他の騎士みたく任地を得るには勉強が足りないからって、同時に修道士見習いとしてもう二年も歴史だの神聖術だの教わってるんですけどね……正直、うんざりなんですよ、もう」
「何とか早いとこ飛竜が貰えないかなーってあれこれ相談してるとこに、何とカセドラルにダークテリトリーの手先が侵入したって警報が流れてさ。アーと二人で、これだ! ってね。他の騎士より早く侵入者を捕まえて処刑すれば、アドミニストレータ様も僕らを正式な騎士にしてくれると思って待ってたんだ」
「悪かったですね、毒なんか使って。でも、なるべくユージオさんたちを生かしたまま五十階まで持っていきたかったもんですから。あ、安心してください。僕ら、殺すのすごい上手いですから、痛くないですよ」
上層で防御線を張っているという整合騎士たちの前で、ユージオとキリトの首を取ってみせる瞬間を、少年二人は待ちきれないようだった。弾むような足取りはいよいよ軽く、獲物を引き摺りながらも驚くべき速さで階段を登っていく。
何とか脱出方法を考えなければならないのに、ユージオは二人の語った内容にただただ呆然とすることしか出来なかった。例え口が麻痺していなかったとしても、言葉でこの子供たちを動かすのは絶対に不可能だと思えた。彼らの中には、法も、正義も、善という概念すらおそらく存在しないのだ。唯一従うものは、彼らを"製造"した最高司祭アドミニストレータの命令のみ――ということか。
何十度目かの方向転換のあと、見開いたユージオの目に映る天井が、上層の階段の底を作る斜めの面から水平へと変化した。続く階段が無い、ということは、カセドラルをその半ばで区切るという大回廊の入り口についに到着したということだ。
少年たちは足を止め、よし、いくぞ、と短く言葉を交わした。
あの緑色の剣に首を切断されるまであと何分――いや何十秒だろうか。体の感覚は一向に戻る気配がなく、どれほど念じようとも指先ひとつ動く様子はなかった。
再び移動が開始され、その途端、強い白光がユージオの目を射た。
はるか頭上で弧を作る大理石の天蓋には、創世の三女神とその従者たちの精緻な似姿が色彩豊かに描かれている。天蓋を支える円柱も無数の彫像で飾られ、柱の間に設けられた大きな窓からはソルスの光がふんだんに降り注いでいた。『霊光の大回廊』の名に相応しい荘厳な眺めだ。
子供二人は、ユージオとキリトを引き摺りながらはやる足取りで五メルほど進み、そこで停まった。右足を放り出された勢いで体が半回転し、ユージオはようやく回廊の全体を見ることができた。
恐ろしく広い。カセドラル一階ぶんの面積を丸ごと使っているのだろう、色合いの異なる石を組み合わせた床の隅のほうは白い光の中で霞んで見える。中央を貫いて豪奢な紅い絨毯が真っ直ぐ引かれ、突き当たった壁にはまるで巨人が使うのかと思いたくなるほど大きな扉が聳えていた。上層に続く階段はあの先にあるに違いない。
そして、扉のずっと手前、回廊の半ばほどの位置に、デュソルバートが告げたとおり鎧兜に身を固めた十人の騎士たちが、何者をも通さぬという絶対的な威圧感を放ちつつ屹立しているのが見えた。等間隔に並んで九人。そしてそれより数歩進んだところに、一人。
後ろの九人は皆、白銀に光る揃いの重鎧と十字の孔が切られた兜を装備していた。エルドリエが纏っていたものと同じ形だ。武器もまた、一様に大型の直剣を、重ねた両手で床に突いている。
しかし、前の一人の鎧兜だけは薄い紫色の輝きを放っていた。装甲も比較的華奢で、腰に下げているのは刺突に特化しているらしい細剣だ。軽装と言っていいかもしれないが、全身から発する闘気は後ろの九人とは比較にならない。猛禽の翼を象った兜の奥の顔は見えないが、デュソルバートに劣らぬ剛の者なのは間違いないと思えた。
最上階を目指すにあたってとてつもなく高い障壁となるであろう十人もの整合騎士――であるが、現在、彼ら以上にユージオたちの命を脅かしているのは、すぐ目の前に立つ二人の子供だった。
簡素な修道服の背中を昂然と反らし、アーシンとビステンは十人に対峙した。
「――やあ、そこにいるのは副騎士長のファナティオ・シンセシス・ツー様じゃないですか」
快活な声を発したのはアーシンの方だった。
「"天穿剣"のファナティオ様がわざわざお出ましとは、御老人たちもよっぽど慌てているようですね。それとも慌てているのはファナティオ様ご自身かな? このままじゃ、副騎士長の座を"金木犀"殿に奪われかねませんし、ね?」
緊迫感に満ちた数秒の静寂のあと、紫の騎士が金属質の残響を伴うやや高めの声で応えた。整合騎士特有の、人間らしさを感じさせぬ響きだが、その裏にある苛立たしさをユージオは確かに感じた気がした。
「……見習いの子供が何故名誉ある騎士の戦場に居る」
「へ、ばっかみてえ」
即座にビステンが遠慮のない声音で叫んだ。
「戦いに名誉だの格式だの持ち込むから一騎当千の整合騎士様が二度も負けるんだよ。でも安心していいぜ、あんたらがこれ以上醜態を晒さないように、僕たちが侵入者を捕まえてきてやったからな!」
「これから、僕らが咎人の首級を取りますから、よーく見ててその旨ちゃんと最高司祭様に報告してくださいね。まさか名誉ある騎士様が、手柄を横取りするような真似はしないと思いますけどね」
超人的な強さを持つ整合騎士十人を向こうに回して、ここまであからさまに嘲弄するアーシンとビステンの胆の据わり方に、ユージオは一時絶体絶命の立場を忘れ心の底から唖然とした。
いや――それも少し違うだろうか。
子供たちの小さな背中に色濃く漂う気配、これは憎悪ではないか……? ユージオは動かぬ眉を寄せ、懸命に視線を凝らした。しかし、もしそうだとしても、一体何を憎んでいるのだろうか。神聖教会に、つまり最高司祭アドミニストレータに反逆する大罪人のユージオとキリトを前にしてさえ、彼らは単なる好奇心しか見せなかったというのに。
アーシンとビステンは憎しみと蔑みも露わに整合騎士たちを凝視し、騎士たちは苛立ちを込めて子供二人を睨み、そしてユージオは疑問を抱いて子供たちを見つめていたので――。
黒衣の人影が、音も無く、滑らかに、子供たちの背後に立ったのに事前に気付けた者は、恐らくその場には居なかった。
ユージオを縛るものと同じ麻痺毒を受けたはずのキリトが、狩をする闇豹のような動きで少年二人に後ろから飛び掛り、右手でビステンの、左手でアーシンの腰に下がる毒剣の柄を握った。そのまま前に弧を描いて抜刀するのと連続した動作で、少年たちの左の二の腕を深く切りつける。
子供たちがぽかんとした顔で振り向いたのは、キリトが緑の毒液の雫を引きながら後方に宙返りし、着地してからのことだった。
アーシンとビステンのあどけない顔が、驚きから怒りを経て屈辱へと醜くく歪んだ。
「お前――」
「なんで――」
麻痺毒の効果は即座に発揮され、それだけをようやく口にして、子供たちは軽い音を立てて床に転がった。
深く膝を曲げていたキリトが、ゆっくりと立ち上がった。毒剣二本を左手で束ねて握り、アーシンに歩み寄ると右手でその修道衣の懐を探る。すぐにつかみ出したのは、橙色の液体を封じた指先ほどの小瓶だった。
親指で栓を弾くと鼻先に持っていき、得心したように頷くとユージオの方にやってくる。おい、と言おうとしたが無論口は動かず、薄く開いたままの唇に流し込まれる液体を、ユージオは否応なしに飲み込むことになった。味もまた一切感じなかったのは、恐らく幸いなのだろう。
あまり見たことのない種類の表情を頬のあたりに漂わせたキリトは、膝をついたままごくごく微かな声で囁いた。
「数分で麻痺は解ける。口が動くようになったら、すぐに武装完全支配術の詠唱を始めるんだ。準備できたらそのまま保持して、俺の合図でぶちかませ」
す、と立ち上がり、キリトは再度少年たちの傍まで移動した。今度はびんと張った大声で、離れた場所に立ったままの整合騎士たちに向かって叫ぶ。
「剣士キリトならびに剣士ユージオ、臥してまみえた非礼を深く詫びる! 非礼ついでに、今しばし我らが不名誉を雪ぐ猶予を戴きたい! その後、存分に剣と剣を仕合わせて貰うが如何!」
相当に高位の騎士なのであろう紫色の鎧兜も、さすがに少々戸惑った様子だったが、すぐに堂々たる声音で返答してきた。
「整合騎士第二位、ファナティオ・シンセシス・ツーである! 咎人よ、吾が断罪の剣には一抹の憐憫すらも有り得ぬ故、言うべきことがあるならば鞘にあるうちに言うがよい!」
それを聞いたキリトは、肩越しに倒れた少年たちを見下ろし、騎士たちにも聞こえる位の強い調子で言葉を投げた。
「――不思議に思ってるだろう。何故俺が動けたか」
先刻の自分の台詞を奪われたアーシンの顔が、麻痺の中にあっても口惜しそうに引き攣った。
「お前らの腰の鞘、南方の"血吸樫"製だな。この"ルベリルの毒鋼"を収めても腐らない唯一の素材、ただの修道士見習いが持ってるはずのない物だ。だから、お前らが近寄ってくる前に毒分解術を唱えておいた……分解が終わるのにちょっと時間がかかったけどな」
感覚が戻り始めたのか、四肢をちくちくする痛みが這いまわっていたが、ユージオはそれをほとんど意識しなかった。相棒の表情がいかなるものなのか、ようやく思い当たったからだ。
あのキリトが――激怒している。
しかし、その怒りは、子供たちに向けられているわけではないようだった。なぜなら、アーシンとビステンを見下ろす瞳には、少なからずいたましさが含まれているように見えた。
「それに、お前ら口を滑らせたな。全修道士は部屋から出ないよう命令されてる……ってことは、その命令に従わないお前らは修道士じゃないってことだ。剣の速さだけが強さじゃないぞ……つまるところ、お前らが愚かだったってことだ、ここで死ぬのも仕方ないくらいに」
冷たく言い放ち、キリトは左手にまとめて握った毒剣を高く掲げた。
唸りを上げて振り下ろされた手から、緑色の閃光を引いて剣が飛んだ。ががっ、と鈍い音を立てて二つの刃が食い込んだのは、アーシンとビステンの鼻先の床石だった。
「でも、お前らは殺さない。その代わりよく見とけ、お前らが馬鹿にしてる整合騎士がどんだけ強いか」
じゃりん、と音高く鞘走らせた黒い剣を、キリトはぴたりと体の前に構えた。
「――待たせたな、騎士ファナティオ!」
無茶だ……いくらなんでも。
相棒の背中にそう声を掛けようとしたが、ユージオの唇は小さく震えただけだった。感覚は戻りつつあるもののまだ言葉を音にできる程ではない。
呆れるほどの洞察力あるいは猜疑心を発揮して子供たちの罠から脱出してみせたキリトではあるが、一難去って――と言うより更なる危地に策もなく飛び込む破目になったのは明らかだ。十人もの整合騎士、しかもうち一人は副騎士長の位にあるという強敵と真っ向から戦わねばならないのだから。
むしろ、普段のキリトなら、ここは一も二もなくユージオを引き摺って逃走し、少しでも有利な状況を立て直そうとするはずだ。それをしないのは、やはり彼も平常な状態ではないのだ。目を凝らせば、黒衣の背中から立ち上る瞋恚の炎が青白く見えるような気がするほどの、深い怒りに衝き動かされている。
今のキリトに正面から対峙すれば、修剣学院の教官ですら気圧されずには居られないだろう。しかし、流石というべきか、ファナティオと名乗った紫紺の騎士は堂々たる仕草で右手を細剣の柄に持っていくと、涼やかな音とともに抜きはなった。まるで、刀身そのものが発光しているかのような眩い輝きがユージオの目を射る。
ファナティオに続いて、背後の九名の整合騎士たちもぴたりと揃った動作で一斉に抜刀した。途端に膨れ上がった剣気が、キリトのそれを押し返す勢いで回廊の空気をびりびりと震わせる。
緊迫した状況にあって、尚も憎らしいほど落ち着き払ったファナティオの声がいんいんと響いた。
「咎人よ、どうやら私との一対一の決闘を望んでいるようだが、残念ながら我々は、もしお前たちがこの回廊まで辿り着いたときは如何なる手段を用いても抹殺せよとの厳命を受けている。故に、お前には同時に相手をして貰わねばならん――私が手塩に掛けて鍛え上げた、"宣死九剣"のな!」
声高にそう言い放つと、続けてファナティオは、システム・コールの一句に繋げて複雑な神聖術の高速詠唱を開始した。明らかに武装完全支配式だ。対抗するにはこちらも同じ術を使うか、詠唱が終わる前に斬りかかるしかない。
キリトが選んだのは後者だった。靴底の鋲から火花が散るほどの勢いでファナティオ目掛けて突進し、黒い剣を大上段に振りかぶる。
しかし同時に、ファナティオの背後に控える九人のうち左端に立っていた騎士も突撃を開始していた。分厚い大剣を重い唸りとともに左から横薙ぎに繰り出し、キリトを迎え撃つ。
已む無くキリトは剣の方向を変え、騎士の斬撃を受けた。耳を突き刺すような大音響とともに双方弾かれ、距離が開く。
しかし、巨大な武器を頭上高く跳ね上げられた騎士に対して、キリトの剣の返しは素早かった。着地したときにはすでに逆撃体勢に入っており、あとは敵のがら空きの懐に飛び込み一閃で仕留められる――。
「!?」
――と確信した直後、ユージオは思わず息を飲んだ。いつの間に突っ込んできたのか、左から二人目の騎士が、正確にキリトの着地地点を狙って渾身の水平斬りを放ちつつあったからだ。
さすがに一瞬驚きの気配を放ちつつ、キリトは再度剣を打ち下ろし、敵の攻撃を弾いた。先ほどと同様の金属音、大量の火花、そして二者の距離が四メルほど開く。
今度の騎士もまた、大きく体勢を崩した。当然だ、あれほどの巨剣で渾身の一撃を放ち、それを跳ね返されれば、どれほどの膂力の持ち主であろうとも切り返すのは用意ではない。むしろ称えるべきは、ぎりぎり最低限の動きで敵の剣を受けきり、衝撃を柔軟に吸収して即座に反撃体勢に入れるキリトの伎倆だろう。
しかし。
まさか、と思う間もなく、ユージオはまたしても着地直後のキリトに襲い掛かる第三の騎士を見た。三度繰り返される剣と剣の衝突に奪われそうになる視線を、ユージオは無理矢理その後ろに向けた。
「――!!」
そしてぐっと奥歯を噛み締めた。キリトと三人目の騎士が剣を撃ち合わせたその瞬間にはもう、四人目の騎士が突進を開始している。
しかし何故、キリトの着地点をこうまで見事に予想できるのだろうか。またしても放たれた横薙ぎの斬撃に、ついにキリトの反応が乱れ、どうにか受けには成功したものの、がきっ、と鈍い音とともに弾かれた黒衣の体が空中で揺れた。
そうか――、と、遅まきながらユージオは気付いた。
騎士たちの攻撃は、これまでの全てが一様に左から右への水平斬りである。それを剣で受ければ、弾かれる方向はある程度限定される。そして、続く騎士の攻撃もまた、突きや垂直斬りと違い横軸での命中範囲が広い水平薙ぎ払いなのだ。加えてあの長大な刀身――つまり突進の方向には、一点を狙う精密さは要求されない。
単独での連続剣技という発想を生来持たないはずの整合騎士たちだが、しかしこれは、全力を込めた一撃の欠点を埋め利点を生かす、言わば集団による連続技だ。やはり彼らは、型の美麗さのみを追及する学院の教官たちとは違い、ダークテリトリーでの実戦を経験している本物の戦士たちなのだ。
だが、その戦法も決して万能ではない。
気付けキリト、そうと分かれば対処法はある――!
叫ぼうとしたユージオの喉から、しわがれた唸りが漏れた。ようやく舌や唇が動くようになりつつあるのだ。一刻も早く術式詠唱を開始できるよう、懸命に口を動かして強張った筋肉を解しながら、ユージオは相棒に掠れた声を投げかけようとした。
四人目の騎士の剣を受けたキリトは、着地に半ば失敗し、片手を突いた。
その首の高さを正確になぞりながら、五人目の騎士の剣が唸りを上げて襲い掛かった。
キリトは、咄嗟に上体を後ろに倒し、剣の下を掻い潜ろうとした。黒い前髪がひと房刃に触れ、空中にぱっと飛び散る。
そう――襲ってくるのが水平斬りと分かっていれば、剣で受けるのではなく上か下に避ければいい。
しかしそれは、反撃と一体となった動作であるのが前提だ。あのようにただ寝そべってしまえば、次の行動に入るのが一呼吸、いやそれ以上に遅れる。
キリトの左側から迫る六人目の騎士は、その隙を逃す気はさらさら無いようだった。なぜなら、脇に構えていた剣を素早く上段に移動させ、攻撃を垂直斬りへと切り替えたからだ。
「あ……!!」
あぶない、とユージオは、喉に鋭い痛みが走るのを無視して叫ぼうとした。避けられない、そう確信し、思わず目を逸らそうとしたその時――。
キリトの右側で剣を振り終わったばかりだった五人目の騎士の体が、ぐらりと揺れた。
キリトは、ただ寝そべったわけではなかったのだ。いつのまにか、自分の両脚で騎士の足を挟み込み、てこの要領で自分の上に引き倒していたのである。
六人目の騎士は、すでに振りはじめていた斬撃を止めることができず、その刃で味方の背中を深く抉った。驚愕の気配を放ちながら剣を引き戻そうとするその左腕を、倒れ込む五人目の下から伸びた黒い閃光が貫いた。
立ち上がりざまの一突きで正確に騎士の二の腕を切り裂いたキリトは、慌てて飛び込んできた感のある七人目の騎士に向かって、思い切り六人目を突き飛ばした。さすがに味方ごと薙ぎ払うわけにもいかず、七人目はその剣を引き戻す。
ついに、"宣死九剣"とファナティオが呼んだ集団の連続攻撃が止まった。
その空隙を突いて、キリトが凄まじい速度で走った。九騎士には目もくれず、術式詠唱中のファナティオに猛然と打ちかかる。
間に合え――!
とユージオは必死に念じた。
「リリース……!」
とファナティオが叫んだ。
「うおおおお!!」
キリトが吼え、剣を遠間から高く振りかぶった。
ファナティオの細剣がぴたりとキリトに向けられた。しかし、あのような華奢な武器では、もう如何なる動作を取ろうともキリトの剣を受け切るのは不可能だ。あの黒い剣は、神器たる青薔薇の剣を上回るほどの重量を備えている。それにキリトの神速と言うに相応しい斬撃が加われば、細剣如き例え三本束ねようとも叩き斬るはずだ。
あと一刹那で、黒い刃がファナティオの兜を断つ――というその時、ちかっ、と騎士の手許で剣が光った。
いや、正しくは、剣が光り、その青白い線がまっすぐに伸びた。
伸びた光の線が、キリトの左脇腹を貫通し、そのまま空中を疾って、はるか上空にある大回廊の天井を抉ったのが、ほとんど同時と言ってもいい。それほどまでに一瞬の出来事だった。
キリトの斬撃はごく僅かにその軌道をぶれさせ、すいっと身を逸らせたファナティオの兜の、翼を象った飾りを掠めて空しく宙に流れた。
腹の傷から飛び散った血の量はごく僅かで、それほど激しく天命が減少したわけではなさそうだったが、片手片膝を床に突いて着地したキリトは顔を大きく歪めた。よくよく目を凝らせば、上着に空いた小さな穴の周辺から、細く煙が上がっている。
火炎系の攻撃だったのか……? しかしファナティオの剣から放たれた光は、青いくらいに眩い白だった。あんな色の炎を、ユージオはこれまで見たことがない。
憎らしいほどに優美な動作で体の向きを変えたファナティオは、床にうずくまるキリトを、再び細剣の尖端でぴたりと指した。
じゃっ、とかすかな音を放ち、再び光の線が迸った。直前に左に飛んでいたキリトの脚をかすめ伸びた光は、硬い石床に突き刺さり――真っ赤に溶けた拳大の穴を穿った。
「うそだろ……!」
自分の口から引き攣れた声が漏れたことに、ユージオはしばらく気付かなかった。回廊の床に敷き詰められている大理石は、その艶と模様からして学院の校舎に使われていたものより更に高級な西域帝国産だ。硬さと天命は不朽と言ってもいいほどで、到底炎ごときで損なわれるものではない。その証左に、デュソルバートの"熾焔弓"が生み出した業火を浴びても焼けたのは絨毯だけだったではないか。
つまり――ファナティオの完全支配攻撃が炎熱系のものだとした場合、その威力はデュソルバートの技の数倍、あるいは数十倍に及んでもおかしくない。そんな技の直撃を受けてしまったキリトの天命は、ことによると、既に消し飛ぶ寸前なのではないか。
いよいよ冷たい恐怖の手にがっちりと掴まれたユージオの視線の先で、キリトは一箇所に止まることなく、見事な身のこなしで左方向に跳び続けていた。その体を追って、ファナティオの剣からも立て続けに光線が閃き、石床を抉っていく。
あの技のもうひとつの恐るべき点は、光の発射に際して、溜める、突く、といった予備動作が一切ないことだ。ただまっすぐ向けられた細剣からいつ光線が迸るのか、少なくともユージオの位置からはまるで読めない。ほぼ無限の間合い、という意味では騎士エルドリエの"星霜鞭"も同じだったが、これに比べればまだしも可愛げがあった。
ファナティオはいっそ気だるげとも言える姿勢で、左手を腰にあてがい、棒でネズミをいたぶる子供のようにキリトを追い立て続けた。五撃、六撃目までを凌いでみせたのは、キリトの超人的な運動能力と勘あってのことだろう。
しかしついに、七撃目が致命的追いかけっこに終わりを告げた。
しゃあっ! と宙を疾った光線に右足の甲を貫かれたキリトは、着地に失敗し、肩から床に落下した。さっともたげられた黒髪のすぐ下、日に灼けた額の中央を、ファナティオの剣尖がぴたりと捉えた。
キリト……! と叫ぼうとして――ユージオはようやく、自分の喉からひりつく痛みが薄れていることに気付いた。これなら、術式が成立するくらいの声を出すことが可能かもしれない。
悲鳴を上げる代わりに、ユージオはぐっと腹に力を込め、騎士たちには聞こえないが創世神には届けられる程度の音量で術式詠唱を開始した。
「システム・コール……エンハンス・ウェポン・アビリティ……」
キリトなら、このくらいの絶体絶命は何とかしてのける。なら、自分がすべきなのはただ一つ、言われたとおりに術式を完成し、いつでも解放できるよう準備しておいくことだけだ。
必殺の剣をまっすぐキリトに向け、ファナティオは焦らすように一秒ほど沈黙したあと、陰々とした声を響かせた。
「……こういう場面で一言いわないと気がすまないのは私の悪癖だと、騎士長殿にはもう百年以上も苦言を頂戴しているのだがな……しかし、どうにも不憫なのだよ。我が"天穿剣"の霊光に平伏した者は皆、そのように間の抜けた顔しかできないのでね……一体、自分をこうまで容易く追い詰めたあの技は何なのだろう、というね」
いつの間にか、ファナティオ配下の九騎士も傷ついた者の治療を済ませたようで、大剣を片手にぐるりとキリトを遠巻きに取り巻いた。これではますます脱出が難しくなる。が、その分ファナティオのお喋りが長続きする可能性も出てきたと言える。一度の言い間違いで詠唱を台無しにしないよう全神経を集中しながら、ユージオは懸命に術式を組み立て続ける。
「咎人とは言え央都に暮らした者なら、鏡というものを知っているかな?」
いきなり飛躍した問いを投げられ、キリトが痛みを堪える中にも怪訝な表情を浮かべた。
鏡。
勿論ユージオも見たことはある。修剣士寮の浴場に小さなものが一つ据えられていたのだ。水面に映すよりも遥かに鮮明に己の姿を見ることができる不思議な道具だが、己の柔弱そうな外見が今ひとつ好きになれないユージオはあまり熱心に覗いたことはなかった。
ファナティオは油断なく剣を据えたまま、感情の窺い知れぬ声で続けた。
「鋳溶かした銀を硝子板に流して作る高価な代物ゆえ、下民は触れたことがなくとも無理はないが……あの道具は、ソルスの光をほぼ完全に撥ね返すことができるのだ。わかるかな……つまり、反射した光が当たった場所は、他のところより倍暖められるという理屈だ。今を去ること百と三十年ほど前、我らが最高司祭様はセントリア中から銀貨や銀細工を召し上げられ、全ての硝子細工師にあわせて一千枚もの大鏡を造るよう御命じになられた。無詠唱攻撃術……"ヘイキ"とか言うものの実験だったのだがな、カセドラルの前庭に半球を成して並べられた千の鏡が、真夏のソルスの光を一点に集め生み出した白い炎は、ものの数分で大岩を一つ溶かし去ったものだよ」
ヘイキ……白い炎……?
ファナティオの言うことを、ユージオは完全には理解できなかった。しかし、アドミニストレータのその企ては、世界のことわりを覆すおぞましいものであると直感的に悟った。
「最終的に、戦に使うには仕掛けが大仰すぎると最高司祭様は判断なされた。しかし、せっかく生み出した炎を無駄にするのは惜しいと仰り、千枚の大鏡と荒れ狂う熱を神の御技にて括り、鍛えて、一本の剣を生み出されたのだ。それがこの神器"天穿剣"……わかるか、咎人よ。お主の腹と足を貫いたのは、陽神ソルスの威光そのものなのだ!」
わずかな誇らしさに彩られたファナティオの言葉を聞き、驚きのあまり、あやうくユージオは完成間近の完全支配術をつっかえるところだった。
千もの鏡で束ねられたソルスの光――それが、あの白い光線の正体だと言うのか。
火炎術なら冷素で対抗することも可能だ。しかし光による攻撃を、どのようにして防げばいいのか。そもそも、光素を力の源とする術にはユージオの知る限り直接の攻撃力はない。ゆえに学院の講義でも対抗術は一切教わっていない。幻惑する程度の光なら闇属性術で打ち消すことも可能だが、あれほどの光線であれば、たとえ小さな闇素を百も撒いたところで容易く貫くだろう。
心中の耐え難い焦燥にもかかわらず、ユージオの口は自動的に術式を綴り続けていた。しかし、どれほど高速で詠唱しようとも、発動までは少なくともあと一、いや二分はかかる。対してファナティオはどうやら言いたいことを言い尽くしたらしく、キリトの頭に向けたままの剣をわずかに突き出した。
「どうやら、己の天命を断つ力について理解してもらえたようだな。死ぬ前に、己が罪を悔い、三神に心より帰依し、許しを乞い給え。さすれば浄化の霊光は、そなたの魂をすすぎ楽土へと導こう。では――さらばだ、若く愚かな咎人よ」
天穿剣がまばゆく光輝き、死を告げる光線が真っ直ぐにキリトの額目掛けて殺到した。
「ディスチャージ!」
という叫びがユージオの耳に届いたのは、その出来事が発生した後であり、何が起きたのかを理解したのは更に遅かった。
キリトはファナティオの剣が光る直前、両手をパン! と打ち合わせ、まっすぐ前に向けて開いた。出現したのは――一枚の、銀色の盾だった。
いや、違う。金属の盾ではない。真四角真っ平らの板、その表面には、ユージオに背を向けて立つファナティオの兜の面頬がくっきりと映っている。
振り上げられたキリトの左右の掌中に、それぞれ色合いの違う二つの素因が握られていたのをユージオの目は捉えていた。
右手の光は鋼素。針にして飛ばしたり、ちょっとした道具を作るのに使う、金属系術式の素因である。そして左手が握っていたのは晶素、見え難い障壁を作ったりコップにしたりする硝子系術式の素因。その二つを、板状に変形させて重ねれば、出来るのは――。
鏡だ。
超高熱を秘めた光の槍は、キリトが術式で作り出した鏡の中央に命中し、あっという間に銀を赤へと沸き立たせた。
もとより、素因から発生させた道具類の天命は短い。外見的には同じナイフでも、ちゃんと鉱石から鍛造したものが数十年以上も保つ天命を備えているのに対して、鋼素から変成されたものはわずか数時間で塵へと戻ってしまう。あの鏡とて例外ではないはずで、とても天穿剣の光を弾き返せるほどの耐久力があるとは思えない。
というユージオの一瞬の思考どおり、鏡が空中に存在し得たのはわずか十分の一秒ほどでしかなかった。硝子と銀を煮溶かした赤い液体がばしゃっと飛び散り、光線は八割がた威力を保ったままキリトへと直進した。
しかし、無理矢理創りだした一瞬の猶予を、キリトも無駄にはしなかった。ごくわずかにではあるが体を左に傾けることに成功し、光は黒い髪と頬の一部だけを灼いて後方へと流れた。
そして、鏡によって受け止められた残り二割の光は――。
鋭角に反射し、ファナティオの兜へと襲い掛かった。
第二位の整合騎士も、やはり尋常の人物ではなかった。キリトと同じように、凄まじい反応速度で首を右に傾け、光線をやり過ごそうとする。が、少々華麗にすぎる飾りのついた兜までは守りきれなかった。左側面の留め金部分を光に射抜かれ、直後、がしゃっという音を放って兜が分解し、床に落ちた。
途端、空中に広がった漆黒の髪の豊かさに、ユージオは目を奪われた。
キリトの髪と殆ど同じくらいの闇色だ。しかし艶やかさでは圧倒的に勝っている。さぞかし日夜丁寧に手入れされているのだろうと思わせる、ゆるく波打った長髪が、大窓から差し込む午後の光を受けてあでやかに煌めいた。
なんだこいつ、剣士のくせに……、ついそんなことを考えてしまうユージオの視線の先で、ファナティオはさっと左手を上げ、顔を覆った。
そして叫んだ。
「見たなァ……貴様ァっ!!」
兜越しの時の、金属質に歪んだ声とは打ってかわった――優美な、張りのある高音。
女だ――!?
その驚きで、ユージオは危く完成間近の術式を崩壊させてしまうところだった。ペースをやや落とし、神経を集中させて句式を繋ごうとする。しかし、意識の半分は、どうしても騎士ファナティオの後姿に注がずにいられなかった。
丈は高いが、そのつもりで見れば背中から腰への線がいかにも華奢だ。しかし、これまでは男だと信じて疑いすらしなかった。
いや、すでにアリス・シンセシス・フィフティという騎士の姿を見ているのだから、整合騎士の中にもそれなりの数の女性が含まれていることを否定する理由はない。そもそも、学院で学ぶ修剣士たちの半数近くがティーゼやロニエのような少女たちなのだ。彼らのうちから多くの整合騎士が造られているのだろうから、第二位の騎士が女性であっても何らおかしくない。
なのに何故こんなに驚かされたんだろう、と考えてから、ユージオはこれまでのファナティオの口調、物腰が、意識した男性的振る舞いだったのではないかと気付いた。
とすれば、今ファナティオの背中から噴き上がる怒りの理由は、素顔を見られたからではなく――己を女だと知られたから、なのだろうか。
床に片膝をついたままのキリトも、頬に負った手酷い火傷の痛みなどすっ飛んだかのような驚きの表情を浮かべていた。
そのキリトを、左手の指の間から睨みつけながら、ファナティオが再び言葉を発した。
「貴様も……そんな顔をするのか、罪人。教会と最高司祭様に弓引く大逆の徒である貴様すら、私が女だと知った途端、本気では戦えないというわけか」
絞り出すようなうめき声でありながらなお、名手の奏でる長弓琴を思わせる、途方もなく美しい声だった。
「私は人間ではない……天界より地上に招かれた断罪の聖騎士だ……なのに貴様ら男は、剣を一合撃ち合い、女だと悟るやそのように蔑むのだッ! 同輩だけに留まらず……悪の化身たる暗黒将軍でさえな!!」
それは違う、蔑んだりしない、僕もキリトも。
脳裡でそう言い返してから、ユージオはふと気付いた。
自分たちはこれまで、学院で数多くの女性剣士たちと戦ってきている。当然その中には端倪すべからざる技の持ち主が多くいたし、破れたことだってある。その全ての戦いにおいて、ユージオは相手が女性だからと言って手心を加えたことは一切なかったし、好敵手に抱く尊敬の念にも性別はまったく関係なかった。
しかし――もし、その戦いが寸止めの試合でなく、真剣勝負の殺し合いであったら?
自分は果たして、躊躇なく相手の体に剣を突き立てられるだろうか……?
これまで考えたことすらなかった疑問にとらわれ、ユージオが息を詰めた、その瞬間。
床の上から、キリトが一陣の黒い突風となって飛び出した。
何のてらいもない右上からの斬撃――しかし、ユージオの目にも刀身が霞んで見えるほどの凄まじい速度。激昂していたファナティオの受けが間に合ったのがむしろ奇跡と思えるほどだった。ガァーンという耳をつんざくような衝撃音が回廊中に響き渡り、飛び散った火花が両者の顔を一瞬明るく照らした。
細剣の篭手部分で見事キリトの刃を止めたファナティオだったが、突進の勢いは殺せず、数歩後退を余儀なくされた。鍔迫り合いに持ち込んだキリトは手を緩めることなく、ファナティオの細身にのし掛かるように圧力を強めていく。紫の具足に覆われた膝がじり、じりと曲がる。
突然、噛み締めた歯をむき出してキリトがにやりと笑った。
「なるほど、それでその剣、その技なのか。撃ち合って、自分が女だとバレなくて済むように……そうだろう、ファナティオお嬢さん」
「きっ……貴様ァっ!!」
悲鳴にも似た叫び声を上げ、ファナティオがぎりりっと剣を押し返す。
どうしても中央に吸い寄せられる視線を外に向けてみると、二人を取り巻く九人の騎士たちにも、かすかに動揺の気配があるようにユージオは感じた。おそらくではあるが、彼らの中にも、ファナティオの素顔を知らない者は多かったのではないだろうか。ユージオの右方に麻痺して倒れる子供二人は、どちらとも言えないが。
十二対の凝視に晒されながら、キリトとファナティオは渾身の競り合いを続けていた。体重そして剣の重さでは明らかにキリトが有利だろう。しかし一度体勢を押し返してからのファナティオは、細い腕のどこにと思わせる膂力で寸毫も引く様子はない。
すでに笑みを消したキリトが、再び低い声で言った。
「……言っとくけどな、俺がさっき驚いたのは、兜が壊れた途端あんたの殺気が嘘みたいに弱くなったからだぜ。顔を隠し、剣筋を隠し……自分が女だって誰よりも意識してるのはあんたじゃないのかよ」
「うっ……うるさいっ! 殺す……貴様はっ……!」
「こっちだってそのつもりだ。あんたが女だからって手を抜く気は一切ないぜ、これまで何度も女剣士に負けてるからな!」
確かに、ユージオの知る範囲でも、キリトは傍付きをしていた頃、先輩の上級修剣士ソルティリーナに何度も稽古で一本を取られている。しかし彼の言葉は、試合での型のやり取りを指しているのではないように思えた。そうではなく、これまで実際に女性剣士と真剣を打ち合って敗れたことがある、とでもいうかのような……。
叫ぶと同時に、キリトは右足を飛ばし、ファナティオの軸足を払った。ぐらりと上体を泳がせるところに、容赦のない片手突きを浴びせる。
しかし、整合騎士は右手を神速で閃かせ、生き物のようにしなった細剣が黒い剣の側面を弾き軌道を変えた。その間に体勢を立て直し、ととんと華麗に床に降り立つ。
キリトの切り返しも速かった。一呼吸の間を置くこともなく体当たり気味に相手の懐に飛び込み、超接近戦に持ち込む。準備動作無しの光線発射という技を持つファナティオに対して、遠距離での戦いは成り立たないからだ。
ほぼ密着した間合いにおいて、超高速の剣撃が開始された。
ユージオを驚愕させたのは、キリトの目も眩むような連続攻撃に、ファナティオが一歩も引かずに対応してきたことだった。上下左右から立て続けに襲い掛かる黒い刃を、細剣を自在に閃かせて捌き、少しでも隙を見つけるや三連、四連の突き技を叩き込んでくる。
この世界のあらゆる伝統流派に連続技の概念がないのは明らかな事実なので、となればファナティオは連続剣技を己の研鑚のみで編み出した、ということになる。その理由も、恐らくは、先刻のキリトの台詞と無関係ではあるまい。
敵を近い間合いに入らせずに倒すための天穿剣の光――つまり女性騎士ファナティオは、敵と密着し、鎧の下に隠したものに気付かれるのを畏れている。初撃を受けられても次撃、次々撃で敵を退けるための連続技なのだ。
しかし、なぜ……? どうしてそこまで己の性を隠そうとするのか?
新たに湧き上がる疑問に唇を噛み締め、そこでようやくユージオは、自分が武装完全支配術を組み上げ終えたことに気付いた。後は"記憶解放"の一句のみで青薔薇の剣に秘められた技が発動するはずだ。ためしに四肢の指先を動かしてみると、痺れもなく反応する。
しかし、キリトとファナティオが近接戦闘をしている間はとても使うわけにはいかない。相棒までも巻き込んでしまうことは確実だからだ。
合図を待て、とキリトは言った。それを逃すことのないよう、ユージオは両眼を見開き、戦う二人を懸命に注視した。