何と遠いところまで来てしまったのか――。
見上げるほどに高い天井、白亜の柱が立ち並ぶ壁、様々な材質の石材で複雑な寄木細工に組まれた床。
初めて目にする神聖教会内部の壮麗さに思わず見とれながら、ユージオはそう慨嘆せずにはいられなかった。
ほんの二年と少し前までは、自分は決して倒せない木を斧で叩きながらひっそりと一生を終えるのだと信じていた。遠い昔にいなくなってしまった金髪の少女の思い出に日々浸りつづけ、妻も迎えず、子供も作らず、やがて年経て次代の刻み手に天職を譲っても、そのまま森の奥で暮らし、いつか朽ちるのだと。
しかし、ある日突然森の中に現われた黒髪の異邦者が、ユージオを取り囲む幾つもの壁を力ずくで叩き壊してしまった。巨大な諦めと自己憐憫の象徴であったギガスシダーまでも、歴代の刻み手たちが思いもよらなかった方法で切り倒し、ユージオに選択を突きつけた。
迷いが無かった、と言えば嘘になる。あの村祭りの夜、急拵えの壇上でガスフト村長に次なる天職の決定権を与えられたとき、ユージオは思わず、家族のことを考えた。
それまで、ギガスシダーの刻み手として働くことで村から貰っていた賃金の全てをユージオは母親に渡していた。代々家のなりわいは麦作だったが、持ち畑はルーリッドの村の中でも狭いほうで、ことにここ数年は凶作続きのせいで収入は乏しかった。ユージオが毎月安定して稼ぐ金は、口には出さねど両親も兄たちもあてにしている部分はあったはずだ。
ギガスシダーが倒れたことで、その稼ぎは当然無くなる。しかし、ユージオが次の天職に麦作りかあるいは羊飼いを選べば、新しく南に広がる開墾地の、日当たりのいい場所が優先的に与えられるだろう。壇上から、陽気に騒ぐ村人たちの輪の一角に、家族の期待と不安が入り混じった顔を見つけ、ユージオは迷った。
迷ったが、それもほんの一瞬のことだった。幼馴染の少女との再会と、家族の暮らしを両端に乗せた天秤を、ユージオは無理矢理片側に傾けて、そして宣言したのだ。自分は村を出て衛士になると。
そのままルーリッドに残り、衛士隊の一員になるのならやはり村から給料は貰える。しかし村を出るということは、つまり家族のもとから独り立ちするということだ。ユージオが家に入れていた金も、新たに貰えるかもしれなかった土地も、全て消えてなくなってしまう。旅立ちの日を慌しくその翌日に決めたのは、祭りが終わり家に戻ってからの、両親の無言の失望、兄たちの腹蔵した怒りに耐えかねたからだ。
キリトと共にルーリッドを旅立ってからも、思いがけないほどすぐに、もういちど家族の望みに従いなおす機会はやってきた。南のザッカリアの村に辿り着くと、そこではちょうど毎年秋に開かれるという剣術大会の真っ最中で、キリトに無理矢理出場させられたユージオは、あれよあれよという間に勝ち上がり優勝してしまったのだ。理由の九割までは、青薔薇の剣のすさまじい威力(何せ、打ち合うだけで相手の剣がどこかに飛んでいってしまうのだ)と、道中キリトに手ほどきされたアインクラッド流なる不思議な剣術のおかげではあったが、ともあれ並み居るつわものを押し退けて勝者の座を手にしたユージオは、望めばそのままザッカリアの衛士隊の副隊長に取り立ててもらうこともできた。もちろん地位も給金も、ルーリッドの衛士とは比べ物にならない。毎月ルーリッドへ向かう行商の馬車に託して金を送れば、家族はどれほど楽になっただろうか。
しかしそこでも、ユージオは領主の誘いに首を横に振り、代わりに央都の修剣学院への推薦状を書いてもらったのだった。
更なる長い旅路の途上で、あるいは首尾よく修剣学院の学生になれてからも、ユージオは常に気持ちの片隅で言い訳を続けてきた。このまま学院代表になり、四帝国統一大会にも勝ち抜いて、世界の剣士の最頂点たる整合騎士に任じられれば、家族には村の誰も想像したこともないほどの贅沢をさせてあげられるのだと。今度は自分が白銀の鎧をまとい、飛竜にうち跨ってアリスと二人村に帰る――そうすれば、両親は末の息子を何よりも誇りに思ってくれるはずだ、と。
しかし、あの思い出すのも辛いほどの悲劇が起こり、ライオス・アンティノスの頭上に剣を振りかざしたとき、ユージオは三たび家族を裏切った。少なくとも、一代爵士への叙任ならば相当に現実味を帯びていたはずの未来を、それどころか一般民という身分すらも捨て去り、禁忌違反の大罪人たる道を選んだ。
いや、家族だけではない。ユージオの起こした諍いに巻き込まれ、あまりに残酷な仕打ちに見舞われたティーゼとロニエさえも、あの瞬間ユージオは裏切った。本当は、ずっとティーゼの傍について、彼女を見守り、謝罪し、過ちを償うべきだった。そう――あるいはアリスとの再会すらも諦め、爵士になることだけを目標にして、残る生涯をティーゼのために尽くすと誓うべきだったのだ。
あの時、ユージオにはそれが分かっていた。今ここでライオスを斬れば、罪人として即座に整合騎士に連行され、何もかもを失うと。両親を喜ばせる機会、ティーゼに償う機会、すべてを失ってしまうと分かっていながら、しかしユージオは剣を振り下ろした。己の信じる正義のためでも、陵辱された少女のためでもなく、ただ心中に荒れ狂うどす黒い殺意を解放する、そのためだけに――ライオス・アンティノスなる汚らわしい生き物を抹殺する、ただそれだけを目的として刃を振るったのだ。
何もかもを捨ててしまった。
手を血に汚したあの夜から、ユージオの頭のなかではその言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。
本当に、何と遠いところまで来てしまったのか。家族を、ティーゼを捨て、栄誉に満ちた上級修剣士の座から一転神聖教会に弓引く反逆者として、今自分は世界でもっとも侵すべからざる場所の床を踏んでいる。
先刻迷い込んだ奇妙な図書室で、先の最高司祭だという少女にあらゆる歴史を記した書物の存在を教えられ、ユージオは我を忘れてその本を貪るように読んだ。なぜなら、どうしても知りたかったのだ。長い歴史のなかで、何人かは教会に刃を向け、整合騎士と戦い、その上で望みを果たしてどこか遠くに逃げ延びた人間がいたのではないか、と。
しかし、そんな挿話は一つとしてなかった。教会の権威はあまねく世界を平らげ、あらゆる民は整合騎士の威光に伏して、どのような深刻な諍いすらも――帝国間の揉め事ですらも、教会の名のもとにいとも容易く治められた。
つまり、自分は、世界がステイシア神から初代の司祭に任せられて以来もっとも罪深い人間なのか、とユージオは考え、骨が凍るほどに慄然とした。堕ち得る最も暗いところまで堕ちた、それこそ闇の国の怪物と何ら変わるところのない極悪人。おそらく今後、自分が踏む土からはテラリアの恵みが失われ、頭上の空からはソルスの光が薄れるだろう。
最早、あらゆる人間らしさ、正義や憐れみや慈しみは捨てるべきかもしれなかった。そう、たとえ今後どれほどの罪を重ねようと――神の代行者たる整合騎士たちの首を刎ね、腸を引きずり出してその血に両手を染めようとも、ただひとつ残された望みを成し遂げるのだ。
奪われた心の欠片を取り返し、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティをルーリッドのアリス・ツーベルクに戻して、故郷に送り届ける。その傍らには、もう汚れきった自分が連れ添うことはできないだろう。闇の国にでも落ちのび、怪物として生きるくらいのことしか許されまい。だが、それでもいい。アリスが再びあの村で幸せに暮らせるのなら、それ以外に望むことはもう何もない。
心中を吹き抜ける風の冷たさに思わず身震いしてから、ユージオは前を走るキリトの背をじっと見つめた。
もし、僕が闇の国に行くと言ったら、君はついてきてくれるかい……?
声に出さずにふとそう問うてから、ユージオは唇を噛み締め、答えを想像することを無理矢理に止めた。いまや、世界でたった一人同じ場所に立ってくれている人間――そう、あるいは物心ついてから、アリスのほかに初めてできた友達であるこの黒髪の相棒と、いつか道が分かれるかもしれないなどと、考えることさえ恐ろしかった。
カーディナルという不思議な少女が言っていたとおり、二人がくぐったドアからまっすぐ伸びる回廊は、思いのほか短かった。
ユージオが駆けながら物思いに沈んだのは一瞬のことで、すぐに二人は半円形のホール状の場所に辿り着いた。右手の、円弧を描く壁の中央部分には驚くほど幅の広い階段が上下に続いている。そして左手の壁には、精緻な有翼獣の彫像に囲まれて、重々しい黒檀の扉が設えられているのが見えた。
前を行くキリトが、さっと右掌をこちらに向けながら壁に張り付いたので、ユージオも雑念を拭い去り同じように石柱に背中をつけた。息を殺しながら、無闇と広いホールの様子を探る。
図書館の少女の話によれば、前方左側に見えるドアは、神聖教会の武具保管庫であるはずだった。そのような重要な場所には、当然警備の者がいるのだろうと思っていたが、予想に反してホールはしんと静まりかえり、動くものは何一つなかった。右側の大階段の両側に造り付けられている飾り窓から差し込む真昼のソルスの光すら、灰色に生気を失っているように思える。
「……誰もいないね……」
隣で息を殺すキリトにそっと囁きかけると、相棒もやや拍子抜けというように頷いた。
「武具庫なんかに、そう簡単に忍び込めないだろうと思ってたけど……まあ、そもそも教会に盗みに入る泥棒はいないってことか……」
「でも、僕らの侵入はもうバレてるんだよね? なのに、ずいぶんと余裕あるなあ」
「余裕なんだろうさ、実際。俺たちが動き出してから押っ取り刀で迎え撃ってもどうとでもなるってな……つまり、次に整合騎士が出てくるときは、よっぽどの大人数か、よっぽどの強者だってこった。せいぜい、この猶予時間を有効利用しようぜ」
ふん、と鼻を鳴らして言葉を切ると、キリトは素早く壁の陰から走り出た。ユージオもそれに続いて一直線にホールを横切る。
巨大な黒檀の二枚扉は、表面に彫ってあるソルス、テラリア両女神の似姿もいかめしく二人の前に立ちはだかり、もしかしたら押しても引いても開かないのでは、とユージオは思わず悲観的になった。だが、キリトが板に一秒ほど耳をつけてから鈍い銀色の握りに手をかけ、押すと、拍子抜けするほどあっさりと扉は両側に開いた。軋む音ひとつしなかった。
人ひとり分ほど口を開けた黒い隙間からは、数百年ぶんの静寂が凝ったかのような濃い冷気がしみ出してきて、自分が拒絶されていることをユージオはまざまざと感じたが、キリトがためらい無く身体を滑り込ませたのでやむなく続く。背後で重々しく扉が閉まると、周囲は完全な暗闇に包まれた。
「システム・コール……」
反射的に自分の口をついて出た神聖術が、隣のキリトの声とぴたり重なっていたのでつい微笑む。ジェネレート・ルミナス・エレメント、と続けながら、ユージオは二年半前、キリトといっしょに北の洞窟へシルカを捜しに行ったときのことを思い出していた。あの頃は知っている術式など初歩の初歩だけで、暗がりを照らすにも手に持った枝を弱々しく光らせるくらいのことしかできなかった――。
右掌の上に発生した純粋なる光源が一気に濃密な闇を吹き払い、ついでにユージオの郷愁をも跡形も無く消し飛ばした。眼前に広がったのは、それほどまでに圧倒的な眺めだった。
「うお……」
隣でうめくキリトと同時に、ユージオも喉をごくりと鳴らした。
何という広さだろうか。保管庫、というからつい、ルーリッドの村の衛士詰所にあった装備置き場のようなものを想像していたがとんでもない。ルーリッドにはそもそも、これほど大きな部屋は存在しなかった。修剣学院の大講堂でも張り合えるかどうか。
窓ひとつない、滑らかな石壁に四方を囲まれた大空間には、ユージオの掌から離れて舞い上がった光源の灯りを跳ね返すありとあらゆる種類の色彩が満ちていた。
床一面に、縦横整然と並ぶのは十字の支持架に着せられた鎧だ。漆黒のもの、純白のもの、赤銅青銀黄金と目の眩むような色彩に加えて、細かい鎖となめし革で造った軽装用から、分厚い板鋼を隙間無く組み合わせた重装用まで思いつく限りの種類が網羅されている。その数、五百は下るまい。
そして四方の壁には、これまたおよそ存在し得る全ての武器がびっしりと掛けられていた。
剣だけでも、長いもの短いもの、太い細い直刀曲刀と多岐に渡る。加えて片刃や両刃の斧、長槍に馬上槍、戦槌から鞭から棍棒そして弓に至るまでの多種多様な戦闘用器具がもはや数えるのも不可能なほどに床から天井近くまで連なっていて、ユージオはただただぽかんと口を開けることしかできなかった。
「……もしソルティリーナさんがここにきたら、感極まって卒倒するかもな」
数秒後、ようやく沈黙を破ったのはキリトの囁き声だった。
「うん……ゴルゴロッソ先輩も、あの大剣を見たら飛びついて離さないよ」
ため息まじりにそう呟き、ユージオはようやく我に返って大きく息をついた。改めて広大な武具庫を見回し、二、三度首を振る。
「何て言うか……教会はいずれ軍隊でも作る気なのかな? 戦争する相手なんか居ないだろうに」
「うーん……闇の軍勢と戦うため……? いや、違うか……」
キリトはやけに厳しい顔でちらりとユージオを見、続けた。
「逆だな。軍隊を作るためじゃない……作らせないために、教会はここに武具を集めたんだ。恐らくここにあるのは全部、神器かそれに準ずるクラスの強力な装備だろう。教会以外の勢力がこれらを手に入れて、不相応な戦力を蓄えるのを嫌ったんだ、アドミニストレータは……」
「え……? どういう意味だい、それ。たとえどんなに強い武器を持ったところで、教会に歯向かおうとする集団なんてあるわけないじゃないか」
「つまり、教会の権威を一番信じてないのは最高司祭様ご本人かもしれないってことだ」
皮肉げなキリトの言葉の意味をユージオはすぐに理解することができなかったが、考え込むより先にぽんと相棒に背中を叩かれた。
「さ、時間が無いぜ。とっとと俺たちの剣を取り返そう」
「あ……う、うん。でも……見つけるのも一苦労だね、これ……」
青薔薇の剣と黒いやつは、それぞれ装飾の少ない白革と黒皮の鞘に収められているが、そんなような剣は右側の壁に幾つも見て取れる。近寄って、柄を仔細に見て回るしかないか、とユージオは思ったが、足を踏み出すよりも早くキリトがぼそりと言った。
「いや、もう見つけた」
そのままくるっと振り向き、入ってきたドアのすぐ左脇の壁を指差す。
「うわ……こんなとこに」
確かに、そこに掛けられた白黒二振りは、見紛うことなき二人の愛剣だった。ユージオは唖然として相棒の横顔を見やった。
「キリト、一度も後ろは見てないよね。神聖術も使わずに、どうして……」
「一番新しく持ち込まれた剣なら、ドアに一番近いところにあるだろうと思っただけさ」
そううそぶくキリトは、普段ならこんな時は子供のように自慢げな笑いを浮かべるのに、今はなぜか厳しい表情でじっと自分の黒い剣を睨んでいた。しかしすぐにふっと息を吐き、数歩壁に歩み寄ると右手を伸ばして黒革の鞘を掴んだ。
ほんの一瞬、何かを躊躇うかのようにそのままでいたが、すぐに自分の剣を持ち上げ、続いて左手で隣の青薔薇の剣を取ると無造作に放ってきた。ユージオが慌てて受け止めると、ずしりとする重みが手首に伝わった。
愛剣と離れていたのはほんの三日程度のことなのに、自分でも驚くほどの懐かしさと安堵感が込み上げてきて、ユージオは両手で鞘をぎゅっと握り締めた。
故郷でギガスシダーを斬り倒したあの時から、青薔薇の剣は常に傍らにあり、常に助けてくれた。ザッカリアの街で剣闘大会に出たときも、修剣学院の入学試験を受けたときも――そう、禁忌目録に背きライオスの片腕を断ち切ったあの時ですら。だから、整合騎士の神器と打ち合おうとも、この剣は決して折れることはないはずだ。
神聖教会が、強力な剣の蒐集、死蔵を続けていたというなら、この青薔薇の剣が北の洞窟で眠ったまま見過ごされていたのはまさに僥倖――あるいは運命なのだ。村を捨て、あらゆる障害を斬り伏せ、アリスを助けるという運命……例え、何者が立ちはだかろうとも――。
「いつまでも感動してないで、さっさと吊るせよ」
苦笑混じりのキリトの声にはっと顔を上げると、相棒はすでに鞘の留め具をベルトに繋いでいた。ユージオも照れ笑いを浮かべながら同じようにし、最後に一度かるく柄頭を叩いてから、さて、と周囲を見回した。
「……どうする、キリト。これだけあれば僕らの体に合うのも見つかるだろうし、鎧も借りてく?」
「いやあ、俺たち鎧なんて着たことないだろう。馴れないことはしないほうがいいよ。あのへんにある服だけ頂こう」
そう言って指差すほうを見ると、たしかに鎧の列の一角に色とりどりの衣服が並んでいるのが見えた。己の身につけている、捕縛から脱獄騒ぎのあいだにあちこちほつれた粗末な部屋着を眺めて、ユージオは頷いた。
「確かにこのままじゃ、そのうち服だか襤褸切れだかわかんなくなりそうだね」
頭上に漂う光源も、徐々にその輝きを薄れさせつつあった。二人は衣装の並びに駆け寄ると、手触りのよい布をばさばさとかき分け、やがて体に合いそうなシャツとズボンを見つけ出した。互いに背を向け、手早く着替える。
学院の制服に良く似た群青の服の袖に手を通したユージオは、その肌触りの滑らかさに驚いた。ボタンを留めて振り向くと、キリトも同じ感想を持ったと見え、両手で黒い布地を撫でまわしている。
「……おそらくこの服も、それなりのいわく付きなんだろうな。整合騎士の刃を多少は止めてくれるといいけどな」
「そりゃ期待しすぎってもんだよ」
相棒の、虫のいい言葉に短く笑ってから、ユージオはぎゅっと口もとを引き締めた。
「さてと……そろそろ、行こうか?」
「ああ……行きますか」
短い言葉を交わし、足音を殺して入り口まで戻る。
ここまでは拍子抜けするほど順調だが、そうそう続きはするまい。気を抜かずに進もう――という無言の確認を込めて互いに頷きあい、ユージオは右の、キリトは左のドアの取っ手を握った。
同時にぐっと引き、扉がわずかに開くのと――。
どかかかっ! と音を立てて、黒檀の厚板の表面に、何本もの矢が突き立ったのはほぼ同時だった。
「うわっ!」
「おわぁ!?」
その圧力で扉は勢い良く左右に押し開かれ、ユージオとキリトは揃って床に尻餅をついた。
眼前に広がる半円形のホール、その正面奥に伸び上がる大階段の踊り場に、見覚えのある赤い鎧の騎士が単身立ち、身の丈ほどもある長弓に今まさに第二射をつがえようとしていた。しかも、同時に四本――右手の指の股すべてに鋼の矢を挟んで。
彼我の距離、およそ五十メルか。剣はどう足掻こうと届かないが、弓の達人ならばおそらく必中距離。そして無様に転がったこの体勢からは、立ち上がって回避する時間も、壁の後ろに身を隠す時間もないだろう。
だから、鎧を着ようって言ったんだ! 盾があればなおよかった!
ユージオが心中でそう喚くのと、騎士が長弓をいっぱいに引き絞るのはほぼ同時だった。
かくなる上は、直撃を食らうことは覚悟し、せめて致命傷――いや、行動不能に陥るような深手の回避に注力するしかない。
ユージオは息を詰めた。騎士がぴたりと矢じりの狙いを定めた。何もかもが静止したような一瞬の"溜め"――。
その空隙を、キリトのびんと張った叫び声が貫いた。
あまりに早口だったために、ユージオは咄嗟に何と言ったのか聞き取れなかった。言葉を字面で理解できたのは、そのコマンドが発動したあとだった。
「バースト・エレメント!」
突如、視界が、白一色に塗りつぶされた。
強烈な光が周囲に炸裂したのだ、と察しつつも、ユージオは何故こんなことが!? と激しく混乱した。あらゆる属性系神聖術の起点となる素因(エレメント)、光属性のそれを変成も移動も強化もせずにただ解放しただけの単純な術だが、しかしそもそもキリトはエレメントの生成をしていない。一体どこから――。
いや、あった。五分ほど前、武具庫内部を照らすために、二人して光素因(ルミナス・エレメント)を呼び出し、ただ空中に漂わせておいたのだ。放置されたエレメントの持続時間は術者の権限位階に拠るが、その間ずっと後続する術式の入力待ち状態も保持される。キリトは瞬間的にそれを思い出し、素因をバースト、つまり単純炸裂させたというわけだ。
数時間前、整合騎士エルドリエを拾った硝子片で牽制したことといい、まったく、周囲にある全てのものを利用する戦闘に関しては天才的な奴だ。
――と、それだけのことを、白光が炸裂し、直後発射されたであろう騎士の矢を、後方に転がっての回避を試みる間にユージオは考えた。
ぎぎん! と鋼矢が石床を抉る耳障りな音が、直線までユージオの両脚があった位置から聞こえた。
どうやら騎士は、致命傷ではなく行動不能を狙っていたらしい。その枷と、キリトの術式が巻き起こした光の爆発が、不利な体勢からの回避をぎりぎり成功させ得る僅かな時間を与えたのだ。
いまだ消えない白光の渦の中、ユージオは右隣で相棒も矢をかわした気配を察しつつ、とりあえず戸口の石壁の陰に身を隠そうと床についた両足に力を込めた。
しかし直後、考えを変えた。
「――前だ!」
叫びつつ、扉方向へと全力で突進する。
光エレメントが爆発したのは二人の頭上後方、つまり自分たちは光源を直接見ていないが、相対していた騎士はまともに眼に入ったはずだ。あと数秒は視力を半ば以上奪われた状態が続くに違いない。
人間に対しては実効的攻撃力を持たないとされる光属性の術式だが、例えば武器に付与しそれを強く発光させることでの幻惑効果は学院の講義でも扱ったし、試合での決め技に用いれば見映えもいいので実際に用いる修剣士も少なくなかった。よって、敵手が光素因を発生させたときは、反属性である闇素因(ダーク・エレメント)で効果の相殺を狙うのが常道である。
あらゆる剣士の頂点たる整合騎士がそれを知らないわけはなく、つまり新たに光素因を呼び出しての眼潰しはもう二度とは奏効するまい。今は、弓使いである敵との距離を詰める最初で最後の好機なのだ。
状況の分析と行動の選択の速さこそがアインクラッド流の兵法の極意だとキリトはこれまで何度もユージオに言った。剣技の打ち合いにせよ術式の掛け合いにせよ、典雅さを重視してゆったりとした呼吸のやり取りになりがちな修剣学院の各流派とはまったく異なる考え方だ。その極意を常に実践するために、たとえ戦闘中でもむやみと高揚せず頭を冷やしておく――そのためのまじないとして教わったのが、"ステイ・クール"。
今回は、冷えた頭での行動選択はユージオのほうが一歩先んじたようだった。すぐ後ろに続くキリトの靴音を耳の端で捉えながら、左腰の青薔薇の剣の柄を握り、一気に抜き放つ。
半円形のホールを、大階段に向かって七割方突っ切ったところで、ようやく武具庫の戸口から噴き出す光の奔流が薄れ始めた。目をすがめながら、改めて階段を登りきったところに立つ整合騎士の姿を確認する。
予想通り、騎士は視力をほとんど削がれた状態と見えた。顔は赤銅色の兜の陰で見えないが、右手で眼のあたりを覆い、盛んに首を動かしている。
更なる僥倖と言うべきか、この整合騎士はエルドリエとは違い腰に剣は無かった。単身、屋内での戦闘を挑んでくるにあたって得物が長弓ひとつとは凄まじい自負だ。接近される前に二人の足を殺せるという確信があったのだろう。
ユージオの頭は冷えていたが、それでも意識の片隅である種の炎がちろりと揺れるのを抑えることはできなかった。
――整合騎士とは言え、所詮はライオスと同じだ、お前も! 度し難い尊大さの塊――その報いを、僕の剣で思い知らせてやる――お前が狙った両脚を叩き斬って――。
それは、ユージオにはあまり馴染みのない感情だったが、しかし途方もなく甘美な何かだった。唇の片端がかすかに吊りあがるの自覚しながら、ユージオは大階段の一段目に右足を掛けた。
そして、ぐっと喉を詰まらせた。
赤銅の整合騎士が、右手を兜の面頬から放し、背中の矢筒に持っていくと、そこから鋼矢を引き抜いたのだ。残る、全ての本数を一度に。
掲げた右手から、びっしり針山のように突き出した矢は、どう見ても三十本はある。一体何を、と思う間もなく、騎士は左手で水平に構えた長弓の弦に、その矢の束をいっぺんに番えた。
「な……」
思わず脚を止め、ユージオは息を飲んだ。あんなもの、撃てるはずがない。
ぎりぎりぎりっ、と肌が粟立つような音が耳に届く。それが、凄まじい握力に耐えかねる鋼矢の悲鳴だと気付き、背筋に冷たいものが疾る。
追いつき、隣で停止したキリトも、瞬間騎士の仕業を判断しかねるようだった。苦し紛れのはったりか、それとも――。
一際激しい軋み音とともに、長弓が一杯に引かれた。
「――跳んで避けろ!」
キリトが鋭く叫んだ。
びんっ!、と弦が鳴り、直後ばつんと響いたのはそれが切れる音か。しかし同時に、放射状に発射された三十本の鋼矢が、致命的な銀色の霰となって階下の二人に降り注いだ。
後ろに跳んでもだめだ!
瞬間的に判断し、ユージオは右足が折れるかと思うほどの力を込めて左に身体を投げた。同時に、体の正中線を抜き身の腹で防ぐ。
恐らく、騎士の視力が万全ならば、二人の体は穴だらけになっていたに違いなかった。
ほんのわずかに狙いが下向きだったのが幸いし、矢の半分以上は階段に突き立った。
甲高い音を立て、一本が青薔薇の剣に当たり弾かれた。一本がユージオのズボンの右裾を縫い、一本が左脇の布地を貫通し、一本が左頬を掠めて髪を何本か引き千切った。
どうっと肩から床面に落下し、ユージオは縮み上がった心胆に歯を食い縛りながら自分の体を見下ろした。深手の無いことを確かめてから、顔を上げて右方向に跳んだキリトを凝視する。
「キリト! 無事か!」
かすれた声で叫ぶと、黒髪の相棒はこちらも食い縛った歯の間から息を漏らし、頷いた。
「あ……ああ、指の間を抜けたらしい」
見れば、左の靴のつま先に矢が一本突き立っている。相棒の反応だか強運だかに簡単しつつ、ユージオはふうっと息を吐いた。
「……脅かすなよまったく……」
呟きながら、素早く立ち上がる。
再度剣を構えながら階上の整合騎士を見上げると、流石の整合騎士も動きを止め、ただ棒立ちになっているようだった。背中の矢筒は空になり、弓の弦も切れて力なく垂れ下がっている。矢尽き弓折れ、とはまさにこのことだ。
「……後退させてまた出てこられたら面倒だ、一気にケリをつけよう」
相棒に声をかけ、ユージオはひといきに階段を駆け上るべく腰を落とした。しかしキリトは眉を顰め、靴から抜いた矢を握ったままの左手でユージオを制した。
「あ、ああ……いや、待て」
「え……?」
「あの騎士、術式を……これ……やばい、"完全支配"だ!」
「なっ……」
絶句し、耳を澄ませる。すると確かに、耳にはある種の虫の羽音のような、抑揚の薄い低音のうねりが届いてきた。声質は異なるが、間違いなくエルドリエの使っていたのと同じ技、高速術式詠唱だ。
――しかし、いかに武器の性能を解放しようとも、弓矢は弓矢じゃないのか!? 弦が切れて矢も無い状況で何をしようと……。
ユージオが唖然としてそう考えるうちにも、騎士の詠唱は完了に近づいて徐々に高まり、一際力強い叫びとともに終わった。
「……記憶解放(リリース・リコレクション)!」
先ほど、図書室で教わったとおりの完全支配術の発動句。その直後――。
ぽっ、とかすかな音とともに、切れて垂れ下がった二本の弦の先端に、橙色の炎がともった。見る間にそれは弦を這い上がりながら焼き尽くしていき、そして弓本体の両端に達した瞬間。
ごうっ! と激しい音を立てて、銅がねの長弓全体から真紅の劫火が噴き出した。
まだ彼我の間には相当の距離があるのに、ユージオは一瞬、猛烈な熱波が吹き付けてきたような錯覚にとらわれ顔を背けた。騎士の手中に生まれたのはそれほどまでに巨大な炎だった。もとより身の丈ほどもあった長弓が、今はその倍近くも伸びたように見える。
あまりにも想像の埒外である超現象に、咄嗟にどう対処すべきかユージオは迷った。矢が尽きた以上、どれほど派手な技を使おうとも攻撃能力は無いと判断し突撃すべきか? あるいは、直前の攻撃で騎士が矢を使い切ったのは、完全支配状態ならばそれが必要ないからなのか?
こういうときの直感ではどうしても一枚上手である相棒はどちらと見たのか、と右隣にちらりと視線を流すと、そのキリトはまるで旅芸人の離れ業に魅せられる子供のように目を丸くし、口もとにかすかな笑みを形作っていた。
「こりゃあすげえな……。あの弓の元になったリソースは何なんだろうな」
「感心してる場合じゃないよ」
後頭部を思い切りどつきたくなるが、我慢して再び騎士をじっと睨む。突っ掛けるにせよ退くにせよ、すでに機を逸してしまった観は否めない。あとはもう、敵の出方に合わせて対処するしかないとユージオは腹をくくったが、どうやら整合騎士のほうもここで間を置くつもりらしく、燃える弓を握った右手を垂らしたまま左手でがしゃりと兜の面頬を上げた。
鋭く前に尖った兜の意匠のせいで、顔は翳に沈んで見えなかったが、それでも冴えざえと冷えた眼光をユージオは強く感じた。続いて、陰々と尾を引きながら響いた声もまた、一切の揺るぎを削ぎ取った剛毅さに満ちていた。
「――『熾焔弓』の炎を浴びるのは実に四年振りである。成る程、我が弟子トゥエニシックスと渡り合うだけの腕はあるようだな、咎人共よ。しかし、ならば尚のこと許せん。堂々たる剣士の戦いではなく、穢れた黒き術によってエルドリエを惑わしたことがな!」
「で……弟子だぁ?」
隣でキリトが愕然としたように呻いた。まったく同感というしかない、二人を散々痛めつけたエルドリエの、あの赤銅の騎士は師だということなのか。
しかしそれ以前に、ユージオは騎士の口ぶりに受け入れがたい反発をおぼえ、夢中で叫び返していた。
「ち……違う、僕らは暗黒術なんか使ってない! ただ、エルドリエさんの過去の話をしただけで……!」
「過去だと! 我ら神と秩序の使徒に過去などあるものか! 我らはこの地に降り立った時より、再び天に召されるその時まで、常に栄光ある整合騎士である!」
即座に鋼のような怒声が階段ホールに鳴り響き、ユージオはうっと息を飲みこんだ。師というだけあって、今度の騎士はすさまじく強烈な自負心で己を括っているようだった。カーディナルという少女の言葉によれば、行動原則キーなるものが埋め込まれている記憶の周辺を刺激すれば整合騎士の心を動揺させられるらしいが、あの騎士に関してはその取っ掛かりすら掴めそうにない。
燃えさかる弓を握る左手をぶんっと振り、周囲に無数の火の粉を撒き散らしながら、騎士が口上の締めを唱えた。
「――生かして捕らえろと命じられておる故、炭屑にまではせぬが、熾焔弓を解放した以上腕、脚の一本なりとも焼け落ちること覚悟せよ。断罪の炎を掻い潜り、その貧弱な剣を吾まで届かせられるかどうか、試してみるがよい!」
高く掲げた弓の、本来弦があるべき位置に、騎士の右手がぴたりと据えられた。指先が何かを握る仕草に、まさか、と思う間もなく――ひときわ強烈な炎が前方に噴き出し、それはたちまち一本の矢へと形を変えた。その眩さと轟く唸りからは、内包された威力がありありと感じられ、反射的に下腹がぎゅうっと縮み上がる。
「やっぱりかよ、畜生」
キリトが低く毒づいた。しかしその声からは常の不敵さが消えてはおらず、ユージオは僅かながら頭の芯を冷やすことに成功した。
「何か策はあるかい」
震えそうになる顎にぐっと力を入れそう訊くと、相棒は即座に早口で囁き返してくる。
「連射は不可能、そう信じる。一本を俺がどうにか止めるから、お前が斬り込むんだ」
「信じる、って……」
ため息をつきそうになりつつも、つまりはあの炎の矢を連射されたら最早為す術なし、ということなのだろうとユージオは察した。しかし単発であるならば、それはそれで一撃必殺の威力をあの矢は有しているということにならないか。そんなものをどう防ぐのか――という危惧が続いて湧き上がるが、ユージオはその感情を強いて振り捨てた。
キリトが止めると言うなら止めるだろう。ギガスシダーを倒すと言って倒した無茶に比べれば、まだしも現実味があろうというものだ。
ちらりと視線を交わし、それぞれの剣をがしゃりと構えなおした二人を、玉砕の覚悟を決めたと見て取ったか整合騎士は至極ゆっくりとした動作で弓を引きはじめた。
両肩を大きく怒らせ、右腕で円弧を描きながらぎり、ぎり、と見えない弦を絞っていく。弓矢全体を包む炎の荒れ狂い方はいまや凄まじいほどで、見れば階段に敷かれた緋の絨毯はすでに騎士を中心に円く焼き尽くされている。
ユージオの頬を撫でる熱気は、最早錯覚ではなかった。成る程たしかに、この攻撃は激甚なる威力を備えた単発技なのだろう。騎士は伊達でゆっくりと右手を引いているのではなく、全膂力を振り絞ってあの速度なのだと思えた。
キリトが動いたのは、騎士の動作が最後の一溜めに入る、その直前だった。
雄叫びを上げるでもなく、激しく床を蹴りすらしない、木の葉が早瀬に吸い込まれるような滑らかかつ鋭い突進。つい一呼吸遅れてしまい、ユージオは慌ててその後を追った。
黒衣の相棒は、広い階段を三段飛ばしですべるように駆け上っていく。その、硬く握られた左拳から、わずかに薄青い光が漏れているのにユージオは気付いた。恐らく騎士が口上を述べている間に発生させたのだろう、間違いなくそれは冷素因(クライオゼニック・エレメント)の輝きだ。
二人の突撃に慌てるふうもなく、騎士はついに弓を完全に絞り切った。同時に、キリトの口から神聖術の高速詠唱が迸った。
「フォームエレメント・シールドシェイプ! ディスチャージ!」
鋭く突き出した左掌から一列になって射ち出されたエレメントは、キリトの素因同時生成数の上限であろう五個。それら青い輝点は、先頭のものから次々に大きな円盾型に変じ、二人と整合騎士の間を密に遮る。
それを見た騎士の口から、再度怒声が轟いた。
「笑止! ――貫けいッ!!」
千のふいごが同時に猛ったような耳をつんざく衝撃音とともに、ついに炎の矢――いや槍、あるいは柱とでも言うべき火焔の凝集が発射された。見上げるユージオには、それはもう天より放たれた神威以外の何ものでもなかった。
キリトも、騎士の技の脅威を予感していたのだろう。先に発射した五個の素因に続けて、詠唱を止めることなく更に五個を生み出し、盾へと変えて撃ち出している。初級階梯の術者としては、こちらも驚くべき早業だが、それでも決して十分な護りだとは、残念ながらユージオには思えなかった。
須臾の間を置いて、先頭の氷障壁と火焔矢が接触した。
あまりにも呆気ない消滅。薄い氷の盾は硝子質の悲鳴とともに四散し、その欠片も即座に蒸気と化した。
二、三、四枚――と貫かれたのは、破砕音を数えるのも難しいほどに一瞬の出来事だった。ユージオは全身を恐怖と戦慄が包むのを覚えながら、五枚目が僅かに持ちこたえ、しかし堪らず砕け散る音を聞いた。六枚目、七枚目もそれぞれ瞬き一つする間もなく叩き割られ、八枚目は矢を受けた中心がぐうっと撓んでからやはり散った。残る二つの氷盾を透かして、もう目の鼻の先にまで迫った火焔矢の赤熱する輝きがユージオの目を射た。
荒れ狂う炎は、少しなりとも減殺されているように見えはしたが、しかしそれが二人を焼き焦がすには充分すぎるほどの熱量を保っているのは明らかだった。九枚目の障壁にその尖端を阻まれると、矢は激怒するようにその身をたわめ、一拍置いてから容赦なくそれを引き裂いた。
ついに最後の氷盾が残るのみとなり、ユージオは階段を蹴る足が萎えそうになるのを懸命に堪えた。すぐ目の前を、相棒が畏れを知らぬ足取りで突き進んでいくのに遅れを取るわけにはいかない。
ユージオが祈りながら凝視する先で、十枚目の盾と衝突した炎の矢は、とうとうその飛翔を止めた。
相容れない属性に基づく二つの力は、中空で赤い火の粉と青い氷晶を激しく振り撒きながら互いを退けようと身悶えた。
「――!?」
ユージオは息を飲んだ。半透明の氷盾の向こうで、一瞬、火焔矢が蛇のようにのたうったように見えたからだ。いや――大きくあぎとを開き、翼を広げたその姿は、竜――?
がしゃーん、と悲鳴を上げ砕け散ったのは氷の盾だった。
途端、息も出来ないほどの熱気が押し寄せ、ユージオは歯を食い縛った。すべての障壁を貫いた火焔矢、いや炎の竜は残虐な殺意を振り撒きながらキリトに襲い掛かった。
「うおおおおお!!」
ここにきて、ついにキリトの口から裂ぱくの気合が迸った。黒い剣を握る右手を大きく振りかぶる。
まさかあの竜を斬ろうというのか、とユージオが思った、その直後。
炎の塊目掛けて突き出されたキリトの腕の先で、剣が不思議な動きをした。五本の指を中心に、風車の如く回転したのだ。
しかしその速度が尋常ではなかった。一体どのような技なのか、見ることが不可能なほどの勢いで刀身が旋転し、まるで透き通る黒い盾が出現したようだった。
火焔竜の頭部がその盾に接触した。
ごわっ!! という轟きは、炎の猛りか、あるいは竜の断末魔か――。
十枚の氷盾を食い破った必殺の火焔は、キリトの手許で幾千にも引き千切られ、放射状に飛び散った。しかしそのうち、少なくない量が剣の円盾を突き抜けてキリトの全身を押し包み、次々と小爆発を引き起こした。
相棒の体が弾かれたように宙に舞うのを見て、ユージオは絶叫した。
「キリト――!!」
無数の火の粉を散らしながら、それでもキリトは空中で叫び返してきた。
「止まるな、ユージオ!!」
僅かな躊躇いののち、軋むほど奥歯を噛み締め、ユージオは前方を睨んだ。キリトなら、ここで足を止め千載一遇の機を逃したりはするまい。彼は言ったことを果たした。ならば自分もそうしなくては。
右上空を落下していく相棒とすれ違い、ユージオは残る段数を全力で駆け上りつづけた。
背後で、ど、どうっ、とキリトの体が階段に叩き付けられる音がした。
いまだ宙を舞う火焔の残滓を一気に突っ切ると、騎士が立ちはだかっている踊り場までは、もう十数歩の距離だった。
絶対の自信を示していた武装完全支配からの必殺の一撃を、無傷でとはいかぬまでも退けられたのは、整合騎士にとっても予想外のことなのだろう。肉薄しても素顔は見えないが、甲冑の奥にかすかな驚きの気配が感じられた。先ほど、構えから火焔矢の発射まで騎士はどう少なく見積もっても十秒の時間を要したが、ユージオが剣の間合いに入るには五秒もあれば充分だ。帯剣していない以上、この距離まで接近を許した時点で――。
あんたの負けだ!
声に出さずそう叫びながら、ユージオは右手に握る青薔薇の剣を高く振り上げた。
「嘗めるな小僧!!」
ユージオの思考が聴こえたかのように、騎士が吼えた。
際前の動揺は瞬時に消え去り、圧倒的な闘気が赤銅の重鎧全体を包んだ。燃える長弓を握ったままの左腕が頭上高く掲げられ、再び凄まじいほどの炎が拳を中心に巻き起こる。
「どあああっ!!」
灼けた空気をびりびり震わせる気合とともに、騎士の左拳がはるか高みから撃ち降ろされてきて、ユージオはぎりっと奥歯を軋ませた。
どうする!?
すでに斬撃体勢に入っていたが、頭の芯でいくつかの瞬間的な思考が閃く。
剣と拳、間合いでも武器の優先度でもこちらが有利だ。しかし騎士の殴打は伝説の赤竜が吐くという火球にも似て、華奢な青薔薇の剣で押し勝てるかどうか定かでない。ここは一度距離を取りなおし、敵の余力を見極めるべきか。
いや――。
キリトなら、ユージオにとっての剣の師でもあるあの親友ならば、一度剣を振りかぶったからにはもう余計なことは何一つ考えないだろう。斬撃の威力を決めるのは、武器の性能やそれを握る者の体力以上に、万物を斬り伏せるという鋼の意思なのだ、と稽古のおり彼はよく口にした。この世界では、最後の最後には心の力がすべてに勝るのだ、と。
信じるんだ。自分と、青薔薇の剣を。カーディナルという少女は、青薔薇の剣の基となったのは北の山脈深くに眠っていた永久に溶けない氷だと言った。ならば、その絶対の凍気を以ってあの炎の塊を切り裂くのみだ。
柄を握る右手のみならず、そこに添えた左手にも、刺すような冷たさが急激に発生したのをユージオは知覚した。それは決して錯覚ではない。その証左に、視界の隅はいつしか白い靄に覆われ、きらきらと光る極小の氷片すら無数に踊っている。長い弧を描く上段からの斬撃が、落下してくる騎士の拳に近づくにつれ、逆巻く炎が左右に押し分けられていくのが見える。
「せああああっ!!」
滅多に発しない気合とともに、ユージオは全霊を込めた一撃を振り切った。
ぎいいん! という凄まじい衝撃音とともに、剣尖と拳が衝突した。
瞬間、拳を包んでいた炎のすべてが掻き消され、かわりに青い霜が八方に飛散した。真っ白く凍りついた騎士の拳は真上に弾き返され、ユージオの剣も軌道を左に逸らされて階段の大理石を抉った。
学院での試合であれば、ここで一合のやり取りが決着し、両者距離を取り直したあと再度の撃ち込みとなる。そうしなければ審判に採点されないばかりか、醜い追撃は減点対象ともなり得る。
しかしこれは優美さを競う勝負ではない。敵を倒すことがすべての真剣勝負なのだ。
ユージオは、床を抉った剣が跳ね返る勢いを利用し、そのまま連続して第二撃を左下から右上へと斬り上げた。
「――いええっ!!」
青い霜の軌跡を引きながら伸びてくる剣に、整合騎士は完全に虚を突かれたようだった。
「ぬおっ!」
唸り声とともに身体を捻って回避しようとするが、体勢を崩していたせいで足がついてこなかった。ガッ、と短い音を立てて剣の切っ先が赤銅の鎧の胸当てを掠める。
騎士はさらに上体を泳がせながらも、左足を踏ん張り後方に大きく跳ぼうとした。
だが、ユージオの連続攻撃は終わった訳ではなかった。体重の乗らない二撃目は牽制でしかない。右に高く上がった剣を、くるりと小さな円を描かせて正中線に引き戻し、左足で深く踏み込みながら最後の斬撃へと繋げる。
「せええええいっ!!」
ライオスを斬ろうとしたときに襲ってきた右目の痛みも、奇妙な紫色の文字も、もう僅かにも現われなかった。迷いや躊躇いもなかった。斬るべき敵を斬るのだという一念のみがユージオの全身を動かしていた。
振り下ろされた青薔薇の剣が、騎士の右肩を直撃した。鎧の肩当てが断ち割られる金属音に続き、鈍く重い衝撃がユージオの右手に伝わった。それは間違いなく、己の放った斬撃が分厚い筋肉を引き裂き、骨を打ち砕く感触だった。
胸まで達する深い傷を受け、整合騎士は背中から床に叩き付けられた。
「ごはっ!」
篭った声が兜の下から漏れ、直後、面頬の隙間から鎧の赤銅よりも一層赤い血液が大量に噴き出した。
人を斬るのは初めてではないが、それでもユージオは一瞬息が詰まるのを感じた。右手に残る忌まわしい手応えに、腹の底が締め付けられるような感覚が襲ってくるが、懸命に飲み込む。
そんなユージオの嫌悪感に同調するように、青薔薇の剣は最後にもう一度強い冷気を放ち、刀身にまとわりついていた返り血をすべて霜に変じさせ振り落とすと、普段の状態へと戻った。見れば、切り裂かれた騎士の右肩も真っ白く凍りつき、滴りかけた血が小さな氷柱を幾つも作っている。
「ぐ……」
整合騎士は、吐血が落ち着くと弓を握ったままの左手を持ち上げ、傷口へ近づけようとした。それを見て、ユージオは再び剣を持つ右手に力を込めた。もし騎士が神聖術の詠唱を始めたら、倒れた相手をさらに斬りつけねばならない。高位の術者であれば、周囲の空間にソルスもしくはテラリアの恵みが残存する限り天命の回復が可能であり、つまり絶命させる以外に無力化する手段は無いからだ。
しかし騎士は、左手が完全に凍りつき、既に炎を失った弓を拳から離せないことに気付いて術による治癒を諦めたようだった。苦笑めいた吐息を漏らし、がしゃっと腕を床にもどす。
これからどうしたものか、ユージオは迷った。青薔薇の剣は、斬撃部位を氷結させることで攻撃の威力を上げたものの、同時に失血による天命の連続的減少をも防いでしまったようだ。騎士はもう戦えないほどの深手を負っただろうが、このまま死にもするまい。放置していけばやがて凍結状態も解け、神聖術で完全回復を果たして追撃してくるのではないか。
奥歯を噛んで立ち尽くすユージオに、先に言葉を掛けたのは整合騎士のほうだった。
「……小僧……」
血の絡まるしゃがれ声に、ユージオはハッと身を硬くしたが、続く内容は少々予想外のものだった。
「さっきの……技の名前は……何という……」
「…………」
しばし戸惑ったあと、ユージオは乾いた唇を湿らせてから答えた。
「……アインクラッド流剣術三連撃技、『シャープネイル』」
「三……連撃技、か」
繰り返し、騎士はわずかに沈黙したが、すぐに続けて問うた。
「そっちの……貴様の使った技は……?」
騎士の兜が右側に動いたのを見て、ユージオも肩越しに振り向いた。すると、全身に火け焦げを作ったキリトが、特に燃え方の激しい左腕を押さえ、右足を引きずりながらゆっくり階段を登ってくる姿が見えた。
「キリト……怪我は!?」
慌てて訊くと、相棒はかすかに唇を歪ませて笑った。
「大丈夫、酷い傷はあらかた塞いだ……騎士のおっさん、俺が使ったのはアインクラッド流武器防御技『スピニングシールド』だよ」
「…………」
それを聞いた騎士は、もたげた頭を再度がしゃりと床に落とし、しばらく沈黙した。やがて流れた声は、二人にではなく、自分自身に聞かせているかのようにごくひそやかだった。
「……人界の端から端まで……その果てを越えた先までも見尽くしたつもりでいたが……世にはまだ吾の知らぬ剣、知らぬ技があったのだな……。――貴様らが……穢れた術によってエルドリエを惑わせたと言ったのは……吾の見誤りであった……」
整合騎士は、もう一度首を動かし、面頬の奥からユージオに視線を向けた。
「……名を……教えてくれ」
キリトとちらりと視線を見交わしてから、ユージオは短く名乗った。
「……剣士ユージオ。姓は無い」
「剣士キリトだ」
二人の名前を噛み締めるように騎士はしばし口を閉ざし、続けて、ユージオにとってはまたしても予想だにしていなかった言葉を発した。
「……カセドラル五十階、『霊光の大回廊』にて十二名の整合騎士が貴様らを待ち受けている……生け捕りではなく、天命を消し去れとの命を受けてな……先刻のように真正面から相対してはとても抗し得ぬ剛の者たちだ……」
「お……おいおっさん、大丈夫なのかそんなことを言って? 禁忌に触れちまうぞ」
キリトが少々泡を食ったように口を挟んだ。しかし騎士は再び笑みににた気配を漂わせ、呟いた。
「アドミニストレータ様の命を遂行できなかった以上……吾は整合騎士たる資格を失い無期限凍結刑となる……そのような辱めを受ける前に、天命を断ってくれ……貴様らの手で」
「…………」
思わず絶句したユージオに向かって、騎士はさらに言葉を重ねた。
「迷うことはない……貴様らは正当なる勝負で吾を倒したのだ……吾……」
続く名前を聞いて――ユージオは息が止まるほどの衝撃を受けた。
「……整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンを」
聞き覚えがある、などというものではない。
その名は、この九年間というもの、ユージオの魂の奥深くに刻み込まれ一瞬たりとも薄れることはなかったのだ。深い悔恨と絶望、そして怒りとともに。
「デュソル……バート? あんたが……あの時の……?」
自分でもぞっとするほどひび割れた声が喉から搾り出されるのを、ユージオは聞いた。
鎧の色が違うし、兜を被っていると整合騎士の声はみな同じように聞こえるので今までまったく気付かなかったが――では、今深手を負って目の前に倒れている騎士こそが、かつてユージオの眼前で――。
ある種の衝動に背を押され、ユージオはよろよろと数歩前に進み出た。
左足で、騎士の投げ出された右腕を踏みつけて立ち止まる。
「ユージオ……?」
訝しむようなキリトの声は、もうほとんど耳に届かなかった。上体を屈めて、間近から面頬の奥の騎士の顔を覗き込む。
兜に何らかの術式が掛けられているのか、数十センの距離まで近づいても騎士の素顔は闇に隠れていた。だが、天命の殆どを削られても尚力を失わない二つの眼だけははっきりと見てとれた。若いとも、年経ているとも思える鋭い眦だった。
乾ききった口を動かし、ユージオは軋むような囁き声を騎士に投げた。
「天命を……断ってくれだって……? ……高潔ぶった口を利くんじゃない……正当なる勝負だ……?」
右手が激しく痙攣すると同時に、握られたままだった青薔薇の剣が再び猛烈な冷気を放射させはじめた。ユージオの嵌めた革手袋や、切っ先のすぐ下にある整合騎士の重鎧を、たちまち白い霜が覆っていく。
急激に胸の奥に込み上げてきた熱い塊を、ユージオは喉も裂けよとばかりに一気に吐き出した。
「たった! たった十一歳の女の子を鎖で縛り上げて……竜にぶら下げて連れ去った卑怯者が口にすることかあああっ!!」
逆手に握った青薔薇の剣を高く振り上げ――ユージオは、凍てつく剣尖を騎士の口元目掛けて全力で突き下ろした。
とても許容できない台詞を吐いた倣岸な舌を床まで縫い止め、同時に残る天命も吹き飛ばしてやるつもりだった。しかし、剣が騎士の兜に触れる直前、視界の右側で黒い影が一瞬閃き、同時に小さな火花が散って、青薔薇の剣の切っ先が左に流れた。必殺の刃は兜の側面を削いだだけで、大理石の床石をむなしく抉った。右手に込めた怒りが、冷気に形を変えて吹き荒れ、床の上にびっしりと放射状に薄青い霜を生やした。
ユージオはのろりと首を右に回し、自分の攻撃を妨げたのが、キリトの右手に握られた黒い直剣による神速の一薙ぎであると理解した。
「なんで……なんで止めるんだよ、キリト……」
あらゆる思考も感情も灼き切れた空疎な白さのなか、ユージオは世界で最も信頼する相棒に呆然と尋ねた。
キリトは、どこかいたましいものを見るような色の眼でじっとユージオを凝視し、ゆっくりと首を振った。
「――そのおっさんはもう戦う気は無いよ。そういう相手に剣を振るっちゃだめだ……」
「でも……でも、こいつは……こいつがアリスを連れていったんだよ……こいつが……」
駄々っ子のように首を振り、言い募りながら、ユージオは意識のどこかでキリトの言わんとする所を理解してもいた。整合騎士も、所詮は神聖教会の命令によって動く存在に過ぎないこと。真に倒すべきは教会そのものであり、ひいてはこの世界を縛る歪な法と秩序であること。
しかし、それが正しい物の見方であると思えば思うほど、そんなもの糞くらえだと叫び、横たわる騎士を滅茶苦茶に斬り刻んでしまいたい衝動も膨らんでいくようだった。十一のあの夏の日から、ユージオが胸中に積もらせてきた怒りと無力感、そして罪悪感は、今更世界の仕組みなどを知ったところで晴らせるようなものではなかった。
足元に転がるバスケット。砂に塗れたパンやチーズ。アリスの青いワンピースを締め上げる鎖の鈍い輝き。そして、根が生えたように動かない、自分の二本の足。
ああ――キリト――キリト。君なら、あの時、整合騎士に斬りかかってでもアリスを助けようとしただろう。たとえそれで一緒に捕縛され、審問に掛けられるとわかっていてもそうしただろう。凄まじいほどの剣の技を持ち、誰よりも自由に振舞い、出会う人皆に好かれる君なら。でも、僕にはできなかった。アリスはたった一人の友達、誰よりも大切な女の子だったのに、僕はただ見ていることしかできなかったんだ。今足元に転がるこの男が、アリスを縛り、連れていくのを。
そのような断片的な思考を孕んだ感情の嵐が一瞬ユージオの脳裡を吹き過ぎた。右手が強くわななき、勝手に動いて青薔薇の剣を床から引き抜いた。
しかし、腕が次の動きに移るよりも早く、キリトの左手が強くユージオの右手を掴んだ。
続いた言葉は、またしてもユージオがまったく予想していないものだった。
「それに……このおっさんは、多分憶えていないよ。ルーリッドの村からお前のアリスを連行した時のことを……。忘れたんじゃない、記憶を消されたんだ」
「え……?」
ユージオは愕然として、横たわる騎士の兜を見下ろした。
これまで、青薔薇の剣が振り下ろされたときすらも身じろぎ一つしなかった整合騎士が、二人の視線を受けてはじめて動いた。ようやく凍結が解けかかったらしい左拳を強引に動かし、ぴきぴきと氷の小片を散らしながら長弓を離すと、その手を兜の顎部分に掛ける。
すでに片側を大きく切り裂かれていた兜は、そこから上下に割れるように騎士の頭から剥がれた。現われたのは、年の頃四十程と見える、いかにも剛毅を絵に描いたような男の顔だった。短く刈られた髪と、太い眉は鉄錆に似た赤灰色。高い鼻梁と引き結ばれた口もとは一刀彫りのように真っ直ぐで、両眼もまた鋭く切れ上がっている。
しかし、濃い灰色の瞳だけが、心中の動揺を映してか僅かに揺れていた。吐血の跡を残す唇が動き、流れ出た声は、先刻とはまったく異なる深い低音だった。
「……その黒髪の小僧の……言うとおりだ……吾が、少女を捕縛し、飛竜で連行したと……? そのような記憶はない……全く存在しない」
「き……記憶はないだって……たったの九年前なんだぞ」
呆然と呟き、ユージオは左足を騎士の右腕から離して一歩あとずさった。ユージオの右腕から外した手で、考えこむように顎の先を撫でながら、キリトが再び言った。
「だから、消されたのさ……前後の記憶ごとな。おっさん……いやデュソルバートさん、あんた以前はノーランガルスの北の辺境を守る整合騎士だった、それは間違いないよな?」
「……然り。ノーランガルス北方第七辺境区が……我が統括区であった……九年前まで……」
騎士の眉が、記憶の底を浚うようにぎゅっと顰められた。
「そして吾は……功大なりとして……セントラル・カセドラル警護任務とともにこの鎧と熾焔弓を与えられた……」
「その功とは何だか、憶えているか?」
キリトの問いに、騎士は即答しなかった。ただ唇をぎゅっと結び、視線を宙に彷徨わせている。短い沈黙を破ったのは、再びキリトの言葉だった。
「俺が答えてやるよ。あんたの功とは、現在あんたらを束ねる立場にいる、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティを見出したことだ。ルーリッドなんていう、央都じゃ誰も知らないような北の果ての村からな。最高司祭アドミニストレータは、アリスをこの塔に連行したことをあんたの手柄としながらも、その件に関する記憶は消さなければならなかった……。その理由も、あんたさっき自分で言ってたぜ」
最早ユージオと整合騎士にというよりも、自分に聞かせるが如く早口でキリトは喋りつづける。
「整合騎士は、生まれたときから整合騎士だ……あんたはそう言った。恐らくアドミニストレータは、あんたら騎士は、人の世を守るために自分が神界から召還したとか何とか言ってるんだろう。騎士となる以前の記憶がないのはそのせいだと納得させるためにな。でもその無茶な説明をごり押すためには、整合騎士に、自分だけじゃなく他の騎士の誕生に関する記憶も残してもらっちゃ困るわけだ。自分が連れてきた大罪人のはずの女の子が、次の日騎士様で御座いと出てきたら大混乱だからな……案外そのへんか、最高司祭様の弱みは……」
猛烈な速さで何事か考えているのだろう、キリトは俯いたまま左右に歩きまわりはじめた。そんな相棒の様子にすっかり気勢を削がれ、ユージオは長く息を吐き出しながらもう一度床の上の騎士を見やった。
整合騎士デュソルバートも、虚ろな表情で何らかの思考を巡らせているようだった。
怒りや憎しみが消えたわけではないが、アリスに関する記憶を消されているという話が真実なら、認めざるを得ないのか、とユージオは思った。確かにこの男は、教会の最高司祭であるというアドミニストレータなる人物に操られる手駒にすぎないことを。自分からアリスを奪い、アリスから記憶を奪って整合騎士に仕立てた憎むべき敵は、そのアドミニストレータ一人に他ならないということを――。
デュソルバートは、やがてじっと見下ろすユージオの視線に気付き、瞳を彷徨わせるのをやめた。その胸中に渦巻いているであろう感情は読み取れなかったが、流れ出した声は、本当に先刻二人の前に立ちはだかった強敵と同じ人間のものかと思いたくなるほどの揺らぎに満ちていた。
「本当なのか……吾ら整合騎士が、そうなる以前は市井に生きる民……人間であったという話は?」
「…………」
言葉に詰まったユージオに替わって、再びキリトが答えた。
「そうさ、あんただってさっき自分から赤い血が嫌ってほど流れたのを見たろうが。エルドリエが倒れたのだって、妙な術を掛けたからじゃない、あいつの奪われた記憶を呼び覚まそうとしたからだ。出来なかったけどな……あんただって同じだぜ。あんたがどんな経緯で……統一大会で優勝したのか、禁忌目録を軽んじたのかは知らないが、あんたはアドミニストレータに大事な記憶を奪われて、代わりに教会への忠誠を埋め込まれ整合騎士に仕立てられたんだ。いま忠誠心が薄れてるのは、あんたが俺たちに敗れ、任務に失敗したと自己認識しているからだ。凍結刑になるとか言ってたけど、実際はその間にまたアドミニストレータ様があんたの記憶をいじくりまわしてもう一度自分に絶対服従の騎士に仕立てちまうはずだぜ、賭けてもいいね」
言い回しは冷たいが、キリトの声にはどこかやるせなさと、そしてデュソルバートを慮るような響きが混じっているように思えた。騎士もそれを感じたのかどうか、瞼を閉じ唇を噛んでしばらく沈黙していたが、そのうちごくかすかな掠れ声で呟いた。
「はるか以前より……何度も同じ夢を見た……。吾を揺り起こす小さな手と……その指に嵌った銀の指輪……しかし目覚めると……そこには誰も……」
デュソルバートはぎゅっと眉根を寄せ、左手で額を強く押さえた。その様子をキリトは同じく眉をしかめて見ていたが、やがて首を振りながら言った。
「思い出せないよ。あんたはその手の持ち主の記憶をアドミニストレータに奪われているからな……」
一瞬口をつぐみ、右手に下げたままだった黒い剣を左腰の鞘にかちんと音を立てて戻す。
「……これからどうするかはあんたが決めることだ。アドミニストレータの元に戻りおとなしく処置を受けるか……傷を治療して俺たちを追ってくるか、それとも」
その続きを言うことなく、キリトは右側の上り階段目指して歩きはじめた。肩越しに振り向き、ユージオをまっすぐ見る。
それでいいだろう?
黒い瞳がそう言っていた。ユージオはもう一度、横たわり瞑目したままの整合騎士に視線を向けた。右手の青薔薇の剣をゆっくりと持ち上げ――切っ先を左腰の鯉口に合わせて、そっと鞘に落とし込む。
「おい、待てよ」
キリトの背に声を投げかけながら、早足に階段に向かった。あのままにしても、デュソルバートが二人を追ってくることはもうないだろうと、ユージオは強く予感した。