「無に……還す……?」
機械的に繰り返してから、俺は今更のように目を見開いた。
「どういう意味なんだ、それは……?」
「言葉どおりじゃよ。魂の揺りかご、ライトキューブ・クラスターに保存されている全てのフラクトライトを削除するのじゃ。人間のものも、怪物のものも、一つ残らず」
そう言い切ったカーディナルの幼い顔は、毅然とした決意と覚悟に満ちていて、俺はしばらく口を開くことができなかった。時間をかけて、どうにか少女の言葉が指し示す最終的解決を具体的にイメージする。
「それは……つまり、酷い苦しみの果てに多くの人が死ぬことが回避できないなら、その前に全員を安楽死させてしまうほうがまだマシだ、という……?」
「安楽死……? ――いや、その用語は正確ではないぞ」
システムに内蔵されたデータベースを検索したのか、一瞬まぶたを閉じてから、カーディナルはかぶりを振った。
「ライトキューブとは別種の記録媒体を持つお主ら上位世界の人間には有り得ぬ事象なのだろうが、この世界に暮らす民の魂を消去するのは一瞬の操作でしかない。対象者は何一つ知覚せずに、ろうそくの炎が揺らぐほどの抵抗もなく消え失せる……。もっとも、それが殺人行為であることに何ら変わりはないがな……」
数十年の時間をかけて考え抜いた結論なのだろう、そう語るカーディナルの声には、深い諦めと無力感のかすかな残響が感じ取れるのみだった。
「無論……理想を言うならば、この世界そのものがラースの支配から永遠に逃れ、独自の歴史を綴るのが最上の解決ではある。さらに数百年の時間を費やせば、人間界とダークテリトリーの無血融和すら不可能ではあるまい。しかし……神ラースからの脱却など絵空事であると、お主が最もよく理解しておるじゃろう?」
突然問われ、俺は唇を噛んで黙考した。
アンダーワールドを動かすメインフレームと、そこに接続された巨大なライトキューブ集合体が、いったい日本のどこに設置されているのか俺は知らない。しかし当然、それら機械類は恐るべき容量の電力を消費するわけで、その意味で完全なる孤立など実現不可能なのは明らかだ。
更に言えば、菊岡は、引いては自衛隊はアンダーワールドを慈善事業で運営しているわけではない。そこには、実用に耐える無人兵器搭載用AIを完成させるという明確な目的があるはずだ。仮にカーディナルが全権を回復し、外部に連絡チャンネルを開いてアンダーワールドの独立を要求したところで、ラース側は一顧だにせず彼女のフラクトライトを削除するだろう。
そう――考えてみれば、俺が今後セントラル・カセドラル最上階に到達し、菊岡と連絡できたとしても、ユージオ以下数名のフラクトライトを保全してくれという俺の要求を彼が聞き入れる保証などまったく無いのだ。ラースにとって、全ての人工フラクトライトは単なる所有物であり、実験対象であり、そもそも今動いているアンダーワールド自体が幾百、幾千の試行のうちのたった一例に過ぎないのである。
つまるところ、人工フラクトライト達が真に自由と独立を得ようとするならば、恐らくその手段はひとつだけ――現実世界の人間に対して戦いを挑む、それしかない。しかしどうやって? 彼らに、一体どのような武器があるというのだろう……?
その先を考えるのが空恐ろしくなり、俺は無理矢理に思考を遮った。いつの間にか、俺自身を、外界の人間と敵対すべきアンダーワールド人であると認識しているような気がしてかすかに戦慄する。視線を上げ、俺はゆっくり首を左右に動かした。
「そうだな、不可能だよ。この世界は、独立するにはあまりにも外側の人間たちに依存しすぎている」
「うむ……例えるならば、イケスに放り込まれ、いまに揚げられるのを待つばかりのアオヒレ魚の群れよ……。せめて出来るのは、自ら水を飛び出して息絶えることだけじゃ」
諦念に満ちた儚げな笑みを浮かべるカーディナルに向かって、しかし俺は頷き返すことはできなかった。
「でも……俺は、そこまで割り切れないよ、とてもじゃないけど……。苦しんで死ぬよりは、何も感じずに一瞬で消えるほうがマシだっていう、あんたの出した答えは確かに正しいのかもしれない……でも、それを簡単に納得するには、俺はもうこの世界の人間たちと関わりすぎてるんだ」
脳裏に、この二年半のあいだに親しく交流した人々の笑顔が次々とよぎる。彼らがダークテリトリーの怪物たちに惨殺されるところなど無論見たくないが、しかしかと言ってこのままカーディナルに協力し、皆の魂を消去することに手を貸すのが本当に唯一にして最善の手段なのだろうか。
突きつけられた二律背反に煩悶する俺に、カーディナルの穏やかな声が掛けられた。
「言うたじゃろ、ギブ・アンド・テイクと。わしが全フラクトライトを消滅させる前に、外部と連絡を取りたいとお主が望むならそれを叶えよう。しかし、もしラースがお主の要望を聞き入れないと思うなら、わしがお主の手助けをすることもできる。助けたいと思う者の名を指定すれば、その者たちのフラクトライトは消去せず、凍結させたまま残そう。あとはお主が、外部世界に脱出したのちに彼らのライトキューブを確保すればよい。十個程度であれば、不可能ではあるまい。おそらくお主にとっても、これが最善ではないにせよ次善の選択じゃ」
「…………」
突然の思いがけない言葉に、俺は鋭く息を吸い込んだ。
可能だろうか、そんなことが!?
確かに、光量子を完全に閉じ込められるライトキューブは、情報の保持に電力を必要としない。インタフェースから抜き出し、安全に保存できれば、内部のフラクトライトはいつまででも劣化することはないのだ。時間はかかるだろうが、いつかSTL技術が一般化すれば、彼らを"解凍"し再びまみえることは有り得ないことではない。しかし問題はその前の段階、ラース研究施設の中枢に位置するだろうライトキューブクラスターから複数の媒体を盗み出すことだ。一辺十センチの立方体はとてもポケットには隠せない。専用のキャリングケースを使うなら、確かに十個持ち出すのが精一杯だろう。
つまり俺は、この提案に乗った場合、救出すべき魂を選別しなくてはならないのだ。
家庭用ゲーム機のセーブデータを整理するのとは訳が違う。人工フラクトライト達は、根源的な意味において俺とまったく同じ人間だ。避け得ない死から、たった十人だけを選び救い出す――しかも、親しく交流したというそれだけの理由で――そんな真似をする資格と権利が、この俺にあるのだろうか。
「俺……俺には……」
無理だ、という言葉は口に出すことができず、俺はただカーディナルの、何もかも見透かしたような瞳を見つめた。代わりに出てきたのは、何とも情けない泣き言だった。
「――そもそも、アドミニストレータと戦うのが、どうして俺なんだ? 言っておくけど、この世界では、俺の持っているアドバンテージなんか何一つ無いぜ。神聖術も、剣の腕も、俺以上の奴がごろごろしてるんだ。そう……例えばユージオだっていい。恐らく、今あいつと本気で戦ったら、俺は勝てないよ」
俺の湿っぽい抗弁を、聞き分けのない子供に対するように辛抱強く聞いたカーディナルは、ふう、と長い溜息をついた。やれやれとばかりに首を振り、名称が変化するカップに今度はコーヒーのような黒い液体を満たすと、ゆっくり一口啜る。
「……負荷実験、つまりダークテリトリーからの侵略がもはや不可避であることを悟ったわしは、それまで以上に懸命になってわしの剣となってくれる者を探し求めた……」
再び語りはじめたのは、恐らく最終幕に差し掛かっているのだろう彼女自身の長い長い歴史だった。
「じゃが、例えどれほどの剣と術式の達人を味方につけようとも、アドミニストレータ本人に肉薄するためには、整合騎士の護衛以外にももうひとつ大きな障害をクリアせねばならんかった」
「……ま、まだ何かあるのか……?」
「うむ。探索と平行して、わしはその問題の解決法を数十通りも捻り出したが、どれもいま一つ確実性に欠けての……。そうこうしているうちに時間はどんどんと経過していき、気付けば、総侵攻の前段階として、闇の国からの先遣部隊がひんぱんに果ての山脈を脅かすようになっておった。十名ちょいの整合騎士では、完全に排除しきれないほどにな。――かくなる上は、戦闘による権限奪回は諦め、わしの首を差し出してでもアドミニストレータを説得することを検討せねばならぬか、と思い始めていた頃……わしの放った使い魔の一匹が、北方辺境の民のあいだでおよそ有り得ぬ話が流布していることを察知したのじゃ」
「有り得ない話?」
「少なくとも、クィネラがアドミニストレータとなって以来一度たりとも無かった事件に関する噂じゃよ。あの女が、人間の居住区域の拡大を妨げるために世界各地に配置した妨害オブジェクト……その一つ、途方も無いプライオリティとデュラビリティを備え、広大な範囲の成長リソースを吸収する巨木が、たった二人の若造に切り倒されたというのじゃ」
「…………どっかで聞いた話だな」
「わしは早速、最寄の村に配置してあった使い魔……先ほど紹介したシャーロットを動かし、その若造たちを捜した。ようやく見つけたのは、そやつらが村を旅立つ直前じゃった。とりあえずその片方、大雑把そうな奴の背中にシャーロットを張り付け、わしは一体なぜこやつらが、ほぼ破壊不能のオブジェクトを排除し得たのか、その理由を探った……」
大雑把な奴扱いされたことに何か言い返そうと思ったが、実際俺は二年半もあの小蜘蛛が身辺にうろちょろしていたことに気付かなかったわけで、ぐうの音も出ない。しかめ面で、カーディナルに先を促す。
「直接の理由はすぐにわかったよ。亜麻色の髪の若者が持っている剣が、世界に何本とないクラスの神器だったからじゃ。最早殺されて久しいが、世界の守護竜に認められた勇者のみに与えられる武器のひとつ……しかしそれが判っても、新たな疑問が湧いてくる。なぜこんな若造どもが、それほどハイレベルのオブジェクトコントロール権限を持っているのか、とな。久しく感じなかった興奮を覚えながら、わしは日夜、二人の会話に耳をそばだてた。その殆どは聞くに堪えぬ馬鹿話じゃったが……」
「わ、悪かったな」
「ええい、黙って聞け。――やがて、央都に続く道中の宿場で、ようやくわしはその訳を知ることができた。驚いたことに、そやつらは、たった二人でダークテリトリーからの大規模な先遣偵察部隊を撃退したと言うではないか。それが真実ならば、本来数十人に分配されるはずの規模の膨大な権限上昇ポイントを、二人で独占したということになる。一瞬にして、神器を装備できるほどの権限を得た理由はそれで判ったが……同時に、わしはまた新たな疑問に苛まれることとなった。それはつまり――ろくな衛士隊もない辺境の村に生まれた若者たちが、なぜ圧倒的な戦力を持つダークテリトリーの怪物を撃退し得たのか? ということじゃ」
「言っておくが、九割はハッタリだったぞ」
再び混ぜっ返した俺を叱ろうとしてから、カーディナルは思い返したように口をつぐみ、ゆっくりと頷いた。
「うむ……そう、それも含めての結果だったのじゃろうな。その疑問ばかりは、氷解するのに長い時間がかかった。黒髪のほう……つまりキリト、お主は、相棒のユージオに気を使って言動に注意しておったようじゃからな。しかしついにお主が、人間の食い物を、飼われていない獣つまり野良犬に与えるのを見たとき、わしは稲妻のごとき衝撃とともに悟った。お主が、禁忌目録に縛られておらぬことを……」
「……したかな、そんなこと……」
「何度もな。他人に見られておったら、お主はもっと早く教会に連行されておったわ。――それ以来、わしはお主の発言と行動を、仔細に分析した。二人が央都に到達し、修剣学院の門を潜ってからも、ずっとな。観察を始めてから一年も経った頃……わしはようやく、唯一の解答に辿り着いた。つまりお主は、この世界で生まれライトキューブに閉じ込められた魂ではなく、外部の……まことの創造神ラースが存在する世界からやってきた人間なのじゃ、と……」
「――なら、俺はあんたを失望させちゃったな。当然持っているべき管理者権限も、ラースとの連絡手段すら持ってない……それどころが、今現在、外側がどうなってるかすら知らないんだから……」
どうにも申し訳ない気持ちになってそう言うと、カーディナルは小さく笑いながら指先を振った。
「そんなことは、最初から分かっておった。もしお主にアドミニストレータを上回るシステム権限があれば、あれほどの傷を負ってまでゴブリンを剣で倒す必要は無かったのじゃからな。わしも、何故お主が今のような状態でこの世界に放り出されたのか、その理由までは察知できん。恐らくは、何かのアクシデントの結果……あるいは知識と権利を制限した上でのデータ収集と推測されるが、もし後者だとしたら、随分と巨大な代償を払っておるものじゃ、と思うがな」
「……ああ、まったくだ。もしそうなら、俺は自分が信じられないよ」
ゴブリン隊長の剣に抉られた左肩の痛みを思い出しながら、俺は呟いた。
「じゃが、わしにとってはそれでも望み得る最大限の希望じゃった、お主はな。なぜなら、お主の存在そのものが、先ほど言ったアドミニストレータと戦う上でのもうひとつの重大な障害をクリアしてくれるからじゃ」
「一体、その障害ってのは何なんだ?」
「――シンセサイズの秘儀は、その実行に、長大なコマンドと膨大なパラメータ調整を必要とする。準備段階も含めれば、およそ三日という時間が必要となる」
突然話が飛び、俺は面食らった。しかしカーディナルはそ知らぬ顔で唇を動かしつづける。
「つまり、ライトキューブに直接アクセスする神聖術は、通常の戦闘においてはほとんど考慮する必要はないということじゃ。言い換えれば、戦闘中に魂を乗っ取られ、整合騎士に洗脳されてしまう危険性は無い。ただし――もしアドミニストレータが、わしの選んだ戦士を取り込むことを断念し、ただ単に魂を吹き飛ばすことのみを狙ったとしたら……? 厳密なパラメータ調整が必要でないぶん、コマンドは飛躍的に短くなるはずじゃ。もしかしたら、護衛が戦闘しておる間に詠唱を完了できる程度にな。天命に対する攻撃は、こちらも装備や神聖術で対抗することができる。しかし、フラクトライトそのものを攻撃されてしまえば、いかなる防御も不可能じゃ。その可能性に思い至り、わしは長い間苦慮しておったのじゃ」
「……魂に対する攻撃……そりゃあぞっとしないな……」
「うむ。どれほどの使い手でも、記憶を引き裂かれてしまえばもう戦えぬ……。ゆえに、キリト、お主だけが唯一その攻撃に抗し得るのじゃよ。原初の四人、そしてお主が今使っておる神器"エスティーエル"には、さしものアドミニストレータも手出しできん。そのためのコマンドが存在しないからな。わかったか、わしがひたすらお主を待っておった、その理由が? お主が、統一大会に優勝し……あるいは禁忌目録を犯した咎人として神聖教会の地を踏み、カセドラルの中央にある審問の間に引き出されるまでのあいだにその身を大図書室に引き込むべく、最大限の数のバックドアを設置してひたすら待ちつづけた、その理由が……?」
ついに、長い、あまりに長い自らの物語を現時点まで語り終え、カーディナルは僅かに頬を紅潮させながら深く息をついた。
「……そうか、そういう事だったのか……」
事ここに至っても、俺はまだ何故自分がアンダーワールドにダイブしているのか、その理由を知らない。むしろ、それを知るために世界の中核、唯一ラースへの連絡口が存在すると思われた神聖教会を目指していた、とも言える。
しかし、とてつもなく長大な時を生きてきた少女にきっぱりと断言されると、やはり今この場所に辿り着いたのはある種の導きの結果なのか――と思わずにはいられない。アドミニストレータとの戦闘の帰趨は定かでないが、少なくともカーディナルとともに最大限の努力を試み、わずか十人であっても現実世界へ脱出させろという天の声……?
いや、運命だのなんだのを持ち出す前に、眼前の、二百年ものあいだただひたすらにこの瞬間だけを待ってきた少女に対して否と答えることなど、到底俺にはできなかった。彼女は自分のことを、感情のないプログラムだと何度も繰り返したが、長い長い物語を聞く限りにおいてはそれは真実ではないと思える。カーディナルもまた、俺と同じ喜怒哀楽を持つ人間であるはずなのだ。例えただ一つの欲求――世界を正せ、という命令に縛られていたとしても、なお。
「どうじゃ、キリトよ。わしは強制はできん……もしお主が、世界を無に戻すというわしの計画に賛同できぬと言うなら、もっとも最上階に近いバックドアからお主とユージオを送り出してやろう。その場合は、お主らが万難を排してアドミニストレータを倒し、それぞれの目的を果たしたそのあとは、おそらくわしと戦うことになるじゃろうが……それもまた運命、と言うほかあるまいな……」
そう呟いてから、カーディナルは、俺たちをこの図書室に招き入れてからもっとも年齢相応と思える、透き通った笑みを唇に浮かべた。
長い間沈黙したあと、俺は彼女の問いに、問いで答えた。
「カーディナル……。あんたは、自分の魂はクィネラのコピーだと、そう言ったよな……?」
「うむ、如何にもその通りじゃ」
「なら……あんたにも、純粋なる貴族の血が流れているはずだ。己の利益と、欲望のみを追及する遺伝子が……。なぜあんたは、全てを投げ出し、逃げようとしなかったんだ? どこか辺境の、アドミニストレータでも追跡できないくらい遠くの小さな村に逃げて、一人の平凡な女の子として恋をして、結婚して、子供を育てて……幸せのうちに老いて死ぬことも、あんたには可能だったはずだ。それがあんたの望みだったんだろう? その望みに従えと、あんたの血は命じていたはずだ……二百年間、ずっと。なぜその命令に抗ってまで、こんな場所でたった一人、二百年も待ちつづけたんだよ……?」
「愚かな奴じゃ、つくづく」
カーディナルはにこりと笑った。
「言うたじゃろう、カーディナル・サブシステムの存在目的を焼きこまれたわしにとって、あらゆる利益、あらゆる望みはただひとつ、アドミニストレータの排除と世界の正常化じゃ。わしにとっては、もはや正常なる世界とは、完全なる虚無に戻すこと以外に実現できぬのじゃ。ゆえに――ゆえにわしは――」
ふと言葉が途切れ、俺はカーディナルの眼鏡の奥を覗き込んだ。見開かれたバーント・ブラウンの瞳は、何らかの感情を抑えかねて、大きく揺れているように見えた。やがて唇が動き、聞き取れないほどに小さな声が漏れた。
「……いや……違うかな……。わしにも……わしにも、欲望はある、たった一つ……。この二百年……どうしても知りたかったことが……」
瞼を閉じ、ふたたび持ち上げて、カーディナルはじっと俺を見た。珍しく何かを躊躇するように唇を軽く噛み、両手を握り合わせてから、軽く咳払いして椅子からすとんと降りる。
「おいキリト、お主も立て」
「は……?」
言われるままに腰を上げる。首を傾げる俺を、カーディナルは随分と背中を反らせて見上げた。俺はそう背丈がある方ではないが、それでも十歳そこそこの外見を持つ少女とはかなり高さに差がある。
カーディナルは眉をしかめてから周囲を見回し、いままで座っていた椅子に右足を乗せると、よいしょとその上に登った。振り向き、俺と目線がほぼ同一になったことを確かめるように頷く。
「これでよい。おいキリト、こっちに来い」
「……?」
いぶかしみながら数歩移動し、カーディナルの手前に立つ。
「もっと前じゃ」
「ええ?」
「つべこべ言うな」
一体何事ならん、と思いながらも、俺はじりじりと前進した。そこでよい、と言われたときには、すでに互いの前髪が接触しそうな至近距離に達していた。冷や汗をかく俺を、カーディナルはちらりと眺めてからすぐに視線を外し、更に命令を重ねた。
「両手を広げろ」
「…………こうか?」
「前に回し輪っかを作れ」
「……………………」
よもや、言われたとおりにした途端あの激重ステッキでぶちのめされる、などということはあるまいな――と怯えつつ、両手をゆっくりと動かし、カーディナルの体を迂回させて背中からずいぶんと離れた場所で左右の指先を接触させた。
そのままぎこちない沈黙に満ちた数秒が経過したあと、カーディナルはちっと可愛らしい舌打ちをした。
「ええい、遠回りな奴じゃ」
どっちがだ、と言いかけたのも束の間。
俺の背中にも、ローブを割ったカーディナルの両腕がおずおずと回され、ごくわずかな力が上着の布地越しに伝わった。俺の額にぶつかった巨大な帽子がとすんとテーブルに落下し、栗色の巻き毛が左頬を撫でていった。肩と胸に、ささやかな重みとほのかな熱。
「……………………」
更なる高密度の沈黙に耐えられるだけ耐えてから、俺は、いったいどういう……、と尋ねようとした。しかしそれよりも早く、カーディナルのほとんど音にならない声が、俺の左耳そばの空気を震動させた。
「そうか……これが……」
長く、深いため息に続いて――。
「……これが、人間であるということか」
瞬間、俺ははっと息を飲んだ。
二百年に渡る孤独の中で、あらゆる思索を重ねたカーディナルが、最後に知りたいと思うものがあるとすれば、それは他の人間との触れ合い以外には有り得ないではないか。人間である、ということはすなわち他者との交感を為し得る、ということである。言葉を交わし、手を取り合い、強く抱き合って、魂の接触を感じ取る、ということである。
遠い昔、あのデスゲームの中で、俺はおよそ一年にわたって人間であることを止め、他人を頑なに拒否して己の効率的強化のみを考える機械と化し、同時に乾ききった魂の荒廃をいやというほど味わった。たった一年間、それでもあの頃の荒涼たる心象風景は、今も俺の中に砂漠にも似た広がりを確として保っている。
なのに、この少女は、その二百倍もの時間を、たった一人、この乾いた紙の牢獄で――。
俺はようやく、カーディナルの過ごしてきた時間を、ある程度のリアリティを伴って実感していた。同時に左右の腕が動き、少女の背中をしっかりと引き寄せた。
「……あったかい……」
ぽつりと呟く声と同時に、俺の頬にも、小さな温かみがゆっくりと移動していくのが感じられた。これは――涙……?
「……やっと……報われた……わたしの、二百年は……間違いじゃなかった……」
ひとつぶ、もうひとつぶと涙が頬を伝い、襟元に消えていく。
「この暖かさを知っただけで……わたしは満足……報われた、じゅうぶんに……」
どれほどの時間そのままでいただろうか、すいと空気が動いたと思ったときには、もう俺の腕のなかは空っぽになっていた。
椅子から降りたカーディナルは、こちらに背を向けたままテーブルの帽子を持ち上げ、ぽんぽんと叩いてから頭に乗せた。ステッキを拾い、眼鏡を押し上げながら振り向いたその顔は、すでに超然とした賢人の雰囲気を取り戻していた。
「おい、いつまでぼうっと突っ立っておるつもりじゃ」
「……そりゃないよ……」
先刻の涙は幻だったかと思いたくなる辛辣な言葉に、俺はもごもごと抗弁し、テーブルの端に腰を乗せた。腕を組み、長く息を吐く俺を、カーディナルはしばしじっと凝視していたが、やがて素っ気無く最終的な問いを発した。
「――で、結論は出たか? わしの提案に乗るか、それとも蹴るか」
「…………」
ここで即答できるほど、俺は決断力を備えてもいなければ、思い切りがよくもない。確かに、冷静に計算すれば、救うべき十人を選別しカーディナルの手を借りて現実世界に脱出させるのが、望み得る最大限の結果だ――ということになるだろう。それ以上の代案を、今の俺は導き出すことができないのだから。
だが、しかし――。
「……わかった。あんたの作戦に乗るよ」
頷きながらそう口にしてから、俺は顔を上げてカーディナルの目を見た。一語一語を意識しつつ、ゆっくりとその先を続ける。
「でも、考えるのはやめない。この先、神聖教会の中枢……整合騎士たちやアドミニストレータと戦うあいだも、何か手段がないか探し続ける。負荷実験段階の悲劇をどうにか回避して、この世界が平和の裡に存続できるような解決法を」
「やれやれ、とんでもない楽天家じゃな。わかっておったことじゃが」
「だってさ……、俺は、あんたにも消えてほしくないんだ。十人選べと言われたら、その中にはあんたも入るよ、間違いなく」
ほんの一瞬見開いた瞳を、すぐさま苦笑いの色で覆い、カーディナルは大仰な動作でかぶりを振った。
「……そのうえ、愚かな奴じゃ。わしが脱出してしまったら、誰がこの世界を消去するというのだ」
「だから……状況は理解したけど、悪足掻きは放棄しない、って言ってるだけだよ」
言い訳じみた俺の台詞に、呆れたような笑みだけを返して、少女はくるりと背中を向けた。翻るローブが起こした微風に乗って届いた声は、先ほどの刹那の触れ合いなどでは到底埋めきれない二百年の隔絶を秘めて、どこまでも静かだった。
「お主にも……いつかは諦めという果実の苦さを知る時が来る……。力尽くして及ばぬことではなく……及ばぬであろうという推測を受け入れなくてはならぬ時が……。――さあ、戻るぞ。相棒もそろそろ年代記を読み終わるじゃろう。具体的な戦術は、ユージオを交えて話そう」
かつっ、とステッキを鳴らし、カーディナルは俺を見ることなく、もと来た階段へと歩みを進めた。
カーディナルの見立てどおり、俺たちが歴史書の回廊に踏み込むのと、ユージオが膝に抱えた最後の一冊の裏表紙を閉じたのはほぼ同時だった。
ユージオは、数百年ぶんの歴史逍遥からいまだ醒めやらぬようにしばらく瞳を彷徨わせていたが、やがてぱちぱちと瞬きして俺を見上げた。
「あ……ああ、キリト。どれくらい時間経った……?」
「え? えーと……」
慌てて周囲を見回すが、時計はもちろん、窓の一つも存在しない。隣でカーディナルが小さく咳払いし、代わりに答えた。
「およそ三時間じゃな。もうソルスはすっかり登りきったぞ。――どうじゃったかな、長き世界の歴史は?」
「うーん……なんて言うか……」
問われたユージオは、言葉を探すように何度か唇を舐めてから、煮え切らない口調でつぶやいた。
「……この本に書いてあるのは、ほんとうに実際にあった出来事なんでしょうか? まるで……よくできたおとぎ話の連続を読んでるみたいで……。だって、ほとんどの挿話が、どこそこでこういう問題が起きました、司祭や整合騎士が赴いて解決しました、そしてそれ以来、かくかくしかじかの条項が禁忌目録に加えられたのです――っていうやつばっかりなんだ」
「仕方あるまい、それが史実じゃからな。ザルに注がれる水が零れぬよう、網目をひとつひとつ埋め続けてきたのが教会という愚かなる組織じゃ」
吐き捨てるようなカーディナルの台詞に、ユージオは目を丸くした。無理もない、これほど直截に教会を批判する人物に出会ったのは初めてだろうし、そのうえそれが年端も行かぬ少女だというのだから。
「あ……あの、あなたは……?」
「あー、この人はカーディナル。えーと……いまの最高司祭アドミニストレータに追放された、かつてのもう一人の最高司祭だ」
俺がかいつまんだ紹介をすると、ユージオは喉の奥でングッという奇妙な音を発して後ずさった。
「いや、ビビらなくてもいいって。俺たちが、整合騎士連中と戦うのに協力してくれるそうだから」
「き……協力……?」
「ああ。この人にも、アドミニストレータを倒して最高司祭に復帰するという目的があるんだ。だから……まあ、共闘体制ってことだな」
俺の至って簡素化された説明は、決して嘘ではないが、カーディナルが権限を取り戻したその先にはユージオの家族を含む全住民の消去という結末が待っていることまではとても言えなかった。いずれはユージオとも話し合わなくてはならないだろうが、しかしどうやって切り出したものか見当もつかない。
素直という言葉が服を着ているような俺の相棒は、疑いの色ひとつない薄茶色の瞳でまっすぐにカーディナルを見つめ、おずおずと微笑んだ。
「そうですか……助かります、本当に。かつての最高司祭……ってことは、じゃあ、アリス……整合騎士の、アリス・シンセシス・フィフティが、ルーリッドのアリス・ツーベルクと同一人物なのかどうかを……いや、彼女を元に戻す方法すらも知ってるんですか……?」
たどたどしく発せられたユージオの問いに、カーディナルはわずかに睫毛を伏せた。
「すまんが……わしがこの場所で手に入れられる情報は、ごく僅かなものなのじゃ……基本的には、そう多くない使い魔たちがその目で見、耳で聞いた事柄に限定されておる。それですら相当に危険なのだ、もし使い魔の一匹でもアドミニストレータに生きて捕獲されれば、彼らとわしを繋いでおるチャンネルを乗っ取られ、この場所に強引に通路を開かれるやもしれんからな。……よって、この二年というもの、わしは、最後の希望と定めたお主らの動向のみに気を配ってきた。アリスなる最新の整合騎士がどこから連行されてきたのか、今となっては知る術もない……」
そこまで聞いたユージオはがっくりと肩を落としかけたが、続く一言に鋭く息を吸い込んだ。
「――しかし、整合騎士たちに施された洗脳処理……"シンセサイズの秘儀"を解除する方法なら教えられる」
カーディナルは腕組みをし、難しい表情で続けた。
「基本的には、彼らのフラク……いや、魂に挿入された行動原則キーを除去すればよい」
「行動……原則キー?」
訝しげに繰り返すユージオに、俺は横から口を挟んで補足した。
「ほら、あの鞭使いのエルドリエと戦ったときに見たろう、あいつのおでこから出てきた紫色の三角水晶……あれが、そのキーらしい」
「ああ……エルドリエに、修剣学院のこととか親の名前とかを言ったら様子がおかしくなって、額から出てきたあれかい?」
「うむ、まさにそれじゃ」
右手のステッキを掲げたカーディナルは、その先端で宙に横線を引いてから、線の中ほどを断ち切るように動かした。
「行動原則キーは、記憶回路の幹線部分を阻害する形で挿入されておる。それにより、被処置者の過去の記憶を封じ、同時に教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を強いておるのじゃ。――しかし、そのように強引かつ複雑な術式ゆえに安定度は高くない。キー周辺の重要記憶が外部から刺激され、活性化してしまうと、お主らが見たように術式が解除されかかってしまうこともある」
「つまり……術を解くには、整合騎士の過去の記憶を揺さぶってやればいい、ってことか?」
俺は勢い込んでそう尋ねたが、期待した答えは返ってこなかった。
「いや……それだけでは不十分じゃ……。もう一つ、絶対に必要なものがある」
「そ、それは何なんです?」
今度はユージオが身を乗り出す。
「キーが挿入されておる箇所に本来存在したもの……つまり、被処置者にとっていちばん大切な記憶の欠片じゃよ。たいていは、最も愛する者の思い出がそれにあたる。お主らが戦ったその整合騎士が、強く反応した言葉を憶えておるか?」
俺が記憶を掘り返すよりも早く、ユージオが呟いた。
「確か……エルドリエのお母さんの名前を言ったときだったよ。額の水晶が、ものすごく光って……今にも抜け落ちそうになったんだ」
「ならばそれじゃろうな……。その騎士は、母親に関する記憶の中核部分を抜き取られ、そこにキーを埋め込まれておるのじゃ。――そもそも、アドミニストレータにとっては整合騎士の過去の記憶など全く不要なれど、本来記憶と能力は一体のものなのじゃ。過去を全て消せば、騎士としての強さ……剣の振り方や神聖術の式までも失われてしまう。よって、回路の流れを阻害するに留めておるわけじゃな。わしは、延命のために過去の記憶の大幅な削除を行ったが、その期間に得た進歩も全て捨てることとなった……」
短く息を吐き、カーディナルは言を重ねた。
「繰り返すが、全ての整合騎士は、最も大切な記憶のピースをアドミニストレータに奪われておる。それを取り戻さぬ限り、たとえ行動原則キーを除去できても、記憶回路の流れは元には戻らぬ。最悪の場合、回路自体に致命的なダメージを負ってしまうかもしれぬ」
「記憶のピース……。じゃ、じゃあ……もし、アドミニストレータがそいつを破棄してたら……」
恐る恐る俺がそう口にすると、カーディナルは難しい表情のままゆっくりとかぶりを振った。
「いや……そうは思わん。アドミニストレータは慎重な女じゃ、何かに使えそうなものを消去したりはせぬじゃろう。恐らくは、自らの居室……セントラル・カセドラル最上階に保管しておるはず……」
カセドラル最上階――という言葉を聞いたとたん、俺の記憶の一部がちくりと刺激されたが、その手触りは尻尾を掴まえる前にするりと消え去ってしまった。奇妙なもどかしさを感じながら、俺は呟いた。
「てことは……ちょっと待ってくれ、整合騎士たちを元に戻すためには奪われた記憶のピースが必要だけど、それを手に入れるには結局騎士たちを突破してアドミニストレータのところまで到達せにゃならん……って訳か……」
「殺さずに勝とう、などという甘い考えが通じる相手ではないぞ」
カーディナルが、じろりと俺を睨んで言った。
「わしにしてやれるのは、装備の面でお主らを整合騎士と対等にしてやれる程度のことじゃ。あとは、お主らがどこまで死力を振り絞り戦えるかにかかっておる」
「え……あんたは、一緒にきてくれないのか?」
てっきり無限ヒールつきの心強い後衛が出来るものと期待していた俺は、愕然としてそう訊ねた。しかしカーディナルは素っ気無く鼻を鳴らした。
「ふん、もしわしが外に出れば、即座にアドミニストレータも親衛隊ともども降りてきてその瞬間総力戦となってしまうじゃろう。一度に十人、二十人の整合騎士を相手に回して勝てる自信がお主にあるならそれでもよいがな、ん?」
意地の悪い笑みとともにそう問われれば、俺は首を左右にぶんぶん往復させるしかない。
「――じゃが、今ならまだ、アドミニストレータはお主らを整合騎士とすることに未練がある。二人だけで出て行けば、小数の騎士を回して生け捕りにしようとするはずじゃ。その騎士たちを各個撃破しつつ、塔を駆け上る以外に作戦はあるまい」
「むう……」
確かに、数に勝る敵と戦う上で、集団を分断しつつの各個撃破は基本戦術ではあるが、分断したところであの整合騎士が相手なのだ。正直、三人来たらもうお手上げという気がしてならない。
黙り込んだ俺に代わって、ユージオが、彼にしてはやや思い詰めた光を両目に浮かべながら言った。
「――いいですよ、戦えというなら戦いますし、殺すしかないなら……それもやむを得ません。元々、そう覚悟して牢を破ったんですから……。でも、もしアリスが出てきたら……? アリスとまでは戦えません、何のために二年半もかけてここまで辿り着いたのか、わからなくなる」
「ふむ……そうじゃな。ユージオよ、そなたの目的は、わしも理解しておる。――よかろう、もし整合騎士アリスがそなたの前に立ったら、これを使うがよい」
カーディナルが黒いローブの懐から取り出したのは、二本の極小サイズの短剣だった。
十字架の長軸をただ尖らせたような、シンプルな形状をしている。装飾らしいものは、握りの下端からぶら下がる細い鎖だけだ。深い銅の色に輝くそれを、カーディナルは俺とユージオに一本ずつ差し出した。あまりに細い柄を、指先でつまむように受け取ると、予想外の重さに思わず落としそうになる。全長は二十センも無いのに、学院の制式剣とたいして変わらない手応えだ。
「これは……? 一撃必殺の秘密兵器か何かか?」
鎖に手をくぐらせ、目の高さにぶらさげながら俺がそう問うと、カーディナルは素っ気無くかぶりを振った。
「その剣自体に攻撃力はほとんど無いよ、見た目どおりな。しかし、それに刺された者は、図書室内にいるわしとの間に切断不可能のチャンネルが確立される……つまり、わしの用いるあらゆる神聖術が必中となるわけじゃ。なぜなら、その短剣はわしの一部じゃからな。――ユージオよ、整合騎士アリスの攻撃を掻い潜り、体のどこでも良いからそれを刺せ。天命はほとんど減らぬ。その瞬間、わしの術でアリスを深い眠りに導こう……お主らが、彼女の記憶片を取り戻し、シンセサイズ解除の準備を整えるまで」
「深い……眠り……」
半信半疑の様子でユージオは掌に乗るブロンズ色の短剣を見つめた。恐らく、ペーパーナイフよりも短いこの剣を用いてさえ、アリスの肌を傷つけるのは抵抗があるのだろう。
俺は迷う相棒の背中を軽く叩き、言った。
「ユージオ、この人を信じよう。仮にアリスと剣を交えた上で気絶なりさせようと思えば、俺たちはもちろん彼女だって相当の傷は免れないよ。それに比べれば、こんな短剣で突かれるくらい、イライラ虫に刺されるくらいのもんだ」
「……うん、そうだね。わかりました……話しても無駄なようなら、これを使わせてもらいます」
前半を俺に、後半をカーディナルに向かって言い、ユージオは己を納得させるように深く頷いた。ほっと息をつき、俺も改めて右手にぶら下がる十字の短剣を眺めた。
「しかし……あんたさっき、この剣があんたの一部、って言った? どういう意味なんだ?」
首を傾げながら訊ねると、カーディナルは大したことではない、とでも言いたげな仕草で肩をすくめた。
「あらゆるオブジェクトをジェネレートできるわしやアドミニストレータでも、無から有を生み出せるわけではない」
「はあ……?」
「世界に割り当てられたリソースは有限じゃ。お主らが倒したギガスシダーの周囲に畑を作れなかったことからもそれがわかるじゃろう? 同じように、わしが、ある値のプライオリティを持つオブジェクトを生成しようとすれば、それと同等のオブジェクトが術の有効範囲内に存在せねばならぬ。かつてわしがアドミニストレータと戦ったとき、彼奴は剣を、わしはこのステッキを創り出したが――その瞬間、彼奴めのクローゼットに貯め込まれた貴重なアーティファクトがごっそり消えておる、ふふ」
カーディナルは右手のステッキでこつんと床石を叩き、少しばかり愉快そうに含み笑った。
「――しかし、見てのとおり、この図書室は閉鎖された空間じゃ。高プライオリティの武器を作ろうにも、変換対象となるオブジェクトが存在せぬ。この杖を使うことも考えたが、アドミニストレータと戦闘になったとき無いと困るしな……。消去法で考えれば、代償となり得るのはただ一つ、我が身のみであることは明白じゃった。わしの身体は高いぞ、何せ世界最高の権限の持ち主じゃからな」
「な……」
俺は息を呑み、カーディナルの華奢な体躯を眺めた。何度か言葉を飲み込んでから、おそるおそる口を開く。
「……そ、それは……つまり、その、身体の一部を切断して、オブジェクトに変換してからその箇所を再生させたと……?」
「阿呆ゥ、それでは結局何も捧げておらぬではないか。これじゃよ」
カーディナルは頭を横に向けると、細いうなじの上にわずかにかかる茶色の巻き毛を指先でくるりと弾いた。
「あ、ああ……」
「一本につき、百年ぶん伸ばした髪を用いてある。二つ目の剣を作ったのは、ほんの一ヶ月ほど前じゃ。お主がもっと早く来れば、切る前に自慢してやったものを」
冗談めかしているが、瞳の端にちらりと悲しそうな色が浮かんだのは、やはりカーディナルのある部分は生身の女の子のままであるという証だろうか。しかし感傷のかけらはすぐに賢者然とした態度の陰に沈み、毅然とした声が続いた。
「――以上の理由により、その短剣は見た目は小さいが、整合騎士の鎧を貫くに足るプライオリティを持っておる。さらに、ID管理上はいまだにわしの身体の一部分でもあるゆえ、大図書室を包む虚無アドレスを越えてコマンドを送り込むこともできる。……もともとは、対アドミニストレータ用に生成したものじゃ……キリト、お主に、彼奴めの猛攻撃を掻い潜りその剣を刺してもらうためにな。一本は予備のつもりじゃったが、なに、一度で成功すればよい話じゃ」
「う……責任重大だな……」
再度、右手の下で揺れる短剣を見てから、俺はようやく気付いた。深いブロンズの輝きは、カーディナルの帽子の縁から覗く短い髪の色とまったく同一だった。
ユージオも、飛び交う単語に戸惑いながらも与えられた剣の貴重さは理解したようで、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……本当に、いいんですか? 二つしかないものの片方を、アリスのために使わせてもらって……?」
「構わぬさ。それに、どちらにしろ……」
続きを飲み込み、こちらを見たカーディナルの目は、俺の内心を完璧に見透かしているようだった。そう、どちらにしろ、ユージオとアリスを含む十人のフラクトライトを現実世界に脱出させるためには、カーディナルの手を借りてアリスの洗脳を解除することもまた必須なのだ。
ユージオに全てを説明するのは、アリスを取り戻してからにしたほうがいいだろう。愛する相手と一緒なら、ユージオもこの世界を捨てることに同意してくれるかもしれない。いや、そうして貰わなければならない、何があろうとも。
いつの間にか、カーディナルの最終的計画をやむなしと考えている自分に忸怩たるものを覚えて、俺は細い鎖をぎゅっと握り締めた。そう――止むを得ないことかもしれない、この世界が消えるのは。しかしその場合でも、どうにかして、カーディナルの魂だけは十人の中に含めたい。たとえ、結果として彼女を欺くことになったとしてもだ。
全てを見通すようなカーディナルの大きな瞳から逃れるように、俺は横を向くと服の胸元をくつろげ、鎖に頭をくぐらせて短剣を胸元にぶら下げた。ユージオにも同じようにさせてから、俺は先ほどのカーディナルの説明を聞いていてふと思いついたことを訊ねた。
「そう言えば……オブジェクトを生み出すのに、何か代償となるものが必要なら、あれはどうなんだ? 俺たちがここに来たとき、あんたが山ほど出してくれた食い物は?」
カーディナルは軽く肩をすくめ、にこやかに答えた。
「何、気にやむことはない。どうでもいい歴史書が、二、三冊消えただけのことじゃ」
両手で首元の鎖を握ったまま、歴史マニアのユージオが、喉の奥でうぐっと奇妙な音を立てた。
「ん? なんじゃ、もっと食べたいのか? 育ちざかりじゃのう」
ステッキを掲げ、一振りしようとするカーディナルを、ユージオは首と両手を同時に高速運動させて押し止めた。
「い、いえもうお腹いっぱいですから! そ、それより話の続きをお願いします!!」
「遠慮せんでもいいというのに」
分かってやっているのではと思いたくなるほどににこにこしながらそう言うと、カーディナルは杖を下ろし、咳払いをひとつしてから口調を改めた。
「――順序が入れ替わってしまったが、先ほど説明したとおり、その二本の短剣こそが我々の切り札じゃ。ユージオはアリスに、そしてキリトはアドミニストレータに、それぞれの剣を刺すことのみを最優先に考えよ。成功の確率が上がると思うなら、不意打ち、死んだふり、何でもするのじゃぞ。わしが思うに、お主らが整合騎士どもに優るのはただ一点、あれこれ汚い手に精通しておるということのみじゃからな」
甚だ心外そうなユージオが何か言い出すよりも早く俺は、まったくその通りだ、と相槌を打った。
「できるものなら、全戦卑怯な手で切り抜けたいけど……残念ながら地の利は向こうにあるからなぁ。正面戦闘の備えだけはしておかないと……ということで、カーディナル。さっき言ってた、『装備面で整合騎士と同等の条件にしてやる』っていうのは、つまり神器級の武器だの鎧だのをどっさり出してくれるという意味だと解釈していいんだよな?」
このような緊迫した状況にあっても、俺に染み付いた救いがたいゲーマーの性は、"最強武器入手イベント"の匂いに敏感に反応してしまっていた。心ときめかせつつカーディナルをじっと見つめると、少女は今日何度目かのほとほと呆れ顔をつくり、何度目かのすげない台詞を口にした。
「ど阿呆ゥ、お主何を聞いておったのじゃ。よいか、高位オブジェクトの生成には――」
「――そうか……同クラスのオブジェクトの代償が必要……だった……」
「おやつを落とした子供のような顔をするでない! お主らを選んだ決断に疑問が湧いてくるではないか。大体、武器というものが、与えられたその瞬間から自在に操れる代物でないことは重々承知しておるじゃろう。どれほど強力な神器を出してやったところで、整合騎士たちが数十年にわたって使い込み、おのが血肉としておる武器に敵うものではないぞ」
俺は、まるで銀色の蛇のように自在にうねり、襲ってきたエルドリエの鞭を思い出し、頷かざるを得なかった。確かに、SAO時代でも、入手したばかりのレア武器に浮かれて習熟訓練もせずに実戦投入するような奴は長生きできなかったものだ。
おやつどころか誕生日のケーキを丸ごとひっくり返した子供のような気分でしゅんとしていると、呆れと憐れみがブレンドされた表情でカーディナルが先を続けた。
「そもそも、わしが出してやらずとも、お主とユージオにはもう充分すぎるほど強力な愛剣があるじゃろうが」
「えっ!」
弾かれたように反応したのは、隣で腹のあたりをさすっていたユージオだった。
「取り返してくれるんですか!? 青薔薇の剣と……黒いやつを?」
「そうするしかあるまいよ。あの二振りの剣はまさしく真の神器じゃ。片や、世界に四つしかない竜騎士専用武器、方や、数百年にわたって広大な領域のリソースを吸収しつづけた魔樹の精髄……あれらと同等の武器を即時生成するのは、わしやアドミニストレータでも困難じゃ。その上、お主らはあの二振りに充分馴染んでおるしな」
「なんだ……それが出来るなら早く言ってくれよ」
俺はほっと息を吐き、背中を傍らの書架に預けた。
没収されてしまった俺たちの愛剣を取り戻すことは半ば諦めていたが、あれらを回収できるならば何の不満もない。
「でも、取り返すって言っても、この場所に直接転送するとかはムリ……なんだよな?」
「うむ、ようやく分かってきたようじゃな」
俺の問いに軽く頷き、カーディナルは難しい顔で腕を組んだ。
「恐らく、そなたらの剣は塔の三階にある武具保管庫に収納されているはずじゃ。最寄りのバックドアからはほんの三十メルと言ったところじゃが、先ほど見せたように、ドアは一度使えば二度とは開けぬ。アドミニストレータめが探知のために放った蟲どもがたちまち群がってくるからな……。よって、お主らには、そのドアから出て剣を回収したあと、自力で塔を登ってもらうしかない。幸い、武具庫の正面が大階段じゃ」
「うーん、三階からスタートか……。ちなみに、アドミニストレータの部屋ってのは何階なんだ?」
「セントラル・カセドラルは年々上昇を続けておるからな……現在では百階に迫っておるはず……」
「ひゃ……」
俺は思わず喉を詰まらせた。確かに、神聖教会の雲を衝く巨塔は、セントリアのどこから見上げてもその頂きは朧に霞むほどに高かったが――いくらなんでも常軌を逸している。王道バトルものの少年マンガじゃあるまいし、まさか一階ごとに整合騎士との戦闘が待ってるんじゃないだろうなあ、といささかげんなりしながら俺は泣き言を言った。
「あのー、それせめて五十階スタートとかにならないんスかね……」
「物は考えようだよ、キリト」
苦笑混じりに口を挟んだのは、俺より十倍は前向き人間のユージオだった。
「行程が長ければ、それだけ敵も分散して出てくるだろうしさ」
「あー、うー、そりゃそうかもしれんが……」
ずるずると背中を滑らせ、通路に腰を下ろしてから、俺はがくりと頷いた。
「……まぁ、旧東京タワーの外階段を登ったこともあるしな……」
「はぁ?」
「いや、何でもない。――ともかく、これで行動の指針は決定したわけだな。まず武器庫に忍び込んで、剣を取り返す。そんでもって、出てくる整合騎士を倒しながら、階段を百階まで登る、と。作戦はシンプルなほうがいいって、誰かも言ってたしな……」
ようやく腹をくくりかけたところに、カーディナルの冷静な声が更なる水を差した。
「残念じゃが、もう一つせねばならんことがあるぞ」
「え……な、何?」
「お主らの剣は確かに強力じゃが、それだけでは整合騎士たちには恐らく勝てん。なぜなら、連中には武器の性能を数倍に増幅する秘術があるからじゃ」
「あ……"武装完全支配"……」
ユージオの掠れた呟きに、カーディナルはこくりと頷いた。
「神器級の武器は、その基となったリソースの性格を受け継いでおる。お主らが戦ったエルドリエの"星霜鞭"は、東国最大の湖の主であった双頭の白蛇をアドミニストレータが生け捕り、武器に転換したものじゃ。しかし物言わぬ鞭となったあとも、その組成式には、蛇が持っていた素早さ、狙いの正確さといったパラメータが残されておる。完全支配術はその、言わば"武器の記憶"を解放することで、本来有り得ない超攻撃力を実現するのじゃ」
「うええ、マジで蛇かよ!」
俺はうめきながら、エルドリエの鞭に噛み付かれた胸元をさすった。白蛇とやらに遅効性の毒が無かったことを祈りつつ、さらに続くカーディナルの解説に耳を傾ける。
「整合騎士たちは皆、アドミニストレータに与えられた武器の完全支配コマンドを会得しておる。長大なそれを、引っかからずに高速詠唱する訓練も含めてな。流石に詠唱の練習をしておる時間は無いじゃろうが、せめてお主らも、それぞれの剣の完全支配を実現しておかねばとても勝利は覚束ぬぞ」
「いや……でも、俺の黒いやつは、基が生き物じゃなくてただの樹だぜ……? 解放するような記憶なんかあるのか?」
「ある。先ほど渡した短剣も、わしの髪であった頃の記憶を保持しているからこそ、完全支配術と同様のプロセスによって、攻撃が成功した瞬間わしとの間にチャンネルを開くことができるのじゃ。お主の剣の前世であったギガスシダーは勿論、ユージオの青薔薇の剣の基である永久氷塊ですら例外ではない」
「こ……氷、ですか、ただの」
さすがのユージオもぽかんと口を開けた。それはそうだ、氷の記憶、と言われてもそんなもの、"冷たい"くらいしか思いつかない。俺は首を捻りながら、それでも世界に二人しかいない神様の片方が言うことだから、と強引に納得しようとした。
「まあ……あんたが術式を教えてくれるんなら、可能なんだろう、俺たちの剣の完全支配術も。必殺技が出来るのは何より有り難いよ、一体どんな技なんだ?」
しかし、返ってきた言葉はさらに予想外のものだった。
「甘えるでない! 基本となる公式だけは教えてやるが、それを完全な式に組み上げるのはお主たちじゃ。神聖術の文法はすでに二年もかけて学んでおるじゃろう?」
「な……ちょ、そりゃ無いよ! この期に及んでそんな、学院の試験じゃあるまいし……」
「与えられただけの式では、発動はできても使いこなせぬ。式を組む前に、まずその技の明確なイメージが無ければな。馴染んだ愛剣の手触り、質感、その素性に思いを致し、解放されたときのあるべき姿を想像しながら公式にコマンドを当てはめていくのじゃ。ほれ、これが公式じゃ」
もう完全に教師以外の何者でもない態度で、カーディナルはローブの袂から二本のスクロールを取り出した。げんなりしながら受け取り、紐を解くと、ぱらりと捲れた紙の端にびっしりとコマンドが墨書してあるのが見えた。
「よいか、制限時間は三時間じゃ。それまでに式を完成させるんじゃぞ」
「な、何だよ制限時間て!」
これじゃ完全に学科試験じゃないか、と愕然とする俺に、もう耳慣れた例の罵倒が浴びせられた。
「ええいこの阿呆ゥめ、先ほど、もうソルスは完全に昇ったと言うたじゃろうが!」
「そ、それが……?」
「すでに午前八時になんなんとしておる。ちなみにお主らが教会の地下牢に叩き込まれ、剣が没収されたのが、昨日の午後一時頃じゃ。このまま二十四時間が経過してしまうと、所有権が失われ、剣に対してコマンドを行使することができなくなるぞ。わかったらとっとと公式を頭に叩き込むのじゃ!」
カーディナルがステッキでかん! と床を突くと、俺たちがいる回廊の踊り場に、湧き上がるように丸いテーブルと椅子三脚が出現した。その上に乗っているお茶のポットと軽食の皿を見て、ユージオが実に複雑な顔をしたが、最早無駄口を叩いている時間はなさそうだったので、俺たちは同時に椅子に腰掛けると難解なコマンドが羅列されたスクロールに顔を埋めた。
百八十分という、現実世界ではちょっと覚えがないほど長尺の試験時間も、まっさらの紙に必死でペンを走らせるうちにあっという間に過ぎていった。
もともと、アンダーワールドにおける"魔法"である神聖術は、ファンタジーもののゲームや漫画によくある奇怪なカタカナの羅列ではなく、コンピュータ上の公用語、すなわち英語で記述されている。その構文も、命令語とその対象の指定が連続するシンプルなもので、どれほど高位の術になろうともその基本は変わらない。
ゆえに俺は、学院で教えられる神聖術にはあまり苦労することもなく馴染むことが出来た。カーディナルに与えられた課題は、さすがにこれまでで最も難物であると言えたが、武器の記憶の解放、という術のイメージさえ出来てしまえばあとは公式どおりに命令と対象を当て嵌めていくだけである。右手のペンは半ば自動的に動き、スクロール上に新たな神聖術が生まれていくさなか、俺の頭の片隅でいつまでもこだまして去らなかったのは、先刻カーディナルが口にした"リソースの記憶"という言葉だった。
カーディナルの言によれば、俺が二年間寝食をともにした黒い剣は、その構造式の内部に巨大樹ギガスシダーだったころの特性を留めているという。これは、アミュスフィアベースの一般VRMMOゲームではもちろん有り得ないことだ。
それらのゲームにおいて、例えば一本の剣を記述する情報は、その殆どが外見、つまり大きさ、形、色、傷の有無などで占められる。それに攻撃力や耐久力といったパラメータが加えられ、ゲームエンジンがポリゴンの剣を生成するのだ。そのプロセスは、根本的には、ナーヴギア以前のPCベースのゲームと何ら変わるところがない。
しかしこのアンダーワールドでは、全てが大きく異なる。
端的に言ってしまえば、存在するありとあらゆるオブジェクトは、ポリゴンではなく純粋なる"記憶の塊"なのだ。一本の剣の外見、重さ、手触りが、人間のフラクトライト中でどのような量子状態として記銘されるかを解析し、俺にはSTLが、ユージオたちにはライトキューブI/Oシステムが、それぞれ直接その情報を魂に送り込んでくるのである。ラースの技術者たちはその仕組みを、記憶的視覚、という意味を込めて"ニーモニック・ビジュアル"と呼んだ。
言い換えると、今のこの瞬間を含む世界の全てが、ある種の"思い出"で構成されているということになる。例えれば、目を閉じ、小さな子供の頃夏休みを過ごした田舎の祖父母の家を可能な限り脳裏に思い描き、瞼を開ければ周囲にその場景が現実として存在する――そんな感じだろうか。
つまり、アンダーワールドにおけるオブジェクト生成には、コンピュータ的デジタル・プロセスでは説明し切れない部分が確実に存在するのである。これまで俺は成功するまでには至っていないが、おそらく、あるオブジェクトを握り締め、STLからの入力を上書きするほどに深く強いイマジネーションを注ぎ込めば、そのモノを自在に変形させることすらも可能なのではないだろうか? ――勿論、達成できたとして、その変形を認知できるのは俺一人なのだが。
そのようなアナログ・プロセスがもたらす必然として、例えば俺の黒い剣には、それがかつて人々の記憶の中でどのような存在だったか――という情報が連続的に保持されているのだろう。"リソースの記憶"とは、そういう意味と解釈して間違いあるまい。
しかし俺は、カーディナルがその言葉を口にした時から、更なる疑問に取り付かれていた。
記憶を引き継ぐのは、果たしてこの世界の動的オブジェクト、すなわち剣や指輪や植物といった変遷するものだけなのだろうか? もっと静的な――例えば建物だの、道路、川などといった地形ですらも、かつてそこに暮らし、歩き、遊んだ人間の記憶のかけらのようなものを宿しているということはないのだろうか――?
そう考えなければ、説明できないことが一つだけあるのだ。
二年半前、この世界に放り出されたとき、ルーリッド村ちかくの小川のほとりの小道に辿り着いた俺は、あまりにも鮮明な幻を見た。夕陽を背に受けて、亜麻色の髪の少年、金髪の少女、そして短い黒髪の少年の三人が連れ立って川縁を歩いていく、言葉にできないほど郷愁的な光景を。
あれは決して、ダイブに伴う記憶の混乱だの幻覚だのではない。なぜなら、長い時間が経ったあとも、俺は鮮やかに脳裡に再生できるのだから。そのうえ、俺はあの少年の一人がユージオ、そしてもう一人が俺自身であると思えて仕方ないのだ。
もし――もしも、あの幻が、川岸の小道そのものに滲み込んだ過去の記憶だったとして――それによって連鎖的に、俺自身の記憶が引き出されたのだとすれば。
つまり俺は、子供の頃、長い長い時間をルーリッドの村でユージオと共に過ごしたのだ、ということになる――。
コン! と硬質な音が自分の手許から聞こえ、俺はハッと顔を上げた。
右手のペンを見ると、今まさに書き終えた最後の一行の右端に小さなピリオドを打ちつけたところだった。術式の最終ブロックは、発動した完全支配術の停止を命じるための定型的コマンドだったため、半ば自動的に記述していたらしい。
「三分前じゃぞ。ぎりぎりだが……出来上がったようじゃな」
背後からカーディナルの声がして、伸びてきた手がさっと書きあがったばかりのスクロールを回収していった。向かいを見れば、ユージオは俺より早くコマンドを完成させたようで、疲れ果てた表情でお茶だけ啜っている。
カーディナルはテーブルの周りをゆっくり歩きながら、二枚のスクロールに目を通し、そしてどちらに対してかは知らないが呆れ返った表情で首を振った。
「何ともはや……無茶苦茶ではあるが……これなら発動はするじゃろう。使いこなせるのかは知らんがな。どちらにせよ今から書き直している時間はない。あとは、剣を回収するまでに、なるべくコマンドを暗記するのじゃぞ」
それぞれのスクロールを丸めるとひょいっと投げて寄越し、カーディナルはかつんとステッキで床を突いた。
「さて……そろそろ、別れの時じゃ」
そう告げた声は毅然としていたが、口もとはこれまでにないほど優しく微笑んでいて、俺は思わず聞き返していた。
「おいおい……俺たちが目的を果たしたら、あんたはここから出てこられるんだろう? 別れだなんて大袈裟な……」
「ふむ、そうじゃな。全てが思うように進めばな……」
「…………」
確かに、アドミニストレータを目指す戦いの最中で俺たちが整合騎士の剣に斃れれば、俺は現実世界に放り出され、ユージオのフラクトライトは消去されてしまうことになる。ログアウト後もここでの俺の記憶が保持されるかどうかは不明だが、恐らく超高倍率のSTRA機能下で動いているはずのアンダーワールドに、再び戻ろうとしてもその時には全てが終わっているに違いない。
しかし、そのような、想定するのも無意味なほどに悲劇的な結末を指しているにしては、カーディナルの笑みは穏やかに透き通っていて、俺は胸を締め付けられるような感情を覚えた。それは何かの予感なのか、と思ったが、深く考えるよりも早く、カーディナルは身を翻して歩き始めた。
「さ、時間がないぞ。ついてくるのじゃ……武器庫最寄のバックドアにお主らを転送してやろう」
歴史書の回廊から、一階のホールを経て、無数の通路が放射状に伸びるエントランスルームまでの通路は残念なほどに短かった。
書き上げたばかりのスクロールに懸命に目を通すユージオの隣で、俺はただひたすら、前を歩くカーディナルの後ろ姿を見つめていた。
この少女もまた間違いなく、人工フラクトライトのなかにあってはユージオや、そしておそらくアリスとも並んで突出した特異な存在なのだ。それなのに、俺はたった三時間会話を交わしただけでもう別れようとしている。
もっと話をしたい――そして彼女が二百年に渡る生のなかで感じたこと、考えたことをもっと知りたい、そうしなければいけないのだ、という焦りのようなものが俺の胸を締め付けるが、カーディナルの足取りはいかなる躊躇をも許さないほどにしっかりとしていて、俺は言葉を発することができなかった。
見覚えのある、三方の壁にたくさんの通路が並ぶ部屋に俺たちを導いたカーディナルは、そのまま振り向くこともなく右手の壁にあるひとつの中に歩を進めた。さらに十数メルほど歩き、簡素な木製ドアが一つだけ嵌め込まれている突き当りの壁近くにまで至ったところで、ようやくくるりと振り向く。
唇に浮かぶ微笑みは、かわらず穏やかなものだった。ある種の満足感さえ漂うように思えるその口元が動き、澄んだ声が流れた。
「ユージオ……そしてキリトよ。世界の命運は、ただお主らの手にかかっておる。地獄の業火に包まれるか……全き虚無に沈むか、あるいは」
じっと俺の瞳を見詰め、カーディナルは続く一言を口にした。
「第三の道を見出すか……。わしは最早、告げるべき全てを告げ、与えるべき全てを与えた。あとはただ、お主らがその目と耳、そして心で感じたことに従って選べばよい」
「……ありがとうございます、カーディナルさん。きっと、最高司祭アドミニストレータを倒して……アリスを元に戻してみせます」
決意の滲む声で、ユージオがきっぱりと言った。
俺も何かを言わなければならないと思ったが、今口から出る言葉はこの先に進むことを躊躇うようなものだけになってしまうような気がして、ただ一度大きく頷くにとどめた。
カーディナルも頷き、ローブから伸ばした右手をドアノブに掛けた。
「では……行くのじゃ!」
カチャリ、とかすかな音とともに鍵が外れ、次の瞬間ドアは大きく開け放たれた。途端吹き込んでくる、凍るような冷気に抗って、俺とユージオは並んだまま一気に外に飛び出した。
そのまま五、六歩駆けたところで、背後で再び小さな音がした。肩越しに振り向くと、滑らかな大理石の壁が白く伸びるのみで、最早ドアはその痕跡すら残さず消え去っていた。