カーディナルシステムが強力なエラー訂正機能を備えていることは、俺は他の誰よりもよく知っているはずだった。なぜなら、SAO攻略中に俺とアスナの"娘"となったAI・ユイはもともとカーディナルの下位プログラムであり、異物と認識したユイを容赦なく消去せんとするカーディナルから娘を守るために、俺は大変な努力を必要としたからだ。
具体的には、システム・コンソールからSAOプログラム空間にアクセスし、ユイを構成するファイルを検索、圧縮してオブジェクト属性を与えただけのことなのだが、カーディナルが俺の不正アクセスを検知してコンソールから遮断するまでの数十秒でそれを行い得たのはまさに奇跡だろう。あの時、ホロキーボード一枚をあいだに挟んで俺と対峙した巨大な気配こそがまさにカーディナルのエラー訂正プロセス、つまり今俺の眼前に座する可憐な少女なのだ。
そんな俺の複雑な感慨を知ってか知らずか、カーディナルは物分りの悪い子供に対するように軽く溜息をつきながら言った。
「ようやく気付いたようじゃな。――クィネラが己の魂に刻み込んでしまった基本行動原理は、ひとつではなかったのじゃ。メインプロセスに与えられた命令、"世界を維持せよ"。そしてサブプロセスに与えられた命令……"メインプロセスの過ちを正せ"」
「過ちを……正す?」
「意識なきプログラムであった頃、わしはただメインプロセスが生み出すデータを検証し続けるだけの存在じゃった。しかし……言わば、クィネラの影の意識として人格を得てからは、冗長符号の助けなどなしに自分自身の行為を判断せねばならなかった。ほれ……お主らが言うところの、"多重人格"のようなものじゃ」
「現実世界では、多重人格はフィクションの中にしか存在しない、っていう意見もあるみたいだけどな」
「ほう、そうか。しかしわしにとっては実に得心のいく話じゃぞ。クィネラの支配欲がわずかに緩む瞬間のみ、わしは意識の表面に浮上できた。そして思った。このクィネラ……いやアドミニストレータという女は、何という大きな過ちを犯しているのだろう、とな」
「過ち……なのか……?」
俺は思わずそう聞き返した。世界の維持がカーディナルのメインプロセスの基本原理ならば、たとえどのような過激な手段を採ろうとも、クィネラのしてきたことはその原理に完全に合致するものだと思えたからだ。
しかし、俺の視線をまっすぐに受け止めたカーディナルは、厳かな声音で答えた。
「ならば問うぞ。かつて別の世界でお主の知っていたカーディナルシステムは、ただの一度でも、自らの手で直接プレイヤーを害したか?」
「い……いや、それは無かった。確かに、プレイヤーの究極の敵ではあったが……理不尽な直接攻撃は無かったよ、すまない」
思わず謝罪する。カーディナルはふん、と短く息を吐くと続けて言った。
「じゃが、奴はそれを行ったのじゃ。己の定めた禁忌目録に対して疑いを抱いたり、反抗的な言辞を用いる人間に、奴はある意味では殺すよりも残酷な刑罰を科した……この話は後で詳しく話すがな。ごくまれに眠りから醒めたわし、つまり二つ目の行動原理が主となったアドミニストレータは、自分という存在自体が巨大なエラーであると判断し、それを消去しようと試みた。具体的には、塔の最上階から飛び降りようとしたこと三回、ナイフで心臓を突こうとしたこと二回、神聖術で自らを焼こうとしたこと二回じゃ。ワンアクションで天命がゼロになれば、さしものアドミニストレータも魂の消滅を免れることはできんからな」
可愛らしい少女の口から流れ出た壮絶な言葉に、俺は絶句した。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、冷静な口調で先を続けた。
「最後の一回は本当に惜しかったのじゃ。全術式中で最大級の攻撃力を持つ神聖術を我が身に放ち、降り注いだ轟雷によってさしものアドミニストレータの膨大な天命も、残りわずか一雫まで減少せしめられた。じゃがそこで主プロセスに体のコントロールを奪われてな……。そうなってしまえば、いかな傷も致命傷とはならん。完全回復の術であっというまに元通りじゃ。しかもその一件で、さしものアドミニストレータもわし、つまり潜在意識化の副プロセスを本格的に危険視しよった。わしが支配権に割り込みをかけられるのは、フラクトライトの論理回路に多少のコンフリクトが発生したとき……平たく言えば精神的動揺があったときだけだと気付いた奴は、とんでもない手段でわしを封じ込めにかかったのじゃ」
「とんでもない……?」
「うむ。元は……生れ落ちてからステイシアの巫女に選ばれるまでの十年は、アドミニストレータと言えども平凡な人の子じゃった。花を見れば美しいと思い、歌を聴けば楽しいと思う、そのくらいの情緒は備えておったのじゃ。その頃に発達した情動機能は、半人半神の絶対者となってからも魂の基部に残っており……様々な突発的事象に遭遇したとき、自分をわずかにでも動揺させるのはその情動が原因だと、奴は判断した。そこで奴は、ライトキューブ中のフラクトライトを直接操作する管理者専用コマンドを駆使し、自らの情緒を司る回路を封鎖してしまったのじゃ」
「な……回路を封鎖って、そりゃつまり、魂の一部を破壊する、ってことか?」
ぞっとしながら訊き返すと、カーディナルも厭わしげな表情でこくりと頷いた。
「し、しかしだな、そんな大それた事……さっきの、フラクトライトをコピーするって話以上に危険な行為に聞こえるんだが」
「無論、おのれの魂をいきなり処置したわけではない。そういう所は嫌になるほど慎重なのがアドミニストレータという女よ。――この世界の人間には、ステイシアの窓……つまりステータス・ウィンドウには表示されない様々な不可視パラメータが設定されていることにはもう気付いておるか?」
「ああ、まあぼんやりとだが……。筋力とか敏捷性とか、外見とうらはらなことが結構あったからな」
「うむ。その中に、"違反指数"というパラメータが存在する。これは、その人間が、法や規則をどれほど遵守しておるか、発言や行動を分析して数値化したものじゃ。おそらくは外部の人間たちが、モニタリングを容易にするために設定したのじゃろうが……。アドミニストレータは、この違反指数パラメータが、自分の定めた禁忌目録に懐疑的な人間を選び出すのに利用できることを早々に気付いておった。そのような人間は、奴にとっては、無菌の部屋に入り込んだバクテリアのようなものじゃ。早急に駆除せねばならん……しかし、いかに禁忌目録には縛られていないとは言え、奴にも幼少の頃に刷り込まれた殺人禁止の掟だけは破れぬ。そこでアドミニストレータは、殺しはせぬがいたって無害な存在に変化させるべく、彼らに恐るべき処置を行ったのじゃ……」
「それが……さっきあんたが言っていた、殺すよりも残酷な刑罰、って奴か?」
「如何にも。奴は、フラクトライトなるものを知り、それを操作する術を学ぶための実験台に、違反指数の高い人間たちを供したのじゃ。ライトキューブのどこにどのような情報が格納されており……どこを弄れば記憶を失い、感情を失い、思考を失うか、という……現実の人間たちですら躊躇した、冷酷なる人体実験じゃ」
最後はささやきのように細められたカーディナルの言葉を訊いて、俺は思わず考えた。はたして、あの菊岡が、彼らにとっては所詮メディア中の情報にすぎない人工フラクトライトを切り刻むことをためらうだろうか? 自衛官の菊岡が目指しているのが、STL技術の完成ではなく、真正のボトムアップ型人工知能の開発であるなら、その目的は一つしかない。無人兵器に搭載し、人間の代わりに戦争をさせることだ。人工フラクトライトに現実の殺し合いをさせようという者が、今更フラクトライト達の権利や人格を考慮するとは考えにくいが……。
黙り込んだ俺を一瞬訝しげに見てから、カーディナルは咳払いして先を続けた。
「初期の実験に用いられた人間のほとんどは、人格そのものを喪失し、単に呼吸するだけの存在と成り果てた。アドミニストレータは彼らの肉体と天命を凍結し、塔の深部に貯蔵していった。そのような犠牲の果てに、奴のフラクトライト操作技術は向上していったのじゃ。――わしを封じ込めるために、己の感情を捨て去ろうと考えたときも、奴は塔に連行した人間たちで充分な試行を繰り返してから自らの処置を行った。結果……アドミニストレータは人間らしい情緒をほぼ完全に捨て去り、どのような事態に遭遇しようとも一切動揺というものをしなくなった。まさに神……いや、まさに機械よの。世界を維持し、安定させ、停滞させるためだけに存在する意識……。それが、アドミニストレータ百歳の頃のことじゃ。以来、わしは奴の奥底に封じ込められ、表に出ることは一切叶わなくなった。奴のフラクトライトに寿命がきて、魂の乗っ取りを画策し実行した、その瞬間までな」
「しかし……その話を聞く限りだと、家具屋の娘さんを乗っ取ったアドミニストレータの魂は単なるコピーなんだろう? つまり、感情が存在しないわけで……なぜあんたが、そうやって表に出てこられたんだ?」
俺の問いに、カーディナルは視線をどこか遠くに彷徨わせ、しばし沈黙した。おそらくは、二百年という気の遠くなるような時間の果てを覗き込んでいるのだろう。
やがて、俺のほうを見ないまま、小さな唇からごくごくかすかな声が流れ出した。
「あの瞬間の……奇怪かつ戦慄すべき体験を上手く表す言葉は、わしの語彙には存在せん……。家具屋の娘を塔最上階に連れてこさせ、アドミニストレータは、またしても多くの実験ののちに完成させた"シンセサイズの秘儀"によって魂の上書きコピーを試みた。そしてそれは問題なく成功した。娘に宿ったのは、無駄な記憶を消去し、圧縮したとは言えアドミニストレータ、いやクィネラの人格そのものじゃった。当初の予定では、成功を確認したあと、もとの寿命に達したほうのクィネラは自ら魂を消去するはずじゃった……しかし……」
年若い少女らしく、赤い艶を宿していたカーディナルの頬がいつのまにか紙のように色を失っていることに俺は気付いた。自ら情緒を持たないと断言した彼女が、深い恐怖を感じていることは明らかだと思えた。
「……しかし、術式が終了し……至近距離で互いが目を開けた瞬間……わしらをある種の形容しがたい衝撃が襲ったのじゃ。それはつまり……まったく同一の人間が二人いる、という本来有り得ない事態への畏れ……と言えば近いじゃろうか。わし……いや、わし達は互いに見つめ合い、直後、圧倒的な敵意と危機感のようなものを意識した。どうしても、目の前の魂に存在を許してはならない、と言うような……。それは、単なる感情を越えた本能……いや、知性なるものの深奥に刻まれた第一原則のようなものかもしれん。その凄まじい嫌悪感は、感情を封鎖したはずのクィネラのフラクトライトを嵐のように揺さぶった。もしあのままの状態が続けば、おそらく二つの魂は跡形もなく消滅していたじゃろうな。しかし……残念ながら、と言うべきか、そうはならなかった。家具屋の娘にコピーされたほうのフラクトライトが一瞬早く崩壊の閾値を超え、その刹那、副人格たるわしが表に出現したまま固定されてしまったからじゃ。我々は互いを、もとのクィネラの肉体に宿るアドミニストレータ、家具屋の娘の肉体に宿るカーディナル・サブプロセスとして己と異なる存在と認識し、同時に魂の崩壊は停まり、安定した」
魂の崩壊。
カーディナルが口にしたその言葉は、俺に否応なく、二日前の夕刻に目にしたあるシーンを思い起こさせた。
ユージオが振るった青薔薇の剣によって片腕を切り飛ばされたライオス・アンティノスが、死という名の魔獣のあぎとにがっちりと咥え込まれ、しかしそれを現実として受け入れることができずに――と俺には見えた――奇怪な絶叫を上げながら意識を喪失した、戦慄すべき一幕。
あの時点では、まだライオスの天命そのものは尽きていなかったはずだ。彼が貴族仲間のウンベールに対して使用した"天命授受"の術式が継続中であり、ウンベールも盛大に悲鳴を上げていたからだ。
しかし、ライオスは天命の消滅を待たずして死んだ。いや、死んだというよりも、魂が崩壊したという表現のほうが相応しいだろう。彼の、あの壊れたPCMファイルのような叫び声があまりにも異様で、思わず俺はドアの手前で棒立ちになってしまったほどだ。
おそらく、ライオスの論理回路は、禁忌目録に真っ向から違反するユージオの一撃により致命傷を受け、自らが死に至るという本来有り得ない事態を処理することができなかったのだろう。あたかも、チートコードによって異常な数値を与えられたゲームプログラムがハングアップしてしまうかのように。
自分自身のコピーと向き合ったアドミニストレータを襲った現象というのも、基本的には同じことだろう。己と同じ記憶、同じ思考を持つ知性がもう一つ存在する、というのは、想像も覚束ないほどの恐怖だ。この世界に訳もわからず放り出されてからの数日間、俺は、もしかしたら今の自分はキリト――桐ヶ谷和人からコピーされたフラクトライトなのではないかという可能性に甚だしく怯えさせられた。シルカを相手に、やや怪しからぬ禁忌目録違反を難なく行い得ることを確認するまでは、その畏れは常に俺の背中にまとわりつき続けた。
もし、肉体の感覚が無い闇のなかにただ放り出されて、不意に耳慣れた自分の声が、自分の口調でこう喋るのを聞いたとしたら――。『お前は俺の複製だ。キー一つで消去されてしまう、単なる実験用コピーだ』と。その瞬間味わうだろう衝撃、混乱、そして恐怖は想像もつかない。
少ないデータから推測するに、ライトキューブ中の人工フラクトライト達は、何らかの構造的要因によってそのようなショックに耐えることができないのだ。そしてそれが、菊岡たちラースが既存の人間の魂をコピーするという至ってシンプルな手段を採らずに、アンダーワールドという大掛かりな仮想世界を用意してまで真正人工知能を創ろうとする理由なのだ。
確かに、この世界の人間たちは知性としては完全にユニークだ。自らのコピーと直面して崩壊してしまうという危険はない。しかし、それでもまだ菊岡の求める性能には達していないのだろう。なぜなら、おそらくはショックに対する脆弱性と同じ要因によって、彼らは与えられた規則に盲従することしかできないからだ。僅かに、ユージオと、そしてアリスという例外を除いて……。
「どうじゃ、ここまでは理解できたか?」
俯き、オーバーヒートしそうなほどに頭を働かせる俺に向かって、カーディナルの老教師然とした言葉が投げ掛けられた。顔を上げて、唸りながら頷く。
「ああ……まあ、何とか……」
「ようやく本題に入りつつあるところじゃ、このくらいで音を上げてもらっては困るぞ」
「本題……、そうか、そうだったな。あんたが、俺に一体何をさせようってのか、それをまだ聞いてない」
「うむ。お主にそれを伝えるためだけに、わしはあの日より二百年間、この陰気な場所に篭りつづけてきたのじゃからな……。さて、わしがアドミニストレータと分裂したところまで話したんじゃったな」
カーディナルは、空になったティーカップを両手でもてあそびながら言った。
「――あの日、わしはついに己自身の肉体と思考の主として目覚め……いや、正しくはこの体は、哀れな職人の娘のものなのじゃがな……、彼女の人格は、ライトキューブに上書きされた瞬間に完全に消滅してしまった……。そのような無慈悲な術式と、予想外の事故の結果誕生したこのわしは、すぐ目の前のアドミニストレータめを約〇.三秒ほど目視してから、即座に取るべき行動を取った。つまり、最高レベルの神聖術によって、奴を滅殺せんと試みたのじゃ。あの時点ではわしはアドミニストレータの完全なるコピー……、つまりまったく等しいシステムアクセス権限を持っておったでな。こちらが先に攻撃を開始できれば、例え同クラスの術式の撃ち合いになったとしても、やがては彼奴めの天命を削りきれるという読みじゃった。そしてその後の展開は、わしの予測通りとなった。セントラル・カセドラル最上階を舞台に、轟雷と旋風、猛炎と氷刃のせめぎ合う死闘が三日三晩繰り広げられ、減少と回復を繰り返しながらも、わしらの天命は徐々に、徐々に減少していった。そのペースはまったく互角……つまり、第一撃を浴びせたわしが最終的には勝利するはずじゃった」
俺は、その神と神の闘争を想像して僅かに身震いした。まさかとは思うが、この話の最後にカーディナルから与えられるであろう"クエスト"が、アドミニストレータを倒せ! という物だった場合、どう考えてもレベルと装備と習得呪文が絶望的に足りない。
なんとかその展開を回避したい俺は、思わずカーディナルの話に横槍を入れた。
「ちょっと待ってくれ。さっき、アドミニストレータでも殺人はできない、って言ったよな。なら、それはコピーであるあんた、カーディナルも同じはずだ。なのになんで殺し合いなんて出来たんだ?」
いい所で話を遮られたカーディナルは、やや不満そうに唇を尖らせながらも、こくりとひとつ頷いた。
「む……それはいい質問じゃ。確かにお主の言うとおり、禁忌目録に縛られぬアドミニストレータと言えども、幼きクィネラだったころに親、つまり上位存在に与えられた殺人禁止の原則は破れぬ。この、我ら人工フラクトライトが一切の命令に背けないという現象の根本的原因は、わしの長年に渡る思索によっても解明し得なかったが……しかし、この現象は、お主が思うておるほど絶対的なものではないのじゃ」
「……と言うと……?」
「例えばじゃな……」
カーディナルは、カップを持った右手をテーブルの上空まで移動させた。しかし何故か、ソーサーの上ではなく、その右側の何もない場所にカップを下ろそうとし――底がテーブルクロスに触れる寸前で、腕をぴたりと静止させた。
「わしは、これ以上カップを下ろすことができん」
「はぁ?」
唖然とする俺に向かって、カーディナルは渋面を作りながら続けて言った。
「何故なら、幼少の頃母親――無論クィネラのじゃが――に躾られた、ティーカップはソーサーの上に置くべし、という益体も無い規則がいまだ生きているからじゃ。重大な禁忌は殺人の禁止のみだが、それ以外にもこのような下らん禁止事項が計十七件も存在しておる。わしはどうしてもこれ以上腕を下げることができんし、無理矢理に力を込めると、忌々しい激痛が頭部に出現する」
「……へえ……」
「これでも、一般民に比べれば大きな差があるのじゃ。彼らなら、そもそもカップをテーブルの上に置こうという発想すら出てこないからな。つまり、己があまたの禁忌に強制的に縛られておることすら自覚出来んわけじゃ。その方が幸せというものじゃがな……」
己を完全なる被造者として認識しているのだろうカーディナルは、あどけない少女には似つかわしくない自嘲の笑みを口もとに滲ませながら、すっと腕を水平に戻した。
「さて……、キリトよ。お主、これがティーカップに見えるか?」
「へ?」
間抜けな声を出してから、俺はカーディナルの右手に握られたカップをまじまじと見つめた。
白い陶製、シンプルな曲線を描く側面に、これも飾り気のない持ち手が一つ付いている。縁部分に濃紺のラインが一本入っている以外に、絵の類は無い。
「まあ……ティーカップなんじゃないのか? お茶入ってたし……」
「ふむ。なら、これでどうじゃ」
カーディナルは、左手の人差し指を伸ばすと、カップの縁を軽く叩いた。先ほどと同じように、たちまちカップの底から液体が湧き出し、白い湯気が一筋立ち上る。しかし、今度は匂いが違った。思わず鼻をひくつかせる。この芳しい、濃厚な香りは、どう考えても紅茶のたぐいではなく――コーンクリーム・スープ以外では有り得ない。
首を伸ばした俺に見えるように、カーディナルはカップを少し傾けた。なみなみと注がれているのは、やはり薄黄色のとろりとした液体だった。ご丁寧に、こんがり焦げたクルトンまで浮いている。
「……コーンスープだ。俺にもくれ」
「阿呆ゥ、中身のことを訊いてるのではないわ。この器は何じゃ」
「ええ……? いや……それは」
カップは、さっきまでと何ひとつ変わっていない。しかし、言われてみると、一般的なティーカップにしては少々シンプルすぎ、大きすぎ、厚手すぎたかもしれない。
「あー……スープカップ?」
恐る恐る答えると、カーディナルはにんまりと笑いながら頷いた。
「うむ。これは、今はもうスープカップじゃな。何せスープが入っているからな」
そして、俺を唖然とさせることに、カップをそのまま何のためらいもなくテーブルの上にトン、と置いた。
「なぁ!?」
「見よ。我々人工フラクトライトに与えられた禁忌とは、ある意味ではかくも曖昧なものなのじゃ。対象への認識が変化するだけで、このように容易く覆ってしまう」
「…………」
度肝を抜かれて絶句しつつも、俺の脳裏には、例のライオス崩壊の一幕に続く場面が自動的に再生されていた。あの時、立ち尽くす俺の視線の先で、一人生き残った取り巻きのラッディーノは、ユージオのことを闇の国の怪物と罵りつつ――そう、何のためらいもなく剣を振り下ろしたのだ! 我に返り、部屋に飛び込んだ俺が刃を抑えなければ、あの剣は間違いなくユージオの額に食い込んでいただろう。
つまり――こう言っては何だが、至って平凡かつ没個性的な貴族子弟だったラッディーノは、ユージオを人間ではなく怪物であると認識するだけで、殺人禁止という禁忌目録の最重要条項を飛び越えてみせたということになる。今までさして意識しなかったが、あの悲劇的な一幕の中でもっとも重要かつ示唆的だったのは、もしかしたらあのラッディーノの一撃だったのだろうか……?
「ことによると、な……」
テーブルの上で両手を組み合わせ、カーディナルは密やかな声で呟いた。
「規則盲従という人工フラクトライトの構造的特性は、本来はここまで不可抗的なものではないのかもしれぬぞ……。まるで……何者かが、かくあることを望んだ、とでも言うかのような……」
「何者か……って……」
アンダーワールドに暮らす人工フラクトライトたちの脆弱性が、人為的に与えられたものだ――と、このカーディナルという名を持つ少女は言っているのだろうか?
しかし、この世界の全てを設計し、建造し、運営しているのは菊岡誠二郎率いる秘密組織ラースであり、彼ら以外にそのような重大な調整を行い得るものは存在しないはずだ。そして同時に、そんなことは有り得ない。なぜなら菊岡たちは、まさにその脆弱性を解決するべくアンダーワールドを動かし続けているのだから。
「……有り得ないよ」
思わずそう口に出した俺の顔をちらりと見て、カーディナルは軽く首を振った。
「よい、気にするな。お主が開発陣の一員ではなく、単なるデータサンプリング・モニターの類であるのは既にわしにも見当がついておる。――じゃろう?」
本当はモニターどころかそれ以下の知識しか持ち合わせていないのだが、俺は首を縦に振った。
「……まあ、大体合ってるな。はっきり言って、俺からは外側に連絡もできない状況だ」
「ほう。それがお主の望みか?」
「で、できるのか、本当は!?」
思わず身を乗り出した俺を、カーディナルは鼻息ひとつで下がらせた。
「ふん、不可能じゃとさっき言うたではないか。――ただし、多少のギブ・アンド・テイクなら可能じゃ。わしがカーディナルとしての全権を取り戻せたら、お主のために外部と回線を開いてやろう」
「……なんか、話がヤバい方へ向かってる気がするんだよなぁ……」
「いい勘をしているな。――えい、また話が脱線してしまったではないか。わしがアドミニストレータめと戦ったところじゃったな」
椅子の背もたれを軽く鳴らし、カーディナルはティーカップ改めスープカップを持ち上げると、上品に一口啜った。
「あ、俺にもスープくれよ」
「食い意地の張った奴じゃのう」
呆れたようにかぶりを振りながら、それでもカーディナルは左手を伸ばすと、ぱちんと指を鳴らした。たちまち、俺の目の前にある空のカップに、いい匂いのするクリームイエローの液体が満たされる。
いそいそと両手でカップを包み、クルトンごと大きく含むと、懐かしい濃厚な風味が口中に広がり、俺は思わず目を閉じた。アンダーワールドにも似たような味のスープはあるが、これほどまでに完璧な"ファミリーレストランの味"を堪能するのは実に二年半ぶりだ。おそらくカーディナルは、自らの語彙と同様、現実世界由来のデータベースからこの味覚パラメーターを入手したものと思われた。
俺が目を開けるのを待っていたかのように、カーディナルの話が再開された。
「――先ほど実演してみせたように、我らを縛る禁忌は認識ひとつで覆ってしまうものじゃ。我ら……わしとアドミニストレータは、既に互いを人間であるとは思っておらなんだ。わしにとって奴は、世界を停滞させる壊れたシステムであり、奴にとってわしは消去しきれぬ厄介なウイルス……双方ともに、相手の天命を吹き飛ばすことに一抹の躊躇いもなかったよ。最大級の術式を互いに撃ち合い、いよいよあと二、三撃でわしは彼奴めを抹殺するか――最悪でも相討ちに持ち込めるところまで行ったのじゃ」
当時の口惜しさを思い出しでもしたのか、カーディナルはぎゅっと小さな唇を噛み締めた。
「しかし……しかし、じゃ。最後の最後になって、あの性悪女は、己とわしの間に存在する決定的な差異に思い至りよった」
「決定的差異……? でも、あんたとアドミニストレータは、言わば同位体で……システムアクセス権限も、知っている神聖術も、まったく同じだったんだろう?」
「然り。神聖術で戦っておる間は、先制攻撃に成功したわしが最終的に勝利するのは自明の理じゃった。ゆえに……奴は、神聖術を捨てたのじゃ。ジェネレートし得る最高級の武器を呼び出し、わしらが戦っていた空間を丸ごとシステムコマンド完全禁止アドレスに指定しよった」
「ば……馬鹿な、そんなことをしたら禁止の解除も出来ないじゃないか」
「うむ、その空間から出ない限りな。奴が武器創造のコマンドを詠唱し始めたとき、わしはその意図に気付いた。しかしもう、どうすることもできなかった。一度コマンドが封印されてしまえば、わしにも解除はできぬゆえな……。やむなくわしも武器を呼び出し、奴の攻撃に備えようとした」
カーディナルは言葉を止め、テーブルに立て掛けてあったステッキを持ち上げた。それを突然俺に向かって放り投げてきたので、面くらいながら受け止めようとする。見た目の華奢さから、つい右手だけでキャッチした俺は、その途方も無い重さに危く足の上に落としそうになった。慌てて左手を添え、苦心しながらテーブルの上に着地させる。
ごとりと鈍い音を立てて横たわったステッキは、明らかに青薔薇の剣や黒いのとほぼ同等のプライオリティを持つオブジェクトらしかった。
「なるほど……神聖術だけじゃなく、武器装備権限も神様級って訳だな」
手首をさすりながらそう言うと、カーディナルは当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「アドミニストレータは、記憶や思考だけではなくユニットとしてのステータスも全てコピーしたからな。彼奴が呼び出した剣と、わしが呼び出したそのステッキも性能はまったく互角。例え神聖術を捨て、物理戦闘を行う破目になったとしても、最終的に勝利するのはこちらだとわしは考え……ステッキを構えてから、ようやくわしはアドミニストレータの真に意図したところ、つまりあの時点におけるわしと奴の決定的な差異に思い至った……」
「だから、何なんだよその差異って」
「単純な話じゃ。見よ、この肉体を」
カーディナルは右手で分厚いローブの前をはだけると、白いブラウスとニッカーボッカーのような黒のズボン、白のハイソックスをまとった自分の体を露わにした。老賢者のような人格にはいかにも似合わない、華奢で小柄な少女の姿だ。
俺は戸惑い、思わず目を逸らしながら訊ねた。
「その体が……一体……?」
ばさりとローブを戻し、カーディナルは苛立たしそうに唸った。
「ええい、察しの悪い奴じゃ。お主がいきなりこの肉体に放り込まれたと想像してみい。目線の高さも腕の長さもまったく違うのじゃぞ。それで、剣を振るい戦えるか?」
「……あ……」
「わしはそれまで、アドミニストレータの……つまりクィネラの、女としては相当に背の高い体に入っておったのじゃ。空中を移動しながら術を撃っておる間は特に意識しなかったが……ステッキを構え、敵の攻撃に備えようとした瞬間の圧倒的な違和感に、わしは己が絶対的窮地に追い込まれたことを知った」
なるほど、言われてみれば得心の行く話だ。それはまさしく、現実世界の数多のVRMMOプレイヤーが、容姿こそ好き放題にカスタマイズすれども基本的な体格だけは現実と同じサイズを維持せざるを得ない理由そのものである。ALOには頑張って小妖精や巨人型VR体を使用しているプレイヤーも居るが、おしなべて現実の体とのギャップに常に苦しめられている。
「あの瞬間の、彼奴めの勝ち誇った哄笑は今でも耳に残っておる。右手の剣を振りかざし、わしをはるか上空から見下ろしてな……。二、三回武器を打ち合わせただけで、わしには己の敗北が決定的なものとなったことを悟った……」
「そ、それで……どうしたんだ?」
こうして会話をしている以上、何とかして切り抜けたには違いないのだが、それでも思わず固唾を飲む。
「じゃが、奴にもたった一つだけミスがあった。システムコマンドを禁止する前に、部屋の出口を封じておけば、わしは為す術なく殺されておったろうからな。人間的な感情を持たぬわしは――」
そう話すカーディナルの顔は、相当に口惜しそうであるのも事実だったが。
「――即座に撤退せねばならないと判断し、脱兎のごとくドアに向かって走った。後ろで奇声を上げながら振り回されるアドミニストレータの剣が背中をかすめるたびに天命が減少してな……」
「そ、そりゃあ……怖いな……」
「お主も一度味わってみい。二年半ものあいだ、色々な女相手に鼻の下を伸ばしよって」
「な……い、言いがかりだ」
思わぬ攻撃に泡を食ってから、ん? と眉をしかめる。
「ちょっと待った。二年半て……あんた、まさかずっと俺を見てたわけじゃ……」
「無論見ておった。二百年のうちのたった二年半ではあるが、それでも長かったぞ、ことのほかな」
「…………」
愕然とするとはこのことだ。しかし今、アンダーワールドでの俺の行いをいちいち検証している暇はない――と自分に言い聞かせ、無理矢理に思考をブロックする。
「ま、まあそれは置いておこう。……で? どうやってアドミニストレータから逃げたんだ?」
「ふん。――カセドラル最上階の、奴の居室からどうにか飛び出し、わしは神聖術行使権を回復したが、しかし状況は変わらん。術式で逆襲しようにも、奴にすればそのアドレスを再び禁止空間に指定すればいいだけじゃからな。逃走手段が、駆け足から飛行に変わっただけのことじゃ。体勢を立て直すためにも、わしは何としても奴の攻撃の届かぬ場所に逃げ込む必要があると考えた」
「と言ったって……アドミニストレータは、名前どおりこの世界の管理者様なんだろう? 入れない場所なんかあるのか?」
「たしかに彼奴は管理者という名の神だが、それでも真に万能という訳ではない。奴にも自由にならない場所が、この世界には二つ存在するのじゃ」
「二つ……?」
「ひとつは、果ての山脈の向こう……人間たちが闇の国と呼称するダークテリトリー。もうひとつが、この大図書室よ。もともとこの図書室は、自らの記憶力にも限界があることを知ったアドミニストレータが、言わば外部記憶装置として造った場所じゃ。くだんの全神聖術リスト参照コマンドによって作成した、あらゆる術式の一覧と、あらゆるオブジェクトの構造式一覧が収めてある。――それゆえに、ここに自分以外の人間が入ることは絶対に防がねばならないと彼奴は考えた。そこで、アドミニストレータはこの場所を、塔の内部に存在はしても、物理的には接続しておらぬようにしたのじゃ。入れるのはたった一箇所のドアからのみ、しかもそれを呼び出せるのは己しか知れぬコマンドだけ……」
「ははあ……」
俺は改めて、周囲の通路と階段と本棚のひしめく空間を見回した。それを取り巻く円筒形の壁は、ぱっと見は何の変哲もない赤褐色のレンガだが――。
「じゃあ、あの壁の向こうは……」
「何も無い。壁自体破壊不能じゃが、もし壊したとしても、その向こうには虚無が広がるのみじゃろうな」
そこに飛び込んだらどうなるのか――などと益体もないことを考えそうになり、瞬きして頭を切り替える。
「――その、たった一つのドアってのは、さっき俺たちが入ってきたアレか?」
「否、あれは後にわしが造ったものよ。当時は、巨大な両開きの扉だけが、最下層の中央に屹立しておったのじゃ。――アドミニストレータの追跡から一目散に逃げながら、わしはその扉を呼び出す術式を懸命に詠唱した。さしものわしも、二回ほどつっかえたがな。なんとかコマンドを成功させ、通路の先に出現した扉に飛び込むと、わしはそれを閉め施錠した」
「施錠……と言っても、権限は同じなんだし、開錠されちゃうんじゃ……」
「当然な。じゃが幸い、こちら側からは鍵を回すというワンアクションのみじゃったが、向こうからの開錠には長ったらしい術式が必要じゃった。向こう側で、扉を殴り、引っ掻きながら、金切り声で開錠コマンドを詠唱するアドミニストレータと競争するように、わしは新たな術式を開始した。がっちん、と鍵が回るのと、術が成功するのはほぼ同時じゃったよ」
二百年前の話とわかっていながら、反射的に前腕の肌が粟立つ。そこをさすりつつ俺は訊いた。
「その術ってのは……一体……?」
「知れたことよ。唯一の通路たる扉そのものを消去したのじゃ。それによって、この図書室とセントラル・カセドラル……いやアンダーワールドは、完全に切断された。空間座標が指定できれば外部から新たな通路を開くことも出来ようが、アドミニストレータの、あえてこの場所に座標を与えないことでセキュリティを完璧にしようとした行為自体が追跡を不可能にしたのじゃ、皮肉にもな。――こうして……わしの、二百年に渡る孤独な思索の日々が始まったのじゃ……」
二百年、と言われても、無論俺には実感のできようはずもない。
俺はSAOを含む現実世界で十七年と半年、そしてこの時間が加速された世界でさらに二年半を生きているが、そのたかだか二十年間ですら既に圧倒的な情報の羅列だと感じている。そう、例えば、小学校低学年のころ毎日遊んでいた友達の名前さえもう思い出せないほどに。古い記憶のほとんどを切り捨て切り捨て、脳味噌のささやかな記録層をどうにかやり繰りしてきたわけだ。
しかし、眼前の少女は、俺の十倍の年月を生きてきたと事も無げに言ってのけた。他に誰ひとり、それこそネズミ一匹居ないこの大図書室で、物言わぬ本の壁に囲まれながら。孤独――などという言葉ではもう表現しきれない、それは絶対的な隔絶だ。俺ならば恐らく耐えられない。五年、それとも十年先かもしれないが、寂しさのあまり泣き喚き、転げ回って、最後には……発狂するか、自ら命を絶ってしまうのではないか。
いや、待て。それ以前に――。
「カーディナル……確かさっき、フラクトライトの寿命は百五十年ほどだ、と言わなかったか? そもそもその時間制限が、クィネラとあんたが分裂した事故のきっかけになったわけだし……。つまり、あんた達の魂は、その時点でもう限界に近づいていたはずだ。いったいどうやって、それから更に二百年もの時間を乗り切ってきたんだ?」
「当然の疑問じゃな」
ゆっくり時間をかけて飲み干したカップをテーブルに戻すと、カーディナルは軽く頷いた。
「わしのフラクトライトは、アドミニストレータの手によってコピーする部分を取捨選択されていたとは言え、無論さらに長期間の記憶を注ぎ足す余裕なぞなかった。そこで、この場所でひとまずの安全を確保したわしは、まず最初に己の魂を整理する作業を行わねばならなかった」
「せ、整理……?」
「そうじゃ。先ほど例えに出した、バックアップのないファイルの一発編集じゃな。もし作業中にミスやアクシデントがあれば、わしの人格は量子的混沌に溶けて消えておったろうよ」
「う、ううむ……。てことは、あんたはこの図書室に幽閉されてからも、ライトキューブ集合体への直接アクセス権を保っているのか? なら、自分じゃなく、アドミニストレータのフラクトライトにアクセスして、記憶を全部吹っ飛ばすなりの攻撃をすることは可能だったんじゃあ……?」
「その逆もまた然り、じゃな。しかし残念ながら――あるいは幸運なことに、この世界では、あらゆる神聖術の行使において、その対象となるユニットあるいはオブジェクトと直接の接触をせねばならんという原則がある。"射程距離"という概念はあるにせよ、な。ゆえにアドミニストレータは、家具職人の娘をわざわざカセドラル最上階に連れて越させねばならなかったし、同じようにお主とユージオを教会まで捕縛連行する必要があったのじゃ」
それを聞いて、一瞬ぞっとする。もし俺たちが無謀な脱獄を試みなければ、審問とやらの場で一体何が行われる手筈となっていたのだろう。
「――つまり、この図書室に自らを隔離したわしは、いかに権限があろうとも己のフラクトライトしか操作できなんだし、同時にまたアドミニストレータに記憶を破壊されることも免れ得たわけじゃな」
俺の畏れを知ってか知らずか、カーディナルは眼鏡の奥で長い睫毛を伏せ、言葉を続けた。
「己の記憶を整理する……というのは、実に戦慄すべき作業じゃった。操作ひとつで、それまで鮮明に想起できた事柄が、跡形もなく消え去ってしまうわけじゃからな。しかし、わしはやらねばならなかった。状況がこうなった以上、アドミニストレータめを抹消するためには、恐ろしく長い時間がかかるであろうことは想像できたからな……。――最終的に、わしは己がクィネラであった頃の記憶すべてと、アドミニストレータとなってからの記憶の九十七パーセントを消去した……」
「な……そ、そんなの、ほとんど全部じゃないか!?」
「そうじゃ。これまでお主に語って聞かせたクィネラの長い長い物語は、実はわしにとっても既に体験ではなく、作業実行前に記録しておいた知識でしかないのじゃ。わしはもう、産み育ててくれた親の顔も思い出せん。毎夜眠りについた子供用ベッドの手触りも、好物だった甘焼きパンの味も……言うたろう、わしは人間的情緒の一切を持たぬと。記憶と感情のほぼ全てを失い……第一原則として焼き込まれた、狂ったメインプロセスを停止せよ、という命令にのみ従って活動するプログラムコード、それがわしという存在じゃ」
「…………」
俯き、かすかな微笑を浮かべるカーディナルのその顔は――言い表せないほどの深い寂しさを湛えているようにしか見えず、俺は思わず彼女の台詞を否定する言葉を探そうとした。しかし、二百年にも及ぶ永劫の孤独を生きてきた少女に対して、何を言っても浅薄な慰めにしかならないようと思えて、俺は口をつぐむことしかできなかった。
顔を上げ、俺をちらりと見ると、カーディナルはもう一度微笑んでから再び喋りはじめた。
「記憶抹消の結果、わしのフラクトライトには充分以上の空き容量ができた。当面、回路崩壊の危機を脱したわしは、惨めな敗走を挽回しアドミニストレータめに逆襲の一撃を見舞うべく、方策を練った。――当初は、再び奴の不意をついて直接戦闘に持ち込むことを考えたよ。外部からこの図書室に通路を開くことはできぬが、先ほどお主も見たように、その逆は可能じゃからな。任意の座標を指定すれば、秘密のドアを設置できるのじゃ。無論、術式の"射程距離"はあるが、セントラル・カセドラルの地面上から中層階までならどこにでも届く。彼奴めも稀には下部まで降りてくるゆえ、そこを狙って襲撃すれば――、とな。この体の"操縦"にも案外すぐに慣れたしな」
「……なるほどな。確実に先制攻撃ができるなら、やってみる価値はありそうだけど……でも、結構なギャンブルだよな? あんたと同じく、向こうも何らかの備えをしててもおかしくないわけだし……」
不意打ちというのは、襲撃の存在それ自体が標的の意識外でなければなかなか成功しない。俺も、SAO時代には何度もオレンジプレイヤーにアンブッシュを仕掛けたり仕掛けられたりしたが、"このあたりで不意打ちがあるかも"と警戒している相手には通用しない場面がほとんどだったと記憶している。
カーディナルもいまいましそうな表情で頷いた。
「クィネラ……いや、アドミニストレータという女は、幼少の頃から有利不利を嗅ぎ分ける天才じゃった。最初の対決中に、わしの体格というハンデを見抜いたのと同じように、次の局面でもまたわしに無く己に有る利を的確に察知し、手を打ったのじゃ」
「利……。しかし、基本的にあんたとアドミニストレータは、攻撃においても防御においてもまったく同じ能力ってわけだろう? あと、頭の出来も」
「その言い方は気に食わんが、然りじゃ」
つんとあごを上げ、唇を曲げながら続ける。
「わしと奴、単体の戦闘能力にほぼ差はあるまい。あくまで、一対一の闘いであれば、じゃがな」
「タイマン? ……ああ、そういうことか」
「そういうことじゃ。わしは寄る辺無き隠遁者じゃが、奴は巨大組織・神聖教会の長……。――順に話すぞ。わしという邪魔者を生み出し、そのうえ死の際まで追い込まれたことで、アドミニストレータは自分のフラクトライトをコピーする行為の危険性を強く認識した。とは言え、溢れ返った百五十年分の記憶のせいで、論理回路が崩壊しそうな状況は変わらん。何らかの処置が必要なのは明らかじゃったが、奴はわしのように、過去の記憶を大胆に処分することには抵抗があった。当然じゃな、あの女にとっては、長年積み重ねてきた支配者としての栄光の歴史こそが最大にして唯一の宝なのだから」
「ううむ……歴史、ねえ……」
青二才もいいところの俺だが、しかし確かに、過去数年間に蓄積したアスナや仲間達との泣いたり笑ったりの日々の記憶を消去するなどということは到底受け入れられない。むしろ、自分の過去をばっさり切り捨てたカーディナルの覚悟のほうこそが端倪すべからざる物なのではないか。
「アドミニストレータは、已む無く折衷案を採ることにした。手をつけても危険性の薄い、ごく最近に蓄積された表層的な記憶のみを消去して最低限の空き容量を確保すると、あとは新たに記録される情報の量を極力削ることにしたのじゃな」
「削る? と言っても、記憶ってのは一日過ぎるごとに否応無く溜まっていくもんだろう?」
「過ごし方による。多くを見、多くを行い、多くを考えれば、それは入力される情報も増加しようが、例えば自室の天蓋つきベッドから一歩も出ず、ひたすら瞑目したまま時をやり過ごせばどうじゃ?」
「うへえ……俺には無理だな。まだ一日中剣を振ってるほうがマシだ」
「お主の落ち着きの無さは今更言われるまでもないわ」
一言もない。カーディナルが、一体何を目的としてかは知らないがこの二年半俺の行動を監視していたというなら、俺が同室のユージオの目を盗んでは深夜ふらふらと出歩いていたことも先刻承知というわけだ。
「――じゃが、アドミニストレータには、退屈だの手持ち無沙汰だのといった子供っぽい感情は有りはせぬ。それが必要とあらば、彼奴は何ヶ月、何年でもひたすら寝台に横たわりつづけたものさ。己が教会を設立し、徐々に支配力を強め、やがて神として君臨するに至る、糖蜜のごとき甘く粘ついた記憶のなかに浸りながらな……」
「……つまりその状態は、アドミニストレータにとっては至福の眠りだった……という訳か。――と言っても、彼女は神聖教会のお頭なんだろう? それなりの職務とか、世界の監視とか、やらなきゃいかんことは有ったんじゃないのか?」
「あったさ、それなりにな。大聖節には央都の民に祝福を授けねばならんし、カセドラル中層に勤務する官吏たちの監督もする必要があった。そのために階段を降りれば、わしの不意打ちがあるかもしれんと警戒しつつもな。そこでアドミニストレータめが考えついたのが、一石二鳥の巧手……己の職務の大部分を代行させ、同時にわしの襲撃に対する護衛の任をもこなす、絶対忠実なる手駒を揃える――という、な」
「それが、あんたになくて彼女にだけある利、というわけか。ひとりぼっちのあんたに対して、教会という大組織を支配してるんだからな……。確かに、無理にタイマンに付き合う必要はないわけだが、しかし……同時に不安要素も増すんじゃないか? 最強の神聖術師であるカーディナルに対抗しうるだけの強力な手下を何人も備えるってことは、もしそいつらが何かのはずみで叛意を抱いたら、アドミニストレータ自身が倒されてしまうかもしれないってことだぜ」
アインクラッドにおいて、強力なプレイヤーを多く集めることに成功した攻略ギルドのリーダーは何人も居たが、部下を長期間束ねられるに足る統率力とカリスマを備えていた者は実はそう多くない。我の強い剣士たちを抑えられなかったり、自身の欲が規律の乱れを招いたりしてリーダーの座を放逐される、あるいはギルドごと分解してしまった例を、俺は随分と見た。ヒースクリフ率いる血盟騎士団と一時期肩を並べていた大ギルド、聖竜連合の瓦解劇などはその典型だ。
話を聞く限り、アドミニストレータという人物はいくら狡知に長け能力に秀でても、配下の敬愛を集められるタイプとは思えなかった。禁忌目録という枷はあっても、その不確実性はさきほどカーディナルが実証してみせたとおりだ。俺はたどたどしくそのような疑義を述べたが、カーディナルは軽く肩をすくめると、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「絶対忠実、そう言うたじゃろう。これは比喩ではないぞ」
「……たしかに、この世界の住人は命令に背かないけど……もし部下が、アドミニストレータを邪悪な闇の国の手先だ、と信じるようなことになったら? あのラッディーノみたいに、躊躇なく殺しに来るかもしれんぜ」
「そのくらいのこと、あの女は最初に考えたじゃろうな。何せ、これまで、違反指数の高い人間を山ほど幽閉しては研究材料にしてきたのじゃ。盲従、必ずしも忠誠ならず……いや、例え部下が心からの忠誠を誓っても、あの女はそんなもの信じやせんじゃろう。何せ、己のコピーにすら裏切られた女じゃからな」
そう呟くと、カーディナルは皮肉げに笑った。
「わしに抗しうるほどのシステム権限と武装を与えるからには、絶対に、何があろうとも裏切らないという保証が必要だ、とあの女は考えた。ならばどうするか――、答えは簡単じゃ。そのように改変すればよい、フラクトライトそのものをな」
「……な、なんだって」
「そのための複雑なコマンド体系は、すでに完成しておった」
「……そうか……"シンセサイズの秘儀"?」
「うむ。そして、素材となるべき高品質のユニットたちもな。彼奴が捕らえ、実験によって自我を破壊してきた高違反指数のものたちは、皆例外なく高い能力を備えておった。むしろ知力体力に秀でておったからこそ、禁忌目録と教会に対して疑いを抱き得た、と言うべきかもしれんが……。初期に捕らえられた者の中には、不世出の剣士と呼ばれながら、教会の支配を嫌って辺境に流れ小さな村を開いた豪傑もおった。彼は、人間界の果ての山脈のさらに彼方をも探検しようとして拉致されたのじゃがな。アドミニストレータは、最初の素体に、凍結してあったその者の肉体を選んだ」
どこかで聞いたような話だ、と感じながらも俺が思い出せないでいるうちに、カーディナルはその先を口にした。
「実験によって、その者の自我は手酷いダメージを受けておったが、むしろアドミニストレータにとっては好都合じゃった。拉致前の記憶など邪魔なだけじゃからな。彼奴めは、綿密に組み上げた"行動原則キー"を……オブジェクトとしては、このくらいの紫色のプリズムに見えるのじゃが……」
カーディナルは、小さな両手で十センほどの隙間を作った。
俺は、脳裏にその物体を想像し、同時にぞわりと全身を総毛立たせた。俺はそいつを見たことがある――それも、つい最近。
「シンセサイズの秘儀とは、そのキーを額の中央からフラクトライトに埋め込む儀式のことじゃ。それにより、本来の魂と、偽の記憶及び行動原則が統合され、新たな人格が完成する。教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を第一原理として焼き込まれ、停滞した世界の維持のみを目的として行動する、人造の超戦士……。アドミニストレータは、儀式が成功し、目覚めたその者を、世界のわずかなる綻びも摘み取り、整合性を保ち、教会のもとに統合する騎士という意味を込め――整合騎士(インテグレータ)と名づけた。その、最初の整合騎士……そやつは、今後恐らくお主とアドミニストレータの間に立ちはだかる最強のガーディアンとなるじゃろう。名を覚えておくがよい」
そして、カーディナルは俺の顔をじっと見つめ、ゆっくりと続きを口にした。
「ベルクーリ・統合体第一号(シンセシス・ワン)……それがかの騎士の名じゃ」
「む……無理無理ムリ、絶対に無理だ」
カーディナルが唇を閉じるより早く、俺は高速で首を左右に往復させた。
ベルクーリ、俺はもちろんその名前を知っている。ユージオがことあるごとに、憧れに満ちた表情で逸話を語ってくれた伝説の英雄ではないか。ルーリッドの村の初代入植者のひとりで、果ての山脈を探検し、人間界を守護する白竜からあの"青薔薇の剣"を盗み出そうとした剛の者だ。
たしかに、ベルクーリの晩年については、ユージオも知らないようだった。何となく、そのままルーリッドで暮らし、老いていったのだろうと想像していたが――まさか、アドミニストレータに拉致され、最初の整合騎士に改造されていたとは。
現実世界に例えれば、宮本武蔵だの千葉周作といった歴史上の剣豪と真剣で戦えと言われるようなものではないか。勝てると思うほうがどうかしている。俺はなおもかぶりを振りながら、どうにかカーディナルにその考えの無謀さを分かってもらおうと口を開いた。
「あ……あのねえ、あんた、さっき俺とユージオが二人がかりで、たぶん相当下っ端っぽい整合騎士にこてんぱんに延されたのを忘れたわけじゃないだろう? 少年マンガじゃあるまいし、一旦負けても出直したら何故か勝てちゃう法則なんか通用しないぞ絶対」
一体何を言っているのか、と胡散臭そうな目つきで俺を見たカーディナルは、肩をすくめて俺の抗議をサラリと流した。
「ベルクーリ一人に震え上がっておる場合ではないぞ。二百年のあいだに、整合騎士の総数は五十になんなんとしておるのじゃ。無論その全てがセントラル・カセドラルに常駐しておるわけではないが、現在塔内で覚醒中の者は二十人近くおるじゃろうな。お主とユージオには、それらを全て突破して最上階まで辿り着いてもらわねばならぬ」
「ならぬ……って言われてもなあ……」
椅子にずるずると沈み込みながら、俺はこれ見よがしに溜息をついた。
端的に表現するなら、RPGで最初の街を出たら目の前がラスボスの城だった、というような気分だ。確かに、この世界における実験が終了してしまう前に、何としてもこちらから外部に連絡を取ってユージオ達のフラクトライトの保護を要請せねばならないというのが俺の事情ではあるが、その前にこれほど高いハードルが存在するとはまったく想像もしていなかった。
視線を自分の胸に落とす。カーディナルが術式を仕込んだ食べ物のおかげで、整合騎士エルドリエの鞭に抉られた傷は見た目には完璧に治癒したが、その場所にはいまだにぴりぴりと痛みの残滓がまとわり付いている。
あの恐るべき戦闘力を持った騎士に、果たして付け入るべき弱点などあるだろうか……と考えたところで、俺は薔薇園での闘いの終幕に起きた奇妙な出来事を思い出した。
ユージオに、自分の名前と過去を告げられたエルドリエは突然苦悶し、地面に膝をついたのだ。その額から、紫色の光とともに迫り出してきた透き通る三角柱――。あれこそが、さっきカーディナルが口にした、アドミニストレータの手になるところの"行動原則キー"だったのだろう。整合騎士たちの記憶と自我を封じ込め、教会に絶対忠実なしもべとする邪悪なる神聖術。
しかし、その効力は、カーディナルが言うほど絶対的な物なのだろうか? かつての名を聞いただけで、枷が解けてしまいそうになった――ように、俺には見えた。あれは、エルドリエにかけられた術が不完全だったのか、それとも全整合騎士に共通する瑕疵なのか。
もし後者であれば、彼らと正面から戦闘をする以外にも遣りようはあることになるし、それに……ユージオの悲願である、整合騎士アリスを元のルーリッドのアリスに戻す、という目的も実現の可能性が見えてくるのだが。
考え込む俺の耳に、カーディナルの相変わらず落ち着いた声が届いた。
「わしの話はもう少しで終わりじゃ、先を続けてよいか?」
「……あ、ああ、頼む」
「うむ。――アドミニストレータが、ベルクーリを始めとする数名の整合騎士を完成させたことによって、わしの直接攻撃が成功する確率は限りなく低くなった。奴にしてみれば、わしが護衛の整合騎士を排除しておるあいだに、悠々とわしの天命を削りきればそれでよい訳じゃからな。ここに隠遁した当初危惧したように、奴との闘いは果てしない長期戦となることをわしは覚悟せねばならなくなった……」
カーディナルの長い、長い話も、いよいよその最後に近づいているようだった。俺は椅子の上で再び姿勢を正し、少女の厳かな声音に耳をそばだてた。
「状況がかくある以上、わしにも協力者が必要となったことは明白じゃった。――しかし、共にアドミニストレータと戦ってくれる者など、そう容易く見つかるはずもないこともまた明らかであった……。その者は、まず禁忌目録を破れるほどの高い違反指数を持ち、さらには直接戦闘能力及び神聖術行使能力に大いに秀でておらねばならぬからな。わしは危険を犯し、教会の敷地内に開いた裏口を通じて、周囲に生息する鳥や虫等の小型ユニットに"感覚共有"の術を施しては全世界に放った……」
「ははあ……それがあんたの眼であり耳だったわけか。ひょっとして、俺を監視してたのもそいつか?」
「うむ」
カーディナルはにやりと笑うと、左手を伸ばし、人差し指をちょいちょいと動かした。すると――。
「おわあ!?」
俺は、自分の肩口から右の袖を伝い這い降りてきたソレを見て飛び上がった。小指の爪ほどもない、漆黒の蜘蛛だ。凍りついた俺の右腕をするすると移動し、テーブルの上に移ったそいつは、くるりと俺に向き直ると、四つ並んだ真紅の目玉で俺を見上げ、右前の脚を振り上げて俺に挨拶をした――ように見えた。
「名前はシャーロットじゃ。お主がルーリッドの村を出たその時から、ず――っとお主の背中や物入れの中、あるいは部屋の隅から言動を見聞きしておった」
「な……なんてこった……」
脱力する俺に背を向け、シャーロットはちょろちょろとテーブルを降りると、たちまち本棚の裏の暗がりに姿を消してしまった。
「長い任務もようやく終わりじゃな。寿命パラメータを凍結してあるゆえ、もう五十年ほども働いてもらったか……」
「は、はあ……さいですか……」
「それほどまでに、わしの目的に合致する人間を探し出すのは困難を極めたということじゃ。何せ、隔離状態のわしは使い魔たちの眼と耳で間接的な捜索を行うしかなかったが、自在に世界を閲覧できるアドミニストレータは単に違反指数パラメータをチェックし、数値が突出したものを捕縛連行すればそれで済むのだからな。これはと思った人間を、何度目と鼻の先で攫われたものか……。感情を持たぬわしじゃが、落胆と忍耐という言葉の意味はいやというほど知っておるぞ」
「……つまり、あんたは、この場所で二百年……ただひたすら世界を眺め、聞いて、手助けしてくれる人間を探し続けていた……ってわけか」
「実を言えば、ここ十年ほどは、そろそろ諦めるという言葉の意味も知るべきか――と思わんでもなかった」
かすかな笑みを唇の端に漂わせ、カーディナルは呟いた。
「わしが座して世界を眺めておるあいだに、整合騎士となるべき強者を確保するために、アドミニストレータは更に積極的なシステムを作り上げていたからな。それが、お主たちが目指していた四帝国統一武術大会の真の姿じゃよ」
「……そうか……。あの大会に優勝した達人は、整合騎士になる名誉を手に入れる――訳ではなく……」
「整合騎士にさせられるのじゃ、無理矢理に。全ての記憶と人格を封印され、"アドミニストレータ様"に盲目的に付き従う最強の人形として、な。整合騎士を輩出した家には、目の眩むような報奨金と上級爵士の地位が下賜されるゆえ、息子や娘と二度と会えなくとも、貴族の親たちはこぞって我が子にその道を選ばせる。現存する整合騎士五十名のうち、高違反指数により連行され、シンセサイズの秘儀を施された者がおよそ二十、残りは皆大会の優勝者じゃ。お主を痛めつけたエルドリエ・第二十六号(トゥエニシックス)もその一人」
「……そういうことか……」
思わず長く嘆息する。俺の指導役だったソルティリーナ先輩や、ユージオが傍付きを務めたゴルゴロッソ先輩が大会で優勝できずに故郷に戻ったのはむしろ幸いな結果だったわけだ。
それだけではない。あの悲惨な事件が起きず、俺とユージオがそのまま学院代表に選出され、首尾よく大会を勝ち抜いていたとしたら――。あるいは、地下牢から脱出できずに、審問とやらの場に引き出されていたら、俺はともかくユージオはシンセサイズの秘儀によって最新の整合騎士に生まれ変わっていた可能性は高い。ミイラ取りがミイラ、とはこのことだ。
ぞくりと粟立った肌を、カーディナルの静かな声がそっと撫でた。
「――かくして、二百年かけて奴は着々と態勢を固め、引き替えわしは望みを失っていった。さすがのわしも考えたよ。一体、わしは何故このようなことをしておるのじゃろう、とな……。魂の深奥に焼き付けられた、アドミニストレータの過ちを正すべし、という第一原則を、わしは恨んだ。なぜこのわしなのだ、と……。鳥や虫の目を通して見る世界は美しく、光に溢れておった。子供らは楽しげに草原を走り回り、娘たちは恋に瞳を輝かせ、母親たちは腕に抱いた赤ん坊に慈愛の笑みを注ぎ……。もしこの肉体の主たる家具屋の娘がそのまま成長しておったら、その全てを得られたはずじゃった。世界のカラクリなぞ知らずに平凡な一生を送り、六十年、あるいは七十年先に家族に看取られて、己が幸福な生涯を追想できたはずじゃった……」
睫毛を伏せ、囁くように言葉を綴るカーディナルの声が、わずかに揺れたような気がしたのは俺の錯覚だろうか?
「……わしは、己を、身罷る直前の老婆であると自ら定めた。最早あらゆる生の輝きは去り、全てが終わる瞬間を待つのみの枯れ果てた老木じゃ、とな。不思議に、言葉遣いすらもいつしかこのようになっておったよ。世界に放った使い魔たちの耳を借り、人間たちの営みにただ聞き入るだけの日々が繰り返される中、わしは考え続けた。なぜ、この世界を造った神たちは、アドミニストレータの専横を放置しているのか……。創世神ステイシアは、教会が支配のために作り上げた偽りの神じゃが、全システム・コマンド解説書には、真の神である"ラース"の名がそこかしこに散見できたからな。ラースが神たちの集合名であること……彼らに作られた魂無き擬似神カーディナルの存在と、その二つの行動原理をそれぞれ焼き付けられたのがアドミニストレータとこのわしであること、世界の秘密を知れば知るほど、謎は増える一方じゃった」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
話の成り行きについていけず、俺は思わず口を挟んだ。
「それじゃ……あんたは、この世界がラースによって作られた実験場だってこととか、もとのカーディナルが正副コアを持つプログラムだってこととかに、推測だけで辿り着いたのか?」
「驚くほどのことはない。二百年もの時間と、カーディナルシステムに内臓されたデータベースがあれば、誰でもその結論に達しよう」
「データベース……。そうか、あんたのアンダーワールド民らしくない語彙は、そこから手に入れたのか」
「先ほどお主が飲んだスープの味付けもな。と言っても、多くの用語に対するわしの理解とお主のそれには大きな乖離があるじゃろうがな……。しかし少なくとも、この推測だけは当たっていよう。この世界アンダーワールドが、神の被造物であるわりにはあまりにも不完全であり、またアドミニストレータの醜い支配体制が見逃されておる理由……それは最早一つしかありえぬ。神たるラースは、民の幸福な営みなど望んではおらぬのだ。むしろその逆……民たちを、まるで巨大な万力でゆっくり、ゆっくりと締め上げて、どのように抗うかを眺めるためにこの世界は存在する。――お主は知らぬじゃろうが、近年、辺境地帯では流行り病や、獰猛な獣の増加、作物の不作などによって、平均寿命以下で死ぬ者の数が増加しておる。これは、アドミニストレータですら改変できぬ"負荷パラメータ"の増大が引き起こす現象じゃ」
「負荷……パラメータ? そう言えば、さっきもそんなことを言ってたな。負荷実験段階、とかなんとか」
「うむ。厳密に言えば、現在でも負荷は日に日に増しておるのじゃが……データベースに記載された負荷実験段階なるフェイズに訪れるであろう試練は、病などの比ではないぞ」
「一体……何が起こるっていうんだ」
「人間世界を挟み込む万力が、ついに世界の殻を割るのじゃ。お主も知っておろう、人界の外に何があるか」
「ダークテリトリー……?」
「そうじゃ。かの闇の世界こそ、民たちに究極の苦しみを与えるべく作られた装置……。先ほども言うたが、闇の怪物と呼称される、ゴブリン、オーク、その他の種族は、人間と同様のフラクトライトに殺戮と強奪を求める衝動を付与された存在じゃ。彼らは単純に力のみをヒエラルキーとする体制によって組織化され、原始的じゃが強力な軍隊を作り上げておる。総数こそ人間の半分程度ではあるが、個々の戦闘能力では人間を遥か上回るじゃろう。その恐るべき集団が、彼らの言葉でイウムと呼ぶところの人間の国に攻め入り、暴虐の限りを尽くす日を今か今かと待っておる。恐らく、そう遠い未来の話ではないぞ」
「軍隊……」
ぞっとする、どころの話ではない。二年半前に、洞窟で俺と死闘を演じたゴブリンの隊長は掛け値なしの猛者だった。俺よりスピードこそ劣っていたが、膂力は遥かに優っていた。あんな連中が数千、数万も居るなどと、考えただけで肝が凍る。
「……一応、人間界にも剣士や衛士はいっぱいいるけど……はっきり言って勝ち目ないぞ。この世界の、演武に特化した剣術じゃとてもじゃないけど……」
うめいた俺に、カーディナルも軽く頷き返した。
「じゃろうな。……おそらく、本来予定されていたところでは、今ごろ人間界にもダークテリトリーに対抗し得る強力な軍隊が編成されておる筈だったのじゃろう。小規模だが絶え間なく侵入しておるゴブリンたちと戦い続けることで、レベルを上昇させ、実戦的な剣法や戦術も編み出してな。しかし、お主も知るとおり、現状はそれとは程遠い。剣士たちは実戦など一度たりとも経験せずに型の見映えばかりを追及し、軍隊の指揮官たるべき上級貴族どもは飽食と肉欲にうつつを抜かしておる。全て、アドミニストレータと、奴の作った整合騎士たちが招いた事態じゃ」
「……どういうことだ?」
「最高レベルの権限と神器級の武装を与えられた整合騎士たちは、確かに強力じゃった。ほんの十数名が果ての山脈を警護するだけで、侵入してくるゴブリン達なぞ問題なく一掃できるほどにな。――しかし、そのせいで、本来ゴブリンと闘うはずだった一般民たちがまったく戦闘というものを経験せぬまま数百年が経過してしまった。民たちは来るべき脅威のことなど何一つ知らず、安寧という名の停滞に浸って暮らすのみじゃ……」
「アドミニストレータは、近いうちにその負荷段階がやってくることを知っているのか?」
「おそらく知っておるじゃろう。じゃが、奴は、おのれと五十名の整合騎士のみで闇の軍勢を問題なく撃退できるとタカをくくっておる。その時が来たとき、貴重な戦力となってくれるはずじゃった四匹の守護竜すらも、おのれの操作が効かぬという理由のみで屠ってしまうほどにな。お主の相棒が聞いたら悲しむじゃろうな、昔話で微笑ましいやり取りをした白竜を惨殺したのが、整合騎士に改造されたベルクーリ自身じゃと知ったら」
「……その話は聞かせないほうがいいよ」
俺は嘆息しながらそう呟いた。思わず瞑目し首を左右に振ってから、顔を上げて訊ねる。
「実際のところ、どうなんだ? いざ闇の軍隊が攻めてきたら、アドミニストレータと整合騎士だけで対抗できるのか?」
「無理じゃ」
カーディナルは言下に否定した。
「確かに整合騎士どもは皆長年の実戦を経た猛者ではあるが、絶対数が少なすぎる、あまりにもな。またアドミニストレータの操る神聖術は天変地異にも等しい威力じゃが、言うたとおり、術を使うには自らも敵の射程内に身を晒す必要があるのじゃ。闇の軍隊には、一人一人はアドミニストレータの足元にも及ばぬにせよ神聖術……いや、暗黒術と言うべきかもしれんがな、ともかくシステム・コマンドの使い手が星の数ほども居るのじゃぞ。一度の轟雷で百人の術士を焼き焦がしても、次の瞬間には千の火炎に貫かれるじゃろうな。膨大な天命ゆえにそれで死ぬかどうかはわからんが、少なくともこの塔まで逃げ帰ることになるのは確実じゃ」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。てことは……俺とあんたでアドミニストレータを倒そうと倒すまいと、結局この世界の辿る運命は変わらないんじゃないのか? あんたがカーディナルシステムの全権を取り戻したところで、闇の軍勢を撃退できるわけじゃないんだろう?」
呆然と呟いた俺の言葉に、カーディナルはゆっくりと首肯した。
「その通りじゃ。ことここに至っては、わしにももうダークテリトリーからの侵略を止める手段はない」
「……つまり……あんたは、あくまで、誤作動をしているメインプロセス、つまりアドミニストレータを消去するという目的のみを果たせれば……そのあと、この世界がどうなろうと知ったことじゃないと……そう言うのか……?」
俺は掠れた声でそう訊ねた。カーディナルはしばし沈黙し、小さな眼鏡の奥で――とても哀しそうな色を瞳に湛え、じっと俺を見た。
「……そうかもしれない」
やがて呟いたその声は、周囲のランプがちりちりと立てる音にすら紛れてしまうほどに微かだった。
「そう……わしの目指しているところは、多くの魂が消滅するという結末それだけを見れば、このまま成り行きに任せるのと同じことかもしれぬ……。じゃが……もしわしやお主がここで座したまま何もしなければ、やがて……数ヶ月後、あるいは一年先かもしれぬが、確実に闇の軍勢がこの地に溢れて、村は焼かれ畑は潰され、男は殺され女は犯されるじゃろう。出現するであろう地獄は、わしの知る言葉では表せぬほどの……究極の悲惨、残酷の限りを尽くしたものとなるはずじゃ。――しかしな……仮に、わしが全権を回復し、そして一撃で闇の怪物たちを全て葬り去るコマンドを編み出せたとしても、わしはそれを使わぬよ。なぜなら……彼らとて、望んで怪物となったわけではないのじゃ。言うたじゃろう、百年考えても答えなど出ぬとな。よいか……もし、アドミニストレータという女が出現せず、この世界が本来予定されたとおりの軌道を進んだとしても、その時は、強力な軍隊を作り上げた人間たちが逆にダークテリトリーに侵攻し、かの国の住人たちを暴虐の果てに殺戮し尽くしたに違いないのじゃ!」
カーディナルの静かな声は、しかし鋭い鞭のようにぴしりと俺の耳を打った。
「どちらに転ぼうと、結末は膨大な血に塗れたものとなろう。なぜなら、その結果こそが、神たるラースの意図したものだからじゃ。この世界を創造した目的が、ラースの手足となる強力で、無慈悲で、忠実な兵士の群れを造り上げることそれ自体だからじゃ。わしは……わしは、そのような神など認めぬ。そのような結末など、どうあろうと容認できぬ。ゆえに……数十年前、負荷実験段階の到来が避け得ぬことを知ったわしは、この結論を出したのじゃ。何としても、その時が来る前にアドミニストレータを排除し、カーディナルシステムとしての権限を回復して……この世界を、人間界も、ダークテリトリーも、全てまとめて無に還すと」