空中でぐるりと半回転し、背中から落下する。息を詰まらせながら周囲を確認した俺は、驚きのあまり目を見開いた。
ユージオと俺は、確かにバラ園の柵に設けられた扉をくぐったはずだ。であるからには、その先は咲き誇るバラの茂みのど真ん中でなければならない。しかし、俺が見ているのは、茶褐色の石が整然と組み合わされた、縦横二メルほどの通路だった。床にはバラの花弁ひとつ落ちておらず、石組みの天井のどこからも夜空は覗けない。通路はまっすぐ前方に十数メルほど続いており、その先からは暖かみのあるオレンジ色の光が揺れながら差し込んできている。空気さえも、ついさっきまでの甘く湿った芳香に代わり、乾いた紙のような匂いが満ちている。
呆然としながら、俺は首を回して背後を見た。同質の壁の下部にある扉が、向こう側からは確かにイバラの絡んだ青銅製と見えたのに、今は鋳鉄の金具で補強した木製のものになっているのに気付いても、もう驚く気にはならなかった。
その傍らに立つ黒ローブの女の子は、俺たちが通り抜けるやいなやきっちりと扉を閉め、掛け金にぶら下がる巨大な錠前に、懐から取り出したこれまた巨大な鍵を突っ込んで回した。がちりと頼もしい音を立てて施錠すると、難しい顔のまま扉に耳を寄せ、何やら聞いている様子だ。
つられて耳を澄ますと、扉の向こうから、カサカサと小さな音が聞こえてくるのに気付いた。まるで、小さな地虫が大量に這いまわっているような不快な響きだ。
「……探知されたな。このバックドアはもう使えん」
しかめっ面でぶつぶつ呟くと、女の子は俺たちのほうを見た。鍵を仕舞いながら、左手に握っていた黒光りする杖というかステッキを、追い立てるように振る。
「ほれ、とっとと奥に進まんか! ここは通路ごと廃棄じゃ」
幼い少女の口から出る言葉には、なぜか修剣学院の総長以上の威厳が感じられて、俺とユージオは慌てて立ち上がると小走りで明かりの方に向かった。たちまち短い通路を抜け、奇妙な場所に出る。
相当に広い、四角い部屋だった。壁にはいくつかのランプが取り付けられており、ほっとするような穏やかな炎を揺らしている。調度らしきものは一切なく、正面の壁に重厚な木製のドアが一つあるのみだ。
異様なのは、それ以外の三面の壁だった。俺たちが出てきたような狭い通路が、横にいくつも並んでいるのだ。奥を覗いてみると、みな突き当たりに小さな扉がひとつ設けられた同一の構造のようだった。
俺とユージオが呆気に取られてきょろきょろ周囲を見回していると、続いて出てきた丸眼鏡の少女が、くるりと振り向いて、通路に向かってステッキをかざした。
「ほいっ」
可愛らしい――あるいは年寄りじみた掛け声とともに一振りする。もうこれ以上驚くことはあるまいと思っていたが、続く現象に俺たちは再び度肝を抜かれた。通路の奥のほうから、左右の石壁がごんごんと音を立てて順繰りに迫り出し、地響きとともに組み合わさっていくのだ。
わずか数秒で十メル以上の通路は完全に閉鎖されてしまい、最後に目の前で上下左右から突き出した石が接合すると、そこにはもうまっ平らの壁しかなかった。直前まで存在した通路の痕跡はまったく、凹みひとつ存在しない。
神聖術としても、相当に大掛かりな高等術式だ。あれだけの量の石を動かすには、大変な長さの詠唱とハイレベルのシステムアクセス権限が必要となるだろう。驚くべきは、この女の子が、今の術を掛け声一つで実行したという事実だ。システム・コールの一言すら発さなかった。俺が知る限り、そんなことのできる人間はこの世界には他に一人も居ない。
「フン」
女の子は小さく鼻を鳴らし、何事もなさそうにステッキを地面に突くと、向き直って俺たちをじろりと見た。
改めて眺めると、人形のように可愛らしい少女だった。びろうどのように光沢のある黒いローブと、同じ質感の重そうな帽子は世捨て人の老学者然としているが、帽子の縁からのぞく栗色の巻き毛やミルク色の肌が年相応の艶やかな輝きを放っている。
しかし、印象的なのはその眼だった。鼻に乗った小さな丸眼鏡の奥、長い睫毛に縁どられた瞳は髪と同じ焦茶色だが、なぜか圧倒的な知識と賢さを感じさせる底知れない奥深さを備えている。そのせいで、この少女が何ものなのかは勿論、年齢も立場も、従ってよいのか否かさえも俺には読みきれなかった。
しかしこのまま黙っていても埒があかない。この子が整合騎士の攻撃から俺たちを助けてくれたのは確かなので、とりあえず礼を言うことにする。
「ええと……助けてくれて、ありがとう」
「その価値があったかどうかはまだ分からんがな」
にべも無いとはこのことだ。旅をしていた頃の経験で、初対面の人間との交渉はユージオに任せたほうが良いことは身にしみているので、肘で突付いて相棒を矢面に立たせる。
一歩前に出たユージオは、亜麻色の髪をごしごし掻き混ぜながら口を開いた。
「その……僕の名前はユージオ。こいつはキリト。ほんとにありがとう、助かったよ。えっと……君は、この部屋に住んでるの?」
こいつも相当に混乱してるようだった。女の子は呆れたように眼鏡に指をやりながらばっさりと答えた。
「阿呆ゥ、そんなわけがなかろうが。……ついて来い」
かつっとステッキを鳴らし、正面の壁に唯一ついている大きなドアに向かって歩いていく。俺たちも慌てて後を追い、女の子のステッキの一振りでノブがひとりでに回るのを見てもう一度驚く。
ぎいいい、と重厚な音を立てて両側に開いた扉の向こうは、さらに大量の橙色の光に溢れていた。眩しさに一瞬眼を細めながら、女の子に続いて扉をくぐった俺とユージオは、この不思議な場所に入り込んで以来最大級の衝撃を受けて呆然と立ち尽くした。
凄まじい光景だった。一言で表現すれば、活字中毒者の天国だ。
本棚とそこに収まる本でのみ構成された世界が、俺たちの眼前に広がっていた。全体としては円筒形の空間なのだが、壁面には石造りの階段と通路が縦横複雑に絡みあい、その片側あるいは両側に年代物の巨大な書架がいくつもいくつも並んでいる。俺たちが立っている底面から、立体状の迷路のごとく伸び上がる本また本の回廊の先に見えるドーム型の天蓋までは、恐らく五十メルはあるだろう。階段や壁に無数に設置されたランプに照らされる本の総冊数は、想像することすら不可能だ。
どう思い出しても、あのバラ園にこのような空間を内包する建築物は存在しなかった。俺は頭上を見上げながら、掠れた声で訊いた。
「こ……ここは、もう塔の内部なのか?」
「そうであるとも言えるし、違うとも言えるな」
少女の声は、どこか満足気な響きが混じっているように思えた。
「わしが論理アドレスを切り離したゆえ、この大図書室は塔内部に存在はするが何者も入ってくることはできない。わしが招かない限りな」
「大……図書室……?」
ユージオが、尚も呆然と周囲を見回しながら呟いた。
「うむ。ここには、この世界が創造された時よりのあらゆる歴史の記録と、天地万物の構造式、そしてお前たちが神聖術と呼ぶシステム・コマンドのすべての記述法則が収められておる」
論理アドレス? システム・コマンドだと!?
俺は、自分の耳が聞いた単語をすぐには信じられず、まじまじと少女の顔を凝視した。少女は、俺の受けた衝撃と、その理由さえも気付いているぞと言わんばかりにわずかに微笑み、言葉を続けた。
「わしの名はカーディナル。かつては世界の調整者であり、いまはこの大図書室のただひとりの司書じゃ」
――カーディナル。
俺の知っている範囲で、その名称には三つの意味がある。
一つは、現実世界のカトリック教会における高位の役職だ。日本語では枢機卿と呼ばれる。二つ目は、アトリ科の鳥の名前。日本語では猩猩紅冠鳥、全身に枢機卿が着る法衣と同じ緋色の羽毛が生えていることから名づけられた。
そして三つ目が――茅場晶彦によって開発された、VRMMOゲームバランス調整用の大規模AIプログラム、"カーディナルシステム"だ。最初のバージョンがSAOに用いられ、アインクラッド内のあらゆる通貨、アイテム、モンスターの出現バランスを絶妙に調節して俺たちプレイヤーを手玉に取った。
その後カーディナルシステムは、茅場が死後遺した擬似人格プログラムの手によってバージョン2に進化し、汎用VRMMO開発パッケージ"ザ・シード"に組み込まれて、後期ALOやGGO他多くのゲームを制御することになる。無償配布に俺が一役買ったこともあり、電脳茅場の真の目的は何なのか長い間考えたが、納得のいくような答えはとうとう導き出せなかった。まさかあの男に限って、単にSAO事件の贖罪のために完全フリーの開発環境を公開した、などということはあるまいと思っていたのだが……。
今俺の目の前にいる少女が、あのカーディナルシステムが人の形を得た姿、なのだろうか?
神聖教会で高位の立場にあるフラクトライトに枢機卿の名を冠したに過ぎない、ということは勿論あり得る。だが女の子は確かに、かつては世界の調整者だった、と言った。指導者でもなく、支配者でもなく、調整者たるカーディナル。
しかしなぜ、カーディナルAIがここに? アンダーワールドは、ザ・シードを利用して組み上げられたのだろうか? 仮にそうだとしても、完全なる裏方であるはずの調整システムが、なぜこんな場所に閉じこもっているのだろう。そもそも、カーディナルにプレイヤーと会話するインタフェースなど実装されていなかったはずだ。
無数の疑問に翻弄されて立ち尽くす俺のとなりで、ユージオも別種の驚きに打たれたように、震える声で呟いた。
「あらゆる歴史……? 四帝国の建国以来の年代記が、全部ここにあるんですか……?」
「それだけではないぞ。世界がステイシア神とベクタ神によって二つに分かたれた頃の創世記すら所蔵されておる」
少女の言葉に、歴史オタクのユージオは卒倒しそうに頭をふらつかせる。カーディナルの名を持つ謎の少女は、眼鏡を押し上げながらにっと微笑み、続けた。
「どうじゃな、わしの話は長くなるゆえ、その前に食事と休息を取っては? 読みたければ本を読んでもよいぞ、好きなだけ」
ほい、と掛け声とともにステッキを振ると、傍らの空間に、床から湧き出したかのように小型の丸テーブルが出現した。白い大皿が載っており、そこにはサンドイッチだのまんじゅうだの、ソーセージだの揚げ菓子だのが山盛りになって湯気を上げている。
昨夜早くにうすいスープを啜りかちかちのパンを齧っただけの俺たちの胃は暴力的に刺激されたが、ユージオはアリス救出作戦中のこの状況で、旨いものを食ったり本を読んだりすることに罪の意識を感じずにいられないようで、躊躇うような顔でこっちを見た。俺は肩をすくめ、多少言い訳がましい台詞を口にした。
「強引な突破が難しいことははっきりしたしな、一旦休んで作戦を練り直そうぜ。どうやらここは安全な場所みたいだし、俺たちの天命も相当減ってるし」
「うむ、まじないをかけてあるゆえ、食えばその傷もたちまち癒えるぞ。その前に、おぬしら両手を出せ」
有無を言わせぬ少女の言葉に、俺とユージオは素直に枷がはまったままの両手を前に差し出した。ステッキが二度振られ、いかつい鉄の輪があっけなく弾け飛んで鎖ごと床に落ちる。
ほぼ二日ぶりに自由になった両手首をさすりながら、ユージオは尚も申し訳無さそうに小声で言った。
「……それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます、カ……カーディナルさん。ええと……その、創世記というのはどのへんに?」
カーディナルはステッキを持ち上げると、かなり上のほうの、一際大きな書架が固まっている一角を示した。
「あの階段から先が歴史の回廊じゃ」
「ありがとう」
ぺこりと頭を下げると、ユージオはテーブルからまんじゅうや腸詰めを一抱え持ち上げ、いそいそと階段を登っていった。いつも学院の図書室には古代の記録が少ないとぼやいていた彼には、抗しがたい魅力があるのだろう。
その後姿を見送っていたカーディナルが、ぼそりと呟いた。
「……教会の初代最高司祭が、筆記官に命じて書かせた創作物ではあるがな、残念ながら」
俺は、少女の大きな帽子に向かって、声をひそめながら訊ねた。
「……じゃあ、やっぱりこの世界の神様は実在しないのか? ステイシアも、ソルスも、テラリアも」
「居らん」
向き直ったカーディナルの答えはそっけなかった。
「現在信じられている創世神話は、教会が自らの権威を確立するために利用し、広めたものに過ぎん。緊急措置用のスーパー権限アカウントとして登録はされているが、人間がそれでログインしたことは一度もないよ」
その台詞で、俺の疑問はほんの一部だけではあるが解消された。焦茶色の瞳をじっと見ながら、俺は言った。
「あんたは、この世界の住人じゃないな。外側の……システム運用サイドに属する存在だ」
「うむ。そして、それはお主もじゃな、無登録民キリトよ」
厳密には、これが初めての瞬間となるのだろう。俺がこの世界に放り出されてから二年半、ここが真の異次元などではなく、現実の人間によって生成された仮想世界であるという確信を得られたのは。
自分でも思いがけないほどの強烈な感慨が突き上げてきて、俺は大きく息を吸い、吐いた。訊ねるべきことがあまりにも沢山ありすぎて、咄嗟に選ぶのが難しい。しかしまずは、これを確認せなばならない。
「システムを作った組織の名はラース……R、a、t、h。この世界の名はアンダーワールド。そうだな?」
「いかにも」
「そしてあんたは、カーディナルシステム。茅場晶彦という人間がプログラミングした自律型コントローラーだ」
言った瞬間、少女は眼をわずかに見開いた。
「ほう、それを知っているか。あちら側で、わしの別バージョンと接触したことがあるのか?」
「……まあな」
接触どころではない、およそ二年に渡って、ある意味では究極の敵と見据えていたこともあるのだ。しかし今はそんな話をしているときではないだろう。
「だが……俺の知る限り、カーディナルシステムに、そんな擬人化インターフェースなど組み込まれてはいなかった。一体……あんたは、どういう存在なんだ? 一体この場所で何をしているんだ?」
やや性急な俺の問いに、カーディナルはかすかに苦笑するような気配を見せた。額にはみ出した栗色の巻き毛を指先できっちり帽子にしまいながら、可憐だが同時に老成した声で言う。
「長い……とても長い話になる。わしがなぜこのアドレスに自らを隔離し……なぜお主と接触するのを長いあいだ待っていたのか……それはとてつもなく長い話じゃ……」
一瞬、何らかの物思いにとらわれたように口をつぐんだが、すぐに顔を上げて続けた。
「じゃが、可能な限り手短に済まそう。……まずは食え、傷が痛むだろう」
予想外の展開のあまり痛みなどすっかり忘れていたが、指摘された途端、エルドリエに鞭で抉られた胸と、赤銅の整合騎士に矢で射抜かれた右足がずきりと疼いた。言われるままに、俺はテーブルから熱々の肉まんじゅうを一つ取ると、大口を開けてかぶりついた。よく修剣学院を脱け出しては買い食いしていたゴットロの店の肉まんに優るとも劣らぬ美味が口中に広がり、思わずがつがつと頬張ってしまう。どのようなコマンドが仕込んであるのか、飲み下すたびに痛みは薄れ、傷口すらも塞がっていく。
「……さすがに管理者だな……あらゆるパラメータ制御が思い通りか」
感嘆しながら呟くと、カーディナルはフンと鼻を鳴らしながら軽くかぶりを振った。
「二つ間違っている。今のわしは管理者ではない。そして操れるのは、現在このアドレスに存在するオブジェクトだけじゃ」
そのままくるりと後ろを向くと、かつかつとステッキを鳴らしながら、壁に沿って湾曲した通路を歩いていく。俺は慌ててまんじゅうとサンドイッチを抱え、ずっと離れた場所にいるユージオの様子を確かめた。相棒は階段の途中にしゃがみこみ、大判の書物を膝に広げて、夢中で頁を繰りながらサンドイッチを齧っている。
カーディナルの後を追って歩いていくと、通路は分岐と上昇下降を頻繁に繰り返し、たちまち自分が大図書室のどのへんにいるのか分からなくなってしまった。無作法に歩き食いした食べ物がほぼ無くなるころ、目の前に周囲を本棚に囲まれた小さな円形のスペースが現われた。中央にテーブルが一つ、それを二脚の古風な椅子が囲んでいる。
椅子の片方にちょこんと腰掛けると、カーディナルは無言のままステッキで向かいの椅子を示した。言われるまま、俺も腰を降ろす。
途端、小さなかちゃかちゃという音とともにテーブルの上にお茶のカップが二つ出現した。自分の前のカップを持ち上げ、上品に一口含んでから、カーディナルは唐突に喋り始めた。
「お主、考えたことはあるか? この平和な人工世界に、なぜ封建制が存在するのか」
カーディナルはその言葉を"フューダリズム"と発音したので、俺は意味を思い出すのに半秒ほどを要した。
封建制。地方領主としての貴族と、それらを封ずる君主による支配構造である。要は、皇帝だの国王だの伯爵だの男爵だのという、ファンタジーものの小説やゲームにはありがちな――と言うよりそうでない物のほうが珍しい――中世的身分制度のことだ。
アンダーワールドの世界設定は産業革命前のヨーロッパあたりを基にしているらしいので、俺はこれまで貴族や皇帝の存在に疑義を抱いたことはほとんどなかった。だから、カーディナルの質問は、俺を大いに戸惑わせた。
「なぜ……って……それは、開発者たちがそう設定したからじゃないのか?」
「否じゃ」
カーディナルは、俺の答えを予測していたかのように小さな唇の端にかすかな笑みを滲ませた。
「この世界を生み出した向こう側の人間たちは、ただ入れ物を用意しただけに過ぎん。現在の社会構造を作り出したのは、あくまで住人たる人工フラクトライト達だよ」
「なるほど……」
ゆっくりと頷いてから、俺はようやく、カーディナルの言動から真っ先に思いついておかねばならなかったことに気付いた。彼女は、現実世界のラースとスタッフ達の存在を認識している。ということは、つまり……。
「ちょ、ちょっと待った。あんたは、現実世界と連絡が取れるのか? 向こう側との回線を持っている?」
意気込んでそう訊ねたが、カーディナルは頭の鈍い子供の対するかのように渋面を作り即答した。
「馬鹿モン、それができればこんな埃臭い場所に何百年も閉じこもっておらんわ。残念ながら、その手段を持っているのは奴……アドミニストレータだけじゃ」
「そ……そうか……」
またも出てきた奇妙な名前のことも気になるが、今は棚上げしておいて、一縷の望みをかけて食い下がる。
「じゃあ、せめて今は現実時間で何月何日なのかは……あるいは俺の体は現実世界のどこに存在するのか、とかは……」
「すまんな、今のわしはシステム領域にはアクセスできん。データ領域ですら、参照できる範囲は微々たるものじゃ。お主が向こう側で知っていたカーディナルと比べれば、あまりに無力な存在なのじゃ」
それなりに忸怩たるものがあるのか、ばつが悪そうな顔になるカーディナルを見て、俺もなんだか申し訳ない気分になり思わずいやいやと手を振った。
「いや、現実世界が存在してるとわかっただけでも御の字だ。話の腰を折って悪かった……ええと、封建制が出来た理由、か」
話を戻し、少し考えてから続ける。
「それは……治安の維持とか、生産物の分配とかを、誰かが監督しなきゃならないからじゃないか?」
「ふむ。じゃが、お主も知っておろう。この世界の住人たちは、原則として法に背かん。人を傷つけたり、盗みを働いたり、収穫を独り占めしたりすることはないのじゃ。勤勉さや公正さが根源的に強制されておるのじゃから、むしろ共産主義社会を発達させたほうが効率が良かろう。現在のような、人口たかが十万そこそこの世界に皇帝が四人もいたり、爵士と称する貴族家が千以上も存在するような、過剰な身分制度が必要だと思うか?」
「十万……」
初めて知ったアンダーワールドの総人口だ。カーディナルは"たかが"と言ったが、俺はむしろその膨大さに驚いた。これはもう、人工知能の製造実験というよりも、文明そのもののシミュレーションだ。
だが確かに、皇帝一人が支配する住民が二万五千というのは、現実のローマ帝国や秦帝国に比べるまでもなくいかにも少ない。これでは、必要があって生じた封建制というよりも、現実のそれを模した擬似制度、ごっこ遊びのようではないか。
首を捻る俺に、カーディナルはまたしても唐突な言葉を投げかけてきた。
「わしは先ほど、この世界には神は居らんと言った。じゃが、創世の時代――今より遡ること四百五十年前、似たようなものは存在したのじゃ。まだ央都セントリアが小さな村でしかなかった頃に……四人の"神"がな」
「人間……日本人か? ラースのスタッフ?」
カーディナルはぴくりと片眉を動かし、面白そうに微笑んだ。
「ほう、そのくらいは察するか」
「……この世界では、卵ではなくニワトリが先のはずだからな。最初のフラクトライトの赤ん坊を育てた何ものかが居た……そうでないと、ここで日本語が話され、書かれている理由が説明できない。フラクトライトの言語野を完全に記憶野から分離し、モジュール化できれば別だが……そこまでの技術はまだラースにも無かったはずだ」
「筋の通った推論じゃな。まさしくその通り。原初……わしがまだ意識を持たぬ管理者だった頃、四人の人間スタッフがアンダーワールドの中心、つまりまさにこの場所に降り立ち、二軒の粗末な農家で八人ずつの"子供"を育てたのじゃ。読み書きや、作物の育て方、家畜の飼い方から……後の禁忌目録の礎となった、善悪の倫理観に至るまでな」
「まさに神か……責任重大だな。何気ない一言が、後の文明の行く末を左右してしまう訳だ」
俺の"何気ない一言"に、カーディナルは至極真剣な顔で頷いた。
「如何にもな。わしがこれらの思索を行い、ある結論を得たのはこの図書室に幽閉されてからのことだったが……つまり、なぜこの世界には本来必要ない封建制が存在するのか? 禁忌目録などという常軌を逸した法体系が存在し、さらにその隙間をついて自己の利益と快楽を得ようとする貴族たちが存在するのか? それらの疑問に対する答えは、もはや一つしか有り得ぬ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、カーディナルは厳かな声音で続けた。
「原初の四人、ラースの開発者たちは、課せられた困難な使命を見事達成したことからも、人間としては最高級の知性を備えていたことが分かる。わしの開発者に迫るほどな。同時に、アンダーワールドの住民たちに生来の善性を与え得たのだから、倫理的にも見上げるべき者たちだったのだろう。しかしそれは、四人全てではなかった」
「……何だって……?」
「知性には秀でていても、しかし善ならざる者が一人居たのだ。そやつが、言わば汚染したのよ。育てた子のうち、一人か二人のフラクトライトをな。恐らく意図してのことではなかったのだろうが……しかし、性根というものは隠せんのだろうな。子に、利己心や支配欲といった、人間の欲望をも伝えてしまった。その子供が祖先となったのだ。今存在する、あらゆる貴族と、そして神聖教会司祭たちのフラクトライトのな……」
善ならざる者……だって……?
つまり、ラースの中心スタッフに、アンダーワールド住民に人間的悪性を植え付けた者がいる、ということだろうか? 最終的に、あのライオス・アンティノス――法の隙間を巧妙に利用し、二重三重の執拗な罠を張ってロニエとティーゼを陵辱した三等爵士に至るような……?
俺は不意に、背筋に軽い寒気が走るのを感じた。俺の現実の肉体は、意識を完全に失って、どこだか知らないがラースの本拠地のSTLに接続されているのだ。そのすぐ傍を、ライオスと同種の人間がうろついているかと思うと心底ぞっとする。
そいつは俺の知っている人物だろうか。頭の中で、記憶にあるラーススタッフの顔を思い浮かべてみるが、出てくるのはせいぜい菊岡誠二郎と、六本木でバイトをしていた時に俺のSTLの調整をしていた平木というエンジニアくらいだ。何せ、俺の主観時間では、もう二年半も昔のことなのだ。
問題は、そいつが、利己心は強いがあくまで金と名誉のためにラースで働いているのか、それとも何らかの意図を持ってラースに潜入しているのか、ということだ。研究を盗む、売り飛ばす、あるいは……破壊する、というような。
「カーディナル……その"原初の四人"の名前……本名はわかるか?」
だが今度も、少女はゆっくりとかぶりを振った。
「それを知るには、システム領域の中枢へのアクセス権が必要じゃ」
「いや……悪かった、何度も同じようなことを訊いて」
どうせ、今名前がわかったところで何も出来ない。現実と連絡を取る必要性が一層増したのは確かだが。
背もたれに体を預け、甘い香りのするお茶をひと啜りしてから、俺は再び話題を戻した。
「なるほどな……フラクトライトのうち、僅か一部の者だけが支配欲を持っていれば、そいつらが特権階級化していくのは当然だろうな。ガゼルの群れにライオンが混じってるようなもんだ」
「そして、削除できないウイルスプログラムのようなものでもある。この世界では、子が生まれるとき、外形だけではなく性向も遺伝するからな。平民との婚姻が多い下級貴族では、大分利己性も薄まっているようだが……」
カーディナルのその言葉で、俺は下級貴族のロニエやティーゼが実に尊敬すべき正義感と友愛心を持っていたことを思い出した。
「てことは……貴族同士の婚姻が続けば、悪性も保存されていく、ということか?」
「然り。その精髄が四皇帝家であり、教会の司祭たちだ。そしてその頂点に立つのが、この世界の最高支配者……神聖教会最高司祭にして、今では管理者ですらある一人の女じゃ。アドミニストレータなどという、不遜極まりない名を名乗っておる」
「女……!?」
吐き捨てるようなカーディナルの言葉に、俺は目を見開いた。何となく、神聖教会の頂点は現実世界の教皇と同じく年経た男であるような印象を持っていたのだが。
「そうとも。そして……おぞましいことだが、わしの母でもあるのじゃ」
「ど……どういう意味だ?」
理解が追いつかず訊き返したが、カーディナルはすぐには答えようとしなかった。まるで我が身を嫌悪するかのように、自分の白く華奢な右手を厭わしそうにしばらく見つめてから、ゆっくりと口を動かす。
「……順に話そう……。神聖教会という、この世界の絶対統治機関が造られたのはおよそ三百五十年前のことじゃ。つまり、シミュレーション開始より百年が経過した頃、という事じゃな。アンダーワールド住民は二十歳前後で結婚し、平均で五子を設けるので、第五世代の住民の数はすでに五百人を超えておった」
「ちょ、ちょっと待った。そもそも、この世界での生殖ってのはどういうシステムに……」
二年来の疑問を解消する機会だと思い反射的にそう問うてしまってから、中身はどうあれ外見的に十歳そこそこの少女にしていい質問ではなかったと俺は泡を食った。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、さらりと答えた。
「わしは現実世界の人間の生殖活動をよく知らんゆえ断言はできんが、行為そのものはおおよそ現実に準じておるはずじゃ、フラクトライトの構造原理からしてな。しかし人口管理の必要上、胚の発生までを厳密にシミュレートしておるわけではない。システムに婚姻登録をした男女が行為をおこなった場合のみ、ある確率に基づいて子が産まれることになる。具体的には、ライトキューブ・クラスターのひとつに新たにフラクトライト原型をロードし、両親の外形的要素と思考領域の一部を付加したものを新生児として誕生させるわけじゃな」
「は、はあ、なるほど……。その、婚姻登録というのは?」
「単純なシステムコマンドじゃ。ステイシア神に婚姻を宣誓するという形を取っておる。原初の時代は村の長が行っておったが、各地に教会が出来てからはそこの修道士なり修道女のみが執り行うようになった」
「ふむ……」
いわゆる知恵というものを記憶と分離することはできなかったはずなので、新生児フラクトライトに与えられるのは、それこそごく根源的な性格のみなのだろう。しかし、だからこそ、ラーススタッフの誰かが感染させた悪性は消えることなく受け継がれ続けてしまったということなのか。
「いや、腰を折って悪かった。続けてくれ」
俺の言葉に、カーディナルは軽く頷いて話を戻した。
「シミュレーション開始から百年後、五百人を超えた住民たちは、すでに数人の領主に支配されておった。先祖から利己心という武器を受け継いだ彼らは、所有する土地をひたすらに拡大させ続け、そのせいで近隣に畑を持てなくなった若者たちを小作人として使役するようになっていたのじゃな。中にはそれを嫌い、中央を旅立って辺境を開墾した者たちもいたようだが……」
なるほど、そういう若者たちがルーリッドのような村を拓いていったのだろう。
「領主たちは、当然互いに反目していたので、長い間姻戚関係を結ぶことは無かった。しかしついにある時、二つの領主家のあいだで政略結婚のようなことが行われ……結果、一人の女の赤子が生まれたのじゃ。天使のような可愛らしい容姿と、それまで存在した全フラクトライト中最大の支配欲を併せ持った赤子がな……。名を、クィネラと言った」
カーディナルの瞳が、はるか過去を彷徨うかのように薄く霞を帯びた。部屋を取り囲む本棚のあいだに設けられたランプの炎が、不意に揺らめいて少女の頬に複雑な陰影を作り出す。数百年の時間を閉じ込めた静謐のなかを、穏やかだがどこか哀切を帯びた声が流れ続ける。
「当時、セントリアの――すでに村ではなく町と言うべき規模だっだが――子供たちの天職を割り振っておったのは、長を務めるクィネラの父親じゃった。十歳になったクィネラは、剣や神聖術、歌や織物、あらゆる分野に天稟を示し、どのような職でも立派に勤め上げるだろうとみなに思われておった。しかし、それゆえに――父親は、美しいクィネラを町に働きに出すのが惜しくなったのじゃな。愚かな執着よ……彼は、クィネラをいつまでも手許に置くために、娘に神聖術の修練という天職を命じたのじゃ。屋敷の奥まった部屋で、クィネラはその知性を存分に発揮し、神聖術……つまりシステム・コマンドの解析を始めた。それまで、アンダーワールドの住民たちは基礎的なコマンドを暗記的に覚え行使するのみで、コマンドの意味なぞ考える者は居なかったのじゃな。それで充分だったのじゃ、生活のためには」
たしかに、ルーリッドの村に居た頃のユージオや他の村人たちは、天命を知るためにステータス窓を引き出すか、あとはせいぜい明かりを灯すくらいしかコマンドを使用しなかった。
「じゃが……クィネラは、子供としては恐るべき忍耐心と洞察力で、コマンドに使われている単語の意味を調べつづけた。ジェネレート……エレメント……オブジェクト、それら奇怪な異世界の言葉をな。そしてついに彼女は、ごく基礎的ないくつかのコマンドから、"炎の矢"の攻撃術を独力で編み出してのけたのじゃ。――キリトよ」
不意に呼びかけられ、俺は瞬きしてカーディナルの顔を見た。
「お主、なぜ自分の神聖術行使権限レベル……つまりシステム・アクセス・オーソリティの値が急激に上昇したか理解しておるか?」
「ああ……まあ、大体のところは。モンスターを……洞窟でゴブリンの群れと戦って撃退したせいだろう」
「うむ、その通りじゃ。後ほど詳しく話すが、この世界はもともと、住民が侵入してくる外敵と闘い、自らを強化していくようデザインされておるのじゃ。そうなるのは負荷実験段階に入ってからのことじゃがな……。ゆえに、権限レベルを上昇させようと思えば、敵を倒すかあるいは地道に術を使用しつづけるしかない。クィネラは、わずか十一歳のときに、自力でその仕組みを発見したのじゃよ。家の近くの森の中で、無害なキントビギツネを相手に炎の矢の試し撃ちをした時にな……」
「……ということは、倒す相手は闇の国のモンスターに限定されているわけじゃなく……?」
「うむ。所謂経験値の上昇は、人間を含むあらゆる動的ユニットを破壊すれば発生するのじゃ。勿論この世界の人間は人間を殺さないし、またほとんどのものは無害な動物を殺したりせんがな。しかし貴族の遺伝子を濃く持つ者は別じゃ。彼らは戯れに狩りを行い、その結果意図せずに一層強力なステータスを手に入れていく……。それを明確な目的のもとに行ったのが、十一歳のクィネラよ。動物を殺すことで神聖術行使権限が上昇することに気付いた彼女は、夜毎家を脱け出し、家族や村人に隠れておそるべき殺戮を行いつづけたのじゃ。当時ワールドバランスを司っておったわしに意識があれば、クィネラの行為に震え上がったじゃろうな。彼女は無感情に……いや、あるいは一種の悦びをおぼえつつ、一夜でセントリア周辺の野獣を一掃した。わしはアルゴリズムの命ずるままに、減少した動物ユニットを補充し……それらはまた翌日の夜に全滅した……」
――VRMMOゲーマーの俺にとっては、それはごくありふれた行為であるはずだ。SAO時代の俺は、まさにそのような鏖殺を連日繰り返し、自らの強化に邁進していたのだ。MMOというのはそういうものだと刷り込まれていたし、疑いを抱いたことなどこれまで一度もなかった。しかし今、カーディナルの言葉を聞く俺の背筋には、強い悪寒が張り付いている。
闇夜、寝巻きのまま深い森を徘徊し、発見した獣を眉ひとつ動かさず焼き殺していく幼い少女。そのイメージを一言で表現するなら、悪夢以外の言葉は思い浮かばない。
俺の畏れが感染したかのように、カーディナルも小さな両手をそっと握り合わせた。
「クィネラの権限レベルは際限なく上昇を続けた。コマンドの解析も着実に進み、やがて彼女は天命治癒や天候予測といった、当時の住人にとっては奇跡にも等しい数々の術を操れるようになった。父親をはじめ住人たちは、クィネラをステイシア神の申し子と信じ、崇め奉ったものじゃ。十三になったクィネラは、まさに神々しい美貌に育っておったでな……。天使の微笑を浮かべつつ、クィネラは、己の奥底にとぐろを巻く支配欲という名の毒蛇を完璧に満足させるときが来たことを悟ったのじゃ。領主たちのように土地の所有権を使うよりも、剣士たちのように武器を使うよりも、絶対的に強力な手段……神の名を騙ることによってな……」
言葉を切ったカーディナルは、一瞬だけ視線を頭上――大図書室のはるか高みに被さる天蓋か、あるいはその向こうの現実世界へと向けた。
「この世界を造った人間たちの、最大の過ちじゃ。システム・コマンドの不可思議な効力の説明を、神という概念をもってしたのはな。わしが思うに……人間という生物にとって、神なる存在は甘すぎる劇薬じゃな。あらゆる痛みを癒し、あらゆる残酷を赦す。魂の容れ物が、生体脳であろうとライトキューブであろうと。情緒を持たぬわしには神の声は聞こえんがな……」
バーント・ブラウンの瞳を手許のカップに戻し、左手の指で白い陶器のふちを軽く叩く。たちまち熱い液体がどこからともなく満ち、立ちのぼった湯気を小さな唇でふう、と吹く。
「それは盲信もしようというものじゃな、このような奇跡を実際に目のあたりにさせられ、それを神の御業と説明されれば。――農作業で怪我を負った男をたちまち癒し、嵐の訪れを三日も前から予言したクィネラの言葉を疑うものはもう居なかった。彼女は、父親以下村の有力者たちに、神のために祈る場所が必要だと告げた。さらなる奇跡の技を呼び起こすためにな。すぐに、村の中央に白亜の石積みの塔が建てられた。当時は敷地も小さく、たった三階の高さしかなかったが……そうじゃ、それこそがこのセントラル・カセドラルの原型よ。そして同時に、神聖教会三百年の歴史の端緒じゃ」
カーディナルが語る、最初の聖女クィネラの逸話は、否応無く俺にある人物のことを思い起こさせた。直接知っているわけではなくユージオやシルカからの伝聞だが――幼い頃から神聖術に天分を示し、教会のシスター見習いという天職を与えられた少女、アリス・ツーベルクである。だがユージオはアリスのことを、誰にでも分け隔てなく優しかったと述懐した。増してやシルカの姉である。とても夜な夜な家を脱け出し、周囲の獣を殲滅していたとは思えない。
では、アリスはどうやってシステムアクセス権限を上昇させたのだろうか。
疑問の淵に沈みかけた俺の意識を、カーディナルの声が引き戻した。
「当時の住民は、例外なくクィネラをステイシア神に祝福された巫女だと信じた。朝夕白い塔に祈り、収穫の一部を惜しむことなく寄進した。クィネラと縁戚でなかった領主たちの中には、当初彼女を快く思わない者も居ったが……利害が対立するゆえな。しかしクィネラはしたたかじゃった。すべての領主に、神の名において貴族、つまり爵士の地位を与えたのよ。それまでは、領主に収奪されることに懐疑的な意見もあったが、神の認めた権威となれば従わないわけにはいかん。貴族となった領主たちも、クィネラに対立するよりは従っておったほうが得じゃと判断した。こうして、アンダーワールドにおける初の封建制が確立されたのじゃ」
「なるほど……。治安維持の必要上生まれた制度じゃなく、支配のための支配……か。上級貴族に義務感が無いのも当然と言うべきなのか……」
俺が呟くと、カーディナルも眉をしかめながら頷いた。
「お主は直接目にしておらんじゃろうが、大貴族や皇族どもの私領地における振る舞いはそれは酷いものじゃ。禁忌目録に殺人と傷害の禁止条項がなければ、どれほどの地獄となっておったか見当もつかん」
「……その禁忌目録を作ったのも、問題のクィネラさんなんだろう? 彼女にも、それなりの道徳心はあった……ということなのか?」
「フン、それはどうかな」
カーディナルは可愛らしく鼻を鳴らした。
「――長年の思索によっても、なぜこの世界の人間が、上位の権威から与えられた規則を破れないのか、その理由は分からん。元がプログラムコードであるわしもそれは例外ではないのじゃ。わしにとっては神聖教会は上位存在ではないゆえ、禁忌目録には縛られんが……それでも、カーディナルというプログラムとして与えられたいくつかのルールには背けん。と言うよりも……こんな場所に数百年も閉じこもっておること自体、抗えぬ命令に縛られておる結果だと言える」
「それは……クィネラも例外ではないのか……?」
「然りじゃ。禁忌目録を作ったのは奴ゆえ、奴もあのたわけた法に拘束はされんが……それでも、幼少の頃与えられたいくつかの不文律には逆らえんし、今は新たな命令に衝き動かされておる。考えてみい、奴の親が人を傷つけてはならぬと教えておらねば、奴が動物を殺すだけで満足したと思うか? より権限レベルが上昇しやすい人間を殺したに決まっておるわ」
ふたたび、俺の背中がぞくりと粟立つ。それを押し隠し、口を動かす。
「ふむ……つまり、この世界では、他人を傷つけることは原初の頃からのタブーだったってわけか。クィネラはそれを明文化し、他の細かい条項を付け加えただけ……ってことか」
「形だけ見ればな。じゃが、決して奴がこの世界の平和を願ったからではないぞ。――二十代半ばになった頃のクィネラはいよいよ美しく、塔は一層高くなり、何人もの弟子を持っておった。各地の村にも似たような白い塔が建てられ、正式に神聖教会と名乗りはじめたクィネラの統治組織はいよいよ磐石なものとなりつつあった。じゃが……人口が着実に増加し、人々の居住地域が拡大して、己の眼が届かぬ部分が出てくると、クィネラは不安になったのじゃな。辺境の地で、自分と同じように神聖術行使権限の秘密に気付く者が現われるのではないか、と。そこで彼女は、あらゆる人間を確実に支配するために、明文化された法を造ることにしたのじゃ。第一項には神聖教会への忠誠を書き、第二項に殺人行為の禁止を記した。何故か?」
一瞬口をつぐみ、カーディナルはじっと俺を見てから続けた。
「――無論、人間を殺せば、殺したものの権限レベルが上昇してしまうからじゃ。それだけが理由なのじゃ、教会が殺人を禁じておるのはな。あの一文にはいかなる道徳も、倫理も、善性も存在せぬ」
軽い衝撃を感じながら、俺は反射的に抗弁しようとした。
「し……しかし、もともと殺人や傷害は、原初の四人が与えた道徳的タブーなんだろう? 教会に言われるまでもなく、人々はそういう倫理観を持っていたんじゃないのか?」
「じゃが、親にそれを教えられなければどうじゃ? 確率は低いが、産まれてすぐ親、つまり最初の上位存在と引き離され、道徳教育を受けずに育った子供がいれば? そやつが貴族の遺伝子を持っていれば、欲望のみに従って周囲の人間を殺しまわり、クィネラを上回る権限レベルを手に入れてしまうやもしれぬ。その可能性を最大まで減じるために、クィネラは禁忌目録なる書物を編纂し、製本してあらゆる家に所蔵させたのじゃ。親たちは、子供が言葉を覚える過程で禁忌目録を最初のページから教えるよう義務づけられておる。よいか、この世界の人間が、善良かつ勤勉で、博愛心に溢れておるように見えるとすれば、それはそのほうが都合が良いからに過ぎんのじゃ、教会という絶対統治機関にとってな」
「だ……だが……」
俺は、カーディナルの言葉を素直に受け入れることができず、首をゆっくり左右に振った。ルーリッドの村で、旅の途中で、そして修剣学院で交流した人々――シルカや、ロニエ、ティーゼ、ソルティリーナ先輩……そして誰よりユージオの、尊敬すべき人間性が、すべてプログラム的に造られたものだとはどうしても思いたくなかった。
「……それが全てじゃないだろう? 少しは……その、フラクトライトの原型って奴に含まれてる部分もあるんじゃないのか? 俺たち人間の魂に最初から与えられている何かが……」
「その反証を、お主はもう目にしておるじゃろう」
カーディナルの言葉に意表を突かれ、俺は二、三度瞬きをした。
「え……?」
「お主とユージオを容赦なく殺そうとしたゴブリンたちじゃよ。お主、あれが現実のゲームと同じ……単なるプログラムコードだと思っておったわけではあるまい? あれこそが、フラクトライト原型に禁忌目録とはまったく逆の……殺せ、奪え、欲望に従えという命令が与えられた姿じゃ。よいか、あれらも人間なのじゃ、ある意味ではお主とまったく同じ、な」
「…………」
絶句する。
いや、その可能性をまったく考えなかったわけではない。二年前の秋、果ての山脈で剣を交えた怪物――ゴブリンたちの会話や仕草は実に自然で、一般のVRMMOゲームに登場するモンスターたちに共通するぎこちないプログラムらしさは欠片もなかった。何より、彼らの黄色い眼に宿っていた欲望のぎらつきは、単なるテクスチャーマッピングで表現できるものではなかった。決して。
しかし俺はこれまで、意識して彼ら闇の国の住人について考察しようとはしなかった。しようにもデータが少なすぎたということもあったが、もしあのゴブリンたちもまた人工フラクトライトだった場合、示される意味がそら恐ろしいものになると思えてならなかったからだ。
なぜなら、俺はこれまでの年月を通して、ユージオたちアンダーワールド人を現実世界の人間、つまり俺とまったく同質の存在と確信するようになってきている。単に存在の位相が異なるだけで、思考や情緒といった人間性の核は何一つ違わないのだ。だからこそ俺は、この壮大な実験が終了するとともに全フラクトライトが消去されてしまう、という事態を避けるために、一刻も早く現実世界と連絡を取るべく神聖教会の中枢を目指していたのだから。
だが――あの怪物達もまた人間だったとしたら。
ユージオたちは消去するな、しかしあいつらは消していい、などと言うことはもう許されない。あの殺意と欲望に満ちたゴブリンたちもまた同種の生命であると認識を改めねばならないのだ。俺はすでに、隊長ゴブリンの首を容赦なく斬り飛ばしているというのに。
「悩むな、バカ者」
黙り込んだ俺を、ぴしりとカーディナルの言葉が打った。
「お主まで神になろうとでもいうつもりか? 百年二百年悩んでも答えなど出ぬぞ。わしもいまだ――こうして、ついにお主とまみえる時がやってきてもなお迷いの中にある……」
顔を上げると、カーディナルは細い眉をわずかに寄せて、じっとカップの中を見つめていた。そのまま、どこか詩を詠じるような口調で続ける。
「わしも、かつては一切の迷い無き神であった。我が掌中でもがく小さき者たちのことなど何ひとつ思い致すことなく、不変の法則によって世界を動かしておった。しかしこうして人の身を得て……我が生命への執着を知ってはじめて解ることもある……。恐らく、この世界を造った者たちも、己らが何を造ったのか真に理解してはおるまい。彼らもまた神じゃからな……クィネラの恐るべき反逆も、興がりこそすれ憂いてはおらんじゃろう。このまま世界が負荷実験段階に入れば、筆舌に尽くせぬ地獄が出来するのは必然じゃというのに……」
「そ……それだ、その負荷実験というのは何なんだ? さっきもそう言ったが……」
口を挟むと、カーディナルは伏せていた目を上げ、軽く頷いた。
「話を戻そう、順に説明せねばわからん。――クィネラが禁忌目録を作り全世界に配布したところじゃったな。あの書物によって、神聖教会の支配はいよいよ磐石のものとなった。何せ、クィネラは次々と目録を改定し、教会にとって都合のよい道徳観念で民をぎちぎちに縛ると同時に、生活全般において起こりうるトラブル要因を事細かに排除していったからな。流行り病の発生源に指定されている沼を立ち入り禁止にしたり、羊に食わせると乳が出なくなる草の名まで書いてな……。なにも考えずあの書物にただ従っておれば、問題は何ひとつ起こらんのじゃ。年経るごとに民は教会を頼り、盲信し、第一項にある教会への忠誠を疑うものはもう一人として現われんかった」
まさに絶対統治だ。飢餓も、反逆も、変革も一切無い理想社会か。
「セントリアの人口は爆発的に増加し、建築技術の進歩――もちろん教会が指導したのじゃが――もあって、かつての村はみるみる立派な都市へと変貌していった。神聖教会の敷地も、このように広大なものとなり、塔はどんどん高くなってな……。思えば、このセントラル・カセドラルは、クィネラの飽くことなき欲望を示しておったのじゃろうな。彼女は足るということを知らん女じゃった。齢三十、四十となり、容色が衰えるにつれより一層、な。と言っても、無論大貴族どものように、美食や肉欲に耽溺したわけではない。ある頃よりクィネラは一切下界には姿を現さなくなり、上昇しつづける塔の最上階に閉じこもって、ひたすら神聖術の解析のみに没頭するようになった。求めたのは更なる権限、更なる秘蹟……己に課せられた寿命という限界すらも破壊するほどのな」
この世界において、天命というステータスは非情なまでに明白だ。成長の過程においては着実に増大し、二十代か三十代のどこかで頂点に達し、反転すればあとは緩やかな減少を経て六十から八十歳あたりでゼロとなる。俺の天命も、この二年間でずいぶんと増えた。この数値が日々減っていくのは、確かに恐怖だろう。世界を手中にした絶対支配者であれば尚更。
「じゃが……いかにコマンドを解析し、天候すら操るほどの技を手に入れても、寿命だけはどうにもならんはずじゃった。それを操作できるのは管理者権限を持つ者のみ……ラースのスタッフか、あるいはバランス・コントロールAIであるわし、カーディナルだけじゃからな。クィネラの天命は日々着実に減っていった……五十歳になり、六十歳になり……かつて人心を幻惑した神々しい美貌はいつしか見る影もなく、歩行すらも覚束ず、ついには世界で最も高い場所にある部屋の豪奢なベッドから出ることも叶わなくなった。一時間に一度ステイシアの窓を出し、たった一ずつ、しかし止まることなく削られていく天命を凝視し……」
ふと言葉を切り、カーディナルは寒気を感じたように両手で小さな体を抱いた。
「……しかしそれでも、クィネラは諦めるということを知ろうとしなかった。恐るべき執念……恐るべき執着よの。しわがれた声で日夜、あらゆる音の組み合わせを試し、禁断のコマンドを呼び覚まそうと足掻きつづけた。――そのような努力、実るはずは無かったのじゃ。確率から言えばな……コインを千枚投げて、全部表を出そうとするようなもの……いや、更に可能性は少ないか……じゃが……しかし……」
不意に、俺も言いようの無い悪寒に襲われ、ぶるりと体を震わせた。カーディナルが――情緒を持たないシステムであると言い切った不思議な少女が、今明らかにある種の恐怖を感じていることが明白に伝わったのだ。
「……いよいよ命旦夕に迫り……ささいな怪我ひとつすれば、病にひと撫でされればそれで全てが終わってしまうというある夜……クィネラは、ついに開いてしまったのじゃ、禁断の扉をな。ありえない偶然によってか……あるいは、外の世界の何ものかが手助けしたのかもしれんと、わしは思っておる。皺に埋もれた老婆の口から途切れ途切れに紡がれたコマンド……見せてやろう、お主には使えないがな」
カーディナルは左手でステッキを握ると、すっと宙に伸ばし、ささやくような声で発音した。
「システム・コール! インスペクト・エンタイア・コマンド・リスト!」
途端、これまで一度も聞いたことのないシンプルで平板な効果音が響き、カーディナルのステッキの前に、A4サイズ大の紫色の窓が開いた。
それだけだ。神の霊光が降り注いだり、天使のラッパが鳴り響いたりというようなことは一切ない。しかし、俺には、そのコマンドの恐るべき効果がわかった。たしかにこれは究極の神聖術だ。本来、存在してはならないほどの。
「察したようじゃな。そう……この窓には、存在するあらゆるシステム・コマンドの一覧が記してあるのじゃ。これもまた、世界創造者たちの巨大な誤りよ。このコマンドだけは消去しておかねばならなかった……これを必要とした、原初の四人がログアウトしたその瞬間にな」
カーディナルはステッキを振り、禁断のリストを消した。
「クィネラは、霞むまなこを見開き、窓を凝視した。そしてすべてを理解し、狂喜し、文字通り躍り上がったものじゃ。彼女の求めるコマンドは、リストの末尾に記してあった。内部から緊急にワールドバランスを操作する必要が生じたときのために……カーディナルシステムの権限を奪い、真の神となるためのコマンドがな……」
不意に、俺の脳裏にもその場景が明瞭に浮かび上がった。
雲を衝くほど高い塔の最上階。全周を囲む窓からは、墨色の夜空にうねる黒雲と、縦横に閃く紫雷しか見えない。
がらんとした広大な部屋の中央には、ただひとつ置かれた天蓋つきのベッド。しかし主は横たわってはいない。柔らかいマットレスの上で、色の失せた長い髪を振り乱し、肉の落ちた体を捩って奇怪なダンスを踊っている。白絹の寝巻きから枯枝のような両腕を突き出し、仰け反らせた喉からほとばしるのは歓喜の咆哮。いっそう激しく轟きはじめる雷鳴を伴奏に、怪鳥の如き金切り声で、神権を簒奪するための禁呪が紡がれていく……。
最早、ゲームどころかシミュレーションですらなくなっているのではないだろうか、この世界は。考えてみろ――アンダーワールドの創造者たる菊岡誠二郎やその他ラースの技術者たちは、せいぜい三十何年ぶんの時間しか生きていないのだ。しかし、純粋なる支配欲の化身クィネラは、その時点ですでに八十年――そしてカーディナルの言葉が正しければ、さらに三百年近くの齢を重ねていることになる。そのような知性が、いったい如何なる存在となり果てているのか、推測することは誰にもできない。
今現在、菊岡たちは、ほんとうに全てをコントロール出来ているのだろうか? ここで起きていることを、どの程度把握しているのだろうか……?
次々と湧き上がろうとするそら恐ろしい疑問を、カーディナルの低い声が遮った。
「畏れおののくのはまだ早いぞ」
「ああ……すまない、続けてくれ」
答えた俺の声は、他人のもののようにしわがれていた。カップを持ち上げ、冷めかけた茶を啜る。
ステッキを再びテーブルの脚に立てかけ、カーディナルは小さな体を椅子の背もたれに預けた。
「原初の時代……この世界には、四人のラース人員と十六人の子供たちの他にも十数人の住民が居ったことを、お主は知っておるか?」
突然話の内容が飛び、俺は面食らって瞬きをした。
「い……いや、初耳だ」
「いくらなんでも、世界に家が二軒だけでは色々不都合があるゆえな。作られたばかりのセントリアの村には、お主らの言うところのNPCに準じる村人が配置されておったのよ。商店でものを売ったり、麦や羊を育てたりするだけの存在ではあったが」
「へえ……」
「そして、要点は、彼らもまた広義の人工フラクトライトであったということじゃ」
「な、なに?」
「おそらく、実験の初期段階で試作された高度AIの流用じゃろうな。思考原型を時間をかけて育てるかわりに、促成的にいくつかの命令を与えて動かそうとしたものじゃ。つまり、既存のAIに与えられていた条件付け命令をフラクトライト中の量子回路パターンに翻訳し、行動原理領域に焼きこんだと思えばよい」
「そ……それもまた、酷い話だな」
人間と同質の魂を持ちながら、自意識も欲求も無く、状況に対するリアクションのみを行う、ということか。まさしく、アインクラッドの街や村に沢山いたNPCたちと何ら変わるところのない存在だ。
俺と同時にカーディナルも顔をしかめ、頷いた。
「うむ、とても知性とは呼べぬ。わしが言いたいのは、ライトキューブ中のフラクトライトに対して、ある程度記憶や行動を制御する技術は既に存在する、ということじゃ。もともとライトキューブは、生体脳と異なり、量子回路を機能別にモジュール化しやすい設計となっておるでな。さて……話をクィネラに戻すぞ」
きしっと背もたれを鳴らしながら、カーディナルは胸の前で腕を組んだ。
「……完全なコマンドリストの呼び出しに成功したクィネラは、まずおのれの権限レベルを引き上げ、カーディナルシステムそのものへの干渉を可能とした。次いで、めくるめく歓喜の中、同カテゴリ中のコマンドを次々と実行し、本来カーディナルのみが持っていたあらゆる能力を己に付与していったのじゃ。地形や建築物の操作、アイテムの生成、動的ユニット……つまり人間の外見や、寿命の操作までもな。もはや完全なる管理者となったクィネラが最初に行ったのは、勿論、己の天命の回復じゃった。次いで寿命上限の削除。さらに容姿の回復。十代後半の、輝くような美貌を取り戻したクィネラの歓喜は……まだ若い、しかも男のお主には想像できんだろうがな」
「まあ……それが、女性の究極の夢のひとつであることは理解できるよ」
神妙な顔でそう答えると、カーディナルはふんと鼻を鳴らした。
「人間的感情を持たないわしですら、この外形が固定されておることを有り難く思うほどじゃからな。欲を言えば、もう五、六年ぶん成長したいのはやまやまじゃが……ともかく、意識が芽生えた頃より己を駆り立ててきた支配欲という名の怪物を、ついに完璧に充足させることを得たクィネラの絶頂感は、それは凄まじいものじゃった。いまや広大な人界をあまねく自在に操作し、永遠の美しさをも手に入れたのじゃからな。狂喜……まさに狂喜の極みじゃった。正気のタガがわずかばかり外れてしまうほどのな……」
眼鏡の奥で、カーディナルの大きな瞳がすっと細められた。人間の愚かしさを笑う――あるいは憐れむかのように。
「――そこで満足しておけばよかったのじゃ。しかし、クィネラの心底に口を開けた沼にはやはり底がなかった。足ることを知らぬ者……彼女は、自分と同等の権限を持つ者の存在すらも許せなかったのじゃ」
「それは……カーディナルシステムそのもののことか?」
「然り。意識を持たぬプログラムの塊すらも、彼女は排除しようとした。じゃが……いかに神聖術には長けようと、所詮クィネラは科学文明とは縁なきアンダーワールドの民でしかない。管理者レベルの複雑なコマンド体系を、一夜にして理解できようはずはないのじゃ。現実の人間向けに書かれたリファレンスを、クィネラは無理矢理に読み解こうと試み……そして誤った。ただ一つの、そして巨大なミスよ。彼女は、カーディナルそのものを己の中に取り込もうと考え、長大なコマンドを捻り出し、唱えたのじゃ。その結果……」
溜息のような囁き声に乗せて、少女は言った。
「……クィネラは、カーディナルシステムに与えられていた基本命令を、己のフラクトライトに、書き換え不可能な行動原理として焼きつけてしまったのじゃ!」
「……な……なんだって……?」
咄嗟に理解が追いつかず、俺は呆然と呟いた。
「カーディナルに与えられた命令……ってのは、具体的には何なんだ……?」
「――もしその内容が、クィネラの性向と相反するものじゃったら、彼女のフラクトライトはいずれ崩壊しておったろうな。そうであればどんなに良かったか……」
カーディナルを名乗る少女は、軽く首を振ると、その先を口にした。
「――現状の維持。それがカーディナルの存在する目的じゃ。お主も、現実世界で同じシステムが組み込まれたゲームに接しておったならわかるじゃろう。カーディナルは、お主らプレイヤーのあらゆる目的と逆ベクトルの力を働かせる。楽な手段で急激にレベルアップしようとすれば、強力なモンスターを配置したり逆に弱化させたりしてそれを阻害し、大量に金を稼ぐ方法が見つかればそれに比例して物価も引き上げる」
「ああ……確かにな。俺たちは、カーディナルの裏をかこうと日夜知恵を絞ったが、ほとんどの試みはすぐに看破されたもんだ」
SAO時代、安全でおいしい養殖狩り(ファーミング)が見つかる傍から対処されたことを思い出しつつそう呟くと、カーディナルはまたしても自慢そうに微笑んだ。そういう顔をするときだけ、老賢者めいた雰囲気が、年相応の無邪気な少女のものになる。
「当然じゃ、若造が何人集まろうとそうそう出し抜かれたりせぬわ。……しかしクィネラは……彼女にとっての現状維持とは、更に極端なものじゃった……。――フラクトライト、つまり魂の中核に強引に命令を書き込まれたクィネラは昏倒し、一昼夜眠りつづけてから覚醒した。その時にはもう、彼女はあらゆる意味で人間ではなくなっておった。老いもせず、水も飲まずパンも食わず……そしておのが支配する人界を今のまま永遠に保ちたいという欲求だけを持つ存在じゃ。従来、この世界のカーディナルシステムが維持しておったのは、動植物や地形といったオブジェクト……つまり容れ物としての世界のみで、基本的に住民の活動には干渉しなかったのじゃが、しかしクィネラは違った。彼女は、人間の営みすらも固定しようと考えた。よいか……それが、すでに二百七十年も昔のことじゃ。しかし、この世界の体制も、技術も、当時から一切進歩しておらん。人間だった頃のクィネラはまだ、腐敗しすぎた貴族制を改めることも考えていたのじゃがな……しかし半人半神となった彼女は、もうそのような改革の意思はかけらも持っておらなんだ。むしろ、既存の体制をより一層強化し、あらゆる変化の芽を摘むことにしたのじゃ。まさに神の似姿を得て甦ったクィネラは、己の名を神聖教会最高司祭アドミニストレータと改めた。新たに得た最高権限の名称を流用したのか……カーディナルの命令コードと融合したせいなのかは解らんがな。そして、最初に発布したのが、当時の大貴族四人を皇帝の座に就け、人界を東西南北の四帝国に分けるという勅令じゃった。キリト、お主、央都セントリアを四分割する壁を見たことがあるじゃろう?」
驚くべき話に呆然としていた俺は、不意にそう問われて戸惑いつつ頷いた。俺が暮らしていたのは、正確には北セントリアという地域であり、セントラル・カセドラルの北側に広がる一帯である。街の東と西には、教会を中心として街の外周まで伸びる巨大な壁がそびえ立ち、その向こうはそれぞれ別の帝国の首都なのだ。
「あの壁は、住民が石を切り出して積んだのではないぞ。クィネラ……いやアドミニストレータが、その神威を以って一瞬にして出現させたのだ」
「……な、なんでそんな大掛かりなことを……」
セントリアの街を十字に分かつ"不朽の壁"の威容をよく知っている俺は、あの巨岩と巨像の塊が天から降ってきたか、あるいは地から湧いた様子を想像して思わず放心した。現実世界で行われる、高層ビルの爆破解体どころの話ではない。当時の住民たちは、それはもう度肝を抜かれ、一も二も無くアドミニストレータの神力に平伏したことだろう。
俺の呟きを耳にしたカーディナルは、小さく肩をすくめて答えた。
「無論、民の移動と交流を制限するためじゃよ。言い換えれば、情報の伝達経路を神聖教会の組織網のみに限定し、人心をコントロールするためじゃ。人々が未来永劫、無知で素朴な、教会の忠実なる信者たることを奴は望んだのじゃ。あの馬鹿げた壁だけではないぞ。すでに各地に広がっておった開拓民らの居住地域をも制限するために、アドミニストレータは多くのオブジェクトや地形を生成した。割れない巨岩、埋められない沼、渡れない激流、倒せない大樹……」
「ま、待った。倒せない樹……だと?」
「そうじゃ。単なるスギに、途方も無いプライオリティとデュラビリティを与えてな。それを越えて開拓地が広がらないように」
俺は思わず、あの悪魔の樹――ギガスシダーの泣きたくなるような硬さを思い出し、そっと自分の両掌を見下ろした。あんなものが、この世界にまだまだ転がっているというのか。そしてそれを排除するために、多くの人間たちが数百年に渡って報われない努力を続けているのだ。まさしく静止した世界、である。あらゆる進歩と拡大を禁止された人間の営為に、果たしてどのような意味があるというのだろう。
「こうして、絶対者アドミニストレータの統治による、平和で無為な時代が続くこととなったのじゃ。二十年……三十年……貴族どもの腐敗はいよいよ酸鼻を究め、しかしそれを正そうという者はもう現われず、それなりに進歩を続けておった剣術も見世物の演舞に堕した、お主の知るとおりな。四十年、五十年と、ぬるい湯に浸された人間界を日々見下ろし、アドミニストレータは深い満足を覚えておった」
つまるところ、完全な生態系が出来上がったアクアリウムを眺めて悦に入るようなものだろうか。幼いころ、小さな水槽に蟻の巣を作ったことを思い出し、俺が複雑な気分に襲われていると、同じく目を伏せ何らかの物思いに沈んでいたらしいカーディナルがきっぱりとした声で言った。
「じゃが、いかなる系においても永遠の停滞(ステイシス)などというものは有り得ん。いつかは、何かが起きるのじゃ。クィネラがアドミニストレータとなってから七十年後、彼女は己にある異変が起きたのを自覚した。睡眠時以外でも短時間意識が途絶したり、数日前の記憶が再生できなかったり、何より完璧に暗記しておるはずのシステム・コマンドを即座に思い出せなくなるという、とても看過できぬ現象に襲われたのじゃ。アドミニストレータは、管理者コマンドを駆使して己のフラクトライトが格納されておるライトキューブを検査し……その結果に戦慄した。何と、記憶を保持しておくべき量子回路の容量が、いつのまにか限界に達しておったのじゃ」
「げ、限界!?」
思わぬ話の成り行きに、俺は鸚鵡返しに叫んだ。記憶の……言い換えれば魂の容量に上限があるなどという話は初めて聞いたからだ。
「何を驚くことがある、少し考えれば当然の理屈ではないか。ライトキューブや生体脳のサイズは有限、ひいては記録できる量子ビットのサイズも有限じゃ。アドミニストレータは、クィネラとして産まれ落ちてよりすでに百五十年という途方も無い年月を生きておった。その間溜め込みつづけた記憶の水瓶がついに溢れはじめ、記録や再生に支障を来したのじゃ」
何ともぞっとする話ではある。他人事ではない、この時間が加速された世界において、俺は既に二年以上の記憶を蓄積しているのだ。たとえ現実世界では数ヶ月、あるいは数日しか経過していないとしても、"魂の寿命"は確実に消費されつつあるということになる。
「安心せい、お主のフラクトライトにはまだたっぷりと白紙が残っておるわ」
俺の内心を見透かすように、カーディナルは苦笑混じりの台詞を口にした。
「な……なんかその言い方、俺の頭がスカスカみたいだな……」
「絵本と百科事典じゃ、わしと比べれば」
澄ました顔でお茶を一口啜り、カーディナルは咳払いした。
「――続けるぞ。思いもかけぬ事態に、さすがのアドミニストレータも狼狽した。天命というステータス数値とは異なる、操作のしようもない寿命が存在したのじゃからな。じゃが、それでおとなしく運命を受け入れるような女ではない。かつて神の座を簒奪したときと同じく、奴はまたしても悪魔的な解決法を考え出した……」
厭わしそうに顔をしかめ、カップを戻すと、花びらのような両手をぎゅっと組み合わせる。
「当時、教会の修道女見習いとしてセントラル・カセドラルの下層で神聖術を学ぶ、ひとりの年若い女子(おなご)がおった。名を……、いや、名は忘れてしもうた……。憐れな……不憫な子供よ。まだほんの十歳……セントリアの家具職人の家に生まれ、ランダムパラメータの揺らぎによって、他人より僅かに高いシステムアクセス権限を持っておった。ゆえに、修道女たる天職を与えられたのじゃ。焦茶色の瞳に、同色の巻き毛を持った、痩せっぽちの女子じゃった……」
俺は思わず目をしばたき、テーブルの向こうのカーディナルの容姿を確かめた。今の形容は、どう聞いてもまさしくカーディナル本人のものではないか。
「アドミニストレータは、その女子をカセドラル最上階の居室に連れて来させると、慈愛に満ちた聖母の微笑みで迎えた。これから、悪魔の所業を加えるなどとはまったく伺い知れない、な……。奴はこう言った――『あなたはこれから、私の子供となるのですよ。世界を導く、神の御子に』……。ある意味ではそれは正しい、魂の情報を引き継ぐ者、と考えればな。しかし無論、正常な営みによって生まれた子供ではない……例えればクローン体、いや、単なるコピーと言うべきか……。アドミニストレータは、その女子のフラクトライトに、己がフラクトライトの思考領域と重要な記憶を上書き複写しようと考えたのじゃ」
「な……」
俺の背中を、何度目かの悪寒が這い登った。魂の上書き――、確かに考えただけでも怖気をふるいたくなる行為だ。いつのまにかじっとりと汗の滲んだ掌をズボンに擦りつけながら、強張った口をどうにか動かす。
「し……しかし、そんな複雑なフラクトライトの操作が可能なら、単に自分の記憶のいらない部分を消せばいいじゃないか」
「お主なら、重要なファイルをいきなり編集するか?」
そう切り返され、俺は一瞬言葉に詰まった。
「い……いや、バックアップを取る」
「じゃろう。アドミニストレータは、かつてカーディナルシステムの行動原理を書き込まれたとき、一昼夜も意識を失ったことを忘れてはおらなんだ。フラクトライトの操作はそれほどに危険なのじゃ。もし己の記憶を整理しようとして、重要な回路を破損してしまったら……、そう危惧した奴は、まず少女のまっさらな魂を乗っ取り、万事上手くいったことを確認してから、それまで使用していた、ぼろぼろに磨耗した魂を破棄しようと計画した。まことに周到、まことに慎重……しかしそれこそが、アドミニストレータ……いやクィネラの、二つ目の失敗じゃった」
「失敗……?」
「そうとも。なぜなら、女子に乗り移り、それまでの自分を処分するその一瞬だけ、同等の権限を持つ神が二人存在してしまうことになるからじゃ。アドミニストレータは、綿密に計画し、準備した悪魔の儀式……魂と記憶の統合を意味する"シンセサイズの秘儀"により、ついにフラクトライトの強奪に成功した。わしは……わしは、その時を待っておった……七十年の長きに渡ってな!!」
わずかな昂ぶりを見せてそう叫んだカーディナルの顔を、俺は訳がわからずただ見つめた。
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。あんたは……今俺と話しているカーディナルは、いったい誰なんだ?」
「――まだ解らぬか?」
俺の問いに、カーディナルは眼鏡を押し上げながらゆっくりと言った。
「キリト、お主、わしの原型バージョンを知っておるのだろう? カーディナルシステムの特徴を言ってみい」
「え……ええと……」
眉をしかめ、SAO時代の記憶を甦らせる。あのAIはそもそも、茅場晶彦がSAOというデスゲームを運営させるためだけに開発したものが基となっている。つまり――。
「……人間による修正やメンテナンスを必要とせずに、長期間稼動できる……?」
「そうじゃ。そのために……」
「そのために、二つのコアプログラムを持ち……メインプロセスがバランス制御を行っているあいだ、サブプロセスがメインのエラーチェックを……」
そこまで呟いてから、俺は口をあんぐり開けて、くるくるした巻き毛を持つ幼い少女を凝視した。