第七章
二年。
と言われて真っ先に思い出すのは、もちろんかの浮遊城アインクラッドに囚われた苦しくも懐かしい日々のことだ。
あの頃は、一日一日が本当に長かった。フィールドに出ている間中、あらゆる種類の緊張に晒されていたのに加え、最大限の効率でステータスアップを図るために常にぎりぎりのタイムスケジュールを組んで行動していたからだ。肉体的疲労が発生しないのをいいことに、睡眠時間さえ限界まで削り、ねぐらに潜り込んでからも各種情報の暗記に勤しんだ。感覚的には、"アインクラッド以前"の十四年間と、"当時"の二年間がほぼおなじ質量を持っていると思えるほどだ。
それに比べて――。
この不思議な世界、アンダーワールドに放り出されてからの日々の、何と早く過ぎ去っていったことか。
一日二十四時間、年三百六十五日と現実世界に準拠した暦を遡れば、すでに二年をとうに超える月日が経過している。当初予想していたよりも、遥かに長い実験期間だ。
いや、そもそも、これは本当に正規の実験なのだろうか。現実の記憶が鮮明に残っているのが奇妙と言えば奇妙だし、その割には実験に参加した記憶が残っていないのが尚更腑に落ちない。
もし、俺が正規の手続きを経てSTLに接続しているのなら、あのマシンの時間加速機能は俺が知らされていたよりも遥かに高倍率を実現しているか、あるいは俺は数ヶ月間ダイブしっぱなしになることを承諾したということになる。その上で、実験開始直前の記憶だけをブロックし、この世界に身ひとつで放り出されたということになるのだが――果たしてそんなことが有り得るのだろうか? いっそ、俺のダイブ直後に現実世界で何かとんでもない事件か天変地異が発生し、崩壊した六本木のラース研究施設の廃墟で俺とSTLだけがひっそりと動きつづけている、というような事態を想定したほうがよほどしっくりくるのではないか。
そのへんのことを確かめるために、アンダーワールドの中核が存在すると思われる世界中央神聖教会を目指して旅を始めたはずなのだが、気付けばはや二年、である。
教会への侵入が物理的、というかシステム的に不可能と判明し、ならば教会内に自由に立ち入れる整合騎士なる身分を獲得するしかないと、その入り口であるセントリア修剣学院の門を学生としてくぐった頃は、何と迂遠な話かと気が遠くなったものだ。しかし日々与えられる剣技と勉学のカリキュラムに圧倒され、それを必死になってこなしているうちに、これだけの年月が経過してしまった。
やっていることはアインクラッドでの日々と殆ど代わらないはずだ。なのに、これほどまでに時間の流れ方が違うというのは、STLの時間加速機能の影響なのか、生命の危険が存在しないせいなのか――それとも、俺が、学院での日々を、心の底では楽しいと思っていたという事の証左なのだろうか。
そう、もう認めなくてはなるまい。アインクラッドから解放されて以来ずっと、俺の中には、仮想世界への帰還を望む衝動が拭いがたく存在していたことを。ALOを始めとする数多のVRMMOゲームでは決して癒されない、深い渇きを。
朝、自室のベッドで目を醒ました直後に、あるいは学校で級友たちとたわいもない馬鹿話に興じている折、更には明日奈と手を繋いで歩いているその瞬間でさえ、俺は時として、この現実はほんとうに現実なのか、という違和感に襲われた。まるで、現実という名のひとつのシミュレーションの中にいるかのような乖離感覚。明日奈とは、互いに何でも相談しあうと約束していたが、しかし、そのことだけは話せなかった。話せるはずがない――俺が、心の一部でとは言え、あの殺戮世界への帰還を望んでいるなどということは。それが、明日奈を始め苦しみながら生き抜いた多くの人たちを、そしてほぼ同じ数に上ろうという、あの場所で死んでいった人たちへの、手酷い裏切りだと知りながら。
つまり、そのような衝動を抱きながらそれを隠した俺は、二重に明日奈を裏切りつづけていたと言える。なのに、愚かしくも更に背信を重ねてしまったのだ。恐らく何らかの事故によって放り込まれたこの世界、完璧なリアリティを実現した究極の仮想世界アンダーワールドでの生活を愛することで。
もしかしたら、その裏切りへの報いだったのだろうか。修剣学院での暮らしが、あのような悲劇的な結末を迎え、一筋の陽光も届かない地の底に繋がれることとなったのは――。
両手首を縛める鎖の重さを確かめようと、じゃらりと重い金属音を立てると、すぐ近くの闇の中から小さな声がした。
「……起きてたの、キリト」
「ああ……ちょっと前からな。悪い、起こしたか」
獄吏に聞かれないよう同じく囁き声で答えると、今度は小さな苦笑が返ってきた。
「寝られるわけないじゃないか。というか、牢屋に叩き込まれたその晩から鼾かいて寝るお前のほうがおかしいよ」
「アインクラッド流の極意その一だ。寝られるときに寝とけ」
言いながら周囲を見回す。灯りは、鉄格子を隔てた通路のずっと先にある獄吏の詰所からわずかに漏れ届くのみで、隣のベッドにいるはずのユージオの輪郭がやっと見える程度だ。もちろん、光をともす程度の初歩神聖術はとっくにマスターしているが、どうやらこの牢獄ではあらゆるシステム・コールが無効化されているらしい。
表情は伺えないが、ユージオの顔のあたりに目を凝らし、俺はためらいながら尋ねた。
「どうだ……少しは落ち着いたか?」
体内時計に従えば、時刻は午前四時といったところだろう。この牢獄に叩き込まれたのが昨日の昼頃だったから、さらにその前日の夕刻に発生したあの惨劇からは、やっと三十六時間程度が経過したに過ぎない。禁忌目録に背いてライオス・アンティノスを剣にかけ、更にその精神が崩壊する様を目撃したユージオが受けたショックは激甚なものだったはずだ。
しばらく沈黙が続いたあと、ごくごくかすかないらえがあった。
「なんだか……全部が、まるで夢みたいで……。ロニエとティーゼのこと……ライオスのこと、それに……アリスの……」
「……あまり思い詰めるな。これからのことだけ考えるんだ」
どうにかそれだけを口にする。俺は直接目撃していないが、ライオスのフラクトライトが異常を来した理由が、自らの死というあり得べからざる概念を受け入れられなかったことならば、まったく同じ理由でユージオも崩壊してしまうかもしれないという懸念があった。
しかし、それにしても腑に落ちない。
この世界を動かすラースの、ひいては菊岡誠二郎の目的は、完全なる人工フラクトライトの発生だと俺は推測していた。現実世界の人間とまったく同じ情動と知性を持つアンダーワールド人たちの、ただひとつの瑕疵が"法を破れない"ことだとすれば、青薔薇の剣でライオスを断罪したユージオはその壁を乗り越え、言い換えれば最終的なブレイクスルーを得て、いまや真なる人工知能へと進化を遂げているはずだ。だから、俺は一昨日ライオスの部屋で思わず天を仰ぎ、世界が停止する瞬間を待った。
しかし、今に至るまで実験が終了する気配はまるで無い。これは一体どういうことなのだろうか。ラースのスタッフは、ユージオの精神が落ち着くのを待つつもりなのか、あるいはSTRAの倍率が高すぎてまだこの事態をモニターできていないのか、それともやはり、何か想定外の事故が発生しているのか……。
「うん……そうだね」
ユージオの呟き声に、俺はもう何度も捻りまわしている疑問を脇に押しやった。
「これからのこと……どうにかここから脱出して、アリスに何が起きたのか確かめないと……」
「ああ、そうだな。しかし……脱出と言ってもな……」
もう一度、両手首から石壁まで伸びる鉄鎖をじゃらりと鳴らす。
昨日、二匹の飛竜によって神聖教会まで連行された俺とユージオは、白亜の巨塔を眺める暇もなく裏口から地下への螺旋階段をひたすら下らされ、そこで本当に教会の一員なのかと疑いたくなる恐ろしげな獄吏に引き渡された。アリス・シンセシス・フィフティと名乗った整合騎士ともう一人はそこで振り向きもせず去っていき、ヤカンのような金属マスクをかぶった獄吏が、恐らく久々の仕事に嬉々としながら俺とユージオをこの牢にぶち込んで鎖に繋いだのだ。
あとは、夕方に一度、かちかちに乾いたパンと生ぬるい水の入った革袋を檻越しに放り投げに来ただけだ。これに比べれば、アインクラッドの黒鉄宮の牢獄に収監されたオレンジプレイヤーの待遇など、高級ホテルのスイートルーム並みと言っていい。
鎖を引っ張る、かじる、神聖術で切断する等の手段は昨日のうちに一通り試し、それが呆れるほど頑丈に出来ているのはすでに確認済みだ。もしユージオの青薔薇の剣か、俺の黒いのがあればこんな鎖など一撃で叩き切ってみせようというものだが、所持品の入った袋は整合騎士たちがどこぞへ運び去ったまま行方が知れない。
つまり現段階では脱獄の可能性は限りなく低く、あとは騎士たちが言っていた審問とやらの折に機会を狙うしかなさそうだという状況なのだ。
「……アリスも……八年前、ここに繋がれたのかな……」
鉄枠にぼろ布を被せただけのベッドに横たわったまま、ユージオが力なく言った。
「さあ……どうかな……」
答えになっていないが、そう返すほかない。ユージオの幼馴染である"アリス"が、ルーリッドの村より連れ去られたのち俺たちと同じ処遇を受けたのだとすれば、わずか十一歳のときにたった一人、あの鉄面の獄吏によって冷たい大鎖に繋がれたことになる。さぞ凄まじい恐怖を感じたことだろう。やがて審問台に立たされ、何らかの刑を宣告され――その後は……?
「なあ、ユージオ。念のため確認しておくけど……あのアリス・シンセシス何とかって名乗った整合騎士が、お前の探してるアリスなのは、間違いないのか?」
躊躇いがちに訊ねると、しばしの沈黙に続いて、嘆息混じりの声が流れた。
「あの声……あの髪、目……忘れるわけはないよ。ただ……雰囲気はまるで別人だけど……」
「まあな、幼馴染にしては随分容赦なくお前を引っ叩いたからな。つまり……何らかの手段によって、記憶とか精神とかを制御されてる、ってことなのかな……」
「でも、そんな神聖術、教本には載ってなかったよ」
「教会の司祭ってのは、天命さえ操るってんだろう? 記憶をどうこうするくらいやってのけてもおかしくはないさ」
そう、STLというのはまさにそれを可能とするマシンなのだ。何らかの電気的メディアに保存されているのであろう人工フラクトライトならばなおのこと。そう思いながら続ける。
「でも……となると、あれは何だったのか……。二年前、ルーリッドの北の洞窟で……」
「ああ……言ってたよね。シルカと一緒に僕を治療しようとしたとき、アリスらしい声を聞いた、って……」
あの洞窟で、傷ついたユージオに猛烈な勢いで天命を吸い取られこれ以上は保たないと覚悟したとき、俺はたしかにアリスとおぼしき少女の声を聞き、その手を感じた。あまつさえ、俺とユージオ、そしてアリスが、ルーリッドの村でともに生まれ育ったのだという恐ろしいほどリアルな記憶の存在を意識した。
その記憶を単なる錯誤として片付けていいのかどうかもいまだに判断できていないが、ともかく俺とユージオは、あの時の声が告げた、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、という言葉だけを頼りにここまでやってきたのだ。
しかし、俺たちの前に現われたアリスは、ルーリッドの村長の娘アリス・ツーベルクではなく、冷酷な法の番人、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティと名乗った。俺たちのことをあくまで裁くべき罪人としか見ていない物腰からは、ユージオの幼馴染であると思わせるものは皆無だった。
彼女は実際に別人なのか、それともやはり記憶を制御されているだけで本物のアリスなのか――それを確かめるには、どうにかして現状から脱け出し、実際にこの塔、つまりセントラル・カセドラルの最上部にまで昇ってみるしかなさそうだ。結局はそこに行き着くのだが、しかし鎖も鉄格子も、ちょっとやそっとでは傷一つつきそうにない。
「ああ、もどかしいな……。今ここに神サマがいれば、襟首締め上げて真実を残らず吐かせてやるのにな!」
お気楽トンボ野郎こと菊岡の顔を思い浮かべながら俺が吐き捨てると、ユージオがいつもの苦笑いを浮かべて囁いた。
「おいおい、いくらなんでも、教会の中でステイシア様の悪口はまずいよ。天罰が下っても知らないぞ」
あれだけのことをしておきながら、まだ遵法意識の持ち合わせはたっぷり残っているらしいユージオの様子に少々安堵しながら、俺は肩をすくめた。
「どうせならこの鎖に天罰とやらを落としてくれないもんかな」
軽口を叩いてから、ふと気付き、首を捻る。
「そう言えば、この場所は、"窓"も出せないのか?」
ユージオは、少し考える素振りをしたあと、同じように首を傾けた。
「そう言えばそれは試してなかったね。やってみなよ」
「ああ」
俺は通路の奥にある獄吏詰所の様子をうかがってから、右手の指を伸ばし、この二年半ですっかり腕に染み付いたステータス・ウインドウ呼び出しゼスチャーを行うと、さして考えもなく左手を縛める鎖を叩いた。
一瞬の間をおいて、見慣れた薄紫色のウインドウが浮き出し、俺は僅かに安堵した。鎖のステータスを見られたからと言って状況が好転するとは思えないが、何にせよ情報が収集できるのは喜ばしいことだ。
「お、出たぞ」
ユージオにニッと笑いかけてから、いそいそと窓を覗き込む。表示されているのはわずか三行、固有のアイテムIDと、その下に"25500/25500"といううんざりさせられる耐久度、そして"クラス38オブジェクト"の文字列だけだった。
クラス38というのは、単なる鎖としては噴飯物に高いプライオリティだが、さすがに神器である青薔薇の剣の45や、数百年を経た魔樹ギガスシダーの枝を砥いだ黒いのの47には及ばない。つまりどちらかの剣があれば、やはりこの鎖の切断は可能だったはずだが、今それを言っても無いものねだりというものだ。
俺に倣って自分の鎖の窓を出したユージオが、さすがに辟易したような声で呟いた。
「うへ、こりゃあいくら引っ張ってもびくともしないわけだよ。この鎖を切るには、最低でも同じクラス38の武器なり道具なりがないと……」
「そういうことだな」
俺は改めて、狭く暗い牢獄を見回したが、あるのは粗末な鉄のベッドと、空の革製の水袋くらいだ。ベッドを破壊すればバールの代わりにでもなるかもしれないと、一縷の望みを託して窓を出してみたが、こちらは見た目どおりクラス1の安物だった。ならば鉄格子はと目をやるが、こちらは鎖のせいでそもそも触れることすらできない。
それでも諦め悪くきょろきょろ首を動かしていると、隣でユージオが溜息混じりに言った。
「いくら探したって、こんな牢屋においそれと名刀なんか落ちてないよ。そもそもモノ自体ないじゃないか。鎖がほとんど唯一ここにあるモノだよ、どう見たって」
「……唯一……」
俺は自分の腕を縛める鎖を眺め、次にユージオの手首から伸びる鎖を見やった。ようやく、ある一つのアイデアが浮かび、興奮を抑えながら囁く。
「いいや、唯一じゃないぞ。二本あるじゃないか、鎖の野郎」
「はぁ?」
何を言ってるんだ、と眉を寄せるユージオを急かしてベッドから立たせる。
「おいキリト、どうしたの一体」
答える手間も惜しんで自分も石床に降り、俺は闇に目を凝らしてユージオの立ち姿を確かめた。簡素な部屋着から伸びる両腕には黒々とした鉄輪が嵌り、左右のそれを問題の鎖ががっちりと繋いで、さらに右手からは一本の長い鎖が伸びて壁に埋め込まれた留め具まで続いている。
俺はまず、ユージオの手と壁を繋ぐ鎖を身を屈めてくぐり、今度はユージオをしゃがませて、鎖をまたいで元の場所まで戻った。これで、俺とユージオの鎖はエックス型に交差したことになる。手振りでユージオを少し下がらせ、自分も離れると、二本の鎖は交差点から耳障りな音を立てながらぴんと張りつめた。
これで、ようやくユージオは俺の意図を察したように目を丸くし、次いで疑わしそうに唇を曲げた。
「あの、キリト、まさかこのまま引っ張ろうってんじゃないよね?」
「引っ張ろうってのさ。原理的には、これで鎖は互いに天命を削りあうはずだ。試してみればわかるさ、早く両手で鎖を握れよ」
俺とユージオは、右手首から伸びる鎖を両手で握り、腰を落とした。
「おっと、その前に……」
もう一度右手でゼスチャーを切り、鎖を叩いて窓を呼び出す。
無論現実世界でこれと同じ真似をしても、鎖はせいぜい軋む程度で切断など到底覚束ないだろう。だが、このアンダーワールドにおいては、万物はいかにリアルであろうとも厳密な物理法則に従っているわけではない。かつて、一本の剣を用いてわずか五日で直径四メートルの巨樹を切り倒すことが可能だったように、二つのオブジェクトを一定以上の圧力をかけて接触させれば、よりプライオリティが高く天命が多いほうが、やがて確実にもう一方を破壊することになるのだ。
俺たちは目を見交わし、口だけでせーの、とタイミングを取ると、全筋力と体重を振り絞って握った鎖を引っ張った。と、思いも寄らないユージオの馬鹿力につんのめりそうになり、なにくそと床を踏み締めて引っ張り返す。たちまち向こうの顔にも負けん気が浮かび、俺たちはしばし大人気なく意地の張り合いを続けた。数秒後、鎖の交差部分からぎりぎりっと歯の浮くような摩擦音が発生し、俺は我に返って出したままだった窓を覗き込んだ。
「おっ」
思わずガッツボーズをしたくなるが、それは叶わないので勝ち誇った笑みを浮かべるに留める。二万五千を誇った鎖の天命は、狙い違わず急速な減少をはじめていた。おそらく、俺たちのオブジェクトコントロール権限が50近くなければ不可能な手段だったろう。だから、八年前にたった一人投獄された幼いアリスには、この鎖を切ることはできなかったはずだ。
やはり彼女は、審問の場に引き出され、そこで何かがあったのだ。しかし、一体何が――?
俺の思考を、ピキンという甲高い金属の悲鳴が遮った、と思う間もなく俺とユージオは猛烈な勢いで後ろに転がり、同時に後頭部を石壁にしたたかぶつけた。
しばし床にうずくまり、STLが律儀に再生した打撲の痛みとショックに耐えてから、ようやく体を起こす。今度こそ獄吏に気付かれたかと鉄格子の向こうを窺うが、やはり何ものも現われる気配はなかった。
遅れて立ち上がったユージオが、尚も手で頭をさすりながらぼやいた。
「うう、今ので天命が百は減ったよ」
「それくらいで済めば安いもんだろう、ほれ」
俺は両腕を突き出し、右の鉄輪から力なく垂れ下がる鎖を小さく揺らした。圧力を受け止めていた部分のリングは真っ二つに断ち割られ、計四つの破片となって床に転がっている。
ユージオも、自分を戒めていた鎖が見事に破壊されているのを確認し、少しばかり口惜しそうに笑いながら右手の親指をぐっと立てた。
「まったく、こういう無茶を仕出かすことに関しては、いつまで経ってもキリトには叶わないな」
「ふふん、無茶は俺の旗印だからな。……さて、こっちも切らないと」
これで壁から二メートル、いや二メルしか離れられないという状況からは解放されたが、まだ両手首を四十センほどの鎖が繋いでいる。しばらく考えてから、壁に残っているほうの鎖を両手のあいだに通し、その先端をユージオに握っていてもらいながら今度は慎重に圧力をかけていくと、時間はかかったが同じように切断できた。同じ手順でユージオの鎖も切り、俺たちは久々に両手を大きく広げて思う存分伸びをした。
「……さて、と」
今後の行動に移る前に、これだけは確認しておかねばならないと思い、俺は真面目な顔を作ってユージオを見た。
「一応聞いておくけど……いいんだな、ユージオ。ここから脱出して、アリスに関する真実を探るということは、つまり神聖教会に真っ向正面から反逆するってことだ。今後、何か行動を起こそうとするたびに一々葛藤している余裕はないぞ。ここで覚悟を決められそうになかったら、お前は残ったほうがいい」
実のところ、これは少々賭けでもあった。根源的な理由によってあらゆる法に背けないはずの人工フラクトライトであるユージオは、上級修剣士ライオスの腕を斬り飛ばすというほとんど最終的な禁忌を犯すに至ったのだが、その過程で、彼の魂を作る光量子回路にはとてつもなくドラスティックな変革が発生したはずだ。
つまり今の彼の状態は見た目以上に不安定であると考えるべきで、出来たばかりの新しい思考回路に負荷をかけすぎるとそれこそライオスのように崩壊しかねないと危惧した俺は、これまで意識的にユージオに神聖教会と禁忌目録への反逆という話題を振らないようにしていたのだ。
しかし、このまま状況に流されるならともかく、脱獄して最上階を目指すという過激な行動を起こすなら、その最中に突発的に葛藤されるよりも、ここで最低限意識を整理しておいてもらったほうがいい。アリスの謎を探るという目的のほかに、俺にはもう一つ、最上階を目指す動機があった。もしこのアンダーワールドに、外部、つまり現実世界のラース研究員に連絡できるシステムコンソールがあるとすれば、それはおそらくこの教会の最中枢部以外有り得ない。俺はなんとかしてそこに辿り着き、スタッフか菊岡に連絡をとって、ユージオが最終的ブレイクスルーに達したことを知らせて彼のフラクトライトの保護を指示しなくてはならないのだ、何としても。
そう、俺は、ユージオを――俺の無二の相棒にして親友を、今の彼のまま現実世界へ連れ出すつもりなのだ。実験終了などという無味乾燥な理由で、彼と永遠に別れたり、いわんや彼の魂を消去させることなど絶対に容認できない。ユージオなら、絶対に明日奈や直葉、他の友人たちとも仲良くなれるはずだ。いや、彼だけではない。後輩のロニエやティーゼ、それにソルティリーナ先輩やルーリッドのシルカといった愛すべきフラクトライトたちを、どうあろうと消去させはしない、絶対に。
ユージオは、俺の言葉に虚をつかれて目を見開き、次いで急に痛みを感じたかのように右目を掌で覆った。一体どのような現象のあらわれなのか、ライオスを斬ったとき彼の右目は激しく出血し、その後神聖術による治療によって傷は塞がったはずだったのだが。
しばらく俯いたままだったユージオはやがて手を下ろし、唇を噛みながらゆっくりと、しかし大きく頷いた。
「……分かってる。僕は――僕は、もう決めたんだ。アリスを助け出して一緒に村に帰るためなら、どんな禁忌だって犯す、教会にも背くって。そのために必要なら……また人間だって斬ってみせる。……あの整合騎士が本物のアリスなら、なんで記憶を失っているのか探り出して、もとのアリスに戻すんだ。絶対に、そうする」
顔を上げたユージオの右目は、出血こそしていなかったが、どこかこれまでの彼にはない強烈な光を宿していた。俺は、彼の言葉に頷き返しながらも、ある種の新たな危惧を感じてわずかに息を詰めた。アリスを助け出すという決意自体に異論はない。しかし――そのためにあらゆる禁忌を犯すという言葉が、俺に名状しがたい不安をもたらす。
もっとじっくり話し合うべきだという気もしたが、そんな時間の余裕があるとも思えなかった。脱獄に成功し、装備を取り戻して一息ついたら、善悪の二面性ということについて彼と話そう、そう心に決めて、俺は口を開いた。
「よし。でも、戦闘は可能な限り避けるぞ。正直、整合騎士とまともにやりあって勝てる気はしないからな」
「キリトにしては弱気じゃないか」
にやっと笑うユージオに、勝てる戦いしかしない主義なんだと言い返して、俺は鉄格子に歩み寄った。直径三センほどもありそうな極太の鉄棒を叩いて窓を出す。ほっとしたことに、これもベッドと同じクラス1のオブジェクトだった。ただし、太さに比例して耐久度は三千を越えている。
隣に立ったユージオも格子を握り、うーんと唸った。
「鎖よりはまだ何とかなりそうだけど、道具がないと大変なのは一緒だね。どうする、二人で体当たりでもする?」
「んなことしたらまた天命が減っちまうぜ。あるじゃないか道具……というより武器が。お前、鞭の練習はしなかったのか?」
「ムチぃ? そんな科目、学院には無かったろう? せいぜい節棍くらいで……」
呆れ顔のユージオを下がらせ、俺は右手からぶら下がる、長さ一メル強の鎖を握ると軽く振った。
「まあ見てろって。ソルティリーナ先輩から教わったんだ、あの人は貴族のくせに、剣以外の武器術もまるで百貨店だったからな……。いいか、鉄格子を吹っ飛ばすとさすがにどえらい音がするだろうからな、一気に走って階段を目指すぞ。獄吏が出てきても戦わないで逃げるからな」
「……へぇー」
ユージオの妙な視線を無視して、腰を落とす。鞭代わりに使うには長さがかなり足りないが、威力は38のプライオリティが補ってくれるはずだ。ちゃり、ちゃりとかすかな音を立てながら頭上で鎖を回転させはじめると、すぐに鋭い風切り音が金属音に重なる。握った手許ではなく、鞭の先端を意識しながら打つのよ、という先輩の言葉を思い出しながら回転数を限界まで上げ、俺はぐっと息を止めると腕をしならせた。
鈍色の蛇のように宙を疾った鎖の先端は、鉄格子でできたドアの錠前部分を寸毫狂わず直撃し、暗闇に無数の火花が咲いた。耳を圧する大音響とともに、ドアは蝶番と掛け金の残骸を撒き散らしながら吹っ飛んで、向かい側の牢屋の格子に激突して無残にひしゃげた。もしあっちにも囚人がいたら、それこそソルスの天罰でも降ってきたかと思ったに違いない。
もうもうと立ち込める粉塵を左手で振り払いながら、俺は通路に転がり出た。いくらなんでもさっきの音を聞けば、あのヤカン頭の獄吏も飛び起きるだろう。鞭がわりの鉄鎖があれば、おいそれと戦闘で遅れを取る気はしないが、正直命じられた仕事をしているだけの人間相手に武器を振るいたくはなかった。
身構えながら通路の先を窺うが、しかし数秒が経過しても、意に反して何ものも現われる様子はない。首を捻りながら振り向き、続いて出てきたユージオを見やると、早口に言った。
「待ち伏せでもされていると厄介だ。気をつけていくぞ」
「わかった」
頷きあい、今更ではあるが足音を殺しながら走り出す。
連行されたときに頭に叩き込んでおいた地図によれば、この神聖教会地下牢獄は、放射状に八本の通路が広がり、それぞれの通路の両側に俺たちが放り込まれたような収容房が八つ設けられている構造だ。全ての房が二人部屋なら、八掛ける八掛ける二で百二十八人ぶんものキャパシティがある計算になるが、はたして有史以来この場所にそれだけの囚人が存在したことがあるとは到底思えない。
通路が集まっている円形の空間の真ん中には、小さな獄吏詰所があり、その脇から地上へと続く螺旋階段が伸び上がっている。なんとか獄吏をかわして階段に飛び込んでしまえばこちらのものなんだが――と思いつつ、通路を駆け抜けた俺は、ハブ部屋の手前で立ち止まり、奥の様子を探った。
さすがに部屋は真っ暗闇ではなく、詰所の壁には小さなランプが吊るされ、あたりをぼんやりと照らし出している。動くものは一切なかったが、手前の陰に獄吏が身を潜め、何やら恐ろしげな武器を振りかざしているのではないかと予想し、懸命に耳をそばだてた。と――。
「……ねえ、キリト」
「しっ!」
「キリトってば」
全感覚を張り詰めている俺の肩をユージオがゆさゆさ揺すぶり、俺は眉をしかめて振り返った。
「なんだよ?」
「ねえ、この音……イビキじゃないか?」
「……なんだと」
言われるまま、聴覚の焦点をずらすと、確かにごくごく微かではあるが馴染みのある低周波音が周期的に繰り返されているのに気付いた。
「…………」
もう一度ユージオの顔を見てから、俺は脱力しつつ立ち上がった。
八本の通路が集合する円形の部屋の中央には、これも円筒形の獄吏詰所が設けられ、壁の一箇所に鉄扉と、その横に小さな窓が造りつけられていた。詰所の壁を巻くように伸びている階段が見える。
俺たちは拍子抜けしつつも足音を忍ばせて詰所に近づくと、窓から中を覗いた。狭い丸部屋にある調度は粗末なベッドただひとつで、そこに樽のような巨体を押し込めるようにして見覚えのある獄吏が横たわり、窓越しにもはっきりと聞こえる大鼾を奏でている様子が見て取れた。
油染みた、襤褸布のようなズボンだけを穿き、上半身裸の獄吏は、寝ているあいだもヤカンに似たマスクを外していなかった。俺は思わず、この囚人のめったに来ない地下牢の番をひたすら続け、太陽を見ることもない生活をいうものを想像し、心の底からこの獄吏に同情した。
現実世界であれば、とっとと転職するという選択肢もあろうが、しかしこの世界では、十歳を迎えると同時に与えられる天職を拒否することはできないのだ。そもそも人工フラクトライトには法、命令に背くという概念は存在しないため、恐らくこの獄吏は、疑いひとつ抱くことも許されずに、齢十の頃からこの地下空間で朝も夜もない暮らしを続けてきたのだろう。狭い詰所から出ることもなく、決まった時間に起き、決まった時間に寝る、それだけが彼の仕事だったのだ。俺たちがあれほどの大騒ぎをしても、まったく目を覚まさなくなってしまうくらい。
詰所の壁には、大小さまざまな鍵が無数に掛けられていた。そのなかには、俺とユージオの手首に嵌っている鉄輪を外す鍵もあると思われたが、獄吏の唯一の安らぎを妨げるにしのびず、俺はユージオを促すと言った。
「……行こう」
「ああ……そうだね」
ユージオも、何かしら思うところがあったような顔で頷いた。俺たちはそっと窓から離れ、ドア脇の階段に足を載せると、あとは振り向くこともなくひたすら駆け上り続けた。
降りるときは随分時間のかかった螺旋階段も、鍛え上げた俺とユージオが全力で走れば、昇りきるのに十分とかからなそうだった。地下の湿り気がこもった空気に、だんだんと冷たい甘さが混ざり始め、俺たちはいっそう必死に二段飛ばしで足を動かした。やがて上方に仄かな灯りが見え始め、それが四角い出口の形になり、警戒するのも忘れてそこに飛び込むと、俺は新鮮な空気を貪るように吸った。
「ふう……」
一息ついて、あたりを見回す。
巨大な神聖教会セントラル・カセドラル・タワーの裏手、どこか陰鬱な気配が漂うバラ園の中だった。青銅製の柵が迷路のように縦横に走り、それに絡みついたイバラの蔦が、トゲに夜露を宿して光っている。
背後には、今出てきた塔の壁が左右に伸び、それに沿って回り込めば正面まで出ることは可能と思われたが、残念ながら高い柵が壁に密着して行く手を遮っており、まっすぐ進むのは難しそうだった。トゲだらけのイバラが巻きついた柵を素手で登るのはあまり楽しそうではないし、鎖を使って柵ごと吹っ飛ばしていくのも、やればできるだろうが整合騎士がわらわらと集まってきてしまいそうだ。
どうしたものかと考えていると、夜空を見上げていたユージオが、長く息を吐きながら囁いた。
「どうやら、朝の五時前って感じだね。もうすぐ明るくなるだろうから、その前になんとか塔に潜りこみたいね……」
「うむ。――と言っても、入り口とかどこにあるのかな……。できれば正面玄関からは避けたいよな」
「剣も無いしね」
言われてみればそのとおりだ。鉄鎖もそれなりに心強い武器ではあるが、ユージオは使い慣れないようだし、できれば早いところ青薔薇の剣と黒い奴を回収したい。そこでようやく、俺はもうここが牢獄ではないのだということを思い出した。
「システム・コール!」
右手を掲げて小声で叫ぶと、神聖術がコマンド待機状態に入った証として、指の回りをほのかな紫色の燐光が包む。ほっとしながら先を続ける。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:1999!」
黒いのが存在する場所を追跡するコマンドを実行すると、右手の人差し指から、髪の毛のように極細の紫色のビームがするすると伸び、塔の少し高いところにある壁の一点に刺さった。指を動かし、ビームの振れ幅から、黒いのまでの距離を概算する。
「うーん、だいたい塔の三階、中央やや北寄りって感じだな……」
呟き、手を振ってコマンドを終了する。
見ていたユージオは、記憶を探るように視線を泳がせた。
「えーと……探し物までの最短ルートを表示するような神聖術って、あったっけ?」
「さすがに無いだろう、そんな便利な術は。あったら、学院から脱け出す道を探すときに使ってるよ」
苦笑しつつ答えると、いつも寮を脱け出しては買いに行っていた揚げ菓子やまんじゅうの味が思い出され、空っぽの胃がきりきりと刺激された。思わず、ちょいと脱出して腹ごしらえをすることを提案したくなるが、せっかく潜り込んだ教会にまた入れなくなってしまったら目も当てられない。
汁気たっぷりの肉まんの味を反芻するだけで無理矢理満足し、俺は振り向くと、バラ園の迷路を眺めた。
「確か、この先に整合騎士の飛竜が降りたちょっとした広場があったよな。あそこまで行けば道が分かるかもしれない。とりあえずそこを目指そう」
「うん、わかった」
ユージオと軽く頷きあって、俺は小走りにイバラの園に足を踏み入れた。
晩春だけあってバラは今が花盛りらしく、暗赤色や黒紫色の花たちが濃密な香りを漂わせるなか、俺たちは星明かりだけを頼りに右に曲がり左に曲がりしながら進んだ。幸い、振り向けば天を衝く白亜の巨塔が常に見えるので、方向だけは分かる。袋小路に突き当たっては戻って曲がることを繰り返し、およそ十五分ほども進むと、ようやく前方に見覚えのある背の高いアーチが出現した。その先に、ベンチと噴水のある広場があったはずだ。
広場なんだからバラ園全体の地図もあるだろう、あってくれと思いながらアーチをくぐろうとした俺の上着を、後ろからユージオが突然掴んだ。
「な、なんだよ」
「……誰かいる」
「なにっ……」
咄嗟に身構え、俺は目を凝らした。
広場は南北に長い長方形で、俺たちのいるアーチが南端にあたる。中央にはテラリア神を象ったブロンズ像のある噴水が設けられ、回りに華美な曲線を持つ金属製のベンチが四つ並んでいる。
その東側のひとつに、ユージオが言うとおり人影がひとつ、脚を組んで座っていた。左手にはワインらしきグラス、右手にバラの花を一輪乗せ、花弁に鼻を寄せている。ゆるくウェーブした長い髪のせいで顔は見えないが、体は磨き上げられた白銀の鎧に包まれ、肩からは手のバラと同じ黒紫色のマントが垂れているのが見てとれた。
俺と同時にユージオも息を飲み、次いで、絞り出すように囁いた。
「整合騎士だ……!」
間違いなかった。しかも、マントの色と鎧の形からするに、学院まで俺とユージオを連行しに来た二人のうち、アリスではないほうだ。
即座に振り向いて迷路に逃げ込むべきか、俺は一瞬迷った。が、行動を決定する前に、バラから顔を離した整合騎士が、爽やかな響きのある声を発した。
「見ていないで、入ってきたまえ囚人君たち」
フルフェイスの兜を被っていたときの、陰々と歪んだ声とはまったく違う。その語尾に挑発的な調子を感じ取った俺は、つい悪い癖を出し、逃げるかわりに前に進んでいた。
「へえ、俺たちにもそのワインを振舞ってくれるとでも言うのか」
俺の言葉にすぐには答えず、整合騎士はこちらに顔を向けると、ワイングラスを少し掲げてみせた。
「これは、君達のような子供……しかも罪人が口にできるものではないよ。ウェスダラス帝国産、百五十年物だ。この雫を舐めるためだけに……」
右手のバラをワインに少し漬け、付着した液体を足元にぽたりと垂らす。
「這いつくばる上級貴族だって山ほどいる」
にこりと笑ったその顔は、言動と相まって、この野郎と思いたくなるような怜悧な美貌だった。高く通った鼻筋と、やや野性味のある長い眉に囲まれて、すっと切れ上がった眼が涼しげな光を放っている。
つい気圧され、口をつぐんだ俺とユージオが見つめるなか、騎士は組んでいた脚をほどくと金属音ひとつさせず立ち上がった。ディープ・バイオレットのマントと、波打つペール・パープルの髪が同時に夜風になびく。
「さすがにアリス様は慧眼だな。君たちが脱獄するという、有り得ない可能性に備えて一晩ここで過ごせと仰るから、バラを愛でつつ夜明かしをしようかと思えば本当に現われるとは。その鎖は南の果ての火山で鍛えられた呪鉄製だよ。それを切るなんて、君達はやはり大逆の徒だな。仕置きが多少厳しいものになってしまうことは……もう覚悟しているだろうね?」
言葉を切るとワインを飲み干し、騎士はグラスとバラを同時に放り投げた。恐らくとんでもない値段なのだろう薄いグラスが、石畳に落ちてはかない天命を散らす。
恐らくはこいつも貴族の出なのであろう、気障な台詞回しはライオス・アンティノスと通じるものがあったが、あの男が常に漂わせていたアクたっぷりの嫌味はまるで感じられなかった。その理由は、この整合騎士が、自信たっぷりの言葉を裏付けてお釣りのくるすさまじい剣気を放っているからだ。
「さて、君たちの天命を残り一滴まで減らすまえに、もう一度名乗っておこう。あの時は無粋な兜ごしで失礼したからね。整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス……またの名を、"無間"のエルドリエだ」
まだ左腰の剣に手もかけていないのに、ごうっと闘気が吹き付けてきたような気がして、俺は思わず右手から下がる鎖を構えて一歩あとずさった。まだ広場に数歩入ったばかりの俺たちと、エルドリエと名乗る騎士のあいだには、十五メル近い間合いがあるのに、本能がこれ以上接近することを拒んでいる。
エルドリエは、マントと同じ色の瞳でちらりと俺の鎖を眺め、ふっと唇をほころばせた。
「なるほど、それを武器にしようというのか。なら、私も剣ではなくこちらで相手をしようかな」
動いた右手が掴んだのは、剣の柄ではなく、剣帯の後ろ側に留められていたらしい――金属の鞭だった。
幾重もの輪に巻かれていた鞭は、エルドリエの右手からぱらぱらとほどかれ、蛇のように石畳の上にわだかまった。俺の握る無骨な鎖とは違い、銀糸を編み上げたような美麗な造りだ。しかし、よくよく見ると、まるでバラの蔓のようにそこかしこから鋭いトゲが生え、剣呑な輝きを放っている。あんなものに打たれたら、皮膚が裂ける程度では収まるまい。
その上、鞭の長さはどう見ても四メルはありそうだった。俺の鎖はおよそ一メル三十セン、リーチの差は三倍以上だ。これは、どうにかして攻撃を掻い潜り、近接戦に持ち込まないと一方的な展開になりそうだ。
背中に冷や汗をかく俺とは違い、エルドリエは相変わらず涼しげな顔で右手を軽く振った。鞭が生き物のようにうねり、ぴしりと石畳を叩く。
「それでは……教会と禁忌目録に背いた大罪人に敬意を払って、私の無間という銘の理由を教えてあげよう」
エルドリエは、さっと鞭を握った右手を掲げると、一際りんと張った声で叫んだ。
「システム・コール! エンハンス・ウェポン・アビリティ!」
その先を、俺は聞き取ることが出来なかった。神聖術には高速詠唱、つまり恐るべき早口でコマンドを綴るという技術があるのだが、当然早くなればなるほど式をとちる確率も上がる。だがエルドリエは、恐らく五十ワードは下るまいという長大なコマンドを、一切つっかえることなくわずか十秒ほどで発声し終え、そのまま一切の躊躇なく右手を振りかぶると――まっすぐ俺目指して振り下ろした。
「なっ!?」
俺は驚愕し、反射的に鎖を両手で握り頭上に掲げた。俺と奴の距離は十五メル、大して銀の鞭は四メルだ。どう考えても届く道理は無い。しかし。
びゅうっと空気を焼き焦がすような勢いでうねったエルドリエの鞭は、まるで伸縮性の素材で出来ているがごとく空中でするすると伸び、俺の顔面に襲い掛かってきた。攻撃を防げたのは、たんなる僥倖でしかなかった。無意識のうちに鎖を掲げていなければ、俺の顔はトゲだらけの鞭に打たれて無惨に切り裂かれていたろう。
耳障りな音と青白い火花を放って鎖の表面を滑った鞭は、蛇のように向きを変えると、またするするとエルドリエの手許に戻っていった。どっと全身から汗が吹き出すのを感じながら鎖を見た俺は、思わずうめいた。
「げっ」
クラス38オブジェクトの、呪鉄とやらで出来ているはずの鎖の一部がごっそり削れ、あと僅かでリングが一つ切断されそうになっていた。
硬直する俺とユージオを、整合騎士はほんの僅かな興味を含んだ視線であらためて眺めた。
「ほう……耳のひとつも落とすつもりだったが、我が神器"星霜鞭"の攻撃を初見で凌いだか。たかが学徒と侮ったのは申し訳なかったかな、これは」
恐ろしいことをさらりと口にしたが、その内容は俺の意識にはほとんど届かなかった。
強敵だ。それも、超のつくほどの。無意識のうちに侮っていたのは俺のほうだ。
この整合騎士エルドリエは、俺がいままで一度たりとも相手にしたことのないタイプ――いや種族の敵なのだということを、遅まきながら悟る。
もちろん、アンダーワールドはあくまでラースの実験フィールドであって、厳密な意味ではこの闘いに俺、修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人の生命は賭かっていない。たとえエルドリエの鞭に首を飛ばされ、天命が零になったところで、恐らく俺は現実世界のSTLで目覚めるだけで、実際の傷はひとつたりとも負うまい。
つまり、戦闘の恐ろしさという意味では、あのリアル・デスゲームSAOと同列に比較することはできない。アインクラッドで"赤眼のザザ"や"ジョニー・ブラック"といったレッドプレイヤーたちと剣を手に対峙したときの恐怖、足元に底無しの淵が口を開けているようなタイト・ロープ感覚は、恐らく俺はもう二度と味わう機会はないだろうし、そうしたくもない。
しかしいかにデスゲームとは言え、プレイヤーとしてのザザやジョニー達は――俺も含めてだが――所詮剣術などとは縁のない、運動不足のゲーム・マニアだったのだ。現実世界では棒っきれすらも満足に振れない虚弱なゲーマーが、数値的ステータスとシステム的アシスト、それになけなしの反射神経を手札に命のやり取りをしていた、一面ではそれが真実なのだ。
だがこのエルドリエは違う。彼は己を、法の守護者たる整合騎士としてのみ認識し、それを一抹も疑うことはない。肉体的にも、精神的にも、本物の戦士なのだ。SAOプレイヤー達とも、CPUが動かすモンスターとも違う、言わばファンタジー小説に登場する魔法騎士の具現化した姿。
茅場晶彦の望んだ、真なる異世界の住人そのものではないか。
果たして、今の俺がエルドリエに優っている部分が存在するのだろうか。数値的ステータスは勿論、身体能力――厳密には脳の運動野を構成する光量子回路の性能――も、闘争心すら向こうのほうが上だと思える。この場を切り抜けられる可能性があるとすれば、それはたったひとつ――。
「ユージオ」
俺は後ろを見ずに囁いた。
「勝機は、俺たちが二人だという一点にしかない。俺が体であいつの鞭を止めるから、お前が打ち込むんだ」
だが、答えは返ってこなかった。いぶかしみながら一瞬だけ肩越しに視線を送ると、ユージオの顔には、恐怖というより感嘆の色が浮かんでいた。
「……今の見たかい、キリト。凄いよ……図書室の本で読んだことしかないけど、間違いない。あれは"武装完全支配"……武器の材質にまで術式で割り込みをかけて、神の奇跡を攻撃力に顕すっていう超高等神聖術だよ。さすが整合騎士だなあ!」
「感心してる場合か。……その完全支配っていうのは、俺たちには使えないのか?」
「無理無理! 公式が教会の最上級秘蹟に指定されてるからね。たとえ式を覚えても、行使権限が足りるかどうか……」
「ならもうそいつの事は忘れよう。手持ちのカードだけで何とかするんだ。いいな、俺がどうにかして鞭を抑えたら、お前が決める。慣れてない武器でも、思い切り当てれば無傷じゃ済まないはずだ」
ようやく表情を引き締めたユージオに、駄目押しで確認する。
「覚悟決めろよ。教会の権威の象徴、整合騎士を倒すんだ、俺たちで」
「……分かってるさ。言ったろう、もう迷わないって」
頷きあい、俺たちは同時に右手の得物を構えながらエルドリエを睨んだ。
整合騎士は、相変わらず涼やかな微笑を浮かべたまま、銀の鞭を小さく鳴らした。
「相談は終わったかな、罪人君たち。さあ、少しは私を愉しませてくれよ」
「……そんな余裕かましてていいのか、整合騎士様が?」
「無論、わずかでも禁忌目録に疑いを持った者は即連行即処刑、それがアドミニストレータ様の絶対なる教えだ。だが絶望するには及ばない、もし君達が私にひとつでも傷を負わせるほどの能力を見せれば、別の道がひらけないこともないからね。万に一つも有り得ないことだが」
「傷? 嘗められたもんだな。天命を半分ほど吹っ飛ばして、そのにやにや笑いを消してやるぜ」
内心に広がる焦燥感を押し隠し、俺はうそぶいた。エルドリエが漏らした妙な名前も気になったが、今は思案している暇などない。左手を広げて、エルドリエに向けて素早く突き出す。
「システム・コール! ジェネレート・サーマル・エレメント!」
叫ぶと、五本の指の前にそれぞれ一つずつ、オレンジ色の輝きが発生した。火炎系攻撃術の起点となる熱源だ。続いて術を展開しようとするが、十五メル先で、エルドリエも左手を上げ、式を開始した。
「システム・コール! ジェネレート・クライオゼニック・エレメント!」
こちらの術に対抗するための冷気系起点がおよそ十ほども生成される。反応が早いが、気にせず術を続ける。
「フォームエレメント、アローシェイプ!」
式と同時に左手をまっすぐ引くと、火点がそれぞれ引き伸ばされ、五本の炎の矢が完成した。飛翔速度と貫通力を重視した形態だ。敵に対応する時間を与えまいと、最大限の早口で最後の式を唱える。
「ディレクション・ストレート! ディスチャージ!」
直後、ごうっと火炎の渦を巻き起こしながら、五本のファイア・アローがまっすぐエルドリエ目掛けて撃ち出された。さらに式を続ければ、限定的ながら軌道修正も可能だが、距離を詰めるための牽制なので撃ちっ放しにして自分も地面を蹴る。
「フォームエレメント、バードシェイプ! カウンター・サーマル・オブジェクト! ディスチャージ!」
前方で、エルドリエが一気に術を終わらせた。青い輝点がすべて小さな小鳥の形――ホーミングに適した形状――に変化し、一斉に飛び立つ。自在な軌跡を描いて、俺が放った炎の矢を次々と迎撃し、爆炎と氷結晶を同時に振り撒きながら相殺・消滅していく。
それらを隠れ蓑に利用し、俺は一気にエルドリエから三メルほどの地点にまで肉薄した。あと二歩で俺の鎖の間合いに入る。
と、ついに奴の右手が動き、まるで生き物のように地面から銀の鞭が跳ね上がってきた。が、この距離なら、武装完全支配とやらが生み出した間合いのアドバンテージは関係ない。右から弧を描いて襲ってくる鞭の軌道を懸命に読み、体を傾け膝を屈めて回避体勢に入る。だが――。
「っ!?」
思わず俺は喉を詰まらせた。空中でエルドリエの鞭が二又に分裂し、新たに生まれた銀の蛇が一層鋭角な軌跡を引きながら飛び掛ってきたからだ。
僅か数センの間合いで見切ろうとしていた俺は、その攻撃に対処できず、鞭にしたたか胸を打たれて吹き飛んだ。覚悟はしていたつもりだが、目もくらむほどの激痛に思わず声が漏れる。
「ぐうああっ!!」
我ながら惨めとしか言いようがないが、とても耐え切れるものではない。見れば、簡素なチュニックは大きく切り裂かれ、右胸から左腹部にかけての肌に無数の棘が作った醜い傷痕が一直線に走っている。たちまち無数の血の玉が吹き出し、幾筋もの線を引いて流れ落ちる。
「駄目駄目、完全支配下の星霜鞭はそんな愚直な突っ込みでは避けられないよ。間合いは最大五十メルまで拡大し、同時に七本にまで分裂することができる。八人で一斉に飛び掛ってくれば何とかなるかもしれないがね」
まるで教師のようなエルドリエの物言いにも、今は腹を立てる余裕などまったくない。これほどの痛みは、二年半前にゴブリンの隊長に肩を斬られて以来のことだ。この、痛みへの耐性の無さがこの世界での俺の最大の弱点になりかねないということは常に意識していたのだが、しかし寸止め絶対厳守の学院での修行においては、苦痛に慣れるような機会は全く無いに等しかった。ユージオには、体を張ってでも鞭を止めるなどと大きなことを言ったが、これでは無様にも程がある。
「ふむ、これはやはり買い被りだったかな? 一撃で戦意を喪失しているようでは、とてもシンセサイズの秘儀を受ける資格はあるまい。せめてもの情けだ、一撃で意識を刈り取ってあげよう」
エルドリエは、白銀のブーツで石畳を鳴らしながら俺に歩み寄ろうとした。と、いつの間にか奴の背後に回りこんでいたユージオが、決死の面持ちで鎖を振りかぶり打ちかかった。
再びエルドリエの右手が煙るほどの速度で動き、宙を疾った鞭が、またしても二本に分裂しながらユージオを捉えた。右足と胸をしたたか打ち払われ、ユージオも空を舞うと、遥か離れた噴水の中に水飛沫を上げて落下した。
俺を苛む激痛は、その間も一向に緩みはしなかったが、ユージオが決死の突撃で作ってくれた貴重な時間を無駄にすることだけはできなかった。相棒の動きが視界に入ると同時に、俺は奥歯を軋むほど食い縛り、痛みを一時的に意識下に追いやった。細めた右目でエルドリエの顔を凝視し、視線が俺から外れてユージオのほうに向けられる瞬間を待つ。
さすがに実戦経験も豊富なのだろう、整合騎士は俺への警戒を完全に切ることはなかったが、それでもユージオを打つその時だけは殺気の流れが逸れた。その刹那、俺は先刻石畳をのたうちながらも左手に握り込んでおいたものを放った。
アインクラッドと違って、この世界では、ほとんどのオブジェクトは破壊されたからといってエフェクト光とともに消滅したりはしない。"オブジェクトの残骸"として新たな天命のカウントが始まるのだ。勿論その天命は、現実世界より遥かに早く数値を減少させ、ゼロになると同時に今度こそ跡形も無く消え失せるのだが、それでも最低数十分ほどの猶予は存在する。
たとえそれが、主が戯れに砕いたワイングラスの破片のようなささやかな代物であっても。
夜明け前の闇を、一条の光線と化して切り裂きながら硝子片は飛翔し、ユージオを攻撃した直後のエルドリエの右目を正確に襲った。恐らく、視界にグラスの光が入ってから命中するまでの時間はコンマ一秒も無かったろう。それでも、騎士は恐るべき反応速度で顔を背け、眼球への直撃だけは避けてみせた。
硝子片はエルドリエの目尻を掠め、藤色の髪をひと房切断して闇の中へと去った。滑らかな肌に開いた傷口から血が流れ出す前に、俺はうずくまった姿勢から全力で飛び出していた。
確かに俺は、能力的にエルドリエには遠く及ばないが、少なくともアインクラッドで散々繰り返した何でもありの対人戦闘経験だけは奴には無いもののはずだ。無論エルドリエも整合騎士としてダークテリトリーの敵相手に命の懸かった実戦を繰り広げてきたのだろうが、この世界の戦闘は、武器戦にせよ神聖術戦にせよ正面からの技のやりとりになりがちだ。フェイント、トラップ、虚実ない交ぜとなった泥仕合にかけてはこちらに分がある、その一点に俺は賭けた。
二回地面を蹴ると、右手の鎖の間合いに入る。わざと大ぶりの上段攻撃モーションを作りながら、鎖を大きく背後に振りかぶる。一瞬の動揺から回復したエルドリエが右手を引き戻し、ユージオを打ったまま宙をくねっていた鞭が再び俺を狙って唸りを上げる。
このまま攻撃しても、鎖は空中で鞭と交錯し、今度こそ真っ二つに切断されてしまうだろう。その後鞭はもう一度俺の上半身を打ち、先刻と同じかそれ以上のダメージを与えるはずだ。しかし俺はその恐怖を振り払い、煌めく銀の鞭から視線を外すと、目を見開きながらエルドリエの背後、ユージオが突っ込んだ噴水のほうを凝視した。
攻撃中に対象からわざと視線を逸らすなどという行為は、修剣学院で教えられている、型を重視するあらゆる流派においてタブーである。そう、禁忌なのだ。よって、この世界に存在する剣士は決してそれをしない。整合騎士とて例外ではないはずだ。
よって、エルドリエは俺のアクションを、俺が彼の背後に何かを見たゆえのことだと判断した。瞬間首を曲げて後ろに視線を送る。しかし当然そこには誰もいない。
俺のフェイントをそうと意識し、しかし驚きで硬直しなかったのは流石と言うべきだろう。だが鞭の動きは一瞬遅れた。もう俺の鎖を空中で迎撃することはできない。稲妻のような速度で左手を掲げ、顔面をガードしようとする。
だが、ありったけの殺気を振り絞ってエルドリエの顔を睨みつつ右手を振った俺が真に狙ったのは、奴の足だった。視線を下に向けずに叩きつけた鎖は、狙い違わずエルドリエの左足に、黒い毒蛇のようにしたたか噛み付いた。
整合騎士の足を覆う白銀の装甲は、やはり相当のプライオリティを持っていたようで、俺の鎖は最初に星霜鞭に削られた部分からついに千切れ飛んだ。だが俺がこの一撃で狙ったのは直接的なダメージではない。軸足を真横から払われたエルドリエは、堪らず後方に倒れこむ。
もし奴が背中から地面に落ちたら、俺は剣士としてのプライドなどかなぐり捨てて――どうせ剣など持ってはいない――馬乗りになり、短くなってしまった鎖を右手に巻きつけて奴の顔面を石畳に埋まるまで殴り倒すつもりだった。しかし、鎖から伝わってきた手応えが僅かに軽かったことから、エルドリエが直前に自分で飛んでいたと判断し、方針を変更する。
読みどおり、整合騎士は見事な動きで後方宙返りを決め、足からの着地を成功させた。その身体能力には舌を巻くが、拍手などしている暇はない。俺も同時に零距離にまで突っ込み、エルドリエの右手に――正確にはそこに握られた鞭に飛びついた。握りに近い、トゲの生えていない部分を自分の右腕にぐるぐる巻きつけ、完全に封じる。
これは、この戦闘で何度目かのギャンブルだった。エルドリエにはまだ自由な左手と腰の剣がある。それを抜かれれば、離脱できない俺は一瞬で叩き斬られるだろう。
だが、俺はユージオを、六年間"刻み手"として来る日も来る日もギガスシダーを叩き続けた彼の忍耐力を信じた。たとえトゲだらけの鞭でしたたか打ち据えられても、俺のようにうずくまって痛みに悶えるようなユージオではない。
そして、相棒は当然のように俺の期待に応えた。エルドリエがついに冷笑的な態度をかなぐり捨て、怒りの形相とともに左手で逆手に剣を抜こうとしたときには、すでに噴水から飛び出したユージオが驚異のダッシュ力で距離を詰め、右手の鎖を振りかぶっていた。
だが、惜しむらくは、ユージオは鎖での攻撃に慣れていなかった。腕の振りがわずかにぎこちなく、それが整合騎士に対処する間を与えた。剣に伸ばしかけた左腕をさっと突き出すと、エルドリエは恐るべき見切りで、ユージオの鎖の先端をがしっと掴んだ。
例え頭部への直撃は避けても、そんなことをして無傷でいられるはずはない。皮手袋に包まれただけだったエルドリエの左手から、何本かの骨が折れる音が確かに聞こえた。だが騎士は声一つ漏らすことなく、握った鎖を全力で引いてみせた。ユージオも対抗して足を踏ん張り、鎖がぎしっと嫌な音を立てて軋んだ。
とてつもなく長く思えた数秒間の攻防の末、俺とユージオ、エルドリエは互いに得物を封じられ、動きを止めた。俺たちは全力で鎖と鞭を引っ張りつづけたが、長身の整合騎士は岩のように揺るぎもしない。一対一の綱引きだったら恐らくもたなかっただろう。
最初に沈黙を破ったのはエルドリエだった。
「……なるほど、アリス様が警戒するわけだな。型も美しさもないが……それゆえに私の予測を上回るか。これほどの手傷を負ったのは、暗黒将軍シャスターと戦ったとき以来だ」
騎士の右目のすぐ横についた傷からは、流れ出した血が細い糸を引いて滴っていた。だがそんなものは、俺とユージオの胸に走る鞭跡に比べればかすり傷以下だ。
さすがにムカっときたので、どう言い返してやろうかと思ったとき、ユージオが両目に相変わらず素直というか馬鹿正直な感嘆の光を浮かべながら声を漏らした。
「あなたこそ……やっぱり流石だ、騎士殿」
その口調にわずかな引っかかりを覚え、俺はエルドリエから視線を外さずに繰り返した。
「やっぱり……?」
「うん。実は一昨日からずっと、どこかで聞いた名前だと思ってたんだけど……ようやく思い出した。この人は、エルドリエ・ウールスブルーグ。僕たちの先輩だよ。二十一年前のセントリア修剣学院総代表で、その年の四帝国統一大会の優勝者だ。図書室の年鑑で読んだんだ」
「な、なんだと」
先輩だ!? しかも二十一年前……!?
だが、わずか一メルほど前に立つ男は、どう見ても二十代半ばだ。学院を卒業したのがそんなに昔なら、四十近くにはなっていないとおかしいのだが。
俺は驚愕のあまり息を飲んだが、しかしどうしたことか、当のエルドリエは俺を上回る衝撃を受けたかのように蒼ざめ、目を見開いた。
「……なんだと……」
呟いたその声は、別人のようにしわがれていた。わずかに体勢をぐらつかせながら、唇をわななかせる。
「私が……修剣学院の……? エルドリエ……ウールスブルーグ……?」
予想外の騎士の反応に、ユージオも驚いたようにぽかんと口を開けたが、すぐにつっかえつつも続けた。
「ま……間違いないよ。近間では剣、遠間では鞭を操り、華麗な技で並み居る強豪を退けた……そう書いてあった」
「……私は……私は、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだっ……! 知らん……ウールスブルーグなどという名はっ……!」
「だ、だが……」
思わず戦闘中だということを忘れそうになりながら、俺は口走った。
「あんただって、生まれたときから整合騎士だったわけじゃないだろう。任命される前はそういう名前だったんじゃないのか……?」
「知らん! 私は……私は知らんっ!!」
叫んだエルドリエの顔に血の気は全く無かった。
「わ……私は……高貴なるアドミニストレータ様より秘儀を授けられ……整合騎士として……世の秩序を……」
そして、次の瞬間、俺を更に唖然とさせる出来事が起きた。
エルドリエの、滑らかな額の中央に、突然逆三角形の紫色のマークが輝きながら浮き上がったのだ。
「ぐ……うっ……」
呻いたエルドリエの手から力が抜けたが、俺は鞭を奪うのも忘れて騎士の額を凝視した。なぜなら、発光部分から、水晶のように透明な三角柱がわずかずつ突出し始めるというとてつもない現象に度肝を抜かれたからだ。
三角柱の内部には、微細な光の筋が縦横に走り回っていた。突き出した部分の長さが二センほどにも達したとき、ついにエルドリエの両手から鞭の柄と鎖が抜け落ちた。しかし騎士はもう俺たちのほうを見ることもせず、よろよろと後退ると、糸の切れた操り人形のように石畳に膝を突いた。
呆気に取られ棒立ちになっていた俺は、張力を失った星霜鞭が右腕からほどけ、地面に落ちた音でようやく我に返った。エルドリエの顔にはもう表情は全く存在せず、虚ろな両眼に、額から迸る紫色の光が反射するのみだ。
機だ。――と思ったが、しかし何をすればよいのか、咄嗟には判断できない。
攻撃するなら、今をおいてないのは確かだ。鎖を使うなり、鞭を拾うなりして叩きのめせば無力化できる可能性が高い。
あるいは、一目散に逃走するという選択もある。下手に刺激して意識を取り戻されたりしてしまえば、もう不意打ちもフェイントも通じないことだろうし、逆に死亡一歩手前にまで追い込まれるのは必至だ。
そして、リスクは最も高まるが、このまま成り行きを見守るのも一案ではある。俺たちが今目の当たりにしているのは、間違いなくこの世界の秘密の根幹に関わる何か――エルドリエの、そして恐らくアリスの騎士任命以前の記憶を奪った処置、恐らくは"シンセサイズの秘儀"と呼ばれるもの――が引き起こした現象なのだ。つまり、アドミニストレータ様とかいうふざけた名前の神聖教会最高権力者は、アンダーワールド内部から人工フラクトライトをある程度自由に操作できるということになる。
そいつ自身が、俺と同じ人間なのかあるいはやはり人工フラクトライトなのかはまだ定かでないが、ラースのスタッフや菊岡誠二郎の意図を離れた事態であるのは間違いないだろう。菊岡の求める"真・人工知能"段階に達したはずのアリスを、再び盲目的規則遵守状態に戻すような改変を許してしまうのは本末転倒以外の何ものでもないからだ。それに、このままでは同じブレイクスルーに到達したユージオさえも"シンセサイズ"されてしまうか、最悪消滅させられてしまいかねない。
同じく改変されたらしいエルドリエに起きたこの現象を最後まで見極めれば、少なくともその改変が可逆性なのかどうかだけは判断できるかもしれない。もしそうならアリスも元に戻せるということになる。
どうせ、この無抵抗状態のエルドリエを袋叩きにするような行為にはユージオが難色を示すだろうし、逃げると言っても迷路を抜ける道が分からない。ならば危険覚悟で観察を続けよう――、そう結論を出し、俺が整合騎士に半歩にじりよった、その時だった。
徐々に突出を続けていた光る三角柱が、切れかけた電燈のように明滅したと思うと、一転エルドリエの額に沈み込みはじめたのだ。
「う……」
俺は思わず唇を噛んだ。三角柱が完全に抜け落ちたとき何かが起きる、と予想していたからだ。
「エルドリエ! エルドリエ・ウールスブルーグ!」
呼びかけると、一瞬だけ没入が停止した気がしたが、すぐにまた動き始める。この現象のきっかけになったのが、騎士任命以前の記憶を刺激されたことだと思い至った俺は、振り返ると目を丸くしているユージオに向かって叫んだ。
「ユージオ、もっとこいつについて憶えてることはないか!? 何でもいいから、こいつの記憶を呼び覚ますんだ!」
「え、ええと……」
一瞬いぶかしむように眉を寄せたが、すぐにユージオは頷いた。
「エルドリエ! あなたは、二等爵士エシュドニ・ウールスブルーグの第三子だ! 母親の名前は……たしか……アルメラ、そう、アルメラだ!」
「…………」
虚ろな表情の整合騎士の唇がかすかに震えた。
「ア……アル……メ……か……あ……さん……」
ひび割れた声が漏れ、同時に三角柱の光量が再び増大した。が、俺をハッとさせたのはそのことではなく、見開かれた騎士の両眼から音も無くこぼれた大粒の涙だった。
「そうだ……思い出せ、全部!」
無意識のうちにそう口走りながら、俺はさらに一歩騎士に詰め寄ろうとした。
そして、つんのめって地面に左手を突いた。
目も眩むような激痛を意識したのは、あれっと思いながら下を見て、自分の右足甲を一本の矢が石畳に縫い付けているのに気付いてからだった。
「ぐあっ!」
灼熱の火花が右足から頭までを貫き、短い悲鳴を漏らす。歯を食い縛りながら両手で赤銅色の矢を握り、力任せに引き抜くと、倍増した痛みに気絶しそうになりながら暗い空を振り仰ぐ。
「キリト!」
叫びながら駆け寄ってきたユージオの右腕から垂れる鎖を掴むと、俺は思い切り引っ張った。
ヒュドッ、ドッ、と重い音をさせ、直前までユージオがいた場所を二本の矢が貫く。
星のほとんど出ていない漆黒の空を背景に、はるかな高みを一匹の飛竜が舞っていた。限界まで目を凝らせば、その背中に騎乗する人影がどうにか識別できる。間違いなく整合騎士だが――あの距離から弓で俺たちを狙ったとすれば、驚異的な精密射撃だ。
と思う間もなく、騎士の手許が一瞬ちかっと光った。息を詰めながら傷ついた右足で思い切り地面を蹴り、俺が尻餅をついていた場所に、ドドッとほとんど同時に矢が二本突き立つのを見て全身を粟立たせる。
「や、やばいぞこれは」
ユージオの鎖を掴んだまま、俺は口走った。この世界で弓矢を見たのは初めてだ。歩く武器庫だったソルティリーナ先輩もせいぜい投げナイフを使ったくらいだったので、遠距離攻撃はアンダーワールドの剣士たちの性に合わないのだろうと思っていたが、整合騎士に関してはもう何でもありらしい。
飛竜から目を離すわけにはいかないので、頭の中に周囲の場景を思い描くが、潜り込めるような遮蔽物は一切無い。最悪、密に生い茂ったイバラの中に飛び込むしかないか、と覚悟を決める。
「次の矢を回避したら走るぞ」
早口にそう指示し、俺は全身を緊張させた。が、新たな整合騎士はそこで一端狙撃の手を止め、手綱を引くと飛竜を降下させはじめた。同時に、お馴染みの陰々とした声が噴水広場中に鳴り響く。
「騎士トゥエニシックスから離れろ、穢れた罪人ども!」
反射的にちらりと目を向けると、せっかく抜け落ちそうになっていたエルドリエの額の三角柱は、またしても元に戻りつつあった。
「高潔なる整合騎士に堕落の誘いを試みた罪、最早許せぬ! 四肢を磔にして牢に戻してくれるわ!」
ようやく詳細に見て取れるようになった整合騎士は、全身を赤銅の鎧兜に包み、左手に凄まじく巨大な長弓を携えていた。恐らくはエルドリエの星霜鞭と同じような神器だろう。あの超狙撃力は"完全支配"術によるものなのか、それとも真の能力を発揮するのはこれからなのか。
銅がねの騎士は、それ以上喋る気は無いようで、弓に矢を同時に五、六本つがえると無造作に俺たちに向けた。
「走れ!」
この距離では発射を見てからでは避けられないと判断した俺は、ユージオの鎖を掴んだまま全力でダッシュした。一歩ごとに右足と胸に疼痛が走るが、この際構っていられない。
元来たほうに戻り、再び地下牢に飛び込むことを一瞬考えたが、それでは狙撃は避けられても状況が悪化するだけだ。かなりの博打だが新しい道を使うことにして、噴水の東側に見えるアーチ目指して懸命に走る。
数歩も進まないうちに、すぐ背後でドカカカカッ! と胆の冷える重低音が立て続けに響いた。
「うおあああ!」
悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げ、一層スピードを上げる。ブロンズのアーチをくぐった瞬間、頭上で複数の金属音が鳴り響き、バラの花弁が無数に舞う。
迷路の両側には背の高い柵が巡らせてあり、それに沿って走ると多少は狙撃を避けられるようだった。矢が降ってくるペースは落ちたが、十字路等でやむなく姿を晒した瞬間、空気を焦がす熱が感じられるほどの至近距離を何本もの矢が擦り抜けていく。
「何本矢を持ってやがんだ!」
腹立ち紛れに叫ぶと、すぐ後ろを走るユージオが律儀に答えた。
「さっきので三十本超えたよ、すごいな!」
「いい加減なVRMMOじゃあるまいし……いや、何でもない!」
もう、方角は完全にわからない。闇雲に角を曲がっているだけなので、もし袋小路に掴まったら万事窮すだ――。
と思った瞬間、目の前に三方を塞ぐイバラの柵が現われて、俺は我が身の運の無さを嘆いた。かくなる上は鎖で青銅の柵を吹き飛ばすしかないが、ドアや窓と比べて、壁や床に類するオブジェクトの天命はけた違いに大きい。一撃で破壊できる可能性は限りなく低い。
覚悟を決め、運を天に任せて右手の鎖を振りかぶろうとした、その瞬間。
「おい、こっちじゃ!」
突然聞こえた声に、俺はコンマ一秒ほど思考停止した。こっちじゃ、という年寄りじみた言い回しのその声が、どう聞いても年若い少女のものだったからだ。
唖然としながら視線を巡らすと、前方すぐ右側の柵の一部に、いつのまにか小さな扉が開いていた。そこから顔だけを覗かせて手招きをしているのは、老賢者のような黒いローブに同色の角張った巨大な帽子を被った、十歳そこそことしか思えない女の子だった。鼻に乗せた小さな丸眼鏡をきらっと光らせて引っ込んだ女の子を追って、俺とユージオは無我夢中で小さな扉に頭から飛び込んだ。