翌朝。
日課となっている基地一周のジョギングを終え、シャワールームに入ろうとしたガブリエルを、司令の副官をつとめる女性大尉が呼び止めた。
「ミラー中尉、ジェンセン大佐があなたに話があるそうよ。一〇〇〇に司令官室に出頭すること、いいわね」
ブルネットの髪を短く切り揃えた美人士官は、事務的にそこまで口にしたあと、やや心配そうに眉をひそめ、声を落とした。
「……司令にしては珍しく、ベイクド・アップルみたいに赤くなって湯気を立ててたわよ。あなた、何かやらかしたの?」
「なんだって?」
ガブリエルは、大袈裟に両手を広げると、とんでもないというふうに目を回してみせた。
「勲章の一つもくれるならわかるが、怒らせた覚えはないよ。……君のベッドから出てきたところを誰かに見られたなら別だがね、ジェシカ」
「つまらない冗談を言ってるとわたしがあなたをオーブンに入れるわよ。ともかく、思い当たるふしがあるなら気をつけておくことね」
かつかつとヒールを鳴らして去っていく大尉を敬礼とともに見送ってから、ガブリエルは顔に貼り付けていた野卑な笑みをすっと消し、思い当たるふしについて意識を巡らせた。
プライベートでジェンセンの気に障りそうなことと言ったら、やや長時間に及ぶVRMMOへのダイブくらいだが、今時の兵士としてはさして珍しいレジャーでもないし、そもそもガブリエルの場合は訓練の一助という大義名分もある。ドラッグの類は一切やっていないし、金銭的にもきれいなものだ。
あるいは、一年前まで行っていた"実験"が露見したのだろうか――と一瞬危惧したが、すぐにそんなはずはないと否定する。ガブリエルの裏の顔が、稀に見るシリアル・キラーなのだなどということを知ったら、熱血正義漢のジェンセンとしては湯気を立てるくらいではとても収まるまい。みずから特殊部隊用のMP5サブマシンガンを振りかざし、ガブリエルを処刑せんと兵舎に乗り込んできてもおかしくない。
つまり、論理的に考えればジェンセンの怒りの原因は自分以外のところにあると見るべきだろう。そう結論づけると、ガブリエルは小さく肩をすくめ、汗を流すべくシャワールームへ向かった。
久しぶりにぱりっと糊の利いた開襟シャツとスラックスを身につけたガブリエルは、肩章と靴がぴかぴかに輝いているのを確認してから、司令官室のマホガニー製のドアを叩いた。
即座に返って来たカミン! の声に、ドアを押し開けて一歩踏み込むと、これ以上ないほど背筋を伸ばして右手を額に持っていく。
「ミラー中尉、命令により出頭いたしました!」
大声で叫ぶと、デスクの向こうで立ち上がったジェンセン大佐は顰め面で敬礼を返し、言った。
「楽にしていい。……昨日の今日ですまないな、中尉。もっとも君のことだから、酒が残っているなどということは有り得んだろうが」
自身は二日酔いの頭痛に苛まれているような顔で髭をしごくと、司令官はじっとガブリエルを見た。
「中尉、君に客が来ている」
顎で示したのは隣接する応接室の扉だ。
「……客、ですか?」
よもや警察だろうか、と一瞬考え、仮に刑事がガブリエルを逮捕に来ていた場合、その拳銃を奪ってジェンセンを人質に基地を脱出できる可能性はいかほどか、と計算しかけたが、続く大佐の言葉にガブリエルは珍しく戸惑わされた。
「国家安全保障局の人間だ」
「は……? NSA(フォート・ミード)が私に何の用なのでしょう?」
「君を貸せと言ってきておる。とんでもない話だ。わが部隊を人材派遣会社か何かと勘違いしてているようだ」
吐き捨てたその口調から、ジェンセンが腹を立てているのはその客に対してなのだと悟り、ガブリエルは猛烈に頭を働かせながら答えた。
「つまり、出動任務ということですか?」
「そんな結構なものではない! どうせ公にできん汚れ仕事だろう。私としては、隊のエースである君の経歴に、おかしな横槍で汚点をつけたくない。しかし連中は、SOCOMの上のほうの命令書を取り付けてきていて、私のレベルでは拒否することができない。……が、公式な出動命令が存在しない以上、君の拒否権まで取り上げることはできんはずだ。いいな、少しでも臭いと思ったら遠慮なく断って構わんぞ。そのことで経歴に傷はつかん。それは私が保証する」
「は、ありがとうございます司令官殿」
神妙な顔で礼を言ったガブリエルは、これは何かの罠なのか、あるいは運命の導きなのかと考えながら、続けて言った。
「ともかく、NSAの話を聞いてみます。まさか私に、ヒラリー・クリントンを護衛しろとは言わんでしょう」
「どうかな。あるいはその逆かもしれんぞ」
ようやくいつものにやりとした笑いを口もとに滲ませ、ジェンセンは頷くと隣室に向かって歩を進めた。ガブリエルもそれに続く。
ろくに使われないために埃っぽい応接室のソファーに腰掛けていたのは、ひと目で上等な仕立てと知れるブラックスーツに身を固めた二人組みの男たちだった。大佐に続いて部屋に入ったガブリエルを認めると、うっそりと立ち上がり、右手を伸ばしてくる。
NSAこと国家安全保障局は、FBIやCIAと比べて知名度は低いが、その実、与えられた力の大きさでは二者を上回るものがある。活動は、通信と暗号にかかわる全ての分野に及び、例えば国内を行き交う全通信を検閲する"エシュロン"なるシステムを運用したり、独自に武装した諜報員を多数抱えていたりと、全容が知れない。
ガブリエルの手を順に握った男達の右手は、鋼の骨でも入っているのかと思えるほどにがっちりと硬く、なるほどただの事務屋ではないと思わせるものがあった。
どうやら、右側の、ブラウンの髪を丁寧に撫でつけた灰色の眼の男がしゃべり役らしく、大きな笑みでそれまでの剣呑な雰囲気を消すと、闊達に自己紹介を始めた。
「バリアンスのスペシャル・エースにお会いできて嬉しいですよ、ミラー中尉。私はアルトマン、こっちのでかいのがホルツです。訓練の邪魔してしまって、いや、申し訳ない」
アルトマンの隣でさっさとソファーに座った坊主頭の大男は、当面口を開く気はないらしく、さっさとサングラスをかけると巨大なバブルガムを噛み始めた。その様子を見たジェンセンがまた沸点に近づきはじめたのを察して、ガブリエルはとっとと本題に入るべく、挨拶抜きで問いただした。
「何でも、私にしてほしいことがあるとか?」
「そう、その通り」
細身で、一見セールスマンのような軽薄な明るさを身にまとうアルトマンは、ぱちりと指を鳴らすと、にこやかにジェンセンに向かって言った。
「大佐、すみませんがお人払いを」
「……ここには私たちしかいないが」
ぶすっとした顔で答える司令官に、物怖じする様子もなく再度繰り返す。
「ええ、ですから、お人払いをお願いします」
ようやく、自分に出て行けと言っているのだと悟ったジェンセンは、眼を剥き、視線でアルトマンを焼き殺そうとでもするかのように数秒睨みつけたあと、盛大に鼻を鳴らして身を翻した。
「隣に居るからな、中尉」
ガブリエルに頷きかけ、バターンとドアを響かせて大佐が姿を消すと、NSAの男はやれやれ、というかのように首を振りながら、座るよう身振りで示した。
ソファーに腰を沈め、足を組むと、ガブリエルは肩をすくめながら言った。
「アルトマンさん、あんた帰るとき、車に爆弾が仕掛けられてないか確かめたほうがいいよ」
「我々のシェヴィには磁石はくっつきません」
冗談なのか本気なのかポーカーフェイスで答えると、アルトマンは自分もソファーに座り、ひざの上で手を組んだ。
「さてさて、ガブリエル・ミラー中尉。あなたは、"脳まで筋肉"が身上の陸軍出にしては実に特異なキャラクターですな」
「カウンセラーなら間に合っている」
ガブリエルは素っ気無く答えたが、めげる様子も無くアルトマンは続ける。
「ハイスクールの成績は抜群、どの大学でも好きに選べたのになぜか卒業と同時に陸軍に入隊。陸軍士官学校(ウエストポイント)から始める道もあったのに二等兵として泥まみれの訓練に明け暮れ、イランへの派遣部隊には自ら志願。対ゲリラ戦で華々しい戦功を上げて、帰国後はどんな楽な配置も希望できたのに、今度は全特殊部隊のなかで最もキツいと評判のバリアンス部隊へ転属ときた」
「合衆国と国民を守るために、最も厳しい環境で奉仕するのは兵士として当然のことだと思うが」
「フムン」
アルトマンはにっと笑うと、ある種の石英のような灰色の眼でガブリエルをじっと見た。
「――そんなマッチョ志向のスーパー・ソルジャーかと思えば、休日はろくに外出もせず、バーチャル・ゲームに耽溺する一面もある。我々の統計では、あのゲーム機にハマる兵士は、大概落ちこぼれ組と相場が決まっているんですがね」
「全感覚VRシミュレーションは戦闘訓練としては実戦の次に有効だ。休日を有効利用しているだけだよ。……こんな精神分析めいたたわ言を聞かせるために呼んだなら、私はもう戻らせてもらう」
「いやいやいや、我々としては、あなたがいかに我々の求める理想的な人材かということを言いたかっただけでして。実戦経験が豊富で、知能も身体能力も高く、その上ガンゲイル・オンラインではほぼ無敗の伝説的ガンスリンガー。いや、実に素晴らしい」
「たわ言はいい加減にしてくれ。一体、俺になにをさせようってんだ」
口調を変えたガブリエルの眼前に、アルトマンはスーツの内ポケットから取り出した一葉の写真を滑らせてきた。
ちらりと眺め、ガブリエルはわずかに首を捻った。
「……なんだこれは? 船……にしては妙な形だな」
「この先をお話する前に、この機密保持誓約書にサインを頂く必要があるんですがね」
すぐに答えず、ガブリエルは写真を取り上げると、詳細に眺めた。
はるか上空から超望遠撮影したと思しき、粒子の粗い画面に捉えられているのは、青い海面に浮かぶ奇妙な構造物だった。長方形の黒いピラミッド、としか表現のしようのないそれを見た瞬間、ガブリエルは、確かに何か電流のようなものがかすかに脳内を走ったのを知覚していた。
何かある、と思った。この男達が運んできたのは、いずれ途方も無い厄介事なのは間違いないだろうが、しかし自分は、この先を聞かなくてはいけない――という確信がガブリエルの背を押した。
短く頷くやいなや、アルトマンがさらに一枚の書類を万年筆つきで送って寄越した。NSAの透かしが入ったICペーパーだ。ガブリエルは、芥子粒のようなサイズで並んでいる文字にろくろく目を通さず、末尾にサインを書き殴ると、指先で押し戻す。
紙を丁寧にフォルダーに挟み、アルトマンはにっこりと笑いながら口を開いた。
「やあ、受けてもらえると思ってましたよ、ミラー中尉」
「勘違いするな、俺が同意したのはあんたらの話を聞くことだけだ」
「聞けば、降りようとは思いませんよ、絶対にね。……煙草、構いませんかね?」
ガブリエルの返事を待たずに、卓上の灰皿を引き寄せると、アルトマンはスーツのポケットから皺くちゃのウインストンを引っ張り出し一本咥えて火をつけた。近年、政府系機関のホワイトカラーには喫煙者はほぼ絶滅しつつあることを考えると、やはりこの男たちは特殊なポジションに位置しているらしい。
美味そうに紫煙を吐き出し、アルトマンは唐突に訊いてきた。
「ミラー中尉は、日本の軍(アーミー)……いや、自衛隊(セルフ・ディフェンス・フォース)という組織に関してどの程度ご存知ですかね?」
さすがに少々意表を突かれ、ガブリエルはわずかに眉を顰めてから、わずかな知識を開陳した。
「JSDF? 確か……専守防衛(エクスクルーシブ・ディフェンス)とかいう奇妙なポリシーを掲げた軍隊だろう? イランにも部隊が展開していたが……戦闘区域には一切出てこなかった」
「イエス、そのポリシーは、戦争放棄を謳った憲法に配慮して捻り出されたものらしいですがね。しかし同時に、あの国が二度と不遜な真似をしでかさないための首輪の役目も果たしている。言わば、JSDFというのは……合衆国の、五十一番目の州の州兵のようなものと思ってください。その編成から装備まで、この六十年間、すべて我が国が適切にコントロールしてきたのです。しかし、今世紀に入ったあたりから、どうやら組織の一部に、憂慮すべき志向を持った集団が発生したようなのですな」
「ほう?」
「簡単に言えば、連中は、合衆国のコントロールの及ばない戦闘力を保有することを……いや、究極的には、我が軍に対抗し得るだけの軍事技術を開発してのけることを目指しています」
ナショナリズムなど欠片も持ち合わせていないガブリエルにとって、極東の同盟国の軍内部にどのような動きがあろうと、それはまったく興味の埒外だった。しかしここは、模範的兵士として不快感を示しておくべきだろうと考え、鼻筋に皺を寄せると呟いた。
「気に食わない話だな」
「まったくです」
「しかし、ひとつ解せないことがある。その台詞が、ペンタゴンの偉いさんの口から出てくるならわかるが、なぜNSAのあんたが日本の軍隊のことなどを気にする? あんたらの仕事は内緒話の盗み聞きだけだと思っていたが」
アルトマンは苦笑すると、短くなった煙草を灰皿に擦りつけた。
「ま、確かに、連中が開発しているのが戦車やらミサイルなら我々の出る幕はありませんな。それこそ情報を国防省に丸投げして終わりです。だが、困ったことに、開発されているモノというのは単なる兵器ではないのです。軍事を含む、あらゆる産業分野を変革してしまう可能性をはらむテクノロジーなのですよ」
「時間もないんだろう、遠まわしな言い方はやめてくれないか。一体何なんだ、そのテクノロジーという奴は」
「無人兵器制御用のAIプログラムです」
アルトマンの返答に、ガブリエルはやや肩透かしな気分を味わった。
「……そんな物、今更珍しくもあるまい。イランでも無人偵察機を山ほど飛ばしたぞ」
「能力のケタが違うのです。連中が作り出そうとしているのは、無人戦闘機を操縦しうる……つまり、有人の戦闘機を撃墜するだけの能力を持ったAIなのです」
「……ほう」
ようやく、僅かながら興味を惹かれ、ガブリエルは組んだ足をほどいた。
「それは要するに、人間と同じだけの状況判断力を持つ人工知能、ということか?」
「判断力……と言うよりも、こう表現すべきでしょうな。人間と同じか、あるいはそれ以上の思考力を備えた人工知能、と」
「人間以上だと?」
思わず鼻を鳴らす。
「この基地に導入されたVRシミュレータを動かしているのは最新最速のスパコンらしいが、そいつが操作する敵兵のお粗末さときたら、まだGGOで初心者(ニュービー)を相手にしてるほうがマシというものだぞ」
「そう、その通り」
アルトマンは、パチンと鳴らした右手の指をまっすぐガブリエルの顔に向けた。
「既知のアーキテクチャを持つコンピュータが、人間並みの思考を身につけるのはおそらく不可能でしょう。ウチには、それを認めようとしない技術者ばかりですが、JSDFの問題の集団……首謀者の名前を取って我々はK組織と呼んでいますがね、彼らは従来型コンピュータに早々に見切りをつけ、まったく新しいアーキテクチャを作り上げたのです。いや、作り上げた、ではなく……コピーした、と言うべきか」
「コピー? 一体何をだ?」
ガブリエルのその問いに対して、新しい煙草を咥えようとしながら、何気ない様子でアルトマンが発した言葉――。
それを聞いた瞬間、全身を襲った激しい震えを抑えつけるのに、ガブリエルは全精神力を必要とした。
「人間の魂(ヒューマン・ソウル)ですよ」
「……何だと?」
平静な声を出せたことに自分でも驚くほどに、ガブリエルの脳は一瞬にしてレッドゾーンにまで回転を上げていた。
わずかな時間のあいだに、改めて状況を再点検する。やはりこの男達は、NSAのエージェントというのは偽装で、本当は自分を逮捕しにきたFBIの捜査官なのではないか? だとしたら今すぐ二人を制圧し、武器を奪って脱出すべきか――と考え、右手の指先がぴくりと動いたが、そこでようやくガブリエルはあることに気付いた。
つまり、仮にFBIにガブリエルの連続殺人が露見していたとしても、彼らが、その動機までを知っているはずはないのだ。人間の魂、などという単語をガブリエルはこれまで一度として口に出したことはないし、キーボードでタイプしたこともない。どんな凄腕のプロファイラーにも、この動機だけは推測することはできない。絶対に。
ならば、これはやはり偶然――あるいは必然によって掌中に落ちてきた果実なのだ。毒があるかどうかまではまだ分からないが。
「……人間の魂だって?」
一瞬の殺意を完璧に包み隠し、ガブリエルは口の端に乗せた笑みとともに訊き返した。二本目の煙草を深々と吸い込んだアルトマンは、ゆっくりと頷き、さらにガブリエルを驚かせるようなことを言った。
「中尉は、"脳量子論"というヤツをご存知ですかね?」
反射的に否定しそうになるが、自宅のパソコンでそれを検索したことがあるのを思い出し、やや頭を傾げてみせながら首肯する。
「まあ、大雑把にはな。人間の意識は、脳の中の光量子から発生するという仮説だろう」
「ところがどうやら仮説ではなかったようなんですな、これが」
知っているよ、とガブリエルは内心で呟く。自宅の寝室には、その光量子が焼きついた写真が飾ってあるのだから。
「K組織は、中尉もご存知のアミュスフィアに使用されているNERDLESテクノロジーを極限まで拡張したシステムを開発し、脳中の光量子へのダイレクトアクセスを可能としたのです。彼らはその、人間の意識を発生させている光を、フラクトライト……波動光(フラクチュエイト・ライト)の略らしいですがね、そう呼んでいますが、要は人間の魂ですな。そいつを読み取り、なおかつコピーすることすら達成したと……まあ、簡単に言えばそういうことです」
今度は、危機感ではなく、大いなる期待の震えがガブリエルの背中を疾った。渇いた舌を紙コップのコーヒーで湿らせ、ガブリエルはゆっくりと訊き返した。
「コピーするだって? 人間の魂を? それは……つまり……」
わずかに間をおき、
「媒体が存在するということか? 人間の魂を保存するための?」
「理解が早いですな、中尉。助かりますよ。ええ、その通りです。何とか言う希土類の結晶を成型したもので、ライトキューブとか呼ばれているようですが……これくらいの」
アルトマンは両手で五インチほどの幅を作ってみせた。
「大きさの立方体です。いや実に、とんでもない話ですなあ。私のお袋はガチガチのカトリックですがね、この話を聞いたら泡を噴いて卒倒しますよ」
「本当だな、とんでもない話だ」
機械的に繰り返しながら、ガブリエルは内心で叫んでいた。まったくとんでもない――とんでもなく素晴らしい話だ! 魂を読み出し、保存する技術。ガブリエルが目指していた"死者の魂の捕獲"を一気に飛び越え、生者の魂を、その意識を保ったまま抜き取れる……?
なるほど、日本人か。彼らは確か、特定の宗教を持たない民族だったはずだ。つまり、欧米人が原体験的に刷り込まれている、生命と魂の神秘へのタブー意識と無縁だからこそ、そのような不遜極まりない"神の御業"の強奪を可能ならしめたのだろう。
自分を襲う深い感動を、目の前の男達に気取られないよう注意しつつ、ガブリエルは尋ねた。
「つまりこういうことか? そのK組織とやらが作り出そうとしている超人工知能というのは、コンピュータではなく、人間の意識と同質の存在であると?」
「まあ、広義の量子コンピュータとも言えるでしょうがね。そんなものが量産されて、戦闘機だの戦車だの魚雷だのに搭載されたら、世界の軍事バランスはいっぺんに引っ繰り返りますよ。どうあろうと放置はできない、それはあなたにも理解してもらえると思いますが、ミラー中尉」
「フム……危険だな、確かに」
そう相槌を打ったものの、しかし知ったことではない、勿論。日本が利口な無人兵器を売り出して世界の軍需産業を牛耳ろうと、あるいは機械の大軍勢をもってもう一度合衆国に戦争を仕掛けようと、自分にはどうでもいいことだ、とガブリエルは胸中で呟く。
ただ、人間の魂を複製し、小さなメディアに閉じ込めるというテクノロジー、それだけは何としても手中に収めなければならない。NSAの男たちが、自分をその目的の実現へと近づけてくれるなら、ここは"米軍兵士として憤り"、"しかし冷静な判断力を失わない"ところを見せておくべきだろう。
「どちらが飼い主なのか、黄色い連中にしっかり判らせてやる必要があるようだな。――だが、現実的に、どういう対応を行うつもりなんだ? そのK組織とやらの本拠に巡航ミサイルでも撃ちこもうというのか?」
「それができれば話が早くていいんですがね」
アルトマンはニヤっと笑うと、二本目の煙草を揉み消した。
「だが、何もかも破壊してしまうには少々勿体無い技術だ、そうでしょう?」
「無傷で奪取したい、という訳だな。――なるほど、超高度な人工エージェントなんてものが存在するなら、あんたらの大事な"エシュロン"の通信検閲能力も大幅に強化できるからな」
「なんです、それは? 聞いたことが無い名前ですな」
平然とうそぶき、黒服の諜報員はもう一度唇を歪めて笑った。
「まあ、手に入れたいと思っているのは我々だけではありませんよ。実のところ、NSAよりも、とある軍事関連企業のほうが熱心なのです。この情報は彼らが持ち込んできたものでしてね、今回の作戦にかかる諸費用も彼らの財布から出ます」
「ほう。政府のスパイより先に、自衛隊の極秘計画を探り出すとは、随分と鼻の利く企業もあったものだ」
「実は、その企業というのが、以前一度日本の産業スパイに煮え湯を飲まされていましてね。当時の経費を何としても回収する気でいるんじゃないですかね。グロージェン・マイクロエレクトロニクス、聞いたことありませんか?」
「グロージェン?」
ガブリエルは、記憶のどこかに引っかかるものを感じて首を傾げた。しかし、思い出すより早く、アルトマンがまたしてもガブリエルを驚かせるようなキーワードを発した。
「アミュスフィア・ユーザーのミラー中尉なら詳しくご存知だと思いますが……四年前、日本で起きた"SAO事件"というものを?」
「……ああ、知っている」
「あれが一応の解決を見てから、数ヵ月後に露見した付随的な事件があったのです。我が国ではほとんど報道されなかったのですがね。例のナーヴギアという機械のメーカー、レクトの技術者数名が、SAO事件の被害者の脳を利用して違法な人体実験を行いました。感覚信号のレンジを拡大して、感情や記憶の操作を試みるという、これも我々にはそれなりに興味深い実験なのですがね。その技術者から研究成果を買い受ける約束をして、前金までたっぷりと払っていたのが、グロージェンMEですよ。――しかし、首謀者のスゴウという男は研究半ばにして逮捕され、グロージェンも投下した資金を全く回収できなかった。その上、マスコミに会社の名前が出るのを抑えるのに、目の玉が飛び出るような口止め料をばら撒く破目になったようですな。あそこの社長は執念深い男でね、事件以後もレクト内部にスパイを飼い続けて、その線からK組織の活動を知ったようです」
「ああ……その事件の話はどこかで読んだ記憶があるな。グロージェンの名前は、一般のウェブログでは見かけた気がするが、噂レベルを出なかったのはそういう訳か。それで、大損した金をさらにダーティーな手段で回収しようと? 阿呆だな、その社長は」
法を逸脱することで目的を達しようとする者は、常に引き際を見極めなければいけない。それを誰よりもよく知っているガブリエルがそう呟くと、アルトマンは薄く苦笑した。
「たしかに相当にヤバいギャンブルですが、当たればデカいですよ。今後一世紀の軍需産業を支配できるかもしれないんですからね。だからこそ我々の上役も一口乗ろうという気になったのです。勿論、失敗したとき首を括るのはグロージェンの社長だけですがね」
「いかにもスパイらしい言い草だな。――で? 具体的には、どうやってK組織の研究を盗み出そうというんだ?」
「もちろん、最初は穏当な手段を検討しましたよ。CIAが自衛隊内にも相当数の協力者(アセット)を飼ってますからね。K組織の実験施設が、自衛隊の基地のどこか、あるいは偽装した工場などに存在すれば、非武力的(ドライ)な作戦で奪取することも可能だったでしょう。だが、連中も馬鹿じゃない、とんでもない場所に本拠を構えてましてね……いや実際、ぶったまげますよ」
「いい加減持って回った言い方はやめてくれないか。どこなんだ?」
「中尉はもう見てますよ。それです」
アルトマンが顎をしゃくった先には、テーブルの上に乗ったままの写真があった。ガブリエルは改めて、海洋に突き出す謎の黒いピラミッドを凝視した。
「……何なんだ、これは?」
「自走型メガ・フロートです。長辺六〇〇メートルという化け物ですよ。名前は"Ocean Turtle"……日本政府のプレスリリースでは、総合海洋研究施設ということになっていますがね、その実、自衛隊の占有物と我々は分析しています。その中枢部分に、K組織の研究機関、コードネーム"Rath"が存在するという訳です」
「……六〇〇メートルだと」
ガブリエルは少々の驚きをこめて呟いた。つまりこのピラミッドは、米海軍最大の空母ニミッツ級の二倍近い大きさだということになる。こんなものを建造してまで守ろうとしているなら、K組織の超人工知能とやらは掛け値なく世界を変革し得るテクノロジーなのだ。
可能だろうか?
K組織と、グロージェンME、そしてNSAをも出し抜き、そのテクノロジーを自分だけのものにすることが?
それを実現するためには、目の前の二人を含めて、ほぼあらゆる関係者を殺して回り、尚且つ地の果てまで――それこそ地球の裏側まで逃げ切る必要がある。数分前、グロージェンの社長のことを引き際の見えない奴だと嗤ったが、この計画に比べれば、社長のギャンブルはまだしも現実的な賭け率というべきだろう。
しかし、ガブリエルには、自分がそれを成し遂げるだろうということが分かっていた。魂の捕獲を目指して生きてきたこれまでの二十八年間、あらゆる局面で正しい選択をし、あらゆる危機を苦も無く回避してきたのだ。なぜなら、自分は、この"人間の魂"を巡る物語の主人公なのだから。
いずれ殺すと決めた男の顔を無表情に見やり、ガブリエルは話の続きを促した。
「なるほど、確かに海の上では諜報員の潜入は難しいだろうな」
「その上、日本人はみんな同じ外見ですからな。NSAにもアジア系の局員はいますが、日本人に化けきるのは難しい。補給物資を運ぶヘリの要員や、研究員に偽装して潜入するのは不可能と判断しました。となると、あとは武力攻撃作戦(ウェット・オペレーション)を実行するしかない。――ここから先は、強襲作戦担当のホルツが説明します」
ガブリエルは、こいつにも役目があったのかと思いながらサングラスの巨漢に視線を向けた。ホルツと呼ばれた男は、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、聞き取りにくい濁声で唸った。
「まず、あんたならどうするか聞きたい」
その居丈高な口調に、一瞬ムッとするが、感情を抑えて事務的な口調で訊き返す。
「敵味方の戦力と配置は」
「間違ってもステイツの関与を示す証拠は残せないからな。こっちの戦力は二小隊十二人、全員が、グロージェンMEの契約している警備会社の飼い犬だ。顔でも指紋でも追跡できないから死体を残しても問題ない。武装はサブマシンガン、アサルトライフルまで。あとは、技術者が若干名同行するが、戦力には数えられない。オーシャンタートルの警備は、自衛隊員が十名前後配備されているが、武装は拳銃だけだ」
「……フン、警備会社だと? そいつら、実戦経験はあるのか?」
ガブリエルが疑わしそうに鼻を鳴らすと、ホルツは大袈裟に肩をすくめた。
「あんたのように砂漠でドンパチした経験は無いだろうが、顔を変えなきゃならんくらいのヤバいヤマは踏んできた奴らさ。充分な戦闘訓練も積んでいる」
「どうだかな。練度はアテにならないが……しかし武器をまともに扱えれば、装備の差で何とかなるだろう。夜中にヘリで急襲、制圧するのは難しくあるまい」
「教科書どおりだな」
何が嬉しいのか、ホルツはにんまりと笑うと、ブリーフケースからさらに一枚の写真を引っ張り出し、黒い巨船の隣に置いた。見れば、グレイ一色のやけに角張った船が写っている。
「海上自衛隊の新鋭イージス艦、"ナガト"だ。常時、オーシャン・タートルから二マイル以内に張り付いている。こいつのフェーズドアレイ・レーダーを掻い潜ってヘリで接近するのは不可能だ」
「先に言ってくれ」
唸ってから、ガブリエルは少し考え、付け加えた。
「その護衛艦を沈めるわけには行かないんだろうな?」
「さすがにそこまではな。K組織は自衛隊の鬼子(チェンジリング)だ、襲撃を受けても大々的に追及はできまいと我々は予想している。だが、軍艦を一隻沈められれば、事はもう自衛隊だけでは収まらないからな」
「では、ヘリでの接近は不可能か。ならボートか? SEALで使っているゾディアックならかなりの距離を航走できるはずだが」
しかしこの案も、ホルツは噛み終えたガムと一緒に放り捨てた。
「確かに突入までは成功するかも知れん。だが、脱出が難しい。恐らくすさまじく重い機械を乗せることになるはずだからな。イージス艦が搭載している対潜ヘリに追跡されたら逃げ切れないだろう」
「空中も駄目、海上も駄目、ではどうしろと言うんだ。海に潜っていけとでも?」
ホルツの教官じみた口調にいい加減うんざりしながら、ガブリエルは吐き捨てた。が、その途端、スキンヘッドの異相をにんまりと崩し、ホルツが大きく頷いた。
「そう、それしかない。オーシャン・タートルは表向き海洋研究船だということは説明したな。実際に各種の海洋研究プロジェクトが同居していて、その中に海底探査用無人潜水艇の開発という奴がある。そいつ用の水中ドックが船底に設けられているんだ。うってつけじゃないか、お邪魔するのに」
「……アクアラングを背負って泳いでいくのか?」
「そうしたければそれでもいいぞ、でかい鮫が苦手でなければな」
さらにケースを探り、ホルツは三枚目の写真を弾いて寄越した。
「最高級のリムジンを用意した。シーウルフ級三番艦、"ジミー・カーター"……聞いたことくらいはあるだろう」
ガブリエルは、写真を摘み上げて眺めた。のっぺりとした黒い物体が、海面からわずかに顔を出し、白い航跡を引いている。
シーウルフは、冷戦時代に設計された攻撃型原潜の名前だった。ソビエトの新鋭艦、シエラ級に対抗するために最高の技術が詰め込まれ、結果として建造費がとてつもない金額に上り、わずか三艦しか造られなかったといういわくつきの船である。
現在でははるかに低コストなヴァージニア級に前線配備を取って代わられ、活躍の場を与えられぬまま引退していく運命のシーウルフを、NSAの男たちは武装強盗団の足に使うつもりらしかった。
「このジミー・カーターは、一、二番艦にない特徴として、強襲揚陸用の小型潜水艇を搭載可能だ。こいつなら、オーシャン・タートルの船底ドックにそのまま突入することができる。しかもドックから、問題のマシンが設置されているメインシャフト下部まではごく近い」
「……だが、イージス艦が問題になるのはヘリの場合と同じじゃないのか?」
「シーウルフのジェットポンプ推進システムは、十万ドルのメルセデス並みに静かさ。オーシャン・タートルを挟んだ方向から接近すれば、どんなソナーにも見つかりはしないね。また離脱も容易だ。深海に潜った原潜を見つけられるのは同じ潜水艦だけだが、周囲には配備されていない」
「なるほどな」
ガブリエルは頷き、確かにこれなら成功するかもしれない、と考えた。もっとも、"テクノロジー"の話を聞いてしまった以上、どんな無茶な作戦であっても撥ねつけることはもうできなかったのだが。
「――概要は理解した。しかし、あんたらはまだ、真っ先に説明するべきことを喋っていないな」
ホルツから視線を外し、ガブリエルは三本目の煙草をくゆらせているアルトマンをじっと見た。
「なぜ機密保全上のリスクを冒してまで俺のところに来た? もし俺がこの話を隣のジェンセン大佐に全部ぶちまけたら、あんたらの首だけじゃ済まないぞ」
アルトマンは、表情の無い灰色の眼でガブリエルの視線を受け止め、口元だけで薄く笑った。
「作戦の性格上、ことによると仮想空間内での活動が要求される可能性がありますのでね。グロージェンの雇った犬どもは、VRシミュレーター訓練などという結構なものは受けていない。かと言って、ガンゲイル・オンラインの中毒者(アディクト)を雇うわけにも行かない。毎日ベッドとタコベルを往復するだけみたいな連中ですからな。そこで、国防総省のほうに手を回して、SOCOMの誇る各特殊部隊の精鋭たちの中でもっともVR訓練に適応した隊員をリストアップしてもらったのですよ」
「……で、昨日の統合訓練でゴールドメダルを攫った俺をスカウトに来たのか。安直な話だな」
「ええ、我々も、中尉があまりにもうってつけの人材なので、逆にどこぞの諜報機関の工作なのかと疑ったくらいですからね。何せ、家族係累は一切なし、特定の女性あるいは男性との交際なし、基地内にもプライベートで親しくしている人間はいない」
「つまり、もしもの時は処分もしやすいという訳か。よく調べているな」
だが、いかにNSAでも全てを見通せるわけではない。自分たちが、どれほど最適な人間を選んでしまったのか――それを知ることができるのは、全てが終わった後のことだろう。
突入用潜水艇ね、とガブリエルは考えた。ヘリならばブラックホークでもペイブロウでも操縦訓練を受けているが、さすがに潜水艇を動かした経験は無かった。しかし、基地でVRマニュアルに触れる機会くらいはあるだろう。問題のマシンを積み込んだあと、強襲チームを全員殺し、そのまま第三国まで航行する能力が船にあればいいのだが。
「――で、仮に俺があんたらのヤバい話に乗ったとして、何か具体的な見返りはあるのかな」
口もとにわずかに野卑な笑みを作ってみせながらそう訊ねると、アルトマンも薄く笑い返し、スーツの内ポケットから小さな紙片をつまみ出した。
「無論、公式にはボーナスも勲章もありませんがね、作戦が成功すれば、グロージェンMEのCEOから私的な謝礼が送られるかもしれませんな」
記されていたのは、軍人としてのガブリエルの給与のほぼ一年分に相当する金額だった。ということはつまり、ガブリエルが海外の口座に秘匿している資金と比べれば何ほどのこともないのだが、そんなことはおくびにも出さず、下品な口笛を低く鳴らした。
「ちょっとしたもんだな、え?」
「私なら、この金でグロージェンの株を買いますね」
紙片を懐に戻したアルトマンに向かって、ガブリエルは笑みを消しながら訊いた。
「いつ、どこに行けばいいんだ」
「そう言っていただけると思っていましたよ。一週間後、宿舎まで車でお迎えに上がります。その後飛行機に乗り換えますが、少々長旅になるでしょうからそのつもりで」
「慣れているさ」
頷き、写真を回収すると男達は立ち上がったが、握手を求める気は無いようだった。ガブリエルも体を起こし、ふと思いついたふうを装って口を開いた。
「そう言えば、問題の機械だが――」
「STLとかいう略称で呼ばれているようです」
「そうか、そのSTLだが、そいつに魂をコピーされた人間はどうなるんだ?」
妙なことを聞く、というようにアルトマンは首を傾けたが、さして訝しむ様子もなく答えた。
「どうもなりはしないようですよ。もしどうかなるようでしたら、幾ら実験台がいても足りない」
「それを聞いてほっとした」
言いながら、それは少々残念だな、とガブリエルは思った。オリジナルがそのまま残ってしまっては、せっかく抜き取った魂の価値も半減だ。
だが、機械にかけ、しかるのちにオリジナルを殺せば同じことだ、勿論。
隠遁先は、できるならアジアではなくヨーロッパがいい。閑静な、森の多い郊外に居を構え、秘密の部屋にSTLという名の機械を設置して、ライトキューブに永遠に保存された魂たちと穏やかな暮らしを送れたら、物心ついた頃から自分を苛んできた餓えと渇きがついに満たされるに違いない。
手許に置く魂は厳選に厳選を重ねなくては。あの水色の髪の少女の身元を調べることはできるだろうか。そう言えば、一週間後に出発ということは、ガンゲイル・オンライン日本大会のチーム戦にエントリーすることは諦めなくてはならないようだ。
だが、いずれまたまみえることはあるだろう。それが自分と、出会うべき魂たちの運命なのだから。
NSAの男たちに続いて応接室を出ながら、ガブリエルは内心でそっとひとりごちた。そして一度瞬きをし、想念を仕舞い込むと、ジェンセンにどう言って説明したものか考えはじめた。
米海軍所属原子力潜水艦、シーウルフ級三番艦"ジミー・カーター"の艦長を務めるダリオ・ジリアーニ大佐は、魚雷管の掃除係からここまで登りつめた、骨の髄からの潜水艦乗りだった。初めて乗った船は年代物のバーベル級ディーゼル潜で、殺人的に狭い艦内のどこに行こうと、軽油臭さと歯が抜けそうな騒音に付きまとわれたものだ。
あれに比べれば、この合衆国――いや世界中のどの海軍に所属する潜水艦よりも金の掛かった船はまるでロールスロイスだ。ジリアーニは、二〇一〇年に艦長を拝命して以来、このジミー・カーターとその乗員たちに惜しみなく愛情を注いできた。絶え間ない訓練の成果で、今では高張スチールの船体とS6W型原子炉、そして百四十名の乗組員たちはまるでひとつの生き物のように結びつき、どんな海でもそこに水さえあれば自在に泳げるほどの練度に達している。
そう、まさにこの船はジリアーニの子供に等しい存在だ。残念ながら、間もなく自分は現役を退き、陸の上でデスクワークに就くかあるいは早期退職を選ばなくてはならないが、後任に推薦している副長のガスリーならきっと立派に後を継いでくれるだろう。
なのに――。
ほんの十日前、まるで晩節を汚そうとするかのようにひとつの奇妙な命令が下されたのだ。しかも、太平洋艦隊司令長官の頭越しに、ペンタゴンから直接発令されたものだ。
確かに、ジミー・カーターは特殊作戦支援用に設計された艦で、海軍特殊部隊SEALと連携するための様々な仕様を持つ。今後甲板に背負っている揚陸用小型潜水艇もそのひとつだ。
これまでにも、軍内ですら口外してはならない作戦を遂行するために、そこにSEALのコマンドたちを乗せて他国の領海を犯したことは何度かあった。しかしその目的は常に合衆国の、ひいては世界の平和を保つことだったし、死地に赴く寡黙な男たちは、間違いなくジリアーニの部下と同じ使命感を持つ海の男だった。
だが、数十時間前、パール・ハーバーで乗り込んできたあの連中は――。
ジリアーニは一度だけ、後部の待機室に"客"たちの顔を見に行ったが、その有様を見てあやうく深海に叩き出せと部下に命令しそうになった。十数人の男たちが、規律も何もなく床に寝転がり、ヘッドホンから騒音を漏らす者あり、カードや携帯ゲーム機に興じる者あり、おまけに持ち込んだビールの空き缶がそこかしこに散乱していた。
あの連中は絶対にまともな船乗りではない。それどころか、軍人なのかどうかさえ怪しい。
唯一まともそうだったのは、ジリアーニに規律の乱れを詫びた長身の男だった。Tシャツの上からでも分かる鍛えぬかれた肉体といい、きびきびした所作といい、あの男だけはかつてみたSEALの隊員と同じ雰囲気を放っていた。
しかし。
男のあの青い眼――。握手を求める右手を握り返しながら、ふとその奥を覗き込んだジリアーニは、長らく覚えのない感情を味わった気がした。あれは、そう……海軍に入るずっと以前、生まれ育ったマイアミの海でシュノーケリングをしていて、突然真横を通り過ぎていった巨大なホオジロザメの眼を間近から見てしまったときと同じ……あらゆる光を吸い込むような、完全なる虚無――。
「艦長、ソナーに感!」
不意に耳に届いた、ソナー員の鋭い声が、ジリアーニを物思いから引き戻した。
戦闘発令所の艦長席で、ジリアーニは素早く上体を起こした。
「原子炉のタービン音、目標のメガフロートに間違いありません。こいつは……でかい、とてつもなくでかいです。距離八千」
「よし、エンジン停止、バッテリーに切り替えて無音微速航行」
「エンジン停止!」
命令がすばやく復唱され、艦内に響いていた原子炉の鼓動が消滅した。
「護衛のイージス艦の位置はわかるか」
「待ってください……目標の向こう、距離一万二千にガスタービンエンジン音……音紋一致、海上自衛隊の"ナガト"と確認」
正面の大型ディスプレイに表示された二個のブリップを、ジリアーニはじっと睨んだ。
イージス艦はともかく、メガフロートは武装を持たない海洋研究船と聞いている。そこに、武装したごろつきどもを突入させるというのが今回の命令なのだ。しかも、同盟国であるはずの日本の船に。
とても、大統領や国防長官が承認した正規の作戦とは思えなかった。いや、あるいはそうなのだろうか。もしそうなら、これまで疑いすらしなかった合衆国海軍の名誉と誇りを、これからどのようにして信じていけばよいのだろうか。
ジリアーニは、ペンタゴンから命令書を携えてきた黒スーツの男の言葉を脳裏に再生した。日本は、あのメガフロートで、合衆国と再び戦争を始めるための研究を行っている。両国の友好を保つためにも、その研究は、秘密裏に葬り去るしかないのです――。
その言葉を鵜呑みにできるほど、ジリアーニは若くも愚かでもなかった。
同時に、結局、自分には従う以外の選択肢はないのだということが理解できるほどに年老いてもいた。
「"客"の準備はいいか」
傍らに立つ副長に低い声で尋ねる。
「ASDS内で待機中です」
「よし……メインタンクブロー! 目標より距離三千、深度五十につけろ!」
「アイアイ、アップトリム一〇で浮上します!」
圧搾空気がバラストタンク内の海水を押し出し、生じた浮力がジミー・カーターの巨体を持ち上げた。ブリップとの距離は、ゆっくりと、しかし確実に減少していく。
民間人に死傷者は出るのだろうか。おそらくそうだろう。彼らの全員が、強制収容所で人体実験を繰り返したナチの科学者のような連中であればいいのだが。
「目標との距離三千二百……三千百……三千、深度五十です!」
一瞬の躊躇いを振り払い、ジリアーニは毅然とした声で命じた。
「ASDS、切り離せ!」
かすかな振動が、後甲板の荷物が艦から離れたことを告げた。
「切り離し完了……ASDS、自走開始」
野犬の群れと一匹の鮫を乗せた潜水艇は、みるみる速度を増し、海面に浮かぶ巨大な亀目掛けて一直線に突進していった。
(第六章 終)