武装テロリスト八名が立て篭もったのは、今にも倒壊しそうな地上六階のアパートメントだった。
アメリカ統合特殊作戦軍(SOCOM)直轄の新設カウンター・テロ部隊、"バリアンス"第二小隊チームB(ブラボー)リーダーを務めるガブリエル・ミラー中尉は、隊員二名と共に建物の裏手に回りこむと、まるで蹴飛ばさせるために巧妙に配置されているとしか思えない空き缶や割れガラスの山を注意深く回避しながら、侵入口に設定された窓に向かって中腰で走った。
三十秒足らずで首尾よくたどり着き、窓の直下の壁に身を潜めると、装着した多機能ゴーグルからサーモセンサーのプローブを引き出し、極細の尖端を窓ガラスの割れ目から内部に挿し込む。赤外線を捉える機械の眼は、暗闇に沈む部屋の中に三人が潜んでいることをたちまち暴き出し、ガブリエルは背後の部下に指サインでそれを伝えるとセンサーを戻した。
消音器付きサブマシンガンのセーフティが解除されていることを確かめ、ベルトからスタングレネードを一つ外す。歯でピンを咥えて抜くと、先ほどの割れ目から無造作に放り込む。
ごろごろと床を転がる音、何語だかわからない叫び声に続き、密度のある眩い白光が迸った。ゴーグルが自動的に感度を絞って目を保護してくれるが、念のために視線を下に向けて三つ数える。立ち上がりざま思い切りジャンプして窓枠の上部を掴むと、腕だけで体を持ち上げて、ブーツで窓を蹴破りながら体を放り込んだ。
靴底が床に触れる前から、ガブリエルは、視力を奪われた二人の男が、髭面を歪めて罵り声を上げ、旧式のアサルトライフルを闇雲に窓に向けつつあるのを確認していた。着地と同時に身を屈め、マシンガンを構えてトリガーを引く。三連射で右側の男の額に二つの穴を開け、大きく一歩飛んで左側の男の射線から外れると、そちらにも弾をたっぷりと見舞う。
残る一人の姿を探してガブリエルが首を回すのと、ぼろぼろのソファーの裏から拳銃を手にした小柄な人影が立ち上がるのはほぼ同時だった。慌てずにそちらにマシンガンの銃口を向け、引き鉄を絞るべく右手の人差し指がぴくりと震えた瞬間、ガブリエルは銃を天井に向けて跳ね上げた。
「……おっと」
みじかく呟く。人影は、長いスカートを穿き、髪をスカーフに包んだ女性だった。『パニックのあまり銃を拾ってしまった人質住民』だ。撃ってしまえば得点は大幅にマイナスとなる。もっとも、わずかながら『人質住民を装う女性テロリスト』の可能性も残されているので、ガブリエルは油断なくマシンガンを構えたまま、左手でゴーグルを持ち上げて作り笑いを浮かべた。
「大丈夫、もう心配ありません」
ポリゴンで作られAIに動かされる人質女性に、簡単な英語で言葉を掛けながら、ガブリエルは胸中で、まったく馬鹿馬鹿しいことだと吐き捨てていた。もしこれが現実の作戦行動中なら、銃を手にしている時点で容赦なく撃ち倒しているだろうし、その判断を責められることも、いやそもそも問題にされることすらあるまい。強行突入を選択した時点で人質にある程度の犠牲者が出るのは折込済みだし、そしてそれは常にテロリスト側の非として処理されるのだ。
ならば、仮想訓練でこんな意地の悪い引っ掛けにいちいち気を遣わされることにどんな意味があるというのだろう。むしろ訓練であるなら、動くもの全てを問答無用で撃ち殺させるべきではないのか。それくらいしなければ、今頃こわごわと窓から顔を出しているような新米隊員たちが実戦で使えるようになるまでに、どれ程の時間がかかるか知れたものではない。
女性の拳銃を取り上げ、ここでおとなしくしているよう指示してから、ガブリエルはドア下の隙間から再び熱センサーで表の様子を探った。人の気配がないことを確認し、更に意地悪いオペレーターがドアにブービートラップを仕掛けていないかどうかチェックしてから、そっと押し開く。
ブリーフィングで示された内部の見取り図によれば、上に続く階段は廊下の両端に一つずつあった筈だ。部下二人には東側から上るよう手で指示し、自分は西へ向かう。
靴底から伝わる砂埃の感触、隅をちょろちょろ這いまわるゴキブリの動き、確かにこの、日本の自衛隊と共同開発した――その実態は向こうの技術の一方的無償供与だが――NERDLES型シミュレーターは恐ろしいまでのリアリティを備えている。しかし、仮想世界を見慣れたガブリエルの眼には、いくつかの粗も浮かび上がって見える。
その最たるものが、"ポリゴンで人間をリアルに作ろうとすればするほどその違和感は増大する"という原則が無視されていることだ。先ほどのアラブ系テロリスト達も、人質の中年女性も、一見ぞっとするほどの精細さで顔を造り込まれていたが、それゆえに動いたり喋ったりしたときのいわく言いがたい気持ち悪さも鳥肌ものだった。動かすのなら、むしろある程度デザインはデフォルメーションしたほうがいい、というのが日米の最先端を行くVRMMOメーカーの共通認識になりつつあるのだ。
しかし、その方向性には、太平洋以上の開きがある。アメリカで運営されているVRMMOゲームのほとんどが、伝統的な過剰カリカチュアライズに則ったデザインを採用していて、異常に上腕の発達した大男や、蜂のようにウエストのくびれたグラマー女、あるいは人間ですらないモンスターの姿をしたプレイヤーばかりが闊歩することになる。ゲームとしてはそれが正解なのだろうが、ガブリエルには物足りない。
ガブリエルが休暇のたびに基地内の宿舎に閉じこもり、VR世界に耽溺しているのは、ひとえに剣や銃で戦うポリゴン体の向こうの、生身のプレイヤーを感じるためだ。圧倒的なガブリエルの戦闘力に屈し、怒り、憎しみ、恥辱、そして恐怖に沈んでいくプレイヤーの魂を余すことなく体感する――、その目的のためには、アメリカ製ゲームのいかにもコミック然としたキャラクターデザインは少々具合が悪いと言わざるを得ない。
その点、日本のVRMMOのデザインは申し分無い。ポリゴン体は皆、違和感を覚えさせない程度にデフォルメされおり、感情表現を阻害しない程度にリアル、尚且つ肌の質感はフレッシュで美しい。大抵のゲームはアメリカからのログインを許可していないため、アカウントを取るにはそれなりの金と手間が必要となるが、恐らく現実のプレイヤーと年齢的には大差ないのだろう若々しい外見の少年少女たちがガブリエルの武器の下に、生々しい感情の発露とともに絶命していく瞬間の快感は苦労に見合って余りあるものだ。
一個の戦闘機械と化し、正確無比な手順でシミュレーター訓練を攻略しながら、ガブリエルの想念は、数日前に参加したVRMMOゲームのトーナメント大会へと戻っていた。
ガンゲイル・オンラインという名のそのゲームは、運営体はアメリカの企業だが、使用されているモジュールは日本で無償配布されているもので、キャラクターデザインも日本市場向けのものとなっている。ガブリエルは非公開のプロキシサーバを経由してその大会にエントリーし、ゲームが慣れ親しんだタクティカル・コンバットタイプのものだったせいもあって、大いに殺戮を愉しんだのものだ。
ことにガブリエルを満足させたのは、小柄な体格に不釣合いな対戦車ライフルを抱えたうら若い少女プレイヤーだった。ほとんどの参加者が、正面から撃ち合うしか芸の無いプレイヤーだったために、ガブリエルは様々なトラップで撹乱した上でナイフで止めを刺すという最も好みの殺し方を思う様味わえたのだが、あの少女だけはどうしても接近を許さず、仕方なく遠距離からC4爆薬で仕留めた。しかし、自分が罠に掛かったと知った瞬間の少女の瞳――怒りと闘争心に、僅かな屈辱をブレンドさせたあの溢れるような輝きは、ガブリエルを大いに満足させるものだった。
数日後には、同じ大会の団体戦が催される。恐らくあの少女も、仲間を集めてリベンジを挑んでくるだろう。今度こそ、背後からしっかりと拘束し、あの猫を思わせる瞳を至近距離から覗き込みながら、ナイフで喉を切り裂く。そうすれば、もしかしたら、あの瞬間に感じた奇蹟――十五年前、エレメンタリースクールに通う子供だった頃に初めて味わったあの感動に近い何かが、再び訪れるかもしれない。
髭面のテロリスト達を機械的に掃討しながら、ガブリエルは来るべき瞬間を予期して、背筋を這い登る快感に少しだけ身を震わせた。
ガブリエル・ミラーは、一九九〇年二月にノースカロライナ州シャーロットで生を受けた。
兄弟姉妹は無く、昆虫学者の父と専業主婦の母の愛を絶え間なく注がれて育った。先祖代々伝わる家屋敷は広大なもので、遊び場には事欠かなかったが、幼いガブリエルが最も好んだ隠れ場所は父親の標本保管庫だった。
ノースカロライナ大学で教鞭を取る父親は、趣味と実益を兼ねて膨大な量の昆虫標本を買い集め、また自ら採取・処理したものも含めて、広い保管部屋の四方の壁を隙間無く埋めつくすほどのコレクションを並べていた。ガブリエルは、時間があれば保管庫に篭り、拡大鏡片手に標本を眺めつづけ、それに疲れると部屋中央のソファーに腰掛けてぼんやりと空想に耽った。
天井の高い、薄暗い部屋に一人きりで、周囲を無数の、それこそ数万匹の物言わぬ昆虫たちに囲まれていると、決まってガブリエルはある種の神秘的な感慨に襲われた。この虫たちは、みんな、ある時までは生きていたのだ――生きて、元気にアフリカの草原や、中東の砂漠や、南米の密林で巣を作ったり餌を探したりしていたのだ。しかし、短い生の半ばにして採取者に掴まり、薬品的処理を施され、今はこうして銀色のピンに貫かれてガラスケースの下に行儀よく並んでいる。つまりこの保管庫は、昆虫標本のコレクション・ルームであると同時に、殺戮の証を万単位で並べた恐るべきインフェルノでもあるのだ……。
ガブリエルは目を閉じ、周囲の虫たちが不意に命を取り戻す様子を想像する。六本の足が懸命に宙を掻き、触覚が闇雲に振り回される。かさかさ、かさかさ……。かすかな音が無数に重なり、渇いた細波となってガブリエルに押し寄せる。かさかさ、かさかさ。
ぱっと目蓋を開く。周囲を見回す。ひとつのケースの隅に留められた、緑色の甲虫の足が動いたような気がして、ソファーから飛び降りて駆け寄る。青い目を見開き、食い入るように見つめるが、その時にはすでに昆虫は物言わぬ標本に戻っている。
金属のように艶やかなエメラルドグリーンの甲殻、鋭いトゲの生えた脚、極小の網目の入った複眼。無機質の工芸品としか思えないこの物体をかつて動かしていたのは、一体どのような力なのだろうとガブリエルは考える。昆虫には、人間のような脳は無いのだと父親は言った。ならどこで考えているの、と問うと、父親は一本のビデオを見せてくれた。
撮影されていたのは、交尾中の一対のカマキリだった。鮮やかな緑色の、丸々と太ったメスを、背後から小さなオスが押さえ込み、交接器を接合させている。メスは、しばらくじっと身動きしなかったが、ある瞬間思い立ったようにオスの上半身を腕で抱え込み、その頭部をむしゃむしゃと咀嚼し始めた。ガブリエルが驚愕しながら見守るなか、オスはなおも交尾を続け、おのれの頭が完全に食い尽くされたところで交接器を離した。そして、メスの鎌を振りほどいて一目散に逃げ出したのだった。
頭部を完全に失っているにも関わらず、オスカマキリは草の葉を伝い、枝を上り、器用に逃走を続けた。その映像を指しながら、父親は言った。カマキリを含む昆虫は、全身の神経がすべて脳のようなものなのだ。だから、感覚器に過ぎない頭を失っても、しばらくは生きていられるのだ、と。
そのビデオを見てから、ガブリエルは、ならカマキリの魂はどこにあるのだろうと数日間考えつづけた。頭を取っても生きていられるなら、足を全て失ってもさして問題ではあるまい。ならば腹か? しかし腹というのは餌の消化装置だろう。なら胸だろうか? しかし虫たちは、ピンで胸を貫かれても元気にじたばたと足を動かしつづける。
体のどこの部位を失っても即死しないというなら、カマキリの魂は、その体を作る物質とは無関係に存在すると言わなくてはなるまい。当時八歳か九歳だったガブリエルは、家の周囲で捕らえた昆虫を使って何度か実験を試みた末、そのように独自の結論を得た。昆虫という半機械的な仕掛けを動かす不思議な力、つまり魂は、どの部位を損傷されようとしぶとくその器に留まろうとする。しかしある瞬間、もう無理だと諦めて器を捨て、離脱していく。
離れていく魂をこの目で見たい、とガブリエルは熱望した。しかし、どれほど拡大鏡に目を凝らし、慎重に実験を行っても、昆虫の体から離れていく何ものかを見ることはできなかった。屋敷の裏手の広い林の奥深くに作った秘密の実験場で、どれほどの時間と熱意を費やしても、望みが叶うことはなかった。
自分のそのような渇望が、親たちには歓迎されないものであろうことは、幼いガブリエルにも判っていた。だから、カマキリの一件以来、父親には二度と同種の質問はしなかったし、実験のことも決して口外しなかった。しかし、隠せば隠すほど、その欲求は大きくなっていくようだった。
その頃、ガブリエルには、とても仲のよかった女の子の友達がいた。アリシア・クリンガーマンというその少女は隣の屋敷に住む銀行家の一人娘で、当然同じエレメンタリースクールに通い、親同士も親しくしていた。物語が好きな、内気な少女で、外で遊ぶよりも家の中で一緒に本を読んだりすることを好んだ。ガブリエルは、自分の秘めたる欲求のことはアリシアにも巧みに隠し、虫の話は一切しなかった。
しかし、考えるのだけはやめられなかった。自分の隣で、天使のような微笑みを浮かべながら子供向け幻想物語を朗読するアリシアの横顔をそっと覗き見ながら、アリシアの魂はどこにあるのだろう、とガブリエルは何度も考えた。昆虫と人間は違う。人間は、頭を失ったら生きられない。だから、人間の魂は頭にあるのだろう。だがガブリエルは、父親のパソコンでネットを渉猟し、脳の損傷が必ずしも生命の喪失と直結しないことをすでに学んでいた。太い鉄パイプで顎から頭頂までを貫かれても死ななかった建設作業員もいるし、患者の脳の一部を切除して精神病を治療しようとした医者もいる。
だから、脳のどこか一部なのだ。綿毛のような金髪に縁どられたアリシアの額を見ながら、ガブリエルはそう考えた。脳組織に深く深く覆われた核に、魂の座がある。
自分は将来、アリシアと結婚することになるのだろう、とガブリエルは何の疑いもなく信じていた。だから、いつの日か、アリシアの魂をこの目で見ることができるかもしれないという深い期待をひそかに抱いていた。天使のようなアリシアの魂は、きっと言葉にできないほど美しいに違いない。
ガブリエルのその望みは、思いがけないほど早く、半分裏切られ、半分叶えられることとなった。
二〇〇一年九月十一日、ガブリエルにとって――いや、全米に暮らす人間にとって一生忘れられないだろう事件が発生した。
シャーロットの北東五百マイルに位置する大都市で、二機の旅客機が高層ビルに突入し、ひとつの時代を終わらせた。凄まじい土煙を噴き上げながら崩壊するビルディングの映像を、テレビで繰り返し観ながら、ガブリエルはその瓦礫の中で消滅した数千の魂のことを思った。いけないことだと分かってはいたが、どうしても、近隣のビルの高層階から貿易センター崩落の瞬間を眺められなかったのが残念だという気持ちを抑えることができなかった。もしあの場に居合わせれば、崩れ落ちる瓦礫の下から現われて天に昇る魂たちの輝きを見ることが出来たかもしれないのに。
同時多発テロは、様々な形で合衆国を激しく揺さぶった。その波は、アパラチア山脈のふもとに広がるシャーロットの街まで、具体的にはガブリエルの家のすぐ隣にまで及んだ。事件で最も打撃を受けたのは航空業界であり、全世界で航空会社の倒産が相次いだのだが、そのうちの一つの企業に、アリシアの父親のクリンガーマン氏とその顧客が多額の投資をしていたのである。
巨大な負債を抱え、顧客たちから容赦なく責められたクリンガーマン氏は、拳銃自殺という形で人生の幕を下ろした。家屋敷を含む資産を全てを差し押さえられ、残された夫人とアリシアは、小さな工場を営む親戚を頼って遠くピッツバーグまで引っ越すこととなった。
ガブリエルは悲しかった。十一歳の子供にしては聡明だった彼は、十一歳の子供でしかない自分がアリシアを助けることなど出来るはずもないことを理解していたし、今後アリシアを待っているであろう過酷な境遇も明確に想像できた。完璧なセキュリティに守られた屋敷、熟練のコックが作る毎日の食事、裕福な白人の子供ばかりの学校、それらの特権はアリシアの人生からは永遠に去り、貧困と肉体労働がそれに取ってかわるのだ。何より、いつか自分のものになるはずだったアリシアの魂が、名も知らぬ誰かたちによって傷つけられ、輝きを失っていくのは、ガブリエルには耐えがたいことだった。
だから、彼女を殺すことにした。
アリシアが学校で最後の挨拶をしたその日、帰りのスクールバスから降りた彼女を、ガブリエルは自宅の裏の森に誘った。道路や家々の塀に設置された全ての監視カメラを巧妙に避け、誰にも見られていないことを確認しながら森に入ると、足跡が残らないよう落ち葉の上を十分ほど歩き、密生した潅木に囲まれた"秘密の実験場"にガブリエルはアリシアを導いた。
かつてそこで数え切れないほどの虫たちが死んでいったことなど知るよしもないアリシアは、ガブリエルがぎこちなく彼女を抱きしめると、一瞬身を固くしたが、すぐに同じように腕を回してきた。小さくしゃくりあげながら、アリシアは、どこにも行きたくない、ずっとこの街にいたい、と言った。
僕がその望みをかなえてあげるよ――と心の中で呟きながら、ガブリエルは上着のポケットに手を入れ、用意しておいた道具を取り出した。父親が昆虫の処理に使う、木製の握りがついた、長さ四インチの鋼鉄製ニードルの尖端をそっとアリシアの左耳に差し込み、反対側をもう一方の手で抑えておいて、一瞬の躊躇もなく根元まで貫き通した。
アリシアは、何が起きたのかわからない様子で不思議そうに目を瞬かせたあと、不意に体を激しく痙攣させ、喉のおくでくぐもった奇妙な音を漏らした。数秒後、見開かれた青い瞳がふっと焦点を失い、そして――
ガブリエルは、それを見たのだった。
目の前の、アリシアの滑らかな白い額の中央から、きらきらと光り輝く小さな雲のようなものが現われ、ふわりふわりと漂いながらガブリエルの眉間に近づくと、そのまま何の抵抗もなく染み込んだ。
いきなり、周囲を包んでいた秋の宵闇が消えた。空から、高い木々の梢を貫いて幾つもの白い光の筋が降り注ぎ、かすかな鐘の音さえ聴こえた気がした。
凄まじい法悦と高揚感に、両目から涙が溢れた。自分は今、アリシアの魂を見――それだけではなく、アリシアの魂が見ているものをさえ見ているのだ、ガブリエルはそう直感した。
輝く小さな雲は、永遠とも思えた数秒をかけてガブリエルの頭を通り抜け、そのまま天からの光に導かれるように上昇を続けて、やがて消え去った。同時にあたりに暗がりと静寂が戻った。
生命と魂を失ったアリシアの体を両手で抱えながら、ガブリエルは、今の体験が真実だったのか、それとも極度の昂奮がもたらした幻覚だったのかと考えた。そして、そのどちらであろうとも、自分は今後ずっと、今見たものを追って生きていくことになるだろうと確信した。
アリシアの骸は、かねて見つけておいた、樫の巨木の根元に開いた深い竪穴に放り込んだ。次に、自分の体を慎重に調べ、付着した長い二本の金髪を摘み上げると、それも穴に捨てた。ニードルは綺麗に洗ってから父親の道具箱に戻した。
アリシア・クリンガーマン失踪事件は、地元警察の懸命の捜査にも手がかりひとつ発見されず、やがて迷宮入りした。
ガブリエルは当初、脳を研究する科学者を目指そうと考えた。しかしすぐに、学者が自由に出来るのはサルの脳がせいぜいであることを知った。サルの魂に興味が持てるとは思えなかったので、次に、合法的に人が殺せる職業に就くことにした。警官になるのは難しくなさそうだったが、そうそう犯罪者を射殺する機会などありそうもなかったし、世界情勢的にも兵士になるのが最良の選択と言えそうだった。
決意したその日から、ガブリエルは計画的にトレーニングを始めた。両親は不思議がったが、高校でフットボールをやりたいからだと言うとあっさり納得し、高価なエキササイズマシンさえ買ってくれた。
もともと体格に恵まれていたガブリエルの身体能力はみるみる上昇し、高校に進学してからは宣言どおりフットボールだけでなく、バスケットボールとボクシングでも花形選手となった。肉体的には、軍隊の訓練がどれほどハードなものであろうと耐えられるという確信を得るに至ったガブリエルだが、最大の障壁は両親の理解だった。息子は当然、一流の大学に進みトップエリートの道を歩むのだと信じて疑わない両親に、軍隊に入りたいなどと言っても一顧だにされないだろうことは明白だった。
十八歳になる直前、ガブリエルは毎年夏に訪れるノックスビルの別荘で、両親に酒に混ぜた多量の睡眠薬を飲ませて昏睡させたうえで建物ごと焼死させた。高校を卒業すると、相続した財産のうち不動産は全て有価証券に換え、そのまま一番近い陸軍徴募事務所に足を運んだ。
屋敷を不動産業者に引き渡す前日、ガブリエルは何年ぶりかに標本収納庫を訪れ、埃をかぶったガラスケースの向こうから囁きかける虫たちの声に耳を傾けようとした。しかし、かつて彼に、生命と魂の秘密をかさかさと語ってくれた数万匹の昆虫たちは、ピンに貫かれたまましんと黙り込むだけだった。
ガブリエルは、肩をすくめてその部屋を後にし、そして二度とシャーロットの土を踏むことはなかった。
コンバット・シミュレーターのダイビングシートから身を起こしたガブリエルは、傍らに立つ女性一等軍曹が尊敬と緊張の面持ちで差し出すゲータレードのボトルを受け取り、一息に飲み干した。空容器をガブリエルから受け取り、一歩下がった若い兵士は、頬を僅かに紅潮させながら口を開いた。
「見事でした、中尉(LT)。文句なしの最高得点です。いったい、どのような訓練をすればあれほど的確に動けるのですか?」
ガブリエルは、タフな小隊長が浮かべるのに相応しい野性的な笑みを片頬に刻んで見せながら、短く答えた。
「一度の実戦は百の訓練にまさるのさ、一等軍曹(ガニー)。本物の糞溜め(ドッジ・シティ)を経験すれば、仮想訓練などニンテンドーと大差ない。君にももうすぐそれを知る機会が来るはずだ」
「そのときはぜひ、LTのブラボーチームに所属したいものです」
「おいおい、ミラー中尉、その情報をどこから手に入れた」
笑いを含んだ声の主は、白いものが混じるブラウンの髪を短く刈り込み、口ひげをたくわえた壮年の男だった。対テロ部隊バリアンスの司令を務めるジェンセン大佐だ。一等兵曹が敬礼して去っていくのを見送ってから、ガブリエルは歯をむき出してニヤリと笑い、答えた。
「最高司令官閣下がアジアの将軍にきついボディ・ブロウを見舞うつもりでいることは、この基地の全員が知っていますよ、大佐」
「だが、我々の出番があるかどうかは決まっていないぞ」
「あの国で戦うとなればいきなり市街戦です。SEALやグリーン・ベレーには道とドブの区別もつきゃしませんよ」
「ふっふっ、まあそういうことだな」
満足そうに髭をしごきながら頷くと、ジェンセンは表情を改め、続けた。
「ともあれ、今回の基地間合同シミュレーション訓練における総合成績トップは君だ、ミラー中尉。おめでとう」
「ありがとうございます」
差し出された右手をがっちりと握り返しながら――
冷え切った魂の奥底で、茶番だ全て、とガブリエルは呟いていた。
八年前、新品のブーツを履いて訓練教官の前に立ったその日から、ガブリエルは合衆国陸軍兵士という役目をこなす(ロールプレイ)には二つのものを充分に示さなければならないことを知った。一つは合衆国への忠誠心、もう一つは仲間の兵士たちとの絆である。
人間の魂なるものを知る、そのために合法的に沢山の人を殺す、ただそれだけを動機として入隊したガブリエルは、忠誠心も絆も、一オンスたりとも持ち合わせていなかった。いや、そのような非合理的な感情がガブリエルの中に存在したことはかつてなかった、と言うほうが正しい。ゆえにガブリエルは、自分が愛国心に溢れた仲間思いの男であると見せかけるすべを学ばなければならなかった。
幸い、高校のアメフト部で似たような演技を三年間続けた経験が役に立ち、ガブリエルはすぐに脳まで筋肉でできているような同僚や上官たちの信頼を集めることに成功した。訓練でも抜きん出た能力を発揮した彼は、折しも勃発したイラン戦争に先遣機械化部隊の一員として派兵され――そして、殺して、殺して、殺しまくった。
テヘランへの進軍の途上では、ブラッドリー歩兵戦闘車の二十五ミリ機関砲でイラン軍の装甲車や歩兵をなぎ倒し、首都を占領してからは、掃討部隊に志願して、ライフルとコンバットナイフで街のあちこちに立て篭もるゲリラたちを始末して回った。
仲間の兵士たちは次々と敵弾に倒れ、あるいは神経症を発して後送されるものも続出したが、ガブリエルは不思議と傷一つ負うこともなかった。それどころか、日々、これこそ我が天職であるという歓喜のなかに居たとさえ言える。浅黒い肌に濃い髭を生やした異国の兵士達は、装備も練度も士気もすべてが不足しており、捕食昆虫のように背後から忍び寄るガブリエルの銃弾あるいはナイフによってあまりにも呆気なく倒れていった。
最終的に、ガブリエルは二年半で五十人以上の敵兵と、戦闘に巻き込まれた七人の民間人を殺した。気付くと彼は、二つの勲章と曹長の肩章を手にしていた。
しかし、ただひとつ残念なことに、どのような殺し方をしても、体から離れる魂を見る機会はついに訪れなかったのだった。遠距離からライフル弾で倒した場合はもちろん論外、接近して拳銃で仕留めても、額から離脱する光の雲は現われなかった。
惜しい、と思えたのは背後からナイフで喉あるいは心臓を一突きにしたケースだ。敵兵の頭に自分の頭を密着させ、スムーズに刃を埋めると、獲物の体から力が抜ける瞬間、ぴりぴりと電気のようなものがガブリエルの脳を刺激した。やはり、人間が死ぬそのとき、なんらかのエネルギーが脳から体外へ離脱しているのだ――という確信を得るには充分な現象だったが、幼い頃アリシアの魂に触れたときのような法悦には程遠かった。
一つ学んだのは、対象の死の瞬間、肉体的または精神的に乱れれば乱れるほど、魂の離脱現象は起こりにくい、という事実だ。あの日、アリシアは、自分に何が起きたのかわからないまま死んだ。ゆえに、恐怖も絶望も感じることなく、ただかすかな戸惑いの中で絶命し、その魂は損なわれることなく脳から飛び去った。
逆に、ガブリエルが殺したイラン人兵士の大部分のように、怒り、恐れ、もがき、苦しんで死ぬと、その断末魔によって魂は離脱する前に無惨に飛び散ってしまい、形を保つことができない。だから、殺すときは、可能な限り静かに、滑らかに不意をつき、最小限のダメージによって生命を奪う必要がある。
戦争の終盤に主な任務となったゲリラ拠点の掃討任務において、すでにサイレント・キルの達人となっていたガブリエルは、夜闇に紛れて敵兵の背後から近づくと無音の一撃でその命を奪った。小隊の仲間たちは、ガブリエルのことを畏怖をこめてマスター・ニンジャと呼んだが、どれほどその技術に熟達しようとも、彼は満足できなかった。
理想を言うならば――と、毎夜簡易ベッドに横たわりながらガブリエルは考えた。
可能ならば、ナイフよりも更に鋭く、滑らかな武器が欲しい。アリシアを殺した鋼鉄製ニードルのような……いや、もっと言えば、物質的でさえない凶器が必要だ。例えば、致命的なレーザーか、マイクロウェーブのようなもの。最低限の損傷で脳の活動を止め、魂を損なうことなく離脱させる……。
携行型レーザー兵器の研究が進められているという話はあったが、残念ながらイラン戦争の終結までに実戦配備されることはもちろんなかった。二年半はあっという間に過ぎ去り、軍はガブリエルがじゅうぶんすぎるほど合衆国に貢献したと判断して、彼を少尉の位とともに本国に戻した。
合法的殺人の権利を奪われ、やり場のないエネルギーをハードトレーニングで押さえ込む日々が続いた。
ある日、ガブリエルは基地のメスホールでコーヒー片手に見るともなくテレビを眺めていた。CNNのキャスターは、極東の同盟国で起きた奇妙な事件のニュースを昂奮した口調でまくし立てていた。
その内容が頭に入ってくると同時に、ガブリエルはコーヒーの紙コップを思わず握り潰していた。そのニュースは、発狂したゲーム開発者が、ヘルメット型インターフェースをハックして、高出力マイクロウェーブを発生させて数千人のゲーマーの脳を破壊したと伝えるものだった。
以前から、日本において新種のVRハードウェアが開発されたという話は知識として記憶に留めてはいた。しかしガブリエルは幼少の頃よりテレビゲームの類にほとんど興味が無かったし、そのNERDLESという奇妙な名前のテクノロジーは主にアミューズメント用途に使用されるという報道だったので、殊更気に掛けることもなかったのだ。
だが、"マイクロウェーブによる脳の破壊"というフレーズは、否応なくガブリエルの意識を惹きつけた。それこそまさに、イランより帰還して以来、ガブリエルの最大の研究テーマであった"静かで瞬間的で清潔な殺人"を実現する数少ない手段だと思えたからだ。
魂の離脱現象を再現するためには、肉体的・精神的ストレスを極小に留めた死、という矛盾する状況を作らなければならない。当然、刺殺、銃殺、殴殺といったありきたりな手段では、対象者は大いに暴れ、おののき、死に最大限抵抗しようとするので、目的の実現は到底覚束ない。
ならば、対象者の意識を薬品等で喪失させてから致命傷を与える――あるいはいっそ、麻酔薬に類するものを使って眠るごとき死に導いたら?
ガブリエルはそのアイデアを、兵士としては護るべき合衆国国民を実験台に用いて試してみた。休暇を利用して、基地のあるジョージア州リバティー郡からは州境をまたいだ大都市メンフィスやジャクソンビルに赴き、盗んだり偽名で購入した中古車を使って不運な獲物を拉致したのだ。
ガブリエルに銃を突きつけられた実験台たちは、睡眠薬だと渡された小瓶の中身を言われるままに呷った。その説明は嘘ではなかったが、限界量の数十倍のアモバルビタール製剤をシロップに溶いたその液体は、飲んだものを容易く、永遠に醒めない昏睡へと導いた。
犠牲者の呼吸が徐々に途切れがちになり、体温が低下していくのを、ガブリエルは冷静に――遠い昔、秘密の研究室で、解体された昆虫を見守ったときと同じように――観察した。彼らの死はまさに眠るようで、魂の昇天を乱すものは何一つ無いように思われた。
しかし、奇跡が再現されることは一度としてなかった。同じ方法で三人を殺してから、ガブリエルは失望とともに認めざるを得なかった。脳に作用する類の薬品を用いると、やはり魂は離脱前に損壊されてしまうのだ。
その後、全身を凍らせるという方法で一人、注射器で血液を大量に抜き取るという方法で一人を殺したが、そのどれもが失敗だった。
戦地から帰還して一年が経ち、ガブリエルは焦りと落胆の中にあった。人間の魂の謎を解き明かし、離脱現象を確実に引き起こす方法を見つけ、そして究極的には離脱する魂を捕獲するという崇高な目的のために十年以上を費やしてきたが、いまだ手がかりさえ得られていない。やはり兵士となったのは間違いだったのだろうか? 除隊し、大学に入って大脳生理学をまなぶべきだろうか? それとも、あの出来事――アリシアの無垢なる魂の昇天を己の魂で感じた至高体験そのものが、ある種の幻覚作用だったのだろうか……?
そんな迷いのなか、ガブリエルは、"SAO事件"のニュースを見たのだった。
CNNのキャスターが、次の話題です、と言ったのを機に基地内の自宅に戻り、ガブリエルはネットで関連するニュースを漁った。そして、問題の殺人機械"NERVGEAR"の構造を知り、昂奮とともに「これだ」と呟いていた。
ナーヴギアは、延髄部分で体感覚をインタラプトすることで、使用者の意識を肉体から分離させる。つまり、死の際においても、使用者は肉体の異常を体感しないということだ。さらにギアが使用者を殺す手段は、ヘルメット内の素子から高出力マイクロウェーブを発して脳幹部分を一瞬で破壊するというものだ。つまり人間の意識、魂が存在する(とガブリエルが考えている)大脳辺縁系へのダメージは最小限にとどめ、生命現象そのものを終わらせる。あの日、アリシアの脳幹を貫いたニードル以上にクリーン、そしてスマート。
まったく理想的だった。
事件発生から数日で死んだという大量の若者たちの脳から一斉に離脱する魂の群れのきらめきが目に見えるようだった。
これを手に入れなくてはならない、どうしても。ガブリエルはそう決意した。
部隊の仲間たちには無論秘密にしていたが、ガブリエルには両親から相続した膨大な資産があった。国外の銀行――具体的にはスイスとケイマン諸島――で管理していたので、軍の身上調査にも引っかかっていないと確信できた。
今まで、ほとんど手をつけていなかったその金に、ガブリエルは初めて頼った。身元を追跡できないよう注意しながら、ネットを通じて私立探偵にナーヴギアの入手を依頼したのだ。
探偵は、直接日本に飛び、現地のブラックマーケットで品を買い付けてきた。総額で三万ドルを超える報酬を要求されたが、ガブリエルは黙って払った。偽名で取ったホテルの部屋に、フェデックスで届いた箱に収められていたのは、まだ真新しい濃紺の外装を持つ流線型のヘッドギアと、殺人ゲーム"Sword Art Online"のディスクだった。しかし新品ではない。添付された報告書によれば、以前の持ち主は十九歳の大学生で、事件発生の二十二日後に死んだという。
次にすべきことは、"処刑"時に損傷した信号発生素子の修理と、制御プロトコルの解析だった。ガブリエルはそれを、別の探偵を通して見つけた電子工学部の学生にまたしても大金を払って依頼し、二ヵ月後、再生されたギアを受け取った。
再び、狩りの季節がやってきた。
車を使って拉致した獲物に、ガブリエルはヘッドギアをかぶるよう命じた。当時まだアメリカには類する機械は無く、銃を突きつけられたハイティーンの少年は、泣きながらもいぶかしそうにギアを装着し、顎下でロックを締めた。
シガーソケットにアダプタを介して接続したナーヴギア本体の電源を入れると、ガブリエルの目の前で少年の体からくたりと力が抜けた。工学部の学生が"Sword Art Online"のリバース・エンジニアリングによって解析・作成したプログラムがロードされ、現実の肉体から切り離された少年の意識は暗闇の中、一本のブルーのゲージを見ているはずだった。"Hit Point"を表すそのゲージが突如減少を開始し、半減したところでイエローに、残り二割になったところでレッドに変化、そしてゼロになると、眼前に"You Are Dead"というメッセージが表示され――。
ガブリエルの眼前で、少年の体が一瞬ぴくりと震えた。せっかく直した素子を再び焼き切らないよう、出力はやや抑えてあるが、それでも充分に致命的な電磁波が少年の脳細胞を沸騰させたのだ。
すかさず、ガブリエルはヘッドギアからわずかに覗く少年の額に、自分の額を押し当てた。目を閉じ、何ものをも逃すまいと意識を集中する。
そして、彼は見た。ついに、それを見たのだ。
きらきらと輝く光の雲が、目蓋を閉じているはずのガブリエルの眼前に広がり、そのまま脳に染み込んでくる。彼は、名も知らぬ少年の恐怖、戸惑い、絶望を感じた。少年がこれまで生きてきた十数年を、コンマ数秒のラッシュ・フィルムとして感じた。少年が両親から与えられてきた愛情、少年が両親や妹、飼い犬に感じている愛情、その汚れ無き純粋なるエネルギーを感じた。
ガブリエルの目から涙が溢れた。アリシアを殺したときには及ばないが、それでも圧倒的な法悦が彼を包んでいた。少年の魂を、このまま己の脳に閉じ込めたい、と彼は懸命に望んだ。
だが、至高体験は、わずか数秒しか続かなかった。光の雲はガブリエルの頭を抵抗なく通過し、そのまま車の屋根を透過して、夜空へと昇っていった(ように感じた)。
ガブリエルは、ようやく、実験が次のレベルへと進んだことを自覚していた。つまり、"魂の捕獲"という段階へ。
"SAO"によって殺された初のアメリカ人となった少年の遺骸と、犯行に使用した中古のピックアップを注意深く処分し、基地へ戻るべくバイクを飛ばす道すがら、ガブリエルはひとつのことをずっと考えていた。
これまでに二度知覚した魂の離脱は、はたして何らかの神秘的現象なのだろうか、それとも科学で説明のつく物理現象なのだろうか?
おそらくは――後者であろう。とガブリエルは判断した。
光の雲の離脱が、主の御許に召される魂の昇天であるならば、持ち主の死に様によって起きたり起きなかったりするのは甚だ不公平というものだ。脳幹をピンポイントで破壊された人間のみ受け入れる天国の門など、ナンセンスの極み以外の何ものでもない。
つまりあれは、人間という有機機械を制御するある種のエネルギーの流出、と捉えるべきものだろう。であるなら、何らかの手段によって閉じ込めることも可能なはずだ。しかし一体、どのようなエネルギーなのか?
フォート・スチュアートの自宅に戻ったガブリエルは、早速ネットに接続し、様々な資料の渉猟を開始した。基地内のネットワークを流れるパケットが、NSAの情報監視システム(エシュロン)にチェックされていることは承知していたので、死、殺人、魂といった危険なキーワードの使用を避けたため時間がかかったが、ついに一週間後、興味深い情報を掲載しているサイトに行き当たった。
それは、ペンローズというイギリスの学者が提唱した、"量子脳理論"なるものを解説しているサイトだった。その説によれば、人間の思考を形作っているのは、脳細胞の微細管構造の中に存在する、量子状態の光が引き起こす波動関数の客観的収縮だという。
光量子! それこそまさに、あの揺らめく光の雲を指し示す言葉だ、とガブリエルは直感した。
つまり、離脱する魂を捕獲し、我が物とするためには、光を閉じ込められる容器があればいいということになる。
だが、それがどうにも難問だった。
光を閉じ込める――、言葉にすれば簡単だが、空気によって絶縁できる電気とは違い、光というのはどこにでも気ままに飛び出して行ってしまう。まず、内面を鏡状に加工した球体、のようなものをガブリエルは想像したが、反射してくる光の速度を上回るスピードで蓋を閉めることはできそうにない。
ならば、ある方向から入射された光を外に出さないような物質があればいいということになる。ガブリエルは半信半疑で検索を続け、そしていかなる偶然か、"光の閉じ込め"というテーマが近年の通信業界において最先端の研究テーマとなっていることを知った。
なんとなれば、通信インフラの光回線化が著しい昨今、その回線速度のボトルネックとなっている既存のルータ機器に代わる"光ルータ"というものの開発が各社で競われているのだった。その機械には、光の減速と閉じ込めという機能が必須であり、すでに"ホーリーファイバー"や"フォトニック結晶"といった基礎技術の開発は成功し、実用化が進められている段階らしかった。
ガブリエルはそれら実験段階の部材を入手するべく方法を模索したが、いくら資金が豊富な彼にも、情報管理の厳しい大企業の開発技術を盗み出すことはハードルが高すぎた。不本意ながら、ガブリエルは、光ルータ機器が実用化・市販されるまで――おそらくは目玉が飛び出すほど高価であろうが――待つよりないという結論に至った。
それまでの代替案として、ガブリエルはひとつの方策を考え出し、実行した。
ジャクソンビルの郊外に見つけた廃工場のせまい一室を、一ヶ月ほどかけて完璧な暗室に改造し、大口径のレンズを備えたカメラを持ち込んだのだ。
その後、更に一ヶ月を費やして相応しい対象を吟味し、そしてある夜、かつてのアリシアによく似た面影を持つ女子大学生を拉致した。気絶させ、暗室に運び込んだあと、入り口を分厚いテープで厳重に封鎖し、対象を椅子に座らせてナーヴギアを被せた。
対象の頭を注意深く固定し、その額にカメラのレンズを密着させるとこれも固定する。右手でナーヴギアの電源、左手でカメラのシャッターの位置を確認し、首に下げたLEDトーチを消すと、周囲は完全な闇に満たされた。
ガブリエルは、まずナーヴギアを起動した。改造SAOプログラムがロードされ、数秒後、迸ったマイクロウェーブが女子大学生の脳を灼いた。
すかさず、左手でカメラのシャッターを切る。長時間露光にセットしてあったシャッターはその口を開けたまま、対象の脳から遊離する光の雲を飲み込み、そして高感度フィルムがそれを受け止めたはずだった。
全てが終了すると、ガブリエルは死体を遠く離れた山林に埋め、カメラは名も知らぬ川に投げ込んで、フィルムを大事に抱えて基地に戻った。
興奮を抑えながら、自宅の暗室で現像した写真には――確かに、何かが写っていた。
一面の闇の中央に、ごくかすかに焼きついた七色の光。中央部では複雑なマーブル模様を作り、外に行くに従って放射状に広がっている。他人には単なる露光ミスとしか思われないに違いなかったが、ガブリエルには、どのような宗教画よりも美しい輝きを放って見えた。
これで満足しよう、今は。いつか、より完全な光の捕獲装置を手に入れる、その時まで。ガブリエルは自分に言い聞かせ、写真を額に入れて寝室に飾った。
こうして、ガブリエル・ミラーの魂を希求する旅の第一期が終わった。彼が手にかけた人間は、イラン軍兵士五十二人、イラン市民七人、アメリカ市民八人に上った。
ジェンセン大佐の肝煎りで、ガブリエルの合同シミュレーション訓練得点トップを祝うパーティーが基地近くのパブで催され、バリアンス隊のほぼ全員が集った乱痴気騒ぎは深夜二時まで続いた。
ガブリエルも盛大に羽目を外して、次々と注がれるビールを浴びるように飲み、仲間たちと声を合わせて部隊のテーマソングを歌った。端から見れば、ガブリエル・ミラーという人間は、イラン戦争で華々しい武勲を立てた英雄でありながらそれを鼻にかけない、仲間思いの気のいいLTで、愛すべき陽気な陸軍野郎そのものであったが、しかし勿論それはガブリエルの作り上げたいくつもの仮面の一つでしかなかった。
ガブリエルは酒に酔わない。どれほどアルコールを飲もうと、真に思考が乱れることは一切ない。それどころか、昔、自分の耐性を確かめるべく各種のドラッグを服用してみた時も、ハイになったり酩酊したりという症状はわずかにも現われなかった。彼の意識は常に明晰さを失わず、肉体を完璧に制御しつづけるので、様々なペルソナを操ることなど造作もないことなのだった。
タフな兵士として振舞うことは勿論、なろうと思えば、アイヴィーリーグ出のエリートビジネスマン、オイルにまみれた自動車工、首に缶をぶら下げた物乞いにすら完全に化けることが出来た。それゆえに、彼は大勢の獲物を容易く拉致し、そののちに捜査線上から煙のごとく消え失せることが可能だったのだ。
しかし、そのようなペルソナを全て剥ぎ取った、素のガブリエルに戻ったとき、彼は己がどんな人間なのか、自分でも形容することができなかった。パブでの大騒ぎがお開きになり、仲間達と別れて一人バイクに跨ると、もう必要なくなった"陽気な中尉"の仮面がたちまち消え去り、胸中を冷ややかな空虚さが満たした。
一体、自分は何ものなのか。ホンダのイグニションキーを回す手を止め、彼はふと考える。
軍に入ったのは、合法的に人間を殺すのが目的で、国や国民を守ろうという意識は欠片もないのだから軍人ではない。ならば殺人者かと言うと、殺人そのものが目的ではないので、それも違う。己を動かすのは、人間の魂なるものを知り、観察し、手に入れたいという欲求だけだ。では、なぜそれほどまでに魂に惹かれるのか? あの日、アリシアの魂を見たことが原因なのか? いや、そうではない。それ以前からずっと、生物という機械を動かすエネルギーが何なのか知りたかった。遡れる最初の記憶が、昆虫標本を飽かず眺める幼い自分なのだから。
これ以上は考えても答えは出ない。大量のアルコールが体内に入っているにも関わらず正確無比なシフト操作で大型バイクを加速させながら、ガブリエルは合理的に判断する。
自分が何ものなのかは、恐らく、目的を達したときに分かるのだろう。人間の――望み得るなら、汚れを知らぬ、活力に満ちた――魂を捕獲し、両手に収めて、心の底から満たされたと思えたとき、なぜ自分がこのような存在として生を受けたのか、その謎も解けるはずだ。
ヴァイタルな魂、その手触りを想像すると、普段虚ろな胸のうちにほんの少し熱が生まれたような気がして、ガブリエルは薄く微笑んだ。連想したのは、ガンゲイル・オンラインの大会でまみえた日本人の少女プレイヤーだ。
ナーヴギアを手に入れて以来、ガブリエルは深い興味を持って"SAO事件"の推移を見守り続けた。あの機械は直接魂にアクセスするものではないにせよ、人間の意識を肉体と切り離すという点において、己の目的達成に重大な意味を持つものだと直感していたからだ。
百の階層を持つ空中城に囚われた日本の若者たちは、そう時を待たずに全員死亡するだろうというニュース・コメンテーターたちの予想を裏切り、二年もの期間戦い続けて、何と全体の八十パーセント近くが生還した。
自動翻訳エンジンの悪文に苦労しながら読み込んだ日本のウェブログによると、事件解決の原動力となったのは、攻略組(プログレッサー)と呼ばれたごく一部――わずか二百人足らず――のプレイヤー達だったという。彼らは、一度の死亡がすなわち現実の死となる絶望的なデスゲームを戦い抜き、最終ボスを倒して、狂った開発者の設定した条件をクリアしてのけたのだ。驚くべきは、肉体と切り離されてなお失われない魂の力ではないか。
ガブリエルは、光ルータの完成を待つという方針を覆し、日本駐留部隊への転属を希望して、生還したSAOプレイヤーを何人か殺してみるべきか真剣に考えた。そのためにオンラインの語学講座に登録し、会話ならばほぼ完璧にマスターするにまで至ったのだが、計画を実行に移すより速く、日本製VRマシンとの接点は思わぬ形でガブリエルの前にもたらされた。
民生用機器の米国発売に先立って、自衛隊との協力体勢のもと、訓練用VRシミュレーションが軍に導入されるという噂が流れたのだ。もっとも、当初それを利用できるのは、SOCOM直下に新設されるカウンター・テロ部隊だけだという話だった。
ガブリエルは、迷うことなくその部隊、"バリアンス"の選抜試験に応募した。戦歴も、出身も、心理面もまったく問題なかった彼は、試験でも抜群の身体能力を見せつけ、ほぼトップの成績で合格した。
陸軍入隊以来七年を過ごしたフォート・スチュアートの第三歩兵師団から、マクディール空軍基地に置かれた主に空軍と海兵隊出身者からなるバリアンスに移ったガブリエルは、ここでも愛国心と仲間意識に溢れた好漢ぶりを如何なく発揮し、たちまち同僚と上官の信頼を勝ち得た。導入されたVRシミュレーター第一号機の、最初のテストダイブに自分が選抜されたことを、彼は偶然だとは考えなかった。
以来一年。
今では、ガブリエルは、部隊だけではなく、全軍で最もVRシミュレーション訓練に適応した兵士と言っても過言ではない。プライベートでも、ようやく発売された民生用マシン"AmuSphere"を発売日に購入し、様々なVRゲームの渉猟を続けている。
ITバブル崩壊の余波のせいか、一向に進まない光ルータの開発状況をガブリエルが忍耐強く待っていられるのは、間違いなくVR世界で多くの魂たちの殺戮を愉しんでいるからだ。殺しの手応えという点では、やはりアミュスフィアに触れて間もない米国のプレイヤーたちより、先行国日本のプレイヤーのほうが好ましい。相互接続を許可しているタイトルが少ないのは残念だが、それも秘匿プロキシ・サーバを設置することで回避できる。
次の週末に予定されている、ガンゲイル・オンライン・トーナメントのチーム戦のことを考えると、バイクのグリップを握る手がじわりと熱くなった。あの水色の髪の少女を背後から拘束し、ナイフでゆっくりと喉を切り裂けば、最後に人間を殺してからもう三年も味わっていないあの充実感がきっと甦るだろう。
その次は、いよいよ日本国内でのみ運営されているVRMMOゲームへと進出するつもりだった。ことに、旧SAOプレイヤー達が多数参加しているという"Alfheim Online"というタイトルがガブリエルの食指をそそっていた。
軍人ではなく、快楽殺人者でもなく、そして恐らくはVRMMOプレイヤーでもない、名を持たぬ自分にも、楽しみだと思えることがあるのが、ガブリエルには嬉しかった。