円筒形の修剣士寮は、二階と三階が学生の居室となっている。それぞれ六人ずつの修剣士が寝起きしており、一つの共用居間を挟んで二つの個人用寝室が連結した構造を持つ。
三階南面に位置するライオスの部屋のドアをユージオがノックしたとき、それに応えて誰何したのは同室のウンベールの声だった。
「ユージオ修剣士とキリト修剣士です。ライオス殿に少々お話が」
気負わないよう意識しながらユージオがそう言うと、内部はしばらく沈黙し、やがてドアが乱暴に押し開けられた。しかめ面で二人を迎えたウンベールは、穴掘ネズミを思わせる甲高い声で半ば叫んだ。
「事前に伺いも立てず押しかけるとは無礼な! まず押し印つきの書状で面会の許しを求めるのが筋であろう!」
ユージオが何かを答える間もなく、ウンベールの背後から鷹揚な調子でライオスの声が響いた。
「よいよい、私とユージオ殿の仲ではないか。お通ししたまえウンベール。こう突然では残念ながらお茶の用意はできないが」
「……ライオス殿のご厚情に感謝するのだぞ」
唇を突き出してそう言い、一歩退くウンベールの脇を、一体これは何の寸劇だと思いながらユージオはすり抜けた。
「一体こりゃ……」
後ろに続きながら、実際にその感想を口に出そうとするキリトの脛を踵で蹴って黙らせておいて、ソファーに身を沈めるライオス・アンティノスの前まで歩く。
三等爵家の跡取り息子は、既に貴族気取りなのか何なのか、いつもの純白の制服ではなくゆったりとした薄物のガウンのみを身につけていた。赤紫色の生地は悪趣味以外の何ものでもないが、艶やかな光沢は高級な南方産の絹特有のものだ。右手に持った、これも上等のカップから漂う香りは東域の白茶だろう。それに口をつけてゆっくりと啜ってから、ライオスは顔を上げてユージオを見た。
「……それで、我が友ユージオ修剣士殿におかれては、休息日の宵時に一体どのような急用かな?」
ユージオ達の部屋にある物とはこれもまるで違う革張りのソファーを勧める気はまるで無いようだった。その方が好都合だと思いながら、ユージオはライオスをでき得る限りの厳しい顔で見下ろし、言った。
「少々好ましからざる噂を耳にしましたのでね、ライオス・アンティノス修剣士殿。友がその芳名を汚す前にと、僭越ながら注進に参った次第です」
「ほう」
ライオスはやけに紅い唇の端をわずかに歪めて笑うと、再びカップを傾け、その湯気越しに切れ長の眼を細めた。
「これは意外でもあり望外のことでもあるな、ユージオ殿に我が名を案じて戴けるとは。しかし惜しむらくはその噂とやら、まるで思い当たらない。不明を恥じつつお教え願うよりないようだ」
これ以上こんな芝居に付き合っていられるか、とばかりに、ユージオは半歩にじり寄ると直截に言い放った。
「ライオス殿が傍付きの初等練士に卑しい行いをなさっておいでだとの話を聞き及んだのです。心当りがおありでしょう!」
「無礼であろうッ!」
半ば裏返った声を返したのは、いつの間にかライオスの右斜め後ろに従者のごとく控えていたウンベールだった。
「家系も持たぬ開拓民が三等爵家長子であられるライオス殿に、こともあろうに卑しいなどとッ」
「よいよい、構わぬウンベール」
目蓋を閉じ、ライオスは左手をひらひら振って子分を黙らせた。
「たとえ生まれは違おうとも、今は共に同窓に学ぶ一修剣士ではないか。何を言われようとも逸礼を責めることはできまいよ、この学院の中ではな。……しかしまあ、それが根も葉もない中傷ということになればまた別の話ではあるがな。ユージオ殿は一体どこからそのような珍妙な噂を聞きつけてきたのかな?」
「互いに無為な時間を過ごしたくはないでしょうライオス殿、惚けるのは無しにしましょう。根も葉もないことではありません、ライオス殿の傍付き練士と同室の者たちから直接話を聞いたのです」
「ほう? それはつまりこういうことかな? フレニーカが自らの意思で公式に、同室の練士を通じてユージオ殿に私への抗議を要請したと?」
「……いや、そうではありませんが……」
ユージオは思わず唇を噛む。確かにフレニーカという初等生から直接口添えを頼まれたわけではないので、根拠のない中傷と言い張られれば否定するのは難しい。
しかし、今や愉悦を隠そうともせず脚を組んでニヤニヤ笑っているライオスを前に引き下がることなどできる訳もなく、ユージオは鋭い声で問い返した。
「……ならば、ライオス殿こそ今公式に否定なさるのですね? ご自分が、フレニーカという傍付き練士にいかなる逸脱行為も命じておられないと?」
「ふむ、逸脱。奇妙な言葉だなユージオ殿。もっと分かりやすく、学院則違反と言ったらどうかな?」
「…………」
思わず歯噛みする。学院内規則とは言え、それは学生及び教官にとっては禁忌目録と同じくらい重要な規範であり、敢えて破ろうとする者など居ようはずもないからだ。いかに高慢なライオスでもそこまではしない、いやできないことはユージオにも分かりすぎるほど分かっている。しかし、だから尚のこと許せないのだ。院則違反でなければ何をしてもいい――と言わんがばかりの彼の行為が。大きく息を吸い、ユージオはさらに言い募った。
「ですが、学院則で禁じていなくとも、初等練士を導くべき上級生としてすべきでない事というのはあるでしょう!」
「ほう、それではユージオ殿は、いったいこの私がフレニーカに何をしたと仰るのかな?」
「……そ、それは……」
ティーゼ達に詳細な説明をさせるのが忍びなく、辱めの具体的な内容を聞かなかったユージオは、思わず口篭もった。するとライオスは大仰な仕草で両手を広げ、首を左右に振りながら溜息混じりに言った。
「やれやれ、さすがにそろそろ付き合いきれなくなって参りましたぞ、ユージオ殿。これではいくら私がよくとも、このウンベールが教官に明白な侮辱行為があったと報告するのを止めさせるのは、少々難しいと言わざるを得ないな。――言っておくがねユージオ殿。私はフレニーカが嫌がるようなことは一切していないと断言できるよ。何故なら彼女は一度も嫌だと言ったことがない」
ライオスは毒が口もとのカップに滴るような笑みを浮かべ、続けた。
「そう、いくつか他愛ないことを命じはしたがね。貴君も覚えておいでだろうが、先日修練場で手酷く敗北を喫してから私も心を入れ替えて鍛錬に打ち込んでいてね、それまで醜い筋肉がつくような稽古を控えていたせいもあって全身が痛くて仕方ない。已む無くフレニーカに毎夜、湯浴みの折に体を揉み解して貰ったまでのこと。どうかな、聞いてみればまったく他愛の無い話とユージオ殿もお思いだろう。その上、制服が濡れては困ろうと、フレニーカにも裸になることを許す寛大さ、わかって頂きたいな」
クックッと喉を鳴らして笑うライオスの顔を呆然と見やりながら、ユージオは心底にあまり覚えのない感情が湧いてくるのを意識していた。このような人間を言葉だけで、つまり学院則にも禁忌目録にも触れることなく説得することが果たして可能だろうか――という疑問。
木剣をその顔に突きつけて即座の手合いを申し込むべく右手をぴくりと動かしてから、ユージオは腰が空であることに気づいた。大きく何度か呼吸して無理やりに気を鎮め、可能な限り抑制した声を出す。
「……ライオス殿、そのような事が許されるとお思いなのですか。確かに……確かに院則に規定はありませんが、それは規定するまでもない事だからでしょう。傍付きに服を脱ぐよう命令するなど、なんと恥知らずな……」
「ハハハハハ!」
突然ライオスが口の端を大きく吊り上げ、けたたましい笑い声を発した。まるでユージオがその言葉を口にするのを待っていた、とでもいうように。
「ハハハ! ユージオ修剣士殿からそのような苦言を頂戴するとは思いませんでしたぞ、ハハハハハ! 聞けばユージオ殿はご自分が傍付き練士であった頃、あの人だか熊だかわからぬ修剣士に夜な夜な服を剥かれておったそうではないか!」
「奇しなる話ですなあ! 己は好んで裸になりながら、他人を恥知らず呼ばわりなどと、はっはっ!」
ウンベールがすかさずキイキイと追従の笑いを振り撒く。
再度襲ってきたある種の名状しがたい衝動に、ユージオの右手が大きく震えた。危うく明白な悪罵を口にしてしまいそうになった瞬間、背後のキリトが踵をこつんと蹴ってきて我に返る。
確かにゴルゴロッソは月に一度ほど、ユージオに上着を取るよう言うことがあった。しかしそれは筋肉のつき方を見て不足している修行を指摘するためで、ライオスの言うような後ろ暗い行為は一切無かった。だがそれをここで抗弁しても、ますますライオスらは調子づき、更にユージオ、そしてゴルゴロッソを言外に侮蔑しようとするだろう。だからユージオは全精神力を振り絞って衝動に耐え、静かに声を発した。
「私のことはこの際関係ありますまい。確かなのは、命令に抗いはせずとも、ライオス殿の傍付き練士はあなたの行為に苦悩しているということです。今後改善が見られないようなら、教官に公式に訴えて出ることも考えなければならないので、どうぞそのお積もりで」
ご自由にされるがよかろう、という言葉と更なる笑い声を背に受けながら、ユージオは足早にライオスの部屋を出た。
背後でドアが閉まるや否や、ユージオは右手を壁に叩き付けるべく振り上げたが、鍛え上げた今の腕力でぶちかませば建物自体の天命を減少させて――つまり壁にへこみを一つ作ってしまうかもしれないと気付き、やむなく腕を下ろした。学院内の建物や器物を意図的に損傷させるのは明白な禁忌違反である。鬱憤を斧に込めてどれだけぶつけても、まるでびくともしなかったギガスシダーが少しばかり懐かしい。
ささやかな代替行為として、ブーツをガツガツ鳴らしながら早足に階段を目指していると、背後からキリトの声がした。
「そう熱くなるなよ、ユージオ」
「……ああ。ステイ・クール」
「ステイ・クール」
昔キリトに教わった異国のまじないを交互に口にすると、パン屋の大釜のように赤く燃えさかっていた頭の中がほんの少しだけ冷えて、ユージオはふうっと長い息をついた。歩調を緩め、相棒と並ぶ。
「……しかし、意外だな。僕より先にお前のほうが切れると思ったけどな」
ユージオの言葉に、キリトはにやりと笑いながら左手で腰を叩いた。
「剣があったら危なかったな。ただ……さっき言ったとおり、何か裏があるんじゃないかと思って、我慢して様子を見てたんだ」
「そういえばそんな事言ってたな。すっかり忘れてたよ……で、どう思った?」
「やっぱりあいつら、意図的にユージオを挑発してたな。ティーゼ達から話がお前に伝わるのも計算済みで、あそこでユージオがライオスに何か言ってたら、それを"明白な侮辱行為"に仕立てて教官に訴えるつもりだったんだろう。結果お前は退院処分になり、奴らは祝杯を上げるって寸法だ。中々どうしてフラ……いや、貴族にも悪知恵の回る奴がいるもんだな……」
「つまり……フレニーカって子は、ライオスが僕を罠にかける餌に使われたのか……。なんてこった……」
ユージオはきつく唇を噛み、拳を握った。
「全部、僕があいつに手合いで恥をかかせたせいだな……目立つとろくなことは無いって、何度もお前に言われてたのに……」
「そう自分を責めるな」
キリトは、ユージオの右肩にぽんと手を置き、珍しく慰めるような声を出した。
「どうせ来週には、最初の選考試合があるんだ。代表になるためにはそこでライオスにも勝たなきゃならないんだから、早いか遅いかの違いだけだったよ。多分ライオスも、あれだけお前を嘲笑えば満足したろう。もし今後もフレニーカを辱めるようなら、すぐに教官に指導を要請できるよう書状の準備だけはしといたほうがいいけどな」
「ああ……ならいっそ、奴の前でヨツトゲバチに刺された子供みたいに泣いてやったほうがよかったかもな」
キリトの手を軽く叩いて謝意を告げ、ユージオはようやく肩の力を抜いた。
ライオスはおそらく、堂々たる外見に反して中身はまだ子供なのだ。自分にも手に入らないものがあるということが理解できず、昔のジンクのように無為な嫌がらせをしている。学院の多くの生徒の、ことに上級貴族出の者たちに、そのような傾向があることはユージオも気付いていた。自分の力を全て振り絞っても、どうにもならないこともある――ということを知らないせいだろう、とはキリトの弁だが。
次の選考試合で、多くの修剣士や教官の見守る中、連続技ではなく伝統的な型を用いて完膚なきまでに勝てば、おそらくライオスも目を醒ますのではないだろうか。だからと言って、もちろんこれまでの所業が洗い流されるわけではないが。自分はともかく、フレニーカにはきちんと謝罪してもらわなくてはならない。ライオスがあのような人間のまま学院を卒業し、三等爵士に任ぜられて帝国のそれなりの要職に就くなどと、考えただけでも恐ろしい。
階段を降りて二人の部屋に戻ると、ユージオは相棒がどこかへ消えてしまう前にきっぱりと言った。
「おいキリト、今日はちゃんと稽古に付き合ってもらうからな。最低五十本は相手をさせるぞ」
「なんだよ、やけにやる気じゃないか」
「ああ……もっと、もっと強くならなきゃいけないからね。ライオスに、稽古もしないで勝てるほど剣は甘くないって教えてやるために」
キリトはにっと唇の端を持ち上げ、その意気だ、と笑った。
「それじゃ今日は、ユージオ修剣士殿にも現実の厳しさを教えてやるか」
「ふん、言ってろ。負けたほうが明日ゴットロの店で特製肉まんじゅう大をおごるんだからな」
翌日午前の剣術実技の間も、午後の学科講義中も、ライオスはもうユージオとは目も合わせようとしなかった。ここ一週間の憎々しげな視線が嘘のように消え、以前の"道端を走るチュロスク"程度の扱いに戻ったことにユージオは少なからずほっとした。
選考試合のあとが心配と言えば心配だが、昨夜キリトと文面を相談して、指導教官宛の告発状の用意は済ませてある。あとは修剣士の押印を付けて提出すれば学院側も無視できず、ライオスとユージオ達双方の聴聞が行われることになる。そうなれば、めったにない事だけに全学院の噂に上ることは避けられず、それだけでも体面ばかり重んじるライオスには手痛い打撃となるはずだ。
退屈な帝国史の講義が終わると――何せ事件らしい事件はほとんど起きていないのだ――、ユージオはとっとと寮に戻り、フレニーカの件を注意しておいたことを報告するべくティーゼとロニエを待った。
ほどなく二人は、毎日の定刻である四時の鐘とともにぱたぱたと駆けてきて、敬礼するのももどかしく部屋の掃除を始めた。その間ユージオは自分のベッドに腰掛け、大人しく作業を見守る。
以前、何度も掃除を手伝おうとしたのだが、その度にティーゼに「これは私の重要な任務ですから!」とすごい剣幕で断られてしまった。思い返せば自分もゴルゴロッソに同じようなことを言った記憶があり、やむなくせいぜい部屋を散らかさないように気をつけているのだが、少女たちはそれも不満らしく、いつも掃除のし甲斐がないと唇を尖らせる。
銅のバケツと雑巾を手にくるくると駆け回り、きっかり一時間で居間と寝室の掃除を終えたティーゼは、ユージオが所在無く待つ部屋に入ってくると後ろ手にドアを閉め、かちっとブーツの鉄張りを打ち合わせた。
「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了しました!」
いつの間にかキリトも戻ってきたようで、閉じたドアの向こうからかすかにロニエの声もした。昨日のピクニックの時とは打って変わって緊張感に満ちた少女の顔に、思わず笑みを浮かべそうになるのを我慢しながら立ち上がり、敬礼を返す。
「はい、ご苦労さま。ええと……座らない?」
ベッドを指すと、ティーゼは一瞬目を丸くし、次いでかすかに頬を赤くしながら言った。
「はっ……そ、それでは、失礼致します」
とことこ歩き、ユージオからかなり離れた場所にちょこんと腰掛ける。
自分も腰を下ろし、上体だけをティーゼのほうに向けて、ユージオは口を開いた。
「例の件だけど……昨日、ライオスには抗議しておいたよ。あいつもこれ以上大事になるのは嫌だろうから、多分もうフレニーカに酷いことはしなくなると思う。近いうち、きちんと謝罪もさせるようにするから……」
「そうですか! ……よかった、ありがとうございます、上級修剣士殿。フレニーカも喜ぶと思います」
ぱっと顔をほころばせるティーゼに、ユージオは苦笑まじりに言った。
「もう仕事は終わったんだからユージオでいいよ。それに……僕も謝らないといけないことがあるんだ。昨日も少し話したけど……ライオスが今回みたいな卑劣な真似をしたのは、やっぱり僕を挑発するためみたいだった。僕が抗議に来たところを、あわよくば侮辱行為で告発する計画だったらしい……。つまり、そもそもの原因は僕がライオスを手合いでやりこめたことで、フレニーカはそのとばっちりを食っただけなんだ。一度、僕からもちゃんとフレニーカに謝りたいんだけど、機会を作ってもらえるかな……?」
「……そう……ですか……」
ティーゼは赤毛を揺らして顔を伏せ、何事か考えている様子だったが、やがてユージオを見てかすかにかぶりを振った。
「いえ、ユージオ上……先輩は悪くないです。フレニーカにはお言葉だけ伝えておきます。あの……す、少し、お傍に行ってもいいですか?」
「え……う、うん」
ユージオがどぎまぎしながら頷くと、ティーゼは一層頬を染めつつ体をずらし、わずかに体温が感じられるほどの距離まで近づいてきゅっと身を縮めた。唇が動き、囁くような声が漏れる。
「ユージオ先輩……私、ゆうべ眠る前に、一生懸命考えてみました。ライオス・アンティノス殿はどうしてフレニーカに酷いことをするんだろう、フレニーカが憎いわけでも恨みがあるわけでもないのに……どうしてそんなことができるんだろう、って。キリト先輩は、貴族は誇りを持たなきゃいけない、って仰いました。でも……私、ほんとは知ってるんです。上級貴族の中には、自分の領地に住む私有民の女の人を、その……弄ぶようなことをする人がいるって……」
ティーゼはさっと顔を上げ、秋に色づいた水樫の葉の色の瞳に薄く涙を滲ませながらユージオを見つめた。
「私……私、怖いんです。私は、学院を卒業したらそう遠くないうちに家を継ぎ、同格の貴族の次男か三男を夫に迎えることになると思います。……もし、私の夫となった人が、ライオス殿みたいな人だったら……? 誇りを持たない、周りの人に酷いことをしても平気な人だったらどうしようって思うと……怖くて……私……」
ユージオは息を詰めて、うるむティーゼの瞳を見返した。ティーゼの恐れは理解できると思ったが、しかし同時に、自分と彼女の間に存在する深く広い隔絶をも意識せずにはいられない言葉だった。ティーゼ・シュトリーネンという立派な名を持つ六等爵士の長女に対し、己は公式に姓を持つことすら許されない開拓農民の子なのだ。貴族社会に関する知識など、おそらく央都に暮らす十の子供よりも少ないだろう。
視線を逸らすと、ユージオは自分でもその空虚さにうんざりしたくなるような言葉を発した。
「……大丈夫だよ、ティーゼなら。きっと、優しくて誠実な人とめぐり合えるよ」
「…………」
ティーゼは長い沈黙を続けたあと、意を決したかのようにユージオの右腕にすがり、肩に額をおしつけて、ごくごくかすかに囁いた。
「ユージオ先輩……お願いがあるんです。絶対に学院代表になって、統一大会に出てくださいね。そこで上位に入れば、一代爵士に叙任されると聞きました。あの、それで……こんなこと言っちゃだめなんでしょうけど……もし、整合騎士になれなかったら……私……私の……」
それ以上は言葉にならないらしく、石のように固くした体を震わせるティーゼの小さな頭を、ユージオは唖然として見下ろした。
ティーゼが何を言っているのか、今度ばかりは理解するのに時間がかかった。飲み込むと同時に浮かんできた言葉――自分がこの場所にいるのは、ただ、アリスという名の女の子ともう一度会う、それだけのためなんだ――。
それを口にする代わりに、ユージオは左手でティーゼの頭をそっと撫でながら、短く呟いていた。
「うん……わかった。もし整合騎士になれなかったら、きっと君に会いにいくよ」
ティーゼはそれを聞くと大きく肩を震わせ、やがておずおずと顔を上げた。涙の光る頬に、早春の固い蕾がほころぶような笑みを浮かべ、年若い少女は小さな唇を動かした。
「……私も、私も強くなります。ユージオ先輩のように……正しいこと、言わなきゃいけないことをきちんと言えるくらい、強く」
さらに明けた翌日は、その春初めての荒れた空模様となった。
時折吹き寄せる、渦を巻くような突風に乗って大粒の雨が激しく窓を叩く。ユージオはふと剣を磨く手を止め、講義が終わったばかりだというのにすでにソルスの光を失いつつある空を眺めた。幾重にも連なる黒雲が生き物のようにうねり、その隙間を紫色の稲光が切り裂いていく。ルーリッドの村では、蒔いたばかりの麦の種籾を洗い流す春の嵐は忌み嫌われる存在で、アリスが子供ながらにして天候予測の神聖術を成功させたときはほとんどお祭り騒ぎだったものだ。もっとも、その恩恵に預ることができたのはわずか二年だけだったのだが。
学院で神聖術を習うようになって、ユージオはアリスの異才を今更ながらに実感させられている。天候をはじめ自然界に作用する術は、術式だけでも数十行から百行以上にも及ぶ高位術の代表格で、今のユージオでは明日が晴れか雨かをさえ予測することも覚束ない。一週間も前から嵐の到来を言い当てたアリスなら、今ごろ天候操作の術すらも習得しているのではあるまいか。だとしたらこの荒天は、いつまでも自分を迎えにこないユージオに腹を立てたアリスの怒りの嵐だろうか――。
「はーっ」
とりとめの無い想念を息と一緒に吐きかけ、さっと曇った青銀の刀身を油革で丁寧に磨く。週に一度の"青薔薇の剣"の手入れは欠かしたことのない習慣だが、学院に籍を得てからというもの、鞘から抜く機会があるのはこの時だけだ。日々の鍛錬は木剣で行うよう定められているし、選考試合では公平を期すためにまったく同一性能の剣を用いる規則になっている。神器に属する青薔薇の剣と比べると学院制式剣は玩具のように軽く、全力で振ると刀身が抜けて飛んでいってしまうのではと不安になるほどだが、入学試験のときに対戦相手の高価そうな剣を粉砕してしまったことを考えればおいそれとこの愛剣を振り回すわけにも行かない。
それでも、まだ実際に使ったことがあるだけマシか、と思いながらユージオは顔を上げ、向かいのソファーでキリトが気だるそうに磨いている黒い剣を見やった。
ギガスシダー最頂部の梢を切り取り、青薔薇の剣以上に重いそれを苦労して――キリトは最低三十回は「もうそのへんに植えていこうぜ」と言った――央都まで携え、ガリッタ爺さんに言われた細工師の店をこれまた苦労のすえ探し出して託し、剣の形に研ぎあがったのが何と一年後という代物である。偏屈を絵に描いたような細工屋の親爺は、これ以上はないという顰め面で、十年は保つはずの鉄鬼岩の砥石が三つも駄目になった、あんたらは二度と来てくれるなと噛み付いたが、一生に一度の仕事が出来たからと代金は取らなかった。
完成した剣は、漆黒の刀身に元が木の枝とは思えない深い光沢をまとっていた。キリトは二、三度振ってから一言「重いな」とだけ感想を述べ、スギの樹の意匠が施された黒革の鞘に収めたそれを寮の部屋の壁に掛けっぱなしにして、以後は手入れの時にしか触っていないはずだ。つまり実戦はおろか一度の試合すらも経ていないことになる。
あるいは、僕らはこの二振の剣をもう使うことはないのかもしれない――、とユージオはこの頃思いさえする。学院内の試合で使うことがないのは確定的だし、他十人のライバルに競り負けて学院代表の選に漏れればその後真剣勝負の機会など永久にあるまい。もし代表となれれば統一大会で使うことになろうが、そこで破れればやはり一度きりの出番だ。
つまり、この剣を今後実戦で使う場面が来るとすればそれは、針穴ほどの狭き門を突破して整合騎士に任ぜられ、飛竜に打ち跨って闇の軍勢と戦うとき以外に無いわけで、そんな状況はユージオには子供の頃聞いた御伽噺よりも現実味のないものに思えて仕方ない。剣の手入れをしていると常にとらわれるこの物思いの行き着く先は、果たして自分は何のために剣の修練をしているのだろう――という答えのない疑問だ。整合騎士として神聖教会の白亜の塔に至り、そこにいるはずのアリスと再会する、という目的があるにせよ。
「おい、キリト」
刀身を磨き終わり、新しい油革で鍔の掃除に取り掛かりながら、ユージオは相棒に声を掛けた。
「ん?」
こちらは何も考えていなかったらしい眠たげな顔に、何度目かの問いを投げかける。
「その剣の銘、いいかげん決めたのか?」
「うんにゃ……まだ」
「早いとこ決めろよ。いつまでも"黒いの"じゃあ剣が可哀想だろ」
「うーん……俺の国じゃあ剣の名前ってのは最初っからついてたんだよ……そんな気がするなぁ」
適当なことをぶつぶつ言うキリトに、苦笑混じりに更なる苦言を呈そうとしたその時、さっと目の前に片手が上げられてユージオはぱちくりと瞬きをした。
「なんだよ?」
「ちょっと待て、今の四時半の鐘じゃないか?」
「え……」
耳をそばだてると、確かに風の唸りに混じって、途切れ途切れの鐘の音が聞こえた。
「ほんとだ、もうそんな時間か。四時の鐘、聞き落としたな」
すでにほとんど闇に包まれている窓の外を見ながらユージオが呟くと、キリトは尚も厳しい表情のまま短く言った。
「遅いな、ロニエ達」
ユージオははっと息を飲んだ。言われてみれば、ティーゼとロニエが四時の鐘までに部屋の掃除に来なかったことは、傍付きに任ぜられてから一度もない。じわりと湧きあがる不安感をごくりと飲み込んで、無理矢理に笑みの形を作る。
「まあ、この嵐だからね。雨が止むのを待ってるんじゃないか? 別に掃除の時間まで院則で決まってるわけじゃないし……」
「あの二人が、雨くらいでいつもの時間に遅れるかな……」
キリトは何事か考えるように視線を落とし、すぐに続けた。
「何か嫌な感じがするな。俺ちょっと初等生寮まで様子を見に行ってくるよ。ユージオはここで二人を待っててくれ」
手入れ途中の黒い剣をぱちりと鞘に収め、それをテーブルに置いて、キリトは立ち上がった。雨避けの薄い革マントをばさっと羽織り、留め金をはめるのももどかしく、窓の一つを開け放つ。
「おい、表から行けよ」
ごうっと吹き込む湿った風に顔をしかめながらユージオは言ったが、その時にはもう黒衣の姿は張り出した木の枝へと身軽に飛び移り、がさりがさりという音だけを残して消え去っていた。まったく、という言葉を噛み殺して立ち上がり、ユージオは足早に駆け寄ると窓を閉めた。
再び嵐の音が遠のいた部屋に一人残され、ユージオは言いようのない不安が腹の底を這いまわるのを懸命に押し退けようとした。ソファーに戻り、手入れの終わった青薔薇の剣を白革の鞘に収めて膝に乗せる。
神聖術を使えば、二人が今居る方向くらいは知ることも可能ではある。しかし許可なく他の生徒を対象とした術を使用することは学院則で禁じられていた。こんな時に使えないなら、何のための術、何のための院則なのかと舌打ちの一つもしたくなる。
そのまま、やけに長い数分が過ぎ去った。不意に、こん、こん、という小さなノックの音が鳴り響き、ユージオは思わずほーっと長い溜息をついた。それみろ、窓から出たりするから行き違いになるんだ、と内心で呟きながら弾かれるようにソファから立ち上がり、早足で部屋を横切るとドアを押し開ける。
「よかった、心配した――」
そこまで言ってから、ユージオはぎょっとして言葉を飲み込んだ。視界に飛びこんできたのは、見慣れた赤毛と黒髪ではなく、風に乱れた桧皮色の髪の毛だった。
廊下にぽつんと立っていたのは、ロニエよりも更に小柄な、初等練士の制服を来た少女だった。短く切り揃えられた髪と灰色の上着はぐっしょりと雨に濡れ、しずくの垂れる頬にはまったく血の気がない。小鹿を思わせる大きな瞳は憔悴のみを宿して見開かれ、薄い唇はわななくように震えている。
唖然とするユージオを見上げ、少女はか細い声を絞り出した。
「あの……ユージオ上級修剣士殿でしょうか……?」
「あ……う、うん。君は……?」
「わ……私は、フレニーカ・シェスキ初等練士です。ご、ご面会の約束もなしにお訪ねして申し訳ありません……でも、私、ど、どうしていいのかわからなくて……」
「君が……フレニーカか」
ユージオは息を詰めながら、悄然と立つ初等練士を凝視した。およそ剣士らしくない、華奢と言うよりない体つきや、花冠を編んでいるほうが相応しそうな小さな手を見るにつけ、こんな子をいいように辱めたライオスへの怒りが改めて湧いてくる。
しかし、ユージオが言葉を続けるより先に、両手を胸の前でぎゅっと握り合わせたフレニーカが狼狽しきった声を出した。
「あの……ユージオ修剣士殿には、このたび私とライオス・アンティノス殿のことでご尽力頂きまして、真にありがとうございます。それで……これまでの事情はもうご存知のことと思いますので省きますが……ライオス殿は本日夜、私に、その、この場では少々説明の難しいご奉仕を命じておられまして……」
言葉にするだけでも身を焼かれるような恥辱を味わっているのだろうフレニーカは、蒼白の顔のなかで頬だけを痛々しいほどの血色に染めて、口を動かしつづけた。
「わ、私、このようなご命令が続くくらいなら、い……いっそ学院を辞めようと、そうティーゼとロニエに相談したのですが、それを聞いた二人は、直接ライオス殿に嘆願すると言って寮を出ていって……」
「なんだって」
ユージオは掠れた声で呟いた。両手足の指先がすうっと冷えていく。
「それで、二人が戻らないので、私、ど、どうしていいのか……」
「二人が出ていったのは、いつ頃……?」
「あの、三時の鐘が鳴ったすぐ後だったと思います」
すでに一時間半以上が経過している。ユージオは思わず天井を振り仰ぎ、唇をきつく噛んだ。ならばこの板一枚上に、ずっと二人は居たということなのか。抗議や嘆願をするにしても、余りに長すぎる。
さっと振り向き、相変わらず風雨に叩かれている窓を見るが、キリトが戻ってくる気配は無かった。この天気では、初等生寮と往復するだけでも十五分はかかる。とても待っている余裕はないと判断し、フレニーカに早口で告げる。
「わかった、僕が様子を見てくるよ。君はこの部屋で待ってて。手拭いとか自由に使っていいから……それで、キリトが戻ってきたらライオスの部屋に来るよう伝えてくれ」
不安げに頷くフレニーカを残し、ユージオは身を翻すと駆け出した。寄木細工の廊下を一気に走り抜け、階段に達したところで左手に青薔薇の剣を握ったままであることに気付いたが、今更置きに戻ることはできない。そのまま一段飛ばしに三階に向かう。
一歩ごとに、黒い不安の塊が胸の奥で増大していくようだった。
ティーゼとロニエが、こんな無謀な挙に出た理由は明らかと思えた。ユージオとキリトが抗議しても効果が無かったことと、それにもう一つ、昨日ユージオの部屋でティーゼが発した言葉――強くなる、正しいことを言えるように、という一言のためだ。彼女は、自らの誇りにかけて、苦しむ友人を助けようとしたのだ。
だが――もしかしたら、それこそが……。
「最初からそれが目的だったのか……? 僕じゃなく、ティーゼ達を……?」
走りながらユージオは呻いた。
同格の修剣士同士なら、ほとんどの言葉は問題とならない。だが、初等練士が修剣士に抗議するとなれば話は別だ。よほど真剣に言葉を選ばないと、学院則に定める逸礼行為に該当してしまう。そしてその場合、上級生には指導者格としての懲罰権が発生する。
「懲罰権……」
ユージオは懸命に頭の中で院則の頁を繰る。"上級生が下級生に下す懲罰として、以下の命令より一つのみを許可する。一、居室の清掃、二、木剣を用いた修練(別項に詳細を記載す)、三、三十分以内の直立不動姿勢。但し、全ての懲罰において上級法の規定を優先す"……。
上級法――とはこの場合帝国基本法及び、言わずと知れた禁忌目録だ。つまり、他者の天命を減少させてはならないという禁忌が何より優先するという原則は変わらない。ライオスもそれを無視するのは不可能で、だからもし懲罰権を行使されたところで心配するほどのことはないはずなのだ。
なのに、突き刺さるような不安感は一向に去ろうとしない。
閉ざされたドアの前で立ち止まると、ユージオは息が整うのも待たず、右拳を乱暴に叩きつけた。
すぐに、奥からくぐもったライオスの声が応えた。
「おや、随分遅いお出ましだな、ユージオ上級修剣士殿。さあ、さあ、どうぞ入ってくれ給え」
来るのを待ちかねていた、とも取れるその言い回しに一層の憂慮を募らせながら、ユージオは我知らず呼吸を止め、一気にドアを引き明けた。
いくつものランプに照らされた共用居間に、ティーゼとロニエの姿は無かった。すでに辞去したあとか、とわずかに胸を撫で下ろす。
部屋中央の豪奢なソファーセットに、先日と同じ絹のガウン姿のライオスが深く身を沈めていた。が、今日は赤紫の薄物をだらしなく着崩し、同色のサッシュでかろうじて前を合わせているだけだ。はだけた布から、生白い肌が腹近くまで覗いている。右手には細長いグラスを持ち、満たされているのは赤葡萄から作った酒らしい。
向かいには、ウンベールともう一人、別室に居住しているはずの取り巻きであるラッディーノの姿もあった。こちらはライオスよりも更に見苦しい格好で、ラッディーノは修剣士の制服の上着を脱ぎ、白いシャツをボタンも留めずにただ羽織っている。ウンベールに至ってはズボンを穿いているだけで、修練の気配もない痩せた上体を露わにしていた。
取り巻き二人は、ソファーにほとんど寝転がるように浅く腰掛け、ユージオには目もくれずぼんやりと天井を見ていた。ウンベールの、どこか魂の抜けたような呆け顔を見ているうち、ユージオは先刻に倍する不安が背筋を這い上りはじめるのを感じた。何かがおかしい、何かがあったのだ、とてつもなく悪い何かが――という、拭いがたい直感。
ユージオは改めてライオスに視線を向けると、鉄錆に似た味の広がる舌を苦労して動かした。
「ライオス・アンティノス上級修剣士殿――つかぬことを伺いますが、本日ここに、私の傍付きであるティーゼ・シュトリーネン初等練士と、キリト修剣士の傍付きのロニエ・アラベル初等練士が訪ねて参りませんでしたか?」
ユージオの掠れ声に、ライオスは即答せずにやけに濁った両眼だけを動かし、薄い笑みが貼り付いたままの唇にグラスを当てると、紅い液体を一気に干した。卓上からさぞ高級品と思しきラベルのついた瓶を取り上げてグラスを満たし、さらにもう一つのグラスにも酒を注ぐと、それをユージオに向かって差し出す。
「……ユージオ修剣士殿、お顔の色が優れないようだ。どうだね、気付けに一杯。上物だよ」
「お気遣い無用。質問に答えて頂けませんか」
左手に握ったままの剣の鞘に、じっとりと汗が滲んでいるのをユージオは意識した。ライオスは、まるでそんなユージオの様子を肴にするかのようにじろじろと眺めながら、己のグラスをちびりと嘗め、テーブルに戻した。
「ふむ。……あの二人は、ユージオ殿とキリト殿の傍付きであったか」
変わらず粘つく口調でそう言うと、舌先で唇についた滴を嘗めとり、続けた。
「誉れある上級修剣士と相対するにしては、少々元気の良すぎる初等練士ではあったな。ただ、気をつけねばならないよ。威勢の良さは、時として非礼ともなり、不敬ともなる。そうは思わないか、ユージオ修剣士殿。……いや、これは私も失敬だったか。ユージオ殿に貴族の礼儀を問うなど、少々意地が悪かったかな、ふ、ふ」
やはり、ティーゼとロニエはここに来たのだ。ユージオは、ライオスの襟首を締め上げたくなる衝動に耐えながら、更に鋭く問いただした。
「ご高説は又の機会に拝聴します。ティーゼとロニエは、今どこにいるのです」
ユージオの声と表情を味わうがごとく、ライオスは更に一口酒を含み、ごくりと嚥下した。どろりと濁った視線でユージオを舐め、更に煙に巻くようなことを呟く。
「……いや、そもそも、ユージオ殿には荷が重かったのではないかな? 失礼ながら遥か辺境で木など挽いていた輩が、下級とはいえ爵家の息女を導こうなどと? そうだとも……ユージオ殿の指導が足りないから、あの二人は伏して尊ぶべき三級爵家長子の私に、礼の足りないことを言ったりするのだ。なれば私としても、意に染まぬことながら、己が義務を果たさねばならぬ。分かって頂けるかな、ユージオ殿。私は貴君になり代わり、上級修剣士として正しき躾を施したまで」
「ライオス殿……! いったい……」
何をしたのだ、と言い募ろうとしたユージオを制するように、ライオスはグラスを持ち上げた。満たされた酒をちゃぷんと鳴らしながらその手を動かし、居間から自分の寝室へと続くドアのほうを指し示す。
「初等練士二名は、法に則った賞罰権の行使の結果、少々疲労した様子であったゆえ隣室で休ませている。引き取るというのなら、どうぞご自由に」
学院則ではなく法、懲罰権ではなく賞罰権という言葉をライオスが選んだことにどのような意味があるのか、ユージオにはすぐに察することができなかった。ただその言葉に、とてつもなく悪い何かが絡みついていることだけは解った。
動こうとしない首を無理矢理に回し、ユージオは寝室のドアを見た。
ぴったり閉じられたその扉の手前の床に、ひとかたまりになった布がわだかまっているのにユージオははじめて気付いた。厚手の灰色の布が何なのか悟ったのは、折り重なったその隙間から覗く橙色のスカーフが目に止まった後だった。
それが、初等練士の制服であるのは最早疑いようもなかった。そして鮮やかな橙は、上位十二名の傍付き練士の証。
自分の一挙手一投足をも見逃すまいとするようなライオスの視線を頬のあたりに感じながら、ユージオは悪寒に震える体を動かし、のろのろとドアに歩み寄った。落ちた制服をまたぎ、ドアノブに手を伸ばす。
鋳銅製の握りは、掌に貼り付くほどに冷たく感じられた。一瞬の躊躇を振り払い、ユージオはノブを回して、わずかにドアを押し開いた。
内部に灯りはなく、ほぼ完全な暗闇だった。半分ほどカーテンの開いた窓から、厚い雲に遮られたソルスの灰色の光がほんのわずか差し込んでいる。ユージオは目を細め、懸命に暗がりを見通そうとした。
動くものはなかった。部屋の右側には無闇と大きな衣装箱が並び、奥の壁際には華美な形の文机が据えてある。中央には、これも巨大としか言えない天蓋つきのベッドが鎮座し――そして毛足の長い絨毯の上に、灰色の制服がもう一着投げ出されているのが見えた。更にいくつかの、小さな布の塊も。
その時、窓の向こうで一際激しく稲妻が空を裂き、部屋の中を一瞬明るく照らし出した。直後訪れた凄まじい雷鳴を、しかしユージオはまったく意識することはなかった。切り取られた光景が目の奥に焼きつき、ユージオの思考を完全に奪い去った。
ベッドの上に、雷光に青白く輝く二つの姿があった。ユージオはおこりのようにがたがたと震える右手を懸命に動かし、ドアを大きく開いて居間の明かりを寝室へと導いた。
広大なベッドを覆う白絹のシーツに、一糸纏わぬ姿の二人の少女がその身を横たえていた。黒髪の少女は半ばうつ伏せの格好で顔を枕に埋め、ぴくりとも身動きをしていない。赤毛の少女は仰向けに四肢を投げ出し、薄い裸の胸を浅く上下させていた。
「……なん……で……」
何だこれは、とユージオはぼんやりと考えた。こんなことがある筈が無い、とその一言だけを頭の中で何度も繰り返し、眼前の光景を否定しようとした。
しかし、ティーゼの紅葉色の瞳が――ほんの一日前、ユージオに縋り付き、溢れんばかりの感情をきらきらと輝かせていたあの美しい瞳が、今は虚ろに宙に向けられ、光を失っているのを見たとき――その下の白い頬に半ば渇いた幾筋もの涙の跡を見たとき、ユージオはこの部屋で行われたことを、その非道と残酷の全てを、完全に悟った。
相変わらず轟く雷鳴が部屋に満ちていたが、ユージオにはもう甲高い耳鳴りしか聞こえなかった。ふらふらとよろめくように数歩あとずさり、ティーゼの、あるいはロニエの制服に足を取られて、無様に尻餅をついた。
その格好のまま、ユージオはこちらに向けられ続けているライオスの顔を見上げた。
三等貴族の跡取りは、今や整った白皙に、隠そうともせず満面の興趣と愉悦の笑みを張り付かせていた。しばし呆然とその表情を眺めたあと、ユージオは割れた声で呻くように訊ねた。
「なぜ……どうしてこんなことを……? 懲罰権を……逸脱した……学院則違反では……」
それを聞いたライオスの赤い唇の端が、裂けんばかりにきゅうっと吊りあがった。喉が激しく上下し、次いで必死に抑えていたものが溢れ出したかのように、甲高い笑いが迸った。
「く、くく……くっ、くはは……ハ、ハハハハッ……ハハハハハハ! キャハハハハハハ!!」
手のグラスから葡萄酒の飛沫がガウンに散るのも構わずに、ライオスは身を捩り、足を踏み鳴らして哄笑を続ける。
「キャハハハハハ! だ……だから貴君は山出しだと言うのだ!! 大人しく故郷で薪でも割っておればよいものを……ハハハハッ……のこのこ央都に上って、貴族の真似事などしようとするから痛い目に……キャハハッハハハハ!! よ、よいか、教えてやろうこの山ザ……おっと、うむ、山に棲む毛だらけの人っぽいもの、これならいいかな、ハハハ! 貴君の傍付きは、この私、三等爵家長子たるライオス・アンティノスに不敬甚だしい物言いをしたァ! ゆえに私には学院則にのっとり懲罰を下す権利があァる!」
ライオスはがばっと立ち上がると、絨毯に尻をついたままのユージオを見下ろすように上体を屈めた。
「しかし学院則の懲罰権規定にはこうある! 全ての懲罰において上級法の規定が優先すると! いいか山出し! つまり、帝国基本法を適用することが可能ということなのだ! 私は三等爵士の長子、そして貴君の傍付きは六等爵士の娘だァ! 貴族の子弟間の不敬行為は親同士のそれに準ずる! よって私には、帝国基本法に定められた、貴族賞罰権を行使する権利があるのだァ!!」
「……な……何だと……」
ユージオは愕然として、そう漏らすことしかできなかった。ライオスの勝ち誇った長広舌は更に続く。
「賞罰権はいいものだぞォ、平民! 学院則のような掃除だの稽古だのといったケチ臭い規定は一切無しッ! 禁忌に触れない限り――つまり天命を減少させない限り、何をしようと、何を命じようと自由なのだッ!! 我が父など、私領地の麗しき蕾をいくつ摘み取ったか知れぬわ! よいか、これが貴族ッ!! これが権力というものだッ!! 分かったかァ無姓の輩あッ!! み、みの……みのっ、みのォ……」
ここ一週間――いや、もしかしたら入学当初から二年間に渡って醸しつづけてきた鬱憤を晴らす悦楽のせいだろうか、ライオスはぐるんと白目を剥き、陶然と体を震わせながら言い放った。
「身のほどをォォォッ! 知れェェェェッ! キャハッ、キャハハハハハハ!!」
ユージオは、頭の中が妙に冷たく静かなのを不思議に思った。怒りも、憎しみも、悲しみすらもそこには無いようだった。しかしすぐに、そうではなく、一つのある感情が余りに巨大すぎて他を完全に圧しているのだと自覚した。
その感情の名前を、ユージオは知らなかった。ただ、単純に、目の前の汚らしく、卑劣で、厭わしい存在を未来永劫消し去りたいという欲求だけがそこにあった。
ライオスの言葉が真実だとは――年若いティーゼとロニエに、複数人で陵辱の限りを尽くした行為が法で認められたものだなどとは、どうしても信じたくなかった。しかし、皮肉なことに、ライオスがそれを成し得たという事実そのものが、その行為の合法性を追認しているのだった。
そしてその事実は同時に、己にライオスを処断するいかなる権限も無いのだということを冷厳に告げてもいた。左手の剣で斬りかかることは勿論、哄笑するその口に拳を叩き込むことも、いや、言葉で罵ることすらも、ユージオには許されないのだ。
しかしならば――ならば法とは何なのか!?
人々の暮らしを守り、世界の秩序を守るためにあるのが禁忌目録であり、帝国基本法なのではないのか。ルーリッド教会のシスター・アザリヤは、子供のユージオに向かって確かにそう言った。ではなぜ、法はティーゼとロニエを守れなかったのか? なぜ、友人を助けようと勇気を振り絞った少女たちにあのような残酷を許し、そして今ユージオに剣を抜くことを許さないのか? これらすべてが法の定めた結果なのならば、正義は一体どこに存在するというのだ?
いつしかユージオの視界は千々に乱れ、大きく歪んでいた。それが溢れ出した涙のせいだと気付くには少し時間がかかった。
そんなユージオの顔を見下ろして更にひとしきり高笑いしたあと、ライオスは右手の葡萄酒を干し、溢れた赤い液体を左手で拭いながら空いたグラスを床に放った。
「さて……それでは、せっかく指導者たるユージオ殿がおいでなのだ。引き渡す前に、傍付きの躾け方というものを、もう一度きっちりとお見せしようではないか。さあさあ、立って我が寝室に入り給え」
ユージオは左手の剣を支えにして、よろけながら立ち上がった。袖口で涙を拭い、何度か大きく呼吸をしてから、ぼそりと呟いた。
「こ……これ以上何か言ってみろ。その汚らしい舌を……根元から切り取ってやる」
それを聞いたとたんライオスはぴくりと眉毛を動かし、一層興が乗ってきたと言わんがばかりに薄く笑った。
「おやおや、気をつけたほうがいいですぞユージオ殿。いかに同格の修剣士とは言え、脅迫的な言辞は危ない、危ない。貴君を告発するような真似は、私としても不本意……」
「黙れ、ライオス・アンティノス」
嘲弄めいた台詞を途中で遮ると、ライオスはさすがに鼻白んだように口を閉じた。ユージオは一歩前に出、それだけで非礼行為となるほどの近距離から相手の眼を凝視した。
頭の中は相変わらず冷え切っていた。ほとんど勝手に口が動き、抑揚の無い声が流れ出した。
「ライオス……お前がこのあとすることはたった一つだ。ロニエとティーゼに謝罪し、地に手をついて許しを乞い、そして残りの人生全てを己の罪を償うために生きると誓え」
「ハァ? 何を戯けたことを言っているのだ貴君は」
ライオスの唇が限界まで歪められ、最大級の蔑みを形作る。
「謝罪? 償う? なぜこの私が? 先ほど懇切丁寧に説明してやったではないか。私の行いは全て、あらゆる法に認められた当然の権利なのだよ。あの二人の初等練士ですら、一度聞いたら己が立場を理解したぞ。少々五月蝿く泣き喚きはしたが、決して拒否も反抗も……」
「黙れと言った!!」
再び目尻に涙がにじむのを感じながら、ユージオは叫んだ。自分たちが卑劣極まる陥穽に落ち込んでしまったことを、そしてもう誰も助けてくれる者はいないのだということを理解せざるを得なかったティーゼとロニエの絶望を思うと、おのれの胸を引き毟って血を全て流し尽くしてしまいたいほどの悲痛に苛まれずにはいられなかった。
「ライオス、お前は間違っている。たとえ学院則、帝国基本法、そして禁忌目録が禁じていなくとも、絶対にしてはいけないことだってあるはずだ。……彼女たちがお前に何をした? これほどの仕打ちを甘受しなくてはいけないほどの、どんな罪を犯したというんだ!?」
「貴君の暗愚もここに極まれりだな」
ユージオの言葉など煩わしい小蝿の羽音とでもいわんがばかりに、ライオスは右手をぶらぶらと振った。
「何を言い出すかと思えば……賞罰権の行使は我々上級貴族の生来の権利であるぞ。してはいけないこと? そんなものがどこにある? 禁じられていなければ、それは行っていいことなのだ、当然! あの二人の罪、それは、家系も辿れぬ山出し修剣士にうかうかと感化され、高貴なる血筋の者に苦言めいた大口を叩いたことだ! ふ、ふ、私にはわかっていた、いずれこうなるとな……。よいか、それはつまり、貴君の愚かしさでもあるのだぞ!」
この夜のライオスの言動のなかで、唯一それだけは正しいと、ユージオは思った。ライオスの企みを看破できず、ティーゼ達の行動も予測できなかった自分の愚かしさがこの悲劇の一因となったことは、疑いようもない事実だった。
ならば、自分はどうすればいいのか? ライオスの罪だけでなく、己の罪にすら目を瞑り、全てを無理矢理忘れ去って、偽りにまみれた日々を生きていく……?
そんなことができるものか、と内なる声が叫んだ。
だが、同時に、もう一人の自分が耳もとでせせら笑う声を、ユージオは聞いた。
――今更そんな大言を吐く資格が、お前にあるのか? お前はもう、すでに長すぎるほどの年月を、嘘と偽りで塗り固めつづけてきたんじゃないのか? お前はなぜ、アリスが整合騎士に連れ去られるのを木偶の坊のようにただ見ていた? お前はなぜ、六年もの間、絶対に切り倒せない樹を叩きつづけることしかしなかった? お前はなぜ、央都に辿り付いたというのに教会の門に近寄ろうともせず、整合騎士を目指すなどというあまりに狭く迂遠な道を選んだのだ?
――だって、仕方ないだろう。法に従えば、僕にはそれら以外の選択肢は無かったんだ。
――それが汚らしい嘘だということに、お前はもう気付いているはずだ。お前は、本当は、怖かったんだろう、アリスが? 禁忌目録に違反したアリスを、教会への反逆者として心の底では忌み恐れ、会いたいと思うのと同じかそれ以上に、もう会えなくてもいいと思っていたんじゃないのか? お前が法に従うのは、それが法だからではなく、従っていれば楽だからだ。自分の弱さから目を背けていられるからだ。そんなお前に、今更、法の正義などという言葉を吐く権利があるのか?
その声が全き真実を告げていることを、ユージオは否定できなかった。
なぜなら、今日この時に至るまでユージオは、どうしてあの時アリスが一歩を踏み出したのか理解できないでいるのだ。憎むべき教会の敵である闇の国の騎士を、禁忌目録に反してまで助けようとしたあの行為にどんな意味があったのか、まったく解らないままなのだ。そんな自分が、アリスにもう一度会うために整合騎士になりたいなどと――あまつさえ、アリスを教会から助けたいなどと――。
なんという欺瞞。
なんという醜い偽善だろう。本当は、アリスを助けたいわけじゃなかった。ただ、アリスを忘れ、諦め、見捨てることの都合のいい言い訳を探していただけだったのだ。ライオスと同じだ。法を、ただ都合のいいように解釈し、自分が楽になるために利用した。そう――アリスとはまったく逆。アリスは、他人、しかも忌むべき闇の騎士を助けるために、法を犯した。法よりも大切な何かに殉じるために。
今はじめてユージオは、法、つまり禁忌目録とそれを定めた神聖教会よりもさらに正しく、大切な"何か"の存在を明確に意識した。禁じられてはいないがしてはいけないことがある。同じように、禁じられてはいるがしなくてはいけないこともある。アリスはそれに従い一歩を踏み出した。そして今、ユージオの番が来たのだ。アリスの行為よりもはるかに呪わしく、おぞましい所業ではあるが、しかし――今のユージオが、ティーゼとロニエのためにできることは、もうそれしかないと思えた。
「ライオス」
ユージオは、寝室に足を踏み入れようとしたライオスを、背後から呼び止めた。
「例え法と教会が許しても、僕はお前を許さない。謝罪する気が無いというなら、その罪は……命で償え」
右手で握った青薔薇の剣の柄は、氷で出来ているかのように冷たかった。腰を落とし、抜刀の構えを取るユージオを、振り向いて眺めたライオスは、ほとほと呆れ返ったと言わんがばかりに両手を広げた。
「何なのだそれは? 脅しのつもりか……それとも冗談の類かな? 忘れてしまったのなら教えてやるが、その骨董品をここで抜けば学院則違反、私に毛ほども傷をつけたら禁忌目録違反なのだぞ?」
「糞食らえだ、学院則も、禁忌目録も」
聞いた途端、ライオスの目が丸くなり、次いで驚きと喜悦の叫びが迸った。
「おッ、おッ! 聞いたかウンベール、ラッディーノ!」
足早にソファーの前まで戻り、ユージオに細長い指を突きつける。取り巻き二人にもユージオの言葉は聞こえていたらしく、こちらは純粋に信じられないという仰天のみを表して口をぽかんと開けている。
「ハハハ! キャハハハハ! この山出しの言ったことは、明らかに教会への不敬行為だぞ! まさか、これほど思い通りに踊ってくれるとは! お前は終わりだ、ユージオ! 聴聞にかけられた挙句退院処分は間違いなァい! ハハハハハハ!!」
上体を捩って哄笑するライオスを見ても、もうユージオの胸中には細波ひとつ立つことはなかった。呼吸を整え、更に腰を落とし――
一閃でライオスを切り伏せるべく、右手を疾らせた。
しかし、直後、がちん! という岩にぶつかったかのような衝撃とともに腕が止まった。
ユージオは驚愕して左腰に溜めた剣を見下ろした。鞘と柄に鎖か何かが溶接されているとしか思えない手触りだったからだ。だが、そこには何もなかった。青みを帯びた刀身が、わずかに親指の幅ほど覗いているだけで、縄も、鎖も、抜剣を阻むものは何ひとつ存在しない。
「な……」
ユージオは驚愕し、更に右腕に力を込めた。しかし剣は動こうとしない。歯を食い縛り、関節が軋むほどの力で抜こうとしても、まるで鞘と刀身が一体化でもしてしまったかのように、ぴくりとも動かない。
「くふっ……はは……ハハハハ! 何なのだ貴君は! 往来で小銭をねだる道化か何かか!?」
ライオスは、可笑しくてたまらぬと言わんがばかりに目尻に涙を滲ませ、腹を押さえて笑いつづけた。
「出来もしないことを大袈裟に! ハハハハハそれともそんな小芝居でこの私を脅かそうとでもいうつもりかなハハハハハハ!」
「ぐ……ぬ……ぁ……っ」
食い縛った歯がみしみしと悲鳴を上げるのも構わず、ユージオは唸りながら全身の力を振り絞って剣を抜こうとした。一体なぜ、この場面で、二年の長きに渡って自分を支え続けてくれた青薔薇の剣が自分を裏切るのか解らなかった。あるいはこの剣すらも、教会の支配下にあると言うのか? 禁忌に触れる目的のためには鞘から抜けないとでも言うつもりなのか?
「ぬ……ぅ……ッ!!」
しかし、次の瞬間、ついに刀身がほんの少し――髪の毛一筋ぶんほど動いた。
同時に灼熱の鉄串にも似た凄まじい激痛が脳を貫き、ユージオは真実を悟った。自分を裏切っているのは、剣ではなく、自分自身であるということを。あれほど己の欺瞞を悔い、覚悟を決めたつもりでいたのに、尚も頭の中に巣食う何者かが禁忌目録を遵守しようとしているのだ、ということを。
「ぐ……く……!!」
毛一筋ぶんずつ剣を抜くたびに耐えがたい激痛が弾け、ユージオの目から堪えようもなく涙が溢れた。歪む視界の中で、ライオスは栓が抜けたような爆笑を続けている。
「ハハハハハハハアハアハアハ! 滑稽……これほど滑稽なものを……見たことがないぞ……キャハハハハアハアハァ!」
激痛は最早、銀色の光となってユージオの頭から足のつま先までを駆け巡っていた。十八年と少しの人生の中で、ついぞ味わったことのない痛みだった。だが、ユージオは腕を止めなかった。ここで剣を引くことはできない、それだけは絶対にできないという一念だけがユージオを駆り立てていた。
銀色の痛みは、ついに具体的な光の線となって視界を飛び交いはじめた。花火のような閃光を縦横に残しながら、寄り集まり、また離れ、奇妙な形を描き出す。それが、ステイシアの窓に浮かぶような神聖文字に似ていることを、わずかに残された思考の片隅でユージオは意識した。"SYSTEM ALERT"、そんなような形の光が目の前一杯に広がったが、ユージオはそれに向かって、すべての力を振り絞りながら絶叫した。
「消えろおおおおオオオオ!!」
視界が銀一色に染まり、最後の、そして恐るべき痛みが右目に集中した。ばしゃっという感触とともに、涙の代わりに大量の鮮血が迸るのをユージオは見た。
「ハハハハハハハアハァアハァアハハハァァァァァァァ――――――」
白目を剥いて哄笑の尾を長く伸ばすライオス目掛けて、枷を打ち払い鞘走った青薔薇の剣が稲妻のごとく襲い掛かった。
ドッ、という重い音を残し、ライオスの右腕が根元から切り飛ばされ、高く舞った。
「アアアァァァァァ――――!?」
笑いがそのまま悲鳴に変わった。斬り口から噴き出した大量の血液が、ウンベールの顔から、壁に掛けられた純白の制服を横切り、そして天井へと至る一直線の朱を鮮やかに引いた。