かちり、とブーツの踵が鳴らされると同時に、きびきびした声が広い部屋いっぱいに響いた。
「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了いたしました!」
声の主は、灰色の初等練士の制服に身を包んだ、わずかに幼さの残る少女だった。この春に学院の門をくぐり、上級生付きを命じられてからまだ一ヶ月と経過していないせいか、直立不動の姿勢には痛々しいほどの緊張感が漲っている。
ユージオとしては可能な限り優しく接しているつもりだが、しかし言葉で何と言われようとそうそう簡単に肩の力が抜けるものではないことは、自身二年前に嫌と言うほど経験してもいた。初等生にとって、学院に十二人しかいない上級修剣士は、ある意味では鬼教官たちよりも近寄りがたく恐ろしい存在なのだ。どうにか普通に会話ができるようになるまでは、最低でも半年はかかるものだし、ユージオだってそれは例外ではなかった。もっとも、何から何まで型破りな相棒だけはまったくその限りではなかったらしいが。
読み古した神聖術の教本を閉じ、高い背もたれのついた椅子から立ち上がると、ユージオはひとつ頷いてから言葉を返した。
「ご苦労様、ティーゼ。今日はもうこれで寮に戻っていいよ。……で、ええと……」
視線をティーゼの赤毛から左に動かし、並んで同じように背筋を伸ばしている、ダークブラウンの髪の少女に向ける。
「……ご免ね、ロニエ。あの馬鹿には何度も、掃除が終わるまでに戻ってこいって言ってあるんだけど……」
いつものようにどこかに逃げてしまった相棒の代わりにユージオが謝ると、ロニエという名の初等生は、目を丸くして何度も首を振った。
「い、いえ、報告を完了するまでが任務ですから!」
「じゃあ、悪いけどもうちょっと待ってて。ほんと、運が悪かったね、あんな奴の傍付きになっちゃって……」
北セントリア帝立修剣学院は、ノーランガルス全土から領主貴族の子弟が集まる最高峰の剣士育成機関だが、一度学院の土を踏めば、例え皇家の流れであろうとも初等練士から横一線のスタートとなる。最初の一年は実剣に触れることすら許されず、ひたすら木剣による型の練習と、教本で戦術理論の学習にあけくれることとなるが、初等生はそれに加えて学院内の様々な雑務もカリキュラムの一環として課せられる。
どのような仕事を与えられるかは、入学直後の剣術試験の点数によって決まる。九割以上の生徒は学内の清掃が任務となるが、得点上位の十二人だけが全学生のトップに立つ上級修剣士の傍付きを拝命し、同級生の羨望と約半年の緊張感を手に入れることになる。
もっとも、傍付きと言ってもやる事は他の生徒と変わらず、同級生たちが教室や修練場を掃除している時間に、同じように上級生の部屋の掃除をする、というだけのことなのだが、しかし付いた生徒の底意地が悪かったり散らかし魔だったり、あるいはフラフラどこかに消える癖を持っていたりすると、このロニエのように毎晩苦労する破目になるわけだ。
「……もし何なら、僕から先生に言ってあげるから、傍付きを他の人に代わってもらったら? アイツに付いてると、一年間苦労するよ、間違いなく」
「と、とんでもありません!」
ユージオの提案に、ロニエがぶんぶん首を振った、その時だった。ドアではなく、開け放した窓の向こうの夕闇から、聞きなれた声がした。
「おいおい、人の留守に何を言ってるんだ」
するりと音もなく、三階の窓から部屋に滑り込んできたのは、ぴったりとした修剣士の制服に身を包んだ二年来の相棒、キリトだった。ユージオの服と形はまったく同じだが、ユージオのものが濃い目の藍青色なのに対して、あちらは完全な漆黒だ。制服の色を自由に選べるのも、上級修剣士の数多い特権の一つである。
何やらいい匂いのする大きな紙袋を抱えて戻ってきたキリトを見て、ロニエは一瞬ほっとしたように息をつくと、すぐに顔を引き締め、音高くブーツの踵を打ち鳴らした。
「キリト上級修剣士殿、ご報告します! 本日の清掃、滞りなく完了しました!」
「はい、お疲れさま」
相変わらず傍付き下級生の存在そのものが苦手で仕方なさそうなキリトは、所在なげに頭を掻きながらロニエを労った。その様子に苦笑しながら、ユージオは改めて相棒の所業を追及した。
「あのなあ、外に行くなとは言わないけど、彼女たちはお前の何倍も忙しいんだから、掃除が終わるまでには戻ってきてやれよな。大体なんで窓から帰ってこなきゃならないんだ」
「カルギン通りから帰ってくるときはこの窓が最短コースなんだよ。ロニエとティーゼも覚えておくと将来役に立つぞ」
「妙なこと吹き込むなよ! ……カルギン通りってことは、その袋は跳ね鹿亭の蜂蜜パイだな」
キリトの腕のなかから漂う甘く香ばしい匂いは、一時間前に夕食を詰め込んだばかりのユージオの胃をたちまち空に戻し、きりきりと刺激した。
「……確かにあれは絶品だけど、だからってなんでそんなに山ほど買ってくるんだ」
「ふふん、欲しければ素直にそう言いたまえよユージオ君」
キリトはにやっと笑うと、膨れた紙袋から黄金色に焼けた円筒形のパイを二つ取り出し、片方をユージオに放るともう片方をくわえた。残りを袋ごと、どさりとロニエの腕に落とす。
「寮に戻っはら、部屋の皆へ食えよ。寮監に見ふかるなよ」
ロニエとティーゼは、わあ! と十五、六の少女に相応しい歓声を上げたあと、慌てたように再び姿勢を正した。
「あ、ありがとうございます上級修剣士殿! 戴いた物資の天命が減少しないよう、全速で寮に戻ります! それではまた明日!」
高速で一礼し、二人はかつかつとブーツを鳴らして部屋を横切り、外に出た。再度の礼のあと、ぱたん、と扉が閉まると、廊下からまたしても歓声が聞こえ、ばたばたと走る音がたちまち遠ざかっていった。
「…………」
ユージオは、焼きたてのパイを大きく一口齧ると、横目でじいっとキリトを見た。
「……なんだよ」
「いや、別になんでも。ただ、キリト上級修剣士殿は、なんで僕らがここにいるか、忘れておいでじゃないでしょうね、と、ええ、それだけ」
「ふん、忘れるかよ」
たちまちパイを食べ終わったキリトは、ぺろりと親指をなめると、細めた黒い瞳を窓の外――セントリア中心部に聳える神聖教会の巨大な塔に向けた。
「あと二つ……ようやくここまで来たんだぜ。まず、他十人の上級修剣士をぶっ倒して学院代表の座につく。そして、四帝国統一大会で何としても準決勝まで残る。それで俺たちはもうお偉い整合騎士様だ。堂々と正面からあの塔に乗り込める……」
「うん……。あと一年……それで、やっと……」
――やっと、会える。八年前、目の前で整合騎士に連れ去られた金髪の幼馴染に。
ユージオは遥か彼方の神聖教会から視線を戻すと、部屋の壁に掛けられた白黒二振りの剣を見つめた。二人をここまで導いた、この運命の剣たちがある限り、僕らは決して挫けることはない――、一抹の疑いもなく、そう思えた。
「まったく、何でこんなとこに来てまで試験勉強なぞせにゃならんのか……」
とげっそりした顔で言い残し、明日に迫った上級神聖術の試験の一夜漬けのためにキリトが自分の寝室に引っ込んでしまったので、ユージオは日課の夜稽古をひとりでやることにして、二年間使い込んだ木剣を担いで部屋を出た。
確かに、ルーリッドの村を出たあの日には、よもや自分が央都で――つまりこの世界で最高の剣士養成機関に入学を許され、剣術や神聖術の勉強に毎日明け暮れることになるとは思いもしなかった。しかしやってみればどちらもとても刺激的だったし、そもそも本来であれば木こりとして一生を過ごすはずだった自分が、貴族や大商家の跡取りたちに混じって教育を受けられるだけでも、望外の幸運と言わなくてはならない。
――その上、こんな立派な建物の広い部屋を与えられ、専属の掃除係までいるのだ、なんてことを故郷の兄貴たちに言っても全く信じやしないだろうな。長い廊下を歩きながら、ユージオはぼんやりとそんなことを考える。
帝立修剣学院の敷地は、北セントリアの中心部にある大きな丘をまるごとひとつ占有する広大なもので、建築物も大小あわせて十を数える。うち四つが、約三百人の学生のための寮となっており、百人ずつの初等練士、中等練士、高等練士が寝起きする三棟を見下ろす丘の中腹に、わずか十二人の上級修剣士の専用棟が建っている。
もともと学院は、四帝国の一角であるノーランガルスの国民からより多くの整合騎士を輩出するという明快な目的のために運営されており、選抜試験を兼ねる統一剣術大会に送り込むための精鋭である上級修剣士には至れり尽せりの待遇が与えられる。それぞれの個室は教師たちの部屋より広いという話だし、消灯前なら外出も自由、外に食事にいくのが面倒なら寮の一階に立派な食堂がある。
精鋭とは言え、たかが学生に対してこの厚遇なのだ。もしこれが、統一大会の上位常連の強豪なら――さらには名実ともに世界の頂点たる、ある意味では皇帝家をも上回る権力を持つ整合騎士たちなら、一体どのような豪奢な生活を送っているのだろうか。
「……っと、いけない」
ユージオは、肩に乗せた木剣でこつんと自分の頭を叩いた。最近ではここでの暮らしに慣れてきたせいか、村を出たばかりの頃のぎらぎらした目的意識をふと見失いそうでぎくりとすることがある。央都の有名な食べ物屋や、寮の食事がいかに豪華なものであろうとも、遠い昔に村はずれの黒い巨木の下でがっついて食べた質素な弁当よりも美味いと思ったことは一度もないし、思ってはいけないのだ。
「アリス……」
自分に言い聞かせるように、その名前を呟く。ここでの暮らしも、統一大会も、整合騎士を目指すことすら、全ては目的ではなく手段だ。余人の立ち入れない神聖教会のどこかにいるはずのアリスに、禁忌を破ることなく堂々と会いに行くための。
突き当たりの階段を降りたユージオは、建物の北側に設けられた修練場に向かった。これもまた、上級修剣士の特権のひとつだ。練士の頃は毎晩、寮の裏手の森の、自分の鼻も見えないような闇の中で剣を振ったものだが、ここでは十二人には広すぎる屋内の道場の、煌々とした灯りの下で好きなだけ稽古ができる。
大きな両開きの扉を押すと、修練場にいた三人の先客が振り返り、露骨に顔をしかめた。
二人が手合わせ中で、残り一人が審判をしていたようだったが、ユージオが一歩足を踏み込んだ瞬間に木剣の音はぴたりと止まった。そんなに警戒しなくても、別に君たちから技を盗んだりしないよ――と内心で思いながら、三人から遠離れた隅っこに向かって歩き始める。
「おや、ユージオ……修剣士殿、今夜は一人なのかな」
声をかけてきたのは、審判役の男だった。長い金髪を後ろで束ね、すらりとした長身を純白の制服に包んでいる。いかにも良血といった、過不足なく整った顔にはにこやかな笑みが浮かんでいるが、『ユージオ』と『修剣士』のあいだにわざとらしく間を置いたのは、ユージオが姓を持たない開拓農民の子であることをあげつらっているのだ。
普段は、剣呑なキリトが怖くて挨拶もしないくせに、と思いながら、ユージオも笑顔を作ると小さく頭を下げた。
「今晩は、ライオス・アンティノス修剣士殿。ええ、同室の者はあいにく明日の試験に備えて勉強をしていますよ。でももしご用なら呼んできましょうか?」
「む、いや、それには及ばない」
ライオスはもったいぶった仕草で短くかぶりを振った。ユージオはこれでも最低限の社交辞令は弁えているが、キリトはまったくその限りではない。機嫌の悪いときは、ライオスの皇家に連なる血筋など意に介せず、手合わせを申し込んでぶちのめすくらいのことは平気でやる奴だ――ということを向こうもよく知っているのだ。
「それでは、私は邪魔にならないよう隅で剣を振っています。お三方はどうぞそのまま続けてください」
我ながら卑屈な態度が上手くなったものだ、と思いながらユージオが再度頭を下げると、いつもライオスにくっついている、これも貴族の次男だか三男だかの残り二人も尊大な顔つきで頷いた。
床一面に敷かれた濃い赤のカーペットを踏んで、奥の壁沿いに並んで立つ、分厚く革の巻かれた丸太の前まで移動する。背中にライオスたちの視線を感じながら、木剣を構え、呼吸を整える。
「シッ!」
鋭い気合とともに、振り上げた剣を、ただ正面から丸太目掛けて撃ち降ろす。両手に心地よい痺れを感じながら素早く一歩下がり、また呼気と同時に剣を振る。ドシッ、ドシッという重い音だけに意識を集中していると、三人の存在など急速に消え去っていく。
ユージオが毎夜の稽古で行うのは、この何の工夫もない上段斬りを五百本だけだ。教練で学ぶ複雑華麗な型などまったくやらないし、初歩的な連続技すらも繰り出さない。すべて、ユージオの隠れた師であるキリトの指示によるところだ。
キリトの弁では、真に剣が振れるようになるのは、剣の存在が消えてからだ――という。無限回の反復練習を通して、動作の中で己と剣の境目が無くなってはじめて剣は必殺の武器となる。道具としての剣を美しく見せるための型など百害あるのみ、と嘯く彼の言葉を、それぞれの流派を持つ達人である教師たちが聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。
しかし、こうしてキリトの指示どおりの練習をもう二年も続けているユージオだが、彼の言わんとすることを完全に理解できた気はいまだにしない。
剣技は必殺たるべし、とキリトは言うが、そもそも人間相手の勝負で必殺などという言葉は存在し得ない。いかなる勝負においても、相手を殺してしまえばそれは禁忌目録違反であり、整合騎士を目指すどころか逆に整合騎士に断罪されてしまう。
ゆえに、学院内で行われる木剣同士の手合わせも、統一大会での真剣勝負ですら、勝敗は最初の一撃が入った時点で決定する。往々にして完全に同時の相撃ちも起こるので、その場合はより美しく華麗な技を決めたほうが勝者となる。だからこそ学院では型の演舞が重要視されるのだし、それは二人の最終目標である、整合騎士の選抜基準においても変わらないはずだ。
ユージオがそう言うと、キリトはただ一言、あの洞窟でのことを思い出せ、とだけ答えた。
確かに、ニ年前のあの日、シルカを連れ戻すために北の山脈を目指した時に体験した出来事は、ユージオの中に今も薄れない衝撃を刻み付けている。山脈を貫く洞窟で出会ったゴブリン――闇の国の住人たちには、禁忌など何一つ存在しないようだった。殺すことのみを目的としたような醜い剣を振るい、ユージオとキリトに致命傷となりうる深い傷を負わせた。
禁忌目録は、闇の国の住人は全て敵と断定し、それを殺すことはまったく禁じていない。だから、あの日洞窟で見たように、もし遠い未来に闇の軍勢が果ての山脈を越えて侵略してきたとき、それと戦うために必殺の剣を磨け、というキリトの言葉は理解できる。
だが、本当にそんな日が来るのだろうか? 人間の国は、無敵の整合騎士に守られている。彼らはまさに一騎当千、ゴブリンたちなどどれほど押し寄せてきたところで容易く退けるはずだ――。
そう反論したユージオに、キリトは笑って言った。馬鹿だなぁ、俺たちはその整合騎士になろうとしてるんじゃないか、と。
確かにそれはまったくその通りだ。整合騎士を目指すなら、闇の軍勢と戦える必殺の剣を身につけておかねばならないのは自明の理だ。だからユージオは毎夜愚直な上段斬りを繰り返している。しかし――正直、自分の中に、人間の世界を守ろうという理想があるのかどうか、ユージオにはよくわからない。修行の全てはただ、もう一度アリスに会うという目的のためだけのものなのだ。整合騎士に任じられ、神聖教会に囚われているアリスと再会し、もし騎士の特権を以って彼女の罪を免じてもらうことができれば、その後はもう任を辞してルーリッドに帰り、アリスと二人畑を耕したとしても何の未練もない……。
物思いに耽りながらも、ユージオの体と腕は水車のように勝手に動きつづける。
頭の片隅で数えている撃ち込みの本数がいつのまにか四百を超えた、その時だった。背後で、笑いを含んだライオスの声が響いた。
「いつもながら、ユージオ修剣士殿の稽古は奇しきものだな。あのような型も技もない棒振りに、どのような意味があるのか、知りたいとは思わないかウンベール」
「いや、まったくまったく」
追従する取り巻きの言葉に、三人の露骨な嘲笑が続いて、ユージオはおやおや、と思う。
――キリトが居ないとずいぶん絡むじゃないか、ライオス君。
そんなに自分は与し易しと見られているのか、と考え、すぐにまあそうかもなと内心苦笑する。注目を浴びるのが苦手な性分は央都に来てもまるで変わらず、数限りなく行った模擬戦闘においても地味な技のみで勝利するよう自然と努力してしまった結果、ユージオは十二人の上級修剣士の中でも最も目立たない存在となっているのは間違いない。
しかし、そろそろその座に甘んじているわけにもいかなくなる。これからの一年間で行われる試合は全て学院総代表の選抜試験であり、わずか二名の枠をキリトとともに手に入れるためには、お互い以外の全ての修剣士にできるだけ派手に、美しく――つまり教官ごのみの技で勝ち続けなくてはならないからだ。
相変わらずねちっこく笑いつづけているライオス達を無視し、五百本の撃ち込みを終えると、ユージオは腰帯から抜いた手巾で額の汗を拭った。地味な割に楽な稽古ではないが、しかし故郷の森で一日中重い斧を振り回していたのを思えば何ほどの事はない。
学院の主講堂の天辺に建つ塔の鐘が、ルーリッドの教会のそれと全く同じ旋律を奏でて午後九時を告げた。消灯までの一時間で、風呂に入り明日の授業の準備をしなくてはならない。木剣を担ぎ、ユージオはまだぐずぐずしている三人に軽く会釈して修練場を後にしようとした。
「おや、ユージオ殿は丸太叩きだけで、型の修練はしないのかな」
まだ絡み足りないらしいライオスが、わざとらしい驚き顔を作って声を掛けてきて、ユージオはひそかに溜息をついた。
「ははは、ライオス殿、聞けばユージオ殿はどこぞの田舎で木こりをしていたそうな。丸太相手の技しか知っておられぬのかもしれませんぞ」
「これは教官連中に、木こり斧の型をユージオ殿に教えて差し上げろと言っておかねばなりませんな」
確かウンベールにラッディーノとかいう名前だった取り巻き二人が、事前に台本を作っているのかと疑いたくなるような台詞で調子を合わせる。こんな奴らの三文芝居に付き合っていられるものか、とユージオはせいぜい下手に出てとっとと逃げ出すべく、口を開いた。
「いやあ、田舎で叩いていた樹が人間よりよっぽど歯応えがあったおかげで、木こり剣法でもこんな立派な学院に入れました。人生、何が幸いになるかわかりませんね、それではお休みなさいお三方」
では、ときびすを返しかけたところで、ライオスが突然額に青筋を浮かべて喚いた。
「聞き捨てならんな! ユージオ修剣士殿は、我々が丸太以下だと言われるか!」
「は?」
唖然として聞き返す。どこをどう切り取ったらそんな意味になるんだ、と首を捻りかけたユージオに、取り巻きが両側から同時に怒声を浴びせた。
「無礼な!」
「許さんぞ!」
「い、いや……そんな事は誰も」
言ってない、と続けようとしたが、それに被せてライオスが更に大声を出す。
「そこまで大口を叩くからには、実力を以って証明する覚悟がおありと思ってよろしいな!」
よろしくない、と言っても収まりそうにない剣幕に、さあ面倒なことになったぞ、とユージオは密かに舌打ちした。恐らく三人は、ユージオが一人で現われたときから何やかや難癖をつけて手合いに持ち込む腹だったのだろう。
どうやったら無事に逃げおおせるかとあれこれ考えかけてから、ユージオは不意に馬鹿らしい気分に襲われた。初等生の頃からライオスらに対して不遜な態度を貫きつづけたキリトではなく、常に下手に出て相手の顔を立ててきたユージオが目の敵にされるのは理不尽としか言いようがない。アホウを相手にするだけ無駄だぜ、というキリトの声が聞こえてきそうだ。
どうせ、一ヵ月後に迫った最初の選考試合では、ライオスを完膚なきまでに打ち負かす必要があるのだ。早いか遅いかの違いでしかないなら、ここであれこれ言葉を重ねて余計な時間を取られるだけ骨折り損というものだ。
「では、証明して差し上げましょう」
ユージオはにこやかにそう言い、右手の木剣をくるりと回して相手の鼻先に突きつけた。
「な……」
一瞬ぽかんとしたライオスの顔が、みるみる真っ赤に染まる様はなかなか見ものだった。豪奢な金髪から湯気が出そうな勢いだ。
「これほどの侮辱は覚えがない! 天命を半分削られても文句は言わないでもらおう!」
学院内における双方合意の手合いであれば、寸止めではなく実際に攻撃を入れることも許されているが、しかし当然初撃で決着というルールは変わることがない。しかも今双方が携えているのは練習用の木剣であり、どれほど激しい一撃が入ったところで天命は一割も減らないだろう。修剣士なら誰もがマスターしている初歩の神聖術で容易く治療できる傷だ。
まったく大袈裟なことを言う奴だ、と思いながら、ユージオはライオスが距離を取り、芝居がかった仕草で腰から木剣を抜くのを眺めた。
望んだ手合いではないにせよこうなったからには負けるつもりはないが、しかし容易く勝てる相手ではないこともまた事実だ。傍系とは言え皇族のライオスは、幼い頃から一流の教師に剣術を学んでいるはずであり、学院の教練どおりの型による攻防なら向こうに分がある。上背も腕の長さもあちらが上、しかも華美な装飾が施された白樫の木剣までやたらと長い。
――しかし幸い、この場には技を採点する教官は居ない。
ユージオは呼吸を整えながら、すっと腰を落とし、剣を右に低く落ろした。いかなる伝統流派の教本にも乗っていない構えだ。
「何を珍妙な……」
ライオスは鼻で笑い、背筋を伸ばして立つと剣を右体側に真っ直ぐ立てた。スーペリオ流長剣術・天衡の構え、繰り出される技は恐らく飛燕双翼の型……とユージオは読んだ。左右いずれかの偽打を見せてから反対側より本筋の飛んでくる厄介な技だが、知っていれば何ほどのことはない。
「それでは――始め!」
ウンベールの声とともに、ライオスの長剣が唸った。
ちかっと視界の左側で閃いた白光を、ユージオは落ち着いてやり過ごし、右から襲ってきた真打に合わせて剣を撃ち上げた。
ががばきびっ、と四つの音が連続して響いた。
最初の二つは、ユージオの剣がライオスの剣を右下から受け止め、即座に斬り返して左上から打ち込んだ一撃をライオスがぎりぎりの所で受けた音だ。その反射速度はさすがと言わざるを得ないが、息もつかせぬ右からの三撃目には対応しきれず、横腹を打たれた白樫の木剣はばきっと悲鳴を上げて中ほどからへし折れ――そしてくるりと体を回転させての最後の右水平斬りが、びっと鈍い音とともにライオスの長い髪をひと筋千切って頬の直前で止まった。
しん、と静まり返った修練場の床に、くるくると宙と飛んだ木剣の上半分が、重い音を立てて落下した。ライオスは両目を見開いて数歩後退すると、よろめいて片膝を付いた。
「ら……ライオス殿ォ!!」
「お怪我はっ……!!」
悲鳴を上げて駆け寄る取り巻きを、邪険に振り払ってライオスは立ち上がった。いまだ信じられないという顔で、手に残った剣の下半分を眺め、再度ユージオの顔を凝視する。
「な……なんだ、今の技は……」
「ええと……」
昔キリトから教わった、珍妙な流派の名前を思い出し、なるべく厳かな声音を作って口にする。
「――アインクラッド流剣術、直剣四連撃技ホリゾンタル・スクエア」
「あ……あいん……?」
ぽかんと口を開ける三人に向かって、ユージオは教官たちのしかめ面を真似ながら言った。
「ライオス殿が受けきれなかったのも無理はない、一本ずつ型のやりとりに終始する伝統流派には連続技という発想はありませんから。これを機に研究してみるといいでしょう。それでは」
一礼して身を翻そうとしたユージオは、ライオスの顔がどす黒い屈辱の色に染まり、いつもは涼しげな両眼に滴るような憎悪が溜まっているのを見て、やりすぎたか、と少々後悔した。こうなったらこれ以上面倒なことになる前に逃げるのが最善策だ。すっかりいつもの卑屈な態度に戻って再度頭を下げ、足早に出入り口に向かう。
扉を開け、後ろを見ないままホールに出たが、首筋のあたりにいつまでも粘つくようなライオスの視線がわだかまっているように思えた。これで今後はちょっかいを出してこなくなればいいけど、と溜息をつきながら、ユージオは足早に自室を目指した。
ある程度の嫌がらせは覚悟していたが、数日が経過しても、意外なほどにライオス達は大人しかった。
以前なら、寮や講堂で顔を合わせる折に一日一度は糖衣に包んだ蔑みの言葉を下賜してくれたものだが、修練場での手合い以来それもぱったりと途絶えている。キリトには念のため一件のことを説明し、連中に気をつけるよう注意しておいたのだが、そちらにも何の音沙汰も無いらしい。
「意外だなぁ、あんな事くらいで性根を入れ替える奴らじゃないと思ってたんだけどなあ」
お茶のカップを両手で抱え、ユージオが首を捻ると、キリトは少し考えてから答えた。
「でも、考えてみるとこの学院じゃあ嫌がらせひとつするのもそう楽じゃないぜ」
ずずっと音を立てて熱い液体を啜る。
やや波乱含みの一週間が終わり、明日はようやく休息日となった夜である。すでに稽古と入浴を済ませ、いつもなら挨拶もそこそこに互いの寝室に引っ込んで朝まで死んだように眠るのだが、この夜だけは共用の居間でお茶を飲みながらあれこれ話すのが毎週の恒例となっていた。
ユージオが首をかしげて先を促すと、キリトは黒い瞳をティーカップの中に向けたまま言った。
「例えばさ、子供の頃、ルーリッドの学校じゃあどんな悪戯をしてた?」
思いがけないことを訊かれ、眉をしかめて遠い昔の記憶を掘り返す。
「そりゃあ……僕は主にやられるほうだったけど……ほら、キリトも憶えてるだろ、あの衛士長のジンクとかにはよく苛められたなぁ。靴をどこかに隠されたり、弁当の袋にイライラ虫を入れられたり、アリスと一緒のところを囃されたりさ」
「ははは、子供のやることはどこの世界でも一緒だな。……でも、肉体的な苛め、例えば殴られたりとかそういうことはなかった。そうだろ?」
「当たり前だろ」
ユージオは目を丸くして答えた。
「そんなことするわけないじゃないか。だって……」
「――禁忌目録で禁止されてるからな。『別項に挙げる理由なくして他者の身体を意図的に傷つけるべからず』……靴を隠すのは問題ないのか、そう言えば? 盗みも禁止事項だろう?」
「盗むっていうのは、他人に所属する物を無断で自らに所属させることだよ。窓を開いてみればわかるけど、物の所有者属性が移動するのは、携行するか居室に置いてから二十四時間後だ。だから、例え合意のもとであげたり貰ったりしたものでも二十四時間以内なら正当に返却を要求できるし、合意なく持ち出してもすぐにどこかに放置すれば所有することにならないから盗みにもならない……。こんなの、五歳の子供でも知ってるぞ。いいかげん記憶が戻る気配はないのかい?」
ユージオの気遣いに、キリトは頭を掻きながら笑った。
「そ、そうか、そうだった気もするな。うーん、そんなシステムだったのか……危ねえなぁもう……」
「し、しすて……?」
「いや、なんでもない。……ん? じゃああれは? お前の青薔薇の剣を、昔話でドラゴンから盗もうとしたベルクーリは禁忌違反じゃないのかよ?」
「あのねえ、ドラゴンは人じゃないよ」
「そ、そっすか……」
「話を戻すと、物を隠す悪戯は禁忌に触れないけど、誰の所属領域でもない場所に放置された物は二十四時間後から天命の減少が始まるから、それまでに返却しないと今度は『他者の所有物の損壊』になっちゃう。おかげで靴はどんなに遅くても翌日には返ってきたけどね……でも、こんな話が、ライオスたちとどう関係するのさ?」
何故かげんなりした表情で椅子に沈みこんでいたキリトは、瞬きすると、自分で始めた話を忘れていたかのように口を開いた。
「ああ、そうだった。ええと、この学院には、禁忌目録とは別に長ったらしい院内規則が山ほどあるだろう。そこに確か、他者の所有物に許しなく手を触れてはならない、ってのもあった。だから、ジンク君がひ弱なユージオ少年を苛めたように、物を隠したり虫を入れたりとかはそもそも不可能だ」
「ひ弱は余計だよ。うーん……そうか。今まで考えたことなかったけど、確かにここだと嫌がらせしようにもその方法が無いよね……」
「せいぜい口で嫌味を言うか……これも明確な悪罵は禁止されてるから大して効果ないしな……もしくは、正当な手合いに持ち込んでぶちのめすくらいしかないぜ。それを試して返り討ちにあっちゃあ、もうあの皇帝の又従兄の孫だかひ孫だかにはできることは無いよ。そうだな、後は考えられるとしたら……俺を金品で懐柔してユージオ君と離反させるくらいかな……」
「え……」
反射的に不安な顔を作ってからユージオはしまったと思ったが、すでにキリトはニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「心配しなくてもいいよユージオ少年。お兄さんは君を見捨てたりしないぞ」
「ふん、どうだか。ゴットロの店の特製肉まんじゅうでも出されたら尻尾振ってついていくくせに」
「それはありうるな」
真顔で言ってからわははと大声で笑い、キリトはお茶を飲み干すとカップをソーサーに置いた。
「ま、冗談はさておき、直接的な嫌がらせに関してはそれほど心配することはないだろう。だが……」
笑いを収め、わずかに両眼を細めて続ける。
「裏を返せば、禁忌目録と学院則に触れない行為なら何をやってもおかしくない、ということでもあるな。まったく、歪んだ倫理観だな……俺も何か見落としがないか、考えておくよ」
一つ頷いてキリトは立ち上がり、黒い部屋着の腰をぱんと払った。
「さて、もうすぐ消灯だしそろそろお開きにするか。ついては明日のことだがユージオ君、俺はちょっと用事ができて……」
「だめだよキリト。今回ばかりは逃げようったってそうはいかないぞ」
翌日の休息日に、二人は傍付き初等生のティーゼとロニエから、親睦会を兼ねたピクニックに誘われているのだった。同様の申し込みを先週もされたのだが、キリトがあれこれ理由を並べて逃亡してしまったため、ユージオは気落ちするロニエを慰めるのに大いに気を使ったのだ。
「あのねえ、もう二人が付いてから一ヶ月も経つんだよ。お前だって、初等生のときに付いたソルティリーナさんに散々気を使ってもらったろう」
「ああ……あの人はいい人だったなあ……。元気でやってるかなあ……」
「遠い目をするなよ! 僕が付いたゴルゴロッソさんは豪傑で大変だったんだからな……じゃなくて、今度はお前がいい人になる番だって言ってるんだ。いいな、逃げるなよ!」
ユージオがびしりと指をさすと、キリトは岩塩でも噛んだような顔をしてへいへいと頷き、おやすみの言葉とともに自分の寝室に消えていった。
ふうっと長い溜息をつき、ユージオは二つのカップをソーサーと共に小さな流し台に運んだ。汲み置きの井戸水で手早く洗い、きちんと拭いて棚に戻す。
耳の奥で、先刻キリトが漏らした、何をやってもおかしくない、という言葉がかすかな残響となって甦った。
これまでの十八年と少しの人生において、ユージオは一度たりとも、禁忌目録の穴を探そうなどと考えたことはなかった。禁忌は遵守を強制されるものではなく、天が上にあり地が下にあるのと同様の第一原則として常にそこにあった。
しかし、全ての人間が、例えばライオスのような人間にとっては、その限りではないということなのだろうか? 彼らは禁忌目録を意に反してやむなく守る――つまり、神聖教会によって創生の時代より定められた絶対の法を、邪魔なものだとさえ思っているのだろうか……?
まさかそんなはずは無い、とユージオは唇を噛んだ。もしそんなことが許されるなら、あの日アリスが整合騎士に連れ去られるのを黙って見送り、更に六年も法に従って黙々と木を切り続け、その間一度として禁忌目録と教会を疑うことのなかった自分は、葉っぱを食むことしかしらないイライラ虫よりも愚かだということになるではないか。
法とは、教会とは一体なんなのだろう――と、ユージオはその時はじめてちらりと考えた。だがすぐに思考を振り払い、明日に備えて眠るために自分の寝室へと歩きだした。
高い鋳鉄の柵に囲まれた修剣学院の敷地は、その六割以上が野原と森に占められている。
ルーリッドの村よりもはるか南に位置するだけあって、棲んでいる動植物の種類も豊富だ。故郷では見たことのない、金色の毛皮を持つ小型の狐やら青緑色のやたら細長い蛇やらがそこかしこで五月の陽光を満喫しており、ユージオはここに来て三年目であるにもかかわらずつい目を奪われた。
途端、隣を歩くティーゼが、頬をぷうっと膨らませながら抗議した。
「ユージオ先輩、聞いてるんですかー?」
「き、聞いてるよ、ごめん。……で、何だっけ?」
「聞いてないじゃないですか!」
よく熟した林檎の色の長い髪を揺らして憤慨する下級生に、慌てて弁解を重ねる。
「い、いや、あんまり森が綺麗だから、つい……。珍しい動物も居るし……」
「珍しい?」
ティーゼはユージオの視線を追ってから、なぁんだ、というように肩をすくめた。
「えー、金トビギヅネじゃないですか。あんなの、街に生えてる樹にだっていっぱい棲んでますよ」
「へえ……。そう言えば、ティーゼは央都出身だったよね。家は学院と近いの?」
「んー、皇宮の向こうだからちょっと遠いですね。パ……父親が皇宮で書記をやってるもので……」
「へえ!」
ユージオは改めて、垢抜けた雰囲気をまとう都会の少女を見やった。自分が二年前に着た時はやたらと野暮ったく見えた、灰色の初等練士の制服も、彼女が着こなすと不思議と軽やかな印象になる。
「じゃあ、お父さんは貴族なんだ?」
ややかしこまった口調で尋ねると、ティーゼは照れたように首を縮めながら短く頷いた。
「一応、六等爵士なんですけど……でも下級貴族もいいとこですから。"むしろ上級貴族の賞罰権に怯えなくていいぶん街の平民のほうが楽だぞ"っていうのが口癖なんです……あ、す、すみません私ったら」
先祖代々平民のユージオに対して配慮の足らない口を利いてしまった、と思ったらしく、しゅんとした顔でティーゼは謝罪した。
「や、気にしないで。うーんそうか、賞罰権ねえ……そんなのあったなあ……」
話題を変えるべく、ユージオはそう言いながら、初等生の頃勉強した帝国基本法を思い出そうとした。
皇宮の発布する基本法は、禁忌目録の下位規則で、主にノーランガルス神聖帝国の社会制度を定めている。それによれば、帝国のあらゆる土地に住む民はおしなべて皇帝の僕であり、それを勝手に使役したり税を課したり、あるいは褒賞することは、例え一等爵士であろうとも許されない。例外は、大貴族の私領地に住む民で、領主は自由に彼らを処罰し、または褒美を下賜する権利――もちろん大原則たる禁忌目録の許す範囲でだが――、つまり賞罰権を有する。
ユージオが不思議だと思ったのは、その賞罰権は三等級以上離れた貴族同士にも設定されており、つまり例えば一等から三等の爵士は最下位である六等爵士を皇帝に代わって裁くことが可能だ、ということだ。
法学の老教師に、なぜそんな補則があるのか訊いてみたところ、戦時に貴族によって構成される軍司令部を円滑に動かすためだと教えられた。しかし、戦争などというものは、創生神ステイシアが人の子に世界を与えたその時よりついぞ起きたことはないのだ。二百年ほど前まで、東と西の帝国と何度か国境線に関して揉めたことはあるらしいが、その時もそれぞれの国代表の剣士による試合で決着したのだと言う。
つまり、今や貴族間の賞罰権など形骸化しすぎもいいところだと思うのだが、そこはそれ、宮廷における勢力争いやつまらない苛めの道具として活用されているらしい。
「だからー、お父様は、長子の私が家を継ぐときには、せめて四等爵士に叙せられてほしいと思って、それでこの学院に入れたんです。もし学院代表に選ばれて、四帝国統一大会でいい成績を残せば、それも有り得ないことじゃないですから……。まあ、どうも無理っぽいんですけどね」
ちらりと舌を出して笑うティーゼを、ユージオはふと眩しく感じて、少し目を細めた。かつて教会に連れ去られた幼馴染と再会する、という考えようによっては女々しい動機でこの場所にいる自分と違って、家の為に剣名を上げようというティーゼの動機は至極真っ当なものであるように思えたからだ。
「そうか……ティーゼは凄いんだね。お父さんを喜ばせるためにがんばって、初等生で上位十二人に入っちゃうんだから」
「そ、そんなことないですよー。最初の試験で、運良くいくつか勝てただけですから。三歳の頃から個人教授を受けててこの程度ですもン。ユージオ先輩のほうがずっと凄いですよ、衛兵隊からの推薦枠ってとっても狭いのに、そこを楽々突破して、しかも一年飛び級して、中等錬士から上級修剣士になっちゃうんですから。私、ユージオ先輩の傍付きになれて、ほんとに光栄だと思ってるんですよ」
「い、いや、そんな……ぜんぜん楽々とかじゃなかったよ。飛び級できたのも、半分以上キリトの特訓のお陰だし……」
むしろインチキ技……と思うがそこは口に出さない。
「へええ! じゃあユージオ先輩よりキリト先輩のほうが強いんですか?」
「…………そう訊かれると、うんと言うのも癪だけど……」
あははは、と楽しそうに笑うティーゼと同時に、少し前をロニエと並んで歩く相棒の後姿を見やる。
あの木石男は、ちゃんと傍付き下級生の相手が出来ているのか、と心配になり耳をそばだてると、意外に滑らかな口調で話すキリトの声が途切れ途切れに聞こえた。
「……だから、尖月流影の構えから派生する型のうち、実際に備えるべきものは二つしか無いと考えていいんだ。真上からか真下から、それ以外は無駄な動作が入るから見てからでも受けが間に合う。ではどうやって上か下かを見分けるかと言うとだな……」
――まあ、内容はさておき、ロニエも熱心に聞いているようだし良しとしよう、と小さく溜息をついてから、ユージオはふと考えた。
自分の、アリスにもう一度会いたい、という動機が不純なものだとすれば、一体キリトは何故この学院で辛い訓練や面倒な勉強に耐えているのだろう? 過去の記憶が無い彼にとって、自分や家の名誉のためといった動機は意味を持たないはずだ。二人の友誼のためだけに、二年間も行動を共にしてくれているともなかなか思えない。
あるいは、キリトこそが最も純粋な求道者なのだろうか――という気がすることもある。あの圧倒的な身体能力に加え、アインクラッド流連続剣技という秘剣をも操る彼は、尚も更なる強さを得んがためだけにこの学院で学んでいるのだろうか……? もしそうであるなら、いつか二人の動機が道を違えるときが来てしまったら、果たして今の僕は彼に――。
「あ、あの池のほとりがいいんじゃないですか?」
ティーゼが右手を伸ばしてはしゃいだ声を出し、ユージオを物思いから引き戻した。指差すほうを見ると、たしかに綺麗な湧き水の池の岸辺に柔らかそうな下草が繁っている場所は、弁当を食べるのに最適なように見えた。
「よし、そうしよう。――おーい、キリト、ロニエ! あそこで食べよう!」
ユージオが大声を出すと、無二の相棒はくるりと振り向き、いつもの少年のような笑みを浮かべて片手を上げた。
敷き布がわりのテーブルクロスを草の上に広げ、四人は向き合って腰を下ろした。
「ああっ……ハラ減った……」
大袈裟な仕草で胃のあたりを押さえるキリトを見て、ロニエとティーゼはくすくす笑いながら持参した大きなバスケットを開いた。
「あの、私たちが作ったので、お口に合うかどうか……」
恥ずかしそうに言い添えるロニエの様子からは、普段の"任務活動"中の緊張ぶりはほとんど感じられず、ユージオは無理矢理キリトを引っ張ってきた甲斐があったなあと考えた。これで黒衣の上級修剣士が見た目ほど怖い人物ではないと分かってもらえれば、きっと打ち解けるのも早いだろう。
バスケットに詰まっていたのは、薄焼きパンに肉や魚、チーズと香草類を挟んだサンドイッチに、スパイスの効いた衣をつけて揚げた鶏肉、干した果物とナッツをたっぷり入れて焼いたケーキ、クリームで練ったチーズを詰めたタルトといった豪勢なメニューだった。ティーゼがそれぞれの料理の天命を確認するやいなや、早速キリトが頂きますもそこそこに揚げ肉をつまんで口に放り込み、しばらくモグモグしてから学院の教師のような口調で言った。
「うむ、うまい。跳ね鹿亭に優るとも劣らない味だぞ、ロニエ君、ティーゼ君」
「わあ、ほんとですか」
ほっとした顔で少女二人が言い、互いに顔を見合わせて笑う。ユージオも負けじと手を伸ばし、魚の燻製を挟んだサンドイッチに大きくかぶりついた。はるかな昔、ギガスシダーと格闘するユージオにアリスが毎日届けてくれた弁当と違って、パンも白いしバターも贅沢に使ってある都会風の味だ。央都に来たばかりの頃は、洗練された上品な料理に馴染めず苦労したものだが、今では素直に美味いと思える。これが慣れるってことなのかな、と内心で呟きつつ、ユージオもティーゼに向かって頷きかけた。
「うん、すごく美味しいよ。でも、材料とか揃えるの、大変だったんじゃないの?」
「あ……えーと、実は……」
ティーゼは再度ロニエと目配せを交わすと、首を縮めながらかしこまって言った。
「ご承知のとおり初等生は特段の事情なく学院から出られないので、その……昨日キリト上級修剣士殿にお願いして、市場で揃えてきて頂きました」
「な、なんだって」
思わず唖然として、こちらに目もくれず料理をがっついているキリトを見やる。
「いつの間にそんなに打ち解けたんだ……僕の心配は一体……。お前なあ、そこまでしといて今更逃げようとするなよな!」
脱力感に続いてむかむかと腹が立ってきて、ユージオは一番大きく切り分けられたチーズタルトを掻っ攫うとがぶりと噛み付いた。
「ああっ、俺が目をつけていたのに……。ま、なんだ、俺としてはむしろユージオ修剣士殿に気を回したつもりなんだが」
「余計なお世話だよ、まったく。僕の方には何の問題もないぞ!」
にやにや笑うキリトに釘を刺してから、目をぱちくりさせているロニエとティーゼに向かって思わず愚痴っぽい口調になって言う。
「こいつはね、昔っからこういう奴なんだよ。二人で央都まで文無し旅をしてる頃も、最初は胡散臭がられたり怖がられたりする癖に、気付くと農家のおかみさんとか子供とかに気に入られて美味しいものを貰ったりしてるんだ。その手に乗せられないように気をつけたほうがいいよ二人とも」
しかしどうやらすでに手遅れだったらしく、俯いたロニエがかすかに顔を赤くしながら首を振った。
「いえそんな、手だなんて……。キリト先輩が、怖そうだけどほんとは優しい方なのは、すぐに分かりましたから……」
「あっ、もちろんユージオ先輩もですよ」
付け加えるティーゼに力ない笑みを返し、ユージオはタルトのかけらを口に放り込んだ。素知らぬ顔で尚も健啖ぶりを発揮しているキリトを、なんとか一度やり込めてやる方法は無いものか、と横目で睨んでいると、不意にティーゼとロニエが改まった様子で居ずまいを正した。
「あの……実はですね、お二方のその優しさを見込んで、ひとつお願いがあるんです」
「は、はい? ……どんな?」
ユージオが首をかしげると、ティーゼは赤毛を揺らして低頭した。
「大変申し上げにくいことなんですが、その……先日ユージオ修剣士殿が仰っておられた、傍付きの指名変更を教官に口添え頂きたく……」
「な、なんだって」
再度絶句してから、それではこの豪勢な料理は手切れの品だったのか、と暗澹たる気分に襲われつつユージオは念のため確認した。
「そ、それは……僕の傍付きを辞めたいという……? それともキリト……もしかして両方……?」
すると、ロニエとティーゼは伏せていた顔を上げ、一瞬ぽかんとした表情を見せてから、同時にぶんぶんと激しくかぶりを振った。
「ち、違います! 私たちじゃないです、そんな、とんでもないです。お二人の傍付き指名はむしろ代わって欲しいって子が一杯いて……いやそうじゃなくて、変更をお願いしたいのは、寮で同室の子なんです。フレニーカって名前で、すごく大人しい、いい子なんですが……その、付いた上級修剣士殿が、とても厳しい方らしくて、お部屋の掃除以外にも色々お命じになられて、それはいいんですが、ここ数日、些細な粗相に余りに厳しい懲罰を戴いたり、あるいは……学院内ではその、不適当と思われるようなお世話をお言いつけになったりと……」
言いづらそうに口篭もるティーゼの言葉に、先刻とは別種の驚きに打たれながらユージオは呟いた。
「なんだって……しかし、いくら修剣士でも、学院則に定められた範囲以外のことを傍付き練士に命じることはできないはずだけど……」
「はい、それは……院則に触れるようなことはもちろんなさらないようですが、院則もあらゆる行為を網羅しているわけではありませんから……違反にはならずとも、その、少々受容しがたいご命令を色々と……」
顔を真っ赤にして言を重ねるティーゼの様子を見て、ユージオはおぼろげに問題の修剣士がどのようなことをフレニーカという傍付き初等生に命じているのかを察した。
「いや、それ以上言わなくても大体わかったよ。確かに院則の文言だけを見てその精神を無視すれば、不埒な命令を強要することも不可能じゃない……。すぐにでも協力したいけれど……しかし、確か……」
頭の中で、二年前に暗記した学院規則の一部をなぞりながら続ける。
「ええと……上級修剣士の鍛錬を最大限支援するため、身辺の雑務役として一名の世話係を置く。世話係は、その年度の初等練士より成績順に十二名を選抜しこれに充てるが、上級修剣士とその指導教官の合意があれば、世話係を解任し、他の初等練士を再指名することを可能とす……だったかな。つまり、教官だけじゃなくてその修剣士本人の承認が要るんだよね。まあ、説得はしてみるけど……問題の修剣士の名前は?」
と訊いてから、ユージオはふと嫌な予感を覚えて眉をしかめた。ティーゼはしばらく逡巡したあと、言いづらそうに小声でその名を口にした。
「あの……ライオス・アンティノス上級修剣士殿、です」
聞いた途端、キリトが露骨な舌打ちをひとつ鳴らし、吐き出すように言った。
「あの陰険皇族め……ユージオに手も足も出なかったくせに、まだそんな腐った真似してるのか。今度は寸止めじゃなくて、ほんとにぶちのめしてやれよ」
「いや……もしかしたら、むしろ僕のせいかも……」
ユージオは唇を噛み、不思議そうな顔をしているティーゼに説明した。
「実はね、確か……六日前かな。ライオス修剣士に手合わせを申し込まれて、その……何というか、彼の誇りが大きく傷つくような勝ち方をしてしまったんだ。酷く恨まれたろうと思って気をつけてたんだけど、まさか自分の傍付き練士を苛めるなんて……」
「まったくだ、ただの八つ当たりじゃないか、下衆野郎め」
それを聞いても、ロニエとティーゼには事情がよく飲み込めないようだった。小さく首をかしげながら、覚束ない口調で呟く。
「ええと……つまり、アンティノス上級修剣士殿は、ユージオ先輩に手合いで負けたことの、ええと……何て言ったっけ……」
言葉を探すティーゼに、ロニエが同じく自信の無さそうな口調で助け舟を出した。
「腹いせ……って言いましたっけ、そういうの……」
「そう、それです。負けた腹いせに、フレニーカを辱めるような御用をお言いつけになられていると、そういうことですか……?」
おそらく、下級とはいえ貴族の長子として大切に育てられてきたのだろう少女二人には、卑劣としか言いようのないライオスの行為を理解することは容易ではないのだろう。表す語彙を持たないほどに、それは異質な思考なのだ。
彼女らに比べれば温室の花と野の雑草ほどにも違うユージオにとっても、理解も、ましてや納得のできることではなかった。
ルーリッドの村には、ジンクのような"意地悪"な子供は何人かいたが、彼らの行動は至極単純な理屈に基づくものだった。多分アリスのことが好きだったのだろうジンクは、いつも彼女と一緒だったユージオが必然的に気に入らず、靴を隠すような嫌がらせをしたのだ。その心理ならユージオにも理解できる。自分だって、まさにライオスのことが好きではないという理由だけによって、避けることもできた手合いを受け、折らずとも済んだ相手の木剣を折り、不必要な言葉を浴びせたのだ。
だが、それによって発生した怒り、屈辱を解消するのに、ほぼ唯一の選択肢であるはずの"剣の腕を鍛えて次はユージオに勝つ"という道を選ばず、ユージオとはまったく無関係である自分の傍付き練士――本来であれば教え導かねばならないはずの年若い少女を辱めて気晴らしするという思考はまったく理解できない。
腹いせ、八つ当たりという言葉が存在するのは知っている。ユージオも、幼い頃一度だけ、父が年長の兄にのみ買い与えた練習用の木剣が羨ましくて仕方なく、父手作りの不恰好な自分の木剣で何度も岩を叩いてそれを折ってしまったことがある。当然父親には、それは八つ当たりという最低の行為のひとつだとこっ酷く怒られ、以後二度と同じことはしなかった。
自分の木剣を折るのは禁忌違反ではないし、法に触れない範囲で後輩を苛めるのも同じく違反ではないのだろう。しかし――だからと言って、それは"やっていい"ことなのか? あの分厚い黒革の書物は、"ここに書いてあることは全てしてはいけない"というだけではなく、"ここに書いていないことは全て行ってよい"とも言っているのだろうか……?
長い沈黙のなかで、恐らくユージオと同じ疑問に翻弄されていたのだろうティーゼが、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「私には……私には、わかりません」
幼さの残る頬を強張らせ、細い眉をきゅっと寄せて、六等爵士の跡取りである少女は懸命な様子で言葉を続けた。
「アンティノス家と言えば、傍系とは言え皇位継承権を持つ三等爵家です。私やロニエ、フレニーカの家よりもずっと大きなお屋敷を構えて、領地には私有民だって沢山暮らしてるんです。つまり……ええと、その……」
しばらく唇を震わせ、また話しはじめる。
「……私のお父様は、いつも言ってました。うちが貴族なのは、遠いご先祖様が、今平民と言われている多くの人たちよりほんの少し早くこの土地に家を建てたからに過ぎない、って。だから私達は、平民の人たちより少し大きな家に住み、少しいいものを食べ、平民の人たちが収める税金の中から毎月お金を貰っているのを、当たり前と思ってはいけない……貴族であるということは、貴族でない人たちが楽しく暮らせるよう力を尽くし、そしてもし戦が起きたときは、貴族でない人たちより先に剣を取り先に死ななければならないということなんだ、って……。だから……だから、つまり、六等、五等、四等爵士よりも大きな家と沢山のお金を持っているライオス殿は、私達よりももっと平民の、そして下級貴族のことを考え、その人たちの幸せのために尽くさなければならないのではないのですか? 例え禁忌目録に書いていないことでも、それが民を不幸にすることであれば絶対に行ってはならない、とお父様は言いました。ライオス殿の行いは、確かに禁忌にも学院則にも触れないかもしれませんが……でも……でも、フレニーカは昨夜、ベッドでずっと泣いてました。なんで……なんでそんなことが許されるのでしょう……?」
痛々しいほど一生懸命に長い言葉を口にし終えたティーゼの両目には、大粒の涙が浮かんでいた。しかし彼女とまったく同じ疑問に突き当たったユージオは、彼女にどう答えてよいのか分からなかった。
「素晴らしいお父さんだな、一度お会いしてみたいよ」
その声があまりにも穏やかな響きを帯びていたので、ユージオはそれがキリトの口から出たものだということがすぐには分からなかった。
日ごろ剣呑な眼光で同期の生徒たちにすら恐れられている黒衣の修剣士は、樹の幹に上体を預け、胸の前で腕を組んで、いたわるような視線をティーゼに向けたまま続けた。
「ティーゼのお父さんが言っているのは、ノーブレス・オブリージという、文字にはなっていないがしかし何より大切な精神の在り様のことだ。貴族、つまり力あるものは、それを力なき者のためにのみ使わなくてはいけない、という……そうだな、誇りと言ってもいい」
初めて聞く異国風の言葉だったが、しかしその意味するところはユージオにもすぐに理解できたような気がして、思わず頷いた。キリトの声は、春風の中に尚も穏やかに流れ続ける。
「その誇りは、法よりも大切なものだ。例え法で禁じられていなくても、してはいけないことは存在するし、また逆に、法で禁じられていても、しなきゃいけないことだってあるかもしれない」
その、言わば禁忌目録を――つまり神聖教会を否定するような発言に、ロニエとティーゼがはっと息を飲んだ。キリトは二人をじっと見詰め、尚も口を動かした。
「ずっとずっと昔にいた聖アウグスティヌスという人がこう言ってる――正しくない法は法ではない、ってね。どんな立派な法や権威でも、盲信しちゃだめだ。例え教会が許していたって、ライオスの行為は絶対に間違ってる。罪の無い女の子を泣かせるような真似が許されていいはずがないよ。だから誰かが止めさせなきゃいけないし、この場合その誰かというのは……」
「ああ……僕らだろうね」
ユージオはゆっくり頷き、しかしいまだ飲み込めない疑問をキリトにぶつけた。
「でもキリト……法が正しいか正しくないか、誰が決めるんだ? 皆が好き勝手に決めたら、秩序なんてなくなっちゃうだろう? それを皆に代わって決めるために神聖教会があるんじゃないのか?」
教会が間違うなんてことがあるはずがない、とユージオは胸中で呟いた。確かに万能ではないのかもしれない、だからライオスの非道な行為を見逃してしまった。しかしそれは、ユージオの靴を隠すジンクの意地悪を見逃したのと、本質的には同じことではないのだろうか? ジンクの悪戯をシスター・アザリヤが叱り付けたように、ライオスの行為は自分とキリト、そして多分学院の教官が法の許す範囲で処断する。それは、教会の無謬性を疑うのとはまったく別の事であるはずだ。
ユージオの問いに答えたのは、キリトではなく、今までずっと俯いたまま黙していたロニエだった。常に控え目な黒髪の少女が、瞳に力強い光を浮かべてきっぱりした口調で言ったので、ユージオは少し驚いた。
「あの……私、キリト先輩の仰ったこと、少しだけわかった気がします。禁忌目録に載ってない精神……それって、つまり、自分の中の正義ってことですよね。法をただ守るんじゃなくて、なんでその法があるのか、正義に照らして考える……そう、疑うんじゃなくて、考えることが、大切なのかなって……」
「うん、その通りだロニエ。考えることは人の一番強い力だ。どんな聖剣よりも強い、な」
そう言って微笑むキリトの眼には、感嘆と、そしてそれ以外の何か奥深い感情が漂っているように見えた。二年付き合ってもまだ謎の多い相棒に、ユージオはふと湧いた疑問をぶつけてみた。
「しかしキリト、さっき言ってた聖アウグス何とかって奴は何者なんだ? 昔の司祭……それとも整合騎士かい?」
「うーん、司祭かな。別の教会の、だけどな」
そう答えてキリトはにやりと笑った。
空になったバスケットを一つずつ下げ、何度も手を振りながら初等生寮のほうへ去っていくロニエとティーゼを見送ったあと、ユージオは短く息を吐きながら相棒の顔を見た。
「……お前、何か考えあるか?」
尋ねると、キリトも口をへの字に曲げてしばし唸る。
「ライオスの件か……。俺たちが、下級生を苛めるのはやめろと言ったところで、素直にやめる奴じゃないのは確かだよな……しかしなあ……」
「しかし……何だよ?」
「いや……ライオスは確かに鼻持ちならない奴だけど、馬鹿じゃないよな……上級修剣士に選抜されるからには、剣の腕だけじゃなくて、神聖術とかその他学科の成績だっていいはずなんだ」
「まあね、腕っ節だけで選抜された誰かさんよりはね」
「そういう奴は二人いたって話だぜ、実は」
ついいつものように軽口の応酬を始めかけてから、そんな場合じゃないと思い直し、ユージオはキリトに先を促した。
「それで……?」
「だから、ライオスの奴は、本当に自分の傍付き練士に八つ当たりして満足するような馬鹿ったれなのか、って事さ……。確かに一時の気晴らしにはなるのかもしれないけど、長期的に見れば損失のほうが多いだろう? 悪い噂だって立つだろうし、教官の耳に入れば懲罰は無くとも注意くらいされてもおかしくない。体面に拘るあいつが、そんな危険を冒すかな……」
「でも……フレニーカって子に酷いことしてるのは事実なんだろう? 損得を計算できないくらいに、僕に負けたことに腹が煮え繰り返ってるってことじゃないのか? やっぱりこのままにはしておけないよ、僕にも原因があるなら、どうしたってひとこと言ってやらないと……」
「だからさ、そこだよ」
キリトは、ニガチグリの実を生で齧ったような顔で言った。
「もしかしたらこれは、俺たちを狙った手の込んだ罠なんじゃないのか? 俺たちが奴の仕業を抗議に行く、そこで何らかのやり取りがある、結果として俺たちが学院則に違反してしまう……みたいな仕掛けになってるとしたら……」
「ええ?」
ユージオは、予想外の言葉に思わず眼を丸くした。
「まさか……そんなこと有り得ないだろう。僕たちとあいつは同格の修剣士だよ、具体的な侮辱の言葉を口にしたりしない限り、何を注意したって逸礼行為にはならないはずだ。お前も、挑発されたくらいであいつのことをその……餌の食いすぎで飛べない灰色鴨を意味する単語呼ばわりするほど馬鹿じゃないだろ?」
「逸礼行為……ああ、上級生に対してのみ発生するあれか……あったなぁそんなの、すっかり忘れてたよ」
「おいおい、危ないなぁ。ライオスに会いにいくときは僕が喋るからな、お前は黙って怖い顔だけしてろよ!」
「おう、それなら得意だ」
はあっ、と溜息をついて、ユージオは結論を出すべく呟いた。
「ともかく、ティーゼ達に約束したんだ、放っておくわけにはいかないよ。まずライオスに口頭で注意して、それでだめなら指導教官に書面でフレニーカの配置換えを要請しよう。ライオスを聴聞くらいはしてくれるだろう、それだけでもあいつにはいい薬になるはずだ」
「ああ……そうだな……」
まだ浮かない顔のキリトの背を叩き、ユージオは丘の上に見える修剣士寮に向かって歩き始めた。ティーゼ達の話を聞いたときに感じた憤りは容易に去ろうとせず、自然とユージオの歩みを急きたてる。
二年前の春、何がなんだかわからないままに初等練士第六位の席次を与えられたユージオを丘の上の修剣士寮で待っていたのは、ゴルゴロッソ・バルトーという名の、とても二十歳前には見えない威丈夫だった。ユージオよりも頭一つ以上大きい体躯はがっちりとした筋肉に覆われ、口もとの整えられてはいるが黒々とした髭と相まって、最初は間違えて教官の部屋に入ってしまったかと思ったものである。
ゴルゴロッソは、萎縮の極みで立ち尽くすユージオを炯炯とした眼光でじろりと一瞥し、野太い声で短く「脱げ」と命令した。ユージオはまず唖然とし、次いで暗澹たる気分に襲われたが、逆らうわけにもいかず灰色の制服を脱いで下着一枚になった。再び強烈な視線が全身に浴びせられ――そしてゴルゴロッソは髭面をにかっと破顔させると、大きく頷いて「よし、よく鍛えているな」と言ったのだった。
心の底からほっとしながら再び制服を着たユージオに、ゴルゴロッソは自分も貴族ではなく衛兵隊上がりであるということと、席次順の振り分けではなくあえてユージオを指名したことを教えてくれた。以降一年間、彼はその豪放磊落ぶりで時折ユージオを困らせたが、決して理不尽なしごきをするようなことはなく、むしろ親身になって剣術の指導をしてくれたものだ。自分が上級修剣士にまで到達することができたのは、キリトのアインクラッド流実戦剣法と同じくらい、ゴルゴロッソの手ほどきになるバルティオ流の勇壮な型のお陰もあると、ユージオは今でも思っている。
ゴルゴロッソが惜しくも代表の選に漏れて央都を去るその日、ユージオは一年間秘めつづけてきた疑問を彼にぶつけた。何故、同じ衛兵推薦枠のキリトではなく自分を指名したのか――と。
刈り込まれた髭を撫でながら、ゴルゴロッソは答えた。――確かに、お前さんよりもあいつのほうがわずかに剣の腕は上だと、最初の選考試合を見たときに分かったさ。だがな、だからこそ俺はお前さんを指名したのよ。上を睨んで必死に足掻く奴だと思ったからな、俺のようにな。……まあもっとも、リーナの奴にキリトを譲れって言われたせいもあるがな。
がははは、と豪快に笑ってから、ゴルゴロッソは分厚い手でユージオの頭をごしごし撫で、言った。絶対に修剣士になれよ、そして自分の傍付き練士を大事にしてやれ、と。ユージオは嗚咽を堪えながら何度も頷き、去っていくゴルゴロッソが見えなくなるまで直立不動で見送った。
修剣士と傍付き練士というのは、単に上級生とその世話係というだけのものではないことを、彼は教えてくれたのだ。そこにあるのは、真の剣士の在り様を連綿と伝える魂の交流なのである。恐らく自分はゴルゴロッソ程の指導役にはなれまい、とユージオは思う。しかしそれでも、彼に教わったことの何分の一かでもティーゼに伝えるべく、全力を尽くさなくてはならない。そう――これこそ、さっきキリトが言っていた、“規則には書いていないが何より大切なこと”そのものではないか。
ライオスには分からないのかもしれない。傍付きになるのが嫌で選考試合で手を抜き、初年の席次を十三位に留めたあの男には。だとしても、言うべきことは言わなくてはならない。
正面のドアを両手で押し開き、寮のメインホールに入ると、ユージオはブーツを音高く鳴らしてそのまま三階のライオスの部屋を目指した。