すぐには理解できず、凛子が首をかしげると、比嘉は、この先を話していいかと問うように菊岡の顔を見上げた。それに向かって、まるで舐めているキャラメルが急に苦くなったかのごとく渋面を向けた自衛官は、しかしすぐに肩をすくめながら口を開いた。
「まあ、まだまったく仮説の域を出ない話なんだ。簡単に言えば、フラクトライトと呼ぶ量子コンピュータには、情報の蓄積容量と計算能力に限界があって、そこを超えると構造の劣化が始まっていく……ということだね。検証のしようが無いので確たることは言えないんだが、安全を優先してSTRA倍率に上限を設けた訳だ」
「……つまり、肉体的には一週間足らずの時間でも、内部で何十年も過ごせば、魂の老化が始まる……? ってことは……ちょ、ちょっと待ってよ。さっきあなた、思考原体の育成をするために、スタッフが十八年をSTLの中で過ごした、って言ったわよね? 彼らのフラクトライトはどうなるのよ? 今後の人生で、本来より十八年早く、知的能力の衰えが訪れるってことじゃないの?」
「いや、いや、そうはならない……はずだよ」
はずぅ? と胸中で繰り返しながら、凛子は菊岡を睨んだ。
「フラクトライトの総容量と、それを消費していくペースから概算して、我々は"魂の寿命"をおよそ百五十年と見ている。つまり、仮に我々が完璧な健康を維持し、幸運にも脳が様々な病変から逃れつづけられた場合、最大で百五十歳くらいまでは思考能力を保ち続けうる、というわけだ。だが無論、僕らはそんなに長くは生きられないからね。安全マージンを充分取っても、三十年程度ならSTL内部で消費しても問題はないと考えている」
「これからの一世紀に、何か画期的な長命技術が開発されたりしなければね」
皮肉っぽく凛子がそう言うと、菊岡は事も無げに答えた。
「もしそんなものが開発されても、僕ら庶民がその恩恵に預かれるはずがないさ。まあ、その意味ではこのSTLも同じことだが……。――ともかく、魂の寿命の件は納得してもらって、先に進ませて戴くよ。四人のスタッフの献身的努力によって"成人"した十六のフラクトライトの出来栄えは、相当に満足すべきものだった。彼らは言語力――むろん日本語だ――と基本的な計算やその他思考能力を獲得し、僕らの作り出した仮想世界において立派に生活していけるだけの水準に達した。実にいい子たちだったよ……両親の言うことにをよく聞き、朝から水を汲み、薪を割り、畑を耕し……ある子はおとなしく、ある子はやんちゃと言った個性を示しつつも、基本的には皆とても従順で善良だった」
そう言いながら微笑む菊岡の口もとに、かすかな苦々しさが漂っているように見えたのは眼の錯覚だろうか。
「成長した彼ら……二軒の家に男女四人ずつの兄弟姉妹たちは、互いに恋さえするようになった。そこで、最早彼らは自らの子供を育てることも可能だと判断した僕らは、実験の第一段階を終了することにした。十六人の若者たちを八組の夫婦とし、それぞれの家と農地を持たせて独立させたんだ。親をつとめた四人のスタッフは、その後に流行り病によって相次いで"死去"し、STLから出た。彼らの十八年間の記憶はその時点でブロックされ、一週間前にSTLに入ったときとまったく同じ状態で現実に帰還したわけだが、外部モニターで、自分たちの葬儀で泣く子供たちを見て彼らも涙したものだよ」
「あれはいいシーンだったッスねえ……」
しんみりした様子で頷きあう菊岡と比嘉に向かって、凛子は咳払いをしてその先を促す。
「……で、人間のスタッフが出た以上、STRAの倍率を気にする必要も無くなったので、僕らは内部世界の時間を一気に現実の五千倍にまで引き上げた。八組の夫婦にはそれぞれ十人前後の赤ん坊、つまり思考原体を与えて育てさせ、彼らはあっという間に成人してまた新しい家庭を持った。村の住民を演じさせていたNPCも徐々に取り除き、ついには人工フラクトライトだけで村を作ることができるようになった。世代交代が進み、彼らの子孫は増えつづけ……現実世界での三週間、内部世界での三百年に及ぶシミュレーションが経過した頃には、なんと人口八万人という一大社会が形成されるに至ったんだよ」
「八万!?」
凛子は思わず絶句した。何度か唇を動かしてから、ようやく探し出した言葉を絞り出す。
「……それじゃあ……それはもう、人工知能っていうよりも、ひとつの文明のシミュレートじゃないの」
「そうだね。だが、ある意味ではそうなるのは当然なんだ。人間というのは社会生物だ……他者との関わりの中でのみ向上していくことができる。フラクトライトたちは、三百年の時間で、小さな村ひとつからまたたく間に広がっていき、僕らの設定した広大なフィールド全体を支配するに至った。血なまぐさい争いひとつ無しで立派な中央集権構造を築き上げ、宗教までも見出した……もっともこれは、実験の当初から世界のシステムを子供らに説明するのに、科学ではなく神という概念を使わざるを得なかったせいもあるがね。比嘉君、モニタに全体マップを出してくれたまえ」
菊岡の言葉に頷き、比嘉は素早くコンソールを操作した。先刻のグロテスクな実験からブラックアウトしたままだった巨大スクリーンが明滅し、そこに航空写真じみた詳細な地形図が浮かび上がった。
当然ながら、日本、いや世界のどの国とも似ていない。海は無いようで、ほぼ円形の平野の周囲を、ぐるりと高い山脈が取り囲んでいる。全体に森と草原が多く、湖や河川もそこかしこにあって、肥沃な土地のようだ。マップ下部の縮尺スケールを見ると、山脈に囲まれた平野の直径は千五百キロメートルほどもあるらしい。
「この広さで人口八万人? ずいぶんと余裕のある人口密度ね」
「むしろ日本が異常なんスよ」
凛子に向かってにやりと笑い、比嘉はマウスを操って、カーソルをマップ中央のあたりでぐるぐると動かした。
「このあたりに首都があります。人口二万人、我々の感覚だとたいしたことないように思えるッスけど、どうしてなかなか立派な大都市ですよ。フラクトライトたちが"神聖教会"と呼ぶ行政機能もここに存在します。"司祭"という階級によって統治が行われているようですが、その支配力は見事なもんです。この広大な世界を、争いごとひとつ起こさず治めている。――この時点で、俺はこの基礎実験は成功したと考えました。仮想世界内でなら、フラクトライトは人間と同レベルの知性へと成長しうる。これなら、我々の目的にそぐう能力を持った"高適応性人工知能"を育成するという次の段階へ進むことができると喜んだわけです。しかし……」
「……僕らは、そこでようやくひとつの重大な問題に気がついた」
モニタを眺めながら、菊岡が言葉を引き取った。
「……話を聞く限り、何も問題なんてなさそうだけど?」
「問題の無いところが問題……と言えばいいかな。この世界は、あまりにも平和すぎる。整然と、美しく運営されすぎるんだ。最初の十六人の子供たちが、驚くほど親に従順だった時点でおかしいと思うべきだった……。人間なら、互いに争っておかしくない。むしろそれこそが人間のひとつの本質だと言ってもいい。だが、この世界に争いは無い。戦争など一度も起きたことはないし、それどころか殺人事件すら起こらない。やけに人口の増えるペースが速いと思ったら、そういうことなんだ。病死や事故死など殆ど起きないように設定していたので、人が寿命でしか死なない……。彼らにも我々と同じような欲望はあるはずなのに、なぜそんなことが起きるのか、僕らは調べてみた。すると、この世界には、ひとつの厳格な法が存在することに気付いた。神聖教会の司祭たちが事細かに作り上げた、"禁忌目録"と呼ばれる長大な法律だ。そこには、殺人を禁じる一項もあったよ。同じ法律は、もちろん僕らの暮らす現実世界にもある。だが、僕らがいかにその法を守らないかは、毎日のニュースを見ていればわかるだろう。ところが、フラクトライトたちは法を守る……守りすぎるほどに守る。こう言い換えてもいい……彼らには、法を、規則を破ることはできないんだ。生来的な性質として」
「……? 結構なことじゃないの?」
菊岡の厳しい表情を眺めながら凛子は首を捻った。
「それだけ聞くと、むしろ私達より優れているように思えるけど」
「まあ……一面ではそう言えるかもしれないがね。比嘉君、モニタを戻してくれないか」
「へい」
比嘉がコンソールのキーを叩くと、大モニタは再び、凛子たちがこの部屋に入ってきたときと同じ異邦の都市の映像を映し出した。大樹の根が絡む白亜の建築物のあいだを、簡素だが清潔な服装をした人々がゆっくりと行き交っている。
「あ……、じゃあ、これが?」
思わず画面に見入りながら凛子が訊くと、比嘉は少々得意そうに頷いた。
「ええ、これがアンダーワールドの首都、"央都セントリア"っす。もっとも、これは僕らにも見えるように通常のポリゴン映像に変換したものですから解像度はけた違いに低いし、表示もスロー再生ですけどね」
「アンダーワールド……」
"不思議の国のアリス"から採ったらしいというその名前を、凛子はすでに明日奈から聞いていた。恐らく比嘉たちは、本来の"地下世界"ではなく"現実の下位世界"という意味合いで用いているのだろうが、画面上の都市の幻想的な美しさはむしろ天上の国かとも思える。
そんな凛子の感想を読み取ったように、菊岡が言った。
「確かにこの都市は美しい。我々が当初与えた、素朴なプラスター造りの農家から、よくもここまで建築技術を進化させたものだと思うよ。しかしね……僕に言わせれば、この街は美しく整いすぎている。道にはゴミ一つなく、泥棒など一人もおらず、無論殺人など一度たりとも起きたことはない。それもすべて、あの遠くに見える"神聖教会"が定めた厳格な法を、何人も破ろうとしないからだ」
「だから、それのどこが問題なのよ」
眉をしかめて再度問うたが、菊岡な何故か口を閉じたまま、珍しく言うべき言葉を探しているようだった。比嘉はというとこちらも不自然に視線を逸らし、発言する気はないようだ。
広い主操作室に落ちた静寂を破ったのは、今まで沈黙を続けていた明日奈だった。その場では最年少の女子高校生は、抑制された静かな口調で、囁くように言った。
「それでは、この人たちは困るんですよ。何故なら、この巨大な計画の最終的な目的は、単に適応性の高いボトムアップ型人工知能を作ろうということじゃなくて……戦争で敵の兵士を殺せるAIを作ることだから」
「な……」
三者三様の表情で絶句する凛子、菊岡、そして比嘉の顔を、明日奈は順番にじっと見てから、続けて唇を動かした。
「わたし、なんで菊岡さん……つまり自衛隊がそんなに高度な人工知能を作ろうとしてるのか、ここに来るまでのあいだずっと考えてました。今まで、わたしとキリト君は、菊岡さんがVRMMOに興味を持つのは、その技術が軍隊の訓練に転用できるからだと推測してたんです。だから、人工知能を作るのもその延長線上で、訓練で敵の兵隊の役目をさせたいからかなって最初は思いました。でも……よく考えてみれば、VRワールド内での訓練なら現実の危険は何もないんだし、人間同士チームに分かれて戦えばいいんです。わたしたちもよくそうやって模擬戦をしますから」
一瞬言葉を切り、周囲の機械群と正面の大モニタを見回す。
「――それに、訓練プログラムの開発のためにしては、この計画は大きすぎます。菊岡さん、あなたは、いつ頃からは知りませんけど、その次を考えてたんですね。仮想世界内で育てたAIに、本物の戦争をさせることを」
少女の、茶色の瞳にじっと見詰められた幹部自衛官は、一瞬の驚きの表情をすぐにいつもの謎めいたポーカーフェイスに隠してかすかに微笑んだ。
「最初からだよ」
ほんの少し錆びのある、柔らかい低音で菊岡は答えた。
「VR技術を軍事訓練に転用することそのものは、NERDLESテクノロジが開発される以前の、HMDとモーションセンサーの時代からすでに盛んに研究されていた。当時の米軍が開発した骨董品が、今もまだ市ヶ谷の設備部にあるよ。――五年前、ナーヴギアという機械が発表されたその時点で、我々と米軍は共同であれを使用した訓練プログラムの開発を始めることになった。だが、その後すぐに開始されたSAOのベータテストを見学して、僕は考えを変えたんだ。この世界、この技術にはもっと大きな可能性がある。戦争という概念を、根底から一変させてしまうほどの……、とね。あのSAO事件が起きたとき、僕は自ら志願して総務省に出向し、対策チームに加わって、事件を間近で見守りつづけた。それも全て、このプロジェクトを立ち上げるためだ。五年かかってようやくここまで来たよ」
「…………」
まったく予想していなかった方向に話が進み、凛子はしばし呆然と目を見開いた。混乱した思考をどうにか整理して、渇いた喉から言葉を絞り出す。
「……イラク戦争と、その後のイラン戦争のときは私はまだ学生だったけど、よく覚えてるわ。アメリカ軍が無人の小型飛行機とか、小型戦車とかを遠隔操作して敵を攻撃する映像が盛んにテレビに流れてた。つまりあれね? ああいうものにAIを搭載して、自律的に攻撃する兵器を作ろうと、あなたは考えてるのね……?」
「僕だけじゃないがね。この種の研究は、すでに各国、とくにアメリカでは何年も前から続けられている。明日奈くんにとっては辛い記憶だろうが……」
菊岡はわずかに言葉を切り明日奈を見たが、彼女が落ち着いているのを確かめ、続けた。
「……君を仮想世界内に監禁し、数千人のSAOプレイヤーを実験台に用いた須郷伸之が、アメリカの企業に、研究成果を手土産にして自分を売り込もうとしていたのは覚えているかな? 彼が接触していたグロージェン・テクノロジーはIT分野では一流企業だが、そんな非合法取引に応じようとするくらい、NERDLES技術の軍事利用は隠れた花形産業だということだよ。そんなアメリカの軍産複合体が、今もっとも注目しているのが、さっき神代博士の言った無人兵器、そのなかでも特に航空機――アンマンド・エアー・ビークル略してUAVと呼ばれるものだ」
気を利かせたのか、比嘉が無言でマウスを動かし、再度モニタを切り替えた。映し出されたのは、妙に平たく細長いくさび型の胴体に、大きな翼をつけた小型の飛行機だった。翼下には沢山のミサイルらしきものがぶら下がっている。
「アメリカが開発中の無人偵察攻撃機だよ。コクピットが要らないのでものすごく小さいし、ステルス性を追求した形状だからレーダーにはほとんど映らない。これの一世代前の機体は、操縦者が小さなモニタを見ながらジョイスティックで苦労して飛ばしていたんだが、こいつは違う」
言葉とともに画面が変わり、操縦者らしき兵士の姿を映し出した。だが、シートに座るその兵士の両手はだらりと肘掛けに乗ったままで、瞼も閉じられている。そして頭は、凛子も見慣れた流線型のヘルメット――ナーヴギアに覆われていた。よく見れば色や細部の形状は違うが、明らかに同型の機械だ。ちらりと視線を動かすと、明日奈の顔には明らかな嫌悪の表情が浮かんでいるのが見て取れた。
「この状態で、操縦者は仮想コクピットから、まるで実際に搭乗しているかのように機体を操作し、敵を偵察したりミサイルを撃ち込んだりすることができる。だが問題は、いかんせん電波を使った遠隔操作なので距離に限界があるし、ECM……電子妨害にものすごく弱いということだ」
「そこで人工知能……ということなのね? この飛行機を自律的に動かすために……」
菊岡は視線をモニタから凛子たちのほうに戻し、ゆっくりと頷いた。
「最終的には、人間のパイロットが操る戦闘機を空中戦で撃墜し得るレベルを目指す。恐らく、現状の人工フラクトライトでも、適切な成長プログラムを与えれば実現可能なことだと思うよ。ただ、そこには一つ大きな問題がある。それは、肉体無き兵士である彼らに、いかにして"戦争"という概念を理解させるか、ということだ……。殺人は原則として悪、だが戦時下においては敵兵を殺すのもやむなし、という矛盾する思考を、恐らく今の人工フラクトライト達は受け入れることができないだろう。彼らにとっての法とは、たったひとつの例外でもあってはならないものなんだ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、眉間に深く谷を刻む。
「――僕らは、アンダーワールドの住民たちの遵法精神を試すべく、ある種の過負荷試験を行った。具体的には、孤立した村を一つ選び、畑の作物と家畜の七割を死滅させたんだ。村の全住民が冬を越すのは到底不可能な状況だった。総体としての村が生き延びるためには、一部の住民を切り捨て、食料の分配を偏らせるしかない。禁忌目録の殺人禁止条項に背いて、ね。だが、結果は……わずかな収穫を、老人や幼児に至るまで村人全員で分配することを彼らは選んだ。春が来る前に、全員が餓死したよ。彼らは、何があろうと法や規則に背くことのできない存在なんだ。その結果、どんな悲惨な事態が出来しようと、ね。つまり……現状の彼らをパイロットとして兵器に搭載しようとすれば、敵、すなわち味方マーカーの無い人間は全て殺すべし、という原則を与えるしかない。それがどんなに危険なことかは、さすがに僕にだって分かるからね……」
派手な原色のアロハの袖から出る筋肉質の腕を胸の上で組み、自衛官は力なく首を振った。
凛子は、思わず想像した。空飛ぶエイのような流線型のフォルムを持つ無人戦闘機の群れが、兵士と民間人の区別無くミサイルを次々に撃ちこみ殺戮していく光景を。粟立った二の腕を両の掌で何度も擦る。
「……冗談じゃないわ、そんなこと。一体、なんで、そんな危険をおかしてまで兵器にAIを載せなきゃいけないの? 多少の制限はあっても、遠隔操作でいいじゃないの。ううん、そもそも……無人の兵器っていう存在自体が、私にはなんだか受け入れがたいものに思えるわ」
「まあ、その気持ちはわからなくもないよ。僕も、初めて米軍の大口径狙撃ライフル搭載型無人車両を見たときは実にグロテスクだという感想を禁じ得なかった。だがね……兵器の無人化、これはもう、少なくとも先進国では抗しがたい時代の要請なんだ」
世界史の教師めいた仕草で菊岡は指を立て、続けた。
「それでは、世界一の軍事大国アメリカを例に取ってみよう。あの国が、第二次世界大戦で失った兵士の数は実に四十万人だ。それだけの戦死者を出しながら、時のルーズベルト大統領は国民から熱狂的な支持を得て、脳卒中で死ぬまで四期十三年ものあいだ最高権力者の座に留まった。僕は時代精神という言葉は嫌いだが、七十年前は、兵士がどれだけ死のうと国が勝利すればよいというのがまさに時代の精神だったんだ。続くベトナム戦争では、学生を中心に反戦運動が広がり、ジョンソン大統領は次期選挙不出馬に追い込まれるもののそこに至るまでに六万人の戦死者が出た。反共という錦の御旗のもとに、兵士は次々と戦場に送られ、死んでいった。――だが、冷戦という名の長い暫定的平和の中で、国民感情は少しずつ変化していき……そしてソ連の崩壊とともに一つの時代が終わった。共産主義という敵を失ったアメリカは、国に深く根を張った軍産複合体を維持し続けるために、戦争のための戦争に乗り出していくことになる。だが、その戦場にはもう、兵士の死を国民に納得させる旗印は無かったんだ。今世紀初頭のイラク戦争における米軍の死者は二千人。その数字によって当時のブッシュ政権は大きく揺らぎ、任期の終わりには支持率は見る影もなく低迷していた。そして2010年のイラン戦争では、五百人の戦死者のためにチェイニー大統領が二期目落選の憂き目を見たのは君達も覚えているだろう。ちなみにあの戦争では、我が自衛隊にも五人の負傷者が出て、政府が大揺れに揺れた。――つまりだ……」
一息入れてから、菊岡は長い講釈を締めくくった。
「もう、人間が戦う戦争ができる時代じゃない、ということなんだ。しかしあの国は戦争を、というか防衛予算という巨大なパイの分配を止めることができない。結果として、これからの戦争は、無人兵器対人間、あるいは無人兵器対無人兵器というスタイルにシフトしていくことになる」
「……アメリカの事情は分かったわ。納得できるかどうかはともかく」
クリーンな戦争をするための無人兵器、という発想に一層のおぞましさを感じながら、凛子は短く頷いた。次いで、菊岡をきつく睨みながら、改めて追及する。
「でも、なんで日本の自衛官のあなたが、そんな馬鹿げた開発競争の尻馬に乗らなきゃいけないのかしら? それとも、この研究は米軍主導なの?」
「とんでもない!」
菊岡は珍しく大きな声で否定した。しかしすぐにいつもの微笑を取り戻し、大袈裟に両手を広げてみせる。
「むしろ、米軍からこの研究を隠すためにこんな海のど真ん中を漂ってる、というほうが正しいよ。本土の基地はどこも向こうさんに素通しだからね。――なんで僕が自律型無人兵器開発に血道を上げてるのか……その理由を説明するのは簡単じゃないな。茅場先生に、なぜSAOを作ったのか、と訊くようなものだ、と言っても納得はしてもらえないだろうね?」
「当たり前だわ」
素っ気無く凛子が言うと、菊岡は大きな苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「失敬、ちょっと不謹慎な発言だったね。そうだな……とりあえず、分かりやすい理由は二つあるよ。まずひとつは、現在の日本には、自前の防衛技術基盤というものがあまりにも不足し過ぎている、ということかな」
「防衛……技術基盤?」
「兵器をゼロから開発、生産する能力と言えばいいかな。しかしこれはある意味では当然のことで、日本では兵器の輸出が一切できないからね。メーカーも、巨額の開発予算をかけたところで取引先が自衛隊だけではとても利益は見込めない。結果として、最新の装備はアメリカから購入するか、せいぜい共同開発ということになる。だが、これが何と言えばいいか……屈辱的な代物でね。例えば現在配備されている支援戦闘機はアメリカと共同で開発したものだが、その実、先方は自分の手の内は隠したまま、日本メーカーの先端技術だけを攫っていったよ。購入する兵器に至っては何をかいわんや、近頃納入された最新型の戦闘機からは、その頭脳とも言うべき制御ソフトウェアがごっそり抜き取られている有様だった。米軍に言わせれば、我々は彼らが与えるテクノロジーのおこぼれを有り難く頂戴していればいい、ということらしいね。……おっと、この話をするとつい愚痴っぽくなってよくないな」
もう一度苦笑して、菊岡はコンソールデスクの上で足を組むと、つま先に引っ掛けた下駄を揺らした。
「この状況に、僕ら一部の自衛官と、中小の防衛関連メーカーの一部若手技術者たちは以前から強い危機感を抱いてきた。いつまでも防衛技術の中核をアメリカに握られたままで本当にいいのか、とね。その危機感こそがラース設立の原動力となったわけだ。何か一つでいい、日本独自のテクノロジーを生み出したい。我々はそう思っているだけなんだよ」
殊勝とも思える菊岡の言葉を、どこまで額面どおり受け取っていいものか、と考えながら凛子はじっと眼鏡の奥の切れ長の目を見据えた。が、相変わらず自衛官の瞳は鏡のようにその内面を晒そうとしない。
「……もう一つ理由があるって言ったわね?」
「ああ……まあ、今言ったことと密接に関係する理由なんだけどね。北朝鮮の中国国境付近に新しいミサイル基地が建設中だってニュースは君も見たろう? 恐らくアメリカは、そう遠くない未来に北朝鮮侵攻に踏み切るだろう。第二次朝鮮戦争……とでも呼ばれるのかな。その時は、改正憲法のもと、自衛隊も初の集団的自衛権行使……つまり実際の戦闘を行うことになる可能性が高い。だが……これを市ヶ谷に聞かれると首が飛ぶが、僕はまだ、自衛隊は戦うべきではないと考えている」
そう言ってから一瞬だけ口をつぐみ、すぐに菊岡は自分の言葉を訂正した。
「いや、まだ、ではなく――その状況下で、かな。アメリカの振る旗に従って、自衛隊員が他国の土を踏み、他国の兵士と戦う……国民はそれをテレビで、自衛隊の初の軍事行動として目の当たりにする。引き起こされる反応が望ましいものだとは、とても思えないよ。我々の最初の戦闘は、名づけられたとおり国土防衛のためのものであるべきだ。そうであってこそ、我々は軍隊無き国に置かれた戦力であるという矛盾を正す機会を得ることができる……」
凛子と明日奈を全面的に信用しているのか、それとも逆にまるで信用していないからなのか、菊岡は声に出すには危険すぎる意見を至極何気ない調子で口にした。
「だが、仮にアメリカが北朝鮮に侵攻することになれば、今度こそ日本は全面的に同調せざるを得ないだろう。この行動は日本の安全を保障するためのものだ、とアメリカは主張するだろうからね。自衛隊も、これまでの戦後処理のための駐留だけではなく侵攻の当初から戦力として投入されることになる。だが――もしその時、我々が、米軍にも無いテクノロジーを持っていれば……完全自律型無人兵器という切り札を完成させていれば、人間の兵士の替わりにそれを危険地域に送ることで、自衛隊初の戦死者が、あえてそう呼ぶが、侵略作戦において出るという事態を回避できるかもしれない」
「……ガチガチのリアリストだと思ってたけど、案外夢想家だったのね、菊岡さん。私には、藁山の中から一発で針を拾い上げようとするみたいな話に聞こえるわ。超えなければならないハードルが多すぎる」
思わず左右に首を振りながら凛子は呟いた。菊岡は肩をすくめ、弁解するように答えた。
「だから、この二つ目の理由は、あくまで可能性を一つでも増やしておきたいという、それだけの話だよ。米軍とは切り離された独自の防衛技術を開発するという我々の悲願の、ひとつの動機――だと受け取って欲しいな」
「…………」
凛子は視線を動かし、菊岡の隣に座る比嘉健を見た。
「……比嘉君がこの計画に参加した動機も同じなの? 君がそんなに国防意識が高かったなんて知らなかったわ」
「いやあ……」
比嘉は、凛子の言葉に、照れたように頭を掻いた。
「俺の動機は何ていうか、個人的なもんスよ。俺、学生の頃から韓国の大学にダチがいたんスけど、そいつ兵役中にイランに派兵されて、爆弾テロで死んじゃったんス。そんでまあ……この世界から戦争が無くなることはないとしても、せめて人間が死なずにすむようになるんなら、って……ガキっぽい理由っスけどね」
「……でも、そこの自衛官さんは、無人兵器を自衛隊独自の技術にしようと考えてるのよ?」
「や、菊さんの前でこう言うのも何ですけど、技術なんてそうそう長い間独占できるもんじゃないっスよ。それはこのオッサンも分かってるはずです。独占が目的じゃなくて、一歩先を行ければいいと考えてる……そうっスよね」
比嘉の直截な物言いに、自衛官が何度目かの苦笑いを浮かべた、その時だった。三人の話を黙って聞いていた明日奈が、美しい、しかし冷たく透き通った声で言った。
「あなた達のその立派な理念は、キリト君には一切話してない、そうですよね」
「……なぜそう思うんだい?」
ひょいっと首を傾げる菊岡を、明日奈は小揺るぎもしない視線で正面から見据える。
「もしキリト君に話してれば、彼があなた達に協力するはずがないわ。あなた達の話には、大切なことが一つ抜けてる」
「……それは?」
「人工知能たちの権利」
菊岡は眉をぴくりと持ち上げ、短く息を吐いた。
「……いや、確かにキリト君にはさっきの話はしていないが、それは彼と会う機会がこれまで無かったからだよ。彼こそ、筋金入りのリアリストだろう? そうでなければSAOをクリアなどできなかったはずだ」
「分かってないわね。もしキリト君が、アンダーワールドの真の姿に気付いてれば、きっとその運営者に対してものすごく怒ってるわよ。彼にとっては、自分のいる場所こそが現実なんです。仮の世界、仮の命なんてことは考えない……だからSAOをクリアできたんだわ」
「分からないな。人工フラクトライトに生身の肉体はない。それが仮の命でなくてなんだと言うんだい?」
明日奈は、どこか悲しそうな――いや、あるいは目の前の大人たちを憐れんでいるような光をその目に浮かべ、ゆっくりと言葉を続けた。
「……話しても、あなたには分からないかもしれないけど……アインクラッドで初めてキリト君と会ったとき、わたしも今のあなたみたいなことを彼に言ったわ。どうしても倒せないボスモンスターがいて、それを攻略するのに、NPC、つまりAIの村を囮にする作戦を主張した。モンスターが村人を襲ってるところをまとめて攻撃する作戦だった。でもキリト君は絶対にだめだと言ったわ。NPCだって生きてる、他になにか方法があるはずだ、って。わたしのギルドの人はみんな笑ったけど……結局、彼が正しかった。たとえ人工フラクトライトが、大量生産されたメディアの中の模造品だとしても、戦争の道具として殺し合いをさせるなんてことに、キリト君が協力するはずはないわ、絶対に」
「――言いたいことは、僕にも分からなくもないよ。確かに人工フラクトライト達は、僕ら人間と同等の思考能力がある。その意味では彼らは確かに生きている。だがこれは優先順位の問題なんだ。僕にとっては、十万の人工フラクトライトの命は、一人の自衛官の命より軽い」
答えの出ない議論だ、と凛子は思った。人工知能に人権はあるか否か――それは、真のボトムアップ型AIが発表されたその時から、世界中で年単位の議論を尽くしたとしても容易に結論の出せない命題だろう。
果たして自分はどう感じているのか、それすらも凛子にはよく分からなかった。科学者としてのリアリズムは、コピーされた魂は生命ではない、と告げている。だが同時に、あの人なら何と言うだろうか、と考えている自分も居る。いつも"ここではない現実"を望み、ついにはそれを創造し、二度と還ることのなかったあの人なら――?
自分を過去に引き戻そうとする思考の流れを断ち切るように、凛子はその場の沈黙を破った。
「そもそも、何故桐ヶ谷君が必要だったの? あなた達にとって最大級の機密が漏れる危険を冒してまで、どうして彼を……?」
「――そうか、それを説明するためにこんな話をしていたんだったね。あまりにも回り道をしすぎて忘れてしまった」
菊岡は、明日奈の磁力的な視線から逃れるように笑うと、咳払いをひとつして続けた。
「なぜ、アンダーワールドの住民たちは禁忌目録に背けないのか……それはライトキューブに保存されたフラクトライトの持つ構造的な問題なのか、あるいは育成過程に原因があったのか、僕らは議論を重ねた。前者であれば、保存メディアの設計からやり直す必要があるが、後者ならば修正することができるかもしれないからね。そこで、僕らはひとつの実験を試みた。スタッフの一人、つまり本物の人間の記憶を全てブロックし、擬似的な思考原体として、アンダーワールドの中で成長させる。その行動パターンが人工フラクトライトと同一なものになるか否か、それを確かめるために」
「そ……そんなことをして、被験者の脳は大丈夫なの? 人生をもう一回やり直すようなものでしょう……記憶領域が足りなくなっちゃわないの?」
「問題ない。フラクトライトには、およそ百五十年ぶんの記憶に耐える容量があるという話はさっきしたろう? なぜそんなに過剰なマージンがあるのか、その理由は分からないがね……聖書によれば、ノアの時代の人間は数百年生きたという……なんて話を思い出すね。とりあえず、成長と言っても最大で十歳くらいまでだよ。禁忌目録を破れるかどうか知るにはそれくらいで充分だからね。無論内部での記憶は再びブロックされるため、現実に戻った時には、STLに入る前とまったく同じ状態が保たれる」
「……で、結果は……?」
「スタッフから八人の被験者を募り、アンダーワールドで様々な環境のもと成長実験を行った。結果は……驚くべきことに、十歳になり実験が終了するまで、禁忌目録を破ったものは一人も居なかった。むしろ予想とは逆……人工フラクトライトの子供たちよりも非活動的で、外に出ることを嫌い、周囲と馴染めない傾向を示した。我々は、それを違和感のせいだと推測した」
「違和感?」
「生まれてからの記憶をブロックしても、それが消滅するわけではない。そんなことをしたら現実に戻ってこられなくなってしまうからね。つまり、知識ではない、体の動かし方に代表される本能的な記憶が、被験者がアンダーワールドと馴染むことを阻害するんだ。いかにリアルとは言っても所詮はザ・シードで作成した仮想世界であることに違いは無い。中に入ってみればわかるが、現実世界での動作とは微妙に感覚が違うんだよ。僕が初めてナーヴギアを使い、SAOのベータテストを体験してみた時に感じたものと同種の違和感だ」
「重力感覚のせいよ」
明日奈が短く言った。
「重力……?」
「視覚や聴覚の信号と違って、重力や平衡を感じる部分の研究は遅れてるの。信号の大部分が、視覚からわたし達の脳が補完する重力感覚に頼ってるから、慣れてない人はうまく動けない」
「そう、その慣れだよ」
菊岡は指をパチンと鳴らし、頷いた。
「散々実験を繰り返してから、仮想世界内での動作に慣れている被験者が必要だ、と僕らもようやく気付いた。それも、一週間、一ヶ月ではなく年単位の経験がある、ね。これでもう分かったろう。僕が、日本中でも最も仮想世界に順応している人間に協力を仰いだ理由が」
「――ちょっと待って」
固い声で、再び明日奈が菊岡の言葉を遮った。
「もしかして、それが、キリト君の言ってた"三日間の連続ダイブ試験"なの? ……でも、キリト君はわたし達に、STRA機能は最大三倍だから、内部時間でも十日だけだ、って言ってたわ。彼に嘘をついたの? 本当は、十年……?」
鋭い視線を浴びせられた菊岡と比嘉は、バツの悪そうな表情を作って頭を下げた。
「すまない、その件に関しては六本木支部の独断だ。僕らは、STRA倍率は完全に伏せるよう指示していたんだが……」
「なお悪いわよ! キリト君の……"魂寿命"を十年分もそんな目的に使って、これで彼の治療に失敗したら、わたしはあなた達を絶対に許さないわ」
「言い訳にはならないが、僕も比嘉君も二十年以上実験に提供しているんだよ。――だが、キリト君に貰った十年は、スタッフ全員が消費したフラクトライト寿命を合算しても遠く及ばないほどの成果をもたらしてくれた」
「つまり、彼は、アンダーワールド内での成長過程で、禁忌目録に違反する行動を取ったのね?」
思わず凛子がそう口を挟むと、菊岡はにこりと笑みを浮かべ、大きくかぶりを振った。
「厳密にはそうではない。だが、結果としてはこちらが望む以上の形だったと言える。キリト君は、幼児期から他の被験者には見られなかった旺盛な好奇心と活動性を示し、何度も禁忌目録違反の寸前まで行ってはお仕置きを受けていたよ。――無論、彼のフラクトライトが禁忌を犯したところで、それは人工フラクトライトの構造的欠陥を示すだけなので喜んではいられないんだが、それでも我々は注意深く彼の行動を観察し続けた。内部時間で七年ほど経過した頃だったかな……。この比嘉君が、ある興味深い事実に気付いた」
菊岡の言葉を引き取り、比嘉が続けた。
「ええ。俺は元々、桐ヶ谷君を実験に参加させることには、道義的にも保安面からも反対だったんスけどね、それに気付いたときは菊さんの慧眼に感服せざるを得なかったっスよ。俺らは、禁忌目録のそれぞれの条項の重要性を数値化して、住民ひとりひとりがどれくらい禁忌違反に近づいたかを指数に表してチェックしてたんスけど、桐ヶ谷君といつも一緒に行動してた人工フラクトライトの少年と少女の違反指数が、突出して増大しはじめたんです」
「え……? つまり……」
「つまり、桐ヶ谷君は、現実世界の記憶と人格を封印された状態でありながら、周囲の人工フラクトライトの行動に強い影響を及ぼしていたんス。もっと噛み砕いて言えば、彼の腕白っぷりが他の子供に伝染してた、って感じスかね」
比嘉の分かりやすい比喩を聞いた明日奈の口元に、ごくごくかすかな笑みが浮かんだのに凛子は気付いた。おそらく明日奈にとっては、それはたやすく想像できる話だったのだろう。
「……現在でも、なぜ人工フラクトライトが与えられた規則に違反しないのか、その理由が完全に判明したわけじゃあないっス。恐らくは何らかの構造的要因に拠るものなんでしょうけど、俺らはもう、その解明は最優先課題ではないと考えてます。俺らには、問題の全面的解決じゃなくて、たった一つの例外があればいいんス。たった一つだけでも、"規則の優先順位"という概念を得た真の高適応性人工知能を手に入れられれば、あとはそれを複製加工することで一定の成果は得られるはずですから」
「あんまり好きじゃないなあ、そういう考え方。……でも、往々にしてブレイクスルーっていうのはそんな手法で達成される、ってことかしらね」
短く息を吐き、凛子は比嘉に先を促した。
「で、その例外は得られたの?」
「一度は確かに俺らの手に落ちてきましたよ。少年桐ヶ谷君と最も近しい存在だったある少女が、実験が終了する直前、ついに禁忌目録に背いたんでス。しかも"移動禁止アドレスへの侵入"っていうかなり重大な違反っスよ。後でログをチェックしたら、少女の視界内の禁止アドレスで他の人工フラクトライトがひとつ死亡しているのが確認されました。恐らく、それを助けようとしたんでしょう。いいっスか、つまりその少女は、禁忌目録よりも他者の救助を優先したんです。それこそがまさに、俺らが求める適応性って奴っスよ。まぁ、兵器として実用化の暁に求められるのはまったく逆の、"倫理に背く殺人"だってのは皮肉な話ですが」
「……一度は、って言ったわね?」
「あー、ええ。情けない話ですが……手に落ちてきた珠を、掴みそこねたとでも言いますか……」
比嘉は肩を落とすと、何度も首を左右に振った。
「……さっき説明したとおり、アンダーワールド内は対現実比約千倍という凄まじいスピードで時間が経過しています。それを外側からリアルタイムに監視するのは不可能なので、記録した事象をコマギレにして、それを言わばスロー再生で複数のオペレーターがチェックしてるわけっス。結果、必然的に内部時間とわずかなラグ発生してしまうんス。俺らは、少女が禁忌目録に違反したのを発見した時点でサーバーを停止し、彼女のフラクトライトをコピーしようとしたんスが……その時にはすでに内部時間で約二日が経過していました。そして、驚いたことに、神聖教会はそのたった二日のあいだに少女を央都に連行して、フラクトライトにある種の修正を施してしまったんス」
「しゅ……修正ですって? 君たちは観察対象にそこまでの権限を付与してるの?」
「そんなわけないっスよ。……ない筈、でした。秩序維持のためにアンダーワールドの全住民にはある種の権限レベルが設定してあって、それが高い住民は"神聖魔法"と呼ばれるシステムアクセス権を行使できるんですが、最高レベルの神聖教会の司教たちだって可能なのはせいぜい寿命の操作くらいなんスよ。でも連中はいつのまにか、システムの抜け道的手法を見つけて……、まぁ、この先は後で実際に映像をお見せします。"アリス"の過去と現在の姿をね」
「アリス……?」
さっと顔を上げ、そう囁いたのは明日奈だった。凛子もその単語の意味は事前に聞いていた。確か、菊岡と比嘉が追い求めている"高適応性人工知能"のコードネームとでも言うべき名称だったはずだ。
二人の疑問を察したように、菊岡がひとつ頷いた。
「そう、それが、キリト君とそしてもう一人の少年といつも一緒にいた、問題の少女の名前なんだよ。もともと、アンダーワールドの住民の名前はそのほとんどが、ランダムな音の組み合わせとしか思えない奇妙なものばかりだ。だから、少女の名前がアリスだと知ったとき、我々はその恐るべき偶然に驚愕したよ。なぜなら、それは、このラースという組織を含めてすべての計画の礎となったひとつの概念に与えられた名称でもあったからだ」
「概念……?」
「人工高適応型知的自律存在、アーティフィシャル・レイビル・インテリジェント=サイバネーテッド・イグジスタンス。頭文字を取って"A.L.I.C.E."……。僕らの究極の目的は、ライトキューブに封じられたフォトンの雲を一なる"アリス"に変化させることだ。スタッフ達は、短く縮めて"アリス化"と呼んでいる」
菊岡誠二郎は、凛子と明日奈を順番にじっと見つめ、ほぼ全ての秘密を明らかにしながら尚もどこか謎めいて見える笑みを浮かべつつ言った。
「我らが"プロジェクト・アリシゼーション"へようこそ」
何度かの逡巡のあと、凛子は左手を持ち上げ、『呼出』と刻印してある金属のボタンを押した。数秒後、小さなスピーカーから明日奈の短い応答があった。
「どなた?」
「私、神代です。少しだけ、話をさせてもらっていいかしら」
「……どうぞ」
ほんのわずかに躊躇いの響きを帯びた声が返ってくると同時に、スピーカーの下のインジケータが赤から青に変わり、モーター音とともにドアがスライドした。
凛子が部屋に入ると、ベッドに腰掛けていた明日奈はリモコンを傍らに置き、代わりにブラシを取り上げてつややかな髪を梳りはじめた。背後で再びドアが閉まり、小さなアラームが再度ロックされたことを教えた。
明日奈に与えられた客室――あるいは船室は、通路を隔てた向かいの凛子の部屋と全く同じつくりだった。ほぼ六畳ほどの空間は無機質なオフホワイトの樹脂パネルで装われ、調度は固定されたベッドと小さなテーブル、ソファー、艦内ネット接続用の小型端末一つだけ。二人を案内した中西一尉は『一等船室ですよ』と言っていたので、凛子は思わず豪華客船のスイートキャビンを想像してしまったのだが、どうやら各部屋ごとに小さなユニットバスが備えられているというのが唯一の一等たる所以だったらしい。
ただ、明日奈の部屋は凛子のものとは違い、ベッドの奥に細長い窓が設けられていた。つまりここはオーシャンタートルの最外周部、発電パネル層と接する場所だということになる。エレベーターでかなり登ったので、夕刻には窓から美しい南洋の落日が望めたはずだが、午後九時を回った今では漆黒の闇が広がるばかりだ。生憎の曇天で星もまったく見えない。
右手にぶら下げていた、エレベーター脇の自販機で買ってきた缶入りウーロン茶の片方をテーブルに置き、凛子はソファーに腰を下ろした。思わずいつもの癖で「どっこいしょ」と言ってしまいそうになり、危く口を閉じる。自分ではまだまだ若いつもりでいるが、風呂上りでTシャツにショートパンツ姿の明日奈の、輝くような美しさを目の当たりにすると、迫りつつある三十路の声を意識せざるを得ない。
明日奈はブラッシングの手を止め、ちらりと微笑みながら頭を下げた。
「ありがとうございます、丁度喉が渇いてたんです」
「洗面台の水は味見してみた?」
悪戯っぽく笑いながら尋ねると、明日奈も目をくるりと回してみせる。
「東京の水道水といい勝負ですね」
「まあ、海水を濾過脱塩した水らしいから、少なくともトリハロメタンは入ってないわね。案外、コンビニで売ってる海洋深層水より体にいいかもよ。私は一口でもうご免だけど」
ウーロン茶のプルトップを引き開け、冷えた液体を大きく飲み下す。本当はビールが欲しかったのだが、下層の食堂まで行かないと売ってないらしく断念した。
ふうっ、と息をつき、凛子はもう一度明日奈を見た。
「……桐ヶ谷君には会えた?」
「ええ、なんだか元気そうでしたよ。楽しい夢でも見てるみたいでした」
微笑む明日奈の顔は、ここ数日彼女を苛んでいた焦燥がようやく抜け落ちたように見えた。
「まったく困った彼氏ね。突然失踪した上に、こんな南の海でクルージング中だなんて。首に縄でもつけておいたほうがいいわよ」
「検討しておきます」
にこっと笑顔を見せてから、明日奈は口もとを引き締め、深く頭を下げた。
「ほんとうに、神代先生には感謝しています。こんな無茶なお願いをきいて戴いて……。お礼の言いようもないくらい」
「やめてやめて、凛子でいいわよ。……それに、こんなことくらいじゃあ、あなたと桐ヶ谷君への罪滅ぼしにはぜんぜんならないわ」
凛子は大きく何度もかぶりを振り、意を決して、じっと明日奈を見つめた。
「……私、あなたに話しておかなくちゃならないことがあるの。ううん、あなただけじゃない……旧SAOプレイヤーの全員に、告白しなきゃいけないことが……」
「…………」
わずかに首を傾げ、まっすぐに見返してくる明日奈の瞳を、凛子は懸命に受け止めた。大きく息を吸い、吐き出してから、身につけていたコットンシャツのボタンを二つ外す。襟元を大きく開き、細い銀のネックレスを持ち上げると、左の乳房の上を斜めに走る切開痕が露わになった。
「この傷痕のことは……知ってるわよね……?」
明日奈は目を逸らすことなく凛子の心臓の真上を凝視し、やがてかすかに頷いた。
「ええ。遠隔起爆型マイクロ爆弾が埋め込まれていた場所ですね。それで先生……凛子さんは、二年間も脅迫されていた」
「そう……それによって私はあの恐ろしい計画に協力を強いられ、長期ダイブ中のあの人の肉体を管理していた……。――世間ではそういうことになっているわ。だから私は起訴されなかったし、名前すら公表されずに、のうのうとアメリカに脱出できた……」
シャツとネックレスを戻し、凛子は気力を振り絞ってその先を続けた。
「でも、本当は違うの。警察病院で摘出された爆弾は確かに本物だったし、実際に起爆も可能だった。でも、それが決して爆発しないことを、私はよく知っていた。――カモフラージュだったのよ。事件が終わったあと、私が罪に問われないように、あの人が埋め込んでくれたまやかしの凶器。あの人が私にくれたたった一つのプレゼント」
その言葉を聞いても、明日奈の表情は変わらなかった。心の底まで見透かすような澄んだ瞳を微動だにさせず、ただじっと凛子を見つめている。
「――私と茅場君は、私が大学に入った年から付き合い始めて、修士課程が終わるまで六年のあいだ恋人同士だったわ。……でも、そう思っていたのは私だけだった……。今のあなたよりも年上だったのに、今のあなたより遥かに愚かだった私には、茅場君の心の内側がまるで見えてなかった。彼がただひとつ求めていたものに、まったく気付かなかった……」
視線を窓の向こうに広がる無限の夜に向け、凛子は四年間抱えつづけていたことをゆっくり言葉に変えはじめた。常なら思い出すだけで鋭い痛みをもたらすその名前は、意外なほど滑らかに唇からこぼれ落ちていった。
日本で有数の工業系大学に、ストレートで進学したその時点で、茅場晶彦はすでに株式会社アーガスの第三開発部の長たる立場だった。茅場が高校在学中にライセンス契約したいくつかのゲームプログラムによって、アーガスは弱小三流メーカーから世界に知られるトップメーカーへと飛躍したのだから、大学入学直後の彼をいきなり管理職待遇で迎えたのも当然と言えよう。
十八歳の茅場の年収はすでに億を越えていると言われ、それまでのライセンス料を合わせれば総資産は恐るべき金額になるはずだった。自然な成り行きとして、キャンパスでの彼は無数の女子学生から有形無形のアプローチを受けたらしいが、興味のないものに彼が向ける、あの液体窒素よりも冷たい視線を浴びせられて立ち直れた者は居なかった。
だから、凛子には、なぜ茅場が一歳年下の冴えない山出し娘を拒絶しなかったのか、今でもよく分からない。彼の名声をまるで知らなかったから? 一年時から重村ゼミに出入りすることを許される程度の頭はあったから? 少なくとも容姿に惹かれたわけではないことだけは確かだ。
凛子の抱いた茅場の第一印象は、養分の不足した豆もやし、である。いつも青白い顔をしてよれよれの白衣を羽織り、観測装置にまるで備品のように貼り付いている彼を、無理矢理おんぼろの軽に乗せて湘南まで引っ張り出した時のことは、昨日の出来事のように鮮明に憶えている。
「たまにはお日様さ見ないと出るアイデアも出ね!」
――とお国言葉丸出しで叱る凛子を、茅場は助手席からどこか呆然としたような顔でしばらく眺めていた。やがてぽつりと、自然光が与える皮膚感覚のエミュレーションも考えないとな、と呟いて凛子を大いに呆れさせた。
のちに凛子は、茅場の若きセレブリティというもう一つの顔を知ったが、だからと言って付き合い方を変えられるほど器用な育ち方はしていなかった。凛子にとって茅場は、いつだって栄養の足りていないもやしっ子で、部屋に行くたびに叱り付けて持参の郷土料理を食べさせた。あの人が私を拒絶しなかったのは、つまり助けを求めていたのだろうか、私がそれに気付かなかっただけなのか、と凛子は後に何度も自問したが、しかしその答えは常に否だった。茅場晶彦という人間は最後まで自分以外に恃むものは無く、彼が欲していたのはただ一つ、"ここではない世界"という、神ならぬ人の子には触れることさえできないはずのものだけだった。
茅場は何度か、寝物語に空に浮かぶ巨大な城の話をしてくれたことがある。その城は、無数の階層からできていて、層ひとつひとつに街や森や草原が広がっているのだそうだ。長い階段を使って層をひとつひとつ登っていくと、天辺には夢のようにきれいな宮殿があって――。
「そこには誰がいるの?」
と問う凛子に、茅場はかすかに笑いながら、分からないのだ、と答えた。僕はすごく小さな頃は、毎晩夢のなかでその城に行けたんだ。毎晩ひとつずつ階段を昇って、少しずつ天辺に近づいていった。でも、ある日を境に、二度とその城には行けなかった――と。くだらない夢さ、もうほとんど忘れてしまったよ。
しかし彼は、凛子が修士論文を書き上げたその翌日に、空の城に旅立ち二度と帰ることはなかった。己の手だけで浮遊城を現実のものとし、五万の人間を道連れに、凛子だけを地上に置き去りにして――。
「ニュースでSAO事件を知って、茅場君の名前と顔写真を見てもまだ、私には信じられなかった。でも、車で彼のマンションまで飛んでいって、そこにパトカーが山ほど詰め掛けてるのを見て、初めてほんとなんだって分かったわ」
凛子は、久しぶりに長時間声を出したせいでわずかな喉の痛みを感じながら、ぽつりぽつりと話し続けた。
「あの人は、最後まで私には何も言わなかった。メール一つ寄越さなかったわ。ううん……私が大馬鹿だったのね。私はナーヴギアの基礎設計にも協力したし、彼がアーガスで作ってたゲームのことも知ってた。なのに、彼が考えてることにまったく気付かなかった……。茅場君が行方不明になって、日本中が血眼になって彼を探してるとき、私、奇跡的に思い出したの。昔、彼の車のカーナビの履歴に、長野の山奥の座標が残ってて、変だな、って思ったことを。直感的に、そこだ、って思ったわ。その時点でそれを警察に教えてれば、SAO事件はもっと違った経過を辿ったかもしれない……」
あるいは警察があの山荘に踏み込んだら、茅場は事前の宣言どおり五万のプレイヤー全員を殺したかもしれなかった。しかし自分がそれを言葉にすることは許されないと、凛子は思った。
「――私、警察の監視を撒いて、一人で長野に行った。記憶を頼りに山荘を探し出すのに一週間もかかったわ。見つけたときはもう全身泥だらけで……でも、そんなに必死になったのは、彼の共犯者になりたいからじゃなかった。私……茅場君を殺すつもりだった」
最初に会ったときとまったく同じ、戸惑ったような顔で茅場は凛子を出迎えた。その時、後ろ手に握っていたサバイバルナイフの重さは、今でも忘れられない。
「でも……ごめんなさいね、明日奈さん。私、殺せなかった」
抑えようもなく声が震えたが、しかし涙を流すことだけは懸命に堪える。
「これ以上、あの時のことをどう言葉にしても嘘になっちゃうと思う……。茅場君は、私がナイフを持ってるのを知ってて、いつもみたいに、困った人だなあ、ってだけ言って、またナーヴギアをかぶってアインクラッドに戻っていった。それまでずっとダイブしっぱなしだった彼は、髭ぼうぼうで汚れ放題で、腕に点滴の痕がいくつもあった。私……私は……」
それ以上言葉が出ず、凛子はただ何度も呼吸を繰り返した。
やがて、静かに、明日奈が言った。
「わたしも、キリト君も、凛子さんを恨んだことは一度もありません」
はっと顔を上げると、十歳年下の少女は、かすかに微笑みながらじっと凛子を見ていた。
「……それどころか……キリト君は違うかもしれないけど、わたしは……団長のことを恨んでいるのかすら、今でもよくわからないんです」
明日奈が、あの世界の中で、茅場の作ったギルドに属していたことを凛子は思い出していた。
「確かにあの事件で、多過ぎる人が亡くなりました。どれだけの人が、恐怖と絶望の中で死んでいったか……それを想像すると、団長のしたことは許されることではありません。でも……物凄くわがままな言い草ですけど、多分わたしは、あの世界でキリト君と暮らした短い日々を、これからも人生最良のひとときとして思い出すでしょう」
明日奈の左手が動き、腰のあたりで何かを握るような仕草を見せた。
「団長に罪があるように、わたしにも、キリト君にも、そして凛子さん、あなたにも罪はある……。でもそれは、誰かに罰してもらえば償えるようなものじゃない、そう思います。おそらく、永遠に赦しを得られる日は来ないのかもしれません。だとしても、わたし達は、自分の罪と向き合いつづけていかなければならないんです」
その夜、凛子は、久しぶりにあの頃――何も知らない学生だった頃の夢を見た。
眠りの浅い茅場は、いつも凛子より先にベッドから抜け出して、コーヒーカップ片手に朝刊を読んでいた。完全に日が昇ってから凛子がようやく目を醒ますと、寝坊した子供に対するように小さく苦笑し、おはよう、と言った。
「本当に、困った人だな。こんなところまで来るなんて」
穏やかな声に、凛子が薄く目を開けると、暗闇のなか、ベッドの傍らに長身の人影が立っているのが見えた気がした。
「まだ夜中よ……」
微笑みながら呟き、凛子はもう一度目を閉じた。かすかに空気が動き、硬い足音が遠ざかり、ドアの開閉音がそれに続いた。
再度の眠りの淵に落ちていく、その直前に――。
「――!!」
凛子は息を詰めながら飛び起きた。心地よいまどろみは一瞬で消え去り、心臓が早鐘のように喚いている。どこまでが夢で、どこからが現なのか、とっさに判断できなかった。手探りでリモコンを探し、部屋の照明を点ける。
窓のない船室は、当然のように無人だった。だが、凛子は、空気中にかすかに何者かの残り香が漂っているのを感じた。
ベッドから飛び降りると、素足のままドアまで駆け寄る。操作パネルをもどかしく叩き、ロックを外すと、スライドしたドアの隙間から通路に走り出た。
オレンジの薄暗い照明に照らされた通路は、右も、左も、視界に入る限りどこまでも無人だった。
夢……?
そう思ったが、しかし耳の底には、確かにあの低くソフトな声の残響が漂っていた。無意識のうちに、凛子は右手で、常に身につけているネックレスの先端にぶら下がるロケットペンダントを握り締めていた。ろう付けされて二度と開くことのできないその中に封入されている、凛子の心臓直上から摘出されたマイクロ爆弾が、かすかな熱を放っているかのようにほんの少し掌を灼いた。
(第四章 終)