機体が濃い靄のかたまりを抜けると、小さな窓の向こうに再び一面の藍色が広がった。
高高度を飛ぶ旅客機からの眺めとはまるで違う、砕ける波頭すら見て取れそうな海面の輝きに、神代凛子(こうじろりんこ)は、最後に海で泳いだのは何年前だろう、と考えた。
凛子の現在の勤め先であるカリフォルニア工科大学のキャンパスからはサンタモニカ湾まで車で一時間足らずであり、その気になれば毎週末にでも好きなだけ肌を焼ける環境だったが、職を得てからの二年間、一度として砂浜を踏んだことはない。海も陽光も決して嫌いではないものの、レジャーをレジャーとして素直に楽しめる心境に至るには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。誰も自分を知らない異国の街で、目的の無い研究に没頭することで過去を漂白する日々は、十年や二十年で終わるものではあるまいと凛子は覚悟していた。
だから、二度と帰ることはないだろうと思っていた日本の土を――わずか一日にせよ――踏み、その上捨てたはずの過去に直結する場所へと一直線に飛行している己を、凛子はどこか不思議な気分で見ていた。一週間前、思わぬ人物から受け取った長いメールを、その場で削除し、忘れ去ることもできたはずだが、なぜか凛子はそうせず、一時間足らず考えただけで要請を受諾するむねの返事を送った。思考も記憶も深く凍らせた二年間の日々をまったく無駄にする行為だとわかっていながら、なおそうしたのだった。
一体何ものが自分を衝き動かし、重い因縁の付きまとう場所へと足を向けさせたのか――。ロサンゼルスから東京へと向かう飛行機の中で、一泊した成田のホテルのベッドで、そしてこの小さな航空機に乗ってからも、なんども自問したその謎を、凛子は軽い吐息とともに頭のおくに押しやった。見るべきものを見、聞くべきことを聞けばおのずと答えは出るだろう。
とりあえず、最後に海水浴をしたのは十年前、何も知らなかった大学一年生の時だ。二年上の先輩だった茅場晶彦を無理やり誘い出し、ローンで買ったばかりの軽自動車で江ノ島に行ったのだ。自分がどのような運命に足を踏み入れつつあったのか、まるで気付きもしなかった、無邪気な十八の頃。
遠い過去に彷徨い出そうとした凛子の耳に、隣のシートの同乗者が、ローターの唸りに負けないよう張り上げた声が届いた。
「見えてきましたよ!」
長い金髪をかきあげながらサングラスの下で目を細める同乗者の視線を辿ると、確かにコクピットの湾曲したガラスの向こう、のっぺりと広がる凪いだ海面の一角に、小さな黒い矩形が見えた。
「あれが……オーシャン・タートル……?」
凛子が呟くと同時に、黒――太陽電池パネルの一面が日光を反射してまばゆく光った。飛行中ずっと押し黙っていた、コ・パイ席のダークスーツの男が、低い声で短く答えた。
「そうです。あと十分程度で着艦します」
EC130ヘリコプターは、新木場からの約450キロに及ぶ飛行の締めくくりに、サービスなのか巨大海洋研究母船『オーシャン・タートル』の周囲をひとまわりしてから着艦体勢に入った。
凛子は、そのあまりの威容に、半ば唖然としながら目を見開いた。船、とはとても思えない。海にどっしりと根を下ろした巨大な黒いピラミッドだ。全長は世界最大の空母ニミッツ級の二倍――等のデータは事前に調べていたが、数字と実物との間には月と地球ほどもの開きがある。
六百掛ける四百メートルの底面積を持つ四角錐を、光沢を持つ黒いパネルが亀甲のように覆っている。その一枚一枚が、ホバリングするヘリコプターの影の胴体部分と同じほどの大きさだ。一体、総建造費がどれくらいに上っているのか、凛子には見当もつかなかった。近年開発された小笠原沖油田からの収益のほぼ全額がつぎ込まれているという噂も、この巨躯を見ればあながち的外れとは思えない。
この船の表向きの建造目的は、次なる油田の発見・開発に主眼が置かれている――はずなのだが、実はその内部に次世代NERDLESテクノロジ、人間の魂を解読するという『ソウル・トランスレータ』の研究施設が置かれている可能性がある、と一週間前のメールは告げていた。当初凛子は半信半疑だったが、こうして実際に連れてこられれば、もう信じるほかはない。
一体何故、こんな何も無い外洋のど真ん中でよりによってマンマシン・インタフェースの研究をしなければならないのか、その理由はさっぱりわからない。しかし、この黒いピラミッドの奥で、茅場晶彦の遺したナーヴギアと、それを凛子が発展させたメディキュボイドから産まれた因縁のマシンが息づいているのは最早事実なのだ。
二年間の海外生活は、凛子の傷を麻痺させても癒すことは無かった。果たしてこの中で直面するものは、その傷を塞いでくれるのか、あるいは轢き毟って鮮血を流させるのか――。
降下を始めたヘリコプターの中で、凛子はひとつ大きく呼吸すると、ちらりと隣の同乗者を見やった。サングラス越しの視線に軽く頷きかけ、降りる準備を始める。
パイロットがよほどのベテランなのだろう、機体は大きく揺れることなく、オーシャン・タートルの艦橋構造物屋上に設えられたヘリポートに着陸した。まずダークスーツが俊敏な動作で機外に滑り出て、走りよってきた同じようなスーツ姿の男と敬礼を交し合う。
続いて降りようとした凛子は、手を貸そうとする男にかぶりを振ると、ジーンズを穿いてきて良かったと思いながらわずかな高低差をすとんと飛んだ。スニーカーの底が捉えた人工の地面は、そこが船上とは思えないほどどっしりと微動だにしない。
続けて同乗者が、金髪を眩くきらめかせながら飛び降り、サングラスを太陽に向けて大きく背を伸ばした。凛子も倣って両手を広げ、胸いっぱいに潮の香りがする空気を吸い込んだ。
ヘリポートで待っていたほうの男が、よく灼けた肌に笑みを浮かべながら、凛子に向かってさっと敬礼した。
「神代博士、オーシャン・タートルへようこそ。そちらが……」
男の視線が同乗者に向くのを見て、頷きながら紹介する。
「助手のマユミ・レイノルズです」
「Nice to meet you」
滑らかな英語とともに同乗者が差し出した右手を、ややぎこちなく握り返し、男も名乗った。
「私は、お二人のご案内を命じられました中西一等海尉です。お二人の荷物は後ほど部屋に運ばせますので、さあ、どうぞこちらへ――」
右手を、ヘリポートの一端に見える階段へ伸ばしながら、男は続けた。
「菊岡二佐がお待ちです」
艦橋ビルディング内の空気はまだ、真夏の太平洋の熱と塩気を含んでいたが、エレベーターと長い通路を経てオーシャン・タートル本体――黒いピラミッドの内部へと続く分厚い自動ドアをくぐった途端、冷たい無機質な風が凛子の顔を叩いた。
「船じゅうこんなにエアコンが効いてるの?」
思わず、前を歩く中西一尉に尋ねると、若い自衛官は上体を捻って頷きながらこともなげに言った。
「ええ、精密機械が多いですから、常に二十三度前後に保たれています」
「電力は太陽発電だけでまかなってるの?」
「まさか、発電パネルでは需要の一割も満たせませんよ。主機は加圧水型原子炉を使用しています」
「……そう」
いよいよもって何でもありね、と軽く頭を振る。
明灰色のアルミパネルを貼られた通路には、人の姿はまったくなかった。事前にざっと資料を読んだ限りでは、百近くに及ぶ数のプロジェクトが入居しているはずだが、器が巨大なぶんスペースには充分な余裕があるらしい。
右に折れ、左に折れしながら三百メートルほども歩いたとき、前方突き当たりのドアの脇に、紺色の制服を着込んだ男の姿が見えた。よくある警備会社のもののように思えるが、中西を見るやサッと敬礼したその仕草はやはり民間人のものではない。
答礼し、中西はきびきびした口調で言った。
「招聘研究員の神代博士と助手のレイノルズさんがS3区画に入ります」
「確認します」
警備員は、手にしていた金属製の端末機を開くと、直線的な視線を凛子の顔とモニタの間で往復させた。頷き、次いで凛子の背後に立つ研究助手を見るや、きれいに髭をあたった口元を動かす。
「失礼ですが、サングラスを外して頂けますか」
「I see」
大きなレイバンを持ち上げた研究助手の、艶やかな金髪か抜けるような白皙のどちらかに少しばかり眩しそうに目を細め、警備員はもう一度頷いた。
「確認しました。どうぞ」
ほっ、と息を吐き、凛子は微苦笑しながら中西に言った。
「ずいぶん厳重なのね。こんな海のど真ん中なのに」
「これでも、ボディチェック等は省略しているんですよ。金属・爆発物探知機は三回ほど潜っていますが」
答えながら、スーツの胸から外したプレートをドア脇のスリットに差し込み、右手の親指をセンサーとおぼしきパネルに押し当てる。約一秒後、ドアは圧搾音とともにスライドし、オーシャン・タートルの、おそらく中枢部への入り口を開いた。
やけに分厚いドアを抜けると、その先の通路はさらに低温の空気とオレンジがかった照明、かすかに響く重い機械の唸りに満たされていた。かん、かんと響く三人の足音を意識しながら、南洋に浮かぶ船の中ではなく地下深部の研究所としか思えない場所をなおも数十メートル歩き、中西はひとつのドアの前で再び歩を止めた。
見上げると、上部のプレートに『S機関主操作室』の文字があった。
ついに、ここまで――茅場晶彦最後の遺産が息づく場所まで来てしまった。凛子は息を詰めながら、セキュリティチェックを行う中西の背中を眺めた。
ここが、意識を凍らせあてどなく彷徨った二年間の終着点となるのか、それとも新たな無明の道の開始点なのか――。重々しく横に動いた扉の向こうは、何かを暗示するような深い闇に包まれていた。
「……先生」
背後から研究助手に声をかけられ、はっと顔を上げると、中西はすでに暗い部屋に数歩踏み込み、振り返って凛子を待っていた。よくよく見ると、『主操作室』の内部は完全な暗闇ではなく、床にオレンジ色のマーカーが瞬き、奥からはぼんやりした青白い光が伸びている。
凛子は大きく深呼吸してから、意を決して右足を前に出した。二人が入室するやいなや、背後でぷしゅっと音がしてドアが閉まる。
巨大なネットワーク機器やサーバー群の間を縫うようにマーカーを辿り、ようやく機械の谷間を抜けた途端、凛子は眼前に広がった光景に、唖然と口を開けた。
正面の壁は一面、大きな窓になっており――その向こうに、信じられないものが見えた。
都市だ。しかしどう見ても日本、いや世界中のどの近代都市でもない。建物はすべて白亜の石造りで、不思議な丸い屋根を持っている。どれも二階建て、あるいはそれ以上の規模なのに、ミニチュア風に見えるのはそこかしこに巨大な樹木が根と枝葉を広げているからだ。
同じく白い石積みの道路は、無数の階段やアーチを成して樹々の間をくぐり、そこを歩く沢山の人間たちは――これも明らかに現代人ではなかった。
一人として、背広の男やミニスカートの女は居ない。皆、ゆったりしたシルエットのワンピースや革製のベスト、地面に引きずりそうな貫頭衣といった中世風の衣装を身に着けている。頭髪は、金から茶色、黒まで様々で、目を凝らすと顔立ちは西洋人とも東洋人とも即断できない。
一体これは何処なのだろう。いつの間にか、研究船の中から本当に地下の異世界か何かに移動してしまったのか。呆然となりながら凛子が視線を動かすと、どこまでも広がる街並みの向こうに、一際純白に輝く巨大な塔が見えた。四つの副塔を従えた主塔の上部は、窓枠に収まりきれずに遥か青空の向こうへと伸びている。
塔の天辺を視界に入れるべく、数歩前に進んだところで、凛子はようやく眼前の光景が窓ではなく大画面のモニタパネルに映し出されたものであることに気付いた。直後、天井で控えめな照明が点灯し、部屋から暗闇を追い払った。
小劇場のスクリーンほどもありそうなモニタパネルの手前には、いくつものキーボードとサブモニタを備えたコンソールが扇状に広がり、そこに二人の男の姿があった。一人は背を向けて椅子に掛けたまま忙しなくキーを叩いている。もう一人の、腰をコンソールの縁に乗せ上体を屈めていた男が、顔を上げて凛子を見るや、眼鏡の奥でにいっと笑みを浮かべた。
かつて何度か見た、人懐こそうでそれでいて内面の見通せない笑顔だ。総務省に出向中の自衛官、菊岡誠二郎二等陸佐である。しかし――。
「……何なんですか、その格好は?」
二年ぶりに会う人間への挨拶がわりに、凛子は顔をしかめながら尋ねた。隙のないスーツ姿の中西と手早く敬礼を交わす菊岡は、青地に黄色い椰子の木がプリントされた派手なアロハにバミューダパンツ、その上裸足に下駄履きという出で立ちなのだ。
「それでは、私はここで失礼致します」
凛子にも敬礼して中西が去り、機械群の向こうでドアの開閉音がすると、直立していた菊岡は再びだらりとコンソールに寄りかかり、やや錆びの入ったソフトな低音で言った。
「だって、せっかくこんな海のど真ん中にいるんだよ。――神代博士、それにレイノルズさん、ようこそオーシャン・タートル……あるいは『ラース』へ。やっと来てくれて嬉しいよ、何度も声を掛けた甲斐があった」
「ま、来てしまったことだししばらくお世話になります。お役に立てるかどうかは保証できないけど」
凛子がぺこりと会釈すると、隣で助手もそれに習った。菊岡はわずかに眉を持ち上げ、助手の豪奢な金髪に目を止めていたが、すぐにまたにっと笑うと肩をすくめた。
「貴女は、僕がこのプロジェクトにどうしても必要だと考えていた三人の人間の、最後の一人なんだよ。これでついに、三人ともこの海亀の腹に集ったわけだ」
「ふうん。なるほどね……そのうちの一人は、やっぱり君だったのね、比嘉君」
凛子が声を掛けると、いままでずっと背中を見せていた二人目の男が、手を止めて椅子ごとくるりと向き直った。
長身の菊岡と並ぶと、まるで子供のように小さい。髪を剣山のように逆立て、無骨なデザインの丸眼鏡を掛けている。黒いプリントTシャツに色褪せたジーンズ、かかとを潰したスニーカー穿きという格好は、大学生の頃とまるで変わっていない。
五、六年ぶりに会う比嘉健(ひがたける)は、凛子を見ると、体格に見合った童顔に照れたような笑みを浮かべ、口を開いた。
「そりゃもちろんボクですよ。重村研究室最後の学生として、先輩方の志は継がないと」
「まったく……相変わらずね、君は」
東都工業大学電子工学部の異端と呼ばれた重村ゼミにおいて、茅場晶彦と須郷伸之というそれぞれ方向性は違うにせよ巨大な二つの個性の陰に隠れていた感のある比嘉が、このような謎めいた国家的プロジェクトに深く関わっていたことに奇妙な感慨を覚えながら、凛子は手を伸ばしてかつての後輩と軽い握手を交わした。
「……で? 三人目は、どこの誰なんです?」
再度菊岡を見てそう尋ねると、自衛官は相も変らぬ謎めいた笑みを浮かべ、短く首を振った。
「残念ながら、今は紹介できないんだ。折りを見て、数日中に……」
「じゃあ、代わりにわたしが名前を言ってあげるわ、菊岡さん」
――と言ったのは、凛子ではなく、今まで背後で影のようにひっそりとしていた『助手』だった。
「なにっ……!?」
唖然と目を見開く菊岡の顔を、してやったり、と眺めながら、凛子は一歩退いて彼女に場所を譲った。染めたばかりの長い金髪を揺らして進み出た『助手』は、大きなサングラスを外し、はしばみ色の瞳でまっすぐに菊岡を見据えながら続けた。
「キリト君を、どこに隠したの?」
恐らく、驚愕という感情にあまり馴染みがないのであろう二等陸佐は、何度か口を動かしては閉じるということを繰り返してから、ようやく囁くような声で言った。
「……研究助手の身元確認は、カリフォルニア工科大学の学籍データベースから得た写真で多重チェックしたはずだが」
「ええ、わたしも先生も、何回も嫌ってほど顔をじろじろ見られたわよ」
凛子の研究助手を勤めるマユミ・レイノルズの身元証明を隠れ蓑に、ついにオーシャン・タートルの中枢まで潜入してのけた日本の女子高校生・結城明日奈は、背筋を伸ばして菊岡の視線をまっすぐ受け止めながら答えた。
「ただ、学籍データベースの写真は一週間前にわたしの顔に差し替えさせてもらったけどね。うちには、防壁破りが得意な子がいるものですから」
「ちなみに、本物のマユミは今ごろサンディエゴで肌を焼いてるわ」
付け加え、凛子はにっこりと笑ってみせた。
「さ、これで、なぜ私が突然あなたの招聘に応じる気になったかわかって貰えたかしら、菊岡さん?」
「ああ……大変よくわかった」
こめかみを押さえながら、菊岡は力なく首を振った。突然、今まで凛子たちのやり取りをぽかんとした顔で傍観していた比嘉健が、くっくっと笑い声を上げた。
「ほら、ね、言ったでしょう菊さん。あの少年は、この計画における唯一にして最大のセキュリティホールだって」
一週間前、結城明日奈という見知らぬ差出人から届いたメールは、半ば世捨て人としてアパートとキャンパスを往復するだけの日々を送っていた凛子の心を大いに揺さぶる内容だった。
かつて凛子が、過去を清算するつもりで提供した医療用NERDLESマシン"メディキュボイド"――その設計を基にした"ソウル・トランスレーター"なる怪物の開発が、ラースという謎の機関によって進められていると明日奈は書いていた。人間の魂そのものにアクセスするというそのマシンの目的は、恐らく世界初のボトムアップ型人工知能を作り出すこと。実験に協力していた少年、"あの"桐ヶ谷和人が病院から昏睡状態のまま拉致され、その行き先は恐らく進水したばかりの巨大海洋研究母船オーシャン・タートル、そして拉致の黒幕はSAO事件に当初から深く関わり続けた菊岡誠二郎である疑いがある――という、一読しただけでは容易に信じられない話が続いていた。
『神代さんのメールアドレスは、キリトくんのPC内のアドレス帳から見つけました。神代さんだけが、私をラースへ、キリトくんの元へ至らしむるただ一つの可能性なのです。どうか、力を貸してください』――。
メールはそう結ばれていた。凛子は、激しく動揺しながらも、結城明日奈の言うことは真実であろうと判断した。なぜなら、一年ほど前から、自衛官菊岡誠二郎の名で次世代NERDLESテクノロジーの開発プロジェクトへの参加要請が再三ならず届いていたからである。
自宅アパートの窓辺から、パサデナの夜景を眺めながら、凛子は日本出国前夜に一度だけ会った桐ヶ谷少年の顔を思い描いた。須郷伸之の起こした人体実験事件の顛末を説明した彼は、最後にためらいがちに付け加えた。仮想世界内で、茅場晶彦の幻影と会話をしたこと、そしてその幻影は、何らかの意図を持って桐ヶ谷少年にシュリンク版"カーディナル"プログラムを託したということを。
思えば、茅場晶彦が自らの命に幕を引くために使った高密度・高出力の大脳パルス走査機こそがメディキュボイドの原型であり、ひいてはソウル・トランスレーターの原型である、ということになる。結局、全ては繋がっており、何も終わってはいなかったのだ。ならば、今になってこの結城明日奈からのメールが届いたのも必然なのではないか――?
一晩かけて心を決めた凛子は、明日奈に要請を承諾する旨の返事を送った。
危険な賭けではあったが、こうして菊岡誠二郎の驚き顔が見られただけでもはるばる太平洋を横断した甲斐はあった、と凛子は小さく笑った。SAO事件直後からあれこれ暗躍し、何もかも思うままにコントロールしてきた感のある菊岡からついに一本とったわけだが、しかしまだ手放しで喜ぶのは早すぎる。
「さ、ここまで来たら、何もかも白状してくれてもいいんじゃないかしら、菊岡さん? 自衛官のあなたが、何で総務省の窓際課長なんてカバーを使ってまでVRワールドに首を突っ込みつづけたのか、一体このでっかい亀のお腹で何を企んでるのか、そして……なぜ桐ヶ谷君をさらったのか」
畳み掛けるように凛子が言うと、菊岡は再度首を振りながら長い溜息をつき、相変わらず内心の読めない笑顔を浮かべた。
「まず、最初に誤解のないよう言っておきたいんだが……確かにキリト君を少々強引なやり方でラースに招待したのは申し訳なかった。でも、それはどうにかして彼を助けたかったからだよ」
「……どういう意味?」
腰に剣があったらもう鯉口を切っているであろう剣呑な表情で、明日奈が一歩詰め寄る。
「キリト君が襲撃され、昏睡状態に陥ったことを僕はその日のうちに知った。彼の脳が、低酸素状態による損傷を受け、そしてそのダメージは現代医学では治療不可能であるということもね」
明日奈の顔がさっと強張る。
「治療……不可能……?」
「脳の、重要なネットワークを構成していた神経細胞の一部が破壊されてしまったんだ。あのまま入院していても、彼がいつ目覚めるかはどんな医者にも分からなかったろうね。あるいは、永遠に眠ったままか……おっと、そんな顔をしないでくれたまえアスナ君。さっき、現代医学では、と言ったろう?」
菊岡は、滅多に見せない真剣な表情をつくり、ゆっくりと頷いた。
「だが、世界でもこのラースにだけ、キリト君を治療可能な技術があるんだ。S機関……と我々は呼んでいるが、君ももうよく知っているSTL、ソウル・トランスレーターだよ。死んだ脳細胞は治療できないが、しかし、STLで直接フラクトライトを賦活することで新しいネットワークの発生を促すことはできる。時間はかかるがね。キリト君は今、このメインシャフトのずっと上にある、フルスペックSTLの中にいるよ。六本木の分室にあるリミテッドバージョンでは微細なオペレーションができないので、どうしてもここに来てもらう必要があったんだ。治療が終わり、彼の意識が戻ったら、すべて説明したうえでちゃんと東京に帰すつもりだったんだよ」
そこまで聞いたとたん、ふらりと明日奈の体が揺れ、凛子は慌てて手を伸ばして支えた。
恐るべき洞察力と意思力を発揮し、愛する少年の元へと一直線に突き進んできた少女は、ここに来て緊張の糸が切れたかのように一滴だけ大粒の涙をこぼしたが、気丈にそれを拭って再びしっかりと立った。
「じゃあ、キリト君は無事なんですね? また元気になるんですね?」
「ああ、約束しよう」
菊岡の真意を見透かそうとするような、まっすぐな視線を数秒間ぶつけたあと、明日奈はごく小さく頷いた。
「……分かりました、今はあなたを信じます」
それを聞いて、ほっとしたように菊岡は笑った。そこに向かって、凛子は一歩進み出ながら尋ねた。
「でも、そもそも何故、STLの開発に桐ヶ谷君が必要だったの? こんな何も無い海の真ん中に隠すほどの極秘プロジェクトに、どうして一高校生である彼を?」
隣の比嘉と顔を見合わせてから、菊岡はやれやれ、というように肩をすくめた。
「それを説明しようとすると、すごく長い話になるんだけどね」
「構わないわ、時間はたっぷりあるんだし」
「……全部聞くからには、神代博士にはちゃんと開発を手伝ってもらいますよ」
「聞いてから決めるわ」
少々恨めしそうな顔を作った自衛官は、これ見よがしに溜息をついてから、バミューダパンツのポケットを探り小さなチューブを引っ張り出した。何かと思えば、安っぽいラムネ菓子だ。二、三粒口に放り込んでから、凛子たちに向かって差し出す。
「食べます?」
「……いえ、結構」
「これ、いけるのになぁ。……さて、と。お二人は、STLの概要はもうご存知と思っていいのかな?」
明日奈がこくりと首肯した。
「人の魂……フラクトライトを解読して、現実と全く同じクオリティの仮想世界にダイブさせる機械」
「ふむ。では、プロジェクトの目的については?」
「ボトムアップ型の……"高適応性人工知能"の開発」
ぴゅうっ、と口笛を鳴らしたのは比嘉健だった。丸眼鏡の奥の目に賞賛の色を浮かべ、信じられない、というように首を振る。
「驚いたなぁ。キリト君もそこまでは知らなかったはずだけどな。どうやってそんなことまで調べ上げたの?」
明日奈は、比嘉の人物を確かめるような視線を向けながら、固い口調で答えた。
「……キリト君が言ってたのを聞いたんです。アーティフィシャル・レイビル・インテリジェンス、って言葉を……」
「ははぁ、成る程ね。六本木の保守体勢も点検したほうがいいッスよ、菊さん」
にやにや顔の比嘉の言葉を、菊岡はしかめ面で受け流す。
「キリト君からある程度の情報漏れがあることは覚悟していたよ。そのリスクを勘案しても、彼の協力が不可欠だったことは君も納得していたはずだ……で、どこまで話したかな? そう、高適応性人工知能だったね」
もう一粒振り出したラムネを空中に弾き上げ、器用に口で受け止めてから、二等陸佐は国文の教師然とした風貌にそぐわしい口調で続けた。
「ボトムアップ型、つまり我々人間の意識の構造をそのまま模した人工知能の創造は、長い間夢物語だと思われていた。意識の構造、と言ってもそれがどのような形をしており、何で出来ているのかすらさっぱり判らなかったんだからね。――だが、かの茅場先生と神代教授の残してくれたデータをもとに、この比嘉君がひたすら解像力を高めて作り出したSTLは、ついに人間の魂……我々がフラクトライトと呼ぶ量子場を捉えることに成功したわけだ。ここまで来れば、ボトムアップ型人工知能の開発は成功したも同然だ、と我々は考えた。何故かわかるかい?」
「人の魂を読み取れるなら、あとはそれをコピーすればいい……そういうことね?」
ある種の戦慄をかすかに覚えながら、凛子はそう口にした。
「もちろん、魂のコピーを保存するためのメディアという問題があるでしょうけれど……」
「そう、その通りだ。従来の量子コンピュータ研究に用いられてきたゲート素子ではとても容量が足りないからね。そこでこれも巨費を投じて開発されたのが、"光量子ゲート結晶体"通称ライトキューブというものだ。一辺十五センチのプラセオジミウム結晶構造体の中に、人間の脳が保持する百億キュービットのデータを保存することができる。つまり……我々はすでに、人の魂の複製には成功しているんだ」
「…………」
指先がすうっと冷えていく感覚に耐えるため、凛子は両手をぐっとジーンズのポケットに差し込んだ。見れば、明日奈の横顔も色を失っている。
「……なら、もう研究は成功しているってことじゃないの。何故今更私を呼ぶ必要があったの?」
畏れを悟られないように、下腹に力をこめながら凛子は問いただした。また比嘉と視線を交わした菊岡は、唇の左端にかすかな虚無感のにじむ笑みを漂わせながら、ゆっくり頷いた。
「そう、魂の複製には確かに成功した。しかし、我々は愚かにも気付いていなかったのさ。人間のコピーと、真の人工知能のあいだには途方も無く深く広い溝が開いていることにね。……比嘉君、例のあれ、見せてやりたまえよ」
「ええー、もう勘弁してくださいよ。あれやるとめちゃくちゃ凹むんすよ」
心底嫌そうな顔で首を振る比嘉だったが、ため息をつくと、不承不承という様子でコンソールに向き直り、指を走らせた。
突然、謎の異邦都市を映し出していた巨大スクリーンが暗転した。
「それでは、ロードします。コピーモデルHG001」
たん、と比嘉がキーを叩くと同時に、スクリーンの中央に複雑な放射線型の光が浮かび上がった。中央は白に近く、先端に行くほど赤くなる光の棘が、幾つも伸縮しながらうごめいている。
『……サンプリングは終わったのか?』
不意に頭上のスピーカーから声が降ってきて、凛子と明日奈はびくりと体を震わせた。比嘉の声だ。だが、わずかに金属質のエフェクトがかかり、語尾がいんいんと反響する。
椅子に座る比嘉は、コンソールから伸びるマイクを引き寄せると、自分と同じ声に向かって答えた。
「ああ、フラクトライトのサンプリングは全て問題なく終了したよ」
『そうか、そいつはよかった。でも……どうしたんだ、真っ暗だ……体も動かない。STLの異常か? すまないが、マシンから出してくれ』
「いや……残念だが、それはできないんだ」
『おいおい、何だ、何を言ってるんだ? あんたは誰だ? 聞き覚えのない声だな』
比嘉は背筋を緊張させると、ひとつ間を置いてから、ゆっくりとした口調で答えた。
「俺は比嘉だ。比嘉健」
『…………』
赤い光のトゲトゲが、突然ぎゅっと収縮した。しばしの沈黙のあと、何かに抗うように、鋭い先端を一杯に伸ばす。
『馬鹿な、何を言ってるんだ。俺が比嘉だ。STLから出ればわかる!』
「落ち着け、取り乱すな。お前らしくないぞ」
ここにきて、ようやく凛子は眼前で展開している一幕の意味を悟った。
比嘉健は、自らの魂のコピーと会話をしているのだ。
「さあ、よく考え、思い出すんだ。お前の記憶は、フラクトライトのコピーを取るためにSTLに入ったところで途切れているはずだ」
『……それがどうした。当然だろう、スキャン中は意識がないんだから』
「STLに入る前に、お前は自分に言い聞かせた。もし、目覚めたとき周囲が暗黒で、体の感覚がなかったら、その時は冷静に受け入れなくてはならないと。――自分が、ライトキューブに保存された比嘉健のコピーだということを」
再び、ある種の海生生物のように、光が小さく縮こまった。長い静寂に続いて、弱々しく二、三本のトゲを伸ばす。
『……嘘だ、そんなことは有り得ない。俺はコピーじゃない、オリジナルの比嘉健だ。俺には……俺には記憶がある。幼稚園の頃から、大学、オーシャンタートルに乗るまでの詳細な記憶が……』
「そうだな、だがそれも当たり前のことだ。フラクトライトの保持する記憶もまたすべてコピーされたんだから。コピーとは言っても、お前が比嘉健であることは間違いない。なら、何者にも負けない知性を備えているはずだ。状況を冷静に受け入れるんだ。そして俺たちの共通の目的を達成するため、力を貸してくれ」
『…………俺たち……俺たちだって……?』
金属的なコピーの声に、生々しい感情の揺れを聞き取った瞬間、凛子の両腕が激しく粟立った。これほど残酷でグロテスクな"実験"を、凛子はこれまで見たことは無かった。
『……嫌だ……嫌だ、信じない。俺はオリジナルの比嘉健だ。これは何かのテストなんだろう? もういいよ、ここから出してくれ。菊さん……そこにいるんだろう? わるい冗談はやめて、俺を出してくれよ』
それを聞いた菊岡は、陰鬱な表情を浮かべながら身をかがめ、マイクに口を寄せた。
「……僕だ、比嘉君。いや……もうHG001と呼ばなければならない。残念だが、君がコピーバージョンだというのは本当のことなんだ。スキャンの前に、君は何度もカウンセリングを受け、僕や他の技術者と話し合い、自らがコピーであることを受け入れるための準備をしたはずだ。そしてそれが可能であるという確信を得てSTLに入ったはずだ」
『だが……だが、こんな……こんなものだとは誰も教えてくれなかった!』
コピーの激した絶叫が主操作室いっぱいに響いた。
『俺は……俺のままなんだ! コピーならコピーだと実感できてもいいじゃないか……こんな……こんなのは酷すぎる……嫌だ……出してくれ! 俺をここから出せよ!』
「落ち着け、冷静になるんだ。ライトキューブのエラー訂正機能は生体脳ほど高くない、論理的思考を失うとどうなるか、その危険性も君は知っているはずだ」
『俺は論理的だ! 比嘉健なんだぞ! 何なら、そこの偽物の比嘉と円周率の暗誦競争でもしてみるか!? そら、始めるぞ! 3.14159265、35897932、サンバチヨウログニーログヨディル、ディル、ディッディッディル、ディルディルディルディルディルディ――――――――――――』
赤い光が、スクリーン一杯に爆発したかのように広がり、中心部分から暗転して消え去った。ぶつっ、という音を残してスピーカーも沈黙した。
比嘉健は、とてつもなく長いため息をついたあと、コンソールのボタンを押しながら呟いた。
「崩壊しました。四分二十七秒」
うっ、というこもった声に、凛子はいつの間にか握り締めていた両手を開いた。掌が冷たい汗で濡れている。
見ると、明日奈が右手で口もとを押さえている。その様子に気付いた菊岡が、広いコンソールに幾つも備えられているキャスター付きの空き椅子を一脚、そっとこちらにスライドさせてきた。受け取め、真っ青な顔の明日奈をそこに座らせる。
「大丈夫?」
聞くと、少女は顔を上げ、気丈に頷いた。
「ええ……、すみません。もう平気です」
「無理しないで。少し目を閉じてたほうがいいわ」
手をかけた明日奈の肩からふうっと力が抜けるのを確認し、改めて菊岡の顔を睨みながら凛子は言った。
「……悪趣味にも程があるわね、菊岡さん」
「申し訳ない。だが、これは、直接観てもらう以外に説明は不可能だということも、もう分かってもらえたろう」
首を振りながら、自衛官は嘆息混じりに続ける。
「この比嘉君は、140近いIQを持つ天才だ。その彼のコピーにして、己がコピーであるという認識に耐えることが出来ないんだ。私を含め、十人以上の人間のフラクトライトを複製したのだが、結果は一緒だった。例外なく、三分程度で思考ロジックが暴走し、崩壊してしまう」
「俺、普段あんなふうに喚いたりすること一切ないんスよ。それは、凛子先輩なら知ってると思いますけど」
とてつもなくげんなりした顔の比嘉が言葉を繋いだ。
「これはもう、コピー元になった人間の知的能力や、ロードしたコピーに対するメンタルケアとかそういう問題じゃなくて、ライトキューブに丸ごとコピーしたフラクトライトの持つ構造的欠陥なんだと考えてます。あるいは……。――先輩は、脳共鳴って言葉、知ってます?」
「え? ……たしか、クローン技術に関係したことだったような気がするけど、詳しくは……」
「まぁ、オカルトもんのヨタ話なんですけどね。もし、オリジナルとまったく同一のクローン人間を作ることができたら、二人の脳から発生する磁気がマイク・ハウリングみたいに共鳴しあって、両方とも吹っ飛んじゃうって、そういう話っス。それは眉唾としても――もしかしたら、俺ら人間の意識は、自分がユニーク存在じゃないっていう認識には根源的に耐えることができないのかもしれません……おや、胡散臭そうな顔してますね。もしよかったら、凛子先輩もコピー取って試してみます?」
「絶対にお断りだわ」
怖気をふるいながら凛子は顔を背けた。主操作室に落ちた一瞬の沈黙を破ったのは、今まで椅子の上で瞼を閉じていた明日奈の細い声だった。
「……ユイちゃんが言ってました……あ、ユイちゃんていうのは、旧SAOサーバーで生まれたトップダウン型人工知能なんですけど……人間の意識とは構造からしてまったく違うはずのあの子でも、自分のコピーを取るのは恐ろしいそうです。もし、何らかの事故で凍結バックアップが解凍されて動き出したら、多分わたしたちは互いを消滅させるために戦わざるを得ないでしょう、って……」
「へえ、それは興味深いな。とても興味深い」
比嘉が眼鏡を押し上げながら身を乗り出した。
「今度ぜひ話をさせて欲しいな。うーん、そうか……やっぱり、完成された知性の複製は不可能ってことなんだろうな……あるいは、知性ってのはユニークであることが存在の大前提条件なのか……」
「でも、じゃあ……」
凛子は少し考えてから、両手を小さく広げながら菊岡に向かって言った。
「あなた達の研究は、まったく無駄だった、ってことなの? 幾らかかったのか知れないけど、公的資金でこれだけのものを作っておいて、何もかも失敗……?」
「いやいやいや」
菊岡は大きな苦笑を浮かべながら首と右手を同時に横に振った。
「もしそれが結論なら、今ごろ僕の首は成層圏まですっ飛んでるよ。僕だけじゃない……統合幕僚監部の偉いさんまとめて打ち首獄門だ」
またしてもラムネのチューブを掌の上で傾け、それが空だと知ると今度は他のポケットからキャラメルの箱を取り出して一粒くわえる。
「実のところ、このプロジェクトはそこが出発点なんだと言ってもいい。出来合いの魂のコピーは不可能だ、という、そこがね。……丸ごとコピーが無理なら、じゃあどうすればいいと思います、博士?」
「……私も頂戴していいかしら、それ」
菊岡が嬉しそうに差し出すキャラメルを左手で受け取り、包み紙を剥いて含むと、甘酸っぱいヨーグルトの味が広がった。アメリカでは中々味わえないフレーバーだ。糖分が疲れた脳に染み渡っていくのを感じながら、考えを整理する。
「……記憶を制限すればどうなの? 例えば……名前や生い立ちといった個人的な記憶を削除する。自分が誰だか分からなければ、さっきみたいな急激なパニックは起こらないんじゃないかしら……」
「さすが先輩、よく即座にそこまで出てくるっスね」
大学時代に戻ったような口調で比嘉が言った。
「僕らも、一週間あれこれ考えた挙句ようやくそれを思いついて、実行してみました。ただ、ね……フラクトライトの量子ビット・データというのは、ウインドウズの階層フォルダみたいに整然と保存されてるわけじゃないんス。簡単に言えば、記憶と能力は表裏一体なんですよ。考えてみれば当然で、我々の能力ってのは最初っからインストールされてるわけじゃなくて、全て学習の結果なんです。学習とはつまり記憶ですよ。初めてハサミで紙を切ったときの記憶を消せば、ハサミの使い方も忘れてしまう……言い換えれば、成長過程の記憶を削除すれば、関連した能力もごっそり消えていく。出来上がったものの悲惨さは、さっきのフルコピーの比じゃあないっスよ。一応、見てみます?」
「い……いえ、結構」
凛子は慌ててかぶりをふった。
「なら……もう、記憶も能力も何もかも消去して、改めて最初から学習させたら? いえ……それも現実的じゃないわね。時間が掛かりすぎる……」
「ええ、その通りです。そもそも、言語や計算といった基本的能力は、我々大人の発達しきってしまったアタマに学習させることは非常に困難なんス。俺もずっと韓国語を勉強中なんですけどね、あれだけシステマチックな言語でももう何年やってるか……。結局、学習というのは脳神経ネットワークっていう量子コンピュータ回路の発達過程と同期してないと効率が悪すぎるんです」
「じゃあ、記憶……つまりデータ領域だけじゃなくて、思考、ロジック領域も制限するの? STLっていうのは、そんなことまで可能なの……?」
「やれば不可能ではないでしょう。ただ、途方も無い時間をかけてフラクトライトを解析し、百億キュービットのどこが何を受け持っているということを完全に突き止める必要があります。何年……何十年かかるか知れたもんじゃないっスよ。でもね……もっとシンプルでスマートな方法があることを、このオッサンが思いついたんです。俺ら科学者には多分思いつけない方法をね……」
凛子は瞬きして、コンソールに尻を乗せたままの菊岡の顔を見た。相変わらずその表情は穏やかで、それでいてこの人間の内面性を見透かすことを拒否している。
「え……? シンプルな方法……?」
首を捻るが、さっぱり分からない。降参して尋ねようとしたとき、少し離れた椅子で休んでいた明日奈が、がたん、と音を立てて立ち上がった。
「まさか……まさか、あなた達、そんな恐ろしいことを……」
相変わらず頬は蒼ざめているが、目には力強い光が戻ってきている。日本人離れした美貌に強い憤りを浮かべながら、明日奈はキッと自衛官を睨みつけた。
「……赤ちゃんの……生まれたばかりの赤ちゃんの魂をコピーしたのね? 何も知らない、無垢なフラクトライトを手に入れるために」
「いよいよ、驚くべき洞察力だね。もっとも、キリト君と二人でSAOをクリアした……つまり、かの茅場晶彦をも出し抜いた勇者なんだから、こんな言い方は失礼というものかな」
賛嘆の色を隠そうともせず、菊岡が微笑む。
思いがけないところで茅場の名前を聞いたことで、凛子の胸の奥はずきんと疼いた。知り合ってからのたった数日のうちに、結城明日奈に対しては非常な好感を抱くに至っている凛子だが、厳密に言えば明日奈は凛子を大いに糾弾し、罵り、断罪してよい立場なのだ。様々な事情があったにせよ、凛子は茅場晶彦の恐ろしい計画に協力し、その結果明日奈は残酷なデスゲームのなかに二年間も囚われることになったのだから。
だが、明日奈も、そしてずっと以前に会った桐ヶ谷和人も、一言たりとも凛子を責めようとはしなかった。まるで、すべては起こるべく決められていたことだったのだ、と言わんがばかりに。
ならば明日奈は、この一連の"ラース事件"もまた必然だと考えているのだろうか? ――思わずそう考えながら、じっと見守る凛子の視線の先で、明日奈はさらに一歩菊岡に詰め寄った。
「あなたは……自衛隊なら、国なら何をしてもいいと思っているの? 自分の目的がすべてに優先するとでも?」
「とんでもない」
菊岡は本気で傷ついたような顔をし、盛んに首を横に振った。
「確かにキリト君を拉致したことはやりすぎだった。しかしあの時点で、君やキリト君のご家族に機密を洗いざらい説明することはできなかったんだ。一刻も早く、ここのSTLでキリト君の治療をしたいがための非常手段だったんだよ。僕も彼のことが好きだからね。――それ以外の点では、僕は法と道徳を守りすぎるほど守っていると思うよ……現在、世界で同種の研究を行っているいくつかの企業や国家に比べれば。今、君が問題にしている点に関してもそうだ。STLによる新生児フラクトライトのスキャンを行うにあたっては、当然両親の承諾を得、充分な謝礼を支払ったよ。そもそも六本木の開発分室は、そのために作られたんだ……病院の隣にね」
「でも、赤ちゃんの両親には、洗いざらい説明したわけじゃないんでしょう? STLがどんな機械なのか」
「ああ……それは確かに、脳波のサンプルを取る、としか言えなかったが……しかし、まるで出鱈目でもないよ。フラクトライトは、脳内の電磁波であることには違いないんだから」
「詭弁だわ。それは、それと知らせずに赤ちゃんのDNAを採取して、そこからクローン人間を作るようなものでしょう」
不意に、やり取りをだまって聞いていた比嘉が、短い笑い声を上げた。
「分が悪いッスよ、菊さん。確かに、新生児のフラクトライトを秘密裏にコピーしたことには一定量の倫理的問題はあると俺も思うよ。でも……結城さんだっけ? 君の理解にも少々誤謬があるかな。フラクトライトというのは、遺伝子ほどには個人による差が無いんスよ。特に、生まれたばっかりの時はね」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、言葉を探すように目を泳がせる。
「そうだな……こう説明すればいいかなぁ。例えば、メーカー製の同モデルのパソコンは、出荷されるときには、性能も外見もまったく同一の個体ッスよね。でも、ユーザーの手に渡り、半年、一年と使用されるうちに、新しいハードウェアやソフトウェアをインストールされていって、やがてまったく別物と言っていいくらいに変わってしまう。人間のフラクトライトもそれと同じなんス。俺たちは、最終的に十二人の赤ん坊からフラクトライトをコピーしたんスけど、比較したところ、大脳の容積にかかわらず、なんと99.98%まではまったく同一の構造でした。0.02%の違いは、胎内と出産直後に蓄積した記憶だと考えてます。つまり、人間の思考能力や性格ってのは、全部生まれたあとの成長過程で決定されるってことッス。能力性格が遺伝するって説は完全に否定されたわけッスね。優生学の信奉者連中のケツの穴に、この事実を片っ端から突っ込んでやりたいッスよ」
「プロジェクト完了の暁には、好きなだけ突っ込みたまえ」
どこか疲れたような顔で菊岡が言った。
「ともかく、比嘉君が説明してくれたとおり、新生児フラクトライトには個人を特定するコードは含まれていないという結論となった。そこで、十二のサンプルから0.02%の差異を慎重に削除して、得られたそれを、僕らはこう呼ぶことにした……"思考原体"とね。全ての人間が共通して生まれ持つCPUコア、とでも考えてくれればいいかな。僕ら人間は、成長する過程でそのコアに、様々なサブプロセッサやメモリを増設していく。そしてやがてはコアそのものの構造も変化していってしまう……。その"完成品"を単にライトキューブにコピーしただけでは、我々の求める高適応性人工知能足りえないことは先ほどお見せした通りだ。ならば、思考原体を最初からライトキューブ中……つまり仮想世界内で成長させればどうだろう、と考えた訳なのさ」
「でも……」
まだ納得できないような顔で明日奈は眉をしかめたが、その肩に手を掛けてそっと椅子に座らせ、凛子は口を挟んだ。
「成長させる、って言ってもペットや植物とは訳が違うでしょう。人間の赤ちゃんと同じなんでしょ、その思考原体って。なら、必要とされる仮想世界の規模は膨大なものになるはずよ。現実社会と、まったく同じレベルのシミュレーション……そんなものが作れるの?」
「不可能だね」
菊岡が、溜息まじりに頷いた。
「いくらSTLによる仮想世界の生成が、既存のVRワールドと違って3Dオブジェクトデータを必要としないと言っても、さすがにこの複雑怪奇な現代社会をそっくり作り上げることは難しい。――明日奈君が生まれた頃の映画に、こんな奴があったんだけど覚えているかな? 一人の男の、生まれた瞬間からの人生の全てをテレビショーとして放送するべく、巨大なドームの中に一つの町のセットをまるごと建て、何百人ものエキストラを配置して、そうと知らないのは主役の男だけ……という状況を作り上げる。だが、男が成長し、世界というものを学ぶに伴って、様々な齟齬が露見し、やがて男も真実に気付く……」
「観たわ。けっこう好きな映画だった」
凛子が言うと、菊岡はひとつ頷き、続けた。
「つまり……この現実世界の精巧なシミュレーションを作ろうとすれば、それが必然的に含む情報自体……地球は巨大な球体であるとか、その上には沢山の国が存在するとか、そういう知識が、シミュレーション内の人間に世界に対する違和感を生じさせてしまうというアンビバレンツがあるんだ。いくらSTLでも、地球を丸ごと複製するなんてことはとても無理だからね」
「じゃあ、シミュレーションの文明レベルを大きく過去に遡らせたら? 人間が、科学だの哲学だのと考え出す前の、一つの地方だけで生まれて死んでいった頃の時代に……。それでも、思考原体を成長させるっていうあなた達の目的は達せられるんじゃないの?」
「うん。迂遠な話ではあるが、時間はたっぷりあるんでね……STLの中では。とりあえず、神代博士の仰るとおり、非常に限定的な環境の中で第一世代の人工知能を育ててみようと僕らは考えた。具体的には、十六世紀ごろの日本の小村だね。だが……」
そこで言葉を切り、手を広げながら肩をすくめる菊岡に代わって、比嘉が口を開いた。
「これが、思ったほど簡単な話じゃないんスよ。何せ俺らは、当時の習俗やら社会構造についてまるで門外漢なんスから。家一つ作るにも膨大な資料が必要だってことが分かって、頭を抱えて……そこでようやく気付いたんス。別に、本物の中世を再現する必要なんか無い、ってことにね。俺らが求めていた、限定的な地勢で、習俗なんかも好き勝手に設定できて、厄介な科学的問題なんかは丸ごと"魔法"の一言で片付けられる世界は、実はもう山ほど存在したんスよ。そこの結城さんや桐ヶ谷君が慣れ親しんでいるネットワークの中にね」
「VRMMOワールド……」
掠れた声で呟いた明日奈に向かって、比嘉はぱちんと指を鳴らした。
「俺も実はそこそこ遊んでたもんで、すぐにあれこそ打ってつけだと分かったッスよ。しかも、誰が作ったのかは知らないけど、最近じゃあフリーのゲームビルド支援パッケージまであるって言うじゃないスか」
「……!」
比嘉の言っているのが、『ザ・シード』、つまり茅場晶彦が作り、桐ヶ谷和人が公開したシュリンク版カーディナル・システムのことであるとすぐに気付き、凛子は鋭く息を吸い込んだ。だが、どうやら比嘉は――そして菊岡も、あのプログラムの出自についてまでは知らないらしい。
瞬間的に、その件はまだ伏せておこうと考え、凛子は何気なさを装って明日奈の肩に指を触れさせた。言いたいことは伝わったようで、明日奈も無言のままかすかに頭を動かす。
そんな二人の様子は気にもとめず、比嘉は闊達な口調で続けた。
「STLのメインフレーム内に仮想世界を作るだけなら別に3Dデータは要らないんスけど、それだと外部からモニタ出来るのが単なる文字データだけなんでつまんないんスよね。そこで、早速あのザ・シードって奴をダウンロードしてきて、付属エディタでちょこちょこっと小さな村と周囲の地形を作って、それをSTL用のニーモニック・ビジュアルに変換したんス」
「紆余曲折を経て、ようやく最初の箱庭が完成したというわけだ」
まるで遠い過去を懐かしむように視線を宙に浮かせながら、菊岡が言葉を繋いだ。
「一番最初に作った村では、二つの農家で合わせて十六の思考原体を十八歳程度まで成長させた」
「ちょ、ちょっと待って。成長って……育てた親は誰なのよ? まさか既存のAIだとでも言うの?」
「それも検討したんだが、いかにザ・シード付属のNPC用AIが高度と言っても、さすがに子育てまでは到底不可能だったんでね。第一世代の親を務めたのは人間さ。四人の男女スタッフが、STL内部で十八年間に渡って農家の主とその妻を演じたんだ。いかに内部での記憶は最終的にブロックされると言っても、実験中は途方も無い忍耐を強いてしまった。ボーナスを幾ら払っても足りないくらいだよ」
「いやぁ、案外楽しんでやってたみたいっスよ」
呑気な会話を交わす菊岡と比嘉の顔をしばし呆然と眺めたあと、凛子はどうにか言葉を唇から押し出した。
「十八年ですって……? ソウル・トランスレーターには主観的時間を加速させる機能があるとは聞いたけど……それは、現実世界ではどれくらいの期間だったの?」
「ざっと一週間ッスかね」
即座に帰ってきた言葉に、再び驚愕させられる。十八年と言えばおよそ九百四十週だ。つまり、STLの時間加速倍率は千倍という凄まじい数字に迫っていることになる。
「に……人間の脳を普段の千倍も速く動かして、問題は出ないわけ?」
「STLが駆動するのは、生体としての脳じゃなくて、魂を構成する素粒子そのものなんスよ。電気的スパイクがニューロンに神経伝達物質の発生を促して……とかそういう生理的プロセスは全部すっとばせるんス。つまり、理論的には、思考クロックをどれだけ加速しても脳組織が損傷することは有り得ないと考えていいんです」
「上限が無いって言うわけ……?」
ソウル・トランスレーターの時間加速機能"STRA"について、事前に受け取っていた資料で簡単な予備知識は仕入れていたものの、具体的な数字までは知らなかった凛子は言葉もなく立ち尽くした。今まで、STL最大の機能は人の魂をコピーできることだと思っていたが、インパクトは時間加速も負けず劣らず大きい。なぜならそれは、仮想空間で行うことが可能なあらゆる作業の効率を事実上無限に引き上げられるということに他ならないからだ。
「ただ……まだ未確認の問題が無いでもないので、今のところは最大でも千五百倍ほどに制限してるんスけどね」
衝撃に痺れた凛子の頭を、やや陰鬱な表情の比嘉の言葉が冷やした。
「問題?」
「生体組織としての脳とは別に、魂自体にも寿命があるんじゃないかっていう意見が出てまして……」