第四章
十字の窓枠を持つ窓のむこうに、四分割された青白い満月が見える。
アルヴヘイム南西部、シルフ領首都スイルベーンは重い夜の帳に包まれ、殆どの商店は鎧戸を下ろし灯りを消している。メインストリートを往来するプレイヤーの数さえもごく少ないのは、いまが現実時間の午前四時、接続者数が一日でもっとも減少するタイムゾーンだからだ。
アスナは右手を伸ばすと、湯気を立てるカップを取り上げ、濃いお茶を大きくひとくち飲み下した。眠気は感じないが、ここ三日まとまった睡眠を取っていないせいで頭の芯がわずかに重い。目を瞑り、軽く頭を振っていると、隣に座る黄緑の髪の少女が気遣わしそうに言った。
「大丈夫ですか、アスナさん? あんまり寝てないんでしょう?」
「ううん、わたしは平気。リーファちゃんこそ、あちこち飛び回って疲れてるでしょう」
「現実の体はいまベッドの上でしっかり休んでますから、大丈夫ですよ」
互いの声の端に、隠せない憔悴が滲んでいるのに気付き、顔を見合わせて小さな苦笑を交わす。
桐ヶ谷直葉のALO内キャラクター、リーファが所有するプレイヤーホームの一室である。貝殻に似た光沢を持つ建材で造られた円形の部屋は、微妙に色彩を変え続けるランプで控えめに照らされ、どこか幻想的な雰囲気を醸している。中央にはパールホワイトのテーブルと四脚の椅子が設えられ、今はうち三つが埋まっている。
二人の会話を聞き、アスナの向かいに腰掛けた青い髪の少女が、両手の指をテーブルの上で組み合わせながら口を開いた。
「無理すると、頭も働かなくなるわよ。眠れなくても、目を閉じて横になってるだけで大分違うわ」
落ち着いたその声の主は、ALOダイブ用に作成したアカウントでダイブ中の朝田詩乃だ。キャラクターネームもGGOと同じくシノンである。アスナは視線を上げ、こくりと頷いた。
「うん……ミーティングが終わったら、ここのベッドを借りてそうさせて貰うわ。ほんと、催眠魔法がプレイヤーにも効けばいいのにね」
「あたしなんか、条件反射なのか最近は、あの魔法の効果音聞くとなんだか眠くなりますけどね……。もっとも今は無理でしょうけど」
肩をすくめながらそう言うと、リーファは手に持っていたカップを置いて表情を改め、続けた。
「さて、それじゃまずは昨日調べたことの報告から始めましょう。結論から言うと、国際中央病院にお兄ちゃんが搬入された形跡はありません。書類上の記録も一切存在しないし、スタッフでお兄ちゃんを見たという人もいませんでした。病室も、入れる範囲で全て見て回ったんですが……」
その先は、かぶりを振ることで言葉に代える。つかの間、部屋に重い沈黙が落ちた。
リーファの兄である桐ヶ谷和人が、死銃事件の逃亡犯金本某に襲撃され倒れたのはほんの四日前のことだ。だが、その四日の間に、事態は誰も想像しなかった方向へと急転していた。
和人は、意識不明のまま突如失踪してしまったのである。
アスナの家からほど近い東京都世田谷区宮坂の路上で、金本によって劇物サクシニルコリンを注射された和人は、急速に筋肉を麻痺させる薬の作用によって呼吸停止に陥った。救急車内で人工呼吸が施されたものの、酸素の供給が途絶えた心臓までもやがて停止し、近隣の世田谷総合病院に運び込まれた時点ですでにDOA――到着時死亡と分類される状態だったのだ。
ERの当番医師の腕が良かったのか、和人の生命力が強靭だったのか、あるいは二人ともにその日の運勢が最良だったのか、救命措置の結果かろうじて心拍が戻り、薬物が分解されるに伴って自発呼吸も再開して、奇跡的に和人は死地を脱した。処置を終えて現われた医師にそれを聞いた明日奈は、安堵のあまり失神しそうになったのだが、続いた言葉がそれを許さなかった。
和人の心停止は五分強に及び、その結果脳に何らかのダメージが発生した可能性がある、と医師は告げた。思考能力または運動能力、ことによるとその両方に恒久的な障害が残ることは充分考えられ、最悪の場合はこのまま目を覚まさないかもしれない――、と。
詳しいことはMRIによる検査を行わないと何とも言えないので、早急にもっと設備の整った病院に移したい、と医師は締めくくり、明日奈は再度襲ってきた不安感と戦いながら和人の妹である直葉に連絡を取って、どうにか事情を説明した。結局、駆けつけた直葉の顔を見た途端また大泣きしてしまったのだが。
やがて取材先から直行してきた和人の母・翠とともに、その夜はICU前のベンチで明かした。翌水曜朝、担当医にもう危険な状態は脱しましたからと説得されて、明日奈と直葉は病院から程近い明日奈の家に、翠は健康保険証などの用意のために川越の自宅に一時戻ることになった。
交替でシャワーを使い、それぞれの学校に欠席の連絡を入れてから、無理にでも仮眠しようと二人はベッドに横になった。ぽつぽつと言葉を交わすうちに数時間うとうととまどろみ、午後一時ごろ、明日奈は翠からの電話で目を覚ました。飛びついた携帯の向こうで、翠は、残念ながら和人の意識はまだ戻らないけれど、精密検査のために脳外科に定評のある港区の国際中央病院に移すことになった、と告げた。これから救急車が来て和人を搬送し、自分は退院手続きを済ませ次第タクシーで移動する、と言う翠に、私達もすぐに新しい病院に向かいますと明日奈は答えた。
昏睡状態の和人は、確かに水曜日の午後一時四十分前後、緊急搬出入口より救急車に乗せられ世田谷総合病院を出ている。これは、病院の防犯カメラにもはっきりと映像で記録されている。
しかし、その救急車は、国際中央病院には現われなかった。消防庁の出動記録上に存在しない謎の救急車は、和人を乗せたまま、六月末の煙るような小糠雨に溶けて消えてしまったのだ……。
リーファの言葉をしばらく吟味してから、アスナはひとつ頷き、言った。
「なら、これでもう、患者の取り違えみたいな偶発的事故の可能性は完全に排除してよさそうね。元の病院にも、受け入れ先にも、それどころか東京23区内の中規模以上の病院のどこにも居ないんだから」
「世田谷から芝公園に行く道のどこかで救急車が事故を起こして、それに誰も気付かなかった、なんてことは有り得ないしね」
背もたれに体を預け、胸の上で腕を組んだ格好のシノンが、現実の彼女とよく似たややハスキーな声で続けた。
「――そもそも、二十三区内であの時間に世田谷総合病院に出動した救急車は一台も存在しない、っていうんだからこれはやっぱり周到に仕組まれた拉致なんだと思う。問題の救急車とそれに乗ってた救急隊員は、キリトを攫うための偽装だった……」
「でも……隊員のユニフォームはともかく、救急車をでっち上げるなんてそんな簡単にできるものなのかしら」
アスナが首をかしげると、リーファの声が割って入った。
「車に詳しい知り合いにそれとなく聞いてみたんですけど、病院関係者まで騙されるようなものを造るのは相当に難しいしお金も時間もかかるそうですよ。つまり……お兄ちゃんがあの日あの場所で金本に襲われて、世田谷総合病院に入院するなんて予測できた人がいるはずないし、失踪事件は入院のたった十八時間後なわけで……」
「キリト君が倒れたのを知ってから準備するのはほとんど不可能、ってことね」
アスナのその言葉がテーブルに落ち、しばし訪れた沈黙の中かすかな残響を残して消えた。
「でも……となると、どういうこと……? キリトが攫われたのはあくまで偶然で、誰でもいいから偽装救急車で患者を誘拐しようと計画してた奴がいた、ってこと?」
眉をしかめてシノンがそう呟く。しかしその推測も、ゆっくり横に振られるリーファの黄緑色のポニーテールに退けられた。
「ところが、それも無さそうなんです。ふつう、患者を搬送するときは、病院から管区の救急指令センターに救急車を要請する電話を入れるんですが、あの日は誰もその電話をしていないのに問題の偽救急車がぴったりのタイミングで現われたんですね。で、病院の人はみんな、自分以外の誰かが要請したんだと思っちゃったわけです。ところが、その救急車に乗ってた偽の救急隊員は、行き先の病院も、それどころかお兄ちゃんの名前も知ってたんですよ。最初に応対した看護師さんがそれは間違いないと言っています」
「……じゃあ、やっぱり最初からキリトを狙った、計画的犯罪なわけだ。つまり……犯人は、キリトが入院した途端その情報を入手できて、その上偽の救急車と救急隊員を一日足らずで用意できるような奴……」
「この際、もう、敵と呼ばせてもらうわ。大きくて強力な敵」
アスナが断固とした響きのある声でそう言うと、シノンはぱちくりと瞬きし、次いでごくかすかに笑みを滲ませた。
「私……今日ここに来るまで、二人がすごく落ち込んでるだろうって、結構心配してたんだけどな……。リーファにとっては勿論大事なお兄さんだし、アスナにとってはその、まあ、彼氏ってわけで……その人が意識不明の上に失踪しちゃったんだから……」
思いがけないことを言われて、アスナが、そう言えばわたし思ったより打ちのめされてないな、キリト君が倒れた夜はあんなに泣いたのに……と内心で少し不思議に思っていると、リーファが両手を胸の前でぎゅっと握りながら口を開いた。
「そりゃ……やっぱり心配です。でも、あたし、お兄ちゃんが行方不明になったことは、前向きに考えようと思ったんです。……だって、こんな無茶苦茶な状況で失踪しちゃうからには、お兄ちゃんまた何かとんでもない事件に巻き込まれてるわけですよね。で、そういう時のお兄ちゃんは、絶対あたしの想像もつかない場所で大暴れしてるに決まってるんです。SAO事件のときも、死銃事件のときだってそうだった……だから、今度もきっと……」
「そう……その通りね」
やっぱり、長年一緒に暮らしてきた妹には敵わないなあ、と胸の中で呟きながらアスナは大きく頷いた。
「キリト君は、きっとどこかでいつもみたいに戦ってる。だから、わたし達も、わたし達にできる戦いをしよう」
それはそうと、とシノンをちらりと横目で見て続ける。
「シノのんもあんま落ち込んでるようには見えないよねー?」
「え……そりゃまあ……私の場合はほら、アイツを倒せるのは私だけだって信じてるから……」
ごにょごにょ、と語尾を飲み込むシノンと互いに微妙な視線を一瞬打ち合わせてから、アスナは話題を戻した。
「ともかく……敵の規模は相当に大きい、ってことだわ」
「警察はどうだったの? 昨日翠さんと一緒に行ったんでしょ?」
「もう、話を信じてもらうのさえすごい大変だったわ」
アスナは顔をしかめて答えた。
「最初は、そんな誘拐は有り得ない、何かの間違いだろうの一点張りで……。パニック状態の世田谷病院に電話してもらって、ようやく事件として捜査してくれることになったんだけど、正直どこをどう捜していいのか見当もつかない、って顔してたわ」
「まあ、それでも人手と設備は持ってるからね、警察って。キリトが言ってたけど、東京にはNシステムっていう、どの車がどこを通ったかぜんぶチェックする仕組みがあるんだって。偽救急車のほうはそれでかなり追跡できるんじゃないかな」
「だといいけど……」
警察の窓口で散々無駄な時間を費やす破目になったアスナは、まだ疑わしい気持ちで首を傾げたが、三人のなかで最年少のリーファがしっかりした口調で言った。
「でも、あたし達には大掛かりな聞き込みとか科学捜査とかはできないわけですから、そういうのは警察に任せるしかないですよ。あたし達にあるカードは、たったひとつ、お兄ちゃんのことをよく知ってる、っていうそれだけなんです」
「うん……そうだね。キリト君のこと……最初から敵のターゲットがキリト君だったとして、その動機は何なんだろ……」
「こう言っちゃなんだけど、身代金目的ならアスナを攫うだろうし……。犯人からの連絡は無いのよね?」
シノンの問いに、リーファがかぶりを振る。
「電話も、メールも、手紙類も一切ありません。そもそも、営利誘拐にしては大掛かりすぎますよ。大金をかけて、救急車まででっち上げて病院から拉致する意味が無いっていうか……」
「それもそうか……。じゃあ……あんまり考えたくないけど、怨恨とか……? キリトを恨んでそうな相手、心当りある……?」
今度は、アスナがゆっくり首を横に振った。
「そりゃ、SAOの生還者の中には、キリト君に牢屋に叩き込まれたりして恨んだり、ゲームクリアしたことを妬んでる人はいると思う。でも、こんなことができる資金力と組織力がある相手って言うと……」
アスナの脳裏にちらりと、かつてSAOプレイヤーの脳を実験台におぞましい研究を行い、野望半ばにしてキリトの手で警察に引き渡された須郷伸之の顔が浮かんだが、あの男はまだ拘置所の塀の向こうだ。海外逃亡の準備をしていたことが祟って保釈も却下されている。
「……ううん、ここまでするほどの人間は思い当たらないわ」
「お金でも、恨みでもない、か……」
シノンは唸りながらしばし顔を伏せていたが、やがて右手の中指で眉間のあたりを押さえながら、自信なさそうに口を開いた。
「……あのさ……まったく根拠の無い想像なんだけど……」
「……つまり、この敵は、どうしてもキリトが今すぐに必要だった、ってことになるよね。細かく言えば、キリトという人間に属する何かが、かな。アイツの持ってるもの……ゲーム用語を使えば属性、ってどんなのが思い浮かぶ?」
「剣の腕」
アスナは考えるまでもなく反射的にそう答えた。目を閉じキリトの姿を思い描くとき、真っ先に浮かぶのは常に、黒衣をまとい二刀を手に敵を暴風のごとく斬り伏せていく旧SAO時代の彼だからだ。ALOで共に旅をした妹もそのイメージは同様のようで、間髪入れずに続ける。
「反射スピードですね」
「システムへの適応力」
「状況判断力」
「サバイバビリティ……あ」
リーファと交互にそこまで列挙したアスナは、あることに気付いて口をつぐんだ。意を得たり、といふうにシノンが頷く。
「ね。それって全部、VRMMO……仮想世界内の話でしょう」
ずばり言われて、アスナは抵抗するように小さく苦笑いした。
「や、現実のキリト君にもいいとこはいっぱいあるよー」
「そりゃいいとこはあるよ、ご飯おごってくれたりさ。でも、私たち以外から見れば、現実のアイツはこう言っちゃなんだけどどこにでもいる普通の男の子でしょう、高校生の今はまだ、ね。つまり、敵が今、こんな無茶な工作をしてまで欲しがったのは、キリトの仮想世界内における突出した能力だった、ってことにならない?」
「まさか……何かのVRゲームをクリアさせようとでもう言うんでしょうか……。でも、お兄ちゃんは、今意識不明状態なんですよ。治療も、検査すらしてないのに、そんな状態で攫っても何もできないんじゃ……」
あらためてキリトの体調を心配する表情で、リーファが唇を噛む。シノンは、テーブルに落としたスチールブルーの瞳を、標的を狙撃する時のように鋭く細め、ゆっくりといらえた。
「意識不明……って言っても、それは外から見た話だよね。もし、脳じゃなく、魂そのものにアクセスできるマシンを使えば……」
「あっ……」
何でいままでそれに思い当たらなかったのか、と愕然としながら、アスナは鋭く息を飲んだ。
「ね、私達、たった一つだけ該当する相手に心当りがあるはずでしょ。魂に接続するっていう、世界でそこにしかないマシンを持っていて、しかもまさに今キリトをパイロットにした仮想世界内テストを継続中だっていう組織……。確実な根拠のない想像だけど、でも……」
「……キリト君を拉致したのは、ソウル・トランスレーターの開発企業ラース……。確かに……そんなとんでもない機械を開発できるくらいの相手なら、救急車をでっち上げるくらいの工作は可能かも……」
「ラース……って、お兄ちゃんが最近バイトしてた会社ですか?」
リーファの言葉に、アスナとシノンはさっと顔を上げた。
「リーファちゃん、ラースのこと知ってるの!?」
「あ、いえ、詳しいことは……。ただ、会社の場所が六本木のへん、とは聞いてます」
「六本木……って言っても広いなぁ。でも、そのどこかにラースの研究所があって、キリトがそこにいるかもしれない、っていう情報を警察に伝えれば……うぅん、根拠がちょっと弱いかなあ……」
唇を噛むシノンと、不安そうに目を伏せるリーファに向かって、アスナはためらいながら口を開いた。
「……あのね、結果が出るまでは、と思っていままで言わなかったけど、実はキリト君に繋がってるかもしれない細い糸が一本だけあるの。でも、途中で切れてる可能性がほとんどなんだけど……」
「……どういうこと、アスナ?」
「シノのんにはこのあいだ説明したよね。これ」
アスナは右手の指先で、自分の左胸を突付いた。
「あ、そうか……例の心拍モニターね。あれは……確か、ネット経由でアスナの端末に情報を送ってる……」
「もうずっと信号が途絶えたまんまなんだけど、もしかしてキリト君が偽救急車で運ばれる途中の経路情報をさかのぼって追跡できれば、ある程度場所の特定ができるかもしれない、って今解析をお願いしてるところなの」
「……誰に?」
答えるかわりに、アスナは視線をすっと中空に向け、名前を呼んだ。
「ユイちゃん、どう?」
一秒ほどの静寂のあと、テーブルの上五十センチくらいの空間にきらきらと光の粒が現われ、凝集して小さな人の形を取った。光は一瞬だけその輝きを強め、すぐに消滅する。
現われたのは、身長十五センチくらいの幼い少女だった。長い黒髪に白いワンピース姿、背中には四枚の虹色に光る翅が伸び、細かく震えている。少女――妖精は、閉じていた長い睫毛を上げ、くるりとした愛らしい瞳でまずアスナを、次いでリーファとシノンを眺めた。シノンを初対面の人物と判断したようで、ふわりと上体を屈めてお辞儀をする。
「へええ……この子が、うわさのキリトとアスナの"娘"ね」
「ユイです、はじめまして、シノンさん。おはようございます、リーファさん、ママ」
旧SAO内のプレイヤー・カウンセリング用AIをその出自とする人工知能ユイは、銀糸を爪弾くような声で挨拶すると、再びアスナに向き直った。
「パパのハートレート・モニター装置からママの携帯端末IPに向けて発信されたパケットの追跡は、約九十八%終了しました」
「そのパケットが六本木周辺の公共LANスポットから発信されてれば、私達の仮説もずいぶん信憑性を増す……ってわけね」
シノンの言葉に、アスナは大きく頷いた。リーファも含め、三人の期待のこもった視線がユイに集まる。
「それでは、現時点での解析結果をお伝えします。NTTの携帯端末用基地局と違って、現在の公共LANスポットは移動中の接続をサポートしないので、残念ながら特定できた発信元は三箇所だけでした」
ユイが言葉を切り、さっと右手を振ると、テーブルの上、浮かぶユイの素足の下に水色のホログラムで東京都心の詳細な地図が表示された。ユイは翅の振動を止めて地図の上に着地し、とことこと数歩あるいて地図の一点を指差す。ポン、という音とともに赤い光点が点る。
「ここが、パパの入院していた世田谷総合病院です。そして、第一の発信元は、ここです」
さらに数歩移動して新たな光点を点す。
「目黒区青葉台三丁目、時間は二○一六年六月二十一日午後一時五十分前後。予測移動経路を表示します」
二つの光点を結ぶ道路上に、白い光のラインが伸びる。ユイは再度南西に足を進め、三つ目の光点を表示させた。ラインも追随して長さを増す。
「第二の発信元、港区白金台一丁目、同日午後二時十分前後」
世田谷から六本木に向かうにしてはコースが南すぎるかな、とアスナは少し不安に思ったが、口をつぐんだままユイの言葉を待った。
「そして……第三の発信元が、ここです」
三人の期待を大きく裏切り――ユイが示したのは、六本木の遥か東、臨海部の埋立地だった。
「江東区新木場四丁目、同日午後二時五十分前後です。ここを最後に、パパからの信号は現在まで約八十六時間に渡って途絶しています」
「新木場……!?」
アスナは思わず絶句したが、しかし考えてみると、あの辺の新開発地区には新興の巨大インテリジェントビルが林立している。その中に、ラースの第二の支部が存在するという可能性もあるのではないか。
「ユイちゃん……そのLANスポットが設置されてるのは、どういう施設の中なの?」
動悸が速まるのを感じながらそう尋ねたが、返ってきた答えは、アスナの予想を更に裏切るものだった。
「この地番に存在する施設は、"東京ヘリポート"という名称です」
「え……それって、ヘリコプターの発着基地じゃないの」
シノンが唖然とした表情で呟いた。リーファも、さっと顔色を変える。
「ヘリコプター!? ……じゃあ……お兄ちゃんは、そこから更に遠くに運ばれた……ってことですか?」
「でも……待って」
アスナは、混乱する頭の中を懸命に整理しながら言った。
「ユイちゃん、その新木場からの発信以降、信号は一切届いていないのよね?」
「はい……」
そこで初めて、妖精のように整ったユイの白い顔が、沈鬱な表情を浮かべた。
「日本国内のすべての公共LANスポットに、パパのモニター装置が接続された形跡はありません」
「ということは……着陸したのは、公共LANの電波が届かないような山奥とか……原野ってことですか……?」
リーファの言葉に、シノンがかぶりを振る。
「たとえどこに着陸しても、最終的には何らかの施設に運び込む必要があるはずよ。最先端のベンチャー企業の入る施設に、今時LANスポットが無いなんてことは考えられない。今現在キリトが電波遮断区画に居るとしても、どこかで一度はLANに接続してていいはず……」
「日本じゃない……? 外国……なの……?」
アスナの細く震える声に、即座に答えられる者は居なかった。
短い沈黙を破ったのは、ユイの、あどけなさと落ち着きの同居する声だった。
「東京から無着陸で国外に到達できるほどの航続距離を持つヘリコプターは一部の軍用機を除き存在しません。現時点ではデータが少なすぎるので確定的なことは言えませんが、パパはまだ国内のどこかに居るとわたしは考えます」
「そうね。ラースが進めている研究は、今の仮想空間技術をひっくり返すようなものでしょう? 企業にとっては最大級の秘密なわけで、その研究施設を外国に置くみたいなことはちょっと考えにくいにね」
シノンのその言葉に、アスナも頷いた。アスナの父親が率いる総合エレクトロニクスメーカー・レクトも企業スパイの跳梁には頭を痛めており、重要な研究開発はすべて奥多摩の山奥に存在する、厳重に警備された研究所で行われていると聞いている。海外にも多くの拠点を構えてはいるが、やはり情報漏洩の発生率は国内と比べて明らかに高いようだ。
考え込む表情で、リーファが俯いたまま呟く。
「じゃあ……やっぱり日本のどこか、人里離れた僻地なんでしょうか……。でも、今の日本で、そんな秘密研究所みたいなものを本当に造れるんですか?」
「しかも、ちょっとやそっとの規模じゃないだろうしね。……ユイちゃん、ラースについては何かわかった?」
アスナが尋ねると、ユイは再び空中に浮き上がり、ホバリングしながら口を開いた。
「公開されている検索エンジン十二、非公開のもの三を使用して情報を収集したんですが、企業名、施設名、VR技術関連プロジェクト名いずれも該当するものは見つかりませんでした。また、"ソウル・トランスレーション"テクノロジーなるものについて言及した資料も、申請済みの特許を含め一切発見できませんでした。」
「人の魂を読みとるなんていう大発明を、特許申請すらしてないんだから異常なほど徹底した機密管理よね」
とてもラース側から綻びを見つけるのは無理そうだ、とアスナが溜息をつくと、シノンも呆れたように首を振った。
「なんだか……ほんとに実在する企業なのか疑わしくなってくるわね。こんなことなら、キリトにもっと詳しいことを聞いておくんだったな……。このあいだ会ったとき、あいつ何か、手がかりになりそうなこと言ってなかったっけ……?」
「うーん……」
眉をしかめ、懸命に記憶を掘り返す。金本の襲撃と、それに続く失踪事件の印象が強すぎて、直前のダイシー・カフェでの平和な会話はまるで遠い過去のように霞がかっている。
「たしかあの時は……ソウル・トランスレーターの仕組みの話だけ聞いてるうちに夕方になっちゃったのよね……。あとは……ラースっていう名前の由来は何か、って話も少ししたかな……」
「ああ……『不思議の国のアリス』に出てくる豚だか亀だか、って奴ね。考えてみると妙な話だよね、豚と亀ってぜんぜん似てないよ」
「言葉を作ったルイス・キャロル自身はどっちとも明言してないみたいね。後の世のアリス研究家たちがそう推測してるだけで……」
アスナは不意に言葉を切った。何かが脳裏を掠めた気がしたのだ。
「アリス……。キリトくん、店を出る間際に、アリスについて何か言ってたよね」
「え?」
シノンと、黙って会話を聞いていたリーファも目を丸くする。
「お兄ちゃんが、不思議の国のアリスの話をですか?」
「ううん、そうじゃなくて……ラースの研究室にいるとき、アリスって言葉を聞いたとか何とか……。単語の頭文字みたいな……ええと、何だっけ……」
「頭文字……? A、L、I、C、E、ってことですか?」
「そう、それよ。たしか……アーティフィシャル……レイビル……インテリジェン……だったかな……。CとEは聞き取れなかったけど……」
記憶のスポンジをあまりに強く絞りすぎたせいか、わずかな頭痛を感じながら、アスナはどうにかそれだけを口にした。が、聞いていた他の二人は揃って怪訝な表情で首を捻る。
「なによそれ。アーティフィシャル……って"人工の"、って意味よね。インテリジェン……ス? は"知性"として……レイビル、なんて英単語あったっけ?」
「その発音に最も適合する単語は"labile"だと推測されます。"適応力の高い"というような意味の形容詞です」
シノンの問いかけに、宙に浮いたままのユイがそう答え、三人の視線はテーブル上空の小妖精に集まった。
「強引に翻訳すれば、"高適応性人工知能"ということになるでしょうか」
「人工……知能?」
藪から棒に出てきた言葉に、アスナは思わず瞬きした。
「ああそうか……アーティフィシャル・インテリジェンスは、つまりAIのことよね、ユイちゃんみたいな。でも……仮想空間インタフェースを開発してる会社に、AIがどう関係するのかしら」
「仮想空間内で動かす自動キャラクターのことじゃないの? そのへんにいるNPCみたいな」
シノンが右手を伸ばし、窓の外に立ち並ぶ商店を指しながら言った。しかし、アスナはいまひとつしっくりこない思いで唇を引き結んだ。
「でも……ラース、っていう社名がアリスから取ったものだとして、ラース内部で言うアリスが人工知能に関係する何かだとしたら……少しおかしくない? それだと、会社の目的は次世代VRインタフェースの開発じゃなくて、その中で動かすAIのほうだ、っていうふうに取れるよね」
「うーん、そうなるのかな……。でも、ゲーム内NPCなんて特に珍しくもないし……デスクトップ用の常駐AIパッケージもいっぱい市販されてるよね。わざわざ、会社の存在そのものを隠したり、人ひとり拉致までして開発するようなものなの?」
シノンの問いかけに、アスナも即答することができない。一歩進むたびに次の壁で行き止まりになる嫌な感触に、もしかしてまったく見当違いのことを考えているのではないかという危惧をおぼえながら、それでも何か手がかりを探ろうと、アスナは顔を上げてユイに尋ねた。
「ねえ、ユイちゃん。そもそも人工知能って、どういうものなの?」
するとユイは、珍しく苦笑のような表情を浮かべ、すとんとテーブルに降下した。
「わたしにそれを聞きますか、ママ。それは、ママに向かって"人間とは何か"と聞くようなものです」
「そ、そう言えばそうよね」
「厳密に言えば、これが人工知能である、と定義することは不可能なのです。なぜなら、真正の人工知能というものは、いまだかつてこの世界に存在したことはないからです」
ポットの縁にちょこんと腰掛けながらユイが口にした言葉に、三人は呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。
「え、で、でも……ユイちゃんはAIなんだよね? つまり、人工知能っていうのはユイちゃんのことでしょう?」
リーファが口篭もりながら言うと、ユイは小首を傾げ、生徒に向かってさてどう説明したものかと考える教師のような風情でしばし沈黙したが、やがてひとつ頷いて喋り始めた。
「それでは、現時点でいわゆるAIと呼ばれているものの話から始めましょうか。――前世紀、人工知能の開発者たちは、二つのアプローチで同じゴールを目指しました。ひとつは"トップダウン型人工知能"、そしてもうひとつが"ボトムアップ型人工知能"と呼ばれるものです」
幼い少女の口からあどけない声で語られる内容を理解しようと、アスナは懸命に耳をそばだてた。
「まず、トップダウン型ですが、これは既存のコンピュータ・アーキテクチャ上で単純な質疑応答プログラムに徐々に知識と経験を積ませ、学習によって最終的に本物の知性へと近づけようというものです。わたしを含め、現在人工知能と呼ばれているもののほぼ全てがこのトップダウン型です。つまり……わたしの持つ"知性"は、見かけ上はママたちのそれに似ていますが、実は完全に異なるものなのです。端的に言えば、わたしという存在は、『Aと聞かれたらBと答える』というプログラムの集合体でしかないのです」
そう口にするユイの白い頬に、かすかに寂しさの影のようなものが過ぎったのは目の錯覚だろうか、とアスナは考える。
「例えば、先ほどママに『人工知能とは何か』と問われたとき、わたしは"苦笑い"と分類される表情のバリエーションを表現しました。これは、自分自身に関する問いを投げかけられたとき、パパやママがそのような表情で反応することが多いことから、わたしが経験的に学習した結果です。原理的には、ママの携帯端末に搭載されている予測変換辞書プログラムと何ら変わるところがありません。裏を返せば、学習していない入力に関しては、適切な反応ができないということなのです。――このように、トップダウン型人工知能というものは、現状では真に知能と呼べるレベルには遠く達していないと言わざるを得ません。これが、先ほどリーファさんが言われた"いわゆるAI"というものだと思ってください」
言葉を切り、ユイは視線を窓の外に遠く光る月に向けた。
「……次に、もうひとつの"ボトムアップ型人工知能"について説明します。これは、ママたちの持つ脳……脳細胞が百数十億個連結された生体器官の構造そのものを、人工の電気的装置によって再現し、そこに知性を発生させよう、という考え方です」
そのあまりにも壮大……言い換えれば荒唐無稽なビジョンに、アスナは思わず呟いた。
「そ……それはちょっと無茶じゃないの……?」
「ええ」
ユイが即座に頷く。
「ボトムアップ型は、わたしの知る限り、思考実験の域を出ないまま放棄されてしまったアプローチです。もし実現すれば、そこに宿る知性は、わたしとは本質的に違う、ママたち人間と真に同じレベルにまで達しうる存在となるはずなのですが……」
どこか遠くから視線を戻し、ユイは一息入れてから総括した。
「以上のように、現在、人工知能――AIという言葉には二つの意味があるのです。ひとつはわたしや家電製品やゲーム内NPCのような、言わば擬似人工知能。そしてもう一つは、概念としてのみ存在する、人と同じ創造性、適応性を持つ真なる人工の知性」
「適応性……」
アスナは鸚鵡返しにそう呟いた。
「高適応性人工知能」
二人とひとりの視線がさっと集まる。それを順番に見返しながら、頭のなかでもやもやと形を取りつつあるものを、ゆっくり言葉にしていく。
「もし……もし、ラースの開発しているSTLが、目的じゃなく手段なんだとしたら……? そうよ、確か、キリト君もそんな疑問を持ってるみたいだった。ラースはSTLを使って何かをしようとしてるんじゃないか、って……。もし、人の魂そのものの構造を解析することによって、本物の……世界初のボトムアップ型人工知能を創ろうとしてるんだとしたら……」
「その、真のAIのコードネームが"A.L.I.C.E."ということですか……?」
アスナの言葉を受けてリーファがそう呟き、同じくどこか呆然とした表情のシノンが続けた。
「つまり、ラースというのは次世代VRインターフェース開発企業ってわけじゃなくて……ほんとは、人工知能開発を目的とした企業なの……?」
推理を進めるにつれ、"敵"の形と大きさがどんどん漠としたものになっていく展開に、三人は思わず黙り込んだ。ユイさえも、得たデータを処理しきれないとでもいうかのように、きゅっと眉をしかめている。
アスナは手を伸ばし、マグカップのポップアップメニューからすっきりした味のお茶を新しく淹れなおすと、それを大きく一口飲み下した。ほっ、と息をついてから、改めて敵の戦力評価をし直すつもりで唇を開く。
「もう、単なるベンチャー企業のスケールじゃなくなってきたわね。偽救急車やヘリコプターまで使って人を拉致する手口、所在すらわからない研究所にSTLなんていうお化けマシン、その上目的が人間と同じレベルのAIを創ることだって言うんだから。――キリト君にラースでのバイトを紹介したのがあの総務省の菊岡って人だったのは、あの人がVR関連業界にコネが多いからとかじゃなくて、そもそもラースが国と繋がってるからだったのかも……」
「菊岡誠二郎かぁ。見た目どおりのトボケメガネじゃないとは思ってたけど……。連絡は相変わらず取れないの?」
渋面を作るシノンに、力なく頷く。
「四日前から、携帯も繋がらないしメールも返ってこない。いざとなったら総務省の"仮想課"まで直接乗り込もうと思ってるけど、多分ムダでしょうね」
「だろうね……。前、キリトがあいつを尾行したけどあっさり撒かれたって言ってたからなあ……」
四年前のSAO事件発生直後、総務省に置かれた"被害者救出対策本部"は、事件解決後も仮想空間関連問題に対応する部署として残された。そこに所属する黒ブチ眼鏡の公務員菊岡誠二郎は、和人とは現実世界帰還直後からの付き合いらしく、現実世界では一介の高校生に過ぎない彼をなぜか高く買っていて、死銃事件の際にも調査を依頼したりしている。
アスナも何度か会ったことがあるが、人当たりのよいにこやかな外見の下にどこか底の知れない部分がある気がして、今ひとつ心を許せないという印象を持っている。本人は常々、閑職に飛ばされた窓際公務員を自称していたが、本来の所属はもっと別の部署なのではないか――と和人も疑っていた節がある。
謎の企業ラースでのアルバイトを和人に持ちかけてきたのがその菊岡であったということもあり、アスナは和人の失踪直後から何回も連絡を取ろうと試みているのだが、菊岡の携帯端末は常に圏外であるとの自動メッセージが応答するのみだった。
業を煮やして直接総務省に電話をしたところ、菊岡は海外に出張中であると言われ、それなら電話が繋がらないのも仕方ない――と思う反面、こうもタイミングがいいと、まさか和人の失踪にもあの男が関わっているのではないか、とすら疑いたくなってくる。
「でも……」
その時、アスナとシノンのしかめ面を交互に見ながら、リーファがぽつりと言った。
「あの菊岡って人を通してラースと国が繋がってるとして、どうしてこうまで何もかも秘密にしなきゃならないんでしょう? 企業なら利益のために秘密を守る必要もあるんでしょうけど、国がそんな凄いプロジェクトを進めてるなら、むしろ大々的に喧伝するのが普通じゃないんですか?」
「それは……確かに……」
シノンが器用に、首を捻りながら頷く。
近年、仮想空間と並んで二大フロンティアと言われている宇宙空間の開発は各国が急ピッチで進めており、外部ブースターを使わない軌道往還船や月面有人基地の建設などが、米露中そして日本でも矢継ぎ早にアナウンスされている。それらに並ぶかあるいは上回るインパクトがあるだろう真正人工知能の開発を、国が執拗に秘密にする理由はアスナにも思いつかなかった。
しかしもし本当に、キリトの拉致が国家的規模の極秘計画に関わっているなら、ただの高校生に過ぎない自分たちにできることはもう何もないのではないか……更に言えば、それは警察の手ですら届かない領域なのではないか。無力感に打ちのめされそうになりながら肩を落としたアスナの眼に、テーブルの上から見上げるユイの視線がぶつかった。
「ユイちゃん……?」
「元気を出してください、ママ。この世界でママを探しているときのパパは、ただの一度も諦めたりしませんでしたよ」
「で……でも……わたしは……」
「今度はママがパパを探す番です!」
先ほど、自分の反応はすべて単純な学習プログラムの結果だ、と言い切ったユイは、その言葉が信じられなくなるほどに優しく暖かい笑みを浮かべてみせた。
「パパへと繋がる糸は絶対に残されています。たとえ相手が日本政府でも、ママとパパの絆を断ち切ることなんてできないとわたしは信じます」
「……ありがとう、ユイちゃん。わたし、諦めたりしないよ。国が敵だって言うんなら……国会議事堂に乗り込んで総理大臣をぶんなぐってやるわ」
「その意気です!」
愛娘と笑いあうアスナを、微笑みながら見ていたシノンが、不意にきゅっと眉を寄せた。
「……? どうしたの、シノのん?」
「いや、その……現実問題として、もしラースが国家主導の研究機関なんだとしても、首相とか議会が全部了承してるってことはないと思うのよ。本気で秘密を守る気なら、ね」
「うん……それで?」
「もしこれが、どこかの省庁の一部で極秘に進められてる計画なんだとしたら、絶対に隠し切れないものが一つあると思わない?」
「何……?」
「予算よ! 研究施設にしても、STLにしても、巨額の予算が必要なのは間違いないよね。何十億だか何百億だか、そのもっと上かはわからないけど、そんな金額を国庫……税金からこっそりちょろまかすなんて無理だと思うわ。つまり、何らかの名目で、今年度の予算に計上されてるんじゃないのかしら」
「うーん、でも……ユイちゃんに検索してもらったかぎりでは、仮想空間関連でそんな大きな予算をかけてるプロジェクトは……あっ、そうか……キーワードが違う……? 仮想空間じゃなくて、人工知能……」
アスナが視線を向けると、ユイも真剣な表情で頷き、ちょっと待ってください、と言って両手を広げた。十本の指先がちかちかと紫色にまたたく。ALO内からネットワークに接続しているのだ。
三人の期待と不安に満ちた数秒の沈黙のあと、ユイは薄くまぶたを持ち上げ、数秒前と打って変わっていかにも電子の妖精然とした抑揚の薄い声を発した。
「公表されている二〇一六年度国家予算データにアクセスしました。人工知能、AI、その他三十八の類似キーワードを用いて検索中……十八の大学、七の第三セクターに該当名目で研究費が認可されていますがいずれも小額……文部科学省が介護ロボット用AI開発プロジェクトを進めていますが無関係と判断……国土交通省の海洋資源探査艇開発プロジェクト……自動運転乗用車開発プロジェクト……いずれも無関係と判断……」
その後もユイはいくつかの難解なプロジェクト名を挙げたが、いずれも無関係と続け、やがて小さく首を振った。
「……条件に当てはまるような不自然な巨額予算請求は発見できませんでした。複数の小額予算に分散・偽装しているのかもしれませんが、その場合公表データからの発見は困難です」
「うーん……やっぱり、すぐそれとわかるような穴は残してないか……」
シノンが腕組みをして唸る。藁にでもすがるような気持ちで、アスナはでも、と声を上げた。
「――いまユイちゃんが見つけたプロジェクトの中に、ラースの偽装予算が紛れてるかもしれないよね。なんとかそれを見つけられないかなあ。まあ、さすがに海洋資源とかは関係ないと思うけど……一体なんでそんな研究がヒットしたの?」
「ええと……」
ユイは再度半眼になり、どこかのデータベースにアクセスすると、ひとつ頷いて顔を上げた。
「……海底の油田や鉱脈を探すための小型潜水艇を自律航行させようという研究のようですね。その潜水艇に搭載するAIを開発するための予算なのですが、優先度に対して金額がやや大きいので検索フィルターに残ったようです」
「へえ……そんなものもロボット化されてるのね……。どんなとこで開発してるんだろう」
「プロジェクトの所在は……『オーシャン・タートル』となっていますね。今年の二月に竣工した超大型海洋研究母船です」
「あ、あたしニュースで見ました」
リーファが口を挟んだ。
「なんか、船っていうより海に浮くピラミッドみたいな感じなんですよ」
「そう言えば、聞いたことあるわね。オーシャン……タートル……」
アスナは口をつぐみ、眉をしかめ、しばらく俯いてから、さっと顔を上げた。
「ねえ、ユイちゃん……その研究船の画像って、出せる?」
「はい、ちょっと待ってください」
ユイが右手を振ると、地図のときと同じように卓上にスクリーンが広がり、それはたちまち海面の立体画像に変化した。さらにその中央に光が複雑なワイヤーフレームを描き出し、面をテクスチャーが埋めていく。
小さな海に出現したのは、確かに一見して黒いピラミッドと言いたくなる代物だった。
しかし上から見ると、正方形ではなく短辺と長辺が二対三程度の長方形だ。四角錘の高さは短辺の半分ほどだろうか。表面は、所々に細長く空いている窓を除けばつるりと滑らかで、ダークグレーの光沢を放っている。注視すると、どうやら正六角形の太陽発電パネルがびっしりと貼られているらしい。
四方の角からは操舵装置らしき突起が突き出し、そして短辺のいっぽうには小さなビルにも見えるブリッジが伸びていた。屋上にあるHマークはヘリポートだろうか。それがあまりにも小さいので、傍らに表示されているスケールメーターに目をやると、全長六百メートルという驚くべき数字だった。
「なるほど……、四本の足といい、四角い頭といい、ピラミッドの甲羅模様といいこりゃ確かにカメに見えるね。それにしても大きいな……」
シノンが感心したように言った。アスナはちらりとそちらを見てから、右手の人差し指で巨大船『オーシャン・タートル』のブリッジ部分を指差した。
「でも……ほら、頭のここんとこ、ちょっと平らに突き出してて、他の動物にも見えない?」
「あー、そうですね。ちょっと黒ブタにも見えますよね。泳ぐブタだー」
無邪気な声でリーファが言った。
直後、自分の言葉に撃たれたかのように、目を見開いた。唇を数度わななかせてから、掠れた声を絞り出す。
「亀でもあり……豚でもある……」
アスナとシノン、リーファは、無言で視線を交わしたあと、声を揃えて言った。
「――ラース!」