「うああ……極楽極楽……」
我ながら親父臭いセリフだが、労働で疲れきった体をたっぷりした熱い湯に沈めれば、そう言うより他にない。
ルーリッド教会の風呂場は、つるつるしたタイル貼りの床に大きな銅製のバスタブを埋め込んだもので、外壁に設えられたカマドで薪を燃やして湯を沸かす仕組みになっている。中世ヨーロッパにこんな風呂があったとはとても思えないが、ラースのプログラマーがこのようにデザインしたにしろ、内部時間で数百年に及ぶというシミュレーションの結果独自に進化したにしろ俺にとってはまことに有り難いことだ。
夕食が済んでから、まずシスター・アザリヤとシルカと二人の女の子がお湯を使い、その後俺と四人の男の子が入浴して、散々騒いだガキたちが先刻ようやく出て行ったところである。なのに、巨大なバスタブをなみなみと満たす湯にはわずかな濁りもない。俺は両手に透明な液体をすくうと、ばしゃりと顔に浴びせ、再度うふぇ〜と弛緩しきった声を漏らした。
これで、この世界に放り出されてからほぼ三十三時間が経過したことになる。俺のダイブ以降のSTRA倍率が不明ゆえ、現実ではどの程度の時間が過ぎ去っているのか見当もつかないが、もし等倍速、つまり現実と完全に同期していて、更に俺が行方不明などということになっていれば、さぞ家族や明日奈が心配していることだろう。
そう考えると、こんなふうにノンビリ風呂に浸かっているなどとんでもない、とっとと脱出方法を探すべきだと焦る気持ちが喉元にせり上がってくる。だが、それと同じくらいの質量で、この世界の秘密を見極めたいという欲求もまた確かに存在する。
俺が、桐ヶ谷和人としての意識と記憶を保ったままこの世界に在るのは、やはりイレギュラーな状況なのだと思えて仕方ないのだ。なぜなら、俺の行動ひとつで、シミュレーションの行方が大きく歪められても不思議はないのである。最低三百年以上に及ぶ壮大な実験が"汚染"されるのは、ラースの技術者にとって間違いなく歓迎されざる事態であろう。
つまりこれは、俺にとって驚天動地の大ピンチであると同時に、千載一遇の大チャンスかもしれないのだ。RATH――おそらくは国の、ことによると防衛予算がたっぷりと注ぎ込まれたあの謎めいた研究機関の、真なる目的を見極める、最初で最後の機会。
「いや……それもまた、言い訳、かな……」
俺は口もとまで湯に沈むと、ぶくぶくと泡に混じって呟いた。
あるいは、俺は単に、ひとりのVRMMOゲーマーとしての単純な欲望に衝き動かされているに過ぎないのかもしれなかった。"世界"を"攻略"したい――マニュアルひとつないこの世界を、知識と勘だけを頼りに渡り歩き、剣の腕を磨いて、数多いるであろう剛の者を打ち倒し最強者の称号を目指したいという、愚にもつかない幼稚な欲望。
仮想世界における強さなど所詮データの作る幻に過ぎないと、俺はかつて何度も思い知らされた。二刀流最上位剣技がヒースクリフに破られたとき、妖精王オベイロンの前で無様に地に這ったとき、追いすがる死銃から為す術なく逃げ惑ったとき、もう二度と同じ過ちを犯すまい、と苦い悔恨を噛み締めたものだ。
しかしまたしても、心の深いところでくすぶる熾火が執拗に俺を焚き付けようとする。俺には振れなかったあの青薔薇の剣を、軽々と操る奴がこの世界にはどれほど居るのだろうか? 法を守護するという整合騎士は、そして闇の国の暗黒騎士とやらはどれほど強いのか? 世界の中央にあるという神聖教会の、一番高い椅子に座るのはどんな奴なんだ……?
無意識のうちに右手の指先が水面を斬り、飛んだ飛沫が正面の壁に当たってビシッと高い音を立てた。
と同時に、脱衣所に繋がるドアの向こうから声がして、俺は我に返った。
「あれ、まだ誰か入ってるの?」
シルカの声だと気付き、慌てて体を起こす。
「あ、ああ、俺――キリト。ごめん、もう上がるから」
「う……ううん、ゆっくりしてていいけど、出るときにちゃんと浴槽の栓を抜いて、ランプを消してね。それじゃ……あたしは部屋に戻るから、おやすみ」
そそくさと去っていく気配に、俺は慌ててドア越しに呼びかけた。
「あ……シルカ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」
ぴたりと止まった足音は、しばし迷うように沈黙を続けていたが、やがて聞き取れないほどかすかな答えが返ってきた。
「……少しなら、いいわ。あなたの部屋で待ってる」
こちらの言葉を待たず、とてとてと小さな音が遠ざかっていく。俺は慌ててバスタブから立ち上がると、底の端っこにある木製の栓を抜き、壁のランプを消して脱衣所に出た。タオルを使わずとも水滴がたちまち消えていくのをいいことに大急ぎで部屋着をかぶり、しんと静まり返った廊下から階段を登る。
客間のドアを開けると、ベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたシルカが顔を上げた。昨夜とは違い、簡素な木綿の寝巻き姿で、ブラウンの髪を三つ編みにまとめている。
シルカは表情を変えずに傍らのテーブルから大きなグラスを取り上げ、俺に向かって差し出した。
「お、ありがとう」
言いながら受け取ると、俺はシルカの隣にどすんと座り、冷えた井戸水を一息に飲み干した。渇いた体の、手足の先まで水分が染み透っていく感覚に、思わずうめく。
「うー、甘露甘露」
「カンロ? って何?」
途端、きょとんとした顔でシルカが首をかしげ、しまったこの世界の語彙には無い言葉だったかと慌てる。
「ええと……すごく美味しくて、癒されるーって感じの水のこと……かな」
「ふうん……。エリクシールみたいなものかしら」
「な、なんだいそれは」
「教会の高位司祭が祝福した聖水のことよ。あたしも見たことはないけど、小瓶ひとつ飲めば怪我や病気で減った天命がたちまち戻るというわ」
「へえ……」
そんなものがあるなら、何で伝染病で何人も死人が出たんだ、と思ったが何となく聞いてはいけないことのような気がして、俺は黙った。少なくとも、神聖教会というご大層な名前の組織が統治するこの世界は、当初思ったほどの楽園ではない、ということだ。
俺が空にしたグラスを受け取ると、シルカは眉をしかめて促すように言った。
「で、話があるなら、早くしてちょうだい。こんな時間に男性の部屋に長い時間いたのをシスター・アザリヤが知ったら、こっぴどく怒られちゃうわ」
「そ……それは申し訳ない。じゃあ手短に済ませるけど、その……聞きたいのは、シルカのお姉さんのことなんだ」
途端、俯いていたシルカの肩がぴくんと揺れた。
「……あたしには、お姉さんなんていないわ」
「今は、だろう? ユージオに聞いたんだ。君に、アリスっていうお姉さんがいたこと……」
言葉が終わらないうちに、シルカがえらい勢いで顔を上げ、俺は少々唖然とした。
「ユージオが? あなたに話したの、アリス姉さんのこと? どこまで?」
「あ……ああ。その……アリスもこの教会で神聖術の勉強をしてたことと……六年前、整合騎士に央都に連れていかれた、ってこと……」
「……そう……」
シルカはかすかな吐息とともに再び視線を落とし、呟くように続けた。
「……ユージオ……忘れたわけじゃなかったんだ、アリス姉さんのこと……」
「え……?」
「村の人は……お父さんも、お母さんも、シスターも、決して姉さんの話をしようとしないの。部屋も、何年も前に綺麗に片付けちゃって……まるで、最初からアリス姉さんなんて居なかったみたいに……。だからもう、みんな姉さんのこと、忘れちゃったのかな、って……ユージオも……」
「……忘れるどころか、ユージオはすごくアリスのことを気にかけてるみたいだぜ。それこそ……天職さえなければ、いますぐ央都まで探しにいきたいくらいに」
何気なく俺はそう言ったが、伏せられたままのシルカの横顔が一瞬くしゃっと歪んだような気がして二、三度瞬きした。だが、すいっと俺のほうを向いたシルカは、いつもと変わらない落ち着いた表情だった。
「そうなの……。じゃあ……ユージオが笑わなくなったのは、やっぱりアリス姉さんのせいなのね」
「笑わない?」
「ええ。いつでも姉さんと一緒にいた頃のユージオは、いつでもニコニコしてたわ。笑顔でない時を探すのが難しかったくらい。あたしはまだすごく小さかったから、ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……でも、気が付くと、ユージオはぜんぜん笑わない人になってた。それだけじゃない、村の、他の子供たちともちっとも一緒にいないで、毎日朝に森に出かけ、夕方に家に帰る、それを繰り返すだけの人になってた……」
聞きながら、俺は内心で少々首を捻っていた。確かにユージオの物腰は静かだが、感情を殺しているという印象はない。森への行き帰りや休憩時間、俺と色々な話をしながら声を出して笑ったことも一度や二度ではないだろう。
彼がシルカや他の村人の前では笑顔を見せないというなら、その理由はおそらく――罪悪感だろうか? 誰からも愛され、次代のシスターとして期待されていたというアリスが捕縛される理由を作り、また助けることもできなかったという罪の意識……? 当時の事情を知らない余所者の俺の前でのみ、ほんの一時自らを責めずにいられる、そういうことなのか。
主観時間にして六年ものあいだ、一度として笑うことがなかったというその一事だけ見ても、ユージオの抱えた苦悩の大きさが忍ばれる。彼の魂はプログラムではない、俺と同じ本物のフラクトライトを持っているのだ。たとえこの世界が巨大な実験場で、それが終了すれば消去されてしまう記憶なのだとしても、それほどまでに深い傷を刻み込む権利が何人にあるというのだろう。
央都に行かねばならない――、再度強くそう思う。俺の目的のためだけではなく、なんとしてもユージオをこの村から連れ出し、アリスを探しあてて、二人を再会させてやらなければどうにも気が収まらない。そのためには、あの樹をどうにかして早晩切り倒さなくては……。
「……ねえ、何を考えてるの?」
シルカの声に物思いから引き戻され、俺ははっと顔を上げた。
「いや……ちょっと、思っただけさ。ユージオはきっと、君の言うとおり、いまでもアリスのことが何より大切なんだろうな、って」
心中をぽろりと口にしたその途端、シルカの顔がもう一度かすかに歪んだような気がした。少し前に大ヒットしたハリウッド映画で幼い気丈なヒロインを演じた子役の女優にどこか似た、くっきりと濃い眉と大きな瞳に、一抹の寂寥感が吹き過ぎる。
「そう……なのね、やっぱり」
呟き、肩を落とすその様子を見れば、いかな朴念仁の俺にも思い当たることがあった。
「シルカは……ユージオのことが好きなんだ?」
「なっ……そんなんじゃないわよ!」
眦を吊り上げて抗議したと思ったら、ぱっと首筋まで赤くしてそっぽを向いてしまう。よもや、この子のフラクトライトの持ち主は、現実でも同年代の女の子なのではあるまいな……などと考えていると、しばらく俯いていたシルカが、不意に少し張り詰めたような声で言った。
「……なんだか、堪らないのよ。ユージオだけじゃない……お父さんも、お母さんも、口には出さないけど、いつも居なくなった姉さんとあたしを較べて溜息をついてた。他の大人たちもそうよ。だからあたし、家を出たの。なのに……シスターも……シスター・アザリヤさえ、あたしに神聖術を教えながら、姉さんなら何でも一度教えたらすぐにできるようになったのに、って思ってる。――ユージオは、あたしのこと避けてるわ。あたしを見ると、姉さんを思い出すから。そんなの……あたしのせいじゃない! あたしは……姉さんの顔だって憶えてないのに……」
薄い寝巻きの生地の下で、細い肩が震えるのを見て、俺は正直なところ心の底から動転した。いままで、頭のどこかでこの世界はシミュレーションでありシルカたちは――プログラムではないにせよやはり仮初めの住人なのだと考えていたせいで、隣で十二歳そこそこの女の子が泣いているという事態に即座に応対できるはずもなく、無様に凍り付いていると、やがてシルカは右手で目尻を拭い、ついた水滴を払い飛ばした。
「……ごめんなさい、取り乱したりして」
「い……いや、その。泣きたいときは、泣いたほうがいいと思うよ」
何をマンガみたいなことを言っているんだおのれは。と思ったが、二十一世紀に氾濫するメディアに毒されていないシルカは、小さく微笑むと素直に頷いた。
「……うん、そうね。なんだか、少しだけ楽になったわ。人の前で泣いたのはずいぶん久しぶり」
「へえ、凄いなシルカは。俺なんて、この歳になっても人前で泣きまくりだ」
明日奈の前でだけだけど、と心の中で付け加えていると、シルカが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。
「あれ……キリト、記憶が戻ったの?」
「あ……い、いや、そうじゃないんだが……そんな感じがするっていうか……と、ともかく、自分は自分なんだからさ。他の誰かになんてなれない……だから、シルカも、自分にできることをすればそれでいいんだ」
これまた甚だしく引用臭いセリフではあったが、シルカはしばらく考え込み、こくりともう一度頷いた。
「……そうね。あたし……自分からも、姉さんからも、ずっと目を背けようとしてたのかもしれない……」
健気に呟くその様子を見ていると、この子のそばからユージオを引き離そうとしている自分に罪悪感を覚える。しかし、現状のままではユージオがシルカの気持ちに応える可能性はほとんど無いような気もするし、シルカにとってもアリスがいまどうしているのか知るのはいいことなのではないだろうか。
などと俺が悩んでいると、頭上すぐのところからしっとりとした鐘の和音が降り注いできた。
「あら……もう九時なのね。そろそろ戻らないと」
ぽん、と床に降り、シルカはドアに向かって数歩進んでから振り向いた。
「ね……キリトは、整合騎士がどうして姉さんを連れていったのか、その理由も聞いたの?」
「え……ああ。なんで?」
「あたしは知らないのよ。お父さんたちは何も言わないし……ずっと前にユージオに聞いたんだけど、教えてくれなくて。ねえ、理由は何だったの?」
俺はかすかに引っかかるものを感じながらも、その正体に思い至る間もなく口にしていた。
「ええと……たしか、川を遡ったところにある洞窟から果ての山脈を越えて、闇の王国に一歩踏み込んじゃったから、って聞いたけど……」
「……そう……。果ての山脈を……」
シルカは何事か考えているようだったが、すぐに小さく頷いて続けた。
「明日は安息日だけど、お祈りだけはいつもの時間にあるからね、ちゃんと起きるのよ。あたし、起こしにこないからね」
「が、がんばってみる」
一瞬だけ微笑み、シルカはドアを開けるとその向こうに消えた。
俺は、遠ざかっていく足音を聞きながら、どすっとベッドに上体を横たえた。アリスという謎めいた少女の情報を得るつもりだったが、居なくなった当時まだ五、六歳だったというシルカにはやはりほとんど記憶が無いようだ。わかったのは、ユージオのアリスに対する気持ちがいかに深いか、ということだけである。
俺は目を閉じ、アリスの姿を想像しようとしてみた。だが勿論、顔立ちなど浮かぶはずもなく、ただ瞼の裏に一瞬きらりと閃く金色の光が見えたような気がしただけだった。
その翌朝、俺は自分の考えの至らなさを嫌というほど思い知らされることになった。
からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。
東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。
耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。
俺の"初期装備"であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう――などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。
桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。
「あっ……おはようございます、シスター」
そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。
「あの……シスター、何か……?」
恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。
「――シルカの姿が見えないのです」
「えっ……」
「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」
これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。
「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」
起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。
「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」
「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」
「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」
「ああ……なるほど」
それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。
「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」
「……だといいのですが……」
シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。
「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」
「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」
会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。
胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。
ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。
「やあキリト、おはよう」
「おはようユージオ」
微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。
「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」
「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」
「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」
「ええ?」
ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。
「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」
「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」
「行きそうな、って言われても……」
「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」
そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。
「あっ……」
「なんだい、どうしたのキリト?」
「まさか……。――なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」
ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」
「それだ」
俺は低くうめいた。
「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」
「ええっ!」
ユージオの顔が一気に蒼ざめた。
「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」
「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」
「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」
ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。
「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」
「急ごう。すぐに出よう」
俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。
「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」
俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。
商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。
麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。
ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。
「ここだ……踏まれた跡がある」
呟き、すばやく印を切って草の"窓"を呼び出した。
「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」
「あ……ああ」
俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。
どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある"ループする回廊"のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。
俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。
そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。
「なあ……ユージオ」
呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。
「なに?」
「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」
するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。
「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」
「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」
「……何を考えてるのさ、キリト?」
「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」
「……」
ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。
「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」
「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」
俺は、挑発するようにそう口にした。
「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」
「……キリト……」
ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の"遵法精神"を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット――人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。
果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。
「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」
「でも、アリスにはできた」
俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。
「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」
言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。
――アリス……君は、いったい、何者なんだ?
ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。
しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは――。
自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。
「見えたよ、キリト」
はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。
ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。
仮想世界じゃあるまいし――、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。
雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。
「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」
信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。
「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」
「……こんなに、近いなんて」
後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。
放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。
「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」
「あ、ああ……そうだな」
彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。
「あれか……」
小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。
「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」
ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。
「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」
システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。
驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。
「ゆ、ユージオ……いまのは?」
厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。
「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」
「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」
「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」
なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。
「なあ……俺にも、使えるかな?」
こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。
「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」
つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。
濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。
「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」
思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。
「あっ……」
青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。
俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。
「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」
思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。
「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」
「そ、そうか……」
改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。
いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした――その時だった。
前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。
「おい……今の、なんだ?」
「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」
「こ、今度は何だよ」
「なんか……匂わない、キリト……?」
言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。
「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」
樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。
「なんだ、これ……」
そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。
きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。
「まずい!」
「シルカ……!」
俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。
この世界に放り出されて以来、最大限にまで――どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも――高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。
やはり"アンダーワールド"もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。
ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。"最後の時"が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。
だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。
激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、"天命"が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。
進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。
腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ――とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。
不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数――かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。
すべてを視ろ、そして考え、行動を起こせ――可能な限り早く。刻み込まれたセオリーに従い、俺は両目をいっぱいに見開いて、その場の状況を広角カメラのようにかしゃりと切り取った。
岩のドームはほぼ円形、直径は五十メートルほどもあるだろう。床面はほぼすべて厚そうな氷に覆われているが、中央部分で大きく割れて、青黒い水面が顔を出していた。
オレンジ色の光の源は、その池の周りに立てられたふたつの篝り火だった。高い足のついた黒い鉄製の篭の中で、薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。
そして、その二つの炎を取り巻くように、一応は人間型ではあるが明らかに人でも獣でもない者たちが三々五々固まって座り込んでいた。その数、三十をやや超えるか。
一人、あるいは一匹の大きさはそれほどでもない。立ち上がっている者の頭の高さは、俺の胸ほどまでしかない。だが彼らの、やや猫背ぎみの体躯はがっしりと横幅があり、とくに異様なまでに長い腕と、その先の鋭い爪のついた手は何でも引き裂けそうなほど逞しい。体には、ほぼ黒に近い色の革製の銅鎧を付け、腰周りには雑多な種類の毛皮や何かの骨、小袋をじゃらじゃらと並べている。それに、無骨だが恐ろしい威力を感じさせる大きな曲刀も。
肌は、炎に照らされていてもはっきりとわかるくすんだ緑色で、まばらな剛毛が生えている。頭部は例外なくつるりと禿げ、尖った耳の周囲にだけ密集している長い毛はまるで針金のようだ。眉毛は無く、突き出た額の下に、不釣合いなほどに大きい眼球が張り付いて、濁った黄色い光を放っている。
どうしようもなく異質――ではあるが、同時に長年見慣れた姿でもあった。彼らは、RPGで言うところの低級モンスター、"ゴブリン"そのものだ。非常にオーソドックス、とさえ言っていい。それを認識すると同時に、俺はほんの少し肩の力を抜いた。ゴブリンというのはほとんど例外なくノービス・プレイヤーの練習相手兼経験値稼ぎ用のモンスターであり、そのステータスはかなり低く設定してあるのが通例だ。
だが、その安堵も、俺とユージオに最も近い場所にいた一匹がこちらに気付き、視線を向けてくるまでのことだった。
そいつの黄色い目玉に浮かんだいくつかの"表情"を見て、俺は骨の髄から凍りついた。そこにあったのはわずかな不審と、残忍な悦び、そして底無しの餓え。俺を大蜘蛛の巣に掛かった蜻蛉のように竦み上がらせるのに充分な悪意がそこにあった。
こいつらも、プログラムではない。
俺は圧倒的な恐怖の中で、それをはっきりと認識した。
このゴブリン達もまた、本物の魂を持っている。ユージオや俺と、あるレベルではまったく同質の、フラクトライトによって生み出される知性を持っている。
だが何故――どうしてそんな事が!?
俺は、この世界に放り出されてからの約二日間で、ユージオやシルカたち住人がどのような存在であるのか、おおよその推測を立てるに至った。彼らは恐らく、いくつかの原型からコピーされ、その後加工されて多様性を与えられた言わば人工フラクトライトなのだ。どのようなメディアに保存されているのかまでは分からないが、STLによって魂が読み取れるなら、その複製もまた可能であろうことは想像に難くない。
原型となったのは、恐ろしいことだが多分、複数の新生児のフラクトライトであろう。言わば原思考体とでもいうべきその存在を無数にコピーし、この世界で赤ん坊として一から成長させる。それならば、アンダーワールドの住民たちが"本物の知性を持ち""現存STLを遥かに超える数存在する"という矛盾する状況が説明できる。俺が一日目の夜、神への挑戦であると畏れたラースの目的はつまり――真なるAI、人工知能を創ることだ。それも、人の魂を鋳型にして。
その目的は最早、八割……いやもしかしたら九割九分達成されている。ユージオの思慮深さは俺を上回るほどだし、複雑な情動は深遠そのものだ。つまり、ラースのこの壮大かつ不遜極まりない実験はすでに終了していておかしくない。
しかし尚も、このようにして継続しているからには、現段階の成果では研究者たちは不満なのだろう。何が足りないのかは根拠のない想像をするしかないが、もしかしたらあの禁忌目録、ユージオたちの"根源的に破れない法"と無関係でないのかもしれない。
兎も角、俺のこの仮説によって、ユージオたちの存在についてはおおよそ説明できる。彼らは、俺とは物理的な存在次元が異なるだけで、魂の質量はまったく同じ"人間"であると言ってよい。
しかし――ならば、このゴブリンたちは何者なのか? 黄色い目から強烈に放射される、このしたたるほどの異質な悪意は――?
彼らの魂の原型もまた人間のものである、とはとても思えない。この底無しの餓え、俺、つまり人間の血をすすり骨を噛み砕くことへの欲望は、人の魂から作り出せるものでは絶対にない。もしかしたらラースは、現実世界で本物のゴブリンを捕まえて、そいつをSTLにかけたのか、などという支離滅裂な思考が頭のなかで明滅した。
俺が凍り付いていたのは、ほんの一秒足らずだったろうが、俺の魂を竦み上がらせるには充分な時間だった。どう動いていいのかも思いつけないまま、ただ視線を動かせないでいる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィッというような音――もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。
そして、喋った。
「おい、見ろや! 今日はどうなってんだぁ、またイウムの餓鬼が二匹も転がりこんできたぜ!」
途端、ドーム中にぎぃぎぃ、きっきっというわめき声が満ちた。近くのゴブリンから次々に、武器を片手に立ち上がり、餓えた視線をぶつけてくる。
「どうする、こいつらも捕まえるかぁ?」
最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうから、ぐららぁっと大きい雄叫びが轟き、全員がピタリと笑うのをやめた。さっと群れが左右に割れ、進み出てきたのは、一際大きな背丈を持つ、指揮官クラスとおぼしき一匹だった。
金属の鎧をつけ、頭に巨大な飾り羽を立てたそいつの目は、それだけで俺を気絶させるのではと思うほどの圧倒的な邪悪さと、氷のような知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥きださせて、そいつは言った。
「男のイウムなぞ連れて帰っても、幾らでも売れやしねぇ。面倒だ、そいつらはここで殺して肉にしろ」
殺す。
という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬戸惑った。
真にリアルな死、つまり現実世界の俺の肉体が致命的損傷を受ける、という可能性は除外していいはずだ。おそらくSTLの中にいる現実の俺に、このゴブリンどもが危害を加えることなど(SAOじゃあるまいし!)できようはずもない。
しかし、かと言って通常のVRMMOと同じように、死を単なるコンディションのひとつであると割り切るわけにも行かないだろう。この世界には、便利な蘇生魔法やアイテムは――神聖教会の中枢という例外を除き――存在しないのだから、ここで連中に殺されたら、たぶんこの"キリト"はジ・エンドなのだ。
ならば、もし死んだら、主体的意識としての俺はいったいどうなるのだ?
ラースの開発支部で目を醒まし、オペレータの平木孝治がにやにやしながらオツカレ、などと言ってドリンクでも差し出すのか? あるいは、この一連の記憶は消去され、またどこかの森でひとり目覚めるところからやり直しなのか? あるいは肉体なき幽霊として、世界のゆく末をただ見守る役を与えられるのか?
そしてその場合――同じくここで命を落とすであろうユージオとシルカはどうなるのだろう?
自前の脳味噌という"専用保存メディア"を持っている俺と違い、何らかの大容量記憶装置に存在するのだろう彼らの魂は、もしかしたら、死んだら消去されてそれきり……ということも有り得るのではないか?
そうだ……シルカ、彼女はどこにいるんだ。
俺は瞬間的思考をわずかに中断させ、再度目の前の光景に意識を向けた。
隊長ゴブリンの指示に従い、部下たちのうち四匹がおのおののエモノをぶら下げて俺とユージオに向かって歩き始めたところだ。ゆっくりとした歩調といい、巨大な口に張り付くにやにや笑いといい、俺たちをなぶり殺しにする気満々と見える。単純な擬似AIには有り得ない行動パターンだ。
奥に残る二十数匹のゴブリンたちも、目に興奮の色を浮かべながら口々にぎぃぎぃと囃し立て、そして――居た! 暗がりに紛れて見え難かったが、修道服を来たシルカの小さな体が、粗末な四輪の運搬車に転がされている。体は荒縄で縛られ、瞼は閉じられているが、顔色からして意識を失っているだけと思えた。
そうだ、先刻、隊長ゴブリンはこう言った。男のイウム(人間のことだろうか?)を連れて帰っても売れないから、この場で殺せ、と。
裏返せば、女なら売れるということだ。奴らは、シルカを闇の国へと拉致し、商品として売り飛ばすつもりなのだ。脳裏に、およそ十通りほどもの陰惨な想像が過ぎる。
このまま何もしなければ、恐らく俺とユージオは殺され、ユージオの魂は"消滅"するだろう。だが、シルカを待つ運命の過酷さは恐らく死より辛いものだ。それを、単なるシミュレーションの枝葉末節などと割り切ることは俺にはできない。絶対にできない。彼女も、俺とおなじ人間――まだほんの十二歳の女の子なのだから。
どうやら、やるべきことは――
「明確だな」
俺はごく小さく呟いた。隣で、同じように凍り付いていたユージオの体がぴくりと動いた。
シルカは絶対に助け出す。例えその代償を、俺のこのかりそめの命で払うことになろうともだ。そして例え、目の前の"本物の"ゴブリンたちを一匹残らず殺すことになろうとも、だ。
もちろん、そんなことが簡単に出来ようはずもない。戦力差はあまりに巨大で、こちらには棒きれの一本も無い。しかし、知力と体力のすべてを振り絞ってやれる限りのことをやるのだ。これは明確なる戦争なのだから。
「ユージオ」
視線を前方に据えたまま、ほとんど音にならない声でささやく。
「いいか、シルカを助けるぞ。動けるな」
すぐに、短いがはっきりと、うん、という答えが返ってくる。やはりこいつも、おっとりしているようでその実ハラが据わっている。
「三つ数えたら、前の四匹を体当たりで突破して、俺は左、お前は右のかがり火を池に倒す。その光る草を無くすなよ。火が消えたら、床から剣を拾って、俺の後ろを守ってくれ。無理に倒そうとしなくていい。その間に、俺はあのボスをやる」
「……僕、剣なんて振ったことないよ」
「斧と一緒だ。いいな、いくぞ……一、二……三!」
氷の上だが、俺もユージオも脚を滑らせることなく最高のスタートを切った。この運が最後まで続くことを祈りつつ、俺は腹の底からときの声を上げた。
「うらあああああ!!」
一拍遅れて、ユージオのふほおおおお! という叫びが続くのを聞いてなんだよそりゃと思ったが幸い効果は充分だったようで、四匹のゴブリンは黄緑色の目を丸くして立ち止まった。もっともそれは雄叫びのせいではなく、"イウムのガキ"が捨て身の突進を仕掛けてきたこと自体に驚いたからかもしれないが。
ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、一番左とその隣のゴブリンの隙間目掛けて、右肩から全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差とスピードの修正効果で、二匹はものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら氷の上をつーっとすべっていった。ちらりと横を見ると、ユージオの体当たりもきれいに決まって、同じく二匹が裏返しの亀のように回転しながら遠ざかっていく。
足を止めることなく、俺たちはゴブリンの円陣ど真ん中目掛けてさらに加速した。幸い、連中の状況対応力はそれほどでもないようで、隊長を含めていまだ立ち上がることなくぽかんとこちらを見ている。
そうだ、そのままボーっとしてやがれ。罵るように祈りながら、俺はゴブリンどもの間を縫うように最後の数メートルを走り抜ける。
さすがに隊長ゴブリンだけは他の連中とは一枚上の知能を持っているようで、怒りに満ちた叫びが氷のドームに轟いた。
「そいつらを火に近づけるな――」
だが、いかにも遅かった。俺とユージオは、三本足の火篭に飛びつくと、勢い良く水面めがけて蹴り倒した。渦のように火の粉を撒き散らしながら、二つのかがり火は黒い水面へと倒れこんでいき、ばしゅっという音と白い水蒸気を残してあっけなく消え去った。
ドームは一瞬、まったき暗闇に包まれ――次いで、ほのかな青白い光がそっと闇を退けた。ユージオが左手に握るネコジャラシの光だ。
ここで、二つ目の僥倖が俺たちを待っていた。
周囲にうじゃうじゃいるゴブリンどもが一斉にぎいいいいっという悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、ある者は後ろを向いてうずくまったのだ。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、苦しそうに顔を背け、こちらに左手をかざしている。
「キリト……これは……!?」
驚いたように囁くユージオに、俺は短く答えた。
「多分……あいつら、その光が苦手なんだ。神聖術の光がな。今がチャンスだっ」
俺は、周囲の床に乱雑に放り出されている武器のなかから、巨大な鉄板のように無骨な直剣と、先端にボリュームのある曲刀を拾い上げ、刀のほうをユージオの手に押し付けた。
「その刀なら使い方は斧と同じでいけるはずだ。いいか、草の光で牽制して、近づく奴を追い払うだけでいいからな」
「き……キリトは?」
「奴を倒す」
短く答え、顔を覆った右手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって俺は一歩踏み出した。両手で握った直剣を、数回左右に振ってみる。外見に反して、やや頼りないと思えるほど軽いが、あの剣のように重過ぎて扱えないよりは遥かにマシだ。
「ぐららぁっ! イウムごときが……この"蜥蜴喰いのジラリ"様と戦おうとでも言うのか!」
じりじり近づく俺を片目でねめつけながら、隊長が太い雄叫びを放った。同時に、右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びだの何かの血などがこびり付き、異様な迫力を纏っている。
勝てるのか!?
頭ひとつほども大きいそいつと対峙した俺は、一瞬ひるんだ。だがすぐに、歯を食い縛って怯えの虫を噛み潰す。ここで奴を倒せず、シルカを助けられなかったら、俺がこの世界に来たのはあの子に最悪の運命を与えるためだった、ということになってしまう。サイズなど問題ではない――旧アインクラッドでは、俺より三倍も四倍も大きいモンスターどもと数え切れないほど戦ったのだ。しかもそいつらは、俺を"本当に殺す"可能性に満ち満ちていたのだ。
「違うね……戦うだけじゃない、ぶっ倒そうっていうのさ」
俺は無理矢理作った笑みの隙間からそう吐き出すと、右足で思い切り地面を蹴った。
左足を深く踏み込み、大上段に振りかぶった剣を敵の肩口目掛け真っ向正面から振り下ろす。
甘く見ていたわけではないが、ボスゴブリンの反応は息を呑むほど速かった。視力を半ば奪っていることを考えると、旧SAOのベテラン剣士並みと言っていい。戦い慣れている。
"後の先"――とでも言うのか、打ち込みに呼吸を合わせるように横殴りに飛んできた蛮刀を、俺はぎりぎりのところで掻い潜った。髪が何本か、圧力に引き千切られるのを感じた。俺の上段斬りは、先端が奴の肩アーマーを掠めて小さな火花を散らすに留まった。
止まったら斬られる、そう確信した俺は、低い姿勢から体を左に捻り、がら空きのゴブリンの脇腹目掛けて右手一本の突き技を放った。今度は見事命中したものの、傷だらけの胴鎧を貫通するには至らず、鱗状の板金を何枚か引き千切っただけだった。
ちゃんと先まで砥いどけよ! とこの剣の持ち主に向かって毒づきながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一刀をさらに右に飛び退って回避する。蛮刀の分厚い切っ先が足元の氷を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。
単発攻撃では埒があかない。隊長ゴブリンが体勢を回復する前に、俺は体に染み付いた片手直剣三連撃技"シャープネイル"を繰り出した。
右下から払い上げの第一撃が、敵の左足を掠め、動きを止める。
左から右へ薙ぎ払う第二撃が、鎧の胸部分を切り裂き、その奥の肉をも浅く抉る。
右上から斬り下ろす第三撃が、致命傷を防ごうと上げられた敵の左腕を、肘の少し下部分からガツッと音を立てて断ち切った。
壊れた蛇口のように迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くるくる回りながらすぐ左側の池に没し、どぷんと重い水音が響いた。
勝った!
俺がそう確信してから、止めの一撃を放つまでのわずかな隙を、しかし敵は見逃さなかった。
横殴りにごうっと飛んできた蛮刀を、俺は回避しきれず、先端が左肩を掠めた。その圧力だけで俺は二メートル近くも吹き飛ばされ、ごろごろと氷床に転がった。
左腕を切り飛ばされながらも一瞬も怯むことのなかった隊長ゴブリンの胆力、当たり損ねの一撃で俺を跳ね飛ばす剣の威力、そして何より、脳天に稲妻が突き刺さるような途方もない痛みのせいで――
俺は石のように竦み上がった。
「キリト! やられたのか!?」
すこし離れた場所で、右手に曲刀、左手に光る草を持って手下ゴブリンどもを牽制していたユージオが焦りの滲む声で叫んだ。
かすり傷だ、と言い返そうとしたが、強張った舌が意思のとおりに動かず、俺はああ、うう、としゃがれた音を漏らすことしかできなかった。左肩から発生し、全身の神経を焼き切ろうとするかのような熱さのせいで、目の前にちかちかと火花が飛び、抑えようもなく涙が溢れた。
なんという凄まじい痛みだ!
耐えられる限界を遥かに超えている。氷の上に転がり、丸めた体を硬直させて浅い呼吸を繰り返す以外に何もできない。それでもどうにか首を回し、おそるおそる傷口を見ると、チュニックの左袖はまるごと引き千切られ、剥き出しになった肩に大きく醜い傷が口を開けていた。刀傷というより、巨大な鉤か何かでむしられたかのようだ。皮膚とその下の肉がごっそり抉られ、剥き出しになった筋繊維の断面から赤黒い血液が絶え間なく噴き出している。左腕はすでに痺れと熱の塊と化し、指先は他人のもののように動こうとしない。
こんな仮想世界があってたまるか、と俺は脳裏で呪詛のようにうめいた。
バーチャル・ワールドというのは、現実の痛みや苦しみ、醜さや汚さといったものを除去し、ひたすらコンフォートでクリーンな環境を実現するために存在するのではないのか!? こんな恐ろしい苦痛をリアルに再現することに、いったいどんな意味がある。いや――むしろ、この痛みは現実以上とさえ思える。現実世界でこのような怪我をすれば、脳内物質が分泌されたり、失神したりといった防御機構が働くのではないだろうか? こんな、魂そのものを苛む痛みに耐えられる人間などいるはずがない……。
それも少し違うかもな。
諦めに似た脱力感の中に逃げ込みながら、俺は自嘲気味にそう思いなおした。
そもそも、俺はリアルな痛みというものにまったく慣れていないのだ。現実世界では、救急車に乗るような大きな怪我などしたことは無いし、幼い頃祖父に強制された剣道も、練習の辛さに音を上げてすぐに辞めてしまった。SAO脱出後のリハビリは苦しかったが、最先端のトレーニングマシンと補助的投薬のお陰でたいした苦痛に晒されることもなかった。
仮想世界においては何をかいわんやである。ナーヴギアやアミュスフィアのペインアブソーブ機構によって過保護なまでに痛みを除去された結果、俺にとって負傷というのは財布から払うコインにも似た、単なる数値の増減でしかなくなった。そう――もしSAO世界にこんな痛みが存在すれば、俺は始まりの街から出ることもできなかったろう。
アンダーワールドは、魂の見る夢。もうひとつの現実。何日前のことかは定かでないが、エギルの店で自分が口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。何が『この世界を攻略したい』だ。剣の技を試してみたい、などとどうしようもない思い上がりだった。たったひとつの傷に耐えることのできない者に、そもそも剣を持つ資格があろう筈もない。
それにしても痛い。今すぐにこの痛みから解放されなければ、大声で泣き喚き助けを乞うてしまいそうだ。せめてそんな醜態を晒す真似だけはしたくない。
涙で滲む視界の先で、隊長ゴブリンが切断された左腕にぼろ布を巻き終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りの念で、周囲の空気が揺らいでいるかのようだ。口に咥えていた蛮刀を右手に移し、ぶんっ、と振り回す。
「……この屈辱は、お前らを八つ裂きにして、腸を食い散らしても収まりそうもねぇが……とりあえず、やってみるとするか」
いいから、早くやってくれ。どうせここから出て、STLの中で目を醒ましたら、すべての記憶を無くしているんだ。ユージオのことも。シルカのことも。あの子をいかなる犠牲を払っても助けると誓ったその数分後に、尻尾を巻いて逃げ出す自分へのどうしようもない嫌悪感さえも。
頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長ゴブリンから視線を外し、俺は遠く離れた場所に意識を失って横たわるシルカの姿をちらりと見た。そしてぎゅっと両目を瞑った。
重い足音が、転がる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な刀が高く振りかぶられるのを感じた。頼むから一撃、一瞬で片をつけてくれよ、と思いながら俺はこの世界から放逐される瞬間を待った。
だが、いつまで待ってもギロチンの刃は落ちてこなかった。かわりに、背後からだだっと氷床を蹴る音がして、すぐに聞きなれた叫び声が続いた。
「キリト――ッ!!」
驚いて目を見開くと、俺を飛び越えて隊長ゴブリンに打ちかかるユージオの姿が見えた。右手に握った曲刀を腕力だけでめちゃくちゃに振り回し、自分より遥かに大きい敵を二歩、三歩と後退させていく。
ゴブリンは一瞬驚いたようだったが、しかしすぐに余裕を取り戻し、蛮刀を巧みに操ってユージオの攻撃を左右に捌いた。瞬間痛みを忘れ、俺は叫んだ。
「やめろユージオ! 早く逃げろ!!」
だが、ユージオは我を忘れたかのように大声で叫びながら、尚も剣を振りつづけた。一撃のスピードには目を見張るものがあるが、いかんせんテンポが単調すぎる。隊長ゴブリンは、獲物の抵抗を楽しむかのようにしばらく防御に徹していたが、やがて一声ぐららうっ! と叫ぶとつま先でユージオの軸足を払った。体勢を崩し、たたらを踏むユージオ目掛けて――
「やめろおおおっ!!」
俺の叫びが届くより早く、蛮刀を横薙ぎに叩きつけた。