からーん、とどこか遠くで鐘の音がひとつ聞こえたような気がした。
それとほぼ同時に肩口を遠慮がちに突付かれ、俺は毛布に深く潜行しながらもごもごと唸った。
「うー、あと十分……いや五分だけ……」
「だめよ、もう起きる時間よ」
「三分……さんぷんでいいから……」
尚も肩をつんつんされているうちに、ようやく小さな違和感がまどろみを押し退けて浮上してくる。妹の直葉なら、こんなまだるっこしい起こし方はしない。大声で喚きながら髪を引っ張る鼻をつまむ等の乱暴狼藉を働き、最終的には布団を引っぺがすという悪鬼の所業に及ぶ。
ああ、そうか、と思いながら毛布から顔を出し、薄く目を開けると、すでにきちんと修道服を身につけたシルカの姿が目に入った。俺と視線が合うと、呆れたように唇をとがらせる。
「もう五時半よ。子供たちはみんな起きて顔を洗ったわ。早くしないと礼拝に間に合わないわよ」
「……はい、起きます……」
暖かいベッドを、あるいは平和な眠りを名残惜しく思いながら上体を起こす。ぐるりと見回すと、そこは昨夜の記憶にあるとおりの、ルーリッド教会二階の客間だった。もしくは、ソウル・トランスレーターの作り出した仮想世界アンダーワールドの内部、と言うべきか。俺の奇妙な体験は、どうやら一夜限りのはかない夢、というわけではなさそうだ。
「夢だけど、夢じゃなかった、か」
「え、何?」
けげんそうな顔をするシルカに、あわてて首を振る。
「いや、なんでもない。着替えてすぐ行くよ、一階の礼拝堂でいいんだろ?」
「そう。たとえお客様で、ベクタの迷子でも、教会で寝起きするからにはお祈りしなくちゃだめなんだからね。一杯の水と藁のベッドでも、それを与えてくれる神様に感謝しなさいって、シスターがいつも……」
そのままお説教が始まりそうだったので、俺はそそくさとベッドから出た。寝巻きとして貸し与えられた薄手のシャツを脱ごうと裾を持ち上げると、今度はシルカが慌てたような声を出した。
「あ、あと二十分くらいしかないからね、遅れちゃだめよ! ちゃんと外の井戸で顔を洗ってくるのよ!」
ぱたぱた、と足音をさせて床を横切り、大きな音をさせてドアが開閉するともうその姿は無かった。やっぱり、どう見てもNPCじゃないよな……と思いながらシャツを脱ぎ、椅子の背にかけてあった"初期装備"の青いチュニックを手に取る。ふと気付いて鼻先に持ってきてみたが、幸い汗の匂いはしないようだった。さすがに、匂いのもとになる雑菌類までは再現していないのだろう。もしかしたら、汚れや綻びといったものはすべて"天命"という名の耐久度に統合してあるのかもしれない。とは言え、この世界での滞在が長引くならいずれ下着を含めた替えは必要になるだろうし、そのために通貨を入手する方策も検討しなくてはならない。
などと考えながら上下とも着替えを終え、俺は部屋を出た。
階段を降り、炊事場の横にある裏口で適当なサンダルを借りて外に出ると、見事な朝焼けが頭上に広がっていた。まだ六時前と言っていたが、そういえばこの世界の住民は時間をどのようにして知っているのだろう。食堂にも、客間にも時計のようなものはなかった。
首を捻りながら、四角く切った石畳の上を歩く。すぐに、大きな樹の下に井戸が見えた。すでに子供たちが使ったあとらしく、周囲の草が濡れている。蓋を外し、つるべから下がった木製のバケツを落とすと、からからかぽーんと景気のいい音がした。ロープを引いて、バケツになみなみと汲まれた透明な水を傍らのたらいに移す。
手が切れるほど冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、ついでにもう一杯汲み上げてごくごく飲むと、ようやく眠気の残滓がきれいさっぱり吹き飛んでいった。昨夜はおそらく九時前には眠りについたので、こんな早起きをしてもたっぷり八時間以上は眠っているはずだ……とそこまで考えてから、しかし、と首を捻る。
ここがアンダーワールドなら、おそらくSTRA機能が今も働いているはずだ。倍率が三倍なら俺の実際の睡眠は三時間以下だし、まさかとは思うが昨日おぼろげに予想した、千倍という恐るべき加速ならば三十秒たらず(!)だ。それっぽっちで、こんなにも頭がすっきりするものだろうか。
まったく、わけのわからないことだらけだ。一刻もはやくこの世界から脱出し、状況を確かめなければ……と思う反面、昨夜眠る前にかすかに響いた囁き声がまだ耳から離れない。
俺が、桐ヶ谷和人の意識と記憶を保ったまま今この世界に在るのは、イレギュラーな事故の結果にせよ何者かの意思によるものにせよ、為すべき何かのためではないのか? 俺は別に運命論者ではないが、しかし反面、すべての物事には何らかの意味があるのだ、と考えがちであることも否定できない。だって――そうでなければ、SAO事件で消滅した一万の生命は、いったい何のために……。
ばしゃり、ともう一度顔に冷水をぶつけて、俺は思考を断ち切った。当面の行動方針はふたつだ。まずは、この村にラースの監視者が居るのか調べる。そして同時に、央都とやらに行く方法を探る。
前者は、それほど難しいことではない気がする。STRAの倍率が不明な状況でははっきりしたことは言えないが、少なくともラースの技術者が村人を装って暮らしているなら、何年、何十年もぶっ続けでダイブすることは不可能なはずだ。つまり、行商やら旅行といった理由で長期間留守にすることがある住民がいれば、そいつがオブザーバーである可能性が高い。
後者は――正直なところノーアイデアだ。ユージオは、央都まで馬でひと月かかると言っていた。その馬をどうやって手にいれるのか見当もつかないし、旅に必要な装備も資金も何一つ持っていないし、そもそも今の俺にはこの世界の基本的な知識が欠如しすぎている。ガイドをしてくれる人間が必要なのは明らかで、もっとも適任と思えるのはユージオだが、彼には一生かけても終わらない"天職"があるときている。
いっそ、俺も禁忌目録とやらに重大な違反をして、なんとか騎士に逮捕されれば話は早いのだろうか。しかし、それで央都まで連れていかれた途端斬首だの磔刑にされては、判明するのはこの世界で死んだらどうなるのかという、それだけだ。
あとでユージオに、神聖魔法には蘇生呪文もあるのかどうか聞いておかないとな、などと考えていると、教会の裏口がばたんと開き、シルカの小さな姿が見えた。と思ったとたん、大声で叱られてしまう。
「キリト、いつまで顔洗ってるのよ! 礼拝はじまっちゃうわよ!」
「あ、ああ……ごめん、すぐ行く」
俺は片手を上げると、井戸の蓋を戻して早足で建物へと向かった。
厳かな礼拝と賑やかな朝食が終わると、子供たちは掃除や洗濯といった雑務に取り掛かり、シルカはシスター・アザリヤと一緒に神聖術の勉強をするために書斎へ消えて、俺は食って寝るだけの居候の身に少々の罪悪感を覚えながら、今度は正面の入り口から外へと出た。
前庭を突っ切って青銅の門をくぐり、円形の中央広場の真ん中でユージオを待つ。
数分と経たないうちに、消えかけた朝靄の奥から見覚えのある亜麻色の髪が近づいてくるのが見えた。同時に、背後の教会の尖塔から、華麗なメロディを奏でる鐘の音が聞こえた。
「ああ……なるほど」
ユージオは、俺が開口一番そんなことを言ったので、驚いたように目をぱちくりさせた。
「おはよう、キリト。なるほどって、何が?」
「いや……。あの、一時間ごとに鳴る鐘の音が、毎回違う旋律なのに今ごろ気付いた。つまりこの村の人は、あの鐘で時間を知ってるわけなんだな」
「もちろん、そうだよ。"ソルスの光の下に"っていう有名な賛美歌を、一節ずつ十二に分けて鳴らしてるんだ。それと、半刻ごとにカーンとひとつ。残念ながらギガスシダーのところまでは音が届かないから、僕はソルスの高さで時間を見当するしかないんだけど」
「なるほどなあ……」
俺はもう一度呟きながら、塔の天辺を振り仰いだ。四方に切られた円形の窓の奥に、大小たくさんの鐘がきらきらと光っている。だが、たった今鐘が鳴り終わったばかりなのに、その下に人影は無かった。
「あの鐘は、どうやって鳴らしてるの?」
「……ほんとにキリトは、何もかも忘れちゃったんだなあ」
ユージオは、呆れたような面白がるような声で言ってから。咳払いして続けた。
「誰も鳴らしてないよ。あれは、この村にたった一つある神聖器だからね。決まった時刻に、一秒もずれることなくひとりでに鳴るんだ。もちろん、ルーリッドだけじゃなくて、ザッカリアにも、他の村や街にもあるんだけどね。……ああ、でも、今はもうひとつあるかな……」
闊達なユージオにしては珍しく、語尾が口の中に飲み込まれるように消えたので、俺は眉を上げて首を傾げた。だが、ユージオはそれ以上この話題を続ける気はないようで、ぱん、と両手で腰を叩いて言った。
「さて、僕はそろそろ仕事に行かないと。キリトは、今日はどうするんだい?」
「ええと……」
俺は少し考えた。この村をあちこち探検して回りたいのはやまやまだが、独りでうろついて妙なトラブルに巻き込まれないとも限らない。先刻考えたとおり、監視者の見当をつけるだけなら、ユージオに留守がちの村人がいないかそれとなく訊けばいいわけだし、彼をそそのかして央都に向かおうという俺の悪辣な計画のためには、ユージオの天職自体についてももう少し調べてみる必要がある。
「……ユージオさえよければ、今日も仕事を手伝わせてくれないか」
思案のすえそう言うと、ユージオは大きく笑って頷いた。
「もちろん、僕は大歓迎だけど。何となく、キリトがそう言うんじゃないかと思って、ほら、今日はパン代を二人分持ってきたんだ」
ズボンのポケットから小さな銅貨を二枚取り出し、掌でちゃりんと音を立てる。
「ええっ、いやそりゃ悪いよ」
慌てて手と首を振ると、ユージオは肩をすくめて笑った。
「気にしないで。どうせ、毎月村役場から貰う給金も、使うアテなんてないから無駄に貯めてるだけなんだ」
お、いいねいいね、央都までの路銀もこれで宛がついた。と、人非人の俺は内心で考えた。あとは、ユージオの天職、もしくはあのでかい樹をどうにかするだけだ。
そんなことを考えているのが今更ながら心苦しくなるほどに朗らかな笑顔を浮かべたまま、ユージオはじゃあ、行こうかと言って南へ足を向けた。その後を追いながら、俺はもう一度振り向き、毎時自動的に奏でられるという鐘楼を見上げた。
まったく、実に奇妙な世界だ。現実と見紛うほどのリアルな農村生活が繰り広げられているそのすぐ傍に、拭いがたくVRMMO世界っぽさが漂っている。かつて暮らしたアインクラッドの各主街区でも、きっかり一時間ごとに時を告げる鐘の音が鳴り響いたものだ。
神聖魔術、そして神聖教会か。はたしてそれらに、システムコマンド、ワールドシステム、と振り仮名を振っていいものかどうか。だがそうすると、世界の外にあるという闇の王国とやらの存在をどう考えるべきか。システムと対立するシステム……。
物思いに耽る俺の隣で、ユージオはパン屋と思しき店先でエプロン姿の小母さんと快活に挨拶をかわし、例の丸パンを四つ購入した。覗き込むと、店の奥では、店主らしい男が小麦の塊をばんばん捏ね、大型のかまどからは盛んに香ばしい匂いがしてくる。
あと一時間、いや三十分も待てば焼きたてのパンが買えるのだろうに、と思うが、そのへんの融通の利かなさも"天職"という厳格なシステムの一部なのだろう。ユージオが森について斧を振りはじめる時間はすでに決定されており、動かすことはできないのだ。そんなものをひっくり返して彼を旅に連れ出そうというのだから、俺の計画が容易なものではないことも推して知るべし、だ。
だが、どんなシステムにも抜け道はある。風来坊の俺が、彼の手伝いとして仕事に潜り込むことができたように。
南のアーチをくぐり、俺とユージオは緑の麦畑を貫く道を、遠くに横たわる黒い森目指して歩き始めた。この場所からも、一際高く鋭いギガスシダーの姿ははっきりと見て取れた。
ユージオと交替しながら、懸命に竜骨の斧を振るうちに、ソルスという名の太陽はものすごい速さで中天まで駆け上った。
俺は、鉛のように重くなった両腕に鞭打って、五百発目のスイングをお化け杉の胴体に叩き込んだ。こぉーん、と胸のすくような高い音とともに、ほんの小さな木っ端が飛んで、巨樹の膨大な耐久値がわずかに減少したことを知らせた。
「うああ、もうだめだ、もう振れない」
俺は悲鳴を上げて斧を放り出すと、ぼろ切れのように苔の上に崩れ落ちた。ユージオが差し出してくる水筒を受け取り、シラル水と言うらしいさわやかな味の液体を貪るように飲む。
そんな俺の様子を、こちらは余裕しゃくしゃくな笑顔で見ながら、ユージオは教師のような口調で言った。
「でも、キリトは筋がいいよ、ほんと。たった二日で、かなりまともに当たるようになったじゃないか」
「……それでも、まだユージオにはぜんぜん及ばないからな……」
溜息をついて座りなおし、背中をギガスシダーの幹に預ける。
改めて、たっぷりと重い斧を振り回したおかげで、俺はこの世界における己のステータスをあるていど把握できた気がしていた。
もう分かっていたことだが、旧SAO世界のキリトが備えていた超人級の筋力、敏捷力には及びもつかない。と言って、現実世界の虚弱な桐ヶ谷和人準拠というわけでもない。現実の俺なら、こんなごつい斧を何十回も振りまわせば全身筋肉痛で翌日は起き上がれないだろう。
つまりどうやら、今の俺の体力は、この世界における十七、八の若者の平均値ということなのだろう。さすがに七年もこの仕事をやっているだけあって、ユージオのそれは俺をかなり上回っているように感じる。
幸いなのは、体を動かす勘、あるいはイメージ力といったものは、これまでプレイしたVRMMOと同じかそれ以上に有効に機能するようだ。重量と軌道を意識しながら何百回もスイングしたおかげで、どうやらこの"要求STRの高い"斧をそこそこコントロールできるという自信は持てそうだった。
それに、同じ動作の反復練習というのは、かつてあの世界で反吐が出るほど行った、言わば俺の得意分野だ。少なくとも根気だけは、ユージオにも負けはしない――。
いや……待て。俺はいま、何か重要なことを……。
「ほら、キリト」
ユージオがひょいっと放ってきた二個の丸パンが、俺の思考を中断させた。慌てて両手でひとつずつ受け止める。
「……? どうしたんだい、妙な顔して?」
「あ……いや……」
俺は、するりと滑り落ちてしまった思考のしっぽを捕まえようと四苦八苦したが、何か大切なことを考えたぞ、というあのもどかしさだけが霧のように漠然と漂うだけだった。まあいい、重要なことならそのうち思い出すだろう、と肩をすくめ、改めてユージオに礼を言う。
「ありがとう。遠慮なく、頂きます」
「不味いパンで悪いけどね」
「いやいやそんなそんな」
大口を開けてがぶりと噛み付く。味はいい――が、正直なところやはり相当に固い。その感想はユージオも異なりはしないようで、顔をしかめて顎を全力で動かしている。
二人無言のまま一つ目のパンをどうにか胃に収め、顔を見合わせて微妙な笑いを浮かべた。ユージオはシラル水を一口含み、ふっ、と視線を遠くに向ける。
「ああ……ほんと、キリトにも、アリスのパイを食べさせてやりたかったなあ……。皮がさくさくして、汁気のある具がいっぱいに詰まってて……絞りたてのミルクと一緒に食べると、世の中にこれより美味しいものはない、って思えた……」
話を聞いているうちに、不思議に俺の舌にもそのパイの味が甦るような気がして、とめどなく生唾がわいた。慌ててふたつ目のパンを一口齧ってから、遠慮がちに尋ねる。
「なあ、ユージオ。その……アリスは、教会で神聖魔術の勉強をしてたんだよな? シスター・アザリヤの後を継ぐために」
「うん、そうだよ。村始まって以来の天才って言われて、十歳の頃からもういろんな術が使えたんだ」
どこか誇らしげにユージオは答える。
「じゃあ……今教会で勉強してる、シルカって子は……?」
「ああ……。シスター・アザリヤも、アリスが整合騎士に連れて行かれてからずいぶんと気落ちしてね。もう生徒は取らないって言ってたんだけど、そういう訳にもいかないからって、村の偉い人たちが説得して、一昨年ようやく新しい見習としてあの子が教会に入ったんだ。シルカは、アリスの妹なんだよ」
「妹……。へえ……」
どちらかと言うと、しっかり者のお姉さん、といった印象のシルカの顔を思い浮かべながら、俺は呟いた。あの子の姉というなら、アリスという少女もさぞかし面倒見のいい世話焼きタイプだったのだろう。のんびりしているユージオとは、きっといいコンビだったに違いない。
そんなことを考えながらちらりと視線を向けると、樵の少年は何故か、気がかりそうにちいさく眉を寄せていた。
「……歳が五つも離れてるから、僕はあんまり一緒に遊んだこととか無いんだけどね。たまに僕がアリスの家にいくと、いつも恥ずかしそうにお母さんやお婆さんの後ろに隠れてるような子だったな……。ガスフト村長や他の大人たち、それにシスター・アザリヤも、あのアリスの妹だからきっとシルカにも神聖術の才能があるってすごく期待してるみたいだけど……でも、どうなのかな……」
「シルカには、お姉さんほどの才能は無い、って言うのか?」
俺の直截すぎる訊きかたのせいか、ユージオはかすかに苦笑して首を振った。
「そうは言わないよ。誰だって、天職に就いたばかりの頃はうまくやれないさ。僕も、まともに斧を振れるまでには三年以上かかったんだ。真剣に頑張れば、どんな天職だって無理ってことはない。ただ……シルカは、ちょっと頑張りすぎてるような気がして……」
「頑張りすぎ?」
「……アリスは、神聖術の勉強をはじめてからも、べつに教会に住み込んでたわけじゃないんだ。勉強は午前中だけで、お昼には僕の弁当を届けてくれて、午後には家の仕事の手伝いをしてた。でもシルカは、それじゃ勉強の時間が足りないからって、家を出たんだよ。ちょうど、ジェイナやアルグが教会で暮らすようになって、シスターだけじゃ手が足りなかった、ってのもあったみたいなんだけど」
俺は、小さな子供たちの面倒をこまめに見ているシルカの姿を思い出した。とりたて辛そうには見えなかったが、確かに一日中勉強をした上で六人もの子供の世話をするのは、自身まだ十二歳でしかない少女にとっては簡単なことではないだろう。
「なるほどな……。そこに、更にわけのわからない風来坊が飛び込んできたわけか。せめて俺は、シルカに面倒はかけないようにしないとな」
明日はきちんと五時半に起きよう、と決意してから、そう言えばと言葉を続ける。
「あの教会で暮らしてる、シルカ以外の子供たちは、親を亡くしたんだって? 両親ともなのか? あの平和そうな村で、なんで六人も?」
それを聞いたユージオは、憂い顔を作って地面に視線を落とした。
「……三年前のことなんだけど、村に流行り病がきてね。ここ百年以上無かったことらしいんだけど、大人や子供が、二十人以上も亡くなったんだ。シスター・アザリヤや、薬師のイベンダおばさんが手を尽くしても、一度高い熱が出たらもう誰も助からなかった。教会にいる子供たちは、その時両親を失ったんだ」
俺は、予想外のユージオの言葉に唖然として言葉を失った。
伝染病だって? ――しかし、ここは仮想世界なんだ。細菌やウイルスなんてあるはずがない。つまり、病気による死者は、世界を管理する人間あるいはシステムが作り出したものだ。しかし、何のために? 住民に意図的な負荷を与えることで、一体何をシミュレートしようというのだろう?
結局、すべてそこに行き着くのだ。この世界が存在する理由――。
俺の深刻な顔をどう受け取ったのか、ユージオも沈んだ表情のままさらに口を開いた。
「流行り病だけじゃない。ちかごろ、おかしな事が多い気がするんだ。はぐれ長爪熊や、黒森狼の群が人を襲ったり、小麦の穂が膨らまなかったり……。ザッカリアからの定期馬車も、来ない月がある。その理由が……街道のずっと南に、盗賊団が出るからだ、って言うんだよ」
「な、なんだって」
俺は二、三度まばたきを繰り返した。
「盗賊って……だって、あれだろ? 盗みは、禁忌目録で……」
「勿論。すごい最初のほうのページに出てるよ、盗みを働くべからず、って。だから、もし盗賊団なんてものが本当にいたら、整合騎士があっという間に討伐してしまうはずなんだ。しなきゃならないんだよ、アリスを連れていった時みたいに」
「ユージオ……」
いつも穏やかなユージオの声に、不意に深い遣り切れなさ、とでも言うべきものが混じった気がして、俺はもう一度驚いた。が、それは一瞬で消え去り、少年の口もとにはまたかすかな笑みが浮かんだ。
「……だから、僕はそんなのただの噂話だろうって思ってる。でも、ここ二、三年で教会裏の墓地にだいぶ新しいお墓が増えたのは確かなんだ。そういう時期もある、って祖父ちゃんは言うんだけど」
そういえば、今がかねてからの疑問をぶつけてみるチャンスだ、と思い、俺はさりげなく聞こえるよう注意しながら尋ねた。
「……なあ、ユージオ。神聖術には、その……人を生き返らせるようなものは無いのか?」
どうせまた、常識を疑うような目で見られるんだろうなあ、と身構えていると、あにはからんやユージオは真剣な顔で小さく唇を噛み、それとわからない程に頷いた。
「……村の人たちはほとんど知らないだろうけど、高位の神聖術には、天命そのものを増やすようなものもある、ってアリスが言ってた」
「天命を……増やす?」
「うん。あらゆる人や物の天命は……僕やキリトのもだけど、人の手で増やすことはできないよね。たとえば人の天命は、生まれたときから、大きくなるに従ってどんどん増えていって、だいたい二十五歳くらいで最大になる。そのあとはゆっくりゆっくり減っていって、七十から八十歳くらいで無くなって、ステイシアのもとに召される。これくらいはキリトも覚えてるだろう?」
「あ、ああ」
当然初耳だったが、俺は鹿爪らしい顔で頷いた。
「でも、病気や怪我をすると、天命が大きく減る。傷の深さによっては、そのまま死んじゃうこともある。だから神聖術や薬で治療する。そうすると、天命は回復することもあるけど、決してもとの量以上には増えないんだ。年寄りにどんなに薬を飲ませても、若い頃の天命は戻らないし、深すぎる傷を癒すこともできない……」
「でも、それを可能にする術もある、ってことか?」
「アリスも、教会の古い本でそれを知って驚いた、って言ってた。シスター・アザリヤにその術について聞いたら、すごい怖い顔になって、本を取り上げられて読んだことは全部忘れなさいって言われた、って……。だから僕も詳しいことは聞いてないんだけど、なんでも、神聖教会のすごく偉い司教たちだけが使える術らしいんだ。百歳を超えた老人や、手足が千切れた怪我人の天命を呼び戻す……もしかしたら、天命がゼロになった亡骸にさえも命を与える術かもしれない、って……」
「へえ……。偉い司教、か。じゃあそれは、教会の僧侶なら誰でも使えるってわけじゃないのか」
「勿論だよ。だって、もしシスター・アザリヤにそんな術が使えたら、あの人なら絶対に子供の親、親の子供が病で死ぬようなことを黙って見てるわけないもの」
「なるほどな……」
つまり、今俺がこの場で死んだとしても、教会の祭壇で壮麗なオルガンの音とともに甦る、というようなことは無いと考えてよさそうだった。その場合はおそらく、現実世界に復帰することになるのだろう。いや、そうでなければ大いに困る。STLに、フラクトライトを破壊するような機能は無い――無いはずなのだから。
だが、脱出方法としてそいつを試すのは、可能な限り最後の手段としたいのもまた事実だった。ここがアンダーワールドであるというのは決して確定事項ではないのだし、その確信を持てたとしても、この世界の存在目的を知らないうちに脱出してしまっていいのか――と、魂の奥深くでささやく声がするのだ。
今すぐ央都に瞬間転移し、神聖教会とやらに駆け込んで、システムの中枢なのだろう司教たちの首根っこをぎゅうぎゅう締め上げてやりたい。ステータスは参照できるくせにテレポートができないとは、プレイアビリティに欠けることこの上ない。
これが普通のVRMMOなら、今すぐGMを呼びつけて不満を捲し立てるか、運営体に送るメールの文面でも考えるところだ。だがそれが出来ない以上、システムの許す範囲で最大の努力をするしかない。そう、かつてアインクラッドで、フロア攻略に散々知恵を絞ったように。
俺はふたつ目のパンを胃に送り込むと、ユージオが差し出す水筒を口につけながら頭上に伸びるバカ高い幹を見上げた。
央都に行くためには、どうしてもユージオの協力が必要だ。しかし、真面目な彼に天職を放り出せと言っても無駄だろうし、そもそも禁忌目録で禁止されているのだろう。ならば、この厄介な樹を何とか片付けるしかない。
視線を戻すと、ユージオがズボンをはたきながら立ち上がるところだった。
「さ、そろそろ午後の仕事を始めよう。まずは僕からだね、斧を取ってくれないか」
「ああ」
ユージオの差し出す手に、俺は傍らに立て掛けてあった竜骨の斧を渡そうと、右手で柄の中ほどを握った。
その瞬間、電撃のように脳裏に閃くものがあった。先ほど掌からするりと漏れていった"重要な何か"、その尻尾を今度こそ捕まえると、慎重に引っ張り上げる。
ユージオは確かこう言っていたはずだ。普通の斧では簡単に刃こぼれしてしまうから、央都から大枚はたいてこの竜骨の斧を取り寄せた、と。
ならば、もっと強力な斧を使えばどうなのだ。さらなる攻撃力、耐久力を持ち、"要求STRの高い"やつを。
「な、なあユージオ」
俺は息せき切って尋ねた。
「村には、これより強い斧はないのか? 村になくても、ザッカリアの街とかに……。これを仕入れてからもう三百年も経つんだろ?」
だがユージオはあっけなく首を横に振った。
「あるわけないよ。竜の骨っていうのは、武器の素材では最高のものなんだよ。南方で作るダマスク鋼や、東方の玉鋼より固いんだ。これ以上強いって言ったら、それこそ整合騎士が持ってるような……神聖器でないと……」
語尾が揺れながらフェードアウトしていくので、俺は首をかしげて続きを待った。たっぷり五秒ほども沈黙したあと、ユージオはごく小さな声で、あたりを憚るように囁いた。
「……斧は無い。でも……剣ならある」
「剣?」
「ぼくが、教会の前で、時告げの鐘のほかに神聖器がもうひとつある、って言ったのを覚えてる?」
「あ……ああ」
「村で、知ってるのは僕だけだ。七年間、ずっと隠しておいたんだ……。見てみたいかい、キリト?」
「も、もちろん! 見たい、ぜひ見たい」
意気込んでそう言うと、ユージオはなおも思案する様子だったが、やがて頷いて一度握った斧を再度俺に押し返してきた。
「じゃあ、キリトから先に仕事を始めていてくれないか。取って来るけど、すこし時間がかかるかもしれない」
「遠くにあるのか?」
「いや、すぐそこの物置小屋さ。ただ……重いんだ、とてつもなく」
その言葉どおり、俺が五十回の斧打ちを終えるころようやく戻ってきたユージオは、疲労困憊した様子で額に玉の汗を浮かべていた。
「お、おい、大丈夫か」
聞くと、答える余裕もなさそうに短く頷きながら、肩に担いでいたものを半ば投げ出すように地面に落とした。どすん、と鈍い音が響き、苔の絨毯が大きくへこむ。はあはあと荒い息を繰り返してへたりこむユージオに、水筒を拾い上げて渡すのももどかしく、俺は横たわるそれを注視した。
見覚えがある。長さ一・三メートルほどの、細長い革包みだ。昨日ユージオが竜骨の斧を仕舞った物置小屋の床に、無造作に放り出されていたものに間違いなかった。
「開けていいか?」
「あ……ああ。気を……つけなよ。足の上に、落っことしたら、かすり傷じゃ……すまないぞ」
ぜいぜい喉を鳴らしながらそう言うユージオにひとつ頷いてから、俺はいそいそと手を伸ばした。
そして腰を抜かしそうなほどに驚いた。いや、ここが現実なら、本当に腰椎のひとつくらいズレてもおかしくない。それほどに、革包みは重かった。しっかり両手で握ったのに、まるで地面に釘止めでもされているかのごとく動こうとしないのだ。
現実世界における妹の直葉は、ハードな剣道部の練習に加えて筋トレの鬼なので、外見とくらべて存外重いのだが、包みの体感重量は誇張でなく彼女くらいありそうだった。改めて両足をしっかり踏ん張り、腰を入れて、バーベルを持ち上げるつもりで全身の筋力を振り絞る。
「ふっ……!」
みしみし、と各所の関節が軋んだ気がしたが、ともかく包みは持ち上がった。紐で縛ってあるほうが上にくるように垂直にすると、改めて下部を地面に預ける。倒れないように左手で必死に支えながら、右手一本でぐるぐる回してある紐を外し、革袋を下にずらしていく。
中から現れたのは、思わず溜息が出そうになるほど美しいひとふりの長剣だった。
柄は精緻な細工が施された白銀製で、握りにはきっちりと白い革が巻いてある。ナックルガードは植物の葉と蔓の意匠で、それが何の種類かはすぐにわかった。柄と同じく白革造りの鞘の上部に、鮮やかな青玉で、薔薇の花の象嵌が埋め込んであったからだ。
大変な年代物、という雰囲気ではあるが汚れや染みはまるで無かった。主を得ることなく長い、長いあいだ眠っていた剣、そんなふうに思わせる風格を漂わせている。
「これは……?」
顔を上げて尋ねると、ようやく呼吸が整ったらしいユージオはどこか懐かしそうな、切なそうな目の色でじっと剣を見つめながら口を開いた。
「"青薔薇の剣"。ほんとうの銘かどうかわからないけど、おとぎ話じゃそう呼ばれてる」
「おとぎ話だって?」
「村の子供……いや大人もだけど、誰だって知ってる話さ。――三百年前、ルーリッドの村を作った初代の入植者のなかに、ベルクーリっていう名剣士が居たんだ。彼にまつわる冒険譚は山ほどあるんだけど、中でも有名なのが"ベルクーリと北の白い竜"ってやつでね……」
ユージオはふっと視線をどこか遠くに向け、かすかな感傷の滲む声で続けた。
「……簡単に筋だけ説明すると、果ての山脈を探検に出かけたベルクーリは、洞窟の奥深くでドラゴンの巣に迷い込むんだ。主の白竜は幸い昼寝の最中で、ベルクーリは即座に逃げ帰ろうとするんだけど、巣に散らばる宝の山の中にひとふりの白い剣を見つけて、それがどうしても欲しくなってしまう。音を立てないように慎重に拾い上げて、さて一目散に逃げようとしたら、その途端剣からみるみる青い薔薇が生えてきて、ベルクーリをぐるぐる巻きにしちゃう。堪らず倒れたその音で、ドラゴンが目を醒まして……っていう、まあそういう話」
「そ、それからどうなったんだ」
つい引き込まれながら尋ねるが、ユージオは長くなるから、と笑いながら首を振った。
「まあ、いろいろあってベルクーリはどうにか許してもらって、剣を置いて命からがら村に逃げ帰ってきました。めでたしめでたし……他愛ないおとぎ話だよね。もし、それを確かめにいこう、なんて考える子供さえいなければ……」
深い後悔に彩られたその声を聞いて、俺は悟った。その子供とは、ユージオ自身のことなのだ。そして、彼の幼馴染のアリスという少女も。
しばしの沈黙のあと、ユージオは続けた。
「六年前、僕とアリスは果ての山脈までドラゴンを探しにいった。でも、ドラゴンはいなかった。かわりに、刀傷のある骨の山があるだけだった」
「え……ドラゴンを殺した奴がいるってのか? 一体、誰が……?」
「わからないよ。ただ……宝には興味のない人間だろうね。骨の下には、山ほど色々な宝物が転がってた。そして、その"青薔薇の剣"も。もちろん、あの頃の僕じゃ重くてとても持ち帰れなかったけど……。――そしてその帰り道、僕とアリスは洞窟の出口を間違えて、山脈を闇の王国側に出ちゃったんだ。あとは昨日話したとおりさ」
「そうか……」
俺はユージオから視線を外し、改めて両手で支えたままの剣を眺めた。
「でも……その剣が、なんでここに?」
「……おととしの夏、もう一度北の洞窟まで行って、持ってきたんだ。安息日ごとにほんの何キロかずつ運んでは、森の中にかくして……あの物置小屋まで持ち帰るのに、三月もかかったんだよ。なんでそんなことしたのか……ほんと言うと、僕にもよくわからないんだけどね……」
アリスのことを忘れたくなかったからか? それとも、いつかこの剣を携えてアリスを助けにいくつもりだった?
色々な想像が胸を過ぎったが、それを言葉にするのは憚られた。代わりに、俺は歯を食い縛ってもう一度剣を持ち上げ、右手で柄を握ってそれを抜こうとした。
まるで地面に深く刺さった杭を引き抜こうとするがごとき凄まじい抵抗があったが、一度動き出すとあとは押し出されるような滑らかさで鞘走った。シャーン、と涼しげな音を立てて刀身が抜け、同時に右肩から腕がもげそうになり、俺は慌てて左手の鞘を捨てて柄を両手で握る。
革造りと見えた鞘にすらとてつもない重量があったようで、ずんと音を立てて石突が地面に突き刺さった。危く左足を貫かれるところだったが、飛び退る余裕もなく俺は懸命に抜き身を支えた。
幸い、剣は鞘のぶん三割方軽くなり、どうにかしばらく保持していられそうだった。俺は吸い寄せられるように目の前の刀身に見入った。
不思議な素材だった。幅およそ三センチとやや細身のそれは木漏れ日を受けて薄青く輝いている。よくよく眺めると、日光はその表面で跳ね返されるだけでなく、いくらかは内部に留まっていつまでも乱反射しているように見えた。つまりわずかに透明なのだ。
「普通の鋼じゃないよね。銀でもないし、竜の骨とも違う。もちろんガラスでもない」
ユージオが、わずかに畏れを感じさせる調子で呟いた。
「つまり、人の手によるものじゃない、ってことさ。神様の力を借りて強力な神聖術師が鍛えたか、あるいは神様が手ずから創りだした……そういうもののことを"神聖器"って言うんだ。その青薔薇の剣も、神聖器のひとつだと、僕は思う」
神。
ユージオの話や、シスターのお祈りの端々に"ソルス"や"ステイシア"といった神なる存在が出てくるのには気付いていたが、俺はいままでこういうファンタジー世界にありがちな概念のみの設定物だと思い込んでいた。
だがこのようにして、神が創ったアイテムなどというものが登場するからには考えを改めるべきなのだろうか。仮想世界における神――それはつまり、現実世界における管理者のことか? あるいは、サーバー内のメインプログラムのことなのか?
それもまた、考えて答えの出る疑問ではなさそうだった。今のところは、神聖教会とやらとひっくるめて"システム中枢"的存在と位置付けておくしかない。
ともかく、この剣が、システム的にかなり上位のプライオリティを与えられたオブジェクトなのは間違いないだろう。あとは、同じく上位オブジェクトと目されるギガスシダーと、どちらの優先度が高いか――。それによって、ユージオと一緒に央都にいけるかどうかも決まるわけだ。
「ユージオ。ちょっと今の、ギガスシダーの天命を調べてくれないか」
剣を構えたままそう言うと、ユージオは疑わしそうな目で俺を見た。
「ちょっとキリト……まさか、その剣でギガスシダーを打とうなんて言うんじゃないよね」
「まさかどころか、それ以外にこいつを持ってきてもらった理由があるとでも?」
「ええー……でもなあ……」
首を捻って考え込むユージオに、迷う隙を与えるものかと畳み掛ける。
「それとも、禁忌目録に、ギガスシダーを剣で叩いちゃだめだ、なんて項目があるのか?」
「いや……そりゃ、そんな掟はないけど……」
「あるいは村長とか、前任の……ガリッタ爺さんに、竜骨の斧以外使っちゃだめだと言われたか?」
「いや……それも……。……なんだか……前にもこんなことあったような気がするなぁ……」
ユージオはぶつぶつ言いながら、それでも腰を上げるとギガスシダーに近づいた。左手で印を切り幹を叩き、浮かんできたウインドウを覗き込む。
「ええと、二十三万二千三百と十五、だね」
「よし、それ覚えといてくれよ」
「でもさあ、キリト。その剣をまともに振ろうだなんて、絶対無理だと思うよ。持ってるだけでふらふらしてるじゃないか」
「まあ見てろって。重い剣は力で振るんじゃない。重心の移動がミソなんだ」
もうはるかな昔のこととなってしまったが、旧SAO世界において俺は好んで重量のある剣を求めた。手数で勝負する速度重視の武器よりも、重さの乗った一撃で敵を粉砕する手応えに魅せられたからだ。レベルが上昇し、筋力値が増加するに伴って剣の体感重量は減少してしまうためその都度より重いものに乗り換え、最終的に装備していたやつはたぶんこの青薔薇の剣と大差ない手応えがあったはずだ。その上、往時の俺は左右の手で一本ずつ剣を操るなどという荒業さえこなしていたのである。
もちろんワールドシステムの根幹が違うのだから単純に同一視はできないが、少なくとも体捌きのイメージくらいは流用できよう。ユージオが樹から離れるのを待って、俺は深い斧目の左端に移動すると、腰を落とし、持っているだけで両腕が抜けそうになる剣を下段に構えた。
連続技でも何でもない、単純な右中段水平斬りでいいのだ。SAOのソードスキル名を借りれば"ホリゾンタルアーク"、スキル熟練度50足らずでマスターできる超のつく基本技。
俺は呼吸を整えると、体重を右足に移しながらテイクバックを開始した。剣の慣性質量に引っ張られ左足が浮く。そのまま尻餅をつきそうになるが、剣尖がトップポイントに達するまで必死に堪え、右足で思い切り地面を蹴って重心を左半身に移していく。同時に脚、腰の捻転力
を腕から剣に乗せ、スイングを開始する。
剣が発光することも、動きが自動的に加速されることもなかったが、俺の体は完璧にソードスキルの型をトレースしていった。着地した左足がずしんと地面を震わせ、移動する巨大な質量は慣性に逆らうことなく理想の軌道に乗って突進する――。
が、模範的演技はそこまでだった。踏ん張りきれずに両足が膝からふらつき、剣は目標を遥か離れた樹皮に激突した。
ぎいいいん、と耳をつんざくような音がして、周囲の森から一斉に小鳥が飛び立ち四方へ逃げ出していった。が、俺はそれを見ることもできなかった。反動に耐え切れず手が柄から離れ、無様に宙を飛ぶと、顔から苔に突っ込んだのだ。
「わあ、言わんこっちゃない!」
駆け寄ってきたユージオに助け起こされた俺は、口に詰まった緑の苔を必死に吐き出した。真っ先に着地した顔もさることながら、両手首、腰、両膝が悲鳴を上げたくなるほど痛い。しばしその場にうずくまって呻吟してから、どうにか声を絞り出す。
「……こりゃだめだ……ステータスが真っ赤だ……」
旧SAOにおいて要求STRを上回る武器を装備したときのウインドウ表示状態がユージオに伝わるはずもなく、不思議そうに首をひねる彼に向かって俺は慌てて言い添えた。
「いや、その……ちょっと体力が足らないみたいだな。ていうか、あんな化け物、装備できる奴がいるのかよ……」
「だから、僕らには無理なんだって。ちゃんと剣士の天職を得た……それも、街の衛兵隊に入れるくらいの人でないとさ」
俺は肩を落とし、右手首をさすりながら振り返った。ユージオもつられたように背後を見る。
そして二人同時に呆然と凍りついた。
青薔薇の剣は、美しい刀身を半分ちかくもギガスシダーの樹皮に食い込ませ、そのまま空中に横たわっていた。
「……うそだろ……たった一撃で、こんな……」
ふらりと立ち上がったユージオは、しばらく絶句したのちにかすれ声で呟いた。
右手の指先をおそるおそる伸ばし、剣と樹の接合部をゆっくりなぞる。
「刃が欠けたんじゃない……ほんとに、ギガスシダーに切り込んでる……」
俺も全身の痛みを堪えながら立つと、汚れた服をはたきながら言った。
「な、試してみただけのことはあるだろ。その青薔薇の剣は、竜骨の斧よりも……その、攻撃力が上なんだ。もういちど、ギガスシダーの天命を見てみろよ」
「う、うん」
頷き、ユージオは再度印を切って樹皮を叩いた。迫り出したウインドウを食い入るように眺める。
「……二十三万二千三百十四」
「な、なに」
今度は俺が驚く番だった。
「たった一しか減ってないのか? それだけ深く食い込んでるのに……。どういうことだ……やっぱり斧でないと駄目なのか……?」
「いいや、そうじゃないよ」
ユージオは、腕を組むと首を左右に振った。
「切り込んだ場所が悪いんだ。皮じゃなくて、ちゃんと斧目の中心を叩けば天命はもっと減ったと思うよ。……たしかに、この剣を使えば、竜骨の斧より遥かに早く樹を刻めるかもしれない……それこそ、僕の代でこの天職が終わってしまうほど……。――でも」
振り向いたユージオは、じっと俺を見ると、難しい顔で軽く唇を噛んだ。
「それも、ちゃんと剣を使いこなせれば、の話だよ。一度振っただけでそんなに体を痛めて、しかも狙ったところに当てられないんじゃ、結局斧を使うよりも仕事は遅くなってしまうんじゃないかな」
「俺は駄目でも、ユージオならどうだ? お前のほうが、俺より力がありそうだ。一回、そいつを振ってみろよ」
俺が食い下がると、ユージオは尚も首を捻っていたが、やがて、じゃあ一回だけ、と呟いて樹に向き直った。
食い込んだままの青薔薇の剣の柄を両手で握り、こじるように動かす。刃が樹皮からようやく離れた、と思った途端ユージオの上体がふらふらと泳ぎ、剣先がずしんと音を立てて地面に落ちた。
「わっ、なんだよこの重さは。これはとても無理だよ、キリト」
「俺に振れたんだ、ユージオにもできるさ。要領は斧と大して変わらない。斧を使うときよりももっと体の重さを利用して、腕の力じゃなく全身で振り回すんだ」
言葉でどれほど伝わったか不安だったが、やはり長年斧打ちを続けてきただけあって俺の言わんとするところをユージオはすぐに理解したようだった。純朴そうな顔を引き締めると小さく頷き、腰を落としてぐいっと剣を持ち上げる。
ゆっくり後ろに剣を引き、わずかな溜めのあと、シッと鋭い呼気とともに猛烈なスピードでスイングを開始した。右足つま先が一直線に走るところなどは、俺も驚く見事な体重移動態だ。空中に青い光の軌跡を残して、剣尖が深い斧目の中心目掛けて突進していく。
――が、最後の一瞬で、すべての質量を支える左足がずるっと滑った。跳ね上がった剣はV字の切れ込みの上辺を叩き、がっつと鈍い音を発して止まった。直後、俺とは逆に真後ろに吹っ飛んだユージオは、太い根にしたたか尻を打ち付けて低い呻き声を上げた。
「うぐっ……」
「お、おい、平気か」
慌てて駆け寄ると、さっと右手を上げてなおもしかめっ面を続ける。その様子を見て、俺は今更ながら、この世界には痛覚が存在するのだ、という事実に気づいた。
SAOを含むVRMMOゲームは、痛みの感覚を遮断するペインアブソーバという仕組みを備えている。脳の錯覚によって発生する幻の痛みですら無効化するので、VRゲーム内でヒットポイントが一桁になるまで血みどろの肉弾戦に興じることもできる。
だが、この世界にはそんなエンタテインメント精神は欠片も無いようだった。ようやく収まりつつあるとは言え、俺の手首や肩は今もずきんずきんと鈍く疼いている。捻ったり打ち付けた程度でこの有様なのだ。これが、武器による深手なら一体どれほどの苦痛がもたらされるのだろうか。
アンダーワールドで今後、剣を手に戦うつもりなら、その前にこれまでは要求されたことのない種類の覚悟を決めておく必要がありそうだった。何せ、俺はこれまで、重量のある刃によって肉体を叩き斬られる痛みなど想像すらしたこともないのだから。
どうやら、俺よりは苦痛に耐性のあるらしいユージオは、わずか三十秒ほどで渋面を消すと、ひょいっと身軽に立ち上がった。
「うーん、これは無理だよ、キリト。狙いどころに当たる前に、こっちの体が壊れちゃうよ」
苦笑混じりに肩をすくめ、ギガスシダーに向き直る。青薔薇の剣は、斧目の上側に浅い角度で命中したあと弾かれて、樹の根元に斜めに突き立っていた。
「いい線行ってたと思うけどなあ……」
俺は未練がましくそう言ったが、ユージオは首を振ると地面から鞘を拾い上げ、脚をふらつかせながら引き抜いた剣を慎重に収めた。その上から革袋を被せると、元通りくるくると紐で縛る。少し離れた岩の上に剣を横たえ、ふうっと長い息をついて、立てかけてあった竜骨の斧を手に取った。
「うわあ、なんだかこの斧が鳥の羽みたいに軽く思えるよ。――さ、ずいぶん時間を取っちゃったからね、午後の仕事はがんばらないと」
こーん、こーんとリズミカルに斧を振り始めたユージオの背中から視線を外し、俺は横たわる剣のところまで歩み寄ると、指先でそっと革袋越しに鞘を撫でた。
考え方は間違っていないはずだ。この剣を使えば、ギガスシダーは必ず切り倒せる。しかし、ユージオの言うとおり、無理矢理振り回してどうにかなる代物ではないのもまた確かだ。
剣がこうして存在する以上、これを装備し自在に扱える人間もどこかに居るのだろう。俺やユージオは、システムに規定されたその条件を満たしていないのだ。条件とは何だ? クラス? レベル? ステータス? 一体それを、どうやって調べれば……。
「…………」
そこまで考えたところで、俺はしばし言葉を失った。己の思考の鈍さに愕然としたからだ。
もちろん、ステータスウインドウを見ればいいに決まっているではないか。昨日、ユージオがパンの"窓"を開いたときに、それに思い至らなかったとはまったくどうかしている。
俺はいそいそと左手を伸ばすと、指先で例のマークを描き、少し考えてから右の手の甲を叩いた。予想違わず、鈴の音とともに浮かび上がってきた紫の矩形を食い入るように眺める。
パンのウインドウとは違い、そこには複数行の文字列が表示されていた。咄嗟に隅々までログアウトボタンを探したが、残念ながらそれらしいものは存在しない。
まず、最上段に"UNIT ID:NND7-6355"の一文。ユニットID、という言葉の響きには少々ぞっとしないものがあるが、深く考えるのは止めることにする。続く英数字は、おそらくこの世界に存在する人間の通し番号だろうか。
その下に、パンやギガスシダーにもあったDurabilityPointの表示がある。値は"3280/3289"となっている。普通に考えれば左が現在値、右が最大値だろうか。わずかに減少しているのは、先ほど重い剣を無茶して振り回したせいかもしれない。さらに下方へ視線を動かす。"ObjectControlAuthority:38"とある。その下に、"SystemControlAuthority:1"の文字列が続く。
それだけだった。RPGに必須と思える経験値やレベル、ステータスなどの表示はどこにもない。俺は唇を噛み、しばし唸った。
「うーん……オブジェクト・コントロール権限……これかな……」
単語の感触からして、アイテムの使用に関連するパラメータと思えなくもなかった。しかし、三十八、と言われてもそれが何を意味するのかまったく見当もつかない。
左右に何度も頭を捻ったのち、俺はふと思いついて、自分のウインドウを消去すると今度は目の前に横たわる青薔薇の剣の情報を引き出してみることにした。袋の口をゆるめ、少しだけ柄を露出させると、印を描くものもどかしくそっと叩く。
浮かび上がったウインドウには、耐久値"197700"という数字のほかに、求めるものもあった。すぐ下に浮かぶ"Class 45 Object"なる表示が、先ほどのコントロール権限と対応するものである可能性は高い。俺の数字は確か三十八。四十五には届いていない。
剣の窓を消去し、元通り袋を縛ってから、俺はごろりとその場に横になった。うららかな青空を睨みながら、ふうっと溜息をつく。いくつかの情報は得たものの、結局俺がこの青薔薇の剣を使うことはできないらしい、という事実を数値で確認したにすぎない。権限レベルを上昇させられればいいのだが、その方法は見当もつかないと来ている。
この世界が、大まかには一般的VRMMOのシステムに則って動いているとすれば、何らかのパラメータを上げたいなら、長期間の反復訓練をするか、モンスターを倒して経験値を稼ぐかしないのだろうが、前者を試みる余裕は時間的にも心理的にも無いし、後者に至ってはフィールドにモンスターのモの字も見かけない。「レアアイテムを手に入れたものの装備要件レベルが足りない」という状況は、ふつうは経験値稼ぎに邁進するモチベーションを高めてくれるものだが、レベルの上げ方がわからなければ上昇するのはフラストレーションだけである。
MMOゲームは、攻略サイトが存在しない初期の手探り状態がいちばん楽しい――などというヘビーユーザー気取りの発言は、現実に戻ったらもう二度としないぞ。などと益体もない決意を固めつつ見守るうちに、五十回の斧打ちを終えたユージオが、汗を拭いながら振り向いた。
「どう、キリト? 斧が振れそうかい?」
「ああ……。痛みはもう引いたよ」
俺は振り上げた両脚ではずみをつけて立ち上がり、右手を伸ばした。受け取った竜骨の斧は、確かに青薔薇の剣と較べれば笑いたくなるほど軽かった。
せめて、この斧振り行為によって少しでも問題のパラメータが上昇することを祈ろう。そう思いながら、俺は両手で握った斧をいっぱいに振り上げた。