見た目よりもしっかりと硬く力強い手を握り返しながら、俺は少年の名前を何度か口中で転がした。聞きなれない響きだが、しかしどこかしっくりと舌に馴染む気がする。
ユージオと名乗る少年は、手をほどくと再び巨樹の根元に座り込み、布包みから取り出した丸パンの片方を俺に差し出した。
「い、いいよそんな」
慌てて手を振ったが、引っ込める様子はない。
「キリト君だってお腹空いてるんじゃないの? 何も食べてないんでしょ」
言われた途端、俺は強烈な空腹感を意識して思わず苦笑いした。川の水は美味かったが、腹持ちがいいとはとても言えない。
「いや、でも……」
尚も遠慮していると、手にぐいっとパンを押し付けられてしまい、俺は已む無く受け取った。
「いいんだ。僕、あんまり好きじゃないんだこれ」
「……じゃあ、ありがたく頂くよ。ほんとは腹へって倒れそうなんだ」
あははと笑うユージオの前の木の根に、俺も腰を下ろしながら言い添えた。
「それと、キリトでいいよ」
「そう? じゃあ、僕もユージオって呼んで……あ、ちょっと待った」
ユージオは左手を上げ、さっそく丸パンを口もとに運ぼうとしていた俺を制した。
「……?」
「いや、長持ちするしか取り得のないパンなんだけど、まあ一応ね」
言うと、ユージオは左手を動かし、右手に持ったパンのうえにかざした。人差し指と中指だけをぴったり揃えて伸ばし、他の指は握り込む。そのまま、指先は空中にSの字とCの字を組み合わせたような軌道を描く。
唖然として見つめる俺の目の前で、二本の指が軽くパンを叩くと、金属が震動するような不思議な音とともに、パンの中から薄紫に発行する半透明な矩形の板が出現した。幅二十センチ、高さ八センチといったところか。遠眼にも、その表面には慣れ親しんだアルファベットとアラビア数字がシンプルなフォントで表示されているのが見えた。見紛うことなき、オブジェクトのステータスウインドウだ。
俺は口を大きくあんぐりと開き、しばし放心した。
――これで確定だ。ここは現実でも、本物の異世界でもなく、仮想世界だ。
その認識が腹の底に落ち着くと同時に、安堵のあまりすうっと体が軽くなるのを意識した。九十九パーセント確信していたとは言え、やはり明白な証拠が無いという不安が薄皮のようにまとわりついていたのだ。
相変わらず経緯は不明のままだが、ともかく慣れ親しんだ仮想世界に居るのだと思うことで、ようやく俺にも状況を楽しむ余裕が出てきたようだった。とりあえず、ユージオの真似をして俺もウインドウを呼び出してみようと、左手の指二本をまっすぐ伸ばす。
見よう見真似でSとCの形をなぞってから、おそるおそるパンを叩くと、はたして効果音が鳴り響き紫に光る窓が浮かび上がった。顔を近づけ、食い入るように眺める。
表示された文字列は非常にシンプルなものだった。DurabilityPoint:7、とそれだけだ。おそらく、このパンに設定されている耐久値なのだろうことは容易に想像できる。これがゼロになったとき、一体パンはどうなるんだろう、と思いつつ数字を凝視していると、傍らからユージオの不思議そうな声があがった。
「ねえ、キリト。まさか、"ステイシアの窓"を見るのまで初めてだなんて言わないよねえ?」
顔を上げると、ユージオはすでに窓が消えたパンを片手に首を傾げていた。慌てて、そんなバカな、というように笑顔を作ってみせる。当てずっぽうに、窓の表面を左手で触れるとそれは跡形もなく消え去り、内心で少しばかりほっとする。
ユージオは特に疑った様子もなく頷くと、言った。
「まだ"天命"はたっぷりあるから、急いで食べなくてもいいよ。これが夏だと、とてもこんなに残ってないけどね」
"天命"とは数値で示された耐久力のことで、それを表示したステータスウインドウが"ステイシアの窓"なのだろう。その口ぶりからして、ユージオは今見たものをシステム上の機能ではなく、何らかの宗教的あるいは魔術的現象と認識しているようだった。
まだまだ考えるべきことは多そうだったが、とりあえず棚上げして、目先の食欲を満たすことにする。
「じゃあ、いただきます」
言って、大口を開けてかぶりついた俺は、パンの硬さに思わず目を白黒させた。しかしまさか吐き出すわけにもいかず、力任せに噛み千切る。仮想世界とは思えないほどリアルな"歯がぐらつきそうな感覚"に図らずも感嘆させられる。
いわゆる全粒粉のような挽きの荒い麦を使ったパンで、必要以上の歯応えがあるものの噛んでいるとそれなりに素朴な味わいがあって、腹が減っていた俺は懸命に顎を動かして咀嚼し、飲み込んだ。バターを塗ってチーズでも挟めばもっと美味くなるだろうに、等と恩知らずなことを考えていると、同じように顔をしかめてパンに噛み付いていたユージオが笑い混じりに言った。
「おいしくないでしょ、これ」
俺は慌てて首を横に振る。
「そ、そんなことないって」
「無理しなくてもいいよ。村のパン屋で買ってくるんだけど、朝が早いから前の日の売れ残りしか買えないんだ。昼に、ここから村まで戻るような時間もないしね……」
「へえ……。じゃあ、家から弁当を持ってくればいいんじゃ……」
そこまで言ったところでユージオがふっと視線を伏せるのを見て、無遠慮すぎることを口走ったかと首を縮める。が、ユージオはすぐに顔を上げると、小さく笑った。
「ずーっと昔はね……昼休みに、お弁当を持ってきてくれる人がいたんだけどね。今は、もう……」
ブラウンの瞳に揺れる深い喪失感をたたえた光に、俺は瞬間、この世界が作り物であることを忘れて身を乗り出した。
「その人は、どうしたんだ……?」
訊くと、ユージオは遥か頭上の梢を見上げながらしばらく黙っていたが、やがてゆっくり唇を動かした。
「……幼馴染だったんだ。同い年の、女の子で……毎日、朝から夕方まで一緒に遊んでた。天職を与えられてからも、毎日お弁当を持ってきてくれて……。でも、六年前……僕が十一の夏に、村に整合騎士がやってきて……央都に、連れていかれちゃったんだ……」
セイゴウキシ。オウト。正体不明の単語だったが、それぞれある種の秩序維持者とこの世界の首都のことだろうと見当をつけ、黙ったまま先を促す。
「僕のせいなんだ。安息日に、二人で北の洞窟までドラゴンを探しにいって……帰り道を間違えて、果ての山脈を闇の王国側に抜けちゃったんだ。知ってるだろ? 禁忌目録に、決して足を踏み入れることならず、って書いてあるあの闇の国だよ。僕は洞窟から出なかったんだけど、彼女はほんの一歩だけ、闇の国の土を踏んじゃって……たったそれだけのことで、整合騎士は、皆の見てる前で鎖で縛り上げた……」
ユージオの右手の中で、食べかけのパンがぐしゃりと潰れた。
「……助けようとしたんだ。僕も一緒に掴まってもいいから、あの騎士に斧で打ちかかろうと……でも、手も、足も、動かなかった。僕はただ、あの子が連れていかれるのを、黙って見てた……」
表情を失った顔でユージオはしばらく空を見上げつづけていたが、やがてその唇にかすかな自嘲の色が浮かんだ。ひしゃげたパンを口に放り込み、俯いてもぐもぐと噛みつづける。
俺は何と声をかけていいか分からず、同じようにもうひとかけらパンを噛み千切り、それを苦労して飲み込んだあとようやく口を開いた。
「……その子がどうなったか、知ってるのか……?」
ユージオは目を伏せたままゆっくり首を振った。
「整合騎士は、審問ののち処刑する、って言ってた……。でも、どんな刑に処せられたのか、ぜんぜんわからないんだ。一度、お父さんのガスフト村長に聞いてみたんだけど……死んだものと思えって……。――でもね、キリト、僕は信じてるよ。きっと生きてる。アリスは、央都のどこかで、かならず生きてる」
俺は息を飲んだ。
アスナは言っていた。STLの開発企業である"ラース"、そして仮想世界"アンダーワールド"、それらの名前は小説『不思議の国のアリス』から取ったものではないか、と。ならば、今ユージオが口にしたアリスという名は果たして偶然によるものなのだろうか?
いや、そんなはずはない。現実世界ならいざしらず、万物に意味のある仮想世界において、都合のいい偶然などというものは存在しない。つまり、ユージオの幼馴染にして六年前に連れ去られたという少女アリスは、おそらくこの世界における重要なキーパーソンなのだ。
そして、もうひとつ驚くべきことがある。
先ほど、ユージオは六年前に十一歳だった、と言った。つまり彼は今十七歳で、しかもどうやら、そのあまりに長大な時間の記憶をすべて保持しているらしい口ぶりだ。
だがそんな事は有り得ない。STRA機能による三倍の加速を考えても、この世界で十七年という時間をシミュレートする間に、現実世界でも六年もの年月が過ぎ去っているということになる。しかし、STLの第一号機がロールアウトしてから、まだたった半年程度しか経っていないはずだ。
これをどう考えればいいのだろうか。
ここは俺の知るSTLではなく、未知のバーチャルワールド生成システムの中で、しかもそれは最長で十七年もの昔から稼動していた。あるいは、俺の聞かされていたSTRA機能の三倍という倍率が間違いであり、実は三十倍以上の加速を実現している。どちらも、おいそれと信じられない話だ。
俺の中で、不安感と好奇心が急速にふくれ上がる。今すぐログアウトし、外部の人間に事情を聞きたいと思う反面、この内部に留まって可能な限り疑問を追いつづけてみたいという気もする。
パンの最後の欠片を飲み込んでから、俺はおそるおそるユージオに尋ねた。
「なら……行ってみたらどうなんだ? その、央都に」
言ってから、しまった、と考える。その言葉は、ユージオから思わぬ反応を引き出してしまったようだった。
栗毛の少年は、たっぷり数秒間もぽかんと俺の顔を眺めていたが、やがて信じられない、というふうに頭を振った。
「……このルーリッドの村は、帝国の北の端にあるんだよ。南の端にある央都までは、馬でひと月もかかるんだ。歩きだと、一番ちかいザッカリアまでだって二日。安息日の夜明けに出たってたどり着けないんだよ」
「なら……ちゃんとした旅の用意をしていけば……」
「あのねえキリト。君だって僕と同じくらいの歳なんだから、住んでた村では天職を与えられてたんでしょ? 天職を放り出して旅に出るなんてこと、できるわけないじゃないか」
「……そ、それもそうだな」
俺は頭をかきつつ頷きながら、注意深くユージオの様子を観察した。
この少年が、単純なNPCでないことは明らかだ。豊かな表情や、自然そのものの受け答えは本物の人間としか思えない。
しかし同時に、どうやら彼の行動は、現実世界の法律以上の効力をもつ絶対の規範によって縛られているように思える。そう、まるでVRMMO中のNPCが、決められた移動範囲内からは絶対に逸脱しないように。
ユージオは、"禁忌目録"というものによって制限されているエリアに侵入しなかったので逮捕されなかった、と言った。その目録とやらがつまり彼を縛る絶対規範で、恐らくはフラクトライトそのものを直接規制しているのではないだろうか。ユージオの天職、つまり仕事が何なのかは知らないが、生まれたときから一緒だった女の子の生死以上に大切な仕事というのはなかなか想像できない。
そのへんのことを確かめてみようと、俺は言葉を選びつつ、水筒を口につけているユージオに尋ねた。
「ええと、ユージオの村には、禁忌……目録を破って央都に連れていかれた人がほかにもいるの?」
ユージオは再度目を丸くし、ぐいっと口もとを拭いながら首を横に振った。
「まさか。ルーリッドの三百年の歴史の中で、整合騎士が来たのは六年前の一回きりだ、って爺ちゃんが言ってた」
言葉を切ると同時に、革の水筒をひょいっと放ってくる。受け取り、栓を抜いて口もとで傾けると、冷えてはいないがレモンとハーブを混ぜたようなさわやかな芳香のある液体が流れ込んできた。三口ばかり飲み、ユージオに返す。
何食わぬ顔で俺も手の甲で口を拭ったが、内心では何度目かの驚愕の嵐が吹き荒れていた。
三百年だって……!?
そのあまりに長大な年月を実際にシミュレートしているなら、STRA機能は数百……ことによると千倍にも達する加速を実現しているということになる。となると、先週末に行った連続ダイブテスト中に、俺は実際のところどれほどの時間を過ごしたのだろうか。今更のようにぞっとすると同時に、二の腕に軽く鳥肌が立ったが、その生理反応のリアルさに感嘆する余裕はほとんどない。
データを得れば得るほど、逆に謎は深まっていくようだった。ユージオは果たして人間なのかプログラムなのか、そしてこの世界は一体何を目的として作られたものなのか。
これ以上のことは、ルーリッドというらしい村に行って他の人間に接触してみないとわかりそうもなかった。そこで、事情を知るラースの人間に会えるといいけれど……と思いながら、俺はややこわばった笑みをつくり、ユージオに言った。
「ごちそうさま。悪かったな、昼飯を半分取っちゃって」
「いや、気にしないで。あのパンにはもう飽き飽きしてたんだ」
こちらは至極自然な笑顔とともに首を振ると、手早く弁当の包みをまとめる。
「じゃあ、悪いけどしばらく待っててね。午後の仕事を済ませちゃうから」
そう言いながら身軽な動作で立ち上がるユージオに向かって、俺は尋ねた。
「そういえば、ユージオの仕事……天職っていうのは、何なの?」
「ああ……そこからじゃ見えないよね」
ユージオはまた笑うと、俺に手招きをした。首を捻りつつ立ち上がり、彼のあとについて巨樹の幹をぐるりと回る。
そして、先刻とは別種の驚きに打たれて口をあんぐりと開けた。
巨大なスギの闇夜のように黒い幹が、全体の四分の一ほど、約一メートルの深さにまで切り込まれている。内部の木質も石炭を思わせる黒で、密に詰まった年輪に沿って金属のような光沢を放っているのが見て取れた。
視線を動かすと、切り込みのすぐ下に、一本の斧が立て掛けてあった。戦闘用ではないのだろうシンプルな形状の片刃だが、やや大ぶりの斧刃も、長めの柄も灰白色の同じ素材で作られているのが特徴的だ。マット仕上げのスチールのような不思議な光沢をもつそれをまじまじと凝視すると、どうやら全体がひとつの塊から削りだされた一体構造となっているようだった。
柄の部分にだけ、握りこまれて黒光りする革が巻かれたその斧を、ユージオは右手でひょいっと持ち上げると肩にかついだ。幹に刻まれたくさび型の切り込みの左端まで移動すると、腰を落として両足を開き、斧をしっかりと両手で握り締める。
細目と見えた体がぐうっとしなり、大きく後ろに引かれた斧は、一瞬の溜めののちに鋭く空気を切り裂いて見事切り込みの中央に命中し、かぁんと澄んだ金属音を大音量で鳴り響かせた。間違いなく、俺をこの空き地まで導いたあの不思議な音と同じものだった。
美しいとさえ言える身のこなしに感嘆しながら眺める俺の前で、ユージオは機械以上の正確さでペースと軌道を保ったまま斧打ちを繰り返した。テイクバックに一秒、溜めに一秒、スイングに一秒。一連の動作は、まるで、この世界にもソードスキルがあるのかと思いたくなるようななめらかさだ。
三秒にいちどのペースできっちり五十回、計百五十秒間斧を巨樹に叩き込んだユージオは、最後の一撃をゆっくりと深い切り込みから引き剥がすと、ふうっと長い息をついた。道具を幹に立てかけ、どさりと傍らの根っ子の上に座り込む。額に汗の珠を光らせながらはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているところを見ると、この斧打ちは俺が考えているよりはるかに重労働であるらしかった。
俺は、ユージオの呼吸が整うのを待って、短く話し掛けた。
「ユージオは樵なのか? この森で木を切ってるの?」
短衣のポケットから取り出した手巾で顔を拭いながら、ユージオは軽く首を傾け、少し考えた末に答えた。
「うーん、まあ、そう言っていいかもしれないね。でも、天職に就いてからの七年間で、切り倒した木は一本もないけどね」
「ええ?」
「このでかい木の名前は、ギガスシダーって言うんだ。でも村の人はみんな、"悪魔の樹"って呼んでる」
首を捻る俺に意味ありげに笑ってみせてから、ユージオははるか頭上の梢を仰いだ。
「そんなふうに呼ばれる理由は、この樹が周りの土地から、テラリアの恵みをみんな吸い取っちゃうからなんだ。だから、この樹の葉の下にはこんなふうに苔しか生えないし、影が届く範囲の樹はどれもあまり高くならない」
テラリア、というのが何かはわからないが、この巨樹と空き地を見たときの第一印象はあながち間違っていなかったようだ。俺は、先を促すようにこくこくと頷いてみせる。
「村の大人たちは、この森を拓いて麦畑を広げたいと思ってるんだ。でも、ここにこの樹が立ってるかぎり、いい麦は実らない。だから切り倒してしまいたいんだけど、さすがに悪魔の樹と言われるだけあって、恐ろしく硬いんだよ。普通の、鉄の斧じゃあ一発で刃こぼれして使い物にならなくなっちゃう。そこでこの、ドラゴンの骨から削りだしたっていう"竜骨の斧"を央都から取り寄せて、専任の"刻み手"に毎日叩かせることにしたのさ。それが僕」
事も無げにそう語るユージオの顔と、巨樹に四分の一ほど刻まれた斧目を、俺は半ば呆然としながら交互に眺めた。
「……じゃあ、ユージオは七年間、毎日ずーっとこの樹を切ってるのか? 七年やって、ようやくこれだけ?」
今度はユージオが目を丸くし、呆れたように首を振る番だった。
「まさか。たった七年でこんなに刻めるもんなら、僕ももう少しやり甲斐があるんだけどね。いいかい、僕は六代目の刻み手なんだ。ルーリッドの村がこの土地にできてから三百年、代々の刻み手が毎日叩いてやっとここまで来たんだよ。たぶん、僕がお爺さんになって、七代目に斧を譲るときまでに刻めるのは……」
ユージオは両手で二十センチくらいの隙間をつくってみせた。
「これくらいかな」
俺はもうゆっくり首を振ることしかできなかった。
ファンタジー系のMMOではたいてい、樵や鉱夫といった生産職はひたすら地道な作業に耐えるものと相場が決まっているが、一生かけて一本の樹すら切り倒せないというのは常軌を逸している。ここが作られた世界である以上、この樹も何らかの意図のもとにここに配置されているのだろうが、それが何なのか、俺にはさっぱり見当がつかない。
――が、それはそれとして、むずむずと背中を這うものがある。
俺は、およそ三分間の休息のあと立ち上がり、斧を手に取ろうとしたユージオに向かって、半ば衝動的に声をかけた。
「なあ……ちょっと俺にもやらせてくれない?」
「ええ?」
「ほら、弁当を半分貰っちゃったからさ。仕事も半分手伝うのが筋だろう?」
まるで、仕事を手伝おうと言われたのが生まれて初めてであるかのように――実際そうなのかもしれないが――ユージオはぽかんと口を開けていたが、やがてためらいがちに答えた。
「うん……まあ、天職を誰かに手伝ってもらっちゃいけないなんて掟はないけど……でも、案外難しいんだよ、これ。僕もはじめたばっかりの頃は、まともに当てることさえできなかったんだから」
「やってみなきゃわからないだろ?」
俺はにっと笑ってみせながら、右手を突き出した。ユージオがなおも不安そうに向けてくる"竜骨の斧"の柄を、ぐっと握る。
斧は、軽そうな外見に反してずしりと手首に応えた。あわてて革が巻かれたグリップを両手でしっかり握り、小さく振って重心を確かめる。
SAO、そしてALOのプレイを通して斧を武器にしたことは一度もないが、動かない的に当てるくらい容易いだろう、と俺は考えた。深い切り込みの左に立ち、ユージオの姿勢を真似て両足を広げて軽く腰を落とす。
いまだ気がかりそうに、しかし同時にどこか面白そうにこちらを見るユージオが充分離れているのを確認してから、俺は肩の高さにまで斧を振り上げた。歯を食い縛り、両腕にありったけの力を込めて、思い切り叩きつける。
がぎ、と鈍い音がして斧刃は標的から五センチちかくも離れた場所に食い込み、両手を猛烈なキックバックが襲った。堪らず斧を取り落とし、骨の髄まで痺れあがった両手首を脚のあいだにはさみこんで、俺はうめいた。
「い、いててて」
情けない、という以外に形容できない一撃を見て、ユージオがあっはっはっは、と愉しそうに笑った。俺が恨みがましく目を向けると、ごめん、というように右手を立て、尚も笑いつづける。
「……そんなに笑わなくても……」
「ははは……いや、ごめん、ごめん。力が入りすぎだよ、キリト。もっと腕の力を抜いて……うーん、何て言うかなあ……」
もどかしそうに両手で斧を振る動作を繰り返すユージオを見ながら、俺は遅まきながら己の過ちに気付いた。この世界では、もちろん厳密な物理法則や肉体の動きがシミュレートされているわけではない。STLが作り出すリアルな夢なのだから、一番大切なのはイメージ力なのだ、おそらく。
ようやく痺れの取れた手で、足元から斧を拾い上げる。無駄な力を抜くように構えると、体全体の動きを意識しながら、ゆっくり、大きな動作でテイクバック。SAOで散々使った水平スラッシュ系ソードスキル"ホリゾンタルスクエア"の一撃目を思い描きつつ、体重移動によって生じるエネルギーを腰、肩の回転に乗せ、最後の斧の頭に届けて、それを樹にぶつける――。
今度は切り込み自体から遠く離れた樹皮を叩いてしまい、がいん、とこれまた醜い音を立てて斧が跳ね返った。先ほどのように手が痺れあがるようなことは無かったが、自分の動きにばかり意識が行って、照準がおろそかだったらしい。これはまたユージオが笑うな、と思いながら振り返ると、少年は意外にもわずかに目を見開いているのみだった。
「お……キリト、今のはけっこういいよ。でも、途中から斧を見てたのがよくなかったな。視線は切り込みの真ん中から動かさないで。忘れないうちにもう一度!」
「う、うん」
次の一撃もお粗末なものだった。しかしその後も、あれこれユージオの指導を受けながら斧を振りつづけ、何十回目だか忘れた頃、ようやく斧が高く澄んだ金属音とともに切り込みの真ん中に命中し、ごくごく小さな黒い切片が飛び散った。
それを機にユージオと交替し、彼の見事な斧打ちを五十回眺める。また斧を受け取り、ひいひい言いながら俺も五十回振り回す。
何度繰り返しただろうか、気付くと太陽はすっかり傾き、空き地に差し込む光はほのかなオレンジ色を帯びていた。大きな水筒から俺が最後の一口を飲むと同時に、ユージオが斧を振り終え、言った。
「よし……これで千回、と」
「あれ、もうそんなにやったのか」
「うん。僕が五百回、キリトが五百回さ。午前と併せて一日二千回ギガスシダーを叩く、それが僕の天職なんだ」
「二千回……」
俺は改めて、黒い巨樹に刻まれた大きな斧目を眺めた。どう見ても、初めて見たときと較べてそれが深くなっている様子は無かった。何という報われない仕事なのか、と愕然としていると、背後からユージオの朗らかな声がかかった。
「やあ、キリトは筋がいいよ。最後のほうは、五十回のうち二、三回はいい音させてたし。おかげで僕も今日はずいぶん楽だったよ」
「いや……でも、ユージオが一人でやればもっとはかどっただろうな。悪かったな、足引っ張っちゃって」
恐縮しつつそう謝ると、ユージオは笑いながら首を横に振った。
「この樹は僕が一生かかっても倒せないって言ったろ。いいかい……いいものを見せてあげるよ。ほんとは、あんまり見ちゃいけないんだけど」
言いながら、巨樹に近づくと、左手を掲げた。二本の指で例の印を切ると、黒い樹皮をぽんと叩く。
なるほど、この樹自体にも耐久力ポイントが設定してあるのか、と思いながら俺は駆け寄った。鈴のような音とともに浮かび上がってきた"窓"を、ユージオと一緒に覗き込む。
「うえ……」
俺は思わずうめいた。そこに表示された数字は、二十三万二千いくつ、という途方もないものだったからだ。
「うーん、先月見たときから五十くらいしか減ってないや」
ユージオも、さすがにうんざりしたような声で言った。
「つまり……僕が一年斧を振って、ギガスシダーの天命は六百しか減らせないってことだよ。引退するまでに、残り二十万を切れるかどうか、ってとこだね。ね、わかったろ。たった半日、仕事がすこしはかどらなくても、そんなのぜんぜんたいしたことじゃないんだ」
その後、"竜骨の斧"をかつぎ、空になった水筒をぶらさげて村へと戻るあいだも、ユージオは快活にいろいろな話を聴かせてくれた。彼の前任者であるガリッタという名前の老人が、いかに斧打ちの名人であるかということや、村の同年代の少年たちはユージオの天職を楽なものだと考えていて、それが少々不満であるということ、それらの話に相槌を打ちながら、俺は相変わらずひとつのことを全力で考えていた。
それは、つまり、この世界はいったい何を目的として運営されているのか、ということだ。
STLの仮想環境生成技術のチェックなら、それはもう完璧な形で達成されている。この世界が、そう簡単に現実と見分けられるようなものではないことは、俺はもう嫌というほど味わった。
にもかかわらず、この世界はもう内部時間にして最低で三百年ものシミュレートを行っており、さらに恐ろしいことに、あの巨大な樹――ギガスシダーの耐久値とユージオの仕事量からすると、さらに千年ちかくも運用を続ける予定があると考えられるのだ。
主観時間加速機能、STRAの倍率がどれほどの数字に達しているのかは知らないが、記憶を封印され、ここにダイブしている人間は、ことによるとまるまる一生分の時間を過ごすことにもなりかねない。確かに、現実世界の肉体には何の危険も及ばず、ダイブ終了時点で記憶を消去されるなら本人にとっては単なるおぼろげな"長い夢"なのかもしれないが――しかし、魂、フラクトライトはどうなのだ? 人の意識を作る不確定な光の集合体には、寿命はないのだろうか?
どう考えても、この世界で行われていることはあまりにも無茶、無謀だ。
つまり、それほどの危険を冒してでも、達成するべき目的があるのだ。エギルの店でシノンが言ったように、単なるリアルな仮想空間の生成などという、アミュスフィアでも実現可能な事柄ではないのだろう。この、現実と完全に見分けのつかない環境において、無限とも言いたくなるような時間を費やして、はじめて到達できる"何か"――。
気付くと、いつのまにか細い道の先で森が切れ、オレンジ色の光が広がっているのが見えた。
出口から間近いところに、小さな物置小屋がぽつんと立っており、ユージオはそこに歩み寄ると無造作に戸を開けた。覗き込むと、中には普通の鉄斧がいくつかと、鉈のような小さな刃物、ロープやらバケツといった道具類と、なんだかわからない細長い革包みが雑多に詰め込まれていた。
それらの間にユージオは竜骨の斧を立てかけ、ばたんと戸を閉めた。そのまま振り向き、道に戻ろうとするので、俺は驚いて言った。
「え、鍵とかかけなくていいのか? 大事な斧なんだろ?」
するとユージオも驚いたように目を丸くした。
「鍵? なんで?」
「なんで、って……盗まれたりとか……」
そこまで口にしてから、俺はようやく悟った。泥棒なんて居ないのだ。なぜなら、恐らく"禁忌目録"とやらに、盗みを働くべからず、というような一節が書いてあるのだろうから。
ユージオは笑い、歩きだしながら予想どおりの答えを返した。
「大丈夫だよ、誰も盗むような人なんていないし」
それを聞いたところで、ふとある疑問が浮かぶ。
「あれ、でも……ユージオは、村に衛士がいるって言ったよな? 盗賊が来たりしないなら、なんでそんな職業があるんだ?」
「決まってるじゃないか。闇の軍勢から村を守るためだよ」
「闇の……軍勢……」
「ほら、見えるだろう、あそこ」
そのとき、俺たちはちょうど最後の樹のあいだを抜けた。
眼前は、一面の麦畑だった。まだ若く、膨らみ始めてさえいない青い穂先が風に揺れている。傾きはじめた太陽の光がいっぱいに降り注ぎ、まるで海のようだ。道は、畑のあいだを蛇行しながら伸び、そのずっと先に小高い丘が見えた。周囲を木々にかこまれたその丘をよくよく見ると、砂粒のように小さな建物がいくつも密集し、中央には一際高い塔があった。どうやらあそこが、ユージオの暮らすルーリッドの村らしい。
そして、ユージオの指がさしているのは、村のさらに向こう、遥か彼方にうっすらと伸びる白い山脈だった。鋸のように鋭い険峻が、視線の届くかぎり左から右へと続いている。
「あれが、"果ての山脈"さ。あの向こうに、ソルスの光も届かない闇の王国があるんだ。空は昼でも黒雲に覆われていて、天の光は血のように赤かった。地面も、樹も、炭みたいに黒くて……」
遠い過去を思い出しているのだろう、ユージオの声がかすかに震えた。
「……闇の王国には、ゴブリンとかオークみたいな呪われた生き物や、いろいろな恐ろしい怪物……それに、黒い竜に乗った騎士たちが住んでる。もちろん、山脈を守る整合騎士がそいつらの侵入を防いでるけど、でも神聖教会の言い伝えによれば……千年に一度、ソルスの光が弱まったとき、暗黒騎士に率いられた闇の軍勢が、山脈を越えて一斉に攻めてくるんだって。そうなったら、整合騎士でも防げるかどうかわからないから、そのときに備えて村には衛士が、少し大きい街には衛兵隊があるんだよ」
そこでいぶかしそうに俺の顔をちらりと見て、ユージオは続けた。
「……子供でも知ってる話だよ。キリトはそんなことも忘れちゃったのかい?」
「う……うん、聞いたことはあるような気がするけど……」
冷や冷やしながらそう誤魔化すと、ユージオは疑うことなど知らないような笑顔で小さく頷いた。
「うーん、もしかしたらキリトは、このノーランガルス神聖帝国じゃなくて、東方や南方の国の出なのかもしれないね」
「そ、そうかもな」
俺は頷くと、話題を切り替えるべく、かなり近づきつつあった丘を指差した。
「あれがルーリッドの村? ユージオの家はどのへんなの?」
「正面に見えるのが南門で、僕の家は北門の近くだから、ここからは見えないなあ」
「ふうん。てっぺんの塔がその、教会?」
「うん、そうだよ」
目を凝らすと、細い塔の先端には、十字と円を組み合わせたような金属のシンボルが見て取れた。
「なんか……思ったより、立派な建物だな。ほんとに、俺みたいなのを泊めてくれるかな?」
「平気さ。シスター・アザリヤはいい人だから」
不安ではあったが、おそらくはユージオと違って本物のNPC、というか自動応答プログラムなのだろうから――なんと言っても、STLは世界にたった六台しかないのだ――常識的な受け答えをしていれば問題はあるまい、と俺は考えた。もっとも、その常識というやつが、今の俺にはぽっかりと欠如しているわけだが。
理想的には、そのシスターがラースのオブザーバーであれば話が早い。しかしおそらく、世界の観察を目的としている人間が、村長だのシスターといった重要な役どころに就いていることはないだろう。村にもぐりこんだら、どうにかして接触すべき相手を探し出さなくてはいけない。
それも、この小さな村にオブザーバーが常駐していれば、の話だけどな……と俺はやや心配になりながら、苔むした石造りのアーチをユージオと一緒にくぐった。
「はいこれ、枕と毛布。寒かったら奥の戸棚にもっと入ってるわ。朝のお祈りが六時で、食事は七時よ。一応見にくるけど、なるべく自分で起きてね。消灯したら外出は禁止だから、気をつけて」
言葉の奔流とともに降ってきた、簡素な枕と上掛けを、俺は伸ばした両手で受け止めた。
ベッドに腰掛けた俺の前で両手を腰に当てて立っているのは、年のころ十二ほどと見える少女だ。白いカラーのついた黒の修道服を身に付け、明るい茶色の長い髪を背中に垂らしている。くりくりとよく動く同色の瞳は、シスターの前でかしこまっていたときとは別人のようだ。
シルカという名のこの少女は、教会に住み込みで神聖魔術の勉強をしているシスター見習なのだそうだ。同じく教会で暮らす数人の少年少女たちの監督役でもあるというそんな立場のせいか、ずっと年長の俺に対してもまるで姉か母親のような口の利きぶりで、思わず笑みがこぼれそうになるのをどうにか堪える。
「えーと、あと他にわからないことある?」
「いいや、大丈夫。いろいろありがとう」
礼を言うと、シルカは一瞬だけくしゃっと大きな笑顔を見せ、すぐ鹿爪らしい顔に戻って頷いた。
「じゃあ、お休みなさい。――ランプの消し方はわかるわね?」
「……ああ、わかるよ。お休み、シルカ」
もう一度こくんと頷き、シルカは少し大きい修道服の裾を引きずりながら部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかるまで待って、俺はふう、と深い息をついた。
あてがわれたのは、教会二階の普段は使っていないという部屋だった。およそ六畳ほどのスペースに、鋳鉄製のベッドひとつ、揃いのテーブルと椅子、小さな書架とその横の戸棚が設えてある。膝に置いたままだった毛布と枕をシーツの上に放り投げ、俺は両手を頭の下で組みながらごろりとベッドに横になった。頭上のランプの炎が、じじ、と音を立ててかすかに揺れた。
「一体、こりゃあ……」
どうなってんだ。という言葉を飲み込みながら、村に入ってから現在までのことを脳内に逐一再生してみる。
俺を連れて村に入ったユージオは、まずアーチから程近い場所にあった衛士の詰め所に向かった。中に居たのは、ユージオと同い年だというジンクという若者で、当初こそ俺を胡散臭そうな目で見ていたものの、"ベクタの迷子"であるという説明を拍子抜けするほどアッサリと受けいれて俺が村に入るのを許した。
もっとも、ユージオが事情を話しているあいだ、俺の目は衛士ジンクが腰に下げていた簡素な長剣に釘付けで、声は右から左に抜けていたのだが。よっぽど、いささか古ぼけたその剣をちょっと借りて、この世界でも俺が――正しくは仮想の剣士キリトが身に付けた技が有効なのかどうか試してみようかと思ったのだがその衝動はどうにか抑えた。
詰め所を出た俺とユージオは、メインストリートをわずかな奇異の視線を浴びながら歩いた。それは誰だ、と尋ねてくる村人が少なからずおり、そのたびに立ち止まって説明するので、小さな村の中央広場にたどり着くまでに三十分近くを要した。一度など、大きな篭を下げた老婆が、俺を見て「なんてかわいそうに」と涙ぐみながら篭から林檎(のような果物)を出して俺に呉れようとするので当惑しつつも罪悪感を覚えたものだ。
村を構成する丘の天辺に立つ教会に、ようよう到着したときには既に太陽はほぼ沈みかけていた。ノックに応えてあらわれた、"厳格"という言葉を具現化したとしか思えない初老の修道女がうわさのシスター・アザリヤで、俺は彼女を一目見て『小公女』に出てくるミンチン先生を連想してしまったためにこりゃあだめだ! と内心うめいた。のだがこれまた予想に反してシスターはあっけなく俺に宿を提供することを受諾し、それどころか夕食まで付けようと申し出たのだった。
明朝の再会を約束してユージオとはその場で別れ、俺は教会へと招き入れられた。最年長のシルカ以下六人の子供たちに紹介され、静かながら和やかな食卓を共にし(供せられた料理は揚げた魚に茹でたジャガイモ、野菜スープというものだった)、食後は恐れたとおり子供たちから質問攻めに会い、どうにか躱したと思ったら三人の男の子たちと一緒に風呂に入れと言われ、それら多種多様の試練からようやく解放されてこの客間のベッドに転がっている――というわけなのである。
一日の疲れがずっしりと体に圧し掛かり、目を瞑ればすぐにも寝入ってしまいそうだったが、俺を襲う更なる混乱がそれを許そうとしなかった。
一体、これはどういうことなのだ。もう一度胸中で呟き、唇を噛み締める。
結論から言えば、いわゆるNPCなどこの村には一人もいない。
最初に会った衛士ジンク以下、道ですれ違った多くの村人たちや林檎をくれた老婆、厳しくも親切なシスター・アザリヤと見習いシスターのシルカ、親を亡くしたという六人の子供たち。その全員が、ユージオとほぼ同じレベルのリアルな感情、自然な会話力、精妙な動作を備えている。簡単に言えば、皆本物の人間としか見えない。少なくとも、通常のVRMMOに実装されている自動応答キャラクターなどでは決してない。
だが、そんなことは有り得ないのだ。
既存のソウル・トランスレーターは六台のみ、ラースの分室で俺はたしかにそう聞いた。仮にそれから台数が増えていたとしても、ひとつの村を丸ごと構成するほどの人間をダイブさせる数には到底足りないはずだ。規模からして、このルーリッドの村には五百を下らない人間が住んでいるだろうし、あの、部屋ひとつぶんほどもあるSTL実験機がそう容易く量産できるものではないことは断言できる。だいいち、この世界に存在するらしい無数の村や街、そして噂の"央都"に住む人間たちのことを考えれば、仮に莫大な費用を投じてマシンを揃えることはできても、その数万――数十万? にのぼるテストプレイヤーを秘密裏に募ることなど絶対に不可能ではないか。
「あるいは……」
やはりユージオ達は本物の人間、つまり記憶を制限されたプレイヤーではない、ということなのだろうか? 常識を遥かに超えた、ほぼ完全の域に近づいた自動応答プログラム。
AI、人工知能……という言葉が脳裏を過ぎる。
近年、主にパソコンやカーナビなどの機械類のガイダンス用として、いわゆるAIは長足の進歩を遂げている。人間あるいは動物を模したキャラクターに向かって、音声で命令や質問をすると、かなりの正確さで必要な情報が返ってくるというものだ。あるいは、俺の馴染んだVRゲーム中のNPCもAIの一種と言っていい。クエストに必要な情報のやり取りは勿論、他愛ない雑談でもある程度自然な受け答えを実現しているので、"NPC萌え"を信条とする一派などは主に美少女タイプのものに付きまとい日がな一日話し掛けたりもする。
だが勿論、それらAIに真の知能が備わっているわけではない。要は、こう言われたらこう答える、という命令の集合体でしかないので、データベースにない質問や会話には応答することができないのだ。その場合、大概のものは穏やかな笑顔とともに首を傾げ、『質問の意味がわかりません』という意味の台詞を口にする。
だが、今日いちにち、ユージオが一度でもそんなことを言っただろうか?
彼は、俺が無数に発した質問のすべてに、驚き、戸惑い、笑いといった自然な表情を交えながら適切極まりない回答を返した。ユージオだけではない、シスター・アザリヤも、シルカも、年少の子供たちも一度として『データがありません』などという顔は見せなかったのだ。
俺が知る限り、既知の人工知能で最も高度なレベルに達しているのは、旧SAOにおいてメンタルケア用カウンセリング・プログラムとして開発され、今は俺とアスナの"娘"としてALOに存在するユイという名のAIだ。彼女は、丸二年間に渡って五万人のプレイヤーのあらゆる会話をモニター・分析しつづけ、ほぼ完全な擬似人格を確立するに至った。市販レベルのAIが、せいぜい数十人の開発陣との会話による"経験"しか得られないことを考えれば、ユイの応答や感情があれほど高度なことも納得できる。彼女はいまや、"自動応答プログラム"と"真の人工知能"との境界例とさえ言っていいほどのレベルに達している、と俺やアスナは考えている。
しかし、そんなユイですら完璧ではない。彼女も時には、その単語はデータベースにありません、と首を傾げることがあるし、例えば"怒っているフリ"などの人間の微妙な感情は読み違ったりもする。会話のふとした一瞬に、拭いがたく"AIらしさ"が存在するのだ。
ところがユージオやシルカたちにはそれがない。ルーリッドの村人たちが、プログラマーによって組まれた少年型、少女型、老婆型、盛年型……のAIなのだとしたら、それはある意味ではSTLなど遥かに上回るオーバー・テクノロジーだ。とうてい、実現可能なものだとは思えない。
俺は溜息とともに体を起こし、床に下りた。
ベッドと、カーテンに覆われた窓との間の壁に、古めかしい鋳物のオイルランプが据えられており、揺れるオレンジ色の光とともにかすかな焦げ臭さを発していた。もちろん現実世界では本物に触ったことなどないが、幸いSAOの俺の部屋に似たようなものがあったので、見当をつけて底部にあるつまみを捻る。
きゅきゅっと軋む音とともに灯芯が締められ、一条の煙を残して灯りが消えた。暗闇に包まれた室内に、窓から細い月光がひとすじ落ちている。
俺はベッドに引き返すと、枕を窓側に置き、今度はちゃんと体を横たえた。わずかな肌寒さを感じて、シルカがくれた厚手の毛布を肩まで引っ張りあげると、抗しきれない眠気が襲ってきた。
――人間でもなく、AIでもない。では、何なのか?
俺の思考の片隅には、すでにひとつの答えが浮かびつつあった。だが、それを言葉にするのはどうにも恐ろしかった。もし仮に、俺の考えていることが可能なのだとしたら――ラースはもはや、神の領域の遥か深奥に手を突っ込んでいる。それに較べれば、STLで魂を解読することなど、パンドラの箱を開けるための鍵を指先でつつく程度に等しい。
眠りに落ちながら、意識の底から響いてくる声に耳を傾ける。
脱出方法を探して右往左往している時ではない。央都に行くのだ。行って、この世界の存在理由を見極めるのだ……。