第三章
空気に、匂いがある。
覚醒直前の断片的な思考のなかで、ふとそんなことを意識した。
鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘やかな花の匂い。青々とした草の匂い。肺胞を洗うように爽快な樹の匂い。渇いた喉を刺激する水の匂い。
聴覚に意識を傾けると、途端に圧倒的な音の洪水が流れ込んでくる。無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。その下で控えめに奏でられる虫の羽音。更に遠くからかすかに届くせせらぎ。
どこだろう。少なくとも、自分の部屋じゃないな、などと今更のように考える。普段の目覚めに必ず付随する、乾いたシーツの日向くさい匂いやドライ運転のエアコンの唸り、階下から漂う味噌汁の香りといったものが一切存在しない。それに――さっきから閉じた瞼を不規則に撫でる緑の光は、消し忘れた照明ではなく木漏れ日ではないだろうか。
もう少しだけ深い眠りの余韻に漂っていたい、という欲求を押し退け、俺はようやく目を開けた。
揺れる無数の光がまっすぐ飛び込んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を、持ち上げた右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。
「……どこだ……?」
思わず呟いた。
まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に白や黄色の小さな花が群生し、それらの間を光沢のある水色の蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの五メートルほど先で途切れ、その向こうは、樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が連なる森のようだった。幹の間の薄暗がりに目を凝らすと、光の届く限りの範囲まで木々はずっと続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面はふかふかした苔で覆われ、差し込む陽光を受けて金緑色に輝いている。
首を右に動かし、ついで体ごと一回転してみたが、古木の幹はすべての方位で俺を出迎えた。森の中に開けた小さな円形の草地、その中心に俺は寝転んでいたらしい。最後に頭上を見上げると、四方から伸びる節くれだった梢の隙間に、ちぎれ雲の漂う青い空を望むことができた。
「ここは……どこだ」
もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声は無い。
こんな所に来て昼寝をした憶えは、どう記憶をひっくり返しても出てこなかった。夢遊病? 記憶喪失? 脳裏を横切る物騒な単語を、まさか、と慌てて打ち消す。
俺は――俺の名前は、桐ヶ谷和人。十七歳と八ヶ月。埼玉県川越市で、母親と妹の三人暮らし。
自分に関するデータが滑らかに出てきたことにやや安堵しながら、更に記憶を手繰る。
高校二年生。だが、来年の前学期には卒業要件単位を満たすので、秋には進学しようと考えている。そうだ、そのことに関して相談をしたはずだ。あれは六月最後の月曜日、雨が降っていた。授業が終わったあと、御徒町にあるダイシー・カフェに行って、ゲーム仲間のシノンと大会の打ち合わせをした。
そのあと、アスナ――そう、結城明日奈と合流して、しばらくお喋りをしてから店を出た。
「アスナ……」
恋人であり、全幅の信頼を置いて背中を任せるパートナーでもある少女の名前を俺は思わず口にした。傍らにあるのが当たり前になりつつあったその姿を探して周囲を何度も見回したが、小さな草地はもちろん深い森のどこにも彼女を見出すことはできなかった。
突然襲ってきた心細さと戦いながら、記憶を遡る作業に戻る。
店を出た俺とアスナは、シノンと別れて電車に乗った。JRを下回りに渋谷に出て、東横線に乗り換えてアスナの家がある世田谷へと。駅を出ると雨が止んでいた。濡れた煉瓦貼りの歩道を並んで歩きながら、進学の話をした。アメリカの大学へ行きたいと考えていることを打ち明け、アスナも一緒に行って欲しいと無茶な頼みごとをして、それに対して彼女はいつもの、穏やかな日差しのような笑顔を見せ、そして――。
記憶は、そこで途切れていた。
思い出せない。アスナが何と答えたのか、どうやって別れ、駅まで戻ったのか、家には何時に帰り、何時ごろ寝たのか、まったく思い出すことができない。
やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。
だが、アスナの笑顔が水に滲むようにぼやけて消えていくばかりで、それに続くべきシーンはどこをどう押しても引いても出てくることはない。目を閉じ、眉をしかめて、灰色の空白を懸命に掘り返す。
赤い――点滅する光。
気が狂いそうな息苦しさ。
ちっぽけな泡のように浮かんできたイメージは、そのふたつだけだった。思わず、胸一杯に甘い空気を吸い込む。今まで忘れていた喉の乾きが激しく意識される。
間違いない、俺は昨日、世田谷区宮坂にいたはずだ。それがなぜ、こんなどことも知れない森の中、一人で寝ているのか。
いや、本当に昨日なのか? 先ほどから肌を撫でていく風はひんやりと心地よい。六月末の蒸し暑さが、その中には欠片も存在しない。俺の背中を、今更のように本格的な戦慄が走り抜ける。
俺が今、大時化の海に浮かぶ小さな浮き輪の如く必死にしがみついているこの"昨日の記憶"は、果たして本当にあった事なのだろうか……? 俺は、本当に俺なのか……?
何度も顔を撫でまわし、髪を引っ張ってから、下ろした両手を仔細に眺める。記憶にあるとおり、右手親指の付け根に小さな黒子を、左手中指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。
そこでようやく、俺は自分が妙な恰好をしていることに気付いた。
普段寝るとき身に付けているTシャツとトランクスでも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。
上着は、薄青く染められた、荒い綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟は無く、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。
ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。丈はすねの中ほどまでしかない。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく、細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。
こんな服や靴に、お目にかかったことは無かった。――現実世界では、だが。
「なんだ」
俺は軽い溜息とともに小さくそう口にした。
果てしなく異質だが、しかし同時に見慣れた服装でもある。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、ハーフパンツ、そしてレザーシューズ。ここは、現実ではなくファンタジー世界、つまりお馴染みの仮想世界なのだ。
「なんだよ……」
もう一度呟き、改めて首を捻る。
どうやら、ダイブ中に寝てしまったらしい。しかしいつ、何のゲームにログインしたのか、さっぱり憶えていないのはどうしたことか。
何にせよ、ログアウトしてみればわかることだ、そう思いながら俺は右手を振った。
数秒待ってもウインドウが開かないので、今度は左手を振った。
途切れることのない葉音と鳥の囀りを聴きながら、腰のあたりから這い登ってくる違和感を懸命に振り払う。
ここは仮想世界だ。そのはずだ。だが――少なくとも、馴染んだアルヴヘイム・オンラインではない。いや、アミュスフィアが生成する、ザ・シード準拠のVRワールドではない。
なんとなれば、つい先刻俺は、手に現実世界と同じ黒子と傷痕を確認したではないか。そんなものを再現するアミュスフィア規格のゲームは、俺の知る限り存在しない。
「コマンド。……ログアウト」
薄い望みを抱きながらそう発音したが、一切のレスポンスは無かった。胡坐をかいたまま、改めて自分の手を眺める。
指先で渦を巻く指紋。関節部に刻まれた皺。薄く生えた産毛。先ほどからにじみ出てくる冷や汗の粒。
それを上着で拭い、ついでにもう一度布地を仔細に確認してみる。荒い糸を、原始的な方法で布に編んである。表面に毛羽立つ極細の繊維までがはっきりと見える。
ここが仮想世界だとすると、それを生成しているマシンは恐るべき高性能機だ。俺は視線を前方に据えたまま、右腕を素早く動かして傍らの草を一本千切りとり、目の前に持ってきた。
従来のVRワールドに使われているディティール・フォーカシング技術なら、俺の急激な動きに追随できず、草が細部のテクスチャーを得るのにわずかなタイムラグが発生したはずだ。しかし眼前の草は、細かく走る葉脈や縁のぎざぎざ、切り口から垂れる水滴にいたるまで、俺が凝視した瞬間から超微細に再現されていた。
つまりこの世界は、視界に入るすべてのオブジェクトを、マイクロメートル単位でリアルタイム生成しているということになる。容量で言えば、この草一本で数十メガバイトにのぼるだろう。そんなことが、果たして可能なものだろうか?
俺は、これ以上追及したくない、という心の声を押さえつけ、足の間の草を掻き分けると右手をシャベルがわりに土を掘り返してみた。
湿った黒土は案外柔らかく、たちまち細く絡み合った草の根っこが目に入った。網目のようなその隙間にもぞもぞと動くものを見つけ、指先でそっとつまみ出す。
三センチほどの小さなミミズだった。安住の地から引っ張り出され、懸命にもがくそのミミズは、しかし光沢のある緑色で、オマケにキューキューと細い鳴き声を上げた。俺は眩暈を感じながらそいつをもといた場所に戻し、掘り返した土をその上にかけた。右手を見ると、掌がしっかりと黒く汚れ、爪の間に細かい土の粒が入り込んでいた。
たっぷり数十秒間放心したあと、俺は嫌々ながら、この状況を説明するに足る可能性を三つばかり捻り出した。
まず、ここが、従来のNERDLES技術の延長線上にあるVR世界である、という可能性。しかしその場合、俺の記憶にあるどんなスーパーコンピュータでもこんな超微細な3Dワールドは生成できない。つまり、俺が記憶を失っているあいだに、現実時間で数年、もしかしたら数十年の時間が経過してしまった、ということになる。
次に、ここは現実世界のどこかである、という可能性。つまり俺は何らかの犯罪、あるいは違法実験、あるいは手酷い悪戯の対象となり、こんな服を着せられて地球上のどこか――気候からして北海道、ことによると南半球か?――の森に放り出された。しかし、日本にはキューキュー鳴くメタリックグリーンのミミズはいないと思うし、世界のどこかの国にいたという記憶もない。
そして最後は、ここが本物の異次元、異世界、ことによると死後の世界であるという可能性だ。マンガや小説、アニメではお馴染みの出来事。それらのドラマツルギーに従えば、俺は今後、モンスターに襲われた女の子を助けたり村の長の頼みごとを聞いたり救世の勇者として魔王と戦ったりするのだろう。そのわりには、腰には"銅の剣"の一本もありゃしない。
俺は腹を抱えて大爆笑したいという急激な欲求に襲われ、どうにかそれをやり過ごしてから、三つ目の可能性は完膚なきまでに排除することにした。現実と非現実の境界を見失うと、ついでに正気も無くしてしまいそうな気がしたからだ。
つまるところ――ここは仮想世界か、あるいは現実世界だ。
前者なら、たとえどれほどスーパーリアルな世界であろうと、その真偽を確かめるのはそう難しくない。手近な樹の天辺まで登り、頭から墜落してみればわかる。それでログアウト、あるいはどこぞの寺院なりセーブポイントで蘇生すれば仮想世界である。
しかし、もしもここが現実世界であった場合、その実験は最悪の結果を招く。ずいぶん昔に読んだサスペンス小説で、とある犯罪組織が、リアルなデスゲームのビデオを撮影するために、人を十人ほど攫って無人の荒野に放り出して殺し合いをさせるという奴があった。そんなことが現実に行われるとは中々思えないが、それを言ったらSAO事件だって同じくらい突拍子も無い出来事だったのだ。もしこれが現実世界を舞台に行われているゲームなら、スタート直後に自殺するのはあまりいい選択肢とは思えない。
「……そういう意味じゃあ、アレはまだマシだったのかなあ……」
俺は無意識のうちにそう口に出していた。少なくとも、茅場晶彦はゲーム開始時点にあれこれ細かい説明をするという最低限の義務は果たしたのだ。
梢の向こうに覗く空を見上げ、俺はもう一度口を開いた。
「おい、GM! 聞いてたら返事しろ!!」
だが、どれだけ待っても、巨大な顔が現われたり、フードを被った人影が横に出現したりということは無かった。もしやと思い周囲の草むらを再度仔細に調べ、衣服のあちこちを手で探ったが、ルールブックに類するものを見つけることもできなかった。
どうやら、俺をこの場所に放り出した何者かは、サポートヘルプには一切応じるつもりはないようだ。事態が、ある種の偶発的事故によるものでないのなら、だが。
鳥たちの呑気な囀りを聞きながら、俺は今後の方針について懸命に考えた。
もし、これが現実の事故であるなら、迂闊に動き回るのはあまりいい考えではないような気がする。現在、この場所に向かって救助の手が近づきつつあるかもしれないからだ。
しかし、一体どのような事故が起きればこんな訳のわからない状況が出来するというのだろう。無理矢理にこじつけるなら、例えば旅行か何かで移動中に乗り物――飛行機なり車なりがトラブルを起こし、この森に落下して気絶、そのショックで前後の記憶を失った、ということも有り得なくはないのかもしれない。しかしそれでは、この妙な服装の説明がつかないし、また体のどこにも擦り傷ひとつ負っている様子はない。
あるいは、仮想世界にダイブ中の事故、ということもあるのかもしれない。通信ルートに何か障害が発生し、本来繋がるべき世界ではない場所にログインしてしまった、というような。しかしやはりその場合も、オブジェクトの恐るべきハイディティールっぷりを説明することはできない。
やはりこれは、何者かの意図によってデザインされた事態と思うほうが無理がないように思える。であるなら、俺から何か行動を起こさない限り状況は一切変化しない、と考えたほうがいい。
「どっちにせよ……」
ここが現実なのかVRワールドなのか、それだけはどうにかして見極める必要がある、と俺は呟いた。
何か方法があるはずだ。完璧に近づいた仮想世界は現実と見分けがつかない、とはよく使われるフレーズだが、現実世界の森羅万象を百パーセントシミュレートするなどということが可能だとは思えない。
俺はしゃがみこんだ恰好のまま、五分近くもあれこれ考えつづけた。が、現状で実行可能なアイデアは、ついに出てくることはなかった。もし顕微鏡があれば、地面に微生物が存在するかどうか調べられるし、飛行機があれば地の果てまで飛んでみることもできる。しかし悲しいかな生身の手足だけでは、地面を掘るくらいがせいぜいのところだ。
こんな時、アスナならきっと俺などが思いもよらない方法で世界の正体を判別してのけるんだろうなあ、と考え、短く嘆息する。あるいは彼女なら、くよくよいつまでも座り込んでいないで、とっとと行動に出ているのかもしれない。
再び襲ってきた心細さに、俺は小さく唇を噛み締めた。
アスナに連絡を取れないというだけで、こんなにも途方に暮れている自分に少々驚きもするし、そうだろうな、と納得する部分もある。この二年というもの、殆どすべての意思決定を彼女との対話を通して行ってきたのだ。今では、アスナの思考回路なしでは、俺の脳は一方のコアが動かないデュアルCPUのようなものだ。
主観時間ではつい昨日、エギルの店で何時間もお喋りに興じたのが嘘のように思える。こんなことなら、STLの話なんかしないで、現実世界と超精細仮想世界の見分け方でもディスカッションしておくべきだった……
「あっ……」
俺は思わず腰を浮かせた。周囲の音が急速に遠ざかる。
何ということだ、今までそれを思い出さなかったとはまったくどうかしている。
俺は知っていたはずじゃないか。NERDLESマシンを遥かに超える、超現実とでも言うべきVRワールドを生成できるそのテクノロジーを。それでは――ということは、ここが――。
「ソウルトランスレーターの中……? ここが、アンダーワールドなのか……?」
呟いた声に応えるものはいなかったが、俺はそれをほとんど意識もせずに呆然と周囲を見回した。
本物としか思えない節くれだった古木の森。揺れる草叢。舞う蝶。
「これが夢……? 俺の深層イメージの加工物だっていうのか……?」
ベンチャー企業"ラース"でのアルバイト初日に、STLの大雑把な仕組みとそれが生成する世界のリアルさについては説明を受けていた。しかし、実際に仮想世界を見た記憶の持ち出しが許されないために、俺は今までぼんやりと想像することしかできなかった。"組み立てられた夢"というその言葉が導く印象は、酷く混沌とした、一貫性のない舞台劇というようなものだった。
ところがどうだ。いま俺の目に入るあらゆるオブジェクトは、リアル、つまり現実っぽい、などというレベルのものではない。ある意味では現実以上である。空気の匂いも、風の感触も、鮮やかな色彩をもつ風景のすべてが、初代ナーヴギアをはるか上回るクリアさで俺の五感を刺激している。
もしここがSTLによって作られた世界なら、それがバーチャルなものであることを何らかのアクションによって確かめるのはほとんど不可能だ。なぜなら、周囲のオブジェクトはすべて、デジタル処理されたポリゴンではないからだ。俺は、現実世界で草の葉を千切り、眺めたときと全く同じ情報を脳――フラクトライトに与えられるのであり、原理的にそれがどちらの世界に属するものなのか判別することはできない。
STL実用化の暁には、世界がそれとわかるようなマーカーが絶対に必要だな……と思いながら、俺はふうっと肩の力を抜き、立ち上がった。
まだ完全な確証を得られたわけではないが、ここは"アンダーワールド"なのだと考えるのがもっとも自然だろう。つまり俺は現在、時給三千五百円のバイト中なのだ。
「いや、でも……ヘンだな……?」
ほっとしたのも束の間、俺はふたたび首を捻ることになった。
担当エンジニアは、確かにこう言っていたはずだ。実験データの汚染を避けるため、アンダーワールドに現実世界の記憶は持ち込めない、と。だが今の状況はそれとはほど遠い。俺が失っているのは、アスナを家に送っていくところからマシンに接続するまでのごく部分的な記憶だけだ。そもそも俺は、間近に迫った期末考査の勉強をするために、当分ラースでのバイトはしないつもりだったのだ。
この状況がSTLのテスト・ダイブなのだとしても、何か深刻な齟齬が起きているのは間違いない。俺は、以前もらったエンジニアの名刺をどうにか思い出しながら、再び上空を振り仰いだ。
「平木さん! 見てたら、接続を中止してくれ! 問題が発生してるみたいだ!」
たっぷり十秒以上、そのまま待った。
しかし、うららかな日差しの下に緑の梢が揺れ、眠そうに蝶が羽ばたきつづける光景は何一つ変化することはなかった。
「……もしかしたら……」
俺は溜息とともに呟いた。
もしかしたら、この状況そのものが、俺も納得ずくの実験である、ということなのかもしれなかった。つまり、自分のいる場所がSTLの内部なのかどうか確信できないユーザーは、一体どのような行動を取るのか、というデータを採取するために、ダイブ直前の記憶をブロックして身一つで仮想世界に放り込む。
仮にそうだとしたら、そんな底意地の悪い実験に軽々しく同意した自分の頭を、思い切り小突いてやりたい気分だ。自分なら的確かつ俊敏な行動によって容易く脱出してのけるはず、などと思っていたのなら噴飯ものとしか言いようがない。
俺は、右手の指を折りながら、現状を説明するに足るいくつかの可能性を、いいかげんなパーセンテージつきで列挙した。
「ええと……ここが現実である可能性、3パーセント。従来型VRワールドである可能性、7パーセント。合意によるSTLテストダイブである可能性、20パーセント。STLダイブ中の突発的事故である可能性、69.9999パーセント……ってとこか……」
心の中で、ホンモノの異世界に迷い込んだ可能性0.0001パーセント、と付け加え、俺は右手を腰に当てた。これ以上は、なけなしの知恵を絞っても無駄だろう。ある程度の確信を得るためには、危険を冒して他の人間もしくはプレイヤーもしくはテストダイバーに接触するしかない。
行動を起こすべき時だった。
まずは、そろそろ耐えがたいほどに渇きを訴えはじめている喉を潤したい。俺は、剣はおろか棒一本差していない背中を寂しく思いながら、小さな草地をあとにした。かすかなせせらぎが聞こえてくる方角――太陽の向きからしておそらく東を目指し、巨大な自然の門柱めいた古樹のあいだへと足を踏み入れる。
びろうどの絨毯のような苔と、驚くほど大きい羊歯類に覆われた森の底は、背後の円い草地とは打って変わって神秘的な世界だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほぼ完全に奪い去ってしまい、地表まで届くのは薄い金色の細い帯でしかない。そのわずかなエネルギーのお零れを逃すまいと、緑色の丸石のうえで日向ぼっこをしているコバルト色の小さなトカゲが目に入る。
先刻まで俺の周りを飛んでいた小さな蝶のかわりに、トンボのような蛾のような奇妙な虫が音もなく宙をすべり、時折どこからか甲高い正体不明の獣の鳴き声が届いてくる。
頼むから、今危険な獣とかモンスターとか出てくるのはナシにしてくれよ、と思いつつふかふかの苔の上を、十五分も進んだだろうか。再び前方に、たっぷりとした日差しの連なりが現われ、俺は少なからずほっとした。
もうかなり明瞭になりつつある水音からして、数十メートル先を南北に川が流れているのは間違いなさそうだった。からからの喉が発する悲鳴に引っ張られるように、自然と足が速まる。
鬱蒼とした森を飛び出ると、幅三メートルほどの草地を隔てて、きらきらと陽光を跳ね返す水面が目に入った。
「み、みずー」
情けなくうめきながら俺は最後の数歩をよろよろと踏破し、草花が生い茂る川べりへと身を投じた。
「うおっ……」
そして腹ばいのまま、思わず嘆声を上げた。
何という美しい流れだろうか。川幅はそれほど広くないが、ゆるやかに蛇行するその水流はすさまじい透明度だ。純粋な無色に一滴だけ青の絵の具を垂らしたような、清澄な色合いの流れを通して、水藻がたなびく川底がくっきりと見て取れる。
つい数秒前までは、正直、ここが現実世界である可能性がわずかに残されている以上生水を飲むのは危険かもしれないと思っていた。のだが、水晶を溶かしたようなという形容詞が相応しいこの水流を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。切れそうなその冷たさに思わず奇声を上げながら、すくい取った液体を口に流し込む。
甘露、とはこのことだろう。一切の不純物を感じさせず、それでいてほのかに甘く爽やかな味の水は、二度とコンビニ売りのミネラルウォーターに金を払う気がなくなるほどの美味さだった。堪らず、両手で立て続けに何度も掬い、仕舞には直接川面に顔を突っ込んで、得心がいくまで思うさま貪る。
まさに命の水に陶然となりながら、俺は心の片隅で、ここが従来型NERDLESマシン内世界である可能性を完全に排除した。
なんとなれば、いわゆるポリゴンで完全な液体環境を体感させるのは不可能なのである。
ポリゴンというのは、もともとソリッドなオブジェクトと最も親和性がある代物なのだ。その正体は、立体空間上の有限個数の座標であり、動く液体のように常にランダムな分離変形を続けるものを再現するのは苦手と言わざるを得ない。見かけをフラクタルなライティング技術で表現することはできても、それを触覚信号に変換できる形で完全に再現するのは、アミュスフィアのようなコンシューマ機はもちろん最新のワークステーションでも難しい。
よって、例えば旧アインクラッドでは、バスタブに溜めた湯に浸かっても、与えられるのは温感と圧感、それに視覚上の水面反射光だけだった。その状況は現行のALOでも変わらず、つまり俺が今両手と顔で感じている"完璧な液体感覚"は現実のものか、あるいはSTLによって想起させられた擬似現実だ、と判断することができるのだ。
高価なエリクサーを腹いっぱいがぶ飲みしたような充足感、回復感を味わいながら、俺は上体を起こした。
ついでに、ここが本物の現実世界である、という可能性も投げ捨ててしまいたい気分だ。こんな綺麗な川や、対岸にまた奥深く続いている幻想的な森や、色鮮やかで奇妙な小動物たちが、地球のどこかに実在するとはとても思えない。だいたい、自然なんてものは、人の手が触れなければ触れないほど人にとって過酷な環境になるものではないのだろうか? 先ほどからごく軽装でうろついている俺の体のどこにも、虫食い痕のひとつもないのはどうしたわけだ?
――などと考えているとSTLが原記憶層から毒虫の大群を召還しないでもない、と思ったので、俺は想念を振り払って再度立ち上がった。ここが現実世界である可能性を1パーセントに格下げしてから、さて、と左右を見回す。
川は、ゆるやかな円弧を描いて北から南へと流れているようだった。どちらの方向とも、その先は巨樹の群に飲み込まれ、見通すことはできない。
水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、かなり水源に近い場所であるような気がした。となれば、人家なり街なりがもし存在するなら下流のほうが可能性が高そうだ。
ボートでもあれば楽かつたのしいだろうになあ、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした――
その時だった。
わずかに向きを変えた微風が、俺の耳に奇妙な音を運んできた。
硬く、巨大な何かを同じく硬い何かで打ち据えた、そんな音だった。一回ではない。およそ三秒に一度、規則正しいペースで聞こえてくる。
鳥獣や自然物が発生源とは思えなかった。九分九厘、人の手によるものだ。接近することに危険はあるだろうか、と一瞬考えてから小さく苦笑する。ここは奪い合い殺し合いが推奨されるMMORPG世界ではない。他の人間と接触し情報を得るのが、現在の最優先オプションだ。
俺は体を半回転させ、かすかな音が響いてくる、川の上流に向き直った。
ふと、不思議な光景が見えたような気がした。
右手にさざめく川面。左手に鬱蒼と深い森。正面にはどこまでも伸びる緑の道。
そこを、横一列に並んで、三人の子供が歩いていく。黒い癖っ毛の男の子と、亜麻色のおかっぱ髪の男の子に挟まれて、麦わら帽子を被った女の子の長い金髪がまぶしく揺れる。真夏の陽光をいっぱいに受けて、金色の輝きを惜しげもなく振りまく。
これは――記憶……? 遠い、遠い、もう二度と戻れないあの日――永遠に続くと信じ、それを守るためならなんでもすると誓い、しかし日に晒された氷のように、あっけなく消え去ってしまった――
あの懐かしい日々。
まばたきをひとつする間に、幻は跡形もなく消滅した。
俺は呆気に取られてしばらく立ち尽くした。
今のはいったい何だったのだろう。突然襲ってきた、圧倒的な郷愁とでもいうようなもののせいで、まだ胸の真ん中が締め付けられるように痛い。
幼い頃の記憶――、川べりを歩く子供たちの後姿を見たとき強くそう感じた。右端を歩いていた黒髪の少年、あれは俺だと。
しかしそんなはずはないのだ。俺が物心つくころから暮らしている川越市には、こんな深い森や綺麗な小川は無いし、金髪の女の子と友達だったことも一度もない。そもそも、三人の子供たちは皆、今の俺のような異国の服を身につけていた。
ここがSTLの中なら、もしかしたら今のが、先週末に行った連続ダイブ試験中の記憶の残り滓なのか? そんなふうにも思ったが、STLの時間加速機能を考えても、俺が中で過ごしたのはせいぜい十日のはずだ。しかしあの深い憧憬が、そんな短期間で作られたとはとても考えられない。
いよいよもって、事態は不可解な方向へと突き進みつつあるようだった。俺はほんとうに俺なのか、という疑いに再度取り付かれおそるおそる傍らの川面を覗き込んだが、うねる流れに映し出された顔は絶えず歪んで、判別することは不可能だった。
ちくちくと残る痛みの余韻を、これもひとまずは棚上げすることにして、俺は相変わらず聞こえている謎の音に耳を済ませた。記憶の混乱に襲われたのはこの音のせいだろうか、とも思ったが、検証することはできそうもない。首を振り、音の源目指してふたたび歩き出す。
ひたすら両足を動かしつづけ、美しい風景を楽しむ余裕をどうにか取り戻せたころ、俺は音の方向が左にずれつつあるのを意識した。どうやら音源はこの川沿いではなく、左側の森に少し分け入った場所らしい。
指折り数えてみると、不思議な硬い音は連続して鳴りつづけているわけではなかった。きっかり五十回続くとおよそ三分途切れ、再開するとまた五十回続くのだ。いよいよ、人間が作り出しているとしか思えない。
俺は三分間の一時停止を頻繁に挟みながら歩きつづけた。適当な地点で川辺を離れ、森の中へ踏み込む。ふたたび出迎えた奇妙なトンボやコガネ虫やキノコ達のあいだを、ひたすらに進む。
「……49、……50」
いつしか小声で数えていた音が止まると同時に、俺もまた立ち止まった。べつに疲労しているわけでもない身には、こうも頻繁なインターバルは気を急かされるが、闇雲に歩いて迷うよりマシだと言い聞かせながら足元の苔むした岩に腰をかける。
すぐ近くの木の根のうえを、青紫色の殻をもつ大きなカタツムリが這っていた。その遅々とした歩みをぼんやり眺めながら、音が再開するのを待った。
が、カタツムリが根っ子の橋を渡りきって幹に達し、果て無き絶壁に挑み始めるころになっても、森の空気は静謐を守りつづけた。計っていたわけではないが、三分はとっくに経過している。俺は顔をしかめ、立ち上がると、意識を聴覚に集中した。
そのまま更に数分待ったが、音がまた鳴りはじめる様子はない。これは困ったことになった……と周囲をきょろきょろ見回す。元きた方向と、さっきまで音がしていた方向は、どうにか見分けがつきそうだった。最悪、川まで戻れればそれでいいと自分を納得させ、消えた音源めざして進んでみることにする。
うーん、もしかしたらあの音は、森に迷い込んだ愚か者を誘う魔女のワナか何かなのかなあ、とどきどきしながらも、しかしひたすらに真っ直ぐ俺は歩きつづけた。目印がわりに撒くパンを持っていないのは残念だが、どうせ撒いても鳥がみんな食ってしまうに違いない。
いつのまにか、前方の木立の隙間が明るくなりつつあるのに俺は気付いた。森の出口だろうか、ことによると村があったりするのかもしれない。足早に光の差すほうへと進む。
階段状に盛り上がった木の根を攀じ登り、古樹の幹の陰から顔を出した俺が見たのは――
とてつもないものだった。
森が終わっているわけでも、村があるわけでもなかった。しかし失望を感じる暇もなく、俺は口をぽかんと開けて眼前の光景に見入った。
森の中にぽっかり開いた円形の空き地。先刻俺が目を覚ました草地よりもはるかに広い。さしわたし三十メートルはあるだろう。地面はやはり金緑色の苔に覆われているが、これまで歩いてきた森と違うのは、羊歯やつる草、背の低い潅木の類がまったく存在しないことだ。
そして、空き地の真ん中に、俺の視線を釘付けにしたそれが聳え立っていた。
なんという巨大な樹だろうか! 幹の直径は目算でも四メートル以下ということはない。この森でこれまで見た樹木のすべてが、ごつごつと幹を波打たせた広葉樹だったのに対して、目の前の巨樹は垂直に伸び上がる針葉樹だ。その皮はほとんど黒に近いほど濃い色で、見上げればはるか上空で幾重にも枝を広げている。屋久島の縄文杉やアメリカのセコイア杉も巨大だが、この樹の持つ圧倒的な存在感は、自然界の樹木とは思えない、王の傲慢さとでも言うべきものすら放っているように感じられた。
梢などまったく見えない巨樹の上部から、再び視線を根元に戻していく。大蛇のようにのたうつ根に注目すると、それは四方に網目のごとく広がり、俺が立つ空き地の縁ぎりぎりまで達しているのが見て取れた。むしろ、この樹に地力のすべてを奪われた結果、苔以外の植物が一切育つことができず、結果としてこの大きな空間が森に開いた、というようにも思える。
俺は、王の庭に侵入することに多少の気後れをおぼえたが、巨樹の幹に触れてみたいという誘惑に抗えず足を踏み出した。苔の下でうねる根に何度か足を取られながら、それでも頭上を見上げるのを止められないまま、ゆっくり前進する。
何度目かの感嘆の溜息を漏らしながら、巨樹の幹まであと数歩、という所まで近づいた俺は、周囲への警戒などまったく忘れ去っていた。ゆえに、気付くのがずいぶん遅くなった。
「!?」
ふと正面に戻した視線が、幹のむこうから覗く誰かの眼とまっすぐぶつかって、俺は息を飲んだ。びくっと体を弾ませながら半歩あとずさり、腰を落とす。あやうく右手を、剣など差していない背中に持っていくところだった。
しかし幸いなことに、この世界で初めて出会う人間は、敵意はおろか警戒心すら抱いていない、とでも言うようにただ不思議そうに首をかしげていた。
同い年くらいの少年と見えた。柔らかそうな濃いブラウンの髪を長めに垂らし、服装は俺と似たような生成りの短衣とズボンだ。巨樹の根元に腰を下ろし、背中を幹に預けている。
不思議なのは、その顔立ちだった。肌はクリーム色だが、西洋人とは言い切れず、かと言って東洋人でもない。線の細めな、穏やかな目鼻立ちで、瞳の色は濃いグリーンに見える。
こちらにも敵意のないことを示そうと、俺は何かを言うべく口を開いたが、さて何を喋ったものかさっぱり見当がつかない。間抜け面で何度か口をぱくぱくさせていると、先方のほうが先に言葉を発した。
「君は誰? どこから来たの?」
完璧なイントネーションの、それは日本語だった。
俺は、黒い巨樹を見たときと同じくらいの衝撃を受けてしばし立ち尽くした。別に白人が日本語をしゃべるのが珍しいというわけではなく、このどう見ても日本ではない世界で完璧な日本語を聴くとは思っていなかったのだ。中世西欧風の衣服を身に着けたエキゾチックな少年の口から聞きなれた母国語が流れ出る光景は、まるで吹き替えの洋画を見ているような非現実感を俺にもたらした。
だが、呆けている場合ではない。ここが思案のしどころなのだ。俺は、近頃錆びつき気味だった脳味噌を必死に回転させた。
この世界がSTLの作り出した"アンダーワールド"だと仮定すると、目の前の少年は、一、ダイブ中のテストプレイヤーであり、俺と同じように現実世界の記憶を保持している、二、テストプレイヤーだが記憶の制限を受けており、この世界の住人になりきっている、三、コンピュータの動かしているNPCである、のいずれかだと推測できる。
一番なら話は早い。俺の置かれている異常状況を説明し、ログアウトする方法を教えてもらえばいい。
しかし二番、あるいは三番の場合はそう簡単にはいかない。アンダーワールドの住民としてのみ行動している人間またはNPCに向かって、いきなりソウルトランスレーターの異常だのログアウト方法だのと彼にとっては意味不明であろう単語を口走れば、激しい警戒心を呼び覚ましその後の情報収集の妨げとなりかねないのだ。
よって俺は、安全そうな単語のみ選んで彼と会話を交わし、そのポジションを見極める必要があるのだった。掌に浮かぶ冷や汗をこっそりズボンで拭いつつ、俺は笑顔らしきものを浮かべながら口を開いた。
「お……俺の名前は……」
そこで一瞬口篭もる。果たしてこの世界では、和風と洋風どちらの名前が一般的なのだろう。どっちとも取れる響きであることを祈りつつ、名乗る。
「――キリト。あっちのほうから来たんだけど、ちょっと、道に迷ってしまって……」
背後、おそらく南の方角を指差しながらそう言うと、少年は驚いたように目を丸くした。身軽な動作で立ち上がり、俺が元来たほうを指差す。
「あっちって……森の南? ザッカリアの街から来たのかい?」
「い、いや、そうじゃないんだ」
早速の窮地に思わず顔がこわばりそうになるのを、どうにか我慢する。
「それが、その……俺も、どこから来たかよくわからないんだ……。気付いたら、この森に倒れてて……」
おや、STLの異常かな? ちょっと待ってくれ、オブザーバーに連絡するから。――という返答を心の底から期待したが、少年は再度驚愕の表情を見せながら、俺の顔をまじまじと見ただけだった。
「ええっ……どこから来たかわからないって……今まで住んでた街とかも……?」
「あ、ああ……憶えてない。わかるのは、名前だけで……」
「……驚いたなあ……。"ベクタの迷子"か、話には聞いていたけど……本当に見るのは初めてだよ」
「べ、べくたのまいご……?」
「おや、君の街ではそう言わないのかい? ある日突然いなくなったり、逆に森や野原に突然現われる人を、このへんじゃそう呼ぶんだよ。闇の神ベクタが、悪戯で人間をさらって、生まれの記憶を引っこ抜いてすごく遠い土地に放り出すんだ。僕の村でも、ずーっと昔、お婆さんがひとり消えたんだって」
「へ、へえ……。じゃあ、俺もそうなのかもしれないな……」
雲行きが怪しいぞ、と考えながら俺はうなずいた。目の前の少年が、いわゆるロールプレイをしているテストプレイヤーであるとはどうにも思えなくなってきたからだ。最後の望みをかけて、言葉を選びつつ口を開く。
「それで……どうにも困ってるんで、一度ここを出たいんだ。でも、方法がわからなくて……」
これで状況を悟ってくれ、と必死に祈ったが、少年は同情するような光を茶色の瞳に浮かべ、頷きながら言った。
「うん、この森は深いからね、道を知らないと抜けるのは大変だよ。でも大丈夫、この樹から北に向かう道があるから」
「い、いや、その……」
ええいままよ、とやや危険な単語をぶつけてみる。
「……ログアウトしたいんだ」
一縷の望みをかけたその言葉に、少年は大きく首を傾げ、聞き返した。
「ろぐ……なんだって? 今、何て言ったんだい?」
これで確定、と見てよさそうだった。目の前の少年は、テストプレイヤーにせよNPCにせよ完全にここの住人であって、"仮想世界"などという概念は持っていないのだ。俺は失望を顔に出さないよう気をつけながら、どうにか誤魔化すべく言い足した。
「ああ、ご、御免、土地の言い回しが出ちゃったみたいだ。ええと……どこかの村か街で泊まれる場所を見つけたい、っていう意味なんだ」
我ながら苦しすぎる、と思ったが少年は感心したように頷くのみだった。
「へえ……。初めて聞くなあ、そんな言葉。黒い髪もこのへんじゃ珍しいし……もしかしたら南国の生まれなのかも知れないねえ」
「そ、そうかもしれない」
強張った笑いを浮かべると、少年もにこっと邪気の無い笑顔を見せ、次いで気の毒そうに眉をしかめた。
「うーん、泊まれるところか。僕の村はこのすぐ北だけど、旅人なんてまったく来ないから、宿屋とか無いんだよ。でも……事情を話せば、もしかしたら教会のシスター・アザリヤが助けてくれるかもしれないな」
「そ……そうか、よかった」
その言葉は本心だった。村があるなら、そこにはもしかしたらラースのオブザーバーが常駐しているか、あるいは外部からモニターしている可能性もある。
「それじゃあ、俺は村に行ってみるよ。ここからまっすぐ北でいいの?」
視線をうごかすと、確かに俺がやってきた方向とほぼ反対側に、細い道が伸びているのが見えた。
が、足を踏み出すより早く、少年が左手で制する仕草をした。
「あ、ちょっと待って。村には衛士がいるから、いきなり君が入っていったら説明するのが大変かもしれない。僕が一緒に行って事情を説明してあげるよ」
「それは助かるな、ありがとう」
俺は笑みとともに礼を言った。同時に内心で、どうやら君はNPCじゃないね、と呟いていた。
プリセット反応しかできない擬似人格プログラムにしてはあまりにも受け答えが自然すぎるし、俺に積極的に関わろうとする行動もNPCらしくない。
六本木にあるラース開発支部か、あるいはベイエリアのどこかにあるというラース本社のどちらでダイブしているのかわからないが、目の前の少年を動かすフラクトライトの持ち主はかなり親切な性格なのだろう。無事に脱出できた暁にはきちんと礼を言うべきかもしれない。
などと考えていると、少年が再度顔を曇らせた。
「ああ……でも、すぐにはちょっと無理かな……。まだ仕事があるから……」
「仕事?」
「うん。今は昼休みなんだ」
ちらりと動いた瞳の先を見ると、少年の足元の布包みから、丸いパンらしき固まりがふたつ覗いていた。その他には革の水筒がひとつあるだけで、昼ご飯だとするとえらく質素なメニューだ。
「あ、食事の邪魔をしちゃったのか」
俺が首をすくめてそう言うと、少年ははにかむように笑った。
「仕事が終わるまで待っててくれれば、一緒に教会まで行ってシスター・アザリヤに君を泊めてくれるよう頼んであげられるけど……まだあと四時間くらいかかるんだ」
一刻も早く村とやらに飛んでいき、この状況を説明できる人物を探したいのはやまやまだが、また薄氷を渡るような会話を繰り返すのは勘弁という気持ちのほうが大きかった。四時間というのは短くないが、STLの時間加速機能を考えれば現実では一時間強ていどしか経過しないはずだ。
それに、何故だかわからないが、もう少しこの親切な少年と会話をしてみたいという気分もあった。俺はこくりと頷きながら言った。
「大丈夫、待ってるよ。すまないけど、よろしく頼む」
すると、少年はにこっと大きく笑い、頷き返した。
「そう、じゃあ、ちょっとそのへんに座って見ててよ。あ……まだ、名前を言ってなかったね」
右手をぐっと差し出し、少年は続けた。
「僕の名前はユージオ。よろしく、キリト君」