人間の手によらず自動生成された仮想世界。
その概念には、詩乃の胸を高鳴らせるものがあった。なんとなれば、ちかごろ詩乃は、VRMMOゲーム世界の"恣意的デザイン"に違和感を覚えることが往々にしてあるのだった。
既存のVRワールドは、当然ながら端から端まで、開発会社の3Dデザイナーが組み上げたものだ。廃墟に転がる古タイヤ、荒野に生えるサボテン、それらはどんなに何気なく見えても、偶然そこにあるものではない。デザイナーが、何らかの意図のもとに配置したオブジェクトなのだ。
ゲームプレイ中に、一度そんなことを考えてしまったが最後、詩乃の胸の奥ですっと醒めるものがある。自分たちは所詮、開発者たちという名の神様の掌中で右往左往するだけの存在なのだ、ということを否応無く意識させられてしまうからだ。
もともと、愉しむためにガンゲイル・オンラインを始めたわけではない詩乃は、過去の呪縛を乗り越えたいまでも、GGOの中で己を鍛えることには何らかの現実的意味があると考えている。リアルでもモデルガンを携帯し、揃いの記章バッジを服に飾って兵士を気取るような一部のプレイヤー連中には怖気が走るが、そういうことではなく、ゲーム内でシノンが身に付けた忍耐力、自制力といったものは現実の朝田詩乃をもわずかながら強くしてくれているという信念があるし、また逆に言えば、もしそうでなければ決して少ないとは言えない時間と金銭をつぎ込んで仮想世界に飛び込み続ける甲斐がないというものではないか。
人見知りの激しい自分が、わずか数ヶ月の付き合いで結城明日奈とここまで仲良くなれたのもそのへんに理由があるのではないか、と詩乃は思う。いつもふわふわと笑っている彼女だが、同じような価値観の持ち主――つまり、VRゲームを逃避的に遊ぶのではなく、現実の自分をも高めるという目的意識を持つ人種である、ということは疑いようもない。簡単に言えば、明日奈もまた戦士である、ということだ。
なればこそ、詩乃はVR世界がただの作り物でありその内部で起きることがすべて虚構だとは思いたくない。思いたくないが、あまねくVR世界には製作者が存在するのもまた事実である。明日奈の家に泊まりにいったとき、照明を落とした部屋で詩乃はその違和感のことをつっかえつっかえ口にしてみた。すると、大きなベッドに並んで横たわった明日奈は、しばらく考えてから言った。
『詩乃のん、それはこの現実世界も同じことだと思うよ。いまはもう、わたし達に与えられた環境なんて、家や街も、学生っていう身分も、社会構造まで、ぜんぶ誰かがデザインしたものなんだよね……。たぶん、強くなる、って、その中で進みたい方向に進んでいける、ってことじゃないかな』
少し間をあけて、明日奈は笑いを含んだ声で続けた。
『でも、一度見てみたいよね。誰かがデザインしたわけじゃないVR世界。もしそういうのが実現したら、それはリアル以上のリアルワールドってことになるのかも、ね』
「リアルワールド……」
詩乃が無意識のうちに呟くと、どうやら同じことを思い出していたらしい明日奈が、テーブルの向こうでこくりと頷いた。
「キリト君……じゃあ、それはつまり……ソウルトランスレーターなら、主観的にはこの現実世界と同じかそれ以上の現実が作れる、ってことなの? デザイナーのいない、ほんとの異世界が?」
「うーん……」
和人はしばし考えこみ、やがてゆっくりと首を振った。
「いや……現状では難しいだろうな。単純な森とか草原とかは、オブジェクトのランダム配置でも生成できるだろうけど、整合性のある文明世界となると結局は人間の組んだアルゴリズムが必要だろうからな。あるいは……実際にプレイヤーが原始的世界から暮らし始めて、都市が自然に出来るのを待つか……」
「あはは、それはずいぶんと気の長い作戦だねー。百年くらいかかりそうだね」
明日奈と詩乃は同時に笑った。和人はなおも眉間にしわを刻んで考え込みつづける様子だったが、そのうち顎をなぞりながらぽつりと呟いた。
「文明シミュレートか。いや……あながち無いでもない話かもな。中に持ち込む記憶は制限すればいいんだし……STLのSTRA機能が進化すれば……」
「エスティーエルのエスティー……何だって?」
略語の連発に詩乃が顔をしかめると、和人は瞬きして顔を上げた。
「ああ……ソウル・トランスレーション技術による魔法その2、さ。さっき、夢の話をしたろ」
「うん」
「ときどき、ものすごく長い夢を見て、起きたらぐったり疲れてる、みたいなことあるよな。怖い夢のときとか特に……」
「あー、あるある」
詩乃はしかめっ面のままこくこく頷いた。
「何かから逃げて逃げて、途中でもうこれは夢だろう、とか思うんだけど目が醒めなくて。散々おっかけられてからようやく起きた、と思うとまだそこも夢だったりしてさ」
「そういう夢って、体感的にはどれくらいの時間経ってる感じがする?」
「えー? 二時間とか……三時間くらいかな」
「ところが、だ。脳波をモニターしてみると、当人がものすごく長い夢を見た、と思っているときでも、実際に夢を見ている時間は目覚める前のほんの数分だったりするんだな」
そこで言葉を切ると、和人は不意に手を伸ばし、卓上に並べて置かれたふたつの携帯端末を掌で覆った。いたずらっぽい視線で詩乃を見て、小さく笑う。
「STLの話をはじめたのが四時半だったよな。シノン、いま何時だと思う?」
「え……」
虚を突かれて、詩乃は口篭もった。古めかしい掛け時計があるのは詩乃の背後の壁だし、夏至を過ぎたばかりのこの時期の空はまだまだ明るくて陽の落ち具合で判断することもできない。やむなく当て推量で答える。
「んーと……四時五十分くらい……?」
すると和人は携帯から手を離し、画面を詩乃に向けた。覗き込むと、デジタル数字は五時をとうに回っていた。
「わ、もうそんなに経ってたのか」
「かくも時間とは主観的なものなのさ。夢の中だけじゃなく、現実世界でもね。何か緊急事態が起きて、アドレナリンがどばーっと出てるときは時間はゆっくり流れるし、反対にリラックスして会話に夢中になってたりするとあっというまに過ぎ去っていく。フラクトライトの研究によって、何故そういうことが起きるのか、おぼろげにわかってきたんだ。どうやら、思考領域の一部に、"思考クロック発振器"とでも言うべきものがあるらしいんだよ」
「クロック……?」
「ほら、よくパソコンのCPUが何十ギガヘルツとか言うだろう。あれだよ」
「計算するスピードのことね?」
明日奈の言葉にこくりと頷き、和人はテーブルの上に置いた右手の指先をとんとんと鳴らした。
「あれも、カタログはマックスの数値を載せてるけど、実は一定じゃないんだ。普段は発熱を抑えるためにゆっくり動いてて、重い処理を命じられると――」
とんとんとん、と指のスピードを上げる。
「動作クロックを引き上げて計算速度をスピードアップさせる。フラクトライト、つまり人間の意識を作る量子コンピュータも一緒だ。緊急事態に置かれて、処理すべきデータが増大すると、思考クロックを加速して対応する。シノンも、GGOの戦闘中にむちゃくちゃ集中してるときとか、弾が見えるような気がするときあるだろう?」
「あー、うん、調子いいときはね。まあ、なかなかあんたみたいに"弾道予測線を避ける"みたいな真似はできないけどさ」
唇を尖らせてそう言うと、和人は苦笑して首を振った。
「いやあ、もうだめさ、最近すっかりナマっちゃって。……ともかく、その思考クロックが、時間感覚に影響してるってわけなんだな。クロックが加速しているとき、人間は相対的に時間の流れをゆっくりと感じる。睡眠中はこれが更に顕著になる。膨大な量の記憶データを処理するためにクロックは限界までスピードアップし、結果として、数分間のうちに何時間ぶんもの夢を見る」
「ふむむ……」
詩乃は腕を組んで唸った。自分の脳、というか魂が光でできたコンピュータだ、などという話だけでも常識のはるか埒外なのに、こうして"考える"という行為によってその動作スピードが上がったり下がったりする、と言われても実感することなど到底できない。だが、和人は、まだまだ、とでも言うようにニッと笑うと言葉を続けた。
「となると、もし、夢の中で仕事や宿題ができたら、凄いことになると思わないか? 現実世界では数分間でも、夢ん中じゃあ何時間だぜ」
「そ、そんな無茶な」
「そうだよー、そんな都合のいい夢なんか見れないよ」
詩乃と明日奈は同時に異論を唱えたが、和人は笑みを消さないまま首を振った。
「本物の夢が支離滅裂なのは、それが記憶整理作業の余剰産物だからだ。STLによって作られる夢はもっとずっとクリアだ……と言うか、ユーザーの意識自体は覚醒してるんだからな。寝てるのは身体制御領域だけでさ。その状態で、思考クロック発振部分に干渉し、強制的に加速させる。それに同期させて、仮想世界の基準時間も加速する。結果、ユーザーは、実際のダイブ時間の数倍の時間を仮想世界で過ごすことができる。これが、ソウル・トランスレーション・テクノロジーのもうひとつの特殊機能、"主観時間加速"……サブジェクティブ・タイムレート・アクセラレーション、略してSTRAさ」
「……なんだか、もう……」
現実の話とは思えないなぁ、と詩乃は小さく嘆息した。アミュスフィアと"少し違う"どころではない。
NERDLESテクノロジーだけでも、社会生活はずいぶんと様変わりした。コストダウンが至上命題の一般企業では、すでに会議や営業のたぐいを仮想世界で行うのは当たり前と聞くし、シーンに入り込んで好きな場所から視聴できる3Dドラマや映画が毎日何本も放送され、高度な再現性が売り物の観光ソフトは年配者に大人気、先に和人が言ったように軍事訓練ですら仮想世界で行われる時代なのだ。あまりにも家から出ないで済ませられることが増えすぎたというので、自前の足で目的なく街を闊歩する"散歩族"ブームなどというものが到来し、それに併せて"バーチャル散歩ソフト"が発売されてこれも大好評などというわけのわからない現象も出来している。大手のハンバーガーショップや牛丼チェーンのバーチャル支店が出現したのもそう最近のことではない。
かくの如き仮想世界からの潮流に、現実世界はどこへ押し流されていくのかさっぱり判らない、という昨今の世相だが、そこへソウル・トランスレーターなどというものが登場したら、一体世の中はどうなってしまうのか――と詩乃が薄ら寒いものを感じて両腕をさすっていると、同じようなことを考えたらしく眉をしかめた明日奈が、ぽつりと呟いた。
「長い夢……かぁ……」
隣の和人を見上げ、微かに笑う。
「SAO事件が、ソウル・トランスレーターが普及する前のことでまだしも良かった……って思うべきなのかなぁ……。もしナーヴギアでなくてSTLだったら、アインクラッドが千層くらいあって、クリアに中の時間で二十年くらいかかってたかもね」
「か……カンベンしてくれ」
和人がぶるぶると首を振るのを見て、明日奈はもう一度くすりと笑うと、続けて言った。
「じゃあ、この週末、キリト君はずーっと長い夢を見てたのね?」
「ああ。長時間連続稼動試験があってさ。三日間飲まず食わずでダイブしっ放し。栄養の点滴はしてたけど、やっぱちっと痩せたなぁ……」
「ちっとどころじゃないよー。まったく、またそんな無茶して」
明日奈は可愛らしい怒り顔を作ると、左手で和人の肩をぽこんと叩いた。
「明日あたり、川越までご飯つくりに行くからね! 直葉ちゃんに、野菜いーっぱい仕入れておくように頼んどかなくちゃ」
「お、お手柔らかに」
そんな二人の様子を微笑みながら見ていた詩乃は、そっかー、と頷いてから、ふと感じた疑問を口にした。
「そんなバイトしてたのかぁー。丸三日も拘束されたんじゃ、えーと、時給かける七十二? そりゃここはキリトの奢りで決定だね。――それはそうとしてさ、その三日のダイブ中も、ええと……STRA? は働いてたんでしょ? あんた、中じゃ実際のとこどれくらいの時間を過ごしたわけ?」
和人はひょいっと頭をかたむけ、覚束ない口調で言った。
「……と、言っても、さっき説明したとおり、俺ダイブ中の記憶無いんだよね。でも、STRAは、現状では最大で三倍ちょいって話だからな……」
「てことは……九日?」
「か十日くらいかな」
「ふぅん……。一体どんな世界で何してたんだろうね。持ち出しはできなくても、現実の記憶は中に持ち込めたの? 他にテスターはいたの?」
「いやー、そのへんのこと、マジで何も知らないんだよ。予備知識があると、テストの結果に影響するからってさ。でも、機密保持が目的なら記憶の持ち込みを制限する意味なんかないだろうし……俺が行ってる都内の研究所にはSTLは一台だけだけど、本社にはもっとあるらしいから、同時にダイブしてるテスターもそりゃ居たんじゃないのかな。ほんと、"中"のことは徹底して秘密主義なんだよな……。ビーターとしては、テストのし甲斐が無いったらないよ。教えてもらったのは世界の名前だけさ」
「へえ、何て?」
「"アンダーワールド"」
「アンダー……地下の世界? そういうデザインのVRワールドなの?」
「さあ、世界設定に関しては現実モノなのかファンタジーなのかSFなのか、それすらも教えて貰ってないからな。ただまあ、そういう名前なんだから、地下っぽい暗いとこなのかな……」
「ふうん。なんかピンとこないね」
詩乃と和人がそろって首を捻ると、明日奈が、華奢なおとがいに指を当てながら小さく呟いた。
「もしかしたら……それも、アリスなのかもしれないね」
「アリスって……?」
「さっきのラースって名前もそうだけど、"不思議の国のアリス"から取ってるのかなって。あの本、最初の私家版は、"地下の国のアリス"って名前だったのよね。原題は"アリスズ・アドベンチャー・アンダーグラウンド"だけどね」
「へえ、初耳。もしそうだとしたら、なんか、メルヘンな会社だね」
詩乃は少し笑ってから続けた。
「そう言えば、アリスの本ってふたつとも長い夢の話だよね。……ってことは、もしかしたらキリトもダイブ中に、ウサギとお茶会したり女王様とチェスしたりしてたのかもね」
それを聞いた明日奈も、可笑しそうにあははと笑う。が、当の和人はと言うと、何故か難しい顔でテーブルの一点を見詰めていた。
「……どうかしたの?」
「……いや……」
詩乃が尋ねると視線を上げたが、ぎゅっと眉を寄せ、もどかしそうに瞬きを繰り返している。
「いま、アリス……って聞いて、何か思い出しそうな気がしたんだけどな……。うーん……ほら、よくあるだろ。さっきまで何かすごい気がかりなことを考えてたんだけど、何が気がかりなのかを思い出せなくなっちゃって、その不安な感じだけが残ってる、みたいなこと」
「あー、あるね。怖い夢を見て飛び起きたのに夢の中身が思い出せない、みたいな」
「うう、何か……いますぐにしなきゃいけないことを忘れてる気がする……」
ぐしゃぐしゃと髪をかき回す和人を心配そうに見やりながら、明日奈が訊いた。
「それって、つまり、実験中の記憶ってこと……?」
「でもさ、あんた、仮想世界の記憶は全部消去されてるって言ったじゃない」
続けて詩乃もそう口にする。和人は尚も目を閉じて唸っていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「……まあ、何せ十日分の記憶だからな。デリートしきれない断片がわずかに残ってるのかもな……」
「そっか……そう考えると、もし記憶が残ってたら、あんた、私達より一週間ぶん余計にトシとってるってことになるのよね、精神的に。なんか……怖いね、そういうの」
「わたしはちょっと……嬉しいかな、差が縮まったみたいで」
詩乃と和人よりひとつ年上の明日奈は小さく笑いながらそう言ったが、その顔にもかすかな不安の色が潜んでいるように見えた。
「そういえば……ダイブが終わった直後から、今日学校で授業受けてる時くらいまで、ヘンな違和感あったよ。何か……よく知ってるはずの街とかテレビ番組とか、めちゃくちゃ久しぶりに見る感じがしてさ。クラスの連中も……あれ、誰だっけこいつ、みたいな……」
「十日ぶりくらいで大袈裟なこと言わないでよ」
「ほんとだよー、何か不安になるじゃない」
和人の言葉に、詩乃と明日奈はそろって顔をしかめた。
「キリト君、もうそんな無茶な実験やめてよね。体にだって負担かかってるよ、絶対」
「ああ、長時間連続運転試験は大成功で、基礎設計上の問題点はオールクリアされたそうだから。次はいよいよ実用化に向けてマシンをシェイプする段階だろうけど、ありゃ何年かかるかわかったもんじゃないな……。俺も当分はバイト行かないよ、来月からは期末試験も始まるしな」
「う……」
和人の言葉に、詩乃はもう一度渋面を作った。
「ちょっと、ヤなこと思い出させないでよ。キリトとアスナのとこはいいよ、ペーパーテストとかほとんど無いんだからさ。ウチはいまだにマークシート方式なんだよー、カンベンしてほしいわよまったく」
「ふふ、バレット・オブ・バレッツが終わったら今度は勉強合宿でもしよっか」
言いながら、明日奈は詩乃の背後の壁を見上げ、わ、と小さく声を上げた。
「もう六時近いよ、ほんと、お喋りしてるとあっという間だね」
「そろそろお開きにするか。なんか本題の打ち合わせは五分くらいしかしてなかった気がするけど」
苦笑する和人に、詩乃も笑みを返した。
「ま、詳しい戦術とかは中で決めればいいよ。アスナの武器も選ばないとだし。じゃ……今日はどうも、ごちそーさま」
「へいへい」
自分の携帯をポケットに入れ、反対のポケットから財布を出しながら和人はカウンターに歩み寄った。詩乃と明日奈はそれぞれ自分の鞄を持ち、先に出口へと向かう。
「エギルさん、ご馳走様でした」
「またくるねー」
夜のための仕込みに忙しそうな店主に声をかけ、ウイスキー樽から傘を抜いて、詩乃はドアを押し開けた。カラカラン、と鳴るベルに続いて、町の喧騒と雨音が耳を包む。
日没までにはまだ少し間があったが、厚い雲のせいで、濡れた路面近くにはすでに濃い夜の気配が漂っていた。傘を広げ、小さな階段を一歩降りたところで――詩乃はぴたりと足を止め、素早く周囲に視線を走らせた。
「詩乃のん、どうしたの……?」
背後の明日奈が不思議そうに声をかけてくる。詩乃はハッと我に返り、慌てて道路に出て振り返った。
「う、ううん、なんでもない」
照れ隠しに短く笑う。まさか、うなじにちりりと狙撃手の気配を感じたような気がした、などとはとても言えない。オープンスペースで咄嗟にスナイピングポイントの確認をするクセが現実世界でも出てしまったのか、と考え、少々愕然とする。
明日奈はなおも首を傾げていたが、すぐにもう一度ドアベルが鳴り、その音に押されるように階段を降りた。
財布を仕舞いながら出てきた和人は、傘も差さずに、まだ釈然としないような顔で呟いていた。
「アリス……アリス、か……」
「何よあんた、まだ言ってるの?」
「いや……よく思い出してみると、実験前、意識がシフトする直前に、スタッフが話してたのをちらっと聞いたような気がするんだよな……。A、L、I……アーティ……レイビル……インテリジェン……うーん、何だったかなあ……」
尚もぶつぶつと要領を得ない単語を口中で転がしている和人に、自分の傘を差しかけながら、明日奈が困った人ねえ、と苦笑した。
「ほんと、何かに気を取られるとそればっかりなんだから。そんな気になるなら、次に会社行ったときに訊いてみればいいじゃない」
「まあ……それもそうだ」
和人は二、三度頭を振ると、ようやく手にした傘を開いた。
「んじゃシノン、今夜十一時にグロッケンの"ラスティボルト"で待ち合わせでいいか?」
「了解。遅れないでよ」
「じゃーね詩乃のん、また今夜ねー」
「ばいばい明日奈」
JRで帰る和人と明日奈を手を振って見送り、詩乃は反対方向にある地下鉄の駅目指して一歩足を踏み出した。そこでもう一度、傘の下からそっと周囲を見渡してみたが、先刻感じたような気がした粘つくような視線は、やはりそれが幻であったとでも言うかのごとく、綺麗に消え去っていた。
(第二章 終)
転章 I
人の体温というのは不思議なものだ。
結城明日奈は、ふとそんなことを考えた。
雨は止み、雲の端にかすかな橙を残した濃紺の空の下を、ふたり手を繋いでゆっくりと歩いている。隣に立つ桐ヶ谷和人も、数分前から何事か物思いに沈んでいるようで、唇を閉じたまま歩道の煉瓦タイルに視線を落としていた。
世田谷に住む明日奈と、川越まで帰る和人は、いつもならJR新宿駅で別れてそれぞれ違う電車に乗り換えるのだが、今日は何故か和人が「家の近くまで送るよ」と言い出したのだった。彼の家までは渋谷から更に一時間近くかかってしまうため、そんなことをしていては朝田詩乃との待ち合わせ時間ギリギリになってしまうと思い反射的に断りそうになったが、和人の眼にどこかいつもと違う色の光を見た気がして、明日奈は自然と頷いていた。
最寄駅で降りたあと、どちらからともなく手を繋いだ。
こうしていると、ぼんやりと思い出す情景がある。甘いだけではない、苦く恐ろしい記憶でもあるので普段はほとんど意識にのぼることは無いのだが、たまに和人と手を繋ぐと、ふっと甦ってくるのだ。
現実世界の記憶ではない。旧アインクラッド第55層主街区、鉄塔の街グランザムでのことだ。
当時、明日奈/アスナはギルド血盟騎士団の副団長を務めており、護衛としてクラディールという名の大剣使いが四六時中随行していた。クラディールはアスナに対して異常なほどの妄執を抱いており、アスナにギルド脱退を決意させた和人/キリトを、麻痺毒を用いて秘密裏に葬ろうとした。
その過程で三人のギルドメンバーが殺され、あわやキリトも命を落としかけたところに駆けつけたアスナは、激情に身を任せてクラディールを斬った。二人はそのまま55層の血盟騎士団本部に戻り、ギルド脱退を告げて、寒風吹きすさぶグランザムの街を手を繋いであてどなく歩いたのだった。
表面的には平静を保っていたが、あの時アスナの胸中には、初めてほかのプレイヤーを手に掛けたことによるパニックが渦巻いていた。死ぬ直前のクラディールの表情、声、爆散するポリゴンの煌めき、それらが繰り返し目の前に再生され、ついに悲鳴を上げてしゃがみこみそうになった時、キリトが言ったのだった。君だけは、何があろうと元の世界に還してみせる、と。
パニックは嘘のように消え去った。同時にアスナは、この人を守るためならわたしは何でもするし、その報いはすべて胸を張って受け止める、と強く思った。
あの瞬間、繋いでいながらそれまで冷たさしか感じなかった右手が、暖炉にかざしたかのようにほわりと暖かくなったのを、明日奈は鮮明に憶えている。仮想世界は消え去り、現実に戻ってきた今でも、こうして手を繋ぐとあの温度があざやかに甦ってくる。
本当に、人の体温というのは不思議なものだ。肉体が自らを維持するためにエネルギーを消費し発している熱に過ぎないはずなのに、触れ合った掌で交換されるそれには明らかに何らかの情報が含まれている感触がある。その証拠に、お互い黙って歩いているのに、和人が何か大事なことを言い出そうとして逡巡しているのが明日奈にははっきりと判る。
人の魂とは、細胞の微小構造中に封じ込められた光子だ、と和人は言った。そのマイクロチューブルが存在するのは当然、脳細胞だけではないのだろう。全身の細胞にたゆたう光の粒たちはそれぞれ何らかの情報を担い、それらが作り出す量子場が、いま互いの掌を通じて接続している。体温を感じるというのは、つまりそういうことなのかもしれない。
その様子を想像しながら、明日奈は心の中で囁いた。
――ほら、大丈夫だよ、キリト君。いつだって、わたしはあなたの背中を守ってる。わたし達は、世界最高のフォワードとバックアップなんだから。
不意に和人が立ち止まり、まったく同時に明日奈も足を止めた。ちょうど七時になったのか、二人の頭上で古めかしい青銅色の街灯がオレンジ色の光を灯した。
雨上がりの黄昏時、住宅街の隘路に明日奈たち以外の人影は無かった。和人はゆっくり向き直り、濃い色の瞳でじっと明日奈の眼を見ながら口を開いた。
「アスナ……俺、やっぱり行こうと思う」
ここしばらく和人が進路のことで悩んでいたのを知っていた明日奈は、微笑みながら訊き返した。
「サンタクララ?」
「うん。一年かけていろいろ調べたけど、あそこの大学で研究してる"ブレイン・インプラント・チップ"がやっぱり次世代VR技術の正常進化形だと思うんだ。マンマシン・インタフェースは絶対にその方向で進んでくよ。どうしても、見たいんだ。次の世界が生まれるところを」
明日奈は真っ直ぐ和人の瞳を見詰め返し、こくりと大きく頷いた。
「つらいこと、哀しいこと、一杯あったもんね。何のために、どこにたどり着くために色んなことが起きたのか、見届けなきゃね」
「……そのためには何百年生きても足りそうにないけどな」
和人は小さく笑い、次いで再び口篭もった。
二人が離れ離れになることを言い出せないでいるのだろう、と明日奈は思い、もう一度微笑んで、ずっと胸のうちに暖めていた自分の答えを言葉にしようとした。だが、口を開く前に、和人が、かつて別の世界で結婚を申し込んだときとまったく同じ表情で、つっかえながら言った。
「それで……、お、俺と、一緒に来てほしいんだ、アスナ。俺、やっぱ、アスナが居ないとだめだ。無茶なこと言ってるって判ってる。アスナにはアスナの進みたい方向があるだろうって思う。でも、それでも、俺……」
そこで和人は戸惑ったように言葉を切った。明日奈が目を丸くし、次いで小さく吹き出したからだ。
「え……?」
「ご……ごめん、笑ったりして。でも……もしかしてキリト君、最近ずっと悩んでたのは、そのことなの?」
「そ、そりゃそうだよ」
「なぁーんだ。わたしの答えなら、もうずーっと前から決まってたのに」
明日奈は、右手で握ったままだった和人の手に、左手も重ねた。かつて別の世界で結婚を申し込まれたときとまったく同じようにゆっくり頷きながら、その先を言葉にする。
「もちろん、行くよ、一緒に。キミの行く世界なら、どこだって」
和人は小さく息を吸い込み、しばし目を見張ったあと、滅多に見せることのない大きな笑顔を浮かべた。二、三度瞼をしばたかせたあと、右手をそっと明日奈の肩に載せてくる。
明日奈も、ほどいた両手をしっかりと和人の背に回した。
触れ合った唇は、最初ひんやりとしていたがすぐに暖かく溶け合い、その瞬間明日奈はもう一度、互いの魂を作る光が絡まって一体となるのを意識した。たとえこれから、どんな世界をどれだけの年月旅しようと、わたし達の心が離れることは絶対にない、強くそう確信した。
いや、二人の心は、もうとっくに結びついていたのだ。アインクラッド崩壊の時、虹色の光に溶けて消え去ったあの時から――もしかしたら、それより遥か以前、敵として出会い、剣を交えたその瞬間から。
「だけど、さ」
数分後、再び手を繋いで煉瓦道を歩きながら、明日奈はふと感じた疑問を口にした。
「ソウル・トランスレーター……あれは、正常進化じゃない、ってキリト君は思うの? ブレイン・チップはNERDLESと同じ細胞レベル接続だけど、STLはその先、量子レベルのインタフェースなんでしょ?」
「うーん……」
和人は反対側の手にぶら下げた傘の先で、煉瓦をこつこつと叩いた。
「……確かに、思想としてはブレイン・チップより先進的かもしれない。でも、何ていうか……先進的すぎるんだ。あのマシンを、民生用にダウンサイジングするのは多分不可能だよ。あれは、仮想世界に同時に何万人、何十万人のオーダーで接続するための機械じゃない気がする」
「ええ? じゃあ、何のためのマシンなの?」
「魂レベルで仮想世界にダイブさせる、というより、むしろ、そのダイブによって魂……フラクトライトそのものを知るためのマシンなんじゃないかな……。その先に何があるのか、俺もまだよく判らないんだけど……」
「ふうん……」
つまりSTLは目的そのものではなく、手段だということなんだろうか、と明日奈は考え、魂を知ることで一体何ができるのか想像しようとしたが、その前に和人が言葉を続けた。
「それに、さ。STLは言わば……ヒースクリフの思想の延長にあるマシンだと思うんだ。あの男が、何のためにアインクラッドを作って一万人も殺して、自分の脳も焼き切って、ザ・シードなんてものをばら撒いたのか……その目的がなんだったのか、そもそも目的なんてあったのかどうか、俺にはさっぱりわからないけど、STLっていう化け物マシンには、あいつの気配がある気がするんだよ。その目指すところを知りたい気はするけど、それを自分の進路にはしたくない。いつまでもあいつの掌で躍ってるような気がして嫌になるからな」
「……そっか……団長の……。……ね、団長の意識、っていうか思考と記憶の模倣プログラムは、まだどっかのサーバーで生きてるんだよね? キリト君は、話をしたんでしょう?」
「ああ……一度だけ、な。あいつが自殺するのに使ったマシンは、メディキュボイド、そしてSTLの言わば原型だ。ヒースクリフが自分の思考コピーに何らかの目的を持たせていたとするなら、それはラースがSTLでしようとしていることと無関係じゃないと思う。今のバイトを続けることで……何らかの決着を見つけたいと、俺は思ってるのかもしれないな……」
すっと視線をどこか遠くに動かした和人の横顔を、明日奈はしばらく見つめていたが、やがてそっと呟いた。
「……ひとつだけ、約束してね。もう絶対、危ないことはしない、って」
「もちろん、約束するよ。来年の夏にはアスナと一緒にアメリカに行けるんだから」
「その前に、SATでいい点取れるようにがんばって勉強しないとね?」
「う……」
ふふ、と笑って、明日奈は握った手にきゅっと力を込めた。
「ね、みんなには……いつ言うの?」
「その前に、一度、アスナのご両親に挨拶しないとな……。彰三氏とはときどきメールやり取りしてるけど、お母さんの覚えが悪そうだからなあ俺……」
「へーきへーき、最近はずいぶん物分りいいから。あ、そうだ……どうせなら、今日ちょっと寄っていかない?」
「ええ!? い、いや……期末試験が終わったら、改めて伺うよ、うん」
「まったくもう」
明日奈は少し唇を尖らせて見せてから、しょうがないなあ、というように笑った。和人も照れたように片頬に笑みを浮かべる。
いつのまにか、自宅から程近い小さな公園の前に差し掛かっていた。明日奈は名残惜しい気分を味わいながら立ち止まり、わずかに高いところにある和人の目をじっと覗きこんだ。もう一度キスをねだるように、軽く睫毛を伏せる。
和人も明日奈の右肩に手を乗せ、そっと首を傾けた。
距離が五センチまで縮まったその時だった。背後から、ごつごつと重い足音が響いてきて、明日奈は反射的に体を遠ざけた。
振り向くと、少し先にあるT字路から小走りに飛び出してきた人影が視界に入った。黒っぽい服装をした長身の男は、明日奈と和人に視線を止めると、すいませぇん、と間延びした声を上げながら近づいてきた。
「あのぉ、駅はどっちの方ですか?」
ぺこぺこ頭を下げながら、そう訊いてくる。明日奈は内心で小さなため息をつきつつ、一歩進み出て、笑顔を作りながら口を開いた。
「えっと、この道をまっすぐこっちに進んで、最初の信号を右に曲がって……えっ」
突然和人が、強い力でぐいっと明日奈の肩を引いた。思わずよろけるが、和人は前に出ると、明日奈を更に大きく後方に押しやる。
「ど、どうし……」
「お前……ダイシー・カフェの近くに居たな。誰だ」
鋭い口調で、和人は明日奈の思いもかけないことを言った。息を飲み、改めて男の顔を見る。
斑に色の抜けた長髪。頬のこけた輪郭線は、無精髭に濃く覆われている。耳には銀のピアス、首元にも太い銀の鎖。退色した黒のプリントTシャツに、同じく黒の革パンツを穿き、腰からも金属チェーンがじゃらじゃらと下がっている。足は、この季節なのに重そうな編み上げブーツに包まれ、全体として埃っぽい色が染み付いた印象だ。
ぼさぼさの前髪の隙間から、笑ったように細い目が覗いていた。男は、和人が何を言っているかわからない、というように首を傾げ、眉を寄せてから――突然、暗い瞳にいやな色の光とギラリと浮かべた。
「……やっぱ、不意打ちは無理か」
打って変わって低い、ざらついた声だった。唇の端がぎゅっと歪み、笑みだか苛立ちだかわからない形を作る。
「お前は、誰だ」
重ねて和人が問いただした。男は肩をすくめると二、三度首を振り、大きなため息を吐いた。
「ヘイ、ヘイ、そりゃあないよキリト。オレの顔忘れたのかよ。オレは忘れたことなかったぜ、この一年半。ソー・バッドだな」
「お前っ……」
和人の背中がびくりと緊張した。右足を引き、軽く腰を落とす。
「――ジョニー・ブラック!」
電光のように閃いた右手が、肩の上、何も無い空間を掴んだ。かつてキリトの背に装備された片手直剣の柄があった、まさにその場所を。
「プッ、クッ、クハハハッハハハ! 無いよ、剣無いよ!!」
ジョニー・ブラックと呼ばれた男は、上体を捩って甲高い笑い声を迸らせた。和人は全身を緊張させたまま、ゆっくりと右手を下ろす。
明日奈は、その名前を知っていた。旧アインクラッドにおける積極的殺人者、レッド・プレイヤーの中でもかなり通りの良かった名だ。“ラフィン・コフィン”というギルドに属し、ザザという男とコンビを組んで十人を超えるプレイヤーをその手に掛けた。
脳裏に浮かんだ新しい名前は、更なる情報を明日奈の記憶から引き出した。“赤眼のザザ”――その名前は、ほんの半年前にも聞いたはずだ。そう……あの、恐るべき死銃事件の首謀者として。
主犯のザザとその弟は逮捕され、しかし三人目の仲間は逃亡中、と事件直後に聞いた。当然、もう捕まっているだろうと思っていたその犯人の名は、確かカナモト……そして、昔ザザとコンビを組んでいた男……。ということは――。
「お前……まだ逃げていたのか」
和人が掠れた声で言った。ジョニー・ブラックこと金本は、にいっと嗤うと両手の人差し指を和人に向けた。
「オフコ――ス。ザザが捕まる前に、キリトの奴だけはどうしても仕留めてくれって頼まれたからよ。あの喫茶店を探し当てるまで五ヶ月、その前に張り込んで一ヶ月……ヘイトな日々だったぜー」
くっくっ、ともう一度喉を鳴らし、金本はぐるんと両目を回した。
「しかしキリト、剣の無いてめえはなんつーか……単なるひ弱なガキだなぁ? 顔は同じだけど、オレを散々ぶちのめしたアイツと同一人物とは思えねーなぁ」
「そう言うお前も……得意の毒武器無しで何ができるんだ?」
「ヘイ、見た目で武装を判断するのは素人だぜ」
金本は蛇のような速さで右手を背中に回し、シャツの中から何かを掴み出した。
奇妙な代物だった。のっぺりとしたプラスチック製の円筒から、簡単な握り部分が突き出している。明日奈は一瞬水鉄砲かと思ったが、和人の背中が一層強張るのを見て息を飲んだ。途惑いは、続く和人の声を聞いて驚愕に変わった。
「デスガン……! 貴様っ……」
和人は後ろに右手を突き出し、明日奈に退がるよう促した。同時に、左手に持っていた畳んだ傘の先端を、ぴたりと金本の顔に向ける。
一歩、二歩と意識せぬまま後ずさりながら、明日奈の目はプラスチック製の銃に吸い寄せられていた。あの道具の話も、和人や詩乃から聞いていた。あれは高圧ガスを利用した注射器で、内部には心臓を止める恐ろしい薬品が充填されているのだ。
「あるよー、毒武器あるよぉー。ナイフでないのが残念だけどなー」
注射器の先端を円を描くように動かしながら、金本は軋るように笑った。和人は両手で握った傘を油断なく金本に向けながら、低い声で叫んだ。
「アスナ、逃げろ! 誰か人を呼んでくるんだ!」
一瞬の逡巡のあと、明日奈は頷き、くるりと振り向いて駆け出した。背中に向かって、金本の声が飛んでくるのが聞こえた。
「おい、“閃光”! ちゃんと周りに言うんだぜぇ……“黒の剣士”の首を取ったのはこのジョニー・ブラックだってなぁ!」
最寄の家のインターホンまでは、直線距離で三十メートルほどだった。
「誰か……助けて!!」
明日奈は精一杯の大声で叫びながら走った。和人を置いて逃げたのは間違いだったのではないか……二人で同時に飛び掛り、あの武器を押さえるべきだったのではないか、そう思いながら距離を半分ほど駆け抜けたとき、その音が耳に届いた。
炭酸飲料のキャップを捻るような、ヘアスプレーを吹くような、短く、鋭い圧搾音だった。だが、その意味するところを理解するに従って、恐怖のあまり明日奈の足はもつれ、よろけて、濡れた煉瓦に片手を突いた。
明日奈は、肩越しにゆっくり振り向いた。
視界に入ったのは凄絶な光景だった。
和人の握った傘の、金属製の石突が金本の腹部右側に根元まで突き刺さっている。
そして金本の握った注射器は、和人の左肩に強く押し当てられていた。
二人は同時にぐらりと上体を傾けると、そのまま鈍い音を立てて路上に倒れこんだ。
それからの数分間は、色の無い映画を見ているように現実感のないものだった。
明日奈は動こうとしない脚に鞭打って和人の傍まで駆け寄った。腹を押さえて苦悶している金本から和人を引き離し、しっかりして、と叫んだあと、ポケットから引っ張り出した携帯端末を開いた。
指は凍ったように感覚がなかった。強張ったその先端で必死にボタンを押し、オペレーターに現在地と状況を機械的に告げた。
今更のように集まってくる野次馬。誰かが通報したのか、人垣を割って現れる警官。明日奈は質問に短く答えただけで、あとはずっと和人の体を抱き締めつづけた。
和人の呼吸は短く、浅かった。苦しそうな息の下で、彼は二言だけ短く囁いた。「アスナ、ごめん」と。
永遠のような数分間ののち、到着した二台の救急車の片方に和人は搬入され、明日奈も付き添って乗り込んだ。
意識を失いストレッチャーに横たわる和人の気道を確保しながら、口元に顔を近づけた救急救命士は、すぐさま同乗している救急隊員に向かって叫んだ。
「呼吸不全を起こしている! アンビューバッグを!」
慌しく呼吸器が用意され、和人の口と鼻を透明なマスクが覆う。
明日奈はともすれば悲鳴を上げそうになる喉をどうにか押さえつけ、奇跡のように思い出した薬品名を救命士に告げた。
「あの、さ、サクシニルコリン……っていう薬を注射されたんです。左肩です」
救命士は一瞬の驚愕を見せたあと、矢継ぎ早に新しい指示を飛ばした。
「エピネフリン静注……いや、アトロピンだ! 静脈確保!」
シャツを脱がされた和人の左腕に輸液用の針が装着され、胸に心電モニターの電極が貼り付けられた。更に飛び交う声。空気を切り裂くサイレン。
「心拍、低下しています!」
「心マッサージ器用意!」
瞼を閉じた和人の顔は、蛍光灯の下で恐ろしいほど青ざめて見えた。やだ、やだよ、キリト君、こんなのやだよ、という小さい声が自分の口から出ていることに明日奈はしばらく気付かなかった。
「心停止!」
「マッサージを続けて!」
うそだよね、キリト君。わたしを置いて、どこかに行ったりしないよね。ずっと……一緒だって、そう言ったよね。
明日奈は、固く握ったままだった携帯端末に視線を落とした。
ELモニタに表示されているピンク色のハートは、一度小さく震えたあと、その鼓動を止めた。デジタル数字が、冷酷なまでに明確なゼロの値へと変化し、そのまま沈黙した。