第二章
ほんの少しミルクを入れた水出しのアイスコーヒーを一口含み、芳醇な香りを楽しみながらゆっくり嚥下すると、朝田詩乃はほうっと長い息を漏らした。
視線を古めかしいガラス窓に向けると、忙しなく行き来する色とりどりの傘の群が水滴の向こうにぼんやりと透けて見えた。雨は嫌いだが、この路地裏の隠れ家のような喫茶店の奥まったテーブルに沈み込み、灰色に濡れた街を眺めるのは決して悪い気分ではない。テクノロジーの匂いを一切排した店内の調度や、奥のキッチンから漂ってくる甘くどこか懐かしい匂いの効果で、まるで自分がリアルワールドとバーチャルワールドの境界に落ち込んでしまったかのごとき錯覚をおぼえる。つい一時間前まで聴いていた教師の講義が、どこか異世界の出来事のようだ。
「よく降るね」
カウンターの向こうからぽつりと投げられたバリトンが、自分に向けたものだと気付くのに少し時間がかかった。店内には詩乃のほかに客は居ないのだから、勿論そうに決まっている。
顔を動かし、丁寧にグラスを磨いているカフェオレ色の肌の巨漢をちらりと見てから、詩乃は短く答えた。
「梅雨ですしね」
「英語で言うとプラム・レインだな」
強面のマスターが鹿爪らしい顔でのたまう台詞に、思わず小さく苦笑する。
「……冗談を言うときはもっとそれらしい顔しないとウケませんよ、エギルさん」
「む……」
エギルは、"それらしい顔"を模索しているつもりなのか眉間や口もとをあれこれ動かしたが、どれも五歳までの子供なら即泣きするような凶相ばかりで、詩乃は思わず小さく吹き出した。あわててグラスに口をつけ、笑いを一緒に飲み下す。
詩乃の反応をどう解釈したのか、エギルが妙に満足そうに一際ヒールレスラーめいた面相を作ったまさにその瞬間、入り口のドアがかららんと鳴った。店内に一歩足を踏み入れた新たな客は、マスターの顔を見るや唖然とし、次いで溜息をつきながら首を振った。
「……あのなエギル、もしその顔で毎回客を出迎えてるなら、近いうち潰れるぞこの店」
「ち、ちがう。今のはジョーク用のとっておきだ」
「……いや、それも間違ってる」
つれなく駄目出しをすると、桐ヶ谷和人は水滴を切った傘を傍らのウイスキー樽に突っ込み、詩乃を見て軽く右手を挙げた。
「っす」
「遅い」
極短の挨拶に、詩乃も一言で答える。
「わり、電車乗るの久しぶりでさ」
言い訳しながら和人は詩乃の向かいにどっすと座ると、ネクタイを引っ張って緩めた。
「今日はバイクじゃないの」
「雨ん中乗る元気が無かった……エギル、俺、モカフィズ」
胡散臭い飲み物をオーダーする和人の、くつろげた襟元から覗く首筋はたしかに骨ばって、見れば顔色もどことなく生彩を欠いている。
「……あんたまた痩せた? 食いなよもっと」
顔をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱたぱた手を振った。
「いやいや、こないだまでは、もう標準体重に戻ってたんだよ。でも、この金土日で一気に落ちた……」
「お山で修行でもしてたの」
「いいや、ひたすら寝てた」
「それでなんで痩せんのよ」
「飲まず喰わずだったから」
「……はぁ? 悟りでも開こうっての?」
まぁ、おいおい説明するよ、と言いながら和人がずるずる椅子に沈み込んだその時、エギルがトレイに乗せたグラスを持ってきた。テーブルに置かれたそれは、濃厚なコーヒーの香りがするにもかかわらず、コーラのように底からぷちぷちと泡が立っている。
「なあにこれ、炭酸コーヒー?」
和人が指先で滑らせてきたグラスを受け止め、詩乃はちびりと舐めた。途端、思わずむせそうになる。
「おっ、お酒じゃないの!」
「気付け気付け。エギル、この匂い何だ?」
にやりと笑ってから、和人は鼻をうごめかせつつ傍らの店主を見上げた。
「ボストン風ベイクド・ビーンズ」
「へー、奥さんの故郷の味か。んじゃそれもひとつ」
エギルが頷いてどすどす去っていくと、和人は詩乃からグラスを奪い返し、放り込むように一口飲んだ。
「……彼は、どんな様子なんだ?」
ぽつりと訊かれたその言葉が、何を指しているのかはすぐにわかった。が、詩乃は即答せず、和人の手のグラスをもう一度奪取すると今度は大きく飲み下した。香ばしいコーヒーの風味が炭酸の泡とともに鼻の奥で冷たく弾け、直後にじんわりと熱く甘いアルコールが喉を灼いていく。その刺激たっぷりの飲み物が、浮かんでくる断片的な思考を攪拌し、短い言葉へと繋ぎなおす。
「うん……だいぶ、落ち着いてきたみたい」
半年前に詩乃を襲った"死銃"事件、その三人の実行犯のひとりであり、当時の詩乃のただ一人の友人でもあった新川恭二は、少年事件としては異例の長さの審判を経て、先月医療少年院に収監された。審判中は頑なに沈黙を貫きとおし、精神鑑定を行った専門家相手にもほとんど口を開こうとしなかったそうだが、事件から六ヶ月が経過したある日から、ぽつりぽつりとカウンセラーの問いかけに応ずるようになってきているとのことだった。詩乃にはその理由がおぼろげに察せられた。六ヶ月――つまり百八十日というのは、ガンゲイル・オンラインの料金未払いアカウント保持期限である。それだけの時間が過ぎ去り、新川恭二の分身、いやある意味では本体とも言えたキャラクター"シュピーゲル"がGGOサーバー上から消滅したことによって、ようやく恭二は現実と向き合う準備を始めるに至ったのだ。
「もう少ししたら、また面会に行ってみるつもり。今度は、会ってくれそうな気がするんだ」
「そっか」
詩乃の言葉に短いいらえを返すと、和人は視線を降りしきる雨に向けた。数秒の沈黙を、詩乃は不満そうな顔を作りつつ破った。
「――ねえ、普通はそこで、あたしは大丈夫なのか聞くもんなんじゃないの?」
「え、あ、そ、そうか。――えーと、シノンは、どう?」
珍しく和人を慌てさせることに成功し、密かな満足感を抱きつつにっと笑ってみせる。
「あんたが貸してくれた"ダイ・ハード"のBDVD、こないだついに全部観れたわ。いやー、かっこいいわブルース。あたしもハンドガンいっちょであんなふうにバリバリ正面戦闘してみたいよー」
「そ……そう。そりゃよかった……けど、その感想は女子高生的にどうなんだ……?」
引き攣った笑いを見せたあと、和人はふっと素直な微笑みを浮かべ、頷いた。
「じゃあ……死銃事件は、これで何もかも終わった……のかな」
「うん……そう、だね」
詩乃もゆっくり頷こう――として、ふと口をつぐんだ。何か、記憶のすみに引っかかるものがあるような気がしたが、それをつまみ出す前に、キッチンから現われたエギルが湯気の立つ皿をふたつテーブルに置いた。
つややかな飴色に煮込まれた豆と、その中央にごろりと転がる柔らかそうな角切りベーコンという光景は、お昼の弁当などとうの昔に消化しきった胃に暴力的なまでの空腹感を発生させ、詩乃は吸い寄せられるようにスプーンを握った。そこでようやく我に返り、慌てて手を戻しつつ言う。
「あ、わ、私頼んでませんから」
すると巨漢マスターはいかつい顔にうっすらと悪戯っぽい表情を浮かべた。
「いいや、奢りだよ。キリトの」
対面の和人が唖然としている間に、どすどすとカウンターの向こうへ戻っていく。詩乃はくくっと喉の奥で笑ってから、再度スプーンを手にとり、和人に向かって軽く振った。
「どーも、ごちそーさま」
「……まあ、いいけどさ。バイト料入って、今ちょっとフトコロあったかいから」
「へー、バイトなんかしてたの? どんな?」
「ほら、三日間飲まず喰わずって奴さ。まあ、その話は本題を片付けてからにしようぜ。とりあえず熱いうちに食べよう」
和人は卓上の小瓶からマスタードをたっぷり掬うと皿の縁に落とし、詩乃にまわした。同じようにしてから、大ぶりなスプーン山盛りに豆を取り、口に運ぶ。
芯までふっくらと煮えた豆は、柔らかな甘味をたっぷり吸い込んでいて、洋風ながら素朴な懐かしさを感じさせる味だった。分厚いベーコンも余計な脂が抜けて、舌の上でほろほろと崩れていく。
「おいしい」
思わず呟いてから、向かいでがつがつ食べている和人に尋ねる。
「ボストン風、って言った? 味付けは何なのかしら」
「ん……えーとたしか、何とか言う粗製の糖蜜を使うんだよ。何だっけ、エギル?」
ふたたびグラス磨きに戻った店主は、顔を上げずに答えた。
「モラセス」
「だ、そうだ」
「へええ……。アメリカの料理なんて、ハンバーガーとフライドチキンだけかと思ってたわ」
後半部分をひそひそ声にしてそう言うと、和人は小さく苦笑した。
「そりゃ偏見だ。あっちのVRMMOプレイヤーも、付き合ってみりゃいい奴ばっかじゃん」
「うん、それは確かに。こないだ、国際サーバーでシアトルの女の子とスナイピングについて三時間も話しちゃった。あー、でも……アイツとだけは分かり合えそうにないな……」
「アイツ?」
すでに皿を半分以上空にした和人が、もぐもぐ口を動かしながら繰り返した。
「それが今日の本題なんだけどね。先週、GGOで第四回バレット・オブ・バレッツの個人戦決勝があったのは知ってるでしょ」
「うん、中継見てたしね。そういやまだおめでとうを言ってなかった。……まあ、シノンにとっては悔しい結果だろうけど。ともかく、準優勝おめでとう」
「ありがと。中継見てたんなら話はやいわ。優勝した、サトライザって名前の……アイツ、アメリカから接続してるのよ」
眉をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱちくりとまばたきをした。
「でも、BoBをやった日本サーバーは、JPドメイン以外接続不可だろう? プロクシ経由も弾かれるって聞いたけどなあ」
「うん、そのはずなんだけど、どうにかしてブロック回避してるんでしょうね。大会直前の待機ルームでいきなり、俺はアメリカから参加してる、日本人に銃の使い方を教えてやる、授業料はお前らの命だ、って英語で宣言してさ」
「うわぁ……。そういう奴が強かったためしが無いけどなぁ……」
苦笑いしながら肩をすくめる和人に向かって、詩乃は手にしたスプーンをぶんぶん振った。
「他の決勝出場者二十九人もそう思ったわよ、あたしも含めてね。本場野郎に日本人のタクティカル・コンバットを見せ付けてやる、って意気込みつつステージに突入して、でも蓋を開けてみれば……」
「そいつに優勝をさらわれた訳か」
「あっさりと、ね。しかもふざけたことに、そんな事言いながらそいつ銃を持たずに開始したのよ」
「へえ」
「決勝は市街地フィールドだったんだけどさ。そいつ、武器はコンバットナイフ一本で、あとは重量制限いっぱいグレネードとマインを抱えて、トラップとストーキングだけで殺す殺す。まったく、アメリカ人ならウィリス様みたく正面からガンガン来いってのよ」
詩乃は大口を開けて最後の一匙を放り込み、腹立ちといっしょにもぐもぐ咀嚼した。とっくに食べ終わった和人は、モカフィズを啜りながら、ふぅん、と呟いた。
「ナイフ使いか。屋内だと結構いけるのかな……」
「後から他の参加者に訊いてみたら、アイツをまともにサイトに入れられたのはあたしだけなんだわ。みんな、トラップで吹っ飛ばされるか、後ろから……」
喉の前で親指をぐいっと横に動かす。
「残り人数ががりがり減ってくから、あたしもこれは動いたらやられると思って、無移動ペナルティ食らう覚悟で、ここしかない! って狙撃ポイントにこもってひたすらアイツが建物から出るの待ってさ……。ついに、道路を渡ろうとするところをスコープに捕まえて、勝った、と思いながら撃とうとしたらあんにゃろうこっちに向かって手を振るのよ。その手に持ってたのが、遠隔起爆スイッチ」
「へええーっ」
「あっ、と思ったときには、あたしの潜んでた部屋がドカーン、よ。読まれてたのよ、全部。……正直なとこ、こりゃあ歯が立たないと思ったわ。日本サーバーのGGOプレイヤーって、ほとんど全員がアサルトライフルで派手に撃ちまくる派だから、あたしも含めてああいう……サイレントキル? の技に長けてるタイプって初めて見たのよね……。みんなは、アイツ絶対グリーンベレーだぜ、なんて言ってたけどさ」
ふふ、と笑ってから和人の顔を見ると、同い年の少年はグラスの縁を指で擦りながら何か考え込むような目つきをしていた。やがて視線を上げ、冗談じゃないかもよ、などととんでもない事を言う。
「ええ? アイツが本物の特殊部隊だっての?」
「あくまで噂なんだけどさ。もう、一部の国の軍隊じゃ、訓練にNERDLESマシンを取り入れてるのは知ってるだろ? GGOを運営してるザスカーにも、米軍からGGOエンジンをリアルチューンしたバージョンの発注が来たとか……。グリーンベレーは行き過ぎとしても、VRワールドでサイレントキルの訓練を積んだ軍人が、遊び心で日本のゲーマーをからかいに来た……なんてことは有り得るかもしれないぜ」
「まさか……」
詩乃は一笑に付そうとしたが、ふと、スコープの中央に捉えたサトライザの顔を思い出し、わずかに胸のうちにざわつくものを感じた。詩乃に向かって手を振りながら、男の眼はまるで笑っていなかった。あのジェスチャーは何を意図したものだったのだろうか。
「まあ、でも、プロフェッショナルって感じじゃないよな。手を振るなんてな」
和人の呟きに、詩乃は瞬きして顔を上げた。
「え?」
「だってさ、そいつはシノンを仕留めるのに、姿を現す必要なかったわけだろ。どっかに隠れたまま爆弾を起爆するほうが、安全で確実だ。なのにわざわざ出てきて、シノンに向かってジェスチャーをするってことは、つまり、何らかのメッセージを伝える意図があった、ってことだ。たぶん……"お前は今から俺に殺される"」
「ちょっと、嫌なこと言わないでよ。……たしかに、あたし、あの一瞬でそれっぽいこと考えたけどさ。ああ、しまった、こいつの罠にやられる、って」
「今から殺す相手の思考を吟味する余裕のある奴なんて、ベテランのPvP専門プレイヤーにもなかなか居ないぜ。俺のささやかな経験からすると……そういうのは大抵、軍人というより快楽殺人者っぽい傾向のある奴だ。あるいは……その両方ってこともあるかもしれんけど……」
和人の言う"経験"が、かつて長い時間を過ごした、仮想であり現実である場所のものだということは詩乃にもわかった。俯く和人の表情にかすかな翳が落ちるのを見て、詩乃は咄嗟に大きい声を出した。
「ともかく! 一度の負けにくよくよしててもしょうがないわ。問題は、あんにゃろうが来週のBoBチーム戦にもエントリーしてるってことよ」
「ええ? そりゃ意外だな」
詩乃の言葉に、和人は目を丸くした。
「一匹狼っぽい印象なのになあ。チームメンバーもアメリカ人なの?」
「そうっぽいよー、どうも。これはもう、何がなんでもリベンジするしかない、ってことになってさ。ダインとか闇風とかのトップ連中は、サトライザチームを潰すまでは共同戦線張るらしいよ。あたしはチーム戦にはエントリーする気無かったんだけど、このままやられっぱなしなのも癪だからね。そこでこうして、あんたを呼び出してる訳」
「い、いやしかし、俺のガンさばきがさっぱりなのはシノンも知ってるだろう」
「たぶん、オーソドックスな小隊組んでも遭遇戦じゃ歯が立たないと思うのよ。そこで目には目を、剣には剣を、よ。あんたが光剣振り回してあいつの足を止めてくれれば、あたしが――」
ずどーん、といように右手の人差し指を弾いてみせる。和人は尚も首をひねりつつ、ぼそぼそ言った。
「でもさ、相手は複数なんだろ? いくらなんでも俺一人で何人も相手できないよ」
「だからあんたに、助っ人のアテが無いかメールで聞いたんじゃない。"GGOにコンバートできるハイレベルキャラ持ちで、剣の接近戦のセンスがある人"。今日、ここに来てくれるんでしょ?」
「ははぁ、なるほどね。一応声はかけたけど……そろそろ来るんじゃないかな」
和人はポケットから携帯端末を取り出すと、素早く操作し、テーブルに置いた。ELパネルには、この喫茶店を中心とした御徒町界隈の地図が表示されている。よく見ると、駅から店に至るルート上に、点滅する青い輝点があった。
「これは?」
「待ち人来る、さ。あと二百メートルってとこかな」
輝点はまっすぐ店を目指して移動している。呆気にとられつつ見守るうち、交差点を渡り、路地に入り、地図中心の十字線に接触した。
かららん、とドアベルが鳴り、詩乃は顔を上げた。傘を畳みながら入ってきた人物は、栗色の長い髪を一払いして水滴を落とすと、まっすぐ詩乃を見て、まるでそこだけが一足先に梅雨明けしてしまったかのような笑顔を浮かべた。
「やっほー、詩乃のん!」
詩乃も思わず口もとをほころばせながら立ち上がり、手を伸ばした。
「明日奈! 久しぶりー!」
磨きぬかれた床板を軽快に鳴らして歩み寄ってきた結城明日奈と、互いの指先を絡めて、再会を喜び合う。ようやく向かい合った椅子に腰を下ろすと、呆気にとられた表情で和人が呟いた。
「君ら……いつのまにそんな仲良しになったの?」
詩乃は明日奈と目配せを交わして、また笑った。
「あら、あたし先月、明日奈の家にお泊りもしたのよ」
「な、なんだって。俺だってアスナんちには行ったことがないというのに」
「なによ、心の準備が、とか言って逃げてるのはキリト君じゃないの」
じとっと明日奈に横目で睨まれ、和人はばつが悪そうにカクテルを啜った。
明日奈はくすりと微笑むと、お冷やを持ってきたエギルを見上げ、ぺこりと会釈した。
「ご無沙汰してます、エギルさん」
「いらっしゃい。――なんて言うと、思い出すね、ふたりがうちの二階に下宿してた頃を」
「あら、じゃあまたアルゲードの新しいお店に居候しちゃおうかな。……ええと、今日は……何にしよっかな……」
容貌魁偉な店主とは旧知の仲であるらしい明日奈が、コルク装のメニューを眺めているあいだ、詩乃はテーブルに置きっぱなしになっていた和人の携帯端末を取り上げてもういちど画面を見詰めた。青いブリップは喫茶店の位置に重なって静止している。
「……っと、じゃあ、ジンジャーエール。甘くないほう」
オーダーを受けたエギルが去っていくのを待って、詩乃は、それにしても、と口を開いた。
「あなた達、互いのGPS座標をモニタしてるの? 仲が良くてよろしゅうございますねえ」
そこはかとない揶揄を込めて言うと、和人は目を丸くし、イヤイヤイヤ、と手を振った。
「俺の端末でモニタしてるのはアスナの端末の位置だけで、それもアスナの操作で不可視にできるけど、俺のほうはそんな生易しいもんじゃないぜ。アスナ、見せてやってよ」
「うん」
明日奈はにこりとしながらスカートのポケットから携帯端末を取り出し、待ち受け画面のまま詩乃に差し出した。受け取り、パネルを覗き込むと、そこにはいかにも女の子らしい可愛らしいアニメーション壁紙が表示されていた。
画面中央には、赤いリボンがかかったピンク色の大きなハートマークが描かれ、およそ一秒ごとに規則正しく脈動している。上部には、見慣れた日付け、時間とアンテナ状況のインジケータが表示されているが、ハートの下部には何を示しているのか咄嗟にはわからない数字がふたつ並んでいた。
左に、大きめのサイズで"63"、右にすこし小さく"36.2"。詩乃が首を捻りながら眺めるうち、左の数字が"64"に上昇した。
「いったい……」
なんなのこれ、と訊こうとしたところで、和人がどこか気恥ずかしそうに「あんまりじっと見るなよ」と言った。それでようやく、詩乃はこの待ち受け画面が表示しているものがなんなのかを悟った。
「ええっ……これ、まさかキリトの脈拍と体温なの?」
「あったりー。すごい、詩乃のんカンがいいね」
明日奈がぱちぱちと手を叩く。詩乃は、端末の画面と和人の顔に何度か視線を往復させたあと、少々呆然としながら呟いた。
「で、でも……どうやって」
「俺のここんとこの皮下に……」
和人は右手の親指で、自分のシャツの左胸を突付いた。次いで、その手を詩乃に向けて伸ばし、二本の指のあいだに五ミリほどの隙間を作る。
「これくらいのセンサー・ユニットがインプラントされてるのさ。そいつがハートレートと体温をモニタして、無線で俺の端末にデータを送る。んで、端末がネットを介してアスナの端末にGPS座標と合わせてリアルタイムで情報を渡すっつう仕組みだ」
「ええ? 生体チップぅ?」
今度こそ詩乃は大いに驚き呆れ、吐息混じりに言った。
「なんでそんな大層な……。あっ、まさか浮気防止システムなのかー?」
「ち、ちがうちがう!」
「ちがうよう!」
和人と明日奈は同時にぶんぶん首を振った。
「いやあ、俺が今のバイト始めるときに、先方から勧められてさあ。毎回電極をべたべた貼るのは大変だろうから、って。で、その話をアスナにしたら、強硬にデータの提供を要請されましてね。やむなく自分でアプリ組んで、アスナの端末にインストールしたというわけ」
「だってさあー。キリト君の体のデータを会社のヒトに独占されるなんてヤじゃない。わたしはそもそも、妙なモノを体に埋め込むなんて反対だったのよ」
「あれ、こないだ嬉しそうに、ヒマがあるとついモニター眺めちゃうのよねー、なんて言ってたのは誰だよ」
和人の言葉に、明日奈はかすかに頬を赤らめると俯いた。
「やー、なんか……なごむのよねえそれ見てると。ああ、キリト君の心臓が動いてるーって思うと、こう……ちょいトリップしちゃうって言うか……」
「うわあ、なんか危ないよ明日奈、ソレ」
詩乃は笑いながら、もう一度手の中の端末に視線を落とした。いつの間にか、脈拍は67に、体温もわずかに上昇している。ちらりと見ると和人はポーカーフェイスで氷をがりがり噛んでいるが、モニタは彼が内心やや照れていることを如実に示している。
「ははあ、なるほどねえ……。そっか……なんか……いいなぁ……」
思わずぽろりとそう呟いてしまい、詩乃は慌てて顔を上げると、目をぱちくりさせている和人と明日奈に向かってぶんぶん首を振った。
「あ、いや、そんな、変な意味じゃないよ、ぜんぜん。その……じ、GGOにもこういう機能があったら、パーティーメンバーがどれくらい冷静かとかわかっていいなぁって、そういう」
端末をびゅんと明日奈の手に戻し、早口で続ける。
「そそうだ、本題のことをすっかり忘れてた。じゃあ……BoBチーム戦の助っ人してくれるっていうのは明日奈だったの。あたしは嬉しいけど……でも、明日奈、ALOのキャラをGGOにコンバートできるの?」
「あ、うん、それは大丈夫だよー。わたし、二キャラ持ってるから。サブアカウントのほうも、レベル的にはメインと大差ないし」
「ああ、それなら安心だね。明日奈が手伝ってくれるなら、鬼に金棒、トーチカに重機関銃だわ。何日かフォトンソードの練習するだけで充分だと思う」
「うん、今夜からもうダイブできると思うから、街とか案内してね」
「もちろん。GGOの食べ物も案外捨てたもんじゃないよ」
詩乃はにっこり笑って明日奈に右手を差し出した。互いの手をきゅっと握りあってから、さて、と胸の前で指先を打ち合わせる。
「じゃ、本題はこれで終了。さて……」
和人に顔を向け、じろーっと軽く睨む。
「じっくり聞かせてもらいましょうか。あんたのその怪しいバイトは、一体なんなの?」
――と、言っても、と間を置かずに続ける。
「どうせ、キリトのことだから新しいVRMMOゲームのアルファテストとかそんなんでしょうけど」
「まあ、当たらずとも遠からずだな」
苦笑いしながら和人はうなずき、センサーが埋め込まれているという左胸のあたりを指先でなぞった。
「テストプレイヤーをやってるのは間違いないよ。ただ、テストしてるのはゲームシステムじゃなくて、マンマシン・インタフェースそのもののほうだけどね」
「へえ!」
詩乃は驚き、軽く目を見張った。
「てことは、いよいよアミュスフィアの次世代機が出るのね? もしかして、明日奈のお父さんの会社で作ってるの?」
「いいや、レクトとは無関係のとこ。というか……なんか、いまいち全容がよくわからない会社なんだよな……。名前も聞いたことないベンチャーのわりに、資金力が異様に豊富でさ。もしからしたら国の外郭が絡んでるのかもなぁ……」
釈然としない表情の和人につられて、詩乃も首を右に傾ける。
「へえ……? 何て名前の会社?」
「RATH、と書いて“ラース”。」
「知らない会社ね、確かに。……んん、そんな英単語あったかな……?」
「俺もそう思ったら、アスナが知ってた」
和人の隣でジンジャーエールのグラスを傾けていた明日奈は、ぱちりと瞬きをして答えた。
「『鏡の国のアリス』の中に『ジャバウォックの詩』ってのがあって、そこに出てくる名前だよ。豚とも亀とも言われてるんだけど……どういうつもりでつけたんだろうねー」
「へええ……」
大昔に読んだはずの本だが、そんな単語はまったく憶えていなかった。
「ラース……。じゃあ、そこが単独で次世代NERDLESマシンを発売するの? アミュスフィアみたいにいろんな会社の共同開発とかでなく?」
「いや、どうかな……」
和人は、相変わらず煮え切らない口調で呟いた。
「マシン本体がでかいんだよ、兎に角。モニター類とか冷却関係まであわせるとこの店が一杯になるくらいあるんじゃないかな……。初代のNERDLES実験機もそれくらいあったらしいけど、そこからナーヴギアのサイズになるまで五年くらいかかってるんだぜ。レクト他で開発してるアミュスフィア2はもう来年内には発売になろうってのに……って、こりゃヒミツなんだっけ」
和人が首をすくめると、明日奈は小さく笑って言った。
「大丈夫よ、もう来月の東京ゲームショウで発表されるらしいから」
「あ、そっちからも出るんだ。……あんま、高くないといいな……」
上目遣いに明日奈を見る。社長令嬢は、深刻そうな顔を作ると深々と頷いた。
「ほんとだよねー。さすがに値段までは教えてくれなくって。まあ、わたしはALOで満足してるからすぐに新機種買うつもりはないけど、反応速度とか段違いって言われるとぐらっとくるよね。ソフトは下位互換もするらしいし」
「う、そうなんだ。くうー、あたしも何かバイトしよっかな……」
詩乃は一瞬、家計簿データを頭の中で展開しそうになってから、改めて和人に尋ねた。
「……じゃあ、その会社のでっかいNERDLESマシンは家庭用じゃないってこと? 業務用とか?」
「いやあ、まだそれ以前の段階なんじゃないかな。そもそも、厳密にはNERDLESテクノロジーとは別物なんだよな」
「別……? 仮想世界を生成して、そこにダイブすることに違いはないんでしょ? 中の世界はどんな感じなの?」
「知らないんだ、俺」
和人はひょいっと肩をすくめる。
「機密保持のためなんだろうけど、仮想世界内の記憶は、現実世界には持ち出せないんだ。俺がテスト中にどんなモノを見てナニをしてたのか、今の俺は全部忘れてる」
「はあ!?」
和人がさらりと口にした言葉に、詩乃は思わず絶句した。
「記憶を……持ち出せない? そんなこと……可能なの? もしかして、バイトの最後に催眠術でもかけられるの?」
「いやいや、純粋に電気的な仕組みで、さ。いや……量子的、と言うべきかな……」
和人はしかめっ面で長い前髪をぐいっとかきあげると、ちらりと卓上に置きっぱなしの携帯端末を一瞥した。
「四時半か。シノンとアスナは、時間まだ大丈夫?」
「うん」
「わたしも平気だよ」
ふたりが同時に頷くと、和人はぎしっとアンティークな椅子の背もたれを鳴らし、言った。
「じゃあ、大元のところから始めようか。問題の……"ソウル・トランスレーション"テクノロジーについて」
「ソウル……トランスレーション」
詩乃は、その、どこかロールプレイングゲーム内の呪文名のような響きを持つ単語を小声で繰り返した。明日奈も軽く首を傾げ、呟く。
「ソウル……魂……?」
「まあ、な。俺も初めて聞いたときは、なんつう大袈裟なネーミングだ、って思ったけどな」
和人は片頬で軽く笑うと、続けた。
「ふたりとも、人間の心ってどこにあると思う?」
「ココロ?」
唐突にそう尋ねられ、反射的に胸の中央に触れてしまいそうになってから、詩乃は軽く咳払いして言った。
「頭……脳でしょ」
「じゃあ、脳ミソを拡大して見たとして、そのどこに心はあるんだろう」
「どこ、って……」
「脳、ってのはつまり脳細胞のカタマリだよな。こう……」
和人は詩乃に向かって、ぴんと指を伸ばした左手を差し出した。掌の中央を右手の人差し指で突付き、次に掌全体をぐるりとなぞる。
「まんなかに細胞核があって、それを包む細胞体があって……」
五本の指を順番に叩いて、最後に手首から肘まで線を引く。
「樹状突起があり、軸索があって、次の細胞に繋がっている。こういう構造の脳細胞のどこに、心は存在するんだろう? 核? ミトコンドリア?」
「えっと……」
口篭もった詩乃に代わって、明日奈が答えた。
「キリト君いま、"次の細胞に繋がってる"って言ったけど、つまりそうやって脳細胞がいっぱい繋がったネットワークそのものが心なんじゃないの? ほら……"インターネットって何"っていう質問に、個々のコンピュータにだけ注目しても答えにならないみたいに」
「うん」
意を得たり、というように和人は大きく頷いた。
「脳細胞ネットワークこそが心、現状ではそれが正しい答えだと俺も思う。でも……例えば、今の"インターネットとは何か"っていう質問をつきつめていくと、解答はいろいろ出てくるよな。世界中のコンピュータが共通規格のもとに繋がった構造自体がインターネットだし――」
テーブルの上に並ぶ和人と明日奈の携帯端末を順番に指先で叩く。
「こういう、一台一台のコンピュータだって構成要素としてのインターネットだ。更に言えば、コンピュータの前のユーザーだってネットの一部ってことになるかもしれない。これらをひっくるめてインターネットと呼んでるわけだ」
和人はそこで一息つくと、ちょっと頂戴、と言って明日奈のジンジャーエールを口に含んだ。途端、眼を白黒させて唇をすぼめる。
「うわ、何これ。凄い……マジ生姜の匂いだな」
「ふふ、コンビニで売ってるのとは全然違うでしょ。ふつうはカクテルに使う本格派のヤツよ。前に頼んで飲ませてもらったら美味しかったの。言わば裏メニューね」
にやにや笑いながら、明日奈は詩乃にもグラスを回した。
「詩乃のんも味見してみる?」
言われるままに一口飲んでみると、舌にびりっとくる強烈な辛さと生姜の香りが、頭のてっぺんまで突き抜けた。思わず涙を滲ませながら、グラスを返す。
「た……たしかにこれは凄い。でも……うん、おいしいね、甘くなくて」
帰りに商品名を訊いておこう、と思いながら詩乃は和人に話の続きを促した。
「で……人間の心とインターネットが、どう関係するの?」
「うん。――で、その、サーバやルータやパソコンやケータイが網目みたいに繋がった構造は、インターネットの"カタチ"なわけだ」
「カタチ……」
「なら、"本質"は何なんだろう?」
詩乃は少し考え、口を開いた。
「つまりそのカタチ……ネットワーク構造の中を流れるもの……? 電気信号……?」
「電気や光の信号は媒体だ。ネットの本質とはつまり、その媒体によって伝えられる、言語化された情報のことだ……と、仮にここで定義しよう」
和人はテーブルの上で、骨ばった両手の指を組み合わせた。
「さて、さっき話した、脳細胞が百何十億個繋がったネットワーク、これを心のカタチと見たとき……心の本質を何に求めるべきだろう?」
「媒体……つまり、脳細胞を流れる電気パルスによって伝えられる……情報?」
「いや、電気パルスというのは、こう……」
和人は右手を拳に握り、広げた左の掌に近づけた。
「ニューロンとニューロンの隙間つまりシナプスに、伝達物質を放出させるトリガーにすぎない。あるルートに沿って脳細胞が連続発火するという、その現象だけをもって心の本質であるとは言えないよ」
「ええー……っと……」
詩乃が眉をしかめるのと同時に、明日奈が困ったように笑いながら言った。
「これ以上は無理だよキリト君〜。だいたい、心とは何か、なんて今の科学でも答えは出てないんでしょ?」
「まあ、な」
和人はにやっと笑いながらうなずいた。
「は、はあ!? ちょっと、ここまで考えさせといてそれはないでしょう」
詩乃が猛然と抗議しかけたそのとき、和人はふっと視線を濡れた窓のほうに向け、呟くように続けた。
「でも、ある理論を用いてその答えに迫った人間がいる」
「ある……理論?」
「"量子脳力学"。もとは、前世紀の末ごろにイギリスの学者が提唱したものらしいんだけどな。長い間キワモノ扱いされたその理論を下敷きに、ついにあんな化け物みたいなマシンを作った……。――ここからは俺もほとんど理解しちゃいないんだけどな。さっき、脳細胞の構造の話をしたろ」
詩乃と明日奈は同時に頷く。
「細胞にも、その構造を支える骨格がある。"マイクロチューブル"って言うらしいんだけどな。しかしどうやらその骨は、ただの支えじゃなくて、頭蓋骨でもあるらしい。脳細胞のなかの脳だな」
「は、はあ……?」
「チューブ、つまり中空の管なんだ、その骨は。超微細なその管の中に封じ込められているモノ……それは……」
「何が、あるの……?」
「光だ」
和人の答えは短かった。
「光子……エバネッセント・フォトン、って言うらしい。光子ってことはつまり量子だ。その存在は非決定論的であり、常に確率論的なゆらぎとしてそこにある。そのゆらぎ、それこそが、人間の心なんだ」
その言葉を聞いた途端、詩乃の背筋から二の腕までを、理由の判らない戦慄がぞくぞくと疾った。心とは、揺らぐ光。そのイメージは神秘的な美しさに満ちていると同時に、まさしくそこはもはや神の領域なのではないのだろうか、との思いを起こさせるものがあった。
同じような感慨を明日奈も抱いたのだろう、薄い色の瞳にどこか不安そうな光を湛えて、少し掠れた声で呟いた。
「ソウル……魂。その光の集合体が、人間の魂なの……?」
「量子場、と言うべきかな。人間だけじゃない、動物にだってある。この理論が発表されたら、動物には魂はない、って言ってきたキリスト教原理主義者たちは怒るだろうな。実験によれば……この量子場は、持ち主が肉体的死に至ったあとも、しばらくその形を保つ。いわゆる臨死体験というのはそれが原因だ、って言ってたスタッフもいたよ。脳細胞が死に、量子が拡散するあいだに、人間は死後の世界を見るんだ、って」
「拡散……した量子は、どこにいくの?」
詩乃がおそるおそるそう尋ねると、和人は微かに笑って首を振った。
「わかってない。それを検出するには、今の数十倍の規模のマシンを開発しないとだめなんだそうだ。ただ、霞のようにランダムに消滅するというより、一定の凝集力を保ったままある方向へ向かうらしいけど……そこから先は、あんまり科学の立ち入る領域じゃないような気もするなあ……」
「わたしにはもう充分オカルトな話に聞こえるよ〜」
明日奈は細い声で言い、きゅっと肩を縮めた。
「じゃあ、つまり、キリト君がテストしてるってマシンは、その……光子でできた魂そのものにアクセスするものなの……?」
「そう言うとなんかゲームのマジック・アイテムみたいに聞こえるけどな。――もうちょっと突っ込んだ話をすると、マイクロチューブル中の光子ひとつは、そのベクトルによって"一キュービット"という単位のデータを保持しているんだ。つまり、脳細胞は、これまで考えられてきたような単なるゲートスイッチではなく、それ自体がひとつの量子コンピュータだと言える……このへんで、もう俺の理解は限界にきてるんだけど……」
「大丈夫、私もそろそろ限界だから」
「わたしも……」
詩乃と明日奈がそろってギブアップ宣言をすると、和人はほっとしたように息を吐いた。
「まあ、守秘義務契約もあるからマシンの仕組みについては細かく話せないんだけどね。ともかくその、計算機でありメモリでもある光子の集合体、人間の意識、魂……プロジェクトでは"フラクトライト"と呼んでるんだけど、そいつが保持している数百億キュービットのデータを、俺たちに理解できるカタチに翻訳するのが例の化け物マシン、"ソウル・トランスレーター"だ。考えてみるとおかしな話だよな……。俺たちの魂を苦労して解読して、それを読むのも結局また俺たちの魂なんだからな」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ。なんか……鏡に映った自分の姿を見て石になっちゃう怪物の話とか思い出すじゃない」
「いつかそんな目に会わないとも限らないって気はするよ」
「やめてってば」
詩乃は今度こそ本格的にぞっとしない気分を味わい、半そでの開襟シャツから伸びる腕をさすった。視線を動かすと、明日奈も同じように顔をしかめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「その機械……ソウル・トランスレーターは、意識を読むだけじゃないんだよね?」
すると、和人はほんのわずかに口篭もり、一度唇を閉じてから、低い声で答えた。
「ああ……もちろん、書き込むこともできる。そうでないと、仮想世界にダイブできないからな。フラクトライトの、視覚、聴覚と言った五感情報を処理する部分にアクセスして、マシンの生成する環境を接続者に与えるわけだ」
「じゃあ……記憶も? キリト君、さっき言ったよね。ダイブ中の記憶が無いって。それってつまり、記憶の消去や上書きもできるってことなの?」
「いや……」
和人は、安心させるように明日奈の左手に短く触れた。
「記憶データを保持している部分は、あまりにも膨大かつアーカイブ方法が複雑で、現状では手が出せないと聞いた。ダイブ中の記憶が無いのは、単にその部分への経路を遮断しているから、らしい。つまり、完全に記憶が無いわけじゃなくて、思い出せないだけ……なんだろうな」
「でも、わたし……怖いよ、キリト君」
明日奈の不安そうな表情は消えない。
「ねえ……何でそんなバイトするの? その話を持ってきたのって、あの総務省の菊岡って人なんでしょ? 悪い人じゃないとは思うけど……あの人、なんだか心の底が見えない感じがする。どこか、団長と似てるのよ。なんだか……また、良くないことが起こりそうで……」
「……確かに、あの男には気の許せないところがある。本当の身分とか職務とか、いまいち判らないしな。でもな……」
少し言葉を切り、和人はふっと瞳の焦点をどこかここではない場所に向けた。
「俺は、業務用NERDLESマシンの初代機が新宿のアミューズメントパークでお披露目されたその初回に、始発で行って並んだんだ。まだ小学生だったけど……これだ、と思ったよ。俺をずっと呼んでいた世界はここなんだ、って。小遣いを貯めてナーヴギアも発売日に買って……いろんなVRゲームに何時間も潜り続けたな。ほんと、あの頃の俺は、現実世界なんかどうだっていいと思ってたよ。そのうちSAOのベータテストに当選して、あの事件が起きて……。凄く沢山の人が死んだ。二年もかけて戻ってきてからも、須郷の事件や死銃事件が立て続けにあって……俺は……知りたいんだ。VR技術は、一体どこに向かっているのか……あれらの事件に、一体どんな意味があったのか……。ソウル・トランスレーターは、その方向性こそまったく新しいものだけど、アーキテクチャ自体はメディキュボイドの延長線上にある。開発の基礎データとなった、最初のフラクトライトは"彼女"のものなんだよ」
俯きながら和人の言葉を聞いていた明日奈の両肩が、ぴくりと震えた。低いが、しっかりした声はなおも続く。
「予感がするんだ。ソウル・トランスレーターの中には何かある。単なるアミューズメントマシンだけじゃ終わらない何かが……。確かに、危険な面もあるかもしれない。でもな……」
少しおどけるように、和人は剣を握り、振り下ろす真似をした。
「俺は、今までどんな世界からもちゃんと帰ってきた。今度だって、ちゃんと戻ってくるよ。まあ……現実世界じゃ、無力で虚弱なゲーマーだけどさ」
「……わたしのバックアップなしじゃ、背中が隙だらけのくせに」
明日奈は少し笑うと、ふう、と短く息をつき、詩乃の顔を見た。
「まったく、なんでこう自信家なんだろうね、このヒト」
「うーん、まあ、何と言っても伝説の勇者様だからねー」
ふたりの会話には判る部分もあれば、初めて聞く単語もあったが、詩乃は深く立ち入るのはやめようと思いながら、からかうように言った。
「先月出た"SAO事件全記録"読んだけどさー、あの本に出てくる"黒の剣士"がこいつだなんてちょっと信じられないよねー」
「お、おい、やめてくれー」
和人は両手を振りながら上体を仰け反らせたが、明日奈はくすくす笑うと、ほんとだよね、と頷いた。
「あの本書いたの、攻略組ギルドの中でも大きかったとこのリーダーだから、けっこう記録自体は正確なんだけど、人物描写にすごいバイアスかかってるよねえ。キリト君が、オレンジプレイヤーと戦ったとことか……」
「『俺が二本目の剣を抜いたとき――立っていられるヤツは、居ない』」
きゃははは、と二人が盛大に笑うと、和人は虚ろな眼をしてずるずると椅子に沈み込んだ。ようやく明日奈に笑顔が戻ったことにほっとしながら、詩乃は追い討ちをかけるように続けた。
「あの本、なんか翻訳されてアメリカでも出版されるらしいよねー。そしたらもう、勇者サマの世界ランカーだよね」
「……せっかく忘れてたのに……。印税を俺にも寄越せって話ですよまったく」
ぶつぶつ言う和人にまたひとしきり笑ってから、詩乃は少々疑問に思っていたことを尋ねようと、話を戻した。
「でもさ。その、ソウル・トランスレーターって、結局やることはアミュスフィアといっしょなの? VRワールドをポリゴンで生成して、そこに接続者の意識をダイブさせるだけなら、そんな大掛かりな仕組みにすることにどんな意味があるの?」
「お、いい質問」
和人は椅子の上で体を起こすと、ひとつ頷いた。
「アミュスフィアを使ってるとき、ユーザーは、現実世界では寝ているように見えるけど、実際はそうじゃないよな。現実の感覚を遮断されているだけで、脳はちゃんと覚醒している。結局、外界の情報を自前の感覚器官から得るか、アミュスフィアの信号素子から得るかの違いがあるだけで」
「それはそう……だよね。便宜的に"ダイブする"なんて言ってるけど、実際には現実世界でヘッドホンしてテレビ見てるのと、本質的な違いは無いんだもんね」
「うん。しかし、ソウルトランスレーターの場合は少し違う。魂、フラクトライトを現実世界の入力から完全に切り離された接続者の脳波パターンは、どちらかというと睡眠時のそれに近くなるんだ」
「睡眠……眠ってる、ってこと……?」
詩乃は少し考えてから、首を捻りつつ言った。
「でも、そしたら、ユーザーはどうやって仮想世界で活動するの? 見たり聞いたり、動いたりとか出来ないんじゃないの?」
「完全に眠ってるってわけじゃない。フラクトライトの、現実の肉体を制御する部分は睡眠状態に入るが、記憶領域と思考領域は覚醒している。その状態でも、ユーザーは仮想世界を見ることができるんだ。別にソウルトランスレーター……長いからSTLって呼ぶけど、それを使ってなくても、普段自分のベッドで寝てるときだって、俺たちは見てるんだぜ、現実じゃない世界を」
「それって……夢のことを言ってるの?」
そう尋ねたのは明日奈だった。和人はにっと短く笑うと頷いた。
「その通り。睡眠と夢のメカニズムについてはまだまだ未解明の部分も多いんだけど、STLを使った解析によれば、どうも人間は夢を見ているときに、記憶の整理をしているらしいんだな。短期記憶領域にごちゃごちゃと蓄積された雑多な記憶パーツを、重要性によって取捨選択し、アーカイブして、長期記憶領域に収納する。その過程で、思考領域は、取り出された記憶を感覚的に再生するわけだ。つまり……夢を見ているとき、俺たちは、脳の感覚野を使用せずに物を見、音を聞いている。もし、夢で見たいものを選ぶことができたとしたら……」
そこで一拍置いてから、和人は少しばかり衝撃的なことを言った。
「――STLによって生成されるVRワールドは、アミュスフィアのそれとは根本的に違う。コンピュータで作られたポリゴンデータじゃないんだ。人間の膨大な記憶アーカイブからマシンによって抽出される、記憶のフラグメントを組み合わせたものなんだよ」
詩乃は、明日奈と同時に眉をしかめ、頭を傾けた。
「ええ……? ポリゴンじゃない……って……」
「ほら、つまりさ……。例えばこの喫茶店の中をアミュスフィアで再現しようと思うと、山ほどの3Dオブジェクトが必要になるよな。座ってる椅子、テーブル……この上の皿やグラス、塩や砂糖の容器、壁、窓、床、天井、エトセトラ。これだけの、膨大な視覚情報がマシン本体で生成され、ヘッドギアを通して脳に流れ込むわけだ。とても、ひとつひとつのオブジェクトを本物なみに細かく再現することはできないから、例の"ディティール・フォーカシング・システム"なんて苦肉の策が採用されてたりする。しかし、STLで同じことをする場合、マシンがフラクトライトに送るデータは恐ろしく小さい。"古ぼけた椅子に座ってる""揃いのテーブルがある""その上に白い皿が乗ってる"……これだけだ。それらのオブジェクトの視覚、触覚的情報は、俺たちの自前の記憶アーカイブから呼び出され、配置されるわけだ。しかもそれらは恐ろしくリアルだ。なぜなら、意識にとっては本物と一緒なんだからな」
「…………ええー?」
何となく騙されているような気分にとらわれ、詩乃は唸った。
「記憶……なんて、そんなアテになるものなの? 例えばさぁ……」
和人の前でぎゅっと両目を瞑ってみせる。
「こうして眼ぇ閉じて、今座ってる椅子を思い出そうとしても、細かいとことかすごいアヤフヤだよ。一日たったら形も思い出せないよ、たぶん」
「それは記憶を再生できないだけだ。椅子の詳細な情報は、きちんとアーカイブされてシノンの頭の中にある。STLは、本人の意思ですら簡単に呼び出せない情報を、フラクトライトを半覚醒状態に置くことによって正確に引き出すことができるんだ。これは聞いた話だけど、基礎実験のとき、あるスタッフの記憶アーカイブから出てきた猫の数はなんと二千匹を超えたそうだよ」
「にせ……」
詩乃は一瞬その猫天国を想像して口もとを緩めてしまってから、短く首を振って妄想を払い落とした。明日奈はと見れば、こちらは真剣に何かを考えているふうだったが、やがて言葉を確かめるようにゆっくりと口を動かした。
「でもさ……キリト君、それだと、ユーザーが見たことのないものは生成できない、ってことになるんじゃないの?」
もっともな疑問だ、と思ったが、和人はふたたびニヤっと笑い、逆に明日奈に尋ねた。
「例えば、どんなもの?」
「えっと……ほら、今の猫にしても、羽根の生えた猫とか……毛皮が青い猫とか。現実世界には居ない動物……実在しない機械、世界のどこでもない都市、そういうものはVRゲームには必須だと思うけど……」
「ところがどっこい、なんだな。人間の意識の柔軟性というのは驚くばかりさ。"翼の生えた猫がいる"、そう指定するだけで、ダイブ中のユーザーはちゃんとそれを見るんだ。記憶アーカイブから抽出した"猫"と"翼"を組み合わせて。既存の空想的動物……ドラゴンとか悪魔まで、生成できなかったものはほとんど無かったそうだよ。さすがに、言葉では形容できないようなヤツは難しいだろうけど……。奇妙な機械とか幻想的都市とかも、結局原型となるイメージは記憶アーカイブに何かしら収納されてるのさ。それを組み合わせ、変形させるだけで、ほとんどあらゆるパターンのものを作り出すことができるんだ」
和人は一瞬口を閉じ、テーブルをとん、と叩いて続けた。
「これが、NERDLESには無い、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの第一の利点だ。VRワールドを作るのに、膨大なマンパワーを費やして3Dオブジェクトを組む必要がない。極論すれば、コンピュータに世界生成をすべて任せることだってできるんだ」