法と秩序の究極的体現者たる整合騎士が、同じく善性の象徴であるドラゴンを殺す。それは、これまでの十一年の人生において一度として世界の仕組みを疑ったことのないユージオにとって、容易に受けいれることのできない概念だった。飲み込むことも、噛み砕くこともできない疑問にしばらく苦しんでから、答えを要求するように傍らの相棒に視線を送る。
「……わからない」
キリトの言葉も、しかし大いなる混乱に彩られていた。
「もしかしたら……闇の国にもすごい強い剣士がいて、そいつがドラゴンを殺したのかもしれないし……。でも、そんなことがあったなら……今までに、闇の軍勢が山を越えて攻め込んできたりしててもおかしくないはずだ。――少なくとも、宝を狙った盗賊の仕業とかじゃないみたいだけど……」
言葉を切ると、キリトはドラゴンの遺骸に歩み寄り、重なり合う青い骨の底のほうから何か長い物を掴み上げた。
「うお……めちゃくちゃ重いな……」
ふらふらよろけながら両手で支えたそれを、ユージオとアリスに示す。白革の鞘と、白銀の柄を持つそれは一振りの長剣だった。鞘の口金付近には非常に精緻な青い薔薇の象嵌が施してあり、一目で村にあるどの剣よりも価値の高いものだということが分かる。
「あっ……これ、もしかして……」
アリスが息を飲みながらそう囁くと、キリトはこくりと頷いた。
「ああ。ベルクーリが、寝てるドラゴンの懐から盗み出そうとしたっていう"青薔薇の剣"だろうな。……うぐ、もう限界だ」
顔を歪めたキリトが両手をはなすと、長剣は重く鈍い音を立てて足元に落下した。分厚い氷の床にぴしりと細いひび割れが入ったところを見ると、華奢な見た目からは想像もつかないくらいの重量があるらしい。
「……どうするの、これ?」
「無理無理、俺たちじゃとても持って帰れないよ。あんな木こり斧ですら毎日ひいこら言ってるんだから。それに……他にも、骨の下にいろいろお宝があるみたいだけど……」
「……うん、とても、何か持っていく気にはならないわね……」
揃って青い骨の山を眺め、三人は同時に頷いた。寝ているドラゴンの目をかすめて何か小さなものを攫ってくる、なら他の子供たちに大いに自慢できる冒険話だが、この場所から宝物を持っていけばそれは単なる墓荒しだ。薄汚い野盗の所業である。
ユージオは改めて二人の顔を見て、こくりと頷きかけた。
「予定どおり、氷だけ持っていくことにしよう。それなら、もしドラゴンが生きてたとしても許してくれたよ、きっと」
言って、すぐそばの氷柱に歩み寄ると、その根元から新芽のように無数に伸びる小さな氷の六角柱を靴で蹴飛ばす。ぽきんと心地いい音とともに砕け落ちたいくつかの氷塊を拾い上げ、差し出すと、アリスは空になったバスケットの蓋を開け、それを中に収めた。
三人はしばらく無言で、氷の欠片を作ってはバスケットに詰め込む作業に没頭した。巨大な氷柱の根元がきれいになると、次の柱へ移り、また同じことを繰り返す。三十分も続けるうちに、大きなバスケットは、青く透きとおる宝石にも似た結晶でいっぱいになった。
「よい……しょ、っと」
掛け声とともにバスケットを持ち上げたアリスは、しばし腕のなかの光の群に見入った。
「……きれい。なんだか、持って帰って溶かしちゃうのが勿体無いね」
「それで、俺たちの弁当が長持ちするならいいじゃないか」
即物的なキリトの台詞にしかめ面を作り、アリスはバスケットをぐいっと黒毛の少年に差し出す。
「え、帰りも俺が持つの?」
「当たり前じゃない。これ結構重いんだから」
例によって軽口の応酬を始めそうになる二人を、苦笑しながら押しとどめて、ユージオは言った。
「交替で僕も持つよ。――それより、そろそろ戻らないと、夕方までに村に着けなくなりそうだ。もうこの洞窟に入ってから一時間近く経つんじゃない?」
「ああ……太陽が見えないと、時間がよくわからないな。魔法でなんかないの? 今が何時だかわかるようなの」
「ありませんよーだ!」
アリスはついっと顔をそむけると、広い氷のドームの一方に見える細い出口のほうを眺めた。
次に、振り返ると、真反対の方向にある、もうひとつの出口を見た。
そして、眉をしかめながら言った。
「――ねえ、私たち、どっちから入ってきたんだっけ?」
ユージオとキリトは同時に、自信たっぷりにもと来た方向を指差した。それぞれ、別の出口を。
三人の足跡がついているはずだ、という意見(滑らかな氷面にはくぼみひとつなかった)、湖から水が流れ出しているほうが出口だ、という意見(両方ともに流れ出していた)、ドラゴンの頭骨が見ているほうが出口だ、という意見(キリトが提唱し他の二人に却下された)などなどがおよそ十分のあいだに空しく消えていったあと、ついにアリスが見込みのありそうなアイデアを述べた。
「ほら、ユージオが踏み割った、氷の張った水たまりあるじゃない。出口からちょっと進んでみて、それがあったら当たりよ」
なるほど言われてみればそのとおりである。自分が思いつけなかったことに少しバツの悪い思いをしながら、ユージオは頷いた。
「よし、そうと決まれば、近いほうから行ってみよう」
「俺はあっちだと思うけどなあ……」
まだ未練がましくぶつぶつ言っているキリトの背中を押し、右手に持つ草穂を掲げ直して、目の前の水路へと足を踏み込む。
灯りを乱反射する氷の柱が周囲になくなると、あれほど頼もしかった魔法の光も、はなはだ心許ないものに感じられた。三人の歩調も、ついつい速くなってしまう。
「……まったく、帰り道が分からなくなるなんて、まるで昔話のべリン兄弟だな。俺たちも、道に木の実を撒いておけばよかったな。洞窟には食べる鳥もいないし」
どことなく空元気を感じさせるキリトの軽口に、この呑気な相棒でも不安になったりすることがあるのか、とユージオは逆に少し可笑しくなった。
「何言ってんだ、木の実なんて持ってなかったくせに。今からでも教訓を活かしたいなら、分かれ道ごとにお前の服を置いていこうか?」
「やめてくれ、風邪ひいちゃうよ」
わざとらしくくしゃみの真似をしてみせるキリトの背中を、アリスがどんと叩く。
「ちょっと、バカなこと言ってないで、ちゃんと地面を見てよね。もし見落としたら大変なんだから……って、言うよりも……」
そこで言葉を切り、きゅっと弓形の眉をしかめる。
「ねえ、だいたいこれくらいの距離じゃなかった? まだ割れた氷なんてないわよ……。やっぱり、反対側だったのかしら?」
「いやあ、もうちょっと先だろ? ……あ、ちょっと、静かに」
不意にキリトが唇に指をあてたので、ユージオとアリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。言われるままに、耳を澄ませる。
とうとうとひそやかに流れる地下水のせせらぎに混じって、確かに、何か別の音が聞こえた。高くなったり低くなったりする、物悲しい笛のような響き。
「あっ……風の音?」
アリスがぽつりと呟いた。確かにこの音は、樹の梢が奏でる風鳴りに似ている、とユージオも思った。
「外が近いんだ! こっちで良かったんだよ、急ごう!」
安堵とともにそう叫び、半ば走り出すように前進を再開する。
「ちょっと、急ぐと転ぶわよ」
そう言いながらも、アリスの足取りも軽やかだ。その後ろを、首をひねりながらキリトがついてくる。
「でも……夏の風があんな音出すかなあ? なんか……冬の木枯らしみたいな……」
「谷風ならあれくらい強く吹くよ。とにかく、とっととこんな所出ようよ」
右手の灯りを激しく揺らしながら、ユージオは小走りで進んだ。いつのまにか、早く村に、見慣れた家に戻りたいという気持ちが大きく膨らんできていた。アリスから氷をひとかけら貰って、母さんに見せたら、さぞかし驚くことだろう。今日一日のとんでもない冒険は、しばらく夕食の話題を独占するに違いない。
やっぱり、古い銀貨のひとつくらい持ってきてもよかったかな……と考えたそのとき、はるか前方の闇の中に、ぽつんと小さな光が見えた。
「出口だ!」
大声で叫んでから、まずいなあ、と思った。光が、どことなく赤く染まって見えたからだ。洞窟に入ったのがちょうどお昼、中で過ごしたのはせいぜい一時間と少しだと思っていたが、思いのほか長く地下世界に潜りすぎていたようだった。もうソルスが西に傾きはじめているのだとしたら、かなり急いで帰らないと夕食までに村に着けないかもしれない。
ユージオは一層走る速度を上げた。甲高い風鳴りの音は、もう川音を圧する大きさで洞窟内に反響している。
「ねえ……ちょっと、待って! おかしいわよ、もう夕方なんて……」
すぐ後ろを走るアリスが不安そうな声を上げた。しかし、ユージオは足を止めなかった。冒険はもう充分だ。今は、一刻も早く家に帰りたい――。
右に曲がり、左に曲がり、もういちど右に曲がったところで、ついに三人の視界をさあっと赤い光が覆った。数メル先に出口があった。闇に慣れた目を思わず細めながら、スピードを落とし、さらに数歩進んで、止まる。
洞窟はそこで終わっていた。
しかし、眼前いっぱいに広がっているのは、ユージオの知っている世界ではなかった。
空が一面真っ赤だ。だが、夕陽の色ではない。そもそも、どこにもソルスの姿がない。熟しすぎた鬼すぐりの汁を垂らしたような――あるいは、古い血をぶちまけたような、鈍く沈んだ赤。
対して、地上は黒い。彼方に見える異常に鋭い山脈、手前に広がる丘を覆う奇妙なかたちの岩、ところどころに見える水面までが、消し炭のような黒に染まっている。ただ、あちこちにまとまって生えている枯れ木の肌のみが、磨かれた骨のように白い。
すべてを切り裂くように吹きすさぶ風が、枯れ木の梢を震わせて、物悲しい叫び声を長く響かせた。それに乗って、どこか遠くから別の音が――もしかしたら、何か大きな獣のうなり声のようなものが、三人の足元まで届いてくる。
こんな場所が、こんなすべての神に見放されたような世界が、ユージオ達の暮らす人間の国であるはずがなかった。ならば、これは――三人がいま見ている、この光景は――。
「ダーク……テリトリー……」
わずかに震えるキリトの呟き声を、たちまちのうちに風がさらっていった。
神聖教会の威光が及ばない場所、闇神ベクタを奉ずる魔族の国、絵本や老人たちの昔話の中にしか存在しないと思っていた世界が、今ほんの数歩先にある。そう思っただけで、ユージオは、骨の髄まで竦み上がった。まるで、生まれてはじめて触れる情報が、いままで使われることのなかった心の区画に大量に流れ込むことで、自身の思考を処理することができなくなってしまった――とでも言うように。
禁忌……教会の禁忌がすぐ手の届くところにある。目録の最初のページに載っている、『果ての山脈を越えて闇の国に入ることを禁ずる』という文字列が、頭の中で凶悪なまでに輝きながらスクロールしてゆく。
「だめだ……これ以上、進んじゃ……」
ユージオは、どうにか口を動かして、言葉を絞り出した。両手を広げて、背後のキリトとアリスを下がらせようとする。
その時だった。何か、金属を打ち鳴らすような音が、かすかに上のほうから響いてきて、ユージオはハッと息をのんだ。反射的に、赤い空を振り仰ぐ。
血の色を背景に、白いものと黒いものが絡み合っているのが見えた。豆粒のように小さいが、それは恐ろしく高いところを飛んでいるせいだ。実際の大きさは、人間をはるかに超えるだろうと思われた。二つの何か――何者かは、激しく位置を入れ替えながら、離れ、また近づき、交錯した瞬間に断続的な金属音を響かせる。
「竜騎士だ……」
隣で同じように空を見上げていたキリトが囁いた。
相棒の言うとおり、二つの飛行体は、長い首と尾、三角形の両翼を持った巨大な飛竜のようだった。そしてその背には、剣と盾を構えた騎手の姿が確かに見てとれる。白い竜に乗るのは白銀の鎧、黒い竜には漆黒の鎧の騎士。握る剣すら、白の騎士のものはまばゆい光芒を、黒の騎士のものはよどんだ瘴気を放っている。
二騎の竜騎士が剣を打ち合わせるたびに、雷のような金属音が鳴り響き、大量の火の粉が宙を舞った。
「白いほうが……教会の整合騎士、なのかしら……」
アリスの呟きに、キリトが同じくかすれる声で答えた。
「だろう……な。黒いのは……闇の軍勢の騎士、なのかな……。整合騎士と、互角の強さだな……」
「そんな……」
ユージオは、我知らず、そう漏らしていた。
「整合騎士は、世界最強なんだ。闇の騎士なんかに、負けるはずないよ」
「どうかな。見たとこ、剣技には差がないぞ」
キリトが言った、その直後だった。まるでその声が聞こえでもしたかのように、白い騎士は竜の手綱を引いて距離を取った。黒い竜が追いすがろうと大きく羽ばたく。
だが、両者の距離が縮まる前に、くるりとターンした白い竜が長い首をぐっとたわめ、一瞬力を溜めるような動作をした。その首が前に突き出されると同時に、大きく開かれたあぎとから青白い炎の奔流がほとばしり、黒い竜騎士の全身を包んだ。
ごう、とかすかな音がユージオの耳を打った。黒い竜は苦しそうに身をよじり、空中でぐらりと傾く。その隙を逃さず、整合騎士は突進すると、大きな一振りで敵の剣を弾きとばし、返す刀で黒騎士の胸を深く刺し貫いた。
「あっ……」
アリスが悲鳴にも似た小さな声を上げた。
黒い竜は、翼のほとんどを炎に焼かれ、飛翔力を失ってくるくる回りながら宙を滑った。その背中から振り飛ばされた黒騎士は、流れ出る血飛沫の尾を引きながら、まっすぐにユージオ達が隠れている洞窟めざして落下してくる。
まず、黒い剣が乾いた音を立てて砂利混じりの地面に突き立った。次いで、三人からほんの五メルほど離れた場所に、どさりと黒騎士が墜落した。最後に、かなり遠いところに黒い竜が落ち、長く尾を引く断末魔の声とともに動かなくなった。
凍りついた三人が声もなく見守るなか、黒騎士は苦しそうにもがき、上体を起こそうとした。鈍く輝く金属鎧の胸部に、醜い孔が深く穿たれているのが見えた。騎士の、分厚い面頬に覆われてまったく肌の見えない顔がまっすぐユージオたちのほうに向けられた。
ぶるぶると震える右手が、まるで助けを求めでもするかのように伸ばされる。が、直後、鎧の喉元から大量の鮮血が迸り、騎士はがしゃんと音を立てて地面に沈み込んだ。みるみる赤い液体が広がり、黒い瓦礫の隙間に飲み込まれていく。
「あ……あ……」
ユージオの右側で、アリスが細い声を漏らした。まるで吸い込まれるような足取りで、ふらり、と前に出る。
ユージオは動けなかった。だが、左側でキリトが「だめだっ!!」と低く、鋭く叫び、手を伸ばした。
しかし、アリスの左手を掴もうとしたその指はぎりぎりのところで空を切った。アリスの靴が、奇妙なほどにくっきりとした、洞窟の灰色の岩と、闇の国の黒い地面の境界線を一歩踏み越え、じゃりっと音を鳴らした。
その瞬間、遥か上空を旋回していた白い飛竜が、耳をつんざくような鋭い咆哮を放った。
ユージオとキリトがハッと空を振り仰ぐ。同時に、竜の背に跨る白銀の騎士が、確かにこちらを見下ろした。兜の面頬に十字型に切られた隙間から、凍てつくような眼光が降り注ぎ自分を貫くのを、ユージオははっきりと感じた。
キリトはぎりっと歯を鳴らすと、再び手を伸ばしてアリスの腕を握り、短く叫んだ。
「走れ!!」
そのまま身を翻し、洞窟の奥目指して猛然と駆け出す。
ようやく我に返ったユージオは、いまだ頬を蒼白にしたままのアリスのもう一方の腕を取ると、キリトに並んで懸命に走った。
どのようにしてルーリッドの村まで戻ったのか、ユージオはよく憶えていない。
ドラゴンの骨が眠るドームに戻るとそこを突っ切り、反対側の出口に飛び込んで更に走った。濡れた岩に足を取られ、何度も滑りながらも、来たときの数分の一の時間で長い洞窟を駆け抜け、ようやく見えた白い光の中に飛び出すと、そこはまだ午後の陽光がさんさんと降り注ぐ森のとばぐちだった。
しかしユージオたちを捉えた恐慌は容易に消えなかった。今にも、背後の山脈を飛び越えてあの白い騎士が追ってくるのではと思うと気が気ではなかった。
小鳥たちが平和に鳴き交わす木々の下、小魚の群が行き来する透明な流れのほとりを、三人は言葉も無く懸命に歩いた。ユージオの耳にはずっと、アリスの靴が黒い瓦礫を踏み締める音と、直後の飛竜の咆哮が繰り返し鳴り響いていた。
息を切らしながら北ルーリッド橋までたどり着き、土手を上がって見慣れた古樹の下に出たときの安堵はとても言葉にできなかった。三人は顔を見合わせると、ようやく小さな笑みを交わした。――相当に強張ったものであったことも確かではあるが。
本物の夕焼けのなかを歩いて村の広場まで戻り、そこで三人は別れた。
ぎりぎり間に合った夕食の席で、ユージオはずっと無言だった。兄や姉の誰も、今日のような冒険をしたものはいないだろうという確信があったが、何故か自慢する気にはならなかった。この目で闇の王国を見たこと――整合騎士と闇の黒騎士のすさまじい戦い、そして最後に感じたあのいかづちのごとき眼光を言葉にすることはとてもできないと思えたし、またそれを話したとき、父や祖父がどのような反応を見せるのか知るのが怖かったのだ。
その夜、早々にベッドに入ったユージオは、冒険の最後に見たもののことはすべて忘れようと思った。そうでもしなければ、これまで神聖教会と整合騎士に抱いてきた畏敬と憧れが、違うものにすりかわってしまいそうだった。
ソルスが沈み、昇り――そしてまた、何も変わることのない日常へ。
いつもなら休息日の翌朝に仕事場へ向かうときは少しばかり憂鬱になるのだが、今日だけは、ユージオは何故かほっとする心境だった。冒険はもう当分いいや、しばらくは真面目に木こり稼業に励もう、と思いながらてくてくと村の南へ歩き、麦畑と森の境界でキリトと合流する。
長年付き合った相棒の顔にも、ほんのわずかな安堵感が浮かんでいるのをユージオは気づいた。そして向こうもユージオの顔に同じものを見たらしい。二人でしばし、照れ隠しの笑みを浮かべる。
森の細道に少し入ったところにある小屋から竜骨の斧を取り出し、さらに数分歩いて、ギガスシダーの根元に達した。巨大な幹にほんの少し刻まれた斧目も、今はユージオに、変わらぬこれまでとこれからの日々を思わせた。
「よし。今日も、いい当たりの少なかったほうがシラル水をおごるんだからな」
「最近ずっとそっちが持ってるんじゃないか、キリト?」
もう儀式のごとくなっている軽口を叩きあい、ユージオは斧を構える。最初の一発が、コーン、という最高の音を響かせたので、今日はきっといい調子だ、と思う。
午前中、二人は常にない高確率で、巨樹の幹に会心の一撃を打ち込みつづけた。その理由のなかに、もし斧打ち中に集中力を失うと、脳裏に昨日見たあの光景が甦ってしまいそうだから――というものがあったことは否定できないが。
連続五十発の斧打ちを、それぞれ九回ずつこなしたところで、ユージオの胃がぐう、と鳴った。
汗を拭いながら頭上を振り仰ぐと、ソルスはすでに中天近くにまで登っていた。いつもなら、あと一回ずつ斧を握ったところで、アリスが弁当を持って現れる時刻となる。しかも今日は、ゆっくり食べられるパイに、きんきんに冷えたミルクつきだ。想像するだけで、空っぽの胃がきりきりと痛くなる。
「おっと……」
あまり昼ご飯のことばかり考えていると、せっかくリードしているいい当たり数を減らしてしまう。ユージオは濡れた両手をズボンでごしごし擦り、慎重に斧を握りなおした。
突然、日差しがサッと翳った。
通り雨かな、面倒だなあ、と思いながらユージオは顔を上げた。
四方八方に広がるギガスシダーの枝を透かして見える青い空、そのかなり低いところを、高速で横切る黒い影が見えた。心臓が、ぎゅうっとすくみ上がる。
「ドラゴン……!?」
ユージオは思わず叫んでいた。
「おい……キリト、今のは!!」
「ああ……昨日の……整合騎士だ!!」
相棒の声も、深い恐怖に凍り付いていた。
二人が立ち尽くし、見守るなか、白銀の騎士を背に乗せた飛竜は、樹々の梢を掠めて飛び去り、まっすぐルーリッドの村の方向へと消えていった。
一体なぜ、こんなところに。
鳥や虫たちまでもが怯えて黙り込んだ完全な静寂のなか、ユージオは繰り返しそう考えた。
整合騎士は、教会に仇なすものを成敗する秩序の守護者である。帝国内に組織だった反乱集団など存在しない現在、整合騎士の敵はもはや闇の軍勢以外には居ない。ゆえに、騎士達は常に果ての山脈の外を戦場にしていると聞いていたし、実際にユージオは昨日その光景を己の目で見た。
そう、整合騎士を実際に見たのはあれが初めてだったのだ。生まれてこのかた、村に騎士がやってきたことなど一度もない。なのに、なぜ今――。
「あっ……まさか、アリスを……」
隣でキリトが呟いた。
それを聞いた途端、ユージオの耳のおくに、あの時聞いた短い音が鮮明に甦った。じゃりっ、という、炭の燃え殻を潰すような、古いコインを擦るような、不快な音。アリスの靴が、闇の国の石を踏み締める音。冷たい水でも垂らされたかのように、背筋がぞくりと寒くなる。
「うそだろ……まさか、あんな……あれだけのことで……」
同意を求めるべく、そう言い返しながらキリトの顔を見たが、相棒は常にない厳しい表情でじっと騎士の飛び去った方向を睨んでいた。しかしそれも数瞬のことで、キリトはまっすぐにユージオの目を見、短く言った。
「行こう!」
何のつもりかユージオの手から木こり斧をもぎ取ると、もう振り向くこともなく一直線に走り出す。
「お……おい!」
何か、大変なことが起きる。そんな予感をひしひしと感じながら、ユージオも地面を蹴り、懸命にキリトの後を追った。
勝手知ったる森の小道を、木の根や穴を避けながら全力で駆け抜け、麦畑を貫く街道へ合流する。村の方向を仰ぐが、すでに晴れた空に整合騎士の姿は無かった。
キリトはわずかにスピードを緩め、青く色づく麦穂の間でぽかんと空を見上げている農夫に向かって怒鳴った。
「リダックのおじさん! 竜騎士はどっちへ行った!?」
農夫は、白昼夢から醒めたかのような顔でユージオ達を見ると数回まばたきし、ようやく答えた。
「あ……ああ……どうも、村のほうへ降りたようじゃが……」
「あんがと!!」
礼を言うのももどかしく、二人はふたたび全速力で走り出す。
街道や畑の所々で、村人たちが一人あるいは数人で固まり立ち尽くしていた。恐らく、古老たちの中にさえ実際に整合騎士を見たことがある者はいないのだろう。皆、巨大な飛竜を目の当たりにし、どうしていいのかわからない、とでも言うように混乱した表情で凍り付いている。
村の南にかかる橋を渡り、短い買い物通りを駆け抜け、もうひとつ小さな橋を越えたところで、二人はハッとして立ち止まった。
円形の教会前広場の北半分を、白い飛竜の長い首と尾が弧を描いて占領していた。
大きな翼は二つの塔のように体の両側に畳まれ、教会の建物をほとんど隠してしまっている。無数の鱗と各部に装着された鋼の鎧がソルスの光を跳ね返し、まるで氷の彫像のようだ。そこだけが血のように紅い両の眼のおくで、獣らしさのない縦長の瞳孔が地上を見下ろしている。
そして、竜の前に、さらに眩く輝く白銀の騎士の姿があった。
村の誰よりも巨躯だ。鏡のように磨かれた重鎧を一部の隙もなく全身に着込み、関節部分すら細かく編んだ銀鎖で覆われている。竜の頭部を象った冑は、額の部分から前に一本、両脇から後ろへ二本の長い飾り角が伸び、がっちりと下ろされた巨大な面頬が騎士の顔をすべて隠している。
間違いなく、昨日ユージオたちの隠れ見るなか闇の竜騎士を屠ってのけたあの整合騎士だった。面頬に切られた十字の窓から迸った氷のような眼光が脳裏に甦る。
広場の南端には、数十人の村人が押し集まり、こうべを垂れていた。その一番うしろに、バスケットを下げたアリスの姿を見つけ、ユージオはわずかに肩の力を抜いた。いつものように青いドレスに白いエプロンのアリスは、大人たちの隙間から目を丸くして騎士に見入っている。
キリトとふたり、物陰をつたうようにこっそり移動し、どうにかアリスの後ろまでたどり着くとそっと声をかけた。
「アリス……」
少女は金髪を揺らしてくるりと振り向くと、何か言おうと唇を開く。そこへキリトが自分の口に指をあて、小さくしっ!と囁く。
「アリス、静かに。今のうちに、ここから離れたほうがいい」
「え……なんで?」
同じくひそひそ声で答えるアリスは、自分の身に脅威が迫っているとはまるで考えていないようだった。もしかしたら、昨日の、あの黒騎士が目の前に落ちて息絶えた瞬間のことをあまり覚えていないのかもしれない、とユージオは考える。
「いや……もしかしたら、あの整合騎士は……」
そのあとをどう説明したものか、ユージオが一瞬迷った。そのときだった。
村人たちのあいだに、かすかなざわめきが走ったので顔を上げると、広場の東入り口――村役場の方向から、一人の背の高い男が歩いてくるところだった。
「あ……お父様」
アリスが呟く。確かに、男はルーリッドの現村長、ガスフト・ツーベルクだった。引き締まった体を簡素な革の胴衣に包み、黒々とした髪と口もとの髭はきれいに切り揃えられている。炯炯とした鋼のような眼光は、前村長から職を引き継いでたったの四年ですでに全村民の尊敬を集める名士に相応しいものだ。
背後に助役を従えたガスフトは、臆することなく整合騎士の前まで歩み寄ると、教会の作法に従って体の前で両手を組み、一礼した。
「ルーリッドの村長を務めますツーベルクと申します」
頭を上げると、びんと張りのある声で名乗る。
ガスフトよりも拳ふたつぶんほども背の高い整合騎士は、かすかに鎧を鳴らしながらゆっくりした動作で頷くと、そこではじめて声を放った。
「ノーランガルス北方第七辺境区を統括する整合管理騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである」
村長ほどには深みも、響きもある声ではなかった。まるで教会のオルガンの共鳴管に口をくっつけて喋ったような、いんいんとした金属質の尾を引く、どちらかと言えば不快な声だった。しかしその言葉は、耳ではなく額を突き抜けて頭のなかで響いたかのごとく体の芯まで届き、ユージオは顔を歪めた。見れば、ガスフトも気圧されたかのごとくわずかに身を仰け反らせている。
「……して、騎士殿がこの小村にいかなる御用でしょう」
流石の胆力を見せ、村長は再度堂々たる言葉を発した。
が、それも、整合騎士が次の声を響かせるまでのことだった。
「ガスフト・ツーベルクが三子、アリス・ツーベルクを、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する」
村長の逞しい上体が一度、激しく震えた。ユージオの位置からわずかに見える横顔がはっきりと歪んだ。
長く続いた沈黙のあと、ガスフトの、さすがに艶を失った声が流れた。
「……騎士様、娘がいったいどのような罪を犯したというのでしょう」
「禁忌目録第一条第四項、ダークテリトリーへの侵入である」
そこではじめて、今まで声も無くやりとりに聞き入っていた村人の間にかすかなざわめきが走った。何人もの大人たちが、口々に教会の聖句を呟き、素早く聖印を切る。
ユージオとキリトは、反射的にアリスの体を騎士の視線から隠そうとした。が、それ以上動くことはできなかった。
ユージオの頭のなかでは、どうしよう、どうしよう、というその言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。なんとかしなくては、という恐慌が突き上げてくるものの、しかし何をしていいのかはわからないのだった。
村長は、整合騎士の前で深く頭を垂れたまま、しばらく動かなかった。
大丈夫、あの人なら何とかしてくれる、とユージオは思った。ガスフト村長と話したことはそれほど多くないが、静かで厳しい物腰、筋の通った知性的な考え方は、じゅうぶんに尊敬すべきものだと感じていた。
しかし――。
「……それでは、いま娘を呼びにやりますので、本人の口から事情を聞きたいと思います」
掠れた声で、村長はそう言った。
だめだ、アリスを騎士の前に出したらいけない。ユージオがそう思ったのも束の間、整合騎士はがしゃりと鎧を鳴らして右手を上げた。その指先が、まっすぐに自分のほうを指しているのを見て、ユージオの心臓は縮み上がった。
「その必要はない。アリス・ツーベルクはそこにいる。お前――と、お前」
指を動かし、人垣の前のほうにいる男をふたり指す。
「娘をここに連れてこい」
ユージオの目の前で、さっと人の列が割れた。整合騎士と自分のあいだを遮るものが何もなくなり、ユージオはふたたび昨日の眼光を思い出して縮み上がりそうになる。今すぐ地面にうずくまり、騎士の視線を避けたい、そんな思いが湧き起こってくる。
空いた道を、顔見知りの村人ふたりがゆっくりと歩み寄ってきた。その肌は血の気を失い、また視線は奇妙なほどにうつろだ。
男達は、アリスの前に立ち塞がるキリトとユージオを有無を言わさず押しやると、両側からアリスの腕を掴んだ。
「あっ……」
アリスは小さく声を上げたが、気丈にもグッと唇を噛み締めた。いつものばら色が薄れた頬に、それでもかすかな笑みを浮かべ、大丈夫、というようにユージオたちの顔を見てこくりと頷く。
「アリス……」
キリトが言いかけた、その瞬間にぐいっと両腕を引かれ、アリスの右手からバスケットが落ちた。蓋が開き、中身が少し地面にこぼれる。
村人ふたりに引っ張り上げられるように、アリスは整合騎士の前へと運ばれていく。
ユージオは、落ちたバスケットをじっと見詰めた。
パイや固焼きパンは、きっちりと布に包まれ、その隙間をぎっしりと細かい氷が埋めている。一部は外に転がりだし、陽光を反射してきらきらと光っている。息を詰めて凝視するあいだにも、灼けた土の上で氷はたちまちのうちに溶け、ちっぽけな黒い染みへと変わっていく。
キリトが鋭く息を吸い込んだ。
きっと顔を上げ、引きずられていくアリスの後を追う。ユージオも歯を食いしばり、動こうとしない足を鞭打ってそれに続いた。
男二人は、村長の隣でアリスの腕を放すと、数歩下がり、そこに膝をついた。両手で聖印を組みながら深く頭を下げ、恭順の意を示す。
アリスは、強張った顔を父親に向けた。ガスフトは一瞬、沈痛な面持ちで娘を見下ろしたが、すぐに顔を背け、俯く。
整合騎士が手を伸ばし、飛竜の鞍の後ろから奇妙な道具を取り出した。太い鎖に、皮製のベルトが三本平行に取り付けられ、鎖の上端には金属の輪が備えられている。
騎士はじゃらりと音を立てながらその道具をガスフトに放った。
「村の長よ、咎人を固く縛めよ」
「…………」
村長が、手にした拘束具に視線を落とし、言葉を失ったその時、ようやくキリトとユージオは騎士の前に到達した。そこではじめて、騎士の兜が二人の方向を捉える。
輝く面頬に切られた十字の窓の奥は、深い闇に包まれていて何も見えなかったが、ユージオはそこから放射される視線の圧力を痛いほど感じた。反射的に俯き、すぐ左に立つアリスの方に少し顔を傾けて、何か声をかけようとしたが、やはり喉が焼きついたように言葉が出てこない。
キリトも同じように俯き、短い呼吸を繰り返していたが、やがてついに顔を上げると、震えながらも大きな声で叫んだ。
「騎士様!!」
もう一度大きく息を吸い、続ける。
「あ……アリスは、ダークテリトリーになんか入っていません! 石を、ほんの一つ踏んだだけなんだ! それだけなんです!」
騎士の答えは簡潔だった。
「それ以上どのような行為が必要であろうか」
連れて行け、というように、控えていた男二人に向かって手を振る。立ち上がった村人は、キリトとユージオの襟首を掴むと、後ろに向かって引きずりはじめた。それに抗いながら、キリトが尚も叫ぶ。
「じゃ……じゃあ、俺たちも同罪だ!! 俺たちも同じ場所にいた! 連れていくなら俺たちも連れていけ!!」
だが、もう整合騎士は二人には見向きもしない。
そうだ……アリスが禁忌を犯したというなら、僕だって同じ罰を受けるべきた。ユージオもそう思った。心の底からそう思った。
しかしなぜか声が出ない。キリトと同じように叫ぼうとするのに、口の動かし方を忘れてしまったかのように、掠れた息しか吐き出すことができない。
アリスはちらりとこちらを振り返ると、大丈夫だよ、というふうに小さく微笑み、頷いた。
その細い体に、表情を失った父親が、後ろから禍々しい拘束具を回した。三本のベルトを、肩、腹、腰にそれぞれ固く締め付ける。アリスの顔がほんの少し歪む。最後に、太い鎖の下端についた手錠を手首に嵌め、ガスフトは娘を整合騎士に差し出した。騎士の握った鎖が、じゃらりと鳴った。
ユージオとキリトは広場の中央まで引き戻され、そこで跪かされた。
キリトはよろけた振りをしてユージオの耳に口を寄せ、素早く囁いた。
「ユージオ……いいか、俺がこの斧で整合騎士に打ちかかる。数秒間は持ちこたえてみせるから、そのすきにアリスを連れ出して逃げるんだ。麦畑に飛び込んで、南の森を目指せばそう簡単には見つからない」
ユージオは、まだキリトが握ったままだった古ぼけた木こり斧をちらりと見てから、どうにか声を絞り出した。
「……キ……キリト……でも」
昨日、お前だって整合騎士のすさまじい剣技を見たじゃないか。そんなことをすれば、たちまちのうちに殺される……あの黒騎士のように。
声にできないユージオの思考を読み取ったかのごとく、キリトは続けて言った。
「大丈夫だ、あの騎士はアリスをこの場で処刑しなかった。多分、審問とやらをやらないと殺したりできないんだ。俺はどこかで隙を見て逃げ出す。それに……」
キリトの燃えるような視線の先では、整合騎士が拘束具の締まり具合を確認していた。ベルトを引っ張られるたびに、アリスの顔が苦痛にゆがむ。
「……それに、失敗してもそれはそれでいい。アリスと一緒に俺たちも連行されれば、助けるチャンスがきっとくる。でもここで、飛竜で連れていかれたらもう望みはない」
「それ……は……」
確かにその通りだ。
しかし――その計画とも言えないような無謀な作戦は、つまるところ――“教会への反逆”ではないのだろうか? 禁忌目録第一条第一項に規定された、最大の背教行為。
「ユージオ……何を迷うことがあるんだ! 禁忌がなんだ!? アリスの命より大切なことなのか!?」
キリトの、抑えられてはいるが切迫した声が、びしりと耳朶を打つ。
そうだ。その通りだ。
ユージオは心のなかで、自分に向かって叫ぶ。
キリトの言うとおりだ。僕たち三人は、生まれた年も一緒、そして死ぬ年も一緒と決めていたはずだ。常に助け合い、一人がほかの二人のために生きようと、そう誓い合ったはずだ。ならば、迷うことなんかない。神聖教会と、アリスと、どちらが大事か、だって? 答えなんか決まっている。決まっているはずだ。それは――それは――。
「ユージオ……どうしたんだ、ユージオ!!」
キリトが悲鳴にも似た声をあげる。
アリスがじっとこちらを見ている。気遣わしそうな顔で、そっと首を横に振る。
「それは……それ……は……」
自分のものではないような、しわがれた声が喉から漏れる。
だが、その先を言葉にすることができない。胸のなかですら、続く言葉が言えない。まるで、誰かが知らないうちに、心の奥に堅固なドアを作ってしまった、とでも言うかのように。
キリトの叫びに気づいた村長が、のろのろと腕を動かし、二人の背後に立つ男たちに向かって言った。
「その子供らを広場の外に連れていけ」
途端、ふたたび襟首を掴まれ、引きずり起こされる。
「クソッ……放せ!! ――村長!! おじさん!! いいのか!? アリスを連れていかせていいのか!!?」
キリトは狂ったようにもがき、男の手を振り払うと、斧を構えて突進しようとした。
が、いつのまにか近づいてきていた、更に数人の男たちが背後から飛び掛ると、キリトを地面に引き倒した。斧が手から離れ、石畳に擦れて火花を散らした。
「ユージオ!! 頼む!! 行ってくれ!!」
片頬を地面に押し付けられ、表情をゆがめながら、キリトが叫んだ。
「あ……うあ……」
ユージオの全身ががたがたと震える。
行け。行くんだ。斧を拾い、整合騎士に打ちかかるんだ。
心の片隅から、かすかな声がそう叫ぶ。だが、それを圧倒的な力で打ち消すもうひとつの声が、割れ鐘のようにがんがん鳴り響く。
神聖教会は絶対である。禁忌目録は絶対である。逆らうことは許されない。何人にも許されることではない。
「ユージオ――!! いいのかそれで!!」
整合騎士は、最早騒ぎには目も呉れずに、握った太鎖の先端の金属環を、飛竜の脚を覆う鎧から突き出した金具にがちりと留めた。飛竜が首を低く下げ、その背中の鞍に騎士は軽々とまたがる。全身の鎧が一際大きくがしゃりと鳴る。
「ユージオ――――!!」
血を吐くようなキリトの絶叫。
白い飛竜が体を起こし、畳んでいた翼をいっぱいに開く。二度、三度、大きく打ち鳴らす。
竜の脚に縛り付けられたアリスが、まっすぐにユージオを見た。微笑んでいた。その青い瞳が、さようなら、と言っていた。翼の巻き起こした風がゆわえた金髪を揺らし、騎士の鎧にも負けないほどにきらりと輝かせた。
しかしユージオは動けない。声も出せない。
両の脚から地面に深く根が張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。
(第一章 終)