エピローグ 「トゥルー・リアル」
その向こうの宇宙を感じさせるほどに、高い空だった。
この、「空の高さ」だけはいかなるVR世界でも再現することはできない。過ぎ去った秋が忘れていったような、濃く澄んだ青のなかに、小さな羊雲と筋雲が層をなしてぽつんと浮かんでいる。細い電線のうえで雀が二羽肩を寄せ合い、遥かな高みを往く軍用機がちかりと陽光を跳ね返す。
精神が吸い込まれそうな、途方もない奥行きをもつパースペクティブに、詩乃は飽くることなく見入りつづけた。
12月半ばにしては風もぬるく、放課直後の生徒たちの喧騒もこの校舎裏にまでは届かない。いつもは薄く灰色がかって見える東京都心の空だが、今日だけは故郷の北の町と似た色に見えた。黒い土が剥き出しになった殺風景な花壇の端に腰掛け、膝のうえに通学鞄を抱えて、詩乃はもう10分近くも無限の空間に心を浮遊させている。
しかしやがて、甲高い笑い声とともに複数の足音が近づいてきて、詩乃を地上に引き戻した。
強張った首の角度を戻し、白いマフラーをぐいっと引っ張り上げて、闖入者たちを待ちうける。
校舎の北西端の角と、大型焼却炉のあいだの通路から姿を現した遠藤と二人の仲間たちは、詩乃を見つけると一様に唇を歪め、嗜虐的な笑みを形作った。
鞄を左手で持ち、立ち上がると、詩乃は言った。
「呼び出しておいて待たせないで」
それを聞いた取り巻きのひとりが、厚ぼったい目蓋を高速でしばたかせてから、笑みを消して喚いた。
「朝田さぁー、最近マジちょっと調子のってない?」
もうひとりも、似たようなイントネーションで追従する。
「ほんとー、友達に向かってそれちょっとひどくない?」
詩乃から1メートルほど離れた場所に立ち止まった三人は、それぞれが効果的と思っているのであろう角度から、威圧するような視線を向けてきた。詩乃はとりあえず中央に立つ遠藤の、捕食昆虫じみた細い目をじっと見つめた。
沈黙は数秒しか続かなかった。すぐに遠藤はにいっと笑うと、あごを突き出して言った。
「別にいいよ、トモダチなんだから何言っても。そんかしさあ、あたしらが困ってたら助けてくれるよな。つうか今、超困ってんだけど」
それを聞いて、左右の二人が短く笑う。
「とりあえず、2万でいいや。貸して」
消しゴム貸して、と言う時のように何気ない調子で、遠藤は要求を口にした。
詩乃は視線に力を込め、一語ずつ区切りながら答えた。
「あなたに、お金を貸す気は、ない」
途端、遠藤の目がきゅっと細められ、ほとんど糸のようになった。その隙間から粘りけのある眼光を放射しながら、一段と低い声で言う。
「……いつまでもチョーシくれてんじゃねえぞ。言っとくけどな、今日はマジで兄貴からアレ借りてきてんだからな。泣かすぞ朝田」
「……好きにしたら」
まさか本当にそこまでの事を、と詩乃は思ったが、驚いたことに遠藤はぎゅっと唇の両端を吊り上げると、鞄に右手を差し込んだ。
大量のマスコット類がじゃらじゃらとぶら下がる女子高生仕様の鞄から、唐突に黒い自動拳銃が出現する光景は、ある種のパラノイアックなユーモアを感じさせた。覚束ない手つきで大型のモデルガンを引っ張り出した遠藤は、右手に握ったそれをぐいっと詩乃に突きつけた。
「これ、マジで弾出るんだぜ。絶対人に向けんなって言われたけどさぁ、朝田は平気だよな。慣れてるもんな」
詩乃の目は、自然に黒い銃口に吸い寄せられた。遠藤の声は、水の膜を隔てたように歪んで聞こえた。
たちまち、心臓の鼓動が跳ね上がる。耳鳴りが周囲の音を遠ざける。呼吸が浅くなり、指先から冷気が這いのぼる――
しかし詩乃はぐっと奥歯を噛み締め、全精神力を振り絞って、瞳を銃内部の闇から逸らした。
グリップを握る遠藤の右手から、その腕へと視線を動かしていく。肩から、色の抜けた髪、そして顔へと辿っていく。
遠藤の目は、興奮のせいか毛細血管が浮き上がり、虹彩は黒く濁っていた。
醜い眼の色だった。単に暴力に酔う者の眼だと思った。
本当に恐れるべきは、銃ではない。それを持つ人間のほうだ。
詩乃が期待したような反応を見せないせいか、遠藤は苛立ったように唇を曲げ、吐き捨てた。
「泣けよ朝田。土下座して謝れよ。ほんとに撃つぞてめえ」
ぐいっとモデルガンを詩乃の足に向け、右腕に力を込めた。肩から腕にかけてがぴくりと震え、引鉄を引こうとしたのが詩乃にはわかった。しかし、弾は出なかった。
「クソッ、何だよこれ」
二度、三度と撃とうとしたが、トリガーは動かないらしい。
詩乃は大きく息を吸い、ぐっとお腹に力を込めると、鞄を足元に落とし、手を伸ばした。
左手の親指で遠藤の右手首を強く押さえ、握力が緩んだところを、右手で銃を奪い取る。トリガーガードに人差し指を掛けてくるりと回すと、すぽっとグリップが掌に収まった。プラスチック製なのだろうが、ずしりと重く感じた。
「1911ガバメントか。お兄さん、渋い趣味ね。私の好みじゃないけど」
呟いて、銃の左側面を遠藤に向ける。
「ガバメントは、サムセーフティの他にグリップセーフティもあるから、こことここを解除しないと撃てないわ」
カチリ、カチリと音をさせて二箇所の安全装置を外す。
「それに、シングルアクションだから最初は自分でコッキングしないと駄目」
親指でハンマーを起こすと、硬い音とともにトリガーがわずかに持ち上がった。
唖然として目と口をぽかんと開けている遠藤たちから視線を外し、詩乃は周囲を見回した。6メートルほど離れた焼却炉の傍らに青いポリバケツが並び、そのうちの一つにジュースの空き缶が乗っているのが目に止まった。
両足を開き、左手をグリップに添える。右目と照門、照星が作る直線上に空き缶を捉える。少し考えてからわずかに銃を上向け、息を溜めてからトリガーを絞った。
ばす、という頼りない音とともに、ささやかなリコイルが手に伝わった。感心なことにガバメントはきちんとブローバックし、オレンジ色の小さな弾が発射された。
銃のクセがわからなかったので初弾は外すものと思ったが、運良くタマは空き缶の上部ぎりぎりの場所に当たって、詩乃は内心で少し驚いた。くわん、と高い音を響かせて空き缶はくるくるとコマのように回り、やがて倒れて、バケツから転がり落ちた。
詩乃はふう、と息をつくと銃を下ろした。体の向きを変え、正面から遠藤を見る。
嗜虐的な笑みはあとかたもなく消えていた。遠藤は完全に毒気を抜かれたように呆然としていたが、詩乃がずっとその目を見つづけていると、怯んだように口もとを強張らせ、半歩あとずさった。
「や……やめ……」
上ずった声が漏れるのを聞いて、詩乃はふっと視線を緩めた。
「……確かに、人には向けないほうがいいわ、これ」
言いながらハンマーをデコックし、二つのセーフティを元に戻す。グリップを向けて差し出すと、遠藤はビクリと体を震わせたが、おそるおそるというふうに手を伸ばし、モデルガンを受け取った。
詩乃は振り向くと鞄を拾い、ぐいっとマフラーを引き上げた。じゃあね、と肩越しに言葉を投げ、歩き出したが、遠藤たちは動かなかった。校舎の角を曲がり、視界から姿が消えるまで、三人は無言のまま立ち尽くしていた。
遠藤たちが見えなくなった途端、両脚からすうっと力が抜けて、詩乃はその場にへたりこみそうになった。校舎の壁に手をついて、どうにか堪える。
耳の奥がごうごうと鳴り、こめかみで血流が激しく脈打つのを感じた。今おなじことをもう一度やれと言われても絶対に出来ないと思った。込み上げる胃液で、喉のおくが焼けた。
それでも、しゃがみ込むこともなく、詩乃は無理矢理に歩行を再開した。モデルガンの冷たい重さはしつこく掌に染み付いて去ろうとしなかったが、乾いた寒風にさらしているうちに、少しずつ薄れ始めた。
校舎の西昇降口と体育館を繋ぐ渡り廊下を横切り、しばらく歩くとグラウンドの端に出る。運動部の生徒が掛け声とともにランニングしている横を通り過ぎ、グラウンド南側の小さな林を通り抜けるともう、正門前の広場である。
生徒たちが三々五々連れ立って帰途につくなかを、早足で縫いながら校門に向かおうとして、詩乃はふと首をかしげた。
学校の敷地を囲む高い塀の内側に、いくつかの女子生徒の集団が足を止め、ちらちらと校門のほうを見ながら顔を寄せ合って何事か話している。
そのうちの二人が、同じクラスでそこそこ仲の良い生徒たちであるのに気付いて、詩乃は彼女らに歩み寄った。
黒縁眼鏡を掛けたロングヘアの生徒が、詩乃に気付き、にこっと笑って手を上げた。
「朝田さん、今帰り?」
「うん。――何、してるの?」
聞くと、栗色の髪をふたつに束ねたもう一人が、肩をすくめて笑いながら答えた。
「あのね、校門のとこに、このへんの制服じゃない男の子がいるの。バイク停めて、ヘルメット二つ持ってるから、ウチの生徒を待ってるんじゃないか、って。お相手の剛の者が誰だか、悪趣味だけど興味あるじゃない?」
それを聞いて、詩乃はサーッと血の気が引くのを意識した。慌てて時計を確認し、いやまさか、と内心で必死に否定する。
確かにこの時間に学校を出たところで待ち合わせはしたし、電車代が勿体無いのでバイクで送迎しろとも言った。しかしよもや、校門のど真ん前にバイクを止めて待ちうけるような、あまりにも大胆不敵な真似を――
――あの男なら、やりかねない。
おそるおそる塀に体を寄せ、校門の向こう側の車回しを覗き見てから、詩乃はがくりと肩を落とした。スタンドを降ろした派手な色のバイクに寄りかかり、ヘルメットを両手で抱えて、ぽけーっと空を眺めている見知らぬ制服の男子生徒は、間違いなく一昨日に会ったばかりのあの男だった。
十人以上に注視されている状況で自分から声を掛け、バイクの後ろに乗ることを考えると耳の先端までが燃え上がるように熱くなった。この場からログアウトしてしまいたい、と心の中で呟いてから、詩乃はなけなしの度胸を振り絞り、傍らの同級生に向き直った。
「ええと……あの……アレ、私の……知り合いなの」
消え入るような声で告げると、女子生徒の眼鏡の奥で目が大きく見開かれた。
「えっ……朝田さんだったの!?」
「ど、どういう知り合い!?」
もう一人も驚愕の叫びを上げる。その声に周囲の視線が集まるのを意識して、詩乃は鞄を抱えると限界まで肩を縮め、
「ご……ごめんなさいっ」
何故か謝りながら小走りに駆け出した。
明日説明しなさいよーという声を背中に受けながら、古めかしいブロンズの校門をくぐり、車回しに出る。
すぐ傍まで接近しても、豪胆なるストレンジャーことキリトは、呆けたように青い空に見入っていた。
「……あの」
声を掛けると、ぱちぱち瞬きしてからようやく視線を戻し、のんびりとした笑顔を浮かべる。
「やあ、こんにちは、シノン。いい天気だね」
こうして明るい陽光の下で改めて見ると、現実世界のキリトは、少々浮世離れした透明な雰囲気を持つ少年だった。少し長めの黒い髪と、対照的に色素の薄い肌、びっくりするほど細い体は、どことなく仮想世界で見たバーチャル体と共通する少女っぽさを漂わせている。
その希薄感、言い換えればどこか病的な気配は、彼が経験した二年間の虜囚生活をまざまざと思わせて、詩乃は思わず浴びせようとした舌鋒を収めていた。
「……こんにちは。……お待たせ」
「いや、さっき着いたところだよ。――それにしても……なんか……」
キリトはようやく校門の周囲からこちらを見守る生徒たちに気付いたように、視線を巡らせる。
「……注目されてるような……」
「あ……あのねえ」
それでも少し呆れ声になりながら詩乃は言った。
「校門の真ん前に他校の生徒がバイクで乗りつけたら、目立つのは当たり前だと思う」
「そ……そういうもんか。じゃあ……」
不意に少年は、仮想世界でよく見せたような、片頬だけのシニカルっぽい笑みを浮かべる。
「もう少しここで粘ってたら、生活指導の先生とかが飛んできて怒られたりするのかな? それはちょっと楽しそうだな」
「じょ……冗談じゃないわ!」
実際有り得ないことではない。詩乃は反射的に校門のほうを振り返ってから、声を低くして叫んだ。
「さ、さっさと行くわよ!」
「へいへい」
相変わらず笑みを浮かべたまま、キリトはハンドルに掛けられていたライトグリーンのヘルメットを取ると、詩乃に差し出した。
コイツの中身は、ゲーム内で見せた不敵な皮肉屋と一緒なのだ、外見にダマされてはいけないとしみじみ思いながら詩乃はヘルメットを受け取った。鞄を斜めに肩に引っ掛け、オープンフェイスタイプのそれをすぽっと被ったところで、あご下のハーネスの留め方がわからず手を止める。その途端、
「ちょっと失礼」
キリトの手が伸びてきて、手早く詩乃の首もとでベルトを固定した。再び顔が熱くなり、慌ててシールドを降ろす。明日、教室で説明を求められたときのことが思いやられた。
自分も黒いヘルメットを装着し、ひょいっとシートに跨ったキリトが、ふと首を傾げた。
「……シノン、その……スカートは大丈夫?」
「体育用のスパッツ穿いてるから」
「そ、そういう問題かなあ」
「別にあんたからは見えないでしょ」
キリトに一矢報いておいて、詩乃は勢いよくバイクのリアシートに跨った。子供の頃によく祖父のおんぼろスーパーカブ90の後ろに乗っていたので、要領は身についている。
「ほんじゃ、まあ……しっかり掴まっててください」
キリトがキーを捻ると、いまどき内燃機関の甲高い爆音が響いて、再び首を縮める。しかし、腰に伝わる振動と排気の匂いは懐かしいもので、思わずバイザーの奥で微笑みながら、詩乃は骨ばったキリトの体にぎゅっと手を回した。
学校がある文京区湯島から、目的地の中央区銀座までは、地下鉄を乗り継ぐと少々大変だが、地上を行くなら案外と近い。
御茶ノ水から千代田通りを下りて皇居に出ると、バイクは安全運転でとろとろとお堀端を走った。小春日和が幸いして、吹き過ぎる風も気持ちいい。大手門前を通過し、内堀通りから晴海通りに左折してJRの高架をくぐると、そこはもう銀座四丁目だ。
三輪バギーでモルターレから逃げたときのスピードと比べると亀の歩みだったが、それでもほんの十五分たらずで目的地に到達し、キリトはバイクを停めた。
外したヘルメットを手に持ったまま案内された先は、詩乃がかつて足を踏み入れたことがない種類の、いかにも高級そうな喫茶店だった。ドアを押し開けた途端、白シャツに黒蝶タイのウェイターに深々と頭を下げられてわずかに狼狽する。
お二人様ですか、とウェイターに聞かれて、これではまるで……と更に泡を食ったところで、店の奥から、シックな雰囲気をぶち壊す傍若無人な大声がした。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
「……えーと、アレと待ち合わせです」
キリトが言うと、ウェイターは表情ひとつ変えずに、かしこまりました、と一礼して歩きはじめた。買い物途中のご婦人たちで溢れる店内に制服姿の高校生はいかにも場違いで、詩乃は体を縮めながらぴかぴかに磨かれた床板の上を歩いた。
テーブルで二人を待っていたのは、ダークブルーのスーツに華奢な黒縁眼鏡の、背の高い男だった。事前に役人と聞かされてはいたが、確かにいかにもホワイトカラーといった雰囲気と同時に、どこか学者めいたところもある。
立ち上がり、右手で椅子を示す男の仕草に従って向かいの窓際に腰を下ろすと、即座に湯気を立てるお絞りと革張りのメニューが出現した。
「さ、何でも頼んでください」
という男の声に促されるようにメニューを開き、視線を落として、詩乃は唖然とした。サンドイッチやパスタといった軽食類はもちろん、デザートの欄にもおしなべて四桁の数字が並んでいる。
凍り付いていると、隣でキリトが憮然とした声を出した。
「ほんとに遠慮しないほうがいいぞ。どうせ支払いは税金からなんだからな」
ちらりと視線を上げると、眼鏡の男もにこにこと頷いている。
「じゃ、じゃあ……この、レアチーズケーキ・クランベリーソース……と、アールグレイ」
うわあ合計2200円、と内心で蒼ざめながら詩乃がオーダーすると、続けてキリトが、
「俺はりんごのシブーストとモンブランとエスプレッソ」
などと信じられないことを言った。合計金額はもう想像するのも恐ろしい。
ウェイターが深々と腰を折ってから立ち去ると、眼鏡の男はスーツの中から黒革のケースを取り出し、一枚抜いた名刺を詩乃に差し出した。
「はじめまして。僕は総務省仮想課の菊岡と言います」
豊かなテノールで名乗られ、詩乃も慌てて名刺を受け取り、会釈を返す。
「は、はじめまして。朝田……詩乃です」
言った途端、菊岡という男は口もとを引き締め、ぐいっと頭を下げた。
「この度は、こちらの不手際で大変危険な状況を招いてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「い……いえ、そんな」
再び慌てて詩乃が頭を下げ返すと、キリトが混ぜ返すように口を挟んだ。
「もっと謝ってもらったほうがいいぞ。菊岡サンがもっと真剣に調べてれば、俺もシノンもあんな目には合わなかったんだからな」
「……そう言われれば返す言葉もないが」
菊岡はやり込められた子供のように項垂れながらも、上目遣いに続ける。
「しかしキリト君だってまるで予想してなかったわけだろう? まさか、《死銃》が二人いた、なんてさ」
「そりゃあ……まあ、な」
キリトは、きい、とアンティークっぽい椅子の背もたれを鳴らした。
「……とりあえず、今までにわかったことを教えてくれよ、菊岡さん」
「と、言っても……まだ彼らの犯罪が明らかになってから二日しか経っていないのでね。全容解明には程遠いんだが……」
自分の前のコーヒーカップを持ち上げ、一口含んでから、菊岡は続けた。
「さっき二人と言ったけど、実際には三人いたわけだね。少なくとも、《死銃A》……こと新川亮一くんの供述では、三人ということになっている」
「その亮一氏が、俺とシノンをBoB本大会で襲撃したときのモルターレだったんだな?」
キリトの問いを菊岡は軽く首肯した。
「それはほぼ間違いないね。彼の自宅アパートから押収されたアミュスフィアのログにも、該当する時刻にガンゲイル・オンラインに接続していたことが記録されている」
「自宅アパート……。新川亮一というのは、どういう人間だったんだ? 首謀者は彼ということなのか?」
「……それを説明するためには、SAO事件以前から始めなくてはならないようだ。だが、まあ、その前に……」
ちょうどその時、ウェイターが華奢なワゴンに大量の皿を載せて戻ってきた。それらが音も無くテーブルに並べられ、ウェイターが下がるのを待って、菊岡は手振りで詩乃たちに勧めた。
食欲はあまりあるとは言えなかったが、小さなケーキのひとつくらいなら入りそうだった。キリトと揃っていただきます、と言ってから、金色のフォークを手に取る。
艶やかな赤いソースが添えられた乳白色の矩形の一端を切り取り、口にはこんだ。チーズを更に濃縮したかのような密度のある味が広がり、しかしそのわりには舌の上で滑らかに溶け去って驚かされる。レシピを知りたいと一瞬思ったものの、訊いても教えてくれるわけはないだろう。
つい夢中で半分ほど食べてしまってから、フォークを置いて紅茶のカップを持ち上げる。オレンジの風味が漂う熱い液体を少しずつ含むと、心の奥の凝り固まった部分が、少しずつほぐれていくような気がした。
「……おいしいです」
顔を上げて詩乃が呟くと、菊岡は嬉しそうに笑い、言った。
「おいしいものはもっと楽しい話をしながら食べたいけどね。また今度付き合ってください」
「は、はあ」
すると、モンブランの金褐色の山をみるみる低くしつつあるキリトが笑いを含んだ声で茶々を入れた。
「止めといたほうがいいぜ。この男の《楽しい話》はクサイかキモチワルイかどっちかだからな」
「し、心外だなあ。ベトナム食べ歩きの話とか自信あるんだが……ま、その前に事件の話をしておこう」
菊岡は胸ポケットから極薄型のPDAを取り出し、二つに開くと、銀色のスタイラスで画面をつつき始めた。
詩乃はわずかに体を緊張させて、どこか教師めいたところのある男の言葉を待った。
この《死銃》事件に関するすべてを知りたい、という気持ちはもちろんある。
しかし同時に、これ以上真実に触れたくない、と心の奥でつぶやく声もする。
多分、自分はまだ、ある部分では新川恭二のことを信じているのだ。あれほどの暴力を向けられた後でも、完全には恭二を憎みきれず、完全には恭二への好意を捨てきれない。あれは彼ではなく、彼の頭のなかに入り込んだ何者かの仕業なのだ――と信じたい自分がいる。そう、詩乃は感じている。
日曜から月曜へと日付けをまたいで起きたあの事件から、およそ四十時間が経過していた。
あの夜――キリトに促され、差し出されたティッシュで涙を拭い、半ば着せてもらうような形でどうにか服を身につけ終わったのとほぼ同時に、詩乃の部屋に警察が到着した。
頭を強打されて意識朦朧としていた新川恭二は、その場で逮捕され、救急車で病院に搬送された。
詩乃とキリトも、念のためということで別の病院に運ばれ、そこでひととおりの検査を受けることになった。いくつかの軽い擦過傷のほかはひとまず異常なし、と当直医師に告げられた直後、病室で事情聴取がはじまり、詩乃はぼんやりと紗のかかった頭をどうにか回転させて、実際に部屋であった事だけを告げた。
自覚はなかったが、詩乃の精神的ストレスが限界と見た医師の判断によって、警察の聞き取りは午前二時にいったん終了した。その夜はそのまま病室で一泊し、翌朝六時半に目が覚めた詩乃は、医師の勧めを断ってアパートに戻り、登校することにした。
病院を出る前に、教えてもらったキリトの病室を訪れたのだが、少年は身じろぎもせず熟睡していた。しばらく、案外とあどけない寝顔を眺めてから立ち去ろうとしたとき、様子を見に来た看護婦と鉢合わせたので少し言葉を交わした。
圧倒されるほど美人で肉感的なその看護婦は、どうやらキリトとは長い付き合いらしく、苦笑しながら漏らした「言っちゃなんだけど、病院のベッドが似合うコだよね」という言葉が印象的だった。
月曜の授業はうとうとしながら乗り切った。不登校継続中とは言え立派に学籍のある恭二の起こした事件は、とっくに学校にも伝わっているものと思っていたが、教師にも生徒にもそのことに触れる者はいなかった。
遠藤らの呼び出しを綺麗に無視してアパートに帰ると、警察の車が待っていた。着替えを持って向かった先は昨日と同じ病院で、医師による簡単な問診のあと、二回目の事情聴取があった。今度は詩乃のほうからも色々――主に恭二のことを質問したのだが、怪我はたいした事はない、警察に対してはほとんど黙秘している、という事くらいしか教えてもらえなかった。
「警備上の理由」によって詩乃はその夜も病院に泊まるようにと言われた。食事をし、シャワーを使ったあと、ロビーで実家の祖父母と母親に短い電話を入れてから、あてがわれた病室のベッドに横になった。その途端泥のように眠り込んだらしく、きれいに記憶が途切れている。なんだか長い夢を見たような気がするが、内容は覚えていない。
翌火曜――つまり今朝、およそ9時間の深い眠りのあと、午前五時に詩乃は泡が浮かぶように目を醒ました。濃い朝靄を透過してくる乳白色の光に誘われるように、ふたたびキリトの病室を訪ねたが、ドア脇のネームプレートはすでに空になっていた。
ナースステーションで訊いてみたところ、彼の事情聴取は月曜の朝にすべて終了し、すでに帰宅したとのことだった。わずかな失望を感じながら詩乃は病室に戻り、着替えると、ロビーでうつらうつらとしていた刑事に自分も帰宅すると告げた。
再び覆面パトカーでアパートまで送ってもらい、車から降りたところで、刑事にこれで一応聞き取りは終了だ、と言われた。それは有り難かったのだが、事件に関することを今後どうやって知ればいいのだろう……と思いながら登校の準備をし、朝食のためにトマトを切っていたところに、携帯電話が鳴った。キリトからだった。開口一番に、今日の放課後は時間あるか、と訊かれて、反射的にうんと答えていた。
そして今、詩乃は彼のとなりに座り、キリトの言う「情報筋」であるところの国家公務員の言葉を待っている。
菊岡は、PDAから顔を上げると、周囲を気遣ってか低い声で話し始めた。
「総合病院のオーナー院長の長男である新川亮一は、幼い頃から病気がちで、中学校を卒業する頃まで入退院を繰り返していたらしい。高校入学も一年遅れて……そのせいで、父親は早々に亮一を自分の後継ぎとすることを諦めて、四つ下の弟の恭二にその役目を与えたようだ。恭二には小学校の頃から家庭教師を付け、また自ら勉強を教えたりする一方で、亮一のことはほとんど顧みなかった。――そのことが少しずつ歪みを蓄積させて行った。兄は期待されないことで追い詰められ、弟は期待されることでまた追い詰められたのかもしれない……とは、事情聴取における父親本人の弁だが」
そこで一度言葉を切り、菊岡はコーヒーで唇を湿らせた。
詩乃は視線をテーブルに落とし、「親の期待」というものを想像しようとしてみた。しかし、実感することはできそうになかった。
あれほど近くにいながら、恭二がそのようなプレッシャーに晒されていたことにはまるで気付かなかった。自分のストラグルにばかり一生懸命で、ひとを本当に見ようとしていなかった――とまたしても意識させられ、詩乃は胸に苦い痛みをおぼえる。
菊岡の話は続いた。
「――しかし、そういう境遇でも、兄弟仲は悪くなかったようだ。亮一は、高校を中退してからは精神の慰撫をネットワークの中、ことにMMOゲームに求め、その趣味はすぐに弟にも伝播した。やがて兄はソードアート・オンラインの虜囚となり、二年のあいだ父親の病院で昏睡するのだが、生還してからは、彼は恭二にとってはある種の偶像……英雄化、と言ってもいいかな、そういう存在になったようだ」
となりに座るキリトの呼吸に、わずかな緊張が含まれたのに詩乃は気付いた。しかし菊岡の低く滑らかな声は、小さなな間を置いただけで淡々と続いていく。
「亮一は、生還後しばらくはSAOのことには一切触れなかったようだが、リハビリが終了し、自宅に戻ってから、恭二にだけ語ったそうだ。自分がいかにあの世界で多くのプレイヤーをその手にかけ、真の殺戮者として恐れられたか……ということをね。その頃すでに、成績の下降や上級生からの恐喝などによる重圧を受けていた恭二にとって、亮一の話は嫌悪ではなく解放感、爽快感をもたらすものだったようだね」
「……あの」
詩乃が小さな声を出すと、菊岡は顔を上げて続きを促すように軽く首を傾けた。
「そういうことは……新川くん、いえ、恭二くんが話したんですか?」
「いや、これらは兄の供述に基づく話です。亮一は警察の取り調べに際して饒舌なまでに喋っているらしい。弟の心情の推測も含めてね。しかし恭二のほうは対照的に、完全な黙秘を続けている」
「……そうですか」
恭二の魂が、どのような地平を彷徨しているのかは、詩乃にはもう想像のしようもない。そんなわけはないのだが、いまGGOにログインしてみたら、溜まり場になっていた酒場の隅にうずくまるシュピーゲルが居るのではないか……という気すらする。
「あ、どうぞ……続けてください」
詩乃の言葉に頷き、菊岡は再びPDAをちらりと眺めた。
「兄弟にとってのポイント・オブ・ノーリターンがどこなのかは、推測によるしかないのだが……恭二に誘われてガンゲイル・オンラインを始めた亮一は、始めの頃はそれほど熱心にはプレイしていなかったそうだ。フィールドに出るよりは、街でほかのプレイヤーを観察して、殺し方を想像するのが楽しかった、と彼は言っているね。九月のはじめ頃、いつものように双眼鏡で他のプレイヤーを覗き見ていた亮一は、観察対象が操っていたゲーム内端末の画面に、現実の住所が表示されているのに気付いた。反射的に記憶し、ログアウトして書きとめたが、その時点では具体的にどうしようとは思っていなかったようだ。プレイヤーの個人情報を盗むという行為そのものが彼を興奮させ、それ以降、連日何時間もその場所――総督府? に貼りついては、住所を打ち込むプレイヤーを待ちつづけた。最終的には、十六人の本名と住所を手に入れたということだ。その……朝田詩乃さん、あなたの情報も含めて」
「…………」
詩乃は小さく頷いた。九月はじめ、ということは第一回BoBの直後だ。十月にあった第二回とあわせて六十人の本大会出場者のうち、賞品にモデルガンを選んだ者は多くても四十人というところだろう。そのうち十六人もの情報を盗みおおせるとは、恐るべき妄執というより他にない。
「十月のある日、恭二は亮一に向かって、自分のキャラクターの育成が行き詰まっていることを打ち明けた。《ゼクシード》という名のプレイヤーが広めた偽情報のせいだ、と盛んに恨みを口にしたらしいね。そして、亮一は、そのゼクシードの本名と住所を入手していることを思い出し、恭二にそれを教えた」
リアルとヴァーチャルが混沌と溶け合い、あらたな貌を見せる。足元の地面が硬度を失い、自分と外界を分ける境界線が定かでなくなる。おそらく、ゼクシードの本名を知った恭二が感じたのであろうその「移相」感覚は、詩乃があのとき――砂漠の洞窟で、キリトの口から現実の自分の体に迫る脅威を知らされたときに味わったものとほとんど同質だったのではないか。
現実感の喪失によって詩乃は激しい恐怖をおぼえ、そして恭二は――何を得たのだろう。
「どちらか一方が考えたことではない、と亮一は言っているね」
菊岡の声が滑らかに詩乃の耳もとを通過していく。
「二人で、どのようにして個人情報をもとにゼクシードを粛清するか、あれこれ言い合っているうちに、《死銃》計画の骨子が出来上がったそうだ。しかしそれでも、最初は単なる言葉の遊びだったのだと、彼は主張している。ゲーム内で銃撃すると同時に、現実でプレイヤーを殺す……言うのは簡単だが、実現にはいくつもの困難がともなう。二人は連日のように議論し、ひとつ、またひとつと机上のハードルをクリアしていった。十六人のうち、一人暮らしのプレイヤーの選別。高性能なピックガンの入手方法。最難関は注射器と薬品の入手だったが、それも父親の病院から盗み出す算段がついた。計画の細部が決定したら、今度は実際に準備を整える段階に進んでみた。無理だろうと思っていたが、やってみたら意外になんとかなった。――それらの過程自体がゲームだったんだ、と亮一は供述している。SAOで、標的パーティーの情報を集め、必要な装備を整え、襲撃を実行するのと何も変わらない、と。自分の供述を取っている刑事に向かって、あんたも同じだろう、とも口にしたようだ。NPCの話を聞き、情報を集め、賞金首を捕らえて引き渡し、金を得る。警官のやってることだってゲームと一緒じゃないか、とね」
「額面どおり受け取らないほうがいいぜ」
不意にキリトがぽつりと呟いた。菊岡がかすかに眉を動かす。
「そうかい?」
「ああ。その亮一氏はある部分では本当にそう思っているのかもしれないが、《赤眼のザザ》だったときの奴は、これはゲームなんだと自分と周囲に強弁しながらも、プレイヤーの死が現実のものと理解していたからこそあそこまで殺人行為に魅せられたんだ。仮想世界にいるときも、現実世界にいるときも、都合の悪い部分だけはリアルじゃないと信じ込むことで、支払うべき代償から逃げている。VR世界のダークサイド……なんだろうな。現実が、薄くなっていく」
「フムン。君は……君の現実はどうなんだい?」
いつもの皮肉そうな笑みを浮かべる、と思いきや、キリトは至極真剣な顔でじっと宙の一点を見つめた。
「……あの世界に置いてきたものは、確実に存在する。だからその分、今の俺の質量は減少している、とは思う」
「戻りたい、と思うかね?」
「聞くなよ、そういうことを。悪趣味だぜ」
今度こそキリトは苦笑すると、ちらりと詩乃を見た。
「――シノンはどうなんだ、そのへん?」
「え……」
唐突に話を振られ、詩乃はしばし戸惑った。思考を言葉にする、という行為にはさっぱり慣れていない。それでもどうにか、感じたことをそのまま口にしようと努力した。
「ええと……キリト、あなた言ってることがこのあいだと違うわ」
「え……?」
「仮想世界なんかない、ってあなた言った。その人のいる場所が現実なんだ、って。VRMMOゲームは一杯あるけど、その世界ごとにプレイヤーが分割されてるわけじゃないでしょ? いま私のいる、この……」
右手を伸ばし、指先で軽くキリトの左腕に触れる。
「この世界が、唯一の現実だわ。もしここが、実はアミュスフィアの作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実……ってことだと思う」
キリトは目を見開き、詩乃が気恥ずかしくなるほどの時間、ずっと視線を合わせていたが、やがて珍しくシニカルさの欠片もない――と見える――笑みを唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
ちらりと菊岡を見やり、
「今の言葉、ちゃんとメモっとけよ。この事件において唯一の価値ある真理かもしれないぜ」
「――からかわないで」
右手を握り、どんとキリトの肩を小突いてから正面を向く。何故か菊岡もじっと詩乃を見ていて、いたたまれなくなって空になったケーキ皿を凝視する。
「いや、本当に、その通りだね。亮一にとっては――それがまったく逆だったのかな。自分のいない場所こそが、現実……」
「あの男は、BoBの前日に俺に言った。自分はSAOで多くのプレイヤーを殺したから、この世界でも同じように殺せるのだと……。あの男も……まだアインクラッドから完全には戻っていなかったのかもしれない。――世界創造、という茅場晶彦の計画は、あの城が崩壊したあとにこそ実現するものだったのかもな……」
「怖いことを言うね。彼の死に方にはまだまだ謎が多い……が、今度の事件には関係ないだろう。話を戻すと……亮一には、計画実現のための準備が完了した段階から、実際に目標の部屋に侵入して薬液を注射する段階に移るにあたって、心理的障壁はほとんど無かったようだ。最初の犠牲者……ゼクシードこと新保氏に直接手を下したのは亮一のほうだ。11月9日午後11時15分ごろ、ピックガンを使って鍵を破り侵入。同30分、MMOフラッシュに出演するためアミュスフィア使用中だった新保氏の顎の裏側に高圧注射器で薬液を注入した。使われたのは塩化スキサメトニウム、またはサクシニルコリンと呼ばれる筋弛緩剤で、新保氏の肺と心臓は即座に停止して死に至っただろうということだ。つまり、同時刻、GGO内でゼクシードを銃撃したのは《死銃B》こと弟の恭二……ということになる」
恭二の名を聞いて、詩乃はぴくりと肩を震わせた。
一昨日の夜、詩乃のうえに跨って、ゼクシードに対する怨嗟をぶちまけた彼の声が耳の奥に甦る。
ゼクシードの流した情報によってステータスの配分を誤り、「最強」足りえなくなったことが、現実世界で彼を苛め、金を脅し取った上級生たち以上に許せなかったのだろうか。
いや――そうではなく……恭二にとっての「現実」はそのとき既に……
「二人目の犠牲者、薄塩たらこ氏のときも、現実世界での実行役は亮一だった。手口はほとんど同一。彼らは標的に、いくつかの条件を共有する7人を選び出したんだ。首都圏在住、一人暮らしで、ドアの鍵が破りやすい旧式のピンシリンダー錠、あるいはドア周辺に合鍵を隠している……」
「それを調べるだけでも大変な苦労だな」
キリトの嘆声に、菊岡も眉をしかめて頷く。
「多大な時間と労力を費やしただろうね。――しかし、二人の命を奪っても、《死銃》の噂を真剣に受け止めるプレイヤーは殆ど居なかったようなんだ」
「ええ……みんな、下らないデマだと思ってました。――私も」
詩乃が呟くと、菊岡は大きく首肯した。
「そうだろうね。私とキリトくんも、色々な可能性を考えたんだが、結論としては噂の産物だろう、ということになってしまった。もっとも、推測のアプローチからして間違っていたわけなんだが……」
「せめて……一日だけ早く真実に気付いていれば、次の犠牲者が出るのは防げたはずだったのに……」
痛切な響きのあるキリトの言葉に、詩乃は顔を上げないまま呟いていた。
「――でも、私は助けてくれたわ」
「いや、俺は何もできなかったよ。君自身の力さ」
ちらりとキリトに視線を投げてから、そう言えばまだちゃんとお礼を言ってなかったなあ、と考えていると、菊岡が再び口を開いた。
「君達の頑張りがなければ、事件が発覚するまでにリストの7人全員が犠牲になっていたことは想像に難くない。あまり自らを責めないでくれたまえ」
「別に責めちゃいないけどな……。ただ、これでまたVRMMOの評判が悪くなると思うと残念なだけさ」
「それで立ち枯れるほど、あのザ・シードってやつから出た芽はひ弱じゃないだろう。今や無数の苗が寄り集まって大樹のごとき様相だよ。まったく、どこの誰があんなものをばら撒いたのやら」
「……さて、ね。それより、先に進んでくれよ」
キリトは咳払いをすると、菊岡を促した。
「ああ……と言っても、あとはもう君達も知っていることだと思うがね。――死銃の脅威が一向に広がらないことに業を煮やした二人は、一層派手なデモンストレーションに打って出ることにした。第三回の最強者決定戦、通称バレット・オブ・バレッツにおいて、一挙に三人を銃撃する計画を立てたんだ。狙われたのは……プレイヤー名《ザッパ》、《カコートン》、それに、《シノン》……あなたです」
「…………」
詩乃はこくりと頷いた。四人目の犠牲者となったカコートンの名前は、もちろん知っていた。MG42軽機関銃使い、片方の目に精密射撃用光学デバイスをインプラントしていて、正面突破力に定評のある実力派だった。
彼のビア樽のような体躯と髭面を思い出し、心の中で冥福を祈ってから、詩乃はあることに気付いて口を開いた。
「あ……そう言えば、これは偶然かもしれないんですけど……」
「なんですか?」
「ターゲットの7人に共通する条件がもうひとつあるかもしれません。私を含めて狙われたのは全員、ステータスタイプが非AGI型なんです」
「ほう……? それは、どういう……?」
「新川君……いえ、恭二君は、純粋なAGI型で、そのせいでプレイに行き詰まっていました。多分、他のタイプ……特にSTRに余裕のあるプレイヤーに対しては複雑な感情があったと思います」
「ふむう……」
菊岡は絶句し、しばしPDAの画面を見つめた。
「つまり……動機は何からなにまでゲーム内に起因するもの……ということですか。これは検察も起訴に苦労するだろうなあ……。しかしなあ……」
信じられない、というように頭を振る。そこに、キリトが嘆息気味の言葉を発した。
「いや……有り得ることだ。MMOプレイヤーにとって、キャラクターのステータスというのは絶対の価値基準だからな。悪戯のつもりで、ウインドウ操作中の仲間の腕を叩いてポイントアップの操作をミスらせて、そのせいで何ヶ月も殺し合いを続けてる……もちろんゲーム内でだけど……ほどの大喧嘩になった奴らを知ってるよ」
それは詩乃にも深く納得できる話だった。しかし菊岡は目を丸くしたあと、再び左右に頭を振った。
「これは検察官と弁護士、それに判事もいちどVRMMOにダイブする必要がありそうだな。いや――法整備までも考慮するべき時、なのかな……。ま、それは我々が考えることではないがね。えーと、どこまで話したっけ」
PDAを突付き、軽く頷く。
「そうそう、三人を標的に選んだ、ってとこだね。――しかし、前の二件と違って、BoB本大会中の計画実行には、大きな障壁があった。ゲーム内の《モルターレ》と、ゲーム外の実行役との間で連絡が取れないので、双方の射撃時間を一致させるのが困難だったんだね。それを一応解決したのが、ゲーム外でも視聴可能なストリーム中継だったんだが……」
「それでもまだ難しいよな。移動の問題がある」
口を挟んだキリトは、苦い顔で眉をしかめた。
「俺はそこを見落とした。てっきり死銃は二人だと思い込んで……」
「そう、そうなんだ。ターゲットには最も自宅の近い三人を選んだらしいんだが、ザッパの自宅がある新宿区四谷と、朝田さんの住む文京区湯島はそう遠くないものの、カコートンの自宅は川崎市の武蔵小杉でね。しかも、今まではモルターレ役を望んでいた恭二が、今回に限っては現実での実行役に固執したんだそうだ。亮一は電気スクーターを持っているが、恭二には運転ができない。――そこで亮一は、新たな仲間……《死銃C》を計画に加えることにした。ええと、名前は金本敦、18歳。亮一の古い友人――というより……」
ちらりとキリトに視線を投げ、
「SAO時代のギルドメンバーだったそうだ。キャラクターネームは……《ジョニーブラック》。聞き憶えは……」
「あるよ」
キリトは目蓋を伏せ、小さく頷いた。
「《ラフィン・コフィン》でザザとコンビを組んでた毒ナイフ使いだ。少なくとも五人は殺してるはずだ……。畜生……こんな……こんなことなら……」
その先が言葉になる前に、詩乃は素早く右手を伸ばし、キリトの左手を強く掴んでいた。同時にじっと相手の瞳を見て、首をゆっくりと左右に振る。
それだけで、言いたいことは伝わったようだった。
キリトは一瞬、幼い子供の泣き笑いのような顔を見せると、視線で頷いた。その表情はすぐに消え、いつものポーカーフェイスが取って代わる。ひんやりとした彼の手から指を離し、詩乃は前に向き直った。
その途端、じっとこちらを見ていた菊岡と目が合った。眼鏡の奥の双眸にはたちまちいたわるような光が浮かび、口元には淡い微笑が漂うが、その直前、恐ろしく怜悧な、観察対象を眺める研究者を思わせる眼を見た気がして、詩乃は思わずぱちくりと瞬きをした。
あらためて、目の前のこの人物は何者なのだろう――と思うが、そのときにはもう事件の概括が再開されていて、詩乃の戸惑いはすぐに押し流されてしまった。
「――このジョニーブラックこと金本敦が、積極的に計画に荷担したのかどうかは、亮一の供述からはよく分からない。亮一にとっても、金本というのは理解しがたいところのある人物だったようだね……」
「そんなの、その金本氏本人に訊けばいいじゃないか」
キリトの至極もっともな指摘に、しかし菊岡は短く首を振った。
「彼はまだ逮捕されていない」
「え……」
「朝田さんのアパートで死銃Bこと恭二が逮捕され、その40分後には死銃Aである亮一も自宅で身柄を拘束されたのだが、亮一の供述によって更に二時間後、大田区にある金本敦……《死銃C》の自宅アパートに捜査員が急行したところ、部屋は無人だった。今現在も監視中のはずだが、逮捕の知らせは無いね」
「……その彼が、四人目のターゲットを現実で手に掛けたのは確かなのか?」
「ほぼ間違いないね。亮一が渡したという、恭二が持っていたものと同型の高圧注射器と、薬品のカートリッジはまだ発見されていないが、犠牲者の部屋から、金本の自宅で採取したものと同一と見られる毛髪が見つかっている」
「カートリッジ……」
銃の実包を連想させるその単語に、詩乃はうすら寒いものを感じた。注射器を詩乃に押し付け、これこそが真の死銃なんだ、と囁いた恭二の言葉が耳に甦る。
キリトも同様の感想を持ったらしく、顔をしかめて言った。
「薬品はぜんぶ、カコートンを襲ったときに使い果たしたんだよな?」
しかし菊岡はまたしても首を振って否定した。
「いや……カートリッジ一本ぶんのサクシニルコリンでも致死量を軽く上回るが、亮一は念のために二本渡していたそうだ。もう一本残っている可能性がある。月曜から今朝まで君達、とくに朝田さんに警察の警護がついたのは、それが理由だよ」
「……死銃Cが、まだシノンを狙っていると……?」
「いや、あくまで念のためさ。警察もそうは考えていない。だってもう、彼らの死銃計画そのものが崩壊しているんだからね。襲ったところで何のメリットもないし、金本と朝田さんの間には利害も怨恨も有り得ないわけだし。東京都心は自動識別監視カメラ網が張り巡らされてるからね、そう長時間逃げきれやしないよ」
「……なんだよそりゃ」
「通称Pシステム、カメラが捉えた人間の顔をコンピュータが自動解析して手配犯を発見するという……ま、細かいことは秘密なんだけど」
「ぞっとしない話だな」
キリトは顔をしかめてコーヒーを啜った。
「それは同感だがね。ともかく、金本が逮捕されるのも時間の問題と思っていいだろう。事件の話に戻ると……」
菊岡はPDAにスタイラスペンを走らせ、すぐに肩をすくめて顔を上げた。
「あとは、君達のほうが詳しいだろう。バレット・オブ・バレッツ本大会が行われた日曜夜、彼らは打ち合わせどおり、それぞれの役割を遂行しようとした。亮一は自宅アパートから《モルターレ》としてログインし、まず最初のターゲットであるザッパを発見、銃撃。すでにザッパの自宅に侵入、待機していた恭二は、携帯端末で大会の中継を見て、同時に薬品を注入、被害者を死亡させた」
そのとき恭二は、どんな顔をしていたのだろう――。詩乃は凶行の瞬間を想像しようとして、すぐにその思考を頭から追い出した。詩乃を襲ったときの、奈落の闇を映した恭二の眼ばかりが黒く広がって、彼の顔をちゃんと思い出せないような気がした。
菊岡の言葉は続く。
「その28分後、亮一は第二の標的であるカコートンと遭遇し、これを銃撃。同時刻、現実世界では金本がその役割を果たし、侵入、薬液注射を遂行した。――さらに25分後、亮一は運良く三人目のターゲット、つまりシノン……朝田さんと遭遇、銃撃を試みる。おそらくこの時点で、恭二は四谷から湯島までJRを利用して移動していたはずだ。推測になるのは、恭二はザッパ殺害に関しては認めたものの、朝田さんを襲ったことについては一切黙秘しているんだ」
「殺意を否定している……ということか?」
「いや、そういうわけでもないらしい。捜査員に対して……」
一瞬言葉を切り、詩乃に向かって謝罪するように目礼する。
「――シノンは僕のものだ、お前たちには何もやらない、と発言している。つまり……情報を口にすることすらも、なんと言うか、彼の中の朝田さんを汚す行為となる、と思っているのではないかと……」
とても理解が及ばない、というように、菊岡は長く息を吐いた。
「まあ、少なくとも、恭二が現実での実行役に固執したのは、他の二人にはその役を任せられない、と思ったからなのは間違いないだろうね。――しかし本大会では、亮一は再三君達を襲撃したものの失敗し、最後には逆に朝田さんに倒されてしまった。計画では、この時点で恭二は襲撃を中止し、亮一のアパートに戻ることになっていたのだが、彼は何故かそうはしなかった。せっかくここまで演出してきた死銃の力に疑問符をつけることになると分かっていたはずなんだが……」
その理由は、詩乃にはわかっていた。中継で、シノンがキリトと抱擁するのを目撃したからだ。
だが、警察の事情聴取では、そのことは言わなかった。恥ずかしいと思ったからではないし、自分の行為が恭二を追い詰めたことを隠そうと思ったからでもない。恭二の心情を勝手に推測し、公式な記録に残すのは間違っていると感じたせいだ。ゆえに詩乃は、警察に対しては実際にあった事実だけを話すにとどめた。
「――兎に角、あとは手早く済ませるとしよう。新川恭二は本大会終了直後、朝田さんの自宅を襲撃したものの、幸い目的を果たすことなく逮捕された。直後には新川亮一も逮捕され、のこる金本敦は手配中。兄弟の身柄は現在警視庁本富士署にあり、取り調べが続いている。……長くなったが、以上が事件のあらましだ。僕が手に入れられる情報はこんな所なんだが……何か質問はあるかな?」
薄い端末をパタリと閉じ、菊岡は顔を上げた。
「……あの」
答えられる問いではないかもしれないと思いつつも、詩乃は訊かずにいられなかった。
「新川君……恭二君は、これから、どうなるんですか……?」
「うーん……」
菊岡は指先で眼鏡を押し上げながら、短く唸った。
「亮一は19歳、恭二は16歳なので、少年法による審判を受けることになるわけだが……四人も亡くなっている大事件だから、当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで恐らく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの言動を見るかぎりでは、医療少年院へ収容、となる可能性が高いと、僕は思うね。何せ二人とも、現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ……そうじゃないと、思います」
ぽつりと詩乃が呟くと、菊岡は瞬きし、視線で先を促した。
「お兄さんのことは私には分かりませんけど……恭二君は……恭二君にとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を――」
掲げた右手の指先を伸ばし、すぐに戻す。
「全部捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは単なる逃避だと……世間の人は思うでしょうけれど、でも……」
新川恭二は、詩乃を陵辱し命を奪おうとした人間だ。彼に与えられた恐怖と絶望の大きさは計り知れない。しかし、それでも、恭二を憎悪することは、何故か詩乃には出来そうになかった。あるのは、ただただ深いやるせなさだけだ。その哀惜の痛みが、詩乃の口を動かした。
「でも、ネットゲームというのは、エネルギーをつぎ込むにつれて、ある時点からは娯楽だけの物ではなくなると思うんです。強くなるために、自分を鍛えてお金を稼ぎ続けるのは、辛いです。ほんとうに苦痛なんです。……たまに短時間、友達とわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど……恭二君みたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、凄いストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス? しかし……それは、本末転倒というものじゃ……」
唖然として呟く菊岡に、こくりと頷きかける。
「はい。恭二君は、文字どおり転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……何故? なぜ、そこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それはわかりません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲーム世界も、連続したものだったから……。キリト、あなたにはわかる……?」
視線を右隣に振ると、キリトは椅子の背もたれに深く体を預けて瞑目していたが、やがてぽつりと呟いた。
「強くなりたいから」
詩乃は唇を閉じ、しばらくその短い言葉を意味を考えてから、ゆっくり頷いた。
「……そうね。私も、そうだった。VRMMOプレイヤーは、誰だって同じなのかもしれない……ただ、強くなりたい」
体の向きを変え、正面から菊岡を見る。
「あの……恭二君には、いつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後、10日間は拘置されるだろうから、鑑別所に移されてからになりますね」
「そうですか。――私、彼に会いにいきます。会って、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
たとえ遅すぎたのだとしても、たとえ言葉が伝わらなくても、それだけはしなくてはならないと、詩乃は思った。菊岡はわずかに――今度ばかりはおそらく本心からと見える微笑を浮かべると、言った。
「あなたは強い人だ。ええ、ぜひ、そうしてください。手続きの詳細は後ほど送ります」
ちらりと左腕の時計を覗き、
「――申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え雑務には追われていてね」
「ああ。悪かったな、手間を取らせて」
キリトに続いて、ぺこりと頭を下げる。
「あの……ありがとう、ございました」
「いえいえ。君達を危険な目に合わせてしまったのはこちらの落ち度です。これくらいのことはしないと。また、新しい情報があったらお伝えしますよ」
足元のアタッシェケースを掴み、菊岡は椅子から腰を上げた。PDAをスーツの内ポケットに収めつつ、テーブル上の伝票に手を伸ばそうとして――そこで動きを止めた。
「そうだ、キリト君」
「……何だ?」
「モルターレ……いや、赤眼のザザこと新川亮一から、君への伝言があるんだ。取調べ中の被疑者からのメッセージなど外部に漏らせるわけもないので、公式には警察内で止まるはずのものだが……どうする、聞くかい?」
キリトは途方も無く苦いものを飲んだような顔をすると、ぶっきらぼうに答えた。
「そこまで言われたら聞かないわけにいかないだろう。――言えよ」
「それでは。えー……」
菊岡は収めかけたPDAを再び開くと、目を落とした。
「――『現実なんて底なしの糞溜まりだ。こんなところ、生きる価値もない。お前だってそれは分かってるんだろう、キリト?』……以上だ」
「……まったく、食えない奴だ」
菊岡がにこにこと手を振りながら姿を消してからおよそ10分後。店から出て、停めたバイクに向かって歩きながら、キリトが毒づいた。
「……あの人は、一体何者なの? 総務省の役人、って言ってたけど……なんか……」
どうにも捉えどころのない人物だ、と思いながら詩乃が尋ねると、キリトは肩をすくめて答えた。
「まあ、総務省のVRワールド監督部署に所属してるのは間違いないんだろう、今はな」
「今は?」
「考えてみろ、事件からまだたったの二日なんだぜ。それにしちゃ情報が早すぎると思わないか? この縦割り行政の日本で、さ」
「……どういうこと?」
「本来の所属は別なんじゃないか、ってさ。警察庁……か、その上……。あるいは、まさかとは思うけど……」
「……?」
「俺、前にここでアイツと会ったとき、帰りに尾行したんだ」
詩乃はやや呆れて横を歩くキリトを見やったが、少年は素知らぬ顔で続けた。
「そしたら、近くの地下駐車場にでっかい黒のクルマが待っててさ。運転手もタダモノじゃなさそうな、短髪のダークスーツで。苦労してバイクで追っかけたんだけど、あれは気付かれたのかもな……。菊岡は市ヶ谷駅前で降りて、バイク停める場所探してるあいだに見失った」
「市ヶ谷? 霞ヶ関じゃなくて?」
「ああ。総務省は霞ヶ関だが……市ヶ谷にあるのは、防衛庁さ」
「ぼ……」
詩乃は絶句し、ぱちくりと瞬きした。
「それって……自衛隊ってこと?」
「だから、まさかの話さ」
「でも……どうして……」
「これは米軍の話だけど……VR技術を、軍隊の訓練に利用する、って噂がある」
「は、はあ!?」
今度こそ詩乃は驚愕し、思わず足を止めた。
キリトも立ち止まると、再びひょいっと肩をすくめた。
「例えば……あ、ええと……銃の話、大丈夫?」
「う、うん……話くらいなら」
「そうか。例えば、シノンがいま本物のスナイパー・ライフルを渡されたとして、装弾から発射まで出来ると思う?」
「……」
詩乃は、数時間前に遠藤の持っていたガバメントのモデルガンを撃ったときのことを思い出しながら小さく頷いた。
「できる……と思う、撃つとこまでなら。でも、生身じゃリコイルショックを押さえられるかわからないし、もちろん的に当てるのは無理だと思うけど」
「でも、俺は弾の込め方すら知らない。兵器の基本的な操作法をVR世界内で訓練できるなら、それだけでも弾とか燃料とか、どれくらい節約できるかわからないぜ」
「そ……んなこといわれても……」
思わず自分の右手に視線を落とす。キリトの話はあまりにもスケールが違いすぎて、とても実感できない。
「あくまで可能性の話だけどな。この一年で、VR技術の新しい利用法は山ほど登場している。今後、何が出てきてもおかしかない。とりあえず――あの男には気をつけておくに越したことはないって、ね」
飄々とそれだけ口にすると、キリトはバイクに歩み寄り、後輪のU字ロックを外した。抱えていたヘルメットの片方を差し出しながら、詩乃に向かって何かを言いかけて、珍しく口ごもった。
「えーと……その」
「……? 何?」
「……シノン、このあと、時間ある……?」
「別に用事はないけど。GGOにも当分ログインする気ないし」
「そうか。――悪いんだけど、ちょっと、手伝ってほしいことが……」
「なにを?」
「BoB本大会ライブ中継の……あの、砂漠のシーンを、やっぱり昔の馴染み連中に見られててさ。《キリト》が俺だってこともあっさりバレて……その、事情を説明するのに付き合ってくれると非常に助かる」
「……へえ」
詩乃は少しだけ面白くなって、口元を綻ばせた。あのときのことを思い出すと相変わらず気恥ずかしくなるが、それ以上に、この常にマイペースを崩さない少年が、自分との仲を疑われて苦境に立っていると聞くと、してやったり、みたいな気分湧いてくる。
「でも、名前だけでよくアンタだって分かったね。いくら昔馴染みって言っても」
「ああ……。剣筋でバレた」
「ふ、ふうん。――ま、別にいいけど、貸しだからね。また今度、ケーキでも奢ってもらうわ」
それを聞くと、キリトは実に情けない顔をした。
「ま……まさか、さっきの店で……?」
「そこまで無慈悲なことは言わないであげる」
「そ、それは助かる。じゃあ……ちょっと御徒町まで付き合ってくれ。そんなに時間は取らせない」
「なんだ、湯島の隣じゃない。ちょうど帰り道だわ」
ヘルメットを受け取り、頭を押し込む。再びキリトに首もとの留め具を掛けてもらいながら、こんなことならGGOでも毛嫌いせずにヘルメット型防具に慣れておくんだったかな、と詩乃は思った。
銀座中央通りから昭和通りに出てしばらく北に走ると、秋葉原駅東側の再開発地区に差し掛かる。どこかグロッケン市街に似た銀色の高層ビル群の谷間を抜け、御徒町界隈に入ると、今度は打って変わってノスタルジックな下町の風情が続く。
とろとろと低速で走るバイクは、細い路地を右に左に分け入り、やがて一軒の小さな店の前で止まった。
シートから飛び降り、ヘルメットから頭を抜いて見上げる。黒光りする木造の建物は無愛想で、そこが喫茶店だと示しているのは、ドアの上に掲げられた、二つのサイコロを組み合わせた意匠の金属板だけだ。下部に、「DICEY CAFE」という文字が打ち抜いてある。
「……ここ?」
「うん」
キリトは頷くと、バイクからキーを抜いて、無造作にドアを押し開けた。かららん、という軽やかな鐘の音に続いて、スローなジャズっぽい曲が流れ出してくる。
香ばしいコーヒーの香りに誘われるように、詩乃はなかに足を踏み入れた。オレンジ色の灯りに照らされた、艶やかな板張りの店内は、狭いが何ともいえない暖かみに満ちていて、身構えていた肩からすっと力が抜けた。
「いらっしゃい」
見事なバリトンでそう言ったのは、カウンターの向こうに立つ、チョコレート色の肌の巨漢だった。歴戦の兵士といった感じの相貌とつるつるの頭は迫力があるが、真っ白いシャツの襟元に結んだ小さな蝶ネクタイがユーモラスさを添えている。
店内には、二人の先客が居た。カウンターのスツールに、学校の制服を着た女の子が座っている。彼女たちのブレザーがキリトの制服と同じ色なのに、詩乃は気付いた。
「おそーい!」
一方の、肩までの髪にわずかに外ハネをつけた少女が、スツールから降りながらキリトに向かって言った。
「悪い悪い。菊岡の話が長くてさ」
「待ってるあいだにアップルパイ二個も食べちゃったじゃない。太ったらキリトのせいだからね」
「な、なんでそうなるんだ」
もう片方、わずかに茶色がかったストレートヘアを背中の中ほどまで伸ばした女の子は、二人のやり取りをにこにこしながら聞いていたが、やがてこちらもすとんと床に降りて、慣れた様子で割って入った。
「それより、早く紹介してよ、キリトくん」
「あ、ああ……そうだった」
キリトに背中を押され、詩乃は店の中央まで進み出た。初対面の相手と接するときに常に這い出てくる怯えの虫を押し殺し、ぺこりと頭を下げる。
「こちら、ガンゲイル・オンラインの現チャンピオン、シノンこと朝田詩乃さん」
「や、やめてよ」
思わぬ紹介の仕方をされ、小声で抗議するが、キリトは笑いながら言葉を続けた。先ほどまで口論していた、威勢のよさそうな女の子を示し、
「こっちが、ぼったくり鍛冶屋のリズベットこと篠崎里香」
「このっ……」
また気色ばむ里香という少女の攻撃をするりとかわし、もう一方の女の子に左手を向ける。
「んで、あっちがバーサク治療士のアスナこと結城明日奈」
「ひ、ひどいよー」
抗議しながらも微笑みを絶やさずに、明日奈は詩乃をまっすぐに見るとふわりとした動作で会釈した。
「そんで、あれが……」
キリトは最後にカウンター奥のマスターに向かって顎をしゃくった。
「壁のエギルことエギル」
「おいおい、オレは壁かよ!? だいたい、オレにはママにもらった立派な名前があるんだ」
驚いたことに、マスターまでもがVRMMOプレイヤーらしい。巨漢はにやりと笑みを浮かべると、詩乃に向かって両手を広げ、言った。
「はじめまして。私はAndrew Gilbert Millsです。今後ともよろしく」
名前のところだけは流れるような英語の発音で、あとの部分が完璧な日本語なので、詩乃は思わずぱちくりと瞬きした。あわててぺこりと頭を下げる。
「まあ、座って座って」
キリトはふたつある四人掛けのテーブルの片方に歩み寄ると、椅子を引いた。詩乃と明日奈、里香が腰を下ろすのを待って、マスターに向かって指を鳴らす。
「エギル、ジンジャーエールくれ。――さて、と。長い話をしようかな」
BoB本大会での出来事プラス菊岡に聞かされた事件の概要を、キリトと詩乃が互いに補填しつつ話し終えるのに、ダイジェスト版でも30分以上を要した。
「――と、まあ、まだマスコミ発表前なんで細部は伏せたけど、そういうことがあったわけなのでした」
話を締めくくると、キリトは力尽きたように椅子に沈み込み、二杯目のジンジャーエールを飲み干した。
「……あんたって、何て言うか……よくよく巻き込まれ体質ね」
里香が頭を振りながら、ため息混じりの感想を漏らす。だがキリトは視線を伏せると、かすかに頭を振った。
「いや……そうとも言えないよ。この事件は俺の因縁でもあったわけだからさ」
「……そっか。――あーあ、あたしもその場にいたかったな。モルターレって奴に、言ってやりたいこと山ほどあるよ」
「あいつが最後のひとり、ってわけでもないだろうしな。SAOに魂を歪められた人間は、恐らくまだまだいるはずだ」
一瞬、場に満ちた沈んだ空気を、明日奈が柔らかな微笑みで打ち消した。
「でも、魂を救われた人だっていっぱいいると思うよ、わたしみたいに。SAOを……団長のしたことを擁護するわけじゃないけど……いっぱい、亡くなったわけだし……それでも、わたしはあの二年間を否定したり後悔したり、したくないな」
笑みを浮かべたまま、まっすぐに詩乃を見る。その、明るい茶色の虹彩をもつ瞳は輝きに満ちていて、控えめな物腰の奥にある強さを詩乃に感じさせた。
「あの……朝田さん」
「は、はい」
「わたしがこんなこと言うのも変かもしれないけど……ごめんなさい、怖い目にあわせてしまって」
「いえ……そんな……」
先刻の話では、キリトは、詩乃の過去の事件については一切触れなかった。だから明日奈たちには何のことかわからないはずだが、それでも詩乃は一言ずつ、ゆっくりと口にした。
「今度の事件は、たぶん、私が呼び寄せてしまったものでもあるんです。私の……過去が。そのせいで、私、大会中にパニックを起こしてしまって……キリトに落ち着かせてもらったんです。あの、中継されたシーンはそういうことなので……」
するとキリトが体を起こし、早口に捲し立てた。
「そ、そうだ、肝心なことを忘れてた。アレはその、緊急避難というか、殺人鬼に追われてる状況だったんだからな。妙な勘繰りはするなよ」
「……ま、とりあえず了解したけどね。今後はどうなることやら……」
里香はじとっとした視線をキリトに投げながらぶつぶつ呟いたが、両手をぽんと打ち合わせると、にっと威勢のいい笑顔を浮かべた。
「ともあれ、女の子のMMOプレイヤーとリアルで知り合えたのは嬉しいな」
「ほんとだね。色々、GGOの話とかも聞きたいな。友達になってくださいね、朝田さん」
明日奈も穏やかな笑みを見せると、テーブルの上に、真っ直ぐ右手を差し出した。その、白く、柔らかそうな手を見て――
突如、詩乃は竦んだ。
友達、という言葉が胸に沁み落ちた途端、そこから焼け付くような渇望が湧き上がるのを感じた。同時に、鋭い痛みを伴う不安も。
ともだち。あの事件以来、何度となく望み、裏切られ、そして二度と求めるまいと心の底に己への戒めを刻み込んだもの。
友達になりたい。明日奈という、深い慈愛を感じさせるこの少女の手を取り、その暖かさを感じてみたい。一緒に遊んだり、他愛も無いことを長話ししたり、普通の女の子がするようなことをしてみたい。
しかし、そうなれば、いつか彼女も知るだろう。詩乃がかつて人を殺したことを。自分の手が、染み付いた血に汚れていることを。
そのとき、明日奈の目に浮かぶであろう嫌悪の色が恐ろしい。人に触れることは――自分には、許されない行為なのだ。恐らく、永遠に。
詩乃の右手は、テーブルの下で固く凍りついたまま動こうとしなかった。明日奈が瞳に問いかけるような光を浮かべ、首をわずかに傾げるのを見て、詩乃は目を伏せた。
このまま帰ろう、そう思った。友達になって、というその言葉の温度だけでも、しばらくは胸を暖めてくれるだろう。
ごめんなさい、と言おうとした、その時――
「シノン」
ごくごくかすかな囁きが、怯え、縮こまった詩乃の意識を揺らした。びくりと体を震わせて、左隣に座るキリトを見た。
視線が合うと、キリトは小さく、しかし確かな動きで頷いた。大丈夫だよ、とその目が言っていた。促されるように、再び明日奈に視線を向ける。
少女は微笑みを消すことなく、右手を小揺るぎもさせずに差し出し続けている。
詩乃の腕は、鉛を括りつけたかのように重かった。しかし、詩乃はその枷に抗い、ゆっくり、ゆっくりと手を持ち上げた。ひとを疑い、裏切られることを恐れて遠ざかる苦さよりも、信じて傷つく痛みのほうがいい。事件以来はじめて詩乃はそう思った。
明日奈の右手までの距離は、途方もなく長かった。近づくにつれ、空気の壁が密度を増し、詩乃の手を跳ね返そうとしているのように感じた。
しかし、ついに、指先が触れ合った。
次の瞬間、詩乃の右手は、明日奈の右手にするりと包み込まれていた。
その暖かさを、言葉にすることはできなかった。柔らかく伝わる熱が、指から腕、肩、全身にしみとおり、凍った血を溶かしていく。
「あ…………」
詩乃は意識せず、かすかな吐息を漏らした。何という暖かさだろうか。ひとの手というものが、これほど魂を揺さぶる感触を持っていることを、詩乃は忘れていた。この瞬間、詩乃は現実を感じていた。全てに怯え、世界から逃げつづけていた自分が、今ついに真の現実とつながっていることを、深く感じていた。
恐怖の記憶が消え去るまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。それでも、私は、いま在るこの世界が好きだ。
生きることは苦しく、伸びる道は険しい。
それでも、歩き続けることはできる。その確信がある。
なぜなら、繋がれた右手も、そして私の頬を流れる涙も、こんなにも暖かいのだから。
Sword Art Online3 "Death Gun" ――End――