精神の外殻なるものが頭のどこかにあるとして、それの底が抜けるような衝撃を味わうのが今日で何度目のことなのか、もう詩乃にはわからなかった。
首筋から広がった冷たさが手足の先端にまで浸透し、そこがジンジンと痺れるのを意識しながら、詩乃は恭二の言葉をどうにか意味あるかたちに処理しようと、必死に脳を働かせた。
つまり――恭二は、詩乃を、殺すと言っているのだ。言うことを聞かなければ、手に持ったおもちゃめいた注射器から長い名前の薬を注入し、詩乃の心臓を止めると。
以上のことを考えながら、それと平行して、何かの冗談だよね? 新川くんが、そんなことするはずないよね? と頭の片隅で喚きつづける声がした。しかし実際には、詩乃の口は乾いた木にでもなってしまったかのように、動こうとしなかった。それに、首筋――正確には左耳の5センチほど下方に押し当てられた円錐形の金属の感触は、これが何らかのジョークであるという可能性を砂粒ほどにも許容しない冷酷な硬度と温度を持っていた。
逆光のせいでよく表情の見えない恭二の顔を、詩乃はただ見上げることしかできなかった。その、削いだように尖った顎がわずかに動き、抑揚のない声が流れ出した。
「大丈夫だよ、朝田さん、怖がらなくていいよ。これから僕たちは……ひとつになるんだ。僕が、生まれてから今までずーっと貯めてきた愛を、全部朝田さんにあげる。その、いちばん気持ちいいところで、そうっと、優しく注射してあげるから……だから、何にも痛いことなんてないよ。心配しなくていいんだ。僕に、任せてくれればいい」
言葉の意味は、詩乃にはまったく理解できなかった。日本語に似た響きを持つ、どこか異界の言語であるようにすら思えた。ただ、耳の奥に、二つのフレーズだけが、何度も何度もこだましていた。――「ムシンコウアツ注射器ッテイウンダ」「心臓ガ止マッチャウンダヨ」「注射器ッテ」「心臓ガ」「注射器」「心臓」……。
その二つのことばを……ごく最近、どこかで聞いたのではなかったか。
今となってははるかな幻想の中の出来事とも思える、夜の砂漠の洞窟の中で、少女めいた顔立ちを持った少年が、涼やかな響きのある声で(筋弛緩系の薬品を)確かに言った(注射したんだ)。
それでは――まさか――まさか。
自分の唇が痙攣するように動き、掠れた声が漏れるのを、詩乃は聞いた。
「じゃあ……君が……君が、もう一人の、《死銃》なの?」
首筋に押し当てられた注射器が、ぴくりと震えた。恭二の口もとに、いつも詩乃と話すときに浮かべていたような、憧れを潜ませた笑みが滲んだ。
「……へえ、凄いね、さすが朝田さんだ……《死銃》の秘密を見破ったんだね。そうだよ、僕が《死銃》の右手だよ。と言っても、今までは僕が《モルターレ》だったんだけどね。ゼクシードを撃ったときの動画、見てくれた? だったら嬉しいけど。でも、今日だけは、僕に現実の役をやらせてもらったんだ。だって、朝田さんを、他の男に触らせるわけにはいかないもんね。いくら兄弟って言ってもね」
何度目かの驚きに、詩乃は体を強張らせた。
恭二に兄がいる、という話は、一度ちらりと聞いたことがあった。しかし、小さいころから病気がちで、ずっと入退院を繰り返している、ということだったので、その話題がそれ以上続くことはなかった。
「き……きょう……だい? モルターレが……《赤眼のザザ》が、君の……お兄さん、なの?」
今度こそ、恭二の目は驚きに見開かれた。
「へえ、そんなことまで知ってるんだ。モルターレ……リョウイチ兄さんが、そこまで喋ったのか。ひょっとしたら、兄さんも朝田さんのことを気に入ったのかもね。でも、安心して、朝田さんは、誰にも触らせないから。ほんとは……今日、朝田さんに注射するのはやめよう、って思ってたんだよ。兄さんは怒っただろうけど……でも、朝田さんが、公園で、僕のものになってくれる、って言ったからさ」
そこで恭二は口を止めた。浮かんでいた、陶酔したような笑みが薄れ、再び表情が虚ろになる。
「……なのに……朝田さん、あんな男と……。騙されてるんだよ、朝田さん。あいつが何を言ったのか知らないけど、すぐに僕が追い出してあげる。忘れさせてあげるからね」
注射器を押し付けたまま、恭二は左手で詩乃の右肩を強く掴んだ。そのまま、力任せにシーツの上に押し倒すと、自身もベッドに乗り、詩乃の太腿に跨る。その間も、うわ言のように呟きつづけていた。
「……安心して、朝田さんをひとりにはしないから。僕もすぐに行くよ。二人でさ、GGOみたいな……ううん、もっとファンタジーっぽいやつでもいいや、そういう世界に生まれ変わってさ、夫婦になって、一緒に暮らそうよ。一緒に冒険して……子供も作ってさ、楽しいよ、きっと」
完全に常軌を逸した恭二の言葉を聞きながら、詩乃は麻痺した思考の一部で、それでもどうにか二つのことだけを考えつづけていた。――もうすぐ、キリトと警察がくる。だから、何か喋り続けなくては。
「でも……君が、いなくなったら、モルターレが困るよ……。そ……それに、私、向こうで死銃に、撃たれなかった。私が死んだら、死銃のこと、みんな疑うよ」
完全に乾ききった舌をどうにか動かし、詩乃は言った。恭二は右手の注射器を、トレーナーの襟ぐりから覗いた詩乃の鎖骨の下に押し当てながら、引き攣るような笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今日は、ターゲットが三人もいたからさ……兄さんが、もうひとり見つけてきたんだ。SAO時代の、ギルドメンバーなんだって。これからは、その人が僕のかわりになればいい。それに……朝田さんを、あんなゼクシードやたらこみたいなクズと一緒にするわけないじゃない。朝田さんは、死銃じゃなく、この僕だけのものだよ。朝田さんが……旅だったら、どこか遠い……人のいない、山の中とかに運んでさ、そこで僕もすぐに追いかけるよ。だから、途中で待っててね」
恭二の左手が、まるで恐れているかのように、こわごわとトレーナーの上から詩乃の腹部に触れた。二、三度指先を下ろしてから、次第に手のひら全体で撫でさすりはじめる。
嫌悪と恐怖に肌が粟立つのを感じながら、詩乃は懸命に口を動かした。急に動いたり、大声を出せば、目の前の無害そうに見える少年は、ためらわずに注射器を作動させるだろうということは、残念ながらもう疑うことはできなかった。
「……じゃ、じゃあ……君はまだ、現実世界で、その注射器を使ったことはないんだね……? な……なら、まだ……まだ、間に合うよ。やり直せるよ。だめだよ、死のうなんて思ったら……。大検、受けるんでしょ? 予備校行ってるんでしょう? お医者様に、なるんでしょう……?」
「ダイケン……?」
恭二は首を傾げ、知らない単語を聞いたかのように繰り返した。やがて、その口から「ああ……」という声が漏れ、左手が詩乃から離れてジャケットのポケットの差し込まれた。
掴み出されたのは、細長い紙切れだった。
「見る?」
どこか自嘲気味な笑みとともに、それを詩乃の眼前に突き出してくる。
何らかのプリントアウトと思しき紙片は、詩乃にとっても見慣れたもの――模擬試験の成績票だった。並んだ得点と偏差値は、どの教科も目を疑うほどの、惨憺たる数字だった。
「し……新川くん……これ……」
「笑っちゃうよね。偏差値って、こんな数字が有り得るんだね」
「でも……ご、ご両親は……」
この成績を見せられて、恭二の親はよくアミュスフィアの使用を許可しつづけているものだ、という意味で口にした一言を、恭二は敏感に理解したようだった。
「ふふ、こんな用紙なんて……プリンタでいくらでも作れるよ。大体、親にはアミュスフィアで遠隔指導受けてるって言ってあるしさ。さすがにGGOの接続料の引き落としはさせてくれなかったけど、それくらい、ゲームの中で稼げた……稼げたのに……」
不意に、恭二の顔から笑みが消えた。鼻筋に皺が刻まれ、食いしばった歯が剥き出される。
「……もう、こんな下らない現実なんて、どうでも良かったんだ。親も……学校の奴らも……どうしようもない愚か者ばっかりだ。GGOで最強になれれば……それで、僕は満足だったんだ。そうなれた……シュピーゲルは、そうなれたはずなのに……」
押し当てられた注射器から、ぶるぶると恭二の手の震えが伝わり、今にもそのボタンを押してしまうのではないかと思って、詩乃は息を詰めた。
「なのに……あのゼクシードの屑が……AGI型最強なんて嘘を……あの卑怯者のせいで……シュピーゲルは突撃銃もろくに装備できないんだ……畜生ッ……畜生ッ……」
恭二の声に含まれた怨嗟の響きは、それがあくまでゲームの話である、という事実を遥かに超越したものだった。
「今じゃ……ろくに接続料も稼げない……GGOは……僕の全てだったのに……現実をみんな犠牲にしたのに……」
「……だから……だから、ゼクシードを殺したの……?」
まさか、そんな――そんなことで、と思いながら、詩乃は訊いた。恭二はぎゅっと一度瞬きしてから、再び陶酔したように笑った。
「そうだよ。《死銃》で、今度こそGGO……いいや、全VRMMOで最強の伝説を作るための生贄に、あいつほど相応しい奴はいないだろ? ゼクシードとたらこ、それに今日の大会でザッパとカコートンを殺したから、いくらプレイヤー共が馬鹿でも、もう死銃の力は本物だと気付いたはずだ。最強……僕が、最強なんだ……」
押さえがたい快感のせいだろうか、恭二の全身がぶるりと震えた。
「……これでもう、こんな下らない現実に用はないよ。さあ……朝田さん、一緒に《次》に行こう」
「し……新川くん」
詩乃は必死に首を振り、訴えた。
「だめだよ。まだ……まだ引き返せる。君はまだ、やり直せるよ。私と一緒に、警察に……」
「無理だよ」
恭二はどこか遠くを見るような目つきで、首を横に振った。
「今日……ザッパの心臓を停めたのは、僕なんだ。この注射器でね。ううん……注射器じゃない。これが……この銃こそが、本物の《死銃》なんだ」
「そん……な……」
心に絶望の色が忍び込んでくる、その冷たさを詩乃は胸の奥に感じた。
「案外、簡単だったよ。胸に注射したら、すぐに動かなくなってさ。ぜんせん、苦しまなかった。だから、朝田さんも、怖がらなくていいよ。一瞬……一瞬のことだから……」
いや――そうじゃない。たとえ筋弛緩剤で体はうごかなくても、意識は地獄の苦しみを味わったのだ。詩乃――シノンは、それを己の目ではっきりと見た。
「さあ……もう、現実のことなんてどうでもいいよ。僕とひとつになろう、朝田さん……」
不意に、恭二の左手が、トレーナーの下端を掴んで捲り上げようとした。詩乃は反射的に右手を動かし、それを阻もうとしたが、途端に一際強く注射器が胸元に押し付けられた。
「お願い、動かないで、朝田さん。この世界の、最後の思い出は、きれいなものにしようよ」
ビクリと体を竦ませた詩乃の右手を元の位置に戻させ、恭二は再びトレーナーを脱がせはじめた。布の端が胸を通り過ぎ、首もとに達したところで一瞬だけ注射器が離れ、今度はむき出されたわき腹へと押し当てられる。
詩乃の両腕を上げさせると、恭二は力任せにトレーナーを引っぱり、手から抜き取った。その下は、黒のタンクトップ一枚しか身につけていない。
恭二の視線は、薄い布地を押し上げる膨らみへと間近から注がれ、詩乃はそこに物理的な圧力を感じた。
「……朝田さん……朝田さん……朝田さん……」
ぶつぶつとそれだけを繰り返しながら、恭二は左手を伸ばし、詩乃の胸の側面を撫でた。食い縛られた歯の隙間と鼻から、ふっ、ふっ、と荒く空気が吐き出され、その生暖かい感触を胸元に感じたとたん、今までに倍する生理的嫌悪感が詩乃の全身を貫いた。
しばらく布の上を蠢いいていた恭二の手は、ついにタンクトップの中に潜り込むと、それを一気に首の下まで引っ張り上げた。素肌が剥き出される感覚に、圧倒的な恐怖のなかにも耐えがたい羞恥を感じ、詩乃はぎゅっと目をつぶると顔をそむけた。
恭二の視線が肌の上を這い回る感触は、まるで小さな虫が歩いているかのようだった。ついに怒りと悔しさが抑えがたく湧き上がり、涙に形を変えて詩乃の目尻に滲んだ。
しかし恭二はそれがまるで目に入らない様子で、わななく声を漏らした。
「ああ……朝田さん……きれいだ……凄くきれいだよ……」
同時に、恭二の指先が直接肌を撫でた。皮膚のささくれが引っかかるたびに、小さく鋭い痛みが走る。
「朝田さん……僕の、朝田さん……ずっと、好きだったんだよ……学校で……朝田さんの、あの事件の話を……聞いたときから……」
「……え……」
恭二のその言葉が、わずかなタイムラグを伴って意識に届いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いていた。
「そ……それって……どういう……」
「好きだった……憧れてたんだ……ずっと……」
「……じゃあ……君は……」
そんな、まさか、と心のなかで呟きながら、詩乃は消え入るような声で尋ねた。
「君は……あの事件のことが、あったから……私に、近づいたの……?」
「そうだよ、もちろん」
恭二は左手と同時に注射器の先端を用いて詩乃の上半身をもてあそびながら、熱っぽく頷いた。
「本物のハンドガンで、悪人を射殺したことのある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。ほんとに凄いよ。言ったでしょ、朝田さんには本物の力がある、って……僕の理想なんだ、って。愛してる……愛してるよ……誰よりも……」
「……そん……な……」
――なんという乖離。なんという隔絶だろう。
眼前の少年のことを、一度は、この現実世界で肉親を除いて唯一人心を許せる存在とも信じたのだ。しかし――彼の精神は、詩乃と同一の世界にあるものではなかった。そもそもの最初から、遠く、恐ろしく遠く隔たっていたのだ。
ついに、詩乃の心を黒く深い絶望の水が満たした。視覚、聴覚、五感のすべてが意味を喪い、世界が遠ざかっていった。
詩乃は、全身の力を抜いた。
焦点を失ってぼやけた視界のなかに、覆いかぶさる恭二の両の目だけが、黒い穴のように浮かんでいた。まったく光のない、闇の世界に繋がった通路にも似たその目は――
あの男の、目だ。
ついに戻ってきたのだ。夜道の物陰、戸棚の隙間、そして《死銃》のフードの奥、あらゆる暗がりに隠れて機会を伺っていたあの男が。
指先が、すうっと冷たくなる。末端から、体と意識の接続が切れていく。魂が縮小していく。
肉体という殻の最奥、暖かく狭い暗闇のなかで幼い子供に戻った詩乃は、ぎゅっと手足を縮めて丸くなった。もう、なにも見たくなかった。感じたくなかった。
いままで十六年を過ごしてきた、あまりに冷たく、過酷な世界。それは、顔も知らない父親を奪い、母親の心を奪い、更なる悪意を差し向けて詩乃の魂の一部を連れ去った。
珍しい動物に向けるような興味と、それを上回る嫌悪を隠した大人たちの視線。同年代の子供たちの、容赦ない悪罵。
それに飽き足らず、この上なおも詩乃から奪い去ろうとするこの世界を、もう唯一の「現実」とは認めたくなかった。
そう――これは現実ではない。無数に重なった世界の、たったひとつの相で起きている取るに足らない出来事でしかない。きっと、それらの世界のうちには、「全てが起きなかった世界」もあるはずだ。
新川恭二と知り合わず、郵便局の事件も起きず、父を殺した交通事故も起きずに、平凡だが幸せな暮らしを送っている朝田詩乃も、どこかの世界にはいるに違いない。闇のなかでぎゅっと手足を縮め、小さく凝固した無機物へと変化しながら、詩乃の魂はひたすら暖かい光のなかで笑っている自分の姿を追い求めた。
水晶発振子が息絶える直前の計算機のように、詩乃の思考も駆動力を失っていく。
残されたわずかな意識のなかで、詩乃はふと、微かなアイロニーを感じた。
現実の過酷さに耐え切れず、夢想のなかに逃げ込もうとしている自分は、ある意味では新川恭二の相似形だ。
学校での苛め、両親の期待、受験の重圧、そのような「現実」を放棄して、恭二は仮想世界に救済を求めた。仮想世界において最強という称号を手にすることができれば、それは現実世界における自分という虚ろな穴を埋めてあまりある価値を持つと信じた。しかし、その望みすらも絶たれて、彼は、壊れた。
いったい、仮想世界とは何なのだろう。
人間の持ちうる時間は有限だ。「現実」を薄めてまで、いくつもの「架空」を生きることで、何を手に入れようというのだろうか。
詩乃も、ガンゲイル・オンラインという名の世界において恭二と同じく強さを求めた。そして、彼があれほど焦がれた最強の座を手に入れた。しかし――
血と火薬の匂いがする記憶の沼から伸びた冷たい手は、いまついに詩乃を捕らえ、連れ去ろうとしているのに、それに対して詩乃は何一つ抵抗できない。目を開けることすらできない。すべては、無駄だったのだ。
深い水底から浮かび上がる小さな泡のように途切れ途切れの思考のなかで、ふと思う。
あの少年は、どうなのだろうか。
二年間ものあいだ、仮想の牢獄に捕えられ、そこで二人の命を奪うことになったというあの少年。長い幽閉の中で、大事な人を失うこともあっただろう。彼も、悔いているのだろうか。自分から多くのものを奪った仮想世界を、憎んでいるのだろうか。
遠い谺のように、あの少年の言葉がよみがえる。
(でもな、シノン)
(戦いつづけることは、できる)
――君は強いね、キリト。
深い闇の底で、詩乃はぽつりと呟いた。
――せっかく助けてもらったのに……無駄にしちゃって、ごめんね。
キリトは、現実に戻ったらすぐに駆け付けると言っていた。あれから何分経ったかはわからないが、どうやら間に合いそうになかった。彼は、抵抗のあともなく殺された詩乃を見たら、どう思うだろうか。それだけが少しだけ気がかり……
そこまで考えたとき、連鎖反応のように、ある危惧がかすかな灯となって闇を照らした。
キリトと遭遇したら、新川恭二はどうするだろう。逃げるか、諦めるか……それとも、手に持った注射器を、彼にも向けるだろうか。
自分がここで死ぬのは、定められた代償として受けいれなくてはならないのかもしれない。
しかし――あの少年を巻き添えにするのは――それは――。
それは、別の問題だ。
だからってもう、どうにもならないよ。
横たわって手足を縮め、目と耳を塞いだ幼い詩乃が呟く。その傍らにひざまずき、細い肩に手を置きながら、サンドイエローのマフラーを巻いたシノンが囁きかける。
私たちはいままでずっと、自分しか見てこなかった。自分のためにしか戦わなかった。だから、新川君の心の声にも気付くことができなかった。でも――もう、遅すぎるかもしれないけれど、せめて最後に一度だけ、誰かのために戦おう。
詩乃は闇の底でゆっくり目蓋を開けた。目の前に、白く、華奢で、しかしどこか力強い手が差し出されていた。恐る恐る手を伸ばし、その手を握る。
シノンはにこりと笑うと、詩乃を助け起こした。色の薄い唇が動き、短く、はっきりとした言葉が響いた。
さあ、行こう。
二人は闇の底を蹴り、遥か水面に揺れる光を目指して上昇し始めた。
一度強く目をしばたくと同時に、詩乃は現実世界と再接続を果たした。
タンクトップは両腕から抜き取られ、上半身は一糸まとわぬ姿になっていた。恭二はふっ、ふっと短く浅い呼吸を繰り返しながら、右鎖骨のあたりに盛んに舌を這わせている。
右手の高圧注射器は相変わらず詩乃の胸に強く押し当てられ、同時に左手は下に降りて、ショートパンツを脱がせようとしているところだった。薄いブルーの下着がなかば露わになっている。
以上の状況を、詩乃は瞬時に見て取った。頭のなかは妙に冷えていた。
ショートパンツがぴったりしたサイズなので、恭二はかなり苦戦しているようだった。苛立たしげに左手が動き、布地をぐいぐいと引っ張っている。
その力に合わせ、引き摺られたように装って、詩乃は体を左に傾けた。途端、ずるりと注射器の先端が滑り、詩乃の体から離れてシーツの上に突き立った。
その瞬間を逃さず、詩乃は左手で注射器のシリンダー部を強く握り、同時に右の掌で恭二の顎を強く突き上げた。
ぐう、と潰れたような声を発して、恭二は仰け反った。体を押さえつけていた重さが消えた。
右足を恭二の下から引き抜くと、全身の力を込めて、胃のあたりを狙って蹴り上げる。
しかし、ほぼ腰の下まで引き降ろされていたショートパンツが邪魔をして、思ったよりも力が入らなかった。恭二は再び鈍い声を漏らして体を折りながらも、右手の注射器を手放すまでには至らなかった。
詩乃は再び右掌を突き出しながら、必死に注射器を引っ張った。このチャンスにこれを奪えなければ、望みは潰える。
だが、利き手でグリップを握る恭二と、滑りやすい胴を左手で握る詩乃との綱引きは、いかにも分が悪かった。体勢を立て直した恭二は、強引に右手を引っ張りながら、奇声を上げつつ左手を振り回した。
「っ!!」
その拳が、強く詩乃の右肩を打った。左手からずるっと注射器が抜けると同時に、詩乃はベッドから転がり落ちて、背中からライティングデスクに衝突した。シンプルな構造の机は大きく傾き、抽斗が一つ抜け落ちて、派手な騒音とともに中身を撒き散らした。
背中を強く打った詩乃は息を詰まらせ、空気を求めて喘いだ。恭二も、ベッドの上でうずくまり、蹴り上げられた下腹部を押さえてうめいていたが、すぐに顔を上げると詩乃を凝視した。
恭二の両目は大きく見開かれ、唾液で光る唇が大きく痙攣していた。数回、開閉を繰り返したその口から、やがてしわがれた声が流れ出した。
「なんで……?」
信じられない、と言わんがばかりに、ゆっくり左右に首を振る。
「なんで、こんなことするの……? 朝田さんには、僕しかいないんだよ。朝田さんのこと分かってあげられるのは、僕だけなんだよ。ずっと、助けてあげたのに……見守ってあげたのに……」
その言葉を聞いて、詩乃は数日前のことを思い出していた。学校の帰りに、遠藤たちに待ち伏せされ、金銭を要求されたとき、通りがかった恭二が助けてくれた――
それでは、あれは、偶然ではなかったのだ。
恐らく恭二は連日、下校する詩乃のあとを付け、帰宅するのを見届け、その後家に取って返してGGOにログインし、シノンを待っていたのだ。
妄執――としか言いようがない。彼の危さをかすかには感じながらも、その本質をなす狂気にはまるで気付かなかった。ひとと正面から向き合おうとしなかった報いなのか、と、この状況にありながらも詩乃は苦いものを感じていた。
「……新川くん」
強張った唇を動かして、詩乃は言った。
「……辛いことばっかりだったけど……それでも、私、この世界が好き。これからは、もっと好きになれると思う。だから……君と一緒には、行けない」
立ち上がろうとして、右手を床に突くと、その指先が何か重く、冷たいものに触れた。
詩乃は瞬時にその正体を察した。先ほど抜け落ちた抽斗の奥に、ずっと隠していたもの。現実世界における、すべての恐怖の象徴。黒いハンドガン――プロキオンIIIだ。
手探りでそのグリップを握ると、詩乃はゆっくりと重いモデルガンを持ち上げ、銃口で恭二を照準した。
銃は、まるで氷の塊から削り出されたかのように、とてつもなく冷たかった。たちまち右手の感覚が鈍くなり、痺れが腕を這い登ってくる。
それが現実の冷感でないのは、詩乃にもわかっていた。心理的な拒否反応がそう感じさせているのだと、わかってはいても抗うことができなかった。名状しがたい恐怖が、黒い水のように胸の奥に広がっていく。
染みひとつない白い壁紙が、ゆらゆらと水たまりのように揺らいで、その奥からヒビの入った灰色のコンクリートが浮き上がってくる。フローリング調の床は色褪せたグリーンのリノリウムに、出窓は木製のカウンターにそれぞれ変貌し、気付けば詩乃は古びた郵便局の中にいる。
照星の中央に捉えた恭二の顔も、突然ぐにゃりと溶け崩れる。肌が脂じみた土気色になり、深い皺が刻まれ、罅割れた唇のあいだから黄ばんだ乱杭歯が剥き出される。右手に握られていた注射器は、いつしか鈍く黒光りする旧式の自動拳銃へと変化している。そして――詩乃の手にある銃も、また。
このあと出現するであろう光景を予想し、詩乃は竦んだ。突き上げられるように胃が収縮し、背中の筋が固くこわばる。
嫌だ。見たくない。今すぐ、右手の黒星を投げ捨て、逃げ出したい。
でも、ここで逃げたら、何もかもが無駄になる。命と同時に、おなじくらい大切なものも無くしてしまう。
この五年間、何度となく銃を握り、恐怖の記憶と向き合ったこと。死銃の影に怯えながら、スコープを覗き、トリガーを引いたこと。それらの戦いが、結果をもたらすことは永遠にないのかもしれない。しかし――
戦いつづけることは、できる。
詩乃は軋むほどに奥歯を噛み締め、親指で銃のハンマーを起こした。硬く、密度のある音に切り裂かれるように、幻は一瞬にして消え去った。
ベッドの上で膝立ちになった恭二は、向けられたプロキオンIIIに気圧されたように、わずかに後ずさった。怯みのせいか、激しく瞬きを繰り返す。
その唇が動き、掠れた声が流れた。
「……何のつもりなの、朝田さん。それは……それは、モデルガンじゃないか。そんなもので、僕を、止められると思うの?」
詩乃は左手をデスクの縁にかけ、ふらつく脚に力を込めて立ち上がりながら、答えた。
「君は、言ったよね。私には、本当の力がある、って。モルターレも同じことを言っていた。昔、ゲームの中でたくさん人を殺したから、自分には本物の力があるんだ、って。なら、私にも……ううん、モルターレなんか問題にならない力が、私にはあるはずだわ。なぜなら、私は、この現実世界でほんとうに人を撃ち殺したんだもの」
「…………」
恭二は紙のように白くなった顔を強張らせながら、更に退がる。
わずかに腰をかがめ、左手で床からトレーナーを拾い上げるとそれで胸を覆って、詩乃は言葉を続けた。
「だから、これはモデルガンじゃない。引鉄をひけば弾が出て、君を殺す」
恭二をポイントしたまま、じりじりと足を動かし、床を横切ってキッチンへと向かう。
「ぼ……僕を……ぼくを、ころす……?」
うわ言のように呟きながら、恭二はのろのろと首を振った。
「朝田さんが、ぼくを……ころす……?」
「そう。次の世界に行くのは、君ひとりだけ」
「やだ……嫌だ……そんなの……嫌だ……」
恭二の眼から、すうっと意思の色が抜け落ちた。ぼんやりとした顔で宙を見つめながら、ぺたんとベッドの上に正座するように座り込む。
右手も弛み、高圧注射器が半ば滑り落ちているのを見て、詩乃は一瞬、この機会にそれを奪うべきか迷った。しかし、刺激すると今度こそ理性をかなぐり捨てて襲い掛かってくるような気がしたので、そのままゆっくりと移動を続け、キッチンへと踏み込んだ。
視界から恭二の姿が消えた途端、詩乃は床を蹴り、ドアへと走った。
わずか5メートルほどの距離が、とてつもなく長かった。極力足音を立てないよう、しかし限界まで大股でキッチンを走り抜けて、上がり框に達したその時。
踏んだマットが勢い良く滑り、詩乃は体勢を崩した。バランスを取ろうと振り回した右手からモデルガンが飛んで、シンクの中に落下して派手な音を立てた。
どうにか倒れるのは堪えたものの、左膝を床に打ち付け、激痛が走った。それでも、一杯に体を伸ばし、右手でドアノブを握った。
しかし、ドアは開かなかった。ロックノブが横に倒れているのに気付き、歯噛みをしながらそれを垂直に戻す。
カチリという開錠音が指先に伝わったのと、ほとんど同時に――
後ろに投げ出していた右足の踝を、冷たい手がぐっと握った。
「!!」
息を飲みながら振り向くと、四つん這いになった恭二が、魂の抜け落ちた顔のまま、両手で詩乃の足を捕らえていた。注射器は見当たらない。
振りほどこうと無茶苦茶に足を動かしながら、詩乃は必死に手を伸ばし、ドアを開けようとした。だが、指先はノブに触れたものの、それを掴むことはかなわなかった。恭二が凄まじい力で詩乃の足を引っ張ったのだ。
ずるりと数十センチもキッチンに引き込まれたが、詩乃は左手で上がり框の段差を掴み、抵抗した。
ここからなら外に声が届く、そう思って叫ぼうとしたが、喉の奥が塞がってろくに空気を吸い込めず、出たのは頼りない掠れ声だけだった。
恭二の力は常軌を逸していた。詩乃とほとんど背の違わない、細いその体のどこに、と思うほどの膂力で引き摺られ、左手が外れた。その途端、詩乃は勢い良くキッチンの奥に引き込まれた。
たちまち、恭二の体が圧し掛かってきた。右手を握り、顎を狙って突き上げたが、わずかに掠ったところを恭二の左手に掴まれた。万力のような締め付けに手首が軋み、激痛が頭の奥で火花を散らす。
「アサダサンアサダサンアサダサン」
その奇妙な音が、恭二の口から漏れる自分の名前だとはしばらく気付かなかった。唇の端から白く泡立った唾液を垂らし、両目の焦点を失った恭二の顔が降ってきて、反射的に首を傾けて避ける。
左耳の下から、頬、首筋にかけて生暖かく濡れた器官が激しく蠢く感触に、途方も無い嫌悪感が疾るが、必死にこらえる。武器になるものがないかと左手で床を探るものの、何も触れない。
諦めずに頭上方向に伸ばした指先が、つるりとした壁に当たった。いや、壁ではなく、シンク下部の収納だ。そのドアを開けることができれば、内側のポケットにキッチンナイフと包丁が並んでいる。
しかし、必死に振り上げた指先は、あと数センチ届かない。左足で床を蹴って体を摺り上げようとしたが、その足は恭二の右手に捉えられ、脇の下に抱えこまれてしまう。
詩乃の腰を引っ張り上げ、恭二は右手をショートパンツのギャザー部分に掛けた。容赦ない力で引っ張られ、前ボタンが弾け飛んでユニットバスのドアに当たり、乾いた音を立てた。
その音は何かの決壊を感じさせてわずかに怯んだが、詩乃は歯を食い縛り、左手の指を恭二の顔に突き立てた。爪を短く手入れしていることが今ばかりは悔やまれたが、思い切り力を込めるとそれでもわずかに皮膚が抉れ、恭二はくぐもった声を上げて仰け反った。
しかし、力が抜けたのは一瞬だった。赤い筋に囲まれた右目を血走らせ、恭二は獣じみた吼え声とともに、唾液にまみれた口を大きく開いた。
牙にも似た上下の歯を剥き出して、詩乃の肌を噛み裂こうとするかのように顔を近づけてくる。再び左手で退けようとするが、その手首をも恭二の右手に捕らえられてしまう。
両手をがっちりと押さえられたものの、あと少し恭二の顔が近づいたら、逆に首筋に噛み付こうと、詩乃が口もとを緊張させた――その時だった。
いつドアが開いたのか、冷たい空気の流れが詩乃の肩を撫でた。恭二がさっと顔を上げ、詩乃の後方を見やった。その目と口が、ぽかんと丸く広がった。
と思った次の瞬間、黒い颶風のように走りこんできた何か――誰かが、恭二の顔面に膝をめり込ませた。
どどっと音を立て、ひとかたまりになって奥の部屋に転がり込んだ恭二と謎の闖入者を、詩乃は唖然として見つめた。
鼻と口から血を流して倒れた恭二を、見知らぬ若い男が押さえ込んでいた。
やや長めの黒い髪。同じく黒のライダージャケット。咄嗟に、アパートの他の部屋の住人かと思ったが、男――というより少年がわずかに振り返り、叫んだとき、詩乃には彼の正体が分かった。
「早く逃げろシノン! 助けを呼ぶんだ!」
「キリ……」
呆然と呟いてから、詩乃は慌てて体を起こした。素早く立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かない。
シンクの縁に手を掛け、どうにか体を引っ張り上げた。キリトが来たということは、すぐに警察も現われるはずだ。ふらつく脚を叱咤しながら、数歩ドアに向かって走り寄ったところで――
詩乃は重要なことを思い出した。
恭二は、致命的な武器を持っている。それをキリトに警告しなくてはならない。
振り返り、注射器が、と叫ぼうとした時。
押さえ込まれていた恭二が、完全に理性を失った、獣のような咆哮を轟かせた。弾かれるようにキリトの体が吹き飛び、二人の体勢が入れ替わった。
「お前……おまえだなああああ!!」
恭二の絶叫は、巨大なスピーカーがハウリングを起こしたような、鼓膜を劈くほどの音量だった。
「僕のシノンに触るなああああああッ!!」
体を起こそうとしたキリトの頬に、恭二の左拳が食い込み、鈍い音を立てた。同時に右手がジャケットのポケットに差し込まれ、あの禍々しい銃型の注射器がつかみ出された。
「キリト――ッ!!」
詩乃が叫ぶのと、
「死ねええええええッ!!」
恭二が吠えるのは同時だった。
高圧注射器が、キリトの胸、ライダージャケットの隙間のTシャツに突き立てられ、
ブシュッ!! という、小さく、鋭く、しかし聞き逃しようのない音が響き渡った。
それは、恐ろしいことに、高性能の消音器を装着した銃の発射音に酷似していた。
もちろん、詩乃が知っているのはあくまでガンゲイル・オンライン内の仮想の銃器が発するサウンドエフェクトであり、実際のサイレンサーがどのような音を立てるものなのかは知る由もない。しかし、耳に染み付いたその音は、詩乃にとっては立ち向かうべき脅威をあらわすものだった。気付いたときには、足が床を蹴っていた。
数歩でキッチンを横断し、部屋に駆け込みざま、無意識のうちにもっとも効果的な武器となりそうなもの――テーブルの上のオーディオプレイヤーに視線を走らせていた。姿勢を低くし、右手でそのハンドルを掬い上げる。
詩乃が長年愛用してきたその機械は相当の年代物で、最近の壁掛け式プレイヤーと比べればいかにも巨大だった。3キログラムは下るまいという金属の直方体の重量を、腰で支えて後方に勢い良く振り回し――
陶酔した笑みを口もとに浮かべたまま、きょとんとした目つきで顔を上げた恭二の右側頭部目掛けて、一回転させた体の重さごと、思い切り叩きつけた。
衝突の瞬間の音も、手応えも、ほとんど感じなかった。しかし、ハンドルを留めていたボルトが折れ、詩乃の手から離れたプレイヤーと恭二の頭が一緒に吹き飛んで、1メートルほど離れたベッドのパイプの角にめり込むときの重い衝撃音ははっきりと耳の底に残った。
半秒ほどの時間差を置いて頭の右側と左側を強打された恭二は、呻き声を上げながらうつ伏せに倒れ込んだ。その右手が緩み、高圧注射器が半ば滑り落ちた。
果たしてその器具が、薬品を連続して発射できるものなのかどうか定かではなかったが、詩乃はとりあえずそれを恭二の手からもぎ取った。持ち主は白目を剥き、低い唸り声を漏らし続けているが、これ以上動く様子は無い。
ベルトか何かを使って手を縛ったりするべきかどうか一瞬迷ったが、その前にやることがあった。詩乃は振り向くと、
「キリトっ……!」
細く叫びながら、床に横たわったままの少年に向かって屈み込んだ。
どこか、ゲーム内のキャラクターに共通した線の細さを持つ少年は、薄く開けた目で詩乃を認めると、掠れた声を漏らした。
「やられた……まさか、あれが……注射器だったなんて……」
「どこ!? どこに打たれたの!?」
注射器を傍らに放り投げ、詩乃はキリトのライダージャケットのジッパーを千切るような勢いで引き降ろした。
救急車を呼ばなければ、その前に応急処置を、でも胸の止血なんてどうやって――口で吸い出す――!? 等々と、混濁した思考が次々と浮かび、指先を震わせる。
ジャケットの中の、色褪せたブルーのTシャツの一部、ちょうど心臓の真上と思しきあたりに、不吉に黒ずんだ染みがあった。注射器が発射した薬液の「貫通力」がどの程度なのかは分からないが、おそらく薄いシャツの布地で阻めるようなものではないと思われた。
「こ……このへん……」
キリトが顔を歪めながら指先で染みのあたりを押さえた。その手を引き剥がし、詩乃は大きく息を吸いながら、シャツの裾をジーンズから引っ張り出して大きく捲り上げた。
男にしては色が白く、つるりとした腹と胸が露わになった。その中央やや右寄り、染みがあったまさにその場所に――妙なモノが張り付いていた。
「……!?」
詩乃は唖然としてそれを凝視した。
直径3センチほどの円形。薄い銀色の円盤のまわりに、半透明のゴムでできた吸盤のようなものがはみ出している。円盤の縁から、何らかのソケットらしき突起が伸びているが、そこには何も接続されていない。
金属円の表面は全体的に濡れ、一本のしずくが下方に流れていた。透明なその液体が、恐らく恭二の言っていた「サクシニルコリン」なる致命的な薬品なのだと思われた。
詩乃は慌てて床を見回し、ティッシュのボックスを見つけて二枚抜き取ると、慎重にその液体を拭った。数センチの距離まで顔を近づけると、謎のパッチの周囲の肌を仔細に眺め回し、高圧流が侵入したあとがないか確かめる。
いくら凝視しても、キリトの胸には傷ひとつ見つからなかった。おそらく高圧注射器の先端は、Tシャツ越しにこの直径数センチの金属円にあてがわれ、発射された薬品はすべて強固な壁に阻まれたらしかった。ためしにパッチの上から手を当てると、どくんどくんと、速いが力強く動き続ける心臓のビートが伝わってきた。
詩乃はぱちぱちと瞬きし、視線を上げると、相変わらず目を閉じてうめいているキリトの顔を見た。
「ねえ……ちょっと」
「うう……駄目だ……呼吸が……苦しい……」
「ねえ、ちょっとってば」
「……ちくしょう……咄嗟に遺言なんて……思いつかないぜ……」
「これ、この貼り付いてるもの、何なの?」
「……え?」
キリトは再び瞼を開けると、自分の胸を見下ろした。訝しげに眉をしかめ、持ち上げた右手の指で金属円をなぞる。
「……ひょっとして……注射は、この上に?」
「なんか、どうも、そうみたいよ。何なのよこれは?」
「……ええと……多分、心電図モニターの電極……だと思う……」
「は……はあ? 何でそんな……あんた、心臓悪いの……?」
「いや、ぜんぜん……。《死銃》対策でつけてもらってたんだけど……そ、そうか、焦って引っ張ったから、コードが抜けて一個残ったのか……」
キリトはふううっと大きく息を吐くと、呟いた。
「まったく……、脅かしてくれるなあ」
「そりゃあ……」
詩乃は両手でぎゅっとキリトの首を掴むと、締め上げた。
「――こっちの台詞よ! し……死んじゃうかと思ったんだからね!!」
叫んだ途端、緊張が一気に抜けたのか、目の前がすうっと暗くなった。頭をぶんぶんと振ってから、少し離れた場所にうつ伏せに倒れたままの恭二に視線を向ける。
「彼は……大丈夫か?」
キリトに言われ、おそるおそる手を伸ばし、投げ出された恭二の右手首を取った。幸い、こちらもはっきりとした鼓動が伝わってきた。拘束すべきか、と改めて思ったものの、瞼を閉じたどこかあどけない恭二の顔をそれ以上見ていることが出来ず、詩乃は目をそむけた。恭二のことを、今はもう考えたくなかった。怒りも悲しみも感じなかったが、ただ、虚ろなものが胸に広がっていた。
ぺたりと床にしゃがみ込んだまま、詩乃は床に転がった高圧注射器――あるいは真の《死銃》を数秒間、漠然と見つめた。やがて口を開き、ぽつりと呟いた。
「とりあえず……来てくれて、有難う」
キリトは、見覚えのある片頬だけの笑いをかすかに浮かべると、首を振った。
「いや……何もできなかったし……それに、遅くなって悪かった。警察が、なかなか言うことをわかってくれなくて……。――その……ケガは、ない?」
詩乃はこくんと頷く。
「そうか。ええと……あの、シノン」
先ほどから不自然に顔をそむけていたキリトが、頬を赤くしながら言った。
「ふ……服を着たほうが……」
ぱちくりと瞬きしてから、ようやく詩乃は自分がボタンの取れたショートパンツしか身に付けていないことに気付いた。慌てて片手で胸を覆い、床に落ちたままだったタンクトップを拾い上げたそのとき、突然両眼から零れるものがあった。
「あ……あれ……」
頭のなかは、真綿を詰められたようにぼうっとして何も考えられないのに、頬を伝う涙は勢いを増し、次々と滴って、胸に抱いたタンクトップに染み込んでいった。
詩乃は口を閉ざし、身動きもせず、ただ涙が溢れるに任せた。何か喋ろうとしたら、その途端に大声で泣いてしまうだろうと思った。
キリトも無言のまま動こうとしなかった。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくるのに気付いたが、涙は枯れる様子もなかった。密やかに、次々と大粒の雫をこぼしながら、詩乃は胸を満たす空虚さの源が、深い喪失感であることを強く意識していた。
(第五章 終)