すべてが静止した暗闇のなか、ただ致死的な一撃が飛来するのを待つことしかできなかった詩乃は、だから何かの影が、男の左眼の放つ呪縛的な視線を遮ったときも、その正体を察することはできなかった。
隣に立つキリトが、いつのまにか右足を横たわるダインの体に近づけ、その腰からプラズマグレネードの小球体を死銃目掛けて蹴り飛ばしたのだ、と理解したのは一連の状況が終了したあとのことだった。
視界の右下方向からちいさな丸い影が鋭く飛翔し、男の顔を隠すと同時に、雷鳴のような凄まじい声が詩乃の意識を強打した。たぶん実際には、キリトは小声で叫んだだけだったのだろう。しかしその声は聴覚を経由したというよりも、まるで直接詩乃の脳に注ぎ込まれたかのように頭の中央に響き渡った。
『撃て』とも、『Shoot it』とも聞こえたその声は、あるいは言語ではなく純粋な思考の伝達であったのかもしれなかった。巨大なハンマーの一撃によって、詩乃を捕えた粘液質の幻覚は霧散し、世界に光が戻った。
血の色の空。
巨獣の遺骨のごとき鉄橋。
それらを背景に立つ、迷彩マント姿の男。
その顔に向かって飛翔していく、黒い楕円球体。
視覚情報を認識するよりも早く、シノンの左手は自動的に動いていた。思考は停止していても、刷り込まれたガンナーとしての本能は、機械のような正確さでMP7の照準と射撃を瞬時にやってのけた。ワントリガーで三発の銃弾が発射され、うち二発が空中の手榴弾を捉えた。
青白い閃光が広がり、世界を染め上げた。
至近距離で炸裂したプラズマグレネードは、高熱を伴う爆風で有無を言わさずシノンを吹き飛ばし、地面に打ち倒した。天地が割れたかのような衝撃とともに、視界右端のHPバーが一気に六割近くも消滅する。甲高い爆音が脳をシェイクし、再び意識が混乱するが、仰向けに転がることを許されたのはほんの一秒ほどだった。力強い手がシノンの右腕を掴み、有無を言わさず引っ張り上げた。
「走るぞ!!」
鞭のようにしなる声が、頬をぴしりと叩いた。そのままぐいっと手を引かれる。未だ混濁した思考が回復しないまま、シノンはもつれる脚を必死に動かした。
シノンを引き摺るように走るキリトは、後方の森ではなく、鉄橋を目指した。
空中に漂うプラズマの残光がようやく薄れ、シノンは懸命に駆けながら左方向を見た。あるいは至近距離で炸裂した範囲攻撃兵器によって、死銃のHPは全て消え去ったのではないか、と思ったが、どうやらその期待は裏切られたようだった。浅瀬にまで吹き飛ばされた黒い人影は、体を半ば水没させながらも、上体を起こしてまっすぐシノンに顔を向けた。すぐに飛沫を上げながら川を脱し、四つん這いで土手を登り始める。
追ってくる、そう思った途端喉のおくから悲鳴がこみ上げたが、それを必死に飲み込んでシノンは走った。ようやく橋の鉄板に到達し、二人の足音が硬質の金属音に変わる。
どうにか思考の回転速度が復調し、シノンは強張った口を動かした。
「こ、この先は何も無い砂漠よ! 隠れる場所なんか……」
しかし前を行くキリトには何か考えがあるようだった。
「いいからあの建物まで走るんだ!」
右手で指差す先には、川の対岸、橋から伸びる道の左脇にぽつんと佇む廃墟があった。だが、コンクリート二階建ての監視所と思しき建築物には、とても二人が隠れおおせるような広さはない。
と言って、今さら引き返すことはできなかった。ちらりと後方を振り返ると、土手を這い登った死銃が、怒りの叫びを上げながら鉄橋目指して走り始めるところだった。ふたたび、恐怖に心臓がぎゅうっと縮こまる。
宙を飛ぶようなスピードで、シノンとキリトは長い鉄橋を駆け抜け、BoB本大会フィールドの西半分を構成する砂漠エリアへと突入した。
足元の道だけは、盛大にひび割れてはいるもののどうにか舗装路の体をなしているが、それ以外の場所は移動速度にマイナス修正を受ける細かい砂の海だ。道から外れた途端、死銃に追いつかれてしまうのは明白だった。
その上、広大な砂漠には所々に奇怪なサボテンやら黒い岩山が点在するだけで、双眼鏡での索敵から逃れるのも至難の技だ。一体どうするつもりなのか、と思っても、もうこうなってはただ前を目指すしかない。
アスファルトの欠片を蹴り飛ばしながら更に数十秒走り、二人は灰色の建物へと接近した。
無骨な箱状の廃墟の、一階正面には巨大なゲートが口を開けていた。トラックでも通れそうな四角い入り口の奥はどうやらガレージ状の空間となっているらしく、うずたかく積まれた箱やら何やらの影が見える。おそらく隈なく捜せばいくつかのアイテムボックスを発見できるはずだが、勿論そんな余裕は無い。
まさかこの場所で死銃を迎え撃とうというのだろうか、とシノンは恐怖したが、どうやらキリトの目的は他にあったようだった。キリトに続いてガレージに駆け込んだシノンが見たものは、右の壁際に二つ並んだ奇妙な乗り物だった。
オートバイのようでもあり、バギーのようでもある。前半分はバイクのそれで、一本のごつごつしたタイヤの上にハンドルが迫り出し、跨る形のシートが続く。しかし後ろ半分は甲虫のように広がり、広めのシートの両脇に極太のタイヤが出っ張っている。全体は埃っぽいサンドカラーでお世辞にもキレイとは言えないが、どうやら朽ちた遺物ではなく動くモノのようだった。
キリトはこれを目指していたのか、と思う間もなく、うち一台に跨った少年の鋭い声が飛んだ。
「シノン、運転できるか!?」
慌てて首を振る。
「だめ……自信ない」
GGO世界には、小型のスクーターから、機銃を備えた装甲車までいくつかの乗り物が存在し、街には専用の練習場もあるのだが、シノンは以前バイクの運転を練習しようとしてシュピーゲルに盛大に笑われるという屈辱を舐めて以来触ってもいなかった。
「わかった、後ろに」
キリトの言葉に従い、三輪バギーの後部座席に飛び乗る。
意外に様になった仕草でハンドルを握り、キリトはイグニションスイッチを押した。キュルルッという高い音と共にエンジンが始動し、すぐに太い爆音となってガレージを震わせる。
走り出すかと思ってシノンは両手でしっかりとシート前方の金属バーを掴んだが、意に反してキリトは腰からファイブセブンを抜いた。無言で左横に横たわるもう一台のバギーに銃口を向け、立て続けにトリガーを引く。
すぐにキリトの意図を察し、シノンもMP7を構えた。エンジンを狙ってフルオートで弾を撃ち込んだが、視界下部に表示されたバギーの耐久度メーターは、マガジンが空になっても半分程度しか減少しなかった。
「くそっ、もう時間がない。行くぞ!」
キリトは舌打ちとともにファイブセブンを腰に戻し、右手でアクセルをあおった。シノンも慌ててバーを握りなおす。
クラッチが繋がれると同時に、一瞬悲鳴のようなスキール音を残して、バギーは前輪を持ち上げながら猛然とコンクリートの床を蹴り飛ばした。
スライドしながら左にターンし、薄暗いガレージから夕闇の深まりつつある砂漠へと飛び出し――たその瞬間、
「頭を下げろ!!」
キリトの叫びに、シノンは反射的に首を引っ込めた。いくつもの薄赤い光のライン――弾道予測線が、音も無く周囲の空間を貫いた。
直後、頭上を、唸りを上げて銃弾の一群が掠めた。音からして、死銃のベレッタが発射した小口径ライフル弾だ。うち幾つかが車体に命中したらしく、カンカンと乾いた音とともに震動が伝わってくる。
必死にバギーの装甲の陰に体を隠しながら、シノンは右方向に視線を向けた。
恐ろしいほど近くで、ぼろマントを風になびかせたモルターレが、意味をなさない叫びとともに腰の突撃銃を乱射していた。銃口が間断なく炎の舌を伸ばし、吐き出された弾丸が空気を切り裂く。
だが幸い、獲物を取り逃がしつつある怒りのせいか、モルターレの着弾予測円は定まらないようだった。ろくに命中弾のないままマガジンが空になったらしく、ベレッタが沈黙した。
その隙に道路に達した三輪バギーは、再び後輪から白煙を上げながら左に急ターンした。路面にくっきりと焦げ跡を残しながら、前のタイヤを浮かせてダッシュする。キリトが左足でシフターを蹴り飛ばすたびにエンジンが咆哮し、シノンの体をシートに押し付ける。
たちまちトップギアに達したバギーは、砂漠に甲高い叫び声を響かせながら曲がりくねった道を疾走しはじめた。
――逃げ切った……!?
ようやくそう確信して、シノンはずっと詰めていた息を深く吐き出した。今になって、体中ががたがたと震えていることに気付いた。
こわばった指を動かし、握ったままだったMP7を腰に戻したその時、再びキリトが緊張した声で叫んだ。
「――畜生、まだだ! 気を抜くなよ!」
慌てて振り返ると――
小さく遠ざかりつつある監視所のゲートから、破壊しそこねたもう一台のバギーが飛び出すところだった。乗っているのが誰か、疑う余地も無かった。
再びシノンの体を、深い震えが駆け抜けた。不吉な烏の黒翼のようにマントをはためかせ、執拗に追ってくる男の姿はもはや死の呪いの具現化とも思われた。見たくない、と思いながらも、三百メートルほど後方の死銃の顔に視線を集中せずにいられない。距離的に見えるはずはない――のだが、シノンには、フードの奥の闇に浮かぶ顔の下半分、ニヤニヤと歯をむき出したその口もとがはっきりと見えた。
「追ってくる……もっと速く……逃げて……逃げて……!」
悲鳴にも似たか細い声でシノンは叫んだ。
それに応えるように、キリトはいっそうアクセルを開けたが、その途端後輪の片方が舗装路から外れて砂を噛んだらしく、いきなりバギーの後部が右にスライドした。
シノンは喉の奥から高い声を漏らしながら必死にバーを握り締めた。ここでバギーがスピンでもしようものなら、モルターレは十秒とかからず追いついてくるだろう。キリトは罵り声を上げながら蛇行する車体を制御しようとする。
甲高い絶叫を上げながら左右にスライドを繰り返したバギーは、数秒後にどうやら再び舗装路の中央に戻って加速を再開した。しかし、そのわずかなタイムロスの間にも、死銃は着実に距離を詰めてきている。
砂漠を貫くハイウェイの遺跡は嫌がらせのように次々と曲線を描き、逃走者に限界の高速コーナリングを強いた。その上路面のところどころに砂が薄い層を作り、それを踏んだタイヤから容赦なくミューを奪い取る。その度にバギーは真横に滑り、シノンの心拍をスキップさせる。
条件は追跡者も同じはずだが、死銃は三輪バギーの運転にも熟達しているらしく、着実にコーナーを抜けては追いすがってくる。その上、向こうにはひとつ絶対のアドバンテージがあった。
もしこれが現実世界なら、十キロや二十キロの重量差などさして状況に影響は与えないだろう。しかし、ここは厳然としたデジタルデータの支配するゲームの中だ。同じマシンを使用しているなら、二人乗りのほうが明らかに加速が鈍い。
砂丘の陰にかくれ、再度姿を現すたびに、死銃の駆るバギーのシルエットはじわじわと、しかし確実に大きくなっていく。届くはずはないのに、シノンの首筋を、耳障りな金属音に似た声が(そら、捕まえるぞ、捕まえるぞ)じっとりと撫でる。
距離がついに二百メートルを割った、と思われた時だった。
死銃が、左手をハンドルから離し、まっすぐこちらに向けた。その手には――あの、黒いハンドガン。
全身を凍りつかせ、シートに伏せるのも忘れて、シノンは銃を凝視した。奥歯が震えて、かちかちと不規則な音を立てた。ふっ、と音も無く、シノンの右目の下を弾道予測線の無感情な指先が触れた。思考が命じた結果ではなく、自動的にシノンは首を左に倒した。
直後、悪魔があぎとを開くが如く、銃口が真紅に発光し――
ズシュウッ! と重い唸り声を引きながら、血液の奔流にも似た太い光線がシノンの右頬から十センチほどの空間を通過した。
ビームが消え去ったあとも、空間に残された赤光の粒子がちりちりと漂い、シノンの頬に触れた。その瞬間、シノンはドライアイスを押し付けられたような痛みを感じた。
「嫌ああぁっ!!」
今度こそシノンは悲鳴を上げ、体をシートの上に丸めた。直後、死銃の第二射が襲来し、バギーの後部装甲に命中したらしく、震動音とともに視界の端が赤く染まった。
「やだよ……助けて……助けてよ……」
赤ん坊のようにぎゅうっと体を縮めて、シノンはうわ言のように呟いた。自分が装甲の陰に隠れても、バギーを操るキリトが撃たれて消滅すれば結局は同じことなのだが、それすらもその時は思い至らなかった。
だが、シノンが姿を隠すと同時に、赤いレーザーの襲来は停止したようだった。どうやら死銃は先にバギーを破壊することにしたらしく、突撃銃の発射音が響き渡ると同時に、カンカンという着弾の震動が体に伝わった。うち一発がキリトの背中を捉えたのか、少年の低い声が届いた。
「ぐっ……。――シノン……聞こえるか、シノン!」
名前を呼ばれたが、返事はできなかった。ただシートの上にうずくまり、細い声を漏らしつづける。
「シノン!!」
再び、鋭い声で背中を叩かれ、シノンはようやく歯を食い縛って悲鳴を止めた。首をわずかに動かして、黒髪を風になびかせるキリトの後姿を捉える。前方を睨み、限界までアクセルをあおりながら、キリトは強張っているがいまだ冷静な声で言った。
「シノン、このままだと追いつかれる。――奴を狙撃してくれ」
「む……無理だよ……」
シノンはいやいやをするように首を横に振った。右肩にはずしりとしたヘカートIIの感触があったが、いつもなら闘志を与えてくれるその重みも、いまは何も伝えてはこなかった。
「当たらなくてもいい! 牽制だけでいいんだ!」
キリトはなおも叫ぶが、シノンは首を振ることしかできない。
「……無理……あいつ……あいつは……」
過去から甦った亡霊であるあの男は、例え対物ライフル弾が命中しようとも止まりはしない――とシノンは確信していた。牽制などが通用する相手ではない。
「なら俺にライフルを寄越せ! 俺が撃つッ!!」
振り向いたキリトは、黒い瞳を爛々を光らせ、歯をむき出して言い放った。
その言葉は、シノンの中にほんのわずかに残ったスナイパーとしてのプライドを揺り動かした。
ヘカートは……私の分身……私以外に……撃てる奴は……
途切れ途切れの思考が、回路をスパークする電流のようにシノンの右手を動かした。
のろのろとした動きで、肩から巨大なライフルを外す。シートの背に銃身を乗せ、恐る恐る体を起こして、スコープを覗き込む。
照準器の倍率は限界まで下げられていたが、それでも二百メートルの近距離ゆえに死銃の駆るバギーの影は視野の三割ほどを埋めていた。ピンポイントで体の中心線を狙うために倍率を上げようとしてから、シノンは伸ばした手を止めた。
これ以上拡大したら、フードの下の顔がはっきりと見えてしまう、そう思うと指が動かせなかった。厭だ、恐い、見たくない、そう胸の奥で呟きながら、シノンは右手をトリガーに掛け、狙撃体勢に入った。
死銃は相変わらず、左手に握ったベレッタを乱射していたが、さすがに突撃銃の片手撃ちでは照準が定まらないらしく、弾丸は左右に大きく外れていく。それでも、今にも再び銃をあのハンドガン、かつて詩乃が握った54式黒星の再生した姿であるところの呪われた武器に持ち替えるのではないかと思うと、恐怖の冷たい手が心臓をぎりぎりと締め上げる。
一発、一発だけ撃つんだ、そう自分を鼓舞しながらシノンはどうにか人差し指を数ミリ動かした。視界に着弾予測円が表示された。
だが、この近距離でも、グリーンの円はだらしなく広がり、死銃の体から完全にはみ出して不規則に脈動していた。精神は千々に乱れ、おまけに走行中のバギーが盛大に震動しているせいだ。
「だ……だめ……こんなに揺れたら、照準できない……!」
スコープを覗いたまま、シノンは泣き言のように叫んだ。だが、すぐにキリトの厳しい声が飛んだ。
「三秒だけ揺れを止める! その間に撃て! いくぞ……3、2、1……!」
突然、激しいショックが襲い、バギーは路面を離れた。わざと砂丘に突っ込み、車体をジャンプさせたのだ。激しい揺れが消え、予測円は――ほんのわずか、ささいな気休め程度に小さくなった。
絶対に、当たらない。
スナイパーとして経験を積んだ数ヶ月のなかで、シノンははじめてそう確信しながらトリガーを絞った。
無様に的を外すよりも、いっそ、不発なら――。愛用しているマッチグレード・アモでは不良品などほとんど有り得ないのだが、それでもシノンはそう思った。しかし、物言わぬ鋼鉄であるヘカートIIは、常と同じように轟音を響かせて巨大な発射炎を吐き出した。
無理な体勢ゆえにリコイルを殺しきれず、シノンは座席前部の金属バーに叩きつけられた。弾の行方など見たくない、そう思いながらも、染み付いた狙撃手の性によって左目の端で追跡者の姿を凝視する。
敵の心臓を狙った弾丸は、当然のように外れ――
しかし、あるいは女神自身の矜持が完全なミスショットを拒否したのか、バギーのシャーシ下端ぎりぎりの場所を貫いて、深い孔を穿った。
GGOにおけるビークルの類は、全て超高額なレアアイテムである。
ゆえに、不運な一撃によって全損することのないよう、車体の耐久度はどの箇所も一定に設定されており、さらにキリトがガレージで破壊を試みて失敗したように、その数値はとても高いものとなっている。
だが、あの時メーターを半減させておいた事と、更に対物ライフルの威力が今回ばかりは幸運を引きずり寄せた。
いきなり、オレンジ色の炎が死銃のバギーの機関部から噴き出した。ロックした後輪がグリップを失い、くるくるとスピンし始めた車体は、ハイウェイを外れて砂丘の側面に突っ込み――
あっけなく爆発した。轟音とともにタイヤが高く宙を飛び、すぐに黒煙に紛れて見えなくなった。
シノンはへたりとシートの上に崩れ落ちた。ただただ呆然と、紺色の空を染める赤い炎の色を見つめることしかできなかった。
更に数分間バギーを疾走させてから、キリトは舗装路をはずれ、砂漠に乗り入れた。
速度を落とし、慎重な操作で砂丘のあいだを縫っていく。
やがて、光の消えかけた空に黒々とそびえる岩山の一つにゆっくりと近づき、バギーを止めた。
「……やれやれ、こうも見晴らしがいいと、隠れようにも……おっ、あれは」
その声にシノンがぼんやりと顔を上げると、岩山の根元に、一際黒く洞窟が口を開けているのが見えた。キリトは再度アクセルを捻り、のろのろと穴に近づいてそのままバギーを進入させた。洞窟の内部はそこそこ広く、入り口から見通せない位置に車体を隠してもなお僅かなスペースがあった。
エンジンを切り、砂の上に降り立ったキリトは、大きく伸びをしながらシノンを振り返った。
「……とりあえず、しばらくここで様子を見よう」
シートにうずくまり、ヘカートを抱えたままの格好で、シノンはじっと少年の顔を見た。なんだか、すべてが幻のように現実感が無かった。
「……あいつは……死んだの?」
ぽつりと呟くと、キリトは唇を噛みながら首を振った。
「いや……爆発の直前、バギーから飛び降りるのが見えた。HPが高いのか、防具がいいのか……異常に打たれ強い奴だ」
そんな問題じゃない、あいつは絶対に殺せない――なぜなら、通常のプレイヤーではない、本物の亡霊だから。そう思ったが、口には出さなかった。ふらつく足に力を込めて立ち上がると、シノンはバギーから降り、洞窟の壁に体をあずけて再び丸くなった。
「とりあえず、俺たちもヒットポイントを回復しよう。あのグレネードで大分減ったからな……」
キリトはそう言うと腰のポーチをまさぐり、HPリペアキットと呼ばれるドリンク剤の小アンプルを二つ取り出した。片方をひょいっとシノンに放ってきたので、両手で受け止めたが、手の中の小瓶はまったく無力な代物にしか見えなかった。これでいくら数値を回復させても、あの赤いビームに撃たれれば、それで――
どすんとシノンの横に腰を下ろし、キリトはアンプルの首を飛ばしてぐっと呷った。
「……早く飲んでおけよ」
言われて、シノンもガラス瓶を開けて口をつける。薬液は爽やかなレモン味のはずなのだが、今はよく分からなかった。
たちまち瓶を空にしたキリトは、今度は腹ごしらえとばかりに携行食のフィグバーを取り出し、包装を破くとがぶりと齧りついた。
「ひのんも食う?」
「…………」
小さく首を横に振る。キリトは肩をすくめると手を振り、ウインドウを出して覗き込んだ。
「お……ずいぶん進んだな。あと六人……てことは、俺たちとモルターレ以外に残ってるのは三人か……。回線切断者は、変わらず二人……」
再びバーを齧りとり、もぐもぐと口を動かす。
「……運転中に双眼鏡で見たかぎりでは、この砂漠には他のプレイヤーはいないようだったな。シノンは見たか?」
再び首を振る。もっとも、ひたすらシートにうずくまっていたので、ろくに索敵もできなかったのだが。
「そうか……うーん……」
唸りながらレーションの最後のひと欠片を食べ終えたキリトは、しばらく黙考していたが、やがてまっすぐにシノンを見た。
「……あいつは強い。数値的にも……それに、あの狂気ゆえの力も、な。正直、一撃も食らわないで倒す自信はない。さっき逃げ切れたのも半分は奇跡だ……。これ以上、偶然をあてにはできない」
「…………」
己の強さに絶対の自信を持っていると思われたキリトの口から出た意外な言葉に、シノンはじっと少年の顔を見た。黒い瞳に浮かぶ光は、いつになく頼りなげに揺れているように見えた。
「……あなたでも、恐いの?」
ぽつりと訊くと、キリトはかすかに苦笑した。
「――ああ、恐いよ。昔の俺なら……あるいは、本物の死の可能性があろうと戦えたかもしれない。でも、今は……守りたいものが、いろいろ出来たからな……死ねないし、死にたくない……」
「守りたい、もの……?」
「ああ。現実、と言ってもいい。俺には、いまのリアルが何より大切なんだ」
「…………」
「だから……もう、奴とは戦いたくない。モルターレがこの砂漠で俺たちを捜してる間に、他の三人が退場するのを祈って、このままここに隠れよう。奴に優勝させるのは癪だけど……もう、そんな問題じゃないもんな……」
キリトの言葉を聞きながらも、シノンの胸の中には先ほどの一言がリフレインしていた。
リアル――私の、リアル。
このフィールドから生還したあとの、詩乃を待ち受ける現実のことを考える。
鉄橋のたもとで死銃に黒いハンドガンを向けられたあのとき、シノンは完全に竦みあがった。骨の髄まで怯えた。逃走の最中も何度となく悲鳴を上げ、泣き叫び、己の存在理由と言ってもいい狙撃の瞬間に、不発弾を祈りさえした。氷の狙撃手シノンは――完全に消え去った。
たぶん、このままなら、もう二度と自分の強さなど信じられないだろう。心は震え、指は強張って、全ての銃弾が的を外すだろう。
あの記憶に打ち克つことはおろか、現実世界でも、夜道の物陰から――戸口の隙間から、あの男が現われるのではないかと常に怯えることになる。それが、詩乃の、たったひとつのリアル。
そんなものに、守るべき価値など――あるのだろうか?
「……私……」
シノンはゆっくりと顔を上げ、キリトの目を見て、言った。
「私、逃げない」
「……え?」
「逃げない。ここに隠れない。外に出て、あの男と、戦う」
キリトは眉を寄せ、シノンに少しにじり寄って低くささやいた。
「……何を言ってるんだ、シノン。あいつと戦えば……ほんとうに死ぬかもしれないんだ。こんな、架空のゲーム世界で……二度と、現実に戻れないかもしれないんだぞ」
シノンはしばらく唇を閉じたあと、静かな声で唯一の結論を口にした。
「死んでも構わない」
「…………な……」
「……私、さっき、すごく怖かった。死ぬのが恐ろしかった。五年前の私より弱くなって……情けなく、悲鳴上げて……。そんなのじゃ、駄目なの。そんな私のまま生きつづけるくらいなら、死んだほうがいい」
「……怖いのは当たり前だ。死ぬのが怖くない奴なんていない」
「嫌なの、怖いのは。もう怯えて生きるのは……疲れた。――別に、あなたに付き合ってくれなんて言わない。一人でも戦えるから」
言って、シノンは萎えた腕に力をこめ、立ち上がろうとした。だが、その手をキリトが掴んだ。
「――一人で戦って、一人で死ぬ……とでも言いたいのか?」
「……そう。たぶん、それが私の運命だったんだ……」
罪を犯して、しかしいかなる裁きも詩乃は受けなかった。だから、あの男が帰ってきたのだ。しかるべき罰を与えるために。
「……離して。私……行かないと」
振りほどこうとした手を、しかしキリトは更にきつく掴んだ。
「……ふざけるなよ。一人で死ぬ、なんてことは有り得ない。人が死ぬときは、他の人の中にいるそいつも同時に死ぬんだ。俺の中にも、もうシノンがいるんだ!」
「そんなこと、頼んだわけじゃない。……私は、私を誰かに預けたことなんかない!」
「もう、こうして関わりあっているじゃないか!」
キリトは握ったシノンの手をぐいっと持ち上げ、眼前に突きつけた。
その瞬間、凍った心の底に押さえつけられていた激情が、一気に噴き上がった。シノンは音がするほどに歯を食い縛り、もう片方の手でキリトの襟首に掴みかかった。燃え上がるほどの熱量を込めた視線をキリトの目に注ぎ、叫んだ。
「――なら、私を一生守って!! 私を一生愛してよ!!」
突然視界が歪んだ。頬に、熱い感覚があった。自分の眼に涙が溢れ、滴っていることに、シノンはすぐには気付かなかった。
握られた右手を強引に振り払い、固く拳を握ってキリトの胸に打ちかかった。二度、三度、力任せにどんどんと叩きつける。
「何も知らないくせに……何もできないくせに、勝手なこと言わないで! こ……これは、私の、私だけの戦いなのよ! たとえ、負けて……死んでも、誰にも私を責める権利なんかない!! それとも、あなたが一緒に背負ってくれるの!? この……」
握った右手をキリトの目の前に差し出す。かつて、血に塗れた拳銃のトリガーを引き、一人の人間の命を奪った手。肌を詳細に調べれば、火薬の微粒子が侵入してできた小さな黒子が今でも残る、汚れた手。
「この、ひ……人殺しの手を、あなたが握ってくれるの!?」
記憶の底から、口々に詩乃を罵るいくつもの声が甦ってくる。教室で、他の生徒やあるいはその持ち物にうっかり触れてしまおうものなら、たちまち(触んなよヒトゴロシが! 血がつくだろ!!)足を蹴られ、肩を小突かれた。あの事件以降、詩乃は自ら誰かに触れたことはない。ただの一度としてない。
その拳を、最後にもう一度思い切り打ちつけた。この場所はセキュリティコードのないバトルフィールドであり、恐らくキリトのHPは打擲のたびにごく僅かに減少しているはずだったが、少年は身じろぎひとつしなかった。
「う……ううーっ…………」
こみ上げる涙を抑えることが出来なかった。泣き顔を見られるのが嫌で、勢いよく俯くと、額がどすんとキリトの胸にぶつかった。
左手で強くキリトの襟首を掴んだまま、力まかせに額を押し付けて、シノンは食いしばった歯の間から嗚咽を漏らしつづけた。幼子のように号泣しながらも、自分の中にこのような種類のエネルギーがあったことが少し不思議だった。最後に人前で泣いたのがいつだったかも思い出せなかった。
やがて、右肩にキリトの手が触れるのを感じた。しかしシノンは、握ったままの拳でその手を力任せに払いのけた。
「嫌い……大嫌いよ、あんたなんか!」
叫ぶあいだも、涙はあとからあとから零れ落ち、キリトの厚いとは言えない胸に吸い込まれていった。
どれくらいそのままでいたのか、いつしか時間の感覚を完全に喪失していた。
ついに涙も枯れ、シノンは途方も無い虚脱感とともに体の力を抜いた。自分に許したことのない甘い感傷の痛みが今だけは心地よく、少年に頭を預けたまま小さくしゃくりあげ続けた。
さらに数分続いた沈黙を破ったのは、シノンのほうだった。
「……あんたのことは嫌いだけど……少し、寄りかからせて」
呟くように言うと、苦笑の気配とともにキリトは短く、うん、と答えた。投げ出されたキリトの脚の上に、ゆっくりと上体を横たえる。顔を見られるのはやはり恥ずかしかったので、背中をキリトの腹に預けると、視界には、カウルに弾痕のあいた三輪バギーと洞窟の入り口が入った。
頭のなかはぼんやりとしていたが、死銃に襲われたときの思考麻痺状態とは違い、きつく重い服を脱いだような浮遊感があった。いつしか、ぽつりと口にしていた。
「私ね……、人を、殺したの」
キリトの返事を待たず、続ける。
「ゲームの中じゃないよ。……現実世界で。ほんとうに、人を……殺したんだ。五年前、東北の県であった郵便局の強盗事件で……犯人が、局員をひとり拳銃で撃って、自分は銃の暴発で死んだ、って報道されたんだけど、……ほんとは、そうじゃないんだ。その場にいた私が、強盗の拳銃を奪って、撃ち殺したの」
「……五年前……?」
囁くようなキリトの問いかけに、こくんと頷く。
「うん。私は十一歳だった……もしかしたら、子供だからそんなことが出来たのかもね。歯を二本折って、両手首を捻挫して、あと背中の打撲と右肩を脱臼したけど、それ以外に怪我は無かった。体の傷はすぐ治ったけど……治らないものもあった」
「…………」
「私、それからずっと、銃を見ると吐いたり倒れたりしちゃうんだ。テレビや、漫画とかでも……手で、ピストルの真似されるだけでも駄目。銃を見ると……目の前に、殺したときのあの男の顔が浮かんできて……こ、怖いの。すごく、怖い」
「……でも」
「うん。でも、この世界でなら大丈夫だった。発作が起きないどころか……いくつかの銃は……」
視線を動かし、砂の上に横たわるヘカートIIの優美なラインをなぞる。
「……好きにすらなれた。だから、思ったんだ。この世界でいちばん強くなれたら、きっと現実の私も強くなれる。あの記憶を、忘れることができる……って。なのに……さっき、死銃に狙われたとき……発作が起きそうになって……すごく、怖くて……現実の私に、戻ってた……。だから、私、あいつと戦わないとだめなの。あいつと戦って、勝たないと……《シノン》がいなくなっちゃう」
両手でぎゅっと体を抱く。
「死ぬのは、そりゃ怖いよ。でも……でもね、それと同じくらい、発作に怯えたまま生きるのも、怖いんだ。死銃と……あの記憶と、戦わないで逃げちゃったら、私きっと前より弱くなっちゃう。もう、普通に暮らせなくなっちゃう。だから……だから」
不意に襲ってきた寒気に、深く身震いした、その時。
「俺も……」
いつになく弱々しい、途方に暮れた子供のような声で、キリトが呟いた。
「俺も、人を、殺したことがある」
「え……」
同時に、今度は背中のうしろでキリトの体が震えた。
「……前に、言ったろう。俺はあの死銃……モルターレと、他のゲームで顔見知りだった、って」
「……う、うん」
「そのゲームのタイトルは……《ソードアート・オンライン》。きいた事……ある?」
「…………」
思わず首を動かし、キリトの顔を見上げていた。少年は、背中を洞窟の岩壁に預け、昏い目つきで空を見つめていた。
もちろんシノンは、その名前を知っていた。およそ日本のVRMMOプレイヤーで、かの呪われたタイトルを知らない者はいるまい。
「……じゃあ、あんたは……」
「ああ。ネット用語で言えば……《生還者》って奴だ。そして、あのモルターレも。俺はあいつと、互いの命を奪りあって、本気で戦った」
キリトの瞳から光が薄れ、視線が茫洋と宙をさまよった。
「あの男は、《ラフィン・コフィン》っていう名前のレッドギルドに所属していた。あ……SAOでは、タグの色から犯罪者のことをオレンジプレイヤー、盗賊ギルドのことをオレンジギルド、って言ったんだけど……特にその中でも、積極的に殺人を楽しむ奴らをレッド、って言ったんだ。そういう奴が、いっぱい……ほんとにいっぱいいたんだよ」
「で、でも……あのゲームでは、し……死んだら、ほんとに死んじゃったんでしょ……?」
「そうだ。でも……だからこそ、かな。一部のプレイヤーには、殺しは最大の快楽だった。ラフィン・コフィンは、そういう連中の集団だったんだ。フィールドやダンジョンでほかのパーティーを襲って、金とアイテムを奪って、それから一人ずつ殺した。ずいぶん色々と……酷いやり方を編み出したらしい」
「…………」
「だから、とうとう討伐パーティーが組まれて……俺はそこに雇われたんだ。討伐って言っても、ラフィン・コフィンのメンバーを殺そうっていう訳じゃなくて、全員を無力化して牢獄に送るっていう手筈だった。苦労して奴らのアジトを調べて、戦力的にも絶対大丈夫、っていうくらいのレベルのプレイヤーを揃えて、夜更けに急襲した。でも……こっちのパーティーに、内通者がいたんだ。向こうは罠張って待ち構えてて……討伐隊は、最初の1分で半分以上殺された……。それでも、どうにか立て直して……すごい混戦になって……その中で……お、俺……」
再びキリトの体がぶるぶると震える。目が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。
「武器が壊れて、戦意喪失した奴を……牢獄に送るはずだったのに……こ、殺したんだ。ひとりは……剣で、首を撥ねた。もう一人は、心臓を刺した。三人目も、無茶苦茶に切り刻んで……でも、そいつが死ぬぎりぎりのところで、我に返った。それが……あの男、モルターレだ。俺は……現実に戻ったあと、役人に無理を言って、殺した二人のことを調べてもらった」
「……そ……それで……?」
「――死んでたよ。二人とも。墓にも行った……けど、家族には……会えなかった。会って……本当のことを、言わないと……いけないのに……」
「……キリト」
シノンは体を起こし、キリトの両肩を掴んだ。少年の視線は微妙に焦点を失い、過去の一地点を覗き込んでいるように見えた。
「……私、あんたのしたことには、何も言えない。言う資格、ない。でも……一つだけ、一つだけ教えて。あんたは、その記憶を……どうやって、乗り越えたの? どうやって、過去に勝ったの?」
己の罪を吐露したばかりの相手に対して、あまりにも配慮のない、利己的な質問だと思った。しかし、訊かずにいられなかった。キリトの普段の立ち居振舞いには、そのような過去を感じさせるものは何一つ無かったからだ。
――しかし。
キリトは、二、三度瞬きをすると、シノンの目をじっと見た。そして、ゆっくりと、首を左右に振った。
「……乗り越えてない」
「え……」
「そんなこと……不可能だ。今でも夢に見ては飛び起きるし、人込みの中にあの二人の顔を見た気がして心臓が止まりそうになることもある。二人のことは……」
指先で耳の上を軽く叩き、続ける。
「俺の頭のなかに、絶対に消えない記憶として刻み込まれている。死ぬときの顔……命乞いの言葉……悲鳴……たぶん、一生忘れることは出来ないだろう」
「そ……そんな……」
シノンは呆然と呟いた。
「じゃあ……ど……どうすればいいの……。わ……私……」
――私は、一生このままなのか。
それは、あまりにも恐ろしい宣告だった。
全ては――無駄なのだろうか? たとえここで死銃と戦い、勝利し、GGO最強の称号を手に入れたところで、現実の詩乃の恐怖は続く――そういうことなのだろうか……?
「――でもな、シノン」
キリトの右手が動き、自分の肩を握りしめるシノンの手の上に載せられた。
「たとえ記憶に勝つ……恐怖を忘れることはできなくても、戦い続けることはできる。俺は、我を忘れて、この手で人を殺した……なのに、責められるどころか、称えられさえした。誰も俺を裁きもせず、償う方法も教えてくれなかった。だから、たぶん、この一生続く記憶との戦いが、俺に与えられた罰なんだと思う。俺は、ずっとあの二人のことを考え続ける……後悔し続けるだろう。せめてそれは、受けいれないといけない事なんだと思う……」
「……戦い続ける……そんな……私、そんなこと出来ない……」
「無理矢理遠ざけようとしても、消えることはないんだと思う……。なら、まっすぐ見て、受け止めるしかない」
「…………」
シノンは両手から力を抜き、再びキリトの脚の上に横たわった。
あの記憶をまっすぐ受け止める……そんなことができるとは、到底思えなかった。せめて、呼吸困難や嘔吐といった発作症状さえなければ……それとも、それは詩乃が無理に記憶をねじ伏せようとしているからなのだろうか……?
キリトの話は、正直なところ更なる混乱をもたらしただけのように思えた。しかし――とりあえず、一つだけはっきりとしたことがあった。
「……死銃……」
「ん?」
「じゃあ、死銃――あのモルターレって奴は、実在する、生きたプレイヤーなんだね……」
「そりゃあ、そうさ。SAOでの名前は《ザザ》。目の色から《赤眼》とも呼ばれてた。調べれば、すぐに現実の本名もわかるはずだ」
「……そう……」
ならば、少なくとも、詩乃の過去から甦った亡霊ではなかったわけだ。
「……じゃあ、SAO時代のことが忘れられなくて、生還した後もこのゲームで殺しつづけてる……ってこと?」
「……本人は、そんな事を言っていたな。SAOで沢山人を殺したからこそ、この世界でも銃で本当に人が殺せるのだ、とも……」
「……そんな、ことが……」
「有り得ない……と思いたいが、しかし……ここから脱出して、現実のモルターレを押さえてみない限り何とも言えないな。……いや、待てよ……そう言えば……」
「……?」
再び顔を見上げると、キリトは考え込むときの癖なのか、あごを指先でなぞりながら宙を睨んでいた。
「いや……まただ、と思ってさ」
「何が……?」
「俺たちを襲ったとき……奴はあのハンドガンで、俺は撃たずにシノンだけを狙った。ダインを見逃し、ザッパを撃ったときと同じだ」
「…………」
「……俺を見逃す理由なんかないはずだ。奴にしてみれば、仲間を殺し、自分を捕らえた仇敵だぞ。……目立つプレイヤーを殺す、っていう死銃の力のアピールの為としても……予選決勝では俺が勝ったんだし、見た目も俺のほうが美人だし……」
「悪かったわね」
肩でキリトの腹を小突く。
「うむ、じゃあ、同程度ということにしておこう。しかし、奴は俺を撃たなかった……」
「ご馳走は後回し、とか言ってなかったっけ?」
「でも、それで食べ逃したら本末転倒ってもんだろう。やっぱり、何か理由があるんだ……。死銃の、力の秘密に繋がる何かが……」
「うーん……」
シノンは体の向きを変え、キリトの脚のうえでうつ伏せになって、組んだ腕に頭を乗せた。この少年に対する腹立ちは消えていないが、そのような相手と密に触れ合っている状況がある種の安心感をもたらしているような気がして、どこか心地いい。
「……つまり、こういうこと? あんたとダイン、それに私とザッパの間には、それぞれ何か共通点があって、それがターゲットになるプレイヤーとならないプレイヤーを分けている……」
「うん。更に言えば、すでに殺されたゼクシードとたらこの二人にも、君とザッパに共通する何かがあるはずだ。……単に強さとか、ランキングってことなのかな……」
「前大会の成績で言えば、確かダインのほうがザッパより少し上だったわ」
「じゃあ……何か、特定の事柄に関わっているとかかな……」
「それも……無いよ、多分。だって私、ダインとはこないだまでずっと同じパーティー組んでて、何度も一緒にフィールドに出たけど、ザッパとはパーティーどころかほとんど話したこともないもん」
「ゼクシードやたらことは?」
「あの二人は、私やダインとはまたひとつふたつランクの違う有名人だから……。ゼクシードは前優勝者だし、たらこって人は五位だか六位だったけど、すごい大きいスコードロンのリーダーだしね。喋ったことなんて一度もない」
「むう……じゃあ、やはり装備とか……あるいはステータスタイプ……」
「装備は、全員バラバラだよ。私はこのとおり狙撃銃だし、ザッパは大口径ライフル、ゼクシードは確か変則で、フィールド中和効果つきの光学銃だったわ。たらこって人は突撃銃だしね。ステータスは……ああ」
「ん?」
キリトの顔を一瞬見上げてから、続ける。
「まあ、ある意味共通と言えば言えるかもね。全員、AGI特化じゃない、って一点でね。でも……とても共通点とは言えないよ。STRに偏ってたり、VITに偏ってたり……」
「ん〜〜〜」
キリトは形のいい唇をひん曲げ、がりがりと頭を掻く。
「単に気まぐれってことなのか……。なんか……何か有りそうな気はするんだけどなあ……。――ザッパ氏とは、ちょっとは話したことあるの?」
「えーと……」
薄い記憶を辿りながら、シノンはもう一度体を半回転させた。キリトの右脚に背中を預け、左足の上で両手を組んで枕替わりにする。これもいわゆるヒザマクラの範疇だろうか、等と考えてしまい気恥ずかしさが少しだけ浮上してくるが、非常事態を言い訳に蹴り飛ばす。
思えば、他人と長時間触れ合うことなど、この数年間まったくなかった。まるで体重と一緒に心の重荷まで預けているようで、不思議な穏やかさが体を満たしていた。もう少しだけこうしていたい、とぼんやり思ってから、不意に新川恭二の気弱そうな笑顔が浮かんで、申し訳ない気持ちになる。もし無事に現実に戻れたら、もう少しだけ歩み寄ってみようか……
「――おい、シノン。ザッパとは……」
「あ、う……うん」
ぱちぱちと瞬きして想念を押し流し、シノンは記憶を呼び覚ました。
「――と言っても、ほんとにちょっと話しただけ。たしか……前の大会が終わって、総督府の地下ホールに戻ったとき、出た場所がすぐ近くだったんだ。で、二、三分、大会のこととか、賞品のこととか喋ったんだけど……フィールドでは直接戦いもしなかったし、世間話程度だよ」
「そっか……。前の大会にはモルターレは出てなかったようだしな……。今はこれ以上は無理か……」
キリトは軽くため息をついた。気分を変えるように肩をすくめ、シノンを見下ろしてくる。
「そういや、そこまで調べなかったんだけど……賞品って何が貰えるんだ?」
「あー、選択式で、色々よ。順位に応じていろいろ選べるんだけど……そういや今回は私たちけっこう順位良さそうだから、いい物もらえるかもね。無事に帰れれば、だけど」
「例えば、どんな?」
「そりゃ当然、銃とか、防具とか……オプションに無い色の髪染めとか、服とかね。ただまあ、ほんとに高性能な奴じゃなくて、外見が目立つ、って感じのものばっかりだけど。あとは、面白いとこだと、ゲーム内の銃のモデルガンとかね」
「モデルガン? ……ってことは、リアルの?」
「そ。私、こないだの大会じゃ順位悪くて、ゲーム内で欲しいもの無かったからそれにしたんだけどね。そういや、ザッパもモデルガンにするような事言ってたかな……。おもちゃはおもちゃだけど、金属とかも使ってあって、けっこうちゃんとした物らしいよ。しん……シュピーゲルがそう言ってた。まあ、私は……」
かすかに自嘲気味な笑みを滲ませる。
「――引出しに仕舞いっぱなしで、ろくに見てないけどね」
「それは、運営体が送ってきたの? アメリカから?」
「うん。フェデックスでね。けっこうお金かけてるよね。儲かってるのかな、ザスカー」
茶化すように言い、再びキリトの顔を見上げて――シノンはぱちくりと目を見開いた。少年が、きつく唇を噛み、眉をぎゅっとしかめて、宙をじっと睨んでいたからだ。
「な……何よ、どうしたの?」
「……フェデックス……。――でもさ、俺ついこないだGGOにサインアップしたんだけど、ユーザー情報欄はジップコードとEマネーIDと、性別年齢くらいしか無かったぜ。住所は、どうやって……?」
「そりゃもちろん、モデルガンを選択してからあて先を申告したのよ」
「それは……公式サイトで? それとも……」
「前にも言ったじゃない。ゲームに関する手続きは、全部中で出来るの。総督府の端末でね。――って……な!?」
突然、キリトはシノンの右肩をがしっと掴み、顔をぐいと近づけてきた。思わず、何か怪しからぬ行為に及ぶ気かと体を固くしたが、勿論そうではなかった。
至近距離から、いつになく真剣な表情でキリトは言った。
「その、賞品だけど……ダインは? 何を選んだ?」
「え、えっと……何か、趣味の悪い色のジャケットだった」
「ゼクシードとたらこは?」
「さ、さあ……話したこともないもん。でも、まあ……あれだけのハイレベルプレイヤーになれば、つまらないアイテムなんか興味ないだろうから、モデルガンじゃないかな……。それが、何なのよ?」
だがキリトは答えず、シノンの目を見ながらもその心は思考の海を彷徨っているようだった。
「モデルガン……フェデックス……総督府……あの場所は……確か……」
うわ言のように、低い声で呟き続ける。
「……時間……順番……」
突然、右肩に乗せられたキリトの手に、ぎゅうっと恐ろしいばかりの力が込められた。両目がかっと見開かれ、黒い瞳が爛々と光った。そこにあるのは――恐怖? あるいは、危惧?
「ど……どうしたのよ!?」
「ああ……なんてことだ…………なんてことだ」
紅く艶やかな唇から、それに似つかわしくないしゃがれた声が漏れた。
「俺は……とんでもない誤解を……」
「ご、誤解?」
「……VRMMOをプレイするときは……プレイヤーの魂は、現実世界から仮想世界に移動し、そこで喋り、戦うのだと……だから、死銃も、この世界で標的を殺しているんだろうと……」
「ち……違うの……?」
「違う。プレイヤーの体も、心も、移動なんてしちゃいない。仮想世界なんてものは、ほんとはありはしないんだ。ベッドに寝転がったプレイヤーが、映像を見て、音声を聴いてるだけなんだ」
「…………」
「だから……ゼクシードたちは、あくまで死体のあった場所、自分の部屋で死んだんだ。そして……殺人者も……その場所に……」
「何を……何を、言ってるの……」
キリトは一瞬唇を閉じ、再び開いた。その声は、彼の恐怖を映してか、凍えるような冷気に厚く包まれていた。
「死銃は――二人いるんだ。ひとり……つまりモルターレが、ゲーム内でターゲットを撃つ。同時に、ターゲットの部屋に侵入したもうひとりが、目の前で横たわるプレイヤーを殺す」
キリトの言葉の意味が、一瞬わからなかった。シノンはわずかに上体を起こし、しばらく放心したあと、首を横に振った。
「でも……だって……そんなの、無理だよ。どうやって、住所を……」
「君がたった今言ったじゃないか。モデルガンが送られてきた、って」
「じゃ……じゃあ、運営体が犯人なの……? それとも、ユーザーデータに侵入して……?」
「いや……その可能性はごく低い。一般のプレイヤーでも、ターゲットの住所を知ることは可能だ。BoB本大会の出場者で、賞品にモデルガンを選択した者に限っては」
「…………」
「総督府だよ。あそこの端末で、宛先を打ち込んだと言ったな。俺が大会の参加登録したときも、少し気になったんだけど……あの場所は吹き抜けになっていて、一階ホールを囲むように、中二階のカフェテリアがあった。そこのテーブルから、双眼鏡なりスコープなりを使えば、操作中の端末画面を詳細に覗き見ることは充分に可能なはずだ」
「……か、鍵はどうするの? 家の人とかは……?」
「ゼクシードとたらこの例に限って言えば、二人とも一人暮らしで……家は古いアパートだった。多分、鍵も旧式だろう……。最近は高性能のピッキングガンも出回ってるしな。それに、部屋の住人の意識が無いのは、モルターレが確認できるんだ。その気になれば侵入は案外容易いんじゃないのかな……。下調べとか、準備にもたっぷり時間を掛けられるしな」
次々と重ねられる言葉に、シノンは耳を塞ぎたいような気持ちを味わっていた。今まで、謎に包まれた茫漠とした存在であった死銃が、現実の犯罪者として徐々にその輪郭を露わにしていくにつれ、先ほどまでとは別種の恐怖が胸に染み出してくる。
どうにかして否定する材料を探そうと、シノンは強張る唇を動かした。
「じゃ、じゃあ……死因は? 不明なんでしょ……?」
「何らかの薬品……だろうな。筋弛緩系の……それで、心臓が止まったんだ」
「そんなの……調べれば分かるでしょう? 注射の痕とか……」
「……死体は、発見が遅くて……かなり腐敗が進んでいた。それに……残念ながら、コアなVRMMOプレイヤーが心臓発作で死ぬ例は、ほんとに多いんだ。ろくに飲み食いしないで、寝てばっかりいるんだからな……。部屋も荒らされず、金が獲られてもいなければ、自然死と判断される確率は高いだろう。それでも一応、脳の状態は詳しく調べたらしいんだけど、まさか薬品が注射されたなんて……最初からそのつもりで調べないと、分からないだろうな」
「…………そんな……」
シノンは両手でキリトのジャケットを握り、いやいやをする子供のように頭を振った。
そこまで周到な準備をして、ただ人を殺すために殺す――。そのような行為に及ぶ人間の心理は、完全に理解の埒外だった。感じられるのは、極北の闇を満たす深い悪意、それだけだった。
「……狂ってる」
囁いたシノンの声に、キリトも頷いた。
「ああ……狂ってる。そうしてまでも、あの男にとっては、真のプレイヤーキラーであるという事実が必要だったんだろう……。共犯者のことまではわからないが……多分、そいつもSAOサバイバーである可能性は高い。いや……ラフィン・コフィンの生き残り、かもしれないな。しかし……おそらく、いや99パーセント、これが事件の真相だろう。モルターレは、俺たちを襲ったとき頻繁に時間を気にしていた。現実世界での準備が整うのを待っていたんだ。――シノン」
キリトは、両手でぎゅっとシノンの肩を掴んだ。
「君は……ひとり暮らしか?」
「う……うん」
「鍵は……それに、ドアチェーンは?」
「鍵は掛けてあるけど……古い、ピンシリンダーの奴だから……。チェーンは……」
混乱した思考のなかで、必死にダイブ前の記憶を探る。
「……してない、かもしれない」
「そうか。――いいか、落ち着いて聞いてくれ」
キリトの顔に、かつて見たことのない恐怖の色が浮かんているのを見て、シノンの胸の奥は氷を詰め込まれたかのようにきりきりと冷たくなった。
嫌だ、その先は聞きたくない――
「モルターレは、君をあの銃で撃とうとした。いや……バギーで追っているときに、実際に撃った。つまり……準備が完了している、ということだ。……今この瞬間、現実の君の部屋に共犯者が侵入して、中継画面でその瞬間を待っている――という可能性がある」
告げられた言葉が、意味を成すかたちとなってシノンの意識に浸透するのには長い時間を要した。
すうっと周囲の光景が薄れ、見慣れた自分の部屋が脳裏に甦ってくる。幻視のように、高い位置から六畳の自室を見下ろす。
こまめに掃除機を掛けている、フローリング風のフロアタイル。淡い黄色のラグマット。小さな木製のテーブル。
西側の壁に面して、黒のライティングデスクと、同じく黒いパイプベッドが並べられている。シーツは飾り気のない白。その上に、トレーナーとショートパンツ姿で横たわる、自分。目を閉じ、額には二重の金属環で構成された機械が装着されている。そして――
ベッドの傍らにひっそりと立ち、眠る少女を覗き込む、黒い人影。全身はシルエットのように塗りつぶされているが、ただ一つ、右手に握るモノだけがはっきりと見える。曇ったガラスのシリンダー、その先端から伸びる銀色の針――致死性の液体を満たした、注射器。
「嫌……いや……」
シノンはぎしぎしと強張った首を動かし、呻いた。幻が消え去り、砂漠の洞窟に戻っても、侵入者の握る注射器のぎらつきだけは眼の底に残っていた。
「いやよ……そんなの……」
恐怖――などという、生易しいものではない。激甚な拒否反応が駆けめぐり、全身が抑えようもなく震えた。動くことも、周囲を認識することもできない無力な自分のからだを、間近から見知らぬ人間が見ている。いや――それだけではないかもしれない。肌に触れ……あるいは更に……
不意に、喉の奥が塞がるような感覚とともに、呼吸ができなくなった。背筋を反らせ、空気を求めてあえぐ。
「あ……ああ……」
光が遠ざかる。ごうごうと耳鳴りがする。魂が、かりそめの肉体から離脱する――
「だめだシノン!!」
いきなり両腕をきつく握られ、同時に耳もとで凄まじい音量の叫び声がした。
「今カットオフしたら危ない! がんばれ……気持ちを落ち着かせるんだ! 今はまだ大丈夫だ、危険はない!!」
「あ……あっ……」
焦点の合わない眼を見開きながら、闇雲に両手を動かし、声の主にすがりつく。確かな温度を持ったその体に両腕をまわし、無我夢中で抱きつく。
すぐに、力強い腕が背中を抱え、しっかりと繋ぎとめるように力が込められた。もう一方の手が、ゆっくり、ゆっくりとシノンの髪を撫でる。
再び、今度は囁き声がした。
「死銃のハンドガンに撃たれるまで、侵入者は君に何もすることができない。それが、奴ら自身が定めた制約だ。だが緊急ログアウトして、侵入者の顔を見てしまうと逆に危険だ。だから、今は落ち着くんだ」
「でも……でも、怖い……怖いよ……」
子供のように訴えながら、シノンはキリトの肩口に顔を埋めた。
両腕にぎゅうっと力を込めると、かすかに、しかし規則正しくリズムを刻むキリトの鼓動が伝わってくる。
脳裏に広がる恐怖のイメージを打ち消すように、シノンは必死にそのリズムに耳を澄ませた。とくん、とくん、とほぼ一秒に一度のペースで、拍動が体に染み込んでくる。狂騒的なアレグロでわめくシノンの心臓を、メトロノームのようにそっと宥めていく。
気付くと、まるでキリトの精神に同調したかのように、パニックの衝動は薄れていた。恐怖は消えないが、それを抑えるに足る理性が少しずつ復調してくるのを感じた。
「……落ち着いたか?」
低い声とともに、背中からキリトの腕が離れようとした。だが、シノンは小さく首を振り、呟いた。
「もう少し……このままでいて」
返事は無かったが、再び体がしっかりと包まれた。華奢な手が頭を撫でるたび、温もりが凍りついた体の芯を少しずつ溶かしていく。シノンは深く息をつくと、まぶたを閉じ、全身から力を抜いた。
数十秒――あるいは一分以上そのままでいてから、シノンはぽつりと言った。
「……あんたの手、お母さんに似てる」
「お、お母さん? お父さんじゃなくて?」
「私、お父さんのこと何も知らないの。赤んぼの頃、事故で死んじゃったんだ」
「……そうか」
キリトの答えは短かった。シノンは、ぎゅっとキリトの胸に頬を押し付けた。
「――どうすればいいのか、教えて」
思ったよりも、しっかりした声が出せた。キリトは、シノンの髪を撫でる手を止め、即座に答えた。
「モルターレを倒すんだ。そうすれば、現実世界で君を狙う共犯者は、何も出来ずに姿を消すはずだ。――と言っても、君はここで待機していればいい。俺が戦う。モルターレのあの銃では、俺を殺せないんだからな」
「本当に……大丈夫なの?」
「ああ。モルターレは俺の住所なんか調べられないし、そもそも俺は家からダイブしてるわけじゃないんだ。すぐそばに人もいるしな。だから俺は大丈夫――ただ、ゲームルールに則ってあの男を倒すだけだ」
「でも……あの黒いハンドガン抜きでも、あいつ、かなりの腕だわ。回避力だけ見てもあんたと同等かもしれない」
「……確かに、絶対の自信があるわけじゃないけど……残りは何人だろう」
声と共に、シノンの頭からキリトの左手が離れる。ウインドウを確認する気配。
「――4人。シノンと俺……モルターレと、誰かさん、か。微妙な状況だな……。モルターレと残るひとりが戦い、どちらかが倒されれば理想的なんだが……それを待つほうがいいかな……」
「あ……」
シノンはそれを聞いて、とあるルールを思い出し、顔をしかめた。目を開き、尋ねる。
「――この洞窟に隠れてから何分経った?」
「え? ええと……20分ちょっとだな」
「じゃあ、ここにはあと10分しか居られないわ。30分以上一箇所に留まり続けると、マップ上にその人の位置が表示されちゃうっていうペナルティがあるの」
「なるほどな……。どれくらい移動すればいいんだ?」
「100メートル」
「……よし。じゃあ、逆にそれを利用するか……。ここから出たら、俺は50メートルほど移動して止まり、ペナルティを受けてモルターレをおびき出す。君は100メートル以上離れて、似たような岩山の影に隠れるんだ。俺がモルターレを倒せばそれでよし、もし負けたら、そのまま待機してくれ。残りひとりもこの場所にやってくるはずだから、そいつとモルターレを戦わせる」
「モルターレが、その相手もあの銃で撃とうとしたら……?」
「いや……そう都合よく奴のターゲットが残っているとは思えない」
「うん……」
キリトが退場し、このフィールドにモルターレと一緒に残されることを考えると、深い不安が押し寄せてきたが、シノンはそれを飲み込んで頷いた。
「モルターレが死んだら、残りひとりを狙撃で倒せば君の優勝だ。だが――モルターレが残ったら、決して戦おうと思うな。自殺するんだ。そして待機ホールには戻らずにログアウトする。……いいか、ここからが重要だ」
キリトは両手でシノンの体をそっと持ち上げ、ごく近い距離からじっと目を見つめた。
「ログアウトして、意識が現実の体に戻っても、すぐに動いちゃだめだ。おそらくその時点では、侵入者がいたとしてももう部屋から脱出しているはずだが、万が一そいつが残っている気配がしたら、動かないでダイブが継続しているように装うんだ。そいつは絶対に君には何もできない。なぜなら、死銃に撃たれた、という事実なしに君を殺すことはできないからだ。BoBの外部中継が終了したら、そいつは部屋から出ていくはずだ。そうしたら、すぐに鍵とチェーンを掛け、警察に連絡を――いや、待てよ……」
一瞬口を閉じ、猛烈な速度で何事か考えるように目を閉じてから、キリトはすぐに言葉を続けた。
「状況に関わらず、俺は君より早くログアウトすることになるだろう。万一の為に、俺も警察に通報したほうがいいかもしれない……。――シノン。重大なマナー違反は百も承知だけど……君の本名と住所を、訊いていいか」
「…………」
シノンは無言のまま、じっと目の前の少年を見つめた。
ゲーム内で現実世界に属する情報を漏らすことは、言われるまでもなく非常な禁忌である。しかし――今のこの状況が、すでにゲームではなくなっているのもまた確かなことだった。
ゆっくりと一つ頷いてから、シノンは告げた。
「私の名前は――朝田詩乃。住所は、東京都文京区湯島二丁目……42の10、ナミキハイツ202」
「文京区!?」
キリトは一瞬目を大きく見開いた。
「――俺がダイブしているのは千代田区だ。しかも……湯島二丁目とは、かなり近い……ほとんど目と鼻の先だ。警察よりも早いかもしれない……」
「来て……くれるの?」
「……そうしよう。通報したら、すぐに向かう。一応……俺の名前は、桐ヶ谷、和人という」
「キリガヤ……くん」
とうとう、リアルでまで関わることになってしまった――と思いながら、シノンはその名前を繰り返した。
どうやら、シノンと似たような安易なネーミングであるらしい少年は、こくんと頷くと体を起こそうとした。
「じゃあ……移動の準備をしよう。とりあえず入り口から索敵を……」
「あ……ま、待って」
シノンは反射的にキリトの体にまわした腕に力を込め、その左頬に頭をすり寄せた。
「あ……あの」
慌てたような声を出すキリトの耳に、ごくかすかな声で囁きかける。
「……い、言っとくけどね、私……あんたのこと、嫌いなんだからね」
そのまま少し顔を動かすと、額の脇で結わえた髪がぱさりと流れ、直接頬と頬が触れ合った。
突然、このような衝動に駆られた理由は、シノンにもよくわからなかった。あるいは――ひとと触れ合い、言葉を交わすのがこれで最後となりうることを、心のどこかで悟っているせいかもしれなかった。
ゆっくり、顔の角度を変えていく。唇の端と端がわずかに交差し、離れ、もう一度――
「あの……し、シノン」
「……なによ」
「いや……少し前から、視界の右下に……その、Lの字みたいなマークが……点滅してるんだけど……何だろう」
「え……」
慌てて確認すると、確かにHPバーの下に、四角い枠に囲まれたL字が小さく表示されていた。即座にがばっと体を起こし、周囲の空間を見回す。と――左後方、洞窟の天井ぎりぎりの場所に、明るい水色の光点が浮いているのが見えた。
「あっ……な……しまった……」
一瞬、飛び起きてキリトから離れようと考えたが、すぐに今更手遅れだと思い直し、再び少年の胸に体を預けた。
「あの……あれは、何?」
「ライブ中継カメラよ」
「なっ……やばい、会話を……」
「大丈夫、音声は拾わないから。――手でも振ったら」