スコープを通して見た光景の意味を解しきれず、シノンは眉をひそめた。
通常GGOにおいては、HPバーがゼロになった者の体は派手なエフェクトとともに四散し、意識は即座に街のセーブポイントへと転送されてそこで蘇生することになる。
だがこのBoB本大会に於いてはその限りではなく、数十秒前に倒れたダインのように、死亡者の体と意識はDEADマークと共にその場に残り、最終的な勝者が決定するのを待たなくてはならない。例外はないはずだ。
しかし、モルターレという迷彩マント男の光学銃に撃たれたザッパは、謎の苦悶のちに消滅してしまった。考えられるのは、リアルで何らかのトラブルが発生し、アミュスフィアの強制カットオフ機構が働いた――ということだろうか。それにしても、あまりにタイミングがよすぎはしないか。まるで――モルターレの銃撃が、ゲームの枠を超えた何らかの影響をもたらした、とでも言うかのような――
「……三度続けばもう、偶然じゃない……」
隣のキリトが妙に掠れた声を漏らし、シノンを内的思考から引き戻した。
ハッと目を見開き、慌ててヘカートIIを抱えなおす。指先を緊張させ、照準にあらためてモルターレの姿を捉える。
迷彩マントの男は、賑やかな銃撃戦直後だというのにその場から遁走する様子も見せず、それどころか黒いハンドガンを高く掲げて何事か叫び続けているようだった。近接戦闘シーンは各街に中継されることが多いので、カメラに向かって自己アピールでもしているのかもしれない。実力はあるかもしれないが、軽薄な男だ。
それなら、退場シーンもついでに中継させてあげる、とシノンは胸のうちで呟いた。キリトにいちおう断っておこうと、スコープを覗いたまま囁きかける。
「もういいんでしょ。あいつ、狙撃するよ」
「あ……ま、待て。――一撃で仕留められる自信、あるか?」
「え……うーん、ちょっと距離があるから、百パーセントとは言えないけど……」
「なら、止めてくれ。奴が逆襲してくるかもしれない」
硬くこわばったキリトの声に、シノンは顔をあげると、じろりと冷たい視線を投げかけた。
「何。ビビってるの?」
キリトも眼から双眼鏡をはずし、やけに青白い顔を向けてくる。
「そうじゃない……いや、そうだな、ビビってるよ。アイツは、やばいんだ」
「はあ?」
「近づいちゃいけない。――ともかく、俺は目的を達した。ここでログアウトする。君も落ちるんだ、シノン。もう大会なんて言ってる場合じゃない。早く、あいつを止めないと……」
口早に言い募るキリトの言葉に、シノンは驚くと同時に呆れ帰った。まだ大会はほんの序盤で、倒すべき敵はたっぷり残っているのだ。そもそもこの男は、BoB本大会の基本的なルールも理解していないらしい。
「あのねえ……どういうつもりか知らないけど、できないよ、ログアウト。規約読んでないの? 参加登録するときに出たでしょ?」
「な……なに!?」
今度はキリトが驚愕の表情を浮かべた。
「できないって……どういうことだ!?」
「メインメニュー見てみれば? ボタン無いから。……あ」
狙撃の途中だったことを思い出し、急いで再びスコープを覗く。だが、視野に迷彩マント姿はすでに無かった。
舌打ちして倍率を落とす。モルターレは、ボロボロのマントの裾を風に踊らせながら、ちょうど左手方向の大きな岩の陰に消えていくところだった。その後数回、岩の隙間にちらちらとその影が見えたが、やがて完全に視界から失せてしまった。どうやら川の下流、南に向かって歩き去ったらしい。
「……あーあ、行っちゃった」
肩の力を抜いてスコープから顔を離し、アンタのせいだからね、という非難を込めた視線を隣に向ける。キリトはシステムウインドウを食い入るように見ていたが、ログアウトボタンが無いことをようやく理解したのか、ため息をつきながら手を振ってそれを消去した。
「クソ……一体どうなってんだ」
「そう言いたいのはこっちよ。……仕方ない、あと五分だけ付き合う。なんで狙撃を止めたのか納得いく説明してもらうからね」
マフラーをぐいっと引き上げ、シノンは言葉を続けた。
「BoB本大会が途中ログアウト不可なのは……上であんたも見たでしょう、トトカルチョのせいよ、主に」
「ギャンブル? それが何で?」
「第一回大会ではログアウトできたし、五分以内なら再接続もありだったの。で、出場した三十人中五人が、ある有力スコードロンのメンバーだったんだけど、そいつらが頻繁にログアウトログインを繰り返して、リアルで互いに敵の情報の交換をしたのね。武装は何かとか、どこに隠れてるかとか……。BoBはあくまで三十人が殺しあうバトルロイヤルだから、チームプレイに必須の通信機は一切使えないんだけど、一グループだけが情報交換したら有利なのは当たり前。結局その五人が最後まで勝ち残って、うち四人はそのまま落ちてタイムアウト。残ったのが五人中最低レベルの奴で、倍率的にも大穴で……しかもそのスコードロンがそいつに大金賭けてたから、トトカルチョ会場はもう大暴動よ。GGOのクレジットは現金と一緒だもんね」
「……なるほどな……」
「さすがに放任無干渉主義のザスカーも問題視したらしくて、第二回からはログアウト不可になった上、同じスコードロンに所属してるプレイヤーは予選で同一ブロックに配置されるようになったって訳。勿論、リアルでトラブってカットオフしたり、誰かに頼んでアミュスフィアを外したりしてもらえば落ちられるけど、その場合も再接続はできない。二回目の時、優勝候補のひとりだった奴がWC落ちしてトイレで泣いたってのは有名な話よ。――こんな所で、納得した?」
「ああ……非常によく分かった。まったく……規約を読み飛ばすのは悪癖だな。二度としないぞ畜生」
ごろんと体を仰向けて、キリトは頭を抱えた。そのまま、何やらブツブツと呟く。
「……現実で何かあれば落ちられる訳か……どうにかして連絡を……でも安岐さんは中継なんて見てないし……あの男は言わずもがなだし……」
「ちょっと、今度はそっちの番よ。一体アンタは何なのよ。あのモルターレって奴がどうかしたの?」
「…………」
キリトは口をつぐむと、黒く光る瞳でちらりとシノンを見た。唇が動き、乾いたささやき声が流れた。
「……死銃……《デス・ガン》の話を知ってるか」
「はあ……? です……がん……?」
たっぷり二秒半ほど戸惑ったあと、シノンはようやく記憶倉庫の片隅から曖昧な情報を引っ張り出すことに成功した。
「ああ……あの、しょうもない噂でしょ? 前に優勝したゼクシードと、あと……スジコだかカズノコだかって名前の人が姿を消したのは、GGOの中でその、死銃? って奴に撃たれてほんとに死んだからだ、っていう。馬ッ鹿馬鹿しい」
その話は、パーティープレイ中や街の酒場などで何度か耳にしたことがあった。しかし常識的に考えて、そんなことが有り得るわけがない。リアルでの様々な事情によって突然の引退を余儀なくされるプレイヤーは数多いし、ゲームとの永別を宣言しておきながらひょっこり戻ってくるプレイヤーもこれまた多い。いずれ本人が帰ってきて、あっさりと消えていく類のデマだ――と判断し、すぐに忘れてしまったのだが。
「じゃあ……なに? アンタ、あのモルターレって奴が、その死銃だ、って言うの? ……冗談だとしたらつまんないし、それとも何かの作戦のつもり……?」
唇に苦笑、視線に警戒を滲ませて、シノンはキリトを睨んだ。しかし、隣に横たわる少年は、ただただ焦燥の色を浮かべて首を振るだけだった。
「どっちでもない。本当なんだ、死銃の話は。ゼクシードと薄塩たらこの二人は現実で実際に死んでいる。死因は心不全――しかも死亡推定時刻は、GGO内で死銃に撃たれた、まさにその時間だ」
「……ええ……?」
今度こそ、シノンの理解を完全に超えた話だった。キリトの言葉の意味を、数秒かけてどうにか咀嚼する。
「死んだ……? ゼクシードが……?」
「そうだ。俺は死体の写真も、死体検案書も見た。――でも、俺だって偶然だと思ってたさ。偶然心臓発作が起きたんだとな。……さっきの、モルターレの銃撃を見るまでは。まさかと思っていた……だから……畜生、見殺しにしてしまった。昨日の時点で、怪しいのはわかっていたのに……」
キリトはぎゅっと眼をつぶると、右手で額のあたりを覆った。
「でも……だからってまだ、モルターレがその死銃だって決まったわけじゃないんでしょ……?」
「イタリア語だよ」
「え?」
「モルターレは《致命的な》。フチーレは《銃》。つまり……死銃、さ。それに、君も見たろう。奴の赤いビームに撃たれたプレイヤーが、もがき苦しんで消えたのを。VRMMOで痛みを感じることはないのに、あれだけ苦しんだということは、現実の肉体に感覚インタラプトの閾値を超えた何かが起きたんだ。――三回目はもう偶然じゃない……早く現実に戻って、あいつを止めないと……いや……待てよ」
いきなりを両眼を見開き、キリトはシノンを凝視した。
「死んだら……HPがゼロになったら、退場できるんじゃないのか!?」
「……駄目よ」
シノンはあごを動かして、先ほど戦場となった橋の方向を示す。
「見たでしょう。ザッパは消えちゃったけど、ダインの体はデッド表示が出て、死んだ場所に残ってる。大会が終わるまで、意識もあそこに繋がれたままなのよ。退屈しないように中継画面は見られるけど、動いたり喋ったりはできない」
「意識が……残る?」
「そうよ。私も前回、一時間も無様に転がってたけど、辛いよ」
「じゃあ……死体になっても、リアルの体と回線は繋がってるのか……。てことは、死銃が死体を撃つ可能性もある……?」
キリトは再び頭を抱え、聞き捨てならないことを口走った。
「クソッ、いざとなったらシノンに死んでもらえばいいと思っていたのに……」
「なっ……」
シノンは絶句し、反射的に右手でしっかりとヘカートを抱え、左手でMP7のグリップを握った。
「あんたやっぱりそのつもりでっ……!」
短機関銃を抜き、突きつけようとした――のだが、黒い電光のように伸びたキリトの右手が、シノンの左腕をがしっと掴んだ。
「この……っ」
「君を守るためだ!」
狭い窪地に並んで横たわるシノンとキリトの視線が至近距離で交錯し、鋭い火花を散らした。
「もう大会なんて言ってる場合じゃない。分かってくれ――本当の生き死にの、問題なんだ」
あくまでかすかな囁き声だが、それでもシノンはそこにびりびりと震えるほどの真剣さを感じ、思わず息を飲んだ。数瞬の静寂。
「……痛いよ、離して」
やがてシノンは目を伏せ、呟いた。実際には痛みは無いが、掴まれた左の手首が焼けるように熱い。
「わかったわよ。とりあえず……大会のことは、一時的に忘れる」
あれほど憎らしく、究極的な敵とさえ思ったキリトだが、思わぬ展開に戦意をどこか、心の隙間に落としてしまったかのようだった。今の心理状態では、望んだような死闘、激戦を繰り広げるのはとても無理な気がした。
シノンの言葉にキリトはこくりと頷くと右手を開いた。ふたたびごろんと仰向けに横たわる。
「でも……でもさ……」
まだ熱の残る手首をさすりながら、シノンはまだまだ数多く残る疑問点を改めて尋ねた。
「そんな……ゲームの中から現実のプレイヤーを殺すなんて、一体どうやって……? それに、ログアウトしてあいつを止めるって言ったけど、どうやってリアルのプレイヤーを特定するの? そもそも、あんたは一体、何者なの? なんでゼクシード達が死んだことを知ってるの?」
立て続けに質問をぶつけられ、キリトはわずかに苦笑したようだった。
「……仕組みはさっぱり分からない。だが、ナーヴ……いや、アミュスフィアが装着者に与える影響については、まだまだ未知数の部分も多い。死銃の殺気、怨念……《悪意》があまりにも大きくて、それをNERDLESシステムが何らかの形で受け取り、銃撃の対象にゲームシステムを超えたダメージを与える……心臓が止まるほどの……というようなことも、有り得ないとは言えないのかもしれない……」
「まさか、そんな……。それに、悪意って言うけど、そこまでの、ええと……サイコパス、って言うんだっけ? そういう異常な人なら、ゲームの中じゃなくて現実で」
不用意に口にした言葉によって、記憶のフラッシュバックが起こる気配を感じてシノンは体を竦ませたが、さいわい血の色の光が一瞬頭の中を過ぎっただけで済んだ。
「……?」
「な、なんでもない。……ゲームの中じゃなくて、現実で人殺しをしようと思うんじゃないの?」
「異常だからこそ、ゲームを舞台に選んでいるのかもしれない。――これは、奴をどうやってリアルで特定するのか、って質問の答えでもあるんだけど……俺は、死銃ことモルターレと、昔ほかのゲームで会っているんだ。奴はそのゲームでも、PK行為を繰り返していた。金やアイテムのためでも、経験値のためでもなく、楽しみのためだけに……。そのゲームはもう無いけど、殺しの味が忘れられずに、この世界で同じことを繰り返している……そんな印象だった。――ザスカーに問い合わせて死銃のIPを調べるのはほとんど不可能だろうけど、その昔のゲームの登録情報から、あいつの本名や住所を割り出すことは可能なはずだ」
キリトはぎりっと歯噛みをして、殆ど消え去りつつある太陽を睨んだ。
「……昨日の時点でそれをやっていれば……。どうにかして菊岡に連絡を取って、死銃の本体を押さえないと……」
「きくおか、って誰?」
「ああ……総務省の、仮想世界関連部署の役人。俺はそいつと知り合いで、この件の調査を頼まれたんだ。ゼクシードとたらこの事はそいつに聞いたんだよ」
「ふうん……。じゃあ、ゲームを遊びに来たわけじゃないんだ」
何となくいろいろと納得しながらシノンが呟くと、キリトはどこか申し訳なさそうな顔で肩をすくめた。
「まあ、な。GGOプレイヤーとしては気に食わないだろうけど」
「別に。私も……似たようなもんだし」
「え……」
「なんでもない、気にしないで。――ともかく、大会が終わるまでログアウトは不可能よ。ひょっとしてGMが今ここを見てれば、英語で必死にわめけば聞いてくれるかも……だけど、99パーセント無理ね。ザスカーはほんとにプレイヤーには不干渉だから」
「……いくら死銃に謎の力があっても、まさかアメリカの運営会社とグルってわけじゃないだろうから、ゲームのルールは超越できないはずだ。奴がとっとと他のプレイヤーに負けてDEAD状態になるのが次善なんだけどな……」
「期待できないわね。あいつ、ものすごい近距離から銃撃を回避した。プレイヤーとしても相当の実力だと思う」
「……昔のゲームでも、かなりの手練だった。とても正面から戦う気にはなれないけど……こうしてる間にも、他の出場者がまた殺されているかもしれない。畜生、どうすりゃいいんだ」
焦燥に駆られたキリトの言葉に、ウインドウを出して戦況を確認してみる。
「ええと……残り人数は十六人。負けた十四人中、回線切断したのは……まだ一人だけ……あっ」
まさにその瞬間だった。
カットオフにより退場した者の数が、一から二に上昇した。それを見たとき、はじめてシノンは体の深いところにすうっと冷たいものが流れるのを感じた。
ザッパが消える瞬間を目撃し、キリトの説明を聞いたあとも、《死銃》の存在を現実のこととは思えなかった。ゲームの中から人を殺すなどということができるはずがない、と心の奥では思っていた。
しかし、一切の誤謬の有り得ないシステムウインドウ上のデジタル数字が変化したとき、シノンは確かに誰かの命が消える瞬間を見たと信じた。
ゲームではなく、実際に人を殺そうという意思を持つ者、つまり「あの男」と同種の人間がこのフィールドのどこかに存在する。
いや……もしかしたら……
ぐらり、と地面が傾いていく。色が、光が遠ざかる。
もしかしたら――「あの男」がどこか暗いところから帰ってきたのかも――私に――復讐するために――
「おい……おい、シノン」
肩に手が掛かるのを感じて、シノンはハッと目を見開いた。
「あ……」
なんでもない、というように首を振り、キリトの手を押し戻す。
「い、今、また一人殺した……。残り十五人」
「……そうか」
キリトは大きく息を吸い、吐き出した。
「このままだと、あと何人やられるかわからない。やっぱりどうにかして奴を倒すしかない……。……いや……待てよ」
「どうしたの?」
「……《死銃》はなぜさっき、二人とも撃たなかったんだ? 撃とう思えば撃てたはずだ」
「…………」
「そうだろう? モルターレの言動から見て、単純に殺しを楽しむことだけではなく、己の力をGGOの……ひいては全VRMMOのプレイヤーに誇示することも奴の目的の一つであるはずだ。なら、襲撃が外部に中継される絶好の機会に、一人だけ殺して一人は見逃す、というのは理屈に合わない」
「つまり……死銃はダインを見逃したのではなくて、殺したくても殺せなかった……っていうこと?」
「そう考えるのが自然だ。……奴の言うとおり、二つのアミュスフィアを介して何らかの致死的なパワーを標的に送り込めるのだとしても……もしかしたら、ある程度はゲームシステムの制約を受けているのかもしれない。あの黒い銃は光学系だった。ダインって奴の装備に、何か死銃の力を阻むものがあったのかも……」
寝転がったままのキリトは、指先で細いあごのラインを撫でながら考えに沈むように呟いていたが、やがて伏せていたまぶたをパチリと開けた。
「これ以上は考えても無駄だな」
左手のクロノメーターをちらりと眺め、
「奴が立ち去ってから20分……もう充分に離れただろう。俺はさっきの戦場を調べてくる。君はここにいてくれ」
四方に素早く眼を走らせながら、上体を起こす。
こくんと頷きかけてから、シノンはあわてて首を振った。
「――私も行くわよ」
「いや、しかし……」
「どこに居ようと、遭遇の可能性は大して変わらないわ。それに……組むのは癪だけど、いざ襲われたときに二人なら逃げ切れる。もしくは倒せる確率が上がる」
「…………」
キリトは厳しい顔でしばしシノンを凝視した。数秒後、軽く頷く。
「それは確かにそうだ。だが、襲われても戦おうとは思うな。逃げることを最優先するんだ。いいな――これはもう、ゲームじゃない」
顔を近づけ、深い色の瞳で真っ直ぐにシノンの目を覗き込む。
「絶対に、撃たれるなよ」
不意にドクン、と大きく跳ねた鼓動を押し隠すようにシノンは顔を逸らせた。
「……あんたこそ」
呟いた声はいつもより一層か細く、つめたい風に揺れた。
ヘカートIIを肩に掛け、MP7は左手に握って、シノンは前を行くキリトのあとを追った。頻繁に後方を見渡し、枯死した木々の奥に人影がないことを確認する。
いつの間にか、キリトの指示に従っているのが癪と言えば癪だった。だが、謎めいた少年の言葉には、歴戦のスコードロン指揮官のように命令し慣れた響きがあってつい頷かされてしまう。
それに――さっき、回線切断による退場者の数が増加する瞬間を目撃したときから、胸のおくに何か冷たいものが這いまわり、時折心臓がきゅうっと縮むような感覚が襲ってくる。認めたくはないが、シノンには分かっていた。
これは多分……恐怖だ。怯えている。
想像してはいけない、と思いつつも、「その瞬間」のことを考えずにはいられない。不意に、すぐ傍の木陰から――あるいは樹上から、土の中から――あのぼろぼろの迷彩マント姿が飛び出してくる。右手に握った黒いハンドガンから赤い光線が迸り、胸の中央に命中する。撃ち込まれた「悪意」がネットワーク回線を駆け抜け、現実世界の自室に横たわる詩乃の体に流れ込み、心臓をその冷たい手で握り潰す。
痛いのだろうか。
……きっと、そうだろう。ザッパはあれほど苦しんだのだ。痛いのは――嫌だ。
そう、シノンには分かっていた。さっきキリトに、ここで待て、と言われたときに拒否したのは、戦力上の問題などのせいではなかった。単に、ひとりになりたくなかったのだ。あれほど憎んだ敵なのに、置いていかれるのが恐かった。
キリトと戦いたい、という気持ちはまだある。予選決勝の借りを返さないわけにはいかない。
しかし同時に、すがりつきたい、とも思っているのではないか。「恐いもの」から守ってほしいと。だから、離れたくない。
結局――シノンの強さなど、その程度のものだったのだろうか。
仮想空間で、データの銃弾を撃ち合っているときだけの極めて限定的な強さ。張子の虎もいいところだ。《死銃》という現実的な脅威が現われたとたん、幼子のように怯え、嫌いな相手にすら救いを求めている。
つまるところ、全てが無駄な足掻きだったのか。シノンとしていくら強くなろうとも、詩乃があの記憶に打ち勝つ助けには一切ならない――そういうことだろうか……。
「おっと」
不意に肩を掴まれ、シノンははっと顔を上げた。いつの間にかキリトがすぐ隣に立っている。
「この先は遮蔽物が少ない。警戒を切るなよ」
言われたとおり、枯れた森は少し前方で途切れていた。その先は赤茶色の裸地が広がり、川とそれに掛かる鉄橋へと続いている。黒く錆びた橋のすぐ手前には横たわるダインの姿。
「あ……う、うん」
いつの間にか物思いに沈んでしまっていた。今はただ、生き延びることだけを考えなければ。そう自分に言い聞かせながら、シノンは短く頷いた。
森から出ると、一際強く吹く夕暮れの風が頬にかかる髪を揺らした。太陽は完全に荒野の彼方へと姿を消し、濃い赤から深い紺へと至るグラデーションが空を染めている。あと四、五十分で自然光は消え失せ、苦手なスターライトゴーグルを装着しなくてはならなくなる。それまでに、この異常な状況から脱出できることを祈らずにはおれない。
鋭く周囲を索敵しながら、シノンとキリトは小走りに荒れ地を抜け、盛り上がった土手へと駆け上った。重い水音を立てて北から南へと流れる川に、最後の残照が反射して炎の粒が舞っているように見える。すぐ正面に、鉄骨を組み合わせた橋が黒々と伸び、対岸へと続いている。
50メートルほど離れた向こう岸も同じような赤い裸地だが、そのさらに奥は奇妙な形の岩やサボテンが点在する砂漠が広がっている。鉄橋からは蛇行する道らしきものが伸び、砂漠に入る少し手前に、廃墟と化した小さな建物が見えた。もしあの廃墟がプレイヤーの手付かずであれば、武器や弾薬などが入ったトレジャーボックスがいくつか配置している可能性は高いが、この状況ではのんびりアイテムを漁っている余裕など無いだろう。
そして、橋のすぐ手前に、大の字になって伸びるダインの姿があった。腹の上に、赤く発光する立体文字がくるくると回っている。傍らには彼の愛銃SG550が落ちているのが見える。拾って使用することはできるが、通常のゲームにおける武器ドロップとは違い、大会の終了とともに元の持ち主へと返却される。
少し離れた場所には、ザッパが持っていたM1ガーランドも遺されていた。あのシーンを思い出しそうになり、慌てて目を逸らせる。たとえアイテム重量制限に余裕があっても、とても手に取る気にはなれない。
ゆっくりとダインに歩み寄りながら、キリトがぼそっと呟いた。
「あの死んでる奴は、その……周囲の状況とか知覚できるのか?」
シノンはうなずき、囁き声で答えた。
「うん。視界に入るモノは見えるし、音も聞こえる。ただ、すぐ目の前に大会中継画面が表示されてるけどね」
「ふうん……。じゃあ、この会話も聞こえてるのかな」
「まあね」
シノンは荒い砂をざくざくと鳴らして、ダインのすぐ傍で立ち止まった。髭面を覗き込むと、こちらからは目蓋を閉じた死人の顔に見えるが、本人は中継ウインドウの横にシノンの顔を認識しているはずだ。
軽く肩をすくめ、シノンは低い声で言った。
「ダイン、お疲れさま。前回よりはいい順位でしょう……多分。それに、もしかしたら今回の大会は無効になるかもしれない。何だか妙なことが起きてて……。アンタを撃ったモルターレって奴のことだけどさ」
隣に立ったキリトが、顔をしかめてダインの「死体」に視線を落とした。
「もどかしいな……。このダイン氏は、あんな間近から死銃の銃撃シーンを見ているんだ。何か気付いたこともあるだろうに……」
「仕方ないよ。そういう情報を漏らさないように、こんな仕様になってるんだからさ。あ……言っとくけど、ダイン。こいつと――」
キリトのほうにあごをしゃくり、シノンは続ける。
「別に組んでるわけじゃないからね。あくまで緊急避難なんだから、後で妙な噂とか撒かないでよね」
「そんなことより、どうだシノン。何か特殊な装備はあるか?」
言われて、シノンは地面に膝をつき、ダインの体を詳細に眺めた。
「ごめん、ちょっと装備見せてね。――うーん……防護フィールド発生器も、ボディアーマーも、高級品だけど特に変わったモノじゃないよ。私もあんたもこれくらいのは装備してるし。ねえダイン、死銃の奴はなんでアンタをあの光学銃で撃たなかったの? むさ苦しいから?」
指先であごひげを突付くが、勿論「死体」は答えを返さない。立ち上がると、キリトが難しい顔でため息をついた。
「結局手がかりなし、か。――シノン、この死体は動かせるのか?」
「え? 無理だけど……何で?」
「いや……もしダイン氏を見逃したのが死銃の単なる気まぐれなら、戻ってきて死体を見たら、今度は撃つ可能性もあるからさ。どこか見えないところに隠せればと思って……」
「ああ、そっか」
ダインは目の前で、ザッパが死銃に撃たれて消えるところを見ている。死銃に撃たれた奴は本当に死ぬという噂は当然知っているだろうし、その上こんな会話を聞かされては、半信半疑ながら気が気ではないだろう。
「ダイン……死銃が戻ってこないことを祈って。あと、余裕があったら私たちが無事に脱出できることもね」
呟き、シノンはマフラーをぐいと引き上げた。
「……で、これからどうするの?」
「取るべき作戦としては三つある」
キリトは腕組みし、視線を伏せた。
「まず、プラン1はこのままどこかに隠れつづけ、死銃が誰かに倒されるか、あるいは――他のプレイヤーが全員やられて、奴と俺たちだけが残るのを待つ。そうなったら、俺たちが相撃ちになって死ねば奴が優勝で、大会は終了する」
「……でも……」
「ああ。でもこの場合、あと何人犠牲者が出るかわからない。――俺は別に聖人君子じゃない、知らない奴よりも、自分の命と、かかわった人間……つまりシノンの命のほうが重要だ。しかし……やはり、事情を知る俺たちが行動せずに隠れ続ければ、自分のために他のプレイヤーを見殺しにすることになるという覚悟はしなけりゃならないだろう」
「…………」
「プラン2は、死銃には極力近づかないように注意しながら、俺たちが他のプレイヤーを倒してまわる。君の狙撃があれば、多分かなり大会終了を早められるはずだ。だが、死銃も、それに他のプレイヤーだって素人じゃない。死銃を察知できずに接触してしまうか、あるいは最悪、他のプレイヤーにやられて動けない死体になったところを死銃に見つかるかもしれない」
シノンはこくりと頷く。文字通り手も足も出ない、口さえ動かせない状況で、あの死神めいたボロマント姿が近寄ってきたらと思うと身の毛もよだつ。
「プラン3は――さらに積極策だ。死銃を捜す。そして倒す。だがこれは……ある意味では自殺と一緒だ。一発食らえばそれだけで殺される銃を持った相手と、こっちはまっとうなゲームルールに則って戦おうと言うんだからな」
シノンは再び頷き、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。確かに、キリトの提案した三つの案以外に取れる行動はありそうにない。
「……で、あんたはどのプランがいいと思うの?」
マフラーの下から、上目遣いにキリトの顔を見ながら訊くと、黒衣の少年は思わぬことを言った。
「プラン4だ」
「……はあ?」
思わず間抜けな声を出してから、シノンは突然、キリトの言おうとしていることを察した。
「ここで別れよう。俺は単独でプラン2……他のプレイヤーを倒せるだけ倒す。残り人数が三になったら自殺する。君は後ろの森の、木が密集してるあたりに隠れて、残りが二人になったら自分を撃つんだ」
「…………」
鋭く息を吸い込み、シノンはキリトの整った顔を睨みつけた。足元で寝ているダインのことも意識から飛んでいた。
胸の奥では、相変わらず恐怖という名の細い蛇が心臓に巻きついている。しかし、青白く燃えあがったプライドの欠片が、瞬間その冷たい感触を忘れさせた。
「……馬鹿にしないでよ。確かにこの前は負けたけど、だからって総合力であんたに劣っているとは思っていない。あんたが死銃にやられるんじゃないかって考えながら、ウインドウ睨んで震えてるなんて真っ平よ。ここで分かれるのは反対しない。でもその場合は、私は一人で戦う」
「……シノン」
キリトもぐっと力を込めた視線でシノンを見た。
「……こんな状況になったのは、ある意味では俺の責任なんだ。昨日の時点で、奴を止めようと思えば止められた。だが、常識に縛られて、一度死銃の戦闘を見てから判断しよう――と考えてしまった。だから、俺は戦わなきゃならない。でも、君は…………」
「私にだって……戦う理由くらい……」
そう――ここで逃げることはできない、とシノンは思った。
もしここで死銃に怯え、どこか穴に隠れてしまったら……もう二度と、シノンの「強さ」を信じることはできなくなるだろう。「あの記憶」に打ち勝つための、唯一にして最後の希望は消え去り、現実の詩乃はこれからの日々を恐怖の発作に怯えながら生きていかなくてはならなくなるだろう。
それだけは嫌だった。死銃の力がもたらすという「死」も恐い。だが、それと同じくらい、恐怖に塗れた長い「生」も恐ろしい。
ひょっとしたら――キリトの存在ではなく、この状況こそが、運命によって与えられた試練なのではないだろうか。死銃と戦えと。そして倒せと。本物の殺傷力を持つ相手と戦うことによってのみ、あの記憶がもたらす恐怖を払拭できる――
瞬間的に、そのような思考がシノンの脳裏を過ぎった。逃げることはできない、ともう一度キリトに告げるべく、口を開こうとした……
その時だった。
かすかな音が、シノンの聴覚の表面を叩いた。ぷちっと、何かが弾けるような、小さい音。
「待って」
さっと右手を上げ、シノンは素早く周囲に視線を向けた。川沿いに伸びる土手、鉄橋、その向こうの砂漠、背後の枯れた森――どこにも人影は無い。
しかし確かに、異質な音がした。現在聴こえているのは、甲高い風鳴り、低く響く川音、背後の木々の梢が風に擦れる乾いた音――その後ろに紛れるように、確かに……
「!」
また聴こえた。銃声ではない。武器が擦れる金属音でも、ブーツが石を噛む音でもない。左前方……しかしそこにはとうとうと流れる水面しかない。
真紅の残照が反射する水面をじっと凝視する。川の流れは緩く、波頭が立つほどではない。その、揺れる鏡のような表面に――
ぽこっ、と小さな泡が浮いた。白い半球は数秒間水面を流れたあと、弾けて、ぷちっというあの音を発した。
それを見た瞬間、シノンの左手は反射的に動いていた。握ったMP7を横に構え、トリガーを引き絞った。
コンパクトなサブマシンガンは、スネアドラムのロールに似た咆哮を上げ、20発の弾丸をフルオートで吐き出した。川面に小型の水柱が幾つも立ち、濡れた貫通音が耳朶を叩く。
「シグを拾ってあんたも撃って!」
たちまち空になったマガジンを交換しながら、シノンは叫んだ。その時にはキリトも動いていた。つま先でダインのSG550を弾き上げ、空中でキャッチして腰溜めに構える。再び、今度は二重奏となった発射音が唸りを上げ、水面は沸騰したかのように真っ白になった。
水に潜ることは、ルール的には不可能ではない。だが、30秒を過ぎた時点でHPが減少をはじめ、またリペアキットによるHP回復が鈍足なこのゲームのシステムゆえに、自らダメージを被るその行為はまったくの愚考と思われていた。
しかし、先ほど浮かんだ泡は、水面の下に何ものかがいることを示していた。まさか、ともしや、の思いが交錯する。今にも、水の表面を貫いて赤い光線が伸びてくるのでは、と考えると心臓がぎゅうっと痛くなる。
新しい弾倉をMP7に叩き込み、再びトリガーを絞るが、目標の見えない射撃ゆえに着弾予測円は定まらない。数秒で再び20発を撃ち尽くし、同時にキリトの持つライフルも沈黙した。水面に幾つも広がった波紋がゆっくりと消え去り、再び静寂が訪れた。
倒したのだろうか。だとすれば、すぐにこの場を離れなくてはならない。だがこの位置からでは、反射が邪魔をして水底が見えない。
シノンが逡巡し、動きを止めたその隙を狙ったかのように――
いきなり、ざばっと水面が割れた。黒く巨大な影が、凄まじい高ステータスを示す恐るべき跳躍力で空を駆けた。ぼろぼろに解れたマントの裾が、凶鳥の翼のように広がった。
川岸を一度蹴っただけで、襲撃者は二人のわずか五メートル先にまで達し、地面に低くうずくまった。その姿勢のまま、機械のような動きでフードに包まれた頭がもたげられ、暗がりのなかから禍々しい視線が照射された。
間違いなく、モルターレ、デス・ガン、そして死銃の名を持つあの男だった。一度ははるか地平の彼方に歩み去ったと見せかけ、その実延々と川底を遡ってこの場所まで戻ってきたのだ。どのような方法で溺死を回避したのかは見当もつかない。
ぎりっと歯を食い縛り、シノンはMP7のマガジンをリリースした。稲妻のようなスピードで腰から弾倉を掴み取り、装着する。キリトも撃ち尽くしたSG550を投げ捨て、ファイブセブンに手を伸ばす。
しかし、二人が再度攻撃態勢に入るより早く、死銃のマントの隙間から右腕が突き出された。枯れ枝のように骨ばった指に、鈍い黒に光るあの銃が握られている。
深い闇を湛えた銃口にポイントされた瞬間、シノンの全身を冷たい震えが駆けめぐった。脚からすうっと力が抜ける。心臓が小さく縮み上がる。動きを止めたのはキリトも同様だった。
二人を黒いハンドガンで牽制しながら、死銃は左手を口もとに持っていった。フードの陰からつかみ出したのは、細いシリンダーを水平に二本接続したような形の器具だった。シノンは見たことがなかったが、何らかの呼吸補助アイテムと察せられた。それをマントの中にしまいこみ、死銃はしゅうしゅうと掠れた声で笑った。
「……わかってたよ、さっきの戦闘を誰かが見てたのはね。銃を拾いに出てくるかもと思って、苦労して川を潜ってきたんだけど……まさか、君達だとはね。僕は運がいい。こうも順序良く、ターゲットと遭遇できるとは……おっと」
キリトの体が一瞬緊張したのに目敏く気付いた死銃は、ひょいっとハンドガンの照準を移動させた。
「動かないでもらおう。さっきの戦闘を見てたなら、この銃の力は知ってるはずだよね。できれば、中継カメラが来てから撃ちたいんだよね。それまで待ってくれると嬉しいなぁ」
「……モルターレ」
左手をファイブセブン、右手をフォトンソードに添えた格好のまま、キリトが乾いた声で言った。
「お前の力は分かったし、からくりは見当もつかない。だが、もう止めておけ。お前はすぐに逮捕される、これ以上罪を重ねるな」
「……なんだって?」
「本名も、住所もわかっているんだ。ブラフじゃあないぞ、モルターレ……いや、《赤眼》のザザ」
ひゅっ、と鋭くモルターレが息を吸い込む音がした。
「……キリト……やっぱり……」
「そうだ。49層でお前と戦い、黒鉄宮に送り込んだのは俺だ」
「……ふ、ふ……まさかと思ったけどね……」
モルターレが握った黒い銃が、小刻みに震えているのにシノンは気付いた。反撃するチャンスかも、とかすかに思ったが、凍りついた指先はまるで動こうとしなかった。迷彩マントに包まれた痩せた体から、目に見えるほどの強烈な殺気が放射されてシノンを竦ませた。
「そうか……君かぁ……久しぶりだね……」
陰々と金属的に響くモルターレの声に含まれた悪意は、黒いタールのように粘ついて肌を粟立たせる。
「――お前は知らないだろうけどな、モルターレ。あの世界にいたプレイヤーのデータは、ある程度外部からモニターされていたんだ。お前がどこの誰だか、ちゃんと記録に残っているんだよ。だからもう、馬鹿な真似はやめるんだ」
キリトの言葉に、死銃はしばし沈黙したが、やがて再び乾いた笑いを漏らした。
「……それがどうしたって言うんだい? 僕は、自分の家からゲームを遊んでいるだけだよ。法律で僕を縛ることなんかできない」
「たとえすぐに逮捕はできなくても、お前とお前のアミュスフィアは徹底的に調べられるぞ。謎はすぐに解明され、お前は裁かれる。お前のしていることは唯の人殺しだ。いくらその銃で殺し続けても、誰もお前を称えたりはしない」
「……どれだけ調べたってわからないよ、死銃の力の秘密はね。だいたい……君そんなことを言う資格があるのかい? 僕を……人殺しと……責める資格が……」
モルターレの声は奇妙に歪みながら途切れた。突然、がしゃりと音をさせてハンドガンを構えなおす。極度の緊張のせいか、右腕がぶるぶると震えている。
――撃つ。シノンはそう思って息を詰まらせた。
だが、モルターレはしゅうしゅうと呼吸を繰り返し、やがて腕から力を抜いた。
「……君はまだ撃たないよ。最後のご馳走に取っておくことにしよう」
左腕を出し、ちらりと時計に視線を落とす。
「まずは……こっちのお嬢さんからだ」
ゆらりと銃が動き、まっすぐに――シノンの顔を狙った。
動けない。声も出せない。
思考は完全に麻痺していた。シノンは棒立ちになり、ただ自分を殺そうとする相手を凝視することしかできなかった。
冷たい風が、モルターレのマントの裾を揺らす。空気をはらんだフードがわずかに持ち上がり、赤い残照がその奥を照らし出す。暗闇に、ぼんやりと顔が浮かび上がる。
土気色の肌。口もとと額に刻まれた皺。こけた頬。そして、暗い穴のように光のない目。そこにあったのは、どうしても忘れることのできないあの顔――あの男の顔――
突然、男の右目の下に赤い穴が穿たれ、どろりと赤いものが流れ出す。次いで、右目が白い粘液と化して垂れ落ちる。しかし、男は笑う。とうとうつかまえた、と言わんがばかりににたりと笑う。
高周波のような耳鳴りがすべての音を掻き消す。地面がぐらりと傾き、視野が狭窄していく。
発作が/恐い/死にたくない/発作が起きる/助けて/助けて
混濁した思考の塊が頭のなか一杯に広がった。氷の狙撃手シノンは消え去り、両手を血に染めて悲鳴を上げつづけた五年前の詩乃に戻っていた。
目の前に立つ、腹と肩、それに顔からどす黒い血を大量に流したあの男が、にたにたと笑いながら右手に握った黒星の撃鉄を起こした。