第三章 「右手の記憶」
校門から出た途端、冷たく乾いた風が頬を叩き、詩乃(しの)は立ち止まって白いマフラーをきっちりと巻きなおした。
顔の半分を深く布に埋め、再び歩き出す。枯葉の積もった歩道を足早に進みながら、胸のなかで呟いた。
これで、高校三年間の総授業日数608日のうち、156日が終了した。
ようやく四分の一。――そう思うと課せられた苦行のあまりの長さに呆然とする。いや、しかし、中学時代を計算に入れれば六割近くの日付けが過去へと消えていったことになる。いつかは終わる……いつかは、終わる。呪文のように、そう繰り返す。
もっとも、高校を卒業する日が来たとして、何かしたいこと、あるいはなりたいものがあるという訳ではない。ただ、今の自分が半ば強制的に所属させられている、この「高校生」という集団から解き放たれたい。
一体、毎日あの収容所めいた場所に通い、授業という名のたわ言を聞かされ、幼児期から何一つ内的に変化していないのではと疑いたくなる連中と並んで体操だの何だのすることにどのような意味があるのか、詩乃にはまるで理解できない。ごく例外的に、有為と思える講義をする教師もいるし、尊敬すべきところのある生徒もいるが、それらの存在が詩乃にとって必要不可欠というわけではまったくない。
現在の実質的保護者である祖父母に、高校には行かずにすぐに働くか、あるいは専門学校で就職のための訓練をしたい、と言ったとき、昔気質の祖父は真っ赤になって怒り、祖母は、詩乃にはいい学校に行ってちゃんとした家に嫁いで欲しい、そうでなければあんたのお父さんに申し訳が立たない、と泣いた。それで已む無く必死に勉強し、東京の、そこそこ名の通った都立高に合格したのだが、入ってみて驚いた。郷里の公立中学と、何ら本質的には変わるところが無かったからだ。
結局詩乃は、中学時代と同じように、毎日校門から出るたびに儀式のごとく残る日々を数えている。
詩乃がひとりで暮らすアパートは、学校とJRの駅の中間あたりに位置している。六畳に小さなキッチンだけの狭い部屋だが、商店街の端と接する場所にあり、買い物には都合がいい。
午後三時半のアーケード街には、まだそれほど人の姿は無かった。
詩乃はまず本屋の平台を覗き、好きな作家の新刊が出ているのを見つけたが、ハードカバーだったので我慢して店を出た。オンライン予約すれば、一ヶ月ほど待つが区立図書館で借りることができる。
次に文具店で消しゴムと方眼罫のノートを買い求め、財布の残金を確認してから、夕食の献立を考えつつアーケードの中央にあるスーパーマーケットに向かう。もっとも詩乃の晩餐は一汁一菜が基本で、栄養、カロリー、原価のバランスさえ満たせば味や見てくれは二の次となる。
にんじんとセロリのスープに、豆腐ハンバーグにしよう、と思いながら、ゲームセンターの前を通過してその隣のスーパーに入ろうとしたとき。
「朝田ぁー」
ふたつの店の間、細い路地から、詩乃を呼ぶ声がした。
ついビクリと体を竦ませてから、詩乃はゆっくりと90度右に向き直った。
路地には、詩乃と同じ制服――ただしスカートの丈に多大な差がある――に身を包んだ、三人の女子生徒の姿があった。一人はしゃがみ込んで携帯端末を操作し、二人がスーパーの壁に体をもたれさせて、笑みを浮かべて詩乃を見ていた。
無言のままでいると、立っているうちの一人が、薄い茶色の髪いじりながら顎を振った。
「こっち来いよ」
だが詩乃は動かず、小さい声で言った。
「……なに?」
途端、もう一人が数歩あゆみよってきて、詩乃の右手首を掴んだ。
「いいから来いよ」
そのまま、強引に引っ張られる。
商店街からは見えにくい、路地の奥方向に押しやられた詩乃を、しゃがんでいた生徒が見上げた。この三人のリーダー格の、遠藤という女だ。つり上がった細い目と、尖ったあごが、ある種の捕食昆虫めいた印象を与える。
ラメの入ったパープルに光る唇をゆがめ、笑いながら遠藤は言った。
「わり、朝田。あたしらゲーセンで遊んでたらさぁ、電車代無くなっちゃった。明日返すからさ、こんだけ貸して」
指を一本立てる。百円でも千円でもなく一万円という意味だ。
遊んでたもなにもまだ授業が終わってから20分と経っておらず、電車代もなにも三人ともに定期券を持っていて、更に電車に乗るだけでなぜ一万もかかるのか、と、詩乃は心の中で立て続けに論理的矛盾点を列挙したが、それを指摘してどうなるものでもない。
この三人に、あからさまに金銭を要求されるのは二回目だった。前回は、持ち合わせが無いと言って断った。
同じ手が通用する確率は低い、と思いながら、詩乃は答えた。
「そんなに持ってるわけない」
すると遠藤は一瞬笑みを消し、再びにこっと微笑んだ。
「じゃ、下ろしてきて」
「…………」
詩乃は無言でアーケード街に向かって歩き出そうとした。人目のある銀行まではついてこないだろうし、この場から離脱できれば誰がバカ正直に戻ってくるものか――と思ったその時、遠藤が言葉を続けた。
「鞄、置いてって。財布も。カードだけあればOKっしょ」
詩乃は立ち止まり、振り返った。遠藤の唇は変わらず笑みを形づくっているが、その細い目には、獲物を弄ることに興奮する猫のような光が浮かんでいる。
この三人を、一時にせよ友達と信じたのだ。そう思うと、詩乃は己の愚かしさが許せなくなる。
高校入学直後、地方から出てきたばかりで当然知り合いも居らず、共通の話題もなく毎日黙っているだけだった詩乃に、最初に声を掛けてきたのが遠藤たちだった。
一緒に昼食をと誘われ、やがて学校の帰りに四人でファーストフード店に寄ったりするようになった。詩乃は主に話を聞くだけで、ひそかに彼女らの話題に閉口することもあったが、それでも嬉しかった。なぜなら遠藤たちは、久々に得た、「あの事件」を知らない友達だったから。この学校でなら普通の生徒になれる、そう思えたから。
三人が、クラス名簿の住所から、詩乃が一人暮らしだと当たりをつけて近づいてきたのだということに気付いたのはずっと後になってからだった。
遊びに行っていい? と言われたとき、詩乃はすぐに了承した。アパートの部屋を遠藤たちは褒め、羨ましがり、暗くなるまでお菓子を囲んで話こんだ。
彼女らは、翌日も、翌々日も詩乃の部屋にやってきた。
やがて、三人は詩乃の部屋で私服に着替え、電車で遊びに行くようになった。そんなとき、詩乃の部屋には彼女らの荷物が残され、そのうちに三人の私服が小さなクローゼットを占めはじめた。
化粧品、雑誌、遠藤たちの私物はどんどん増えていった。5月に入るころには、遊びにいった三人が酔って帰ってきて、そのまま泊まっていくようなこともあった。
あるとき、とうとう詩乃は、あまり毎日来られると、勉強ができなくて困る、と恐る恐る言った。
遠藤の答えは、「友達っしょ」の一言だった。翌日、合鍵を要求された。
そして、5月末の土曜日のこと。
図書館から帰宅した詩乃がドアの前に立つと、部屋の中から盛大な笑い声が聞こえた。遠藤たちの声だけではなかった。
詩乃は息を殺し、耳を澄ませた。自分の部屋の様子をうかがう行為が、とてつもなくやるせなかった。
明らかに、複数の男の声がした。
自分の部屋に、知らない男がいる。そう思うと、詩乃は恐怖で竦んだ。次いで怒りが湧き起こった。ようやく真実を悟った。
アパートの階段を降り、携帯電話で警察を呼んだ。やってきた警官は、双方の言い分に戸惑ったようだったが、詩乃はひたすら、知らない人たちです、と繰り返した。
とりあえず交番に行こう、と警官に言われた遠藤は、凄まじい目で詩乃を見てから、「ふうん、そっか」とひとこと言い残し、荷物をまとめて部屋を出て行った。
報復は速やかだった。
遠藤は、普段の彼女からは考えられない悪魔のごとき調査能力で、詩乃が一人で暮らしている理由、遠く離れた県で五年前に起こった「事件」のことを調べ上げ、全校に暴露した。詩乃に話し掛ける生徒は一切いなくなり、教師ですら直視を避けた。
何もかもが、中学時代に逆戻りだった。
だが詩乃は、それでいい、と思った。
友達を欲しがるような自分の弱さが、目を曇らせた。己を救えるのは己しかいない。自分の力だけで強くなり、事件の残した傷を乗り越えなければならない。その為には、友達なんかいらない。むしろ敵でいい。戦うべき敵――周囲の全てが、敵。
ぐっと息を止め、詩乃はまっすぐ遠藤の目を見た。つり上がったその目に、剣呑な光が宿る。笑みを消し、低い声で遠藤が言った。
「んだよ。――早く行けよ」
「嫌」
「……は?」
「嫌。あなたにお金を貸す気はない」
視線を逸らさず、詩乃は答えた。
断固とした拒絶は、更なる敵意と害意を呼び起こすだろう、とわかっていても、要求に従うのはもちろん、曖昧な態度を取って逃げることさえしたくなかった。遠藤らにではなく、自分に「弱い自分」を見せるのが嫌だった。強くなりたい、それだけを考えてこの五年間を過ごしてきたのだ。ここで挫ければ、その努力が無駄になる。
「手前ェ……ナメてんじゃねえぞ」
右目の端をぴくぴくと引き攣らせ、遠藤が一歩踏み出してきた。残る二人は詩乃の後ろにまわり、至近距離から取り囲まれる。
「――もう行くから、そこをどいて」
詩乃は低い声で言った。たとえどれほどキレたポーズを作ろうと、遠藤たちに実際の行動に出る度胸は無いと踏んでいた。彼女らも、家に帰ればそれなりに普通のいい子なのだ。警察沙汰になるのは、以前の一回で懲りているはずだ。
――だが。
遠藤は、詩乃の弱点――どこを刺激すれば、容易く血が流れるか、そのポイントを熟知していた。
フッ、と、悪趣味な色に光る唇に嘲るような笑みが浮かんだ。
遠藤は、ゆっくりとした動作で右拳を持ち上げ、詩乃の顔に突きつけた。拳から、人差し指と親指が伸びて、子供が拳銃を模すときの形を作る。他愛ない、幼稚なカリカチュア。
しかし、それだけで詩乃の全身をすうっと冷気が包んだ。
両脚から徐々に力が抜けていく。平衡感覚が遠ざかる。目の前に擬された遠藤の指先、長い爪が白いエナメルで光るその尖端から、目が離せなくなる。鼓動の加速に伴い、高周波のような耳鳴りが思考能力を奪っていく。
「ばぁん!」
いきなり遠藤が言った。その途端、詩乃の喉の奥から細く高い声が漏れた。体の奥から震えがこみ上げてきて、止めることができない。
「クッフ……、なぁ、朝田ぁ」
指先を突きつけたまま、遠藤が笑いの混じる声で言った。
「兄貴がさぁ、モデルガンいっぱい持ってるんだよなぁ。今度借りて、学校持ってってやろうか。お前好きだろ、ピストル」
「…………」
舌が動かない。口の中から水気がなくなり、ぴたりと口蓋に貼りついてしまったかのようだ。
詩乃は、小さく首を振った。学校でいきなり拳銃など見せられたら、どのような恐慌を来たしてしまうか想像もつかない。ぎゅっと胃が収縮し、たまらずに体を折る。
「おいおい、ゲロるなよ朝田ぁー」
後ろから、やはり笑いに塗れた声がした。
「いつだか社会の時間にアンタがゲロって倒れたとき、後すげえ大変だったんだぞぉ」
「ま、ここならよく酔っ払いの親父がやってるけどさぁ」
甲高い笑い声が湧き起こる。
逃げたい。走って逃げ去りたい。でもそんなことできない。相反する二つの声が、頭の中でがんがんとこだまする。
「とりあえず、今持ってるだけで許してやるよ、朝田。具合悪いみたいだしさぁ」
右手に持った鞄に、遠藤が手を伸ばしてきたが、とても抵抗できなかった。考えちゃいけない、思い出しちゃいけない、そう思うほどに、記憶のスクリーンに黒い輝きが甦ってくる。ずしりと重く、じっとりと濡れて生暖かい鉄の感触。つんと鼻をつく火薬の匂い――
その時、背後から叫び声がした。
「こっちです! お巡りさん、早く!!」
若い男の声だった。
途端、鞄から遠藤の手が離れた。三人はもの凄い速さで前方に駆け出し、アーケードの人波に紛れて消え去った。
今度こそ脚から力が抜け、詩乃は崩れるようにうずくまった。
必死に呼吸を繰り返し、波打つ思考をフラットに戻そうとする。徐々に、周囲の喧騒や、スーパーの店頭から流れる焼き鳥の匂いが戻ってきて、フラッシュバックしかけた悪夢を遠ざけていく。
何分間、そうしていただろうか。やがて背後から、おずおずとした声が掛けられた。
「……大丈夫、朝田さん?」
最後に大きく呼吸をして、詩乃は立ち上がった。
振り向くと、立っていたのは背の低い、痩せた少年だった。ジーンズにパーカー姿、肩にデイパックを下げている。やや伸びすぎの前髪の下、睫毛の長い目には気遣わしそうな光が浮かんでいる。薄く、高い鼻梁と細い顎の線は、整った顔立ちといえないことも無いが、肌の色が青白いほどに薄く、どこか病的な印象がつきまとう。
詩乃は、少年の名前を知っていた。この街で唯一気を許せる――少なくとも敵ではない存在であり、ここではないもうひとつの世界では戦友と言っていい間柄だ。
ようやく動悸が収まったのを感じながら、詩乃はごくわずかに微笑み、答えた。
「……大丈夫。ありがとう、新川くん。――警官は?」
背後を覗き込むが、薄暗い路地は無人のままで、誰かが現れる様子はない。
新川恭二(しんかわきょうじ)は、頭をかきながら笑った。
「出任せだよ。よくドラマや漫画であるじゃない。一度やってみたかったんだ、上手くいってよかった」
「…………」
詩乃は少々呆れて、短く首を振った。
「……君によくそんな真似が出来たね。どうしてここに?」
「ああ、そこのゲーセンにいたんだ。裏口から出てきたら……」
恭二は背後を振り返った。路地に面した、灰色のコンクリート壁に、小さな銀色のドアが見える。
「あいつらが朝田さんを取り囲んでたからさ。ほんとに110番しようかとも思ったんだけど……」
「とりあえず、助かったよ。有難う」
再び詩乃が微笑むと、恭二も一瞬笑みを見せ、すぐに心配そうな表情に戻った。
「……朝田さん、こんなこと……よくあるの? その……僕が言うのも何だけどさ、ちゃんと学校とかに報告したほうが……」
「アテにならないよ、そんなことしても。大丈夫、これ以上エスカレートするようなことがあったらほんとに警察行くから。それに、人の心配するよりも、君のほうは……大丈夫なの?」
「ああ……、僕は、もう。奴らとは顔も合わせないしさ」
小柄な少年は、今度はやや自嘲ぎみに笑った。
新川恭二は、夏休み前まで詩乃のクラスメートだった。だった、と言うのは、二学期以降学校に来ていないからだ。
噂で聞いた程度なのだが、恭二は、所属したサッカー部で上級生からかなり酷いいじめにあっていたらしい。体格が小さく、また家が大きい医院を経営しているということで、格好の標的と見られたのだろうか。金銭の要求も、遠藤たちほどあからさまではないにせよ飲食や遊興代の建て替え払いなどの形で、馬鹿にならない額の被害があったようだ。
もっとも、恭二から直接その話を聞いたことはない。
知り合ったのは六月、近所の区立図書館でのことだった。
詩乃は二階の閲覧室で、「世界の銃器」なるタイトルの、大判のグラフ誌をめくっていた。その頃は、写真であればどうにか発作めいた反応は起こさないようになっていたものの、それでも、「あの銃」が掲載されたページを十秒ほど眺めたところで限界に達し、慌てて本を閉じた――その瞬間、背後から声を掛けられたのだった。
「……銃、好きなんですか?」
という言葉を発したのが、同じクラスの生徒だということにはすぐに気付いた。詩乃は即座にとんでもない、その逆だ、と答えようとしたが、ならばなぜそんな本を見ていたのかという疑問を当然相手は抱くだろうし、それに対する合理的回答をでっち上げるのも難しそうだったので、曖昧に言葉を濁して頷いた。
今では恭二も、詩乃が現実世界では銃に対する極度の恐怖を抱いていることを知っているが、当時は素直に詩乃の言葉を信じ、嬉しそうに笑いながら隣の椅子に座った。
彼が開陳する銃器の知識を、詩乃は内心で冷や汗を滝のように流しながら聞いたものだが、そんな中、恭二がちらりと触れた「別世界」の話が詩乃の興味を引いた。
世界の名は、《ガンゲイル・オンライン》。現実世界に存在するあまたの銃器が精密に再現され、それらを帯びたプレイヤーたちが互いに殺しあう凄惨な荒野――。
その場所でなら、もう二度と現実では遭遇することはないであろう「あの銃」と、再び向き合うことができるのだろうか、と詩乃は考えた。これは導きなのだろうか、と。5年を経て16歳となったいま、正面からあの記憶と向き合い、克服するためのきっかけとなるのだろうか――。
あれから半年。
詩乃の中に生まれた《シノン》という名前の少女は、冷酷なる狙撃手として荒野に名を轟かせている。
だが、現実の自分、この朝田詩乃は、ほんとうに強くなっているのだろうか……?
詩乃にはわからない。その答えはまだ見えない。
「ね、何か飲まない? オゴるからさ」
恭二の声が、詩乃を内的思考から引き戻した。顔を上げると、細い路地に差し込む陽光はすでに赤みを帯びはじめていた。
「……ほんと?」
詩乃が微笑むと、恭二は嬉しそうにこくこくと頷いた。
「このあいだの大暴れの話、聞かせてよ。ここの裏通りに、静かな喫茶店があるんだ」
案内された店の奥まった席に体をうずめ、いい香りのするミルクティーのカップを両手で包むと、ようやく少し気持ちが落ち着いた。どうせまた遠藤たちはちょっかいを出してくるだろうが、その時はその時だと懸念を心の隅に押しやる。
「聞いたよ、一昨日の話。大活躍だったんだって?」
恭二の声に顔を上げると、痩せた少年はコーヒーに浮かぶバニラアイスの半球をスプーンで突付きながらやや上目遣いに詩乃を見ていた。
「……そんなことないよ。作戦的には失敗だったわ。こっちのスコードロンは6人中4人もやられたんだから。待ち伏せで襲ってその結果じゃあ、とても勝ったとは言えない」
肩をすくめて答える。現実世界で本物の銃器のことを想起するのは容易くパニックの引き金となるが、GGO内部の話であればこの頃はどうにか平常心を保てるようになっている。
「でも、凄いよ。あのM134使いの《ベヒモス》は、今までパーティー戦で死んだことが無いって言われてたんだからさ」
「へえ……。そんな有名な人なんだ。バレット・オブ・バレッツのランキングに名前が無いから知らなかった」
「そりゃあそうさ。いくらミニガンが強力って言っても、弾を500も持てば重量オーバーで走れないんだ。BoBはソロの遭遇戦だから、あの武器じゃ勝てないよ。その分、集団戦で充分な支援があれば無敵だけどね。反則だよ、あんな武器」
子供のように口を尖らせる恭二の仕草に、詩乃は思わず微笑む。
「……それなら、私のヘカートIIだって充分反則って言われてるよ。使うほうにしてみれば、それなりに色々苦労はあるんだけどね。きっとあのベヒモスさんだってそう思ってるよ」
「ちぇ、ゼイタクな悩みだなあ。……で、次のBoBはどうするの?」
「出るよ、勿論。前回20位までに入ったプレイヤーのデータは殆ど揃ったからね。今度はヘカートを持っていくつもり。次こそは、全員……」
殺す、と言いそうになり、慌てて誤魔化す。
「……上位入賞を狙ってみるよ」
詩乃/シノンは、秋口に行われた第二回GGO最強者決定バトルロイヤル戦、大会名称バレット・オブ・バレッツに参加し、予選を突破して30人で行われる本大会に進んだものの、22位という結果に終わっていた。広大なマップに30人がランダムに配置されてスタートするBoBでは、いきなり近距離からの戦闘に巻き込まれる可能性があったので、狙撃ライフルであるヘカートIIではなくアサルトライフルの ステアー−AUGを装備していったのだが、逆に近接戦闘中を レミントン−M40を装備したスナイパーに遠距離から狙われてしまったのだ。
あれから二ヶ月、じゃじゃ馬もいいところである「彼女」の扱いにも大分慣れ、またレアな軽量短機関銃のMP7を入手したことで近接戦闘にもある程度対応できるようになったので、もうすぐ行われる第三回BoBではあの巨大なライフルを背負って参加しようと思っている。基本的には掩蔽物に身を潜め、卑怯といわれようとひたすらターゲットが視界内に現れるのを待って、一人残らず吹き飛ばすつもりだ。
強力な戦士のひしめくGGOで、敵を全て撃ち倒し、己が最強であると確信できれば――その時には――その時には、きっと……
昏い思考を彷徨わせる詩乃の耳に、恭二の慨嘆めいた声が届き、意識が現実に引き戻された。
「そっかぁ……」
まばたきして視線を向けると、恭二はどこか眩しそうに目を細め、詩乃を見ていた。
「凄いな、朝田さんは。あんな物凄い銃を手に入れて……ステータスも、誂えたみたいにSTR優先だったしさ。僕がGGOに誘ったのに、すっかり置いていかれちゃったな」
「……そんなことないよ。新川君だって、前の予選じゃあ準決勝まで進んだじゃない。あの勝負はもう運次第だったよ。惜しかったよね、決勝まで行けば本大会には出られたのに」
「いや……ダメさ。AGI型じゃあ、レア運ないともう限界だよ。ステ振り、間違ったなぁ……」
愚痴めいた恭二の口調に、ごくごくかすかに眉をしかめる。
恭二の分身である《シュピーゲル》は、GGO初期の時流に即したAGI、つまり敏捷力パラメータをひたすら上げたタイプだ。この型は、レベル中盤くらいまでは圧倒的な回避力と速射力――この場合の「速射」は銃自体の発射速度ではなく、照準してから着弾予測円が収縮・安定するまでの時間だ――によって他タイプのキャラクターを圧倒したものの、ゲームが進行するに従って登場した強力な銃を装備するためのSTRつまり筋力値に事欠き、また銃自体の命中精度が向上することによって回避も思うようにいかなくなって、ゲーム開始から八ヶ月が経過する現在ではとても主流とは言えなくなっている。
それでも、速射力がものを言う大口径の強力なライフル、FN−FALやH&K−G3などのレア銃を入手できればまだまだ一線で通用するし、現実に前回BoBで二位に入った《闇風》というプレイヤーはAGI一極型だった。――とは言え、彼を破った優勝者《ゼクシード》はSTR-VITのバランスタイプであったのもまた事実なのだが。
しかし――。
詩乃に言わせれば、ステータスタイプなどと言うモノは、あくまで「キャラクターの強さ」であって、それよりも重要なファクターが厳然として存在する。それはプレイヤーの強さだ。心の強さ。一昨日戦った《ベヒモス》が、常に冷静沈着に戦況を分析し、その上で片頬に笑みを浮かべるだけの余裕を見せたように。かの男の強さの源はM134ミニガンではなく、あの獰猛な笑みそのものだった。
だから、詩乃としては恭二の言い方には少々引っかからざるを得ない。
「うーん……。確かにレア銃は強いけどさ……。強い人の中にはレアな武器装備してる人もいる、ってだけで、レア持ってる人が全員強いわけじゃないよ。実際、前の本大会に出た30人のうち半分くらいは、店売りのカスタム武器装備だったよ」
「それは……朝田さんがあんな超レア武器持ってて、その上STR−AGI−VITのバランス型だからそう言えるんだよ。やっぱ武装の差は大きいよ……」
ため息をつきつつアイスクリームをつつき回す恭二を見ながら、これ以上は何を言っても無駄だと思い、詩乃は会話を収束させようとした。
「じゃあ、新川君は次のBoBにはエントリーしないの?」
「……うん。出ても、無駄だからさ」
「そう……。ん……まあ、勉強もあるもんね。予備校の大検コース、行ってるんでしょ? 模試とかどう?」
恭二は、夏休み以来不登校を続けており、その件では、大きな病院の院長である父親と相当やりあったらしい。結局、大学入学資格検定を受けて、父親の出た大学の医学部受験を目指す、という線で落ち着いたと以前聞いた。
「あ……うん」
恭二はこくんと頷き、笑った。
「大丈夫、順位は学校行ってたころを維持してるよ。問題ありません、サー」
「よろしい」
冗談めかして答え、詩乃も微笑んだ。
「新川君のログイン時間、すっごいからさ。ちょっと心配だったんだよ。いつ入っても居るんだもん」
「昼間はちゃんと勉強してるよ。メリハリが大事なんだよ」
「あんだけ潜ってれば、随分稼いでるんじゃないのー?」
「……そんなこと、無いって。AGI型じゃあもうソロ狩りは無理だしさ……」
また会話の雲行きが怪しくなってきたので、詩乃は慌てて口を挟んだ。
「まあ、接続料さえ稼げればじゅうぶんだよね。……ごめん、私、そろそろ帰らないと」
「あ、そっか。朝田さんはご飯も自分で作ってるんだもんね。また今度、ご馳走になりたいな」
「あ、う、うん、いいよ。そのうち……もうちょっと腕が上がったらね」
詩乃は再び慌てる。
一度だけ、恭二を自宅に招いて自作の夕食を振舞ったことがあった。食事そのものは楽しかったのだが、テーブルに向かい合って食後のお茶を飲んでいるうちにだんだん恭二の目つきが熱っぽくなってきて、いささか冷や汗をかいたものだ。超のつくネットゲーマーかつ銃器マニアであっても、男の子は男の子であり、一人暮らしの自宅に招待したのは少々軽率だったと反省した。
恭二のことは嫌いではない。彼との会話は、現実世界では詩乃がほっとできるごくごくわずかな瞬間のひとつだ。しかし今は、それ以上のことは考えられない。自分の心の奥底を黒く塗りつぶす、あの記憶に打ち勝つまでは。
「ごちそうさま。それに――有難う、助けてくれて。かっこよかったよ」
立ち上がりながら詩乃が言うと、恭二は相好を崩して頭を掻いた。
「いつでも、守ってあげられればいいんだけど。その……あのさ、学校の帰りとか、迎えに……いこうか?」
「う、ううん、大丈夫。私も、強くならないと、だからさ」
答え、詩乃が笑うと、恭二は再び眩しそうに、少しまぶたを伏せた。
長年に渡って染み込んだ雨水によって斑な薄墨色になっているコンクリートの階段を登ると、二つめのドアが詩乃の部屋だ。スカートのポケットから鍵を取り出し、旧式のピンシリンダー錠に差し込んで半回転させると、がちんという重い金属音が冷たく響いた。
ひんやり薄暗い玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。
ロックノブを回し、チェーンを掛けてから、詩乃は無声音でそっと、ただいま、と呟いた。
ドアマットを敷いた上り框から、細長いスペースが3メートルほど伸びている。右側にユニットバスのドア、左側にキッチンシンク。スーパーで買ってきた野菜と豆腐、鶏のひき肉などをシンク横の冷蔵庫に収めて、奥の六畳一間に入ると、詩乃はようやく、ほうっと深く息をついて体の力を抜いた。カーテンを透かして入り込む最後の残照を頼りに壁のスイッチに触れ、照明を点ける。
飾り気のある部屋ではない。フローリング風のクッションタイル張りの床、カーテンはアイボリーの無地。右手の壁に面して置かれた黒のパイプベッドと、その奥に並ぶ同じくマットブラックのライティングデスク、反対側の壁際に据えられた小振りのチェストと書棚、姿見だけが主だった調度だ。
通学鞄を床に置き、白のマフラーをほどく。オーバーを脱いでハンガーに掛け、マフラーと一緒に造り付けの狭いクローゼットの中へ。黒に近い色のセーラー服から光沢のあるダークグリーンのスカーフを引き抜き、左脇のジッパーを下ろしたところで――詩乃は手を止め、ライティングデスクに視線を向けた。
今日の放課後はなかなかに波乱含みだったが、遠藤たちの恐喝行為に正面から立ち向かえたことがわずかな自信を胸の奥に残していた。パニックに陥りかけたのも事実だが、それでも逃げ出すにいられた。
それに二日前、GGO内で、強力な敵を死闘のすえに撃破したことも、一際強い火力で心を鍛えてくれたような気がした。
あのベヒモスという男は、パーティー戦では無敵だったのだと、新川恭二が教えてくれた。たしかに、そう言われれば頷けるだけの、すさまじいプレッシャーだった。戦闘中、詩乃/シノンは何度となく敗北、死を覚悟したものの、なお立ち上がって最後には勝利を力ずくでもぎ取った――
もしかしたら……。
もしかしたら、今ならば、あの記憶と向き合い、ねじ伏せることができるかも、しれない。
詩乃は動きを止めたまま、じっとデスクの抽斗を見詰めつづけた。数十秒後、右手に持ったままだったスカーフをベッドの上に放り投げて、デスクに歩み寄った。
数回、深く呼吸して、背骨のまわりを這いまわる怯えの虫を追い払う。
三段目の抽斗の取っ手に指をかけ――一気に引き開けた。
中には、筆記用具などを分類して収めた小さなボックスが並び、その一番奥に、暗闇を結晶させたかのような黒い輝きを纏って「それ」が横たわっていた。
拳銃。もちろん本物ではなく、プラスチック製のモデルガンだ。だが造りは非常に精緻で、細いヘアラインの走る表面仕上げなどは金属にしか見えない。
その姿を見ただけで、加速し始めた動悸を抑えこもうとしながら、詩乃は右手を伸ばして、そっとその銃のグリップを握り、持ち上げた。ずしりと重く、部屋の冷気を吸って凍るようにつめたい。
このモデルガンは、現実世界に存在する銃のコピーではない。グリップはエルゴノミクス的曲線で構成され、大型のトリガーガードのすぐ上部に大径の銃口が突き出ている。ブルパップ式とでも言うのか、放熱孔の開いた無骨な機関部はグリップのやや後方上部に位置している。
銃の名はプロキオンIII、ガンゲイル・オンラインに登場する光学銃だ。カテゴリー的にはハンドガンながらもフルオート射撃モードを有し、対モンスター戦闘用のサブアームとして人気が高い。
シノンも街の保管ルームに一丁所持しているが、現実の詩乃が持つこれは自分で購入したわけではない。そもそも売っているものではないらしい。
二ヵ月前のバレット・オブ・バレッツ本大会に出場し、25位に破れてから数日後、詩乃のゲームアカウント宛にGGOの運営体であるザスカーなる企業から英文のメールが届いた。どうやら、参加賞品として、ゲーム内で賞金もしくはアイテムを受け取るか、現実世界でプロキオンIIIのモデルガンを受け取るか選択せよ、という内容のようだった。
現実で模型とはいえ銃などが送られてきては堪らない、と即座にゲーム内での賞金を選ぼうと思ったのだが、そこで詩乃はふと手を止めた。
GGOにおける「荒療治」の結果を確認するには、いつか現実で模型の銃に触ってみる必要がある、とは以前から考えていた。かと言って、玩具店等に赴いてモデルガンを購入するのは心理的ハードルが多すぎるし、恭二に頼めば嬉々として貸してくれるだろうが受け取ったその場で発作を起こす可能性を考えるとそれもためらわれた。ネット通販が一番現実的だったが、オンラインショップで銃の画像をあれこれ見るのでさえ気が重く、実行に移せないでいたのだ。もちろん、金銭的な問題もあるにはあった。
GGO運営企業が、無料でモデルガンを送ってくれるというなら、あるいは好都合なのかもしれない――と、それでも期限ぎりぎりまで三日間悩んだ挙句、詩乃は現実で参加賞を受け取ることを選択したのだった。
一週間後、ずしっと重い国際小包が届いた。
開封するのに、更に二週間を要した。
そのとき引き起こされた反応は予想以上に酷いもので、詩乃はそれを机の抽斗の奥深くに押し込み、存在の記憶すら頭の片隅に押しやってきたのだ。
そして今――詩乃は再び、それを手に取っている。
銃の冷気が、右の掌から二の腕、肩を伝わって、からだの奥底まで沁み通ってくるようだ。模型のはずなのに、途方もなく重い。シノンなら指先で軽々と振り回すはずのハンドガンが、詩乃には鎖で地面に引っ張られているかのように思える。
掌から体温が奪われていくにつれ、銃は逆に熱を帯びていくように感じられる。冷や汗で湿ったその生暖かさの中に、詩乃は他人の体温を感じる。
誰の? それは……あの……男の……
最早鼓動は抑えようもなく加速され、ごうごうと音を立てて冷たい血が全身を駆け巡る。見当識が低下していく。足元の床が、ゆっくり傾きはじめる。
しかし、詩乃は銃の黒い輝きから目を離せない。至近距離から食い入るように覗き込む。その表面に、ぼんやりと誰かの影。
きいんと高い耳鳴りがする。それはやがて、甲高い絶叫に変化する。幼い少女の、純粋な恐怖に塗れた叫び声。
悲鳴を上げているのは、誰?
それは…………わたし。
詩乃は、父親の顔を知らない。
現実の存在としての、父親の記憶が無いという意味ではない。単純に、写真においてすら父親なる人物を見たことが無いのだ。
父親が事故で亡くなったのは詩乃が二歳の時だと、祖父母に聞かされた。
その日、父親と母親、詩乃の親子三人は、年末を母方の実家で過ごすため、自動車で東北のとある県境、山の側面に沿って伸びる片側一車線の県道を走っていた。東京を出るのが遅れ、時刻は夜11時を回っていたそうだ。
スリップ痕から、カーブを曲がりきれず対向車線に膨らんできたトラックの速度超過が事故の原因だと断定されている。
衝突の勢いで、トラックの運転手はウインドウを突き破って路面に投げ出されほぼ即死。右側面を直撃された一家の車はガードレールを越えて山の斜面に転落し、二本の樹に引っかかって停止した。その時点では、運転していた父親は意識不明の重傷ではあったものの死には至らず、助手席の母親も左大腿の単純骨折のみ、後部座席のチャイルドシートでしっかりとベルトをかけられていた二歳の詩乃はほぼ無傷だった。しかし、その時の記憶は一欠片も残っていない。
不運だったのは、その道が地元でもほとんど使用されておらず、特に深夜ともなればまったく往来が途絶え、また事故の衝撃で父親が持っていた携帯電話が破損したことだった。
翌早朝、県道を通りがかったドライバーが事故に気付いて通報するまで、6時間にも渡って詩乃の母親は、内出血によってゆっくりと冷たい死に至っていく父親を隣でただ見ていることしかできなかった。その時、母親の心のどこか奥の部分が、少しだけ壊れてしまったのだった。
事故後、母親の時間は、父親と知り合う以前、十代の頃まで巻き戻ってしまったかのようだった。母子は東京の家を出て母親の実家に身を寄せたのだが、母親は父親の遺品、ことに写真はほぼ全てを処分し、一切思い出を語ろうとはしなかった。
母親は、ただただ平穏と静寂のみを愛する、鄙の少女の如き生活を送るようになった。詩乃のことをどう認識しているのかは、14年が経つ現在でもはっきりとはわからない。あるいは妹のように思っているのかもしれないが、それでも、幸い母親は事故後も変わらず詩乃を深く愛してくれた。毎夜絵本を読み、子守唄をうたってくれたのを覚えている。
だから、詩乃の記憶にある母親はすべて、儚く、傷つきやすい少女のような姿だ。自然、物心つくにつれ、詩乃は自分がしっかりしなければ、と思うようになった。自分が、母親を守らなければ、と。
祖父母の外出中、しつこい訪問販売の男が玄関に居座って、母親が途方に暮れていたとき、毅然と、出て行かないと警察を呼ぶ、と言って追い返したのは9歳の時だ。
詩乃にとって、外の世界は常に、母親との静かな生活を脅かす要素に満ちた存在だった。守らなければ、守らなければ、とそれだけを考えていた。
だから――詩乃は思うのだ。あの事件が起きたのは、ある意味では必然だったと。現れるべくして現れた、外世界の悪意の凝集だったのではないかと。
11歳、小学五年生になった詩乃は、あまり外で遊ばず、学校からまっすぐ帰ってきて、図書館で借りた本を読むのを好む子供だった。成績は良かったが友達は少なかった。弱者を傷つけようとする存在に異常に敏感で、クラスで子供っぽいいじめ行為をしていた男子三人と口論の末喧嘩になり、双方血を見たこともあった。
二学期に入ってすぐの、ある土曜日の午後。
詩乃と母親は、連れ立って近所の小さな郵便局に出かけた。客は、他には一人もいなかった。
母親が窓口に書類を出している間、詩乃は局内のベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせながら持参した本を読んでいた。タイトルは覚えていない。
キィ、とドアが鳴る音がして顔を上げると、新しい客が一人入ってきたところだった。灰色っぽい服装で、片手にボストンバッグを下げた、痩せた中年の男だった。
男は入り口で足を止め、局内をぐるりと見回した。詩乃と、一瞬目が合った。瞳の色が妙だな、と思った。黄ばんだ白目の中央に、深い穴のように真っ黒な瞳がせわしなく動きながら張り付いていた。今にして思えば、あれは瞳孔が異常に拡張していたのだろう。男が、郵便局に現れる直前に覚醒剤を注射していたのがその後判明している。
詩乃がいぶかしむ間もなく、男は足早に窓口へと向かった。
「振替・貯蓄」の窓口で、何かの手続きをしていた詩乃の母親の右腕を、男はいきなり掴んで引っ張った。そのまま左手で烈しく突き飛ばす。母親は声も無く詩乃の座る椅子の近くに倒れこみ、ショックのあまり目を見開いて凍りついた。
詩乃は咄嗟に立ち上がっていた。愛する母親が受けた理不尽な暴力に、大声で抗議しようとした、その時。
男はカウンターにどさっとボストンバッグを置き、中から何か黒いものをつかみ出した。拳銃だとわかったのは、男がそれを右手で窓口にいた男性局員に突きつけたときだった。ピストル――おもちゃ――いや本物――強盗――!? と、いくつもの単語が詩乃の意識を横切った。
「この鞄に、金を入れろ!」
男が、嗄れた声で喚いた。すぐさま続けて、
「両手を机の上に出せ! ボタンを押すな! お前らも動くな!!」
拳銃を左右に動かし、奥にいた数人の局員を牽制する。
今すぐ局から走り出て、外に助けを呼ぶべきか、と詩乃は考えた。しかし床に倒れたままの母親を残していくわけには行かなかった。
躊躇しているうちに、男が再び叫んだ。
「早く金を入れろ!! あるだけ全部だ!! 早くしろ!!」
窓口の男性局員が、顔を強張らせながらも、右手で5センチほどの厚さの札束を差し出した――
その瞬間だった。
局内の空気が、一瞬膨らんだような気がした。両耳がジンと痺れ、それが高い破裂音のせいだと気付くのには時間がかかった。キン、と鋭い金属音が響き、何かが壁に跳ね返されて詩乃の足元に転がってきた。金色の、細い金属の筒だった。
再び顔を上げると、カウンターの向こうで、男性局員が目を丸くして胸元を両手で押さえていた。ネクタイの下で、白いワイシャツにわずかに赤い染みが見えた。と思ったときには、局員が椅子ごと後方に傾き、盛大な衝撃音とともに書類キャビネットごと倒れた。
「ボタンを押すなと言ったろうがぁ!!」
男の声は、甲高く裏返っていた。銃を握った右手がぶるぶると震えているのが見えた。花火のときと同じ匂いが鼻をついた。
「おい、お前! こっちに来て金を詰めろ!!」
男が拳銃を向けた先には、女性局員が二人固まって立ち尽くしていた。
「早く来い!!」
男の声が鋭く響いたが、女性局員たちは首を細かく振るだけで、動こうとしなかった。日ごろ、強盗事件に対する訓練はしていたのだろうが、実際に放たれた弾丸はどんなマニュアルも防いではくれない。
男は、苛立ちが最高潮に達したかのようにカウンター下部を蹴り飛ばし、更に一人撃とうと考えたのか、拳銃を握った腕をまっすぐ伸ばした。ひぃっ! と高い悲鳴を上げて、女性局員たちが後ずさった。
だがそこで、男は考えを改め、体を半回転させながら喚いた。
「早くしねえともう一人撃つぞ!! 撃つぞォォォ!!」
男が拳銃を向けたのは――床に倒れ、虚ろな目で宙に視線を向ける詩乃の母親だった。
眼前で進行中の事件による過大な負荷で、母親は身動きもできないようだった。瞬間的に、詩乃は考えた。
わたしが、お母さんを、守らなくては。
幼児期から常にそう思いつづけてきた詩乃の信念、意志の力が詩乃の体を動かした。
床を蹴って飛び出した詩乃は、拳銃を握る男の右手首にしがみつき、咄嗟に噛み付いた。子供の鋭い歯は容易に男の腱に食い込み、穴を穿った。
「あぁぁ!?」
男は驚愕の声を上げて右手を詩乃ごとブンと振った。詩乃の体はカウンターの側面に叩きつけられ、その時同時に乳歯が二本抜けたが、まるで気付かなかった。目の前に、男の手から滑り落ちた黒い拳銃が転がってきたからだ。詩乃は無我夢中でそれを拾い上げた。
重かった。
ずしりと両腕に響く、金属の重み。そして、縦にラインの入ったグリップは直前までそれを握っていた男の汗でじっとりと湿り、男の体温で生き物のように熱を持っていた。
詩乃は両手で拳銃を構え、まっすぐ前、男のほうに向けた。その途端、奇声を上げながら男が詩乃に飛び掛り、拳銃から詩乃の手をもぎ離そうとするかのように、自分の両手で詩乃の両手首をつよく握った。
それが詩乃にとって良かったのか、あるいはそうでなかったのかは今でもわからない。だが単に事実として、男は自分に向けられた銃のホールドを自ら助ける結果となった。
今では、詩乃はその時の拳銃――「あの銃」について、充分以上の知識を得ている。
1933年、つまり80年前もの昔に、ソビエト陸軍に正式採用された拳銃「トカレフ−TT33」、それを中国でコピー生産した、「54式−黒星(ヘイシン)」。それがあの銃の名前だ。
30口径、つまり7.62ミリの弾丸を使用する。後発のハンドガンの主流である9ミリと比べて小口径だが、火薬量は通常より多い。そのため弾の初速は音速を超え、拳銃の中では最大級の貫通力を有する。
ゆえに反動も大きく、50年代に、小型化された9ミリ弾使用の「マカロフ」がトカレフに替わって正式採用された経緯がある。
そのような拳銃を、11歳の少女がまともに狙って撃てるはずはなかった。だが、男に強く手首を握られ、銃を奪われる、と思ったとき、詩乃は意識せず引き金を絞っていた。猛烈な衝撃が両手から肘、肩へと伝わったが、反動で跳ね上がろうとする銃のエネルギーは、男の両手に吸収された。再び空気が弾け、酷い耳鳴りと同時に音が遠くなった。
男はしゃっくりのような声を出し、詩乃から手を離した。そのままよろよろと数歩後退した。
男の、柄の入ったグレーのシャツの腹部に、赤黒い円が急速に広がりつつあった。
「あぁ……ああぁぁ!!」
高い声を漏らしながら男は両手で腹を押さえた。太い血管が傷ついたのか、その指の間から、一筋の血液が迸った。
だが男は倒れなかった。黒星の使用する小口径フルメタル・ジャケット弾は即座に人体を貫通するために、ストッピングパワー自体は低いのだ。
奇声を上げながら、男は血に塗れた両手を詩乃に向け、再び掴みかかろうとした。傷口と手から飛び散った血液が、詩乃の両手に降りかかった。
その時には、詩乃は再びトリガーを引いていた。
今度こそ両手が盛大に跳ね上がり、肘と両肩に激痛が走った。体ごと後ろに弾かれ、背中がカウンターに激突して息が詰まった。発射音はもうあまり感じなかった。
今度の弾は、男の右鎖骨の下に命中し、再び貫通した。男はよろけ、自ら流した血に足を滑らせてリノリウムの床に倒れた。
「がああああああ!!」
だがまだ男の動きは止まらない。激怒の絶叫を上げ、再び立ち上がろうと両手を床についた。
詩乃は恐慌に陥った。今度こそ、確実に、男を「停止」させないと、自分と母親は絶対に殺されると思った。
千切れるような両腕両肩の痛みを無視し、詩乃は二歩前に進んだ。床に仰向けになり、上体を20センチほど起こしつつあった男の体の中央に、詩乃は拳銃を向けた。
三度目の射撃で、右肩が脱臼した。今度は反動で吹き飛ぶ体を支えるものがなく、詩乃は床にもんどりうって倒れた。それでも拳銃から手は離さなかった。
前と同じく跳ね上がった黒星から発射された弾丸は、狙いを大きく逸れ、数十センチ上方――
男の顔のほぼ中央に命中していた。ごつんと音を立てて、男の頭が床に落下した。もう、動いても叫んでもいなかった。
詩乃は必死に体を起こし、男の動きが止まっているのを確認した。
守った。
何よりもまず、そう思った。自分は、母親を守ることができた。
詩乃は顔を動かし、数メートル離れた床に倒れたままの母親に視線を向けた。そして、その顔、この世で誰よりも愛する母親の両目に――
明らかに自分に向けられる、無限の恐怖と脅えの色を見た。
詩乃は自分の手に視線を落とした。いまだしっかりと拳銃のグリップを握ったままの両手は、どろりとした赤黒い液体にまみれていた。
詩乃は口を開き、ようやく高い悲鳴を上げはじめた。
「ぁぁぁぁ…………!!」
喉の奥から甲高い悲鳴を絞り出しながら、詩乃は両手で握ったプロキオンIIIを凝視し続けた。両手の甲、指の間をぬるりと滴る血が見える。何度まばたきしても消えることはない。ぽたり、ぽたりと粘っこい雫を足元に垂らしている。
突然、両目から液体が溢れ出した。視界がぐにゃりと歪み、モデルガンの黒い輝きが全てを覆っていく。
その奥に、あの男の顔が見えた。
発射された三発目の弾丸が、男の右頬骨上部にぼつっと赤い孔を穿つ。衝撃で眼球が突出し、同時に後頭部からばしゃりと赤いものが飛散する。
だが、残った左眼がぎょろりと動き、底なし穴のような瞳が詩乃を見る。
まっすぐに、詩乃の目を見る。
「ぁ……ぁ…………っ」
不意に、喉の奥に舌が張り付き、呼吸が出来なくなった。同時にお腹の底から烈しく突き上げてくるものがあった。
詩乃は歯を食いしばり、全精神力を振り絞ってプロキオンIIIを床に投げ落とした。すぐさまよろよろとキッチンに走り、ユニットバスのドアノブを千切らんばかりの勢いで引っ張る。
便器の蓋を跳ね上げ、屈み込むと同時に、熱い液体が胃の底から迸った。体を捩り、痙攣させ、何度も何度も、体内にあるすべてのものを排出するかのように嘔吐した。
ようやく胃の収縮が収まったときには、詩乃はすっかり力尽きていた。
左手を伸ばして、タンクの水洗ノブを押す。ふらつきながら立ち上がり、洗面台の蛇口を捻って、切れるように冷たい水で両手と顔を何度も、何度も洗う。
最後に口をすすぎ、棚から清潔なタオルを取って顔を拭きながらユニットバスを出た。思考能力は完全に麻痺していた。
覚束ない足で、部屋に戻る。
なるべく視線を向けないようにして、手にもったタオルを、床に転がるモデルガンに覆い被せた。それをそのまま持ち上げ、すぐさま開いたままのデスクの抽斗の奥に放り込む。ばしんと音を立てて抽斗を閉め、今度こそ精魂尽き果てて詩乃はベッドにうつ伏せに倒れた。
濡れた前髪から落ちた雫が、頬を流れる涙と混ざり、布団に染み込んでいった。いつしか、小声で同じことを、繰り返し繰り返し呟いていた。
「助けて……誰か……たすけて……たすけて……誰か…………」
事件直後から数日間の記憶は、あまり鮮明ではない。
紺色の制服を着た大人たちが、緊張した口調で、銃をこちらに渡しなさい、と言ったとき、指がかたく強張ってどうしてもグリップから剥がれようとしなかったこと。
くるくる回る赤いランプの群。風に揺れる黄色いテープ。その向こうから浴びせられた白い光に目が眩んだこと。
パトカーに乗せられてからようやく右肩の痛みに気付き、恐る恐るそれを訴えると、警官は慌てて詩乃を救急車に乗せ替えたこと――などを断片的に憶えている。
病院のベッドでは、二人の婦警に、事件のことを何度も何度も繰りかえし訊かれた。お母さんに会いたい、と何回も言ったのだが、その希望が叶えられたのはかなり後のことだった。
詩乃は三日ほどで退院し、祖父母の待つ家に帰ったのだが、母親の入院は一ヶ月以上に及んだ。事件以前の穏やかな日常が、同じかたちで戻ってくることはもうなかった。
マスコミ各社の自主規制により、事件の詳細がそのまま報道されることは回避された。強盗事件は被疑者死亡として送検され、公判も一切行われなかった。だが、北の小さな市でのことだ。郵便局の中で起きたことは委細漏らさず――というよりも様々な尾鰭のついた噂となって、燎原の火のごとく街じゅうを駆け巡った。
小学校での残された一年半、詩乃には「殺人者」を意味するありとあらゆる派生語が浴びせられ、中学に上がってからは徹底した無視がそれに取って替わった。
だが、詩乃には、周囲の視線それ自体は大した問題ではなかった。もとより昔から、集団に属することへの興味は非常に薄かったのだ。
しかし、事件が詩乃の心の中に残していった爪痕――、それは何年経とうとも一向に癒えることなく、詩乃を苦しめ続けた。
あれ以来、詩乃は、銃器に類するものを目にするだけで事件の鮮明な記憶を呼び起こされ、激甚なショック症状に襲われるようになってしまったのだ。過呼吸から全身の硬直、見当識の喪失、嘔吐、酷い場合は失神に至るその発作は、道端で子供の持っている玩具の拳銃を目にしたときなどはもちろん、テレビ画面を通してですら容易に引き起こされた。
ゆえに、詩乃はドラマ、映画の類は殆ど観ることができなくなった。社会科の授業で用いられたビデオ教材のせいで発作を起こしたことも何度かある。比較的安全なのは小説で――それも大昔の文学作品に限定されたが――中学時代はほとんど図書館の片隅で大判の全集本を捲って過ごしたようなものだ。
中学を出たらどこか遠くで働きたいと祖父母に訴え、強硬に反対されたとき、ならせめて、遥か昔――詩乃が二歳になるまで、一家三人が幸せに暮らしていたという東京の街にある高校に進学したいと詩乃は言った。常に付きまとう噂と好奇の視線が無い場所に行きたい、という気持ちも当然あったが、それ以上に、この街で暮らしているかぎり、一生心の傷が癒えることはないだろうと確信したからだった。
勿論、詩乃の症状は典型的なPTSD、心的外傷後ストレス障害ということで、四年間でいくつもの大きな病院に連れていかれ、無限回のカウンセリングが行われた。処方された薬も素直に飲んだ。だが、不思議にどこか似通った慈愛の笑みを浮かべた医者たちの言葉は、詩乃の心の表層を撫で、引っ掻くだけで、傷のある場所にさえ届くことは無かった。項垂れて医者たちの優しい言葉を聞きながら、詩乃は心の中で、何度も同じフレーズを呟いていた。それは――
ナラ アナタハ 銃デ ヒトヲ 射殺シタコトガ アルノカ
今では、そういう自分の態度が信頼の醸成を妨げ、治療を遠ざけていたと反省している。しかし、それは今でも詩乃の偽らざる本音だ。自分のしたことが善なのか悪なのか――、たぶんそれをはっきり断じてもらうことだけを、詩乃は望んでいたのだ。勿論、答えられる医者など居ようはずもなかったが。
しかし、どれだけ記憶と発作に苦しめられようと、自ら死を選ぼうと思ったことは一度も無かった。
あの男を手に掛けたことに対する罪悪感は感じない。母親に銃を向けられたとき、ああする以外の選択肢は詩乃には有り得なかった。たとえ事件の瞬間に戻れたとしても、やはり同じことをするだろう。
だが、詩乃が自殺という手段を選べば、男も浮かばれまい、とは思う。
だから、強くなりたかった。あの状況であの行動に出るのが当然、と言えるだけの強さが欲しかった。戦場で、容赦なく敵を倒していく女兵士のような。一人で暮らしてみたいと思ったのは、そのせいもある。
中学を卒業し街を出るとき、別れの言葉を告げたのは、祖父と祖母、それに詩乃のことをいつまでも事件以前の幼い子供と認識し、抱きしめ、髪を撫でてくれる母親だけだった。
詩乃はこの、空気はいがらっぽく、水は不味く、物が高価い街に移り住み――
そして、新川恭二と、VRMMO-RPG――ガンゲイル・オンラインに出会った。
ようやく呼吸と動悸が落ち着き始め、詩乃は薄く目蓋を持ち上げた。
ベッドにうつ伏せになり、左頬を布団につけた詩乃の視線の先に、縦長の姿見があった。
鏡のなかで、青白い頬に濡れた髪を張り付かせた少女がこちらを見返している。少々痩せすぎで、目ばかり大きく見える。小さい鼻はやや丸っこく、唇も厚みに欠ける。総じて、栄養の足りていない子猫のような印象だ。
荒野の狙撃手シノンとは、体格と、顔の両脇で細く結わえたショートという髪型は共通しているが、それ以外は何一つ似通うところはない。彼女は、言わば獰猛な山猫だ。
極度に怯えながら初めてGGOにログインし、訳もわからぬまま戦場に連れて行かれた時、詩乃は思わぬ発見をした。かの世界でいかなる銃器に触れようと、いや、それで他のプレイヤーを撃ち倒しさえしても、多少の緊張を覚える程度であの忌まわしい発作は起こさなかったのだ。
詩乃は、とうとうあの記憶を乗り越える方法を見つけた、と確信した。実際、GGOをプレイするようになってから、銃器の写真程度ならば発作は起こし難くなってきたし、恭二とGGO中の武器の話もできるようになった。この世界で戦い続ければ、いつかは傷が塞がるときが来る――、そう信じて、無数のモンスター、無数のプレイヤーを必殺の銃弾で吹き飛ばしてきた。
だが。
――ホントウニ、ソレデ、イイノ?
心の中で問い返す声がする。
シノンはすでに、数万のGGOプレイヤー中上位30人に入る存在だ。操れる者は他に居ないとさえ言われるアンチマテリアル・ライフルを自在に支配し、スコープに捉えたものには誰であれ確実な死を与えることができる。氷の心を持つ戦士、かつて詩乃がなりたいと願った存在そのものと言っても過言ではない。
なのに――現実の詩乃は、相変わらずモデルガン一つ手に持つことさえできない。
本当に……本当に、これでいいの……?
鏡の中の少女の瞳は、途方に暮れたように揺らいでいる。
誰か……教えて……私、どうすれば、いいの……?
――誰も、助けてくれはしない!!
弱気な声を撥ね退けるように心の中で叫び、詩乃は体を起こした。視線の先、ベッド脇の小テーブルに、アミュスフィアの銀色の円環が光っている。
まだ足りないだけ。問題はそれだけだ。
シノンよりも強いガンナーたちがあの世界にあと24人存在する。そいつらを全員打ち砕いて冥界に送り込み、荒野でただ一人の最強者として君臨した、その時こそ――
詩乃はシノンと一体化し、この世界においても本当の強さを手に入れられるはずだ。あの男は、今までシノンが殺したあまたのターゲットの中に埋没し、二度と記憶に浮かび上がってくることはない。
詩乃はエアコンのリモコンの拾い上げ、弱い暖房を入れると、制服の上着を一気に脱ぎ捨てた。スカートのホックも外して足から抜き、まとめて床に放り投げる。
ふらつく腕に力を込めて、アミュスフィアを取り上げると頭に被った。
手探りで電源を入れると、床に置いてあるゲーム機本体でクライアントディスクが回転し始める。スタンバイ完了を告げるかすかな電子音に、目を閉じる。
「リンク・スタート」
呟いた声は、泣き疲れた子供のように、頼りなく掠れていた。
(第三章 終)