第二章 「冥界の女神」
薄暮。
厚く、低く垂れ込める雲を、傾き始めた太陽が薄い黄色に染めている。
岩と砂ばかりの荒野に点在する、旧時代の遺物である崩壊しかけた高層建築がつくる影は徐々に長くなっていく。あと一時間も待機が続くようなら、夜間戦闘装備の用意を考えなければならない。
暗視ゴーグル越しの戦闘は、殺し殺されることの緊張感を削ぐため、シノンの好むところではなかった。陽光が消える前に、早く標的のパーティーが現れないものか、と、コンクリートの陰に身体をまるめてうずくまりながら考える。もっとも、シノンと一緒に憂鬱な待ち伏せ(アンブッシュ)を続ける五人の仲間も、まったく同じことを考えているに違いない。
と、全員の内心を代弁するかのように、パーティーメンバーの一人、小口径の短機関銃を腰に下げたアタッカーの男が小声でぼやいた。
「ったく、いつまで待たせんだよ……。おいダインよう、ほんとに来るのかぁ? ガセネタなんじゃねえのかよ?」
ダインと呼ばれた、ごつごつと大柄な体躯と無骨な顔を持つこのスコードロンのリーダーは、肩から下げた大ぶりの アサルトライフル を鳴らしながら首を振った。
「奴らはこの三週間、ほとんど毎日のように同じ時間、同じルートで狩りに出てるんだ。俺が自分で確認したんだぞ。確かに今日はちょっと帰りが遅いが、どうせ Mob の湧きがよくて欲かいて粘ってるんだろ。そのぶん分け前が増えるんだ。文句言うな」
「でもよぉ」
前衛の男は、なおも不満そうに口を尖らせる。
「今日の獲物は、確か先週襲ったのと同じ連中なんだろ? 警戒してルートを変えたってことも……」
「前に待ち伏せてからもう6日も経ってるんだぞ。それからも、あいつらはずっと同じ狩場に通ってるんだ。奴らはMob狩り特化パーティーだからな……」
ダインの口もとに、あざけるような笑みが浮かんだ。
「何度襲われて、儲けを根こそぎにされても、それ以上に狩りで稼げればいいと思ってるのさ。俺たちみたいな対人スコードロンには絶好のカモだ。あと二、三回はこの手でいけるさ」
「でもなあ、信じられねえなあ。普通、一度やられれば何か対策するだろう」
「翌日くらいは警戒したかもしれないが、すぐ忘れたんだろうさ。 フィールド Mobのアルゴリズムは毎日一緒だからな。そんな狩りばっかしてるとそいつらもMobみたいになっちまうのさ。プライドの無え連中だ」
だんだん聞いているのが不愉快になり、シノンは一層深くマフラーに顔を埋めた。感情の起伏は、トリガーを引く指を鈍らせる。そう分かっていても、賢しらに語るダインへの苛立ちが心の中に湧き起こる。
ルーティーンなMob狩りに特化したパーティーを嗤い、自らを PvPer と誇るわりには、そのパーティーを何度も待ち伏せて襲うことにプライドは傷つかないらしい。こんなニュートラル・フィールドで何時間も費やすくらいなら、地下の遺跡ダンジョンに潜ってハイクラスのスコードロンと一戦交えたほうが、稼ぎの効率は何倍も高まる。
無論、一敗地にまみれ、装備をドロップして街に死に戻る可能性も高まる。しかしそれが戦闘というものだ。その緊張感の中でのみ、魂は鍛えられる。
ダインの率いるこのスコードロンに誘われたのは二週間前だった。参加してすぐに後悔した。確実に戦力で優位に立てるパーティーだけを狙い、危機らしい危機でもないのにすぐに撤退する、怯懦を看板に掲げているようなPK集団だったからだ。
しかしシノンはこれまで、スコードロンの方針には一切口を出さず、黙々とダインの指示に従ってトリガーを引いてきた。別に忠誠心を売り物にしているわけではない。いつか敵として戦場でまみえたときに、思考・行動を読み、確実に弾丸をダインの眉間に撃ち込むためだ。性格的にはまるで好きになれないが、前回のバレット・オブ・バレッツで十八位に入ったダインのレベル・ステータスと、その肩の SIG−SG550 が吐き散らす5.56ミリ弾の威力は本物だ。だから今はひたすら口をつぐみ目を光らせ、ダインが無警戒に振り撒く情報を収集する。
ダインのお喋りは続いている。
「……大体、Mob狩りのために光学銃ばっかり揃えてるあいつらが、そうすぐに対人用の実弾銃を員数ぶん用意できるわけないだろう。せいぜい、 支援火器 を一丁を仕入れるくらいが関の山さ。そいつを潰すために、今日はシノンにライフルを持ってきてもらってるんだ。作戦に死角はねえよ。なあ、シノン?」
いきなり話を振られ、シノンはマフラーに埋めた顔をわずかに動かして頷いた。だが口はつぐんだままで、会話に加わる意思のないことを表す。
ダインは詰まらなそうにかすかに鼻を鳴らしたが、アタッカーのほうはシノンに向かってニッと笑いかけ、言った。
「まあ、そりゃそうか。シノンの遠距離狙撃がありゃあ優位は変わらねえや。――そういや、シノンっちさぁ」
顔に弛んだ笑みを浮かべたまま、それでも掩蔽物の陰から出ることのないよう四つんばいでアタッカーはシノンの隣に近寄ってきた。
「今日、このあと時間ある? 俺もスナイパースキル上げたいんで相談に乗ってほしいなーなんて。どっかでお茶でもどう?」
シノンはちらりと男の顔と、その腰に下がる武器に視線を送った。実弾系短機関銃、 H&K−UMP が男のメインアームだ。AGI型らしく、正面戦闘での回避力はなかなかのものだったが、レベル的にも装備的にも情報を記憶しておくほどの相手ではない。相手の名前を少々苦労して思い出しながら、シノンは小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい、ギンロウさん。今日は、リアルでちょっと用事があるから……」
現実の自分の声とは似ても似つかない、高く澄んだ可愛らしい声が流れ、シノンは内心でうんざりする。これだから喋るのは好きではない。ギンロウという男は、すげなく断られたにも関わらず、うっとりとした笑いを消そうとしない。一部の男性プレイヤーは、シノンの声を聞くだけである種の喜びを得るらしい。そう考えると、背筋に寒いものが走る。
このガンゲイル・オンラインに初めて身を投じたときは、無骨で無個性な男の姿を分身にと望んだ。すぐにVRMMOではプレイヤー・キャラクター感の性別逆転が不可能だと知らされ、それならばできるだけ筋肉質で背の高い、兵士然とした女になりたいと思った。しかし、ランダム生成によって与えられたのは、小柄で華奢な、日本人形めいた少女の姿で、即座にアカウントを破棄してキャラクターを作り直そうと思ったのだが、シノンをこの世界に誘った友人が「勿体無い」と強行に主張したためなし崩し的に後戻りできないところまでレベルを上げてしまった。
お陰で、時折このように厄介な申し出を受けることがある。戦うことだけがゲーム目的のシノンにとっては鬱陶しいだけだ。
「そっかぁー、シノンっちはリアルじゃ学生さんだっけ? 大学生? レポートかなんかかな?」
「……ええ、まあ……」
おまけに、いちど落ちるときに、学校が、と口を滑らせてしまってからは誘いが執拗になってきた気がする。本当は高校生だなどとは、口が裂けても言えない。
と、今までしゃがみこんでステータスウインドウを操作していた、前衛三人のうち残る二人が、ギンロウを牽制でもするかのようににじり寄ってきた。その片方、スモーク処理されたゴーグルの上に緑色の前髪を垂らした男が口を開く。
「ギンロウさん、シノンさんが困ってるでしょう。リアルの話を持ち出すもんじゃないですよ」
「そうそう。向こうでもこっちでも寂しい独り身だからってさぁ」
もう一方、迷彩のヘルメットを斜めに被った男がにやにや笑うと、ギンロウは二人の頭を拳でぐりぐりと押しながら言い返した。
「んだよ、お前らだって何年も春が来ないくせに」
ひゃひゃひゃと笑う三人の隣で一層体を縮めながら、シノンは不思議でならなかった。
プレイヤー相手の戦闘を欲するなら、待機中は精神集中でも装備点検でも幾らでもすることがあるし、Eマネー還元を利用して稼ぐつもりならMobハント専門のスコードロンに入ったほうがいい。そして出会いを求めるなら、こんな殺風景で殺伐としたゲームでなく、もっとメルヘンチックで女の子のプレイヤーが多いゲームに行くべきだ。一体彼らは何を求めてこの世界にやってきているのだろう。
再びマフラーの奥に深く顔をうずめて、シノンは左手の指先でそっと、地面に横たえてある愛用のライフルの銃身をなぞった。
――いつかこの銃で、あなたたちの仮想の体を吹き飛ばすときがくる。その後でも同じように笑って声を掛けられる?
胸の奥でそう呟くと、苛立った気分が徐々に冷えていった。
「――来たぞ」
崩れかけたコンクリート壁の穴から双眼鏡で索敵を続けていた、残る一人のパーティーメンバーがかすかな声で呟いたときには、更に20分が経過していた。
前衛三人とダインのお喋りがぴたりと止まり、場の空気が一気に緊張する。
シノンはちらりと空を見上げた。黄色い雲はわずかに赤みを増しつつあるが、まだ光量は十分だ。
「ようやくお出ましか」
小声で唸りながら、ダインは中腰で移動すると、壁の偵察役から双眼鏡を受け取った。同じように穴越しに覗き込み、敵の戦力の確認を始める。
「……確かにあいつらだ。7人……先週よりひとり増えてるな。自動ブラスターの前衛が4人。大口径レーザーライフルが1人。それに……やっぱりだ、 FN−ミニミ が一人。こいつは先週は光学銃だったはずだが、慌てて支援火器に持ち替えたんだろうな。狙撃するならこいつだな。最後の一人は……迷彩マントで武装が見えないな……」
それを聞いて、シノンは地面に腹ばいになり、自分のライフルのスコープを覗いてみた。
シノン達6人のパーティーが伏せているのは、少し高台になった場所に遺された、建築物の残骸の中だ。ぼろぼろのコンクリート壁や鉄骨が掩蔽物となり、前方に広がる荒野を監視するには絶好の地形である。
ライフルの射線上で、厚い壁がV字型に崩れており、その隙間からシノンは荒野を俯瞰した。
すぐに、最小倍率に設定したスコープの視野を動く小さな点が見えた。指先でダイヤルを調節する。かちっというかすかな音がするたびに、胡麻粒のような黒点はみるみる拡大され、やがて七つの人の姿となった。
ダインの言葉どおり、4人が光学系突撃銃を携えており、そのうち二人が頻繁に双眼鏡を顔に当て、周囲を警戒している。しかし、向こうからこちらを発見するのは、最大倍率でダイレクトにコンクリート壁の隙間を覗きでもしない限り不可能だ。
集団の中ほどを、大型の銃を肩に掛けた二人が歩いている。片方はセミオートのレーザー・ライフル、確かアルゴル−IIという名前の銃で、もう一方は実弾系の軽機関銃、FN−MINIMIだ。光学銃による攻撃は、ダメージの半分以上を防護フィールドによって減殺できるため、どちらと言われればMINIMIのほうが圧倒的に脅威だ。
ガンゲイル・オンラインに登場する武器は、大きく分けて実弾銃、光学銃の二つに分類される。
双方のメリット・デメリットは、実弾銃が高威力、防護フィールド貫通能力に対して、重く、弾薬の携帯が困難。光学銃は軽量、長射程、命中精度が高く、また弾倉にあたるエネルギーパックがコンパクトな反面、防護フィールドで威力を散らされてしまう。
よって、対モンスターには光学銃、対プレイヤーには実弾銃が絶対のセオリーなのだが、この二つのカテゴリーにはもう一つ大きな特徴がある。
それは、光学銃が架空の名称と姿を持っているのに対し、実弾銃は現実世界に実際に存在する銃をそのまま登場させているということだ。
よって、GGOプレイヤーのうちかなりのパーセンテージを占める、ダインやギンロウのような銃器マニアたちは好んで実弾銃を常時携行し、Mob狩りの時だけ光学銃に持ち替えている。
いま、シノンが頬をつけているライフルも実弾系だ。だが、シノンはこの世界に来るまで銃器のメーカーなど何一つ知らなかった。必要性があってアイテムとしての銃の名前は憶えたが、それで現実の銃に興味が出たかというとまったくそんなことはない。この世界の銃は、トリガーを引いて弾丸が発射されればそれでいいし、現実世界の銃に至っては見るのも嫌だ。
ただひたすら、この殺戮の世界で、仮想の敵を仮想の銃弾で破壊しつづける。心が石のように硬くなり、流れる血が凍るまで。
そのために、シノンは今日もトリガーを引く。
余計な思考を振り払い、シノンはライフルをわずかに動かした。敵の隊列の最後尾を、巨大なゴーグルで顔を覆い、迷彩マントをすっぽりと羽織ったプレイヤーが歩いている。ダインの言葉どおり、装備は見えない。
かなりの巨漢だ。マントの下の背中に、大きなバックパックを背負っているらしい。それ以外は大した荷物を持っている様子はない。腰か手にあるであろう武器は、最大でも短機関銃クラスだろうと思われた。
「迷彩マントだぁ?」
背後から、ギンロウの声がした。緊張の響きを帯びてはいるが、冗談めかした口調で続ける。
「アレじゃねえのか? ウワサの……《デス・ガン》」
「ハッ、まさか。実在するものか」
すぐにダインが笑い飛ばす。
「それに、噂じゃあ死銃ってのは小男なんだろ? あいつはかなりでかいぞ。2メートルはありそうだ。多分……STR型の運び屋だな。稼いだアイテムやら、弾薬やエネルギーパックを背負ってるんだ。武装は大したことないだろう。戦闘では無視していい」
その言葉を聞きながら、シノンはじっとスコープの中の男を見詰めた。
ごつい装甲ゴーグルのせいで表情は見えない。だが、わずかに口元が覗いている。唇は固く引き結ばれ、微動だにしない。他のメンバーは、警戒しながらも雑談中と見え時折歯を見せているが、最後尾のマントの男だけは無言を貫いている。黙々と歩くその足取りには、一切の乱れがない。
半年のGGOプレイ経験で培ったシノンの勘は、MINIMIよりも、この男のほうにより強い脅威を告げていた。しかし、背中のバックパック以外は、マントに目立つ膨らみはない。小型でハイパワーのレア銃を隠し持っているのだろうか。だがその類の銃は光学系にしか存在せず、対人戦闘では決定力とはなり得ないはずだ。ならばこの男に感じる殺傷力は気のせいなのだろうか……。
迷った末、シノンは小声で言った。
「あの男、嫌な感じがする。狙撃するのはマントの男にしたい」
ダインは双眼鏡を顔から離すと、眉を上げてシノンを見た。
「何故だ? 大した武装もないのに」
「……根拠は無い。不確定要素だから気に入らないだけ」
「要素と言うなら、あのMINIMIは明らかに不安要素だろう。あれに手間取ってる間にブラスターに接近されたら厄介だぞ」
光学銃に防護フィールドが有効、と言っても、その効果は彼我の距離が縮まるにつれ減少する。至近での撃ちあいになれば、マガジン一つあたりの弾数が多いレーザーブラスターに圧倒される可能性はある。シノンはやむなく主張を引っ込め、頷いた。
「……わかった。第一目標はMINIMIにする。可能だったら次弾でマントの男を狙う」
そう言ったものの、狙撃が有効なのは、敵に射手が発見されていない初弾に限る。発射点を認識されてからの狙撃は、敵に弾道予測線を与えてしまうため容易に回避されるからだ。
「おい、喋ってる時間はそろそろ無いぞ。距離2500だ」
索敵担当の男が、ダインから双眼鏡を取り返して覗き込み、言った。ダインは頷き返し、背後のアタッカー三人を振り返った。
「よし。俺たちは作戦どおり、正面のビルの陰まで進んで敵を待つ。――シノン、ここから俺たちには奴らが見えなくなるからな、状況に変化があったら知らせろ。狙撃タイミングは指示する」
「了解」
短く答え、シノンは再びライフルのスコープを覗き込んだ。標的パーティーに変化はない。相変わらず、やや遅いペースで荒野を移動している。
彼らと、シノン達の間には2500メートルの荒野が広がっており、その中央わずかこちら寄りに、ひときわ巨大なビルディングの遺跡がそびえていた。ダインら5人は、それを利用して標的の死角に入り、接近する作戦である。
「――よし、行くぞ」
短いダインの声に、シノンを除くメンバーが短く答えた。ブーツが砂利混じりの砂を踏む音を残して、高台の後方から降りていく。夕暮れの風鳴りが彼らの足音をかき消すまで待って、シノンは首元のマフラーの下から小さなヘッドセットを取り出し、耳に掛けた。
ここからの数分間、シノンはスナイパーとして、プレッシャーと孤独な戦いを続けなければならない。自分の放つ一発の銃弾で、その後の戦闘の帰趨が動くのだ。頼るのは自分の指と、物言わぬ銃だけだ。左手を、二脚に支えられた巨大な銃身に滑らせる。黒い金属は、冷たい沈黙をシノンに返す。
シノンを、この世界では珍しい狙撃手としてそれなりに有名プレイヤーたらしめているのは、何よりもまずこの実弾銃だった。名を、PGM−ウルティマラティオ・ヘカートII、と言う。全長1380ミリ、重量13.8キロという図体を持ち、50口径、つまり12.7ミリもの巨大な弾丸を使用する。
現実世界では、アンチマテリアル・スナイパーライフル、というカテゴリーに属すると聞いた。つまり、車両や建築物を貫くことを目的とする銃だ。そのあまりの威力から、何とかいう長い名前の条約で、対人狙撃に使用するのは禁止されているらしい。しかしもちろん、この世界にそんな法律は無い。
手に入れたのは三ヶ月前、GGOプレイヤーとしてそれなりにベテランの域に達した頃だった。そのころ、シノンは一回り小さなスナイパーライフルと、サブアームにハンドガンを使用していた。ある日気まぐれで、ソロで首都グロッケンの地下に広がる巨大な遺跡ダンジョンに潜り、不注意からシュート・トラップに落ちてしまったのだった。
ガンゲイル・オンラインは、遥か過去の世界大戦で文明の滅びた地球に、移民宇宙船で軌道から帰ってきた人々が暮らすという設定の世界を舞台にしている。グロッケンの街はもとの移民船であり、その地下に、大戦で崩壊したかつての巨大都市が眠っているのだ。都市の遺跡には、無数の自動戦闘機械やら、遺伝子改造されたクリーチャー、つまりモンスターが蠢き、一攫千金を夢見て潜り込む冒険者たちを待ち受けている。シノンが落っこちたのは、そんな最高レベルの危険度を持つダンジョンの奥底だった。
当然、ソロでどうにかなる場所とは思えなかった。諦めて、武装ドロップ覚悟で街に死に戻ろうとしたシノンの前に、一際巨大なスタジアムめいた円形の空間と、そこにうずくまる異形のクリーチャーが現れた。サイズと名前から、ボスクラスのモンスターだと思われたが、いまだかつてどの情報サイトでも見たことのない姿だった。そう気付いた途端、シノンの中の、ほんのわずかのゲーマー魂が刺激された。どうせ死ぬなら、こいつと戦ってやろう、そう思ったシノンはスタジアム上部の排気口に身を潜め、ライフルを構えた。
戦闘は意外な展開となった。ボスモンスターは、熱線、鉤爪、有毒ガス他という多種の攻撃パターンを持っていたが、そのどれもが、シノンの伏せている場所までわずかに届かなかったのだ。とは言え、シノンのライフルも有効射程ぎりぎりで、与えるダメージは微々たるものだった。携行していた弾薬数から考えて、ほぼ一発のミスも無く、すべての弾をボスの弱点らしき額の小さな目に命中させなければ撃破は不可能と思われた。そして、シノンは氷のような冷静さと集中力でそれをやり遂げた。ボスが倒れたときには、戦闘開始から三時間が経過していた。
そのボスモンスターがドロップしたのは、見たこともない巨大なライフルだった。設定として、グロッケンの街の工房では強力な実弾銃を製造することができず、街で売られているのは一部の低威力品だけであり、中級品以上を欲するなら全て遺跡から発掘するしかない。シノンが手に入れたライフルは、そんな発掘武器の中でも最もレアリティーの高い一群に属するものだった。
現在、アンチマテリアル・ライフルという冠のついている銃は、シノンのヘカートIIの他に10丁ほどが存在すると言われている。当然、取引価格も恐ろしい高額で、前回オークションに出た銃にはゲーム内通貨で20Mクレジット、つまり2000万の値がついたそうだ。還元システムのレートは100:1なので、Eマネーに変換すれば20万円が手に入ることになる。
シノンは現実世界では高校生にして一人暮らしで、毎月ぎりぎりの仕送りを四苦八苦してやりくりしている身なので、それを聞いたときは正直少し迷った。最近ではようやく月の接続料金の半額、1500円ほどを還元できるようになってきたものの、それでも小遣いの半分近くが消えてしまう。かと言って、これ以上ダイブする時間を増やせば、成績のキープすら怪しくなる。しかし20万あれば、今までの接続料を取り返してなお大部分が残る。
だが、シノンは銃を売らなかった。GGOに潜る目的は、お金を稼ぐことではなく、ただ敵――自分より強い全てのプレイヤーを殺すというその一点だけだったし、なにより初めて、単なるアイテムであるはずの銃に「心」を感じたからだった。
ヘカートIIは、その巨体と重量ゆえに恐ろしいほどの要求STR値を設定されていたが、スナイパーとしてAGIよりもSTRを上げていたシノンはぎりぎり装備することが可能だった。初めて戦場に持ち出し、敵をスコープに収めたとき、シノンは手の中の重く、冷たい塊に、力と、そして意思を感じた。殺戮を欲し、死を求める冷酷な魂。シノンがそうありたいと思う、何ものにも屈せず、揺るがず、流す涙など一滴も持たない姿がそこにあった。
それからしばらくして、シノンは「ヘカート」という名前が、ギリシャ神話に出てくる冥界を司る女神から取られていると知った。この銃を最初で最後の相棒にしようと、その時思った。
スコープの中では、標的のパーティーが移動を続けている。
顔を上げ、直接荒野を見下ろすと、標的との間に崩れかけたビルをはさんで、ダインたち5人が接近していくのが見えた。二つの集団の距離は、すでに700メートルほどに縮まっている。再び右目をスコープにつけ、ダインからの指示を待つ。
数十秒後、ヘッドセットから雑音混じりの声がした。
「――位置についた」
「了解。敵はコース、速度とも変化なし。そちらとの距離400。こちらからは1800」
「よし。狙撃開始」
「了解」
短いやり取りのあと、シノンは口をつぐみ、右手をトリガーにかけた。
スコープの視野では、FN−MINIMIを肩にかけた第一標的の男が、何事か喋りながら歩いている。先週の戦闘では、シノンは狙撃ではなくアサルトライフルを装備しての援護射撃を担当したため、この男はかなりの近距離で顔を見ているはずだが、記憶にはなかった。しかし、分隊支援火器を装備できるからにはかなりのレベルに達しているはずだ。
どくん、どくん、と急に激しくなる心臓の動悸を抑えこみながら、トリガーにかけた指に、わずかに力を入れる。
その途端、シノンの視野に、緑色に光る半透明の円が表示された。ゆら、ゆらとその直径を変化させる円は、男の顔を中心に、腹のあたりまで広がっている。ゲームシステムによってシノンの視界にだけ表示される、「着弾予測円」だ。発射される弾丸は、この円のなかのどこかにランダムに命中する。現在の大きさでは、男の体が含まれているのは円の面積の三割程度だ。つまり命中率30%。さらに、いくらヘカートIIの威力をもってしても、腕などに当たった場合は即死させるのは不可能なので、一撃で仕留められる確率は更に下がる。
この着弾予測円の大きさは、目標との距離、銃の精度、天候、光量、スキル・ステータスといった要素によって変動するが、中でも最重要なパラメータは、射手の精神状態だ。アミュスフィアが使用者の脳波をモニターしており、緊張、不安によって心が乱れると、それだけ予測円も大きくなる。
GGOにおいてスナイパーがごく少ないのは、これが最大の理由だ。つまり当たらないのだ。狙撃に際して緊張するのは止めようがない。無論接近戦でも心の乱れで予測円は変動するが、距離が近ければそれでも当たる。フルオートのサブマシンガンやアサルトライフルなら尚更だ。しかし距離1000を越える狙撃では通常、予想円は人間の身長の数倍にも広がる。現在シノンの視野に広がる、命中率三割のサイズがすでに奇跡的なのだ。
――だが。
シノンは心の中でつぶやく。
こんなプレッシャー、こんな不安、こんな恐怖が何ほどのものだというのか。屑篭にまるめた紙を投げ込むようなものだ。そう――
あのときに、くらべれば。
すうっ、と頭の芯が冷えていく。心臓の動悸が嘘のように収まる。氷。わたしは、つめたい氷でできた機械。
ぎゅうっ! と、一気に着弾予測円が収縮した。男の胸、首を通過し、顔の中央、正確に目と目の間にぽつんと浮かぶ、緑色の光点となった。
シノンは、トリガーを引いた。
雷鳴にも似た咆哮が世界を震わせた。
ヘカートIIのあぎとに設けられた マズル・ブレーキ から巨大な炎が迸り、一瞬、スコープの視野を白く染めた。 リコイル によって、シノンの体はライフルごと後退しようとしたが、踏ん張った両足で必至に堪える。
映像が回復したスコープのなかで、 マズル・フラッシュ に気付いたのか、男が瞬きして視線をこちらに向けた。スコープを覗くシノンと視線が交錯した――
と思った瞬間、男の頭部から両肩、胸の上部までが、極小のオブジェクト片となって粉砕・消滅した。わずかに遅れて、残された体も、ガラスの像を叩き壊すように脆く砕け散る。肩にかけていたMINIMIだけがその場に残り、砂地に落下した。男はきっと、街に帰還・蘇生したあとも、数十分は軽いショック症状に悩まされるだろう。
以上のことを無感動に確認しながら、シノンの右手は自動的に動き、ヘカートIIの ボルトハンドル を引いていた。金属音とともに巨大な薬莢が排出され、傍らの岩に当たってから消滅する。
次弾が装填されると同時に、シノンはライフルをわずかに右に振り、第二目標であるマントの巨漢をスコープ内に収めていた。ゴーグルに覆われた顔を、まっすぐこちらに向けている。今度はその体の中央に照準を合わせ、トリガーをわずかに絞る。ふたたび着弾予測円が表示され、即座に一点に収縮する。
初弾を放ってからここまでで、3秒が経過していた。 セミオートマチック のライフルならば連射が可能だが、 ボルトアクション のヘカートIIではそうもいかない。それでも、一般的なプレイヤーであれば、目の前でいきなり仲間の体が粉砕されたことに驚愕し、硬直し、そこから精神状態を立て直して狙点を認識、回避準備に入るまで5秒はかかる。その混乱を衝ければ、第二射も成功する可能性はあると踏んだのだったが――
しかし、マントの男は表情ひとつ変えず、スコープの中でまっすぐにシノンを見ていた。やはり男は相当なベテラン、きっと名のあるGGOプレイヤーに違いない、と思いながら、シノンはトリガーを絞った。
この時点で男の視界には、自分を襲うであろう弾丸が描く「弾道予測線」が、赤い半透明の光のラインとなって表示されている。銃撃による戦闘に、ゲームならではのハッタリ的面白さを盛り込むために採用されているGGO独自のシステムだ。反射神経にすぐれ、高いAGIを持ち、度胸の据わったプレイヤーであれば、50メートルの距離から撃ち込まれる突撃銃の連射でさえ回避することも不可能ではない。
再びの轟音。ヘカートIIがその無慈悲な指先から放った「死」そのものの結晶たる弾丸が、薄い黄色に染まる大気を切り裂いて飛翔していく。
だがシノンの予想どおり、男は落ち着いた動作で大きく一歩右に動いた。直後、その巨体から1メートル離れた空間を12.7ミリ弾が貫いた。はるか後方の荒野に突き出ていたコンクリート壁が、パッと光を散らして円形に消滅した。
シノンの右手は無意識のうちに動き、更に次の弾丸を装填していたが、グリップに戻った右手の指先をトリガーに掛けようとはしなかった。これ以上の狙撃は無駄だろう。どうしても狙いたければ現在の位置を移動し、男の視界から姿を隠して、認識情報がリセットされる200秒が経過するのを待つしかないが、その頃には戦闘の帰趨は決しているはずだ。スコープを覗いたまま、口もとのレシーバーに囁く。
「第一目標クリア。第二目標フェイル」
すぐにダインの応答があった。
「了解。アタックを開始する。――ゴウ!」
ザッ! と地面を蹴って駆け出していく音がかすかに届いた。シノンは詰めていた息を細く吐き出した。
課せられた任務はこれで終わりだ。ヘカートIIは本物のレア銃であって、それを背負ったまま正面戦闘に参加させてもし死亡・武器ドロップということになれば一大事だからと、狙撃が終わればあとは待機でいいとダインに言われていた。第二射を外したのは心残りだが、こうなっては自分の危機感が杞憂であったことを祈るだけだ。
そう思いながら、シノンは再びライフルを動かし、デジタルスコープの倍率を下げて目標集団全体を視野に捉えた。4人の前衛が慌しく付近の岩やコンクリート壁などの掩蔽物の陰に入り、そのさらに後方で大型レーザーライフルを構えた男と、それに並んで、例のマントの大男が――
「あっ……!!」
シノンは、思わず全身を硬直させて短く叫んでいた。ちょうど、男が両腕を跳ね上げ、迷彩マントを体から剥ぎ取ったところだった。
男の両手に、武器は無かった。腰にも無かった。
その広い背中に担がれた、アイテム運搬用のバックパックだとばかり思っていた膨らみが露わになった。
男の肩から肩へ、金属のフレームが湾曲して伸びている。そのレールに、吊り下げられるように装着されているのは、無骨な、金属の塊だった。
円筒形の機関部を、Y字型の支持フレームが包んでいる。銀色のキャリアハンドルが光り、その下から伸びる、束ねられた六本の銃身。全長は1メートルほどか、機関部にはベルトリンクが装着され、それは同じくレールに懸架された巨大な弾倉へ繋がっている。
その、銃と言うにはあまりに無骨で、獰猛な姿を、シノンはかつて一度だけGGO情報サイトの武器名鑑で目にしていた。
たしか名を、GE−M134ミニガン。武器カテゴリは重機関銃。ガンゲイル・オンラインに登場する銃器の中で最大のもののひとつだ。六連の銃身が高速回転しながら装填・発射・排莢を行うことで、7.62ミリ弾を秒間100発というおよそ有り得ない速度でバラ撒く、悪夢の代名詞とでも言うべき銃――いや、もはや兵器か。
当然ながら、重量も凄まじい。確か本体だけで18キロ、あれだけの弾薬と一緒なら40キロを超えるだろう。どんなSTR一極型のプレイヤーでも重量制限内に収めるのは不可能だ。当然、過重状態だろう。あのパーティーの移動がのんびりしていたのは、狩りが長引いたためではない。あれが、男に出せる最大の移動速度だったのだ。
愕然としながらスコープを覗くシノンの視界のなかで、大男は右手を背に回すと、ミニガンのハンドルを握った。レールを巨大な機関銃がスライドし、男の体の右側で前方に90度回転する。両足を大きく開き、六連の銃口を正面に大きく突き出した姿勢で――男ははじめて、ゴーグルの下の口を動かし、獰猛な笑みを浮かべた。
シノンは慌てて右手を動かし、スコープの倍率を更に下げた。
視界左側から、ギンロウ達三人のアタッカーが、サブマシンガンを構えて突っ込んでくる。レーザーブラスターの光弾が青白い尾を引いて迎え撃つが、それらはすべてギンロウたちの直前1メートルほどの空間で、水面に吸収されるように波紋を残して減衰する。防護フィールドの効果だ。
反撃すべく短機関銃が火を噴き、岩から身を乗り出していたブラスター使いの一人がパ、パッ! と白い着弾エフェクトと共に倒れた。ギンロウ達は更に突出し、敵集団から間近いコンクリート壁の陰へと――
その時、大男がぐっと腰を落とした。
直後、ミニガンの銃身が回転し、きらきらと輝く光の帯が、わずか0.3秒ほど迸った。
それだけで、壁の一部とともに、ギンロウの体がこまぎれに分解され、消滅した。水流にさらされた砂の人形のような呆気なさだった。
「っ…………」
シノンは、唇を噛んで立ち上がっていた。地面からヘカートIIを掴み上げると、二脚を畳んでベルトを体にまわし、背負う。
138センチに及ぶヘカートIIは、155センチほどしか身長のないシノンの肩にずしりと食い込んだが、それでも重量制限内だ。サブアームの超小型短機関銃、 H&K−MP7 を入れてもどうにか制限をオーバーしないのは、シノンのSTR値が高いせいもあるが、ヘカートIIの弾薬をマガジン内の7発しか携行していないこともある。
肉眼でも、ほぼ1.5キロ離れた戦場を飛び交う光がキラキラと見てとれた。シノンは無言のまま、全速で駆け出していた。
こうなった以上、戦闘の帰結はダインたちに不利だった。ミニガン使いの男一人が相手であれば、中距離以上を保って常に高速で移動しながら攻撃することで、倒すこともあるいは可能だろう。しかしミニガンの援護を受けたレーザーブラスター使い達に、防護フィールドが効力を失う距離まで接近されればそちらの相手をしないわけにはいかない。
スコードロンのメンバーとは言え、シノンがここで撤退しても文句は言われないはずだった。命じられた目標の狙撃という任務は立派に果たしたのだ。
それでも、シノンは一直線に戦場目指して走った。仲間を助けたいと思ったわけではない。ただ、あのミニガンの男が浮かべた笑みが、シノンの脚を前に動かした。
男には戦場で笑えるだけの強さがある。ミニガンなどという超のつくレア銃を手に入れ、それを装備できるだけのSTRを積み重ね、シノンの狙撃にも難なく対処するだけの胆力を身につけている。
そういう相手と戦い、殺すことで、あまりに弱いもうひとりの自分――シノンの中でいつまでも泣きじゃくっている幼い浅田詩乃を消滅させる、それだけのために、この狂気の世界に身を投じているのではなかったか。ここで逃げては、今まで積み重ねてきたものが全て無駄になる。
パラメータが許すかぎりの全速で乾いた地面を蹴り、埃っぽい空気を切り裂いて、シノンは疾駆した。
砂利の混じる砂地に転々ところがる岩や崩れかけた壁を避け、飛び越え、数十秒足らずの疾走で交戦エリアに突入した。
AGIパラメータ支援を全開にした一直線の猛ダッシュだ。身を隠すことはわずかにも考えなかった。敵集団にも接近するシノンの姿は捕捉されているはずだった。
両パーティーの交戦域は、開始時と比べて大幅に移動していた。当然、後退しているのはダイン達だ。ミニガンの有無を言わせぬ掃射にバックアップされて、敵集団の前衛は着実に距離を詰め、レーザーの効果範囲から逃れるために、ダインを含む四人は掩蔽物から掩蔽物へと下がりつづけるしかない。
荒野に飛び出しての一直線の逃走もまた不可能だった。姿を晒せば、即座に滝のような銃弾によって蜂の巣だ。しかも、どうにかダインたちの姿を隠しているコンクリート壁の類は、彼らのすぐ後ろで急激に数を減らしていた。残るのは、死角からの接近に利用した、半分以上崩壊したビルディングの遺構だけだった。あそこに逃げ込めば、それが即ちダイン達の墓標となる。
以上のことを瞬時に認識し、シノンはダインらがうずくまる壁の後ろに、一息に飛び込もうとした。その瞬間、三本の赤い光のラインが、シノンのすぐ前方にぱぱっと表示された。
「く……」
歯を食いしばり、回避体勢に入る。これは、敵のアタッカーが持つレーザーブラスターの「弾道予測線」だ。
シノンはまず、体を限界まで低くし、最初の予測線をかいくぐった。直後、頭上のラインを正確にトレースして、青白い熱線が空間を灼いた。目の前には二本目の予測線が伸びている。すぐさま右足に全身の力を込めて地面を蹴り飛ばし、空に身を躍らせる。腹のすぐそばを、次のレーザーが通過し、一瞬視界を白く染める。
三本目の予測線は、飛翔するシノンの軌道と、少し高い位置で交差していた。精一杯首を縮め、飛来した熱線を回避したが、薄いブルーのショートヘアの尖端がわずかに接触して、ぱちぱちと光の粒が散った。
どうにかレーザーブラスターの 三点バースト 射撃をかわして、地面に着地したシノンの眼前を――
恐ろしく太い、直径50センチはあろうかという血の色のラインが貫いた。間違いなく、ミニガンの弾道予測線だった。コンマ何秒後に、あの嵐のような連射が襲い掛かってくる。
恐怖で竦む体に鞭打って、シノンは地面についたばかりの右足をぐっとたわめ、再び思い切り飛び上がった。空中でくるりと体を捻り、ハイジャンプの背面飛びの要領で全身を反らせる。
直後、暴風のようなエネルギーの奔流が、背中ぎりぎりの場所で荒れ狂うのを感じた。白く輝く実体弾の群が視界の端を通過し、少し離れた廃墟ビルディングのぼろぼろの壁を、さらに一部丸く吹き飛ばした。
背中から砂地に落下する寸前シノンは再び体を捻り、両手両足で着地、同時に思い切り体を前方に投げ出した。数回ごろごろと転がると、そこはもうダインらの伏せるコンクリート壁の陰だった。
いきなり目の前に出現したシノンを、スコードロンのリーダーは驚愕の視線で眺めた。どう好意的に見ても、そこにあったのは感謝の輝きではなく、わざわざ死地に首を突っ込む物好きへの疑念に過ぎなかったが。
ダインはすぐに顔を逸らし、手のなかのSG550に視線を落とした。呟いた声は、低くしわがれていた。
「……畜生、奴ら用心棒を呼んでやがった」
「用心棒?」
「知らねえのか。あのミニガン使いだよ。あいつは《ベヒモス》っていう、北のオーブスリーの街で有名な野郎だ。カネはあるが根性のねえスコードロンに雇われて、護衛の真似事なんぞしてやがるのさ」
あなたよりは余程尊敬できるプレイスタイルだ、とシノンは思ったが、もちろん口には出さなかった。かわりに、ダインの向こうで時折掩蔽物から顔を出し、敵集団に向かって空しい反撃を行っている三人を見上げ、言った。
「このまま隠れていたらすぐに全滅する。――ミニガンはそろそろ残弾が怪しいはず、全員でアタックすれば派手な掃射はためらうかもしれない。そこを突いてどうにか排除するしかない。SMG二人は左から、ダインと私は右から回り込んで、M4はここからバックアップ……」
そこまで言ったとき、ダインがかすれた声で遮った。
「……ムリだ、ブラスターだって3人残ってるんだぞ。突っ込んだら防護フィールドの効果が……」
「ブラスターの連射は実弾銃ほどのスピードじゃない、半分は避けられる」
「ムリだ!」
ダインは頑なに繰り返し、首を振った。
「突っ込んでもミニガンにズタズタにされるだけだ。……残念だが、諦めよう。連中に勝ち誇られるくらいなら、ここでログアウトして……」
ニュートラル・フィールドでログアウトしても、すぐに消滅できるわけではない。魂の抜けた仮想体は数分間その場に残り、依然として攻撃の対象になり得る。アイテムや武装のランダムドロップも発生する。
今までも、リーダーとしては後退を指示するタイミングが早すぎるとは思っていたが、まさかこのような自暴自棄、いや子供の癇癪とでも言うべき提案を持ち出すとは予想できず、シノンは半ば呆然としてダインの、それだけ見れば歴戦の兵士然とした顔を凝視した。
途端、ダインは歯を剥き出し、喚いた。
「なんだよ、ゲームでマジになんなよ! どっちでも一緒だろうが、どうせ突っ込んでも無駄死にするだけ……」
「なら死ね!!」
反射的に、シノンは叫び返していた。
「せめてゲームの中でくらい、銃口に向かって死んでみせろ!」
これでこのスコードロンとも縁切れだなあ、と思いながら、ダインの、迷彩ジャケットの襟首を掴んで無理やり引っ張り上げた。同時に、目を丸くしている残り三人に向かって鋭く言う。
「三秒でいい、ミニガンの注意を引きつけてくれれば、私がライフルで始末する」
「……わ、わかった」
緑の髪をゴーグルに垂らしたアタッカーが、つっかえながらもどうにか応え、残り二人も頷いた。
「よし、一斉に出るぞ」
シノンは、不貞腐れた顔のダインの腰を押し、掩蔽物の端まで移動した。左腰からMP7を抜き、低い声でカウントする。
「3……2……1……、ゴウ!」
同時に思い切り地を蹴り、一秒先の死が連続して待ち受けるバトルフィールドに飛び出した。
途端、すぐ目の前を複数の着弾予測線が横切った。体を倒し、スライディングのように回避しながら、敵集団に視線を向ける。
すぐ20メートルほど先の壁の向こうに、レーザーブラスターが二人。左に離れてもう一人。ミニガンの男《ベヒモス》はさらにその10メートル後方、今は左に飛び出した二人を射線に収めようとしている。
シノンは横方向に走りながら、左手のMP7をブラスター使いに向けた。トリガーに力を込めると着弾予測円が表示されたが、さすがに照準が絞れず、男たちの体を大きくはみ出している。
それでも構わず発射した。ヘカートIIに比べると無いに等しいリコイルを掌に感じながら、4.6ミリ弾の20連マガジンを一気を空にする。
無謀とも言える反撃に慌てたように、二人のブラスター使いは壁の向こうに引っ込もうとしたが、数発の弾丸がそれぞれの体を捉えた。HPを削りきるまでには至らなかったが、数秒の余裕はあるだろう。
「ダイン! 援護頼む!」
シノンは叫んで地面に身を投げ、同時に背中からヘカートIIを外して両腕でホールドした。二脚を展開している時間はない。恐ろしい重みに耐えながら、スコープを覗く。
低倍率にセットしたままの視野に、ベヒモスの上半身がいっぱいに映し出された。その顔がまっすぐこちらを向くのを見て、予測円が収縮するのを待たずにシノンはトリガーを引き絞った。
轟音と共に必殺の閃光が空間を貫き――ベヒモスの頭のすぐ隣を通過した。衝撃でよろけたベヒモスの頭からゴーグルが吹き飛び、こなごなになって消滅した。
外した――!
唇を噛んで立ち上がろうとしたシノンと、スコープの中のベヒモスの視線が交錯した。素顔を晒したベヒモスは、灰色の両眼を爛々と光らせ、なおも唇に不敵な笑みを浮かべていた。
シノンの全身を巨大な赤い光が包み込んだ。
回避不可能、と一瞬で判断した。伏射姿勢から立ち上がり、左右どちらかにジャンプするだけの余裕はない。
せめて、銃口に向かって――。
自分の言葉を守るべく、シノンは体を起こしながらまっすぐにベヒモスの姿を見た。と、その巨体の数箇所に、ぱぱっ! と光が弾けた。
ダインだった。地面に体を伏せてSG550を構え、最大の命中精度を稼いで狙い打ったのだ。この状況、この距離で数発にせよ命中させるとは、人格はともかくさすがの腕だ、そう思いながらシノンは右方向に思い切り飛んだ。直後、今まで体のあったところを数十発に及ぶ弾丸の嵐が引き裂いた。
「ダイン! もっと右に移動して……」
そこまで叫んだ時。
再び掩蔽物から姿をあらわした二人のレーザーブラスター使いが、立ちあがりかけたダインに向かって容赦ない光の矢を浴びせた。
あまりに距離が近すぎた。ダインの防護フィールドを熱線が貫通し、その体に次々と突き立った。
ダインは一瞬シノンを見た。すぐに顔を正面に向け――
「うおっ!!」
一声叫んでまっすぐ走り始めた。
たちまち、光線の雨がダインを迎え撃った。それをかわし、掻い潜り、ダインは猛然とダッシュする。だが無論回避しきれはしない。
最後の数秒で、腰からお守りがわりの大型ハンドグレネードを引き抜き、ダインは掩蔽物の向こうに投げ込んだ。同時にその体が、無数のポリゴン片となって砕け散った。
閃光が世界を白く染めた。
巨神のハンマーが大地を撃ったような衝撃音。赤黒い焔が吹き上がり、盛大に土砂を撒き散らした。それに混じって、ブラスター使いの体がひとつ宙に舞い、地面に辿り着く前に粉砕・消滅した。
吹き付ける土煙から顔を逸らしながら、シノンは一瞬、戦場を見渡した。
左翼から突撃した二人のうち一人はミニガンにやられたらしいが、そちらにいたはずのブラスター使い一人も姿を消している。こちらはダインが自爆にも等しい攻撃で散り、敵前衛一人を道連れにして、もう一人もしばらくはスタン状態だろう。更に、爆炎が広がる前に一瞬、こちらに向かって接近しつつあるベヒモスが見えた。
つまり、あとはほぼベヒモスとシノンの一騎打ちだ。そしてこの距離で、重機関銃に対して狙撃銃では勝負にもならない。
どうにかしてミニガンの死角に入り、射撃体勢を取らなくてはならない。だが一対一の正面戦闘で死角も糞も……
シノンは一瞬息を詰めた。土煙が盛大に周囲を覆っている今なら、ベヒモスはこちらの姿を見失っている。むろんこちらからも見えないゆえ狙撃などできないが、このエリアに唯一存在する、あの銃弾の暴風が届かない地点に移動することはできるかもしれない。
くるりと後ろを向き、猛然と駆け出した。眼前には、ぼろぼろに崩れたビルディングの遺構がそびえている。
エントランスに飛び込むと、ビルの後ろ半分はすべて崩壊して黄色い空が覗いていたが、すぐ右手の壁際に目指すものがあった。床に積もった瓦礫を蹴り飛ばし、そこに向かう。
上へと続く階段も、そこかしこが抜け落ちている有様だったが、気にせず駆け上る。踊り場の壁を蹴り飛ばして方向転換し、さらに上へ。
20秒足らずで5階まで登りつめると、そこで階段は終わっていた。すぐ左側に大きな窓があった。ここからなら、ピンポイント狙撃のための数秒を、ベヒモスに気付かれずに稼げるはず……、そう思いながら、シノンはヘカートIIの銃床を肩に当て、一気に窓から身を乗り出した。
途端、視界が真っ赤に染まった。
十数メートル下の地面から、ベヒモスがミニガンを限界まで上向けて、まっすぐシノンを照準していた。読んでいたのだ――シノンの思考を、すべて。
後退する時間も、身を伏せる時間も無かった。
強い。本物のGGOプレイヤー、いやソルジャーだ。
だが、そういう相手、敵をこそシノンは求めてきたのだ。殺す。絶対に殺す。
シノンは躊躇しなかった。窓枠に右足を掛け、一気に身を躍らせた。
同時に、燃えるように輝くエネルギーの激流が地上から襲い掛かってきた。バシッ!! と凄まじい衝撃が、シノンの左足の膝から下を叩いた。感覚が麻痺し、HPバーが急激に減少した。
だが、生きていた。ミニガンの射線を飛び越え、シノンは宙を舞った。仁王立ちになったベヒモスの、まっすぐ上空へと。
弾倉が空になるまで撃ち尽くすつもりか、ベヒモスは体を後傾させ、射線でシノンを追った。だが、届かない。真上までは射角が取れない。
落下が始まると同時に、シノンはヘカートIIを肩に当て、真下に向けてスコープを覗いた。
視野のすべてに、ベヒモスの掘りの深い顔が映し出された。その顔から、とうとう笑みが消えた。剥き出した歯を食いしばり、怒りと恐怖の混合燃料で燃える瞳をまっすぐシノンに向けていた。
シノンは、自分の口元が動くのを思考の片隅で意識した。笑っていた。獰猛で、残虐で、冷酷な笑み。
落下しながらの、姿勢も何もない射撃だったが、距離があまりにも近かった。ベヒモスの頭からわずか1メートルほどまで肉薄した時点で、着弾予測円がぐうっと収縮し、男の顔の中央に収斂した。
「――死ね」
呟くと同時に、シノンはトリガーを絞った。
まっすぐ垂直に、この世界に存在しうる、一弾での最大エネルギーを秘めた柱が屹立した。
それは、ベヒモスの顔から両足に至るまでに一瞬で孔をうがち、砂交じりの地面の奥深くまでを貫いた。
直後、爆発じみた衝撃音が轟き渡り、ベヒモスの巨体は円筒状に分解・拡散した。
(第二章 終)