プロローグ 2015年冬
『だからね、 AGI 万能論そのものが幻想だって言ってるんですよ』
キーの高い男の声が、広い酒場いっぱいに響き渡った。
『確かにAGIは重要なステータスですよ。速射と回避、このふたつの能力が突出していれば充分に強者足り得た。これまではね』
得々と語っているのは、薄暗い店内の中央上空に浮かぶ四面ホロパネルに映し出されたプレイヤーだった。
ネット放送局《MMOフラッシュ》の人気コーナー、《勝ち組さんいらっしゃい》である。現実世界でもPCでストリーム動画を観ることができるが、無数のVRMMOワールド内でも宿屋や酒場などで常時放送されており、やはりプレイヤーたちは「中」で視聴するほうを好む。
ことに、ゲストプレイヤーが「その世界」の住人であれば尚更だ。
『しかし、それはもう過去の話です。八ヶ月かけてAGIをガン上げしてしまった 廃組 さんたちには、こう言わせてもらいますよ――ご愁傷様、と』
嫌味たっぷりな口調に、広い店内のそこかしこからブーイングが湧き起こり、いくつもの酒瓶やグラスが床に叩きつけられて、ポリゴンの小片を撒き散らしながらたちまち消滅した。
だが「彼」は、その騒ぎには加わらず、店の一番奥のソファに体を丸めたままじっとしていた。
深くかぶった迷彩マントのフードと、顔の下半分を覆う厚布の隙間から、冷ややかな視線で店内を眺める。
テレビの中で鼻高々になっている男も憎らしいが、それ以上に、阿呆面でテレビを眺めるプレイヤーたちが不快だった。皆、ブーブーとやっかみの声を上げながらも、それをお祭り騒ぎとして楽しんでいる。
何故そこまで脳天気になれるのか、「彼」にはまったく理解できなかった。テレビの中の男は、単なる運で世界最強の地位を手に入れ、同時に最大の搾取者となったのだ。大部分のプレイヤーが支払う接続料を掻っ攫い、プロゲーマーを気取っている。
腹の中では、「彼」と同じように全プレイヤーが男を妬み、憎悪しているはずだ。その感情が醜悪だと言うなら、それを隠し、上辺の笑いに紛らわせるのは醜いうえに滑稽ではないか。
「彼」はマントの下で全身を強張らせ、噛み締めた歯のあいだから細く息を吐き出す。まだ時間ではない。トリガーを引くのはもうすこし後だ。
視線をホロパネルに戻すと、カメラがズームアウトし、男の右に座る番組のホストと、左に座るもうひとりのゲストをフレームに入れたところだった。
ホスト役の、テクノポップな衣装に全身を包んだ少女が甘ったるいアニメ声で言った。
『さすが、全VRMMO中最もハードと言われるガンゲイル・オンラインのトッププレイヤーだけあっておっしゃることがカゲキですネ』
『いやあ、「Mフラ」に呼ばれるなんてひょっとしたら一生に一度でしょうしね。言いたいこと言っちゃおうと思って』
『またまたー。今度の「バレット・オブ・バレッツ」も狙ってらっしゃるんでしょう?』
『そりゃもちろん、出るからには優勝を目指しますけどね』
男は、派手な銀の長髪をかきあげ、カメラ目線で不敵に宣言した。再び店内にブーイングの嵐。
MMOフラッシュは、ガンゲイル・オンライン――通称GGO内部のコンテンツではないが、出演者はホストもゲストも生身ではなくバーチャル・ボディだ。《勝ち組さんいらっしゃい》は、毎週さまざまなVRMMOからトッププレイヤーを招くインタビュー番組で、今週のゲストは、GGOで先月行われた最強者決定バトルロワイヤル、通称バレット・オブ・バレッツの優勝者と準優勝者というわけだ。
『しかしねえ、ゼクシードさん』
散々銀髪の男の自慢話を聞かされた準優勝の男が、たまりかねたように口を開いた。
『BOBはソロの遭遇戦じゃないですか。二度やって同じ結果になる保証はないわけで、ステータスタイプの勝利みたいに言うのはどうなんですかねえ』
『いやいや、今回の結果は全GGO的傾向の表れと言えますよ。闇風さんはAGI型だから、否定したい気持ちもわかりますがね』
ゼクシードと呼ばれた優勝者が即座に言い返す。
『これまでは確かに、AGIをがんがん上げて、強力な実弾火器を速射するのが最強のスタイルでした。同時に回避ボーナスも上がるので、耐久力の不安点も補えましたしね。でもMMOっていうのは、スタンドアローンのゲームとは違って、刻々バランスが変わっていくものなんですよ。特に レベル型 はステータスの組み替えができないんだから、常に先を予測しながらポイントを振らなきゃ。そのレベルゾーンで最強のスタイルが、次でも最強とは限らない。ね、考えればわかるでしょう。今後出現する火器は、装備要求 STR も、命中精度もどんどん上がっていきますよ。回避しまくって無傷で切り抜けようなんて甘い考えがいつまでも通用するわけないんです。ボクと闇風さんの戦闘がそれを象徴してますよ。あなたの銃はボクの防護フィールドでかなり威力を減殺されたし、逆にボクの射撃は七割近く命中した。はっきり言えばね、これからはSTR- VIT 型の時代ですよ』
立て続けに捲し立てられ、闇風という男はいかつい顔を悔しそうにゆがめた。
『……しかし、それはゼクシードさんがBOB直前に要求STRぎりぎりのレア銃を入手した結果でしょう。いくら払ったんです、あれ?』
『いやだなあ、 自力ドロップ ですよもちろん。そういう意味では、最重要ステータスは リアルラック ということになるかもですね、ははは』
ホロパネルの中で笑う銀髪の男を、怨嗟を込めた視線で睨みながら、「彼」はマントの下で手を動かした。ホルスターから突き出た分厚いグリップを探り当て、きつく握り締める。もうすぐ――もうすぐ、その時がくる。視界の端の時刻表示を確認する。あと1分20秒。
「彼」の隣のテーブルに座る二人組が、ジョッキを呷りながらぼやいた。
「けっ、調子いいこと言いやがって。昔、AGI型最強! って言いまくってたのはゼクシードのヤツ自身じゃねえかよ」
「今にして思えば、ありゃ流行をミスリードする罠だったんだろうなあ……。やられたぜまったく……」
「てことは、あのSTR-VIT最強ってのもブラフか?」
「じゃあほんとは何が来るんだろうな。 LUK ガン上げかな?」
「お前やれよ」
「やだよ」
二人組はひゃっひゃっと笑う。その声が、「彼」の怒りをさらに熱していく。騙されたと気付いているなら、なぜそんなふうに笑っていられるのだ。理解できない。
――しかし、その愚鈍な笑いもすぐに凍りつくことになる。真の力、真の最強者をその目で見れば。
時間だ。
「彼」はゆっくりと立ち上がった。テーブルの間を、一歩一歩進んでいく。誰も、「彼」には目も止めない。
愚か者たちよ……恐怖するがいい。
「彼」はつぶやくと、酒場の中央、ホロパネルの真下で立ち止まった。体を包むマントを跳ね除け、同時にホルスターから大ぶりのハンドガンを抜き出す。
闇そのものを凝縮したかのように漆黒のマットブラックに塗装された銃の、やや太目の銃身にはひと筋深紅のラインが流れている。見た目には、大した威力もなさそうな、どこにでもあるカスタムガンだ。しかしこの銃には本物の「力」がある。「彼」はゆるやかな動作で、銃口をぴたりと上空――巨大なホロパネルに向けた。その中で笑う、最強プレイヤー・ゼクシードの額に。
「彼」がしばらくそのままの格好でいると、やがて周囲からいぶかしげなざわめきが湧き起こった。PK無制限のGGOでも、さすがに街中だけはキル不可能となっている。弾丸の発射はできても、プレイヤーにダメージを与えるどころかオブジェクトの破壊すらできない。
「彼」の無意味な行動に、いくつかの失笑が響いた。しかし「彼」は微動だにせず、黒い銃を掲げ続ける。
パネルの中のゼクシードは、相変わらず嫌味な台詞を吐き続けている。ゼクシードの生身は現実世界のどこかに横たわり、そこからMMOフラッシュのバーチャル・スタジオに接続しているので、もちろんガンゲイル・オンライン世界の首都グロッケン中央街にある酒場で、テレビに映る自分に銃口が向けられているなどとは気付くはずもない。
しかし「彼」は口を開き、出せるかぎりの大声で叫んだ。
「ゼクシード! 偽りの勝利者よ! 今こそ、真なる力による裁きを受けるときだ!! ――死ね!!」
呆気にとられたプレイヤーたちの視線を浴びながら、「彼」はトリガーを引いた。
一瞬、銃身を彩る深紅のラインが輝き、同時におなじくクリムゾンレッドの光弾が発射された。ズシュウッ!! という重い炸裂音。照明の絞られた酒場の薄闇を、深紅のビームが貫き――ホロパネルの表面にぱあっとライト・エフェクトを散らした。
それだけだった。画面内では相変わらず、ゼクシードが目まぐるしく口を動かしている。
今度こそ、店内に嘲笑が湧き起こった。「あいたたた」「やっちゃった」などという声が漏れ聞こえる。それにかぶさって、ゼクシードの声。
『……ですからね、ステータス・スキル選択も含めて、最終的にはプレイヤー本人の強さ、資質が…………』
台詞がふっと途絶えた。
店中の視線が再びパネルを向いた。
ゼクシードは、口を開けたまま、目を丸くして凍り付いていた。その手がゆっくりと持ち上がり、ぎゅっと胸の中央を掴む。
直後、その姿はふっと掻き消えた。ホストが、慌てたように言った。
『あらら、回線が切断してしまったようですね。すぐ復帰されると思うので、皆さんチャンネルはそのまま……』
しかし、店中の誰もがもうそれを聞いていなかった。しんとした静寂のなか、全ての視線が「彼」に集まっていた。
「彼」は掲げたままだった銃を戻し、ぴたりと水平に構えた。そのまま、ゆっくりと体を回転させ、店内のプレイヤーたちを射線でなぞっていく。
一回りすると、「彼」はもう一度黒い銃をまっすぐ掲げ、叫んだ。
「……これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め――」
「俺と、この銃の名は《死銃》…………《デス・ガン》だ!!」
静寂の中、「彼」は銃をホルスターに戻し、左手を振ってメニューを出した。
ログアウトボタンを押しながら、「彼」は勝利感と、それに倍する焼け付くような餓えを味わっていた。
第一章 殺意侵食
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
と慇懃に頭を下げるウェイターに、待ち合わせです、と答え、俺は広い喫茶店内を見渡した。
すぐに、窓際の奥まった席から無遠慮な大声が俺を呼んだ。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
上品なクラシックの流れる空間に低くさざめいていた談笑の声が一瞬ぴたりと静止し、批難めいた視線が集中するなかを、俺は首を縮めて早足に進んだ。化繊のスウェットの上に古ぼけた革ブルゾンという出で立ちの俺は、買い物帰りの上流階級マダムたちが八割を占めるこの店ではいかにも場違いで、こんな所に呼び出した相手への怒りが今更のように湧き起こる。
これで、先方が妙齢の美女というならまだ我慢するが、生憎手を振っているのはスーツ姿の男だった。俺は不機嫌さを隠しもせず、どすんと椅子に腰を落とした。
即座に横合いからウェイターがお冷やのグラスとお絞り、メニューを差し出す。本革張りと見えるそれを手にとり、相手の顔も見ずに開く。
「ここは僕が持つから、何でも好きに頼んでよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
つっけんどんに答えてメニューに目を走らせると、恐ろしいことに最も廉価なのが《シュー・ア・ラ・クレーム¥1200》也で、反射的にブレンドひとつ、と答えそうになるが、よくよく考えれば男は超高給の上級官僚であり、そもそも支払いは経費つまり国民の血税によって行われるのだということに気付いて阿呆らしくなった俺は、平静を装った声でオーダーした。
「パルフェ・オ・ショコラ……と、フランボワズのミルフィーユ……に、ヘーゼルナッツ・カフェ」
計3900円だ。ハンバーガーにシェイクで済ませて差額を現金でよこせと言いたくなる。ちなみに、頼んだモノの実態はまるで見当もつかない。
「かしこまりました」
一礼したウェイターが音もなく退場し、俺はようやく一息ついて顔を上げた。
ニコニコしながらごてごてとクリームの乗った巨大プリンをぱくついている男の名は菊岡誠二郎。黒縁の眼鏡にしゃれっ気の無い髪型、国文の教師然とした、キマジメそうな線の細い顔はとてもそうは見えないが、これで国家公務員のキャリア組であり、所属するのは総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称仮想課。
つまりこの男は、現在無秩序な氾濫状態にあるVRワールドを監視する、国側のエージェント……もしくはスケープゴートというわけだ。本人はことあるごとにトバされたと我が身を嘆いているが、それはまあ……事実であろうと俺も思う。
その不遇な菊岡氏は、幸せそうにプリンの最後のひとかけらを口に運ぶと、眼鏡の奥の色の薄い目で俺を見た。
「や、悪かったね、わざわざ」
「そう思うなら銀座なんぞに呼び出すなよ」
「この店のカスタードクリーム、絶品なんだよねえ。シュークリームも頼もうかな……」
俺はため息をつきながら、熱いオシボリで手を拭った。
菊岡とは、SAOから脱出した直後、病院で顔を合わせたのが最初だからまだ一年に満たない付き合いだが、この男が自分からは決して本題を切り出さないのを知っているので、こっちから話を振ることにする。
「――どうなんだ、最近の VC 件数は」
「増えてるねえ」
相変わらずにこにこしながら、菊岡は答えた。内ポケットからPDAを取り出し、ぽちぽちと叩く。
「ええと……VRゲーム内のトラブルが原因の傷害事件が、11月だけで13件。うち2件が傷害致死。また、ゲーム内の盗難等でユーザーもしくは運営会社を相手どった訴訟が6件。それに……これはキリト君も知ってるだろうけど、アメリカから通販で取り寄せた、装飾用の剣を自分で砥いで、新宿駅で振り回して二人殺したって事件ね。うひゃー、刃渡り120センチ重さ3.5キロだって。よくこんなの振れたね」
「廃プレイのために薬使ってたって奴か。確かに救われない事件だけど……言わせてもらえればその程度の件数なら……」
「そう、その通り。全国で起きる事件の中では微々たる数だし、これを以ってVRMMOゲームが社会不安を醸成している、なんて短絡な結論は出しゃしないよ。でもね、君も前に言っていたけど……」
「――VRMMOゲームは他人を物理的に傷つけることへの心理的障壁を低くする。それは俺も認める」
その時、ウェイターが再び歩行音なしに現れ、俺の前に皿を並べた。
「以上でお揃いでしょうか」
頷くと、恐ろしい金額の記された伝票を残し、消える。俺はとりあえずナッツの香りが漂うコーヒーを一口含み、話を続けた。
「……一部のゲームでは PK 行為が日常化しているし、あれはある意味では現実的殺人の予行演習だからな。先鋭化したタイトルでは、腕を切れば血が噴出すし、腹を切れば臓物がブチまけられる。それに取り付かれたマニアはログアウトの代わりに自殺したりするらしいからな」
こほん、という咳払いの音に隣を見ると、マダム二人が物凄い目で俺を睨んでいた。首をすくめ、小声で続ける。
「毎日あんなことを繰り返してれば、一丁現実でやってやろうって奴が出てくるのも不思議はないな。何らかの対策が必要だろうとは俺も思うよ。法規制は無理だろうがな」
「無理かね?」
「無理だね」
金のスプーンで、極薄の生地と桃色のクリームが何層にも重なったケーキをざくっとすくいとり、口に運ぶ。一口100円はするだろうな、とつい考えてしまう。
「ネット的に鎖国でもしないとな。国内でいくら取り締まっても、ユーザーも業者も海外に広がるだけだ」
「フム……」
菊岡は、真剣な視線をテーブルに落とし、数秒黙考したあと口を開いた。
「……そのミルフィーユおいしそうだね。一口くれないか」
「………………」
俺は深くため息をつきながら皿を菊岡の前に押しやった。キャリア官僚は嬉々としながらおよそ280円分をざっくり奪い去り、頬張る。
「しかしねえ、キリト君。僕は思うんだけどね……なんでPKなんてするんだろうね。殺しあうよりも仲良くするほうが楽しいだろう?」
「……アンタだってALOをプレイしてるんだから、少しはわかるだろう。NERDLES技術が出てくるずっと以前から、MMOゲームってのは奪い合いなんだよ。更に言えば、クリアという目的のないゲームにユーザーを向かわせる原動力はただ一つ……優越感を求める衝動だけだ」
「ほう?」
「ゲームに限った話じゃないぜ。認められたい、人より上に行きたいってのはこの社会の基本的構造そのものだろう。アンタだって憶えがあるはずだぜ。同じ総務省でも、自分よりいい大学を出て、上のポジションにいる奴は妬ましいし、逆にノンキャリアの役人に謙られりゃあ気持ちいい。その優越感と劣等感のバランスが取れてるから、どうにか平和にニンゲンやってられるんだ」
菊岡はミルフィーユを飲み込み、苦笑した。
「言い難いことをハッキリ言うね、君は。そういうキリト君はどうなんだい。バランス取れてるのかい?」
「…………」
そりゃあ勿論俺にも劣等感は山ほどあるが、他人に説明する気はさらさらない。
「……まあ、美人の彼女もいるからな」
「なるほど、その一点に置いては僕はキリト君が死ぬほど羨ましい。今度ALOで女の子を紹介してくれないか。あのシルフの領主さんなんか、好みだねえ」
「言っとくが、口説くときに、僕高級官僚なんだ、なんて言ったら斬られるぞ」
「彼女になら一度斬られてみたいね。――で?」
「で、その優越感てやつだが、現実世界で手に入れるのは意外に難しい。努力しないとなかなか手に入るもんじゃない。いい成績を取る努力、スポーツが上達する努力、女の子にモテる努力……そんなものがおいそれと実を結べば、誰も苦労はしない」
「なるほど。僕も受験では死ぬほど勉強したが、東大には落ちた」
「そこで、MMORPGだ。これは、現実を犠牲にして時間をつぎ込めばかならず強くなる。レアアイテムも手に入る。もちろんそれも努力だが、なんせゲームだ。勉強したり筋トレしたりするよりも格段に楽しい。高価な装備を着けて、ハイレベル表示をぶらさげて街の大通りを歩けば、自分より弱いキャラクターからの羨望の視線が集まる。あるいは、集まると錯覚できる。狩場に行けば、圧倒的攻撃力でモンスターを蹴散らし、ピンチのパーティーを救ったりもできる。感謝され、尊敬されると――」
「錯覚できる?」
「……もちろん、これは悪意ある視点だ。MMOゲームには他の要素もある。しかし、コミュニケーション自体を主眼としたネットワークゲームは昔からあったが、どれもMMORPGほどには成功しなかった」
「……なるほどね、そういうゲームでは、優越感を満足させにくかった?」
「そう。――そして、VRMMOゲームが出てきた。こいつはなんせ、街を歩けば実際に他人の視線を感じられるんだからな。モニタ越しに想像しなくてもいい」
「フムン。確かに、イグシティで君がアスナちゃんといっしょに歩いてるとみんな見とれるからねえ」
「……言い難いことをはっきり言うな、アンタ。ともかく、VRMMOゲームに時間をつぎ込めば、誰でもそれなりに優越感を手に入れることができる。そしてそれは、勉強ができるとか、サッカーがうまいとか、金があるとかいうソレよりも、もっとシンプルで、プリミティブで、人間の野生に訴える種類のものだ」
「……つまり……?」
「つまり、《強さ》だ。物理的な強さ。自分の手で、相手を破壊できる力だ。これは麻薬のようなものだ」
「…………」
「いつか、その力を本当に行使したくなる時が来る」
「……強さ……力、か」
菊岡は一瞬笑みを消し、呟いた。
「……男の子は、誰しも一度は強さにあこがれる。最強になりたいと思う。しかしそれはすぐほかの夢にすりかわる。――だが向こうの世界では、その夢がまだ生きている……ということか」
俺は頷き、珍しく喋りすぎたせいで乾いた喉をコーヒーで湿らせた。
「強力なキャラクターで日常的にPKを繰り返しているプレイヤーが、現実世界でトラブルの相手――つまり「敵」と相対したときに、物理的解決力に訴える確率が上がるのは充分有り得ることだろうな。類型的な見方だけどな」
「VRMMO世界での《強さ》が、現実を侵食するわけか。ねえ、キリト君」
菊岡は、再び真剣な顔になり、俺を見た。
「それは、本当に心理的なものだけなのだろうかね?」
「……どういう意味だ?」
「つまり、暴力に対する心理的ハードルを低くするだけでなく……実際に、何らかの《力》を現実に及ぼす……というようなことだが……」
今度は俺が考え込む番だった。
「……例えばあの、新宿で剣を振り回した男の筋力が、ゲーム世界で鍛えられたものだったりするか、ということか?」
「うん、そう」
「NERDLES機器が脳神経に及ぼす影響ってのは、まだ研究が始まったばっかりらしいからなあ……何とも言えないけど……でもそんなこと、俺よりアンタのほうが詳しいだろう?」
「大脳生理学のセンセイに話は聞きに行ったがね、チンプンカンプンさ。……ずいぶん遠回りしたが、今日の本題はそこなんだ。これを見てくれ」
菊岡はPDAを操り、俺に差し出した。
受け取り、覗き込むと、液晶画面に見知らぬ男の顔写真と、住所等のプロフィールが並んでいた。伸ばしっぱなしの感のあるぼさぼさの長髪、銀縁の眼鏡、かなり頬や首に脂肪がついている。
「……誰だ?」
俺からPDAを取り返し、菊岡はスタイラスペンを走らせた。
「ええと、先月……11月の14日だな。東京都杉並区某のアパートで、掃除をしていた大家が異臭に気付いた。発生源と思われる203号をノックしたが返事がない。電話にも出ない。しかし部屋の中の電気は点いている。これはということで鍵を開けて踏み込んで、この男……新保勇一、26歳が死んでいるのを発見した。死後五日半だったらしい。部屋は散らかっていたが荒らされた様子はなく、ホトケはベッドに横になっていた。そして頭に……」
「アミュスフィア、か」
俺が顔をしかめながら言うと、菊岡は頷いた。
「家族に連絡が行き、変死ということで司法解剖が行われた。死因は急性心不全となっている」
「心不全? ってのは心臓が止まったって事だろう? なんで止まったんだ?」
「わからん」
「…………」
「死亡してから時間が経ちすぎていたし、犯罪性が薄かったこともあってあまり精密な解剖は行われなかった。ただ、彼はほぼ二日に渡って何も食べないで、ログインしっぱなしだったらしい」
俺は再び顔をしかめる。
正直、その手の話は珍しくない。何せ、現実世界で何も食わなくても、向こうで仮想の食い物を詰め込むと偽りの満腹感が発生し、それは数時間持続するからだ。廃人級、と呼ばれる超コアなゲーマーにとっては、飯代は浮くしプレイ時間は増やせるしで、一日どころか二日に一食という人間も珍しくない。
しかし当然そんなことを続けていれば、体に悪影響を及ぼさないわけがない。栄養失調なんてのはザラで、発作を起こして倒れ、一人暮らしゆえそのまま……ということも珍しいことではないのだ。
「……確かに悲惨な話だが……」
俺が言うと、菊岡は自分のコーヒーを一口含み、頷いた。
「そう、悲惨だが今やよくある話だ。こういう変死はニュースにならないし、家族もゲーム中に急死なんて話は隠そうとするので統計も取れないしね。ある意味ではこれもVRMMOによる死の侵食だが……」
「……一般論を聞かせるために呼んだわけじゃないんだろう? 何があるんだ、そのケースに?」
「この新保君がプレイしていたVRMMOは1タイトルだけだった。《ガンゲイル・オンライン》……知ってるかい?」
「そりゃ……もちろん。唯一《プロ》がいるゲームだからな。入ったことは無いが」
「彼は、ガンゲイル・オンライン……略称GGO中ではトップに位置するプレイヤーだったらしい。十月に行われた、最強者決定イベントで優勝したそうだ。キャラクター名は《ゼクシード》」
「……じゃあ、死んだときもGGOにログインしてたのか?」
「いや、どうもそうではなかった。《MMOフラッシュ》というネット放送局の番組に出演中だったようだ」
「ああ……Mフラの《勝ち組さんいらっしゃい》か。そういやあ、一度ゲストが落ちて番組中断したって話を聞いたような気もするが……」
「多分それだ。出演中に心臓発作を起こしたんだな。ログで、秒に到るまで時間がわかっている。で、ここからは未確認情報なんだが……ちょうど彼が発作を起こした時、GGOの中で妙なことが有った、っていうんだ」
「妙?」
「MMOフラッシュはゲーム内でも中継されてるんだろう?」
「ああ。酒場とかで見られる」
「GGOの首都、グロッケンという街のとある酒場でも放送されていた。で、問題の時刻ちょうどに、一人のプレイヤーがおかしな行動をしたらしい」
「…………」
「なんでも、テレビに映っているゼクシード氏の映像に向かって、裁きをうけろ、死ね、等と叫んで銃を発射したということだ。それを見ていたプレイヤーの一人が、偶然音声ログを取っていて、時間が記録されている。ええと……テレビへの銃撃があったのが、11月9日午後11時30分2秒。新保君の回線が切断されたのが、11時30分15秒」
「……偶然だろう」
もう一つの皿を手許に引き寄せながら、俺は言った。
茶色の円筒形物体をスプーンで抉り、口に運ぶ。途端、その冷たさに驚く。ケーキかと思っていたらアイスクリームの類だったらしい。甘味をぎりぎりまで抑えた濃密なチョコレートの風味がいっぱいに広がり、値段を無視すればこれは悪くない代物だと判断する。
立て続けに三分の一ほどを胃に送り込んでから、言葉を続ける。
「GGOのトッププレイヤーともなれば、妬まれたり恨まれたりはほかのMMOの比じゃあないぞ。本人を直接銃撃するのは度胸が要るだろうが、テレビの映像を撃つくらいのことはあってもおかしくない」
「うん、だが、もう一件あるんだ」
「…………なに?」
俺はスプーンを動かす手を止め、相変わらずポーカーフェイスの菊岡を見上げた。
「今度のは一週間前、11月28日だな。埼玉県さいたま市大宮区某所、やはり二階建てアパートの一室で死体が発見された。新聞の勧誘員が、電気は点いているのに応答がないんで居留守を使われたと思って腹を立て、ドアを開けたら鍵が掛かってなかった。中を覗きこんだら、布団の上にアミュスフィアを被った人間が横たわっていて、同じく異臭が……」
ごほん! というわざとらしい咳の音に、俺と菊岡が会話を中断して隣を見ると、先ほどの二人組のマダムたちが、ゲイザーの邪眼もかくやという視線をこちらに向けていた。だが菊岡は意外な豪胆さを発揮し、ぺこりと会釈しただけで話を続けた。
「……まあ、詳しい死体の状況は省くとして、今度もやはり死因は心不全。名前は……これも省いていいか。男性、31歳だ。彼もGGOの有力プレイヤーだった。キャラネームは……《薄塩たらこ》? 正しいのかなこれ?」
「昔SAOに《北海いくら》ってやつがいたからそいつの親戚かもな。――そのたらこ氏も、テレビに出てたのか?」
「いや、今度はゲームの中だね。アミュスフィアのログから、通信が途絶えたのは死体発見の三日前、11月25日午後10時0分4秒と判明している。死亡推定時刻もそのあたりだね。彼はその時刻、グロッケン市の中央広場でスコードロン――ギルドのことらしいんだけど――の集会に出ていたらしい。壇上で檄を飛ばしているところを、集会に乱入したプレイヤーに銃撃された。街の中だったからダメージは入らなかったようだが、怒って銃撃者に詰め寄ろうとしたところでいきなり落ちたそうだ。この情報も、ネットの掲示板からのものだから正確さには欠けるが……」
「銃撃した奴ってのは、《ゼクシード》の時と同じプレイヤーなのか?」
「そう考えてよかろうと思われる。やはり裁き、力、といった言葉の後に、前回と同じ名を名乗っている」
「……どんな……?」
菊岡はPDAを眺め、眉をしかめた。
「《シジュウ》……それに、《デス・ガン》」
「デス・ガン……シジュウ……。死銃、か」
空になった皿にスプーンを置き、俺はその名前を口中で呟いた。キャラネームというのは、例えどのような冗談めいた名前であっても、確実にキャラクターの印象の一部を形作る。死銃、という名の響きが想起させたのは、黒い金属の冷ややかさだった。
「……死因が心不全ってのは確かなんだろうな?」
「……というと?」
「脳には……損傷は無かったのか?」
訊いた途端、菊岡は意を得たりというふうにニッと笑った。
「僕もそれが気になってね。検視を担当した先生に問い合わせたが、脳に出血や血栓といった異常は見られなかったそうだ」
「…………」
「それにね、ナーヴギアの場合は……あ、いいかい、この話して」
「いいよ」
「……ナーヴギアは、使用者に死をもたらすとき、素子を焼き切るほどの高出力マイクロウェーブを発して脳の一部を破壊したわけだけれど、アミュスフィアはそもそもそんなパワーの電磁波は出せない設計なんだよね。あの機械に出来るのは、視覚や聴覚といった五感の情報を、ごく穏やかなレヴェルで送り込むことだけだと、開発者たちは断言したよ」
「もうメーカーにまで問い合わせてるのか。……随分と手回しがいいな、菊岡さん? こんな偶然と噂だけで出来上がってるようなネタに?」
じっと眼鏡の奥の切れ長の目を見ると、菊岡は一瞬表情を消し、すぐにフッと唇をほころばせた。
「トバされた身としては、毎日が実にヒマでね」
「じゃあ、今度アインクラッドの最前線攻略に付き合えよ。メイジとしてはなかなか筋がいいってユージーンの旦那が褒めてたぞ」
実のところ、俺はこの男を外見や物腰どおりのトボケた役人とは思っていない。俺などと付き合い、ALOにキャラを作っているのも、ゲームに興味があるからではなく、そうするのがVRワールドを把握する上で都合がいいからなのだろう。以前に貰った名刺には確かに総務省と肩書してあったが、それすらもどこか疑わしいフシがある。本当の所属はもっと、国の治安に密接に関わる部署なのではないかと思えてならない。
しかしまあ、現在の「仮想課」が「SAO事件被害者救出対策本部」だった時代に、この男が奔走したことで全プレイヤーを病院に収容する体制が整ったのは確からしい。よって今のところは、好意と警戒心が六対四くらいの接し方をすることにしている。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、菊岡は後頭部を掻きながら照れくさそうに笑った。
「いやあ、スペルワードの暗記はともかく、詠唱がねえ。早口言葉、苦手なんだ昔から。……で、まあ、この件だけど、九割方偶然かデマだろうとは僕も思うよ。だから、ここからは仮定の話さ。――キリト君は、可能だと思うかい? ゲーム内の銃撃によって、プレイヤー本人の心臓を停めることが?」
菊岡のその台詞で、あるイメージが喚起され、俺は軽く眉を寄せた。
全身黒尽くめの……顔の見えない狙撃者が、虚空に向かって銃のトリガーを引く。発射されるのは黒い弾丸だ。それは、仮想空間の壁を貫き、パケットが飛び交うネットワークの世界に侵入する。ルータからルータ、サーバからサーバへと弾丸は何度も直角に曲がりながら突進する。やがてそれは、あるアパートの一室、壁に設けられたモジュラー・ジャックで実体化し、横たわる男の心臓へと……
頭を軽く振ってその妄想を払い落とし、俺は口を開いた。
「……では仮に、その……《死銃》なる銃撃者によって、《ゼクシード》と《薄塩たらこ》に何らかの信号が送られたとして……」
「おっと、まずはそこからだ。できるのかい、そんなことが」
「うーん……。……《イマジェネレイター・ウイルス》の騒ぎは憶えてるか?」
「ああ、あのびっくりメール事件ね」
イマジェネレイター、というのは、個人によって開発されたアミュスフィア専用のメールソフトだ。ソフトが生成する仮想空間にダイブし、カメラにむかってメッセージを吹き込むとそれをメール形式のファイルに圧縮してくれる。メールを受け取った側が再生すると、目の前に送り主のバーチャル体が現れ、メッセージを喋る、という仕組みだ。やがて、いろいろな映像、音楽を添付したり、触感までもメールで伝えることができるようになって大流行した。
しかしやがてソフトにセキュリティホールが発見され、それを突いたウイルスメールが横行する騒ぎが巻き起こった。メールを受信した時点で仮想空間にダイブしていると、どこに居ようと強制的にメールがプレビューされ、眼前にショッキングな映像やら音声やら――たいていエロいかグロいかどちらかだった――がぶちまけられるのだ。
もちろん即座に修正ファイルがアップされ、事件は収束したのだが……。
「――《イマジェン》はもう、ほとんどのアミュスフィアユーザーがインストールしている。もし未知のセキュリティホールが存在し、対象のアドレスもしくはIPが分かっていれば……」
「……なるほど、前もって送信タイマーを仕掛けておき、銃撃と同時に任意の信号を送り込む――ということは可能か」
菊岡は骨ばった指を組み合わせ、その上に顎を乗せて頷いた。
「では、そこはクリアしたとしよう。――しかし、送信できるのは致命的なレーザー光線じゃない。あくまで正常な感覚刺激だ」
「つまり、心臓を止めるほどの感触……もしくは味、匂い……光景、音……か。順番に考えていこう。まずは触覚、皮膚感覚だ」
俺は言葉を切り、右手の人差し指で左の掌をなぞった。先ほど、ケーキかと思って食べたものがアイスだったときの驚きを思い出す。
「……全身に、限界までの冷感を送り込んだらどうだ? 氷水の風呂に飛び込んだような。心臓麻痺を起こさないか?」
「うーん……。冷水に飛び込んで心臓が止まるっていう、あれはどういうメカニズムなのかねえ?」
「ええと……、温度差によるショックで、全身の血管が収縮するから、だったかな。――じゃあ、この線はダメか。脳が冷感を認識しても、毛細血管までは影響しないだろうしな……」
「なら、こういうのはどうかね」
今度は菊岡が両手を擦り合わせながら言った。心なしか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「ちっちゃい虫……甲虫よりも、ナガムシ系がいいね。毛虫とかムカデだのがぎっしり詰まった穴に放り込まれる感触だ。もちろん映像も併用する。うはっ、想像しただけでさぶいぼが出るね」
「…………」
したくはなかったがつい俺も想像してしまった。
のんびりフィールドを歩いているとき、いきなり足元の地面が消え去り、深い穴に落ちこむ。そこには細くて長い生き物がうじゃうじゃ蠢いており、全身をもぞもぞ這いまわった挙句、袖口や襟元から服の中へと……
「……確かに鳥肌は立つけどなあ」
俺は両腕を擦りながら首を振った。
「でも、その程度のドッキリなら、例の《イマジェン・ウイルス》でもやってたぜ。いきなり頭上から巨大芋虫やらエチゼンクラゲが降ってきたりしたんだ。でも心臓が止まった奴はいなかった……と思う。そもそも、VRMMOに入ってる時ってのは、無意識のうちに突発事態に備えてるものなんだ。フィールドによっては、いきなり真横にボスモンスターが スパウン したりするんだぞ。いちいち心臓が止まってたらゲームなんてやってられない」
「それもそうか」
菊岡は肩をすくめ、紅茶のカップを持ち上げた。
「……では、次は味覚と嗅覚だ。どうかな、いきなり口の中に、恐ろしく臭い……キビャックかなんかの味を再生する。当然、吐き出そうとする。その嘔吐反射が、生身の身体にまで及ぶ……」
「それなら、心停止じゃなくて窒息するんじゃないか? だいたい、そのキビャックってのは何なんだ」
その途端、菊岡の目が嬉しそうに輝いたので後悔する。この男は悪趣味な話をするのが大好きなのだ。エリートのくせに彼女ができないのもその辺りに原因があるのでないか。
「おや、知らない? キビャック。エスキモーの食べ物でね、初夏あたりにアパリアスという小さな渡り鳥を捕まえて、肉を抜いたアザラシで作った袋に詰め込むんだ。それを冷暗所に数ヶ月放置すると、やがてアザラシの脂肪がアパリアスに染み込んで、いい感じに熟成、というより腐敗する。そうなったところで鳥を取り出して、チョコレート状にどろどろに溶けた内臓を賞味するという食い物だ。臭さについてはかのシュールストレミングをも上回るらしいが、これが癖になるとたまらないとか……」
ガタン! という大きな音に視線を向けると、マダム二人が口を抑え、足早に立ち去っていくところだった。俺は深くため息をつき、菊岡の言葉を遮った。
「グリーンランドに行く機会があったら試してみるよ。あと、そのシュールなんとかってのは説明しなくていいからな」
「おや、そうかね」
「残念そうな顔をするな。――いくらなんでも、臭いものを食ったくらいで心臓は止まらないだろう。次に行くぞ。……映像、だが……」
コーヒーの芳しい香りで菊岡の臭い話を払拭してから、言葉を続ける。
「さっきの虫の話といっしょで、やはり意味のある映像で心臓を止めるというのは無理があると思う。たとえどんな恐ろしい、残酷な映像でもな。標的の、ものすごいトラウマを突くようなものならあるいは、と思うが、そんなの調べるのは不可能だろう」
「フム。――意味のある、と言ったね?」
「ああ。……俺の生まれたころの話らしいから、詳しいことは知らないが、テレビアニメを見ていた子供が、全国で同時に何人も倒れる、という事件があったはずだ」
「――あれか。僕は当時小学生だったから、リアルタイムで見ていたよ」
菊岡は懐かしそうに口をほころばせた。
「ええと、確か赤と青の光が連続してフラッシュする演出で、発作を起こしたんだったかな」
「多分それだ。同じように、猛烈な光がスパークするような映像を送り込んだとする。普通人間は、そういう時は反射的に目を閉じるが、直接脳に流し込まれればそうもいかない。何らかのショック症状を起こしても不思議はない」
「うん、たしかに、そうだ」
菊岡は頷き、しかるのちに首を振った。
「――だがね、その問題は、アミュスフィア開発当時にも論議されたんだそうだ。結果、安全装置というか、リミッターが設けられることになった。一定以上のレベル振幅がある映像信号は、アミュスフィアでは生成できないんだ」
「――おい、アンタ」
俺は今度こそ、疑念純度百の視線で菊岡の顔を睨んだ。
「やっぱり、実はもう一通りこのへんのことは検討済なんじゃないのか? 総務省のエリート様連中が頭を絞ったあとなら、今更俺なんかの出番はないはずだぞ。どういうつもりなんだ一体」
「いやいやそんなことはない。キリト君の思考は実に刺激的で、大いに参考になるよ。それに僕、君と話するの好きなんだ」
「俺は好きじゃない。――聴覚についてだが、そういうことなら当然そっちにもリミッターがあるはずだな。ではこれで話は終わりだ。結論――ゲーム内からの干渉でプレイヤーの心臓を止めるのは不可能だ。偶然か、もしくは噂の産物だ。じゃあ、俺は帰る。ご馳走様」
これ以上この話に付き合うと、ロクなことにならない予感がして、俺は早口に捲し立てて席を立とうとした。
だが、やはり菊岡が慌てたように呼び止めた。
「わあ、待った待った。ここからが本題の本題なんだよ。ケーキもうひとつ頼んでいいからさ、あと少し付き合ってくれ」
「…………」
「いやあ、キリト君がその結論に達してくれて、ホッとしたよ。僕も同じ考えなんだ。この二つの死は、ゲーム内の銃撃によるものではない。ということで、改めて頼むんだが――」
来るんじゃなかった、としみじみ思いながら、俺は続く言葉を聞いた。
「ガンゲイル・オンラインに入って、この《死銃》なる男と接触して欲しい」
「接触、ねえ? ハッキリ言ったらどうだ、菊岡サン。撃たれてこい、ってことだろう、その《死銃》に」
「いや、まあ、ハハハ」
「やだよ! 何かあったらどうするんだよ。アンタが撃たれろ。心臓トマレ」
再び立ち上がろうとした俺の袖を、菊岡がはっしと掴む。
「さっき、その可能性は無いって合意に達したじゃないか、僕らは。それに、この《死銃》氏はターゲットにかなり厳密なこだわりがあるようだ。強くないと撃ってくれないんだよ、多分。僕じゃあ何年たってもそんなに強くなれないよ。でも、かの茅場氏が最強と認めた君なら……」
「俺でも無理だよ! GGOってのはそんな甘いゲームじゃないんだ。プロがうようよしてるんだぞ」
「それだ、そのプロってのはどういうことなんだい? さっきもそう言ったが」
ペースに巻き込まれてるなあ……と思いながら、俺はしぶしぶ腰を落とした。
「……文字通りだよ。ゲームで稼いでる連中だ。ガンゲイル・オンラインは、全VRMMO中で唯一、ゲーム内通貨現実還元システムを採用しているんだ」
「……ほう?」
さすがのエージェント菊岡も、ゲームのことに関してはまだまだ知識が追いつかないと見え、今度の疑問符は本物のようだった。
「つまり、簡単に言えば、ゲームの中で稼いだ金を、現実の金としてペイバックすることが可能なんだよ。正しくは、日本円ではなくEマネーだが、今はあれで払えないものはないからな。同じことだ」
「……しかし、そんな事をしてビジネスが成り立つのかい? 運営業者だってボランティアじゃないんだろう?」
「勿論、全てのプレイヤーが稼げるわけじゃない。パチスロや競馬と一緒さ。月の接続料が、確か三千円だ。これはVRMMOとしてはかなり高いほうだ。で、平均的プレイヤーが一ヶ月で還元できる金額は、せいぜいその十分の一……数百円という所らしい。だが、ギャンブル性が高いとでも言うのかな……、ごくまれに、ドカンとでかいレアアイテムをゲットする奴が出る。数万、数十万というカネになる。俺もいつかは……、という気になる。ゲーム内に巨大カジノまであるってんだからな」
「ふうむ、なるほどねえ……」
「で、プロ、ってのはそのGGOで毎月コンスタントに稼ぐ連中さ。トッププレイヤーで、月に十万から二十万ってとこらしいから、現実世界の基準で見れば大したことはないんだろうが……まあ、暮らそうと思えば暮らせるよな。つまりそいつらは、ボリュームゾーンのプレイヤーが払う接続料から収入を得ているということになる。さっき俺が、GGOのトッププレイヤーは他のゲーム以上に嫉まれる、って言ったのはそういう意味だ。国民の血税でクソ高いケーキを食う公務員のようなものだ」
「ふふふ、相変わらずキリト君は言う事がキビシイね。君のそういうところが好きさ」
菊岡のトボケた台詞には取り合わず、俺は話を打ち切ろうとした。
「――そういった理由で、GGOのハイレベル連中は他のMMOプレイヤーなんか比較にならないほどの時間と情熱をゲームにつぎ込んでいるのさ。何の知識もない俺なんぞがのこのこ出ていっても相手になるものか。だいたい、あれは名前どおり銃メインのゲームだからな……苦手なんだよ、飛び道具。悪いが他を当たってくれ」
「待った待った、アテなんて無いってば。僕にとっては、君が唯一、現実で連絡の取れるVRMMOプレイヤーなんだから。それに……プロの相手は荷が重いと言うなら、君も仕事ということにすればいいじゃないか」
「……はあ?」
「調査協力費という名目で報酬を支払おう。その……GGOのトッププレイヤーが月に稼ぐという額と同じだけ出そうじゃないか。――これだけ」
指を二本立てる菊岡の仕草に――
――正直、少々ぐらっときた。それだけあれば、最新の20ギガ級CPUでニューマシンを組んでおつりが来る。しかし、同時にあらためて疑問も湧き起こる。
「……引っかかるな、菊岡サン。なんでこの件にそこまでしなきゃならない。これはまず間違いなく後付けの噂というか、MMOにありがちなオカルト話だと思うぞ。心臓麻痺を起こした二人が、ゲームに姿を見せないから、そんな伝説めいた話がでっち上げられたんだ」
ストレートに尋ねると、菊岡は細い指で眼鏡を直しながら、俺から表情を隠した。どこまで真実を話し、どこまでを誤魔化すか思案しているに違いない。まったく食えない男だ。
「――実はね、上のほうが気にしてるんだよね」
話しはじめた高級官僚は、いつもどおりの笑顔に戻っていた。
「NERDLES技術が現実に及ぼす影響というのは、いまや各分野で最も注目されるところだ。社会的、文化的影響はもちろん甚大だが、生物学的なソレも大いに議論されている。仮想世界が、はたして人間の有り方をどのように変えていくのか、とね。もし仮に、なんらかの危険がある、という結論が出れば、再び法規制をかけようという動きが出てくるだろう。実は、SAO事件当時にも法案が提出される直前まで行ったんだよ。だが僕は――というか仮想課は、ここで流れを後退させるべきではないと考えている。VRMMOゲームを楽しむ、君達新時代の子供たちのためにもね。そんなわけで、この一件が妙な場所に着陸して、規制推進派に利用される前に事実を把握したいのさ。単なるデマであればそれが一番いい。その確信が欲しいんだ。――こんなところで、どうかね」
「……VRゲーム世代の若者に理解のある、アンタの理念は善意に解釈しておこう。だがそこまで本気で気にしているなら、直接運営企業に当たったらどうなんだ? ログを解析すれば、《ゼクシード》と《たらこ》を銃撃したプレイヤーが誰か、わかるはずだ。登録データがでたらめでも、IPからバイダに問い合わせれば、本名と住所はわかるだろう」
「――いくら僕の腕が長くても、太平洋の向こうまでは届かないんだよね」
菊岡の渋い顔は、今度こそは偽りのない苛立ちをにじませているようだった。
「ガンゲイル・オンラインを開発・運営しているザスカーなる企業……なのかどうかすらもわからない……それは、アメリカにサーバーを置いているんだ。会社の所在地はおろか、電話番号すら不明。メールに返事もない。まったく、例の《ザ・シード》以来、怪しげなVRワールドは筍のように増える一方だよ」
「……へえ、そうなのか」
俺は、肩をすくめるに留めた。VRMMORPG開発支援パッケージ・《ザ・シード》の由来を知っているのは俺とエギルだけだ。新生アルヴヘイム・オンラインに突如出現した浮遊城アインクラッドは、世間一般には、今は無きレクトプログレスが管理していた旧SAOサーバー内部に残されていた、ということになっている。
「とまあそんなわけで、真実のシッポを掴もうと思ったら、ゲーム内で直接の接触を試みるしかないわけなんだよ。もちろん万が一のことを考えて、最大限の安全措置は取る。キリト君には、こちらが用意する端末からダイブしてもらって、モニターしているアミュスフィアの出力に何らかの異常があった場合はすぐに切断する。銃撃されろとは言わない、君の目から見た印象で判断してくれればそれでいい。――行ってくれるね?」
気付いたときには、嫌だとは言えない状況に首まではまりこんでいた。
本当に、来るんじゃなかった……としみじみと後悔しながら、俺は同時にわずかな興味も覚えはじめていた。
仮想世界内から現実世界に干渉する能力……、もしそんなものが実在するとすれば――それは、茅場晶彦が目指そうとした世界変容の端緒なのだろうか? 三年前の冬に始まったあの事件は、まだ終わっていないのか……?
もしそうだとすれば、その流れゆく先を見届けるのは俺の役目であるはずだった。
「……わかったよ。まんまと乗せられるのはシャクだが、行くだけは行ってやる。でも、うまくその《死銃》と出くわすかどうかはわからないぞ。そもそも、実在さえ疑わしいんだからな」
「ああ……それだけどね」
菊岡は、邪気のない顔でにっこり笑った。
「言わなかったっけ? 最初の銃撃事件のとき、居合わせたプレイヤーが音声ログを取ってたって。データを圧縮して持ってきている。《死銃》氏の声だよ。どうぞ、聴いてくれたまえ」
PDAにイヤホンのプラグを挿入し、こちらに差し出す菊岡の顔を、俺は今度こそ本気でアンタの心臓も止まりやがれ、と思いながら睨んだ。
「……わざわざ、どーも」
受け取ったイヤホンを耳に突っ込むと、菊岡が液晶をスタイラスで突付く。たちまち、頭の中にざわざわという喧騒が再生された。
と、いきなりざわめきが消失し、しんとした沈黙を、鋭い叫びが切り裂いた。
『これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め!』
『俺と、この銃の名は《死銃》…………《デス・ガン》だ!』
その声は、どこか非人間的な、金属質の響きを帯びていた。
それでいて、その向こうにいる生身のプレイヤーの存在を、俺は感じていた。
力を求め、力に酔うその声は、ロールプレイではなく、殺戮を欲する本物の衝動を放射しているように思えた。
(第一章 終)