エピローグ1 2015年初夏
「それでは今日はここまで。課題ファイル25と26を転送するので来週までにアップロードしておくこと」
鐘の音を模したチャイムが午前中の授業の終わりを告げ、教師がライトパネルの電源を落として立ち去ると、広い教室には弛緩した空気が漂った。
俺は端末に差した旧式のマウスを操り、ダウンロードされた課題ファイルを開いて一瞥した。たっぷりと歯ごたえのありそうな長文の設問にため息をついてから、マウスを引き抜き、端末を閉じて一緒にデイパックに放り込む。
それにしても、このチャイムはアインクラッド基部層・はじまりの街のチャペルの音にとてもよく似ている。それを知ってこの音色に設定したのなら、この校舎の設計者はなかなかブラックユーモアのセンスがある。
もっとも、揃いの制服を着た生徒たちは誰もそんな事を気にしてはいないようだ。和やかに談笑しながら、三々五々連れ立って教室を後にし、カフェテリアへと歩いていく。
デイパックのジッパーを引き、肩にかけて立ち上がろうとすると、隣席の仲のいい男子生徒が俺を見上げて言った。
「あ、カズ、食堂行くなら席取っといて」
俺が返事をする前に、さらにその隣に座った生徒がにやりと笑いながら言う。
「無理無理、今日は『姫』に謁見の日だろう、カズは」
「あ、そうか。ちくしょう、いいなあ」
「うむ、まあ、そういうことだ。悪いな」
連中のいつもの愚痴が始まる前に離脱すべく、俺は手を上げると素早く教室を抜け出した。
薄いグリーンのパネル張りの廊下を早足で歩き、非常口から中庭に出ると、ようやく昼休みの喧騒が遠のいて俺はほっと息をついた。真新しいレンガの敷かれた小道が、新緑に萌える木々の間を塗って伸びている。梢の上に見える校舎はコンクリートの地肌剥き出しの素っ気無い外見だが、総じて三ヶ月の突貫工事で造成されたとは思えない立派なキャンパスだ。
緑のトンネルを潜るように続く小道を更に数分歩くと、円形の小さな庭園に出る。ふんだんに花壇の配されたその外周部には白木のベンチがいくつか並び、そのうちの一つに、一人の女子生徒が腰掛けて空を見上げている。
濃いグリーンを基調にしたブレザーの制服の背に、ブラウンの長い髪が真っ直ぐに流れている。肌の色は抜けるように白く、しかし最近ではようやく頬にバラのような赤味が戻りつつある。
黒のロングソックスを穿いた細い脚をぴんと揃えて伸ばし、パンプスのつま先でぱたぱたとレンガを叩きながら一心に青い空を見つめているその姿は例えようもなく愛らしく、俺は庭園の入り口で立ち止まると木の幹に手をかけ、我知らず微笑を浮かべながら少女を眺め続けた。
と、彼女は不意にこちらを真っ直ぐ振り返り、俺を見た途端ぱっと笑顔を浮かべた。次いで澄ました表情を浮かべて目を閉じると、ふん、というふうに顔を逸らせる。
俺は苦笑しながらベンチに近づき、声を掛けた。
「お待たせ、アスナ」
アスナはちらりと俺を見上げると、唇をとがらせた。
「もう、どうしてキリトくんはいつもこっそり見てるのよう」
「悪い悪い。うーむ、ひょっとしたら俺、ストーカーの素質があるかもしれん」
「えー……」
嫌そうな顔で身を引くアスナの隣にどかっと腰を下ろし、俺は大きく伸びをした。
「ああ……疲れた……腹減った……」
「なんだか年寄りくさいよ、キリトくん」
「実際この一ヶ月で五歳くらい歳取った気分だなぁ……。それと――」
頭の後ろで手を組み、アスナの顔を横目で見る。
「キリトじゃなくて和人だぞ。ここじゃ一応キャラネーム出すのはマナー違反だからな」
「あ、そっか。つい……ってわたしはどうなるのよ! バレバレじゃないの」
「本名をキャラネームにしたりするからだ。……まあ、俺もなんかバレてるっぽいけど……」
この特殊な「学校」に通う生徒は全て、中学、高校時代に事件に巻き込まれた旧SAOプレイヤーである。積極的殺人歴のある本格的なオレンジプレイヤーこそ、カウンセリングの要有りということで一年以上の治療と経過観察を義務付けられたものの、俺やアスナを含めて自衛のために他のプレイヤーを手に掛けた者は少なくないし、盗みや恐喝といった犯罪行為は記録に残らぬゆえにチェックのしようもない。
よって、基本的にアインクラッドでの名前を出すのは忌避されているものの、何せ顔がSAO時代とほとんど同じだ。アスナにいたっては入学式に即バレしていたようだし、俺も一部の旧上層プレイヤーの間では、古い通り名を含めてかなりの部分が露見してしまっている節がある。
もっとも、すべて無かったことにしようというのは土台無理な話なのだ。あの世界での体験は、夢ではなく現実なのだし、その記憶にはそれぞれのやり方で折り合いをつけていくしかない。
俺は、膝の上で小さな籐のバスケットを抱えているアスナの左手をそっと取り、両手で包み込んだ。
まだかなり細いが、目覚めた直後に比べればふっくらとしてきつつある。
入学に間に合わせようとしたため、リハビリテーションは相当に過酷なものとなったらしい。松葉杖なしで歩けるようになったのはつい最近のことで、今でも走ることを含め運動の類は固く禁じられているそうだ。
覚醒後も、俺は頻繁に病院を訪れたが、歯を食いしばり、涙を滲ませながら歩行訓練をするアスナの姿には我が身を切られるような痛々しさを感じた。あの頃のことを思い出した俺は、いつしかアスナの細い指を、そっと、何度も何度も撫でていた。
「き、キリトくん……」
アスナが体をすくめ、頬を赤くして俯いた。俺は顔を上げ、じっとアスナのはしばみ色の瞳を見つめた。
「あ……」
右手を伸ばし、艶やかな長い髪に触れる。耳のうしろに手をかけ、引き寄せ、唇を近づける――。
「……学校じゃ、だめ!」
――が、左の手の甲をむぎゅーと抓られてしまった。已む無く不埒な行為を断念する。
「ちぇー。いいじゃん、誰もいないんだしさ」
「知らないの? ここ、カフェテリアから丸見えなんだよー」
「なぬ……」
顔を上げると、確かに木々の上に、校舎最上階の大きな採光ガラスが見えた。慌てて手を離す。
「ほんとにもう……」
アスナは呆れたようにため息をつくと、再びつんと顔をそらせた。
「そういう悪い人には、お弁当あげない」
「うあ、勘弁」
必死に謝ること数秒、アスナはようやくニコリと笑い、膝の上のバスケットの蓋を開けた。丸いキッチンペーパーの包みを一つ取り出し、俺に差し出す。
受け取っていそいそと紙を開くと、それはレタスのはみ出た大ぶりのハンバーガーだった。香ばしい香りに胃を直撃され、慌てて大口をあけてかぶりつく。
「こっ……この味は……」
がつがつと咀嚼、そののちにごくんと嚥下してから、俺は目を丸くしてアスナの顔を見た。アスナはにっこり笑い、言った。
「えへへ。覚えてた?」
「忘れるもんか。74層の安地で食べたハンバーガーだ……」
「いやー、ソースの再現に苦労したのよこれが。理不尽な話だよね。現実の味を真似しようとして向こうで死ぬほど苦労して、今度はその味を再現するのにこっちで苦労するなんてさ」
「アスナ……」
俺はあの幸福な日々を思い出し、感傷の嵐が胸中に吹き荒れるのを感じながら、思わず再びアスナを抱き寄せた。
「やだ、口にマヨネーズついてる!」
そして再び拒絶された。
俺が大きいのを二つ、アスナが小さいのをひとつ食べ終える頃には、昼休みも残りわずかとなっていた。小ぶりの保温ポットからハーブティーを注いでくれたアスナが、紙コップを両手で抱えながら言った。
「キリトくん、午後の授業は?」
「今日はあと二コマかな……。まったく、黒板じゃなくてELパネルだし、ノートじゃなくてタブレットPCだし、宿題はLANで送られてきやがるし、これなら自宅で授業でも一緒だよなぁ」
ぼやく俺を見て、アスナがふふ、と笑う。
「そのお陰でこうやって会えるんだから、いいじゃない」
「まあそうなんだけどさ……」
アスナとは、自由選択科目はすべて共通にしたものの、いかんせん元々の学年が違うのでカリキュラムに差があり、会えるのは週に三日である。
「それに、ここは次世代学校のモデルケースにもなってるらしいよ。お父さんが言ってた」
「へえ……。彰三氏は、元気?」
「うん。一時期は相当しょげてたけどね。人を見る目がなかったー、って。CEOやめて半分引退したから、肩の荷の下ろし方に迷ってるんじゃないかな。そのうち趣味でも見つければ、すぐ元気になるわよ」
「そっか……」
俺はお茶を一口すすり、アスナに倣って空を見上げた。
アスナの父、結城彰三氏が娘の夫にと見込んでいたあの男――須郷。
あの雪の日、病院の駐車場で逮捕された須郷は、その後も醜く足掻きに足掻きまくった。黙秘に次ぐ黙秘、否定に次ぐ否定、最終的に全てを茅場晶彦に背負わせようとした。
しかし、奴の二人の部下が、重要参考人で引っ張られた直後からあっけなく全てを告白し、レクトプログレスの横浜支社に設置されていたサーバーにおいてSAO未帰還者二千人が非人道的実験に供されているのが露見するに及んで須郷に逃げ道は無くなり、公判が始まった現在では精神鑑定を申請しているらしい。主な罪状は傷害だが、略取、監禁罪が成立するのかどうかが世間の耳目を集めている。
奴の手がけていた、NERDLESによる洗脳という邪悪な研究も、結局初代ナーヴギア以外では実現不可能な技術であるということが判明した。ナーヴギアはほぼ全て廃棄されたはずだし、須郷の実験結果から対抗措置の開発も可能ということらしい。
幸いだったのは、二千人の未帰還者に、実験体とされてる間の記憶が無かったことだ。脳に器質的障害を負ったり、精神に異常を来してしまったプレイヤーがわずかに居たものの、大半の被害者は十分な加療ののちに社会復帰が可能だろうとされている。
しかし、レクトプログレス社とアルヴヘイム・オンライン、いや、ダイレクトバーチャル・リアリティというジャンルのゲームそのものは、回復不可能な打撃を被った。
もともと、SAO事件だけでかなりの社会的不安を醸成していたのだ。それを、あくまで一人の狂人の例外的犯罪と断じて、今度こそ安全、と銘打って展開したALOを含むVR-MMOゲームだったが、須郷の起こした事件によって、全てのVRワールドが犯罪に利用される可能性がある、と目されることとなった。
最終的にレクトプログレスは解散、レクト本社もかなりの事業縮小を行い、社長以下の経営陣を刷新してどうにか危機を乗り切りつつあるところだ。
勿論ALOも運営中止に追い込まれ、その他に展開されていた五、六タイトルのVR-MMOもユーザーの減少こそ微々たるものの――ネットゲーマーの救いがたい性ゆえだ――社会的批判は喧しく、こちらも中止は免れ得ないだろうと言われていた。
その状況を、力技で根こそぎひっくり返してしまったのが――
茅場晶彦が、俺に託した「世界の種子」だった。
茅場についても触れておかねばなるまい。
2012年11月のSAO世界の崩壊と同時に、やはり茅場晶彦は死亡していた、ということが明らかになったのは二ヶ月前――2013年3月のことだった。
茅場がヒースクリフとしてアインクラッドに存在した二年の間、彼が潜伏していたのは長野県の人里離れた山間にあった山荘だった。
もちろん、茅場のナーヴギアには「死の枷」は仕掛けられておらず、自由にログアウトできる状況だったが、ギルド血盟騎士団の団長としてそのログインは最長連続一週間に及ぶこともあり、その間の介助をしていたのは、茅場がアーガス開発部と同時に在籍していた、とある工業系大学の研究室で、彼と同じ研究をしていた大学院生の女性だった。
その研究室にはかの須郷も学生時代に席を連ね、表面的には茅場を先輩と慕いつつも猛烈な対抗心を燃やしていたそうだ。その女性にも再三求愛したことがあったそうで――俺はその話を、先月保釈されたその女性本人から聞いた。女性のメールアドレスを救出対策室のエージェントから無理やり聞き出し、会って話をしたいとメールを出し、一週間後に許諾の返事を貰うやいなや彼女が暮らす宮城県の生家までのこのこ出かけて行ったのだった。
茅場は、SAO世界の崩壊とともに命を絶つことを、事件を起こす以前から決意していたらしい。しかしその死に方が異常だった。彼は、NERDLESシステムを改造したマシンでおのれの大脳に超高出力のスキャンを行い、脳を灼き切って死んだそうだ。
成功の確率は千分の一もありませんでしたが――、と、その、水仙の花を思わせるどこか儚げな女性は言った。
もし茅場の目論見が成功すれば、彼は己の思考、つまり大脳内部の電気反応をすべてデジタル信号に置き換え、本当の意味での電脳となってネットワーク内に存在するはずだ、と。
俺は迷った末、世界樹、つまり旧SAOサーバー内部で茅場の意識と会話したことを話した。彼が俺とアスナを救ってくれたこと、そして俺にある物を託したのだということを。
女性は、数分間うつむき、ひとつぶの涙を零したあと、俺に言った。
彼のしたことは許されることではない。
彼を憎んでいるなら、それを全て消去してください。
でも、もしも、そうでないのなら――。
「――キリトくん。キリトくんてば。今日のオフだけどさ……」
肘をつつかれ、俺は我に返った。
「ああ――ごめん。ぼんやりしてた」
視線を白い雲の群から、右隣のアスナに移す。
両手を伸ばし、今度こそしっかりと彼女を抱き寄せる。
「あ、もう……」
アスナは少し抵抗する素振りを見せたが、すぐに体の力を抜き、頭をぽふっと俺の肩に預けた。
--------------------------------------------------------------------------------
カフェテリアの西側の窓際、南から三つ目の丸テーブルに陣取って、あたしはパックの底に残ったいちごヨーグルトドリンクをストローで力任せに吸い上げた。乙女が立てるには相応しくない騒音が盛大に発生し、向かいの椅子に座る綾野珪子が顔をしかめる。
「もう、リズ……里香さん、もうちょっと静かに飲んでくださいよ」
「だってさぁ……あー、キリトの奴、あんなにくっついて……」
あたしの視線の先では、このテーブルからだけ梢を貫いて見ることができる中庭のベンチで、一人の男子生徒が女子生徒をしっかとかき抱いて髪を撫でている。
「けしからんなあもう、学校であんな……」
「そっそれに趣味悪いですよ、覗きなんて!」
あたしはちらりと珪子を見て、少々意地悪い口調で言った。
「そんなこと言いながら、シリカだってさっきまで一生懸命見てたじゃない」
珪子ことダガー使いのシリカ――逆かな?――は、顔を真っ赤にして俯き、はぐはぐとエビピラフを口に詰め込みはじめた。
空になったパックを握りつぶして数メートル離れた屑篭に放り込み、あたしはテーブルに頬杖をついて盛大にため息をついた。
「あーあ……こんなことなら『一ヶ月休戦協定』なんて結ぶんじゃなかったなあ」
「リズさんが言い出したんじゃないですか! 一ヶ月だけあの二人にらぶらぶさせてあげよう、なんて……。甘いんですよまったく」
「ほっぺたにご飯粒ついてるよ」
あたしはもういちどため息をついて、頭上の採光ガラスの向こうを流れていく白い雲を見上げた。
どうやって調べたのか、キリトから突然メールが来たのは二月の半ばだった。
あたしは驚愕し、第二ラウンドのゴングを頭のなかで響かせつついそいそと待ち合わせ場所に向かったのだが、喫茶店で聞いたキリトの話には更なる驚きを味わった。
世間を盛大に騒がせていたあの「ALO事件」にキリトが関わり、世間一般には伏せられているもののアスナも特殊な形の被害者だったというのだ。
アスナがとても会いたがっていると言われ、勿論あたしはすぐさまお見舞いに飛んでいった。そして、今にもとけて消えてしまいそうな、雪の精のようなアスナの姿を見て、アインクラッドで彼女に感じていた保護者的感情を大いに刺激されたのだった。
幸い、アスナは日に日に元気を取り戻し、この学校に同時に入学することができた。しかしやはり彼女を前にすると、あたしはライバルというよりも守るべき妹のように思えて仕方なく、つい、同じようにキリトに惚れている、数人のSAO時代の友人を巻き込んで「五月いっぱいはあの二人を暖かく見守ろう」同盟を結んだ――のである。が。
三度目のため息を、BLTサンドの最後のひとかけらと共に飲み込み、あたしはシリカを見やった。
「あんたは今日のオフ会、行くの?」
「もちろんですよー。リーファ……直葉ちゃんも来るんですって。オフで会うのはじめて、楽しみだなぁ」
「シリカはリーファと仲いいもんね」
あたしは再びイジワルな笑みを浮かべた。
「あれかな? 同じ『妹』として親近感あったりするの?」
「むっ……」
シリカは頬をひくつかせると、ピラフの最後のひとくちを口に放り込み、同じように笑った。
「そういうリズさんこそ、すっかり『お姉さん』ですよね、この頃」
あたしたちは数秒間ばちばちと火花を散らしてから、同時に雲を見上げ、同時にため息をついた。
--------------------------------------------------------------------------------
エギルの店『ダイシー・カフェ』の、無愛想な黒いドアには、同じく無愛想な木札が掛けられ、無愛想な字で「本日貸切」と書きなぐってあった。
俺は、隣の直葉に顔を向け、言った。
「スグはエギルと会ったことあったっけ?」
「うん、向こうで二回くらいいっしょに狩りしたよ。おっきい人だよねえ〜」
「言っとくけど、本物もあのマンマだからな。心の準備しとけよ」
目を丸くする直葉の向こうで、アスナがくすくすと笑う。
「わたしも、初めてここに来たときはびっくりしたよー」
「正直、俺もびびった」
怯えたような顔をする直葉の頭をぽんと叩いて、にやっと笑いかけると俺は一気にドアを押し開けた。
カラン、と響くベルの音、それに重なって、わあっという歓声、拍手、口笛が盛大に巻き起こった。
広いとは言えない店内には、すでにぎっしりと人が詰まっていた。スピーカーがずんずんと大音量でBGM――驚いたことにアインクラッドのNPC楽団が奏でていた街のテーマだ――を響かせ、皆の手には飲み物のグラスが光り、すでにかなり場は盛り上がっているようだ。
「――おいおい、俺たち遅刻はしてないぞ」
あっけに取られて俺が言うと、制服姿のリズベットが進み出てきて言った。
「へっへ、主役は最後に登場するものですからね。あんた達にはちょっと遅い時間を伝えてたのよん。さ、入った入った!」
俺たち三人はたちまち店内に引っ張りこまれ、店の奥の小さなステージに押し上げられた。ドアがバターンと閉まり、直後、BGMが途切れ、照明が絞られる。
いきなりスポットライトが俺に落ち、再び、リズベットの声がした。
「えー、それでは皆さん、ご唱和ください。……せーのぉ!」
「「キリト、SAOクリア、おめでとー!!!」」
全員の唱和。盛大なクラッカーの音。拍手。
俺のポカーンとした間抜け面に、いくつものフラッシュが浴びせられた。
今日のオフ会――『アインクラッド攻略記念パーティー』を企画したのは俺とリズ、エギルだったはずなのだが、いつの間にか俺抜きで話は進みまくっていたようだった。店内に溢れる人数は、俺の予想の倍を上回るだろう。
乾杯のあと、全員簡単な自己紹介、それに続いて俺のスピーチ――これも予定には無かった――が終わり、エギル特製の巨大なピザの皿が何枚も登場するに及んで、宴は完全はカオス状態に突入した。
俺は男性の参加者全員から手荒い祝福と、女性参加者からのやや親密すぎる祝福を受け、へろへろになってカウンターにたどり着き、スツールに沈み込んだ。
「マスター、バーボン。ロックで」
言うと、白いシャツに黒の蝶タイ姿の巨漢はじろりと俺を見下ろした。数秒後、驚いたことに本当にロックアイスに琥珀色の液体を注いだタンブラーが滑りでてくる。
ちびりと舐め、その強烈な味に顔をしかめていると、隣のスツールにひょろりと長身の男が座った。スーツに趣味の悪いネクタイを締め、あろうことか額に同じく悪趣味なバンダナを巻いている。
「エギル、俺にもバーボン」
男――カタナ使いのクラインはくるりとスツールを回転させ、店内の一角、女性陣が華やかな笑い声を上げているテーブルをだらしない顔で見つめた。
「おいおい、いいのかよ。この後会社に戻るんだろう」
「へっ、残業なんて飲まずにやってられるかっての。それにしても……いいねェ……」
鼻の下を伸ばしまくるクラインに、俺はため息をつくともう一口バーボンを啜った。
しかしまあ、確かに視覚の保養と言いたくなる光景ではある。アスナ、リズベット、シリカ、サーシャ、ユリエール、直葉と、女性プレイヤー陣が勢ぞろいしているところは写真に撮って飾っておきたいほどだ。いや――実際、ユイのために録画しているのだが。
反対側のスツールに、もう一人男が座った。こちらもスーツ姿だが、クラインと違ってまともなビジネスマンと言った印象だ。元「軍」の最高責任者、シンカーだ。
俺はグラスを掲げると、言った。
「そういえば、ユリエールさんと入籍したそうですね。遅くなりましたが――おめでとう」
カチンとグラスを合わせる。シンカーは照れたように笑った。
「いやまあ、まだまだ現実に慣れるのに精一杯って感じなんですけどね。ようやく仕事も軌道に乗ってきましたし……」
クラインもグラスを掲げ、身を乗り出した。
「いや、実にめでたい! くそう、俺もあっちで相手見つけとけばよかったぜ。そういえば、見てますよ、新生『MMOトゥデイ』」
シンカーは再び照れた笑顔を浮かべる。
「いや、お恥ずかしい。まだまだコンテンツも少なくて……それに、今のMMO事情じゃ、攻略データとかニュースとかは、無意味になりつつありますしねえ」
「まさしく宇宙誕生の混沌、って感じだもんな」
俺も頷くと、ちゃかちゃかとシェイカーを振っている店主を見上げた。
「エギル、どうだ? その後――『種』のほうは」
禿頭の巨漢は、ニヤリと子供なら泣き出しそうな笑みを浮かべると、愉快そうに言った。
「すげえもんさ。今、ミラーサーバがおよそ五十……ダウンロード総数は十万、実際に稼動している大規模サーバが三百ってとこかな」
茅場から託された『世界の種子』――。
俺は、茅場の助手であった女性との会談の数日後、ユイの手によってナーヴギアのローカルエリアからBDVDに落とされた巨大なそのファイルを、エギルの店に持ち込んだ。種子の『発芽』を手助けできるのは、俺の知己ではこの男しかいないと思ったからだ。
世界の種子。
それは――茅場の開発した、NERDLESシステムによるダイレクトVR環境を動かすための、一連のプログラム・パッケージだった。
五感のインプット・アウトプットを制御するプログラムの開発は、困難を極める。現実的には、全世界で稼動している全てのVRゲームは、茅場がアーガスで開発した『カーディナル』システムを元にしており、そのライセンス料は恐ろしいほどの巨額だった。
アーガス消滅に伴って、プログラムの権利はレクトに委譲され、更にレクトプログレスの解散によって新しい引き受け先が求められていたが、金額の大きさと、VRゲームというジャンルに対する社会的批判によってどの企業も手が出せず、ジャンル自体の衰退は確実視されていたのだ。
そこに登場したのが、完全権利フリーをうたうコンパクトなVR制御システム『ザ・シード』だったというわけだ。俺の預けたそのプログラムを、エギルはコネクションを駆使して全世界のあちこちのサーバにアップロードし、個人、企業に関わらず誰でも落とせるようにそれを完全に解放したのだった。
茅場はカーディナルシステムを整理し、小規模なサーバでも稼動できるようダウンサイジングしただけに留まらず、その上で走るゲームコンポーネントの開発支援環境をもパッケージングした。
つまり、VRワールドを創りたいと望むものは、回線のそこそこ太いサーバを用意し、『ザ・シード』をダウンロードして、3Dオブジェクトを設計、もしくは既存のものを配置し、プログラムを走らせれば――
それで、世界がひとつ誕生することになるのだ。
死に絶えるはずだったアルヴヘイム・オンラインを救ったのは、ALOのプレイヤーでもあったいくつかのベンチャー企業の関係者だった。
彼らは共同出資で新たな会社を立ち上げ、レクトからALOの全データをタダに近い低額で譲り受けた。それは、生還した愛娘から「おねだり」されたレクト新会長の意向によるものだったのだが。
アルヴヘイムの広大な大地は、新しいゆりかごの中で再生され、プレイヤーデータも完全に引き継がれた。事件によってゲームを辞めた者は全体の一割にも満たなかったらしい。
もちろん、誕生した世界はアルヴヘイムだけではなかった。
従来、ライセンス料を支払うほどの資金力の無かった企業や、はては個人に至るまで、数百にのぼる「創り手」が名乗りを上げ、次々とVRゲーム・サーバが稼動したのだ。あるものは有料、あるものは無料だったが、自然な流れとしてそれらは相互に接続されるようになり、いくつかのメタ・ルールが導入された。今では、ひとつのVRゲームでキャラクターを作れば、それで複数のゲーム世界をシフトできるのも当たり前になりつつある。
さらに、ザ・シードの利用法は、ゲームだけに留まらなかった。教育、コミュニケーション、観光、日々新たなカテゴリーのサーバが誕生し、日々新たな世界が生まれる――。VR世界の「現実置換面積」が、日本という国の大きさを上回る日も、そう遠くはない。
シンカーは苦笑しながらも、どこか夢見る眼差しで言葉を続けた。
「私たちは、多分いま、新しい世界の創生に立ち会っているのです。その世界を括るには、もうMMORPGという言葉では狭すぎる。私のホームページの名前も新しくしたいんですがね……なかなか、これ、という単語が出てこないんですよ」
「う〜〜……む……」
クラインが腕組みをして、眉を寄せて考え込む。俺は奴の肘を突付き、笑いながら言った。
「おい、ギルドに『風林火山』なんて名前付けるやつのセンスには誰も期待してないよ」
「なんだと! 言っとくが新・風林火山には加入希望者が殺到中なんだぞ!」
「ほう。かわいい女の子がいるといいな」
「ぐっ……」
言葉に詰まるクラインの顔を見てひとしきり大笑いすると、俺は再びエギルに向かって言った。
「おい、二次会の予定は変更無いんだろうな?」
「ああ、今夜十一時、イグドラシル・シティ集合だ」
「それで……」
俺は声を潜めた。
「アレは、動くのか?」
「おうよ。新しいサーバ群をまるまる一つ使ったらしいが、なんせ『伝説の城』だ。ユーザーもがっつんがっつん増えて、資金もがっぽりがっぽりだ」
「そう上手く行きゃあいいがな」
――茅場が残したファイルは、解凍したところ中身が二つあったのだ。
一つは『ザ・シード』。そしてもう一つは――
俺はグラスを干し、馴れないアルコールでくらくらする頭を一振りして店の天上を見上げた。黒い板張りが、深い夜空のように見えた。うっすらと灰色の雲が流れていく。月が姿を現し、世界を青く染める。そして、その彼方から現れる、巨大な――
「おーいキリト、こっちこーい!」
すっかり出来上がっているらしいリズベットが大声で喚き、手をぶんぶん振って俺を呼んだ。
「……あいつ、酔ってるんじゃないだろうな……」
彼女が手にもつ、ピンク色の液体を湛えた巨大なグラスに目を止め、俺が呟くとアウトロー店主がすました顔で言った。
「1%以下だから大丈夫だ。明日は休日だしな」
「おいおい」
首を振り、俺は立ち上がった。長い夜になりそうだった。
--------------------------------------------------------------------------------
エピローグ2 浮遊城への帰還
漆黒の夜空を貫いて、リーファは飛翔していた。
四枚の翅で大気を蹴り、切り裂き、どこまでも加速する。耳もとで風が鳴る。
以前なら、限られた飛翔力で最大の距離を稼ぐため、最も効率のいい巡航速度や、加速と滑空を繰り返すグライド飛行法など、色々なことを考慮しながら飛ばなくてはならなかった。
しかしそれはもう過去の話だ。今の彼女を縛るシステムの枷は存在しない。
結局、世界樹の上に空中都市は無かった。光の妖精アルフは存在せず、訪れたものを生まれ変わらせてくれるという妖精王は偽の王だった。
しかし、一度この世界が崩壊し、新たな大地を得て転生したとき、新しい支配者――いや、調整者たちは、すべての妖精の民に永遠に飛べる翅を与えたのだ。アルフではなく、緑色の風の民シルフのままだけれど、リーファにはそれで十分だった。
集合時刻より一時間も早くログインし、ここしばらく滞在しているケットシー領首都フリーリアを飛び立ったリーファは、もう四十分に渡って飛びつづけていた。その間、一秒たりとも休むことはなく、ただ本能の命ずるままに翅を全力で振動させているのだが、グラスグリーンに発光する魔法のプロペラはわずかにも力を失うことなく、リーファの意思に応えつづけている。
この新しい世界での加速セオリーは、キリトに言わせれば自動車のそれによく似ているらしい。
飛び立った直後は、翅を左右に広げ、振幅も大きく取り、「トルク重視」――これもキリトの言葉だ、意味はよくわからない――の飛び方で力強く空気を蹴り飛ばす。
徐々に速度が乗ってくると、それに合わせて翅の角度を鋭くし、振幅も細かくしていく。最高速度域では、翅は殆ど一直線になるまで畳まれ、見えなくなるほどの高速で振動するために地上からはまるで色つきの彗星が飛んでいくように見える。その段階に達すると速度の増加幅も微々たるもので、どこまでスピードが出せるかは、あとはもう飛行者の根性ひとつだ。たいていのプレイヤーは、恐怖と疲労によってやがて減速していくことになる。
先週開かれた「アルヴヘイム横断レース」では、リーファはキリトと凄まじいデッドヒートを演じた挙句、僅差で先にゴールに飛び込んだ。二人があまりに他の参加者をぶっちぎってしまったために、第二回の開催が危ぶまれているほどだ。
(あの時は、楽しかったな……。)
リーファは飛びながら小さく思い出し笑いをした。ゴール直前で追いすがってきたキリトが、リーファを笑わせようとしょうもない冗談をわめくという汚い手段に出て、まんまと爆笑してしまった。お返しにと、オブジェクト化して投げつけた毒消しポーションが命中しなかったら危くトップを奪われるところだった。
ああいうイベントで飛ぶのもいいけれど――しかしやはり、頭のなかを空っぽにして、ただただ限界の先を目指して加速していく時がいちばん気持ちいい。
数十分の飛翔で、すでに速度はギリギリのところまで上がっている。暗い闇に包まれた地上はもはや流れていく縞模様でしかなく、時々前方に小さな街の灯りが現われては、たちまち後方に消え去っていく。
体感的に、今までで最高のスピードに達した――と思った時点で、リーファは一瞬翅を広げ、体を反らせて急上昇に転じた。
頭上では、厚い雲の切れ目に巨大な満月が輝いている。その、青白い円盤目指してロケットのように舞い上がっていく。
数秒後、風鳴り音のわずかな変化とともに雲海に突入する。黒いヴェールの真っ只中を、銃弾のように一直線に貫く。至近距離で雷光が瞬き、雲の塊が白く染まるが、意に介せず突き進む。
やがてついに雲海を抜ける。ペールブルーの月光が世界を包み、眼下には一面の雲の平原。もう見えるのは、彼方で雲を貫いてそびえる世界樹の尖端のみだ。さすがに速度がやや鈍ってくるが、唇を引き結び、指先をぴんと伸ばして、一心に満月を目指す。気のせいか、銀の皿のような月の直径が少しずつ大きくなってくる。いくつものクレーターがはっきりと見える。
そのうちのひとつ、巨大な窪みの中央に、キラキラと瞬く光の群があるように思えるのは眼の錯覚だろうか? それともあそこには、誰も知らない月の民が暮らす街があるのだろうか? もう少し――もう少し近づけば――
しかしとうとう、世界の果て、限界高度の壁がリーファを捕える。加速が急激に鈍り、体が重くなる。この先で仮想空間が終わっているのだ。これ以上上昇できないのは仕方ない。でも……
リーファはいっぱいに右手を伸ばす。月を掴もうとするかのように、指を広げる。行きたい。もっと、高く。どこまでも遠く。成層圏を越え、重力を切り離し、あの月世界まで。いや、その先、惑星軌道をまたぎ、彗星を追い越し、星々の大海まで――。
ついに上昇速度がゼロになり、ついでマイナスになる。リーファは手を大きく広げたまま、夜空を自由落下していく。月が徐々に遠ざかる。
でも、リーファはまぶたを閉じ、微笑を浮かべる。
今はまだ、届かないけど――
キリトに聞いた話では、このアルヴヘイム・オンラインも、より大きなVRMMO集合体に接続する計画があるそうだ。手始めに、月面を舞台にしたゲーム「LUNASCAPE」と相互連結するらしい。そうすれば、あの月まで飛んでいけるようになる。やがて他のゲーム世界も、それぞれひとつの惑星として設定され、星の海を渡る連絡船が行き来する日がくる。
どこまでも飛べる。どこまでも行ける。けれど……絶対に行けない場所もある。
不意にリーファは、一抹の寂しさを感じる。
ふわふわと雲海に向かって落下しながら、両手でぎゅっと体を抱きしめる。
寂しさの理由はわかっている。今夜、現実世界でキリト――和人に連れていってもらったパーティーのせいだ。
とても楽しかった。今まで、この世界でしか会うことのできなかった新しい友人たちと初めてリアルで顔をあわせ、色々な話をした。あっという間の三時間だった。
でも、同時に直葉は感じていた。彼らを繋ぐ、目には見えないけれどとても強い、絆の存在を。いまは無い「あの世界」、浮遊城アインクラッドで共に戦い、泣き、笑い、恋をした記憶――それは、現実世界に帰ってきてもなお、彼らのなかで強い光を放っているのだ。
和人のことが好きな気持ちは変わっていない。
夜、ドアの前でおやすみを言うとき、朝、いっしょに駅まで走るとき、いつもふんわりと暖かい陽だまりのような気持ちを感じる。
いっそ本当の兄妹のままなら、そうでないなら違う街にすむ他人同士ならと、辛い涙を流したこともあった。でも今は、毎日同じ屋根の下で暮らせることが幸せだと思う。和人の心全部でなくていい。その片隅に、ほんの少し自分のための場所を作ってもらえれば、それでいい。
――ようやく、そう思えるようになってきたところだったのに。
あのパーティーで、和人がいつかは遠い、手の届かないところに行ってしまうような、そんな予感がした。あの人たちの絆のあいだには入っていけない。そこに、直葉の場所はない。なぜなら、直葉には「あの城」の記憶がないから。
体を小さく丸めて、リーファは流星のように落下を続けた。
雲海はもうすぐだ。集合場所は世界樹の上部に新設された街イグドラシル・シティなので、そろそろ翅を広げ、滑空を始めなくてはならない。でも、心を塞ぐ寂しさのせいで、翅が動かせない。
冷たい風が頬を撫でていく。胸のなかの温もりを奪っていく。このまま暗い雲の海に、深く、深く沈んで――
突然、体が何かに受け止められ、落下が止まった。
「――!?」
リーファは驚いて瞼を開けた。
目の前に、キリトの顔があった。両手でリーファを抱きかかえ、雲海の直前でホバリングしている。なんで――、と言う前に、浅黒い肌のスプリガンは口を開いた。
「どこまで昇ってくのか心配したぞ。もうすぐ時間だから迎えにきたよ」
「……そう……ありがと」
リーファはにこりと笑うと、翅を羽ばたかせ、キリトの腕から抜け出した。
この新しいアルヴヘイム・オンラインを動かしている運営体が、レクトプログレス社から移管された全ゲームデータ、その中には旧ソードアート・オンラインのキャラクターデータも含まれていた。そこで、運営体は元SAOプレイヤーが新ALOにアカウントを作成する場合、外見も含めてキャラクターを引き継ぐかどうか選択できるようにしたのだ。
よって、リーファが日ごろ一緒に遊んでいるシリカやアスナ、リズベット達は、妖精の種族的特徴は付加されたものの基本的に現実の姿に限りなく近い外見を持っている。でも、キリトは選択肢を与えられたとき、以前の外見を復活させることをせず、このスプリガンの姿を使いつづけることを選んだ。あの凄まじいまでのステータスもあっさりと初期化し、一から鍛えなおしている。
今、ふとリーファはその理由を知りたくなり、同じく宙にホバリングしながらキリトに問い掛けた。
「ねえ、お兄ちゃ……キリト君、なんで他の人みたいに、元の姿に戻らなかったの?」
「うーん……」
するとキリトは腕を組み、どこか遠くを見るように瞳を煙らせた。薄く微笑み、答える。
「あの世界のキリトの役目はもう終わったのさ」
「……そっか」
リーファも小さく笑った。
スプリガンの戦士キリトと最初に出会い、世界樹まで旅をしたのは自分なのだ。そう思うと、少しだけ嬉しかった。
立ったまま宙を移動すると、リーファはキリトの右手を取った。
「ね、キリト君。踊ろう」
「へ?」
目を丸くするキリトを引っ張り、雲海の上を滑るようにスライドする。
「最近開発した高等テクなの。ホバリングしたままゆっくり横移動するんだよ」
「へ、へえ……」
キリトも挑戦心を刺激されたようで、真剣な顔をするとリーファの動きに合わせて滑ろうとした。しかしすぐつんのめってバランスを崩す。
「のわっ!」
「ふふ、前加速しようとするとだめなんだよ。そうじゃなくて、ほんのちょっとだけ上昇力を働かせて、同時に横にグライドする感じ」
「むむう……」
リーファに腕を引かれ、よろめきながら数分間苦戦したキリトは、やがてさすがの適応力でコツを会得したようだった。
「おっ……なるほど、こうか」
「そうそう。うまいうまい」
ニコっと笑い、リーファは腰のポケットから小さなビンを取り出した。栓を抜き、空中に浮かせると、ビンの口から銀色の光のつぶが溢れ出し、同時にどこからともなく澄んだ弦楽の重奏が聞こえてくる。プーカのハイレベル吟遊詩人が、自分たちの演奏を詰めて売っているアイテムだ。
音楽にあわせ、リーファはゆっくりとステップを踏み始めた。
大きく、小さく、また大きく、ふわりふわりと空を舞う。両手を繋いだキリトの目をじっと見て、動きの方向をアドリブで合わせていく。
しんしんと蒼い月光に照らされた無限の雲海を、二人はくるくると滑る。最初は緩やかだった動きを徐々に速く、一度のステップでより遠くまで。
リーファの翅が散らす碧の光と、キリトの翅が振り撒く白い光が重なり、ぶつかって消える。風の音が遠ざかる。そっと目を閉じる。
指先から伝わるキリトの心を、気持ちぜんぶで感じ、受け止める。
これが最後になるかもしれない、そう思った。
今まで何度か訪れた、二人の気持ちが触れ合う魔法の瞬間。それも多分、これで最後。
キリト――和人には、彼の世界がある。学校、仲間たち、そして、大切な人。彼の羽根は強く、その歩幅は大きすぎて、伸ばした手もなかなか届かない。
二年前、彼があの世界に旅立ち、帰ってこなかったあの日から、やはり二人の道は遠ざかりはじめていたのだ。その背中に近づきたくて、妖精の翅を手に入れてみたけれど、和人や、あの人たちの心の半分はいまでも空に浮く幻の城にある。
科学技術の進歩は、仮想の世界を限りなくリアルにしていった。ゲームという枠を越えて、仮想を現実に変えていった。でも、人はいくつもの現実を生きられるほど器用じゃない。きっと和人は、あの世界で一生分を生きてしまったのだ。直葉が決して目にすることのない、夢幻の世界で。
閉じた瞼から、涙がこぼれるのを感じた。
「――リーファ……?」
耳もとで、キリトの声がした。
リーファは目をあけると、微笑みながら彼の顔を見た。同時に小瓶から溢れていた音楽が薄れ、フェードアウトし、瓶が砕けるかすかな音とともに消滅した。
「……あたし、今日は、これで帰るね」
キリトの手を離し、リーファは言った。
「え……? なんで……」
「だって……」
再び、涙が溢れた。
「……遠すぎるよ、お兄ちゃんの……みんなのいる所。あたしじゃそこまで、行けないよ……」
「スグ……」
キリトは真剣な瞳でリーファを見つめた。かすかに首を振った。
「そんなことない。行こうと思えば、どこにだって行ける」
答えを待たず、キリトは再びリーファの手を取った。固く握り、身を翻す。
「あ……」
力強く翅を鳴らし、加速をはじめた。まっすぐ、雲海の彼方にそびえる世界樹に向かって。
有無を言わせない猛烈なスピードでキリトは飛んだ。繋いだ手はわずかにも緩まず、リーファも必死で後を追う。
世界樹は、近づくにつれ天を覆うほどの大きさになった。その、幹がいくつもの枝に分かれている中央に、無数の光の群があった。イグドラシル・シティの灯だ。
その中央、一際高く、明るく輝く塔に向かってキリトは翔けていく。
灯りの集合体が、建物の窓から漏れる光や、大通りを照らす街灯に分かれはじめた――その時だった。
幾重にも連なった鐘の音が響き始めた。アルヴヘイムの零時を知らせる鐘だ。世界樹内部、アルンとイグドラシルシティを繋ぐエレベータが設けられた大空洞上部に設置され、その音は全世界に響く。
キリトが翅を広げ、急ブレーキをかけた。
「わぁっ!?」
リーファは止まりきれず、衝突しそうになった。ホバリングし、腕を広げたキリトの体にぶつかり、ふわりと抱き止められる。
「間に合わなかったな。――来るぞ」
「え?」
台詞の意味がわからず、リーファはキリトの顔を見た。キリトはにっと笑ってウインクすると、空の一角を指差した。彼の腕のなかで体の向きを変え、夜空を見上げる。
巨大な満月が、冴え冴えと蒼く光っている。――それだけだ。
「月が……どうかしたの?」
「ほら、よく見ろ」
キリトが一層高く腕を伸ばす。リーファは目を凝らす。
輝く銀の真円、その右上の縁が――わずかに欠けた。
「え……?」
リーファは目を見開いた。月蝕……? と一瞬思ってから、アルヴヘイムではついぞそんなことは起きたことがないのを思い出す。
月を侵食する黒い影は、どんどんその面積を増やしていく。しかし、その形は円形ではない。三角形の楔が食い込んでいくような――。
不意に、低い唸りがリーファの耳をとらえた。ゴーン、ゴーンと重々しく響く音。はるか遠くから、空全体を震わせるように降り注いでくる。
影はついに、月全体を覆い隠してしまった。しかし彼方から届く月光が、三角形の影の輪郭を朧に浮き上がらせている。どんどん、どんどん大きくなる。近づいてくる。
どうやらそれは、円錐形の物体のようだった。距離感がよく掴めない。眉をしかめ、視線を凝らす。と――
突然、その浮遊物それ自体が発光した。
まばゆい黄色い光を、四方に放つ。
どうやら、幾つもの薄い層を積み重ねて作られているようだった。光はその層の間から漏れてくる。底面からは三本の巨大な柱が垂れ下がり、その先端も眩く発光している。
船……? 家……? リーファは首をかしげた。その間にも、それはみるみる大きくなっていく。もう、空の一部を完全に覆い尽くしてしまっている。重低音が体を震わせる。
と、一番下の層と層との間に、何か見えるのに気付いた。いくつもの小さな突起が下から上へと伸びている。いや――あれは――
建物だ! 何階分もの窓が並んだ巨大な建築物が、いくつも密集している。しかし――建物のサイズから換算すると、あの、何十もありそうな層ひとつが、風の塔ほどの高さがあることになる。それでは、あの空飛ぶ円錐の、全体の大きさは……何百メートル、いや、何キロメートル……?
「あ……まさか……まさかあれは……」
そこまで考えて、ようやくリーファの脳裏に電撃的な啓示が閃いた。
「あれは……!」
振り向き、キリトの顔を見る。
キリトは、大きく一回頷くと、興奮を隠せない声で言った。
「そうだ。あれが――浮遊城アインクラッドだよ」
「――! ……でも……なんで? なんでここに……」
空に浮く巨城は、ようやく接近を緩め、世界樹の上部の枝とわずかに接するほどの距離で停止した。
「決着をつけるんだ」
キリトが、静かな声で言った。
「今度こそ、一層から百層まで完璧にクリアして、あの城を征服する。死と悲鳴の世界の記憶を塗り替える。――リーファ」
ぽん、とリーファの頭に手を置き、言葉を続ける。
「俺、よわっちくなっちゃったからさ……手伝ってくれよな」
「……あ……」
リーファは声を詰まらせ、キリトの顔を見つめた。
――行こうと思えば、どこにだって行ける。
再び、涙が頬を伝い、キリトの胸に落ちた。
「――うん。行くよ……どこまでも……一緒に……」
寄り添って、あまりにも巨大な浮遊城を眺めていると、足元の方向から声がした。
「おーい、遅いぞキリト!」
リーファが視線を向けると、赤い髪に黄色と黒のバンダナを巻いて、腰に恐ろしく長い刀を差したクラインが上昇してくるところだった。
その隣に、ノームの証である茶色の肌を光らせ、巨大なバトルアックスを背負ったエギル。
レプラコーン専用の銀のハンマーを下げ、純白とブルーのエプロンドレスをなびかせたリズベット。
艶やかに黒い耳と尻尾を伸ばし、肩に水色の小さなドラゴンを乗せたシリカ。
手を繋いで飛ぶ、ユリエールとシンカー。
まだ飛行に馴れないようで、スティックを握ってふらふらと飛ぶサーシャ。
いつのまに合流したのか、サクヤとアリシャ・ルーに、数人のシルフとケットシーのプレイヤー達も続く。
ぶんぶん手を振りながら上昇してくるレコン。
サラマンダー将軍のユージーンと、部下たち。
「ほら、置いてくぞ!」
クラインの叫び声を残して、大パーティーは我先にと夜空を舞い上がり、天空の城目指して突進していく。
最後に、白のチュニックとミニスカートに白銀のレイピアを吊り、肩に小さなピクシーを乗せたアスナが、長い、青い髪をきらめかせて二人の前に停止した。
「さあ、行こ、リーファちゃん!」
差し出された手を、リーファはおずおずと握った。アスナはにこっと笑い、背中の水色の翅を羽ばたかせて身を翻す。
その肩からユイが飛び立ち、キリトの肩に着地した。
「ほら、パパ、はやく!」
キリトは透き通った視線で一瞬アインクラッドを見つめ、しばしうつむいた。その唇が動き、かすかな声で誰かの名前を呼んだようだったが、聞き取れなかった。
勢い良く顔を上げたときは、キリトの顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。翅を大きく広げ、真っ直ぐに天を指差す。
「よし――行こう!!」
Sword Art Online 2 フェアリィ・ダンス
―― 完 ――