今、俺に力を貸してくれるなら――
両手の指を立てて床を引っ掻き、一ミリでも前に体を動かそうとしながら、俺は念じた。
もし今、俺に立ち上がる力を与えてくれるなら、何を代償にしてもいい。命、魂、全てを奪われても構わない。鬼でも悪魔でもいい、あの男を斬り倒し、アスナを彼女のいるべき場所に戻してさえくれるなら。
須郷は両手を使って、アスナの体を思うままに蹂躙し続けていた。奴の手が動くたびに、邪な電子パルスが強制的に感覚刺激を励起するのだろう、アスナは血が出るほど唇を噛み締めて、辱めに耐えている。
その姿を視界に映しながら、俺は己の思考が白く、白く灼き切れていくのを感じていた。怒りと絶望の炎が俺を焼き尽くしていく。脳の奥を走るシナプスの全てが灰になる。骨の色の、乾いた塊になってしまえば、もう何も思うことはない。思わなくていい。
剣一本あれば、何でもできると思っていた。なぜなら俺は、五万人の剣士たちの頂点に立つ英雄だから。魔王を倒し、世界を救った勇者だから。
利潤を追求するだけの企業がマーケティングに基づいて組み上げたにすぎない仮想世界、ただのゲーム、それをもう一つの現実と思い込み、そこで手に入れた強さが本物の強さだと思い込んでいた。SAO世界から解放――または追放され、現実に帰還してから、俺は現実の貧弱な肉体に失望していたのではないか? 心のどこかでは、あの世界に、最強の勇者でいられた世界に帰りたいと思っていたんだろう?
だからお前は、アスナの心が新たなゲーム世界にあると知った時、それならば自分の力でどうにか出来ると思い込み、真にするべきこと、現実の力を持つ大人たちに任せることをせず、のこのことやって来た。再び幻想の力を取り戻し、他のプレイヤー達を圧倒し、醜いプライドを満足させて、悦んでいたんじゃないのか?
ならばこの結果は――当然の報いだ。そうだろう、お前は与えられた力に嬉々としてはしゃいでいた子供だ。システム管理権限という単なるID一つ圧倒することすらできない。これ以上できることはただ一つ、悔恨のみだ。それが嫌なら、思考を放棄することだ。
『逃げ出すのか?』
――そうじゃない、現実を認識するんだ。
『屈服するのか? かつて否定したシステムの力に?』
――仕方ないじゃないか。俺はプレイヤーで奴はゲームマスターなんだよ。
『それは、あの戦いを汚す言葉だな。私に、システムを上回る人間の意思の力を知らしめ、未来の可能性を悟らせた、我々の戦いを』
――戦い? そんな物は無意味だ。単なる数字の増減だろう?
『そうではないことを、君は知っているはずだ。さあ、立ちたまえ。立って剣を取れ』
『――立ちたまえ、キリト君!!』
その声は、雷鳴のように轟き、稲妻のように俺の意識界を切り裂いた。
遠ざかっていた感覚が、一瞬で全て接続されたようだった。俺は目を大きく見開いた。
「う……お……」
喉の奥からしわがれた声が漏れた。
「お……おおぉ……」
歯を食いしばり、瀕死の獣にも似た声で唸りながら、俺は右手を床に突き、肘を立てた。
体を持ち上げようとすると、背中の中央を貫いた剣が固く、重く、圧し掛かってきた。
――こんな物の下で無様に這いつくばっているわけにはいかない。こんな、魂の無い攻撃に屈服するわけにはいかない。あの男の剣はもっと重かった。もっと痛かった。須郷などという、剣士の誇りを持たない人間の剣に、倒されるわけにはいかない!
「うおお……オオォォォォ!!」
一瞬の咆哮ののち、俺は全身全霊の力を込めて体を起こした。ざりっ、と嫌な音を立てて剣が床から離れ、俺の体から抜け落ちて転がった。
ふらつきながら立ち上がった俺を、須郷はぽかんとした顔で見つめた。次いでアスナの体から手を離し、芝居じみた動作で肩を竦めながら首を振る。
「やれやれ、オブジェクトを固定したはずなのに、妙なバグが残っているなあ。開発部の無能どもときたら……」
呟きながら俺の前まで歩き、右拳を振り上げて俺の頬を張ろうとした。俺は左手を上げ、その拳を空中で掴んだ。
「お……?」
訝しい顔をする須郷の目を見ながら、俺は口を開いた。脳の奥で響いた一連の言葉を、そのまま繰り返す。
「システムログイン。ID、ヒースクリフ」
その途端、俺を包んでいた重力が消失した。
「な……なに!? なんだそのIDは!?」
須郷は歯を剥き出して驚愕の叫びを上げると、俺の手を振り払って飛び退り、右手を振った。青いシステムメニューウインドウが出現する。
だが、奴が指を動かすより早く、俺は言っていた。
「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。IDオベイロンをレベル1に」
同時に、須郷の手の下からウインドウが消滅した。須郷は目を見開き、何も無い空間と俺の顔の間で視線を何度か往復させたあと、苛立ったように右手を振った。
しかし何も起こらない。須郷に王の力を与えていた魔法のスクロールはもう現われない。
「ぼ……僕より高位のIDだと……? 有り得ない……有り得ない……僕は支配者……創造者だぞ……この世界の帝王……神……」
PCMを倍速再生したような、甲高い声で須郷は立て続けに捲し立てた。その、醜く崩れた美貌に視線を向けながら、俺は静かな声で言った。
「そうじゃないだろう? お前は盗んだんだ。世界を。そこの住人を。盗み出した、汚れた玉座の上で独り踊っていた泥棒の王だ」
「こ……このガキ……僕に……この僕に向かってそんな口を……後悔させてやるぞ……その首をすっ飛ばして飾ってやるからな……」
須郷は鉤のように曲げた人差し指を俺に突きつけ、金切り声を上げた。
「システムコマンド!! オブジェクトID『エクスキャリバー』をジェネレート!!」
だが、システムはもう須郷の声には応えなかった。
「システムコマンド!! 言うことを聞けこのポンコツが!! 神の……神の命令だぞ!!」
喚きたてる須郷から視線を逸らし、俺は吊り上げられたままのアスナを見た。
力任せに引き千切られたワンピースは、ぼろぼろの布となって体にまとわりついているだけだ。髪は乱れ、頬には涙の跡が光る。しかし、その瞳はいまだ輝きを失っていない。その強靭な魂は挫かれていない。
――すぐ終わらせる。もう少し待っていてくれ
俺はアスナのはしばみ色の瞳をじっと見つめ、心の中で呟いた。アスナは小さく、しかし確かな動作でこくりと頷いた。
虐げられたアスナの姿を見たことによって、俺の中に新たな怒りの炎が噴き上がった。俺は視線をわずかに上向けると、言った。
「システムコマンド。 オブジェクトID『エクスキャリバー』ジェネレート」
すると俺の前の空間が歪み、微細な数字の羅列が猛烈な勢いで流れ、一本の剣を形作った。尖端から徐々に色と質感が与えられていく。金色に輝く刀身を持つ、美麗な装飾を施されたロングソードだ。
俺はその剣の柄を掴むと、目を丸くしている須郷に向かって放り投げた。奴が危い手つきで受け止めるのを見ながら、左足を動かし、床に転がったままの俺の剣を跳ね上げ、手に収める。
無骨な黒鉄色の大剣をぴたりと構え、俺は言った。
「決着をつける時だ。泥棒の王と鍍金の勇者……。システムコマンド、センスフィードバック・アブソーバをレベルゼロに」
「な……なに……?」
黄金の剣を握った須郷の顔に動揺が走った。一歩、二歩、後退る。
「逃げるな。あの男は少なくとも臆したことは無かったぞ。あの――茅場晶彦は」
「か……かや……」
その名を聞いた途端、須郷の顔が一際大きく歪んだ。
「茅場……ヒースクリフ……アンタか。またアンタが邪魔をするのか!!」
右手の剣を虚空に振り上げ、須郷は金属を引き裂くような声で絶叫した。
「死んだんだろ! くたばったんだろうアンタ!! なんで死んでまで僕の邪魔をするんだよ!! アンタはいつもそうだよ……いつもいつも!! いつだって何でも判ったような顔しやがって……僕の欲しいものを端から攫って!!」
不意に剣を俺に向かって突きつけ、須郷は更に叫んだ。
「お前みたいなガキに……何が、何がわかる!! アイツの下にいるってことが……アイツと競わされるのがどういうことか、お前にわかるのかよ!?」
「判るさ。俺もあの男に負けて家来になったからな。――でも俺はあいつになりたいと思ったことはないぜ。お前と違ってな」
「ガキ……このガキが……ガキがぁぁぁぁ!!」
須郷は裏返った悲鳴とともに地を蹴り、剣を振りかざした。その体が間合いに入るや否や、俺は右手の剣を軽く一閃させ、奴の滑らかな頬を剣先が掠めた。
「イアァァ!!」
須郷は高く叫ぶと左手で頬を押さえ、飛び退った。
「い……痛ァァアアッ」
目を丸くして悲鳴を上げるその姿は、俺の怒りを更に燃え上がらせた。こんな男がアスナを閉じ込め、二ヶ月もの間虐げつづけたと思うと耐えがたかった。
大きく一歩踏み込み、正面から剣を撃ち下ろした。反射的に掲げた須郷の右手が、一撃で断ち割られ、黄金の剣を握った手首ごと高く飛んで濃い闇の彼方へと消えていった。
「アアアアァァァァ!! 手が……僕の手がああぁぁああ!!」
擬似的な電気信号ではあるが、それゆえに純粋な痛みが今須郷を襲っているのだろう。しかし勿論、そんなものでは足りない。足りるわけがない。
消えうせた右手を抱えてうめく須郷の、緑色の長衣に包まれた胴を、俺は力任せに薙ぎ払った。
「グボアアァァァ!!」
均整の取れた長身が、腹から真っ二つに切断され、重い音を立てて床に転がった。直後、下半身だけが白い炎を上げて燃え崩れた。
俺は、須郷の波打った長い金髪を左手で掴み、持ち上げた。限界まで見開かれた目からどろりとした涙を流し、口をぱくぱくと開閉しながら、須郷は金属質な悲鳴を上げ続けている。
その顔を無表情に眺めながら、俺はしわがれた声で言った。
「――お前のHPが幾つあるか知らんがな、それがゼロになるまで端から少しずつスライスしてやる」
「ヒィ……やめ……や、やめ……」
その姿は、もう俺に嫌悪しか与えなかった。左手をぶんと振って、須郷の上半身を垂直に放り投げる。
大剣を両手で握り、体を捻って直突きの構えを取った。耳障りな絶叫を撒き散らしながら落ちてきた須郷の顔面に向かって――
「うらぁ!!」
俺は全力の突きを叩き込んだ。ガツッと音を立てて、刀身が須郷の右目から後頭部へ抜け、深々と貫いた。
「ギャアアアアアアア!!!」
数千の錆び付いた歯車を回すような、不快なエフェクトのかかった悲鳴が暗闇の世界に響き渡った。剣を挟んで左右に分断された右目から、粘りのある白い炎が噴出し、それはすぐに頭部から上半身に広がった。
溶解し、燃え尽きるまでの数秒間、須郷は途切れることなく叫び続けていた。やがてその声が徐々にフェードアウトし、姿が消え去った。世界に静寂が戻ると、俺は剣を左右に切り払って白い残り火を吹き散らした。
軽く剣で薙いだだけで、アスナを戒めていた二本の鎖は千切れ飛び、消滅した。役目を終えた剣を床に落とし、俺は力なく崩れるアスナの体を抱き止めた。
俺の体を支えていたエネルギーも同時に尽き、俺は床に膝をついた。腕の中のアスナを見つめる。
「……うっ……」
やるせない感情の奔流が、涙に形を変えて俺の両眼から溢れ出した。アスナの柔らかい体を固く抱きしめ、その髪に顔を埋めて、俺は泣いた。言葉は出なかった。ただ、泣き続けた。
「――信じてた」
アスナの、透明な声が耳もとで揺れた。
「……ううん、信じてる……これまでも、これからも。きみは私のヒーロー……いつでも、助けにきてくれるって……」
そっと、手が俺の髪を撫でた。
――違うんだ。俺は……俺には何の力もなくて……
だが、俺は大きく一度息をついてから、震える声で言った。
「……そうあれるように、がんばるよ。さあ……帰ろう……」
右手を振ると、通常のものとは異なる、複雑なシステムウインドウが出現した。俺は直感的に階層を潜り、移動し、転送関連のメニューを表示させると指を止めた。
じっとアスナの瞳を見つめ、言う。
「現実世界は、多分もう夜だ。でも、すぐに君の病室に行くよ」
「うん、待ってる。最初に会うのは、キリトくんがいいもの」
アスナはふわりと微笑んだ。純水のように澄み切った視線で、どこか遠いところを見つめながら、囁いた。
「ああ――とうとう、終わるんだね。帰るんだね……あの世界に」
「そうだよ。……色々変わっててびっくりするぞ」
「ふふ。いっぱい、いろんなとこに行って、いろんなこと、しようね」
「ああ。――きっと」
俺はゆっくり、大きく頷くと、一際強くアスナを抱きしめ、右手を動かした。ログアウトボタンに触れ、ターゲット待機状態で青く発光する指先で、アスナの頬を流れる涙をそっと拭った。
その途端、アスナの白い体を、鮮やかなブルーの光が包み込んだ。少しずつ、少しずつ、水晶のように透き通っていく。光の粒が宙を舞い、足先、指先から消えていく。
完全にこの世界から消え去るまで、俺は、強く強くアスナを抱いていた。ついに腕の中から重みが消え去り、俺は暗闇の中、独りになっていた。
しばらく、そのままの格好で俺はうずくまっていた。
全てが終わったような気もしたし、まだ大きな流れの過程にいるような気もした。茅場の夢想と須郷の欲望が引き起こしたこの事件――これがそのエンディングなのだろうか? あるいは、これすらもより巨大な変革の一部なのだろうか?
俺は、エネルギーの尽きかけた体に鞭打って、どうにか立ち上がった。頭上、暗闇に包まれた世界の深奥を見やって、ぽつりと呟く。
「――そこにいるんだろう、ヒースクリフ」
しばしの静寂ののち、先ほど俺の意識の中で響いたのと同じ、錆びた声でいらえがあった。
『久しいな、キリト君。もっとも私にとっては――あの日のこともつい昨日のようだが』
その声は、先ほどとは異なり、どこか遥か遠いところから届いてくるように感じられた。
「――生きていたのか?」
短く問うと、一瞬の沈黙に続いて答えが聞こえた。
『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。私は――茅場晶彦という意識のエコー、残像だ』
「相変わらず判り難いことを言う人だな。とりあえず礼を言うけど――どうせなら、もっと前に助けてくれてもいいじゃないか」
『――』
苦笑を洩らす気配。
『それはすまなかったな。カーディナルに溶けた私のフラグメントが結合・覚醒したのが、つい先ほど――君の声が聞こえたときだったものでね。それに礼は不要だ』
「……なぜ?」
『君と私は無償の善意などが通用する仲ではなかろう。もちろん代償は必要だよ、常に』
今度は俺が苦笑する番だった。
「何をしろと言うんだ」
すると、遥か遠い闇の中から、何か――銀色に輝くものが落下してきた。手を差し出すと、かすかな音を立てて収まった。それは小さな、卵型の結晶だった。内部に微弱な光が瞬いている。
「これは?」
『それは、世界の種子だ』
「――何?」
『芽吹けば、どういうものか分かる。――では、私は行くよ。また会おう、キリト君』
そして唐突に、気配は消え去っていた。
俺は首を捻り、輝く卵をとりあえず胸ポケットに落とし込んだ。そして、ハッと思い出した。
「そうだ――ユイ、いるか? 大丈夫か!?」
そう叫んだ途端、暗闇の世界が裂けた。
さっとオレンジの光が暗幕を切り裂き、同時に風が吹いて、みるみるうちに闇を払っていく。あまりの眩しさに一瞬目蓋を閉じ、恐る恐る開くと、そこはあの鳥篭の中だった。
正面に、今まさに沈もうとしている巨大な夕陽が最期の光を放っていた。風が鳴るだけで、人の姿はない。
「――ユイ?」
もう一度呼ぶと、眼前の空間に光が凝縮し、ぽんと音を立てて黒髪の少女が姿を現した。
「パパ!!」
一声叫んで俺の胸に飛び込み、首にぎゅっとかじりつく。
「無事だったか。――よかった……」
「はい……。突然アドレスをロックされて、消去されそうになったので、一度ナーヴギアに退避したんです。でももう一度接続してみたら、パパもママも居なくなってるし……心配しました。――ママは……?」
「ああ、戻ったよ……現実世界に」
「そうですか……よかった……本当に……」
ユイは目を閉じ、俺の胸に頬を擦り付けた。その顔に、かすかな寂しさの影を感じて、俺はそっと長い髪を撫でた。
「――また、すぐ会いにくるよ。でも……どうなるんだろうな、この世界は……」
呟くと、ユイはにこりと笑って、言った。
「わたしのコアプログラムはパパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です。――あれ、でも、へんですね……」
「どうかしたのか?」
「なんだか大きなファイルが、ナーヴギアのローカルエリアに転送されています。……アクティブなものではないようですが……」
「ふうん……」
俺は首を傾げたが、その疑問は棚上げすることにした。それよりも、今はやらなくてはならないことがある。
「――じゃあ、俺は行くよ。ママを出迎えに」
「はい。パパ――大好きです」
うっすらと涙を滲ませ、力いっぱい抱きつくユイの頭を撫でながら、右手を振った。
ボタンを押す手を一瞬止め、俺は夕焼けの色に染まる世界を眺めた。偽りの王が治めていたこの世界は、一体これからどうなるのだろうか。この世界を深く愛しているであろうリーファや他のプレイヤー達のことを考えると胸が痛んだ。
ユイの頬に軽く唇を当て、俺は指を深く動かした。放射状の光が視界に広がり、意識を包んで、高く、高く運び去っていった。
頭の芯に深い疲労感を覚えながら瞼を開けると、目の前に直葉の顔があった。心配そうな表情でじっと俺の顔を覗き込んでいたが、目が合うと慌てたようにさっと体を起こした。
「ご、ごめんね、勝手に部屋に入って。なかなか戻ってこないから、心配になって……」
ベッドの縁にぺたんと座り込んだ格好で、直葉は頬をわずかに赤らめながら言った。俺は少々のタイムラグの後に接続感の回復した四肢に力を込め、勢いよく上体を跳ね上げた。
「遅くなって、ごめんな」
「……全部、終わったの?」
「――ああ。終わった……何もかも……」
俺は瞬間、視線を虚空に向けながら答えた。あやういところで再び仮想世界の虜囚に、しかも今度はクリアフラグなしの牢獄にとらわれる所だったなどとは、とても直葉には言えない。いずれ全てを話すときが来るだろうが、今はこれ以上の心配をかけたくなかった。このたった一人の妹に、俺はすでに言葉では言い尽くせないほどの救いを与えてもらっているのだ。
深い夜の森で、緑色の髪の女の子に出会ったあの時から、俺の新しい冒険が始まり――長い旅のあいだ、傍には常に彼女が居てくれた。道を示し、風物を語り、剣で守ってくれた。彼女の導きによって二人の領主たちと出会い、知己を得ることが無ければ、あの守護騎士の壁は突破できなかったに違いない。
思えば、何と多くの人たちに助けてもらったことだろう。最たる助力となってくれたのは勿論彼女だ。俺はキリトとしてリーファに、和人として直葉に頼り、支えられ、しかもその間じゅう、彼女はその小さな肩に深い懊悩を背負っていたのだ――。
俺は改めて直葉の、どこか男の子のようなまぶしい生気と、萌え出たばかりの新緑の儚さの同居した顔を見つめた。手を伸ばし、照れたように小さく笑う彼女の頭をそっと撫でながら言う。
「本当に――ほんとうにありがとう、スグ。お前が居なかったら、俺、何も出来なかったよ」
直葉は真っ赤に染めた顔を俯かせ、しばらくもじもじしていたが、意を決したように体を前に進ませて俺の胸に頬を預けた。
「ううん……あたし、嬉しかった。お兄ちゃんの世界で、お兄ちゃんの役に立てて」
目を閉じて呟く直葉の背に手を回し、軽く力を入れる。
しかし――つい数分前、アスナを同じように抱擁し、その後ユイを抱きしめ、さらにその後直葉と触れ合っていることには罪悪感を覚えずにはいられない。この状況に結論を出すのは非常な困難を伴うであろうという深い確信に、神の前に引き出された罪人のような気分を味わっていると、直葉が俺を見上げて言った。
「じゃあ……取り戻したんだね、あの人――アスナさんを……」
「ああ。ようやく――ようやく帰ってきた。……スグ、俺……」
「うん。行ってあげて、きっとお兄ちゃんを待ってるよ」
「ごめんな。詳しいことは帰ってきてから話すよ」
俺はぽんと直葉の頭に手を乗せ、体を離した。
記録的な速さで身支度をし、ダウンジャケットを引っ掴んで縁側に立つと、外はすっかり暗くなっていた。居間に掛かった時代物の柱時計は10時少し前を指している。面会時間はとうの昔に終了しているが、状況が状況だ。ナースステーションで事情を話せば入れてもらえるだろう。
直葉がとてとてと走り寄ってきて、「これ、作っといた」と分厚いサンドイッチを差し出した。ありがたく受け取って口に咥え、サッシを開けて庭に降りる。
「さ、寒……」
ジャケットを透過してくる冷気に首を竦めると、直葉が暗い夜空を見上げて、言った。
「あ……雪」
「なぬっ」
確かに、大きな雪片が二つ、三つ、白く輝きながら舞い降りてくるところだった。一瞬タクシーを使うべきか迷うが、これから呼んだり、幹線道路まで歩いてから拾うよりは、自転車を飛ばしたほうが時間的には早い。
「気をつけてね。……アスナさんに、よろしくね」
「ああ。今度、ちゃんと紹介するよ」
直葉に手を振ってMTBに跨り、俺はペダルを踏み込んだ。
頭の中が空っぽになるほどの勢いで自転車を疾走させ、埼玉県南部を縦断する。雪は徐々に勢いを増したが、路面に積もるほどではなく、交通量が減るのは逆に有り難かった。
一秒でも早くアスナの病室に辿りつきたい――と思う反面、あの場所を訪れるのを恐れる自分もいた。二ヶ月間というもの、俺は一日置きにあの部屋を訪れては、深い、深い失望を味わいつづけてきた。このまま冷たい彫像になってしまうのではないかと思うほどに、静寂に満ちた眠りにとらわれたままの彼女、その手を取り、届かないと知りつつ何度も、何度も呼びかけた。
こうして、もう路面のギャップに至るまで覚えてしまった道を再び走っていると、あの妖精の世界で彼女を見つけ――残虐な王を倒し――鎖を解き放ったことが、ただの幻想であったような気がしてならない。
もし、あと数分後に病室を訪れ、アスナが目覚めていなかったら。
アルヴヘイムに彼女の魂はすでに無く、現実にも帰還しておらず――ふたたび、どことも知れぬ場所に消え去ってしまったら。
顔を叩く雪のせいだけではない、恐ろしいほどの冷気が俺の背を駆け巡る。いや、そんなことがある筈はない。この現実という名の世界を司るシステムが、そこまで冷酷である筈はない。
縺れ、絡み合う思考の渦を抱えたまま、俺はペダルを踏み続けた。太い幹線道路を右折し、丘陵地帯に入る。トレッドの深いブロックタイヤが、シャーベット状の雪をまとったアスファルトを噛み、蹴り飛ばし、マシンを加速させる。
やがてついに、前方に黒々とした巨大な建築物の影が出現した。灯りは殆ど落ち、屋上のヘリパッドに設置された青い誘導燈が、暗黒の城を彩る鬼火のように明滅している。
最後の坂を登ると、高い鉄柵が出現した。それに沿って更に数十秒走る。一際高い門柱に守られた正面ゲートが見えてくる。
急患の受け入れはしていない、高度医療専門の機関ゆえに、この時間ではすでに門は固く閉ざされ、ガードマンの詰めるボックスも無人だ。俺は正門前を通過してパーキングエリアまで走ると、職員用に開放されている小さなゲートから敷地内に乗り入れた。
駐車場の端に自転車を停め、ロックするのももどかしく俺は走った。ナトリウム灯がぼんやりとしたオレンジ色の光を投げかける夜の駐車場はまったくの無人だ。ただ、大粒の雪だけが無音で天から降り注ぎ、世界を白く染めていく。荒い呼吸と共に水蒸気の塊を吐き出しながら、俺は走る。
恐ろしいほど広大なパーキングを半分ほど横切り、背の高い濃い色のバンと、白いセダンの間を通り抜けようとした、その時だった。
バンの後ろからスッと走り出てきた人影と、俺は衝突しそうになった。
「あ――」
すみません、と言いつつ身をかわそうとした俺の視界を――
ギラリとした、生々しい金属の輝きが横切った。
「!?」
直後、俺の右腕、肘の少し下に鋭い熱感が疾った。それが痛みだと気付くのに、コンマ5秒ほどかかった。白いものが大量に散った。雪ではない――細かい、羽だ。俺のダウンジャケットの断熱材。
俺はよろけ、白のセダンのリア部に衝突してどうにか踏みとどまった。
いまだ状況が理解できず、2メートルほど離れた場所に立つ黒い人影を、唖然としながら凝視した。男だ。黒に近い色のスーツ姿。何か白く、細長いものを右手に握っている。オレンジ色の光を受けて、鈍く輝いている。
ナイフ。大ぶりのサバイバルナイフだ。しかし。何故。
凍りついた俺の顔を、バンの作り出す陰の中から男が凝視するのを感じた。男の口もとが動き、殆ど囁きのような、しわがれた声が流れた。
「遅いよ、キリト君。僕が風邪引いちゃったらどうするんだよ」
その声。キーの高い、粘り気のある、その声は。
「す……須郷……」
呆然と、俺がその名を呼ぶと同時に、男が一歩進み出た。ナトリウム灯の放つ光が、顔を照らし出した。
かつて一度まみえた時は丁寧に撫で付けられていた髪が、激しく乱れている。尖った顎には髭の翳が浮き、ネクタイはほとんど解けて首にぶら下がっているだけだ。
そして――メタルフレームの眼鏡の下から俺に注がれる、異様な視線。その理由はすぐにわかった。細い目は限界まで見開かれ、点のように収縮した瞳孔が細かく震えているが、右の白目の部分が全て真っ赤に染まっているのだ。あの世界で――俺の剣が貫いた、その箇所が。
「酷いことするよねえ、キリト君」
須郷が軋る声で言った。
「まだ痛覚が消えないよ。まあ、いい薬が色々あるから、構わないけどさ」
右手をスーツのポケットに突っ込み、カプセルを幾つか掴み出して口に放り込む。こりこりと音をさせてそれを咀嚼しながら、須郷は更に一歩踏み出した。俺はようやく衝撃から回復し、乾いた唇をどうにか動かした。
「――須郷、お前はもう終わりだ。あんな大き過ぎる仕掛けを誤魔化しきれるものか。おとなしく法の裁きを受けろ」
「終わり? 何が? 何も終わったりしないさ。まあ、レクトはもう使えないけどね。僕はアメリカに行くよ。僕を欲しいっていう企業は山ほどあるんだ。僕にはまだ二千の実験体がある。あれを使って研究を完成させれば、僕は本物の王に――神に――この世界の神になれる」
――狂ってる。いや――おそらく遥か昔から、この男は壊れていたのだ。
「その前に、幾つか片付けることはあるけどね。とりあえず、君は殺すよ、キリト君」
表情を変えず、ボソボソと喋り終えると、須郷はすたすたと歩み寄ってきた。右手のナイフを無造作に俺の腹目掛けて突き出してくる。
「――!」
俺はどうにかそれを避けようと、右足でアスファルトを蹴った。しかし、靴底にこびり付いた雪のせいか、大きく滑ってバランスを崩し、駐車場に倒れ込んだ。体の左側をしたたか打ち付け、瞬間、息が詰まる。
須郷は焦点を失った瞳孔で俺を見下ろした。
「おい、立てよ」
直後、革靴の尖った先端が、鈍い音を立てて俺の大腿部に蹴り込まれた。二度。三度。熱い痛みが脊髄を駆け、頭の奥に響く。
俺は動けなかった。声も出せなかった。須郷の握るサバイバルナイフ――刃渡り二十センチを越えるであろう、その殺傷のための道具が放つ重い圧力が、俺を凍らせた。
殺す――俺を――あのナイフで――?
断片的な思考が流れ、消える。肉厚の刃が、音も無く俺の体に侵入し、致命的な――文字通り命を奪うに足る損傷を与える、その瞬間を何度も、何度も想像する。それ以外、何もできない。
右腕に、痺れるような熱を感じた。ジャケットの袖口と、ウインターグローブの隙間から、黒い液体が数滴したたった。体から、血液が際限なく流れ出すイメージ。HPバーではなく、数値ではなく、明確な、リアルな「死」のイメージ。
「ほら、立てよ。立ってみろよ」
須郷は、壊れた人形のように何度も、何度も俺の足を蹴り、踏みつけた。
「キリト君、さっき何か言ってたよな。逃げるなとか? 臆するなとか? 決着をつけるとか? 偉そうなこと言ったよな」
須郷のささやき声に、あの闇の中で聞いたのと同じ狂気の色が混ざりはじめた。
「わかってんのか? お前みたいなゲームしか能の無い小僧は、本当の力は何も持っちゃいないんだよ。全てにおいて劣ったクズなんだよ。なのに僕の、この僕の足を引っ張りやがって……。その罪に対する罰は当然、死だ。死以外ありえない」
抑揚の無い声でぼそぼそと言いおえると、須郷は左足を俺の腹の上に乗せた。ぐっと重心を移す。その物理的圧力と、奴の狂気が放つ精神的プレッシャーで、息が詰まる。
俺は浅く、速い呼吸を不規則に繰り返しながら、ただ近づいてくる須郷の顔を見ていた。体を屈めた須郷は、右手に握った凶器を高く振りかぶり――
瞬き一つせず、それを振り下ろした。
「――――ッ」
俺の喉の奥から、引き攣った声が漏れるのと――
鈍い金属音とともに、ナイフの先端が俺の頬を掠め、アスファルトに食い込むのは同時だった。
「あれ……右目がボケるんで狙いが狂っちゃったよ」
須郷はぶつぶつ呟くと、再び右手を高く掲げた。
ナイフのエッジをナトリウム灯の明かりが滑り、暗闇の中にオレンジ色のラインを描いた。
硬い路面に突き立てられたせいだろうか、切っ先が、ほんのわずかに欠けている。その瑕が、より現実的な、物理的な凶器としての存在感をナイフに与えている。ポリゴンの武器ではなく、金属分子が密に凝縮した、重く、冷たい、本物の、殺傷力。
何もかもが、ゆっくりと動いていた。黒い空を舞う雪片。歪んだ須郷の口から吐き出される息の塊。俺に向かって降下してくるナイフ。その背に刻まれたセレーションを明滅しながら移動するオレンジ色の反射光。
そう言えば、あんなギザギザのついた武器があったな……。
停止しかけた思考の表層を、無意味な記憶の断片が流れていく。
あれは何だったか。アインクラッド中層の街で売っていたダガー系のアイテムだ。確かソードブレイカーという名前だった。背の鋸状の部分で敵の剣をパリィすると、武器破壊に成功する確率に僅かなボーナスがあるという奴だ。面白そうだったので短剣スキルをスロットに入れてしばらく使ってみたが、基本攻撃力が低いので満足する結果にはならなかった。
今、須郷の手に握られている武器は、あれよりも更に小さい。ダガーと言うにも及ばない。いや――武器の範疇ではない、こんな物は。日常作業用のツールだ。剣士が闘いに用いるような物ではない。
耳の奥に、数秒前の須郷の言葉が蘇る。
本当の力は、何も持っちゃいない――。
そうだ……その通りだ。今更言われるまでもない。しかし、ならば俺を殺すと言うお前は何なのだ、須郷。ナイフ術の達人なのか? 武道の心得でもあるのか?
俺は須郷の眼鏡の奥、血の色に染まる細い目を見つめた。興奮。狂気。しかしそれ以外にも何かある。あれは――逃げる者の眼だ。ダンジョンでモンスターの大群に囲まれ、絶体絶命の死地に陥ったとき、その現実を遮断するために狂躁的に剣を振り回す者の視線。
頭の芯が、急激に冷えていくのを感じた。知覚の加速感。全身の神経をパルスが駆け回る。戦闘待機状態――
そうだ、これは戦闘だ。
俺は左手を上げ、振り下ろされつつある須郷の右手首を掴んだ。同時に右手を伸ばし、親指を須郷の緩んだネクタイの間、喉の窪みに突き込む。
「ぐぅ!!」
ひしゃげた声を上げ、須郷が仰け反った。俺は体を捻ると、両手で須郷の右腕を掴み、その手の甲を凍ったアスファルトに思い切り擦りつけた。悲鳴と同時に手が緩み、ナイフが路面に転がった。
笛の音のような甲高く掠れた絶叫を上げながら、須郷がナイフに飛びつこうとする。右足を曲げ、その顔面を靴のソールで蹴り飛ばした。ナイフを掬い上げ、反動を利用して立ち上がった。
「須郷……」
喉から、自分のものとは思えないさび付いた声が漏れた。
右手のグローブ越しに、硬く冷たいナイフの存在を感じた。武器としては貧弱だ。軽いし、リーチもない。しかし――
「お前を殺すには、十分だ」
呟くと、アスファルトに座り込み、バンに寄りかかって、ぽかんとした顔で俺を見ている須郷に向かって、猛然と飛び掛った。
左手で髪ごと頭を鷲掴みにし、バンのドアに打ち付けた。鈍い音とともにアルミのボディが凹み、眼鏡が吹き飛んだ。須郷が口を大きく開けた。
「イイイィィィィィィィ……」
涙と悲鳴を同時に撒き散らすその口に、俺はナイフを鋭く突き入れた。
カツン、というかすかな音と共に、前歯が一本折れて消し飛び――
そして俺は、左膝をバンのフェンダーにぶつけて体の勢いを止めた。ナイフの先端は、須郷の口蓋の奥にほんのわずか食い込んだ所で停止していた。
「ぐう……ううっ……!」
俺は歯を食いしばった。
「ィィィ! ヒィィィッ!! ィィィィィ!!」
須郷は悲鳴を上げ続けている。
この男は――死んで当然だ。裁かれて当然だ。今、この右手に体重を乗せ、刀身を撃ち込めば、全て終わる。決着だ。完全なる勝者と敗者の決定。
しかし――
俺はもう、剣士ではない。剣の技によって全てが決まるあの世界は、もう、終わったのだ。
「ヒィィィィィィ……」
不意に、須郷の口から血の混ざった白い泡がボトボトと大量にこぼれた。眼球が裏返り、悲鳴が途切れ、その全身が、電力の切れた機械のように脱力した。
俺の手からも、力が抜けた。ナイフが滑り落ち、須郷の腹の上に転がった。
左手も離し、俺は体を起こした。
これ以上、一秒でも長くこの男を見ていれば、再び殺意の衝動が沸き起こり、そしてそれにはもう耐えられないだろうと思った。
須郷のネクタイを引き抜き、体を路面に転がして、両手を後ろに回して縛り上げた。ナイフはバンのルーフの上に放り上げる。俺はよろめく脚に鞭打って後ろを振り向き、一歩、一歩、ゆっくりと駐車場を歩き始めた。
広い階段を登って正面エントランス前に出るころには、五分ほどが経過していた。立ち止まって大きく深呼吸し、どうにか言う事を聞くようになった全身を見下ろす。
雪と砂に汚れ、ひどい有様だ。切られた右腕と左頬が疼くが、すでに血は止まっているようだった。
自動ドアの前に立つ。しかし開く様子はない。ガラス越しに覗き込むと、メインロビーの照明は落ちているが、奥の受け付けカウンターには灯りがあった。左右を見回す。左奥に、小さなガラスのスイングドアを発見し、押してみると音も無く開いた。
建物の中は静寂に満ちていた。広大なロビーに整然と並べられたベンチの列を、ゆっくりと横切っていく。
カウンターの中も無人だったが、その奥に隣接したナースステーションからは談笑する声が漏れていた。俺はマトモな声が出ることを祈りつつ、口を開いた。
「あの……すみません!」
俺の声が響いた数秒後、ドアが開いて薄いグリーンの制服を来た看護師の女性が二人、現れた。いぶかしむような警戒の色を浮かべていたが、俺の顔を見た途端目を丸くする。
「――どうしたんですか!?」
背の高い、髪をアップにまとめた若い看護師が低い声を上げた。どうやら、俺の頬の出血は思った以上の量があるらしい。俺はエントランスの方向を指差し、言った。
「駐車場で、ナイフを持った男が暴れています」
二人の顔に緊張が走った。年配の看護師がカウンターの内側にある機械を操作し、細いマイクに顔を寄せる。
「警備員、至急一階ナースステーションまで来てください」
巡回中のガードマンが近くにいたらしく、すぐに足音と共に紺色の制服を来た男が小走りに現れた。看護師の説明を聞くと、男の顔も厳しくなる。小さい通信機に何事か呼びかけ、ガードマンはエントランスへ向かった。若い方の看護師も後を追う。
残った看護師は、俺の頬の傷を仔細に眺めてから言った。
「君、十二階の結城さんのご家族よね? 傷はそこだけ?」
少々事実に誤認があるようだが、訂正する気力もなく俺は頷いた。
「そう。すぐドクターを呼んでくるから、そこで待っていてください」
言うや否やパタパタと駆けていく。
俺は大きく一度息をついて、周囲を見回した。とりあえず近くに誰もいないのを確認し、カウンターに身を乗り出して、内側からゲスト用のパスカードを掴みだす。看護師が走って行ったのとは別の方向、何度も通った入院棟への通路に向かって、震える足を鞭打って走り出す。
エレベータは一階に停止していた。ボタンを押すと、低いチャイムと共にドアが開く。内部の壁に体を預け、最上階のボタンをプッシュ。病院ゆえに加速は緩やかだが、その僅かなGですら膝が折れそうになる。必死に体を支える。
気が遠くなるほど長い数秒間ののち、箱が停止してドアが開いた。半ば這うように通路へと転がり出る。
アスナの病室までの、ほんの数十メートルは、もう無限の距離と思えた。倒れそうになる体を壁の手すりで支え、前に進む。L字の通路を左に折れると――正面に、白いドアが、見えた。
一歩、一歩、歩いていく。
あのときも――。
夕焼けに包まれた終焉の世界から、現実世界に帰還し、ここではない別の病院で目覚めたあの日も、俺は萎えた脚に鞭打って、歩いた。アスナを捜して、ただただ歩いた。あの道は――ここに繋がっていたのだ。
ようやく、会える。その時が来る。
残りの距離が縮むと同時に、俺の胸に詰まる様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。呼吸が速くなる。視界が白く染まる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。歩く。ひたすら、脚を前に出す。
ドアの直前まで達したのに気付かず、衝突しそうになって危うく足を止めた。
この向こうに、アスナが――。もう、それしか考えられない。
震える右手を持ち上げると、汗のせいかカードが滑り落ちて床に転がった。拾い上げ、今度こそメタルプレートのスリットに差し込む。一瞬息を止め、一気に滑らせる。
インジケータの色が変わり、モーター音と共にドアが開いた。
ふわりと、花の香りが流れ出した。
室内の照明は落ちている。窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っている。
病室は、中央を大きなカーテンが横切っている。その向こうにジェルベッドがある。
俺は動けない。これ以上は進めない。声も出せない。
不意に、耳もとで囁き声がした。
『ほら――待ってるよ』
そして、そっと肩を押す手の感触。
ユイ? 直葉? 三つの世界で、俺を助けてくれた誰かの声。俺は右足を動かした。もう一歩。さらに、もう一歩。
カーテンの前に立つ。手を伸ばし、その端を掴む。
引く。
鈴のような――草原を渡る風のような――かすかな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。
「……ああ」
俺の喉から、祈りに似た声が漏れた。
純白のドレスにも似た薄い病衣をまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらに背を向けて大きな窓を見ていた。つややかな長い髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝く卵型のものを抱えている。
ナーヴギア。常に少女を拘束し続けた茨の冠が、その役目を終えて静かに沈黙している。
「アスナ」
俺は、音にならない声で呼びかけた。少女の体がかすかに震え――花の香りに満ちた空気を揺らして、振り向いた。
永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ夢見るような光をたたえているヘイゼルの瞳が、まっすぐ俺を見た。
何度、夢に見たことだろう。何度、祈ったことだろう。
色の薄い、しかしなめらかな唇に、ふわりと微笑みが浮かんだ。
「キリト君」
初めて聴く、その声。あの世界で毎日耳にしていた声とは大きく異なる。しかし、空気を揺らし、俺の感覚器官を震わせ、意識に届くこの声は、何倍も――何倍も素晴らしい。
アスナの左手がナーヴギアから離れ、差し伸べられた。それだけでかなりの力を使うのだろう、わずかに震えている。
俺は、雪の彫像に触れるように、そっと、そっと、その手を取った。痛々しいほど細く、薄い。しかし、温かい。俺の、すべての傷を癒していくように、手から温もりが染み込んでいく。不意に脚の力が抜け、ベッドの端に体を預けた。
アスナは右手も伸ばすと、おそるおそるというふうに俺の傷ついた頬に触れ、首を傾けた。
「ああ……最後の、本当に最後の闘いが、さっき、終わったんだ。終わったんだ……」
言うと同時に、俺の両目から、ついに涙が溢れた。雫が頬を流れ、アスナの指に伝い、窓からの光を受けて輝く。
「……ごめんね、まだ音がちゃんと戻らないの。でも……わかるよ、キリト君の言葉」
アスナは、いたわるように俺の頬を撫でながら、囁いた。その声が届くだけで魂が震える。
「終わったんだね……ようやく……ようやく……きみに、会えた」
アスナの頬にも、銀に輝く涙が伝い、零れ落ちた。濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっと俺を見て、言った。
「はじめまして、結城、明日奈です。――ただいま、キリトくん」
俺も、嗚咽をこらえ、応えた。
「桐ヶ谷和人です。……おかえり、アスナ」
どちらともなく顔が近づき、唇が触れ合った。軽く。もう一度。強く。
腕を、華奢な体に回し、そっと抱きしめる。
魂は、旅をする。世界から世界へ。今生から、次の生へ。
そして誰かを求める。強く、呼び合う。
昔、空に浮かぶ大きな城で、剣士を夢見る少年と、料理が得意な少女が出会い、恋に落ちた。彼らはもういないけれど、その心は長い長い旅をして、ついに再び巡り合った。
俺は、泣きじゃくるアスナの背をそっと撫でながら、涙で揺れる視線を窓の外に向けた。一際勢いを増して舞い散る雪の向こうに、寄り添って立つふたつの人影が見えた気がした。
背に二本の剣を背負った、黒いコート姿の少年。
腰に銀の細剣を吊った、白地に赤の騎士装の少女。
二人は微笑み、手を繋ぐと、振り向いてゆっくりと遠ざかっていった。
(第四章 終)