空の頂に貼りついたまま微動だにしないと思われた太陽も、やがてゆっくりと傾き始めた。オベイロンが訪れてから現実世界で最低5時間は経過したと判断し、アスナはそっと体を起こした。多分向こうは真夜中過ぎだ。監視の目がないことを祈りながら、タイルの上に降り立つ。
十歩も進むと、すぐに金の扉の前に到達した。こんな狭い場所に二ヶ月もいたのだと思うと唖然とせざるを得ない。
でも、それも今日で終わり――。
心の中で呟いて、右手の指をドアの脇の金属板に伸ばした。何度も暗唱して心に刻み付けた数字の羅列を、ひとつひとつ口に出しながら再現していく。小さなボタンを押すたびにカチリという感触が届き、張り詰めた神経を震わせる。
「……3……10…………12」
祈りながら最後のひとつを押すと、果たして一際大きくカチーン! という音が響き、わずかに扉が開いた。思わず右腕を小さく曲げてぐっ! と拳を握り、それがキリトのよく見せていた動作だと気づいて笑いを浮かべる。
「キリトくん……わたし、がんばるからね」
かすかに呟くと、アスナは扉を押し開けた。その向こうには、細い道が刻まれた太い枝が曲がりくねりながら伸び、遥か彼方の巨木の幹まで続いている。鳥かごから一歩、二歩と踏み出すと、背後で扉が自動的に閉まる音がした。だがもう振り返らなかった。肩にかかった髪を払い、決然と胸を反らすと、アスナはかつてのように確かな歩調であるきはじめた。
ふと後ろを振り返ると、金の鳥篭は厚く重なった濃緑の木の葉に覆われてすでに見えなかった。
世界樹の長大な枝、その中ほどに立ち止まり、アスナはふう、と息をついた。感覚的にはすでに数百メートルも歩いている。まったく途方も無い大きさだ。
せっかちなオベイロンのことだから、ログアウトにシステムコンソールを使用しているなら鳥篭の外、そう遠くない場所に設置しているに違いないと思っていたがどうやらあてが外れたようだった。もし彼がSAOタイプのホロウインドウ、または音声オペレーションを使っているとすると、システムにアクセスするのはかなり難しくなる。
だからと言って、無論あの場所に戻るわけにはいかない。今はただ行けるところまで行くだけだ――。
アスナは唇を引き結ぶと、再び歩きはじめた。
枝の直径は、進むに従ってどんどん太くなっている。視線を下方に向けると、うっすらと広がる無限の雲海と、その奥にかすかに緑の山々や湖と思しき青い水面が見て取れる。
オベイロンの話では、あそこはもう通常のゲーム圏内で、数多のプレイヤーが日々冒険を繰り広げているということだった。もしここから飛び降りたらどうなるだろう、とふと考える。
須郷の息のかからない正規のGMに接触できれば――。それがだめでも一般のプレイヤーに、今この世界の裏側で進行している陰謀を伝えることができれば。
だがアスナはそっと頭を振って、その考えを払い落とした。あまりにも荒唐無稽なこの話をプレイヤーに説明し、納得してもらうのはほとんど不可能だろうし、そもそもこの恐ろしいまでの高さから地上に落下したら一体どうなるのか想像もつかない。
仮に、今のアスナにもHPがあり、落下によるダメージが発生し、死亡判定がなされたら。アスナはまだナーヴギアを被り、コピーとは言えSAOの延長線上にあるプログラム上に存在するわけで、あの茅場晶彦の定めた第一原則が適用されないとも限らないのだ。それだけは回避しなくてはならない。
わたしは絶対に生きて現実世界に帰る。
アスナは、心に刻み付けるようにゆっくりと頭の中で呟いた。生きて――
「キリト君に、もう一度出会う」
さらに数分をかけて歩くと、ようやく木の葉のカーテンの向こうに基幹と思われる巨大な壁が見えてきた。枝と幹が接合する部分にぽっかりと木のうろのような穴が黒く口を開け、小路はその中へと続いている。無意識のうちに足音を殺しながら、アスナはゆっくりとその穴へと近づいた。
目の前まで来てみると、入り口それ自体は自然の樹木を模してうねった楕円形だったが、その奥に明らかに人工物然とした長方形のドアがあるのがわかった。ノブに類するものはないが、その位置にタッチパネルのようなプレートが据えられている。ロックされていないことを祈りながら、そこに指先を触れさせる。
と、音もなくドアが右にスライドした。息を詰めてその奥に人の気配が無いのを確かめ、素早く体を滑り込ませる。
内部は、そのまま奥へと続く、オフホワイトの直線的な通路だった。薄暗く、所々オレンジ色の照明が無機質な壁面のパネルを照らしている。見事な樹木の造形美を見せていた外部の通路と違い、ここはオブジェクトを設計する手間を惜しんだかのようなのっぺりとした造りだ。剥き出しの足からひんやりとした冷気が伝わってくる。その感触に、いよいよ敵の牙城に侵入したのだ、という事実を容赦なく認識させられ、アスナは唇を噛み締めた。
須郷は、茅場とは別種の狂気に支配された男だ。企業の一員でありながら、その立場を利用して二千人の脳を虜囚とし、危険な人体実験に供するなど尋常な精神ではない。彼を動かすのは、飽くなき欲望そのものだ。常により多くを手に入れたいという底の無い餓えに支配されている。それは子供の頃から近くにいたアスナが一番よく知っている。
須郷は今、アスナの一部を手に入れ、やがて全てを手に入れることができると確信してある程度の満足を得ている。だがアスナが己を出し抜き、鳥篭からの脱出を試みたと知れれば怒り狂うに違いない。現状で可能な陵辱の限りを尽くし、その上で邪悪な研究の生贄として捧げることも厭わないだろう。そう思うと膝から力が抜けそうになる。
だがここで引き返し、鳥篭に戻れば、アスナは本当の意味で須郷に屈したことになる。もしキリトなら――、決してここで立ち止まりはしないだろう。たとえ手に剣は無くとも。
アスナはきっと背筋を伸ばすと、通路の先を見つめた。鉛のように重い足をどうにか動かして一歩踏み出す。一度歩き出すと、後はもう止まることはなかった。
通路は無限に続くとも思われた。上下左右のパネルには継ぎ目どころか目印ひとつなく、自分が本当に前進しているのかだんだんわからなくなってくる。たまに天井に現われるオレンジの光源だけを頼りにひたすら歩きつづけ、ついに正面に二枚目の扉が見えてきたときは思わずほっと息をついた。
扉は先程のものとまったく同じだった。再び、パネルに慎重に指先を触れさせる。無音でドアがスライドする。
その奥は、今度は左右に広がる、まったく同じような通路だった。げんなりしながらドアをくぐる。と、驚いたことに、数秒後自動で閉まったドアは、その瞬間何の痕跡も残さず壁面に溶け込んでしまった。慌ててあちこち触るが、開く様子はなかった。
アスナは肩をすくめると、ドアのことは忘れることにした。どうせ戻るつもりのない場所だ。顔を上げ、左右を眺める。
通路は、今度は直線ではなく、ゆるやかに円弧を描いているようだった。一瞬考えたあと、右方向へと歩き出した。
ひたひたと微かな足音を響かせながら、ひたすら進みつづける。またしても見当識が怪しくなりはじめ、ひょっとして円形の通路をぐるぐると何周も歩いているのではないかと思えだしてきた頃――とうとう壁以外のものがアスナの視界に入った。
カーブの内側、ライトグレーの壁に、何かポスターのようなものが貼られていた。思わず駆け寄ると、それはこの場所の案内図のようだった。食い入るように表示を眺める。
長方形のオブジェクトの上部には、味気ないフォントで『ラボラトリー全図 フロアC』と書かれている。その下に、簡単な絵図。どうやら現在位置は、真円形の通路が三階層に重なった、その最上部らしかった。
アスナが今いるフロアCには、円形の通路以外何もない。先程通ってきた鳥篭へと続く直線の通路も表示されていない。だが、下のフロアB、さらに下のフロアAには、円環通路の内側に様々な施設――『データ閲覧室』だの『主モニター室』だの『仮眠室』などというものまでがある。
フロア間の移動は、地図上で円環の頂点部分に表示されているエレベータで行うようだった。俯瞰で描かれた楕円形の三つのフロアを、一本の垂直線が繋ぎ――更にその下まで長く伸びている。
エレベータの直線を目で辿っていくと、一番下には長方形の広い部屋があるようだった。その上に記された文字を読んだ途端、アスナの背中を軽い悪寒が走った。『実験体格納室』、そこにはそう書かれていた。
「実験体……」
小さく呟いたその言葉は、アスナの口の中に苦い後味を残して消えていった。
ここが須郷の違法研究施設であるのは間違いないと思われた。確かに、研究の全てを仮想世界内で行えば、それを会社に隠蔽するのは容易いことだ。もし秘密が露見しそうになっても、指先ひとつで全てをまとめて消去でき、あとには紙一枚残らない。
そしてこの施設の目的を鑑みれば、「実験体」という単語の意味するものはただひとつだった。須郷に拉致された旧SAOプレイヤー……彼らの精神が、いかなる形によってか、案内図に示された格納室なる場所に囚われているのだ。
アスナはしばし黙考したあと、身を翻して湾曲した通路をふたたび歩きはじめた。早足で数分進むと、やがて通路の左手、外周側の壁に飾り気の無いスライドドアが現われた。そばの壁面にプレートが据えられており、小さな下向きの三角印が浮き上がっている。
一回深呼吸をしてから指先でそこに触れる。すると即座にドアがスライドし、直方体の小部屋が出現した。中に踏み込み、体を半回転させると、現実のエレベータにそっくりな操作盤が目に入る。
一瞬の逡巡のあと、アスナは並んだ四つのボタンのうち一番下ものを押した。ドアが閉まり――驚いたことにわずかな落下感覚が体を包んだ。アスナを乗せた小さな箱は、仮想の大樹の深部目指して音も無く突き進んでいった。
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キリトは照れたように笑った。
「ごめん、偉そうなこと言って。悪い癖なんだ」
リーファも両目をしばたき、笑顔を返した。
「ううん、嬉しかった。――じゃ、洞窟出たとこでお別れだね」
するとキリトは意外そうに眉を上げる。
「や、俺も一緒に行くよ、もちろん」
「え、え?」
「――しまった、時間無駄にしちゃったな。ユイ、走るからナビよろしく」
「りょーかいです!」
肩に乗った小妖精が頷くのを確認し、再びリーファに向かって、
「ちょっと手を拝借」
「え、あの――」
左手を伸ばし、あっけにとられるリーファの右手をぎゅっと掴むと――キリトはいきなり猛烈なスピードで駆け出した。空気の壁を突き破る衝撃音が鼓膜を叩いた。
今までもかなりのペースで走っていたつもりだったが、まるで比較にならない。あまりの速度に岩肌のテクスチャが放射状に溶け流されて見える。右手を引かれるリーファの体はほとんど水平に浮き上がり、キリトが洞窟の湾曲に沿ってコーナリングするたびに左右にぶんぶん振り回される。
「わあああああ」
たまらず悲鳴を上げつつ前方を凝視すると、通路の少し広くなった箇所に断続的に大量の黄色いカーソルが点滅するのが見えた。洞窟に巣食うオークの集団らしい。
「あの、あの、モンスターが」
叫ぶが、キリトはスピードを落とす気配も見せずオークの群に突っ込んでいく。右手を伸ばして背から巨剣を抜くと、体の前に突き出し――
その直後、密集しつつこちらに走り寄る敵集団に真正面から突入。
「わ――――――」
目蓋を閉じるひまもなく、バシャバシャバシャッ!! と音を立てて視界の上下左右で黄色い閃光が炸裂した。一撃でほぼ全てのモンスターが粉砕されたのだ、と悟ったときにはもう次の通路に飛び込んでいる。
その後も何度かモンスターにエンカウントしたが、キリトは足を止めることなく体当たりで蹴散らし続け、やがて前方に白い光が見えてきたときはリーファは半分目を回していた。
「おっ、出口かな」
キリトの言葉が耳に届いた直後、視界全てが真っ白に染まり、思わず両目をぎゅっと瞑る。
体を包んでいた轟音が一気に拡散したのに気づき、おそるおそる目蓋を開けると、そこはもう無限に広がる空の真ん中だった。どうやらキリトは、走る勢いを緩めず、山脈の中腹に開いた出口からカタパルトよろしく飛び出したらしい。二人は慣性に従って放物線を描きながら飛翔していく。
慌てて翅を広げ、滑空体勢に入ると、リーファは詰めていた息をいっぺんに吐き出した。
「ぶはっ!! ……ぜいぜいぜい」
荒い呼吸を繰り返しながら、傍らで背面飛行するキリトを睨みつける。
「――寿命が縮んだわよ!」
「わはは、時間短縮になったじゃないか」
「……ダンジョンっていうのはもっとこう……索敵に気を使いながら、モンスターをリンクさせないように……あれじゃ別のゲームだよ全く……」
ぶつぶつ文句を言ううちにようやく動悸が落ち着いてきて、リーファは改めて周囲を見回した。
眼下には広大な草原が広がり、所々に湖が青い水面をきらめかせている。それらを結ぶように蛇行する河が流れ、さらにその先には――
「あっ……」
リーファは思わず息を飲んだ。
雲海の彼方、おぼろに浮かぶ巨大な影。空を支える柱かと思うほどに太い幹が垂直に天地を貫き、上部には別の天体にも等しいスケールで枝葉が伸びている。
「あれが……世界樹か……」
隣で、キリトも畏怖にうたれたような声音で呟いた。
山脈を越えたばかりのこの地点からは、まだリアル距離置換で二十キロメートル近く隔たっているはずのその大樹は、すでに圧倒的な存在感で空の一角を占めていた。根元に立てばどれほどの光景となるのか想像もつかない。
二人はしばらく無言で世界樹を眺めていたが、やがてキリトが我に返り、言った。
「あ、こうしちゃいられない。リーファ、領主会談の場所ってのはどの辺りなんだ?」
「あっ、そうね。ええと、今抜けてきた山脈は、輪っかになって世界中央を囲んでるんだけど、そのうち三箇所に大きな切れ目があるの。サラマンダー領に向かう「竜の谷」、ウンディーネ領に向かう「虹の谷」、あとケットシー領につながる「蝶の谷」……。会談はその蝶の谷の、こっち側の出口で行われるらしいから……」
リーファはぐるりと視線をめぐらせると、北西の方角を指した。
「あっちにしばらく飛んだとこだと思う」
「了解。残り時間は?」
「――二十分」
「サラマンダーは、あっちからこっちへ移動するわけか……」
キリトは南東から北西へと指を動かした。
「俺たちより先行してるのかどうか微妙だな。ともかく急ぐしかないか。ユイ、サーチ圏内に大人数の反応があったら知らせてくれ」
「はい!」
こくりと頷き交わし、リーファとキリトは翅を鳴らして加速に入った。
「それにしても、モンスターを見かけないなあ?」
雲の塊を切り裂いて飛翔しながら、キリトが言った。
「あ、このアルン高原にはフィールド型モンスターはいないの。だから会談をわざわざこっち側でするんじゃないかな」
「なるほど、大事な話の最中にモンスターが湧いちゃ興醒めだしな……。でも、この場合はありがたくないな」
「どういうこと?」
するとキリトはニッと悪戯っぽく笑う。
「モンスターを山ほど引っ張っていって、サラマンダー部隊にぶつけてやろうと思ってたんだけどな」
「……よくそんなこと考えるわねえ。サラマンダーはさっき以上の大部隊らしいから、警告が間に合って全員でケットシー領に逃げ込めるか、もしくは揃って討ち死にか、どっちかだと思うよ」
「……」
キリトが思案顔で顎を撫でた、その時――。
「あっ、プレイヤー反応です!」
不意にユイが叫んだ。
「前方に大集団――六十八人、さらにその向こうに十四人。双方が接触するまであと五十秒です」
その言葉が終わると同時に、視界を遮っていた大きな雲の塊がさっと切れた。限界まで高度を取って飛んでいたリーファの眼下に、緑の高原がいっぱいに広がる。
その一角、低空を這うように飛ぶ無数の黒い影。五人ずつくさび型のフォーメーションを作り、それらが密集して飛行する様は、攻撃目標に音もなく忍び寄る不吉な戦闘機の群のようだ。
視線を彼らが向かう先へと振る。円形の小さな台地が見える。その上に、ぽつりと白く横たわるのは長テーブルだろうか。左右に七つずつの椅子が据えられ、即席の会議場といった案配だ。
椅子に座る者たちは、会話に夢中なのか、まだ迫り来る脅威に気づいていないようだった。
「――間に合わなかったね」
リーファは、傍らのキリトに向かってぽつりと言った。
今からでは、サラマンダー軍を追い越し、領主たちに警告しても、とても全員が逃げ切る余裕はない。それでも、討ち死にを覚悟で盾となり、領主だけでも逃がす努力をしなければならない。
右手を伸ばし、キリトの手をそっと握る。
「ありがとう、キリト君。ここまででいいよ。キミは世界樹に行って……短い間だったけど、楽しかった」
笑顔でそれだけ言い、ダイブに入ろうと翅を鋭角に畳んだとき、キリトが右手をぎゅっと握り返してきた。あわてて顔を見ると、いつもの不敵な笑みを浮かべ――
「ここで逃げ出すのは性分じゃないんでね」
手を離し、肩のユイを摘み上げて胸ポケットに放り込むと、翅を思い切り震わせて猛烈な加速を開始。バン! という衝撃音に顔を叩かれたリーファが一瞬目を閉じ、再び開けたときには、キリトはすでに台地目指して急角度のダイブに入っていた。
「ちょ……ちょっとぉ!! なによそれ!!」
少しだけ感傷的になりながら口にしたお別れの台詞を一瞬で台無しにされ、リーファは思わず抗議したが、キリトは振り返りもせずみるみる遠ざかっていく。アキレつつも慌てて後を追う。
目指す先では、シルフとケットシー達がようやく接近する大集団に気づいたようだった。次々に椅子を蹴り、銀光を煌かせながら抜刀するが、その姿は重武装の攻撃隊に比べあまりにも脆そうに見える。
草原を這うように飛んでいたサラマンダーの先頭部隊が、一気に高度を取り、ウサギを狙う猛禽のように長大なランスを構えてぴたりと静止した。後続の者たちも次々と左右に展開し、台地を半包囲する。殺戮の直前の静けさが一瞬、世界を包む。
サラマンダーの一人がさっと手を上げ――振り下ろそうとした、その瞬間。
対峙する両者の中央、台地の端に、巨大な土煙が上がった。一瞬遅れて、ドドーン! という爆音が大気を揺るがす。漆黒の隕石となったキリトが速度を緩めずに着地したのだ。
その場にいるすべての者が凍りついたように動きを止めた。薄れゆく土煙の中、ゆっくりと体を起こしたキリトは、仁王立ちになってぐるりとサラマンダー軍を睥睨した。胸を反らせ、一杯に息を吸い込んで――
「双方、剣を引け!!」
「うわっ!」
リーファはダイブしながら思わず首をすくめた。なんという馬鹿でかい声だろうか、先ほどの爆音の比ではない。まだ数十メートルも上空にいたリーファの体さえビリビリと震えた。まるで物理的圧力に晒されたかのごとくサラマンダーの半円が動揺し、わずかに後退る。
声もさることながら、あのクソ度胸には呆れるほかない。一体なにをどうするつもりなのか、見当もつかない。
リーファは背中に冷や汗が伝うような感覚を味わいながら、キリトの背後、シルフと思しき緑衣の集団の傍らにすとんと着陸した。見渡すと、すぐに特徴的な衣装の人物が見つかる。
「サクヤ」
声をかけると、そのシルフは呆然とした表情で振り向き、更に目を丸くした。
「リーファ!? どうしてここに――!? い、いや、そもそもこれは一体――」
彼女がこんなに取り乱すところは初めて見たなあ、と思いながら、リーファは口を開いた。
「簡単には説明できないのよ。ひとつ言えるのは、あたし達の運命はあの人次第、ってことだわ」
「……何がなにやら……」
シルフは再び、こちらに背を向けて屹立する黒衣の人影に目をやる。その心中を思いやりながら、リーファは改めてサクヤ――現シルフ領主の姿を見やった。
女性シルフにしては秀でた長身、黒に近いダークグリーンの艶やかな直毛を背に長く垂らし、その先を一直線にぴしりと切りそろえている。肌は抜けるように白く、切れ長の目、高い鼻筋、薄く小さな唇という美貌は刃のような、という形容詞が相応しい。
身にまとうのは、前合わせの和風の長衣。帯に無造作に差してあるのは、リーファの持つ長刀よりもさらに二寸ほども長い大太刀だ。裾から覗く真っ白な素足に、深紅の高下駄を突っ掛けている。一目見れば忘れられないその姿は、領主選挙での得票率が八割に近いのも頷けるほど印象深い。
もちろん、その得票の全てが美貌によるものではない。領主ゆえに数値的ステータスは高いとは言えないが、デュエル大会では常に決勝に進むほどの剣の達人であり、公正な人柄で人望も篤い。
視線を動かすと、その隣に立つ小柄な女性プレイヤーの姿が目に入った。
とうもろこし色に輝くウェーブヘア、その両脇から突き出た三角形の大きな耳はケットシーの証だ。小麦色の肌を大胆に晒し、身にまとうのはワンピースの水着に似た戦闘スーツ。その両腰に、巨大な三本のツメが突き出たクロー系の武器を装備している。スーツのお尻の部分からは縞模様の長いシッポが伸び、本人の緊張を映してかぴくぴくと震えている。
横顔は、まつげの長い大きな目、ちょっとだけ丸く小さな鼻、多少愛嬌のありすぎるきらいはあるがこちらもALO基準に照らせば驚くほどの美少女振りだ。直接まみえるのは初めてだが、彼女がケットシー領主のアリシャ・ルーだろう。サクヤと同じく圧倒的な人気で長期の政権を維持している。
並んで立つ二領主の後ろをちらりと見回すと、シルフとケットシーが六人ずつ、揃って呆然とした顔で立ち尽くしていた。無論ケットシーは全員初めて見る顔ばかりだが、シルフは執政部の有力プレイヤーばかりだ。念のため確認したが、やはりシグルドの姿はない。
改めて視線をサラマンダー部隊に向けたとき、再びキリトが叫んだ。
「指揮官に話がある!」
あまりにふてぶてしい声と態度に圧倒されたかのようにサラマンダーのランス隊の輪が割れた。空に開いたその道を、一人の大柄な戦士が進み出てくるのが見えた。
炎の色の髪を剣山のようにつんつんと逆立て、浅黒い肌に猛禽に似た鋭い顔立ち。逞しい体を、ひと目で超レアアイテムと知れる赤銅色のアーマーに包み、背にはキリトのものに優るとも劣らぬ巨剣を装備している。
深紅に光るその双眸を見た瞬間、リーファの背にぞくりという寒気が走った。対峙したわけでもないのにこれ程の恐怖を感じたプレイヤーは初めてだった。
ガシャッと音をさせてキリトの前に着地した戦士は、無表情のまま小柄な黒衣の少年を高い位置から睥睨した。やがてその口が開き、錆びているがよく通る声が流れた。
「――スプリガンがこんなところで何をしている。どちらにせよ殺すには変わりないが、その度胸に免じて話だけは聞いてやろう」
キリトは臆するふうもなく、大声で答えた。
「俺の名はキリト。スプリガン=ウンディーネ同盟の大使だ。この場を襲うからには、我々四種族との全面戦争を望むと解釈していいんだな?」
(――うわぁ……)
リーファは絶句した。何たるムチャクチャか――ハッタリをかますにも程がある。今度こそ錯覚でなく背中を冷や汗がだらだらと流れる。愕然とした顔でこちらに視線を向けるサクヤとアリシャ・ルーに向かって必死のウインク。
サラマンダーの指揮官も、さすがに驚いたようだった。
「ウンディーネとスプリガンが同盟だと……?」
だがすぐにその表情は元に戻る。
「……護衛の一人もいない貴様がその大使だと言うのか」
「ああ、そうだ。この場にはシルフ・ケットシーとの貿易交渉に来ただけだからな。だが会談が襲われたとなればそれだけじゃすまないぞ。四国の軍事同盟を結んでサラマンダーに対抗することになるだろう」
しばしの沈黙が世界を覆った。――やがて、
「たった一人、たいした装備も持たない貴様の言葉を、にわかに信じるわけにはいかないな」
サラマンダーは突然背に手を回すと、巨大な両刃直剣を音高く抜き放った。暗い赤に輝く刀身に、絡み合う二匹の龍の象嵌が見て取れる。
「――オレの攻撃を十秒耐え切ったら、貴様を大使と信じてやろう」
「ずいぶん気前がいいね」
飄々とした声で言うと、キリトも背から方刃の巨剣を抜いた。こちらは鈍い鉄色、装飾のたぐいは一切ない。
翅を震動させて浮き上がり、サラマンダーと同じ高度でホバリングする。瞬間、両者の間で圧縮された闘気が白くスパークしたような気がした。
(十秒……)
リーファはごくりと喉を鳴らした。
キリトの実力からすれば、余裕のある条件とも思える。だがあのサラマンダー指揮官の発する殺気もただごとではない。
緊迫した空気の中、隣に立つサクヤが低く囁いた。
「まずいな……」
「え……?」
「サラマンダーの両手剣、レジェンダリーウェポンの紹介サイトで見たことがある。あの男は多分『ユージーン』だ……知ってるか?」
「……な、名前くらいは……」
息を飲むリーファに向かって軽くうなずくと、サクヤは言葉を続けた。
「サラマンダー領主『モーティマー』の弟……リアルでも兄弟らしいがな。知の兄に対して武の弟、純粋な戦闘力ではユージーンのほうが上だと言われている。サラマンダー最強の戦士……ということはつまり……」
「全プレイヤー中最強……?」
「ってことになるな……。とんでもないのが出てきたもんだ」
「……キリト君……」
リーファは両手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
対峙する二戦士は、相手の実力を計るかのように長い間睨み合っていた。高原の上を低く流れる雲が、傾き始めた日差しを遮って幾筋もの光の柱を作り出している。そのひとつがサラマンダーの剣に当たり、まばゆく反射した、その瞬間。
予備動作ひとつなくユージーンが動いた。
びぃん! と空気を鳴らして、超高速の突進をかける。右に大きく振りかぶった大剣が宙に紅い弧を描き、小柄なスプリガンに襲い掛かる。
だがキリトの反応も流石の速さだった。無駄の無い動作で頭上に巨剣を掲げ、翅を広げて迎撃態勢に。敵の剣を受け流し、カウンターの一撃を叩き込むつもりか――とリーファが見て取った、その直後。
「――!?」
キリトに向かって振り下ろされる赤い剣は、黒い剣に衝突するその瞬間、刀身をおぼろに霞ませた。そのままキリトの剣を透過し、再び実体化。
ダガァァァァン!! という爆音が世界を揺らした。キリトの胸の中央に炸裂した斬撃は巨大なエフェクトフラッシュを爆発させ、黒衣の姿は暴風の中の木の葉のように叩き落されて一直線に地面に突き刺さった。再び轟音、そして土煙。
「な……いまのは!?」
絶句するリーファに答えたのはアリシャ・ルーだった。
「あの剣は伝説武器のひとつ、『フェイズシフター』だヨ! 剣や盾で受けようとしても擦り抜けてくる厄介なEX効果があるんだヨ」
「そ、そんな……」
慌ててキリトのHPバーを確認しようと目を凝らす。だが、カーソル照準を合わせる間もなく、土煙の中から矢のように飛び出す影があった。ホバリングするユージーンめがけて一直線に突進していく。
「ほう……よく生きていたな!」
うそぶくサラマンダーに向かってキリトは、
「なんだよさっきの攻撃は!」
お返しとばかりに巨剣を叩きつける。
ガン、ガァン! と撃剣の音が立て続けに響いた。武器の性能に負ぶさっているだけの戦士ではないらしく、リーファの眼にも捉えきれないほどのキリトの連続攻撃を、ユージーンは的確に両手剣で弾き返していく。
そして、連撃にわずかな間が空いた、その瞬間。
再びフェイズシフターが牙を剥いた。横薙ぎに払われる剣を、キリトが反射的に己の剣で受けようとする。しかし、先ほどと同じように刀身が霞み、直後、キリトの腹に深々と食い込んだ。
「ぐはぁぁっ!!」
肺の中の空気を全て吐き出すような声を上げながら、今度は宙をくるくると吹き飛ばされる。翅を一杯に広げてブレーキをかけ、どうにか踏みとどまる。
「……効くなぁ……。おい、もう十秒経ってんじゃないのかよ!」
わめくキリトに向かって不敵に笑うユージーン。
「悪いな、やっぱり斬りたくなった。首を取るまでに変更だ」
「この野郎……。絶対泣かせてやる」
キリトは巨剣を構えなおすが、残念ながらもう勝負の行方は見えたも同然と思えた。
フェイズシフターの攻撃を防ぐには、パリィに頼らずすべてを避けるしかない。だが剣同士の高速近接戦闘においてそれはほとんど不可能だ。
ユージーンが翅から赤い光の帯を引いてスラストをかける。その攻撃を、キリトがランダム飛行で危なっかしく回避していく。
絡み合う二本の飛行軌跡が空に複雑な模様を描き、時々パパッとエフェクトの光塵を散らしてはまた離れる。視線を合わせると、キリトのHPバーは二度の被弾によって半分以上減少している。先刻、あれほどの多重魔法攻撃を耐え切ったキリトのHPを容易く削り取るとは、ユージーンの攻撃力も只事ではない。
と――、不意にキリトが振り返り、右手を突き出した。いつの間にスペルワードを詠唱していたのか、その手が「黒く」輝き――
ボン、ボボボボン! と二人の周囲に立て続けに真っ黒な煙がいくつも爆発した。それらはたちまちモクモクと広がっていき、空域を覆い尽くす。
黒雲は地上のリーファたちの頭上にも及び、さぁっと周囲が薄暗くなった。みるみる悪くなっていく視界のなか、必死に眼を凝らしてキリトの姿を捜そうとする。
「リーファ、ちょっと借りるぜ」
「わっ!?」
突然、耳もとでささやき声がした。同時に、腰の鞘から愛刀が抜かれる感触。
「き、キリト君!?」
慌てて振り向くが、すでにそこには誰の姿もない。だが、いつの間にか鞘は空っぽになっていた。
「時間稼ぎのつもりかァ!!」
厚い煙の中央からユージーンの叫びが響き渡った。次いで、スペルの詠唱が耳に届く。
すぱっ! と、幾つもの赤い光の帯が放射状にほとばしり、黒煙を切り裂いた。ディスペル系の呪文なのだろう、煙がたちまち薄れ、世界は光を取り戻す。
空の一角に、赤い大剣を携えて浮かぶユージーンの姿。見回すと、すぐに同高度でホバリングする黒衣の姿が目に入る。右手にくろがねの巨剣を担ぎ、そして左手には――白銀に煌くリーファの長刀――。
「な……!?」
キリトの意図がつかめず、リーファは目と口をぽかんと開けた。
二刀装備――、概念としては目新しいものではない。握った「武器」が一定以上の「速度」で敵の身体に命中すればダメージが入るというALOのシンプルな戦闘システムゆえに、片手用武器を二本持てば二倍強くなるのではないかと考えたものは以前にもいた。
だが、人間の脳というのは意外に不器用なものだ。
例えば、現実世界で左右の手にペンを握り、別々の字を書くのはよほどの訓練を積まなければ不可能だ。交互にペン先を動かすことはできても、同時に操ることは至難と言ってよい。
そして、アミュスフィアによるI/Oのワンクッションが入るダイレクトVRワールドでは、その脳の「不器用さ」は激しく増幅される。両手でひもを結ぶことすら非常な困難をともなう程なのだ。
二刀を装備し、左の剣で防御したあと、右の剣で攻撃――といった使い方なら可能だろう。しかしそれなら盾を使えばいいし、リーファに言わせれば両手剣でより大きなダメージを狙ったほうが更によい。
つまるところ、二本の剣を効果的に連携させるのは不可能なのだ。ALO初心者のキリトはそれを知らないのだろうか――?
ユージーンも口元に呆れたような苦笑を滲ませた。もう小技は不要と見てか、フェイズシフターを真っ向正面に振りかぶる。
「ドアアアァァァ!」
天地を揺るがす気合と共にサラマンダーの真骨頂である重突進。
必殺の威力をはらんだ不可避の斬撃がキリトの頭上に降りかかる。
「ぬん!」
キリトも右手の巨剣で迎撃態勢に。だが、当然のように赤の剣はその身を霧と変え、音もなく障害をすり抜ける。一瞬で実体を取り戻し、キリトの首筋へと――
炸裂したエフェクト光は、まばゆい銀色だった。
耳をつんざく金属音とともに、受け流されたフェイズシフターが宙を泳いだ。
キリトは、右の剣を掲げると同時に、わずかに時間差をつけて左手に握ったリーファの剣を跳ね上げていたのだ。
全力突進をいなされたユージーンの体勢が大きく崩れる。そこに間髪入れずキリトの右手の巨剣がカウンターの突きとなって――
ドッ! という重い音を立て、サラマンダーの体を貫いた。
「ぐあっ!!」
キリトの神速の突きと、ユージーン自身の突進のスピードが相乗効果となって、そのダメージは凄まじいものとなった。HPバーが一瞬でレッドゾーンに突入する。だがキリトは攻撃の手を緩めることなく、串刺しとなったユージーンの体を高々と持ち上げると――
左手に握ったリーファの長刀を一直線に薙いだ。一瞬、真紅のアーマーをまとった美丈夫の首と胴がわずかに分断され、
「…………!!」
驚愕の表情を張り付かせたその姿は、巨大なエンドフレイムを巻き上げてあっけなく燃え崩れた。
誰一人、身動きするものはいなかった。
シルフも、ケットシーも、五十人以上のサラマンダー攻撃部隊も、魂を抜かれたように凍りついていた。
それほどまでに、ハイレベルな戦闘だったのだ。
通常、ALOの戦闘は、近接ならば不恰好に武器を振り回し、遠距離ならば芸も無く魔法をぶつけ合うのがスタンダードだ。防御や回避といった高等技術を使えるのは一握りの熟練プレイヤーだけで、「見映えのする」戦闘などというものはデュエル大会の上位戦でもなければお目にかかることはできない。
だが今の、キリトとユージーンの戦闘は明らかにそれ以上だった。
流れるような剣舞、空を裂く高速エアレイド、そして何より「フェイズシフター」の度肝を抜くEXアタックと、それを打ち砕いたキリトの「二刀流」――。
最初に沈黙を破ったのはサクヤだった。
「見事、見事!!」
張りのある声で言い、両手を高らかに打ち鳴らす。
「すごーい! ナイスファイトだヨ!」
アリシャ・ルーがそれに続き、すぐに背後の十二人も加わった。盛大な拍手に混じって、口笛を鳴らすわ「ブラヴォー」などと叫ぶわ大変な騒ぎだ。
リーファはハラハラしながらサラマンダー達の様子を見やった。指揮官が討たれた上にこの有様ではさぞかし心中穏やかではあるまい――と思ったのだが。
驚いたことに、拍手の波はまたたくまにサラマンダー軍にも伝染していった。割れんばかりの歓声を上げ、長大なランスを立てて旗のように振りまわす。
「わぁ……!」
リーファは思わず笑顔を浮かべた。
今まで、敵――無法な強奪者としか見ていなかったサラマンダー達も、やはりそれ以前に同じALOプレイヤーだったのだ。彼らの心をも揺さぶるほどに、キリトとユージーンのデュエルが素晴らしかったということか。
不思議な感動にとらわれながら、リーファも一生懸命両手を叩いた。
歓声の輪の中央で、立役者となったキリトは相も変らぬ飄々とした笑みを浮かべ、巨剣を背に戻すと右手を上げた。
「や、どーもどーも!」
気障な仕草で四方にくるりと一礼すると、リーファたちの方に向かって叫ぶ。
「誰か、蘇生魔法頼む!」
「わかった」
頷くと、サクヤがすっと浮き上がった。着流しの裾をはためかせながら、ふわふわ漂うユージーンの残り火の傍まで上昇し、スペルワードの詠唱を開始する。
やがてサクヤの両手から青い光がほとばしり、赤い炎を包み込んだ。複雑な形状の立体魔方陣が展開し、その中央で残り火は徐々に人の形を取り戻していく。
最後に一際まばゆく閃光を発すると魔方陣は消滅した。キリトとサクヤ、そして蘇生したユージーンは無言のまま舞い降り、台地の端に降り立った。再び周囲を静寂が包む。
「――見事な腕だな。俺が今まで見たなかで最強のプレイヤーだ、貴様は」
静かな声でユージーンが言った。
「そりゃどうも」
短くキリトが応じる。
「貴様のような男がスプリガンにいたとはな……。世界は広いということかな」
「俺の話、信じてもらえるかな?」
「……」
ユージーンは目を細め、一瞬沈黙した。その時――
台地を取り囲むサラマンダー部隊前衛の槍隊から、一人のプレイヤーが降下してきた。ガシャリと鎧を鳴らして着陸し、左手で尖った面頬を跳ね上げる。
無骨な顔つきのその男は、ユージーンに歩み寄りながら口を開いた。
「ジンさん」
「カゲムネか、何だ?」
どこかで聞いた名前だな――とリーファは一瞬首を捻り、すぐに思い出した。地底湖で襲ってきたメイジ部隊の生き残りが口にしていた名前だ――ということは、昨日キリトと初めて出会ったとき、古森で剣を交えたサラマンダーパーティーの隊長である。
「昨日、俺のパーティーが全滅させられた話をしたじゃないスか」
カゲムネがまさにその話をしているのに気付き、リーファは固唾を飲んで耳を澄ませた。
「ああ」
「その相手が、まさにこのスプリガンなんですが――確かに、ウンディーネが何人か一緒でした」
「!?」
リーファは唖然としてカゲムネの横顔を見つめた。キリトも一瞬眉をぴくりと動かしたが、すぐにポーカーフェイスに戻る。カゲムネの言葉は続く。
「それに、エスの情報でメイジ隊が追ってたのもこの男ですよ、確か。どうやら全滅したようですが」
エス、というのはスパイを指す隠語だ。あるいは、そのままシグルドの頭文字なのだろうか。
ユージーンは首を傾け、カゲムネの顔を見た。周囲の者の大半にとってはチンプンカンプンな話だろうが、リーファは手に汗握る思いで話の行方を見守った。
やがて――ユージーンは軽く頷くと、言った。
「そうか」
軽い笑みを浮かべ、
「……そういうことにしておこう」
次いでキリトに向き直り、言う。
「確かに現状でスプリガン、ウンディーネを事を構えるつもりは俺にもモーティマーにも無い。この場は引こう。――だが貴様とはいずれもう一度戦うぞ」
「望むところだ」
キリトの差し出した右拳に、ゴツンと己の拳を打ち付けると、ユージーンは身を翻した。翅を広げ、地を蹴る。
それに続いて飛び立とうとしたカゲムネは、一瞬リーファの顔を見ると、ニッと笑いながら不器用に右目をつぶった。借りは返した――とでも言うつもりだろうか。リーファも右頬にかすかな笑みを浮かべる。
翅を鳴らして二人が飛び去ると、リーファは胸の奥に溜めていた息を大きく吐き出した。
地上に残された者たちが見守るなか、サラマンダーの大軍勢は一糸乱れぬ動作で隊列を組みなおすと、ユージーンとカゲムネを先頭に鈍い翅音の重奏を残してたちまち遠ざかっていった。無数の黒い影はすぐに雲に飲み込まれ、薄れ、やがて完全に消え去った。
ふたたび訪れた静けさの中、キリトが笑いを含んだ声で呟いた。
「……サラマンダーにも話のわかる奴がいるじゃないか」
リーファは何をどう言っていいかわからず――おなかの奥底から浮かんできた言葉をそのまま口にした。
「……あんたって、ムチャクチャだわ」
「よく言われるよ」
「……ふふふ」
笑い合う二人に、サクヤが咳払いをひとつしてから声をかけた。
「すまんが……状況を説明してもらえると助かる」
一部は憶測なんだけど、と断ってリーファは事の成り行きを説明した。サクヤ、アリシャ・ルーをはじめとする両種族の執政者たちは鎧の音ひとつ立てず長い話に聞き入っていたが、リーファが説明を終えて口を閉じるとそろって深いため息に似た音を洩らした。
「……なるほどな」
両腕を組み、艶麗な眉のアーチをかすかにしかめながら、サクヤが頷いた。
「ここ何ヶ月か、シグルドの態度に深い苛立ちのようなものが潜んでいるのは私も感じていた。だが、独裁者と見られるのを恐れ合議制に拘るあまり彼を要職の座に置きつづけてしまった……」
「サクヤちゃんは人気者だからねー、辛いところだヨねー」
サクヤ以上の単独長期政権を維持しているアリシャ・ルーが、自分のことを棚にあげて深々と頷く。
「苛立ち……何に対して……?」
いまだシグルドの心理が理解できないリーファが呟くと、サクヤは視線を遠い稜線に向けながら答えた。
「多分……彼には許せなかったのだろうな。勢力的にサラマンダーの後塵を拝しているこの状況が」
「…………」
「シグルドはパワー志向の男だからな。キャラクターの数値的能力だけでなく、プレイヤーとしての権力をも深く求めていた……。ゆえに、サラマンダーがグランド・クエストを達成してアルヴヘイムの空を支配し、おのれはそれを地上から見上げるという未来図は許せなかったのだろう」
「……でも、だからって、なんでサラマンダーのスパイなんか……」
「もうすぐ導入される『アップデート13』の話は聞いているか? ついに『転生システム』が実装されるという噂がある」
「あっ……じゃあ……」
「モーティマーに乗せられたんだろうな。領主の首を差し出せばサラマンダーに転生させてやると。だが転生には膨大な額のユルドが必要となるらしいからな……。冷酷なモーティマーが約束を履行したかどうかは怪しいところだな」
「…………」
リーファは複雑な心境で、金色に染まりつつある空と、その彼方に霞む世界樹を見やった。
アルフに生まれ変わり、飛行制限の頚木から脱するのはリーファの夢でもある。そのために、シルフ一の実力と噂されるシグルドのパーティーに参加し、熱心に狩りをこなして、稼いだユルドのほとんどを執政部に上納してきた。
仮に、キリトと出会いパーティーを脱退した経緯がなければ、シグルドの口ぶりからして彼はおそらくリーファをサラマンダー転生計画に誘っただろう。そうなった場合、自分はどうしただろうか……。
「まったく、プレイヤーの欲を量る陰険なゲームだな、ALOって」
不意に、苦笑のにじむ落ち着いた声で傍らのキリトが言った。
「設計者は嫌な性格してるに違いないぜ」
「ふ、ふ、まったくだ」
サクヤも笑みで応じる。
リーファは、何となく自分の心を少しばかり立て掛けたくなって、キリトの左腕に自分の腕を絡めると体重を預けた。どのような状況に至ってもまるで動じないように見えるキリトにぴったり接していると、揺れる気持ちがほっと落ち着くような気がする。
「それで……どうするの? サクヤ」
訊ねると、美貌の為政者は笑みを消し、一瞬目蓋を閉じた。すぐに開いた双眸は冴え冴えとした光を放っている。
「ルー、あんた闇魔法上げてたよね?」
サクヤの言葉に、アリシャ・ルーは大きな耳をぱたぱた動かして肯定の意を表す。
「じゃあ、シグルドに『月光鏡』を頼む」
「いいけど、まだ夜じゃないからあんまり長くもたないヨ」
「構わない、すぐ終わる」
もう一度耳をぴこっと動かし、アリシャ・ルーは一歩下がると両手を掲げて詠唱を開始した。
耳慣れない韻律を持つ闇属性魔法のスペルワードが、高く澄んだアリシャの声に乗って流れる。たちまち周囲がにわかに暗くなり、どこからともなく一筋の月光がさっと降り注いだ。
光の筋は、アリシャの前に金色の液体のように溜まっていき、やがて完全な円形の鏡を作り出した。周囲の者が声も無く見守るなか、その表面がゆらりと波打って――にじむようにどこかの風景を映し出した。
「あ……」
リーファはかすかに吐息を洩らした。鏡に映っているのは、何度か訪れたことのある、領主館の執政室だった。
正面に、巨大な翡翠の机が見える。その向こうで領主の玉座に身体を沈ませ、卓上にどかっと両足を投げ出している人物がいた。目を閉じ、頭の後ろで両手を組むその男は間違いなくシグルドだ。
サクヤは鏡の前に進み出ると、琴のように張りのある声で呼ばわった。
「シグルド」
その途端、鏡の中のシグルドはぱちりと目を開き、バネ仕掛けのごとく跳ね起きた。同じく鏡の中のサクヤと真っ直ぐに目を合わせてしまったのだろう、唇をゆがめてビクリと身体を竦ませる。
「サ……サクヤ……!?」
「ああ、そうだ。残念ながらまだ生きている」
サクヤは淡々と応えた。
「なぜ……いや……か、会談は……?」
「無事に終わりそうだ。条約の調印はこれからだがな。そうそう、予期せぬ来客があったぞ」
「き、客……?」
「ユージーン将軍が君によろしくと言っていた」
「な……」
今度こそ、シグルドは大いなる驚愕に見舞われたようだった。剛毅に整った顔がみるみる蒼白になる。言葉を探すかのように瞳をキョロキョロと動かし――その視線が、サクヤの背後のリーファとキリトを捉えた。
「リー……!?」
一瞬、飛び出すほどに見開かれたその目は、ついに状況を悟ったようだった。鼻筋に深くシワを寄せ、猛々しく歯を剥き出す。
「……無能な赤トカゲどもめ……。で……? どうする気だ、サクヤ? 懲罰金か? 執政部から追い出すか? だがな、軍務を預かる俺が居なければお前の政権だって……」
「いや、シルフでいるのが耐えられないならその望みを叶えてやることにした」
「な、なに……?」
サクヤが優美な動作で右手を振ると、領主専用の巨大なシステムメニューが出現した。無数のウインドウが階層をなし、光の六角柱を作り出している。一枚のタブを引っ張り出し、素早く指を走らせる。
鏡の中のシグルドの眼前に、青いメッセージウインドウが出現するのが見えた。それに目を走らせたシグルドが、血相を変えて立ち上がった。
「貴様ッ……! 正気か……!? 俺を……この俺を、追放するだと……!?」
「そうだ。レネゲイドとして中立域を彷徨え。いずれそこにも新たな楽しみが見つかることを祈っている」
「う……訴えるぞ! 権力の不当行使でGMに訴えてやる!!」
「好きにしろ。……さらばだ、シグルド」
シグルドは拳を握り、さらに何事かを喚きたてようとした。だがサクヤが指先でタブに触れると同時に、鏡の中からその姿が音もなく掻き消えた。シルフ領を追放され、アルンを除くどこかの中立都市にランダム転送されたのだ。
金色の鏡は、しばらく無人となった執政室を映していたが、やがてその表面が波打ったと思うとはかない金属音を立てて砕け散った。同時に周囲を再び夕陽の光が照らし出した。
「……サクヤ……」
再び静寂が訪れても眉根を深く寄せたままのサクヤの心中を慮って、リーファはそっと声をかけた。
美貌の為政者は、右手を振ってシステムメニューを消去すると、吐息交じりの笑みを浮かべた。
「……私の判断が間違っていたのか、正しかったのかは次の領主投票で問われるだろう。ともかく――礼を言うよ、リーファ。執政部への参加を頑なに拒みつづけた君が救援に来てくれたのはとても嬉しい」
照れ隠しに肩をすくめると、リーファは傍らの少年を視線で示した。
「あたしは何もしてないもの。お礼ならこのキリト君にどうぞ」
「そうだ、そう言えば……君は一体……」
並んだサクヤとアリシャ・ルーが、あらためて疑問符を浮かべながらキリトの顔をまじまじと覗き込む。
「ねェ、キミ、スプリガンとウンディーネの大使……ってほんとなの?」
好奇心の表現か、立てたシッポをゆらゆらさせながらアリシャが言った。キリトは右手を腰にあて、胸を張って答える。
「勿論大嘘だ。ブラフ、ハッタリ、ネゴシエーション」
「な――……」
二人はがくんと口を開け、絶句。
「……無茶な男だな。あの状況でそんな大法螺を吹くとは……」
「手札がショボい時はとりあえず掛け金をレイズする主義なんだ」
悪びれずにうそぶくキリト。それを聞いたアリシャ・ルーは突然ニィッと、いかにも猫科といったいたずらっぽい笑みを浮かべると、数歩進み出てキリトの顔を至近距離から覗き込んだ。
「――おーうそつきさんにしてはキミ、ずいぶん強いネ? 知ってる? さっきのユージーンくんはALO最強って言われてるんだヨ。それに正面から勝っちゃうなんて……スプリガンの秘密兵器、だったりするのかな?」
「まさか。しがない流しの用心棒――ってところかな」
「ぷっ。にゃはははは」
あくまで人を食ったキリトの答えにひとしきり笑うと、いきなりアリシャはひょいっとキリトの右腕を取って胸に抱いた。ナナメ下方からコケティッシュな流し目に乗せて、
「フリーなら、キミ――ケットシー領で傭兵やらない? 三食おやつに昼寝つきだヨ」
「なっ……」
リーファは思わず口もとをピキッとひきつらせた。だが割り込む隙を見つけるより早く――
「おいおいルー、抜け駆けはよくないぞ」
とサクヤの、心なしかいつもより艶っぽい声。
「彼はもともとシルフの救援に来たんだから優先交渉権はこっちにあると思うな。キリト君と言ったかな――どうかな、個人的興味もあるので礼も兼ねてこの後スイルベーンで酒でも……」
ピキピキッ。とさらにこめかみまでもひきつる。
「あーっ、ずるいヨ、サクヤちゃん。色仕掛けはんたーい」
「人のこと言えた義理か! 密着しすぎだお前は!」
美人領主二人に左右からぴたっと挟まれて、キリトは困った様子ながら顔を赤くしてまんざらでもなさそうな……。
と思ったときには、リーファは後ろからキリトの服をぐいっと引っ張って叫んでいた。
「だめです! キリト君はあたしの……」
三人がひょいっと振り向いて、リーファの顔を見る。我に返ると同時に言葉に詰まった。
「ええと……あ、あたしの……」
適切な台詞が出てこずしどろもどろになっていると、キリトが軽い笑みを滲ませながら口を開いた。
「お言葉はありがたいんですが――すみません、俺は彼女に中央まで連れて行ってもらう約束をしているんです」
「ほう……そうか、それは残念」
いつも心の底は覗かせないサクヤだが、今度ばかりは本当に残念そうに言うと、リーファに視線を向けてきた。
「アルンに行くのか、リーファ。物見遊山か? それとも……」
「領地を出る――つもりだったけどね。でも、いつになるか分らないけど、きっとスイルベーンに帰るわ」
「そうか。ほっとしたよ。必ず戻ってきてくれよ――彼と一緒にな」
「途中でウチにも寄ってね。大歓迎するヨー」
二領主はキリトから離れると、表情を改めた。サクヤは右手を胸に当てて優美に上体を傾け、アリシャはふかぶかと頭を下げて耳をぺたんと倒す動作でそれぞれ一礼する。顔を上げたサクヤが言った。
「――今回は本当にありがとう、リーファ、キリト君。私達が討たれていたらサラマンダーとの格差は決定的なものになっていただろう。何か礼をしたいが……」
「いや、そんな……」
困ったように頭をかくキリトの姿を見て、リーファははっと思いつくことがあった。一歩進み出て、言う。
「ねえ、サクヤ――アリシャさん。今度の同盟って、世界樹攻略のためなんでしょ?」
「ああ、まあ――究極的にはな。二種族共同で世界樹に挑み、双方ともにアルフとなれればそれで良し、片方だけなら次のグランドクエストも協力してクリアする……というのが骨子だが」
「その攻略に、わたしたちも同行させて欲しいの。それも、可能な限り早く」
サクヤとアリシャ・ルーは顔を見合わせる。
「……同行は構わない、と言うよりこちらから頼みたいほどだよ。時期的なことはまだ何とも言えないが……しかし、なぜ?」
「……」
ちらりとキリトを見る。謎の多いスプリガンの少年は、一瞬瞳を伏せると、言った。
「俺がこの世界に来たのは、世界樹の上に行きたいからなんだ。そこにいるかもしれない、ある人に会うために……」
「人? 妖精王オベイロンのことか?」
「いや、違う――と思う。リアルで連絡が取れないんだけど……どうしても会わなきゃいけないんだ」
「へえェ、世界樹の上ってことは運営サイドの人? なんだかミステリアスな話だネ?」
興味を引かれたらしく、アリシャ・ルーが大きな目をきらきらさせながら言う。だがすぐに耳とシッポを力なく伏せ、申し訳なさそうに、
「でも……攻略メンバー全員の装備を整えるのに、しばらくかかると思うんだヨ……。とても一日や二日じゃあ……」
「そうか……そうだよな。いや、俺もとりあえず樹の根元まで行くのが目的だから……あとは何とかするよ」
キリトは小さく笑うと、「あ、そうだ」と何かを思いついたかのように右手を振った。出現したウインドウを手早く操り、かなり大きな革袋をオブジェクト化させる。
「これ、資金の足しにしてくれ」
言って差し出した袋は、じゃらりと重そうな音からしてユルドが詰まっているようだった。受け取ったアリシャは一瞬ふらついたあと慌てて両手で袋を抱えなおし、ちらりと中を覗き込んで――目を丸くした。
「さ、サクヤちゃん、これ……」
「ん……?」
サクヤは首を傾げ、右手の指先を袋に差し込む。つまみ出したのは、青白く輝く大きなコインだった。
「うぁっ……」
それを見た途端、リーファは思わず声を洩らした。二領主は口を開けて凍りつき、背後で事のなりゆきを見守っていた十二人の側近たちからも大きなざわめきが漏れる。
「……10万ユルドミスリル貨……これ全部……!?」
さすがのサクヤも、掠れた声で言いながらコインを凝視していたが、やがて呆れたように首を振ってそれを袋に戻した。
「これだけの金額をソロで稼ぐのはヨツンヘイムで邪神クラスをキャンプ狩りでもしない限り不可能だと思うがな……。いいのか? 一等地にちょっとした城が建つぞ」
「構わない。俺にはもう必要ない」
キリトは何の執着も無さそうに頷く。
再び袋を覗き込んだサクヤとアリシャは、ほぅーっと深く嘆息してから顔を上げた。
「……これだけあれば、かなり目標金額に近づけると思うヨー」
「大至急装備をそろえて、準備が出来たら連絡させてもらう」
「よろしく頼む」
サクヤの広げたウインドウにアリシャが革袋を格納する。
「この金額を抱えてフィールドをうろつくのはぞっとしないな……。マンダー連中の気が変わる前に、ケットシー領に引っ込むことにしよう」
「そうだネー。話の続きは帰ってからだネ」
領主たちはこくりと頷きあうと、部下たちに合図した。たちまち大テーブルと十四脚の椅子がてきぱきと片付けられていく。
「何から何まで世話になったな。きみの希望に極力添えるよう努力することを約束するよ、キリト君、リーファ」
「役に立てたなら嬉しいよ」
「連絡、待ってるわ」
サクヤ、アリシャ、キリトにリーファはそれぞれ固く握手を交わした。
「アリガト! また会おうネ!」
アリシャはいたずらっぽく笑うとシッポでキリトの体を引き寄せ、その頬に音高くキスした。ふたたび口もとをひくつかせるリーファに向かって――どういう意味なのか――ぱちりとウィンクすると、薄黄色の翅を大きく広げる。
二人の領主は手を振りながら一直線に上昇すると、空に光の帯を引き、赤く染まった西の空へと進路を向けた。その後を六人ずつの配下が雁の群のような美しい隊列を組んで追っていく。
夕焼けの中に彼らの姿が消えてしまうまで、キリトとリーファは無言で見送っていた。
やがて周囲は、あの激闘と、三種族の命運をかけた駆け引きが幻だったかのように静まり返り、吹き渡る風が鳴らす葉擦れの音が残るのみとなった。リーファはわずかな寒さを感じて、そっとキリトに寄り添った。
「……行っちゃったね」
「ああ――終わったな……」
一連の事件の発端となったシグルドとの決裂は、もう遥か昔の出来事のような気がした。まだせいぜい七、八時間前のこととは信じられない。
「なんだか……」
キリトと一緒にいると、この世界こそが現実で、翅のある今の自分が真の姿であるような気がしてくる――というようなことをリーファ/直葉は思ったが、うまく言葉にすることができなかった。そのかわりに、キリトの胸に体を預け、その鼓動を感じてみようとした、そのとき――。
「まったくもう、浮気はダメって言ったです、パパ!」
「わっ」
憤慨したような声とともにキリトの胸ポケットからユイが飛び出してきて、リーファは慌てて距離を取った。
「な、なにをいきなり……」
焦ったような声を出すキリトの頭のまわりをパタパタ飛び回ったユイは、その肩に座ると可愛らしく頬を膨らませる。
「領主さんたちにくっつかれたときドキドキしてました!」
「そ、そりゃ男ならしょうがないんだよ!!」
自分のことを言われたわけではないとわかってリーファはほっとしたが、同時に新たな疑問がわいてきて、ついユイに訊ねてしまった。
「ね、ねえユイちゃん、あたしはいいの……?」
「リーファさんはだいじょうぶみたいです」
「な、なんで……?」
「うーん、リーファはあんま女のコって感じしないんだよな……」
ぽろっと本音が出た、というふうなキリトの台詞。
「ちょっ……な……それってどういう意味!?」
聞き捨てならない言葉に、思わず剣の柄に手を遣りながら詰め寄る。
「い、いや、親しみやすいっていうか……いい意味でだよ、うん」
引き攣った笑いを浮かべながらキリトはすいっと浮かび上がった。
「そ、そんなことよりとっととアルンまで飛ぼうぜ! 日が暮れちゃうよ!」
「あ、こら、待ちなさい!!」
リーファも翅を広げ、地を蹴る。
一目散に世界樹目指して加速していくキリトを追って思い切り翅を震わせながら、リーファはちらりと背後を振り返った。巨大な山脈に遮られて、その向こうに広がるはずの古森と懐かしいシルフ領は望めなかったが、暮れ行く濃紺の空に、チカリと大きな緑の星がまたたくのが見えた。
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仮想のエレベータは、仮想の駆動音と減速感を伴いつつ停止した。つるつるした純白のドアに、直前までは存在しなかった裂け目が縦に入り、左右に開く。
アスナは可能なかぎりの静かな動作で、そっとドアの向こうへと足を踏み出した。
眼前には、上層と同じような味気ない構造の通路がまっすぐ伸びていた。人の気配がないのを確かめ、歩き始める。
オベイロンに与えられた衣装は、シンプルな薄手のワンピース一枚のみという非常に心許ないものだが、素足なのがこの状況ではありがたい。靴を履いていれば多分、避けがたく足音のサウンドエフェクトが発生してしまうところだ。
SAOでは、こちらに気付いていないモンスターへのバックアタックやアンブッシュといった静殺傷術を試みるときは、防御力の低下を覚悟で素足になったりしたものだ。
実戦以外でも、アルゲードの廃墟地区を舞台にキリトやクライン、リズたちと「不意打ちゲーム」を何度もやったが、もともと軽量のアスナはほとんどノイズ発生源がないためにコンスタントに上位に入った。しかしキリトにはなぜかバックアタックが成功せず、一度業を煮やして素足での接近を試みたのだが、木剣が後頭部にヒットする直前で察知され、回避された挙句、足をがしっと掴まれて笑い死ぬかと思うほどくすぐられてしまった。
もはや存在すら定かでない現実世界よりも、あの頃に戻りたい――、不意に浮かび上がってきた涙とともにそう思ってしまってから、アスナは頭を振って感傷を払い落とした。
キリトが現実世界で待っている。唯一、自分がいるべき場所は彼の腕の中だけだ。そのために今は前に進むのだ。
通路は、そう長いものではなかった。歩くうちに、前方にのっぺりとした扉が見えてくる。
ロックされていたら、上層のラボラトリーエリアでコンソールを探そう、そう思いながらドアの前に立つと、意に反してそれは音もなく左右に開いた。内部からさっと差し込んできた強烈な白い光に、アスナは思わず目を細めた。
「……!?」
内部をひと目見た途端、アスナは息を飲んだ。
途方もなく広大な空間だった。
真っ白い、超巨大なイベントホール――とでも言おうか。遥か遠く、左右と奥に垂直にそびえる壁面は、ディティールがまったく無いために遠近が感じ取れない。天井は一面に白く発光し、そして同じく白いフロアには――びっしり、かつ整然と、奇怪なモノが並んでいた。
視界に動くものがないのを確かめ、アスナは恐る恐る内部へと歩を進めた。
並ぶモノは、アスナの側から見るかぎりざっと四十以上の列をなして配置されている。この空間が正方形なのだとすれば、それらはおよそその二乗、ほぼ二千もの数が存在することになる。恐怖心を押し殺しながらそのうちのひとつに近づく。
床面から、アスナの胸あたりまでの高さがある、白い円柱が伸びている。太さは両手でも抱えきれないほどだ。平滑なその上面から、わずかな隙間を空けて浮かぶモノは――どう見ても――人間の、頭部だった。
大きさは実物大だが、色合いはリアルなものではない。青紫色の半透明素材で出来ている。オブジェクトとしては非常に精緻で、ホログラフ表示というよりはサファイアを加工した彫像のようだ。
つるっとした頭蓋の内部には、同じく微細なつくりの脳髄が透けて見える。よくよく観察すると、周期的にその各所に光の筋が走り、それが消えたあたりでパッとカラフルな火花が散る。
視線を顔面に移す。「彼」のまぶたは閉じられ、口も結ばれている。美しくも醜くもない、無個性極まりない造作だ。性別すらわからない。昔、美術の授業で見た、数千人の顔の特徴を平均化して生成したという3D画像を思い出す。
生理的な違和感を呼び覚ますその顔を、眉をしかめながらじっと覗き込んだその瞬間――
突然、カッとそのまぶたが開いた。
「ッ……!!」
悲鳴を上げそうになり、必死に堪える。
「彼」は、瞳のないサファイア色の眼球が飛び出すかと思うほどに目を見開き、眉間にシワを寄せ、唇を歪めて歯を食いしばった。あまりにも明確な「恐怖」の表情だ。アスナは全身が総毛立つ感覚に襲われる。
「彼」の透明な脳の一部に、ひときわ強く光のラインが走っているのが見えた。その周辺が薄赤く染まり、ぼうっと発光している。光の脈動と完全に同期して、「彼」は何度も無音の絶叫を繰り返す。その表情は、絶対に造り物ではない。完全にリアルな、真の恐怖の発露。
その恐ろしい光景に耐えられなくなり、アスナは数歩後退った。頭の中に、上層で見た案内板――『実験体格納室』――と、オベイロンの台詞――『感情を操るテクノロジー』――がフラッシュバックする。それらと目の前の光景が結び合わされ、ある結論が浮かび上がる。
それでは、この「彼」、いや数千に及ぶ「彼ら」は、コンピュータによって生成された仮想オブジェクトではなく本物の人間――つまりかつてのSAOプレイヤー達、切り離されたその意識体なのだ。ゲームクリアに伴って解放されるはずが、オベイロンの手によってこの場所に幽閉され、思考、感情、記憶までも操作するという悪魔の研究に供せられているのである。
「なんて……なんて酷いことを……」
アスナは両手で口を覆いながら喉の奥で呟いた。
視線を右に振る。二メートルほど離れたその場所にも同様の円柱が生え、その上に青く透き通る頭部が浮かんでいる。顔の造作は細部にいたるまでまったく同じだが、こちらの「彼」はまぶたをとろんと半眼に開け、口もとを緩ませている。脳に電光が走るたびに、その顔に痴呆めいた陶酔の笑みが浮かぶ。
その向こう……さらにその向こう、無限とも思える数で整列する「彼」たちは、多種多様な表情をクリスタルのマスクに貼り付かせながら、その奥では皆が絶望の叫びを上げているように思えた。
アスナはパニックの衝動を必死に押さえつけ、目尻に溜まった涙の粒をぐいっとぬぐった。
こんなことは許されない。いや、絶対に許さない。自分とキリトが命を賭けて戦ったのは、須郷にこんな所業を為さしむるためではない。絶対にこの悪事を暴き、あの男に相応しい罰を与えなくてはならないのだ。
「待っててね……すぐ、助けるからね……」
呟くと、アスナは目を閉じる「彼」の頬をそっと撫でた。次いでキッと顔を上げ、立ち並ぶ彫像の間を部屋の奥目指して早足で歩き始めた。
歩を進めながら数えた円柱の列の数が二十を超えたころ、不意にアスナの耳に人間の声とおぼしき音が届いた。反射的に体を伏せ、手近な円柱に張り付く。
油断なく周囲に視線を走らせながら音源の方向を探る。話し声らしいものは右手奥から流れてくるようだ。ほとんど這うような姿勢のまま、そろそろとその方向に前進していく。
いくつめかの円柱の陰に達したとき、行く手になにか、「妙なモノ」が見えた。
「!!?」
慌てて体を引っ込める。何度かパチパチと瞬きしてから、恐る恐るもう一度顔を出す。
アインクラッド61層、通称「むしむしランド」と言われていたフロアはその名の通り虫系モンスターで溢れ、アスナを含む大多数の女性プレイヤーにとっては地獄に等しい場所だったのだが、中でも苦手だったのが「ブルスラッグ」という巨大なナメクジ型モンスターだった。黒い斑紋のある灰色の表皮はヌラヌラとした粘液に包まれ、大小三対の眼柄でこちらを見据えながら円環状に牙の生えた口から触手を伸ばして攻撃してくる姿は悪夢そのものだったのだが――。
今、アスナから数メートル離れた場所で、こちらに背を向けて話し込んでいる二匹の生き物は、限りなくそのブルスラッグに似ていた。
巨大ナメクジたちは、ひとつの実験体を覗き込んで熱心に意見を交換しているようだった。右側のナメクジが、長い眼を振り動かしながらキーキーした声で言う。
「オッ、こいつまたスピカちゃんの夢見てるぜ。B13と14フィールドがスケールアウト。16もかなり出てるな……大興奮してやがる」
実験体の周囲に浮かぶホロウインドウを触手で示しながら左側のナメクジが答える。
「偶然じゃないのか? まだ三回目だろ?」
「いや、感情誘導シナプス形成の結果だって。スピカちゃんは俺がイメージを組んで焼きこんだのに、この頻度で現れるのは閾値を超えてるだろ」
「うーん、とりあえず継続モニタリングサンプルに上げとくか……」
耳障りな甲高い声で話しつづける二匹のナメクジに嫌悪の念を感じながら、アスナは再び柱の陰に引っ込んだ。
なぜあんな姿をしているのかは不明だが、彼らはこの非人道的実験に従事する須郷の部下たちなのだろう。その言葉からは、倫理的なためらいは一切感じられない。
右手を硬く握り締めながら、この手のなかに剣があれば……と思う。奴らの姿に相応しい末路を与えてやるのに。
燃え上がった怒りの衝動をどうにか鎮め、アスナはゆっくり後退した。彼らから距離を取り、再び空間の奥を目指す。
遅々とした速度で円柱の列をひとつ、またひとつと通り過ぎ、ついに部屋の最深部へと達した。果たして――遠く離れた白い壁面の手前に、ぽつんと黒い立方体が浮かんでいるのが見えた。
かつて、アインクラッド基部フロアの地下迷宮で見たシステムコンソールを思い出す。もしあれを使って管理者権限でアクセスできれば、この狂った世界からログアウトすることが可能かもしれない――!
ここから先はもう身を隠すものは何一つない。アスナは大きく一回深呼吸すると、意を決して円柱のそばから飛び出した。
極力音を立てないよう、かつ素早くコンソール目指して駆け寄る。わずか十メートルほどの距離が途方もなく遠く思える。
一歩ごとに、背後から呼び止められるのではという恐怖を味わいながら、アスナは縺れそうになる脚をどうにか動かしつづけ、とうとうコンソールの前まで辿りついた。サッと背後を振り返る。幾重にも並ぶ円柱の列の彼方に、ゆらゆら揺れる触角が見て取れる。どうやらナメクジたちはまだ議論に夢中らしい。
アスナはふたたび漆黒のコンソールに向き直った。斜めにカットされた上面は黒く沈黙しているが、その右端に細いスリットがあり、溝の上端に銀色のカードキーと思しき物体が差し込まれたままになっている。祈りながら手を伸ばし、カードをつかんで一気に下にスライドさせる。
ポーン、という効果音が響いて、アスナは首を縮めた。スリットの左に、薄青いウインドウとホロキーボードが浮かび上がった。
ウインドウにはびっしりと多種多様なメニューが表示されている。焦る心を押さえつけながら、細かい英字フォントを端から確認していく。
左下に「transport」というボタンを見つけ、震える指先でそこにタッチ。ブン、という音とともにあらたな窓が浮かぶ。このラボラトリーエリアの全体図が表示されている。どうやらこのシステムで直接各所にジャンプできるらしい。
だが、もうこの場所に用はない。必死に目を走らせると、右隅に「exit virtual labo」というボタンが小さく光っていた。
「これだ……!」
思わず口の中で小さく叫び、それにタッチ。さらなるウインドウが上面に出現する。小さな長方形のそれに表示されているのは「execute log-off sequense , ok?」の一文とOK、CANCELのボタン。
神様――。
心の奥で必死に念じながら、OKボタンに触れようとしたアスナの右手に――
突然背後から、灰色の触手がびしりと巻きついた。
「……!!」
漏れそうになる悲鳴を必死に押しとどめ、アスナは強引に指先をボタンに近づけようとしたが、細い触手はまるで鋼鉄のワイヤーででもできているかのようにびくともしなかった。ならばと伸ばそうとした左手にも、新たな触手が絡みつく。そのままアスナの両腕はぐいっと上に引っ張られ、つま先が床から離れてしまった。
捕獲者は、高く吊り上げたアスナの体をくるりと半回転させた。目の前に出現したのは、予想どおり先ほどの巨大ナメクジたちだった。
オレンジ色の虹彩を持つ、テニスボール大の眼球が四つ、細い枝の上でゆらゆらと揺れている。表情のないその眼は、アスナの顔や体を検分するように眺めまわしていたが、やがて、左がわのナメクジの円い口がもごもごと動き、軋るような声で言った。
「――あんた誰? 何やってんの、こんなとこで?」
アスナは恐怖を押し殺し、極力何気ない声を装って答えた。
「ちょっと、降ろしてよ! わたしは須郷さんの友達よ。ここを見学させてもらってたんだけど、もう帰るところよ」
「へえ? そんな話聞いてないなぁ?」
右のナメクジが、二本の眼枝を、首を傾げるかのごとくひょいっと曲げる。
「お前なんか聞いてる?」
「なんにも。つうか部外者にこんなとこ見せたらヤバイだろ」
「あ……待てよ……」
真ん丸い目玉がにゅっと伸びて、アスナの顔を覗き込んだ。
「……あんたあれだろ。須郷チャンが囲ってるっていう……」
「あーあー。そういや聞いたなそんな話。ずるいなぁボスばっかり、こんなかわいい娘を」
「く……」
アスナは肩越しにコンソールを振り返り、左足を伸ばしてつま先でボタンを押そうとした。だが、ナメクジの口の周りに生えた触手が新たに伸び、足までも絡め取る。体を捩って抵抗しようとしたが、その努力が実る前に、処理がタイムアウトしたらしくホロウインドウは初期画面に戻ってしまった。
「こらこら、暴れちゃだめだよ」
ナメクジたちは次々と触手を繰り出し、アスナの全身をきつく縛りあげ始めた。お腹や大腿部に、容赦ない強さで細い肉のワイヤーが食い込んでくる。
「痛っ……! やめて……離してったら、この化け物!」
「あー、ひどいなあ。これでも深部感覚マッピングの実験中なんだぜ」
「そうそう。このボディをここまで操るのは訓練がいるんだよー」
アスナは、仮想世界特有の真綿に包んだような痛みに顔をしかめながら、必死に言葉を投げかけた。
「あなたたちも科学者なんでしょ……!? こんな……非道い研究に手を貸して、恥ずかしいと思わないの!?」
「んー、サルの頭開けて電極刺しまくるのよりは人道的だと思うけどねえ。この連中は夢見てるだけなんだしさ」
「そうそう。たまにはすっげえ気持ちいい夢も見せてやってるんだぜ。あやかりたいくらいのもんさ」
「……狂ってるわ……」
アスナは、氷のような寒気を感じながら呟いた。この連中は、感情のないナメクジの見かけこそが真の姿なのだ。
アスナの言葉など気にかけるふうもなく、ナメクジたちは目を見交わすと相談を始めた。
「ボスは出張中なんだろ? お前、向こうに戻って指示聞いてこいよ」
「ちっ、しょうがねえなあ。俺がいない間に一人で楽しむなよな」
「わかったわかった。早く行け」
ナメクジの片割れは触手をアスナの体から離すと、その一本で器用にコンソールを操り始めた。数回ぽちぽちとボタンを押すと、その巨体が音も無く、あっけなく消え去った。
「…………!!」
それを見て、アスナは焼け付くような焦燥にとらわれ、縛られた体を滅茶苦茶に振り動かした。すぐそこに――目の前に、あれほど夢見た現実世界への出口がある。そのドアは焦らすようにわずかに開かれ、内側の明るい光を溢れさせている。
「離して!! 離してよ!! ここから出して!!」
狂おしく絶叫するが、ナメクジの触手はわずかにも緩まない。
「だめだよぉー、ボスに殺されちまうよ。それよりさぁ、君もこんな何もないとこにずーっといたら退屈してるでしょ? 一緒に電子ドラッグプレイしない? 俺も人形相手はもう飽き飽きでさぁ」
言葉と同時に、冷たく湿った触手がアスナの頬を撫でた。
「やっ……やめて!! なにを……!?」
必死に抗おうとするが、ナメクジは次々と新たな触手を伸ばしてくる。それらはアスナの腕や脚の素肌を撫でまわし、徐々にワンピースの中にまで侵入を開始する。
全身をまさぐられる不快な感覚に耐えながら、アスナは体の力を抜き、抵抗する気力を失ったかのように装った。調子に乗った触手の一本が口に近づいてくる。それが唇に触れた瞬間――。
さっと顔を上げると、アスナは触手に思い切り噛み付いた。
「ぎゃっ!! いだだだだだ!!」
悲鳴を上げるナメクジに構わず、容赦なく歯を食い込ませる。
「やっ、やめっ、いだっ、わかった、わかったから!!」
服に潜り込んでいた触手が撤退するのを確認し、アスナは口を開いた。痛めつけられた触手がぴゅるっと引っ込んでいく。
「いてて、センスアブソーバ切ってたの忘れてたぜ……」
ナメクジが眼柄を引っ込めてうめいていると、その傍に光の柱が立ち上った。効果音とともにもう一匹のナメクジが出現する。
「……? お前何やってんの?」
「なんでもねえよ。それよりボスは何だって?」
「怒り狂ってたよ。すぐにラボの上の鳥篭に戻して、パス変えて二十四時間監視しとけだとさ」
「ちぇっ。せっかく楽しめると思ったのになぁ……」
アスナは失望のあまり目の前が暗くなるのを感じた。千載一遇のチャンスが指の隙間からこぼれ落ちていく。
「せめて、テレポートじゃなくて歩いて戻ろうぜ。もうちょっと感触を味わわせろよ」
「好きだねえ、お前も」
アスナを縛り上げているほうのナメクジは、脚の無い体をぬるりと動かし、格納室の入り口のほうに向き直った。二匹の視線が一瞬外れた瞬間、アスナは素早く右足を伸ばした。コンソールのスリットに差し込まれたままのカードキーを、指先で挟んで抜き取る。
同時にウインドウが消滅したが、ナメクジたちはそれに気付かなかったようだった。体を海老のように反らし、足先のカードを、体の後ろで縛られた手の中に移動させる。
「ほらほら、暴れちゃダメだよ」
ナメクジは改めてアスナの体を持ち上げると、出口目指してぬるぬると移動を始めた。
ガシャン、と音を立てて鳥篭の格子戸が閉まった。ナメクジは触手でナンバーロックを操作すると、それをアスナにむかって振った。
「じゃあねー、チャンスがあったらまた遊ぼうねー」
「あんたたちの顔は二度と見たくないわ」
そっけなく言い、ベッドに腰掛ける。二匹は名残惜しそうにアスナを見ていたが、やがて体の向きを変え、枝の上を遠ざかっていった。
いつの間にか、濃い暮色が世界を包んでいた。ほとんど沈みかけている巨大な太陽を見つめ、アスナはかすかに呟いた。
「わたし――負けないよ、キリトくん。絶対にあきらめない。必ずここから脱出してみせる」
手の中の、銀色のカードキーに視線を移す。コンソールが無ければ役に立たないだろうが、今のところこれが唯一の希望だ。
アスナは、ベッドに横たわるふりをしてそれを大きな枕の下に挟み込んだ。
まぶたを閉じると、疲れ果てた頭の芯を、眠りのベールがゆっくりと包み込んでいった。
(第三章 終)