第三章 『樹上の檻』
つがいの小鳥が、白いテーブルの上で身を寄せ合って朝の歌をさえずっている。
そっと右手を伸ばす。碧玉のように輝く羽毛に一瞬指先が触れる。――と思う間もなく、二羽の小鳥は音も無く飛び立つ。弧を描いて舞い上がり、光の射す方向へと羽ばたいていく。
椅子から立ち上がり、数歩後を追う。だがすぐに、金色に輝く細い格子が行く手を遮る。小鳥達はその隙間から空へと抜け出し、高く、高く、どこまでも遠ざかっていく――。
アスナはしばらくその場に立ち尽くし、鳥たちが空の色に溶けてしまうまで見送ると、ゆっくりきびすを返してもとの椅子に腰掛けた。
白い大理石で造られた冷たい丸テーブルと椅子。側に、同じく純白の豪奢な天蓋つきのベッド。この部屋の調度品はそれだけだ。部屋――と言ってよければ、だが。
やはり白のタイルが敷き詰められた床は、端から端まであるけば二十歩はかかろうかという巨大な真円形で、壁はすべて華奢な金属の格子でできている。格子の目はアスナでも無理をすれば通り抜けられそうなほど大きいが、それはシステム的に不可能である。
十字に交差する金の線は垂直に伸び上がり、はるか頭上で半球形に閉じている。その頂点には巨大なリングが取り付けられ、それを恐ろしく太い木の枝が貫いて、この構造物全体を支えている。枝はごつごつとうねりながら天を横切り、周囲に広がる無限の空の一角を覆い尽くす巨大な樹へと繋がっている。
つまりこの部屋は、途方もないスケールの大樹の枝から下がった金の鳥籠――いや、その表現は正しくない。時折遊びに来る鳥たちは皆格子を自由に出入りしている。とらわれているのはアスナ唯一人、だからこれは檻だ。華奢で、美しく、優雅で、しかし冷徹な樹上の檻。
アスナがこの場所で覚醒してから、すでに六十日が経過しようとしていた。いや、それも確実な数字ではない。何一つ書き残すことのできないこの場所では、日数を記録できるのは頭の中だけだ。
毎朝目覚めるたびに、今日は何日め、と自分に言い聞かせる。だが、近頃ではその数字に確信が持てなくなってきている。ひょっとしたら同じ日付を何回も繰り返しているのではないか――実際にはすでに数年の月日が過ぎ去っているのではないか――。そんな想念にとらわれてしまうほど、「彼」と過ごした懐かしい日々は遠い記憶の中に没しようとしている。
あの時――。
浮遊城アインクラッドが崩壊し、世界が輝きに包まれて消滅していく中、アスナは彼と固く抱き合って意識が消え去る瞬間を待っていた。
恐怖はなかった。自分は為すべきことを為し、生きるべき人生を生きたという確信があった。彼と一緒に消滅するのは喜びですらあった。
光が二人を包み込み、肉体が消え去り、魂が絡み合って、どこまでも高く飛翔し――
そして不意に彼のぬくもりが消えた。一瞬にして周囲が暗闇に包まれた。アスナは必死に手を伸ばし、彼の名を呼んだ。だが容赦ない奔流が彼女を捕らえ、暗闇の中を押し流していった。断続的な光の点滅。どことも知れない場所に運ばれていく、そんな気がして、アスナは悲鳴を上げた。やがて前方に虹色の光彩が広がり、そこに突入して――気付くと、この場所に倒れていた。
ゴシック調の巨大なベッド、その天蓋を支える壁に鏡が据えられている。そこに映る姿は、昔とは微妙に異なっている。顔のつくり、栗色の長い髪は昔のままだ。だが身にまとうのは、心許ないほど薄い、白のワンピース一枚。胸元に、血のように赤いリボンがあしらわれている。剥き出しの足に、大理石のタイルがしんしんと冷気を伝えてくる。武器はおろか何一つとして持っていないが、背中からは不思議な透明の羽根が伸びている。鳥というよりは昆虫の翅のようだ。
最初は、ほんとうの死後の世界なのか――とも思った。だが今ではそうでないことがわかっている。手を振ってもメニューウインドウは出ないが、ここはアインクラッドではない、新しい仮想世界だ。コンピュータの作り出すデジタルの牢獄。アスナは、そこに、人間の悪意によって幽閉されている。
ならば負けるわけにはいかない。悪意に心を挫かれるわけにはいかない。そう思って、アスナは日々襲ってくる孤独と焦燥に耐えている。だがこの頃では、それが少しずつ難しくなってきている。絶望の毒がゆっくりと心を染めていくのを感じる。
冷たい椅子に腰掛け、テーブルの上で両手を組み合わせて、アスナはいつものように心の中で彼に囁きかける。
(早く……はやく助けに来て……キリトくん……)
「その表情が一番美しいよ、ティターニア」
不意に鳥籠の中に声が響いた。
「泣き出す寸前のその顔がね。凍らせて飾っておきたいくらいだよ」
「なら、そうなさいな」
ゆっくりと声の方に顔を向けながら、アスナは言った。
金の檻の一箇所、巨大な樹――世界樹――に面している部分に、小さなドアが設けられている。ドアまでは、階段が刻み込まれた枝が伸び、世界樹の幹との間に通路を繋いでいる。
そのドアから入ってきたのは、ひとりの痩せた長身の男だった。
カールした長い金髪が豊かに流れ、それを額で白銀の円冠が止めている。体を包むのは濃緑のゆったりとした長衣、これも銀糸で細かい装飾が施されている。背中からはアスナと同じように翅が伸びているが、こちらは透明ではなく、巨大な蝶のものだ。漆黒のびろうどのように艶のある四枚の翅に、エメラルドグリーンの鮮やかな模様が走っている。
顔は造り物のように――としか言い様がない――端麗だ。秀でた額から連なる鋭い鼻梁、切れ長の目には翅の模様と同じ色の瞳が冴えざえとした光を放っている。だがそれらを台無しにしているのが、薄い唇に張り付くゆがんだ微笑だ。全てを蔑むような、卑しい笑い。
アスナは一瞬男の顔を見ると、汚らわしいものを見たかのようにすぐに視線を逸らせた。呟くように言葉を繋げる。
「――あなたなら何でも思いのままでしょう、システム管理者なんだから。好きにしたらいいわ」
「またそんなつれない事を言う。ぼくがいままで君に無理やり手を触れたことがあったかい、ティターニア?」
「こんな所に閉じ込めておいてよく言うわ。それにその変な名前で呼ぶのはやめて。私はアスナよ、オベイロン――いえ、須郷さん」
アスナは再び男――須郷伸之の化身オベイロンの顔を見上げた。今度は瞳を逸らさず、力を込めた視線を向けつづける。
オベイロンは不愉快そうに唇をゆがめると、吐き捨てるように言った。
「興醒めだなぁ。この世界では僕は妖精王オベイロン、君は女王ティターニア。プレイヤー共が羨望を込めて見上げるアルヴヘイムの支配者……それでいいじゃないか。一体いつになったら君は僕の伴侶として心を開いてくれるのかな」
「いつまで待っても無駄よ。あなたにあげるのは軽蔑と嫌悪、それだけだわ」
「やれやれ、気の強いことだ……」
再びオベイロンは片頬を吊り上げて笑うと、ゆっくりアスナの顔に向かって右手を伸ばしてきた。
「でもねえ……なんだか最近は……」
アスナは顔をそむけようとしたが、おとがいに手がかかり、無理やり正面に向けさせられる。
「そういう君を力ずくで奪うのも楽しいかなあと、そんな気もするんだよね」
万力のような力で固定されたアスナの顔に、今度は左手の指が這い始めた。頬から、唇に向かって細い指がじわじわと動いていく。どこか粘つくようなその感触に、背筋に寒気が走る。
嫌悪のあまり固く目を瞑り、歯を噛み締めるアスナの唇を指先で数度なぞると、オベイロンはそのまま首筋をゆっくりと撫で下ろした。やがて指は、深い襟ぐりの胸元で結ばれた真紅のリボンに辿り着く。アスナの恥辱と恐怖を愉しむように、リボンの一端がじわり、じわりと引かれていく――。
「やめて」
ついに耐え切れなくなり、アスナはかすれた声を洩らした。
それを聞いたオベイロンは喉の奥をククッと鳴らすとリボンから手を離した。指をひらひらを振りながら、笑いの混じった声で言う。
「冗談さ。言ったろう? 君に無理矢理手はかけない、って。どうせすぐに君の方から僕を求めるようになる。もう時間の問題だ」
「――何を言っているの。そんな訳ないじゃない」
「ねえ君」
オベイロンは両腕を胸の前で組むと、テーブルに体を預けた。にやにや笑いが一層大きくなる。
「NERDLESが娯楽市場のためだけの技術だと思うかい?」
予想外の台詞にアスナは口を噤んだ。オベイロンは芝居がかった仕草で両腕を大きく広げる。
「冗談じゃない! こんなゲームは副産物にすぎない。あの機械は、電子パルスのフォーカスを脳の感覚野に限定しているが、その枷を取り払ったらどういうことになるか――」
見開かれたオベイロンのエメラルド色の瞳にどこか逸脱した輝きが宿り、アスナは本能的な恐怖を感じた。
「――人間の思考、感情、記憶までも制御できる可能性があるってことだよ!」
あまりにも常軌を逸したオベイロンの言葉に、アスナは絶句するしかなかった。数回呼吸を繰り返してから、どうにか声を絞り出す。
「……そんな、そんなことが許されるわけが……」
「誰が許さないんだい? すでに各国で研究が進められている。でもねえ、この研究だけはサルで済ませるわけにはいかないんだよね。連中は自分が何を考えてるか喋ってくれないからね!」
ひっ、ひっと甲高い声で笑いを洩らし、テーブルから跳ねるように体を起こしたオベイロンは、せかせかした歩調でアスナの周りを歩き始めた。
「脳の高次機能には個体差も多い、どうしても大量の被験者が必要だ。だがアタマをいじくり回すわけだからね、おいそれと人体実験なんかできない。それでこの研究は遅々として進まなかった。――ところがねえ、ある日ニュースを見ていたら、いるじゃないか、格好の研究素材が、五万人もさ!」
再びアスナの肌を怖気が走った。オベイロンが何を言わんとしているのか、その先がようやく想像できた。
「――茅場先輩は天才だが大馬鹿者さ。あれだけの器を用意しながら、たかがゲーム世界の創造だけで満足するなんてね。SAOサーバー自体には手をつけられなかったが、あそこからプレイヤー連中が解放された瞬間、必要十分な被験者二千人をこの僕の世界にリレーする準備を整えてひたすら待ったよ。ああ、勿論君もね。いやあ、クリアされるのが実に待ち遠しかったね!」
妄念の熱に浮かされたかの如く、オベイロンは饒舌に言葉をまくし立て続けた。アスナは昔から彼のこの性癖が大嫌いだった。
「この二ヶ月で研究は大いに進展したよ! 記憶に新しいパーツを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術は大体形ができた。魂の操作――実に素晴らしい!!」
「そんな……そんな研究、お父さんが許すはずがないわ」
「無論あのオジサンは何も知らないさ。研究は私以下極少数のチームで秘密裏に進められている。そうでなければ商品にできない」
「商品……!?」
「アメリカの某企業が涎を垂らして研究終了を待っている。せいぜい高値で売りつけるさ。――いずれはレクトごとね」
「……」
「僕はもうすぐ結城家の人間になる。まずは養子からだが、やがては名実ともにレクトの後継者となる。君の配偶者としてね。その日のためにもこの世界で予行演習しておくのは悪くない考えだと思うけどねえ」
不意にオベイロンは言葉を切ると、わずかに首を傾け沈黙した。すぐに右手を振ってウインドウを出し、それに向かって言う。
「わかった。すぐに行く」
ウインドウを消し、再びにやにや笑いを浮べながら、
「――という訳で、君が僕を盲目的に愛し、服従する日も近いということが判ってもらえたかな? しかし僕も勿論君のアタマを操作するのは望まない、次に会うときはもう少し従順であることを願うよ、ティターニア」
猫撫で声でささやくと、アスナの髪をひと撫でして身を翻した。
ドア目掛けてせかせかと歩いていく男の姿を、アスナは見なかった。ただ俯いて、オベイロンの最後の台詞が心に垂らしていった恐怖に耐えていた。
やがてカシャン、というドアの開閉音が響き、次いで静寂が訪れた。
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制服に着替え、竹刀ケースを下げて剣道部の部室から出ると、巨大な校舎の谷を抜けてきた微風が直葉の火照った頬を心地よく撫でていった。
午後一時、すでに五時限目が始まっているので学校はしんと静まり返っている。一、二年生はもちろん授業中だし、自由登校の三年生も、学校に来ている者は高校入試直前の集中ゼミナールを受講しているので、今ごろ校内をのんきに歩いているのは直葉のような推薦進学組だけだ。
気楽な身分ではあるが、同級生に出くわすと必ず皮肉のひとつも言われてしまうので、直葉としては無闇に学校に来たくはない。しかし剣道部の顧問が実に熱心な人物で、東京の名門校に送り出す愛弟子のことが気になって仕方ないらしく、一日おきに学校の道場に顔を出して指導を受けるよう厳命されている。
顧問いわく、最近直葉の剣には妙なクセがある、らしい。直葉は内心で首をすくめながら、そりゃそうだろうなぁ、と思う。短時間とは言えほぼ毎日のように、アルヴヘイムで型もなにもないチャンバラ空中殺法を繰り広げているのだ。
しかしそれで剣道部員としての直葉の腕が落ちているかと言うとそういうことはなく、今日も、かつて全日本で上位に入ったことのある三十代の男性顧問から立て続けに二本とってひそかに快哉を叫んだ。
なんだか、近頃相手の竹刀がよく見えるのだ。強敵との試合で、神経が極限まで張り詰めると、時間の流れがゆるやかになるような感覚すら覚える。
数日前の、和人との試合を思い出す。あの時、直葉の本気の打突を和人はことごとく躱してみせた。まるで、彼だけが違う時間流のなかにいるかのような凄まじい反応だった。ひょっとして――、と直葉は考える。NERDLES機器は、使用者の脳になにか器質的な変化を与えるのではないか……。
物思いにふけりながら自転車置き場に向かって歩く直葉に、校舎の陰からいきなり声をかける者がいた。
「……リーファちゃん」
「うわっ」
びくっとして一歩飛びすさる。現れたのは、ひょろりと痩せた眼鏡の男子生徒だった。レコンと共通の特徴である、常に困ったように垂れ下がった細い眉毛が、今日は一層急角度を描いている。
直葉は右手を腰に当てると、ため息混じりに言った。
「学校でそう呼ばないでって言ってるでしょ!」
「ご、ごめん。……直葉ちゃん」
「この……」
竹刀ケースの蓋に片手を沿えながら一歩詰め寄ると、男子生徒はひきつった笑みを浮かべながらぶんぶん首を振った。
「ごごごめん、桐ヶ谷さん」
「……なに? 長田クン」
「ちょ、ちょっと話があって……。どこかゆっくりできるとこ、行かない?」
「ここでいいわよ」
長田伸一は情けない顔をしながら肩を落とす。
「……ていうか、そもそも推薦組のあんたが何で学校にいるのよ?」
「あ、すぐ……桐ヶ谷さんに話があって、朝から待ってたんだ」
「げげ! ヒマな奴……」
直葉はふたたび数歩後退し、背の高い花壇の縁に腰を下ろした。
「で、話って?」
長田は微妙な距離を保って直葉の隣に座ると、言った。
「……シグルド達が、今日の午後からまた狩りに行こうって。今度は海底洞窟にしようってさ、あそこはサラマンダーがあんま出ないし」
「狩りの話ならメールでいいって言ったじゃない。……悪いけど、あたししばらく参加できないわ」
「え、ええ!? なんで!?」
「ちょっとアルンまで出かけることに……」
アルヴヘイムの中央にそびえる世界樹、その根元には大きな中立都市が広がっている。それが央都アルンだ。スイルベーンからはかなりの距離がある上に、途中に飛行不可能な区域も多く、辿りつくには数日を要する。
長田はしばらく口をがくーんと開けて硬直していたが、やがてずりずりと直葉ににじり寄りながら言った。
「ま、ままさか昨日のスプリガンと……?」
「あー、うん、まあね。道案内することになったの」
「な、何考えてんのさリー……桐ヶ谷さん! ああんなよく分からない男と、と、泊りがけで……」
「あんたこそ何赤くなってるのよ! 妙な想像しないでよね!」
すぐそばまで接近してきた長田の胸を竹刀ケースでどつく。長田は極限まで眉に八の字を描かせ、直葉を恨みがましい目で見つめた。
「……前に僕がアルンまで行こうって言ったときはあっさり断ったくせに……」
「あんたと一緒じゃ絶対辿り着けないと思ったからよ! ……ともかくそういうわけだから、シグルドたちにはよろしく言っといてね」
直葉はぴょんと立ち上がり、「じゃね!」と手を振って自転車置き場目指して走り出した。長田の、叱られた犬のような情けない顔がちくりと胸を刺すが、そうでなくても学校ではいろいろと噂されているのだ。これ以上距離を縮める気にはならない。
(……道案内するだけだよ……)
自分にも言い聞かせるように、胸のなかで呟く。キリトという少年の、謎めいた黒い瞳を思い出すと、妙にそわそわと落ち着かない気分になる。
広大な駐輪場の片隅に停めてある、街乗り仕様のマウンテンバイクのロックを手早く外す。えいやっとまたがると、立ち漕ぎで猛然とダッシュ。冬の冷たい空気がぴりぴりと頬を叩くが、気にせず裏門から飛び出して、急な下り坂をノーブレーキで駆け下りていく。
早く飛びたい、と直葉は思った。キリトと並んで、全開パラレル飛行をすることを考えると、少しだけわくわくした。
二時少し前に自宅に着いた。
庭に、和人の自転車は無かった。どうやらまだジムから戻っていないらしい。
実のところ、最近の和人はもう「SAO以前」の彼の体格をほぼ取り戻していると思う。しかしどうもそれでは満足できないらしい、と言うより仮想世界内での自分との間にギャップを感じているようだ。
そんなの当然、ゲーム内のキャラクターに生身の体を近づけようなんて無理な注文だ――と思う一方で、和人の気持ちも良くわかる。直葉だって現実で「飛ぼう」として転びそうになったことは一度や二度ではない。
縁側から家に上がり、洗濯機に道着を放り込んでスイッチを入れ、ざっとシャワーを浴びる。ラフな格好に着替えると、二階に駆け上がって自室のベッドに転がり込む。
アミュスフィアの電源を入れ、すっぽり被ると、目を閉じる。大きく一回深呼吸、ついで魔法の呪文を――。
「リンク・スタート!」
リーファが目蓋を開けると、鈴蘭亭一階の風景がふわりと広がった。テーブルの、向かいの席にはもちろん誰もいない。待ち合わせまではまだ数十分の余裕がある。それまでに旅の準備を整えなければならない。
店から出ると、スイルベーンの街は美しい朝焼けの空に覆われていた。
毎日決まった時間にしかログインできないプレイヤーのための配慮か、アルヴヘイムでは約十六時間で一日が経過する。そのため、現実の朝晩と一致することもあればこのようにまったくずれることもある。メニューウインドウの時刻表示は、現実時間とアルヴヘイム時間が併記されており、最初は多少混乱したが、今ではこのシステムが気に入っている。
あちこちの店をばたばたと駆け回り、買い物を済ませると、ちょうどいい時間になっていた。鈴蘭亭に戻ってスイングドアを押し開けると、今まさに奥のテーブルに黒衣の姿が実体化しようとしているところだった。
ログインを完了したキリトは、数回まばたきをすると近づくリーファを認めて微笑んだ。
「やあ、早いね」
「ううん、さっき来たとこ。ちょっと買い物してたの」
「あ、そうか。俺も色々準備しないとな」
「道具類は一通り買っておいたから大丈夫だよー。あ、でも……」
キリトの、簡素な初期武装に視線を落とす。
「キミの、その装備はどうにかしておいたほうがいいね」
「ああ……俺もぜひどうにかしたい。この剣じゃ頼りなくて……」
「お金、持ってる? 無ければ貸しておくけど」
「えーと……」
キリトは右手を振ってウインドウを出し、ちらりと眺めて、なぜか顔をひきつらせた。
「……この『ユルド』っていうのがそう?」
「そうだよー。……ない?」
「い、いや、ある。結構ある」
「なら、早速武器屋行こっか」
「う、うん」
妙に慌てた様子で立ち上がったキリトは、何かを思いついたように体のあちこちを見回し、最後に胸ポケットを覗き込んだ。
「……おい、行くぞ、ユイ」
するとポケットから黒髪のピクシーがちょこんと眠そうな顔を出し、大きなあくびをした。
リーファ行きつけの武具店でキリトの装備一揃いをあつらえ終わった頃には、街はすっかり朝の光に包まれていた。
と言っても、特に防具類に凝ったわけではない。属性強化されている服の上下にコート、それだけだ。時間がかかったのは、キリトがなかなか剣に納得しなかったからだ。
プレイヤーの店主に、ロングソードを渡されるたびに一振りしては「もっと重い奴」と言い続け、最終的に妥協したのはなんと彼の身長に迫ろうかというほどの、超のつく大剣だった。ノームやインプに多い巨人型プレイヤー用装備だ。
ALOでは、余ダメージ量を決定するのは「武器自体の攻撃力」と「それが振られるスピード」だけだが、それだと速度補正に優るシルフやケットシーのプレイヤーが有利になってしまう。そこで、筋肉タイプのプレイヤーは、攻撃力に優る巨大武器を扱いやすくなるよう設定してバランスを取っている。
シルフでも、スキルを上げればハンマーやアックスを装備できないことはないが、固定隠しパラメータの筋力が足りないためにとても実戦で振り回すことはできない。スプリガンはマルチタイプの種族だが、キリトはどう見てもスピードタイプの体型だ。
「そんな剣、振れるのぉー?」
呆れつつリーファが聞くと、キリトは涼しい顔で頷いた。
「問題ない」
……そう言われれば納得するしかない。代金を払い、受け取った剣をキリトはよっこらしょうと背中に吊ったが、鞘の先が地面に擦りそうになっている。
まるで剣士の真似をする子供だ、そう思ったとたんにこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、リーファは言った。
「ま、そういうことなら準備完了だね! これからしばらく、ヨロシク!」
右手を差し出すと、キリトも照れたように笑いながら握り返してきた。
「こちらこそ」
ポケットから飛び出したピクシーが、二人の手をぺちぺち叩きながら言った。
「がんばりましょう! 目指せ世界樹!」
巨大な剣を背負い、肩にピクシーを乗せたキリトと連れ立って歩くこと数分、リーファの目前に、翡翠に輝く優美な塔が現われた。
シルフ領のシンボル、風の塔だ。何度見ても見飽きることのない美しさだ――と思いながら隣に目を向けると、黒衣のスプリガンは先日自分が貼りついたあたりの壁を嫌そうな顔で眺めていた。リーファは笑いを噛み殺しながら彼のひじを突付いた。
「出発する前に少しブレ―キングの練習しとく?」
「……いいよ。今後は安全運転することにしたから」
キリトが憮然とした表情で答える。
「それはそうと、なんで塔に? 用事でもあるのか?」
「ああ……長距離を飛ぶときは塔のてっぺんから出発するのよ。高度が稼げるから」
「ははあ、なるほどね」
頷くキリトの背を押しながら、リーファは歩き出した。
「さ、行こ! 夜までに森は抜けておきたいね」
「俺はまったく地理がわからないからなあ。案内よろしく」
「任せなさい!」
トンと胸を一回叩き、大きな塔の正面扉をくぐって内部へ。一階は円形の広大なロビーになっており、周囲をぐるりと色々なショップの類が取り囲んでいる。ロビーの中央には魔法力で動くとおぼしきエレベータが二基設置され、定期的にプレイヤーを吸い込んだり吐き出したりしている。アルヴヘイム時間では夜が明けたばかりだが、現実では夕方に差し掛かっているので、行き交う人の数がそろそろ増え始める頃だ。
キリトの腕を引っ張りながら、ちょうど降りてきた右側のエレベータに駆け込もうとした、その時。
不意に傍らから数人のプレイヤーが現われ、二人の行く手を塞いだ。激突する寸前で、どうにか翅を広げて踏みとどまる。
「ちょっと危ないじゃない!」
反射的に文句を言いながら、目の前に立ち塞がる長身の男を見上げると、それはリーファのよく知った顔だった。
シルフにしては図抜けた背丈に、荒削りだが男っぽく整った顔。この外見を手に入れるためには、かなりの幸運か、かなりの投資が必要だったと思われる。体をやや厚めの銀のアーマーに包み、腰には大ぶりのブロードソード。額に幅広の銀のバンドを巻き、波打つ濃緑の髪を肩の下まで垂らしている。
男の名前はシグルド。ここ数ヶ月リーファがよく行動を共にしているパーティーの前衛だ。見れば、彼の両脇に控えているのもパーティーメンバーである。レコンもいるのかと思って更に周囲に目をやったが、目立つ黄緑色の髪は視界に入らなかった。
シグルドはシルフ最強剣士の座をいつもリーファと争う剛の者で、また同時に、主流派閥に関わるのを忌避しているリーファと違って政治的にも実力者だ。現在のシルフ領主――月に一回の投票で決定され、税率やその使い道を決める指導者プレイヤー――の側近としても名を馳せる、言わば超アクティブ・プレイヤーである。
その恐るべきプレイ時間に裏打ちされた数値的ステータスはとてもリーファの及ぶところではなく、シグルドとのPvPデュエルはいつも、運動性に優るリーファがいかにして彼の膨大なHPを削りきるかというしんどい戦いになる。それだけに、狩りではフォワードとして実に頼もしい存在感を発揮するのだが、反面その言動はやや独善的で、束縛を嫌うリーファを辟易とさせる局面も少なからずあった。今のパーティーでの稼ぎは確かにかなりの効率なのだが、そろそろ抜ける潮時かな、と最近は考えないでもない。
そして今、リーファの前にずしりと両足を広げて立つシグルドの口許は、彼が最大限の傲慢さを発揮させる時特有の角度できつく結ばれていた。これは面倒なことになりそうだ――と思いながら、リーファは口を開いた。
「こんにちは、シグルド」
笑みを浮べながら挨拶したものの、シグルドはそれに応える心境ではないらしく、唸り声を交えながらいきなり切り出した。
「パーティーから抜ける気なのか、リーファ」
どうやら相当に機嫌が悪いらしいシグルドを、ちょっとアルンまで往復するだけ、と言って宥めようと一瞬考えたが、なんだか急に色々なことが面倒になってしまって、気づくとリーファはこくりと頷いていた。
「うん……まあね。貯金もだいぶできたし、しばらくのんびりしようと思って」
「勝手だな。残りのメンバーが迷惑するとは思わないのか」
「ちょっ……勝手……!?」
これにはリーファも少々かちんと来た。前々回のデュエルイベントで、激戦の末シグルドを下したリーファを試合後にスカウトにきたのは彼自身である。その時リーファが出した条件は、パーティー行動に参加するのは都合のつくときだけ、抜けたくなったらいつでも抜けられる、という二つで、つまり束縛されるのは御免だとしっかり伝えてあったつもりなのだが――。
シグルドはくっきりと太い眉を吊り上げながら、なおも言葉を続けた。
「お前は我がパーティーの一員として既に名が通っている。そのお前が理由もなく抜けて他のパーティーに入ったりすれば、威信に泥を塗られることになる」
「…………」
シグルドの大仰な台詞に、リーファはしばし言葉を失って立ち尽くした。唖然としつつも、やっぱり――という思いが心中に去来する。
シグルドのパーティーに参加してしばらく経った頃、リーファの相方扱いで同時にメンバーになったレコンが、いつになくマジメな顔で忠告してきたことがあったのだ。
このパーティーに深入りするのはやめたほうがいいかもしれない、と彼は言った。理由を聞くと、シグルドはリーファを戦力としてスカウトしたのではなく、自分のパーティーのブランドを高める付加価値として欲しがったのではないか――更に言えば、自分に勝ったリーファを仲間、というより部下としてアピールすることで勇名の失墜を防いだつもりなのではないか、と。
まさかそんな、と笑い飛ばしたリーファに向かってレコンは力説したものだ。曰く――性別逆転の許されないVRMMOにおいては女性プレイヤーは希少な存在であり、それゆえに戦力としてよりアイドルとして求められる傾向にあり、ましてリーファちゃんみたいなかわいい女の子はレジェンダリーウェポン以上にレアであり見せびらかし用に欲しがられて当然なのであり中にはそれ以上の下心を抱いてる奴も多いのでありしかし自分に関しては一切そんなつもりは無くあくまでピュアかつリアルなお付き合いを望んでいるのであり云々かんぬん。
どさくさに紛れて妙なことを口走り始めたレコンに体重を乗せたリバー・ブローを一発撃ちこんで黙らせておいて、リーファは一応真剣に考えてみた。のであるが、自分がアイドル扱いされているなどという状況にはどうにも現実感がわかなかったし、ただでさえ覚えることの多いMMORPGが更にややこしくなりそうだったので、それ以上考えるのをやめ、今日までさして大きな問題もなくパーティープレイをこなしてきたのだったが――。
怒りと苛立ちを滲ませて立つシグルドの前で、リーファは全身に重苦しく絡みつくしがらみの糸を感じていた。ALOに求めているのは、すべての束縛から脱して飛翔するあの感覚だけ。何もかも振り切って、どこまでも飛びたいと、それだけを望んでいたのに……。
しかし、それは無知ゆえの甘えだったのだろうか。全ての人が翅を持つこの仮想世界なら、現実世界の重力を忘れられる――と思ったのは幻想だったのだろうか?
リーファ/直葉は、小学校の頃よく自分を苛めた剣道場の上級生のことを思い出していた。入門して以来道場で敵なしだったのが、いつしか年下でその上女の直葉に試合で勝てなくなってしまい、その報復としてよく帰り道で仲間数名と待ち伏せては卑小な嫌がらせを行った。そんな時、その上級生の口許は、今のシグルドと良く似た憤懣に強張っていたものだ。
結局、ここも同じなのか――。
やるせない失望に囚われ、リーファがうつむいた、その時だった。背後に下がり、影のように気配を殺していたキリトが、ぼそりと呟いた。
「数を恃む奴はいずれ死ぬ」
「え……?」
その言葉の意味が咄嗟につかめず、リーファは目を見開きながら振り向いた。同時にシグルドが唸り声を上げた。
「……なんだと……?」
キリトは一歩踏み出すと、リーファとシグルドの間に割って入り、自分より頭一つぶんほども背の高い威丈夫に向き合った。
「仲間の数に頼る奴は長生きできないって言ったのさ。あんたのその剣は、背中を女の子に守ってもらわなきゃ振れないのか」
「きッ……貴様ッ……!!」
あまりにもあからさまなキリトの言葉に、シグルドの顔が瞬時に赤く染まった。肩から下がった長いマントをばさりと巻き上げ、剣の束に手をかける。
「屑漁りのスプリガン風情がつけあがるな! リーファ、お前もこんな奴の相手をしてるんじゃない! どうせ領地を追放されたレネゲイドだろうが!」
今にも抜刀しそうな勢いでまくし立てるシグルドの台詞に、ついカッとしたリーファも思わず叫び返していた。
「失礼なこと言わないで! キリト君は――あたしの新しいパートナーよ!」
「なん……だと……」
額に青筋を立てながらも、シグルドは声に驚愕をにじませて唸った。
「リーファ……領地を捨てる気なのか……」
その言葉に、リーファはハッとして目を見開いた。
ALOプレイヤーは、そのプレイスタイルによって大きく二種に分かれる。
ひとつは、今までのリーファやシグルドのように領地を本拠にして同種族のパーティーを組み、稼いだユルドの一部を領主に上納して種族の勢力を発展させようとするグループ。もうひとつが、領地を出て中立都市を本拠とし、異種族間でパーティーを組んでゲーム攻略を行うグループだ。前者は後者を目的意識に欠けるとして蔑視することが多く、領地を捨てた――自発的、あるいは領主に追放された場合を問わず――プレイヤーを脱領者、レネゲイドと呼称している。
リーファの場合は、共同体としてのシルフ族への帰属意識は低いのだが、スイルベーンが気に入っていることと、あとの半分は惰性で領地に留まり続けていた。だが今シグルドの言葉によって、リーファの中に、解き放たれたい――という欲求が急速に浮かび上がってきたのだった。
「ええ……そうよ。あたし、ここを出るわ」
口をついて出たのは、その一言だった。
シグルドは唇を歪め、食いしばった歯をわずかに剥きだすと、いきなりブロードソードを抜き放った。燃えるような目でキリトをねめつける。
「……小虫が這いまわるくらいは捨て置こうと思ったが、泥棒の真似事とは調子に乗りすぎたな。のこのこと他種族の領地まで入ってくるからには斬られても文句は言わんだろうな……?」
芝居がかったシグルドの台詞に、キリトは肩をすくめるだけの動作で応じた。その糞度胸に半ばあきれつつも、リーファは本当に戦闘になったらシグルドに斬りかかる覚悟で腰の長刀に手を添えた。緊迫した空気が周囲に満ちた。
と、その時、シグルドの背後にいた彼の部下が小声で囁いた。
「今はやばいっすよ、シグルドさん。こんな人目があるとこで無抵抗の相手をキルしたら……」
周囲にはいつの間にか、トラブルの気配に引かれたように見物人の輪ができていた。正当なデュエルならともかく、この場では攻撃権を持たないキリトをシグルドが一方的に攻撃するのは確かに褒められた行為ではない。
シグルドは歯噛みをしながらしばらくキリトを睨んでいたが、やがて剣を鞘に収めた。
「せいぜい外では逃げ隠れることだな。――リーファ」
キリトに捨て台詞を浴びせておいてから、背後のリーファにも視線を向けてくる。
「……今オレを裏切れば、近いうちに必ず後悔することになるぞ」
「留まって後悔するよりはずっとマシだわ」
「戻りたくなったときのために、泣いて土下座する練習をしておくんだな」
それだけ言い放つと、シグルドは身を翻し、塔の出口へと歩き始めた。付き従うパーティーメンバー二人は、何か言いたそうにしばらくリーファの顔を見ていたが、やがて諦めたようにシグルドを追って走り去っていった。
彼らの姿が消えると、リーファは大きく息を吐き出し、キリトの顔を見た。
「……ごめんね、妙なことに巻き込んじゃって……」
「いや、俺も火に油を注ぐような真似しちゃって……。しかし、いいのか? 領地を捨てるって……」
「あー……」
リーファはどう言ったものか迷った挙句、無言でキリトの手を取って歩き始めた。野次馬の輪をすり抜けて、ちょうど降りてきたエレベータに飛び乗る。最上階のボタンを押すと、半透明のガラスでできたチューブの底を作る円盤状の石がぼんやりと緑色に光り始め、すぐに勢い良く上昇を開始した。
数十秒後、エレベータが停止すると壁面のガラスが音も無く開いた。白い朝陽と心地よい風が同時に流れ込んでくる。
足早にチューブから風の塔最上部の展望デッキに飛び出す。数え切れないほど訪れたことのある場所だが、四方に広がる大パノラマは何度見ても心が浮き立つ。
シルフ領は、アルヴヘイムの南西に位置する。西側は、しばらく草原が続いたあとすぐに海岸となっており、その向こうは無限の大海原が青く輝いている。東は深い森がどこまでも連なり、その奥には高い山脈が薄紫色に連なる。その稜線の更に彼方に、ほとんど空と同化した色で一際高くそびえる影――世界樹。
「うお……凄い眺めだな……」
リーファに続いてエレベータを降りたキリトが、目を細めてぐるりと周囲を見回した。
「空が近いな……。手が届きそうだ……」
瞳に憧憬にも似た色を浮かべて青い空を仰ぎ見るキリトに並んで、リーファはそっと右手を空にかざし、言った。
「でしょ。この空を見てると、ちっちゃく思えるよね、色んなことが」
「……」
キリトが気遣わしげな視線を向けてくる。それに笑顔を返し、リーファは言葉を続けた。
「……いいきっかけだったよ。いつかはここを出ていこうと思ってたの。一人じゃ怖くて、なかなか決心がつかなかったんだけど……」
「そうか。……でも、なんだか、喧嘩別れみたいな形にさせちゃって……」
「あの様子じゃ、どっちにしろ穏便には抜けられなかったよ。――なんで……」
その先は、半ば独り言だった。
「なんで、ああやって、縛ったり縛られたりしたがるのかな……。せっかく、翅があるのにね……」
それに答えたのはキリトではなく、彼の肩、ジャケットの大きな襟の下から顔を出したユイという名のピクシーだった。
「フクザツですね、人間は」
きららんと音を立てて飛び立つと、キリトの反対側の肩に着地し、小さな腕を組んで首を傾げる。
「ヒトを求める心を、あんなふうにややこしく表現する心理は理解できません」
彼女がプログラムであることも一瞬忘れ、リーファはユイの顔を覗きこんだ。
「求める……?」
「他者の心を求める衝動が人間の基本的な行動原理だとわたしは理解しています。ゆえにそれはわたしのベースメントでもあるのですが、わたしなら……」
ユイは突然キリトの頬に手を添えると、かがみこんで音高くキスをした。
「こうします。とてもシンプルで明確です」
あっけに取られて目を丸くするリーファの前で、キリトは苦笑いしながら指先でユイの頭をつついた。
「人間界はもうちょっとややこしい場所なんだよ。気安くそんな真似したらハラスメントでバンされちゃうよ」
「手順と様式ってやつですね」
「……頼むから妙なことを覚えないでくれよ」
キリトとユイのやり取りを呆然と眺めていたリーファは、どうにか口を動かした。
「す、すごいAIね。プライベートピクシーってみんなそうなの?」
「こいつは特にヘンなんだよ」
言いながらキリトはユイの襟首をつまみあげると、ひょいと胸ポケットに放り込んだ。
「そ、そうなんだ……。――人を求める心……かぁ……」
リーファはピクシーの言葉を繰り返しながら、かがめていた腰を伸ばした。
なら――、この世界でどこまでも飛んでいきたいと願っている自分の気持ちも、実はその奥で誰かを求めているのだろうか。不意に、和人の顔が脳裏を過ぎって、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
ひょっとしたら……この妖精の翅を使って、現実世界のいろんな障害を飛び越えて、和人の胸に飛び込んでいきたいと――そう思っているんだろうか……。
「まさかね……」
考えすぎだ。心の中でそう呟いた。今は、ただ飛びたい。それだけだ。
「ん? 何か言った?」
「な、なんでもないよ。……さ、そろそろ出発しよっか」
キリトに笑顔を向けると、リーファは空を振り仰いだ。夜明けの光を受けて金色に輝いていた雲もすっかり消え去り、深い青がどこまでも広がっていた。今日はいい天気になりそうだった。
展望台の中央に設置されたロケーターストーンという石碑を使ってキリトに戻り位置をセーブさせると、リーファは四枚の翅を広げて軽く震わせた。
「準備はいい?」
「ああ」
キリトと、彼の胸ポケットから顔を出したピクシーがこくりと頷くのを確認して、いざ離陸しようとしたところで――。
「リーファちゃん!」
エレベータから転がるように飛び出してきた人物に呼び止められ、リーファはわずかに浮いた足を再び着地させた。
「あ……レコン」
「ひ、ひどいよ、一言声かけてから出発してもいいじゃない」
「ごめーん、忘れてた」
がくりと肩を落としたレコンは、気を取り直したように顔を上げるといつになく真剣な顔で言った。
「リーファちゃん、パーティー抜けたんだって?」
「ん……。その場の勢い半分だけどね。あんたはどうするの?」
「決まってるじゃない、この剣はリーファちゃんだけに捧げてるんだから……」
「えー、別にいらない」
リーファの言葉に再びレコンはよろけたが、この程度でメゲるような彼ではない。
「ま、まあそういうわけだから当然僕もついてくよ……と言いたいとこだけど、ちょっと気になることがあるんだよね……」
「……なに?」
「まだ確証はないんだけど……少し調べたいから、僕はもうしばらくパーティーに残るよ。――キリトさん」
レコンは、彼にしては最大限にマジメな様子でキリトに向き直った。
「彼女、トラブルに飛び込んでくクセがあるんで、気をつけてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
どこか面白がっているような表情でキリトが頷く。
「――それから、言っておきますけど彼女は僕のンギャッ!」
語尾の悲鳴はリーファが思い切りレコンの足を踏みつけたことによるものだ。
「余計なこと言わなくていいのよ! ――しばらくアルンにいると思うから、何かあったらメールでね。じゃね!!」
早口でまくし立てると、リーファは翅を広げ、ふわりと浮き上がった。名残惜しそうな顔のレコンに向かって二分の一秒ほど手を振ると、くるりと向きを変えて塔から離れ、北東の方角に滑空を始める。
すぐに隣に追いついてきたキリトが、笑いを押し殺したような表情のまま言った。
「彼、リアルでも友達なんだって?」
「……まあ、一応」
「ふうん」
「……何よ、そのふうんってのは」
「いやあ、いいなあと思ってさ」
キリトに続けて、彼の胸ポケットからピクシーも言った。
「あの人の感情は理解できます。好きなんですね、リーファさんのこと。リーファさんはどうなんですか?」
「し、知らないわよ!!」
つい大声で叫んでしまい、リーファは照れ隠しにスピードを上げた。レコンの直球な態度にはいいかげん慣れてしまっているのだが、キリトの隣でやられると何故か妙に恥ずかしかった。
気づくと、いつの間にか街を出て、森の縁に差し掛かっていた。リーファは体を半回転させて後進姿勢を取り、遠ざかっていく翡翠の街を見つめた。
一年を過ごしたスイルベーンから離れることを思うと、郷愁に似た感情がちくりと胸を刺したが、未知の世界へ旅立つ興奮がすぐにその痛みを薄めていった。バイバイ、と心のなかで呟いて、再び向き直る。
「――さ、急ごう! 一回の飛行であの湖まで行くよ!」
はるか彼方にきらきらと輝く湖面を指差し、リーファは思い切り翅を鳴らした。
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じっとりと冷たい指先が自分の二の腕を這い回る感触に、アスナはひたすら耐えていた。
鳥かごの中央、巨大なベッドの上。緑のトーガをだらしなく着崩したオベイロンが長々と体を横たえ、隣に顔を背けて座るアスナの左手を取って肌を撫でまわしている。その気になればいつでも襲える、という状況を楽しんでいるのだろう、端正な作り物の顔にはいつにも増して粘つくような笑いが浮かんでいる。
先刻、オベイロンが鳥かごに入ってくるなりベッドに横たわり、隣に来いと言ったときは無論拒絶してやろうと思ったし、腕をいじくりはじめた時は殴りかかってやろうと思った。それでも、嫌悪感に耐えて唯々諾々と言葉に従ったのは、感情の起伏が激しいこの男に、今以上に自由を奪われるのを恐れたからだ。むしろオベイロンはアスナが反抗するのを待っているフシがある。たっぷりとアスナが嫌がる様を満喫した上で、システム的に束縛してから挙に及ぼうと言うのだろう。今はまだ、せめて籠の内部だけでも自由に動ける状態を確保しておかなければならない。――少しでも脱出の可能性が残されているうちは。
しかし勿論限度というものがある。もしこの男が体に触れてきたら、右拳を思い切り顔の真ん中に叩き込んでやろう――。そう思いながらアスナが石のように身を固くしていると、いくら腕を撫で回してもアスナが何の反応も見せないことに失望したのか、オベイロンは手を離すとごろりと体を上向けた。
「やれやれ、頑なな女だね、君も」
少々不貞腐れたように言う。その声だけは、記憶にある須郷のものを完全に再現していて、それがまた嫌悪の元になる。
「どうせ偽物の体じゃないか。何も傷つきゃしないよ。一日中こんな所にいて退屈するだろう? 少しは楽しもうって気にならないのかねえ」
「……あなたにはわからないわ。体が生身か、仮想かなんてことは関係ない。少なくともわたしにとってはね」
「心が汚れるとでも言いたいのかね」
オベイロンは喉の奥でくくっと笑った。
「どうせこの先、僕が地位を固めるまでは君を外に出すつもりはない。今のうちに楽しみ方を学んだほうが賢明だと思うけどねえ。あのシステムは実に奥が深いよ、知ってた?」
「興味ないわ。……それに、いつまでもここにいるつもりもない。きっと……助けに来るわ」
「へえ? 誰が? ……ひょっとして彼かな? 英雄キリト君」
その名前を聞いて、アスナは思わずびくりと体を震わせた。オベイロンはニヤニヤ笑いを大きくしながら上体を起こした。アスナの心をくじくスイッチをよくやく見つけた――と言わんばかりに、勢い良く喋りはじめる。
「彼……キリガヤ君とか言ったかな? 本名は。先日、会ったよ。向こうでね」
「……!!」
それを聞いた途端、アスナはさっと顔を上げ、オベイロンを正面から見つめた。
「いやあ、あの貧弱な子供がSAOをクリアした英雄とはとても信じられなかったね! それとも、そういうモノなのかな、筋金入りのゲームマニアってのは?」
嬉々とした表情で、オベイロンがまくし立てる。
「彼と会ったの、どこだと思う? ……君の病室だよ、本当の体がある、ね。寝ている君の前で、来月この子と結婚するんだ、と言ってやったときの彼の顔は実に傑作だったね!! 骨を取り上げられた犬だってあんな情けない顔はしないね、大笑いしそうになったよ!!」
くひっ、くひっと妙な笑い声を切れ切れに発しながら、オベイロンは体を捩った。
「じゃあ君は、あんなガキが助けにくると信じているわけだ! 賭けてもいいけどね、あのガキにはもう一回ナーヴギアを被る根性なんてありゃしないよ! 大体君のいる場所がわかる筈がないだろうに。そうだ、彼に結婚式の招待状を送らないとな。きっと来るよ、君のウェディングドレス姿を見にね。まあそれくらいのおこぼれは与えてやらないとね、英雄君に!」
アスナは再びゆっくりうつむくと、オベイロンに背を向け、体をベッドの天板に掛けられた大きな鏡に預けた。力なく肩を落とし、クッションをぎゅっと握り締める。
そのアスナの様子に満足したのか、鏡の中でオベイロンがベッドから降り、立ち上がった。
「あの時は監視カメラを切っておいたから、しょぼくれた彼を撮影できてないのは惜しかったなぁ。もし撮れてれば動画を持ってきてやったのに。次の機会があったら試みるよ。ではしばしの別れだ、ティターニア。明後日まで、寂しいだろうが堪えてくれたまえ」
最後に一回ククッと笑うと、オベイロンは身を翻した。トーガの裾を揺らしながら、ドアに向かって歩いていく。
鏡の中に、小さくなるオベイロンの姿を捉えながら、アスナはすすり泣く様子を装いつつ心の中で思い切り叫んだ。
(――馬鹿な男!!)
まったく、頭はいいのかもしれないが実に愚かな男だ。昔からそうだった。他人を言葉でこき下ろす衝動が我慢できないのだ。アスナの両親の前ではうまく猫を被っていたが、アスナや兄は、須郷の他人に対する毒舌には何度も辟易とさせられていた。
今も、そうだ。本当にアスナの心を折ろうとするなら、彼は現実世界でのキリトのことを話すべきではなかった。彼は死んだと言うべきだったのだ。
この世界に囚われてからの、それがアスナの最大の憂慮だった。自分だけがこの世界に転送され、キリトの意識は消滅してしまったのではないか――、必死に打ち消しながらも、その想像はアスナの心に毒を垂らしつづけた。
しかし今や、オベイロンがその憂慮をきれいに打ち払ってくれた。
(キリト君は――生きてる!!)
何度も、心の中でその言葉を噛み締める。その度に、アスナの中に灯った炎は確固としたものになっていく。
生きているなら、彼が状況を黙視しているはずがない。絶対にこの世界のことを探り出し、やってくる。だから、自分もただ囚われているわけにはいかない。出来る事を見つけ出し――躊躇せず実行に移すのだ。
アスナは、鏡に顔をつけて悲嘆に暮れる様を装った。鏡の中では、はるか遠くのドアにたどり着いたオベイロンが、こちらをちらりと振り返り、アスナの様子を確認している。
ドアの脇には小さな金属のプレートがあり、そこには十二の小さなボタンが並んでいる。それを正しい順で押すことによってドアが開閉するのだ。
何もそんな厄介な仕組みにしなくても、管理者属性の者だけがドアを開けられるようにすればいいではないかと思ったが、どうやらオベイロンには彼なりの美学があって、この場所にシステム臭のするものを持ち込むのが嫌いらしい。あくまで自分は妖精の王であり、囚われの王妃を虐げているつもりなのだ。
それもまた彼の愚かしさであり瑕(キズ)だ。
オベイロンが手を上げ、金属板を操作している。彼の立つ場所はアスナからは遠く、遠近エフェクトによってディティールが減少し、どのボタンを押しているのかはわからない。それを確認済ゆえにオベイロンはそんなシステムでもこの檻は磐石だと思っている。
それはその通りだ――オベイロンを直接見る場合に限っては。
彼はナーヴギアの作り出す仮想世界に触れてまだ間がない。だから知らないこともたくさんある。例えば、この世界の鏡は光学現象ではない、ということをだ。
アスナは泣くふりをしながら、至近距離から鏡に目を凝らした。そこには、くっきりとオベイロンの姿が映し出されている。現実の鏡なら、どんなに顔を近づけても遠くにあるものが詳細に見えたりはしないが、ここではオブジェクトとしての鏡の表面に微細なピクセルを用いて、映るべきものが計算され、表示されているのだ。遠近エフェクトも、鏡の中までは及ばない。指先の動きがはっきりと見える。
このアイデアを思いついたのはかなり前だ。しかし、オベイロンが部屋を出るときに、自然に鏡に近づくチャンスが今日までなかった。この機を逃すわけにはいかない。
(……8……11……3……2……)
オベイロンがボタンを押す順番を、アスナはしっかりと心に刻み付けた。やがてドアが開き、オベイロンがそこをくぐるとガシャリと音を立てて閉まった。黒地に碧玉色の翅を揺らしながら妖精王は樹上の道を遠ざかっていき、やがてその姿が消えた。
中天に輝く太陽が、鳥かごの中に格子状の影を作り出していた。その碁盤模様がゆっくりと伸びていくのを、アスナはじりじりしながら待ちつづけた。
現在分かっていることは、そう多くはない。
ここが『アルヴヘイム・オンライン』という、SAOタイプのバーチャルMMOゲームの内部で、信じがたいことだがそのゲームは正式にユーザーを募って運営されていること。オベイロン/須郷はそのサーバーを利用して元SAOプレイヤーの一部、約二千人の"頭脳を監禁"し、違法な人体実験に使用していること。それだけだ。
なぜ世間に知られたゲーム内で違法実験を行うような危険な真似をするのか聞いてみたところ、須郷は鼻を鳴らして答えた。――君ねえ、この種のターミナルを動かすのに幾らかかるのか知ってるのかい? サーバ一台でウン千万だよ! こうすれば会社は利益を上げられるし僕は研究ができる、一石二鳥じゃないかね。
つまりは財布の事情だったわけだが、それはアスナにとっても都合がいいことだった。完全にクローズドな環境なら手の出しようがないが、現実世界と繋がっているならばどこかにきっと綻びがある。
この世界での一日が、現実よりいくぶん早く経過しているのはオベイロンからそれとなく聞き出してあった。つまり、現実では今が何時なのかを推測するのは容易なことではないが、その難問に対する回答はまたしてもオベイロン本人が意図せず提供してくれていた。
彼がここにやってくるのは二日に一度、業務が終了してから、会社の端末を使用してダイブしているのだということが分かっている。生活のサイクルを守ることに固執する彼の性癖はよく知っているので、その時間はほぼ一定と考えていい。ゆえに行動を起こすなら、彼が帰宅し、眠りについてからのほうが望ましい。
無論、この陰謀に関わっているのは彼一人ではないだろう。だがこれは明らかな犯罪行為だ。ALO運営企業全体が荷担しているとは考えにくい。よくて数人――。それが皆須郷直属の部下なのだとしたら、夜通しALO内部を監視するのはほとんど不可能なはずだ。毎晩徹夜できるサラリーマンなどいるはずがない。
どうにか彼らの目をくぐり抜けてこの鳥かごから脱出し、どこかにあるであろうシステム端末にアクセスしてログアウトしてしまえば。それが不可能でも外部にメッセージさえ送れれば――。ベッドの上にうつ伏せになり、枕に顔を押し当てた格好で、アスナはひたすら時間が経過するのを待ちつづけた。