第二章 『妖精境の剣士』
中天にかかる巨大な月が、深い森を水底のように青く染め上げている。
アルヴヘイムの夜は長い。まだ曙光が射すまでにはずいぶん間がある。普段なら不気味なだけの深夜の森だが、撤退行動中の今はこの暗さがありがたい。
リーファはひときわ大きな樹の陰から、はるか高みの星空を見上げた。今のところ、天空を往く不吉な黒い影は見えない。押し殺した声で傍らのパーティーメンバーに言う。
「羽根が回復したらすぐに飛ぶからね。準備してて」
「ええー……僕、まだ目眩が……」
情けない声で相棒が答える。
「また酔ってるのぉ? 情けないなぁ……いいかげん慣れなさいよレコン」
「そんな事言ったって怖いものは怖いよ……」
リーファはやれやれという心境でため息をついた。
大樹の根元にしゃがみこむレコンという少年プレイヤーは、リーファとは現実世界でも友人で、ALOを始めたのも同時期である。つまりリーファと同じく約一年のキャリアがあるはずなのだが、いつまで経っても飛行酔いが克服できない。空中戦闘能力が強さの全てと言っていいALOで、一度や二度の乱戦でへばっているようでは正直頼りない。
とは言え、リーファはレコンのそんな所が嫌いではない。強いて言えば放っておけない弟、みたいなものだろうか。外見もそんなキャラクターを裏切らず、背の低い華奢な体に黄緑色のおかっぱ風の髪、長い耳も下方向に下がり、顔は泣き出す寸前で固定されたような作りだ。ランダム生成されたにしてはあまりにも現実の彼を彷彿とさせるその姿を、ゲームにジョインした直後に初めて見たときは大笑いしてしまったものだ。
もっともレコンに言わせればリーファの姿も現実の彼女にかなり似ているらしい。シルフ種族の少女にしては少しばかり骨太の体に、眉も目もきりっとした作り。
せめて仮想世界では「たおやか」といった表現の似合う姿を期待していたのだが、まあ客観的に見れば可愛い、と言っていい容姿ではある。それはこの世界ではかなりの幸運に恵まれないと得られないものであるし――満足できる姿を手に入れるまでゲームパッケージを二桁個ムダにした者もザラにいる――リーファとしては決して不満があるわけではない。
付け加えれば、ALO内での容姿はキャラクターの性能には一切影響しないので、レコンがすぐに目を回すのは純粋に彼の平衡感覚の頼りなさによるものだ。
リーファは手を伸ばすと、レコンの装備したブレストアーマーの襟首を掴み、強引に立たせた。背中の透明な四枚の翅を覗き込むと、飛行力が回復した証として薄緑の燐光に包まれている。
「よし、もう飛べるね。次の飛行で森を抜けるよ」
「え〜〜……きっと追手はもう撒いたよ〜。もう少し休もうよ」
「甘い!! サラマンダーどもの中に索敵スキルの高い奴が一人いたから、下手するともう見付かってるよ。二人じゃ次の空中交錯(エアレイド)には耐えられない。根性でテリトリーまで飛ぶのよ!!」
「ふわーい……」
レコンは情けない返事をすると、左手で宙を握る仕草をした。その手の中に、半透明のスティック状のオブジェクトが出現する。短い棒の先端に小さな球がくっついたそれは、ALOで飛行するときに使用する補助コントローラだ。レコンが軽く手前にスティックを引くと、四枚の翅がふわりと伸び、わずかに輝きを増す。
それを確認して、リーファも自分の翅を広げ、二、三度震わせた。こちらはコントローラを使用しない。ALO内での一流戦士の証、高等技術の意思飛行をマスターしているためその必要がないのだ。
「じゃ、行くよ!!」
低い声で叫ぶと、リーファは一気に地を蹴って飛び立った。背中の翅をいっぱいに伸ばして、梢の向こうに見える満月目指して急上昇する。風が頬を叩き、長いポニーテールを揺らす。
数秒で森を突き抜け、リーファは樹海の上空に飛び出した。視界いっぱいに広大なアルヴヘイムの風景が広がる。途方も無い開放感。
「ああ……」
両手を広げ、はるかな高みを目指して上昇しながら、リーファは法悦のため息を漏らした。この瞬間、この感覚だけは何ものにも替えがたい。泣きたいほどの高揚。はるか古代から、人間は空行く鳥に憧れつづけた。そしてとうとう手に入れたのだ――己自身の翼を、この幻想の世界で。
システム的に課せられた滞空制限が恨めしい。心ゆくまで、どこまでも高く遠く飛びつづけられるなら、何を犠牲にしても惜しくない。
もっとも、それはアルヴヘイムで戦う全てのプレイヤーの望みなのだ。他種族に先駆け世界樹の上にあるという伝説の空中都市に到着し、真なる妖精アルフに生まれ変わる――そうなれば、滞空制限は一切解除され、名実ともにこの無限の空の支配者となれるという。
リーファは、自分のステータスの強化にも、レアアイテムの入手にも興味がない。この世界で戦い続ける理由はただ一つ――。
今はまだ届かない金色の月目指して、リーファは一回大きく羽根をふるわせた。零れ落ちた光の粒が、彗星のような緑色の尾となって夜空に流れた。
「り、リーファちゃん〜〜、待って〜〜」
――という弱々しい声が下方から響いてきて、リーファの意識を現実に引き戻した。上昇を停止して見下ろすと、コントローラを握ったレコンが必死にあとを追ってくる。補助システムを使用した飛翔は速度の上限が低いため、リーファが本気で飛ぶとレコンは追随できない。
「ほらもうちょっと、がんばれがんばれ!!」
翅を広げてホバリングしながらレコンに両手で手招きする。顔を上げて周囲を見渡し、広大な樹海のかなた、夜闇の中に一際黒くそびえ立つ世界樹を見つけるとそこを起点にシルフの領土がある方向を見定める。
レコンがようやく同じ高度まで追いついてきたのを確認し、今度は速度を合わせ宙を滑るように飛び始めた。
隣に並んだレコンが、顔を強張らせながら言った。
「ちょ、ちょっと高度取りすぎじゃない?」
「高いほうが気持ちいいじゃない。翅が疲れてもいっぱいグライドできるしさ」
「リーファちゃんは飛ぶと人格変わるしなぁ……」
「なんか言った?」
「う、ううん、なんでも」
軽口を叩きながら、アルヴヘイム西域にあるシルフ領目指して巡航していく。
今日は、レコンを含む気心の知れた仲間四人と待ち合わせ、シルフ領の南西、中立域の中級ダンジョンで狩りをした。幸い他のパーティーと鉢合わせることもなく充実した冒険を行い、たっぷりとお金とアイテムを稼いでさて帰ろうというところで、サラマンダーの八人パーティーに待ち伏せされてしまったのだ。
異種族同士なら戦闘可能なALOではあるが、あからさまに追い剥ぎめいたことをするプレイヤーはむしろ少数派と言っていい。特に今日の冒険は、現実時間では平日の午後ということもあって、そう大人数の襲撃部隊は現れないだろうと予想していたのだが、見事にその油断を突かれてしまった。
逃亡しながらの二度のエアレイドで敵味方とも三人ずつを減らし、もともと人数の少なかったリーファたちはとうとう二人を残すのみになってしまったが、飛行速度でサラマンダーに優るアドバンテージを活かしてどうにか追撃を振り切り、あと少しでシルフ領に到達できるというところまで来た。二度の戦闘で酔ったレコンの回復に時間を取られてしまったが、この調子ならどうにかテリトリーに逃げ込めそうだ――と思いながら、リーファが何気なく背後の森を振り返ったとき――。
鬱蒼と立ち並ぶ巨木の下で、オレンジ色の閃光がちかりと瞬いた。
「レコン!! 回避!!」
リーファは咄嗟に叫び、左下方に急速旋回した。直後、木の葉の隙間を貫いて、地上から三本の火線が猛烈な勢いで伸び上がってきた。
高度を取っていたことが幸いし、長く尾を引く熱線はぎりぎりのタイミングで直前に二人が飛行していた空間を焼き焦がしながら夜空へと消えていった。
だが胸を撫で下ろす暇はない。攻撃魔法が放たれた辺りの樹海から、五つの赤い影が飛び出し、急速にリーファたち目掛けて上昇してくる。
「もー、しつこいなあ!!」
リーファは毒づくと、北西の方角に目を凝らした。シルフ領の中央に立つ巨大な『風の塔』の灯りはまだ見えない。
「仕方ない、戦闘準備!!」
叫び、腰からゆるく湾曲した長刀を引き抜く。
「うえー、もうヤダよ」
泣き言をこぼしながらレコンもダガーを抜刀し、構える。
「向こうは五人、負けてもしょうがないけど簡単に諦めたら承知しないからね! あたしがなるべき引き付けるから、どうにか一人は落として」
「善処します……」
「たまにはイイトコ見せてね」
レコンの肩をちょんと突付くと、リーファは顔を引き締め、ダイブの姿勢を取った。体をくるりと丸め、一回転して弾みをつけると、羽根を鋭角に畳んで猛烈な勢いで急降下。くさび型のフォーメーションを組むサラマンダーたち目掛けて無謀とも言える突進を敢行する。
ALO初期からの古参プレイヤーで、経験も装備も充実しているリーファたちのパーティーがみじめに敗走する羽目になったのは、敵の人数もさることながら最近サラマンダー達が編み出したフォーメーション戦法のせいと言っていい。機動性を犠牲にして、赤いヘビーアーマーにぎっちり身を固め、逆にその重量を活かせるランスによる突進攻撃を繰り返すのだ。水平に何本も並んだ長大な槍が、猛烈な勢いで襲い掛かってくる重圧はすさまじく、シルフの利点である軽快性を発揮できる乱戦に持ち込むのが難しい。
だがリーファは、今日の二度の戦闘で、敵の攻撃方法の弱点をなんとなく察していた。持ち前のクソ度胸を発揮して、敵集団の先頭の一人に狙いを定め臆することなくダイブしていく。あっという間に距離が詰まる。敵が構える銀色のランス、その鋭い先端に全神経を集中する。
キィィィという甲高いシルフの突進音と、ギュアアアという鈍い金属質なサラマンダーのそれが奏でる不協和音がみるみる高まり、とうとう二者が交差した瞬間、大気を揺るがす爆発音となって轟いた。
リーファは歯を食いしばり、視線をそらすことなく必殺の威力を秘めたランスの穂先を首を捻るだけの動作で回避した。頬を掠めた先端が燃えるような熱さをそこに残すが無視する。直後、両手で大上段に構えた長刀を敵の赤いヘルメット目掛けて
「セイィィィィ」
叩き込む。
「ラァァァァァ!!」
分厚いバイザーに開いた覗き穴の奥で、恐怖に見開かれる眼と一瞬視線が交錯する――がそれを意識する間もなく、黄緑色のエフェクトフラッシュが炸裂し、すさまじい手応えとともに敵の巨体が吹き飛んだ。
悲鳴を上げながら錐揉み状態で落下していく敵のHPバーは、重装甲のせいで半分も減っていないが、頭部にあれだけの衝撃を受ければしばらく戦列には復帰できないだろう。リーファは即座に意識を切り替える。
(――ここだ!!)
敵の重突進戦法の弱点は、交錯後の切り替えしに時間がかかることだ。残り四人のサラマンダーとすれ違った瞬間、リーファは体を捻り、羽根を一杯に広げて強引な左ターンを行った。
恐ろしい横Gに全身が軋む。それに耐えながら、少しでもクイックに旋回するために右の羽根で推進、左の羽根で制動という無茶な動作を行い、視界の端に同じく左旋回中の敵戦列を捉える。
重武装のサラマンダーは、リーファの狙いを悟っても旋回半径を縮めることができない。その横腹めがけ、ターンを完了したリーファの剣が襲い掛かった。
左端の敵に、リーファの胴薙ぎが見事にヒット。フォーメーションが乱れる。
(このまま乱戦に持ち込んでやる!!)
五人の敵のうち、意思飛行を行っていたのは先程落としたリーダーだけで、残りは全員コントローラ使用だ。混戦時のクイックさはリーファは大きく上回る。
ちらりとレコンの姿を探すと、右端のサラマンダーと熱戦を繰り広げていた。普段は頼りないが彼もベテランプレイヤーの端くれだ。近接戦に持ち込みさえすればダガー使いの本領を発揮する。
リーファも狙った敵の背後にぴたりと張り付き、的確なダメージを与え続けた。いけるかもしれない、とちらりと考える。唯一の不安は先刻の火焔魔法攻撃で、あれは五人の中に少なくとも一人メイジがいることを意味する。武装は全員が同じ金属鎧なので補助的に魔道スキルを選択している魔法戦士だろうが、サラマンダーの操る火焔魔法は低級のものでも侮れない威力を持っている。
フォーメーションの常識として、メイジは左右どちらかの端だろうとリーファは予想していた。つまり、今相手にしている敵か、もしくはレコンが張り付いてちくちくと嫌味な攻撃をしている奴だ。この距離ならスペル攻撃を行う余裕はない。この二人を落とせば、あとは五分の勝負だ。
「ウラァァァァ!!」
リーファは気合とともに再び得意の両手上段斬りを放った。見事に敵の肩口にヒットし、HPバーがぐいっと動いて消滅した。
「畜生!!」
敵が毒づいた直後、その体が深紅の炎に包まれた。ごおっという効果音と共に火焔の雫が飛散し、あとには小さな赤い炎が残される。この火が消えないうちに蘇生魔法なりアイテムを使用すればこの場で復活できるが、約一分が経過してしまうと彼は己のテリトリーに転送されてしまい、そこで蘇生することになる。
リーファは倒した敵のことをすぐに脳裏から振り払い、新たな敵へと目標を定めた。残り三人はまだ長大なランスの扱いに不慣れらしく、接近戦での動きが鈍い。無理な突撃を交互に繰り返してくるが、速度の乗らない突き攻撃など、武器の見切りの達人であるリーファには通用しない。
再び視線を動かすと、レコンも今まさに止めを刺そうというところだった。彼のHPバーもそれなりに減少しているが、回復魔法が必要なほどではない。五対二の圧倒的に不利なエアレイドだったが、これなら勝てる――そう確信し、リーファが長刀を振りかぶった、その時。
下方向から立て続けに伸び上がった炎の渦が、レコンの体を捉えた。
「うわああ!!」
悲鳴を上げてレコンが空中で停止する。
「バカ、止まるな!!」
リーファの叫びが届く前に、瀕死のサラマンダーのランスがレコンの体を貫いた。
「ごめえええええん」
断末魔と謝罪を同時にこなしたレコンが、緑色の光に包まれた。直後、その体が消滅し、先程と同じように小さな残り火が漂う。
すぐに蘇生するとわかっていても、やはり仲間が倒れるのは嫌なものだ。リーファは奥歯を噛み締めるが、感傷に浸っている余裕はない。再び地上から殺到する火焔攻撃を、連続ターンで必死に避ける。
(メイジは先頭の奴だったのか――!!)
そうとわかっていれば、落下するのを追って止めをさしたものを。だが今更悔やんでも遅い。状況は絶対的に不利だ。
しかし、諦めるつもりはない。最後の最後まで醜くあがいて執拗に逆転の一本を狙う、それが長い年月で培ったリーファの美学でありリアリズムである。
スペルの援護で態勢を立て直した二人のサラマンダーが、遠距離からの突撃を開始した。
「来い!!」
叫んで、リーファも上段に長刀を構えた。
--------------------------------------------------------------------------------
「フムグ!!」
途方もなく長い落下の末、情けない悲鳴を発しながら俺はどことも知れぬ場所に着陸した。前記のような声が出たのは、最初に地面に接したのが足ではなく顔面だったからだ。深い草むらに――石畳でなくて本当によかった――顔を突っ込んだ姿勢で数秒間静止したあと、ゆっくりと背中から仰向けに倒れる。
ともかく自由落下が終了した安堵感で、俺はしばらくそのまま寝転がり続けた。
夜だ。深い森の中。樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が、俺の周囲に天を突く勢いで伸び、四方に枝葉を広げている。その向こうに見えるのは星屑を散りばめた黒い空、そして真上に輝く巨大な金色の円盤。
虫の声がする。それに被せて夜鳥が低く歌っている。かすかに響く獣の遠吠え。鼻腔をくすぐる植物の香り。肌を撫でていく微風。すべてが恐ろしく鮮やかに俺の五感を包み込んでいる。現実以上の現実感――まごうことなき仮想世界の手触りだ。
「また……来ちまったなぁ……」
俺は目を閉じてひとりごちた。あの世界から解き放たれて二ヶ月、一度はもう決して訪れることはあるまいとすら思ったダイレクトVRワールドに、再びこうして横たわっている。性懲りもなく――、という言葉が脳裏をよぎり、思わず苦笑する。
だが、あの世界とひとつだけ異なるのは、いつでもここから出られるという保証があることだ……と、そこまで考えたところで、俺は不意にギクリとした。
先程のオブジェクト表示異常、謎の空間移動、あれは何だったのか。そもそも俺はなぜこんな所にいるのか。開始地点は種族のホームタウンだとナビゲータが言っていたではないか。ここはどう見ても街中ではない。
「おい、まさか……まさかねえ……」
俺は片頬を引き攣らせながら、左手を上げ、人差し指を振った。が、何も起こらない。冷や汗をかきながら何度か試したところで、先程聞き流したチュートリアルでメニューの呼び出しは右手、飛行コントローラが左手と教えられたことを思い出す。
右手の指を振ると、今度は軽快な効果音とともに半透明のメインメニューウインドウが開いた。デザインはSAOのものとほとんど同一だ。右に並ぶメニューを食い入るように見つめる。
「あ、あった……」
一番下に、『Log Out』と表示されたボタンが光っていた。ためしに押してみると、「フィールドでは即時ログアウトはできませんが云々」という警告メッセージとともにイエス/ノーボタンが現れる。
ひとまず俺は安堵のため息をついた。片手をつき、上体を起こす。
改めて周囲を見渡すと、どうやら広大な森の奥深くにいるようだった。巨木の連なりが無限に続くばかりで、灯り一つ見えない。なぜこんな所にいるのか見当もつかない。とりあえずマップを開いてみようと、再びウインドウに目を落とす。ボタンに指を伸ばしかけ――俺はあることに気付き、ぴたりと動きを止めた。
ウインドウ最上部には、キリトというお馴染みの名前とスプリガンなる種族名の表示。その下にヒットポイント、マナポイントというステータス数値がある。それぞれ400、80といういかにも初期値然とした数字だ。
俺が目を止めたのは、さらにその下にあるスキルアップポイントという表示だった。これがいわゆる経験値なのだろう。ゲームを始めたばかりの俺は当然ゼロ――であるはずなのだが。
「ええと……いち、じゅう……」
俺は指でゆっくりとケタを数えた。そこには七つの数字が並んでいた。
「二三九万……三千四百二十一……」
呆然と呟く。初期ボーナス値、という可能性もなくはないがそれにしたって膨大すぎる上にキリが悪すぎる。
これはどう考えてもデータがバグっている。こんな所に飛ばされてしまったことといい、システムが不安定なのだろうか。
「大丈夫なのかよこのゲーム……。GMコールってあるのかな……」
呆れつつ再びコマンド群を辿ろうとして、俺はふとなにか記憶にひっかかるものを感じた。スキルアップポイントの数値に目を戻す。なんだか見覚えがあるような気がする。二……三……九……。
不意に電撃のような天啓に打たれ、俺は飛び起きた。
見覚えがあるはずだ。これは俺があの世界で二年かけて稼いだ経験値、そのトータルの数字そのままだ。間違いない、アインクラッドとともに消滅したはずの剣士キリトの最終的ステータス――それが今目の前に表示されている。
俺は激しく混乱した。ありえない事が起きている、としか思えない。別の会社が開発した、別のゲームなのだ。セーブデータが勝手に移動したとでも言うのか。それとも――ここは――
「SAOの中なのか……?」
立ち尽くした俺の唇からうつろな声が漏れた。
たっぷり数十秒は続いた意識の空白からようやく回復した俺は、頭をぶんぶんと振ってからふたたびウインドウに目を戻した。
何が何だかわからないが、とりあえず他の情報がないか探ってみることにして、アイテム欄を開いてみる。
「うわ……」
そこに現れたのは、膨大な数の文字化けした表示の羅列だった。謎の漢字、数字、アルファベットが入り混じり、何がなにやら見当がつかない。
多分、これは俺がアインクラッドで所持していたアイテム群の残滓なのだろう。やはり何らかの原因で旧キリトのデータがこの世界に存在するのだ。
「あっ……待てよ……」
俺は突然、ある可能性に思い至った。
アイテムが残っているなら――あれもあるはずだ。アイテム欄を食い入るように見つめ、指先で画面をスクロールしていく。
「頼む……あってくれ……頼むよ……」
意味をなさない文字列の奔流が眼前を流れていく。心臓が早鐘のように鳴り響く。
「……」
俺の指が無意識のうちにぴたりと止まった。その下に、暖かなライムグリーンに発光するアルファベットの並び。『MHCP001X.zip』。
呼吸をするのも忘れ、俺は震えるゆびでその名前に触れた。アイテムが選択され、カラーが反転する。指を移動させ、下部の『取り出す』というボタンを押す。
ウインドウの表面に、ゆっくりと白い輝きが浮かび上がった。涙滴型にカットされた、大粒のクリスタル。中心部分がとくん、とくんと瞬いている。
俺は両手で宝石をすくいとると、そっと持ち上げた。ほのかなぬくもりを感じる。それを意識しただけで、目頭が熱くなってくる。
神様、お願いします――、胸のなかでそう念じながら、俺は人差し指の先でそっとクリスタルを二度叩いた。その途端、手の中で純白の光が爆発した。
「!!」
目を細め、一歩下がる。光の結晶体は俺の手を離れ、地上から二メートルほどの高さで停止した。光はどんどん強くなる。周囲の木々が青白く染め上げられ、月すらその輝きを失う。
俺が目をいっぱいに開いて見守るなか、光の奔流の中心部分にゆっくりとひとつの影が生まれ始めた。それは徐々に形を変え、色彩をまとっていく。四方にたなびく長い黒髪――純白のワンピース――すらりと伸びた手足――。目蓋を閉じ、両手を胸の前で組み合わせたひとりの少女が、まるで光そのものが凝集したかのような輝きをまといながら、ふわりと俺の眼前に舞い降りてきた。
光の爆発は、始まったときと同じように不意に消え去った。地上からすこし浮いた場所で静止した少女の長い睫毛が震え、目蓋がゆっくりと開いていく。やがて、夜空のように深い色の瞳が、まっすぐに俺を見つめた。
俺は動けなかった。声が出ない。まばたきすらできない。
そんな俺を見ていた少女の、桜色の唇がゆっくりとほころんだ。天使のような――という陳腐な言葉でしか表現できない微笑。それに勇気づけられ、俺は口を開いた。
「俺だよ……ユイ、わかるか……?」
そこまで言ってから、はっとして俺は自分の体を見下ろした。今の俺は、あの世界とはまるで異なる姿だ。自分では確認できないが、服装はおろか顔の造作も違うはずだ。
だが、心配は杞憂だった。少女――ユイの唇がうごき、懐かしい鈴の音のような声が響いた。
「また、会えましたね――パパ」
大粒の涙をきらめかせながら、宙を飛ぶように移動したユイが俺の胸に飛び込んできた。
「パパ……パパ!!」
何度も叫びながら、細い腕を俺の首にかたく回し、頬をすり寄せる。俺もその小さな体をぎゅっと抱きしめる。喉の奥から堪えきれない嗚咽が漏れる。
ユイ――、あの世界で出会い、たった三日だけ一緒に暮らし、そして消えてしまった少女。短い時間だったが、あの日々は俺の中でかけがえのない記憶として焼きついていた。アインクラッドでの長く辛い戦いの中、間違いなく俺が真に幸福だと感じていたあのわずかな日々――。
郷愁にも似た切ない甘さに包まれながら、俺はユイを固く抱いたままいつまでも立ち尽くしていた。こんな奇跡が起きるのだ――だから、アスナとも、きっとまた出会える。もう一度あの暮らしを取り戻せる。
それは、現実世界に帰還してから初めて芽生えた確信だった。
「で、こりゃ一体どういうことなんだろ?」
森の中、先刻墜落した空き地の片隅に手ごろな切り株を見つけて腰掛けた俺は、膝の上のユイに尋ねた。
俺の胸に頬をすり寄せて――こういう仕草はアスナにそっくりだ――至福の笑みを浮かべていたユイは、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「――?」
「いや、ここSAOの中じゃないんだよ実は……」
ユイが消滅してからの経緯をかいつまんで説明する。ユイを圧縮して保存したこと。アインクラッドの消滅。そして新たな世界、アルヴヘイム。だがアスナのことは簡単には言葉にできなかった。
「ちょっと待ってくださいね」
ユイは目を閉じると、何かの声に耳を澄ますかのように首を傾けた。
「ここは――」
ぱちりと目蓋を開け、俺を見る。
「ここは、ソードアート・オンラインサーバーのコピーだと思われます」
「コピー……?」
「はい。基幹プログラム群はほぼ同一です。ただカーディナル・システムのバージョンが少し古いですね。その上に乗っているゲームコンポーネントはまったく新しいものですが……」
「ふむう……」
俺は考え込んだ。
このアルヴヘイム・オンラインがリリースされたのはSAO事件の14ヶ月後、アーガスが消滅し、事後処理をレクトが委託されたしばらく後だ。アーガスの技術資産をレクトが吸収したということになれば、それをそのまま流用して新規のVRMMOを立ち上げるということは十分考えられる。ゲームの根幹を成す感覚シミュレーション・フィードバック技術が出来上がっているなら、開発費は大幅に抑えられるだろう。
つまり、ALOがSAOのコピーシステム上で動いている、という事は有り得なくもない。だが――。
「でも……何で俺の個人データがここにあったんだろう……」
「ちょっとパパのデータを覗かせてくださいね」
ユイは再び目を閉じた。
「……間違いないですね。これはSAOでパパが使用していたキャラクター・データそのものです。システムが共通なのでセーブデータのフォーマットもほぼ同じなのですが、この世界に存在しないアイテムは破損してしまっているようですね……。このままではエラーチェッカーに検出されると思います。アイテムは全て破棄したほうがいいです」
「そうか、なるほどな」
俺はアイテム欄に指を滑らせると、文字化けしているアイテムを全て選択し、まとめてデリートした。残ったのは正規の初期装備品だけだ。
「この経験値はどうしたもんだろう」
「システム上はエラーではないですが……不自然ではありますね。人間のメンテナンスが入ると発見されるかもしれません。使用してしまってはどうでしょう」
「おお、素晴らしい証拠隠滅方法だ。ユイは素質がある」
「へ、へんなこと言わないでください!」
頬をふくらませるユイの頭を撫でながら、俺はコマンドボタンを操作してスキルアップ画面に移動した。
「なるほど、経験値を消費して各種スキルレベルを上げるんだな……。どれどれ」
とりあえずHP増加スキルの上昇ボタンを押してみる。――効果音と共にHPが10増え、経験値が100減少した。
「……この調子で二百万消費すんの……?」
「がんばってください」
にこにこ笑いながらユイが言う。俺は相当にゲンナリしながら、半ば自棄になりつついろいろなスキルの上昇ボタンを押し捲った。
「これはもうビーターというよりチーターだよな……」
――だがまあステータスが強力であるに越したことはない。俺はこれから世界樹とやらに登り、アスナを探しに行かねばならないのだ。まっとうにゲームをプレイする気はもとより無い。
あれこれ悩みつつ数十分をかけてスキルアップポイントをほぼ消費した俺は、大きくひとつ伸びをしてウインドウを消した。
作業の結果わかったのは、この世界では経験値稼ぎはあまり意味が無い、ということだ。SAOに存在した敏捷力や筋力のパラメータは存在しないし、ヒットポイントやマナポイントの上昇幅は微々たるものである。各種武器スキルは、上昇しても装備できる武器の種類が増えるだけで、威力には影響しない。当然SAOに存在した剣技もない。
唯一未知数なのはSAOにはなかった魔法スキルだが、こればかりは使ってみないとわからないということで、適当にあれこれ上昇させておくことにした。
作業を終えた俺は、相変わらず俺に密着して猫のように目を細めているユイに尋ねた。
「そう言えば、ユイはこの世界ではどういう扱いになってるんだ……?」
彼女の実体は人間ではない。SAOのケアプログラムが異常変化を起こし、その結果生まれた人工知能、AIである。
2013年現在、いくつかの最先端の研究機関が「かぎりなく知能に近い人工知能」を発表している。プログラムの「知性的ふるまい」は、突き詰めていくと見かけ上は擬似的な知能と真の知能との境い目があいまいになっていき、現在ではそれら境界上のAIがもっとも先進的なものとされている。
ユイもあるいはそのような存在なのかもしれないし、あるいは最初に生まれた真のAIなのかもしれない。だが俺にとってはどうでもいいことだ。俺はユイを愛しているし、彼女も俺を慕ってくれている。それでじゅうぶんだ。
「えーと、このアルヴヘイム・オンラインにもプレイヤーサポート用の擬似人格プログラムが用意されているようですね。ナビゲートピクシー、という名称ですが……わたしはそこに分類されています」
言うなり、ユイは一瞬難しい顔をした。直後、その体がぱあっと発光し、次いで消滅してしまった。
「お、おい!?」
俺は慌てて声を上げる。立ち上がろうとして――膝の上にちょこんと乗っているモノに気付いた。
身長は十センチほどだろうか。ライトマゼンタの、花びらをかたどったミニのワンピースから細い手足が伸びている。背中には半透明の翅が二枚。まさに妖精と言うべき姿だ。愛くるしい顔と長い黒髪は、サイズこそ違うがユイのままである。
「これがピクシーとしての姿です」
ユイは俺の膝上で立ち上がると、両腰に手を当てて翅をぴこぴこと動かした。
「おお……」
俺はやや感動しながら指先でユイのほっぺたをつついた。
「くすぐったいですー」
笑いながらユイは俺の指から逃れ、しゃらんという効果音と共に空中に浮き上がった。そのまま俺の肩に座る。
「……じゃあ、前と同じように管理者権限もあるのか?」
「いえ……」
少ししゅんとした声。
「できるのは、リファレンスと広域マップデータへのアクセスくらいです。接触したプレイヤーのステータスなら確認できますが、主データベースには入れないようです……」
「そうか……実はな……」
俺は表情をあらためた。
「ここに、アスナが……ママがいるらしいんだ」
「えっ……ママが……!?」
ユイが肩から飛び上がり、俺の顔の前で停止した。
「どういうことですか……?」
「……」
俺は須郷のことから説明しようとしたが、寸前で思いとどまった。ユイをかつて崩壊寸前まで追い込んだのは人間の負の感情だ。これ以上ユイを人の悪意で汚染したくなかった。
「……アスナは、SAOサーバーが消滅しても現実に復帰していないんだ。俺はこの世界でアスナに似た人を見たという情報を得てここにやってきた。もちろん他人の空似かもしれないんだけど……藁にもすがる、ってやつかな……」
「……そんなことが……。ごめんなさいパパ、わたしに権限があればプレイヤーデータを走査してすぐに見つけられるのに……」
「いや、大体の居場所は見当がついてるんだ。世界樹……とか言ってたな。場所、わかるかい?」
「あ、はい。ええと、ここからは大体北東の方向ですね。でも相当に遠いです。リアル単位置換で五十キロメートルはあります」
「うわ、それは凄いな。アインクラッド基部フロアの五倍か……。うーん、そういえばここでは飛べるって聞いたなぁ……」
俺は立ち上がり、首を捻って肩越しに覗き込んだ。
「おお、羽根がある」
背中から、クリアグレーに透き通る鋭い流線型の羽根――というよりも昆虫の翅と言うべきか――が伸びている。だが動かし方がさっぱり分からない。
「どうやって飛ぶんだろ」
「補助コントローラがあるみたいです。左手を立てて、握るような形を作ってみてください」
再び肩に乗ったユイの言葉に従って、俺は手を動かした。するとその中に、簡単なジョイスティック状のオブジェクトが出現した。
「えと、手前に引くと上昇、押し倒すと下降、左右で旋回、ボタン押し込みで加速、離すと減速となっていますね」
「ふむふむ」
俺はスティックをゆくり手前に倒してみた。すると、背中の翅がぴんと伸び、ぼんやりとした燐光を放ち始める。そのままスティックを引きつづける――。
「おっ」
不意に、体がふわりと浮いた。ゆっくりとした速度で森の中を上昇していく。一メートルほど浮いたところでニュートラルに戻し、今度はてっぺんの球を押し込んだ。すると体が滑るように前方に移動していく。
下降や旋回を試すうち、俺はすぐに操作を飲み込むことができた。かつて遊んだ飛行系VRゲームに比べれば相当に単純な操作系だ。
「なるほど、大体わかった。とりあえず基本的な情報が欲しいよな……。一番近くの街ってどこかな?」
「北西のほうに『スイルベーン』という街がありますね。そこが一番……、あっ……」
突然ユイが顔を上げた。
「どうした?」
「プレイヤーが近づいてきます。三人が一人を追っているようですが……」
「おお、戦闘中かな。見に行こうぜ」
「あいかわらずパパはのんきですねえ」
ユイの頭をこつんと突付き、俺はウインドウを操作して初期アイテムの片手用直剣を背中に装備した。抜いて、数回振ってみる。
「うわあ、なんかちゃちぃ剣だなぁ。軽いし……まあいっか……」
鞘に収め、俺は再びスティックを出して握った。
「ユイ、先導頼む」
「了解です」
鈴のような音とともに肩から飛び立ったユイを追って、俺も空中移動を開始した。
--------------------------------------------------------------------------------
サラマンダーの放った火炎魔法が、ついにリーファの背を捉えた。
「うぐっ!!」
無論痛みや熱は感じないが、背後から大きな手で張り飛ばされたような衝撃を受けて姿勢を崩す。逃亡を図りながら風属性の防御魔法を張っておいたお陰でHPバーには余裕があるものの、シルフ領はまだまだ遠い。
その上、リーファは加速が鈍り始めたのに気付く。忌々しい滞空制限だ。あと数十秒で翅がその力を失い、飛べなくなる。
「くうっ……」
歯噛みをしながら、樹海に逃げ込むべく急角度のダイブ。敵にメイジがいる以上、魔法を使っても隠れおおせるのは難しいだろうが諦めておとなしく討たれるのは趣味ではない。
梢の隙間に突入し、幾重にも折り重なった枝を縫いながら地表に近づいていく。そうするうちにも速度はどんどん落ちる。やがて前方に草の繁った空き地を見つけそこにランディングを敢行、靴底を滑らせながら制動をかけ、正面の大木の裏に飛び込むと身を伏せた。
すぐさま両手を宙にかざし、隠行魔法を使用する。詠唱タイマーバーが視界に表示され、それがゼロになると、薄緑色の大気の流れが足許から湧き上がり、リーファの体を覆った。
これで敵の視線からはガードされる。しかし、高レベルの索敵スキルもしくは看破魔法を使われればその限りではない。息を詰め、ひたすら身を縮める。
やがて――。サラマンダー特有の鈍い飛翔音が複数ゆっくりと近づいてきた。背後の空き地に着陸する気配。がちゃがちゃと鎧の鳴る音。すぐに低い叫び声がした。
「このへんにいるはずだ! 探せ!!」
「いや、シルフは隠れるのが上手いからな。魔法を使おう」
スペルを使用する効果音が続く。リーファは思わず毒づきそうになって口をつぐむ。――やがて、ざわざわと草の鳴る音が背後から近づいてきた。
巨木の根を乗り越えてこちらに近づいてくるいくつかの小さな影。赤い皮膚と眼を持つトカゲだ。火属性の看破魔法である。数十匹のサーチャーが放射状に放たれ、隠行中のプレイヤーまたはモンスターに接触すると燃え上がって場所を教えるスペルだ。
(あっちに行け! この!!)
トカゲの進路はランダムだ。リーファは必死に小さな爬虫類に向かって念ずる。が、願い空しく――。
一匹がリーファを包む大気の膜に触れた、その途端、一声甲高く鳴いて、赤々と燃え上がった。
「いたぞ、あそこだ!!」
がしゃがしゃと駆け寄ってくる音。リーファはやむなく木の陰から飛び出す。一回転して立ち上がり、抜剣して構えると、三人のサラマンダーも立ち止まってランスをこちらに向けてきた。
「梃子摺らせてくれるなぁ」
右端の男が兜のバイザーを跳ね上げ、興奮を隠し切れない口調で言った。
中央に立つリーダー格の男が、落ち着いた声で言葉を続ける。
「悪いがこっちも任務だからな。金とアイテムを置いていけば見逃す」
「なんだよ、殺しちまおうぜ!! ポイントも稼げるしさぁ」
今度は左の男が、同じくバイザーを上げながら言った。暴力に酔った、粘つく視線を向けてくる。
一年の経験から言うと、こういう、女性プレイヤーを殺すのに執着を見せる連中はかなり多い。リーファは嫌悪感で肌が粟立つのを意識する。卑猥な言葉を発したり、戦闘以外の目的で無闇と体に触れたりすればハラスメント行為で即座に隔離のうえバンされてしまうが、殺傷自体はゲームの目的でもあるゆえに自由だ。VRMMOで女性プレイヤーを殺すのはネットにおける最高の快楽とうそぶく連中すらいるのだ。
正常に運営されているALOですらこうなのである。いまや伝説となった『あのゲーム』の内部はさぞ……と思うと背筋が寒くなる。
リーファは両足でしっかりと地面を踏みしめると、愛用のツーハンドブレードを大上段に構えた。視線に力を込め、サラマンダー達をにらむ。
「あと一人は絶対に道連れにするわ。デスペナルティの惜しくない人からかかってきなさい」
低い声で言うと、両脇のサラマンダーが猛り立つように奇声を上げながらランスを振り回した。それを両手で制しながらリーダーが言った。
「諦めろ、もう翅が限界だろう。こっちはまだ飛べるぞ」
確かに、言われたとおりだった。ALOにおいて、飛行する敵に地上で襲われるのは絶対的に不利なポジションである。一対三となれば尚更だ。しかし諦める気はない。金を渡して命乞いをするなどもってのほかだ。
「気の強い子だな。仕方ない」
リーダーも肩をすくめると、ランスを構え、翅を鳴らして浮き上がった。左右のサラマンダーも左手にスティックを握り、追随する。
たとえ三本の槍に同時に貫かれようとも、最初の敵に全力を込めた一太刀を浴びせる覚悟でリーファは腕に力を込めた。敵が三方からリーファを取り囲み――今まさに突撃しようという、その時だった。
突然右方向の潅木ががさがさ揺れたかと思うと、黒い人影が転がり出てきた。
予想外のことに、リーファと三人のサラマンダーの動きが止まった。あっけに取られて黒衣の闖入者を凝視する。
「うう、いてて……。着陸がミソだなこれは……」
緊張感の無い声とともに立ち上がったのは、浅黒い肌の男性プレイヤーだった。つんつんと尖った勢いのいい髪形、やや吊り上った大きな目、どことなくやんちゃな少年と言った気配だ。背中から伸びるクリアグレーの翅はスプリガンの証である。
はるか東の辺境にテリトリーを持つスプリガンがこんな所で何を、と思いながら彼の装備をチェックしたリーファは目を疑った。黒い簡素な短衣にズボン、アーマーの類はなく、武器は背中の貧弱な剣一本。どう見ても初期装備そのままだ。初心者(ニュービー)がこんな中立域の奥深くに出てくるとは何を考えているのか。
右も左もわからないニュービーが無惨に狩られるシーンを見るにしのばず、リーファは思わず叫んでいた。
「何してるの! 早く逃げて!!」
だが黒衣の少年は動じる気配もない。まさか他種間ならキル有りというルールを知らないのだろうか。右手を腰に当てると、リーファと上空のサラマンダーたちをぐるりと見渡し、声を発した。
「重戦士三人で女の子一人を襲うのはちょっとカッコよくないなぁ」
「なんだとテメエ!!」
のんびりした言葉に激発した二人のサラマンダーが、宙を移動して少年を前後から挟み込んだ。ランスを下方に向け、突進の姿勢を取る。
「くっ……」
助けに入ろうにも、リーダー格の男が上空でこちらを牽制しているためうかつに動けない。
「一人でノコノコ出てきやがって馬鹿じゃねえのか。望みどおりついでに狩ってやるよ!」
少年の前方に陣取ったサラマンダーが、音高くバイザーを降ろした。直後、広げた翅からルビー色の光を引きつつ突撃を開始。後方の一人は、少年が回避した所を仕留めるべく時間差で襲い掛かるつもりらしい。
とうていニュービーにどうにかなる状況ではなかった。ランスが体を貫く瞬間を見たくなくて、リーファが唇を噛んで目を逸らせようとした――その時だった。
信じられないことが起こった。
右手をポケットに突っ込んだまま、無造作に左手を伸ばした少年が、必殺の威力をはらんだランスの先端をがしっと掴んだのだ。ガードエフェクトの光と音が空気を震わせる。あっけに取られて目と口をぽかんと開けるリーファの眼前で、少年はサラマンダーの勢いを利用して腕をぶんと回すと、掴んだランスごと背後の空間に放り投げた。
「わあああああ」
悲鳴を上げながら吹っ飛んだサラマンダーが、待機していた仲間に衝突し、両者は絡まったまま地面に落下した。がしゃがしゃん! という金属音が重なって響く。
少年はゆっくり振り返ると、背後の剣に手をかけ――そこで動きを止め、やや戸惑ったような表情でリーファを見て、言った。
「ええと……斬ってもいいのかな?」
「……そりゃいいんじゃないかしら……。少なくとも先方はそのつもりだと思うけど……」
もう訳がわからず、呆然と答える。
「それもそうか。じゃあ失礼して……」
少年は右手で背から貧相な剣を抜くと、だらりと地面に垂らした。斬る、と威勢のいいことを言っているわりには動きに気合というものがない。すっと重心を前に移しながら左足を一歩前に――
突然、ズバァン!! という衝撃音と共に少年の姿が掻き消えた。今までどんな敵と相対しようともその太刀筋が見えなかったことはないリーファの眼ですら追いきれなかった。あわてて首を右に振ると、遥か離れた場所に少年が低い姿勢で停止していた。剣を真正面に振り切った形である。
と、二人のサラマンダーのうち立ち上がりかけていた方の体が赤い光に包まれた。直後にその体が四散。小さな残り火が漂う。
(――速過ぎる!!)
リーファは激しく戦慄した。いまだかつて目にしたことのない次元の動きを見た衝撃で全身がぞくぞくと震えた。
この世界でキャラクターの運動速度を決定しているものは唯一つ、NERDLESシステムの電磁パルス信号に対する脳神経の反応速度である。アミュスフィアが信号を発し、脳がそれを受け取り、処理し、運動信号としてフィードバックする、そのレスポンスが速ければ速いほどキャラクターのスピードも上昇する。生来の反射神経に加えて、一般的に長期間の経験によってもその速度は向上すると言われている。
自慢ではないがリーファはシルフの中で五指に入るスピードの持ち主と称されている。長年鍛えた反射神経と、一年に及ぶALO歴によって、一対一ならばどんな相手にも遅れは取らないと近頃は自信を深めていたのだが――。
リーファと、サラマンダーのリーダーが唖然として見守る中、少年はゆっくりと立ち上がり、再び剣を構えつつ振り向いた。
もう一人のサラマンダーはまだ何が起こったのか理解していないようだ。見失った相手を探して見当違いの方向をきょろきょろと見回している。
その相手に向かって、容赦なく少年が再びアタックする素振りを見せた。今度こそ見失うまいとリーファは目を凝らす。
初動は決して速くない。気負いのない、ゆらりとした動きだ。だが一歩踏み出した足が地面に触れた瞬間――
再び大気を揺るがす大音響とともにその姿が霞んだ。今度はどうにか見えた。映画を限界まで早送りしたような、コマの落ちた映像がリーファの目に焼きつく。少年の剣が下段から跳ね上がり、サラマンダーの胴を分断。エフェクトフラッシュすら一瞬遅れた。少年はそのまま数メートルも移動し、片膝を突いた姿勢で停まる。再び死を告げる炎――エンドフレイムと呼ばれる――が噴き上がり、二人目のサラマンダーも消滅した。
スピードにばかり目を奪われていたリーファだが、今更のように少年の攻撃が発生させたダメージ量の凄まじさに気付いた。二人のサラマンダーのHPバーはフルでこそなかったもののまだ八割程度は残っていた。それを一撃で吹き消すとは尋常ではない。
ALOにおいて、攻撃ダメージの算出式はそれほど複雑なものではない。武器自体の威力、ヒット位置、攻撃スピード、被ダメージ側の装甲、それだけだ。この場合、武器の威力はほぼ最低、それに対してサラマンダーの装甲はかなりの高レベルだったと思われる。つまりそれをあっさり覆すほど少年の攻撃精度と、何よりもスピードが驚異的だったというわけだ。
少年は再びのんびりとした動作で体を起こすと、上空でホバリングしたままのサラマンダーのリーダーを見上げた。剣を肩で担ぎ、口を開く。
「どうする? あんたも戦う?」
その、あまりにも緊張感のない少年の言葉に、我に返ったサラマンダーが苦笑する気配がした。
「いや、勝てないな、やめておくよ。アイテムを置いていけというなら従う。もうちょっとでメイジスキルを上げられるんだ、デスペナが惜しい」
「正直な人だな」
少年も短く笑う。リーファに視線を向け、
「そちらのお姉さん的にはどう? 彼と戦いたいなら邪魔はしないけど」
乱入して大暴れしておきながらこの言い草にはリーファも笑うしかなかった。刺し違えても一人は倒すという気負いがいつの間にか抜けてしまっていた。
「あたしもいいわ。今度はきっちり勝つわよ、サラマンダーさん」
「正直君ともタイマンで勝てる気はしないけどな」
言うと、赤い重戦士は翅を広げ、燐光を残して飛び立った。がさり、と一回樹の梢を揺らし、暗い夜空へ溶け去るように遠ざかっていく。あとにはリーファと黒衣の少年だけが残された。
リーファは再びわずかに緊張しながら、少年の顔を見た。
「……で、あたしはどうすればいいのかしら。お礼を言えばいいの? 逃げればいいの? それとも戦う?」
少年は右手の剣をさっと左右に切り払うと、背中の鞘に音を立てて収めた。
「うーん、俺的には正義のナイトが悪漢からお姫様を助けた、っていう場面なんだけどな」
片頬でにやりと笑う。
「感激したお姫様から熱い口付けを、というのはどうだろう」
「ば、バッカじゃないの!!」
リーファは思わず叫んでいた。顔がかあっと熱くなる。
「なら戦ったほうがマシだわ!!」
「わははは、冗談だ」
いかにも楽しそうに笑う少年の顔を見ながらギリギリと歯軋りする。どう言い返してやろうかと必死に考えていると、不意にどこからともなく声がした。
「そ、そうですよ、そんなのダメです!!」
幼い女の子の声だ。咄嗟に周囲をきょろきょろと見回すが人影はない。と、少年がやや慌てた様子で言った。
「あ、こら、出てくるなって」
視線を向けると、少年の短衣の胸ポケットから何やら光るものが飛び出すところだった。小さなソレはしゃらんしゃらんと音を立てながら少年の顔のまわりを飛び回る。
「パパにキスしていいのはママとわたしだけです!」
「ぱ、ぱぱぁ!?」
あっけに取られながら数歩近寄ってよくよく見ると、それは手のひらに乗るような大きさの妖精だった。ヘルプシステムの一部、お馴染みのナビゲートピクシーだ。だがあれはゲームに関する基本的な質問に答えてくれるだけのそっけない存在だったはずなのだが。
リーファは少年に対する警戒も忘れ、飛び回る妖精にまじまじと見入った。
「あ、いや、これは……」
少年は焦った様子でピクシーを両手で包み込むと、引き攣った笑いを浮べた。リーファはその手の中を覗き込みながら訊ねた。
「ねえ、それってプライベートピクシーってやつ?」
「へ?」
「あれでしょ、プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布されたっていう……。へえー、初めてみるなぁ」
「あ、わたしは……むぐ!」
何か言いかけたピクシーの顔を少年の手が覆った。
「そ、そう、それだ。俺クジ運いいんだ」
「ふうーん……」
リーファは改めてスプリガンの少年を上から下まで眺めた。
「な、なんだよ」
「や、変な人だなあと思って。プレオープンから参加してるわりにはバリバリの初期装備だし。かと思うとやたら強いし」
「ええーと、あれだ、昔アカウントだけは作ったんだけど始めたのはつい最近なんだよ。すっと他のVRMMOやってたんだ」
「へえー」
どうも腑に落ちないところもあったが、他のゲームでアミュスフィアに慣れているというなら、ずば抜けた反射速度を持っていることについても頷けなくもない。
「それはいいけど、なんでスプリガンがこんなところをうろうろしてるのよ。領地はずうっと東じゃない」
「み、道に迷って……」
「迷ったぁ!?」
情けない顔で少年が返した答えに、リーファは思わず吹き出してしまった。
「ほ、方向音痴にも程があるよー。きみ変すぎ!!」
傷ついた表情でうなだれる少年を見ているとお腹の底から笑いがこみ上げてくる。ひとしきりけらけらと笑うと、リーファは右手に下げたままだった長刀を腰の鞘に収め、言った。
「まあ、ともかくお礼を言うわ。助けてくれてありがとう。わたしはリーファっていうの」
「……俺はキリトだ。この子はユイ」
少年が手を開くと、頬を膨らませたピクシーが顔を出した。ぺこりと頭を下げて飛び立ち、少年の肩に座る。
リーファは、なんとなくこのキリトと名乗る少年ともう少し話をしたいと感じている自分に気付いて少々驚いた。人見知りとまでは言わないが決してこの世界で友達を作るのが得意ではないリーファにしては珍しいことだった。悪い人ではなさそうだし、思い切って言ってみる。
「ねえ、君このあとどうするの?」
「や、とくに予定はないんだけど……」
「そう。じゃあ、その……お礼に一杯おごるわ。どう?」
するとキリトと名乗る少年は顔中でにこりと笑った。リーファは内心でへえ、と思う。感情表現の難しいVR世界で、ここまでいい顔で笑える人間はなかなかいない。
「それは嬉しいな。じつは色々教えてくれる人を探してたんだ」
「色々って……?」
「この世界のことさ。とくに……」
不意に笑いを収め、視線を北東の方角に向ける。
「……あの樹のことをね」
「世界樹? いいよ。あたしこう見えてもけっこう古参なのよ。……じゃあ、ちょっと遠いけど北のほうにグリエルって村があるから、そこまで飛びましょう」
「あれ? スイルベーンって街のほうが近いんじゃあ?」
リーファはやや呆れながらキリトの顔を見る。
「そりゃそうだけど……ほんとに何も知らないのねえ。あそこはシルフ領だよ」
「何か問題あるの?」
あっけらかんとしたキリトの言葉に思わず絶句する。
「……問題っていうか……領土内じゃ君はシルフを攻撃できないけど、逆はアリなんだよ」
「別にみんなが即襲ってくるわけじゃないんだろう? リーファさんもいるしさ。シルフの国って綺麗そうだから見てみたいなぁ」
「……リーファでいいわよ。ほんとに変な人。まあそう言うならあたしは構わないけど……命の保証まではできないわよ」
リーファは肩をすくめると答えた。愛着のあるシルフ領を見てみたいと言われれば嫌な気はしない。それに、この辺では滅多に見かけないスプリガンを連れて帰ればみんな驚くだろうなあ、と思うと悪戯心もわいてくる。
「じゃあ、スイルベーンまで飛ぶよ。そろそろ賑やかになってくる時間だわ」
ウインドウをちらりと確認すると、リアル時間は午後四時になったところだった。まだもう少し潜っていられる。
リーファは、飛翔力がかなり回復し、輝きの戻った翅を広げて軽くふるわせた。するとキリトが首を傾げながら言った。
「あれ、リーファはコントローラ無しで飛べるの?」
「あ、まあね。君は?」
「ちょっと前にこいつの使い方を知った所だからなぁ」
キリトは左手を動かす仕草をする。
「そっか。意思飛行はコツがあるからね、できる人はすぐできるんだけど……試してみよう。ちょっと後ろ向いて」
「あ、ああ」
くるりと体を半回転させたキリトの、決して大きいとは言えない背中に両手の人差し指を伸ばし、肩の少し下に触れる。肩に座ったピクシーが興味しんしんといった風に見下ろしてくる。
「今触ってるの、わかる?」
「うん」
「じゃあ、これから指をゆっくり動かすから、感触を追ってみて」
「了解」
リーファはそっと二本の指を下降させ始めた。一秒に一センチほどのじわじわとしたスピードで肩甲骨を目指す。
「うは、くすぐったいよ」
「しっ、集中して!」
かたく盛り上がった骨の頂点目指してゆっくりと指を滑らせる。やがて指が半透明の翅の根元に到達する。その部分では翅はおぼろに薄れて実体を失い、服を貫通しているのだが、そっと背中から指を離し、今度は翅の背のラインにそって滑らせはじめる。
「どう……? まだ感じる?」
「う、うん……でもなんかこれは……ヘンな感じがぁー」
「おっ!」
リーファは指を止めた。
「感触を逃がさないで!! 多分後頭部の内側がむずむずすると思うけど、そこと今の感覚を結びつける感じ。ほら、接続がどんどん太くなる……固くなる……」
指で翅の背をなぞりながら、キリトの耳に口を寄せ、ささやく。と――
突然、キリトの灰色の翅がぶるっと震えた。
「そう、そのまま! 体を上に引っ張る!!」
「うわっ!!」
キリトが声を洩らした、次の瞬間。その体がロケットのように上空へと飛び出した。
「うわあああああ」
キリトの体はたちまち小さくなり、悲鳴も遠くなり、ばさばさと葉を鳴らす音がしたと思うとすぐに梢の彼方へと消えていった。
「……」
リーファは、キリトの肩から転げ落ちたピクシーと顔を見合わせた。
「やばっ」
「パパー!!」
二人同時に慌てて飛び立ち、後を追う。樹海を脱し、ぐるりと夜空を見渡すと、やがて金色の月に影を刻みながら右へ左へとふらふら移動する姿を見つけた。
「うわあああああぁぁぁぁぁ………止めてくれええええぇぇぇぇぇ」
情けない悲鳴が広い空に響き渡る。
「……ぷっ」
再び顔を見合わせたリーファと、ユイというピクシーは同時に吹き出した。
「あはははははは」
「ご、ごめんなさいパパ、面白いです〜〜」
並んで空中にホバリングしたまま、お腹を抱えて笑う。少し収まったと思うと、またキリトの悲鳴が聞こえてきて笑いの発作がぶり返す。
足をばたばたさせて爆笑しながら、リーファは、こんなに笑ったのいつ以来かなあと考えていた。少なくともこの世界では初めてなのは間違いなかった。
散々笑って満足すると、リーファは無軌道に飛び回るキリトの襟首を捕まえて停止させ、あらためて意思飛行のコツを伝授した。キリトの筋はかなり良く、十分ほどのレクチャーでどうにか自由に飛べるようになった。
「おお……これは……これはいいな!」
旋回やループを繰り返しながらキリトが大声で叫んだ。
「そーでしょ!」
リーファも笑いながら叫び返す。
「何ていうか……感動的だな。このままずっと飛んでたいよ……」
「うんうん!」
嬉しくなって、リーファも翅を鳴らしてキリトに近づくと、軌道を合わせて平行飛行に入った。
「あー、ずるいです、わたしも!」
ピクシーも二人の間に位置を取り、飛び始める。
「それじゃあ、このままスイルベーンまで飛ぼう。ついてきて!」
リーファはくるりとタイトターンして方向を見定めると、森の彼方目指して巡航に入った。飛び始めて間もないキリトの事を慮って速度を抑え目にしておいたのだが、すぐに真横に追いついてきたキリトが言った。
「もっとスピード出してもいいぜ」
「ほほう」
リーファはにやっと笑うと翅を鋭角に畳み、ゆるい加速に入った。キリトが音を上げるところを見てやろうと、じわじわと速度を増していく。全身を叩く風圧が強まり、風切り音が耳元で唸る。
だが驚いたことに、リーファがマックススピードの七割程度にまで達しても、キリトは真横で追随してきた。システム的に設定された最高速度に到達する以前に、普通は心理的圧迫を感じて加速が鈍るものだが、初めての意思飛行でこのレンジにまでついてくるとは尋常な精神力ではない。
リーファは口許を引き締め、最大加速に入った。未だかつてこのスピード領域で編隊飛行をしたことはない。それに耐えられる仲間がいなかったからだ。
眼下の樹海が激流となって吹っ飛んでいく。キュイイイ、という弦楽器の高音にも似たシルフの飛翔音と、ヒュウウウという管楽器を思わせるスプリガンの翅音が美しい重奏をかなでる。
「はうー、わたしもうだめです〜」
ユイという名のピクシーがキリトの胸ポケットにすぽんと飛び込んだ。リーファとキリトは顔を見合わせ、笑う。
気付くと、前方で森が切れ、その向こうに色とりどりの光点の群が姿を現しつつあった。中央から一際明るい光のタワーが伸びている。シルフ領の都市スイルベーンと、そのシンボルである風の塔だ。街はぐんぐん近づき、すぐに大きな目貫通りと、そこを行き交う大勢の人波までも見て取れるようになってくる。
「お、見えてきたな!」
風切り音に負けないようキリトが大声で言った。
「真中の塔の根元に着陸するわよ! ……って……」
不意にあることに気付いて、リーファは笑顔を固まらせた。
「キリトくん、君、ランディングのやりかたわかる……?」
「……」
キリトも顔を強張らせた。
「わかりません……」
「えーと……」
すでに、視界の半ば以上が巨大な塔に占められている。
「ゴメン、もう遅いや。幸運を祈るよ」
リーファはにへへと笑うと、一人だけ急減速に入った。翅をいっぱいに広げ、足を前に出す姿勢で広場めがけて降下を開始する。
「そ……そんなバカなぁぁぁぁぁぁ」
黒衣のスプリガンが絶叫と共に塔の外壁目掛けて突っ込んでいくのを見送りながら、心の中で合掌。
数秒後、びたーん!! という大音響が空気を震わせた。
「うっうっ、ひどいよリーファ……飛行恐怖症になるよ……」
翡翠色の塔の根元、色とりどりの花が咲き乱れる花壇に座り込んだキリト恨みがましい顔で言った。
「目がまわりました〜」
彼の肩に座るピクシーも頭をふらふらさせている。リーファは両手を腰に当て、笑いをかみ殺しながら答えた。
「キミが調子に乗りすぎなんだよ〜。それにしてもよく生きてたねえ。絶対死んだと思った」
「うわっ、そりゃあんまりだ」
最高速度で壁面に激突しておきながら、キリトのHPバーはまだ半分以上残っていた。運がいいのかHPが多いのか、本当に謎の多い少年である。
「まあまあ、ヒールしてあげるから」
リーファは右手をキリトに向けてかざすと回復スペルを唱えた。青く光る雫が手からほとばしり、キリトに降りかかる。
「お、すごい。これが魔法か」
興味津々というふうにキリトが自分の体を見回す。
「高位のヒールはウンディーネじゃないとなかなか使えないんだけどね。必須スペルだから君も覚えたほうがいいよ」
「へえ、種族によって魔法の得手不得手があるのか。スプリガンてのは何が得意なの?」
「トレジャーハント関連と幻惑魔法かな。どっちも戦闘には不向きなんで不人気種族ナンバーワンなんだよね」
「うへ、やっぱり下調べは大事だな」
肩をすくめながらキリトが立ち上がった。大きくひとつ伸びをして、周囲にぐるりと視線を向ける。
「おお、ここがスイルベーンかぁ。綺麗な所だなぁ」
「でしょ!」
リーファも改めて住み慣れたホームタウンを眺める。
シルフの街スイルベーンは、別名翡翠の都と呼ばれている。華奢な尖塔が沢山の空中回廊で複雑に繋がり合って構成される町並みは、色合いの差こそあれ皆つややかなジェイドグリーンに輝き、それらが夜闇の中に浮かび上がる有様は幻想的の一言だ。
二人とひとりが声もなく光の街を行き交う人々に見入っていると、不意に右手から声をかける者がいた。
「リーファちゃん! 無事だったの!」
顔を向けると、手をぶんぶん振りながら近寄ってくるのは黄緑色の髪の少年シルフだった。
「あ、レコン。うん、どうにかねー」
リーファの前で立ち止まったレコンは目を輝かせながら言った。
「すごいや、アレだけの人数から逃げ延びるなんてさすがリーファちゃん……って……」
今更のようにリーファの傍らに立つ黒衣の人影に気付き、口を開けたまま数秒間立ち尽くす。
「な……スプリガンじゃないか!? なんで……!?」
飛び退り、腰のダガーに手をかけようとするレコンをリーファはあわてて制した。
「あ、いいのよレコン。この人が助けてくれたの」
「へっ……」
唖然とするレコンを指差し、キリトに言う。
「こいつはレコン。あたしの仲間なんだけど、キミと出会うちょっと前にサラマンダーにやられちゃったんだ」
「そりゃすまなかったな。よろしく、俺はキリトだ」
「あっ、どうも」
レコンはキリトの差し出す右手を握り、ぺこりと頭を下げてから、
「いやそうじゃなくて!」
また飛び退る。
「だいじょぶなのリーファちゃん!? スパイとかじゃないの!?」
「あたしも最初は疑ったんだけどね。スパイにしてはちょっと天然ボケ入りすぎてるしね」
「あっ、ひでえ!」
あはははと笑いあうリーファとキリトを、レコンはしばらく疑わしそうな目で見ていたが、やがて咳払いして言った。
「リーファちゃん、シグルド達は先に水仙館で席取ってるから、分配はそこでやろうって」
「あ、そっか。う〜ん……」
キャラクターの所持しているアイテムは、敵プレイヤーに殺されるとランダムに三十パーセントが奪われてしまうが、パーティーを組んでいる場合に限っては保険枠というものがあり、そこに入れているアイテムは死亡しても自動的に仲間に転送されるようになっている。
リーファたちも今日の狩りで入手したアイテムのうち価値のあるものは保険扱いにしておいたので、最終的にはリーファがすべての稼ぎを預かることとなり、サラマンダー達もそれを知っているゆえにしつこく追ってきたわけだが、キリトの助力によってどうにか全てをスイルベーンまで持ち帰ることができた。
このような場合は、死亡して先に転送された仲間と馴染みの店で改めてアイテム分配をするのが慣例となっていたが、リーファは少々悩んだすえにレコンに言った。
「あたし、今日の分配はいいわ。スキルにあったアイテムもなかったしね。あんたに預けるから四人で分けて」
「へ……リーファちゃんは来ないの?」
「うん。お礼にキリト君に一杯オゴる約束してるんだ」
「……」
先ほどとは多少色合いの異なる警戒心を滲ませながらレコンがキリトを見る。
「ちょっと、妙な勘繰りしないでよね」
リーファはレコンのつま先をブーツでこつんと蹴っておいて、トレードウインドウを出すと稼いだアイテムの全てを転送した。
「次の狩りの時間とか決まったらメールしといて。行けそうだったら参加するからさ、じゃあ、おつかれ!」
「あ、リーファちゃん……」
なんだか照れくさくなってきてしまったリーファは、強引に会話を打ち切るとキリトの袖をひっぱって歩きだした。
「さっきの子は、リーファの彼氏?」
「コイビトさんなんですか?」
「ハァ!?」
キリトと、その肩口から顔を出したユイに異口同音に尋ねられ、リーファは思わず石畳に足を引っ掛けた。慌てて翅を広げて体勢を立て直す。
「ち、違うわよ! パーティーメンバーよ、単なる」
「それにしちゃずいぶん仲良さそうだったよ」
「リアルでも知り合いって言うか、学校の同級生なの。でもそれだけよ」
「へえ、クラスメイトとVRMMOやってるのか、いいなぁ」
「うーん、いろいろ弊害もあるよー。宿題のこと思い出しちゃったりね」
「ははは、なるほどね」
会話を交わしながら裏通りを歩いていく。時折りすれ違うシルフのプレイヤーは、キリトの黒髪を見るとギョッとした表情を浮かべるが、隣で歩くリーファに気付くと不審がりながらも何も言わずに去っていく。それほどアクティブに活動しているわけではないリーファだが、スイルベーンで定期的に行われるPvPイベントで何度か優勝しているので顔はそこそこ通っているのだ。
やがて、前方に小ぢんまりとした酒場兼宿屋が見えてくる。デザート類が充実しているのでリーファが贔屓にしている『鈴蘭亭』という店だ。
スイングドアを押し開けて店内を見渡すと、プレイヤーの客は一組もいなかった。まだリアル時間では夕方になったばかりなので、冒険を終えて一杯やろうという人間が増えるにはしばらく間がある。
奥まった窓際の席にキリトと向き合って腰掛ける。
「さ、ここはあたしが持つから何でも自由に頼んでね」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「あ、でも今あんまり食べると落ちてから辛いわよ」
メニューの魅力的なデザート類を睨みながらリーファもしばし唸る。
実に不思議なのだが、アルヴヘイムで食事をすると満腹感が発生し、それは現実に戻ってからもしばらく消えることはない。カロリーの心配なしに甘い物が好き放題食べられるというのは、リーファにとってはVRMMO最大の魅力の一つなのだが、それで現実世界での食欲がなくなると母親にこっ酷く怒られてしまうのだ。
実際このシステムのせいで、VRMMOをダイエットに使用したプレイヤーが栄養失調に陥ったり、あるいは生活の全てをゲームに捧げた一人暮らしのヘビープレイヤーが食事を忘れて衰弱死したりというニュースはいまやあまり珍しくない。
結局リーファはフルーツのムース、キリトはナッツタルト、少々驚いたがユイはチーズクッキーをオーダーし、飲み物はハーブワインのボトルを一本取ることにした。NPCのウェイトレスが即座に注文の品々をテーブルに並べる。
「それじゃあ、改めて、助けてくれてありがと」
不思議な緑色のワインを注いだグラスをかちんと合わせ、リーファは冷たい液体を乾いたのどに一気に放り込んだ。同じく一息でグラスを干すと、キリトははにかむように笑いながら言った。
「いやまあ、成り行きだったし……。それにしても、えらい好戦的な連中だったな。ああいう集団PKってよくあるの?」
「うーん、もともとサラマンダーとシルフは仲悪いのは確かなんだけどね。領地が隣り合ってるから中立域の狩場じゃよく出くわすし、勢力も長い間拮抗してたし。でもああいう組織的なPKが出るようになったのは最近だよ。きっと……近いうちに世界樹攻略を狙ってるんじゃないかな……」
「それだ、その世界樹について教えて欲しいんだ」
「そういや、そんな事言ってたね。でも、なんで?」
「世界樹の上に行きたいんだよ」
リーファは少々呆れながらキリトの顔を見た。冗談を言ってるわけではないらしく、黒い瞳に真剣な色が宿っている。
「……それは、多分全プレイヤーがそう思ってるよきっと。っていうか、それがこのALOっていうゲームのグランド・クエストなのよ」
「と言うと?」
「滞空制限があるのは知ってるでしょ? どんな種族でも、連続して飛べるのはせいぜい十分が限界なの。でも、世界樹の上にある空中都市に最初に到達して、妖精王オベイロンに謁見した種族は全員、『アルフ』っていう高位種族に生まれ変われる。そうなれば、滞空制限はなくなって、いつまでも自由に空を飛ぶことができるようになる――」
「……なるほど……」
ナッツタルトを一口齧り、キリトが頷いた。
「それは確かに魅力的な話だな。世界樹の上に行く方法っていうのは判ってるのか?」
「世界樹の内側、根元のところは大きなドームになってるの。その頂上に入り口があって、そこから内部を登るんだけど、そのドームを守ってるNPCのガーディアン軍団が凄い強さなのよ。今まで色んな種族が何回か挑んでるんだけどみんなあっけなく全滅。サラマンダーは今最大勢力だからね、なりふり構わずお金溜めて、装備とアイテム整えて、次こそはって思ってるんじゃないかな」
「そのガーディアンてのは……そんなに強いの?」
「もう無茶苦茶よ。だって考えてみてよ、ALOってオープンしてから一年経つのよ。一年かけてクリアできないクエストなんてありだと思う?」
「それは確かに……」
「実はね、去年の秋頃、大手のALO情報サイトが署名集めて、レクトプログレスにバランス改善要求出したんだ」
「へえ。それで……?」
「お決まりっぽい回答よ。『当ゲームは適切なバランスのもとに運営されており』、なんたらかんたら。最近じゃあね、今のやり方じゃあ世界樹攻略はできないっていう意見も多いわ」
「……何かキークエストを見落としている、もしくは……単一の種族だけじゃ絶対に攻略できない?」
ムースを口許に運ぼうとしていた手を止め、リーファは改めてキリトの顔を見た。
「へえ、いいカンしてるじゃない。クエスト見落としのほうは、今躍起になって検証してるけどね。後の方だとすると……絶対に無理ね」
「無理?」
「だって矛盾してるもの。『最初に到達した種族しかクリアできない』クエストを、他の種族と協力して攻略しようなんて」
「……じゃあ、事実上世界樹を登るのは……不可能ってことなのか……?」
「……あたしはそう思う。でも……諦めきれないよね、いったん飛ぶことの楽しさを知っちゃうとね……。たとえ何年かかっても、きっと……」
「それじゃ遅すぎるんだ!!」
不意にキリトが押し殺した声で叫んだ。リーファがびっくりして視線を上げると、眉間に深い谷が刻まれ、口許が震えるほど歯を食いしばったキリトの顔がそこにあった。
「パパ……」
両手でチーズクッキーを抱えて端をかりかり齧っていたピクシーが、クッキーを置いて飛び上がり、キリトの肩に座った。宥めるように黒衣の少年の頬に小さな手を這わせる。やがて、キリトの体からふっと力が抜けた。
「……驚かせてごめん」
キリトが低い声で言った。
「でも俺、どうしても世界樹の上に行かなきゃいけないんだ」
研ぎ上げた刃のように鋭い輝きを放つキリトの黒い瞳にまっすぐ見つめられ、リーファの心臓は不意にわけもなく早鐘のように鳴り響き始めた。動揺を静めようとワインを一口ごくりと飲んでから、どうにか口を開く。
「なんで、そこまで……?」
「人を……探してるんだ」
「ど、どういうこと?」
「……簡単には説明できない……」
キリトは、リーファを見てかすかに微笑んだ。だがその瞳は、深い絶望の色に濡れているように見えた。いつか、どこかで目にしたことがある瞳だった。
「……ありがとうリーファ、色々教えてもらって助かったよ。ご馳走様、ここで最初に会ったのが君でよかった」
立ち上がりかけたキリトの腕を、リーファは無意識のうちに掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。世界樹に……行く気なの?」
「ああ。この目で確かめないと」
「無茶だよ、そんな……。ものすごく遠いし、途中で強いモンスターもいっぱい出るし、そりゃ君も強いけど……」
あっ、と思った時にはもう口が勝手に動いていた。
「――あたしが連れていってあげる」
「え……」
キリトの目が丸くなる。
「いや、でも、会ったばかりの人にそこまで世話になる訳には……」
「いいの、もう決めたの!!」
時間差でかあっと熱くなってきた頬を隠すようにリーファは顔をそむけた。ALOには、翅があるかわりに瞬間移動手段は一切存在しない。アルヴヘイムの央都、その向こうにそびえ立つ世界樹まで行くのは、現実世界での小旅行に匹敵するほどの旅となる。なのに、まだ出会って数時間の少年に同行を申し出るとは、自分でも信じられない行動だった。
でも――なぜか放っておけなかった。
「あの、明日も入れる?」
「あ、う、うん」
「じゃあ午後三時にここでね。あたし、もう落ちなきゃいけないから、あの、ログアウトには上の宿屋を使ってね。じゃあ、また明日ね!」
立て続けに言うと、リーファは右手を振ってウインドウを出した。シルフ領内ではどこでも即時ログアウトが可能なので、そのままボタンに触れる。
「あ、待って!」
キリトの声に顔を上げると、少年はにこりと笑いながら言った。
「――ありがとう」
リーファもどうにか笑みを浮べ、こくりと一回頷くと、OKボタンを押した。世界が虹色の光に包まれ、次いでブラックアウトした。リーファとしての肉体感覚が徐々に薄れるなか、頬の熱さと心臓の鼓動だけが最後まで残っていた。
――ゆっくりと目蓋を開ける。見慣れた自室の天井、そこに貼った大きなポスターが目に飛び込んでくる。B全版に引き伸ばし、プリントしてもらったスクリーンショットだ。無限の空をゆく鳥の群、その中央に長いポニーテールをなびかせて飛翔する妖精の少女が写っている。
直葉は両手を上げ、ゆっくりと頭からアミュスフィアを外した。二つのリングが並んだ円冠状のその機械は、初代ナーヴギアと比べるとあまりに華奢だが、その分拘束具めいた印象は減っている。
仮想世界から戻っても、頬の火照りは消えていなかった。直葉はベッドの上で上体を起こすと、大きくひとつ深呼吸し――おもむろに両手で顔を挟み込んだ。
(うわ―――――ー)
今更ながら、自分の行動にとてつもない気恥ずかしさがこみ上げてくる。以前から、リーファでいるときの直葉は大胆さが五割増しだとレコン――長田伸一に言われていたが、今日のは極め付きだった。両足をばたばたさせながらひとしきり悶える。
不思議な少年だった。いや、プレイヤーとしての彼が少年かどうかはわからないが、直葉のカンは自分と大差ない年齢だろうと告げている。しかしその割りには妙に落ち着いた物腰、かと思うとやんちゃな言動、どうにも掴み所がなかった。
謎なのは性格だけではない。あの恐ろしいまでの強さ――。剣を交えても絶対に勝てない、と思わされた相手は一年のALO歴のなかでも初めてだった。
(キリトくん、か……)
仮想世界を自分の目で見てみたい、と直葉が初めて思ったのは、SAO事件後一年が経とうとしたころだった。
それまでの直葉にとって、VRMMOゲームというのは、文字通り兄を奪っていった憎悪の対象でしかなかった。だが病室で眠る和人の手を握り、語りかけるうちに、いつしか和人がそこまで愛した世界というのはどういうものなのだろうか、という気持ちが芽生えはじめたのだった。和人のことを、もっと知りたい――その為には、彼の世界を自分の目で見なければと、そう思ったのだ。
アミュスフィアが欲しい、と言ったとき、翠はしばらくじっと直葉の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷き、時間と体にだけは気をつけなさい、と笑った。
その翌日、学校の昼休みに直葉は、クラスで一番のゲームマニアと賞され(あるいは揶揄され)ていた長田伸一の机の前に立ち、聞きたいことがあるから屋上まで付き合って、と告げた。その時クラスに満ちた沈黙、次いで怒号と悲鳴は今でも語り草となっている。
屋上の金網にもたれた直葉は、妙な期待に目を輝かせながら直立不動で立つ長田伸一に向かって、VRMMOのことを教えてほしいと言った。長田は数秒間の百面相のあと、どういうタイプのが希望なのか、と聞いてきた。
直葉としては、勉強と剣道部の練習に割く時間を減らすわけにはいかなかったのでそのように言うと、長田は眼鏡をせわしなく押し上げながら「ふむ、じゃあ、あんまり廃仕様じゃなくて、スキル制のやつがいいよね」等々とぶつぶつ呟いた挙句、推薦してきたのがアルヴヘイム・オンラインだったというわけだ。
よもや長田が一緒にALOを始めるとは思わなかったが、彼の懇切丁寧なレクチャーもあって、直葉は自分でも驚くほどの速さで仮想ゲーム世界に適合してしまった。その理由は主に二つ。
一つ目は、直葉が長年研鑚を積んだ剣道の技が、ALO内部でも有効に機能したからだ。一般的なプレイヤー同士の戦闘では、基本的に回避ということは考えない。敵の攻撃を食らいつつ自分の武器をヒットさせ、累積したダメージの総量で決着がつくことになる。しかし直葉の場合、鍛え上げた反射速度とカンによって容易く攻撃を避けることができたため、反則的なまでの強さを発揮するのはむしろ当然と言えた。
無論ALO以外のレベル制MMOであれば、ゲームに費やせる絶対的な時間の少ない直葉はとてもコアなプレイヤーには太刀打ちできなかったろう。事実リーファの数値的ステータスは、古参プレイヤーとしては平均を下回る。それでもシルフ五傑と言われるほどの実力を維持できるのは完全スキル制のゲームであればこそだ。
そして、直葉がALOに魅せられた二つ目の理由――、それは無論あのゲームだけが持つフライト・システムである。
初めて意思飛行のコツを会得し、空を思うままに飛び回ったときの感動はいまだ容易に思い出すことができる。
体の小さい直葉は、剣道の試合でもリーチ差に苦しめられることが多く、打ち込みをもっと速く、もっと遠く、というのははるか昔から体に染み付いた欲求だった。それゆえ、ALOにおいて愛用の長刀を大上段に構え、(片手がふさがる補助飛行ではこれができない)超々ロングレンジからの突進を行うのは筆舌に尽くしがたい快感だった。無論それに留まらず、体がばらばらになりそうな鋭角ダイブや、あるいは鳥の群に混じってのんびりと高空をクルーズしたりと、飛翔行為そのものに直葉は深く魅せられてしまった。
飛ぶのが苦手なレコンあたりは直葉のことを「スピードホリック」などと言うが、直葉に言わせれば飛ばずしてALOの楽しみを語るなかれというところだ。
ともかく、あれから一年、直葉は今や一人前のVRMMOプレイヤーなのだ。
直葉のもとに還ってきた和人に、ALOの話をしたい――と一日に何度も思う。しかし彼の瞳によぎる影を見ると、どうしても言葉を切り出すことができない。
SAO事件という、あれだけの凄まじい体験を経ても、和人のVRMMOへの愛情が変わっていないのは確かだと思う。すべて回収されたはずのナーヴギアを、どんな手段を用いてか自室に持ち帰っていることや、フォトスタンドに入れて飾られたSAOクライアントディスクがそれを示している。
だが、和人にとっては、多分まだSAO事件は終わっていないのだ。「あの人」が眠りから目覚める、その時まで――。
そのことを考えると直葉の心は千々に乱れる。昨夜のような、深い絶望に囚われて泣く和人は二度と見たくない。いつも笑っていてほしい。そのためにも、「あの人」に早く目覚めてほしいと思う。
しかしその時は、和人の心はまた直葉の手の届かないところに行ってしまう。
いっそ本当の兄妹のままだったら。それなら、この気持ちに気付くこともなかった。この、和人の全部が欲しい、という気持ちが生まれることもなかったのに――。
ベッドの上に横たわり、アルヴヘイムの空を写したポスターを見上げながら、なぜ現実の人間には翅がないのかな、と直葉は思った。リアルの空をどこまでも飛んで、ぐちゃぐちゃに絡まった心の線をいっぺんに解いてしまいたかった。
--------------------------------------------------------------------------------
リーファというシルフの少女がつい今しがたまで座っていた椅子を、俺はやや呆気に取られながら見つめた。
「――どうしたんだろう彼女」
呟くと、肩の上でユイも首を傾げる気配がした。
「さあ……。今のわたしにはメンタルモニター機能がありませんから……」
「ううむ。まあ、道案内してくれるっていうのは有り難いな」
「マップならわたしにもわかりますけど、確かに戦力は多いほうがいいですね。でも……」
ユイが立ちあがり、俺の耳に顔を寄せて、言った。
「浮気しちゃダメですよパパ」
「しない、しないよ!!」
泡を食って首をぶんぶん振る俺の肩から笑いながら飛び立つと、ユイは再びテーブルの上に着陸し、食べかけのチーズクッキーを両手で抱え上げた。
「くそう、からかいやがって……」
俺は憮然としてハーブワインのボトルを直接呷る。
だが、確かに意識しておいたほうがいい。浮気云々ではなく、彼女――リーファはあくまでゲーム内でのキャラクターであり、その向こうには別人格の見知らぬプレイヤーがいるのだ、ということを。
俺にとっては長い間、仮想世界が唯一の現実だった。あの世界ではキャラクターとプレイヤーの人格を分けて考えることは無意味であり、悪意も好意もすべてが真実の感情だった。そう考えねば生き残れなかった。
だがここでは無論その限りではない。プレイヤーによって程度は異なるだろうが、誰もが仮想のキャラクターを演じているのだ。盗賊として他のキャラクターを襲い、奪い、殺戮することすら咎められない――いやむしろ推奨されているとすら言っていい。
「難しいな……VRMMOって……」
我知らず嘆息してから、自分の台詞に苦笑いを浮かべる。空になったボトルを置き、自分と同じくらいの大きさのクッキーに挑み続けているユイの服を摘み上げて肩に載せると、俺は一時この世界を離れるため席を立った。
MMORPGにおける『ログアウト』という行為は、プレイヤーの利便性とゲーム的公正さがせめぎ合ういささかの問題をはらんでいる。
つまり、急な用事を思い出したり、突然生理的欲求を覚えたりといった事情によってゲームを即座に「落ち」たくなる場合は多いのだが、それを無制限に認めると、今度は戦闘中にピンチに陥ったり、盗みを働いて追われたりといった状況で、ログアウトを利用したお手軽な脱出方法がまかり通ってしまうことになる。そのため、大概のMMORPGではログアウトに一定の制限を設けている。このALOもその例に漏れず、「どこでも即ログアウト」が可能なのは種族のテリトリー内だけで、それ以外の場合はプレイヤーが現実に帰還したあとも魂無きキャラクターは数分間その場に残り、攻撃や盗みの対象とされる仕様になっているようだった。
テリトリー外で即時ログアウトを望むなら専用のアイテム――キャンプ用具など――を使用するか、あるいは宿屋で部屋を借りるしかないということで、俺はリーファの言葉に従って『鈴蘭亭』の二階でゲームを落ちることにした。
カウンターでチェックインを済ませ、階段を上がる。指定された番号のドアを開けると、中はベッドとテーブルが一つずつあるだけの簡素な部屋だった。ぐるりと見渡すと猛烈な既視感が襲ってくる。アインクラッドでも、部屋を買えるようになるまでは、よくこの手の宿屋にお世話になったものだ。
あとはもうウインドウを開き、ログアウトボタンを押せば現実に復帰できるはずだったが、俺は『寝落ち』を試してみるべく武装解除するとベッドに腰を下ろした。
NERDLESを利用したVRゲームにおけるログアウトには、更にもう一つささやかな問題が発生する。ログアウト時に、ゲーム内の仮想の五感と、ゲーム外の生身の五感が受け取っている情報にギャップがありすぎると、現実に復帰したときに不快な酩酊感を覚えるのだ。立った状態から横たわった状態への移行程度ではわずかな目眩を感じるくらいで済むが、一度SAOに入る以前に、飛行系ゲームで錐揉み急降下状態からログアウトしたときは復帰してからも落下感に付きまとわれて酷い目に合ったものだ。
その症状を防ぐための理想的ログアウトとされているのが通称『寝落ち』で、仮想空間内で睡眠状態に入り、寝ているうちにログアウトして、現実で睡眠から目覚めるというものだ。
俺がベッドにごろんと横たわると、とうとうクッキーを食べ終えたユイが空中をぱたぱたと移動し、くるんと一回転したかと思うと本来の姿に戻って床に着地した。長い黒髪と白いワンピースの裾がふわりとたなびき、ほのかな芳香が宙を漂う。
ユイは両手を後ろに回すと、わずかに俯きながら言った。
「……明日まで、お別れですね、パパ」
「……そうか、御免な……。せっかく会えたのにな……。またすぐ戻ってくるよ、ユイに会いに」
「……あの……」
目を伏せたユイの頬が僅かに赤く染まった。
「パパがログアウトするまで、一緒に寝てもいいですか?」
「え……」
俺も自分の顔に血が上るのを感じる。ユイにとっては俺はあくまで「パパ」であり、AIとしての彼女が人間的なエモーションの総体を求めているに過ぎないのだろうが、その姿と言動は俺を動揺させるに十分なほど愛らしい少女のものであって――
「あ、ああ。いいよ」
だが無論俺は気恥ずかしさを脇に押しやって、ユイに頷きかけると体を壁際に移動させてスペースを作った。にこりと輝くような微笑を浮べたユイがそこに飛び込んでくる。
俺の胸に頬をすり寄せるユイの髪をゆっくり撫でながら、俺は呟いた。
「早くアスナを助け出して……また何処かに家を買おうな。――このゲームにもプレイヤーホームってあるのかな?」
一瞬首をかしげたユイが、すぐに大きく頷く。
「相当高いみたいですけど、用意されているようです。――夢みたいですね、また、パパと、ママと、三人で暮らせるなんて……」
あの日々のことを思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような郷愁を感じる。たった数ヶ月前のことなのに、手の届かない遥かな記憶の中へと去っていってしまったかのような――。
俺は両腕でしっかりとユイの体を抱きしめ、目を閉じた。
「夢じゃない……すぐに現実にしてみせるさ……」
かすかに呟く。久々の仮想ゲーム体験で脳が疲労したのか、強い眠気が襲ってくる。
「おやすみなさい――パパ」
暖かい暗闇の中に沈んでいく俺の意識を、ユイの鈴の音のような声がふわりと撫でていった。
(第二章 終)