プロローグ 2014年・秋
深い青の輝点が三つ、ささやかな星座のように並んでいる。
直葉(すぐは)はそっと右手の指を伸ばし、その光に触れてみた。
ナーヴギアの稼動状態を示すLEDインジケータ。ヘルメットの前縁部に設けられたそれは、右から主電源、WANリンク、大脳リンクの状態をモニターしている。左端の光点が赤に変われば――その時は、ギア使用者の脳が破壊されたことを意味する。
そのギアの主は、オフホワイトのモノトーンに統一された病室の中央、広いジェルベッドの上で、醒めない眠りについていた。いや、それは正確な表現ではない。実際には、彼の魂は遥か異世界で日夜戦っているのだ――己の解放を賭けて。
「お兄ちゃん……」
直葉はそっと眠る兄・和人(かずと)に呼びかけた。
「もう二年も経つんだね……。あたし、今度高校生になるんだよ……。早く帰ってこないと、どんどん追い越しちゃうよ……」
再び指を伸ばし、兄の顔の輪郭をなぞる。長い昏睡のあいだに肉が落ち、削いだように薄いそのラインは、もともと中性的な印象のある和人の横顔に輪をかけて少女めいた陰翳を与えている。母親などは、冗談で「うちの眠り姫」と呼んでいるほどだ。
細くなっているのは顔だけではない。全身が痛々しいほどにやせ細り、幼い頃から剣道一筋の直葉と比べると体重は今やあきらかに下だろう。このまま消えてなくなってしまうのではないか……。最近では、そんな恐怖にとらわれることもある。
でも直葉は、一年前から病室で泣くのを可能なかぎり我慢するようにしている。その頃、総務省のSAO救出対策本部のメンバーに教えてもらったのだ――兄の、ゲーム内での『レベル』が全体のトップ数パーセントに位置すること、常に危険な最前線で戦闘を行う数少ない攻略プレイヤーの一人であることを。
きっと今も、兄は死と隣り合わせの状況で戦っているのだろう。だから直葉がここで泣くわけにはいかない。それよりは手を握り、応援しようと思う。
「がんばって……。がんばって、お兄ちゃん」
いつものように、和人の骨ばった右手を自分の両手で包み込み、懸命に念じていると、不意に背後から声をかけられた。
「あら、来てたの、直葉」
慌てて振り返る。
「あ、お母さん……」
立っていたのは、母親の翠(みどり)だった。この病室のスライドドアはモーター駆動で、開閉音が恐ろしく静かなため聞き落としたらしい。
翠は、右手に下げたコスモスの束を手早くベッドサイドの花瓶に生け、直葉の隣の椅子に腰を降ろした。会社帰りなのだろうが、コットンシャツとスリムジーンズの上に革のブルゾンを羽織ったラフな格好だ。化粧も薄く、髪を後ろで無造作に束ねたその格好はとても来年不惑の女性には見えない。コンピュータ系情報誌の編集長という仕事柄のせいもあるだろうが、本人には当分歳相応に落ち着く気はないらしく、直葉にとっては母親というより姉のような存在と言っていい。
「母さんこそ、よく来られたね。校了前なんでしょ?」
直葉が言うと、翠はニッと笑った。
「押し付けて抜け出してきたわ。いつもあんまり来られないけど、今日くらいはね」
「そうだね……。今日はお兄ちゃんの……誕生日だもんね」
二人はしばし口をつぐみ、ベッドで眠る和人を見つめた。カーテンを揺らして夕焼け色の風が部屋に入り込み、コスモスの香りがかすかに漂った。
「和人も……もう一六歳なんだね……」
翠がぽつりと呟いた。
「……いい機会だから、あんたには今話しておくわ、直葉」
いつになく改まった調子の翠の声に、直葉は首を傾げて隣を見た。
「……なに?」
「和人はね……あたしが産んだ子供じゃないの」
「え……?」
母親が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「そ、それ……どういうこと……?」
「あたしに、姉さんがいた話は知ってるでしょ……?」
「う……うん、車の事故で……亡くなったって……」
「和人はね、その姉さんの子なの。奇跡的に……一人だけ、助かってね。その頃にはもう父さんも母さんも……直葉のお爺ちゃんとお婆ちゃんも亡くなってたしね……。研介さんと相談して、うちで引き取ることにしたの……。だから、和人は、直葉の従兄なのよ……本当は……」
「……そんな……そんなこと……」
直葉は呆然と翠の顔を見詰めた。頭のなかがぐるぐると渦巻いて、何も考えられなかった。
「……お兄ちゃんは、知ってるの……?」
どうにかそれだけ尋ねると、翠はゆっくりと首を振った。
「和人が高校に上がったら、二人に言おうと思ってたんだけどね……。こんなことになっちゃったから……。ごめんね、直葉……」
翠は、気丈な彼女にしては珍しく瞳を伏せると、立ち上がった。
「……それじゃ、あたし会社に戻るから……。あんまり暗くならないうちに帰るのよ」
ぽん、と直葉の頭に手を置き、翠は病室を出ていった。軽いモーター音と共にドアが閉まると、すぐに静寂が訪れた。
直葉は両手を膝の上でぎゅっと握り、眼を見開いて和人の顔を見つめた。熱に浮かされたように全身がふわふわと頼りなく、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
白いカーテンの向こうにたゆたう金色の光が、やがて深い朱色に、さらに紫色に変わり、病室が薄闇に包まれる頃になっても、直葉はそこに留まりつづけた。身じろぎもせず、和人のささやかな息づかいにいつまでも聞き入っていた。
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第一章 2015年初春
耳をすませる。
体を包む完全な静寂。無限の暗闇。NERDLES技術が開発される以前は存在し得なかった、五感の遮断によってもたらされる全き孤独の世界。
恐怖に耐えながら、俺は魂を虚無の空間に浮遊させる。ナーヴギア用テストプログラムによって、感覚は肉体から切り離されているものの、いかなるゲームソフトもロードされておらず、どこのサーバにも繋がっていない。LANケーブルは壁のジャックに接続されているが、パケットの往復は無い。
俺は暗黒の中で耳をすませる。
この世界のどこかに彼女がいる。檻に囚われ、助けを求めている。その声を聞き取ろうと全神経を集中する。
しかし、声は聞こえない。俺の耳には何も届かない。やがて、俺の意識はいつものように記憶の中に彷徨いこんでいく。彼女とすごした、短くも暖かい、冬の陽だまりのようなあの日々。
両手に持ったマグカップの片方を差し出し、にこりと笑う彼女。剣を鞘に収め、こちらに向かってVサインする彼女。一枚の毛布にいっしょにくるまり、俺にぎゅっとしがみついて不意に涙をこぼす彼女。俺が尋ねる。
「どうしたの?」
彼女が答える。
「好きってキモチがいっぱいすぎると、涙が出ちゃうんだよ」
記憶の彼方のその声が、あまりにも鮮明に響いて、俺は虚無の中に呼び戻される。五感は遮断されているが、涙が熱く溢れる感覚が湧き上がる。俺は全身の力を振り絞って彼女の名前を叫ぶ。
…………
俺の脳波が平穏状態から外れ、ナーヴギアのオートダウンサインが赤く輝いた。暗闇の中に放射状の光が広がり、同時に感覚がゆっくりよみがえってくる。皮膚感覚、聴覚、視覚の順で脳と肉体との接続が完了し、かすかな電子音とともにギアの電源が落ちた。俺はゆっくりと上体を起こした。
あごの下のロックを解除し、ギアをそっと持ち上げる。目蓋を開けると、きれいに片付いた自室の光景が目に飛び込んできた。
6畳の部屋は、今時珍しい天然木のフローリングだ。家具はシンプルなパソコンラックとスチールラック、俺が座っているパイプベッドの三つしかない。二年留守にしていた間に、ラックを雑然と埋めていた雑誌類はほとんど処分されてしまい、かつての居心地のいい混沌状態を取り戻すにはしばらくかかるだろう。
俺は両手に抱えた古ぼけたヘッドギアをそっと傍らに置き、立ち上がった。ベッドの向こうの壁にかけられた大きな鏡をちらりと見やる。
現実世界に戻ってきて二ヶ月が経つが、未だに自分の姿に慣れることができない。かつて存在した剣士キリトと、今の俺・桐ヶ谷和人は基本的には同じ容姿を持っているはずだが、落ちた体重がまだ完全には戻らないのでTシャツの下の骨ばった体がいかにも弱々しい。
俺は、鏡の中の自分の頬にふた筋の涙が光っているのを発見し、右手でそれを拭い取った。
「俺、すっかり泣き虫になっちゃったよ、アスナ」
呟いて、部屋の南側にある大きな窓に歩み寄る。両手でカーテンを開け放つと、冬の朝の控え目な陽光が、部屋中を薄い黄色に染め上げた。
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ざくざくと小気味良い音を立てながら、庭先の霜柱を踏みしめて歩く。先日降った雪はもうほとんど姿を消したが、一月なかばの朝の空気はまだまだ切れるように冷たい。
直葉は、厚く氷の張った庭池のふちで立ち止まると、右手に握った竹刀をかたわらの黒松の幹に立て掛けた。眠気の残滓を体の中から追い出すようにひとつ大きく深呼吸してから、おもむろに両手を膝について、屈伸運動を始める。
まだ完全に目覚めていない全身の筋肉をゆっくりと動かしていく。つま先、アキレス腱、ふくらはぎと、徐々に血流がめぐりはじめると同時に、ちくちくする感覚が体を包んでいく。
揃えた両手を前に伸ばし、腰をぐっとかがめたところで――直葉はぴたりと動きを止めた。池に身を乗り出した自分の姿が、今朝張ったばかりの滑らかな氷に映っていた。
眉の上と、肩のラインですぱっと一直線にカットされた髪は今時珍しい青味がかるほどの黒だ。同じく深い墨色の眉はきりっと太く、その下の大きな、やや勝ち気そうな瞳とあいまって、どこか男の子めいた雰囲気を氷の鏡に映る少女に与えている。身にまとっているのが古式ゆかしい白の道着に黒袴とくれば尚更だ。
(やっぱり……似てないよね……)
最近よく浮かんでくるその思考。洗面所や玄関の姿見で自分の顔を見るたびにそう思ってしまう。昔から自分の容姿は嫌いではないし、そもそもあまり気にかけるほうではないのだが、母親にあの話を聞いたときから、つい比較してしまうのだ――自分と、和人を。
(――考えても、仕方ないよ……)
頭を振って思考を追い出し、直葉は屈伸を再開した。
ストレッチを丁寧に2セット終えると、松に立て掛けておいた竹刀を手に取る。長年使い込んで手のひらに馴染んだそれを絞り込むように握り、背筋を伸ばしてぴたりと中段に構える。
一瞬、その姿勢のまま呼吸を整え――鋭い呼気と共に、振りかぶった竹刀を正面に撃ち出した。朝の空気を断ち割る唸りに驚いた雀が数羽、黒松の梢から飛び立った。
桐ヶ谷家は、埼玉県南部のとある城下町の中でもことに昔の街並みを残した地域に建つ古い日本家屋だ。今は本丸御殿しか残らぬ城に伺候していた武家の流れだということで、四年前に他界した直葉の祖父は、それは厳しい士気質の人物だった。
長年警察に奉職し、若い頃は剣道で鳴らした豪傑で、息子――直葉の父親――にも同じ道に進むことを期待していたようだったが、父親は高校までは竹刀を握ったもののあっさりとアメリカの大学に留学し、そのまま外資系の証券会社に就職してしまった。その後はろくに日本に帰らない生活を選んだため、祖父の情熱は自然と、直葉と一つ年上の兄・和人に向けられることとなった。
直葉と兄は小学校に上がると同時に近所の剣道場に叩き込まれたのだが、コンピュータ技師だった母親の影響か兄は竹刀よりもキーボードを愛し、二年で道場を辞めてしまった。だが兄のオマケで入門した直葉はどうしたことか剣道が性に合い、以来九年、祖父が亡くなってからも竹刀を握り続けている。
直葉は今十五歳。去年、中学最後の大会では全国の上位まで進出し、春からは東京の高校への推薦入学が決まっている。
だが――。
昔は、自分の進む道に迷いは無かった。剣道は好きだったし、周囲の期待に応えることが何より嬉しかった。
しかし、二年前。日本中を激震させたあの事件に兄が巻き込まれてから、直葉の中に消えない揺らぎが生まれたのだった。それは悔い、と言ってもいい。直葉が8歳の時に兄が剣道をやめてから、二人の間に出来てしまった広く、深い溝を埋めようと努力しなかったことに対する悔いだ。
竹刀を捨ててからの兄は、それまでの渇きを一気に癒そうとするかのようにコンピュータを溺愛した。小学生にして小遣いでパーツを買い揃えてマシンを自作し、母親の手ほどきを受けながらプログラムを組んだ。直葉にとって、兄の話すことはまるで異国の言葉だった。
もちろん、学校の授業でコンピュータの操作は習うし、直葉の自室にも一台兄の手になるマシンが置かれてはいた。だが、それでする事はせいぜいメールのやりとりとウェブブラウジング程度で、とても兄の住む世界は直葉に理解できるものではなかった。特に、兄が没頭していたオンラインRPG、あれには本能的な嫌悪を覚えた。自分を偽る仮面をつけて、同じく仮面をかぶった相手と仲良く話すなんて自分にはとてもできないと思った。
とても、とても幼い頃は、直葉と兄は友達もうらやむほど仲が良かったのだ。その兄が遠い世界に行ってしまった寂しさを埋めるように、直葉は剣道に打ち込んだ。自然、日々の会話は減り、それがいつしか普通になって――そして二年前、あの事件が起こった。
悪夢のタイトル、『ソードアートオンライン』。日本全国で五万人の若者たちが意識を根こそぎ刈り取られてこの世界から姿を消した。
兄が東京の専門病院に収容されて、初めて見舞いに行った日。
ベッドの上で、たくさんのコードに拘束され、禍々しいヘッドギアを被って昏睡する兄の姿を目にした時、直葉は生まれてはじめてと言ってもいいほど号泣した。兄の体にすがって、わんわん泣いた。
もう、二度と言葉を交わせないかもしれない。なぜもっと早く、兄との距離を埋めようと努力しなかったのか。それは、そんなに難しいことではなかったはず、自分にはそれができたはずなのだ。
剣道を続ける意味、動機を真剣に考え始めたのはその頃だった。でも、どんなに迷っても答えは出なかった。兄と会えないまま直葉は14歳、15歳になり、周囲が勧めるまま推薦での進学を決めたものの、このままの道を進みつづけていいのかどうかという気持ちの揺らぎが消えることはなかった。
兄が帰ってきたら、今度こそいっぱい話をしよう。悩みも、迷いも全部打ち明けて、相談に乗ってもらおう。直葉はそう決意し、そして二ヶ月前、奇跡が起きた。兄が自らの力で呪縛を打ち破り、帰還したのだ。
――なのに、その時には、兄と自分の関係は大きく変わってしまっていた。母親・翠の言葉が脳裏によみがえる。
(和人は、直葉の従兄なのよ……)
父親の研介は一人っ子だし、翠のただ一人の姉も若くして他界していたため、いままで直葉にはいとこという存在はいなかった。だから、突然実は和人がその翠の姉の子なのだと言われても、具体的な距離感がわからない。果てしなく遠くなってしまったような気もするし、それほど変わらないという気もする。
和人はいまだそのことは知らない。両親に、自分から言いたいと直葉が頼んだからだ。だが、まだ直葉は兄に言い出せないでいる。いったい何が変わったのか、自分でもまだ言葉にできないのだ。
(ううん――たった一つ、変わったことがある……)
直葉は、思考の流れを断ち切るように、一際鋭く竹刀を打ち下ろした。その先を考えるのが怖かった。
気づくと、いつのまにか朝日の角度がかなり変わっていた。そろそろ切り上げることにして、竹刀を下ろしくるりと振り返る。
「あ……」
家に目をやった途端、直葉はぴたりと立ち止まった。スウェット姿の和人が縁側に腰掛け、こちらを見ていた。目が合うとにっと笑い、口を開く。
「おはよう」
言うと同時に、右手に持ったミネラルウォーターのミニボトルをひょいと放ってきた。左手で受け止め、直葉も言う。
「お、おはよ。……やだなぁ、見てたなら声かけてよ」
「いやあ、あんまり一生懸命やってるからさ」
「そんなことないよ。もう習慣になっちゃてるから……」
和人の隣にすわり、竹刀を立てかけてボトルのキャップを捻る。口をつけると、よく冷えた液体が火照った体の中を心地よく落下していく。
「そっか、ずっと続けてるんだもんな……」
和人は直葉の竹刀を握ると、右手で軽く振った。すぐに首をかしげる。
「軽いな」
「ええ?」
直葉はボトルから口を離し、和人を見やった。
「それ真竹だから、けっこう重いよ。ファイバーの奴と比べると二百グラムくらい違うよ」
「あ、うん。その……イメージというか……比較の問題というか……」
和人は左手で直葉のペットボトルをひょいと奪い取り、残っていた水を全部飲み干してしまった。
「あ……」
直葉は顔がかーっと熱くなる。それをごまかすように言う。
「な、何と比べてるのよ」
それには答えず、空のボトルを縁側に置くと、和人は立ち上がった。
「なあ、ちょっとやってみないか」
直葉は和人の顔を唖然として見上げた。
「やるって……試合を?」
「おう」
当然、とばかりにうなずく和人。
「ちゃんと防具つけて……?」
「うーん、寸止めでもいいけど……スグに怪我させちゃ悪いからな。じいさんの防具があるだろう、道場でやろうぜ」
「ほーお」
直葉はおもわずニヤニヤしてしまう。
「ずいぶんとブランクがあるんじゃございません? 全中ベスト8のアタシ相手に勝負になるのかしらー? それに……」
表情をあらため、
「体のほう、だいじょぶなの……? 無茶しないほうが……」
「ふふん、毎日のジム通いの成果を見せてやるさ」
にやっと笑うと、和人はすたすたと家の裏手目指して歩き始めた。直葉も慌てて後を追う。
敷地が無駄に広い桐ヶ谷家は、母屋の北側に小さいがちゃんとした道場を備えている。祖父の遺言で取り壊しはまかりならんということになっていたし、直葉も日々の稽古に使っているので、手入れもそれなりに行き届いている。
素足で道場に上がった二人は軽く一礼し、各々の支度に取り掛かった。幸い、祖父の体格はいまの和人とそれほど違わなかったようで、防具は古いがサイズは合っているようだった。面の紐を同時に結び終え、道場の中央で向き合う。再び、礼。
直葉は背筋を伸ばし、愛用の竹刀をぴたりと中段に構える。対する和人は――
「そ、それなあに、お兄ちゃん」
和人の構えを見た途端、直葉は思わず吹き出してしまった。珍妙、としか言いようがない。左足を前に半身に構え、腰を落とし、右手に握った竹刀の先はほとんど床板に接するほどに下げられている。左手は、柄に添えられているだけのようだ。
「審判がいたらむちゃくちゃ怒られるよそんなの〜」
「いいんだよ、俺流剣術だ」
直葉はやれやれ、という心境で再び竹刀を構えなおした。和人はさらに両足を大きく開き、重心を落とす。
がらあきの面に一発入れてやろうと、蹴り足に力を込めたところで、直葉はあれ、と思った。滅茶苦茶な和人の構えだが――なんだか、妙にサマになっている。スキだらけのようで、不用意には打ち込めない気がする。まるで、あの型で長年稽古を積んでいたかのような――。
だが、そんな訳はない。和人が竹刀を握っていたのは6歳から8歳の二年間だけで、その間は基礎の基礎しか学ばなかったはずだ。
と、直葉の迷いを見透かしたように、不意に和人が動いた。低い姿勢で滑るように移動しながら、右下段から竹刀が跳ね上がってくる。驚くほどのスピードではなかったが、一瞬の虚をつかれて、反射的に直葉も動いていた。右開き足から、
「テェ――――ッ!!」
和人の左小手に竹刀を打ち下ろす。絶妙のタイミング、だったはずだが――直葉の一撃は見事に空を切っていた。
有り得ない避け方だった。和人が竹刀から左手を外し、体側に引き付けたのだ。そんなことが出来るものなのか――あっけに取られた直葉の面に向かって、右手一本に握られた和人の剣が飛んできた。首を捻り、必死にかわす。
体を入れ替え、再び距離を取って向き直ったときには、直葉の意識は完全に切り替わっていた。全身の血が沸きあがるような心地よい緊張感。今度は直葉から打って出る。得意技の小手面――。
だが、今度も和人はそれを綺麗にかわしてみせた。腕を引き、体を捻り、紙一重のところで直葉の竹刀をやり過ごす。直葉は内心唖然とする。打突のスピードは全国でも定評のある直葉ゆえ、こうも鮮やかに連続技を避けられたシーンはそうそう記憶にない。
もう本気の本気モードで、直葉は猛然と打ちかかった。息もつかせぬ速さで次々と鋒鋩を叩き込む。だが、和人は躱しに躱しまくる。面の奥の瞳の動きを見ると、直葉の竹刀の動きを完全に捉えているとしか思えない。
業を煮やした直葉は、強引に鍔迫り合いに持ち込んだ。足腰を鍛え上げた直葉の圧力に、和人がぐらりとよろめく。そこを逃さず、気合とともに必殺の引き面一発――。
あっ、と思ったときは遅かった。手加減の無い一撃が、真っ向正面から和人の面に炸裂。ばしーん!! という甲高い音が、道場いっぱいに響き渡った。
和人は数歩ふらついたが、どうにか踏みとどまった。
「だ、だいじょうぶ、お兄ちゃん!?」
慌てて声をかけると、問題ない、というふうに軽く左手を上げる。
「……いやぁ、参った。スグは強いな、ヒースクリフなんか目じゃないぜ」
「……ほんとにだいじょぶ……?」
「おう」
和人は数歩下がると、更に妙な行動に出た。右手の竹刀をひゅひゅんと左右に払い、背中に持っていったのだ。直後に硬直し、右手でぽりぽりと頭を掻く。直葉はいよいよ心配になった。
「あ、頭打ったんじゃ……」
「ち、ちがう!! 長年の習慣が……」
和人は礼をしてどすんと座ると、防具の紐をほどきはじめた。
連れ立って道場を出ると、二人は母屋の裏の手洗い場でばしゃばしゃと頭から水を浴び、汗を流した。ほんのお遊び程度のつもりが、直葉も思い切り真剣になってしまい、全身がかーっと熱い。
「それにしても、びっくりしたよー。お兄ちゃんいつのまに練習してたのよ」
「うーむ、ステップはともかくアタックがな……。やっぱソードスキルは再現できないよな……」
また意味不明なことを呟く和人。
「でも、やっぱり楽しいな。またやってみようかな、剣道……」
「ホント!? ほんとに!?」
直葉は思わず勢いづいてしまった。顔がぱっとほころぶのが自分でもわかる。
「スグ、教えてくれる?」
「も、もちろんだよ! また一緒にやろうよ!」
「もうちょっとキンニクが戻ったらな」
和人に頭をぐりぐりされて、直葉はにへーっと笑った。また一緒に練習できると思うだけで、涙が出そうなほど嬉しくなる。
「あのねーお兄ちゃん、わたしもねえ……」
「ん?」
「うーん、やっぱまだ内緒!」
「なんなんだよ」
大きなタオルで頭をごしごし拭きながら、二人は勝手口から家に入った。母親の翠はいつも昼近くまで寝ているので、朝食の用意は直葉と、最近は和人も交互にやっている。
「私シャワー浴びてくるね。今日はどうするの?」
「あ……俺、今日は……病院に……」
「……」
何気なくした質問の答えを聞いて、直葉の浮き立った気分は少しだけ沈んだ。
「そっか、あの人のお見舞い、いくんだね」
「ああ……。それくらいしか、出来ること無いしな……」
あの世界で、和人には大事なひとがいたのだ、という話は一ヶ月ほど前に本人から聞いた。和人の部屋で、並んで壁際に座り、コーヒーカップを抱えながら、ぽつりぽつりと話してくれた。以前の直葉なら、仮想世界で誰かを好きになるなどとても信じられなかっただろう。でも、今なら何となくわかる気がする。それに――その人の話をしたとき、和人の瞳ににじんでいたかすかな涙――。
最後の瞬間まで一緒だったんだ、と和人は言った。二人とも、一緒に現実に帰ってくるはずだったのだと。でも、和人の意識だけが戻り、その人は眠りつづけたままだった。何が起きたのかは――あるいは何が起きているのかは、誰にもわからなかった。和人は三日とあけずにその人が眠る病院を訪れている。
直葉は想像する。眠る想い人の前で、かつての自分のように、手を握り、涙をこぼし、必死に心で呼びかける和人を。その姿を思い浮かべるたび、直葉はどうにも形容できない気分に襲われる。胸の奥がきゅんと痛く、呼吸が苦しくなる。両手で自分をぎゅっと抱え、その場に座り込んでしまいたくなる。
和人にはいつも笑っていてほしいと思う。あの世界から帰還したあとの和人は、以前の彼とくらべて見違えるように明るくなった。直葉ともよく話してくれるし、びっくりするくらい優しいし、しかも無理をしている様子がない。まるで――ごく幼い頃の二人に戻れたような、そんな気さえする。だから、和人の涙を見ると、こんなに切なくなってしまうのだ。直葉は自分にそう言い聞かせる。
(でも――あたしは、もう、気づいてる……)
和人があの人のことを思って瞳を伏せるとき、自分の胸に去来する痛みの中に、もうひとつ、別の密やかな気持ちがあることを。
台所の入り口で、コップに注いだ牛乳をごくごく飲む和人を見つめながら、直葉は胸のなかでささやきかける。
(ね、お兄ちゃん、あたしたち、ほんとは従兄妹なんだよ……)
きょうだい、からいとこ、になって、何がどう変わったのか、直葉にはまだよくわからない。
でも、たった一つだけ変わったことがある。
それは、ひょっとしたら、和人のことをほんとうに好きになってもいいのかもしれない――ということ。
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俺はざっとシャワーを浴び、着替えると、ひと月ほど前に新調したマウンテンバイクにまたがって家を出た。南に向かってゆっくりと漕ぎ出す。目的地までは片道15キロメートル、自転車で往復するには多少距離があるが、筋トレ中の俺にはちょうどいい負荷だ。
これから向かうのは埼玉県所沢市――その郊外に建つ最新鋭の総合病院。その最上階の病室に、彼女が眠っている。
そう――アスナは、帰ってこなかった。
彼女の消息を調べること自体はそれほど苦労しなかった。東京の病院で覚醒した直後、覚束ない足で病室を彷徨い出た俺はすぐに看護士に見付かって連れ戻され、その数十分後、スーツ姿の男たちが数人血相を変えて俺を訪ねてきた。彼らは『総務省SAO救出対策本部』のエージェントだと名乗った。
そのご大層な名前の組織は、SAO事件勃発後すぐに結成されたらしいのだが、結局二年間ほとんど手出しは出来なかったのだそうだ。まあそれもやむを得まい、下手にサーバにちょっかいを出して茅場のプロテクトを解除しそこねれば、五万人の脳が一斉に焼き切れるのだ。そんな責任は誰にも取れやしない。
彼らに出来たのは、被害者の病院受け入れ態勢を整えたことと(それだけで十分な偉業であると言える)、ごくわずかなプレイヤーデータをモニターすることだけだった。
それでも、彼らには、俺のレベルと存在場所から、俺が攻略組の――自分で言うのもなんだが――トップに立つプレイヤーであることは分かっていたらしい。それゆえ、去年の11月、突如として生き残った者達が覚醒したとき、何があったのかを尋ねるために俺の病室を急襲してきたわけだ。
俺は彼らに条件を出した。知っていることは全て(あるいは言える範囲で)話す。そのかわりに俺の知りたいことを教えろと。
知りたいこと――それは無論アスナの居場所だった。数分間携帯であちこち電話をかけまくった挙句、リーダー格の眼鏡の男が、当惑を隠せない表情で俺に言った。
『結城明日奈さんは、所沢の高度医療機関に収容されている。だが、彼女は、まだ覚醒していない……彼女だけじゃない、まだ全国で約二千人のプレイヤーが目を覚ましていないらしい』
サーバの処理にともなうタイムラグと当初は思われた。しかし、何時間、何日待とうとも、アスナを含む二千人が目覚めたという知らせはこなかった。
茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと、世間では騒がれた。だが、俺にはそうは思えなかった。あの、夕焼けの世界でわずかな時間語り合った時の、彼の透徹した視線。彼は言った、生き残った全プレイヤーを解放すると。あの時の茅場に今更嘘をつく必要があったとは思えない。彼は間違いなく、あの世界に幕を引き、自らの命を絶ったのだ。俺はそう信じている。
しかし、不慮の事故なのか、あるいは何物かの意志によってか、完全に消去されるはずだったSAOメインサーバーは、変わらぬブラックボックスとしていまだに動きつづけている。アスナのナーヴギアも活動を続け、彼女の魂をSAOサーバに縛している。その中で今何が起きているのか――俺にはもう知る術がない。いっそ――もう一度あの中に戻れるなら――。
直葉が知ったら激怒するだろうが、俺は一度書置きを残し、自室でナーヴギアを起動してSAOクライアントをロードしてみたことすらあるのだ。だが、俺の目の前に現れたのは、『サーバーに接続できません』という無機質な一文だけだった。
俺は、リハビリが一応終わり、動けるようになった直後から今まで、可能な限り定期的にアスナの眠る部屋を訪れている。それはとても辛い時間だ。己の半身が引き裂かれ、奪い取られる物理的な痛みによって魂の内側で血が流れるのがわかる。しかし、俺には、それ以外に出来ることがない。あまりに無力で、ちっぽけな、今の俺には。
ゆっくりとしたペースで四十分ほどペダルを踏みつづけ、幹線道路から外れて丘陵地帯を巻く道を走っていくと、やがて前方に巨大なブラウンの建築物が姿をあらわした。民間企業によって運営されている高度医療専門病院だ。
何度も誰何されているうちにすっかり顔見知りになってしまった守衛に手を上げて正門を通過し、広大な駐車場の片隅にある自転車置き場に愛車を駐める。高級ホテルのロビーめいた一階受け付けで通行パスを発行してもらい、それを胸ポケットにクリップで留めて、俺はエレベーターに乗り込んだ。
数秒で最上一八階に到達し、扉が開く。無人の廊下を南に歩いていく。このフロアは長期入院患者が多く、人影を見かけることはごく少ない。やがて、突き当たりに、ペールグリーンに塗装された扉が見えてくる。すぐ横の壁面には鈍く輝く金属のパネル。名前が印刷されたプレートが嵌め込まれている。『結城 明日奈 様』というその表示の下に、一本の細いスリットが走っている。俺は胸からパスを外し、その下端をスリットに滑らせる。かすかな電子音。圧搾空気の音とともにドアがスライドする。
一歩踏み込むと、涼やかな花の香りが俺を包んだ。真冬にも関わらず、色とりどりの生花が部屋のそこかしこに飾られている。広い病室の中央はカーテンで仕切られている。俺はゆっくりとそこに近づく。
この向こうにいる彼女が、どうか目覚めていますように――。布に手をかけ、俺はしばしささやかな奇跡を祈る。そっとカーテンを引く。
大きなベッド。俺が使っていたのと同じ、ジェル素材のものだ。白い、清潔な上掛けが低い陽光を反射して淡く輝いている。その中央に――眠る、彼女。
始めてここを訪れたとき、もしかしたら彼女は意識のない現実の自分を俺に見られるのを嫌がるかもしれないと、ちらりと思った。だが、そんな心配など微塵も寄せ付けぬほどに、彼女は美しかった。
つややかな深い栗色の髪が、クッションの四方に豊かに流れている。肌の色は透き通るように白いが、丁寧なケアのせいか病的な色合いはまったくない。頬にはわずかなバラ色すら差している。
体重も、俺ほどには落ちていないようだ。なめらかな首から鎖骨へのラインはあの世界での彼女のものとほとんど同一と言っていい。薄い桜色の唇。長い睫毛。今にもそれが震え、ぱちりと開きそうな気さえする――彼女の頭を包む、濃紺のヘッドギアさえなければ。
ナーヴギアのインジケータLEDが三つ、青く輝いている。ときおり星のように瞬くのは、正常な通信が行われている証だ。今この瞬間にも、彼女の魂はどこかの世界に囚われている。俺を呼んでいる。
俺は、両手でそっと彼女のちいさな手を包み込む。かすかな温もりを感じる。かつて、俺とかたく手を繋ぎ、俺の体に触れ、背中に回された手。息が詰まる。溢れそうな涙を必死にこらえ、そっと呼びかける。
「アスナ……」
ベッドサイドに置かれた時計が、かすかな電子音で俺の意識を呼び起こした。視線を向けると、すでに正午になっている。
「そろそろ帰るよ、アスナ。またすぐ来るから……」
小さく話しかけ、立ち上がろうとした時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、二人の男が病室に入ってきたところだった。
「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。たびたびすまんな」
前に立つ恰幅のいい初老の男が、顔をほころばせて言った。仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割りに引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。唯一、オールバックにまとめたシルバーグレーの髪だけが、この二年間の心労を伺わせる。
彼がアスナの父親、結城彰三(ゆうき しょうぞう)だ。アスナからは、父親は実業家、とちらりと聞いたことがあったが、実際には一流電機メーカー『レクト』の社長であると知ったときはさすがに仰天した。
俺はひょいと頭を下げ、口を開いた。
「こんにちは、お邪魔してます、結城さん」
「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。この子も喜ぶ」
結城はアスナの枕許に近寄ると、そっと髪を撫でた。しばし沈思する様子だったが、やがて顔を上げ、背後に立つもう一人の男を俺に示す。
「彼とは初めてだな。うちの開発部で主任をしている須郷君だ」
人の良さそうな男だな、というのが第一印象だった。長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡が乗っている。レンズの奥の目は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだ。かなり若い、二十代半ばだろうか。
俺に右手を差し出しながら、須郷(すごう)という男は言った。
「よろしく、須郷伸之です。――そうか、君があの英雄キリト君か」
「……桐ヶ谷和人です。よろしく」
須郷の手を握りながら、俺は結城をちらりと見た。すると結城は顎を撫でながら笑った。
「いや、すまん。SAO内部のことは口外禁止だったな。あまりにもドラマティックな話なのでつい喋ってしまった。彼は、私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」
「ああ、社長、その事なんですが――」
手を離した須郷は、結城に向き直った。
「来月にでも、正式にお話を決めさせて頂きたいと思います」
「――そうか。しかし、君はいいのかね? まだ若いんだ、新しい人生だって……」
「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが――今の美しい姿でいる間に……ドレスを着せてあげたいのです」
「……そうだな。そろそろ覚悟を決める時期かもしれないな……」
話の流れが見えず俺が沈黙していると、結城がこちらを見た。
「では、私は失礼させてもらうよ。桐ヶ谷君、また会おう」
一つ頷いて結城は大柄な体を翻し、ドアへと向かった。二度の開閉音。後には、俺と須郷という男だけが残された。
須郷はゆっくりと歩くと、ベッドの向こう側に立った。左手でアスナの髪をひと房つまみ上げ、音を立ててこすりあわせる。その仕草に、俺はかすかな嫌悪を覚える。
「……君はあのゲームの中で、明日奈と暮らしてたんだって?」
顔を伏せたまま、須郷が言った。
「……ええ」
「それなら、僕と君はやや複雑な関係ということになるかな」
顔を上げた須郷と目が合う。その瞬間、俺はこの男の第一印象が大きく間違っていたことを悟る。
細い目から、やや小さい瞳孔が三白眼気味に覗き、口の両端をきゅっと吊り上げて笑うその表情は、酷薄という言葉以外に表現する手段を持たない。背筋にわずかな戦慄が疾る。
「さっきの話はねぇ……」
須郷は愉快でたまらないというふうにニヤニヤと笑いながら言った。
「僕と明日奈が結婚するという話だよ」
俺は絶句した。この男は一体何を言っているのか。須郷の台詞の意味が、凍るような冷気となってゆっくりと俺の体にまとわりつく。数秒間の沈黙の後、どうにか言葉を絞りだした。
「そんなこと……出来るわけが……」
「確かに法的な入籍はできないがね。書類上は僕が結城家の養子に入ることになる。まあどうでもいいのさ、『レクト』の後継者のキップさえ手に入ればね」
「……そのために、アスナを利用する気なのか」
「この娘は、昔から僕のことを嫌っていてね」
須郷は左手の人差し指をアスナの頬に這わせた。
「親たちはそれを知らないが、いざ結婚となれば拒絶される可能性も高いと思っていた。だからね、この状況は僕にとって非常に都合がいい。当分眠っていてほしいね」
須郷の指がアスナの唇に近づいていく。
「やめろ!!」
俺は無意識のうちに、その手を掴み、アスナから引き離していた。
須郷は再びニイッと笑うと俺の手を振り払い、言った。
「ねえ桐ヶ谷君。アーガスがその後どうなったか知っているかい?」
「……解散したと聞いた」
「うん。莫大な補償金を請求されてね、会社は消滅。SAOサーバの維持を委託されたのがレクトのPCソリューション部門さ。具体的に言えば、僕の部署だよ」
須郷はゆっくり歩いてベッドを回り込むと、俺の正面に立った。デモニッシュな微笑を貼り付けたままの顔をぐいと突き出してくる。
「――つまり、明日奈の生殺与奪は僕の手中ということさ。君がゲームの中でこの娘と何を約束したか知らんがね、いいか、余計な真似はするなよ。今後ここには一切来るな。結城との接触も許さん」
一瞬、常に須郷が浮かべていた笑いが消えた。俺は拳を握り締めた。凍結した数秒間が経過した。
やがて須郷は体を離すと、哄笑をこらえるように片頬を震わせながら言った。
「式は来月この病室で行う。君も呼んでやるよ。それじゃあな、せいぜい最後の別れを惜しんでくれ、英雄くん」
剣が欲しい、と痛切に思った。心臓を貫き、首を斬り飛ばしてやりたい。俺の衝動を知ってか知らずか、須郷は俺の肩をぽんと叩くと身を翻し、そのまま病室を出て行った。
どうやって家まで帰ってきたのか、一切記憶がなかった。気づくと俺は自室のベッドに腰掛け、ぼんやりと壁を見つめていた。
『レクトの後継者のキップさえ……』
『明日奈の生殺与奪は僕の手に……』
脳裏に、須郷の台詞が何度も何度もフラッシュバックする。そのたびに白熱した金属のような憤激が俺を貫く。
だが――。あるいはそれも俺のエゴにすぎないのだろうか。
須郷は昔から結城家にごく近しい人間であり、事実上のアスナの婚約者でもあったわけだ。結城彰三の信頼も篤く、レクトで責任ある立場についてもいる。アスナがあの男のものになるのは遥か昔からの規定の事実であり、それに比べて俺は単なる――ゲーム内だけでの知り合いというに過ぎない。この憤り、アスナをあの男に渡したくないという怒りは、矮小な子供の我が侭なのか――。
俺たちにとっては、あの世界、アインクラッドだけが真実の世界だった。そう信じていた。あそこで交わした言葉、約束、すべてが宝石のように光り輝いていた。
だが――現実という名の粗い研石が俺を磨耗させていく。記憶をくすませていく。
『わたし、一生キリトくんの隣にいたい――』
アスナの言葉が、笑顔が遠ざかる――。
「ごめん……ごめんアスナ……俺……なんにもできないよ……」
今度こそ堪えきれなかった涙が、ぽた、ぽたと握った拳の上に落ちた。
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「お兄ちゃん、お風呂空いたよ〜」
直葉は、二階の和人の部屋の前で呼びかけた。だがいらえは無い。
病院からは夕方に帰ってきたようだったが、その後は部屋に閉じこもり、夕食の時も降りてこなかった。
(寝ちゃったのかな……)
直葉はドアノブに手をかけ、しばし逡巡した。が、うたた寝してると風邪引いちゃうし、と心の中で呟いて、そっと手に力を込める。
かちゃ、というかすかな音とともにノブが回り、ドアがわずかに開いた。中は真っ暗だ。やはり寝ているのか、と思ったとき、部屋の中から凍えるような寒気が流れ出してきて、直葉は体をすくませた。
(やだ、窓開けっぱなし……。しょうがないなぁ)
そっと部屋の中に踏み込む。ドアを閉め、南がわのサッシに向かって一歩踏み出してから、てっきり寝ていると思った和人がベッドの端に腰掛けてうなだれているのに気づいて、ぎょっとして立ち止まった。
「お、お兄ちゃん……ごめん、寝てると思って……」
あわてて声をかける。しばしの沈黙のあと、和人がやけにしわがれ、掠れた声で言った。
「……悪い、ちょっと……一人にしておいてくれ……」
「で、でも……こんな寒い部屋で……」
直葉はそっと手を伸ばし、和人の二の腕に触れる。氷のように冷たい。
「やだ、冷え切ってるじゃない、風邪引いちゃうよ。お風呂、入らなきゃだめだよ」
そこまで言ってから、直葉は、窓から差し込むかすかな街明かりに照らされた和人の頬に、うっすらと光る筋が流れているのに気づいた。
「お、お兄ちゃん……どうしたの……?」
「……大丈夫だよ……明日になれば……」
その低い声も、どこか濡れている。
「……でも……」
和人は、ゆっくりと両手で顔を覆った。かすかな呟き声。
「駄目だな、俺は……。スグの前では……泣かないようにしようって……決めたのにな……」
「あの人に……アスナさんに……何か、あったの……?」
和人の体が震えた。絞り出すような嗚咽の声が、かすかに漏れた。
「アスナが……遠くに……行っちゃうんだ……俺の手の……届かないところに……」
それだけでは事情はわからなかった。しかし、背中を丸め、幼い子供のように涙を零す和人の姿に、直葉の心はどうしようもなく震えた。
窓を閉め、カーテンを引き、エアコンのスイッチを入れてから、直葉は和人のとなりにそっと腰掛けた。しばらくためらった後、両腕で冷え切った和人の体をぎゅっと包み込む。一瞬和人の体がこわばったが、すぐにふっと力が抜けた。
耳もとで囁きかける。
「ね、がんばろうよ……。好きになったひとのこと、最後まで、あきらめちゃだめだよ……」
一生懸命に探した言葉だが、自分の口から出たそれが心に届いた瞬間、直葉は張り裂けそうな痛みを感じた。
(そうだ――あたしも……)
これ以上、自分に嘘はつけない――と思った。
(あたしも、好きです……お兄ちゃん……和人、さん……)
直葉は、抱きかかえた和人の体を、そっとベッドの上に横たえた。毛布を引き上げ、その下でもういちど和人を抱きしめる。自分の体の熱で、凍えた体を温めようとするように。
そっと背中を撫でているうち、いつしか和人の嗚咽はかすかな寝息へと変わったようだった。目を閉じながら、直葉は心のなかで呟いた。
(でも――あたしは)
あきらめなきゃいけない。この気持ちは深い、深いところに埋めてしまわなければならない。なぜなら――
(お兄ちゃんの心は……あの人のものだから……)
涙がひと粒だけ直葉の頬を伝い、シーツに落ちて、消えていった。
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甘く柔らかいぬくもりの中でゆらゆらとまどろむ。
目覚める直前の心地よい浮遊感。外周から森の梢を透かして差し込む陽光が、穏やかに頬を撫でている。
俺は目を閉じたまま腕のなかの彼女をそっと抱き寄せる。唇の場所を探りながらゆっくり目蓋を開けていく――
「うわ!!」
俺は喉の奥で叫びながら、横になったまま五十センチほど飛びすさった。ばね仕掛けのように上体を起こし、周囲をぶんぶんと見回す。
22層の森の家――ではなかった。現実の俺の部屋、俺のベッド、だが俺のほかにもう一人。
唖然としながら毛布をそっと捲り上げる。すぐに戻し、頭をぶんぶん振って眠気を振り落としてから、もう一度捲る。青墨のように黒い、やや短い髪。パジャマ姿の直葉が、俺の枕に頭をうずめて熟睡している。
「ど……どういうことだこれは……」
俺は昨夜のことを必死に思い出そうとした。そうだ――ゆうべ、深い絶望にとらわれているとき、直葉と会話を交わしたような記憶がある。どうしても堪えきれず涙をこぼしてしまって、直葉が抱きしめてくれたのだ。どうやら俺はそのまま眠りに落ちてしまったらしい。
「こ、子供じゃあるまいし……」
しばし恥ずかしさに身悶えたあと、俺はあらためて直葉のあどけない寝顔を見つめた。それにしたって自分までここで寝ることはないだろうに……。
そういえば――。あの世界で、前にもこんなことがあった。40層あたりで知り合った、テイマーの女の子。直葉に似ている、と思った。あの時も俺のベッドで眠り込まれてしまい、対処に思い悩んだものだ。
俺はおもわず微笑んでいた。アスナのことはいまだに心の底に重くのしかかっているが、昨日の張り裂けるような痛みは夜の間に溶け落ちてしまったようだった。
あの世界――アインクラッドでの数々の思い出は、ぜんぶ俺にとって貴重な宝物だ。嬉しいことも、悲しいことも沢山あったが、その全てが真実の記憶だ。それを俺自身が貶めてはいけない。俺はアスナと約束したのだ。この世界で、もう一度出会うと。きっと俺にもまだ出来ることがある。
眠りに落ちる直前の、直葉の言葉が耳の奥によみがえった。
『あきらめちゃ、だめだよ……』
「ああ――そうだな……」
俺は身を乗り出し、直葉の頬を指先でつついた。
「おい、起きろよスグ。もう朝だぞ」
「うぅ〜……」
不満げな喉声を漏らしながら毛布を引き上げようとする直葉の頬を、今度はむにーと引っ張る。
「起きろって。朝稽古の時間がなくなるぞ」
「う〜ん……」
直葉はようやくうっすらと目を開けた。
「あ……おはよ、お兄ちゃん……」
もぐもぐと呟きながら、体を起こす。
しばらく俺の顔を眺めていたが、そのうちぐるぐると部屋を見回しはじめた。ぼんやりしていた目が、次第に大きく開いていく。ついで白い肌がみるみる赤く染まっていく。
「あっ、あのっ、あたしっ」
耳まで真っ赤になった直葉は口をぱくぱくさせながらしばし硬直していたが、やがて猛烈な勢いで跳ね起きると、がちゃばたん! という大音響とともにドアを開閉し、部屋を飛び出していった。
「やれやれ……」
頭をかきながら、俺も立ち上がった。カーテンを引きあけると、薄曇りの空からささやかな光が部屋に射し込んだ。
とりあえずシャワーを浴びようと思って着替えを用意していると、ぽーん、というアラーム音が耳に飛び込んだ。
デスクに目を向けると、卓上のパネルPCの上端でメール着信ランプが点滅している。俺は椅子に腰掛けると、PCのタッチセンサーに触れてサスペンド状態を解除した。
俺が留守にしている二年の間にパソコンの構造もずいぶん変わっていた。古きよき金属円盤式HDDは姿を消し、大容量不揮発RAMに取って代わられたため、無音で一瞬にしてデスクトップが表示される。キーボードのメーラー起動ボタンを押し、受信トレイに移動。リストの一番下に表示された名前は『エギル』だった。
アルゲードのなんでも屋店主兼斧使いのエギルとは、二十日ほど前に東京で再会した。その時にアドレスも交換しておいたのだが、メールが来たのは初めてだった。タイトルは『Look at this』となっている。開くと、本文は一文字も無かったが、かわりに写真が一枚添付されていた。
その写真を見て――俺は思わず立ち上がっていた。息を呑む。
不思議な構図だった。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並んでいる。その向こうに、白いテーブルと白い椅子。そこに座っている、同じく白いドレス姿の、一人の女性。こちらに横顔を向けているその少女は――
「アスナ……!?」
かなり引き伸ばしたものらしくドットが粗い。それでも、長い栗色の髪の少女は、間違いなく彼女だと思えた。テーブルの上で両手を組み合わせ、横顔は憂いに沈んでいる。よくよく見ると、背中からは透明な羽根状のものが伸びているように見える。
俺は卓上から携帯を掴み取ると、電話帳をスクロールするのももどかしく発信ボタンを押した。わずか数秒の呼び出し音が途方もなく長く感じる。プツ、という接続音のあと、野太いエギルの声が聴こえた。
「もしも――」
「おい、この写真はなんだ!!」
「……あのなあキリト、せめて名前くらい言え」
「そんな余裕ねえよ!! 早く教えろ!」
「……ちょっと長い話なんだ。店に来られるか?」
「すぐ行く。今行く」
俺は返事も聞かずブツリと電話を切ると、着替えを抱えて部屋を飛び出した。
エギルの店は台東区御徒町のごみごみした裏通りにある。煤けたような黒い木造で、そこが喫茶店であることを示すのは小さなドアの上に造り付けられた金属製の飾り看板だけだ。店名は『Dicey Cafe』。
カラン、という乾いたベルの音とともにドアを押し開けると、カウンターの向こうで禿頭の巨漢が顔を上げ、ニヤリと笑った。客は一人もいない。
「よぉ、来たか」
「……相変わらず不景気な店だな。よく二年も潰れずに残ってたもんだ」
「うるせえ、これでも夜は繁盛しているんだ」
まるであの世界に戻ったような、気安いやり取りを交わす。
エギルに連絡してみたのは、先月の末だった。総務省の役人から、思いつく限りの知り合いの本名と住所のリストを入手したのだ。クラインやニシダ、シリカにサーシャと、会ってみたいプレイヤーは多いが、彼らも今は現実世界との折り合いをつけるのに苦労しているだろうと思い接触は当分控えることにしている。最初にこの店を訪ねたときそう言うと、
「じゃあ俺はどうなるんだよ!?」
とエギルはわめいたものだ。お前がそんなデリケートなタマか、と言ってやった時の奴の情けない顔は思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。
エギルこと本名アンドリュー・ギルバート・ミルズが、現実世界でも店を経営していたと知ったときはなるほどと思った。人種的には生粋のアフリカン・アメリカンだが同時に親の代からの江戸っ子でもあるそうで、住み慣れた御徒町に喫茶店兼バーを開いたのが二十歳の時らしい。客にも恵まれ、美人の奥さんも貰って、さあこれからという時にSAOの虜囚となった。二年後に帰還したときは店のことは殆ど諦めていたそうだが、奥さんが単身奮戦して細腕でのれんを守り抜いたということだ。実にいい話だ。
実際、店の固定ファンも多いのだろう。木造の店内は、行き届いた手入れによってすべての調度が見事な艶をまとい、テーブル4つにカウンターだけの狭さもまた魅力と思える居心地のよさを漂わせている。
俺は革張りのスツールに腰を下ろすと、コーヒーをオーダーするのももどかしくエギルにくだんの写真のことを尋ねた。
「で、あれはどういうことなんだ」
店主は、カウンターの下に手をやり、長方形のパッケージを取り出すをそれを俺のほうに滑らせた。指先で受け止める。
「それ、知ってるか?」
「……ゲームソフト……?」
手の平サイズのパッケージの右上にあるハードのロゴには、『AmuSphere』とある。
「アミュスフィア? 知らないハードだな」
「出たのは去年だ。ナーヴギアの後継機だよそいつは」
「……」
俺は複雑な心境で、その二つのリングをかたどったロゴマークを見つめた。
あれだけの事件を起こし、悪魔の機械とまで言われたナーヴギアだが、パーソナル仮想エンタテイメントマシンを求める市場のニーズは誰にも押しとどめることはできなかった。SAO事件が落ち着くと同時に、各社から「こんどこそ安全」と銘打たれた後継機が発売され、俺があの世界にいた二年の間に従来のディスプレイ接続型ゲーム機とシェアを逆転するまでになっていた。SAOに似たバーチャルMMOも数多くリリースされ、全世界的な人気を博している。
それらの事情は一応理解していたが、俺自身はもう二度と同様のゲームに手を付ける気は無かったので、詳しいことを知ろうとはしなかった。
「じゃあ、これもVRMMOなのか」
俺はパッケージを手にとり、眺めた。描かれているイラストは、深い夜の森の中から見上げる巨大な満月だ。黄金の円盤を背景に、少年と少女が剣を携え飛翔している。格好はオーソドックスなファンタジー風の衣装だが、二人の背中からは大きな透明の羽根が伸びている。イラストの下部には、凝ったタイトルロゴ――『Alfheim Online』。
「アルヴヘイム・オンライン? ……アルヴヘイムって何だ?」
「妖精の国、っていう意味らしいな」
「妖精……。なんかほのぼのしてるな。まったり系のMMOなのか」
「それが、そうでもなさそうだぜ。ある意味えらいハードだ」
エギルは、俺の前に芳香を漂わせるカップを置くと、ニヤリと笑った。
「ハード? どんなふうに?」
「どスキル制。プレイヤースキル重視。PK推奨」
「ど……」
「レベルは一切ないらしいな。経験値はあるがそれでスキルを上昇させるだけで、どんなに稼いでもHPは大して上がらないそうだ。戦闘もプレイヤーの運動能力依存で、剣技のないSAOと言ったところかな」
「へえ……。PK推奨ってのは」
「プレイヤーはキャラメイクでいろんな妖精の種族を選ぶわけだが、違う種族間ならキル有りなんだとさ」
「そりゃ確かにハードだ。でも人気出ないだろ、そんなコアな仕様じゃ」
「そう思ったんだけどな、今大人気なんだと。理由は、『飛べる』からだそうだ」
「飛べる……?」
「妖精だから羽根がある。フライト・エンジンとやらを搭載してて、慣れるとコントローラ無しで自由に飛びまわれる」
俺は思わずヒュウ、と口笛を鳴らしていた。ナーヴギア発売直後から、飛行系のVRゲームは数多く出たが、その全てがゲーム内で何らかの装置を操って飛ぶタイプのものだった。プレイヤーが生身でそのまま飛行するゲームが出なかった理由は簡単で、現実の人間には羽根が無いからだ。
仮想世界内において、プレイヤーは現実の体と同じように動ける。それは裏を返せば、現実の人間に不可能なことは同じく不可能、ということでもある。背中に羽根をつけることはできても、それをどの筋肉で動かしていいのかわからないのだ。
SAO内では、末期には俺やアスナは超絶的なジャンプ力によって擬似的に飛ぶことも出来るようになっていたが、それはあくまでジャンプの延長線上であってやはり自由な飛行とは違う。
「飛べるってのは凄いな。羽根をどう制御するんだ」
「わからん。だが相当難しいらしい。初心者は、やはりスティック型のコントローラを片手で操るんだとさ」
「……」
俺は一瞬、挑戦してみたい、と思ってしまったが、すぐにその気持ちを打ち消すように熱いコーヒーをごくりと飲んだ。
「――まあこのゲームのことはだいたいわかった。本題に戻るが、あの写真は何なんだ」
エギルは再びカウンターの下から一枚の紙を取り出し、俺の前に置いた。プリンタ用の光沢フィルムだ。あの写真が印刷してある。
「どう思う」
エギルに聞かれ、俺はしばらくプリントを凝視してから言った。
「似ている……。アスナに……」
「やっぱりそう思うか。ゲーム内のスクリーンショットだから解像度が足りないんだけどな……」
「早く教えてくれ、これはどこなんだ」
「その中だよ。アルヴヘイム・オンラインの」
エギルは俺の手からパッケージを取ると、裏返して置いた。ゲームの内容や画面写真が細かく配置されている中央に、世界の俯瞰図と思えるイラストがある。円形の世界が、いくつもある種族の領土として放射状に分割され、その中央に一本の途方もなく巨大な樹がそびえている。
「世界樹、と言うんだとさ」
エギルの指が大樹のイラストをこつんと叩いた。
「プレイヤーの当面の目標は、この樹の上のほうにある城に他の種族に先駆けて到着することなんだそうだ」
「到達って、飛んでいけばいいじゃないか」
「なんでも滞空時間ってのがあって、無限には飛べないらしい。この樹の一番下の枝にもたどり着けない。でもどこにも馬鹿なことを考えるやつがいるもんで、体格順に五人が肩車して、多段ロケット方式で樹のてっぺんを目指した」
「ははは、なるほどな。馬鹿だが頭がいい」
「うむ。目論見は成功して、その樹上の城にかなり肉薄した。ぎりぎりで到着はできなかったそうだが、その五人目が木の枝に下がる大きな鳥かごを見つけて撮影した。それを引き伸ばしたのがあの写真だ」
「鳥かご……」
俺は、その言葉の持つ不吉なイメージに眉をしかめた。囚われの……というフレーズが頭をよぎる。
「だがこれは正規のゲームなんだろう……? なんでアスナが……」
俺はパッケージを取り上げ、もう一度眺めた。
長方形のトールケースの下部に視線を移す。メーカー名は――『レクト・プログレス』。
「おい、どうしたキリト?」
「いや……」
俺はあの男の言葉を思い出していた。
現在SAOサーバを管理しているのは自分だ、と須郷は言った。しかし管理と言ってもサーバ自体は相変わらずブラックボックスで、内部にまでは介入できていない――と俺は理解していたのだが。
奴にとっては、アスナがこのまま眠っていたほうが都合がいいことになる。アスナらしき少女が目撃されたVRMMO――その開発元がレクトの子会社――。偶然だろうか。
総務省の救出チームに連絡してみようか、と一瞬思った。だがすぐに思い直す。あまりにも漠然とした話に過ぎる。
俺は顔を上げ、巨漢のマスターを見やった。
「エギル――これ、貰っていっていいか」
「構わんが……行く気なのか」
「ああ、この目で確かめる」
エギルは一瞬気遣わしげな顔をした。その憂慮は俺にもわかる。まさかとは思いつつも、また何か起きるのではないか――という恐怖が足許からじわりと湧き上がってくる。
それを振り払うように、俺はにやりと笑って見せた。
「死んでもいいゲームなんてヌルすぎるぜ。……ゲーム機を買わなくちゃな」
「ナーヴギアで動くぜ。OSもCPUも一緒なんだ」
「そりゃあ助かる」
俺はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。ポケットからつかみ出したコインをカウンターにぱちりと置く。
「じゃあ、俺は帰るよ。ご馳走様、また情報があったら頼む」
「情報代はツケといてやる。――アスナを助け出せよ。そうしなきゃ俺達のあの事件は終わらねえ」
「ああ。いつかここでオフをやろう」
ごつんと拳を打ち付けあうと、俺は振り向いてドアを押し開け、店を後にした。
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自分のベッドにうつ伏せに転がり、枕に顔をうずめた格好で、直葉は数分毎に足をばたばたさせては身悶えていた。
まだパジャマのままだ。今日は一月一六日水曜日、学校はすでに始まっているが、直葉の中学は三年の三学期は自由登校なので行っても剣道部に顔を出すくらいしかすることがない。
直葉は、何度目ともしれない記憶のプレイバックに突入した。
昨夜――凍えた和人をどうにかして暖めたくて、一緒の布団にくるまって
(ひゃ―――――)
全身を密着させて
(うわ―――――)
そのままコトンと寝入ってしまったのだ。横になると十秒で眠りに落ちてしまう即席体質が今日ばかりは恨めしい。
(あたしのばかばかばか……)
せめて和人より先に目を覚ませば、まだこっそり脱出することも可能だったのに、よりにもよって起こされてしまった。これはもう真剣に会わせる顔が無い。
恥ずかしさ、照れくささ、それに隠し切れない愛おしさの混じった感情がぐるぐると渦巻いて、息も出来ないほど胸がきゅーんと痛くなる。
とりあえず竹刀を振って頭をからっぽにしよう、と思い、直葉はようやく立ち上がった。気が引き締まるので稽古は道着でやるのが好きなのだが、一刻も早く庭に出たくて手っ取り早くジャージに着替え、部屋を出る。
和人は早い時間に出かけたようだったし、翠はいつも昼前には出勤するし、研介は年明けからアメリカに戻っているので、家には直葉一人きりだ。一階のダイニングテーブルに置いてある籠からチーズマフィンをひとつ取って行儀悪く口にくわえ、オレンジジュースのパックを片手に持って縁側に腰掛ける。
大きく一口齧り付いたところで――玄関方向から自転車を引きながら庭に入ってきた和人とばっちり目が合った。
「ふぐ!!」
マフィンのかけらが喉を転がり落ち、思わずむせる。咄嗟に右手のジュースを飲もうとして、まだストローを挿していないことに気付く。
「うぐ、うぐ〜〜!」
「おいおい」
駆け寄ってきた和人が、ジュースを奪い取って手早くストローを突き立て、直葉の口に突っ込んだ。必死に冷たい液体を吸い上げ、のどに詰まった塊ごとごくりと飲み込む。
「ぷはっ! し……死ぬかと思った……」
「そそっかしい奴だなぁ。もっと落ち着いて食え」
「うう〜」
しょんぼりうな垂れる直葉。和人は隣に腰掛けると、靴紐を解き始めた。その様子を横目で見ながら、もう一口マフィンを齧ったとき、不意に和人が言った。
「そうだ、スグ、昨夜のことだけど……」
ふたたび咳き込みそうになって慌ててもう一口ジュースを飲む。
「う、うん」
「その、何ていうか……サンキューな」
「え……」
予想外のことを言われ、直葉はまじまじと和人を見つめた。
「スグのお陰で元気出たよ。俺、諦めない。絶対にアスナを助け出してみせる」
ずきん、という胸の痛みを押し隠して、直葉は微笑んだ。
「うん……がんばってね。あたしもアスナさんに会ってみたいもん」
「きっと仲良くなれるよ」
和人は直葉の頭をくしゃくしゃと撫でると立ち上がった。
「じゃ、また後でな」
言い残し、二階に上がっていく和人を見送りながら、直葉はマフィンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
(あたしも……がんばっていいのかな……)
庭に降り、池のそばでストレッチを開始する。体が暖まったところで竹刀を握り、素振りに移行する。
いつもなら思い切り竹刀を振っているうちに雑念は消えていくのだが、今日はいつまでたっても頭の中にぐるぐるするものが居座りつづけた。
(ほんとに、好きになってもいいのかな……)
昨夜、寄り添って横たわりながら、一度は諦めようと思った。和人の心の中にはあの人しかいない、それが痛いほどわかったから。
(でも――それでもいい)
二ヶ月前、病院からの連絡を受け、母親を待たずに駆けつけた直葉を見て、ベッドの上の和人は涙を滲ませながら笑った。手を差し伸べ、「スグ」、と呼んだ。あの時から――直葉の中にこの気持ちが生まれたのだ。いつでも近くにいたい。もっと話をしたい。無理やり押さえつけるなんて、できない。
そばで見ているだけでもいいんだ、そう自分に言い聞かせながら、直葉は宙に向かって三連撃を放った。動きを止め、ふと居間の時計に目をやると、いつのまにか正午を回ろうとしていた。
「あ、いけない……。約束あったんだ」
呟くと素振りを切り上げ、松の枝にかけておいたタオルで汗をぬぐった。顔を上げると、雲の切れ間からわずかに青空が顔を出しはじめていた。
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部屋に戻ってきた俺は、ラフな格好に着替え、携帯を留守モードにすると、ベッドの上に座った。バックパックのジッパーを開け、エギルから入手したゲームパッケージを取り出す。
『アルヴヘイム・オンライン』――話を聞いた限りでは相当に歯ごたえのありそうな内容だ。僥倖なのはレベル制ではないということで、ステータスが足りずに自由に動けないという事態はあるていど避けられそうだ。
本来であれば、MMORPGに手をつけるなら事前にネットや雑誌で情報収集をするべきなのだろうが、俺はとても悠長にそんなことをしている気にならず、パッケージを開封してディスクを取り出した。ベッドの足元に置いてあるナーヴギア本体の電源を入れ、スロットに挿入する。数秒でREADYランプが点灯する。
俺はベッドに横たわると、両手でヘッドギアを目の前に持ち上げた。
かつて濃紺に輝いていたその機械は、いまや塗装があちこちで剥げ落ち、傷ついている。これは俺を二年間捕縛した枷であり、同時に故障一つせずに動きつづけた戦友でもある。
もう一度、俺に力を貸してくれ――。
心のなかで呟き、俺はナーヴギアを頭に装着した。あごの下でハーネスをロックし、シールドを降ろして目を閉じる。
不安と興奮で速まる心臓のビートを抑えつけながら、俺は言った。
「リンク・スタート!」
目の前に虹色の光が弾けた。複雑な和音を組み合わせた起動音とともにナーヴギアのロゴマークが眼前に浮かび上がり、消滅する。ついで各種接続状況のリストアップが開始され、OKマークがフラッシュすると同時に俺の肉体感覚が消滅していく。最後に現れたLOADINGの表示がSTARTに変わり、次の瞬間、俺は新たな世界へと降り立っていた。
――と言ってもそこはまだ、暗闇に包まれたプレイヤー情報登録ステージだ。目の前にアルヴヘイム・オンラインのロゴが出現し、同時に柔らかい女性の声でウェルカムメッセージが響き渡る。
俺は合成音声の案内に従って、キャラクターの作成を開始した。目の前に青白く光るホロキーボードが出現し、まずIDとパスワードの入力を求められる。SAOの時にも使った、長年愛用し、指が記憶しているワードの羅列を打ち込む。
次いでキャラクターネームの入力。何も考えず『キリト』と入力しようとして、一瞬ためらった。
俺、桐ヶ谷和人がSAO世界でキリトと名乗っていたことを知る人間はごく少ない。総務省の救出チームと、チームに密接な関係のあるレクト社長・結城彰三、あの須郷と言う男にエギル、それにもちろんアスナ――。多分それだけだ。直葉や両親も知らないはずだ。
SAO世界でのこと、特にキャラクターネームに関しては、厳しい情報統制が敷かれている。なぜなら、SAO内ではプレイヤー同士の戦闘が頻繁に発生し、その結果現実世界で恐ろしい数の人間が死亡しているからだ。誰が誰を殺した、という話が無制限に流布すれば、おびただしい訴訟が起きることは想像に難くない。
現在、刑法的にはSAO事件で発生した殺人の咎はすべて行方不明の茅場晶彦一人に負わされている。民事訴訟はすべて今は無きアーガスを相手取って起こされ、その結果アーガスは解散してしまったのだが、今後プレイヤー間レベルでの訴訟が続発する事態は避けたい、というのが国の意向らしい。
須郷に知られているのがやや不安ではあるが、それほど目立つ名前でもないし、俺は逡巡を押し切ってキリト、と入力した。SAOと同じく性別は自動で男性が選択されている。
次に、合成ボイスはキャラクターの作成を促した。と言っても初期段階では種族の選択があるだけらしい。容姿は無数のパラメータからランダム生成され、キャンセル不可と説明される。どうしてもやり直したい場合はクライアントから購入しなおすしかないようだ。まあこの際どんな面相になろうともさして問題はない。
プレイヤーの分身たるキャラクターは、いわゆる妖精をモチーフにした九種族から選択できるようだった。それぞれに多少の得手不得手があると説明される。サラマンダー、シルフ、ノームと言ったRPGでお馴染みの名前から、ケットシー、レプラコーンとあまり聞き覚えのないものもある。
俺としては真剣にゲームを攻略する気はないのでどれでもよかったのだが、黒を基調とした初期装備が気に入ったので『スプリガン』なる種族を選択し、OKボタンにタッチする。
すべての初期設定が終了し、幸運を祈ります、という人工音声に送られて、俺は再び光の渦に包まれた。説明だと、それぞれの種族のホームタウンからゲームがスタートするらしい。床の感触が消え、浮遊感、次いで落下感覚が俺を襲う。光の中から、徐々に世界が姿をあらわす。夜闇に包まれた小さな町――その上空に俺は出現する。町の中央にある城へとぐんぐん近づいていく――。
そのとき。
いきなり全ての映像がフリーズした。あちこちでポリゴンが欠け、雷光のノイズが視界のそこかしこを這い回る。モザイク状に全オブジェクトの解像度が減少し、世界が溶け崩れていく。
「な――なんだ!?」
わめく暇もあればこそ――。俺は再び猛烈な落下状態に陥った。途方も無く広い暗闇の中を、果てしなく落ちつづけていく。
「どうなってるんだぁぁぁぁぁ」
俺の悲鳴が、むなしく虚無の空間に吸収され、消えていった。
(第一章 終)