22
戦いは一時間にも及んだ。
無限にも思えた激闘の果てに、ついにボスモンスターがその巨体を四散させたときも、誰一人として歓声を上げる余裕のある者はいなかった。皆倒れるように黒曜石の床に座り込み、あるいは仰向けに転がって荒い息を繰り返している。
終わった――の……?
ああ――終わった――
その思考のやりとりを最後に、俺とアスナの「接続」も切れたようだった。不意に全身を重い疲労感が襲い、たまらず床に膝をつく。俺とアスナは背中合わせに座り込み、しばらく動くことはできそうもなかった。
二人とも生き残った――。そう思っても、手放しで喜べる状況ではない。あまりにも犠牲者が多すぎた。開始直後に三人が散った後も、確実なペースで禍々しいオブジェクト破砕音が響きつづけ、俺は六人まで数えたところで無理矢理その作業を止めていた。
「何人――やられた……?」
左の方でがっくりとしゃがみこんでいたクラインが、顔を上げてかすれた声で聞いてきた。その隣で手足を投げ出して仰臥したエギルも顔だけこちらに向けてくる。
俺は左手を振ってマップを呼び出し、表示された緑の光点を数えてみた。出発時の人数から犠牲者の数を逆算する。
「――十四人死んだ」
自分で数えておきながら信じることができない。皆トップレベルの、歴戦のプレイヤーだった筈だ。たとえ離脱や瞬間回復不可の状況とは言え、生き残りを優先した戦い方をしていればおいそれと死ぬようなことはない――と思っていたのだが――。
「……うそだろ……」
エギルの声にも普段の張りはまったく無かった。生き残った者たちの上に暗鬱な空気が厚く垂れ込めた。
ようやく四分の三――まだこの上に二十五層もあるのだ。何万のプレイヤーがいると言っても、最前線で真剣にクリアを目指しているのは数百人といったところだろう。一層ごとにこれだけの犠牲を出してしまえば、最後にラスボスと対面できるのはたった一人――というような事態にもなりかねない。
おそらくその場合は、残るのは間違いなくあの男だろう……。
俺は視線を部屋の奥に向けた。そこには、他の者が全員床に伏す中、背筋を伸ばして毅然と立つ紅衣の姿があった。ヒースクリフだ。
無論彼も無傷ではなかった。視線を合わせてカーソルを表示させると、HPバーがかなり減少しているのが見て取れる。俺とアスナが二人がかりでどうにか防ぎ続けたあの巨大な骨鎌を、ついに一人で捌ききったのだ。数値的なダメージに留まらず、疲労困憊して倒れても不思議ではない。だが、悠揚迫らぬその立ち姿には、精神的な消耗など皆無と思わせるものがあった。まったく信じられないタフさだ。まるで機械――永久機関を備えた戦闘機械のようだ……。
俺は、疲労で紗のかかったような意識のままぼんやりとヒースクリフの横顔を見つめ続けた。伝説の男の表情はあくまで穏やかだ。無言で、床にうずくまるKoBメンバーや他のプレイヤー達を見下ろしている。暖かい、慈しむような視線――。言わば――
言わば、精緻な檻の中で遊ぶ子ねずみの群を見るような。
その刹那、俺の全身を恐ろしいほどの戦慄が貫いた。
意識が一気に覚醒する。指先から脳の中心までが急速に冷えてゆく。俺の中に生まれた、ある予感――かすかな発想の種がみるみる膨らみ、疑念の芽を伸ばしてゆく。
ヒースクリフのあの視線、あの穏やかさ。あれは傷ついた仲間をいたわる表情ではない。彼は俺たちと同じ場所に立っているのではない――。あれは、遥かな高みから慈悲を垂れる――神の表情だ……。
俺は、かつてヒースクリフとデュエルした時の、彼の恐るべき超反応を思い出していた。あれは人間の速度の限界を超えていた。言いなおそう。SAOシステムに許されたプレイヤーの限界速度を、だ。システムの枠にとらわれぬ存在。だがNPCではない。単なるプログラムに、あのような慈悲に溢れた表情はできない。
NPCでもなく一般のプレイヤーでもないとすれば、残る可能性は唯一つだ。だが、それをどうやって確認すればよいのか。方法などない……なにひとつ。
いや、ある。今この瞬間、この場所でのみ可能な方法がたった一つだけある。
俺はヒースクリフのHPバーを見つめた。過酷な戦いを経て大きく減少している。だが、危険域にまでは達していない。かろうじて、本当にぎりぎりの所でイエロー表示に留まっている。
未だかつて、ただの一度もレッドゾーンに陥ったことのない男。余人を寄せ付けぬその圧倒的防御力。
俺はゆっくりと右手の剣を握りなおした。ごく小さな動きで、徐々に右足を引いていく。腰をわずかに上げ、低空ダッシュの準備姿勢を取る。ヒースクリフは俺の動きに気付いていない。その穏やかな視線はただ、打ちひしがれるギルド団員にのみ向けられている。
仮に予想がまったくの的外れなら、俺は犯罪者プレイヤーに転落し、容赦ない制裁を受けることとなるだろう。
その時は……御免な……。
俺は傍らに腰を落としているアスナをちらりと見やった。同時にアスナも顔をあげ、二人の視線が交錯した。
「キリト君……?」
アスナがハッとした表情で、声に出さず口だけを動かした。だがその時にはもう俺の右足は地面を蹴っていた。
俺は、ヒースクリフとの距離約十メートル、床ぎりぎりの高さを全速で一瞬にして駆け抜け、右手の剣を捻りながら突き上げた。片手剣の基本突進技〈レイジスパイク〉。威力の弱い技ゆえこれが命中してもヒースクリフを殺してしまうことはないが、しかし、俺の予想通りなら――。
ペールブルーの閃光を引きながら左側面より迫る剣尖に、ヒースクリフはさすがの反応速度で気付き、目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。咄嗟に体を捻って回避体勢に入る。
だが、今度ばかりは俺のほうが速かった。空を切り裂く一条の光線となった俺の剣が、狙い違わずヒースクリフの胸に突き立つ――
その寸前で、目に見えぬ障壁に激突した。俺の腕に激しい衝撃が伝わった。紫の閃光が炸裂し、俺と奴の中間に同じく紫――システムカラーのメッセージが表示された。
『Immortal Object』。不死存在。か弱き有限の存在たる俺たちプレイヤーにはありえない属性。
「キリト君、何を――」
俺の突然の攻撃に、驚きの声を上げて駆け寄ろうとしたアスナがメッセージを見てぴたりと動きを止めた。俺も、ヒースクリフも、クラインや周囲のプレイヤー達も動かなかった。静寂の中、ゆっくりとシステムメッセージが消滅した。
俺は剣を引き、軽く後ろに跳んでヒースクリフとの間に距離を取った。数歩進み出たアスナが俺の右横に並んだ。
「システム的不死…? …って…どういうことですか…団長…?」
戸惑ったようなアスナの声に、ヒースクリフは答えなかった。厳しい表情でじっと俺を見据えている。俺は両手に剣を下げたまま、口を開いた。
「これが伝説の正体だ。この男のHPはどうあろうと危険域にまで落ちないようシステムに保護されているのさ。……不死属性を持つ可能性があるのは……NPCでなけりゃシステム管理者以外有り得ない。だがこのゲームに管理者はいないはずだ。唯一人を除いて」
言葉を切り、上空をちらりと見やる。
「……この世界に来てからずっと疑問に思っていたことがあった……。あいつは今、どこから俺たちを見てるんだろう、ってな。でも俺は単純な真理を忘れていたよ。どんな子供でも知ってることさ」
俺は紅衣の聖騎士にまっすぐ視線を据え、言った。
「『他人のやってるRPGを傍から見ていることほど詰まらないものはない』。……そうだろう、茅場晶彦」
すべてが凍りついたような静寂が周囲に満ちた。
ヒースクリフは無表情のままじっと俺に視線を向けている。周りのプレイヤー達は皆身動きひとつしない。いや、できないのか。
俺の隣でアスナがゆっくりと一歩進み出た。その瞳は虚無の空間を覗き込んでいるかのように感情が欠落している。唇がわずかに動き、乾いたかすれ声が漏れた。
「団長……本当……なんですか……?」
ヒースクリフはそれには答えず、わずかに首をかしげると俺に向かって言葉を発した。
「……なぜ気付いたのか参考までに教えてもらえるかな……?」
「……最初におかしいと思ったのは例のデュエルの時だ。最後の一瞬だけ、あんた余りにも速過ぎたよ」
「矢張りそうか。あれは私にとっても痛恨事だった。君の動きに圧倒されてついシステムのオーバーアシストを使ってしまった」
彼はゆっくり頷くと、はじめて表情を見せた。唇の片端をゆがめ、ほのかな苦笑の色を浮べる。
「予定では攻略が95層に達するまでは明かさないつもりだったのだがな。確かに私は茅場だ。付け加えれば、最上層で君たちを待つはずだったこのゲームの最終ボスでもある」
隣でアスナが小さくよろめく気配がした。俺は視線を逸らさぬままそれを右手で支えた。
「……趣味がいいとは言えないぜ。最強のプレイヤーが一転最悪のラスボスか」
「なかなかいいシナリオだろう? 盛り上がったと思うが、まさかたかが四分の三地点で看破されてしまうとはな。……君はこの世界で最大の不確定因子だと思ってはいたが、ここまでとは」
このゲームの開発者にして五万人の精神を虜囚とした男、茅場晶彦は見覚えのある薄い笑みを浮べながら肩をすくめた。聖騎士ヒースクリフとしてのその容貌は、現実世界の茅場とは明らかに異なる。だが、その無機質、金属質な気配は、二年前俺たちの上に降臨したあの巨大なマスクと共通するところがある。茅場は笑みをにじませたまま言葉を続けた。
「……最終的に私の前に立つのは君だと予想していた。〈二刀流〉スキルは全プレイヤーの中で最大の反応速度を持つ者に与えられ、その者が魔王に対する勇者の役割を担うはずだった。勝つにせよ負けるにせよ。だが君は私の予想を超える力を見せた。攻撃速度といい、その洞察力といい、な。まあ……この想定外の展開もネットワークRPGの醍醐味と言うべきかな……」
その時、凍りついたように動きを止めていたプレイヤーの一人がゆっくりと立ち上がった。血盟騎士団の幹部を務める男だ。朴訥そうなその細い目に、凄惨な苦悩の色が宿っている。
「貴様……貴様が……。俺たちの忠誠――希望を……よくも……よくも……」
巨大な斧槍を握り締め、
「よくも――――ッ!!」
絶叫しながら地を蹴った。止める間もなかった。大きく振りかぶった重武器を茅場へと――
だが、茅場の動きの方が一瞬速かった。右手を振り、出現したウインドウを素早く操作したかと思うと、男の体は空中で停止し次いで床に音を立てて落下した。HPバーにオレンジ色の枠が点滅している。麻痺状態だ。茅場はそのまま手を止めずにウインドウを操り続けた。
「あ……キリト君……っ」
振り向くと、アスナも地面に膝をついていた。咄嗟に周囲を見渡せば、俺と茅場以外の全員が不自然な格好で倒れて、呻き声を上げている。
俺は剣を背に収めると跪いてアスナの上体を抱え起こし、その手を握った。茅場に向かって視線を上げる。
「……どうするつもりだ。この場で全員殺して隠蔽する気か……?」
「まさか。そんな理不尽な真似はしないさ」
紅衣の男は微笑を浮べながら首を左右に振った。
「こうなってしまっては致し方ない。予定を早めて、私は最上層の〈紅玉宮〉にて君たちの訪れを待つことにするよ。90層以上の強力なモンスター群に唯一対抗できる力として育ててきた血盟騎士団を途中で放り出すのは不本意だが、何、君たちの力ならきっと辿り着けるさ。だが……その前に……」
茅場は言葉を切ると、圧倒的な意思力を感じさせるその双眸でひたと俺を見据えてきた。右手の剣を軽く床の黒曜石に突き立てる。高く澄んだ金属音が周囲の空気を切り裂く。
「キリト君、きみには私の正体を看破した褒美を与えなくてはな。チャンスをあげよう。今この場で私と一対一で戦うチャンスを。無論不死属性は解除する。私に勝てばゲームはクリアされ、全プレイヤーがこの世界からログアウトできる。……どうかな?」
その言葉を聞いた途端、俺の腕の中でアスナが自由にならない体を必死に動かし、首を振った。
「だめよキリト君……! あなたを排除する気だわ……。今は……今は引きましょう……!」
俺の内心の声も、その意見の正しさを認めていた。奴はシステムそのものに介入できる管理者だ。口ではフェアな戦いと言ってもどのような操作を行うかわからない。ここは退き、皆で意見を交換し、対応を練るのが最上の選択だ。
だが。
奴は何と言った? 血盟騎士団を育ててきただと? きっと辿り着けるだと……?
「ふざけるな……」
俺の口から無意識のうちにかすかな声が漏れた。
奴は、己の創造した世界に五万人の精神を閉じ込め、そのうち一万人もの意識を虚無空間に破棄せしめるに留まらず、自分の描いたシナリオ通りにプレイヤーたちが愚かしく、哀れにもがく様をすぐ傍から眺めていたという訳だ。ゲームマスターとしてはこれ以上の快感はなかったろう。
俺は、22層で聞いたアスナの過去を思い出していた。俺にすがって泣いた彼女の涙を思い出していた。世界創造の快感のためにアスナの心を何度も何度も傷つけ、血を流させたこの男を目の前にただ退くことがどうしてできるだろうか。
「いいだろう。決着をつけよう」
俺はゆっくり頷いた。
「キリト君っ…!」
アスナの悲痛な叫び声に、腕の中の彼女に視線を落とす。胸を撃ち抜かれるような痛み。どうにか笑顔を浮べることに成功する。
「ごめんな。ここで逃げるわけには……いかないんだ……」
アスナは何か言おうとして唇を開きかけたが、途中でやめて代わりににこりと笑った。その頬を涙の雫が伝った。
「死にに行くわけじゃ……ないんだよね……?」
「ああ……。必ず勝つ。勝ってこの世界を終わらせる」
「わかった。信じてる」
例え俺が負け、消滅しても、君だけは生きてくれ――。そう言いたかったが言えなかった。代わりに、そっと唇を重ねた。そこだけはどうにか動く右手で、アスナが俺の手を固く握ってきた。
俺はアスナの体を黒曜石の床に横たえると、立ち上がった。微笑を浮べてこちらを見ている茅場にゆっくり歩み寄りながら、両手で音高く二本の剣を抜き放つ。
「キリト! やめろ……っ!」
「キリトーッ!」
声の方向を見ると、エギルとクラインが必死に体を起こそうとしながら叫んでいた。俺は連中に向かって剣を握った左手を突き出し、親指を立てた。泣きそうな顔で押し黙る二人にニヤッと笑ってみせると、再び茅場に向き合う。剣を下げ、口を開いた。
「……悪いが、一つだけ頼みがある」
「何かな?」
「簡単に負けるつもりはないが、もし俺が死んだら――しばらくでいい、アスナが自殺できないように計らってほしい」
茅場は意外そうに片方の眉をぴくりと動かしたが、無造作に頷いた。
「良かろう。彼女はセルムブルグから出られないように設定する」
「キリト君、だめだよーっ!! そんなの、そんなのないよ――っ!!」
俺の背後で、涙混じりのアスナの絶叫が響いた。俺は振り返らなかった。右足を引き、左手の剣を前に、右手の剣を下げて構える。
茅場が右手のウインドウを操作すると、俺と奴のHPバーが同じ長さに調整された。レッドゾーンぎりぎり手前、強攻撃のクリーンヒット一発で決着がつく量だ。次いで、奴の頭上に『changed to mortal object』、不死属性を解除したというシステムメッセージが表示される。茅場はそこでウインドウを消去すると、床に付き立てた長剣を抜き、十字盾の後ろに構えた。
意識は冷たく澄んでいた。アスナ、ごめんな…という思考が泡のように浮かび、弾けたのを最後に、俺の心を闘争本能が凍らせ、硬く研いでいく。
勝算は、実のところ何とも言えない。前回のデュエルでは、剣技に限れば奴より劣るという感触は無かった。だが奴の言うオーバーアシスト、あの、こちらが停止し奴だけが動けるというシステム介入技を使われればその限りではない。全ては茅場のプライドにかかっている。口ぶりから判断すれば、奴は『神聖剣』の性能の範囲内で俺に勝とうとするだろう。その隙を突き、短期決着に持ち込むしか俺の生き残る道はない。
俺と茅場の間の緊張感が高まってゆく。空気さえその圧力に震えているような気がする。これはデュエルではない。単純な殺し合いだ。そうだ――俺は、あの男を――
「殺す…っ!!」
鋭い呼気と共に吐き出しながら、俺は床を蹴った。
遠い間合いから右手の剣を横薙ぎに繰り出す。茅場が左手の盾でそれを難なく受け止める。火花が散り、二人の顔を一瞬明るく照らす。
金属がぶつかりあうその衝撃音が戦闘開始の合図だったとでも言うように、一気に加速した二人の剣戟が周囲の空間を圧した。
それは、俺がかつて経験した無数の戦闘の中でもっともイレギュラーで、人間的な戦いだった。二人ともに一度お互いの手の内を見せている。そのうえ〈二刀流〉スキルをデザインしたのは奴なのだから、単純な連続技は全て読まれると思っていい。以前のデュエルで俺の技が軒並み止められたのも頷ける。
俺はシステム上に設定された連続技を一切使わず、左右の剣を己の戦闘本能が命ずるままに振り続けた。当然システムのアシストは得られないが、限界まで加速された知覚に後押しされてか、両腕は通常時を軽く上回る速度で動く。自分の目にすら、残像によって剣が数本、数十本にも見えるほどだ。だが――。
茅場は舌を巻くほどの正確さで俺の攻撃を次々と叩き落した。その合間にも、すこしでもこちらに隙ができると鋭い一撃を浴びせてくる。それを俺が瞬間的反応だけで迎撃する。局面は容易に動こうとしなかった。少しでも敵の思考、反応を読もうと、俺は茅場の両目に意識を集中させた。二人の視線が交錯する。
茅場――ヒースクリフの真鍮色の双眸はあくまで冷ややかだった。かつてのデュエルのときに垣間見せた人間らしさは、今はもうかけらも見えない。
不意に、俺の背すじをわずかな悪寒が疾った。
俺が今相手にしているのは――五万人の精神を仮想世界に縛り付け、そのうち一万人を死に追いやった男なのだ。果たしてそんな事が、人間にできるものだろうか。一万人の死、その認識を受け入れてなお正気を保っていられるなら――それはもう人間ではない。怪物だ。
「うおおおおおお!!」
心の奥に生まれた、ごく小さな恐怖のかけらを吹き飛ばそうとするように俺は絶叫した。さらに両手の動きを加速させ、秒間何発もの攻撃を撃ちこむが、茅場の表情は変わらない。目にも止まらぬ速さで十字盾と長剣を操り、的確に俺の攻撃を弾き返す。
弄ばれているのか――!?
恐怖が焦りへと変わっていく。防戦一方に見える茅場は、実はいつでも反撃を差し挟み、俺に一撃を浴びせる余裕があるのではないのか――。俺の心を疑念が覆っていく。奴には、オーバーアシストなど使う必要はなかったのだ。
「くそぉっ……!」
ならば――これでどうだ――!
俺は攻撃を切り替え、二刀流最上位剣技〈ジ・イクリプス〉を放った。太陽コロナのごとく全方向から噴出した剣尖が超高速で茅場へと殺到する。連続二十七回攻撃――。
――だが。茅場はそれを、俺がシステムに規定された連続技を出すのを待ち構えていたのだった。奴の口許にはじめて表情が浮かんだ。だがそれは前回とは逆――勝利を確信した笑みだった。
最初の攻撃数発を放った時点で、俺はミスを悟った。最後の最後で、自分のセンスではなく、システムに頼ってしまった。もはや連続技を途中で止めることはできない。その瞬間硬直時間を課せられてしまう。かと言って、俺の放つ攻撃はすべて、最後の一撃に至るまで茅場に予想されている。
剣の飛ぶ方向を予測してめまぐるしく動く茅場の十字盾に空しく攻撃を撃ち込みながら、俺は心のなかでつぶやいた。
ごめん――アスナ……。せめて君だけは――生きて――
二十七撃目の左突き攻撃が、十字盾の中心に命中し、火花を散らした。直後、硬質の悲鳴を上げて俺の左手に握られた剣が砕け散った。
「さらばだ――キリト君」
動きの止まった俺の頭上に、茅場の長剣が高々と掲げられた。その剣がクリムゾンの光を放つ。紅玉色の帯を引きながら、剣が降ってくる――。
その瞬間、俺の頭の中に、強く、激しく、声が響いた。
キリト君は――わたしが――守る!!
血の色に輝く茅場の長剣と――立ち尽くす俺の間に、すさまじいスピードで飛び込んだ人影があった。栗色の長い髪が宙を舞った。
アスナ――なぜ――!?
システム的麻痺状態によって動けなかったはずの彼女が、俺の前に立っていた。敢然と胸を張り、両腕を大きくひろげて――。
茅場の表情にも驚きの色が見えた。だが剣の動きはもう誰にも止められなかった。すべてがスローモーションのようにゆっくりと動く中――長剣はアスナの肩口から胸までを切り裂き、停止した。
のけぞるようにこちらに倒れるアスナに向かって、俺は必死に手を伸ばした。音も無く、俺の腕の中に彼女が崩れ落ちた。
アスナは、俺と視線が合うと、かすかに微笑した。そのHPバーが――消滅していた。
時間が停止した。
夕暮れ。草原。微風。少し冷たい。
二人並んで丘に座り、深い紺の上に夕陽の赤金色が溶けた湖を見下ろしている。
葉擦れの音。ねぐらに帰る鳥の声。
彼女がそっと手を握ってくる。肩に頭をもたれさせる。
雲が流れていく。ひとつ、ふたつ、星が瞬き始める。
世界を染める色がすこしずつ変っていくのを、二人でいつまでも飽かず見つめ続ける。
やがて、彼女が言う。
「すこし、眠くなっちゃった。膝、借りていい?」
微笑みながら答える。
「ああ、いいよ。ゆっくりおやすみ――」
俺の腕に倒れ込んだアスナは、あの時と同じように、穏やかな笑みを浮べ、無限の慈愛を湛えた瞳で俺を見つめた。だがあの時感じた確かな重みも、暖かさも今は無かった。
アスナの全身が、少しずつ金色の輝きに包まれていく。光の粒がこぼれ、散っていく。
「うそだろ……アスナ……こんな……こんなの……」
震える声で呟く。だが、無慈悲な光はどんどん輝きを増し――。
アスナの瞳から、はらりとひとつぶの涙が落ち、一瞬輝いて、消えた。唇が、かすかに、ゆっくりと、音を刻むように動いた。
ご め ん ね
さ よ な ら
ふわり――。
俺の腕の中で、ひときわまばゆく光が弾け、無数の金色の羽根が散った。
そして、そこにもう彼女はいなかった。
声にならぬ絶叫を上げながら、俺はその輝きを両腕で必死にかき集めようとした。だが、金の羽根は風に吹き散らされるように舞い上がり、拡散し、蒸発してゆく。消える。消えてしまう。
こんなことが起きるはずがない。起きていいはずがない。はずがない。はずが――
崩れるように両膝をついた俺の右手に、最後の羽根がかすかに触れ、消えた。
23
茅場は唇の端をゆがめ、大袈裟な身振りで両手を広げると言った。
「これは驚いた。スタンドアロンRPGのシナリオみたいじゃないか? 麻痺から回復する手段は無かったはずだがな……。こんなことも起きるものかな」
だがその声も俺の意識には届かなかった。すべての感情が灼き切れ、暗く、深い絶望の淵に落下しつづける感覚だけが俺を包んでいた。
これで、何かを為す理由全てを失くしてしまった。
この世界で戦うことも、現実世界に戻ることも、生き続けることさえも無意味だ。かつて、己の無力ゆえに信頼した仲間を失ったときに、俺も命を絶っておくべきだったのだ。そうすればアスナと出会うことも、そして再び同じ過ちを繰り返すこともなかった。
アスナが自殺しないように――などと、何と愚かで、浅はかな事を言ったものだろう。俺は何もわかっちゃいなかった。こんな――空虚な穴を抱えたまま生きることなんてできやしない……。
俺は床の上で光るアスナの細剣を漠然と見つめた。左手を伸ばし、それを掴む。あまりにも軽く、華奢なその武器の中に、彼女の存在を記録する何かを見つけようとしてじっと目を凝らすが、そこには何もない。無表情に輝くその表面には主の痕跡一つ残されてはいない。細剣を握ったままのろのろと立ち上がる。
もういい。彼女と過ごしたわずかな日々の記憶だけを持って、俺も同じ場所に行こう。
右手の剣を振りかぶり、俺は茅場に打ちかかった。二歩、三歩不恰好に前進し、剣を突き出す。
技とも呼べない、攻撃ですらないその動作に、茅場は憐れむような表情を浮べ――盾で苦も無く俺の剣を弾き飛ばすと、右手の長剣で無造作に俺の胸を貫いた。
俺は自分の体に深々と突き立った金属の輝きを無感動に見つめた。さして何を思うでもない。これで何もかも終わったという無色の諦観があるだけだ。
視界の右端で、俺のHPバーがゆるやかに減少していく。知覚の加速がまだ解けないのか、消滅していく一ドット一ドットが見て取れるようだ。目を閉じる。意識が消失するその瞬間にはアスナの笑顔を思い浮かべていたい。
視界が暗闇に閉ざされても、HPバーが消えることはない。はかなく、赤く発光するその帯は、確実な速度で幅を狭めてゆく。いままで俺の存在を許していたシステムという名の神が、舌なめずりをしてその瞬間を待っている気配を感じる。あと十ドット。あと五ドット。あと――
そのとき、不意に俺は、かつて感じたことのない激烈な怒りを覚えた。
こいつだ。アスナを殺したのはこいつだ。創造主たる茅場でさえすでにその一部でしかない。アスナの肉体を引き裂き、意識を吹き消したのは、俺を包むこの気配――システムそのものの意思だ。プレイヤーの愚かしさを嘲弄しながら無慈悲な鎌を振るうデジタルの神――。
俺達は一体何なのだ。SAOシステムという絶対不可侵の糸に踊らされる滑稽な操り人形の群か。システムが良しと言えば生き延び、死ねと言えば消滅する、それだけの存在か。
俺の怒りを嘲笑うかのように、HPバーがあっけなく消滅した。視界に小さく紫色のメッセージが表示された。『You are dead』。死ね、という神の宣告。
全身に激しい冷気が侵入してきた。体の感覚が薄れてゆく。俺の存在をほどき、切り刻み、食らい尽くそうと、命令コードの大群が暴れまわるのを感じる。冷気は背筋から首を這い登り、頭の中にまで入り込んでくる。皮膚感覚、音、光、何もかもが遠ざかる。体が分解してゆく――ポリゴンの欠片となって――四散し――。
そうはいくものか。
俺は目を見開いた。見える。まだ見える。俺の胸に剣を突き刺したままの茅場の顔、その驚愕の表情が見える。俺の体はすでに輪郭がおぼろに薄れ、各所で弾けるように光の粒がこぼれては消滅してゆく。だが、まだ俺は生きている。
「うおおおおおおおお!」
俺は絶叫した。絶叫しながら抵抗した。システムに。絶対神に。
あんなに甘えん坊で淋しがりやの泣き虫だったアスナが、精一杯の意思力を振り絞って回復不可能の麻痺を打ち破り、介入不可能の剣撃にその身を投じたのだ。俺を救う、ただそれだけの為に。俺がここで無為に倒れるわけにはいかない。断じていかない。たとえ死が避けられないとしても――その前に――これだけは――。
左手を握り締める。細い糸を繋ぐように感覚を奪い返す。その手に握っているものの感触が蘇ってくる。アスナの細剣――それに込められた彼女の意思が今なら感じ取れる。がんばれと励ます声が聞こえる。
途方も無くゆっくりと俺の左腕が動き始めた。少し持ち上がるたびに輪郭がぶれ、オブジェクトが砕けてゆく。だがその動きが止まることはない。少しずつ、少しずつ、魂を削りながら持ち上げてゆく。不遜な反逆の代償か、恐ろしいほどの痛みが全身を貫くが、歯を食いしばって腕を動かす。わずか数十センチの距離が途方もなく長い。体が凍るように冷たい。すでに感覚があるのは左腕だけだ。冷気は急速にその部分にも侵食してゆく。氷細工を散らすように体が崩れ、こぼれ落ちる。
だが、ついに、白銀に輝く細剣の先端が茅場の胸の中央に擬せられた。茅場は動かなかった。その顔に驚愕の表情はすでになく――わずかに開いた口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
半分は俺の意思、もう半分は何か不思議な力に導かれて、俺の腕が最後の距離を詰めた。音もなく体を貫く細剣を、茅場は目を閉じて受けいれた。彼のHPバーが消滅した。
お互いの体を貫いた姿勢のまま、俺たちはその場に一瞬立ち尽くしていた。全ての気力を使い果たし、俺は宙を見つめた。
これで――もういいかい――?
彼女の返事は聞こえなかったが、ほのかな暖かさが一瞬、とくん、と左手を包むのを感じた。俺は砕けかけた全身を繋ぎとめていた力を解き放った。
闇に沈んでいく意識の中で、自分の体が千のかけらとなって飛散するのを、そして同時に茅場も砕け散るのを感じた。聞きなれたオブジェクト破砕音がふたつ、重なるように響いた。今度こそ全てが遠ざかっていく。急速に離脱してゆく。かすかに俺の名を呼ぶのはクラインと――エギルの声だろうか。それらにかぶさるように、無機質なシステムの声が――。
ゲームはクリアされました――ゲームはクリアされました――ゲームは……
24
全天燃えるような夕焼けだった。
気づくと、俺は不思議な場所に居た。
足元は分厚い水晶の板だ。透明な床の下には赤く染まった雲の連なりがゆっくり流れている。振り仰げば、どこまでも続くような夕焼け空。鮮やかな朱色から血のような赤、深い紫に至るグラデーションを見せて無限の空が果てしなく続いている。かすかに風の音がする。
赤金色に輝く雲の群以外何もない空に浮かぶ小さな水晶の円盤、その端に俺は立っていた。
……ここはどこだろう。確かに俺の体は無数の破片となって砕け散り、消滅したはずなのに。まだSAOの中にいるのか……それとも本当に死後の世界に来てしまったのか?
自分の体に視線を落としてみる。レザーコートや長手袋といった装備類は全て死んだ時のままだ。だが、その全てがわずかに透き通っている。装備だけではない。露出している自分の体さえ、色硝子のような半透明の素材へと変化し、夕焼けの光を受けて赤く輝いている。
左手を伸ばし、人差し指を軽く振ってみた。耳慣れた効果音と共にウインドウが出現する。では、ここはまだSAOの内部なのだ。
だがそのウインドウには、装備フィギュアやメニュー一覧が存在しない。ただ無地の画面に一言、小さな文字で『最終フェイズ実行中 現在54%完了』と表示されているだけだ。見つめるうち、数字が55へと上昇した。体が崩壊すると同時に脳死――意識消滅に陥るものと思っていたのだが、これはどういうことだろう。
肩をすくめてウインドウを消去したとき、不意に背後から声がした。
「……キリト君」
天上の妙なる音楽のようなその声。全身を衝撃が貫く。
今の声が幻でありませんように――。必死に祈りながらゆっくりと振り向く。燃えるような赤い空を背景に――彼女が立っていた。
長い髪を風がそっと揺らしている。穏やかに微笑むその顔は手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに、俺は動けない。
一瞬でも目を離したら消えてしまう――。そんな気がして、無言で彼女を見つめつづけた。彼女も、俺と同じように全身がはかなく透き通っていた。夕焼けの色に染まり、輝くその姿は、この世に存在するなにものよりも美しい。
涙が溢れそうになるのを必死にこらえ、俺はどうにか笑みを浮べた。ささやくような声で言う。
「ごめん。……俺も、死んじゃったよ」
「……バカ」
笑いながら言った彼女の目から大粒の涙がこぼれた。俺は両手を広げ、そっと彼女の名を呼んだ。
「……アスナ」
涙の粒をきらめかせながら俺の胸に飛び込んできたアスナを固く抱きしめる。もう離さない。何があろうともこの腕は離さない。
長い、長いキスの後、ようやく顔を離し、俺たちは見つめあった。あの最後の戦いについて、話したいこと、謝りたいことは山ほどあった。だが、もう言葉は不要だと思えた。代わりに視線を無限の夕焼け空に移し、口を開いた。
「ここは……どこだろう?」
アスナは無言で視線を下向けると、指を伸ばした。その先を目で辿る。
俺たちの立っている小さな水晶版から遠く離れた空の一点に――それが浮かんでいた。円錐形の先端を切り落としたような形。全体は薄い層を無数に積み重ねて造られている。目を凝らせば、層と層の間には小さな山や森、湖、そして街が見て取れる。
「アインクラッド……」
俺の呟きに、アスナがこくりと頷いた。間違いない、あれはアインクラッドだ。無限の空に漂う巨大浮遊城。俺たちが二年間の長きに渡って戦いつづけた剣と戦闘の世界。それが今、眼下にある。
ここに来る前、元の世界で発表されたSAOの資料でその外観を目にしたことはあった。だがこうして実物を外部から眺めるのは初めてだ。畏怖に似た感情にうたれ、息を詰める。
鋼鉄の巨城は――今まさに崩壊しつつあった。
俺たちが無言で見守る間にも、基部フロアの一部が分解し、無数の破片を撒き散らしながら崩落してゆく。耳を澄ませると、風の音に混じって重々しい轟音がかすかに響いてくる。
「あ……」
アスナが小さく声を上げた。下部が一際大きく崩れ、構造材に混じって無数の木々や湖の水が次々に落下し、赤い雲海に没していった。あの辺りは俺たちの森の家があった場所だ。二年間の記憶が焼き付いた浮遊城の層一つ一つが薄い膜を剥がすようにゆっくりと崩落してゆくたび、哀惜の念がちくりと胸を刺す。
俺はアスナを抱いたまま、水晶の浮島の端に腰を下ろした。
不思議に心は静かだった。俺たちがどうなってしまったのか、これからどうなるのか、何もわからないが不安は感じない。俺はやるべきことをやり、かりそめの命を失い、今こうして愛する少女と二人、世界の最後を看取っている。もうそれでいい――。どこか満ち足りた気分だった。それはアスナも同じだろう。俺の腕の中で、半ば瞳を閉じて崩壊してゆくアインクラッドを見つめている。俺はゆっくりと彼女の髪を撫でた。
「なかなかに絶景だな」
不意に傍らから声がした。俺とアスナが視線を右に向けると、いつの間にかそこに男が一人立っていた。茅場晶彦だった。
騎士ヒースクリフではなく、SAO開発者としての本来の姿だ。白いシャツにネクタイを締め、長い白衣を羽織っている。線の細い、鋭角的な顔立ちの中で、それだけは変わらない金属的な瞳が、穏やかな光を湛えて崩壊してゆく浮遊城を眺めている。彼の全身も俺たちと同じように透き通っていた。
この男とつい数十分前までお互いの命を懸けた死闘を繰り広げていたはずなのに、俺の感情は静かなままだった。この永遠の夕刻の世界に来るときに、怒りや憎しみを置き忘れてきてしまったのだろうか。俺は茅場から視線を外すと、再び巨城を見やり、口を開いた。
「あれは、どうなってるんだ?」
「比喩的表現……と言うべきかな」
茅場の声も静かだった。
「現在、アーガス本社地下五階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと十分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」
「あそこにいた人達は……どうなったの?」
アスナがぽつりと呟いた。
「心配には及ばない。先程――」
茅場は右手を動かし、表示されたウインドウをちらりと眺めると続けた。
「生き残った全プレイヤー、三八八六一人のログアウトが完了した。そうだ、言い忘れていたな。ゲームクリアおめでとう、キリト君――そしてアスナ君」
俺はそれには答えずに、
「……死んだ連中は? 一度死んだ俺たちがここにこうしているからには、今までに死んだ一万人だって元の世界に戻してやることが出来るんじゃないのか?」と聞いた。
茅場は表情を変えずにウインドウを消去し、両手を白衣のポケットに突っ込むと言った。
「命は、そんなに軽々しく扱うべきものではないよ。彼らの意識は帰ってこない。死者が消え去るのはどこの世界でも一緒さ。君たちとは――最後に少しだけ話をしたくてね」
それが一万人を殺した人間の台詞か――と思ったが、不思議と腹は立たなかった。代わりに、さらに質問を重ねた。根源的な、多分全プレイヤー、いやこの事件を知った全ての人が思ったであろう疑問。
「なんで――こんな事をしたんだ……?」
茅場が苦笑を洩らす気配がした。しばしの沈黙。
「なぜ――、か。私も長い間忘れていたよ。なぜだろうな。NERDLESシステムの開発を知ったとき――いやその遥か以前から、私はこの世界をつくりだすことだけを欲して生きてきた」
少し強く吹いた風が、茅場の白衣の裾とアスナの髪を揺らした。巨城の崩壊は半ば以上にまで及んでいる。思い出深いアルゲードの街もすでに分解し、雲の連なりに飲み込まれていった。茅場の言葉が続いた。
「子供は次から次へいろいろな夢想をするだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは何歳の頃だったかな……。その情景だけは、いつまで経っても私の中から去ろうとしなかった。年経るごとにどんどんリアルに、大きく広がっていった。あの城に行きたい……長い、長い間、それが唯一の欲求だった……。私はね、キリト君。まだ信じているのだよ――どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと――……」
不意に、俺は自分がその世界で生まれ、剣士を夢見て育った少年であるような感慨にとらわれた。少年はある日はしばみ色の瞳の少女と出会う。二人は恋に落ち、やがて結ばれ、森の中の小さな家でいつまでも暮らし――。
「ああ……。そうだといいな」
俺はそう呟いていた。腕の中で、アスナがそっと頷いた。
再び沈黙が訪れた。視線を遠くに向けると、崩壊は城以外の場所にも及び始めていた。無限に連なっていたはずの雲海と赤い空が、遥か彼方で白い光に飲み込まれ、消えていくのが見える。光の侵食はあちこちで発生し、ゆっくりとこちらに近づいているようだ。
「……君たちにクリアの報酬を渡さなくてはな」
茅場の声がした。俺はアスナの髪に頬をすり寄せながら答えた。
「ゲームクリアはそれ自体が報酬だろう。――この光景だけでいいよ」
「ん……。わたしも」
アスナの左手が俺の頬に触れた。笑いを含んだ茅場の声が流れた。
「まあ、そう言うな」
俺たちは右隣に立つ茅場を見上げた。茅場は穏やかな表情で俺たちを見下ろしていた。
「――さて、私はそろそろ行くよ」
風が吹き、それにかき消されるように――気づくとその姿はもうどこにも無かった。水晶板を、赤い夕焼けの光が透過し、控えめに輝かせている。俺たちは再び二人きりになっていた。
彼はどこに行ったのだろう。現実世界に帰還したのだろうか。
いや――そうではあるまい。意識を自ら消去し、どこかにある本当のアインクラッドへと旅立っていったのだ。
仮想世界の浮遊城はすでに先端部分を残すのみだった。結局俺たちが目にする事の無かった76層より上の階層がはかなく崩落してゆく。世界を包み込み、消去してゆく光の幕もいよいよ近づいていた。ゆらめくオーロラのようなその光に触れるたび、雲海と夕焼け空そのものが微細な破片を散らしながら飲み込まれてゆく。
アインクラッドの最上部には、華麗な尖塔を持つ巨大な真紅の宮殿が屹立していた。ゲームが予定通り進行すれば、俺たちはあそこで魔王ヒースクリフと剣を交えることになったのだろう。主無き宮殿は、その基部となる最上層が崩れ落ちていっても、運命に抵抗するかのようにしばらく浮遊しつづけていた。赤い空を背景にひときわ深い紅に輝くその宮殿は、最後に残った浮遊城の心臓のように思えた。
やがて破壊の波が、容赦なく真紅の宮殿を飲み込んだ。下部から徐々に無数の紅玉となって分解し、雲間に零れ落ちてゆく。一際高い尖塔が四散するのと、光の幕がその空間を飲み込んだのはほぼ同時だった。巨城アインクラッドは完全に消滅し、世界にはわずかな夕焼け雲の連なりと小さな水晶の浮島、そこに腰掛けた俺とアスナが残るのみとなった。
もうそれ程時間は残っていないだろう。
俺はアスナの頬に手を添えると、ゆっくり唇を重ねた。最後のキス。時間をかけて、彼女の全存在を魂に刻み込もうとする。
「……お別れだな」
アスナは小さく首を振った。
「ううん、お別れじゃないよ。わたし達はひとつになって消えていく。だから、いつまでも一緒」
ささやくような、しかし確たる声で言うと、俺の腕の中で体の向きを変え、正面から真っ直ぐ見つめてきた。小さく首を傾け、柔らかく微笑む。
「ね、最後に名前を教えて。キリト君の、本当の名前」
わずかに戸惑った。二年前に別れを告げたあの世界での名前のことだとようやく気付く。
自分がかつて、別の名前で別の生活を送っていたということが遥か遠い世界の出来事のように感じる。記憶の奥底から浮かび上がってきた名前を、不思議な感慨を抱きながら発音する。
「桐ヶ谷……桐ヶ谷和人。多分先月で十六歳」
その途端、止まっていたもう一人の自分の時間が音をたてて流れ出したような気がした。剣士キリトの奥底に埋もれていた和人の意識が、ゆっくり浮上してくる。この世界で身に付けた硬い鎧が、次々と剥がれ落ちていくのを感じる。
「きりがや……かずと君……」
一音ずつ噛み締めるように口にして、アスナはちょっと複雑そうに笑った。
「年下だったのかー。……わたしはね、結城……明日奈。十七歳です」
ゆうき……あすな。ゆうきあすな。その美しい六つの音を何度も胸の中で繰り返す。
不意に双眸から熱く溢れるものがあった。
永遠の黄昏の中で停止していた感情が動き出す。心臓を切り裂くような激しい痛み。この世界に囚われて以来初めての涙がとめどなく流れ落ちてゆく。小さな子供のように喉を詰まらせ、両手を固く握り締めながら声を上げて泣いた。
「ごめん……ごめん……。君を……あの世界に……還すって……約束したのに……僕は……」
言葉にならない。結局、一番大切な人を助けられなかった。この人が歩むはずだった光溢れる道を、力及ばず閉ざしてしまったという悔いが涙に形を変えて尽きることなく溢れ出してくる。
「いいの……いいんだよ……」
明日奈も泣いていた。七色にきらめく宝石のような涙が次々と頬を伝い、光の粒子となって蒸発する。
「わたし、幸せだった。和人君と会えて、いっしょに暮らせて、今まで生きてきて一番幸せだったよ。ありがとう……愛しています……」
世界の終焉は間近だった。最早、鋼鉄の巨城も無限の雲海も乱舞する光の中に消え去り、白い輝きの中に僕たち二人が残るだけだった。周囲の空間が次々と輝きに飲み込まれ、光の粒を散らしながら消滅していく。
僕と明日奈はかたく抱き合い、最後の時を待った。
白熱する光の中で、感情すら昇華されていくようだった。心の中にはもう明日奈への思慕しか存在しない。なにもかもが分解され、蒸発していくなか、僕はただ明日奈の名前だけを呼び続けた。
視界が光に満たされていく。全てが純白のヴェールに包まれ、極小の粒子となって舞い散る。目の前の明日奈の笑顔が、世界に溢れる光と混ざり合う。
――愛して……愛しています――
最後に残った意識の中に、甘やかな鈴の音のような声が響いた。
僕という存在、明日奈という存在を形作っていた境界が消滅し、ふたりが重なっていく。
魂が溶け合い、ひとつになり、拡散する。
消えていく。
25
空気に、匂いがある。
自分の意識がまだ存続していることより、まずそれに驚いた。
鼻孔に流れ込んでくる空気には大量の情報が含まれている。鼻を刺すような消毒薬の匂い。乾いた布の日向くさい匂い。果物の甘い匂い。そして、自分の体の匂い。
ゆっくり目を開ける。その途端、脳の奥までを突き刺すような強烈な白い光を感じ、慌てて目蓋をぎゅっと閉じる。
おそるおそる、もう一度目を開けてみる。様々な色の光の乱舞。目に大量の液体が溜まっていることに遅まきながら気付く。
目を瞬いて、それらを弾き出そうとする。しかし液体はあとからあとから湧き出てくる。これは涙だ。
泣いているのだった。何故だろう。激しく、深い喪失の余韻だけが胸の奥にせつない痛みとなって残っている。耳に、誰かの呼び声が微かにこだましているような気がする。
強すぎる光に目を細めながら、どうにか涙を振り払う。
何か柔らかいものの上に横たわっているようだった。天井らしきものが見える。オフホワイトの光沢のあるパネルが格子状に並び、そのうち幾つかは奥に光源があるらしく柔らかく発光している。金属でできたスリットが視界の端にある。空調装置だろうか。低い唸りを上げながら空気を吐き出している。
……空調装置。つまり機械だ。そんなものがある訳がない。どんな鍛冶スキルの達人でも機械は作れない。仮にあれが本当に――見たとおりのものだとしたら――ここはアインクラッドでは――
アインクラッドではない。
僕は目を見開いた。その思考によってようやく意識が覚醒した。慌てて跳ね起きようと――
したが体が言うことを聞かなかった。全身に力が入らない。右肩が数センチ上がるが、すぐに情けなく沈み込んでしまう。
左手だけはどうにか動きそうだった。自分の体に掛けられている薄い布から左手を出し、目の前に持ち上げてみる。
驚くほど痩せ細ったその腕が自分のものだとはしばらく信じられなかった。これでは剣など到底振れそうにない。病的に白い肌をよくよく見ると、無数の産毛が生えている。皮膚の下には青みがかった血管が走り、関節には細かい皺が寄っている。恐ろしいほどにリアルだ。あまりに生物的すぎて違和感を感じるほどだ。
二の腕には微細抽入装置と思しき金属の管がテープで固定され、そこから細いコードが延びている。コードを追っていくと、左上方で銀色の支柱に吊るされた透明のパックに繋がっている。パックにはオレンジ色の液体が七割がた溜まっており、下部のコックから滴が一定のリズムで落下している。
体の横に投げ出したままの右手を動かし、感触を探ってみた。僕が横たわっているのは、どうやら密度の高いジェル素材のベッドらしい。体温よりやや低い、ひんやりと濡れたような感触が伝わってくる。僕は全裸でその上に寝ている。遠い記憶が蘇ってくる。たしかこういうベッドが、寝たきりの要介護者のために開発されたというニュースを遥か昔に見た気がする。皮膚の炎症を防ぎ、老廃物を分解浄化するという奴だ。
視線を周囲に向けてみる。小さい部屋だ。壁は天井と同じオフホワイト。右手には大きな窓があり、白いカーテンが下がっている。その向こうを見ることはできないが、陽光と思われる黄色がかった光が布地を透かして差し込んできている。ジェルベッドの左手奥には金属製のワゴントレイがあり、藤の籠が載っている。籠にはひかえめな色彩の花が大きな束で生けられており、甘い匂いの元はこれらしい。ワゴンの奥には四角いドア。閉じられている。
得られた情報から推測するに、おそらくここは病室のようだった。僕はそこに独りで横たわっている。
宙に上げたままの左手に視線を戻した。ふと思いつき、人差し指をそっと振ってみる。
何も起こらない。効果音も鳴らないし、メニューウインドウも出てこない。もう一度、今度はもう少し強めに振ってみる。さらにもう一度。結果は同じだ。何も起こらない。
と言うことは――ここはSAOの中ではないのだ。ならば別の仮想世界だろうか?
しかし、僕の五感から得られる圧倒的な情報量は、先程からもう一つの可能性を声高に告げていた。つまり――元の世界だ。二年前に旅立ち、もう戻ることはあるまいと思いさえした、現実の世界。
現実世界――。その言葉が意味するところを理解するのには時間がかかった。僕にとっては、長い間あの剣と戦闘の世界だけが唯一の現実だった。その世界がすでに存在せず、自分がもうそこに居ないのだということがなかなか信じられない。
では、僕は還ってきたのだ。
――そう思っても、さしたる感慨や歓びは湧いてこなかった。ただ戸惑いと、わずかな喪失感を覚えるのみだ。
それでは、これが茅場の言うゲームクリアの報酬なのだ。僕はあの世界で死に、体は消滅し、それを受け入れ、満足さえ感じていたというのに――。
そうだ――僕は、あのまま消えてもよかった。白熱する光の中で、分解し、蒸発し、世界と溶け合い、彼女とひとつに――
「あ……」
僕は思わず声を上げた。二年間使われることのなかった喉にするどい痛みが走る。だがそれすらも意識していなかった。目を見開き、湧き上がってくる言葉、その名前を声に出す。
「あ……す……な……」
アスナ。胸の奥に焼きついていた痛みが鮮烈に蘇る。アスナ、僕が愛し、妻とし、ともに世界の終焉に立ち会ったあの少女は……
夢だったのか……? 仮想世界で見た美しい幻影……? ふとそんな迷いにとらわれる。
いや、彼女は確かに存在した。一緒に笑い、泣き、眠りについたあの日々が夢であるものか。
茅場はあのとき――君たちにクリアの報酬を、と言った。君たち、確かにそう言った。ならばアスナも――還ってきているはずだ。この世界に。
そう思ったとたん、彼女への愛おしさ、狂おしい程の思慕が僕の内部に満ち溢れた。会いたい。髪を触りたい。キスしたい。あの声で、呼んで欲しい。
全身の力を振り絞って起き上がろうとした。そこでようやく頭が固定されていることに気づく。顎の下でロックされている硬質のハーネスを手探りで解除する。何か重い物を被っている。両手でそれをどうにかむしり取る。
僕は上体を起こし、手の中にある物体を見つめた。濃紺に塗装された流線型のヘルメットだった。後頭部に長く伸びたパッドから、同じくブルーのケーブルが延び、床へと続いている。これは――
ナーヴギアだ。僕はこれによって二年の間あの世界に繋ぎとめられていたのだ。ギアの電源は落ちていた。記憶にあるその外装は輝くような光沢を纏っていたのだが、今や塗装はくすみ、エッジ部分では剥げ落ちて軽合金の地が露出している。
この内部に、あの世界の記憶すべてがある――。そんな感慨にとらわれて、僕はギアの表面をそっと撫でた。
多分、二度と被ることは無いだろう。でも、お前は良くやってくれたよ……。
胸の奥で呟いて、僕はそれをベッドの上に横たえた。ギアと共に戦ったのはすでに遠い過去の記憶だ。僕にはこの世界でやらなければならないことがある。
ふと、遠くざわめきを聞いたような気がした。耳を澄ませると、ようやく聴覚が正常に復帰したとでもいうように、様々な音が飛び込んでくる。
確かに大勢の人の話し声、叫び声が聞こえる。ドアの向こうで慌しく行き交う足音、キャスターの転がる音。
多分、この病院にはSAOの「患者」が大量に収容されていたのだ。彼らが一斉に目を醒ましたので、病院中が大騒ぎになっているのだろう。
アスナがこの病院にいるかどうかは分らない。SAOプレイヤーは日本中に居ただろうから、可能性で言えばここに収容されている確率はごく低い。だが、まずはここからだ。たとえどれだけ時間がかかろうときっと見つけ出す。
僕は薄い上掛けを剥ぎ取った。痩せ細った全身には無数のコードが絡み付いている。四肢に貼り付けられているのは筋肉弱化を防ぐ電極だろうか。それを苦労して一つずつ外していく。ベッドの下部に見えるパネルにオレンジ色のLEDが点り、甲高い警告音が響き渡るが無視する。
点滴のインジェクターも引き抜き、ようやく自由の身になると足を床に付けた。ゆっくり力を入れ、立ち上がろうと試みる。じりじりと体が持ち上がったものの、すぐに膝が折れそうになる。思わず苦笑する。あの超人の如き筋力パラメータ補正は見る影も無い。
点滴の支柱に掴まって体を支え、どうにか立ち上がった。部屋を見渡すと、花籠の置いてあるトレイの下段に畳まれた診察衣を発見し、裸の上から羽織る。
それだけの動作で息が上がってしまった。二年間使われなかった四肢の筋肉が痛みで抗議している。だがこんな所で弱音を吐いてはいられない。早く、早く、と急かす声がする。全身が彼女を求めている。アスナを――明日奈をもういちどこの腕に抱くまで僕の戦いは終わらない。
愛剣の代わりに点滴の支柱を握り締め、それに体を預けて、僕はドアに向かって最初の一歩を踏み出す。
(ソードアート・オンライン 終)