15
「……どういうことだ」
俺はゴドフリーに小声で尋ねた。
「ウム。君らの間の事情は承知している。だがこれからは同じギルドの仲間、ここらで過去の争いは水に流してはどうかと思ってな!」
ガッハッハ、と笑う。
な……なんと単純な男だ……。
大笑するゴドフリーを呆然と眺めていると、クラディールがのっそりと進み出てきた。
「…………」
全身を緊張させて、どんな事態にも対処できるよう身構える。例え街の中とはいえこの男だけは何をするかわからない。
だが、俺の予想を裏切ってクラディールは突然ぺこりと頭を下げた。ボソボソした聞き取りにくい声で言う。
「先日は……ご迷惑をおかけしまして……」
俺は今度こそ腹の底から驚いて、口をぽかんと開ける。
「二度と無礼な真似はしませんので……許していただきたい……」
陰気な長髪の下にかくれて表情は見えない。
「あ……ああ……」
俺はどうにか頷いた。一体何があったのだろう。人格改造手術でもしたのだろうか。
「よしよし、これで一件落着だな!!」
再びゴドフリーがでかい声で笑った。腑に落ちないどころではない、絶対に何か裏があると思ったが、俯いたままのクラディールの顔からは感情を読み取ることができない。SAOにおける感情表現は誇張的な反面微妙なニュアンスを伝えにくいのだ。やむなくこの場は納得したことにしておいて、警戒を切らないよう自分に言い聞かせる。
しばらくすると残り一人の団員もやってきて、俺たちは迷宮区目指して出発することになった。歩き出そうとした俺を、ゴドフリーの野太い声が引き止める。
「……待て。今日の訓練は限りなく実戦に近い形式で行う。危機対処能力も見たいので、諸君らの結晶アイテムは全て預からせてもらおう」
「……転移結晶もか?」
俺の問いに、当然と言わんばかりに頷く。俺はかなりの抵抗を感じた。クリスタル、特に転移用のものは最後の生命線と言ってよい。俺はストックを切らせたことは一度も無かった。拒否しようと思ったが、ここでまた波風を立てるとアスナの立場も悪くなるだろうと考え直す。55層のモンスターならそう危険な相手ではないが……。
クラディールと、もう一人の団員がおとなしくアイテムを差し出すのを見て、俺もしぶしぶ従った。念の入ったことで、アイテムウインドウまで確認される。
「ウム、よし。では出発!」
ゴドフリーの号令に従い、四人はグランザム市を出て遥か西の彼方に見える迷宮区目指して歩き出した。
55層のフィールドは植物の少ない乾いた荒野だ。俺はとっとと訓練を終わらせて帰りたかったので迷宮まで走っていくことを主張したが、ゴドフリーに退けられてしまった。どうせ筋力パラメータばかり上げて敏捷度をないがしろにしているのだろう。諦めて荒野を歩きつづける。
何度かモンスターに遭遇したが、こればかりは悠長にゴドフリーの指揮に従う気にならず全て一刀のもとに切り倒した。
やがて、幾つめかの小高い岩山を超えたとき、眼前に灰色の岩造りの迷宮区がその威容を現した。
「よし、ここで一時休憩!」
ゴドフリーが野太い声で言い、一同は立ち止まった。
「…………」
一気に迷宮を突破してしまいたかったが、異を唱えてもどうせ聞き入れられまいと諦めて手近の岩の上に座り込む。時刻はそろそろ正午を回ろうとしていた。
「では、食料を配布する」
ゴドフリーはそう言うと、革の包みを四つオブジェクト化し、一つをこちらに放ってきた。片手で受け取り、さして期待もせず開けると中身は水の瓶とNPCショップで売っている固焼きパンだった。
本当ならアスナの手作りサンドイッチが食えるはずだったのに、と内心で不運を呪いながら、瓶の栓を抜いて一口あおる。
その時ふと、一人離れた岩の上に座っているクラディールの姿が目に入った。奴だけは包みに手も触れていない。垂れ下がった前髪の奥から、奇妙な昏い視線をこちらに向けている。何を見ている……?
突然、冷たい戦慄が全身を包んだ。奴は何かを待っている。それは……多分……。
俺は水の瓶を投げ捨て、口にある液体も吐き出そうとした。だが、遅かった。不意に全身の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。視界の右隅に自分のHPバーが表示される。そのバーは、普段は存在しないオレンジ色に点滅する枠に囲まれている。
間違いない。麻痺毒だ。
見れば、ゴドフリーともう一人の団員も同様に地面に倒れ、もがいている。俺は咄嗟に、肘から下だけはどうにか動く右手で腰のポーチを探ろうとしてハッとした。しまった。解毒結晶も転移結晶もゴドフリーに預けたままだ。回復用のポーションがあるにはあるが毒には効果が無い。
「クッ……クックックッ……」
俺の耳に甲高い笑い声が届いた。岩の上でクラディールが両手で自分の体を抱え、全身をよじって笑っていた。落ち窪んだ三白眼に見覚えのある狂喜の色がありありと浮かんでいる。
「クハッ! ヒャッ! ヒャハハハハ!!」
堪え切れないというふうに天を仰いで哄笑する。ゴドフリーが茫然とした顔でそれを眺めながら、
「ど……どういうことだ……この水を用意したのは……クラディール……お前……」
「ゴドフリー!!速く解毒結晶を使え!!」
俺の声に、ゴドフリーはようやくのろのろとした動作で腰のパックを探り始めた。
「ヒャ――――ッ!!」
クラディールは奇声を上げると岩の上から飛び出し、ゴドフリーの右手をブーツで蹴り飛ばした。その手からむなしく緑色の結晶がこぼれ落ちる。クラディールはそれを拾い上げ、さらにゴドフリーのパックに手を突っ込んでいくつかの結晶を掴み出すと自分のポーチに落としこんだ。万事休すだ。
「クラディール……な、何のつもりだ……? これも何かの……訓練なのか……?」
「バァ――――カ!!」
まだ事態を把握できず見当はずれのことを呟くゴドフリーの口を、クラディールのブーツが思い切り蹴り飛ばした。
「ぐはっ!!」
ゴドフリーのHPバーが僅かに減少し、同時にクラディールを示すカーソルが緑から犯罪者のオレンジに変化した。だが、それは事態に何ら影響を与えるものではない。こんな攻略完了層のフィールドを都合よく通りがかる者などいるはずがないからだ。
「ゴドフリーさんよぉ、馬鹿だ馬鹿だと思っていたがあんた筋金入りの筋肉脳味噌だなぁ!!」
クラディールの甲高い声が荒野に響く。
「あんたにも色々言ってやりたいことはあるけどなぁ……オードブルで腹いっぱいになっちまっても困るしよぉ……」
言いながら、クラディールは両手剣を抜いた。大きく振りかぶる。
「ま、まてクラディール! お前……何を……何を言ってるんだ……? く……訓練じゃないのか……?」
「うるせえ。いいからもう死ねや」
無造作に剣を振り下ろした。鈍い音と共にゴドフリーのHPバーが大きく減少する。ゴドフリーはようやく事態の深刻さに気付いたらしく、大声で悲鳴を上げ始めた。だが、いかにも遅すぎた。
二度、三度、無慈悲な輝きと共に剣が閃くたびHPバーは確実に減りつづけ、とうとう赤い危険域に突入した所でクラディールは動きを止めた。さすがに殺すまではしないか……?
しかし、それも束の間。クラディールは逆手に握った剣を、ゆっくりとゴドフリーの体に突き立てた。HPがじわりと減少する。そのまま剣に体重をかけてゆく。
「ぐあああああああ!!」
「ヒャハアアアアア!!」
一際高まるゴドフリーの絶叫に被さるように、クラディールも奇声を上げる。剣先はじわじわとゴドフリーの体に食い込み続け、同時にHPバーは確実な速度でその幅を狭めてゆき――
俺ともう一人の団員が声も無く見つめる中、クラディールの剣がゴドフリーを貫通して地面に達し、同時にHPがあっけなくゼロになった。多分、無数の砕片となって飛び散るその瞬間まで、ゴドフリーは何が起きているのか理解していなかっただろう。
クラディールは地面に突き刺さった大剣をゆっくり抜くと、機械じかけの人形のような動きで、ぐるんと首だけをもう一人の団員のほうに向けた。
「ヒッ!! ヒィッ!!」
短い悲鳴を上げながら、団員は逃げようと空しくもがく。それに向かってヒョコヒョコと奇妙な足取りでクラディールが近づいてゆく。
「……お前にゃ何の恨みもねえけどな……俺のシナリオだと生存者は俺一人なんだよな……」
ボソボソと言いながら、再び剣を振りかぶる。
「ひぃぃぃぃっ!!」
「いいか〜? 俺たちのパーティーはァー」
団員の悲鳴に耳も貸さず、剣を打ち下ろした。
「荒野で犯罪者プレイヤーの大群に襲われェー」
もう一度。
「勇戦空しく三人が死亡ォー」
さらにもう一度。
「俺一人になったものの見事犯罪者を撃退して生還しましたァー」
四撃目で団員のHPバーが消滅した。全身が粟立つ不快な効果音。だがクラディールには女神の美声にでも聞こえるのだろうか。爆散するオブジェクトの破片の真っ只中、恍惚の表情で体を痙攣させている。
初めてじゃないな……。俺は確信していた。たしかに奴はついさっきまで犯罪者を示すオレンジカラーではなかったが、フラグを立てずに殺人を犯す卑怯な方法はいくらでもある。しかし、今それを悟ったところで何になるだろう。
クラディールがとうとう視線をこちらに向けた。その顔には抑えようのない歓喜の色が張り付いている。右手の大剣を地面に引きずる耳障りな音を立てながら、奴はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。
「よォ」
無様に這いつくばる俺の傍らにしゃがみこみ、ささやくような声で言う。
「おめぇみてえなガキ一人のためによぉ、関係ねえ奴を二人も殺しちまったよ」
「その割にはずいぶんと嬉しそうだったじゃないか」
答えながらも、俺は必死に状況を打開する方法を考えていた。動くのは口と右手だけだ。麻痺状態ではメニューウインドウが開けず、よって誰かにメッセージを送ることもできない。焼け石に水だろうと思いながら、クラディールから死角になる位置でそっと右手を動かし、同時に言葉を続ける。
「お前みたいな奴がなんでKoBに入った。犯罪者ギルドのほうがよっぽど似合いだぜ」
「クッ、決まってんじゃねぇか。あの女、モノにすんだよ」
軋んだ声で言いながら、クラディールは尖った舌で唇を嘗めまわした。アスナの事だと気付いて全身がカッと熱くなる。
「貴様……!」
「そんなコエェ顔すんなよ。所詮ゲームじゃねえかよ……。心配すんな、おめぇの大事な副団長さまは俺がきっちり面倒見てやるからよ。いろいろ便利なアイテムもある事だしなァ」
クラディールは傍らから毒水入りの瓶を拾い上げ、チャプチャプと鳴らした。
「さて……」
機械じみた動作で立ち上がる。
「おしゃべりもこの辺にしねえと毒が切れちまうからな。そろそろ仕上げと行くかァ。毎晩夢に見てたぜ……この瞬間をな……」
ほとんど真円にまで見開かれた目に妄執の炎を燃やし、両端を吊り上げた口から長い舌を垂らしたクラディールは爪先立ちになって大きく剣を振りかざした。
その体が動き始める寸前、俺は右手に握り込んだ投擲用ピックを手首の動きだけで放った。被ダメージの大きくなる顔面を狙ったのだが、麻痺による命中率低下判定のせいで軌道がずれ、鋼鉄の針はクラディールの左腕に突き刺さった。絶望的なほどわずかな量、クラディールのHPバーが減少した。
「……ってえな……」
クラディールは鼻筋にシワを寄せ、唇をめくりあげると剣先を俺の右腕に突き立てた。そのまま二、三度こじるように回転させる。
「……っ!」
痛みはない。だが、強力な麻酔をかけた上で神経を直接刺激されるような不快な感覚が全身を駆け巡る。剣が腕を抉るたび、俺のHPがわずかだか確実な勢いで減ってゆく。
まだか……まだ毒は消えないのか……。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、体が自由になる瞬間を待つ。毒の強さにもよるが、通常麻痺毒からは五分程度で回復するはずだ。
クラディールは一度剣を抜くと、今度は左足に突き下ろしてきた。再び神経を痺れさせるような電流が走り、無慈悲にダメージが加算される。
「どうよ……どうなんだよ……。もうすぐ死ぬってどんな感じだよ……。教えてくれよ……なぁ……」
クラディールはささやくような声で言いながら、じっと俺の顔を見つめている。
「なんとか言えよガキィ……死にたくねえって泣いてみろよぉ……」
俺のHPがとうとう五割を下回り、イエローへと変色した。まだ麻痺からは回復しない。全身を徐々に冷たいものが包んでいく。死の可能性が、冷気の衣を身にまとって足元から這い登ってくる。
俺は今まで、SAO内で何人ものプレイヤーの死を目撃してきた。彼等は皆、無数のきらめく破片となって飛散するその瞬間、一様にある表情を浮かべていた。これで自分が死ぬというなどという事が本当に有り得るのか? という素朴な疑問の表情。
そうだ、多分俺たちは皆心のどこかでは、このゲームの大前提となっているルール、ゲーム内での死が即ち実際の死であるというそれを信じていないのだ。HPがゼロになって消滅すれば、実は何事も無く現実世界へと帰還できるのではないか――という希望に似た予測。その真偽を確認するには実際に死んでみるしかない。そう考えれば、ゲーム内での死というのもゲーム脱出に向かう道の一つなのかもしれない――。
「おいおい、なんとか言ってくれよぉ。ホントに死んじまうぞォ?」
クラディールの剣が脚から抜かれ、腹に突き立てられた。HPが大きく減少し、赤い危険域へと達したが、それもどこか遠い世界の出来事のように思えた。剣によって苛まれながら、俺の思考は光の射さぬ暗い小道へと迷い込もうとしていた。意識に厚く、重い紗がかかってゆく。
だが――。突然俺の心臓を途方も無い恐怖が鷲掴みにした。アスナ。アスナを置いてこの世界から消える。アスナがクラディールの手に落ち、俺と同じ責め苦を受ける。その可能性は耐えがたい痛みとなって俺の意識を覚醒させた。
「くおっ!!」
俺は両目を見開き、自分の腹に突き刺さっていたクラディールの剣の刀身を右手で掴んだ。力を振り絞り、ゆっくりと体から抜き出す。HPは残り一割弱。クラディールが驚いたような声を上げる。
「お……お? なんだよ、やっぱり死ぬのは怖えェってかぁ?」
「そうだ……。まだ……死ねない……」
「カッ!! ヒャヒャッ!! そうかよ、そう来なくっちゃな!!」
クラディールは怪鳥じみた笑いを洩らしながら、剣に全体重をかけてきた。それを右手で必死に支える。単純な数値の問題。俺の筋力パラメータと、クラディールのそれに複雑な補正がかけられ、演算が行われる。
その結果――剣先は徐々にだが、確実な速度で再び下降し始めた。俺を恐怖と絶望が包み込む。ダメなのか……。死ぬのか……アスナを一人……この狂った世界に残して……。俺は必死に抗った。歯を食いしばり、近づいてくる剣に抵抗した。
「死ね――――ッ!! 死ねェェェ―――――ッ!!」
金切り声でクラディールが絶叫する。
一センチ、また一センチと鈍色の金属に形を借りた殺意が降ってくる。剣先が俺の体に触れ――わずかに潜り込み――……
その時、一陣の疾風が吹いた。
白と赤の色彩を持った風だった。それに触れたクラディールが剣ごと空高く跳ね飛ばされた。俺は目の前に舞い降りた人影を声も無く見つめた。
「……間に合った……間に合ったよ……神様……間に合った……」
ささやくようなその声は天使の羽音にも優るほど美しく響いた。崩れるようにひざまずいたアスナは唇をわななかせ、目をいっぱいに開いて俺をじっと見た。
「生きてる……生きてるよねキリト君……」
「……ああ……生きてるよ……」
俺の声は自分でも驚くほど弱々しくかすれていた。アスナは大きく頷くと、右手でポケットからピンク色の結晶を取り出し、左手を俺の胸に当てて「ヒール!」と叫んだ。結晶が砕け散り、俺のHPバーが一気に右端までフル回復する。それを確認すると、
「……待っててね。すぐ終わらせるから……」
ささやいて、アスナはすっくと立ち上がった。優美な動作で腰から細剣を抜き、歩き出す。
その向かう先では、クラディールがようやく体を起こそうとしていた。近づいてくる人影を認め、両目を丸くする。
「あ、アスナ様……ど、どうして……。い、いや、これは、訓練、そう、訓練でちょっと事故が……」
バネ仕掛けのように立ち上がり、裏返った声で言いつのるその言葉は、しかし最後まで続かなかった。アスナの右手が閃き、剣先がクラディールの口を切り裂いたからである。
「ぶぁっ!!」
片手で口を抑えてのけぞる。一瞬動作を止めたあと、カクンと戻したその顔にはお馴染みの憎悪の色が浮かんでいた。
「このアマァ……調子に乗りやがって……。ケッ、ちょうどいいや、どうせオメェもすぐにヤッてやろうと……」
だがその台詞も中断を余儀なくされた。アスナが細剣を構えるや猛然と攻撃を開始したのだ。
「おっ……くぉぉっ……!」
両手剣で必死に応戦するクラディール。だが、それは戦いと呼べる物ではなかった。アスナの剣尖は宙に無数の光の帯を引きながら恐るべき速さで次々とクラディールの体を切り裂き、貫いていった。アスナより数レベルは高いはずの俺の目にもその軌道はまるで見えなかった。舞うように剣を操る白い天使の姿に、俺はただただ見とれた。
美しかった。栗色の長い髪を躍らせ、瞋恚の炎を全身に纏いながら無表情に敵を追い詰めていくアスナの姿は途方も無く美しかった。
「ぬぁっ! くぁぁぁっ!!」
半ば恐慌を来たして無茶苦茶に振り回すクラディールの剣はかすりもしない。HPバーがみるみる減少してゆき、黄色からついに赤い危険域に突入したところで、とうとうクラディールは剣を投げ出すと両手を上げて喚いた。
「わ、わかった!! わかったよ!! 俺が悪かった!!」
そのまま地面に這いつくばる。
「も、もうギルドは辞める! あんたらの前にも二度と現れねぇよ!! だから――」
アスナはピタリと動きを止め、無言でクラディールの言葉を聞いていた。単なるオブジェクトデータの塊を見るようなその視線。俺はハッとした。
「や……やめろアスナ……だめだ……お前がやっちゃ……だめだ……」
だが、その声はあまりにも弱々しかった。
足元で土下座し、額を地面にこすり付けて命乞いの言葉をわめき続けるクラディールの後頭部に、アスナは細剣の先端をピタリと当て――
何の躊躇も無く一気に貫いた。クラディールの全身がビクンと震えた。
アスナが剣先を抜くと、クラディールはぽかんとした表情で顔を上げた。
「あ……? おい、今何を――」
その瞬間、HPバーが音も無く消滅した。クラディールの肉体を構成する全データが細切れの欠片となって飛び散った。神経に障る、ガラスが圧壊するような効果音。あたりに四散した微小なオブジェクトは蒸発するようにたちまち消えてゆき――気付くとそこにはもう何もなかった。
立ち尽くしたアスナの右手から細剣が落ち、石混じりの地面に乾いた音を立てて転がった。
アスナはうつむいたままよろよろとこちらに歩み寄ると、糸の切れた人形のように俺の傍らに膝をついた。右手をそっと差し出してくるが、俺に触れる寸前でビクリと引っ込める。
「……ごめんね……わたしの……わたしのせいだね……」
悲痛な表情で声をしぼり出した。大きな目から涙が溢れ、宝石のように美しく輝きながら次々に滴り落ちた。
「アスナ……」
「ごめんね……。わたし……も……もう……キリト君には……あ……会わな……」
ようやく麻痺毒の効果が切れた体を俺は必死に起こした。全身に与えられたダメージのせいで不快な痺れが残っているが、構わず両腕を伸ばしてアスナの体を抱き寄せた。そのまま、桜色の美しい唇を自分の唇で塞ぐ。
「……!」
アスナは全身を固くし、両手を使って俺を押しのけようと抗った。構わず強引に抑えこみ、舌先で唇をこじ開けようとする。間違いなくハラスメント防止コードに抵触する行為だ。今アスナの視界にはコード発動を促すシステムメッセージが表示されており、彼女がOKボタンに触れれば俺は一瞬にして黒鉄宮の監獄エリアに転送されるだろう。だが、そんな事は知ったことではない。
俺はアスナの唇を割って自分の舌をすべり込ませ、システムの感覚シミュレーションの限界まで様々な行為をおこなうとようやく顔を離した。
「もう会わないなんて許さない」
顔を真っ赤に上気させたアスナの瞳をじっと見つめたまま言う。
「俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う。最後の瞬間まで一緒にいる」
アスナは瞳をうるませ、歓びの表情で熱い吐息を洩らしながら何度も頷いた。
「うん……うんっ……」
今度は自分から腕を絡ませ、顔を近づけてきたアスナを俺は固く抱きしめた。死の淵で凍りついた体の芯が、アスナの命の熱でゆっくり融けはじめるのを感じた。
16
アスナはグランザムで待っている間、俺の位置をマップでモニターしていたのだと言った。ゴドフリーの反応が消失した時点で街を出て走り出したというから、俺たちが一時間かけて歩いた距離、約五キロメートルを五分で走破したことになる。敏捷度パラメータ補正の限界を超えた信じがたい数字だ。それを指摘すると「愛のなせるわざだよ」と小さく微笑んだ。
俺たちはギルド本部に戻るとヒースクリフに事の顛末を報告し、そのまま一時退団を申請した。アスナがその理由を「ギルドに対する不信」と説明すると、ヒースクリフはしばらく黙考した末に退団を了承したが、最後にあの謎めいた微笑を浮かべながら「だが君たちはすぐに戦場に戻ってくるだろう」と付け加えた。
本部を出ると街はすでに夕景だった。俺たちは手を繋いで転移門広場に向かって歩きだした。二人とも無言だった。
浮遊城外周から差し込むオレンジ色の光を背景にして、黒々としたシルエットを描き出す鉄塔群の間をゆっくりと歩く。俺は、死んだあの男の悪意はどこから来たのか、ぼんやりと考えていた。
この世界において好んで悪事を犯す者は珍しくない。盗みや追い剥ぎを働く者から、奴のように楽しみの為に人を殺す者までを含む犯罪者プレイヤーの数は数千人を下らないと言われる。その存在は今やモンスターのように自然発生的なものとして捉えられている。
しかし改めて考えてみるとそれは奇妙な事だ。なぜなら、犯罪者として他のプレイヤーに害を成すのは、ゲームクリアという最終目的に対してマイナスに働く行為だということは誰が考えても明白だからだ。つまり彼等はこの世界から出たくないのだという事になる。
だが、俺はクラディールという男を見て、それも違うと感じた。奴の思考は、ゲーム脱出を支援するでも阻止するでもない、言わば停止状態だった。過去を振り返ることも未来を予測することも止めた結果、自己の欲望だけがとめどなく肥大し、あのような悪意の花を咲かせたのか――。
しかし、ならばこの俺はどうなのだろう。自分が真剣にゲームクリアという目標を志向しているのかどうか、自信を持って断言することはできない。ただの惰性的な経験値稼ぎで毎日迷宮に潜っていると言われたほうがよほどしっくり来るのではないか。己を強化し、他人より優れた力を得る快感のためだけに戦っているのなら、俺も本心ではこの世界の終わりを望んではいない――?
不意に足元の鋼鉄板が頼りなく沈み込んでいく気がして、俺は立ち止まった。アスナの手にすがるように、繋いだ右手を固く握り締める。
「……?」
小首をかしげて俺の顔を覗き込んでくるアスナに一瞬視線を送り、すぐうつむいて自分に言い聞かせるように口を開いた。
「……君だけは……何があろうと還してみせる……あの世界に……」
「……」
今度はアスナがぎゅっと手を握ってきた。
「だめだよ。帰るときは二人いっしょ」
にこりと笑う。
いつのまにか転移門広場の入り口まで来ていた。冬の訪れを予感させる冷たい風の中、身をかがめるようにしたプレイヤーたちがわずかに行き交っている。俺はアスナにまっすぐ向き直った。
彼女の強靭な魂から発せられる暖かな光が、唯一俺を正しく導くものだと思えた。
「アスナ……今夜は、一緒にいたい……」
無意識のうちにそんなことを口にしていた。彼女と離れたくなかった。かつてないほど肉薄した死の恐怖は未だに俺の背に張り付き、容易に去ろうとしない。今夜独りで眠れば必ず夢に見るに違いない。あの男の狂気と容赦なく突き刺さる剣の感触を……。そんな確信があった。
今まで一緒にうたた寝したり長時間触れ合っていたことはあったものの、それ以上の意味を敏感に感じ取ったらしく、アスナは目を見開いて俺をじっと見つめていたが――
やがて、両頬を染めながら小さくこくんと頷いた。
二度目に訪れたセルムブルグ市のアスナの部屋は、相変わらず豪奢で、それでいて居心地のいい暖かさで俺を迎えた。そこかしこに効果的に配置された小物のオブジェクトが主人のセンスの良さを物語っている。と思ったのだが、当のアスナは、
「わ、わあー、散らかってるなぁ、最近あんまり帰ってなかったから……」
てへへ、と笑いながら手早くそれらの物を片付けてしまった。
「すぐご飯にするね。キリト君は新聞でも見ながら待ってて」
「あ、ああ」
武装解除してエプロン姿になり、キッチンに消えていくアスナを見送って、俺はふかふかのソファーに腰を下ろした。テーブルの上の大きな紙片を取り上げる。
新聞、と言っても、情報屋を生業とするプレイヤーが適当な与太話を集めて新聞と称して売っている怪しげな代物だ。だが、娯楽の少ないアインクラッドではそれでも貴重なメディアで、定期購読しているプレイヤーは少なくない。四ページしかないその新聞の一面を何気なく眺め、俺はげんなりして放り出した。俺とヒースクリフのデュエルがトップ記事だったからだ。
『新スキル・二刀流使い現れるも神聖剣の前にあっけない敗北』というその見出しの下には、ご丁寧にもヒースクリフの前で這いつくばる俺の姿を捕えた写真――記録結晶というアイテムで撮影できる――が掲載されている。奴の無敵伝説に新たな頁を加える手伝いをしてしまったわけだ。
だがまあこれで、大した事ない、という評価が下されれば騒ぎも収まるか……とどうにか理由をつけて納得し、レアアイテム相場表などに目を通しているうちに、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
夕食はワイルドオックスという牛型モンスターの肉に、アスナ・スペシャルの醤油ソースをかけたステーキだった。食材アイテムのランクとしてはそれ程高級なものではないが、何せ味付けが素晴らしい。がつがつと肉を頬張る俺を、アスナはにこにこしながら眺めていた。
食後のお茶をソファーに向かい合わせで座りながらゆっくりと飲むあいだ、アスナはやけに饒舌だった。好きな武器のブランドや、どこそこの層に観光スポットがあるという話を矢継ぎ早に喋りつづける。
俺は半ばあっけに取られて聞いていたが、アスナが突然黙り込むに及んでさすがに心配になった。お茶のカップの中に何か探してでもいるかのように、じっと視線を落としたまま身じろぎもしない。表情がやけに真剣で、まるで戦闘前だ。
「……お、おい、一体どうしたん……」
だが、俺の言葉が終わらないうちにアスナは右手のカップを音高くテーブルに置くと、
「…………よし!!」
気合をいれながらすっくと立ち上がった。そのまま窓際まで歩いていき、壁に触れて部屋の操作メニューを出すと四隅に設置された照明用のランタンをいきなり全て消した。部屋が暗闇に包まれる。俺の索敵スキル補正が自動的に適用され、視界が暗視モードに切り替わる。
薄青い色彩に染まった部屋の中で、窓から差し込む街灯のほのかな光に照らされたアスナだけが白く輝いていた。状況に戸惑いながらも、俺はその美しさに息をのんだ。
今は濃紺色に見える長い髪、チュニックからすらりと伸びた真っ白な肌の手足、それらが淡い光を反射してまるで自ら発光しているかのようだ。
アスナはしばらく無言で窓際に佇んでいた。うつむいているので表情はよく見えない。左手を胸元に添え、何かを迷っているように見える。
状況を理解できないまま俺が声をかけようとしたとき、アスナの左手が動いた。宙にかざした手の人差し指を軽く振る。ポーン、という効果音と同時にメニューウインドウが出現した。
青い闇のなか、紫色のシステムカラーに発光するその上を、ゆっくりとアスナの指が動く。どうやら左側、装備フィギュアを操作しているらしい――
と思った瞬間、アスナの穿いていた膝までのソックスが音もなく消滅した。優美な曲線を描く素足が剥き出しになる。もう一度指が動く。今度はワンピースのチュニックそのものが装備解除された。俺はポカンと口を開け、目を丸くして思考停止に陥った。
アスナは今や下着を身につけているのみだった。白い小さな布が、申し訳程度に胸と腰を隠している。
「こ、こっち……見ないで……」
震える声で、かすかに呟く。そう言われても、視線を動かすことなどできない。
アスナは両腕を体の前で組み合わせてもじもじしていたが、やがて顔を上げてまっすぐこちらを見ると、優美な動作でウインドウに新たな操作を加えた。最後に残されていたわずかな装備が消滅した。
俺は魂を抜かれるような衝撃を味わいながら、呆然とその姿を見つめた。
美しいなどというものではない。青い光の粒をまとった艶やかでなめらかな肌、最上の絹糸を束ねたような髪、思いがけず量感のある二つのふくらみは、逆説的だがどんな描画エンジンでも再現不可能と思わせる完璧な曲線を描き、ほっそりした腰から両脚にかけては野生動物を思わせるしなやかな筋肉に包まれている。
単なる3Dオブジェクトなどでは決してない。例えれば、神の手になる彫像に魂を吹き込んだようなと言うべきか――。SAOプレイヤーの肉体は、ログイン時にナーヴギアが大まかにスキャンした体格をもとに半ば自動生成的に作られている。それを考えれば、ここまで完璧な美しさを持つ肉体が存在するのは奇跡と言ってよい。
俺は呆けたようにいつまでもその裸身に見入っていた。もし、アスナが耐え切れないといったように両手で体を隠し、口を開かなければ一時間でもそのままだったに違いない。
アスナは、薄青い闇の中でもわかるほど顔を真っ赤に染めて、うつむいたまま言った。
「き、キリト君もはやく脱いでよ……。わたしだけ、は、恥ずかしいよ」
その声に、俺はようやくアスナの行動の意図するところを理解した。
つまり、彼女は――俺の、今夜一緒にいたい、という台詞を、俺より一段踏み込んだ意味に解釈したのだ。
それを理解すると同時に俺は底なしの深いパニックに陥った。結果、これまでの人生で最大のミスを犯すこととなった。
「あ……いや、その、俺は……ただ……今夜、い、一緒の部屋に居たいという、それだけの……つもりで……」
「へ……?」
自分の思考を馬鹿正直にトレースした俺の発言に、今度はアスナがぽかんとした顔で完全停止した。が、やがて、その顔に最大級の羞恥と怒りを混合した表情が浮かぶ。
「バ……バ……」
握り締めた右拳に目に見えるほどの殺気をみなぎらせ、
「バカ――――――ッ!!」
敏捷度パラメータ全開のスピードで突進してきたアスナの正拳突きは、俺の顔面に炸裂する寸前で犯罪防止コードに阻まれて大音響と共に紫色の火花を散らした。
「わ、わあー、待った!! ごめん、ごめんって! 今のナシ!」
構わず二撃目を見舞おうとするアスナに向かって両手を激しく振りながら俺は必死に弁解した。
「悪かった、俺が悪かった!! い……いや、しかし、そもそもだなぁ……。その……で、出来るの……? SAOの中で……?」
ようやく攻撃姿勢をやや解除したアスナが、怒りの冷めやらぬ中にも呆れた表情を浮べて言った。
「し、知らないの……?」
「知りません……」
「…………オプションメニューのすっごい深いとこに、倫理コード解除設定があるのよ」
まるで初耳だった。ベータの時には間違いなくそんな物はなかったし、マニュアルにも載っていない。ソロプレイに徹して戦闘情報以外に興味を向けなかったツケをこんな形で払うことになろうとは……。だが、その話は俺に新たな、看過し得ぬ疑問をもたらした。思考能力が回復しないままうっかりそれを口にしてしまう。
「……その……け、経験がおありなんです……?」
再びアスナの鉄拳が俺の顔面直前に炸裂した。
「な、ないわよバカ――――ッ!! ギルドの子に聞いたの!!」
俺は心の底からホッとしたが、危機が去ったわけではまるでない。平謝りに謝りつづけ、どうにか宥めるまで数分を要した。
アスナは裸のままどすんとソファーに腰掛けると、据わった視線で俺を睨みつけ、
「……キリト君も早く脱いで」
と命令口調で言った。
「は…………つ、続けるの……?」
「ここでやめたら馬鹿らしすぎるわよ!!」
俺は慌てて従った。アスナの言うままウインドウを開き、恐ろしく深い階層にあるオプションを解除する。
ドタバタした導入には雰囲気も何もあったものではなかったが、二人だと少々狭すぎるベッドの上で、俺たちは時間をかけてシステムの許すかぎり出来る事をした。詳細な説明は省く。
テーブルの上にたった一つだけ灯した小さな蝋燭の明かりが、俺の腕の中でまどろむアスナの肌を控えめに照らしていた。その白い背中にそっと指を這わせる。暖かく、このうえなく滑らかな感触が指先から伝わってくるだけで陶然とした気分になる。
アスナは薄く目を開けると俺を見上げ、二、三度瞬きしてにっこり笑った。
「悪い、起こしちゃったな」
「ん……。ちょっとだけ、夢、見てた。元の世界の夢……。おかしいの」
笑顔のまま、俺の胸に顔をすりよせてくる。
「夢の中で、アインクラッドの事が、キリト君と会ったことが夢だったらどうしようって思ってとっても怖かった。よかった……夢じゃなくて」
「変な奴だな。帰りたくないのか?」
「帰りたいよ。帰りたいけど、ここで過ごした時間がなくなるのは嫌。ずいぶん……遠くまで来ちゃったけど、わたしにとっては大事な二年間なの。今ならそう思える」
ふと真顔になり、自分の右手をじっと見詰める。ごくかすかな声で、
「はじめて、ほかのプレイヤーを……殺した……」
俺はハッとした。内心で激しく動揺する。やはりアスナの手を汚させるべきではなかった。
「ごめん……俺が、決着をつけるべきだった……」
「ううん、いいの」
まっすぐな瞳を向けてくる。
「キリト君を傷つけようとする人は許さない。ゲームの中だからとかじゃないよ。元の世界に戻ってからどんな罰を受けてもいい」
「アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……」
「そんなことないよ。わたし、今とっても楽なの……。ギルド辞めて、副団長なんて肩書きやっと放り出して、キリト君のそばにいるだけでいいって思うと、すーって体が軽くなった気がする。……もともと向こうじゃそういう性格だったんだ。誰かの後についてくほうが好き。このゲームだって自分で買ったんじゃないんだよ」
何かを思い出したようにくすくす笑う。
「お兄ちゃんが買ったんだけどね、急な出張になっちゃって、わたしが初日だけ遊ばせてもらうことになったの。すっごい口惜しそうだったのに、二年も独り占めしちゃって、怒ってるだろうなぁ」
身代わりになったアスナのほうが不運だと思うが……。
「……早く帰って、謝らないとな」
「うん……。がんばらないとね……」
だが、言葉とは裏腹に口篭もったアスナは不安そうに目を伏せると、体ごとぴたりと擦寄ってきた。
「ね……キリト君。ちょっとだけ、前線から離れたらだめかなぁ」
「え…………?」
「なんだか怖い……。戦いばっかりのこの世界で……こんなに幸せだと、揺り返しがありそうな気がして……。少し、疲れちゃったのかもしれない……」
アスナの髪をそっと梳りながら、俺は自分でも意外なほど素直に頷いていた。
「そうだな……。俺も、疲れたよ……」
たとえ数値的なパラメータが変化しなくても、日々の連戦は目に見えない消耗を強いる。今日のような極限状況に至る事態があれば尚更だ。どんなに剄い弓でも、引き続ければやがて折れてしまう。休息が必要なときもあるだろう。
俺は、今まで己を戦闘へと駆り立ててきた危機感にも似た衝動が遠ざかっていくのを感じていた。今は、ただこの少女との繋がり、絆を確かめていたい、そう思った。
アスナの体に両腕をまわし、絹のような髪に顔をうずめながら俺は言った。
「22層の南西エリアの、森と湖がいっぱいあるとこ……あそこに小さい村があるんだ。モンスターも出ないし、いい所だよ。ログキャビンがいくつか売りに出てた。……二人でそこに引っ越そう。それで……」
言葉に詰まった俺に、アスナがキラキラ輝く大きな瞳をじっと向けてきた。
「それで……?」
こわばった舌をどうにか動かし、続きを口にする。
「……け、結婚しよう」
アスナが見せた最上級の笑顔を、俺は生涯忘れないだろう。
「……はい」
こくりと頷いたその頬を、一粒の大きな涙が流れた。
17
SAOにおいて、システム上で規定されるプレイヤー同士の関係は四種類存在する。
まずひとつは無関係の他人。二つ目がフレンドだ。フレンドリストに登録した者同士なら、どこにいようと簡単な文章のメッセージを送ることができるし、相手の現在位置をマップ上でサーチすることも可能となる。
三つ目はギルドメンバー。上記の機能に加えて、戦闘時にメンバーとパーティーを組むと戦闘力にわずかだがボーナスを得るという特典がある。その代償として、入手したコルのうち一定の割合でギルドへの上納金が差っ引かれてしまうのだが。また、ギルドメンバーはいついかなる時でもリーダーの強制召還を拒否できないというシステム上の誓約があり、俺たちがかつてアスナのギルド脱退に拘ったのもそのへんに理由がある。
さて、俺とアスナは今までフレンドとギルドメンバーという二つの条件を共有していた訳だが、二人ともギルドからは一時脱退し、かわりに最後の一つが加わることになった。
結婚、と言っても手続きは拍子抜けするほど簡単だ。どちらかがプロポーズメッセージを送り、相手が受諾すればそれで終了である。だが、それによってもたらされる変化はフレンドやギルドの比ではない。
SAOにおける結婚が意味するものは、簡潔に言えば全情報と全アイテムの共有だ。お互いは自由に相手のステータス画面を見ることができるし、アイテム画面に至っては一つに統合されてしまう。言わば最大の生命線を相手に差し出す行為であり、裏切りや詐欺の横行するアインクラッドではどんなに仲の良いカップルでも結婚にまで至る例はごく稀だ。男女比の甚だしい不均衡も無論理由の一つではあるのだが。
第22層はアインクラッドで最も人口の少ないフロアの一つである。低層であるがゆえに面積は広いが、その大部分は常緑樹の森林と無数に点在する湖に占められており、主街区もごく小さな村と言ってよい規模だ。フィールドにモンスターは出現せず、迷宮区の難度も低かったため僅か三日で攻略されてしまい、プレイヤーの記憶にはほとんど残らなかった。
俺とアスナはその22層の森の中に小さなログハウスを購入し、そこで暮らすことにした。小さいと言ってもSAOで一軒家を買うのは並大抵の金額では済まない。アスナはセルムブルグの部屋を売ると言ったのだが、それには俺が強硬に反対し――あそこまで見事にカスタマイズされた部屋を手放すのは勿体無いどころの話ではない――結局二人の手持ちのレアアイテムを、エギルの協力を得て全て売り捌きどうにか金を工面することができた。
エギルは残念そうな顔で好きなだけ二階を使っていいんだぜ、と言ってくれたが、雑貨屋に居候の新婚生活ではあまりに侘しすぎる。それに、超有名プレイヤーのアスナが結婚したなどということが公になったらどんな騒ぎになるか、想像するのも恐ろしい。人のいない22層でなら、しばらくは静かな生活を送れるだろうと思ったのだ。
「うわー、いい眺めだねえ!」
寝室、と言っても二部屋しかないのだが、その南側の窓を大きく開け放ってアスナは身を乗り出した。
確かに絶景だ。外周部が間近にあるため、輝く湖面と濃緑の木々の向こうに大きく開けた空を一望することができる。普段、頭上百メートルにのしかかる石の蓋の下で生活しているので、間近にある空がもたらす解放感は筆舌に尽くしがたいものがある。
「いい眺めだからってあんまり外周に近づいて落っこちるなよ」
俺は家財道具アイテムを整理する手を休め、背後からアスナの体に両腕をまわした。この女性は今や俺の妻なのだ――そう思うと、冬の陽だまりのような温かさと同時に不思議な感慨、なんと遠いところまで来てしまったのだろうという驚きに似た気持ちが湧き上がってくる。
この世界に囚われるまで、俺は目的もなく家と学校を往復する日々を送るだけの子供だった。しかし最早現実世界は遥かに遠い過去となってしまった。
もし――もしこのゲームがクリアされ、元の世界に帰ることになったら……。それは俺やアスナを含む全プレイヤーの希望であるはずなのだが、その時のことを考えると正直不安になる。俺は知らず知らずアスナを抱く腕に強く力を込めていた。
「痛いよキリト君……。どうしたの……?」
「ご……ごめん……。なあ、アスナ……」
一瞬口篭もる。だがどうしても聞かずにはおれなかった。
「……俺たちの関係って、ゲームの中だけのことなのかな……? あの世界に帰ったら無くなっちゃう物なのかな……」
「怒るよ、キリト君」
振り向いたアスナは、純粋な感情が燃える瞳をまっすぐ向けてきた。
「例えこれが、こんな異常事態じゃない普通のゲームだとしても、わたしは遊びで人を好きになったりしない」
両手で俺の頬をぎゅっと挟みこむ。
「わたし、ここで一つだけ覚えたことがある。諦めないで最後まで頑張ること。もし元の世界に戻れたら、わたしは絶対キリト君ともう一度会って、また好きになるよ」
アスナの真っ直ぐな強さに感嘆するのは何度目だろう。それとも俺が弱くなっているのか。
だが、それでもいい――。アスナと深く唇を交わしながら、俺は思った。誰かに頼り、支えてもらうのがこんなにも心地よいという事を長い間忘れていた。いつまでここに居られるのかは判らないが、せめて戦場を離れている間くらいは――。
俺は思考が拡散してゆくに任せ、ただ腕の中の甘い香りと柔らかさだけに意識を集中させた。