8
俺とアスナは迷宮区へと続く森の小道を並んで歩いていた。今日の攻略はやめて街に戻るかと尋ねたのだが、アスナが頑として予定の消化を主張したのである。もともと予定など有って無きが如き物で、すこしでもマップを埋められればそれでいいというつもりだったのだが無論俺に否やはない。今後も継続的に戦闘を共にするというのなら早いうちに二人の剣技の相性も見ておかなければならないし、何より俺ももっと長く一緒にいたい気分だったのだ。
柔らかく繁った下草を、さくさくという小気味良い音を立てて踏みしめながらアスナが明るい声で言った。
「明日買い物に付き合ってよ。あたらしい戦闘服買わなきゃ」
両手を広げながらギルドの制服を見下ろす。
「うう……そういう店は苦手なんだけど……」
「だーめ! ついでにキリト君の服も見てあげるよー。いっつもそれじゃない」
あははと笑いながら俺のくたびれたレザーコートをつつく。
「いいんだよ別に! そんな金があったらすこしでも旨い物をだなぁ……」
言いかけながら、俺は何気なくいつもの癖で周囲の索敵スキャンを行った。モンスターの反応はない。だが――。
「……? どうしたの?」
「いや……」
俺は、索敵可能範囲ぎりぎりにプレイヤーの集団を感知していた。俺たちが歩いてきた方向だ。視線を集中すると、プレイヤーの存在を示す緑色のカーソルが連続的に点滅する。
犯罪者プレイヤーの集団である可能性はない。連中は確実に自分たちよりレベルの低い獲物を狙うので、最強クラスのプレイヤーが集まる最前線に姿を現すことはごく稀であるし、何より一度でも犯罪行為を犯したプレイヤーはカーソルの色が緑からオレンジに変化するからだ。俺が気になったのはその人数と、集団の並び方だった。
俺はメインメニューからマップを呼び出した。可視モードにしてアスナにも見えるように設定する。周辺の森を示しているマップには、俺の索敵スキルとの連動によってプレイヤーを示す緑の光点が浮かんでいる。その数十二。
「多いね……」
アスナの言葉に頷く。パーティーは人数が増えすぎると連携が難しくなるので、五、六人で組むのが普通だ。
「それに見ろ、この並び方……」
マップの端近くを、こちらに向かってかなりの速度で近づいてくるその光点の群れは二列に整然と並んで行進していた。危険なダンジョンでならともかく、たいしたモンスターのいないフィールドでここまできっちりした隊形を組むのは珍しい。
「一応確認したい。そのへんに隠れてやり過ごそう」
「そうね……」
アスナも緊張した面持ちで頷いた。俺達は道を外れて土手を這い登り、背丈ほどの高さに密集した潅木の茂みを見つけてその陰にうずくまった。道を見下ろすことのできる絶好の位置だ。
「あ……」
不意にアスナが自分の格好を見下ろした。赤と白の制服は緑の茂みの中でいかにも目立つ。
「どうしよ……わたし着替え持ってないよ……」
マップの光点の集団はすでにかなりの近さにまで肉薄していた。そろそろ可視範囲に入る。
「ちょっと失敬」
俺は自分のレザーコートの前を開くと。右隣にうずくまるアスナの体を包み込んだ。アスナはちょっと顔を赤くしたが素直に俺に密着し、自分の体がすべて俺のコートに隠れるようにした。黒のぼろコートなら格好の保護色だ。ここまで隠蔽条件を満たせば、よほど高レベルの索敵スキルで探査しないかぎり発見することは難しい。
「たまにはこの一張羅も役に立つだろ」
「もう! ……シッ、来るよ!」
アスナはささやいて指を唇の前に立てた。一層体を低くした俺達の耳に、ざっざっという規則正しい足音がかすかに届きはじめた。
やがて、曲がりくねった小道の先からその集団が姿を現した。全員が戦士クラスだ。お揃いの黒鉄色の金属鎧に濃緑の戦闘服。すべて実用的な簡素なデザインだが、先に立つ六人の持った大型のシールドの表面には特徴的な火竜の印章が施されている。前衛六人の武装は片手剣。後衛六人は巨大な斧槍だ。全員が目深にヘルメットを装着しているためその表情を見て取ることはできない。一糸乱れぬその行進を見ていると、まるで、十二人のまったく同じNPCがSAOシステムによって動かされているように思えてくる。
間違いない。基部フロアを本拠地とする超巨大ギルド〈軍〉のメンバーである。傍らのアスナもそれを察したらしく、身を固くして息を詰めている気配が伝わってくる。
彼らは決して一般プレイヤーに対して敵対的な存在ではない。それどころか、フィールドにおける犯罪行為の防止を最も熱心に推進している集団であると言ってよい。ただ、その方法はいささか過激で、犯罪者フラグを持つプレイヤー――通常緑色のカーソルが、モンスターを現す黄色に良く似たオレンジで表示される――を発見次第問答無用で攻撃し、投降した者を武装解除して黒鉄宮の牢獄エリアに監禁しているという話だ。投降せず、離脱にも失敗した者の処遇に対する恐ろしい噂もまことしやかに語られている。
また、連中は常に大人数のパーティーで行動し、モンスターの出現区域を長時間独占してしまうこともあって、一般プレイヤーの間では〈軍〉には極力近づくな、という共通認識が生まれていた。もっとも、連中は主に50層以下の低層フロアでの治安維持と勢力拡大を図っているため、最前線で見かけることはまれだったのだが――。
俺達が息を潜めて見守るなか、十二人の重武装戦士は鎧の触れ合う金属音と重そうなブーツの足音を響かせながら機械のように整然とした行進で眼下の道を通過し、深い森の木々の中に消えていった。
現在SAOの囚人となっている数万人のプレイヤーは、発売日にソフトを入手できたことだけを見ても筋金入りのゲームマニアだと思っていい。そしてゲームマニアというのは間違いなく規律という言葉からは最も縁遠い人種だ。二年が経過するとは言え、あそこまで統制の取れた動きをするというのは尋常ではない。連中は〈軍〉の中でも最精鋭の部隊なのだろう。
マップで連中が索敵範囲外に去ったことを確認すると、俺とアスナはしゃがみこんだままフウ、と息を吐き出した。
「……あの噂、本当だったんだ……」
俺のコートにくるまったまま、アスナが小声で呟いた。
「噂?」
「うん。ギルドの例会で聞いたんだけど、〈軍〉が方針変更して上層エリアに出てくるらしいって。もともとはあそこもクリアを目指す集団だったんだよね。でも25層攻略の時大きな被害が出てから、クリアよりも組織強化って感じになって、前線に来なくなったじゃない。それで、最近一般の所属プレイヤーに不満が出てるって情報だったわ。――で、前みたいに大人数で迷宮に入って混乱するよりも少数精鋭部隊を送って、その戦果でクリアの意思を示すっていう方針になったらしいの。その第一陣がそろそろ現れるだろうって団長が言ってた」
「実質プロパガンダなのか。でも、だからっていきなり未踏破層に来て大丈夫なのか……? レベルはそこそこありそうだったけどな……」
「ひょっとしたら……ボスモンスター攻略を狙ってるのかも……」
各層の迷宮区には、上層へとつながる階段を守護するボスモンスターが必ず存在する。一度しか出現せず、恐ろしいほどの強さを誇るが、確かに倒した時の話題性は抜群だ。さぞかしいい宣伝になることだろう。
「それであの人数か……。でもいくらなんでも無茶だ。74層のボスはまだ誰も見たことないんだぜ。普通は偵察に偵察を重ねた上でボスの戦力と傾向を確認して、巨大パーティーを募って攻略するもんだ」
「ボス攻略だけはギルド間で協力するもんね。あの人たちもそうする気かな……?」
「どうかな……。まあ、連中もぶっつけでボスに挑むほど無謀じゃないだろ。俺たちも急ごうぜ。中でかち合わなきゃいいけど」
俺はアスナと密着した状況を名残惜しく思いながら立ち上がった。コートから出たアスナが寒そうに体をすくめる。
「もうすぐ冬だねえ……。ついでにわたしも上着買お。それどこで買ったやつ?」
「む……たしかアルゲード西区のプレイヤーショップだけど……」
「よーし、冒険終わったらそこ行こう! 買い物買い物」
アスナはやけに嬉しそうにぴょんと跳ねると、身軽な動作で三メートルは下の小道に飛び降りた。俺もそれにならう。筋力パラメータ補正のお陰でこのくらいの高さなら無いも同然だ。
太陽がそろそろ中天に達しようという時刻になっていた。俺とアスナはマップに気を配りつつ可能な限りのスピードで先を急いだ。
幸い一度もモンスターに遭遇することもなく森を抜けると、そこかしこに水色の花が点在する草原が広がっていた。道は真中を貫いて西に伸び、その先に74層の迷宮区が威容を見せてそびえ立っている。
迷宮区、と言ってもいわゆるダンジョン=地下迷宮とは違い、アインクラッドのそれは地面と、はるか百メートル上空の新フロアを繋ぐ巨大な塔と言ってよい。その形は様々だがたいてい直径は高さの二倍以上、内部は複雑に入り組んだ無数の部屋と通路が多層構造をなしてプレイヤーを待ち受けている。出現するモンスターの危険度もフィールドとは比べ物にならない。
この迷宮区の、たいがい最上部にはひときわ大きな部屋があり、次層――この場合は75層となる――へと繋がる階段を凶悪なボスモンスターが守護している。そこを突破して次層の主街区に到達し、転移門をアクティブ化すれば晴れて一フロアの攻略達成となる。「街びらき」のときは新たな風物を求めてプレイヤーが下層のあちこちから殺到し、街全体がお祭り騒ぎとなってそれは賑やかなものだ。現在の最前線74層の攻略が開始されて今日で九日目、そろそろボスの部屋が発見されてもいい頃ではある。
草原の向こうにそびえ立つ巨塔は、赤褐色の砂岩で組み上げられた円形の構造物だった。俺もアスナももう何度も訪れている場所だが、徐々に近づくにつれ天を覆い隠さんばかりのその威容に圧倒されずにはいられない。これがアインクラッド全体の百分の一の高さなのだ。願って詮無いことではあるが、いつか外部から浮遊巨大城の全景を眺めてみたいというのが俺の密かな夢だった。
軍の連中の姿は見えない。すでに内部にいるのだろう。俺達はつい早足になりながら、ようやく近づいてきた迷宮区の入り口に向かって近づいていった。
9
ギルド血盟騎士団が最強の座を不動のものとしたのは一年以上も前のことである。その頃から、『伝説の男』ことギルドリーダーはもちろんサブリーダーのアスナもトップ剣士として名を知られ、閃光の二つ名をアインクラッド中に轟かせていた。それから一年、細剣使いとしてスキル構成の完成を見たアスナの対モンスター戦闘を俺は初めて間近で目にする機会を得た。
74層迷宮区の最上部近く、左右に円柱の立ち並んだ長い回廊に俺達は居た。戦闘の真っ最中。敵は〈デモニッシュサーバント〉の名を持つ骸骨の剣士だ。身長二メートルを超えるその体は不気味な青い燐光をまとった人骨で、右手に長い直剣、左手に円形の金属盾を装備している。当然だが筋肉などひとかけらも無いくせに恐ろしい筋力パラメータを持った厄介な相手である。だが、アスナはその難敵をむこうに一歩も引かなかった。
骸骨の剣が青い残光を引きながら立て続けに垂直に打ち下ろされた。四連続技〈バーチカルスクェア〉。数歩下がった位置から俺がハラハラしつつ見守る中、アスナは左右への華麗なステップでその攻撃全てを避けきってみせた。
たとえ二対一の状況とはいえ、武器を装備した相手だとこちらが二人同時に打ちかかれる訳ではない。システム的には不可能ではないが、目にも止まらぬ高速で武器が飛び交う刃圏に味方が近接していると、お互いの技を邪魔しあってしまうデメリットのほうが大きい。そこで、パーティープレイでの戦闘では高度な連携が要求される〈スイッチ〉というテクニックが用いられる。
四連撃最後の大振りをかわされたデモニッシュサーバントが僅かに体勢を崩した。その隙を見逃さずアスナは反撃に転じた。白銀にきらめく細剣を中段に突き入れる。見事にヒット、骸骨のHPバーが減少する。一撃のダメージは大きいとは言えないが、何しろその手数がすさまじい。
中段の突きを三連続させたあと、ガードが上がり気味になった敵の下半身に一転して切り払い攻撃を往復。次いで斜めに斬り上がった剣先が、純白のエフェクト光を撒き散らしながら上段に二度突きの強攻撃を浴びせる。なんと八連続攻撃だ。確か〈スター・スプラッシュ〉という名のハイレベル細剣技である。もともと細剣と相性が悪い骸骨系のモンスターを相手にその剣先を的確にヒットさせてゆく技量は尋常ではない。
骸骨のHPバーを三割削り取った威力もさることながら、使用者を含めたそのあまりの華麗さに俺は思わず見とれた。剣舞とはまさにこの事だ。
放心した俺に、まるで背中に目がついているかのようなアスナの声が飛んだ。
「キリト君、スイッチ行くよ!!」
「お、おう!」
あわてて剣を構えなおす。同時に、アスナは単発の強烈な突き技を放った。その剣先は、骸骨の左手の金属盾に阻まれ派手な火花を散らした。しかしこれは予定の結果だ。重い攻撃をガードした敵はごく僅かな硬直時間を課せられ、すぐに攻撃に転じることができない。無論大技をガードされたアスナも硬直を強いられるが、重要なのはその「間」だった。
俺は間髪入れず突進系の技で敵の正面に飛び込んだ。わざと戦闘中にブレイク・ポイントを作り出し、仲間と交代するのが〈スイッチ〉である。
アスナが十分な距離を取って退くのを視界の端で確認した俺は、右手の剣をしっかり握りなおすと猛然と敵に打ちかかった。彼女程の達人なら別だが、基本的にはこのデモニッシュ・サーバントのような隙間の多い敵には突き技よりも斬り技の方が有効だ。最も相性がいいのはメイス系の打撃武器だが、俺も、多分アスナも打撃系のスキルは持っていない。
俺が繰り出した〈バーチカル・スクェア〉は四回とも面白いように敵にヒットし、HPを大きく削り取った。骸骨の反応が鈍い。モンスターのAIには、突然剣技の種類を切り替えられると対応に時間がかかるという特徴があるからだ。これがパーティーでの戦闘を行う最大のメリットの一つである。
敵の反撃を武器でパリィ防御した俺は、勝負を決めるべく大技を開始した。いきなり右斜め斬り降ろしの強攻撃から、手首を返してゴルフスイングのように同じ軌道を逆戻りして斬り上げる。敵の骨だけの体を剣先が捉えるたび、ガツンという衝撃音と共にオレンジ色の光芒が飛び散る。上段の剣を受け止めるべく盾を上げる敵の思惑を外して、俺は左肩口から体当たりを敢行。姿勢をぐらつかせた骸骨の、がら空きの胴体めがけて右水平斬りを放つ。間髪入れず今度は右の肩から再び体当たり。強攻撃を連続させる隙をタックルで埋める珍しい技、〈メテオブレイク〉だ。自慢ではないが片手剣の他に体術スキルもないと使うことはできない。
ここまでの攻撃で、敵のHPバーは大きく減少して瀕死領域に入っていた。俺は、全身の力を込めて七連撃最後の上段左水平斬りを繰り出した。エフェクト光の円弧を引きながら、剣は狙い違わず骸骨の首に吸い込まれるように命中。骨が断ち切られ、頭蓋骨が勢い良く宙に舞うのと同時に、残った体は糸が切れたように乾いた音を立てて崩れ落ちた。
「やった!!」
剣を収めた俺の背中にアスナが飛びついてきた。
戦利品の分配は後回しにして、俺とアスナは先に進むことにした。ここまで四回モンスターと遭遇したが、ほとんどダメージを負うことなく切り抜けている。大技の連発を好む俺のスタイルに対してアスナは小、中の多段攻撃を得意とし、敵のAIに負荷を与え――もちろんCPUの処理能力という意味ではなく、あくまでアルゴリズムの範囲内においてだが――戦闘を有利に運ぶという面では二人の剣技の相性は悪くないと言って良いだろう。多分レベルもそう大差ないはずだ。
俺達は円柱の立ち並ぶ荘厳な回廊を慎重に進んだ。索敵スキルのせいで不意打ちの心配は無いとは言え固い石の床に反響する足音をつい気にしてしまう。迷宮の中に光源は存在しないが、周囲は不思議な淡い光に満たされて視界に不自由することはない。
その光に照らし出される回廊の様子を注意深く見渡してみる。下部では赤茶けた砂岩で出来ていた迷宮だが、登るにつれいつのまにか素材が濡れたような青味を帯びた石に変化してきていた。円柱には華麗だが不気味な彫刻が施され、根元は一段低くなった水路の中に没している。総じて言えば、オブジェクトが重くなってきているのだ。マップデータの空白部分もあと僅かである。俺の直感が正しければこの先には多分――。
回廊の突き当たりには、灰青色の金属で出来た巨大な両開きの扉が待ち受けていた。扉にも、円柱と同じような怪物のレリーフがびっしりと施してある。すべてがデジタルデータで出来たこの世界だが、その扉からは何とも言いがたい妖気が湧き上っているように感じられてならない。俺たちはその前で立ち止まると、顔を見合わせた。
「……これって、やっぱり……」
「多分そうだろうな……ボスの部屋だ」
アスナがぎゅっと俺の手を握ってきた。
「どうするの……? 覗くだけ覗いてみる?」
強気なその台詞とは裏腹に声は不安を色濃くにじませている。最強剣士でもやっぱりこういうシチュエーションは怖いと見える。まあそれも当然だ、俺だって怖い。
「……ボスモンスターはその守護する部屋からは絶対に出ない。ドアを開けるだけなら多分……だ、大丈夫……じゃないかな……」
自信無さそうに消える語尾に、アスナがとほほという表情で応じる。
「一応転移アイテム用意しといてくれ」
「うん」
頷くと、スカートのポケットから青いクリスタルを取り出した。俺もそれにならう。
「いいな……開けるぞ……」
右手でアスナの手をしっかり握り締め、俺は結晶を握りこんだ左手を鉄扉にかけた。現実世界なら今ごろ手の平が汗でびっしょりだろう。ゆっくりと力を込めると、俺の身長の倍はあるだろう巨大な扉は思いがけず滑らかに動き始めた。一度動き出すと、こちらが慌てる程のスピードで左右の扉が連動して開いてゆく。俺とアスナが息を詰めて見守る中、完全に開ききった大扉はずしんという衝撃と共に止まり、内部に隠していたものをさらけ出した。
――と言っても内部は完全な暗闇だった。俺たちの立つ回廊を満たす光も、部屋の中までは届かないらしい。冷気を含んだ濃密な闇は、いくら目を凝らしても見透かすことができない。
「…………」
俺が口を開こうとした瞬間、突然入り口からわずかに離れた床の両側に、ボッと音を立てて二つの青白い炎が燃え上がった。思わず二人同時にビクリと体をすくませてしまう。すぐに、少し離れた場所にまた二つ炎が湧き上がった。そしてもう一組。さらにもう一組。ボボボボボ……という連続音と共に、たちまち入り口から部屋の中央に向かってまっすぐに炎の道が出来上がる。最後に一際大きな火柱が吹き上がり、同時に奥行きのある長方形の部屋全体が薄青い光に照らし出された。かなり広い。マップの残り空白部分がこの部屋だけで埋まるサイズだ。
アスナが緊張に耐えかねたように全身で俺にしがみついてきた。だが俺にもその感触を楽しむ余裕など砂粒ほどもない。なぜなら、激しく揺れる火柱の後ろから徐々に巨大な姿が出現しつつあったからだ。
見上げるようなその体躯は、全身縄のように盛り上がった筋肉に包まれている。肌は周囲の炎に負けぬ深い青、分厚い胸板の上に乗った頭は人間ではなく山羊のそれだった。頭の両側からはねじれた太い角が後方にそそり立っている。眼は、これも青白く燃えているかのような輝きを放っているが、その視線は明らかにこちらにひたと据えられているのがわかる。下半身は濃紺の長い毛に包まれ、炎に隠れてよく見えないがそれも人ではなく動物のもののようだ。簡単に言えばいわゆる悪魔の姿そのものである。
入り口から、奴のいる部屋の中央まではかなりの距離があった。にもかかわらず俺たちはすくんだように動けなかった。今までそれこそ無数のモンスターと戦ってきたが、悪魔型というのは始めてだ。色々なRPGでお馴染みと言ってよいその姿だが、こうやって「直」に対面すると体の内側から湧き上がる原始的な恐怖心を抑えることが出来ない。
恐る恐る視線を凝らし、出てきたカーソルの文字を読む。〈The Gleameyes〉、間違いなくこの層のボスモンスターだ。名前に定冠詞がつくのはその証である。グリームアイズ――輝く目、か。
そこまで読み取った時、突然青い悪魔が長く伸びた鼻面を振り上げ、轟くような雄叫びを上げた。炎の列が激しく揺らぎ、びりびりと振動が床を伝わってくる。口と鼻から青白く燃える呼気を噴出しながら、右手に持った巨大な剣をかざして――と思う間も無く、青い悪魔は真っ直ぐこちらに向かって、地響きを立てつつ猛烈なスピードで走り寄ってきた。
「うわあああああ!」
「きゃあああああ!」
俺たちは同時に悲鳴を上げ、くるりと向き直ると全力でダッシュした。ボスモンスターは部屋から出ない、という原則を頭では判っていてもとても踏みとどまれるものではない。鍛え上げた敏捷度パラメータに物を言わせ、俺とアスナは長い回廊を疾風のごとく駆け抜け、遁走した。
10
俺とアスナは迷宮区の中ほどに設けられた安全エリア目指して一心不乱に駆け抜けた。途中何度かモンスターにターゲットされたような気がするが、正直構っていられなかった。
安全エリアに指定されている広い部屋に飛び込み、並んで壁際にずるずるとへたり込む。大きく一息ついてお互い顔を見合わせると、
「……ぷっ」
どちらともなく笑いがこみ上げてきた。冷静にマップなりで確認すれば、やはりあの巨大悪魔が部屋から出てこないのはすぐにわかったはずだが、どうしても立ち止まる気にはならなかったのだ。
「あはは、やー、逃げた逃げた!」
アスナは床にぺたりと座り込んで、愉快そうに笑った。
「こんなに一生懸命走ったのすっごい久しぶりだよー。まぁ、わたしよりキリト君のほうが凄かったけどね!」
「…………」
否定できない。憮然とした俺の表情を眺めながら散々くすくす言い続けたアスナは、ようやく笑いを収めると、
「……あれは苦労しそうだね……」と表情を引き締めた。
「そうだな。パッと見、武装は大型剣ひとつだけど特殊攻撃アリだろうな」
「前衛に固い人を集めてどんどんスイッチして行くしかないね」
「盾アリの奴が十人は欲しいな……。まあ、当面は少しずつちょっかい出して傾向と対策って奴を練るしかなさそうだ」
「盾あり、ねえ」
アスナが意味ありげな視線でこちらを見た。
「な、なんだよ」
「キリト君、なんか隠し技があるでしょ」
「いきなり何を……」
「だっておかしいもん。普通片手剣の最大のメリットって盾装備できることじゃない。でもキリト君が盾持ってるとこ見たことないよ。わたしの場合は細剣のスピードが落ちるからだし、スタイル優先で盾持たないって人もいるけど、キリト君の場合はどっちでもないよね。……あやしいなぁ」
図星だった。確かに俺には隠している技がある。しかし今まで一度として人前では使ったことがない。スキル情報が大事な生命線だということもあるし、またその技を知られることは俺と周囲の人間とのあいだに更なる隔絶を生むことになるだろうと思ったからだ。
だが、この女になら――知られても構わないか……。
そう思って口を開こうとした時、
「まあ、いいわ。スキルの詮索はマナー違反だもんね」
ニコッと笑われてしまった。機先を制された格好で俺は口をつぐむ。アスナは左手をひらりと動かしてウインドウを確認し、目を丸くした。
「わあ、もう三時だね。遅くなっちゃったけどお弁当にしよっか」
「なにっ」
途端に色めき立つ俺。
「て、手作りですか」
アスナは無言ですました笑みを浮かべると、手早くメニューを操作し、白革の手袋を装備解除して小ぶりな藤のバスケットを出現させた。この女とコンビを組んで確実に良かった事が、少なくとも一つはあるな――と不埒な思考を巡らせた瞬間、じろりと睨まれてしまう。
「……なんか考えてるでしょ」
「な、なにも。それより早く食わせてくれ」
むー、という感じで唇を尖らせながらも、アスナはバスケットから大きな紙包みを二つ取り出し、一つを俺にくれた。慌てて開けると中身は、丸いパンをスライスして焼いた肉や野菜をふんだんに挟み込んだサンドイッチだった。胡椒に似た香ばしい匂いが漂う。途端に俺は猛烈な空腹を感じて、物も言わず大口を開けてかぶりついた。
「う……うまい……」
二口みくち立て続けに齧り、夢中で飲み込むと素直な感想が口をついて出た。アインクラッドのNPCレストランで供される、どこか異国風の料理に外見は似ているが味付けが違う。ちょっと濃い目の甘辛さは、紛うことなく二年前まで頻繁に食べていた日本風ファーストフードと同系列の味だ。あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになりながら、俺は大きなサンドイッチを夢中で頬張りつづけた。
最後のひとかけらを飲み込み、アスナの差し出してくれた冷たいお茶を一気にあおって俺はようやく息をついた。
「おまえ、この味、どうやって……」
「一年の修行と研鑚の成果よ。アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が味覚再生エンジンに与えるパラメータをぜ〜〜〜んぶ解析して、これを作ったの。こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」
言いながらアスナはバスケットから小瓶を二つ取り出し、片方の栓を抜いて人差し指を突っ込んだ。どうにも形容しがたい紫色のどろりとした物が付着した指を、いきなり俺の口に突っ込む。
「!?」
大胆なアスナの行為にドギマギするのも束の間、口の中に広がった味に俺は心底驚愕した。
「……マヨネーズだ!!」
「で、こっちがアビルパ豆とサグの葉とウーラフィッシュの骨」
最後のは解毒ポーションの原料だった気がしたが、確認する間もなく再び口に指を突っ込まれてしまった。その味に、俺は先刻を大きく上回る衝撃を感じた。間違いなく醤油の味そのものだ。あまりの懐かしさに、思わず口中のアスナの指を思い切り舐めまわしてしまう。
「あ、やっ!!」
慌てて指を引き抜いたアスナは真っ赤な顔でこっちを睨んだが、俺の呆け面を見てぷっと吹き出した。
「さっきのサンドイッチのソースはこれで作ったのよ」
「…………すごい。完璧だ。おまえこれ売り出したらすっごく儲かるぞ」
正直、俺には昨日のラグー・ラビットの料理よりも今日のサンドイッチのほうが旨く感じられた。
「そ、そうかな」
アスナは照れたような笑みを浮かべる。
「いや、やっぱりだめだ。俺の分が無くなったら困る」
「意地汚いなあもう! いつでも作ってあげるわよ。……毎日でも」
最後の一言を小声で付け足すと、アスナは横に並んだ俺の肩にとん、と頭をもたれ掛けさせた。ここが死地の真っ只中だということも忘れてしまうような穏やかな沈黙が周囲に満ちる。こんな料理が毎日食えるなら節を曲げてセルムブルグに引っ越すかな……アスナの家のそばに……とふと思いつき、それを口にしようとしたとき。
不意に下層側の入り口からプレイヤーの一団が鎧をガチャガチャ言わせながら入ってきた。俺達は瞬間的にパッと離れて座りなおす。
いいところで邪魔をしてくれた六人パーティーのリーダーは、顔見知りのカタナ使いだった。最前線ではよく会うし、ボス攻略では何度か共闘したこともある。気のいい男だが、今だけはうらめしい。
「おお、キリト! しばらくだな」
俺だと気付いて笑顔で近寄ってきたカタナ使いと、腰を上げて挨拶を交わす。
「……まだ生きてたかクライン」
「相変わらず愛想のねえ野郎だ。珍しく連れがいるの……か……」
荷物を手早く片付けて立ち上がったアスナを見て、カタナ使いは額に巻いた趣味の悪いバンダナの下の目を丸くした。
「あー……っと、こいつはギルド〈風林火山〉のクライン。で、こっちは〈血盟騎士団〉のアスナ」
俺の紹介にアスナはぺこんと頭を下げたが、クラインは目のほかに口もまるく開けて完全停止した。
「おい、何とか言え。ラグってんのか?」
ひじでわき腹をつついてやるとようやく口を閉じ、凄い勢いで最敬礼気味に頭を下げる。
「はっ、はじめまして!! く、クラインという者です二十四歳独身」
どさくさに紛れて妙なことを口走るカタナ使いのわき腹をもう一度今度は強めにどやしつける。だが、クラインの台詞が終わるか終わらないうちに後ろに下がっていた五人のパーティーメンバーがガシャガシャ駆け寄ってきて、全員我先にと口を開いて自己紹介を始めた。
俺は呆れて振り返ると、アスナに向かって言った。
「……ま、まあ、悪い連中じゃないから。顔はまずいがな」
今度は俺の足をクラインが思い切り踏みつける。その様子を見ていたアスナが、我慢しきれないというふうに体を折るとくっくっと笑いはじめた。クラインは照れたようなだらしない笑顔を浮かべていたが、突然我に返って俺の腕を掴むと、抑えつつも殺気のこもった声で聞いてきた。
「どっどどどういう事だよキリト!?」
返答に窮した俺の傍らにアスナが進み出てきて、
「はじめまして、アスナといいます。キリト君とコンビ組みますので今後ともよろしくお願いします!」
よく通る声で言い、もういちどぺコッと頭を下げた。俺はもうヤケで両腰に手を当て、胸を張った。
「まあそういう事だ」
クライン達が表情を落胆と憤怒の間で目まぐるしく変える。これはただでは解放されそうもないぜ……と俺が覚悟を決めた時。
先ほど連中がやってきた方向から新たな一団の訪れを告げる足音と金属音が響いてきた。やたらと規則正しいその音に、アスナが緊張した表情で俺の腕に触れ、ささやいた。
「キリト君、〈軍〉よ!」
ハッとして入り口を注視するうち、果たして現れたのは森で見かけたあの部隊だった。クラインがサッと手を上げて仲間の五人を壁際に下がらせる。例によって二列縦隊で部屋に入ってきた集団の行進は、しかし森で見た時ほど整然とはしていなかった。足取りは重く、ヘルメットから覗く表情にも疲弊の色が見て取れる。
安全エリアの、俺たちとは反対側の端に部隊は停止した。先頭にいた男が「休め」と言った途端、残り十一人が盛大な音とともに倒れるように座り込んだ。男は、仲間の様子に目もくれずにこちらに向かって近づいてきた。
よくよく見ると、男の装備は他の十一人とはやや異なるようだった。金属鎧も高級品だし、胸部分に他の者には無い、アインクラッド全景を意匠化したらしき紋章が描かれている。
男は俺達の前で立ち止まると、ヘルメットを外した。かなりの長身だ。三十代前半といったところだろうか、ごく短い髪に角張った顔立ち、太い眉の下には小さく鋭い眼が光り、口元は固く引き結ばれている。じろりとこちらを横柄な視線で睥睨すると、先頭に立っていた俺に向かって口を開いた。
「私はアインクラッド解放軍・コーバッツ中佐だ」
なんと。〈軍〉というのは、その集団外部の者が揶揄的につけた呼称のはずだったが、いつから正式名称になったのだろう。そのうえ中佐と来た。俺はやや辟易しながら、
「キリト。ソロだ」と短く名乗った。
男は軽くうなずくと、
「君たちはもうこの先も攻略しているのか?」
「ああ。ボス部屋の手前まではマッピングしてある」
「うむ。ではそのマップデータを提供して頂きたい」
当然だ、と言わんばかりの男の台詞に俺も少なからず驚いたが、後ろにいたクラインはそれどころではなかった。
「な……て……提供しろだと!? 手前ェ、マッピングする苦労がわかって言ってんのか!?」
胴間声で喚く。未攻略区域のマップデータは貴重な情報だ。トレジャーボックス狙いの鍵開け屋の間では高値で取引されている。
クラインの声を聞いた途端男は片方の眉をぴくりと動かし、ぐいとアゴを突き出すと、
「我々は君ら一般プレイヤーの解放の為に戦っている!」
大声を張り上げた。続けて、
「諸君が協力するのは当然の義務である!」
……傲岸不遜とはこのことだ。ここ一年は軍が積極的にフロア攻略に乗り出してきたことはほとんど無いはずだが。
「ちょっと、あなたねえ……」
「て、てめぇなぁ……」
左右から激発寸前の声を出すアスナとクラインを、しかし俺は両手で制した。
「どうせ街に戻ったら公開しようと思っていたデータだ、構わないさ」
「おいおい、そりゃあ人が好すぎるぜキリト」
「マップデータで商売する気はないよ」
言いながらトレードウインドウを出し、コーバッツ中佐と名乗る男に迷宮区のデータを送信した。男は表情一つ動かさずそれを受信すると、「協力感謝する」と感謝の気持ちなどかけらも無さそうな声で言い、くるりと後ろを向いた。その背中に向かって声をかける。
「ボスにちょっかい出す気ならやめといたほうがいいぜ」
コーバッツはわずかにこちらを振り向いた。
「……それは私が判断する」
「さっきちょっとボス部屋を覗いてきたけど、生半可な人数でどうこうなる相手じゃないぜ。仲間も消耗してるみたいじゃないか」
「……私の部下はこの程度で音を上げるような軟弱者ではない!」
部下、という所を強調してコーバッツは苛立ったように言ったが、床に座り込んだままの当の部下達は同意しているふうには見えなかった。
「貴様等さっさと立て!」
というコーバッツの声にのろのろ立ち上がり、二列縦隊に整列する。コーバッツは最早こちらには目もくれずその先頭に立つと、片手を上げてサッと振り下ろした。十二人はガシャリと一斉に武器を構え、重々しい装備を鳴らしながら進軍を再開した。
見かけ上のHPは満タンでも、SAO内での緊迫した戦闘は目に見えぬ疲労を残す。あちらの世界に置き去りの実際の肉体はぴくりとも動いていないはずだが、その疲労感はこちらで睡眠・休息を取るまで消えることはない。俺が見たところ、軍のプレイヤー達は慣れぬ最前線での戦闘で限界近くまで消耗しているようだった。
「……大丈夫なのかよあの連中……」
軍の部隊が上層部へと続く出口に消え、規則正しい足音も聞こえなくなった頃、クラインが気遣わしげな声で言った。まったく人のいい奴だ。
「いくらなんでもぶっつけ本番でボスに挑んだりしないと思うけど……」
アスナもやや心配そうだ。確かにあのコーバッツ中佐という奴の言動には、どこか無謀さを感じさせるものがあった。
「……一応様子だけでも見に行くか……?」
俺が言うと、二人だけでなくクラインの部下五人も相次いで首肯した。
「どっちがお人好しなんだか」
言いながらも、俺も肚を決めていた。俺達は装備を確認すると、ふたたび迷宮区上層へと足を踏み入れた。
11
途中で運悪くリザードマンロード二匹に遭遇してしまい、俺たち八人が最上部の回廊に到達した時には安全エリアを出てから三十分が経過していた。途中で軍の連中に追いつくことはなかった。
「ひょっとしてもうアイテムで帰っちまったんじゃねえ?」
おどけたようにクラインが言ったが、俺たちは皆そうではないだろうと感じていた。長い回廊を進む足取りが自然と速くなる。
半ば程まで進んだ時、不安が的中したことを知らせる音が回廊内を反響しながら俺たちの耳に届いてきた。咄嗟に立ち止まり耳を澄ませる。
「あぁぁぁぁぁ…………」
かすかに聞こえたそれはまちがいなく悲鳴だ。モンスターのものではない。俺たちは顔を見合わせると、一斉に駆け出した。敏捷性パラメータに優る俺とアスナがクライン達を引き離してしまう格好になったが、この際構っていられない。青く光る濡れた石畳の上を、先程とは逆の方向に風の如く疾駆する。やがて、彼方に大扉が見えてきた。それは左右に大きく開き、内部の闇で燃え盛る青い炎の揺らめきが見て取れる。そしてその向こうで蠢く巨大な影。断続的に響いてくる金属音。そして悲鳴。
「バカッ……!」
アスナが悲痛な叫びを上げると、更にスピードを上げた。俺も追随する。システムアシストの限界ぎりぎりの速度だ。ほとんど地に足をつけず、飛んでいるに等しい。回廊の両脇に立つ柱が猛烈なスピードで後ろに流れていく。
扉の手前で俺とアスナは急激な減速をかけ、ブーツの鋲から火花を撒き散らしながら入り口ギリギリで停止した。
「おい! 大丈夫か!」
叫びつつ半身を乗り入れる。扉の内部は――地獄絵図だった。
床一面、格子状に青白い炎が噴き上げている。その中央で、こちらに背を向けて屹立する一際輝く巨体。青い悪魔ザ・グリームアイズだ。禍々しい山羊の頭部から燃えるような呼気を噴き出しながら、右手の斬馬刀とでもいうべき巨剣を縦横に振り回している。まだHPバーは三割も減っていない。その向こうで必死に逃げ惑う、悪魔と比べて余りに小さな影。軍の部隊だ。もう統制も何もあったものではない。咄嗟に人数を確認するが、二人足りない。転移アイテムで離脱したのであればいいが――。
そう思う間にも、一人が斬馬刀の横腹で薙ぎ払われ、床を激しく転がった。HPバーが赤い危険域に突入している。どうしてそんなことになったのか、軍と、俺達のいる入り口との間に悪魔が陣取っており、これでは離脱もままならない。俺は倒れたプレイヤーに向かって大声を上げた。
「何をしている! 早く転移アイテムを使え!!」
だが、男はさっとこちらに顔を向けると、炎に青く照らし出された明らかな絶望の表情で叫び返してきた。
「だめだ……! く……クリスタルが使えない!!」
「な……」
思わず絶句する。この部屋は結晶無効化空間なのか。迷宮区で稀に見られるトラップだが、ボスの部屋がそうであったことは今まで無かった。
「なんてこと……!」
アスナが息を飲む。これではうかつに助けにも入れない。その時、悪魔の向こう側で一人のプレイヤーが剣を高く掲げ、怒号を上げた。
「何を言うか……ッ!! 我々解放軍に撤退の二文字は有り得ない!! 戦え!! 戦うんだ!!」
間違いなくコーバッツの声だ。
「馬鹿野郎……!!」
俺は思わず叫んでいた。結晶無効化空間で……二人居なくなっているということは……死んだ、消滅したという事だ。それだけはあってはならない事態なのに、あの男は今更何を言っているのか。全身の血が沸騰するような憤りを覚える。
その時、ようやくクライン達六人が追いついてきた。
「おい、どうなってるんだ!!」
俺は手早く事態を伝える。クラインの顔が歪む。
「な……何とかできないのかよ……」
俺たちが斬り込んで連中の退路を拓くことは出来るかもしれない。だが、緊急脱出不可能なこの空間で、こちらに死者が出る可能性は捨てきれない。あまりにも人数が少なすぎる。俺が逡巡しているうち、悪魔の向こうでどうにか部隊を立て直したらしいコーバッツの声が響いた。
「全員……突撃……!」
十人のうち、二人はHPバーを限界まで減らして床に倒れている。残る八人を四人ずつの横列に並べ、その中央に立ったコーバッツが剣をかざして突進を始めた。
「やめろ……っ!!」
だが俺の叫びは届かない。余りに無謀な突撃。八人で一斉に飛び掛っても、満足に剣技を振るうことが出来ず混乱するだけだ。それよりも防御主体の態勢で一人が少しずつダメージを与え、次々にスイッチしてゆくべきなのに……。
悪魔は仁王立ちになると、地響きを伴う雄叫びと共に口から大量の噴気を撒き散らした。どうやらあの息にもダメージ判定があるらしく、青白い輝きに包まれた八人の突撃の勢いが緩む。そこに、すかさず悪魔の巨剣が突き立てられた。一人がすくい上げられるように斬り飛ばされ、悪魔の頭上を越えて俺達の眼前の床に激しく落下した。
コーバッツだった。HPバーが消滅していた。奴と俺の目が合う。自分の身に起きたことが理解できないという表情。口がゆっくりと動く。
――ありえない。
無音でそう言った直後、コーバッツの体は神経を逆撫でするような効果音と共に無数の輝く砕片となって飛散した。余りにもあっけない消滅。俺の傍らでアスナが短い悲鳴を上げる。
リーダーを失った軍のパーティーはたちまち瓦解した。喚き声を上げながら逃げ惑う。もう全員のHPバーが半分を割り込んでいる。
「だめ……だめよ……もう……」
絞り出すようなアスナの声に、俺はハッとして横を見た。咄嗟に腕を掴もうとする。
だが一瞬遅かった。
「だめ――――ッ!!」
絶叫と共に、アスナは疾風の如く駆け出した。空中で抜いた細剣と共に、一筋の閃光となってグリームアイズに突っ込んでゆく。
「ええい!」
俺は毒づきながら、剣を抜きアスナの後を追った。
「どうとでもなりやがれ!!」
クライン達がときの声を上げつつ追随してくる。
アスナの捨て身の一撃は、不意を突く形で悪魔の背に命中した。だがHPはろくに減っていない。グリームアイズは怒りの叫びと共に向き直ると、猛烈なスピードで斬馬刀を振り下ろした。アスナは咄嗟に身をかわしたが、完全には避けきれず余波で地面に倒れこんだ。そこに、連撃の次弾が容赦なく降り注ぐ。
「アスナ―――ッ!!」
俺は身も凍る恐怖を味わいながら、必死にアスナと斬馬刀の間に身を躍らせた。ぎりぎりのタイミングで、俺の剣が悪魔の攻撃を弾く。途方もない衝撃。
「下がれ!!」
叫ぶと、俺は悪魔の追撃に備えた。そのどれもが致命的とさえ思える圧倒的な威力で、剣が次々と襲い掛かってくる。とても反撃を差し挟む隙などない。グリームアイズの使う技は基本的に両手用大剣技だが、微妙なカスタマイズのせいで先読みがままならない。俺は全神経を集中したパリィとステップで防御に徹するが一撃の威力がすさまじく、時々かすめる剣先によってHPがじりじりと減少してゆく。
視界の端では、クラインの仲間達が倒れた軍のプレイヤーを部屋の外に引き出そうとしているのが見える。だが中央で俺と悪魔が戦っているため、その動きは遅々として進まない。
「ぐっ!!」
とうとう敵の一撃が俺の体を捉えた。痺れるような衝撃。HPバーがぐいっと減少する。このままではとても支えきれない。死の恐怖が、凍るような冷たさとなって俺の全身を駆け巡る。最早離脱する余裕すら無い。
残された選択肢は一つだけだ。俺の全てを以って立ち向かうしかない。
「アスナ! クライン! 十秒持ちこたえてくれ!」
俺は叫ぶと、右手の剣を強振して悪魔の攻撃を弾き、無理やりブレイクポイントを作って床に転がった。間髪入れず飛び込んできたクラインがカタナで応戦する。だが奴のカタナも、アスナの細剣も速度重視の武器で重さに欠ける。とても悪魔の巨剣は捌ききれないだろう。俺は床に転がったまま左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。
ここからの操作にはワンミスも許されない。早鐘のような鼓動を押さえつけ、俺は右手の指を動かす。所持アイテムのリストをスクロールし、一つを選び出してオブジェクト化する。装備フィギュアの、空白になっている部分にそのアイテムを設定。スキルウインドウを開き、選択している武器スキルを変更。
すべての操作を終了し、OKボタンにタッチしてウインドウを消すと、背に新たな重みが加わったのを確認して俺は顔を上げて叫んだ。
「いいぞ!!」
クラインは一撃食らったと見えて、HPバーを減らして退いている。本来ならすぐに治療結晶で回復するところだがこの部屋ではそれができない。現在悪魔と対峙しているアスナも、数秒のうちにHPが半分を割り込んでイエロー表示になってしまっている。
俺の声に、背を向けたまま頷くとアスナは裂ぱくの気合とともに突き技を放った。
「イヤァァァァ!!」
純白の残光を引いたその一撃は、空中でグリームアイズの剣と衝突して火花を散らした。両者の動きが一瞬止まる。
「スイッチ!!」
俺は叫ぶと再び悪魔の正面に飛び込んでいった。硬直から回復した悪魔が、大きく剣を振りかぶる。
炎の軌跡を引きながら打ち下ろされてきたその剣を、俺は右手の愛剣で弾き返し、間髪入れず左手を背に回して新たな剣の柄を握った。抜きざまの一撃を悪魔の胴に見舞う。初めてのクリーンヒットで、ようやく奴のHPバーが目に見えて減少する。
「グォォォォォ!!」
憤怒の叫びを洩らしながら、悪魔は再び上段の斬り下ろし攻撃を放ってきた。今度は、両手の剣を交差してそれをしっかりと受け止め、押し返す。奴の体勢が崩れたところに、俺は防戦一方だったいままでの借りを返すべくラッシュを開始した。
右の剣で中段を斬り払う。間を空けずに左の剣を突き入れる。右、左、また右。脳の回路が灼き切れんばかりの速度で俺は剣を振るい続ける。
これが俺の隠し技、エクストラスキル〈二刀流〉だ。その上位剣技〈スターバースト・ストリーム〉。連続十六回攻撃。
「うおおおおおあああ!!」
途中の攻撃がいくつか悪魔の剣に阻まれるのも構わず、俺は絶叫しながら左右の剣を次々敵の体に叩き込み続けた。視界が灼熱し、最早敵の姿以外何も見えない。悪魔の剣が時々俺の体を捉える衝撃すら、どこか遠い世界の出来事のように感じる。全身をアドレナリンが駆け巡り、剣撃を敵に見舞うたび脳神経がスパークする。速く、もっと速く。限界までアクセラレートされた俺の神経には、普段の倍速で二刀を振るうそのリズムすら物足りない。システムのアシストをも上回ろうかという速度で攻撃を放ち続ける。
「…………ぁぁぁああああああ!!」
「ゴァァァアアアアアアアア!!」
気付くと、絶叫しているのは俺だけではなかった。眼前の巨大な悪魔が、天を振り仰いで口と鼻から盛大に噴気を洩らしつつ雄叫びを上げている。
と、その全身が硬直したと思った瞬間、グリームアイズは膨大な青い欠片となって爆散した。部屋中にキラキラと輝く光の粒が降り注ぐ。
終わった……のか……?
俺は戦闘の余熱による眩暈を感じながら、無意識のうちに両の剣を切り払い、背に交差して吊った鞘に同時に収めた。ふと自分のHPバーを確認する。赤いラインが、数ドットの幅で残っていた。他人事のようにそれを眺めながら、俺は全身の力が抜けるのを感じて声もなく床に転がった。意識が暗転した。