第74層の迷宮区画から出た俺は、アイテムやステータスの確認を済ませると街に向って歩き出した。俺のホームタウンは50層にあるアインクラッドで最大級の都市〈アルゲード〉だ。規模から言えばはじまりの街のほうが大きいが、あそこは今や完全に軍の本拠地となってしまっているので立ち入りにくい。
夕暮れの色が濃くなった草原を抜けると、深く木々が立ち並ぶ森が広がっている。この森を三十分も歩けば74層の主街区があり、そこの〈転移門〉からアルゲードへと一瞬で移動することができる。
手持ちの瞬間転移アイテムを使えばどこからでもアルゲードへ帰還することができるが、いささか値が張るもので緊急の時以外は使いにくい。まだ日没までは少々間があるし、俺は一刻も早く自宅のベッドに転がり込みたいという誘惑を振り払って、森の中へと続く細い道に足を踏み込んだ。
アインクラッド各層の最外周部は、数箇所の支柱部以外は基本的にそのまま空へと開かれた構造になっている。角度が傾きそこから直接差し込んでくる太陽光が、森の木々を赤く照らし出していた。幹の間を流れる濃密な霧の帯が残照を反射して、きらきらと美しくも妖しい輝きを発している。日中は喧しかった鳥の声もまばらになり、吹き抜ける風が梢を揺らす音がやけに大きく響く。
このへんのフィールドに出没するモンスターには寝ぼけていても遅れを取らないレベルだとわかっていても、夕闇の深まるこの時間帯はどうしても不安を抑えることができない。幼い頃、夕暮れに道に迷い途方にくれて立ち尽くした時のような……。だが俺はこんな気分が嫌いではない。あの世界に住んでいた頃は、こんな原始的な不安はいつしか忘れ去ってしまっていた。見渡す限り誰もいない荒野を単身さすらう孤独感、これこそまさにRPGの醍醐味というもので――。
そんな感慨にとらわれていた俺の耳に、不意に聞き覚えのない獣の鳴き声がかすかに届いた。高く澄んだ、草笛のような響き。俺は咄嗟に足を止めると、慎重に音源の方向を探った。聞きなれない、あるいは見なれないものの出現はこの世界ではイレギュラーな幸運か不運のどちらかの訪れを意味する。
ソロプレイヤーの俺は索敵スキルを選択している。このスキルは不意打ちを防ぐ効果ともうひとつ、スキル熟練度が上がっていれば隠蔽状態にあるモンスターやプレイヤーを見破る能力がある。俺はやがて十メートルほど離れた大きな樹の枝かげに隠れているモンスターの姿を発見した。
それほど大きくはない。木の葉にまぎれる灰緑色の毛皮と、体長以上にながく伸びた耳。視線を集中すると、自動でモンスターがターゲット状態となり、視界に黄色いカーソルと対象の名前が表示される。その文字を見た途端俺は息を詰めた。〈ラグー・ラビット〉、超のつくレアモンスターだ。俺も実物は初めて見る。その、樹上に生息するもこもこしたウサギはとりたてて強いわけでも経験値が高いわけでもないのだが――。
俺は慎重に腰のベルトから投擲用の細いピックを抜き出した。俺の投剣スキルはスキルスロットの埋め草的に選択しているだけで、それほどレベルが高くない。だがラグー・ラビットの逃げ足の速さは既知のモンスター中最高と聞き及んでおり、接近して剣での戦闘に持ち込める自信はなかった。相手がこちらに気付いていない今ならまだ、一回だけファーストアタックのチャンスがある。俺は右手に針状のピックを構えると、祈るような気持ちで投剣スキルの基本技〈シングルシュート〉のモーションを起こした。
いかにスキルレベルが低くとも、徹底的に鍛えた敏捷度パラメータによって補正された俺の右手は稲妻のように閃き、放たれたピックは一瞬の輝きを残して梢の陰に吸い込まれていった。攻撃を開始した途端にラビットの位置を示していたカーソルは戦闘色の赤に変り、その下に奴のHPバーが表示されている。祈るような気持ちでピックの行く末を見守る俺の耳に、一際甲高い悲鳴が届き――HPバーがぐい、と動いてゼロになった。お馴染みのポリゴンが破砕する硬質な効果音。俺は無意識のうちに右手をぐっ、と突き上げていた。
あわてて左手をかざしてメニュー画面を呼び出す。パネルを操作する指ももどかしくアイテム欄を開くと、果たして新規入手品の一番上にその名前があった。〈ラグー・ラビットの肉〉、プレイヤー間の取引では十万コルは下らないという代物だ。最高級のオーダーメイド武器をしつらえても釣りが来る額である。
そんな値段がつく理由はいたって単純、この世界に存在する無数の食材アイテムの中で最高級の美味に設定されているからだ。
食うことのみがほとんど唯一の快楽と言ってよいSAO内で普段口にできるものと言えば欧州田舎風――なのか知らないが素朴なパンだの煮込み料理ばかりで、ごく少ない例外が料理スキルを選択している職人プレイヤーが少しでも幅を広げようと工夫して作る食い物なのだが、職人の数が圧倒的に少ない上に高級な食材アイテムが意外に入手しにくいという事情もあっておいそれと食べられるものでもなく、ほとんど全てのプレイヤーは慢性的に美味に餓えているという状況なのだ。
もちろん俺も同様で、いきつけのNPCレストランで食うシチューと黒パンの食事も決して嫌いではないが、やはりたまにはやわらかく汁気たっぷりな肉を思い切り食ってみたいという欲求に苛まれる。俺はアイテム名の文字列を睨みながらしばし唸った。
この先こんな食材を入手できる可能性はごく少ないだろう。本音を言えば自分で食ってしまいたいのもやまやまだが、食材アイテムのランクが上がるほど料理に要求されるスキルレベルも上昇するため、誰か高レベルの料理職人プレイヤーに頼まなくてはならない。そんなアテは――いないこともないのだが……。わざわざ頼みに行くのも面倒だし、そろそろ防具を新調しなければならない時期でもあるので、俺はこのアイテムを金に替えることに決めて立ち上がった。
未練を振り切るように手を振ってステータス画面を消すと、俺は周囲をふたたび索敵スキルで探った。よもやこんな最前線、言い換えれば辺境に盗賊プレイヤーが出現するとも思わないが、Sクラスのレアアイテムを持っているとなればいくら用心してもしすぎという事はない。
これを金に替えれば瞬間転移アイテムなど欲しいだけ買えるだろうし、俺は危険を減らすべくこの場からアルゲードまで帰還してしまうことにして、腰の小物入れを探った。ちなみに、ステータス画面のアイテム欄に表示されるアイテムはその段階では名称データだけの存在で、必要に応じて選択されたものだけが重量制限の範囲内で腰と背中のパックにオブジェクトとして実体化するという仕組みだ。転移アイテムのような緊急に使用する可能性のあるものはこのように常時実体化しておくのがセオリーとなる。
俺は小物入れから空色をした八面柱型の結晶をつまみだした。〈魔法〉の要素がほとんど排除されているこの世界で、わずかに存在するマジックアイテムはすべてこのように宝石の形を取っている。ブルーのものは瞬間転移、ピンクだとHP回復、緑は解毒――といった具合だ。どれも即効の便利なアイテムだが値段が張るので、たとえば回復なら敵から離脱して時間のかかる薬類で回復するのが常道だ。俺は、今は緊急の場合と言ってよかろうと自分に言い訳すると青い結晶を握って叫んだ。
「転移! アルゲード!」
鈴を鳴らすような美しい音と共に、手の中で結晶がきらめきながら砕け散った。同時に俺の身体は青い光に包まれ、周囲の森の風景が溶け崩れるように消滅してゆく。光がひときわまぶしく輝き、次いで消え去ったときにはもう転移が完了していた。先刻までの葉擦れのざわめきに代わって、甲高い鍛冶の槌音と賑やかな喧騒が耳朶を打つ。
俺が出現したのはアルゲードの中央にある転移門だった。円形の広場の真中に、高さ五メートルはあろうかという巨大な金属製のゲートがそびえ立っている。ゲート内部の空間は蜃気楼のように揺らいでおり、他の街に転移する者、あるいはどこからか転移してきた者達がひっきりなしに出現と消滅を繰り返している。広場からは四方に大きな街路が伸び、全ての道の両脇には無数の小さい店がひしめきあっていた。今日の冒険を追えてひとときの憩いを求めるプレイヤー達が食い物の屋台や酒場の店先で会話に花を咲かせている。
アルゲードの街を簡潔に表現すれば『猥雑』の一言に尽きる。
はじまりの街にあるような巨大な施設はひとつとして存在せず、広大な面積いっぱいに無数の路地、隘路が重層的に張り巡らされて、何を売るとも知れぬ妖しげな工房や二度と出てこられないのではと思わせる宿屋などが軒を連ねている。実際アルゲードの裏通りに迷い込んで数日出てこられなかったプレイヤーの話も枚挙に暇が無いほどだ。俺もここをねぐらにして一年近くが経つが、いまだに道の半分も覚えていない。NPCの住人たちにしても、クラスも定かでないような連中ばかりで、最近ではここをホームにしているプレイヤーも一癖二癖ある奴らばかりになってきたような気さえする。
だが俺はこの街の雰囲気が気に入っていた。路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで妙な匂いのする茶を啜っているときだけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい。かつて住んでいた街に似ているからだ、などという感傷的な理由だとは思いたくないが。
俺はねぐらに戻る前に件のアイテムを処分してしまうことにして、馴染みの買い取り屋に足を向けた。転移門のある中央広場から西に伸びた目貫通りを、人ごみを縫いながら数分歩くとすぐにその店があった。人が五人も入ればいっぱいになってしまうような店内にはプレイヤーの経営するショップ特有の混沌状態を醸し出した陳列棚が並び、武器から道具類、食料までがぎっしりと詰め込まれている。
店の主はと言えば、今まさに店頭で商談の真っ最中だった。
アイテムの売却方法は大まかに言って二種類ある。ひとつはNPC、つまりゲームシステムが操作するキャラクターに売却する方法で、詐欺の危険がないかわりに買い取り値は場所によって多少の増減があるものの基本的には一定となる。プレイヤーが労せずに大金を入手するのを防ぐためにその値付けは実際の市場価値よりもかなり低く設定されている。
もう一つがプレイヤー同士の取引だ。こちらは商談次第ではかなりの高値で売れることも多いが、買い手を見つけるのに結構な苦労をするし、やれ払いすぎただの気が変っただのと言いだすプレイヤーとのトラブルも無いとは言えない。そこで、故買を専門にしている商人プレイヤーの出番となるわけだ。
「よし決まった! グラックリザードの革二十枚で五百コル!」
俺が馴染みにしている買い取り屋のエギルは、ごつい右腕を振り回すと商談相手の気の弱そうな槍使いの肩をばんばんと叩いた。そのままトレードウィンドウを出すと、有無を言わせぬ勢いで自分側のトレード欄に金額を入力する。相手はまだ多少悩むような素振りを見せていたが、歴戦の戦士と見紛うほどのエギルの凶顔に一睨みされると――実際エギルは商人であると同時に一流の斧戦士でもあるのだが――あわてて自分のアイテムウィンドウから物をトレード欄に移動させ、OKボタンを押した。
「毎度!! また頼むよ兄ちゃん!」
最後に槍使いの背中をバシンと一回叩くと、エギルは豪快に笑った。グラックリザードの革は高性能な防具の素材となる。どう考えても五百は安すぎるだろうと俺は思ったが、慎み深く沈黙を守って、立ち去っていく槍使いを見送った。故買屋相手に遠慮してはならないという教訓の授業料込みだと思うんだな、と心の中でつぶやく。
「相変わらず阿漕な商売してるな」
エギルに背後から声をかけると、禿頭の巨漢はひょいと振り向きざまニンマリ笑った。
「よぉ、キリトか。安く仕入れて安く提供するのがウチのモットーなんでね」
悪びれる様子もなくうぞぶく。
「後半は疑わしいもんだなぁ。まあいいや、俺も買取頼む」
「キリトはお得意様だしな、あくどい真似はしませんよっと……」
言いながらエギルは猪首を伸ばして俺の提示したトレードウィンドウを覗き込んだ。SAOプレイヤーの外見が、生身の肉体に即したものだという事はすでに述べたが、このエギルを見るたびに俺はよくもまぁこんなハマる外見をした奴がいたもんだと感嘆の念を禁じえない。百八十センチはある体躯は筋肉と脂肪にがっちりと包まれ、その上に乗った顔は悪役レスラーさながらにごつごつとした、岩から削りだしたかのような造作で、唯一カスタマイズできる髪型をつるつるのスキンヘッドにしているもんだからその怖さはそんじょそこらの強面NPCに引けを取らない。それでいて笑うと実に愛嬌のある、味な顔をしているのだ。年齢は二十代後半だろうが、現実世界で何をしていた男なのか想像もつかない。「向こう」でのことは尋ねないのがこの世界の不文律である。
その、分厚くせり出した額の下の両目が、トレードウィンドウを見た途端驚きに丸くなった。
「おいおい、S級のレアアイテムじゃねえか。ラグーラビットの肉か、俺も現物を見るのは初めてだぜ……。キリト、おめえ別に金には困ってねえんだろ? 自分で食おうとは思わんのか?」
「思ったさ。多分二度と手には入らんだろうしな……。ただなぁ、こんなアイテムを扱えるほど料理スキルを上げてる奴なんてそうそう……」
その時、背後から俺の肩を叩く者がいた。
「よっ、キリト君おひさ!」
女の声。俺にこれほどなれなれしく声を掛けてくる女性プレイヤーはそれほど多くない。正確には一人しかいない。俺は顔を見る前から相手を察していた。左肩に乗せられたままの相手の手をぐっ、と掴むと振り向きながら言う。
「シェフ捕獲」
「な……なによ」
相手は俺に手をつかまれたままいぶかしげな顔で後ずさる。
栗色の長い真中分けのストレートヘアを両側に垂らした顔はちいさな卵型で、大きなくるくるとした薄茶色の瞳がまぶしいほどの生気を放っている。小ぶりだがスッと通った鼻筋の下で、桜色のくちびるが華やかな色彩を添える。スラリとした小柄な体を、白と赤を基調とした騎士風の戦闘服に包み、白革の剣帯から吊ったのは優雅に伸びた細剣。
彼女の名はアスナ。SAOでは多分知らぬ者はほとんどいないであろう有名人だ。理由はいくつかあるが、まず、圧倒的に少ない女性プレイヤーであり、なおかつ文句のつけようがない華麗な容姿を持つことによる。プレイヤーの現実の肉体、とくに顔の造作をほぼ完全に再現するSAOにおいて、大変言い難いことながら美人の女性プレイヤーというのは超S級とでも言うべきレアな存在だ。おそらくアスナほどの美人は両手の指に満たない数だろう。
もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由は、その騎士服を染める白と赤――ギルド〈血盟騎士団〉のユニフォームだ。Knights of the Bloodの頭文字を取ってKoBとも呼ばれるそれは、アインクラッドに数多あるギルドの内でも誰もが認める最強のプレイヤーギルドである。
構成メンバーは五十人程と中規模だが、そのすべてがハイレベルの強力な剣士であり、なおかつギルドを束ねるリーダーは伝説的存在と言ってもよいほどのSAO最強の男なのだ。アスナは華奢な少女の外見とは裏腹に、そのギルドにおいて副団長を務めている。当然技のほうも半端ではなく、細剣術は〈閃光〉の異名を取る腕前だ。
つまり彼女は、容姿においても剣技においても四万のプレイヤーの頂点に立つ存在なわけで、それで有名にならないほうがおかしい。当然プレイヤーの中には無数のファンがいるが、中には偏執的に崇拝する者やらストーカーまがい、更には反対に激しく嫌う者――これは女性プレイヤーに多い――もいてそれなりの苦労はあるようだ。
もっとも最強剣士の一人たるアスナに正面切ってちょっかいを出そうという者はそういないだろうが、警護に万全を期するというギルドの意向もあるようで彼女にはたいてい複数の護衛プレイヤーが付き従っている。今も、数歩引いた位置に白のマントと分厚い金属鎧に身を固めたKoBのメンバーとおぼしき二人の男が立ち、そのうち右側に立っている長髪を後ろで束ねた痩せた男が、アスナの手を掴んだままの俺に殺気に満ちた視線を向けてきている。
俺は彼女の手を離し、指をその男に向ってひらひら振ってやりながら言葉を返した。
「珍しいなアスナ。こんなゴミ溜めに顔を出すなんて」
俺がアスナを呼び捨てにするのを聞いた長髪の男と、自分の店をゴミ溜め呼ばわりされた店主の顔が同時にぴくぴくと引き攣る。だが、店主のほうはアスナから笑顔とともに、お久しぶりですエギルさん、と声をかけられると途端にだらしなく顔を緩ませる。
アスナは俺に向き直ると、不満そうに唇を尖らせた。
「なによう。ちゃんと生きてるか確認に来てあげたんじゃない」
「フレンドリストに登録してんだから生きてることくらいわかるだろ。そもそもマップでフレンド追跡したからここに来られたんじゃないのか」
言い返すと、アスナは照れくさそうに下を向いた。大体、この女がなぜ俺ごときに気をかけてくれるのかが不思議で仕方ない。知り合ってからそろそろ半年になるが、会うときはこのように向こうから来てくれる場合がほとんどだ。数ヶ月前に相互フレンド登録しようと言われた時には腹の底から驚愕したものだ。さすがに俺もややその気にならないでもなかったが、相手があまりにも至高の存在すぎて、わずかな希望を持つことすら恐ろしい。俺はあえてアスナとはフランクな剣友付き合いをするよう心がけていた。過度の期待が毒に転じるのは御免だ。
アスナは両腕を胸の前で組むと、つんとあごを反らせるような仕草で言った。
「そ……そんなことより、何よシェフどうこうって?」
「あ、そうだった。お前今料理スキルどのへん?」
確かアスナは酔狂にも戦闘スキルの隙間を縫って職人系の料理スキルを上げていた覚えがある。俺の問いに、彼女は得意げ顔を輝かせると言い放った。
「聞いて驚け! なんと先週に完全習得達成!」
「なぬっ!」
ア……アホか。と一瞬思ったがもちろん口には出さない。スキル熟練度は使用する度に気が遠くなるほどの遅々とした速度で上昇してゆき、最終的に熟練度1000に達したところで完全習得となる。ちなみに経験値によって上昇するレベルはそれとはまた別で、レベルで上がるのはHPと筋力、敏捷力のステータス、それに〈スキルスロット〉という習得可能スキル限度数だけだ。俺は今十二のスキルスロットを持つが、完全習得に達しているのは片手直剣スキル、索敵スキル、武器防御スキルの三つだけである。つまりこの女は途方もないほどの時間と情熱を戦闘の役にたたないスキルにつぎ込んだわけだ。
「……その腕を見こんで頼みがある」
俺はアスナに手招きをするとアイテムウィンドウを他人にも見える可視モードにして彼女に示した。
「うわっ!! これ、S級食材!?」
「取引だ。こいつを料理してくれたら一口食わせてやる」
言い終わらないうちに〈閃光〉アスナの右手が俺の胸倉をがっしと掴んだ。そのまま顔を数センチの距離までぐいと寄せると、
「は・ん・ぶ・ん!!」
思わぬ不意打ちにドギマギした俺は思わず頷いてしまう。はっと我に返った時には遅かった。ヤッタと小躍りするアスナ。まあ、あの可憐な顔を至近距離から観察できたんだから良しとしよう、と無理やり納得する。
ウインドウを消去しながら振り向き、エギルの顔を見上げて言う。
「わるいな、そんな訳で取引は中止だ。」
「いや、それはいいけどよ……。なあ、俺たちダチだよな? な? 俺にも味見くらい……」
「気が向いたら持ってきてやるよ」
「そ、そりゃあないだろ!!」
この世の終わりか、といった顔で情けない声を出すエギルにつれなく背を向け歩き出そうとした途端、俺のコートをアスナが掴んだ。
「料理はいいけどどこでするつもりなのよ?」
「う……」
料理スキルを使用するには、食材の他に料理道具と、かまどやオーブンの類が最低限必要になる。俺の部屋にも簡単なものがあるにはあったが、あんな小汚いねぐらにアスナを招待できるはずも無く。
アスナは言葉に詰まる俺に呆れたような視線を投げかけながら、
「どうせキリト君の部屋にはろくな道具もないんでしょ。いいわ、わたしの部屋に行きましょう」
とんでもないことをサラリと言った。
言われたことを脳が理解するまでのラグで停止する俺を気にもとめず、アスナは警護のギルドメンバー2人に向き直ると声をかけた。
「今日はここから直接セルムブルグまで転移するから護衛はもういいわ。お疲れ様」
その途端、我慢の限界に達したとでも言うように長髪の男が叫んだ。SAOにもうすこし表情再現機能があったら、額に青筋の二〜三本は立っているであろう剣幕だ。
「ア……アスナ様! こんなスラムに足をお運びになるだけに留まらず、素性の知れぬ奴をご自宅に伴うなどと、と、とんでもない事です!」
その大仰な台詞に俺は辟易とする。様と来た……こいつも紙一重級の崇拝者なんじゃなかろうか。目を向けると、アスナも相当うんざりした表情である。
「キリト君は素性の知れない奴なんかじゃないわ。多分あなたより十はレベルが上よ、クラディール」
「な、何を馬鹿な! 私がこんな奴に劣るなどと……!」
男の半分裏返った声が路地に響き渡る。三白眼ぎみの落ち窪んだ目で俺を憎憎しげに睨んでいた男の顔が、不意に何かを合点したかのように歪んだ。
「そうか……手前ビーターだろ!」
〈ビーター〉とはベータテスターの蔑称である。俺にとってはお馴染みの台詞だ。だが何度言われてもその言葉は俺に一定の痛みをもたらす。最初に俺に同じ事を言った、かつて友人だった奴の顔がちらりと脳裏をよぎる。
「ああ、そうだ」
俺が無表情に肯定すると、男は勢いづいて言い募った。
「アスナ様、こいつら自分さえ良きゃいい連中ですよ! こんな奴と関わるとろくな事がないんだ!」
今まで平静を保っていたアスナの眉根が不愉快そうに寄せられる。いつのまにか周囲には野次馬の人垣ができ、「KoB」「アスナ」という単語が漏れ聞こえてくる。
アスナはそちらにちらりと目を向けると、興奮の度合いを増すばかりのクラディールという男に、
「ともかく今日はここで帰りなさい。副団長として命令します」
とそっけない言葉を投げかけ、左手で俺の手を取った。そのままぐいぐいと俺を引っ張りながらゲート広場へと足を向ける。
「お……おいおい、いいのか?」
「いいの!」
まあ俺には否やのあろうはずもない。二人の護衛と、いまだに残念そうな顔のエギルを残して俺たちは人ごみの隙間に紛れるように歩き出した。最後にちらりと振り返ると、突っ立ったままこちらを睨むクラディールという男の険悪な表情が残像のように俺の視界に貼りついた。
セルムブルグ市は61層にある美しい城塞都市だ。規模はそれほど大きくもないが、華奢な尖塔を持つ古城を中心とした、城壁に囲まれた市街地はすべて白亜の花崗岩で精緻に造り込まれ、ふんだんに配された緑の木々とあいまって見事なコントラストを醸し出している。市場には店もそれなりに豊富でここをホームタウンにと願うプレイヤーは多いが、部屋がとんでもなく高価であり――多分アルゲードの三倍はするだろう――、よほどのハイレベルに達さないかぎり入手するのは不可能に近い。
俺とアスナがセルムブルグの転移門に到着したときはすっかり陽も暮れかかり、最後の残照が街並みを深い紫色に染め上げていた。
61層は面積のほとんどが湖で占められており、セルムブルグはその中心にある小島に存在するので外周部から差し込む夕陽が水面を煌かせる様を一幅の絵画のごとく鑑賞することができる。広大な湖水を背景にして濃紺と朱色に輝く街並みの、あまりの美しさに俺はしばし心を奪われて立ち尽くした。ナーヴギアの本体が持つ新世代のダイアモンド半導体CPUにとってはこのようなライティング処理など小手先の技なのだろうが。
転移門は古城の足許の広場に設置されており、そこからとてつもなく広い、街路樹の生えたメインストリートが市街地を貫いて南に伸びている。両脇には品のいい店やら住宅が立ち並び、行き交うNPCやプレイヤーの格好も垢抜けて見える。空気の味までアルゲードと違うような気がして、俺は思わず両手を伸ばしながら深呼吸をした。
「うーん、広いし人は少ないし、解放感あるなぁ」
「ふふ。キリト君も引っ越せばいいじゃない」
「金が圧倒的に足りません」
肩をすくめて答えると、俺は表情をあらためた。遠慮気味に尋ねる。
「……本当に大丈夫なのか? さっきの……」
「……」
それだけで何の事か察したらしく、アスナはくるりと後ろを向くと、うつむいてブーツのかかとで地面をとんとん叩いた。
「……わたし一人の時に何度か嫌な出来事があったのは確かだけど、護衛なんて行き過ぎだと思う。要らないって言ったんだけど……ギルドの方針だから、って……」
やや沈んだ声で続ける。
「昔は、団長が一人ずつ声を掛けて作った小規模ギルドだったの。でも人数がどんどん増えて、メンバーが入れ替わったりして……最強ギルドなんて言われ始めたころからなんだかおかしくなっちゃった」
言葉を切って、アスナはくるりと振り向いた。その瞳に、どこかすがるような色を見た気がして俺はわずかに息を飲んだ。何か言わなければいけない、ふとそう思ったが、利己的なソロプレイヤーである俺に何ができるというのか。俺たちは沈黙したまま数秒間見つめあった。
先に視線を逸らしたのは俺だった。アスナは少しだけ淋しそうに微笑み、場の空気を切り替えるように明るい声を出した。
「まあ、大したことじゃないから気にしなくてよし! さ、早く行かないと日が暮れちゃうよ!」
先に立ったアスナに続いて、俺も街路を歩き始めた。少なからぬ数のプレイヤーとすれ違うが、アスナの顔をじろじろと見るような者はいない。セルムブルグはここが最前線だった半年ほど前にわずかに滞在したことがあるくらいで、思えばゆっくりと見物した記憶もなかった。改めて美しい彫刻に彩られた市街をながめるうちに、ふと一度はこんな街に住んでみたいという気がわいてくるが、観光地はたまに訪れるくらいがいいのだろうと思い直す。
アスナの住む部屋は目貫通りから東に折れてすぐのところにある小型の、しかし美しい造りの建物の三階だった。無論訪れるのは初めてだ。よくよく考えると、いままでこの女とはアルゲードの酒場やらショップで話したことがあるだけで、一緒にフィールドに出たことすらない。それを意識すると俺は今更ながら腰の引ける思いで、建物の入り口で躊躇してしまう。
「しかし……いいのか? その……」
「なによ、キリト君がもちかけた話じゃない。や……やめてよ今更、わたしまで恥ずかしくなるから!」
やや顔を赤らめてうつむくアスナ。そのまま階段をとんとんと登っていってしまう。俺は覚悟を決めてそのあとに続いた。
「お……おじゃまします」
おそるおそるドアをくぐった俺は言葉を失って立ち尽くした。
未だかつてSAOでこれほど整えられたプレイヤーホームは見たことがない。広いリビング兼ダイニングと、隣接したキッチンには明るい色の木製家具がしつらえられ、統一感のあるオフグリーンのクロス類で飾られている。すべて最高級のプレイヤーメイド品だろう。そのくせ過度に装飾的ではなく、実に居心地の良さそうなインティメイトさを漂わせている。俺のねぐらとはひとことで言って雲泥の差だ。招待しなくてよかった、としみじみ思う。
「なあ……これ、いくらかかってるの……?」
即物的な俺の質問に、
「んー、部屋と内装あわせると四千Kくらいかな。あ、着替えてくるからそのへん適当に座ってて」
サラリと答えるとアスナはリビングの奥にあるドアに消えて行った。Kが千をあらわす短縮語なので四千Kとは四百万コルのことである。参考までに、平均的レベルのプレイヤーが一ヶ月の冒険で稼ぐ金額はその百分の一程度に過ぎない。俺はくらくらして、ふかふかのソファに倒れるように沈み込んだ。
やがて、簡素な白い短衣に着替えたアスナが奥の部屋から現れた。着替えと言っても実際に脱いだり着たりの動作があるわけではなく、ステータスウインドウの装備フィギュアを操作するだけなのだが、着衣変更の瞬間数秒は下着姿の表示になってしまうため、豪胆な野郎プレイヤーならいざ知らず女性は人前で着替え操作をしたりすることはない。今の俺たちの肉体は3Dオブジェクトのデータにすぎないとは言っても、二年も過ごしてしまうとそんな認識は薄れかけて、実際今も惜しげも無く剥き出しにされたアスナのスラリとした手足に自然と目が行ってしまう。
そんな俺の内心の葛藤を知ってか知らずかアスナは屈託無く笑うと、
「キリト君もいつまでそんな格好してるのよ」と言った。
俺はあわててステータスを呼び出すと、革の戦闘用コートと剣帯、金属製のレガースなどの武装を解除する。ついでにアイテムウインドウに移動し、ラグーラビットの肉をオブジェクトとして実体化させた。陶製のポットに入ったそれが目の前のテーブルに姿を現す。
アスナは感激した面持ちでそれを手に取り、中を覗き込む。
「これがS級食材かぁ。ねえ、どんな料理にしよっか?」
「シェフお任せコースで頼む」
「そうねえ……じゃあシチューにしよう。煮込みって言うくらいだからね」
そのままキッチンに向かうアスナの後を俺もついていく。キッチンは広々としていて、巨大なかまどとオーブンがしつらえられた傍らには一見してこれも高級そうな料理道具アイテムが並んでいる。アスナはオーブンの表面をダブルクリックの容量ですばやく二度叩いてポップアップメニューを出し、温度を設定したあと棚から金属製のなべを取り出した。ポットの中の生肉を移し、いろいろな香草と水を満たすと蓋をする。
「ほんとはもっといろいろ手順があるんだけどね。SAOの料理は簡略化されすぎててつまんないよ」
と文句を言いながら、鍋をオーブンの中に入れてメニューから調理開始ボタンを押した。三百秒と表示された待ち時間にも彼女はてきぱきと動き回り、無数にストックしてあるらしい食材アイテムを次々とオブジェクト化しては淀みない作業で付け合せを作っていく。実際の作業とメニュー操作を一回のミスも無くこなしていくその動きに俺はついつい見とれてしまう。
わずか五分で豪華な食卓が整えられ、俺とアスナは向かい合わせで席についた。眼前の陶器の大皿には湯気を上げるブラウンシチューがたっぷりと盛り付けられ、鼻腔を刺激する芳香を伴った蒸気が立ち上っている。照りのある濃密な茶色い液体には大ぶりな肉がたっぷりと入り、クリームの白い筋が描くマーブル模様が実に魅惑的だ。
俺達はいただきますを言うのももどかしくスプーンを手に取ると、SAO内で存在しうる最上級の食い物であるはずのそれを頬張った。口中に充満する熱と香り。大ぶりな柔らかい肉に歯を立てると、溢れるように汁液が迸る。
SAOにおける食事は、オブジェクトを歯が噛み砕く感触をいちいち演算でシミュレートしているわけではなく、アーガスと提携していた環境プログラム設計会社の開発した味覚再生エンジンを使用している。これはあらかじめプリセットされた、様々な「物を食う」感覚を脳に送り込むことで使用者に現実の食事と同じ体験をさせることができる。もとはダイエットや食事制限が必要な人のために開発されたものらしいが、要は味、匂い、熱等を感じる脳の各部位に偽の信号を送り込んで錯覚させるわけだ。つまり俺達の現実の肉体はこの瞬間も何を食べているわけでもなく、ただシステムが脳の感覚野を盛大に刺激しているだけにすぎない。
だが、この際そんなことを考えるのは野暮というものだ。今俺が感じている、間違いなくSAOにログインしてから最上の美味は本物だ。俺とアスナは一言も発することなく、ただ大皿にスプーンを突っ込んでは口に運ぶという作業を黙々と繰り返した。
やがて、きれいに――文字通りシチューが存在した痕跡もない――食い尽くされた皿と鍋を前に、アスナは深く長い息をついた。
「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」
まったく同感だった。俺は久々に原始的欲求を心ゆくまで満たした充足感に浸りながら不思議な香りのする茶を啜った。さっき食べた肉やこの茶は、実際に現実世界に存在する食材の味を記録したものなのか、それともパラメータを操作して作り出した架空の味だろうか……。そんなことを漠然と考える。
饗宴の余韻に満ちた数分の沈黙が過ぎ去ったあと、俺の向かいで茶のカップを両手で抱え込んだままアスナがぽつりと口を開いた。
「不思議だね……。なんだか、この世界で生まれていままでずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」
「……俺も最近、あっちの世界のことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この頃は、クリアだ脱出だって血眼になる奴が少なくなった」
「攻略のペース自体落ちてるよね。今最前線で戦ってるプレイヤーなんて五百人いないでしょう。危険度のせいだけじゃないわ……みんな、馴染んできてる……この世界に……」
俺は橙色のランプの明かりに照らされた、物思いにふけるアスナの美しい顔をそっと見つめた。確かにその顔は、生物としての人間のものではない。なめらかな肌、艶やかな髪、生き物としては美しすぎる。しかし、今の俺にはその顔がポリゴンの作り物には最早見えない。そういう生きた存在として素直に納得することができる。……多分、今、元の世界に復帰して本物の人間を見たら俺は激しい違和感を抱くだろう。
俺は本当に帰りたいと思っているんだろうか……あの世界に……? ふと浮かんできたそんな思考に戸惑う。毎日朝早く起き出して危険な迷宮に潜り、未踏破区域をマッピングして経験値を稼いでいるのは、本当にこのゲームをクリアして脱出したいからなんだろうか。昔はたしかにそうだった――いつ死ぬともしれないこの世界から早く抜け出したかった……。しかし、この世界での生き方に慣れてしまった今はどうなのだろう。
「でも、わたしは帰りたいよ」
俺の内心の迷いを見透かすような、歯切れのいいアスナの言葉。ハッとして顔を上げる。アスナはにこりと笑うと、言った。
「あっちでやり残したこといっぱい有るもん」
その言葉に、俺は素直に頷いていた。
「そうだな。俺たちががんばらなきゃ職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」
消えない迷いを一緒に飲み下すように、俺はお茶のカップを大きく傾けた。まだまだ最上階は遠い。その時が来てから考えればいいことだ。
珍しく素直な気分で、俺はどう感謝の念を伝えようかと言葉を探しながらアスナを見つめた。すると、アスナは顔をしかめながら目の前で手を振り、
「あ……あ、やめて」などと言う。
「な、なんだよ」
「今までそういう表情の男プレイヤーから何度か結婚を申し込まれたわ」
「なっ……」
悔しいかな、戦闘スキルには熟達してもこういう場面の反撃方法に経験の浅い俺は言葉を返すこともできず口をぱくぱくさせた。さぞ間抜けな顔をしていることだろう。そんな俺を見てアスナはにやにや笑いながら、ふうんと言っている。
「その様子じゃ他に仲のいい子とかいないでしょ」
「悪かったな……いいんだよソロなんだから」
「だめだよー、せっかくMMORPGやってるんだからもっと友達作らなきゃ!」
MMOとは大人数マルチプレイヤー・オンラインのことだ。アスナはどことなく姉か先生のような口調で問いかけてきた。
「キリト君はギルドに入る気は無いの?」
「……」
「ベータ出身者が集団に馴染まないのはわかってる。でもね」
アスナの表情が真剣味を帯びる。
「70層を超えたあたりからモンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてるような気がするの」
それは俺も感じてはいた。CPUの戦術に人間くささが混じってきたのは、当初の設計なのかシステムの学習の結果なのか……。後者だったら今後どんどん厄介なことになりそうだ。
「ソロだと、想定外の事態に対処できないことがあるわ。いつでも緊急脱出できるわけじゃないのよ。パーティーを組んでいれば安全性がすいぶん違う」
「安全マージンは十分取ってるよ。忠告は有り難く頂いておくけど……ギルドはちょっとな。そもそも俺みたいなのを入れてくれるギルドなんかないさ」
「そんなことないのに……。ウチに誘いたいんだけど……」
「い、いいって!! そんな無理に気ィ使ってくれなくても。KoBみたいな名門ギルドに入れるなんて端から思ってないよ」
「違うよ、そういう意味じゃないの」
アスナは視線を落として首を振った。その表情を払い落とすかのように大きな目をいたずらっぽく輝かせ、
「パーティープレイそのものが嫌いってわけじゃないんでしょ? じゃあわたしとコンビ組もうよ」
「んな……」
再び俺は言葉に詰まる。
「……こと言ったってお前、ギルドはどうするんだよ」
「うちは別に攻略ノルマとかないもん」
「じゃ、じゃああの護衛二人は」
「置いてくるもん」
時間稼ぎのつもりでカップを口に持っていってから空であることに気付く。アスナがにこにこしながらそれを奪い取り、ポットから熱い液体を注いでくれる。
正直、実に魅力的な誘いではある。アインクラッド一、と言ってもよい美人とコンビを組みたくない男などいるまい。しかし、そうであればある程、アスナ程の有名人がなぜ、という気後れが先に立つ。ひょっとして根暗なソロプレイヤーとして憐れまれてるのか……。後ろ向きな思考にとらわれながら、うっかり口にしてしまった台詞が命取りだった。
「最前線は危ないぞ」
「あら」
一瞬目の前を閃光がよぎったと思うと、アスナの右手に握られたナイフがピタリと俺の鼻先に据えられていた。細剣術の基本技〈リニアー〉だ。基本技とは言え圧倒的な敏捷度パラメータ補正のせいですさまじいスピードである。剣士としての興味が頭をもたげる。思えばこの女の戦闘は一度も見たことがないのだった。他人のレベルやステータス、選択スキルなどは尋ねないのがこの世界の大事なマナーだ。なぜならそれらの情報を知られることは同時に弱点を知られることでもあるからだ。誰かの強さが知りたかったら、間近で戦闘を見て推察するしかない。
両手を軽く上げて降参のポーズを取った俺は、ナイフを戻したアスナに、「……朝九時に74層のゲートで待ってる」と言った。アスナはニコリと輝くような笑顔で答えた。
「今日はありがと。久しぶりに楽しい夜だった」
アルゲードまで送っていく、というアスナの申し出を断って、俺は建物の出口で向き直った。
「こっちこそ。また頼む……と言いたいけどもうあんな食材アイテムは手に入らないだろうな」
「あら、ふつうの食材だって腕次第よ」
笑いながら、アスナはつい、と空を振り仰いだ。すっかり夜の闇に包まれた空には、しかし無論星の輝きは存在しない。百メートル上空の石と鉄の蓋が陰鬱に覆いかぶさっているのみだ。つられて上空を見上げながら、俺はふと呟いていた。
「……今のこの状態、この世界が、本当に茅場晶彦の作りたかったものなのかな……」
なかば自分に向けた俺の問いに、二人とも答えることができない。どこかに身を潜めてこの世界を見ているのであろう茅場は今何を感じているのだろうか。当初の血みどろの混乱期を抜け出し、一定の平和と秩序を得た現在の状況は茅場に失望と満足のどちらをもたらしているのか。俺にはまるでわからない。
アスナは無言で俺の傍らに近寄ると、腕に手をかけてきた。ほのかな温かみを感じる。それは錯覚だろうか、忠実なシミュレートの結果なのか。
今日もまたアインクラッドの一日が終わる。俺たちがどこへ向かっているのか、このゲームの結末に何が待つのか、今は分らない事だらけだ。道のりは遥かに遠く、光明はあまりに細い。それでも――全てが捨てたもんじゃない。
俺は上空の鉄の蓋を見上げ、まだ見ぬ未知の世界へと思考を飛翔させた。
午前九時。今日の気象設定は薄曇りだ。街をすっぽりと包み込んだ朝もやはいまだ消えずに、外周から差し込む陽光が細かい粒子に乱反射して周囲をレモンイエローの色彩に染め上げている。
アインクラッドは今トネリコの月、日本の暦では十月の初頭である。気温はやや肌寒い程度で、一年で最もさわやかな季節なのだが、俺の気分はかなり低調だった。
俺は74層の主街区ゲート広場でアスナを待っていた。昨夜は珍しく寝つきのよくない晩で、アルゲードのねぐらに舞い戻って簡素なベッドに潜りこんだあとも輾転反側し続けた。多分眠りに落ちたのは午前三時を回った頃だろう。SAOにはいろいろとプレイヤーをサポートする便利な機能があるが、残念ながらボタン一つで即安眠というようなものはない。
ところがどうしたわけかその逆は存在するのだ。メインメニューの時刻関連オプションには強制起床アラームというものがあり、指定した時間になるとプレイヤーを任意の音楽で無理やり目覚めさせてくれる。無論その後二度寝をするしないは自由だが、午前八時五十分にシステムによって叩き起こされた俺は意思力を振り絞ってベッドから這い出すことに成功した。大多数の不精者プレイヤーにとっての福音としてゲーム内では風呂に入ったり着替えたりという必要がないので――好きな者は毎晩入浴しているようだが、液体関連の環境の再現はさすがのナーヴギアでもやや荷の重い所で本物の風呂そのままを再現するには至っていない――俺はぎりぎりの時間に起きた後二十秒で装備を整え、よろよろとアルゲード転移門まで歩き、そして今74層で睡眠不足の不快感に苦しみながらあの女を待っているという訳なのだが――。
「来ない……」
時刻はすでに九時十分。勤勉な攻略組が次々とゲートから現れ、迷宮区目指して歩いていく。俺はあてもなくメニューを呼び出し、すっかり暗記している迷宮のマップやら、スキルの上昇具合を確認したりして時間を潰した。ああー何か携帯ゲーム端末でもあればなあ、などと考えている自分に気付きげんなりする。ゲームの中でゲームをしたくなるとは我ながら救いがたい……もう帰って寝ちゃおうかなぁ……とそこまで思考が後ろ向きになったとき、転移門内部に何度目かの青いテレポート光が発生した。 さして期待もせずゲートに目をやる。するとその瞬間――。
「きゃああああ! よ、避けて――!」
「うわああああ!?」
通常ならば転移者はゲート内の地面に出現するはずの所が、地上から一メートルはあろうという空中に人影が実体化し――そのまま宙を俺に向かって吹っ飛んできた。
「な……な……!?」
避ける、もしくは受け止める間もなく、その人物は俺に思い切り衝突し、二人は派手に地面に転がった。石畳でしたたか後頭部を打つ。街中でなければHPバーが何ドットか削れただろう。これはつまり、このトンマなプレイヤーは転移元のゲートにジャンプして飛び込んで、そのままここまでテレポートした――ということだろうなぁ……などというのんきな考察が脳裏をよぎる。混濁した意識の中、俺は自分の上に乗ったままのトンマの身体を排除すべく右手を伸ばし、ぐっと掴んだ。
「……?」
すると、俺の手に、何やら好ましい不思議な感触が伝わってきた。柔らかく弾力に富んだそれの正体を探るべく、二度、三度と力を込める。
「や、や―――っ!!」
突然耳元で大音量の悲鳴が上がり、俺の後頭部は再び激しく地面に叩きつけられた。同時に体の上から重さが消滅する。その新たな衝撃でどうにか思考が回復した俺は、パッと上半身を起こした。
目の前にペタリと座り込んだ女性プレイヤーがいた。お馴染みの白地に赤の刺繍が入った騎士服とひざ上のミニスカート。剣帯からは銀のレイピア。どうしたことか、曰く言いがたい殺気のこもった眼で俺を睨んでいる。顔は最大級の感情エフェクトで耳まで真っ赤に染まり、両腕は胸の前でかたく交差され――……胸……?
突然俺は先ほど自分の右手が掴んだ物の正体を直感的に察した。同時に今の自分が陥っている危機的状況に遅まきながら気付く。普段から鍛え上げた危機回避思考法などきれいさっぱり忘れ去り、遣り場のない右手を閉じたり開いたりしながらこわばった笑顔を浮かべて口を開いた。
「や……やあ、おはようアスナ」
アスナの眼に浮かんだ殺気が一際強まった――気がした。あれは多分エモノを抜くか抜かないか考えている眼だ。咄嗟に浮上した「逃亡」オプションの可能性について検討しようとしたその時、再び転移門が青く発光した。アスナは、はっとした表情で後ろを振り向くと慌てた様子で立ち上がり、俺の背後に身を隠すように回りこんだ。
「なん……?」
訳がわからないまま俺も立つ。ゲートの光は見る間に輝きを増し、中央から新たな人影を出現させた。今度の転移者はきちんと地面に足を付けている。
光が消え去ると、そこに立っていたのは見たことのある顔だった。アスナ以外の者には到底似合わないと思われる仰々しい赤白のマント。ギルド血盟騎士団のユニフォームを着込み、やや装飾過多気味の金属鎧と両手用剣を装備したその男は昨日アスナに付き従っていた長髪の護衛だった。名前は確かクラディールと言ったはずだ。
クラディールはゲートから出て、俺と背後のアスナに目を留めると眉間と鼻筋に刻み込まれた皺を一層深くした。そう歳は行っていない、多分二十代前半だろうと思われるがその皺のせいで妙に老けて見える。ギリギリと音がしそうなほど歯を噛み締めたあと、憤懣やるかたないといった様子で口を開いた。
「ア……アスナ様、勝手なことをされては困ります……!」
ヒステリックな調子を帯びた甲高い声を聞いて、俺は、昔のロボットアニメに出てた声優の声に似てるなぁ、などと埒もない事を考えた。落ち窪んだ眼窩にやや三白眼なところはどこかその声優が当てていたキャラクターにも似ている。
現在進行形の修羅場から逃避したくて益体も無い思考を巡らせる俺に、ここが街中で無かったら絶対にコロス、というような視線を向けながらクラディールは更に言い募った。
「さあ、アスナ様、ギルド本部まで戻りましょう」
「いや!! 今日は活動日じゃないわよ! ……だいたい、あんたなんで朝から家の前に張り込んでるのよ!?」
俺の背後から、こちらも相当キレ気味といった様子でアスナが言い返す。
「ふふ、どうせこんなこともあろうと思いまして、私一ヶ月前からずっとセルムブルグで早朝より監視の任務についておりました」
得意げなクラディールの返事に思わず絶句する。アスナも同様に凍り付いている。いくらか間を置いて、固い声で聞き返した。
「そ……それ、団長の指示じゃないわよね……?」
「私の任務はアスナ様の護衛です! それには当然ご自宅の監視も……」
「ふ……含まれないわよバカ!!」
その途端クラディールはちらりと怒りと苛立ちの表情を浮かべ、つかつかと歩み寄ると乱暴に俺を押しのけてアスナの腕を掴んだ。
「聞き分けの無いことを仰らないでください……さあ、本部に戻りますよ」
抑えがたい何かをはらんだ声の調子にアスナは一瞬ひるんだようだった。傍らの俺にすがるような視線を向けてくる。
実を言えば俺はその瞬間まで、いつもの悪い癖で逃げてしまおうかなぁなどと思っていたのだった。が、アスナの瞳を見た途端勝手に右手が動いていた。アスナを掴んだクラディールの右手首を握り、街区圏内で犯罪防止コードが発動してしまうギリギリの力を込める。
「悪いな、お前のトコの副団長は今日は俺の貸切りなんだ」
我ながら呆れる台詞だが今更後には引けない。今まで敢えて俺の存在を無視していたクラディールは顔をゆがめて手を振り解くと、
「貴様ァ……!」
軋むような声で唸った。その表情には、システムによる誇張を差し引いてもどこか常軌を逸した何かを感じさせるものがある。
「アスナの安全は俺が責任を持つよ。別に今日ボス戦をやろうって訳じゃない。本部にはあんた一人で行ってくれ」
「ふ……ふざけるな!! 貴様のような雑魚プレイヤーにアスナ様の護衛が勤まるかぁ!! わ……私は栄光ある血盟騎士団の……」
「あんたよりはマトモに勤まるさ」
まあ、正直な所この一言は余計だった。
「ガキィ……そ、そこまででかい口を叩くからにはそれを証明する覚悟があるんだろうな……」
顔面蒼白になったクラディールは、震える左手でウィンドウを呼び出すとすばやく操作した。同時に俺の前に半透明のシステムメッセ―ジが出現する。内容は見る前から想像がついた。
『クラディール から1vs1デュエルを申し込まれました。受諾しますか?』
無表情に発光する文字の下に、YesとNoのボタンといくつかのオプション。俺はちらりと横に立つアスナに視線を向けた。彼女にはこのメッセージは見えていないが、状況は察しているだろう。当然止めると俺は思ったのだが、驚いたことにアスナは固い表情で頷いた。
「……いいのか? ギルドで問題にならないか……?」
小声で聞いた俺に、同じく小さいがきっぱりした口調で答える。
「大丈夫。団長にはわたしから報告する」
俺は頷き返すとYesボタンに触れ、オプションの中から『初撃で勝敗を決する』を選択した。最初に強攻撃をヒットさせたほうが勝利するという条件だ。メッセージは『クラディールとの1vs1デュエルを受諾しました』と変化し、その下で六十秒のカウントダウンが開始される。この数字がゼロになった瞬間俺と奴の間には街区での犯罪防止コードが消滅し、勝敗が決するまで剣を打ち合うことになる。
クラディールはアスナの首肯をどう解釈したものか、
「ご覧くださいアスナ様! 私以外に護衛が勤まる者など居ない事を証明します!」
狂喜を押し殺したような表情で叫び、芝居ががった仕草で腰から大ぶりの両手剣を引き抜くと中央に構えた。アスナが数歩下がるのを確認して、俺も背から片手剣を抜く。さすがに名門ギルドの所属だけあって、剣の値段は奴の物のほうが格段に高いだろう。両手用と片手用のサイズの違いだけでなく、俺の愛剣が実用一本の簡素なものなのに比べ奴の得物は一流の彫金職人の技とおぼしき華麗な装飾が施してある。
俺達が五メートルほどの距離を取って向き合い、カウントを待つ間にも周囲には次々とギャラリーが集まってきていた。それも無理はない、ここは街のド真中のゲート広場である上に俺も奴もそこそこ名の通ったプレイヤーなのだ。
「ソロプレイヤーのキリトとKoBメンバーがデュエルだとよ!!」
ギャラリーの一人が大声で叫び、周囲がドッと湧いた。普通デュエルは友人同士の腕試しで行われるもので、この事態に至るまでの険悪な成り行きを知らない見物人たちは口笛を鳴らすわ野次を飛ばすわ大変な騒ぎである。
だが、カウントが進むと同時に俺にはそれらの声は聞こえなくなっていった。モンスターと対峙する時と同じように、固く研ぎ澄まされた緊張感の糸が全身を貫いて行くのを感じる。野次を気にしてちらちらと周囲に苛立った視線を向けるクラディールの全身の様子、剣の構え方や足の開き方といった「気配」を読むべく俺は意識を集中した。
人間のプレイヤーはモンスター以上に、繰り出そうと意図する剣技の癖が事前に現れるものだ。突撃系の技、受身系の技、上段から始まるか下段からか、それらの情報を相手に与えてしまうことは人間を相手にする場合致命的なミスとなる。クラディールは剣を中段にやや引き気味に構え、前傾姿勢で腰を落としていた。明らかに突進系の上段攻撃の気配だ。無論それがフェイントということもあり得る。実際俺は今剣を下段に構えゆるめに立ち、初動を下方向の小攻撃から始めるように見せかけている。このへんの虚実の読み合いはもうカンと経験に頼るしかない。
カウントが一桁になり、俺はウインドウを消去した。最早周囲の雑音は聞こえない。
最後まで俺とウインドウとの間で視線を往復させていたクラディールの動きが止まり、全身がぐっと緊張した。二人の間の空間に紫色の閃光を伴って『Duel!!』の文字が弾け、それと同時に俺は猛烈な勢いで地面を蹴っていた。ごくごく僅か、ほんの一瞬遅れて奴の身体も動き始める。だが、その顔には驚愕の表情が張り付いている。下段の受身気配を見せていた俺が予想を裏切って突進してきたからだ。
クラディールの初動は推測通り両手用大剣の上段ダッシュ技、〈アバランシュ〉だった。生半可なガードでは、受けることに成功しても衝撃が大きすぎて優先的反撃に入れず、避けても突進力によって距離ができるため使用者に立ち直る余裕を与える優秀な高レベル剣技だ。あくまでモンスター相手なら、だが。
その技を読んだ俺は、同じく上段の片手剣突進技〈ソニックリープ〉を選択した。技同士が交錯する軌道である。技の威力そのものは向こうの方が上だ。そして、武器による攻撃同士が衝突した場合、より重い技のほうに有利な判定がなされる。この場合は、通常なら俺の剣は弾かれ、威力を減じられるとはいえ勝敗を決するに十分なダメージが俺の身体に届くだろう。だが、俺の狙いはクラディール本人ではなかった。
二人の距離が相対的にすさまじいスピードで縮んでゆく。だが同時に俺の知覚も加速され、徐々に時間の流れがゆるくなるような感覚を味わう。これがSAOのシステムアシストの結果なのか、人間本来の能力なのかは判らない。ただ、俺の目には剣技を繰り出す奴の全身の動きがはっきりと見て取れる。大きく後ろに振りかぶった大剣がオレンジ色のエフェクト光を発しながら俺に向かって撃ち出されてくる。さすがに最強ギルドの構成員だけあってステータス・パラメータはそこそこのものらしく、技の発生速度が俺の予想より速い。オレンジに発光する刀身が迫る。必殺の威力をはらむそれを正面から食らったら、一撃終了のデュエルとは言え注意域にまで達するダメージを被るに違いない。勝利を確信したクラディールの顔に隠せない狂喜の色が浮かぶ。だが――。
奴の先を取り、一瞬早く動き出した俺の剣は斜めの軌道を描き――これがこの技の特徴だ――こちらは黄緑色の光の帯を引きながら、まだ振りはじめで攻撃判定の発生する直前の奴の大剣の横腹に命中した。凄まじい量の火花。
武器と武器の攻撃が衝突した場合のもうひとつの結果。それが武器破壊である。
無論めったに起きることではない。技の出始めか出終わりの、攻撃判定が存在しない状態に、その武器の構造上弱い位置・方向から強烈な打撃が加えられた場合のみそれが発生する可能性がある。だが俺には、当たれば折れる確信があった。装飾華美な武器は耐久力に劣る。
果たして――耳をつんざくような金属音と、オレンジ色の火花の断末魔を撒き散らしながらクラディールの両手剣がその横腹からヘシ折れた。爆発じみた派手なライトエフェクトが炸裂する。そのまま俺と奴は空中ですれちがい、もと居た位置を入れ替えて着地。回転しながら宙高く吹っ飛んでいった奴の剣の半身が、上空できらりと陽光を反射したかと思うと数瞬ののちに二人の中間の石畳に突き立った。直後、その剣先とクラディールの手に残った下半分が無数のポリゴンのかけらとなって砕け散った。
しばらくの間、沈黙が広場を覆った。見物人は皆口をぽかんと開けて立ち尽くしている。だが、俺が着地姿勢から身体を起こし、いつもの癖で剣をサッと切り払うとわっと歓声が巻き起こった。
すげえ、いまの狙ったのか、と口々に一瞬の攻防を講評しはじめる。俺は多少苦々しい気分だった。技一つとはいえ衆人環視の中で手の内を見せるのは気持ちのいいものではない。
剣を右手に下げたまま、背を向けてうずくまっているクラディールにゆっくりと歩み寄る。白いマントに包まれた背中がぶるぶると震えている。その肩口から奴の顔の横に向かって剣先を突きつけ、俺は言った。
「負けを認めろ。キーワードはわかってるな? それともルール通り強攻撃を一発食らうか?」
今まで、このデュエルを友人同士の腕試しだと思っていたギャラリーの歓声が徐々に静まっていった。いぶかしげな様子でざわめきながらこちらに視線を向けている。クラディールは俺を見ることなく、両手で石畳に爪を立てておこりのように身体を細かく震わせていたが、やがて軋るような声で「I resign」と発声した。別に日本語で『降参』や『参った』でもデュエルは終了するのだが。
俺が剣を引き、鞘に収めると同時に、開始の時と同じ位置に『デュエル終了 勝者キリト』という紫色の文字列がフラッシュした。再びワッという歓声。クラディールはよろけながら立ち上がると、ギャラリーの列に向かって喚いた。
「見世物じゃねえぞ! 散れ! 散れ!」
次いで、ゆっくりと俺の方に向き直る。
「貴様……殺す……絶対に殺す……」
その目つきには俺も少々ゾッとさせられたことを認めないわけにはいかない。SAOの感情表現はややオーバー気味なのだが、それを差っ引いてもクラディールの三白眼に浮かんだ憎悪の色はモンスター以上だ。辟易して黙りこんだ俺の傍らに、スッと歩み出た人影があった。
「クラディール。血盟騎士団副団長として命じます。本日を以って護衛役を解任。別命あるまでギルド本部にて待機。以上!」
アスナの声は表情以上に凍りついた響きを持っていた。だが俺はその中に抑えつけられた苦悩の色を感じて、無意識のうちにアスナの肩に手を掛けていた。固く緊張したアスナの身体が小さくよろめくと、俺にもたれかかるように体重を預けてくる。
「…………なん……なんだと……この……」
かろうじてそれだけが聞こえた。残りの、多分百通りの呪詛であろう言葉を口の中でぶつぶつと呟きながら、クラディールは俺達を見据えた。おそらく予備の武器を装備しなおして、犯罪防止コードに阻まれるのを承知の上で打ちかかることを考えているに違いない。だが、奴はかろうじて自制すると、マントの内側から転移結晶を掴み出した。握力で砕かんばかりに握り締めたそれを掲げ、「転移……グランザム」とつぶやく。青光に包まれ消え去る最後の瞬間まで、クラディールは俺達に憎悪の視線を向けていた。
転移光が消滅したあとの広場は、後味の悪い沈黙に包まれた。見物人は皆クラディールの毒気に当てられたような顔をしていたが、やがて三々五々散ってゆく。最後に残された俺とアスナはしばらくその場に立ち尽くしていた。
俺に寄り添うようにしていたアスナは顔を伏せ、俺の肩口に額をつけて、「ごめんね……変なことに巻き込んじゃって……」と震える声でつぶやいた。こんな時、どういう言葉を掛ければいいのか分らない自分が恨めしい。いっそ奴に負けていればよかったのだろうか……などと暗澹たる気分が湧き起こる。だが、アスナの次の言葉でそれは驚愕に変った。
「わたし、ギルド辞める」
「なっ……」
「何ヶ月も前から考えてたことなの。副団長だなんて祭り上げられてちやほやされるのはもう嫌……。団長も好きだしメンバーのみんなも好きだけど、ただの居心地のいい場所だったはずなのに……いつのまにか変っちゃった……」
俺の肩口に顔を伏せたままのアスナの背中におそるおそる手を沿わせ、その身体の小ささに改めて驚く。朴念仁の鈍感人間を自覚して恥じない俺でも、ただの女の子がこのデスゲーム・ワールドの囚人となることの意味について改めて考えないわけにはいかなかった。
俺の知る限りアスナはベータテスト参加者ではない。何の知識もなく殺戮の世界に身一つで放り込まれ、二年かかっていまの居場所に辿り着くまでにどれほどの苦労があったろう。最初から最強剣士だったわけではないのだ。俺は今更のようにそんな単純な事実に思い至っていた。たとえ前から考えていたとは言っても、アスナがギルド脱退を決意するに至るきっかけを作ってしまったのは間違いなく俺だ。
言え! 言うんだ! と内心で叫ぶ声に背を押されるように、俺はなけなしの勇気を振り絞って口を開いた。
「な……なら……俺が……その場所の代わりになる」
我ながら情けない声にも程があった。それを聞いたアスナの身体がぴくりと震えた。永遠にも等しい数秒間の沈黙。
やがてアスナは、顔を伏せたまま小さくコクリと頷くと、両腕を俺の背中に回してぎゅっとしがみついてきた。俺は、自分の中に広がった暖かく深い喜びの感覚に不思議な驚きをおぼえていた。二度とこの世界で絆を求めるまいと決意し、頑なに他人を拒否してきたつもりだったのに――。
いまだ消えない深い朝霧がひときわ濃くゲート広場に流れ込み、ぴったり寄り添って立つ俺達を薄黄色の光の粒で覆い隠した。十時を告げる鐘の音が遠くで響き、市場の開く喧騒があたりを包む頃になっても、俺達は長い間そこに立ち続けていた。